假名垣魯文の多岐に亙る文業に一瞥を加えた時、〈文学〉などと称することは憚られるような、夥しい〈雑文〉をものしていることに気付く。斯様な魯文の仕事は、文業などと呼ぶより寧ろ売文業というべきかもしれない。だかしかし、それ故に「魯文は、近世と近代とを通貫する十九世紀末期戯作界の様相を典型的に体現した戯作者であった」と位置付けても差し支えないであろう。此処に魯文研究の意義が存すると思われるので、様々なジャンルに広がるその言説を調査し蒐集してきた。
嘗て、魯文が他作者の著作に寄せた序跋類について紹介したことがあるが▼1、本稿では冊子体ではない一枚摺に注目してみたい。ただし、宣伝用チラシである〈引札〉〈報条〉や、絵画に詠歌等を加えた〈画賛〉類に関しては稿を改めるとして、此処では錦絵の〈填詞〉▼2について見ていきたい。尤も、他ジャンルと同様に、全貌を把握するのは著しく困難であるので、取り敢えず知り得た範囲ではあるが、具体例を示しつつ紹介してみよう。
本来填詞という用語は『大漢和辞典』に拠れば「漢詩の一體。樂府から變化した一種の詞曲で、樂府の譜に合はせて字句を填入したもの。宋末に詩餘といひ、明の呉訥及び徐師曾に至つて填詞といふ。一定の圖式により字を填めるからいふ。」とある、また『日本国語大辞典』(第二版)に就けば「中国、古典文学の一ジャンル。唐代に西域からはいった音楽につけてうたった歌詞が文学形式として定着したもの。曲によって句数・字数・平仄・韻脚が定まっており、それにあわせて歌詞を填めて作るところからこの名がある。宋代に大流行し、長編の新しい曲も多く生まれ、宋代を代表する文学となった。詞。詩余。長短句。」とある如く、中国に於ける詩文形式の名称であった▼3。
さて、我国の近世期における「填詞」という用語は、中国での意味用法とは異なっているので、まずはその用例を追いつつ、文脈に則して「填詞」が意味するところを確認しておこう。残念ながら、初出を詳らかにし得る資料の提示は未だ出来ないが、管見に拠れば山東京山作の江戸読本『国字小説小櫻姫風月竒觀』 (文化6〔1809〕年10月刊)の口絵に、「 [九種曲]\廿載旁觀笑與顰\凡情丗態冩来眞\誰知燈下填詞客\原是詼諧郭舎人\空香女史題」とあり(傍点筆者、以下同断)、また同書巻末の跋文に「京山先醒は京傳先醒の令弟也。彫蟲鼓刀をもて業とし詩を篇画を嗜む。本編填詞の如きは一時游戯の筆にして耳目玩好の書に属し、適口充腹の集には非さるへし。先醒本姓は嵒瀬名凌寒字鐡梅京山と號す。一字驛齋その堂を鐡筆と云。その居を方半と呼その家は江戸日本橋第四街東に折する北巷にあり\詩事 天山老人識」と見えていて、これなどは比較的早い用例かも知れない。いずれにしても、序文の「燈下填詞客」は「燈下に戯作する者」と解せるし▼4、跋文の「本編填詞の如きは一時游戯の筆」とは、つまり「小説の著述などは閑時の筆遊み=戯作」と解せられ、文脈から判断して此等の「填詞」は「戯墨=戯作の著述」という意味で用いられていると考えられる。
幕末になると用例は頻出する。魯文の切附本▼5では、『平井権八一代記』の序末に「嘉永七甲寅林鐘稿成談笑諷諫滑稽道場\鈍亭魯文填詞」と見え、野狐菴主人著述『神勇毛谷邑孝義傳』の序では「……草稿を脱すと雖未序言なし。願くは填詞を記せよと、……乞るゝまに/\、其席の談話を序として、攻を塞ぐといふことしかり\嘉永七甲寅後名月\夢借舎主人筆記 [尚古]」とある▼6。此処の「填詞」は「攻めを塞ぐ」と言い換えられている如く、依頼された序文を書くという謂だと思われる。
