『英名八犬士』攷
はじめに
鈍亭魯文の『英名八犬士』は、曲亭馬琴の長編読本『南総里見八犬伝』の抄録本であるが、嘗て全編を翻刻紹介したことがある▼1 。魯文は他にも2種の『八犬伝』抄録合巻『當世八犬傳』▼2『仮名読八犬伝』▼3 と、『八犬伝』を艶本化した『佐世身八開伝』▼4とを手掛けており、『八犬伝』を自家薬籠中のものとしていた。
本稿では『英名八犬士』における抄録という作業の実態について具体的に検証した上で、その後の調査で知り得た書誌情報や後印本の出板状況などに関して記しておきたい。なお、行文の便宜上、前述拙稿の解題部分を適宜改稿して使用したことをお断りしておく。
さて、魯文の著述活動は「和堂珍海」と名告って開始されたが、嘉永2年刊『名聞面赤本』において「魯文」の名弘めを行って以後、習作期であった嘉永安政期には「鈍亭」と称していた▼5。この『英名八犬士』は、鈍亭時代の魯文の手になった切附本▼6で、安政2年春から3年秋に至るまでに全8編が伊勢屋忠兵衛から上梓された。
そもそも切附本は「古人の糟粕を〓〓に口を粘する」(8編序)などというように先行作の抄録本であって、充分な校正を経て刊行されたものではなかった。抄録の際に生じたと思われる欠字や衍字などの単純なミスや、明らかな誤字なども散見する。しかし、切附本というジャンルの目的が、流布していた実録や小説等の早分かり廉価版であることから考えれば、大した問題ではなかったのであろう。
従来の文学史では、本作等の抄録本について、「糟粕を舐める」「洗濯物」などと卑下した魯文の口吻を文字通りに受け止め、非創造的で安易な仕事として切り捨ててきた。しかし、同時期には『国性爺合戦』『通俗三国志』『通俗漢楚軍談』などの長編作を続けて抄録している▼7。長編作の抄録切附本は鈍亭時代の魯文が積極的に方法化して成立したものとして、今少し具体的に検討した上で、文学史に位置付けてみる必要があるものと思われる。
抄録という方法
さて、『英名八犬士』の抄録法として特徴的なのは、新たに書き換えるのではなく、可能な限り原作の本文を生かそうとしている点にある。文章を繋げるために最小限の書き込みは施しているものの、原文を切り貼りすることに拠って抄録本を作成しているのである▼8。
まず、全体の丁数を圧縮するために、原文の冗長な箇所や、多くの修辞と説明的文辞とを削り、また原作の特徴の一つである考証部分や、様々な蘊蓄を傾けた章段は悉く削除されている。表記に関しても、原作に用いられている句読点は一切省かれ、かつ総振仮名であった原作に対して多くの振仮名を省いている。ただし、幾度も登場する人物名の振仮名を残しつつ、甚だ読み難い意訓宛字的な漢字には振仮名を施さない箇所が多いなど、行き届いた配慮がなされた仕事だとは考えられない。
口絵や挿絵も原本の図柄に准じてはいるが、魯文の画稿に基づいたものと思われ、一盛齋芳直(一部は一容齋直政)の手に拠って新たに描き直されている。また、画中に記された賛や書入れに「呂文」や魯文の別号「埜狐」などと見えていることから、これらも原本の挿絵を踏まえて新たに魯文が書き換えたことが知れる。
さて、ここで有名な「浜路口説き」の場面(第3輯巻之3第25回)を例示し、原本を切り貼りして抄録したその手捌きの実態を確認してみよう。以下、原本『南総里見八犬伝』▼9の本文テキストを掲出し、魯文が『英名八犬士』(2編)に抄録した部分をゴシック体にし、文脈を繋げるために魯文が補った部分を《 》で括ってみた。つまり、太ゴシック体の部分が『英名八犬士』本文を示している。
