『江戸読本の研究』第二章 中本型の江戸読本

第五節 末期の中本型読本 ―いわゆる〈切附本〉について―
高 木  元 

  一 はじめに

化政期に興隆を極めた江戸読本は、近世小説の中では最も格調の高いものであったが、天保の改革を経て中心的な担い手であった馬琴を失い、その後は衰退の一途をたどった。多くの文学史が一致して説くこの見解は、おそらく結論的には妥当な記述なのであろう。しかし、実際には読本史がそこで途切れているわけではない。だから、天保の改革以後に見るべき作品はないといって済ませてしまうわけにはいかないのである。とくに、弘化期以降の末期中本型読本は、文字通りの大衆文芸として流布し、書型も内容もそのままに明治初期まで流れ込んでいるのである。
 近年、この「文学史上の盲点▼1」といわれた時代に関しても次第に研究が積み重ねられてきた▼2。柳園種春などについては長友千代治氏の、笠亭仙果などについては石川了氏の精緻な報告が備わっている▼3。ともに、作家の個人史を解明することを通して、その時代を記述しようとした大変な労作である。本節では、これらの成果を踏まえた上で、その造本様式の変遷▼4に着目して、末期の中本型読本について考えてみることにしたい。

さて、ここで取り上げる末期の中本型読本とは、弘化期〔1844〜〕以降とりわけ嘉永安政期〔1848〜〕を中心に粗製濫造された廉価な小冊子のことである。読本としての格調など微塵も持ち合わせない低俗性のためであろうか、従来の文学史では、ほとんど顧みられることがなかった。しかし出板点数およびその発行部数は、かなりの数にのぼったものと推測され、文学史を考える上では無視できない作品群だと思われる。

ところが具合の悪いことに、その大部分は『訂改日本小説書目年表』(ゆまに書房、1977年)に見当たらない。まして『国書総目録』によって所在が確認できる作品も、ほとんどないに等しい。つまり、大学図書館や国公立図書館では蒐集の対象にはならなかったのである。しかも、たとえ何点か所蔵されていたとしても、分類が一定しないので容易に検索することができない有様である。また、かつては古書店も商品とは見做さずに、反古同然に扱ったという。その結果、現在では個人のコレクションの片隅に散見する程度で、その大半はすでに散佚してしまったものと思われる。

このような状況が今後好転することは考えられないので、さしあたり管見の範囲内でこれらの作品群についての概要を紹介しておきたい。なお、その紹介の過程では、従来の鈍亭(假名垣)魯文研究で看過されてきた数多くの作品や、明治期草双紙の様式に先行する様式を持った作品群を提示することにもなるはずである。

  二 切附本の定義

まず最初に、末期中本型読本を指示して用いられる〈切附本〉という用語について触れておきたい。

この〈切附け〉という用語について、明快に解説されている書誌学関連の事辞典類は見当たらない(その後『日本古典籍書誌学辞典』に記述した)。おそらく、小口を残して三方を裁つという簡易製本法の謂だと思われるが、その意味からいえば、草双紙(合巻)の一部にも同様に仕立てたものが存在するのである。そこで、当時の呼称を確認するために、末期中本型読本の巻末広告などから、〈切附本〉という名称が用いられている具体例を拾ってみることにしたい。

鈍亭魯文の作と思われる『岩見重太郎一代実記▼5(安政5〔1858〕年)の巻末、品川屋朝治郎の広告には次のようにある。

切附一代記本品々きりつけいちだいきほんしな/\ 武者切附本品々むしやきりつけぼんしな/\
(元治元〔1864〕年序)の巻末、山口屋藤兵衛の広告には、
切附類品々 草双紙小本類品々

とあり、これを見る限りでは草双紙とは区別して用いられていたものと思われる。

一方、近代のものであるが、野崎左文も「切附本と稱する印刷紙質とも粗惡なる册子▼6」と述べ、「安政頃の切付本枚數五十丁内さし畫十丁」▼7などと〈切附本〉という用語を用いているのである。

これ以外にも、まだ多くの用例があるはずであるが、本稿ではこれらを踏まえて、合巻風摺付け絵表紙付きの末期中本型読本を〈切附本〉と呼ぶことにした。ただし、短冊型文字題簽を持つものについてはとくに〈切附本〉とは区別して〈袋入本〉と呼ぶことにする。〈切附本〉とは造本上の意識に違いが見られるからである▼8。もちろん、この〈袋入本〉という呼称も、広告などに見られる用例によったものである。

  三 切附本の造本

切附本の造本様式については、あまり知られていないと思われるので、典型的な例として鈍亭魯文の『玉藻前悪狐傳』を挙げ、書誌を紹介しておくことにする。

書型 中本(17.5糎×11.5糎) 1冊 45丁
表紙 合巻風の摺付表紙。左肩に「玉藻前悪狐傳\魯文作\芳直画」。玉藻前と三浦介が描かれている。
見返 上部に「玉藻前悪狐傳\鈍亭著\一盛斎画」、その下に色摺りで殺生石を描く。
自序 一丁表。右肩に看板の意匠で「玉藻前悪狐傳 一盛齊芳直画」
   その左側に煙中に出現した「三国傳来白面九尾金毛老狐」を描き、その下に次のようにある。

自序
きつね千歳せんさい美女びぢよ変化へんげすといへること、唐土もろこしふみほゞのせたり。悪狐あくこの人をたぶらかすやそのせいなり。霊狐れいこの人に感徳かんとくあるや、こもまたせいによるところ。人に善悪ぜんあくあるがごとけん。此書このふみさき妖婦傳ようふでん玉藻譚ぎよくそうだんあり。いづれも大同たいとう小異せういにして、ことふりたる談柄だんへいなれども、だかき標題げたいこのましと、書肆ふみやもとめやむことを得ずそがまゝ抄録せうろくして大関目たいくわんもく利市りしにそなふ云云▼9
于時安政二乙卯初春人日
 戀岱 鈍亭魯文漫題[文] 