また、鈍亭魯文標記『摘要漢楚軍談後輯』の序末に「……此一条を論は、後輯稿成、序跋なきものから、填詞をものせんとてのわざくれなりかし\于時安政三丙辰穐文月星合の夜\妻戀岱の戯作舎に毫を採る\談笑諷諫滑稽道場 鈍亭魯文漫題」とあり、さらに『繪本早學』初編の叙末にも「……簡端に序して。填詞をかいしるすも。所謂蛇を画て。足を添るすさみそやあらんかし\時維安政四丁巳葉月初旬 毫採于戀岱小説書屋\稗史著作郎 鈍亭魯文題」とある。此処でも「填詞」は序文のことを指していて、「埋め草」と振仮名が振ってある。
魯文以外では、出子散人作の合巻▼7『天竺徳兵衛蟇夜話』(歌川國久画、文久元年)の序にも「……僕短才もて此半丁へ填詞ハさりとハ押の蹲踞蝦蟇の面へ水の音。いけしやあ/\と述るになん\文久元辛酉初冬\忍川の北窓に\山亭秋信」とあり、此処でも序文のことをいっている。
一方、「鈍亭魯文謹述」とする切附本『成田山霊驗記』の序末には「安政元甲寅晩冬\同二乙卯新春上梓\物の本作者 鈍亭魯文填詞」とあり、鈍亭魯文抄録『國姓爺一代記』二編の序末にも「……此猛者が奇き美事を衆幼にしらせまほしくて、野末の爺が懇意をしるす事しかり\鈍亭嵜魯文填詞」とある。
さらに、鈍亭魯文鈔録『雙孝美談曽我物語』の序末にも「……鈔録巻を老舗として、爰に補集曽我物語、……燈下暗記一小冊を借宅假舎に筆を採る。\安政二卯歳秋新鐫\鈍亭魯文填詞」とある。これらは自作の自序であるから「填詞」は「戯作」の謂であり、特に切附本というジャンルは既刊作の抄録本であるから、「燈火の下に暗記した物語の抄録をする」というのも、きわめて様式的な序文の書式で書かれたものであるが、やはり「著述する」という意味で用いられている。ちなみに、安政三年刊の合巻『當世八犬傳』でも、本文を抄録したことを「鈍亭魯文填詞」としているのである。
以上、安政期における魯文の用例を中心に見てきたが、近世後期に使用されている「填詞」という用語は、依頼された序文を執筆するという行為の卑下謙譲もしくは自己韜晦的な用語として使われ、その意味から派生して戯作の著述自体にも用いられるようになってきたものと考えられる。
ところで、一魁齋芳年の絵本『英雄太平記』(外題「繪本大功記」、外題芳宗画)でも、叙言末に「于時萬延二ツの年辛酉の睦月下旬東都妻戀岱の南窓に毫を採て繍像に填詞するものは鈍亭主人\假名垣魯文題」とあり、明確に「絵の余白に詞書き」を書くという意味で用いられている。これを踏まえて浮世絵に見られる「填詞」を見ると、『芋喰僧正魚説法』(未十二改(安政六年十二月)・一惠齋芳幾戯画・山本平吉版)には長文の「填詞」と題する話が書かれ末尾に「忍川市隠 岳亭春信戲誌」とあるように、やはり「埋め草」として絵の余白に文字を填めるということから、画中の文章を示す用語として「填詞」が用いられている。ただし、近世期における常であるが、「填詞」という用語に統一されていくわけではなく、同様の意味で用いられている「記」「筆記」「酔題」「操觚」「暗記」「賛辞」「誌」「略傳」などという用語も見受けられるが、本稿では、魯文が良く使っていて他の戯作者にも波及し、明治期にまで使用例が及んだ「填詞」という用語を用いて、浮世絵に書かれた一定程度の分量を持つ文字部分を表すことにする。
以下、管見に入った魯文に拠る「填詞」が入った浮世絵を内容に則して例示していくことにする。本来ならば図版と倶に本文を紹介すべきであるが、紙数の関係から、今回は本文(の一部)だけを翻刻しておく。
此國八十六州に分つ其首府を把理斯と号く舎搦河の畔にあり城門十七街衢七百十三あり府内人煙櫛の歯をひきたるごとく百貨具らざるものなし戸数三萬人口六十万諺に曰佛蘭西の人民は伊斯把尼亞の馬の如しと蓋し其數過多なるを称賛するなり國人怜悧能百事に勉強す婦女は貞操正しくて容顔艶麗なり假名垣魯文記\[南京なんきん]