さる程に信乃ハ臥房に入り しかど、暁るを待ばいもねられず、 《て》ひとりつく%\久後を思ふ《折から》 物から身ひとつを、誰はとめねど父母の、墳墓に今ぞ遠離る、里の名残のいと惜き。こゝろはおなじ真砂路の、 濱路は臥房を脱出て、 竭ぬ恨をいふよしも、納戸の鼾は二親の、目覚ぬ程にと心のみ、せかれて逢ぬかたにさへ、なほ憚の関の戸の、音たてさせじと閾踏む、膝は戦へて定めなき、浮世と思へば形なく、悲しく、つらく、恨しき、郎の枕に近づけは、信乃は來る人ありと見て、刀を引よせ、岸破と起、誰や、と問ば音もせず。原来癖者ござんなれ。わが寐息を窺ふて、刺も殺さん為に歟」と疑へばいよゝ由断せず、行燈の火光さし向けて、熟視れば濱路なり。端なくは得進まで、 〓の後方に伏しづみ《只泣伏して居たりける。信乃ハ濱路と見てけれバうち騒ぐ胸をしづめて》 声は立ねど哽咽る、涙に外をしのぶ搨、紊れ苦しと喞めり。強敵には懽れざる、壮客ながらうち騒ぐ、胸を鎮めて〓を出、釣緒を觧つゝ臥簟を片よせ、「濱路 《そもじ》ハ何等の所要ありて 更闌たるに臥もせで、 こゝへハ迷ひ來給ひし《ぞ》、 瓜田には沓を容ず、李下に冠を正さずといふ、諺あるをしらずや」 と咎れは恨めしげに涙を拂ふて 頭を挙、 「なにしに來つるとよそ/\しくいはるゝ迄に形なき《たとへ》妹〓ハ名のみ《でも》 糾纏の、化結なる中なれば、しか宣ふも無理ならねど、一旦 親の 口づから、 許《せ》し 給ひし 夫婦にあらずや。日來ハと《も》あれかくもあれ今宵限りの別れぞと告しらせ給ふともおん身の恥にハなるまじきに 出てゆくまでしらず皃に、 只一卜言の捨言葉《も》かけ給はぬハ情なし。心つよしと怨ずれバ信乃ハ思ハず歎息し 「人木石にあらざれば、有繋に情をしりつゝも、嫌忌の中に身を措故に、 《それ思はぬにハあらねども憚ることの有ゆへに》口を開きて告るによしなし。おん身が誠ハ《よく》 われ 知れ《バ》 り。 我《心をもそなたハしらん》 胸中をはおん身しるらん。 許我は僅に十六里、三四日には往還すなるに、 《滸我へゆくとも遠からず》帰り來る日を俟給へと賺せバ濱路ハ目をぬぐひ左のたまふハ偽りなり。一トたび爰を去り給はゞいかでかかへり來給ふべき。 籠鳥の雲井を慕ふは、その友をおもへばなり。丈夫の故郷を去るは、その禄をおもへばならん。さてもわが彼二がたは、愛敬憎悪定めなく、おん身を鬱悒くおもひ給へば、大約此度の起行も、出し遣るもの、還るを楽はず。出てゆく人、畄るをよしとせず。かゝれば一トたびこゝを去て、いづれの日にか還り給はん。 今宵かぎりの別れにこそ。元わらは《にハ四人りの親あり》 が親には四はしらあり。そはおん身もしり給はん。しかれとも現在の、二親これを告給はず。灰に傳へ聞侍れは、 実の親は煉馬の家臣胞兄弟もあり《とハ聞けど》 ばかり聞えて、 その 姓名は定かならず。 《名も知らで過せしに》 さればとて、養育の恩義を今さらに、化には思ひ侍らねど、産の恩も亦高かり。いかで実の親のうへ、しらまくすれど女子の甲斐なさ、人に告べき事ならねば、身ひとつに物を思ふなる、目睡ぬ夜の明がたの、夢にもがなと願言に、祈らぬ神はあらずかし。