改印 自序の上部余白に「改」「卯四」とあり、安政2〔1855〕(乙卯)年4月に改めを受けたことがわかる。
匡郭 四周単辺(15.4糎×10.3糎)
口絵 見開3図(1丁裏〜4丁表)。墨一色摺り。主な登場人物十名を描き、野狐庵(魯文)等の賛を加える。
付言 4丁裏、上部に「玉藻\前妖\狐畧\傳全\魯文記\芳直画」。その下には次のようにある。

〇凡例附言發客 新庄堂壽梓
一此書は浪速の玉山先生の著はされたる玉藻譚五巻にもとづき支那印度両界の談話の要を摘て吾皇朝の事をのみもはらとし童蒙婦女子の夜話に換てもて勧懲の一助とす
一假字の遣ひざまの拙きと手尓遠葉のたがへるなど元来児戯の策子なれば具眼の嘲をかへりみず諭し難きところは大かたに心して看給へかし
   於東都恋岱野狐庵鈍亭再識 [呂][文]

内題 「玉藻前悪狐傳」。下に「鈍亭魯文抄録」
本文 1丁11行、1行29字内外の細字。表記は仮名漢字混じりで総傍訓、句読点なし。
挿絵 見開き13図 墨一色摺り
尾題 「玉藻前悪狐傳終」
柱刻 「たまも 丁付」
刊記 45丁裏。刊年の記載なし。

作  者  荏 土   鈍亭魯文録
画  工   仝   一盛齋芳直圖
足利尊氏一代記 全一冊 源平盛衰記 初編二編
小夜中山夜啼碑  仝  安達原黒塚物語 全一冊
團七黒兵衛一代記 仝  釋迦御一代記 初編二編
江戸日本橋新右エ門町  糸屋庄兵衛板

所蔵 吉沢英明氏・架蔵
諸本 改題改修本の外題は『玉藻九尾傳』。見返しと1〜2丁目を削除。また後印時には2分冊されたものと思われるが、1冊に改装合冊されており、表紙には三浦介だけが描かれている。おそらく、2枚続きの表紙の片方であろう(架蔵別本)

さて、周知のことではあるが、化政期のほぼ安定した様式を念頭において、中本型読本と合巻との造本上の相違を整理してみたのが次の表である。

       中本型読本     合  巻
 一 表紙 短冊型貼付題簽   摺付絵表紙(絵題簽)
 二 表記 漢字混じり総傍訓  基本的には平仮名だけ
 三 文体 漢語を多用     平易な和語が主体
 四 句点 普通はある     普通はない
 五 板面 比較的大きい字   かなり細かい字
 六 本文 挿絵からは独立   挿絵中の一部を占める
 七 挿絵 少ない       全丁にある
 八 丁数 とくに規格はない  5丁1冊の規格あり

その対象とする読者層に合わせて、読本は〈読むもの〉として、合巻は〈見るもの〉として、それぞれの機能に見合った様式が生み出されたのである。右の表からもわかる通り〈切附本〉の造本様式は、中本型読本と合巻とを折衷したものとして位置付けることができるのである。

ところで、末期中本型読本としては比較的早い時期のものに、笠亭仙果の『三都妖婦伝』4編4冊(嘉永6〔1853〕年〜安政5〔1858〕年)という袋入本がある▼10。初編の付言を引いてみよう。

此一小冊は原合巻の草冊紙にて刊行すべかりけるを聊其故ありて繪入讀本のさまに製たれば文段も語路も改書では相應しからぬを例の事ながら板元山本某頻に發兌の期を急ぎ其工夫を許さねば舊稿のまゝ擱ぬ唯假名のみにかき下したるを過半漢字にとりかへ悉〓〓傍假名を注し読易からしむ十に九俗語には適當の文字有ことなきに文盲不学の早仕事よく叶ふ字も知らぬがち又忘れたるも考居ずそのまゝ假字にてすますかと思へば未曽有の自分極筆にまかせし不躰裁そのつたなさが笑の種かへつて興になりもすべし

ここで、仙果が「文段も語路も改書では相應しからぬ」と書いているように、合巻と読本とは本来はまったく異なる様式であって、その相違は明確に意識されていた。それにもかかわらず、書肆の求めに応じて漢字混じりの総傍訓に直して句点を施し、その体裁だけを取り繕ったのである。おそらく、合巻よりも中本型読本に仕立てた方が、絵の少ない分だけ仕込みが安くて済み、その上高く売れたからなのであろう。現存する初印本を見ると、色摺りの美麗な袋に入れられて口絵や挿絵に重ね摺りが施され、大層入念に造本して刊行された様子をうかがい知ることができるのである▼11。だが、「製本美を以て拙文の醜を覆はんとす」(4編序)というように、様式上は袋入本として中本型読本を継承しながらも、内容的にはまさに合巻並みの〈読みもの〉なのであった。

ところが、このような合巻的な中本型読本は、次に挙げた4つの例からわかるように、早くは文化初期から見られるのである。

[例一]『熊坂伝記東海道松之白浪』2編2冊(50丁、文化元〔1804〕年)は黄表紙風の貼題簽が施されて〈合巻〉されている。板面は1丁当たり12行で比較的挿絵は少なく、挿絵中に本文は入り込んでいない。歴史教科書風の内容は画本物▼12の流れを汲んだものであろう。なお、この作品は被せ彫りにより改題再刻され『熊坂長範一代記』(3代豊国画の合巻風摺付表紙、安政期〔1854〜〕刊カ)という切附本になっている。このように、切附本の様式や内容を先取りした合巻風中本型読本は、十返舎一九の『相馬太郎武勇籏上』2編2冊(文化2〔1805〕年序)ほか、零本ではあったが、もう1点管見に及んだ。

[例二]楚満人遺稿という『杣物語僊家花』(京伝序、文化5〔1808〕年)は中本仕立ではあるが、本文は仮名ばかりで句点も施されていない。おそらく合巻用の稿本だったのであろう。与鳳亭梧井の『建久女敵討▼13(文化6〔1809〕年)もやはり同様の板面を持つ。これらは内容的にも合巻に近い作品である。

