魯文の〈填詞〉


高 木   元 

假名垣魯文の多岐に亙る文業に一瞥を加えた時、〈文学〉などと称することは憚られるような、夥しい〈雑文〉をものしていることに気付く。斯様な魯文の仕事は、文業などと呼ぶより寧ろ売文業というべきかもしれない。だかしかし、それ故に「魯文は、近世と近代とを通貫する十九世紀末期戯作界の様相を典型的に体現した戯作者であった」と位置付けても差し支えないであろう。此処に魯文研究の意義が存すると思われるので、様々なジャンルに広がるその言説を調査し蒐集してきた。

嘗て、魯文が他作者の著作に寄せた序跋類について紹介したことがあるが▼1、本稿では冊子体ではない一枚摺に注目してみたい。ただし、宣伝用チラシである〈引札〉〈報条〉や、絵画に詠歌等を加えた〈画賛〉類に関しては稿を改めるとして、此処では錦絵の〈填詞〉▼2について見ていきたい。尤も、他ジャンルと同様に、全貌を把握するのは著しく困難であるので、取り敢えず知り得た範囲ではあるが、具体例を示しつつ紹介してみよう。

本来填詞てんしという用語は『大漢和辞典』に拠れば「漢詩の一體。樂府から變化した一種の詞曲で、樂府の譜に合はせて字句を填入したもの。宋末に詩餘といひ、明の呉訥及び徐師曾に至つて填詞といふ。一定の圖式により字を填めるからいふ。」とある、また『日本国語大辞典』(第二版)に就けば「中国、古典文学の一ジャンル。唐代に西域からはいった音楽につけてうたった歌詞が文学形式として定着したもの。曲によって句数・字数・平仄ひようそく・韻脚が定まっており、それにあわせて歌詞を填めて作るところからこの名がある。宋代に大流行し、長編の新しい曲も多く生まれ、宋代を代表する文学となった。詞。詩余。長短句。」とある如く、中国に於ける詩文形式の名称であった▼3

さて、我国の近世期における「填詞」という用語は、中国での意味用法とは異なっているので、まずはその用例を追いつつ、文脈に則して「填詞」が意味するところを確認しておこう。残念ながら、初出を詳らかにし得る資料の提示は未だ出来ないが、管見に拠れば山東京山作の江戸読本『国字小説小櫻姫風月竒觀』 (文化6〔1809〕年10月刊)の口絵に、「 [九種曲]\廿載旁觀笑與顰\凡情丗態冩来眞\誰知燈下填詞客\原是詼諧郭舎人\空香女史題」とあり(傍点筆者、以下同断)、また同書巻末の跋文に「京山先醒は京傳先醒の令弟也。彫蟲鼓刀をもて業とし詩を篇画を嗜む。本編填詞の如きは一時游戯の筆にして耳目玩好の書に属し、適口充腹の集には非さるへし。先醒本姓は嵒瀬名凌寒字鐡梅京山と號す。一字驛齋その堂を鐡筆と云。その居を方半と呼その家は江戸日本橋第四街東に折する北巷にあり\詩事 天山老人識」と見えていて、これなどは比較的早い用例かも知れない。いずれにしても、序文の「燈下填詞客」は「燈下に戯作する者」と解せるし▼4、跋文の「本編填詞の如きは一時游戯の筆」とは、つまり「小説の著述などは閑時の筆ずさみ=戯作」と解せられ、文脈から判断して此等の「填詞」は「戯墨=戯作の著述」という意味で用いられていると考えられる。

幕末になると用例は頻出する。魯文の切附本▼5では、『平井権八一代記』の序末に「嘉永七甲寅林鐘稿成談笑諷諫滑稽道場\鈍亭魯文填詞」と見え、野狐菴主人著述『神勇毛谷邑孝義傳しんゆうけやむらかうぎでん』の序では「……草稿さうかうだつすといへどもいまだ序言じよげんなし。ねがはくは填詞てんしせよと、……こはるゝまに/\、其席そのせき談話だんわじよとして、せめふさぐといふことしかり\嘉永七甲寅後名月\夢借舎主人筆記 [尚古]」とある▼6。此処の「填詞」は「攻めを塞ぐ」と言い換えパラフレーズられている如く、依頼された序文を書くという謂だと思われる。

また、鈍亭魯文標記『摘要漢楚軍談後輯てきえうかんそぐんだんこうしう』の序末に「……この一条ひとくだりあげつらふは、後輯こうしう稿かうなり序跋しよばつなきものから、填詞うめくさをものせんとてのわざくれなりかし\于時ときに安政あんせいさん丙辰ひのへたつあき文月ふみづき星合ほしあひ妻戀岱つまごひざか戯作舎けさくしやふでる\談笑だんしやう諷諫ふうかん滑稽こつけい道場だうじやう 鈍亭魯文漫題」とあり、さらに『繪本早學ゑほんはやまなび』初編の叙末にも「……簡端かんたんじよして。填詞うめくさをかいしるすも。所謂いはゆるへびゑがいて。あしそふるすさみそやあらんかし\時維ときにこれ安政四丁巳葉月はつき初旬しよじゆん 毫採于戀岱小説書屋れんたいのせうせつしよをくにふでをとる稗史著作郎はいしちよさらう 鈍亭魯文題」とある。此処でも「填詞」は序文のことを指していて、「埋め草」と振仮名が振ってある。