斯思ひつゝ年月を、送るはいとも苦しきに、 《風聞を聴バ》去年の《夏》 四月は 思ひがけなく 豊嶋 煉馬の 両家 滅亡《一族郎黨》 そが家隷老黨も、皆 残りなく《皆》撃れ《しにあるからハわらはが》 き、と風聞大かたならざれは、さではわが 親《と兄弟》 同胞 も《かならず》、 得こそは 脱れ給はしと思へバいとゞ哀しさのやるかたもなき嘆きして 、乾ぬ袖の片しぐれ、親には包む憂苦労、 せめておん身にうちあかさバ親同胞の名をも知らん《と》 その陣歿の迹をしも、〓んよすがは外になし。世にある限り連まとふ、良人には何を隱すべき。繁き人目の関の戸に、鶏のそら音のあれかし、と思ふものから折もなき、折を 稍 得て 近つけバ は、はやく 継母に跟られてあはて迷ひて退きしハ去歳の七月のころなりき。是より後ハ いさゝ川、堰れて 中は 絶《て》 たれども、下ゆく水のかよひ路は、 かはらぬ心の誠のみ。朝 な 夕 なに おん身の うへ、 恙 もあらず世に出し、冨栄させ給はせ、 《なかれ》といのらぬ日とてハなきものを心つよきも限りあり。 妻を棄給ふが伯母御へ義理歟。 わらはが思ふ百分一おん身に誠ましまさバ 如此々々の故ありて、かへり來ん日は定めかたし、 潜びて出よ共侶にと宣はするとも夫なり妻なりたれが密夫 不義とて譏るべき。 いと強面し、と思ふ程、離れかたきは女子の誠、分つ袂にふり棄られて、 あくがれて死なんよりおん身《の》刃にかけて《よと》 たべ。百年の後を冥土にて俟侍らん」とかき口説く、 いとも切なる恨のかず/\ 泣音憚る千行の、涙は袖に湛たり。 信乃ハその声外にや洩ん《と》心くるし《くて》 といへばえに、岩井の水をむすびかけし、縁しをこゝに釋よしなければ、愀然として 《おもふものから》嗟嘆しつ 叉きたる手を膝に措き、 「やよ濱路おん身が恨ハひとつとして理りな《けれど》 らずといふよしなけれど、いかにせん、わがこの度の起行は、伯母御夫婦の指揮によれり。実は吾〓を遠離て、おん身に壻を招ん為なり。素よりわれはおん身の為に、夫にして夫にあらず。そはいひかたき二親の、底意を猜し給へるならん。然るを今さら情に攀れて、おん身を誘引出しなば、誰か淫奔といはざるべき。畄りかたきを畄り給ふは、便是わが為也。去かたきを出てゆくも、亦是おん身が為ならずや。 たとひ且く別るゝとも迭に心変らずバ遂にハひとつに寄時あらん。親達の目覚ぬ間に、疾々臥房にかへり給へ。 われ亦心かけんには、おん身が親をたづね考へ、存亡をしる便著もいで來ん。とく去給へ」と諭しても、立もあがらず頭を掉り、「濡ぬ前こそ露をも厭へ。二親のいざとくて、こゝへ來つるを咎め給はゞ、わらはもまうす事侍り。只共侶に、と宜はする、おん身の応を聞侍らでは、生て閾の外に出じ。殺してたべ」と衝詰し、かよはき女子の魂も、こゝに居りて動かねば、信乃はほと/\困じ果て、潜びながらの声を激し、「さりとては亦聞わきなし。命あらば時もあらん。死るが人の誠かは。たま/\伯母と伯母夫の、許しを得たる 出世の首途さまたげせバ わが 妻に《ハ》あらず 過世の讐歟」 と《いひ放されて》 窘れば、 濱路ハよゝと泣沈み「こゝろの願ひを遂んとすれバおん身の仇になるよしを諭し給ふに術もなし。 とにもかくにも形なき、わが身ひとつの故ならば、思ひ絶て畄り侍らん。 さらバ道中恙なく 折から烈しき日まけせず、 許我へ参りて名をも揚家を《も》興し《給ひなバ》 て、冬籠、北山下風吹くころは、 風の便りにしらせてたべ。 筑波の山のこなたには、恙もなくて君ます、と思ふのみにて侍りてん。 