南京は支那の一大府にして當時清国王族の居城たり三方海洋に臨み城下巷街に下流をせき入れ諸所に橋を渡し市坊の商家數万軒両邊に棟を並べ將蠻国の商官此所彼所に居舘を設け国産をひさぎ土産をあがなふこと本朝横濱の地に異ならず異人は海港に舶をよせ出るあれば入ありて繁昌餘州に比する〔な〕し且都下一里を隔柳巷花街の一廓□□妓女三千嬋娟として錦繍の袖をひるかへし歌舞艶曲の調べ昼夜に絶ず總て支那五十八省の内南京の男女は形容は艶優にして技藝にのみ心をゆだね利に走る事を専らとなせるにありそは暖地繁花の国風によるところ也とぞ萬國噺の作者 假名垣魯文譯誌◇
洲中一部の國名を共和政治州また合衆國と号す近來版圖ます/\加はり三十六州にいたる都府を華盛頓といふ萬國に往還して専ら貿易を盛にし通商を家産とす魯文記
此國は元歐邏巴人の開ける地なり季候大抵本朝に同じ北は新英吉利に接し南は墨是可にいたりその東西は大洋に臨めりその國の海港カリホルニヤより舶を出し萬國に往還し通商を以て家産とす假名垣魯文記
國の總称を大貌利太泥亜と云分ちて五十二州とす中に六十二の諸侯あり都府を龍動といふ四達〓にして數所の互市場きはめて繁盛なり府中の大河〓摸斯河に奇巧の橋を架せり長百八十丈幅四丈餘ありといふ假名垣魯文記
三略に曰天の時ハ 地の理にあり地の理ハ人の和に しかずと宜なる哉されば 心学の教にも 家内和合ハ福神の 祭祀といへれ士農工商 四の民各職役活業あるは 天地の間に生れし役にて 則天地の奉公なり 五體ハ壺中の 小天地なるが故に 身に附肉にも職役 あるハ是に天地の奉公 なりかし第一顔ハ 主親の如く手足は 兄弟の如し腹ハ 親類にたとふ 然れバ五體和合せざれば不具廃人と なれるになん茲に一ッの話説あり
目の曰
「コウ皆の前で云ちや ァ目に角立て目闇に味噌を上るやうだが凡そ身体の内に己等ほど重宝なものハ有やすめへ。早いことが良ハサ。ハテ昔から己等を日月に譬へて有やす。本当のことだが己等が無くバ一切万物面白ィことも面黒いものも見ることハ出来やすめヘ。それだから悦ぶことを目出度と云ふョ。だれたと思ふアヽつがもねヘ。
口の曰
「モシ皆さん憚り乍ら御慮外乍ら私の云ふことを静かにして御聞なはい。野暮な奴の譬へに口ハ災ひの門舌ハ災ひの根だとか葉だとか吐したのハホンノ岡焼餅の甚助だよ。口広いことを云ふのぢやァありませんが私が無くバハイ命を繋ぐことハ出来ません。旨い不味いの五味の味酸も甘いも噛分けて縺れたことを捌くも口サ。それを何の彼のと悪口を云れると口に年貢は要ないから此方でも喋りつける気に成りますハネ。べちやくちや/\/\/\アヽ気怠く成つて来た。
耳の曰
「皆さんの御話を一々聞分けて見ましたがそれハ所謂水掛論サ。唐土の老子とかいふ変人が云たにハ大声里耳に入らずトサ。しかしネ雅俗共に善ハぜん惡ハあくと聞分るが私の役サ。金言耳に逆ふとハ云ますが耳の穴を掻穿つて聞く時にやァ又耳寄りなことに聞きます。兎角耳糞の溜らねへ様に用心して呉れさへすれバ分からぬことハ御座りやせんハサ。
鼻の曰
「甚だ失礼な申分で御座居ますか私ハ大山に喩へられて面部の中でハ一座の座頭。自慢ハ私の持前だが満更耳を取て鼻へ付るやうな御託ハ上げやせん。しかし私がなけりやァ柴舟蘭奢待伽羅や麝香を嗅分る理屈にやァ参りやせん。夫だから世の譬にも一番先へ出ことを鼻駆だの鼻腹だ等と申シやす。天狗じやァねへがこりやァ真似てハ御座へスめへ。
足の曰
「これサ/\ 目の寄ところへ玉でも寄かと思つたら口広い喋だて耳やかましくつて鼻もちがならねへ。御前方よく聞つせへ。皆ハ用あるものゝ理を知て用なきものゝ理屈を知へからはなせねへ。夫有用ハ無用の道具でござる。そも/\大地を踏を見よ。己が踏ところ有用にして踏ざるところ無用ならずや。その無用なるところハ余人これを踏べし。各自が勝手のみを知て足の難儀をさつぱり知ず。又災ひハ口より起る。耳ハ淫声を聞て汚れを悟らず五欲煩悩を萌し目鼻ハ香氣を嗅で費を厭はず。顔ハすなはち目口の置所なり。もし一つにても居所違へば此を片輪と謗るべし。