[例三]新たな様式の開拓に意欲的であった式亭三馬は「絵入かなばかりのよみ本、まがひ合巻」(『式亭雑記』)として、『両禿対仇討』(文化5年)と『侠客金神長五郎忠孝話説』(文化6〔1809〕年)と『昔唄花街始』(文化6年)との3作を鶴屋金助から出している。残念ながら、これらの表紙の原型が絵題簽なのか短冊題簽なのかは不明であるが▼14、1丁あたり20行ほどで本文だけの頁が多い。『昔唄花街始』の跋文には「読本は上菓子にて草双紙は駄菓子なり」と記されており、その折衷様式を意図したものであろう。ただし、同書に付けられた広告には「中本ゑいりよみ本之部」とあることから、書肆や作者の意識としては、中本型読本として見做していたものと思われる。

[例四]鶴屋金助は文化6〜7〔1809〜1810〕年に、次の中本型読本を求板し、役者似顔を用いた合巻風絵題簽を付けて改題改修本を出している。

『石童丸苅萱物語』(文化6年) → 曲亭馬琴『苅萱後傳玉櫛笥』三(文化4〔1807〕年、木蘭堂板)
『男達意気路仇討』(文化6年) → 感和亭鬼武『報寇文七髻結緒』二(文化5年、平川館板)
『島川太平犬神話』(文化6年) → 一溪庵市井『復讐奇談七里浜』三(文化5年、観竹堂板)
『三島娼化粧水莖』(文化7年) → 感和亭鬼武『婦人撃寇麓の花』 ▼15(未見)
『女夫池鴛鴦裁時代模様室町織』(文化6年) → 感和亭鬼武『増補津国女夫池』二(文化6年、宝珠堂板)

なお、六樹園の『天羽衣』二(文化5年)にも同様の本があるが、こちらは改題もされず、板元も西村与八のままである▼16。また、一九の『天橋立』初〜3編(文化3〜5年)も、3編まで完結した文化5年に、板元の鶴屋金助自身が合巻風絵題簽を付けた本を刊行している。

現在判明しているのは右の7種だけであるが、この種の改修本がほかにも存在した可能性はあるものと思われる▼17

これらの改題本は、序文や口絵などを削って薄墨板を省き内題に象篏、さらに尾題を削除した上で新たに合巻風絵題簽を付けるという改修が加えられたもの。初板刊行後あまり間をあけないで刊行されている点に注意が惹かれる。鶴金の広告「文化六巳歳稗史目」には、これらの改題本が「合巻」として挙げられており、「右のさうし先達より諸方へ賣出し置候もよりのゑさうしやにて御もとめ被下御ひやうばんよろしく奉希候以上」とある。

つまり、このような造本様式の改変は、読者を騙すために新作に見せかけたというよりは、むしろ地本問屋が中本型読本を出板するための細工と考えられる。当然、その販売対象として措定されたのは、従来の合巻読者たちであったはずである。

以上4つの事例から帰納できるのは、読本出板数のピークであった文化4、5年を過ぎると中本型読本の読者層が次第に拡大し、合巻の読者と大差なくなってきたということである。さらには、これと並行して、半紙本読本でも読者層の拡大があったことを想定してよいかと思われる。

  四 絵本と切附本

一見すると中本型読本風の短冊題簽を持つ『絵本義経千本桜』は、豊国の見立役者似顔によって描かれた絵が全丁に入る文字通りの〈絵本〉であった。ところが、馬琴は次のように記している。只、一九の序あるのみにて讀べき処の些もなければとて絶て賣れざりければ、仙鶴堂、則、馬琴に乞ふてその画に文を添まく欲りせり。馬琴已ことを得ず千本桜の趣をその画に合し畧述して僅に責を塞ぎたれども、こは本意にあらざれば、仙鶴堂の代作にして、只、その序文にのみ自分の名號を見しけり。かくて、板をはぎ合し書画具足の合巻冊子にして、戊寅の春、再刷發行しけるに、こたびは大く時好に稱ひて賣れたること數千に及びしといふ。(『作者部類』) ここで馬琴が述べていることは、現存する諸本からも裏付けられる。つまり、『絵本義経千本桜』(30丁1冊、一九序、文政元〔1818〕年、仙鶴堂板)はほとんど見かけることがないが、細字の本文16丁を増補して合巻風絵表紙を施した『義経千本桜』(3冊、馬琴閲・序、仙鶴堂主人約述、文政2〔1819〕年、仙鶴堂)の方は、それほど珍しい本ではないのである。

右の引用の後に「只、画のみにて文なき冊子は婦幼もすさめざりければ……」とある。このように『絵本義経千本桜』が増補された経緯からは、単に〈見るもの〉だけでは飽き足らずに読む部分を要求するという、読者層の変化を見て取ることができると思われる。

少し後になるが、『殺生石後日恠談』全5編(文政7〔1824〕〜天保4〔1833〕年)では中本型読本と合巻の折衷様式を試みている。とくに、初編には5丁1冊の意識が見られないことから、向井信夫氏は文政7年に中本型読本仕立で出されたとしたが▼18、 架蔵本(半紙本仕立に中本判摺付題簽を貼付)の初編上冊の見返しには上部に「文政七年新板」とあり、下部に次のような板元の口上がある▼19

合巻がふくわん繪草紙ゑざうし筆畊ひつこうのいとおほかるをなほうち書納かきいれはべれバ合印あひじるしあまたありかつ細字さいじなるをもてよむにわづらはしくおもひ給ふもはべりてん。この冊子さうし作者さくしや新案しんあんにて筆畊ひつこうべちにしたれバ見るに目易めやすよむわづらはしからず。あたひまた合巻がふくわんとさのみの高下こうげあらずしておん遣物つかひもの直打ねうちあり。讀本よみほん合巻がふくわんかね下直げぢき三徳さんとくあればこれを利便りべん冊子さうしといはん歟
江戸馬工郎町 山口屋藤兵衛版

一読して馬琴の口調と知れるが、「この冊子は作者の新案」という部分には少し問題がある。『殺生石後日恠談』を見るに漢字混じりで黒丸の句点が施され、挿絵中にも本文が入り込んでいる。この様式は、前述した通り文化六年の『昔唄花街始』で、三馬が「読本新工夫直伝」(下巻見返し)として先鞭を付けたものであった。ところが、すでに文政5年には当の三馬は死んでしまっている。したがって、馬琴が右の口上を板元に仮託したのは、あるいは自らの手柄として虚飾するためであったのかもしれない。