今より弱る玉の緒のたえなバ 〔挿絵〕 菅家\なけバこそわかれを惜しめ鶏の音の聞えぬさきの暁もかな〕 是をこの世のわかれ憑むハまだ見ぬ冥土のみ。二世の契りハ必らずよ。御こゝろ変らせ給ふな」と 墓なき事を木綿襷、掛てぞ契る願言は、 怜悧見《へ》え ても恍惚なる未通女こゝろの哀れなり。信乃もさすがにうち芝折慰めかねて点頭のみ。 又いふよしもなかりけり。 折から告る八声の鶏に信乃ハ心をおくの間なる二親めざまし給はなん。とく/\といそがし立れハ濱路ハやうやく立あがり 「天も明ば狐に啖なん腐鶏の未明に鳴て〓を遣つゝそれは恋せし草まくら、是は旅ゆく妹〓のわかれ、鶏も鳴ずは天も明じ。暁ずは人の目も覚じ。恨しの鶏の音や。よに逢坂のあふ宵はあらで、ゆるさぬ関はわがうへに、在明の月ぞ果敢なき」と口実つゝ 出んとすれバ外面に咳して障子をほと/\とうち敲き鶏が謡ふて候にいまだ覚給はずやと呼起す声は額藏なり。信乃ハ呼れて 遽しく、 應をすれバ 額藏は、 庖〓のかたに退きけり。疾この隙にと出し遣れバ るゝ、 濱路ハ瞼泣腫し 闇きかたより見かへれど、 なみだ《ながらに出てゆく。》 に霞む挾山形、紙張の壁に身をよせて、おのが臥房に泣にゆく。現悲しきは死別より、生別にますものなし。吁罕なるかも、この未通女。いまだ鴛鴦の衾を累ねず、連理の枕を並へずして、その情百年の夫婦に勝たり。尓るに信乃は情に引れて、その心を動さず、よくその情に従ふて、男女別ある趣を得たり。夫色界の迷津は、賢不肖無差別也。江湖許夛の少年輩、一トたびこの岸に臨て、溺ざることあるもの少し。然るを今この義夫節婦あり。濱路が恋慕は、楽みて淫せんとにあらず。信乃が嗟嘆は、悲て傷らず。濱路が情はなほ得べし、信乃が如きはいよ/\稀也。
以上、多少長くなったが「浜路口説き」と呼ばれる章段の全体を見てきた。太ゴシック体の部分だけを読むと、新たに作られた『英名八犬士』の本文が辿れるが、その他の部分と併せて読んでみると削られた原文や、語順を入れ替えるなどの操作をしている部分などを確認することができる。実に凝った手捌きを用いていることが理解できるだろう。
一見、安易な手法だと受け取られる抄録作業も、実は左程容易なものではなかったのである。また、『八犬伝』原本を手許に置いて書写しながらでなければ紡ぎ出せない文章であることも理解できよう。それも、馬琴の語る蘊蓄や所謂草紙地の部分、さらには過剰な修飾などを削ぎ落とし、登場人物の行為にのみに着目した抄録であることが一目瞭然である。当然、この作業の前提としては全編を通読して筋と構成を把握していることが不可欠であるのみならず、その章段を精読すること無しにはなし得ない作業でもある。さらに、文章の繋ぎ方を丁寧に観察するに、削除しても文脈の通じる助詞を極力省き、さらに会話の中途から別の話者の台詞に繋げてしまうなど、実に巧みに工夫されているのである。
当時、読本は高価な本であり、貸本屋で借りて読むのが普通であった。手許に置いて作業するに際して、板元から融通を受けた可能性があるが、いずれにしても『八犬伝』全106冊を読破した上で書写しつつ抄録するためには、如何程の時間と労力とが必要であったことか。抄録した結果の分量に相応しい場面の取捨選択も不可欠であったはずである。