見聞も嗅ぐも味ふも此足なくてハ適ふまじ。汝等口を養ふも手に具足する足あつて心の欲する所へ行に自由の足ると知ざるか。夫故足ぬを不足と云ひ余るを足ると云ふならずや。まだ/\沢山云ふことあり。コレヤイ目玉汝逆上で煩う時ハヤレ引きさげよ三里よと足へ灸ハ何事ぞ。口奴が飲酒酔狂の挙句の果ハ我等にあたり傘灸の苦しみハ如何ばかりと思ひやれ。其上目玉がぐらつく故足の我等ハ溝へ嵌り又ハ昼中犬の糞を踏む時は己が粗相を知りをらず足の汚れを数へたてヤレ汚ねへのどうだのと他人のやうに抜しをる。汝等がおごるその時ハ足ハ何時でも尻に敷かれ痺の切るが儲けとハ、余り情けなからうト云れて顔ハ真赤に面目無げに聞、耳潰し鼻の頭に汗たら%\一句も出ず閉口/\。
物の本作者 假名垣魯文戯誌\一惠斎芳幾戲画
来ル三月上旬より\西両國廣小路に於\て興行仕候中天竺舶來大象之圖 (大判竪絵一枚、假名垣魯文賛、一龍齋芳豊画、[改亥二]文久三年二月、藤岡屋慶次郎板) ADMT
夫象ハ獣類の君主にして行状さながら人林も及ばす。夜ハ子に臥て寅に起、清浄を食して紅塵をいとへり。支那の大国なるも其地に生ぜず。支那人其象を画にて観のみ。故に漢土にハ象と号く。一身の運動鼻にあり。總體の力量背に止る。一度此霊獸を見る者ハ、七難を即滅し七福を生ず。看官駕を枉て竒々として拍掌すべし。
「大象の鼻にかけてはほのめかす\濁らぬ江戸の水の味ひ」
假名垣魯文
亞細亞洲中天竺馬爾加国出生。生じてより僅に三歳。形象ハ泰山のごとく鼻ハ桟に似たり。總身黒色骨太く肉肥前足の爪ハ鼈甲に等しく後足の爪ハ碁石のごとし。尾ハ劔に似て耳ハ袋をかけたるごとし。佛蘭西 大曲馬 CROUE SOUEIE (大錦三枚続、仮名垣魯文記、朝香楼芳春画、[改未十一]明治四年十一月、木屋宗次郎板) ADMT
于時文久三癸亥弥生上旬、西両国廣小路におゐて観物場を開き、諸人の目前に一見を新にすることゝハなりぬ。
「姫氏國の毛綱につなく大象は\うこかぬ御代のためしとそなる」
假名垣魯文賛
佛國の曲馬師「スヱリ」と云るハ積年六十二歳、肥満勇壮の老人にして、馬術曲乗の業に於けるや、五大洲に雷鳴ハ轟き、世界第一と称するに足べき名誉稀代の人物なり。子弟子いづれも熟煉せざるハなく、衆目を驚かすが中に、女、スリヱ氏の曲馬早業千古未發の藝實に、神仙中の人なる歟
假名垣魯文記
○スリヱ大きなる馬を自在につかひ、馬その言葉に応じて、あるひハ横に寝、又ハ膝を屈め、早く駆けり静かに歩み、隠したる物を嗅付けてその在処を知る也。\三ッ毬を両の手にて使ひわけ、馬の背中にて拍子をとるなり。\並びて駆る二ひきの馬に彼方此方と乗り移りて、布をあやどり様々の曲をなして、後にわざごとあり」右
三びきのかけを追ひ走りながら、一人ハ途中にて一人の肩へ飛ひ付、図のごとくして走ること、かはる%\なり。これ皆なスリヱ門人の曲にして目を驚せり。\二ひき並びて乗り、一人ハ馬上にて宙返りをなし、今一人の股を潜る早業。\スリヱの女、馬の横腹に立ち駆け乗り、板子へ輪を括りて馬のえんを離れる名曲。\馬の後方に腰を掛け、あるひハ横になり、又ハ俯しながら輪乗の早業、筋斗をきり楽屋に入る。\馬の背中に鯱立となり、かけをおひ、あるひハとんぼ返りをして、つゝ立ち、又ハ片足にてかけをおびながら横になり、仰向俯となりて曲を尽す。」中
スリヱの門人軽業の一曲、高サ五丈余の上なる房より下り、身を反して彼方に下りたる撞木に飛び付くこと、猿の木ずゑを伝ふよりも速やか也。\スリヱの弟子三人、梯子より下り、一人ハ手足を図のごとく反して左の一人の身体に飛び付き、両人絡みてぶら下る軽業のはやごと、見物の肝を寒からしむ。\スリヱ氏大馬に跨かりながら身を輪にして馬上に筋斗をきること屡々、首尾に纏ひての離れ業、馬の背を離るゝこと五丈余なり。」左