いずれにしても、『殺生石後日恠談』の第2編以降は40丁を2分冊した合巻仕立で刊行し続けられたが、5編で完結するまで板面の体裁は折衷様式のままであった。これを普通の合巻と呼ぶには、やはり躊躇せざるを得ないのである。

さらに後になるが、笠亭仙果はこの様式に近い『稚源氏東国初旅』全5編(弘化4〔1847〕〜嘉永5〔1852〕年)を出している。ただし、2編の序文に「初へん二十丁、はん元合巻のはつたびにて、ものなれねばよろずにてまとり、いと/\おそくうりいだし……」とあるように、合巻として見做していたようである。

  五 中本型読本と合巻

ここまで、文化初年〔1804〕から切附本の出現までの、中本型読本と合巻との折衷様式を持つ作品について見てきたが、代表的な様式について前述した一〜八の観点から一覧表にしてみた(AとBとに示した通り、〇が「中本型読本」的要素を、×が「合巻」的要素を示している)

      八  七  六  五  四  三  二  一
      丁数 挿絵 本文 板面 句点 文体 表記 表紙
    A 〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇 中本型読本
    B ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  × 合  巻
 例1 C 〇  〇  〇  ×  ×  〇  〇  × 東海道松之白浪 (文化元年)
 例2 D 〇  〇  〇  ×  ×  ×  ×  〇 杣物語僊家花 (文化五年)
 例3 E ×  〇  ×  ×  ×  ×  ×  × 両禿対仇討 (文化五年)
 例3 F 〇  〇  〇  〇  〇  〇  〇  × 時代模様室町織 (文化六年)
 袋入 G 〇  〇  〇  ×  〇  ×  〇  〇 三都妖婦伝 (嘉永五年)
    H ×  〇  ×  ×  ×  ×  ×  × 稚源氏東国初旅 (弘化四年)
 切附 I 〇  〇  〇  ×  ×  〇  〇  × 玉藻前悪狐伝 (安政二年)
 切附 J 〇  〇  ×  ×  ×  〇  〇  × 佐野志賀蔵一代 (安政三年)
 切附 K 〇  ×  ×  ×  ×  〇  〇  × 将門一代記 (安政二年)
 合巻 L 〇  ×  ×  ×  ×  〇  〇  × 侠勇水滸伝 (明治十五年)

まず、CはIと同じ様式であるが、表紙だけはCが黄表紙風貼付題簽を持つ。しかし、Cは合巻様式が出現する以前の出来であるから当然なのである。ならば、Cが切附本の始源ということになると思われる。被せ彫りによる改題改刻本が切附本として出板されていることは、すでに述べた通りである。

一方、Dは手が加えられる前のGと同じである。Dは合巻用の遺稿を手抜きして絵を省いたために、結果的に中本型読本仕立となったものと思われ、逆にGの方は合巻用の稿本に手を加えて中本型読本仕立にしたもの。つまり、両者が異なっている表記と句点とに手が加えられたのである。

EとHも同じ様式。本文が挿絵から独立している点では、草双紙より中本型読本に接近したもの。

また、GとHとは共に笠亭仙果の作であるが、それぞれD→G、E→Hと文化期に見られる折衷様式を継承したものである。もちろん、仙果の作が直接切附本の発生をもたらしたわけではないだろうが、仙果の作を媒介として、その延長上に切附本の様式があると見て間違いないと思われる。

さて、一概に切附本といってもI、J、Kのように異なる三つの様式が存在するのである。もっとも一般的な様式は前述したIで、出板された点数も一番多いものと思われる。IもJも全丁数に占める挿絵の割合は一定しないが、Iが完全に挿絵から独立した本文を持っているのに対して、Jは挿絵中に本文が入り込んだものである。ただし、Jでは一部の挿絵にだけ本文が入っているものから全部の挿絵に本文が入っているものまで、全挿絵に占める本文入り挿絵の割合には程度の差がある。さらにKになると合巻のように全丁に本文入り挿絵があり、しかもその本文はIやJと同様に漢字仮名混じりとなっているのである。

また、中には仙果の『報讐朱達磨縁起』(安政5〔1858〕年)などのように、Jの様式でありながら挿絵の上部は仮名ばかりで合巻風、下部は本文同様に漢字仮名混じりというように、部分的にではあるが奇妙な体裁を持つ本も見られる。このような様式上の振幅は明治期まで続くことになるが、次第にKの様式が増えていくようである▼20

ここまでは言及してこなかったが、切附本や袋入本と並行して同時期に出板された小冊子に、忠臣列女銘々伝物、英雄百人一首物、三十六歌仙物、端歌物、役者追善物などと呼ばれるものがある。これらは、外見上は切附本や袋入本と区別がつかないが、造本上はKに近いもので、口絵や挿絵に色摺りを施したものもある。内容的には絵を主体にした類聚的な啓蒙書とでもいうべきものだが、板元が共通していることから、様式上でも影響関係があったと考えられる。

厳密な区別は困難であろうが、右に述べたような絵の比重が大きい類聚的作品は、とりあえず末期中本型読本(切附本)には含めないことにする。

なお、L(明治合巻)がK(切附本)と同一の様式で、両者がまったく同じ板面を持っていることから、明治合巻が新聞の続き物から派生したという従来の定説▼21には、若干の補訂を加える必要があるものと思われる▼22

  六 切附本の概括

現在までに見ることのできた切附本は、およそ200余点、この数は「ただでさえ作品数の多い戯作の中では一ジャンルを形成するほどの数とはいえないが、決して少ない数ではない▼23」のである。個々の作品についてはまだ充分な調査が及んでいないが、全体像について、その概略を紹介しておくことにする。