戯作者流の韜晦として抄録を卑下する言説を吐くことが多かった魯文であるが、先行テキストの抄録を目的とする切附本というジャンル創出を担い、その中心的な役割を果たしてきた。それ故に抄録家と称しても良いほどに長編小説を抄録する才に闌けていたものと思われる。前述の如く、長編の要約には相応の工夫と才能とが不可欠であったからである。
原作後半の大半を占める「対管領戦」や「親兵衛の上洛」に関しての記事一切と「回外剰筆」とは省かれており、前半部のように原文の切り貼りに拠る部分が大幅に減り、リライトに拠って抄録する部分が増えている。ただし、原作の筋や話柄の順番などが書き換えられている部分は見られないようであるが、熟語の表記や文辞には大幅に平易になる方向で手が加えられ、特に漢語の一部が仮名書きされていることが多い。
また杜撰な書きぶりは相変わらずで、熟語の振仮名の一部が欠けていたり、所謂「魯魚章草の誤り」や脱字などが頻出する。だがしかし、此等の傾向は、冗長だと言われる原作後半部の戦闘場面等を端折り、何とか切附本八冊で全編を収める為の突貫作業の結果であったものと見做すのは僻目であろうか▼10 。
『英名八犬士』の諸板
さて、現存している『英名八犬士』の諸本調査に基づいて大雑把に諸板を整理すれば、安政期に出された袋入本(短冊型文字題簽を備える末期中本型読本)と切附本(錦絵風摺付表紙)、そして明治期に出された改竄後印袋入本の3系列に分類できる。
さらに細かく分類すれば、
A 袋入本(伊勢屋忠兵衛板)
B 切附本(伊勢屋忠兵衛板)
C 切附本(品川屋久助板)
の三種類が存するが、完全に同板では無く一部を修訂した編もある。また、明治期に「曲亭馬琴著」『里見八犬伝』と改竄後印本された袋入本が存する。
D『里見八犬伝』(文江堂・木村文三郎板)
E『里見八犬伝』(明治十九年刊、湊屋・山本常次郎板)
以下、旧稿成稿後に得られた諸板に関する知見についてまとめて記し、詳しく触れられなかった2種の改竄本について紹介しておくことにする。
A本は初板早印と思しいが、管見に入った二松学舎大学本と服部仁本(67欠)の印面から受ける印象は早印本特有の切れ味の良さに欠ける。袋入本「英名八犬士 第一(〜八)」(外題簽)、初編見返「英名八犬士」、序、口絵存、初編巻末「公羽堂伊勢屋忠兵衛板」。
B本は、摺付表紙の切附本。管見に入ったのは、国文学研究資料館(ナ4/680)・館山市立博物館・江差町教育委員会(48欠)・林文二・架蔵(初236))▼11 。館山市博本の初編には袋が附されており「英名\八犬士\初編\上集\玄魚」とある。
袋入本『英名八犬士』と同じ伊勢屋忠兵衛から出された切附本である。出板の際に一部分の再刻が行われたようである。例えば、4編の一部の丁には若干の異同がある(挿絵「藁塚に犬田急難を緩す」12ウ13オの背景など)。改刻された理由を詳らかに出来ないでいるが、祝融の災いにでも遭ったのであろうか。
C本はB本を品川屋久助が求版した板か。管見に入ったのは、故松井静夫本(34)・架蔵(2)。B本と同じ切附本体裁で伊勢屋忠兵衛の刊記が残されていながらも、品川屋の奥目録が付されたものがある。一方、巻頭や刊記が削られている本も在ることから、当初は売捌きであった品川屋久助が、後に求版したものか。