「そも/\鯰の荒れたること、盤石に押され、諸々八方の災ひ数千人の見ごりをなして、古今の憂ひを増す。しゆんの時候の怒りの時、天俄かに掻き曇り、大地頻りに揺りしかバ、蔵と壁を防がんと、小藪の陰に寄りたまふ。此折町々廃屋となり、根太を折り戸を重ね、おのが軒端を塞ぎて、その梁をもたささりしかハ、むざと最期と入寂のおはり、無駄死たまひしより、鯰をあやふと申とかや、かやうにすでかき間違に身を悔ふ民の憂ひをバ、君の情けでお救ひの、米の五合古壁のほこりたへせぬ天変地獄、どう/\/\と、みくらのつちに、打たるゝ者こそせつなけれ」
安政二乙卯年十月二日\新吉原仮宅場所付「浅草之分\一 東仲町\西 同\花川戸丁\山の宿\聖天町\目瓦丁\山谷丁\今戸丁\馬道\田町\深川仲町」「深川\一 永代寺門前仲丁\同 東仲丁\山本丁佃丁\松村丁\八幡御旅所門前丁\続御舟蔵前丁\八郎兵衛屋敷\松井丁\入江丁\長岡丁\陸尺屋敷\時ノ鐘屋敷\常ハ丁」
げい者「おめにかけます軽わざハ野中の一本すぎてござります」\なまず「七分三分のかね合/\」
「東医南蛮骨接外料日々發行地震出火のその間に、けがをなさゞるものあらんや。数限りなき仲の丁先吉原が随市川、つぶれし家の荒事に、忽火事に大太刀ハ、強くあたりし地しんの筋隈、日本堤のわれさきと、轉びつ起つかけゑぼし、きやつ/\と騒ぐ猿若町、芝居の焼も去年と二度、重ね〓菱又灰を、柿の素袍ハ何れも様、なんと早ひじや厶りませぬか、実に今度の大變ハ、嘘じや厶らぬ本所深川、咄ハ築地芝山の手、丸の内から小川町、見渡す焼場の赤ッら、太刀下ならぬ梁下に、再び鋪れぬ其為に、罷り出たる某ハ、鹿嶋大神宮の身内にて、盤石太郎礎、けふ手始めに鯰をバ、要石にて押へし上ハ、五重の塔の九輪ハおろか、一厘たり共動かさぬ、誰だと思、ヤヽつがも内證の立退藝者の燗酒、焼たつぶれた其中で、色の世かいの繁昌ハ、動かぬ御代の御惠、ありが太鼓に鉦の音絶ぬ二日の大せがき、ホヽつらなつて坊主」
√アヽラ うるさいな/\。今ばんこよひの雨風に、家くら堂社おしなべて、町もやしきも、おに瓦家根板迄もさらひませう。去ねんのやくの鯰めが、一周忌にハはやて風、八月すへの五日、はや軒なみそろふ家々も、きのふの無事ハけふの苦と、かはるもはやき飛鳥川、岡ハ淵瀬の大出水、かぜハおそれ入豆の、さて/\ふくハ福ハうち□□お門をながむれバ、そらに戸板が舞上り、平地の池となるかみに、泪の雨の水まして、ながるゝ舩や竹いかだ、ながいものにハまきはしら、立よるかげの大木も、根から折口死出の山寺に、はかなきおりからに、このやくはらひがとんで出、ふくろの中へさらり/\。
風雷散人戯述 [印](丸に三つ巴)
是此一個の大剛勇士父兄の仇をむくはんと、廻國修行の武者わらぢ、ひまゆく駒の足がきをはやめ、光陰すでに古郷とほき彼みちのくの二本松に、はからず蒙し禍の、罪ならぬ身を言觧ども、とくによしなき縛めの縄引ちぎり、獄舎をやぶりて竟に天日を見る時を得たり。填詞 かな垣魯文記岩見重太郎包輔
狐千歳を經て美女と化すと唐土の書に見へたれど、五百歳をたもちて美童と化すの正説なし。虚か実かしらぬ火の筑紫の壮士宮本氏妖狐と試合の竒々怪々、虚々実々の談〓ハ凌西生が舌頭より講する所の名話にして最面白きハ白面の狐を説ける故なりしか。
填詞 假名垣魯文記「宮本無三四正名」「妖狐の怪」
善惡両面加々見の裏梅芳き名に似すやらで残忍非道に組せし女夜刄奸毒忽ち報ひハ覿面縛のみか青蛇の苛責に苦痛の七轉八倒すねに疵もつ小笹原千里を走る惡事の條々浅きたくみの尾をあらはしてハ妖狐も裘を剥るゝに至れり魯文述
近世水滸傳 完