槐亭賀全『松井多見次郎報讐記』(文久元〔1861〕年カ)に付けられた吉田屋文三郎の巻末広告を見るに、

讐討類、物語類、一代記物
此書は五十枚一冊読切物品々明細早分り物

とあり、切附本の性格をよく表現している。しかし、実際には「五十枚一冊」ではないものも多いし、「読切物」でなく2編3編と続いたものもあるので、これで完全に切附本が定義できるわけではない。一方、「いつまでも結果ぬ合巻より、書切の切附表紙流行るゝと同じ理方……」(招禄翁の袋入本『親鸞聖人御一代記』万延新刻)というように、「早分かり」が重宝がられた時代背景▼24も無視できないであろう。

さて、扱われた題材については、題名を眺めるだけでもわかるように実録種が多い。基本的には、これらの筋を紹介するために作られたものと思われるが、『平井権八一代記』(嘉永7〔1854〕年7月改)の魯文序には次のようにある。

平井権八が事跡。狂言綺語にものし。謡曲にあやつりて。其顛末を述ることやゝ久し。然はあれど。雑劇院本には平井をもて。一部の脚色すなれば。彼が残刃奸毒をおし隠して。更に忠孝義士に摸偽せり。こはその悪を忌きらひて。善を趣とする稗家の洒落。作者の用心なきにあらねど。聊真意を失へり。柳下惠は飴をもて老を養ひ。盗跡は是をして鎖をあけんことを謀る。其物の同じくその人の用ゆる所に依て善悪の左別如此し。人の悪を見て己を慎み善を見て是に習はゞ。看官何ぞ浄を捨て穢にのぞまん。爰に刻成の平井が傳奇は稗官者流の虚談を省き。實記を挙て。童蒙婦幼等が。懲勧の一助にそなふと尓云。
 嘉永七甲寅林鐘稿成談笑諷諫滑稽道場
鈍亭魯文填詞[印]

つまり、真意を失った雑劇院本の脚色に対して実記を用いて勧懲を正すというように、序文の常套句として〈勧懲〉を標榜しているものが多い。また、ここでいう「実記」とは貸本屋の写本として流布していた〈実録本〉のことだと思われる。そして、これらの筆記小説(書き本)は同時に講談の種本でもあった。

北梅の袋入本『織部武広三度報讐』(安政4〔1857〕年9月改、安政5年初夏魯文序)に付けられた品川屋久助の巻末広告には、

読切一代記物 当時講談名人の作 敵討五十丁読切

とあり、講談との関係を具体的に明示している。あるいは「読切」などという言葉も講談からきたものかもしれない。また、この本の口上には高座に座る北梅が描かれ、

當時世に專ら流行るゝ軍書講談中興赤松清左エ門なる者を祖とし和漢歴代の治乱忠孝義士の得失を演て蒙昧を醒すに至る其用意おさ/\稗官者流に同じ然りと雖舌頭と筆頭の差別いたく異りこゝをもて余此編をあらはし講談と稗史との中庸を記録すと云云▼25

と述べている。つまり表現方法上の差はあるものの、「和漢歴代の治乱忠孝義士の得失を演」る点では、講談も切附本も同じなのである。ならば実録講談と同様に、

一、御記録  二、軍談   三、御家騒動  四、捌き物  五、仇討物
六、武勇伝  七、侠客物  八、白浪物   九、騒擾物  十、巷談

という具合に分類できるものと思われる▼26

ただ、これに一つだけ〈抄録物〉を付け加えたい。この時期には、一方で化政期の読本のダイジェスト合巻▼27が続々と生産されていたわけだが、同様のものが切附本にも見られるのである。具体的に例を挙げてみよう。

 『英名八犬士』(魯文、全8編、安政期〔1854〜〕 → 曲亭馬琴『南總里見八犬傳』(読本、文化11〔1814〕〜天保13〔1842〕年)
   *改修本に『里見八犬傳』(全8編)という袋入本があり「曲亭馬琴」と改竄してある。
 『玉藻前悪狐伝』(魯文、安政2〔1855〕年) → 玉山『絵本玉藻譚』(読本、文化〔1804〕年)
   *「凡例附言」で原拠を明かしている。
 『父漢土母和朝國姓爺一代記』(魯文、袋入本全3編、安政2〔1855〕〜文久元〔1861〕年) → 玉山『国姓爺忠義伝』(読本、文化元〔1804〕年)
   *全3編が年をおいて順次刊行されたもの。
 『三荘太夫一代記』(西海舎比累児、安政4〔1857〕年序) → 梅暮里谷峨『山桝太夫栄枯物語』(読本、文化6〔1809〕年)
   *かなり原拠に忠実な抄録である。
 『報讐信太森』(魯文、全2編、安政7〔1860〕年) → 曲亭馬琴『敵討裏見葛葉』(読本、文化4〔1807〕年)
   *口絵や挿絵もほぼ原拠と同じ図柄を用いているものが多い▼28
 『金龍山淺草寺聖觀世音靈驗記』(松園梅彦、安政2〔1855〕年) → 曲亭馬琴『敵討枕石夜話』(中本型読本、文化5〔1808〕年)
   *外題は『觀音利益仇討』。発端部に浅草寺縁起を付会して巧く原拠に筋を繋いでいる。
 『執讐海士漁船』(岳亭梁左、刊年未詳) → 山東京伝『敵討天竺徳兵衛』(合巻、文化5〔1808〕年)
   *原拠にない趣向を加え、人物名などを変えている▼29
 『緑林自来也実録』(鈴亭谷峨、刊年未詳) → 美図垣笑顔等『児雷也豪傑譚』(合巻、天保10〔1839〕年〜)
   *かなり改変されており、結末で自来也は仙人になっている。

現在判明しているのはこれくらいであるが、まだほかにもあるものと思われる。 (安政2〔1855〕年5月改)は馬琴の黄表紙と同題であるが、

曲亭翁の石言遺響は、古跡を探り事實を尋ね、日を重ね月を經て、やゝ稿成れる妙案なりとそ、這小冊は彼意に習はす古書にも寄らぬ自己拙筆疾いが大吉利市発行、二昼一夜の戯墨にして、勧善懲悪應報の、道理を録せし……▼30