D本は外題や内題を「里見八犬傳」と改題した上で、外題角書や内題下に「曲亭馬琴著」と入木し、草色表紙に亀甲繋文様空押を施し、巻頭に付されていた序文と口絵(3丁程)を削り、そこに新たに序文(1編)及び口絵(2〜8編)を入れた改竄後印本。管見に入ったのは、国学院大学本・故向井信夫(専修大学蔵)本・山本和明・山本和明(8欠)・架蔵(3.8、78、4)。なお、山本本(8欠)と架蔵本(4)とは外題「里見八犬傳」とあるも、表紙の色は錆青磁で空押文様は施されていない(架蔵本(4)の表紙は錆浅荵色に絹目模様空押)。
初編見返に「曲亭馬琴著\里見八犬伝全八冊\木村文三郎」とあり、八編の後表紙見返に「日本橋區\馬喰町二丁目\壹番地\文江堂\木村文三郎」とあるように、明治期に入ってから、品川屋久助とも近しかった吉田屋文三郎の手に拠って出された改竄本である。
以下、明治期の改竄本に関して図版で紹介しておく。
【表紙】
【見返】 【序】
里見八犬傳の序
房総の太守安房守義実ハ二ヶ國の主たりと云へども、其因縁拙くして業報未不尽歟。愛女伏姫は人界に生を得ながら鬼畜に伴れ、冨山の奥に觀音經を力となし、如是畜生發菩提心、是ぞ里見の八勇士みなに散乱の根を開く。そハ故曲亭翁の妙著にして、皆世人の知る所を今や大巻を八冊に綴り、讀安からんを大全と壽るのみ。
(初編一ノ三オ、句読点を私意により補う。)
【口絵】
二編
「仁 里見八犬士之内\犬江親兵衛仁」
三編
「義 里見八犬士之内\犬川荘助義義任」 ▼12
四篇
「禮 里見八犬士之内\犬村大角礼儀」
五編
「智 里見八犬士之内\犬坂毛野胤智」
六編
「忠 里見八犬士之内\犬山道節忠與」
七編
「里見八犬士之内\ 孝 犬塚信戌孝 信 犬飼現八信道」
八編
「悌 里見八犬士之内\犬田小文吾悌順」
【刊記】
E本はD本の後印本で、 国会図書館本(特40-597) の見返には「佐々木廉助編輯\里見八犬傳八冊\東都書誌 淺草壽町湊屋常次郎板」とある。初編内題下に「佐々木廉助編輯」と入木するも、2編以下の内題下署名「曲亭馬琴識[乾坤一草亭]」は文江堂板と同様。8編巻末の刊記は「明治十八年四月十一日御届\仝 十九年二月 日出版\編輯人 淺草壽町四拾三番地 佐々木廉助\出版人 淺草壽町四十三番地 山本常次郎」とあり、1丁表には「明治十九年二月十五日内務省□付」、刊記には「□價七拾五錢」と見える。
【見返】 【刊記】
なお、千葉県立図書館蔵本( 菜の花ライブラリー\千葉県デジタルアーカイブ\南総里見八犬伝関係資料\里見八犬伝一〜八)はE本と同本であるが、刊記に相違がある。
【刊記】
そもそも魯文が先鞭を付けた切附本自体が粗製濫造され読み捨てられたジャンルではあったが、『英名八犬士』の諸本を調べていくうちに、再三にわたって板木に手を加えて再刻改竄後印が繰り返されてきたことが分かった。
袋入本『英名八犬士』が早く、切附本は一部を改刻した後印本であると思われる。その覆刻時には振仮名が省かれたり、板本の字が彫り毀されていたまま写されていたり、挿絵の細部が変わっており、忠実に複刻しようと注意深く作業されたものとは思えない。
特に、8編を改竄した袋入本『里見八犬伝』では、他編と同様に序文や口絵を省いたのみならず、本文冒頭1丁と2丁目の八文字を書き換え、原本の冒頭から5丁表の1行目の6文字迄を削除して強引に繋げている。
つまり、冒頭の口絵「悌 犬田小文吾悌順」を新刻しているのは他編と同様であるが、丁付が「一ノ三四」となっていることから3ウ.4ウの本文まで削ってしまったことが分かる。如何なる改竄かと調べてみると、本来の4ウに相当する口絵の裏の本文冒頭に「里見八犬傳さとみはつけんでん八編 曲亭馬琴識[乾坤一草亭]」と入木した上で、