異朝大宋の時、洪信伏魔殿を壊きて、百八の豪傑世に顕れ、宋の天下を閙せし小説ハ、元の羅貫中が水滸傳に著明し。我朝いつの頃にや有けん、下總國笠河原といへる地に、其頃有名の侠客、竸力富五郎といへる者、親分笠川の髭造が仇としねらふ、井岡の郷の侠首、捨五郎と出會し、互に子分弟分と称ふる者数人を従へ、義を泰山の重に比し、命を鴻毛の輕きに竸べ、耻を知り名をおしみ、双方一足も退かず、血ハ流れて河原をひたし、骸ハ積で山をなし、さけぶ声、天にひゞき、劔の音、地を震ふ。そが中に、武者修行の浪士、平手壹岐といへる者、身找六尺有余、劔道司馬秀胤の門人にして、出没自在の奥儀を極め、當世不思儀の名人なりしか、此人にして此病あり。平生酒癖あしかりけれバ、師の勘氣をうけて浪々し、下總千歳の里なる竸力が食客と成て在けるが、此闘争のおり、随一の竸力方にて、井岡の夛勢と手いたく戦ひ、終に多勢の爲に討死をぞ遂たりける。竸力方も数多の井岡勢とたゝかふて、捨五郎を見失ひ、了に夲意を遂ずといへども、名を後世にとゝめたり。概畧 假名垣魯文記
「笹川勢」「ましらの源治」「篠嵜の政吉」「平手壹岐」\「水島破門」「成田の新藏」「浪切重三」「竸力富治郎」\「清瀧佐七」「神樂獅子雷八」「地引の虎松」「なだれの岩松」「桐島辰五郎」「提緒の猪之助」「井岡捨五郎」
龍 宮 | 炎出見命 | ||
龍 種 | 竜王太郎 | ||
時 代 | 黒雲皇子 | 横 行 赤松重太丸 | 梅 容 夢野蝶吉 |
世 話 白木駒吉 | 飛 行 姫松力之助 | 柳 髪 女勘助 | |
旧 館 滝夜刄姫 | 桟 橋 木曾義仲 | 二 郎 大原武松 | |
旧 鼠 清水冠者 | 虹ノ橋 尾形児雷也 | 二 刀 宮本武蔵 | |
仁 王 金神長五郎 | 残 刄 蝦蟇九郎 | 箱 根 高木虎之助 | |
不 動 倶利加羅釼五郎 | 虎 狼 大蛇丸 | 山ノ井 六木杉之助 | |
良 門 相馬太郎 | 勇 善 鳥山秋作 | 強 力 明石志賀之助 | |
鬼 門 稲葉太郎 | 美 惡 青柳春之助 | 強 勇 大島丹蔵 |
金 猫 瑳峩の大領 | 東 奥 松ヶ枝関之助 | 怪 力 神洞小二郎 |
金 鈴 魔陀羅丸 | 北 雪 藤波由縁之助 | 怪 傳 木鼠小法師 |
江ノ島 白菊丸 | 矢 武 勇婦綱手 | 不 人 姐妃のお百 |
大 嶋 白縫姫 | 弓 張 勇妻八代 | 不 二 三國太郎 |
侫 士 仁木弁之助 | 天 麗 大友若菜姫 | 良 将 里見義成 |
勇 士 高木午之助 | 天 狗 小僧霧太郎 | 良 士 牛若三郎 |
妖 狸 犬江親兵衛 | 駿 河 宇治常悦 | 美 少 末珠之助 |
野 猪 犬田小文吾 | 駿 馬 犬山道節 | 美 性 尾ノ虎王丸 |
玄治店の画漢中。水滸一百八個を画巧て。画中の豪傑と称誉られしも。天岡地〓の星霜久しく。繪櫃の石碣堅固鎖して。再度開く洪信なきを。一魁齋芳年教頭。單身勇門の末坐に出て。師風を奪體換骨し。梓客の應需。義勇 善惡好漢麗婦の容像を画成こと五十員題号て美勇水滸傳と爲。嗚呼大哥の號架空からす 芳梅未春の諸木の魁。譬 金聖嘆の繪難坊。伏魔殿の穴を鑿索。佳不佳の批評ありとも水滸贔屓の稗官者流が。當世二代の画勇子と。ホヽ請證て白す。炎出見命
假名垣魯文題
炎出見尊兄の釣針を かり給ひ、海辺に釣をたれ たまひ、終に失ひ、兄の怒 甚しきゆへ、あかめだいに 乗り、針を尋んとして龍宮 に至り、思はず豊玉姫と契、 于珠満珠の二ッを得給ふ。
相馬小次郎将門、比叡山に伊豫掾純友と倶に、平安城を見おろして、四海平呑の逆意を企て、直に東國に走下り、下総國猿嶋郡廣山に内裏を建、一門従類に高官を授け、自ら新皇帝と号し、専ら叛企の色を顕し、まづ軍陣の手初に、常陸大掾国香を亡し、逆位旭の登るが如く、空行雁も面前に落て忽地死せりといへり。鈔録一家 鈍亭魯文記