と序文にあるように、黄表紙はもちろんのこと『石言遺響』とも関係ないのである。

なお、ここで魯文が速筆を卑下自慢しているが、それもそのはず、切附本1冊の原稿料はわずかに金2分だったという▼31

一方、狗々山人の『西遊記繪抄』(安政5〔1858〕年10月改)は、口絵に色摺りを施した袋入本。末尾に次のようにある。

全傳一百回略譯画を加へて凡八百張小冊に鈔して僅四十餘紙さりとて神人仏魔はさら也有情無情の物の名ひとつとして記せざるはなくその話においてや小事といへど漏す事なし彼孫行者が如意棒の長短大小自由なるがごときもの歟▼32

読本の絵本物に見られるような、中国小説の翻訳物から題材を採ったのである。魯文の『繪本三國志』も同様のものである。となると、抄録された原拠の選ばれた範囲は、合巻の場合よりやや広げて考える必要がありそうである。また、単純な抄録ではなく、かなり自由に手を加えているものも少なくない。

ならば、この〈抄録〉という行為自体も、単に趣向が枯渇した衰退期に見られる虚無的なものと決め付けるのではなく、一つの方法として、何らかの前向きな啓蒙的意図を読み取ってもよいと考えられる。

  七 袋入本と軍談シリーズ

最後に、末期の中本型読本を見渡した時、とくに目立った特徴を持つ作品群について記しておきたい。

『報讐信太森』(前後2帙、未五改、国周画)
『平良門蝦蟇物語』(全1帙、未八改、芳幾画)
『俵藤太龍宮蜃話』(全1帙、未八改、芳幾画)
『忠勇景清全伝』(全1帙、未十改、芳幾画)
『傀儡太平記』(全1帙、未十改、芳幾画)
『氷神月横櫛』(前1帙、申五改、國周画、後帙未見)

安政7〔1860〕(3月18日改元、万延元年)に刊行された鈍亭(假名垣)魯文の作品は、切附本全盛のこの時期にあって特異な袋入本であった。これらの6作は、まったく同一意匠の表紙(藍白地に布目風空摺りを施し下に小さく竹をあしらう)を持ち、すべて錦森堂こと森屋治兵衛板。1丁当たり8行と、化政期の中本型読本を思わせる比較的大きな字が用いられている。また、口絵には濃淡の薄墨や艶墨、さらには空摺りなどが効果的に用いられ、大層美しい中本型読本である。このような本の格調の高さから見ても切附本とは比較にならないもので、おそらく値段も高かったものと思われる。

『報讐信太森』が馬琴の読本『敵討裏見葛葉』によったものであること以外、それぞれの原拠については未詳であるが、『平良門蝦蟇物語』はその前半部で京伝の読本『善知安方忠義伝』(文化3〔1806〕年)を利用している。

さて、切附本という安っぽい小冊子が流行しているこの時期に、同じ板元から同じ年に6種もまとめて袋入本を出板したのは一体なぜであろうか。これらの本の見返しや序などには「假名垣魯文」と署名しており、「假名垣」号の早い使用例ではないかと思われる。また、この6作品は切附本としてではなく、明確に中本型読本としての意識によって執筆されたものと思われる。ならば、その執筆時から、板元の思惑を反映した魯文の心中には何か期するものがあったはずである。そして、この万延元年に『滑稽富士詣』が当り作となり、戯作者としての名声を博したことは、すでに説かれているところである▼33

一方、こちらは普通の切附本であるが、元治〔1864〕から明治初〔1868〕年にかけて、20丁×3冊という編成の軍記合戦物が、続々とシリーズのようにして山口屋藤兵衛(錦耕堂)から刊行されている。

『正清一世英雄伝』(元治元年序、2世為永春水、芳年画)
『河中島両将伝記』(慶応2年序、2世岳亭定岡、芳盛画)
『宮本無三四実伝記』(慶応2年序、2世岳亭定岡、芳盛画)
『賎ヶ嶽軍記』(慶応2年、2世笠亭仙果、芳春画)
『勢州軍記』(慶応3年序、2世笠亭仙果、芳春画)
『日吉丸誕生記』(慶応3年序、2世笠亭仙果、芳春画)
『四国攻軍記』(慶応3年、2世笠亭仙果、芳春画)
『桶狭間軍記』(慶応3年、2世禁多楼仙果、芳春画)
『伊賀水月録』(慶応4年序、2世岳亭定岡、光齋画)
『岩倉攻軍記』(慶応4年、2世笠亭仙果、芳春画)
『大河主殿一代記』(明治元年改、2世笠亭仙果、芳春画)
『山崎大合戦』(明治2年序、2世岳亭定岡、芳春画)

これらの作品の題材は、『繪本太閤記』など人口に膾炙した説話によったものと思われ、切附本としては決して珍しいものではない。ただ、同じ板元が同じ体裁で同じ時期に刊行している点に注意が惹かれるのである▼34

一方、慶応から明治にかけて出された『羽柴雲昇録』初編〜4編(弄月閑人、芳虎画、松林堂板)も似たような本だが、これには明治13年板の後印本がある。また、多くは見ていないが、明治10年代の刊記を入木してある後印本も存在している。つまり、切附本はそのままの様式で、明治十年代までは確実に流通していたということになるのである。

  八 作者・画工・板元

さて切附本の作者に関しては「其頃切附本大に流行し其作者は魯文に限るやうに書林仲間に吹聴せられし▼35」とある通り、圧倒的に鈍亭魯文のものが多い。次いで、笠亭仙果、2代目岳亭定岡、鈴亭(2代目)谷峨、柳水亭種清、鶴亭賀全、篠田(2代目)仙果、松園梅彦などが目に付く。ただし、書誌事項の記載がないものも多く、とくに後印本では一般に見返しや序文を欠いている。したがって、多くの困難は伴うものの、このような小冊子においてですら、初板本捜しは必須の基礎作業なのである。また、記されている名が未知の戯号である場合もあり、その解明も今後の課題として残る。

 画工は二流の者が多く、芳直(一盛斎)、芳春(一梅斎)、芳幾(一惠斎)、国郷(立川斎)、芳盛(一光斎)、芳員(一壽斎)、貞秀(五雲亭)等がたくさん描いている。なお、合巻でも見られることだが、表紙(外題)だけを別人が描いていることがあり、表紙に名が記されているからといって直ちに挿絵の画工とは限らない点、注意を要する。とくに後印の際には、別の画工による表紙に付替えられることが多い。