魯文以外では、出子散人作の合巻▼7天竺徳兵衛蟇夜話 てんぢくとくべゑがまのよばなし(歌川國久画、文久元年)の序にも「……やつかれ短才たんさいもてこの半丁はんてう填詞うめくさハさりとハおし蹲踞つくばつた蝦蟇かえるつらみづおと。いけしやあ/\とのぶるになん\文久元辛酉初冬\忍川の北窓に\山亭秋信」とあり、此処でも序文のことをいっている。

一方、「鈍亭魯文謹述」とする切附本『成田山霊驗記なりたさんれいげんき』の序末には「安政元甲寅晩冬\同二乙卯新春上梓\物の本作者 鈍亭魯文填詞」とあり、鈍亭魯文抄録『國姓爺一代記こくせいやいちだいき』二編の序末にも「……この猛者もさくし美事うまごと衆幼わこさまがたにしらせまほしくて、野末のずへぢゝ懇意まこゝろをしるす事しかり\鈍亭嵜魯文填詞」とある。

さらに、鈍亭魯文鈔録『雙孝美談曽我物語さうかうびだんそがものがたり』の序末にも「……鈔録しやうろくもの老舗しにせとして、こゝ補集まとめる曽我物語そがものがたり、……燈下どうだい暗記くらきいつ小冊せうさつ借宅しやくたく假舎かりやふでる。\安政二卯歳秋新鐫\鈍亭魯文填詞」とある。これらは自作の自序であるから「填詞」は「戯作」の謂であり、特に切附本というジャンルは既刊作の抄録本であるから、「燈火の下に暗記した物語の抄録をする」というのも、きわめて様式的な序文の書式で書かれたものであるが、やはり「著述する」という意味で用いられている。ちなみに、安政三年刊の合巻『當世八犬傳』でも、本文を抄録したことを「鈍亭魯文填詞」としているのである。

以上、安政期における魯文の用例を中心に見てきたが、近世後期に使用されている「填詞」という用語は、依頼された序文を執筆するという行為の卑下謙譲もしくは自己韜晦的な用語として使われ、その意味から派生して戯作の著述自体にも用いられるようになってきたものと考えられる。

ところで、一魁齋芳年の絵本『英雄太平記』(外題「繪本大功記」、外題芳宗画)でも、叙言末に「于時ときに萬延まんえん二ツのとし辛酉かのとのとり睦月むつき下旬げじゆん東都とうと妻戀岱つまこひたい南窓なんさうふんてとり繍像さしゑ填詞てんしするものは鈍亭主人どんていのあるし\假名垣魯文題」とあり、明確に「絵の余白に詞書き」を書くという意味で用いられている。これを踏まえて浮世絵に見られる「填詞」を見ると、『芋喰僧正魚説法いもくひそうじやううをせつぱう(未十二改(安政六年十二月)・一惠齋芳幾戯画・山本平吉版)には長文の「填詞てんし」と題する話が書かれ末尾に「忍川市隠 岳亭春信戲誌」とあるように、やはり「埋め草」として絵の余白に文字を填めるということから、画中の文章を示す用語として「填詞」が用いられている。ただし、近世期における常であるが、「填詞」という用語に統一されていくわけではなく、同様の意味で用いられている「記」「筆記」「酔題」「操觚」「暗記」「賛辞」「誌」「略傳」などという用語も見受けられるが、本稿では、魯文が良く使っていて他の戯作者にも波及し、明治期にまで使用例が及んだ「填詞」という用語を用いて、浮世絵に書かれた一定程度の分量を持つ文字部分を表すことにする。

以下、管見に入った魯文に拠る「填詞」が入った浮世絵を内容に則して例示していくことにする。本来ならば図版と倶に本文を紹介すべきであるが、紙数の関係から、今回は本文(の一部)だけを翻刻しておく。


◆海外風俗 異国を紹介する書は少なからず出されていたが、魯文は『萬國人物圖繪』(中本二冊、芳虎画、文久元年、山田屋庄次郎板)なども手掛けており、同趣の一枚摺をシリーズで出している。

歐羅巴州えうらつぱしう之内 佛蘭西國ふらんすこく (一川芳員画、泉市、[改戌二]文久二年二月 国文研
このくに八十六しうわかその首府しゆふ把理斯はりすなづ舎搦河せうねがはほとりにあり城門じやうもん十七街衢まち/\七百十三あり府内ふないじんえんくしをひきたるごとく百貨もゝのたからそなはらざるものなし戸数いへかず三萬人口にんべつ六十万ことはざいはく佛蘭西ふらんす人民じんみん伊斯把尼いすばにうまごとしとけだそのかず過多あまたなるを称賛しようさんするなり國人こくじん怜悧さかしくよく百事ひやくじ勉強べんきやう婦女をんな貞操ていさうたゞしくて容顔えうがん艶麗えんれいなり
假名垣魯文記\[南京なんきん 