定紋の鶴ハ。青陽の空に翅を伸。藝頭の評判ハ三都の櫓に殊高し。幼遊の凧に。九字菱の骨組よく。上る出世の位附立身大吉門松の。竹三とよびしも昨日とくれ。今朝新玉の春五郎。未年玉も若水の。元日二日三坐の稀物。彼刈萱の山乃段にハ。名誉高野の奥儀をきはめ。汲やしつらん玉川に。古人紀伊國のおもがけをよくも写せし鏡山尾上にからむ岩ふぢハ。草履の手煉たしかにこたへ。小田に種蒔春永の長閑き業をみどりの松永。大入成せる大膳の。いきほひ竜の登るがごとく。實盛がものがたりにハ。弁舌布引の滝に似てよどまず道風の蛙場には。青柳のすゞりの深きをさぐれり。これを仰げバいよ/\たかき。銀杏花菱鼻ばしら仁木弾正がせり出しは。高麗唐土にきこえたる。甘輝も稀代の秘術をあらはし 我日の本の神風や。福岡貢の十人切。こハふるいちの古きをしたひし 二見がうらの日の出の俳優。伊勢音頭の音羽屋にひゞきわたりし坂東武者。加役に若女形の大将軍。諸藝兼備の座頭。かぶ衆て旦那と侠客の花方。右も左もきゝもの/\。
江戸前の戯作者 假名垣魯文讃詞
※以下、〈弥生の|雛太郎〉中村芝翫 成駒屋、 〈幟鯉の|鐘吉〉河原崎権十郎 〈山崎屋|三升〉、 〈二ッ星の|光吉〉 沢村田之助 〈紀伊國屋|曙山〉、〈菊重の|陽三〉 市村羽左衛門 〈立花屋|家橘〉。
湯灌場 小僧 吉三 市村竹之丞 吉三ハ礫川浄圓寺の門番吉平の忰にして幼稚より膽太く未前髪立よりして賭に耽り悪事にさかしき曲者なり茲に當時の小姓戸戍左門といへる者頗る文学ありて殊に無双の美男なれバ檀家の中なる八百屋久兵衛が娘於七といへる美女此左門を深く戀慕し密に吉三を仲立として艶書を送り了に階老の契りを結べるを父久兵衛これを推し娘をとゞめて浄円寺に詣る事を許さゞれバ於七思ひにあこがるゝをりから吉三來りて於七にいふやうおん身さまてに左門ぬしに會んことを思召給ハゝ火を放ち出火の紛れに浄円寺に趣給へと言葉を巧みに示すにぞおぼこ心の一筋に吉三がをしへしまに/\しけれバ吉三出火を幸ひに金銀財宝を若干盗とりし事忽に露顕て官府にひかれ於七と共に火あふりの罪科に所せられしかバ後人於七吉三郎と對せし浮名を世にうたひぬ畧傳史 假名垣魯文記
※以下略。
長門國竹嵜に近き堀江の漁夫櫓作が女也。心操人に勝れ、兩親に孝心ふかく、其歳三十に近付迄、他人勸れ共夫を持ず。老父を養まんが爲に、沖に出て釣をたれ、魚を取ては市に賣、或時ハ人に雇れ磯山に行、焚木を樵に、生れ得て力つよく、男も及ぬはたらきせり。或夜いさき川に漁りせし〓の中に、父の恩人雪岡夛太夫が女照葉を引上て家に伴ひ、其來由を問けるに、照葉ハなく/\兄冬次郎が横死のことより、弟力松と倶に家來村岡真平を便て、はる%\と長門路へ渡り來て、惡者の爲に力松がゆくへをうしなひ、その身はいさぎ川の土橋より落入しこと、しか%\と語るに、恩家の退轉を、櫓作親子ハうちなげき、てりはをいたはりかくまひける。かくて櫓作病死の後、雄浪がはら水棹が兄無理右エ門と其伜牙八が爲に仇せられ、水棹は兄を討て深疵に死し、雄波は従兄牙八を討とりて、照葉を伴ひ國を去り、出雲國琴彈山なる露月尼が庵に趣き、しばらく爰に身をかくせしが、又三賊の爲にしも大厄難を蒙りて、大力無双の義婦雄波も、鶏矇眼の病に賊手にかゝり、墓場のつゆとぞきえにける。※以下、〈鳥山|犬千代〉中村芝翫、 〈亀谷|多門之助〉沢村訥舛、 〈菊池|貞行〉中村福助、 〈玄海|灘右エ門〉河原崎権十郎、 〈大友|若菜姫〉沢村田之助、 〈滝川|小文治〉市川九蔵、 〈雪岡|力松〉坂東三津五郎、 〈漁師|春吉〉市川家橘、 〈雪岡|冬次郎〉坂東彦三郎までは確認している。
假名垣魯文抄録
山谷八百膳/深川平清/木挽町醉月/千束田川屋/代地川長/今戸大七/同有明樓/芝車家/坂本町錦語樓/本街小櫻/山谷八百半/築地青柳/平松町魚仙。 品川町萬林/深川山松茂堂/両ごく青柳/柳ばし梅川/下谷松源/甚左衞門町百尺/おなじく豊田屋/高砂町万千/柳島はし本/金春三のへ/橋場川口/深川福安。 しば大もん宝治/王子ゑびや/おなじくあふぎ屋/淺草廣小路壽仙楼/木母寺うゑはん/よし原京まち金子/同江戸町海老長/きはら店千歳楼/代地ともへや/厩ばし昇月/高輪萬清