板元については比較的限られているようで、山口屋藤兵衛(錦耕堂)、吉田屋文三郎、品川屋久助(當世堂)、藤岡屋慶次郎(松林堂)、糸屋庄兵衛(新庄堂)などが多く、次いで伊勢屋忠兵衛(公羽堂)などが見られる。概して貸本屋上がりの新興の本屋が多いようで、糸屋庄兵衛が幕末に廃業しているほかは明治期になっても存続し、山口屋をはじめとして、藤岡屋慶次郎は水野書店、品川屋久助も杉浦朝次郎と名乗って活躍している▼36

読者層についても考えてみる必要があると思われる。題材から考えると、その中心に少年たちを想定できそうである。しかし、合巻にも男女ともに熱狂的読者がいたようであるから、とくに少年と限定して考える必要はないのかもしれない。

以上、管見の及んだ範囲で多少の憶測をも含めて概略的に述べてきたが、じつは中村幸彦氏が「幕末から明治初期にかけては、実録流行の一時期であって……小説史の方でも、中本読本や草双紙の姿で、ダイジェストして、おびただしい数の出版を見ている。小説史、読本史としては見のがしがたいことである▼37」と指摘したことを、大雑把に検証してきたに過ぎなかったといえる。

ただ、切附本の史的位置については、書型や造本様式から考えて、化政期から明治期へ繋がる中本型読本の変遷史の中で捉えてみたかったのである。しかし、「量の文学▼38」である切附本自体の研究にとっては多くの問題を残したままである。今後もさらに資料の収集に努めていかなければならない。


▼1興津要『最後の江戸戯作者たち』(有楽選書5、実業之日本社、1976年)の「あとがき」による。この時期に関する研究に先鞭を付けられたのは興津氏で、『転換期の文学―江戸から明治へ―』(早稲田大学出版部、1960年)をはじめとする多くの業績が備わっている。ただ、『新訂明治開化期文学の研究』(桜楓社、1973年)に結実したように、近世末期については非文学性を説くのに急で、むしろ近代の側に興味と力点があったように思われる。
▼2早くは前田愛『幕末・維新期の文学』(法政大学出版局、1973年)や、シンポジウム日本文学『幕末の文学』(学生社、1977年)などがあり、「文学」(岩波書店)が1985年11月号で「江戸から明治への文学」という特集を組み、「国語と国文学」(東京大学国語国文学会)の同年11月「舌耕文芸研究」特集号にも、この時期に関する多くの論考が掲載されている。
▼3長友千代治氏の『近世上方作家・書肆研究』(東京堂出版、1994年)にまとめられた研究や、石川了氏の「初代笠亭仙果年譜稿」(「大妻女子大学文学部紀要」11〜16号、1979〜84年)や「花山亭笑馬の生涯」(「近世文芸」43号、日本近世文学会、1985年11月)など一連の仕事から多くの学恩を蒙った。
▼4本書第2章第2節「中本型読本書目年表稿」参照。
▼5引用は架蔵の袋入本による。なお、後印本では分冊され切附本仕立てになっている。以下、書名は原則として内題により、刊年の記載がない場合は改印によった。また個人蔵以外のものについては所蔵機関名を記した。
▼6野崎左文「假名垣魯文」(『近世列傳躰小説史』下巻、春陽堂、1897〔明治30〕年)
▼7野崎左文「明治初期に於ける戯作者」(『私の見た明治文壇』、春陽堂、1927年)。ただし、引用は明治文学全集『明治開化期文學集』(筑摩書房、1967年)所引によった。
▼8袋入本の方が切附本より、やや格調が高かったものと思われるが、中には同じ本が双方の形態で刊行される場合もあった。
▼9(「□」は手擦れや破損で判読不能の字を示す。【後補】管見に入った別本に拠り補った。)この本に限らず保存状態のよい本はきわめて稀であり、表紙から最終丁まで揃っていればよい方である。まして作者刊年板元の記載などがないものも多いのである。大衆的な読みものとしては当然のことかもしれないが、書物としては扱われず現代の週刊誌並に消耗品として読み捨てられてきたのであろう。なお、以下の本文の引用に際しては、振仮名など可能な限り原本に忠実にするように努めたが、改行などは示さなかった。
▼10この作品の特異性については、すでに多くの先学が説かれているところである。たとえば、横山邦治氏は「幕末に出現した『三都妖婦伝』が、合巻と相関関係を持って出現したことは注目される」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、1974年、733頁)と、「合巻的中本もの」(切附本や袋入本を示す)の先行作として例示している。なお、引用は架蔵本によった。
▼11管見に入った十本ほどの内、国立国会図書館本(W98-8)は初印本だと思われ、袋付きで保存のよい善本である。
▼12馬琴の関与したものでいえば、『繪本巴女一代記』(寛政5年序)、『繪本大江山物語』(寛政11年)、『繪本尊氏勲功記』『楠二代軍記』(寛政12年)、『畫本武王軍談』(享和元年)、『繪本漢楚軍談』(文化元年)などを指している。中本よりはひとまわり大きな紙型を用い、全丁絵入りで、上部を雲形に区切り漢字仮名混じりの本文がある。表紙には短冊型題簽を用いているが、草双紙に近いものである。
▼13中本のものは未見、国会本も新城市教育委員会牧野文庫本も半紙本仕立であった。
▼14東洋文庫岩崎文庫蔵『書物袋繪外題集』に『昔唄花街話説』の絵題簽3枚が残されている。ほかの2作にも絵題簽が施されていた可能性がある。あるいは短冊型文字題簽本と両方の形態で出されたものか。
▼15本書第4章第5節「感和亭鬼武著編述書目年表稿」参照。なお、この種の改題本に鬼武の作が多い点が気になる。おそらく、鬼武の作品の側に原因があったものと考えている。
▼16原本未見。『草双紙と読本の研究』(『水谷不倒著作集』2巻、中央公論社、1973年、273頁)に掲載されている図版による。
▼17馬琴の中本型読本でも『敵討記念長船』など、所在不明の改題本と思われるものがあり、あるいは、このような合巻風のものであったかもしれない。
▼18向井信夫「『殺生石』と山口屋について」(「馬琴日記月報3」、中央公論社、1973年9月に初出。後『江戸文藝叢話』、八木書店、1995年に所収。)
▼19文政7年版の所在は確認されていなかったが、翌文政8年に刊行された都立中央図書館特別文庫所蔵本(特632)にも同様の見返が備わる。その後、向井氏の予想された文政7年版を見出したので「表紙解説」で報告しておいた。
▼20石川了氏は「幕末続き物合巻と切附本―『松浦船水棹婦言』の場合―」(「大妻国文」24号、1993年)および、「幕末続き物合巻と切附本(二)―『古今草紙合』の場合―」(「大妻女子大学紀要―文系―」26号、1994年3月)で、紅英堂蔦屋吉蔵が安政6年頃に合巻の〈改竄後印本〉を出した実例を紹介し、それらの板木に加えられた改竄を詳細に分析した上で、5丁1冊の意識を捨て、読切りを意図したこれらの合巻改竄本は〈草双紙型切附本〉とでも呼ぶべき本であること、また、この改竄本の刊行は切附本流行に対する蔦吉の取り組みであることを指摘している。