當下ヽ大ハ席上をつら/\とうち見巡らし人々ふかくな訝りぞわれハ年来故ありて仁義礼智忠信孝悌の八顆の玉を索ん為に諸国を行脚する程に今茲鎌倉にて竹馬の友蜑嵜照文が君命を稟奉り賢良武勇の浪人をしのび/\に募るに環會ぬ折から此行徳に云云の力士ありと風聞灰に聞たれハ十一郎と示し合し諸共に修驗者と身を變じ先達職得の争訟に假托て犬田を山林が相撲の勝負を試みしに但房八ハ小文吾に藝術聊亜なるのみしかれとも二個なからその行状を見究て後にこそと遊山に假托共侶に其夜ハ其處に逗留けると由来を細々物語ける。却て説
という原本第37回の文章を例に拠って切り貼りして抄録し、5丁の1行目の冒頭「冨山にて親兵衛ハ」までを書き換えて「義実の辺に参りぬかづきつゝ稟すやう……」に繋げているのである。
本来は義実が伏姫神霊に冥助を祈祷するために冨山に登った際に親兵衛に出会う場面であるから、古那屋の段の話柄を持って来たのでは文意が通らないのである。原作の抄録方法は魯文のものと同様であるが、明治期に「曲亭馬琴著」とした改竄本を出すに際して、魯文自身が関与していたとは考えにくい。恐らくは、書肆の賢しらであろう。
いずれにしても、斯様に安直杜撰な改刻改竄が続けられたことで、数多の『英名八犬士』改め『里見八犬伝』というテキストが明治に入っても改刻後印されて流布し、大勢の読者に読まれていたのである。あるいは、この本を原作であると信じて読んだ読者も少なくなかったかも知れない。
〔注〕
▼1 「人文研究」34、36〜39号(千葉大学文学部、2005、2007〜2010)。なお、増補改訂を施して公開している 初2編、34編、56編、7編、8編。
▼2 合巻、2巻2冊、安政3年、鈍亭魯文填詞・一枩齋芳宗画、新庄堂刊。序文末に「安政三辰夏\一昼夜急案」とある。名場面を繋ぐ形式に拠ってわずか10丁で終わらせ、世界一短い『八犬伝』となっている。拙稿「 當世八犬傳 ―解題と翻刻 ―」(「人文研究」第40号、千葉大学文学部、2011年3月所収)。
▼3 『八犬伝』を草双紙化して長い間刊行が続いた抄録合巻『仮名読八犬伝』の28〜31編(慶応元〜明治元年、芳幾画、広岡屋幸助板)を担当している。
▼4 切附本仕立ての艶本(3巻3冊、安政3年刊)。艶本は著名なテキストを換骨奪胎したものが多く、この『八犬伝』のパロディも、実に魯文の戯作センスが横溢していて良くできたテキストである。
▼5 万延元年に「仮名垣」を使用し始め、同年刊の『滑稽富士詣』で成功をおさめた後、本格的に戯作者仮名垣魯文として認知されることになる。
▼6 切附本とは中本型読本の末期に位置付けられ、合巻風の錦絵表紙を持ちながらも読本風の本文を備えたもの。安政期以降に粗製濫造され読み捨てられた類の出板物であり、それ故に完本と呼べる資料は極めて少なく、初板初摺と思しき本で表紙から最終丁まで完備している本は稀覯に属する。本来は「一冊読切」「早わかり」という特徴を持っていた切附本であったが、魯文が『国姓爺一代記』や『三国志』など長編の抄録を始めるに至って、一冊読切ではなく数編の続物が出されるようになった。拙稿「末期の中本型読本―所謂〈切附本〉について ―」(『江戸読本の研究―十九世紀小説様式攷―』、ぺりかん社、1995年)参照。