花ハ盛りに月ハ隈なきを見て春秋長きを樂しむは東京の餘澤にして。九夏の炎暑を兩国の橋間。隅田川の中洲にながし。玄冬の素雪を巨燵ぶとんに眺めて。家根舟の簾をかゝぐ四時の觀樂。その主とするハ食にあり。されバ割煮通の通家を撰みて。是に祥瑞の歌妓を添るは。〓齋大人の筆頭に發り。並んで寸楮に戲文を述るハ。魯文有人の兩兄が筆端に成れり。此三子當世画作中の三聖にして。所謂酢甞の粋達なれバ流行此画の中に籠り。製巧の美至れり盡せり。時勢粧の案内。是より穿てるハなしとせん。
応需 秋津齋我洲戲述 [印]
亀遊堂 集玉堂 愛錦堂 亀松堂合梓
同朋町を出る唄妓裏河岸を通ふ小唄、細腰の柳橋を渡りて右へ入る川長の楼上、角力甚九ハ櫓太鼓の赤萬が聲にして、すてゝこ踊りハ阿房珎丹が足拍子なるべし。澤瀉鶴かすかに囀り、哥澤の水細く流る。花柳の手振しなやかなる狐さんの腕前、節くれたる共に酒興の景物にて主とするハ當調進なめり。※以下略、〈品川町|万林〉「芳町せい・よし町小糸」、〈東両國|青柳〉「柳ばしつま・同小かつ」、〈甚左エ門町|百尺樓〉「正木屋いく・三よしのふみ」と三十六軒まで続く。
假名垣魯文填詞
以上、甚だ不完全ではあるが、魯文の関わった填詞の概略を紹介してきた。魯文研究にとって大量の逸文が存在していることを示したことになる筈である。此等を調査蒐集することは浜の真砂を数えるようなものかもしれないが、ある程度デジタル化した画像が公開され始めているので、嘗てよりは効率的に調査が可能になってきていると思われる。しかし、浮世絵の場合は填詞者の名前がメタデータとして登録されていないことが多く、一標目づつ見て行かなければならない。画像データを公開する時には、資料に記述されている文字情報は細大漏らさず書誌として付して欲しいものである。
注
▼1.高木元「魯文の売文業」(「国文学研究資料館紀要」第34号、国文学研究資料館、2008)。なお、拙サイトで公開している版では多少増補してある。
▼2.高木元「十九世紀の絵入メディア−錦絵の〈填詞〉をめぐって−」(「國語と國文學」1095号、東京大学国語国文学会、2015・2)
▼3. 現代に於いて「填詞」は楽曲の歌詞を意味するようで、「原文歌詞、中文填詞」という用例を多数見受ける。
▼4.享和2年刊の森羅子著『燈下戯墨玉之枝』という江戸読本がある。また、馬琴が「とるにしも足らぬ燈下の戯墨、或は一時半閑の随筆」(文化12年6月24日黒沢翁麿宛書翰)と記す如く、「燈下」と「戯墨」とは続けて用いられることが多かった。
▼5.切附本とは主として安政期に魯文が主導して創出したジャンルで、すでに出ている読本や実録などの抄出を目的として粗製濫造された。高木元「末期の中本型読本−所謂〈切附本〉について−」(『江戸読本の研究−十九世紀小説様式攷−』、ぺりかん社、1995)参照。また、魯文が仮名垣を使い出すのは万延以降であり、それまでは鈍亭を名告っていた。高木元「鈍亭時代の魯文−切附本をめぐって−」 (「社会文化科学研究」第11号、千葉大学大学院社会文化科学研究科、2005・9)。
▼6.野狐庵は魯文の別号であり、序者の署名下の印に[尚古]とあることから、これも魯文である。つまり他序に見せかけた自序であり、江戸後期の戯作ではよく見掛けた。
▼7.高木元「二代目岳亭の遺業」(「人文社会科学研究」第23号、千葉大大学院人文社会科学研究科、2011・9)参照。拙サイトでは増補版を掲載してある。
▼8.この資料はすでに注2拙稿「十九世紀の絵入メディア」で紹介した。なお、以下の原文は平仮名ばかりなので適宜漢字を宛て原表記は振仮名に残した。振仮名のない漢字と振仮名が括弧に入っているものは原表記。
▼9.この資料も注2拙稿「十九世紀の絵入メディア」で紹介した。