石川氏の指摘は、近世末期の草双紙改竄本刊行の実態報告として、また天保の改革以後急成長を遂げて明治期まで活躍した板元蔦吉の安直な商法の報告として、はなはだ重要である。ただ、氏が丁寧に拙稿(本節初出)の論旨を紹介して下さった通り、基本的には、切附本を中本型読本の流れの中で把握したいと考えている。もちろん、切附本は中本型読本の草双紙との折衷様式として作成されたのであるから明確な峻別は困難であろうが。
▼21興津要氏は「書型から見た終末期の戯作」(「学術研究」、1962年11月)で、「小新聞のふりがな絵いりのスタイルが単行本にもちこまれて……「みるもの」であった江戸式合巻から「よむもの」としての明治式合巻へと質的変化をきたしたのだった」と述べ、『転換期の文学』(前掲、64頁)でも「仮名垣派のはじめた漢字ふりがなつきの明治式合巻もたしかに江戸の合巻とちがって、新時代のよみ物へと質的変化があった」としている(氏の用いる「江戸式合巻」とは、江戸期の仮名ばかりの〈合巻〉を指し、「明治式合巻」の方は明治期の漢字混じり振仮名付きの〈明治合巻〉を表わしている)。さらに、これらの説について『最後の江戸戯作者たち』(前掲)の「あとがき」では、「学界常識になったといおうか、定説になったといおうか」と述べている。
▼22三田村鳶魚は「明治年代合巻の外観」(「早稲田文学」明治文学号、1925年3月)で、明治合巻が「仮名交りに書いて、振仮名がついていること」の理由として「新聞の体裁を持ち込んだからというだけでなく、学問といえばまず漢学を第一にした時代ゆえ、……戯作者だった連中が、多少とも学者気取りになった様子がないでもない」と述べ、「明治になって新たに出来た江戸式合巻は、ことごとく仮名交りの振仮名つきといって差支えなかろう」とした上で、江戸末期の「錦絵表紙の講談本」が「仮名交りに書いて、振仮名がついている」ことを指摘している(ここでいう「江戸式合巻」とは木板の謂で「錦絵表紙の講談本」とは、おそらく切附本を指すものと思われる)。つまり鳶魚がつとに説いていた通り、明治合巻の「仮名交り振仮名つき」(漢字仮名混じり総傍訓)という様式は、決して文明開化の所産ではなかったのである。
▼23中野三敏『江戸名物評判記案内』(岩波新書、1985年9月、65頁)
▼24坪内逍遥は「新舊過渡期の囘想」(「早稲田文学」明治文学号、1925年3月)で、慶応末の時勢について「掛け構ひのない者共の心までをも忙しくした。いかな婦幼も、もう迚も落ちついて、平假名一點張りのだらだらした草双紙などを拾ひ讀みしてをられる時ではなかつた」と記している。
▼25引用は架蔵本による。
▼26中村幸彦「実録と演劇」(『中村幸彦著述集』10巻、中央公論社、1983年、56頁)
▼27鈴木重三「合巻について」(文化講座シリーズ9、大東急記念文庫、1961年)、服部仁「読本鈔録合巻の実相(上)(下)(「読本研究」5・6輯上套、1991・2年)
▼28前編の序に「爰に著す野干の一話も、余は化たと思へども原稿虚の革衣、彼読本の抄録とは、看官以前承知なるべし」とあり、本文だけでなく口絵や挿絵も、ほぼ原拠と同じ図柄を用いている。
▼29拙稿「切附本瞥見―岳亭定岡の二作について―」(「近世部会会報」8、日本文学協会近世部会、1986年夏)
▼30引用は架蔵本による。
▼31「切附本五十丁内挿畫十丁其下畫も皆作者より附けて遣る例なりの潤筆金二分と定めたり」(野崎左文「假名垣魯文」)とある。相場より安かったのである。
▼32引用は早稲田大学図書館蔵本(ヘ3-3944)による。
▼33平塚良宣『假名垣魯文』(私家版、1979年)、山口豊子「仮名垣魯文」(『近代文学研究叢書2』増訂版、昭和女子大学、1969年)
▼34大惣旧蔵書目の「画英雄鑑か八百題」(柴田光彦編、日本書誌学大系27、『大惣蔵書目録と研究』本文編、青裳堂書店、1983年、397〜400頁)には、管見に及んだもの以外にも切附本ではないかと推測できるものが、いくつか挙げられている。
▼35野崎左文「假名垣魯文」(『近世列傳躰小説史』下巻、春陽堂、1897〔明治30〕年)
▼36井上隆明『近世書林板元総覧』(日本書誌学大系14、青裳堂書店、1981年)
▼37中村幸彦「実録体小説研究の提唱」(『中村幸彦著述集』10巻、中央公論社、1983年)
▼38延広真治「舌耕文芸関係資料」(「図書館の窓」19巻9号、東京大学総合図書館、1980年9月)


# 『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』(ぺりかん社、1995)所収
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