▼7 『父漢土母和朝 國姓爺一代記』初〜3編、安政2〜万延2、錦耕堂。『拔翠三國誌』初〜6輯、安政3〜7、新庄堂。『摘要漢楚軍談』前〜後輯、安政4、新庄堂。『釋迦御一代記』初〜5輯、安政4〜6、糸屋福次郎・新庄堂。拙稿「鈍亭時代の魯文 ―切附本をめぐって ―」(「社会文化科学研究」第11号、千葉大学大学院社会文化科学研究科、2005年9月)参照。
▼8 同様の方針によって抄録されたものに『校訂略本八犬傳』(逍遙序、鴎村抄、明治44年9月、丁未出版社)があるが、柴田光彦「桜井鴎村の八犬伝校略」(『讀本研究』7輯上套、1993)に詳細な紹介が備わる。
▼9 馬琴手沢本であった国会図書館蔵の早印本に拠る。
▼10 『英名八犬士』初編は、原本肇輯第1回から20回まで、2編は原本2編第21回から26回まで、3編は原本第3輯27回から第4輯33回半ばまで、4編は原本第4輯33回の続きから37回の半ばまで、第5編は原本第4輯37回半ばから第5輯47回半ばまで、6編は原本第5輯47回半ばから第6輯56回の半ばまで、第7編は原本第6輯56回半ばから第9輯第103回の半ばまで、第8編は原本第9輯103回半ばから第9輯第180回までに相当する。
▼11 架蔵本については立命館大学アートリサーチセンターの「ARC所蔵・寄託品古典籍データベース」で全冊の画像が公開されている。所蔵者「 tgen」。本稿に関する資料の請求番号は「TKG-030〜TKG-043」。
▼12 成稿後に服部仁氏より本図が国芳の錦絵「里見八犬伝\犬川荘介」(嘉永2.3年、三河屋鉄五郎板、服部氏蔵)、『八犬伝の世界』(千葉市立美術館、2008)図版No.158に相似している旨、他の口絵にも粉本が存する可能性があるので調べてみてはという御教示を得た。
博捜する時間的余裕はなかったが、千葉市美の図録を見たところ、4編の犬村大角礼儀は、国芳「曲亭翁精著八犬士随一(犬村大角礼儀)」(天保7.9年、西村与八板、服部氏蔵)図版No.140に酷似していた。また、6編の犬山道節忠與は、国芳「木曾街道六十九次の内(三蕨犬山道節)」(嘉永5年、井筒屋板、服部氏蔵)図版No.90に似ている。7編の芳流閣に関しては幾つか似ている図柄があるが、屋上の犬塚信乃と階下から見上げる十手を銜えた犬山道節と云う点では、国芳「本朝水滸傳剛勇八百人一個(里見八犬子の内 犬山道節忠與)」と「同(犬飼現八信道)」(天保2年、加賀吉、服部氏蔵)図版No.137-1、図版No.137-2が似ている。しかし、国貞「(芳流閣)犬塚信乃/犬飼現八」(天保7、山本屋平吉板、服部氏蔵)図版No.199及び雁首挿げ替えされた天保9年板図版No.200は、棟の端に鬼瓦を描いており、より近いか。
八犬伝の錦絵は、歌舞伎の舞台演出に影響を受けた物が多いようであるが、安政期に成ると既に画題化されているようで、稿者に粉本を確定するだけの力量はない。この改竄改刻本に新刻された口絵に関しては、魯文も関与していないと思われる上に画工も明記されていないので等閑に付していたが、服部氏の仰せの通り、誰かが独自に描いたとは考えにくく、何か粉本に拠って描かれたものであろうことは想像に難くない。
【付記】本稿に関わる研究では、多くの個人蔵の資料を使わせていただいた。長期間に渉って御所蔵の資料を貸与して下さった山本和明氏に感謝致します。また、長い間御蔵書を拝借させて頂いたのみならず、口絵の粉本に関して教示を賜った服部仁氏にも心より感謝申し上げます。