萬國名勝ばんこくめいしやう盡競之内づくしのうち大清南京府市坊たいしんなんきんふのしばう (三枚続、芳虎画、山庄、[改六戌]文久二年六月 国文研

南京なんきん支那から一大いちだいにして當時たうじ清国せいこくわうぞく居城きよじやうたり三方さんぱう海洋かいようのそ城下じやうか巷街まち/\下流ながれをせき諸所しよ/\はしわた市坊しばう商家しやうか數万すまんげん両邊りやうへんむねならはたばんこく商官しやうくわん此所こゝ彼所かしこ居舘きよくわんまうこくさんをひさぎ土産とさんをあがなふこと本朝ほんてうよこはまことならず異人ゐじん海港かいこうふねをよせいづるあればいるありて繁昌はんじやう餘州よしうする〔な〕かつ都下とかへたて柳巷いろ花街ざと一廓いつくわく□□妓女ぎぢよ三千嬋娟せんけんとして錦繍きんしうそでをひるかへし歌舞かぶ艶曲えんぎよく調しら昼夜ちうやたへすべ支那もろこし五十八しやううち南京なんきん男女なんによ形容けいよう艶優えんゆうにして技藝ぎげいにのみこゝろをゆだねはしこともつぱらとなせるにありそは暖地だんちはんくわ国風こくふうによるところなりとぞ
萬國ばんこくばなしの作者 假名垣魯文譯誌◇ 

外國人盡\亜墨利加人あめりかじん (芳虎画、芝若与、[改酉二]万延二年二月) 国文研

洲中しゆうちう一部いちぶ國名こくめい共和きやうわ政治せいぢしうまた合衆國かつしゆうこくごう近來ちかごろ版圖りやうぶんます/\くははり三十六州にいたる都府みやこ華盛頓わしんとんといふ萬國ばんこく往還わうくはんしてもつぱ貿易ほうえきさかんにし通商つうしやう家産かさんとす
魯文記 

亜米利加婦人あめりかじん (芳虎画、芝若与、[改酉二]万延二年二月 近森文庫

此國このくにもと歐邏巴人えうらつぱじんひらけるなりこう大抵たいてい本朝ほんてうおなきたしん英吉利いぎりすせつみなみ墨是可めきしこにいたりその東西とうざい大洋たいようのぞめりそのくに海港みなとカリホルニヤよりふねいだ萬國ばんこく往還わうくはん通商つうしようもつ家産かさんとす
假名垣魯文記 

外國人盡\英吉利人いぎりすじん (芳虎画、芝若与、[改酉二]万延二年二月 国文研

くに總称そうしよう大貌利だいふり太泥亜たにあと云わかちて五十二しうとすうちに六十二の諸侯しよこうあり都府みやこ龍動らんどんといふ四達よつのみちさかんにして數所すうしよ互市場かうえきばきはめて繁盛はんせいなり府中ふちう大河たいが摸斯河てうむすがは奇巧きこうはしわたせりながさ百八十ぢやうはゞ四丈ありといふ
假名垣魯文記 


◆諷刺戯画芋喰僧正魚説法いもくひそうじやううをせつはう(芳幾戯画、山本平吉、安政六年十二月改) などは、蛸が大量に捕れ江戸市中に出回った際にだされたようであるが▼8この種の錦絵も少なくない。異様に文字が多いのが特徴か。

心学身之要慎しんがくみのえうぢん (大判三枚続、一惠斎芳幾戲墨、慶応期 IRCJS
三略さんりやくいわくてんときにあり地の理ハ人のくわに しかずとむべなるかなされば 心学しんがくをしへにも 家内かない和合わがう福神ふくじん祭祀まつりといへれのう工商かうしやう よつたみおの/\職役しよくやく活業よわたりあるは てん地のあひだうまれしやくにて すなはち天地の奉公はうかうなり 五たい壺中こちうの 小天地なるがゆゑつくにくにも職役しよくやく あるハこれに天地の奉公はうかう なりかしだいかほしゆうおやごとく手あし兄弟きやうだいの如しはら親類しんるゐにたとふ しかれバ五たい和合わがうせざれば不具ふぐ廃人はいじんと なれるになんこゝに一ッの話説はなしあり

目の曰
コウみんなまへいつちや目にかどたつて目やみ味噌みそあげるやうだがおよ身体からだうち己等おいらほど重宝ていほうなものハありやすめへ。はやいことがいゝハサハテむかしから己等おいらを日月にたとへてありやす。本当ほんのことだが己等おいら一切いつさい万物ばんもつおもことも面黒おもくろいものも見ること出来できやすめ。それだからよろこぶことを目出度でたい。だれたとおもアヽつがもね

口の曰
モシみなさんはゞかなが慮外りよげへながわちきふことをしづかにしてきゝなはい。野暮やぼやつたとへにくちわざはひのかどしたわざはひの根だとか葉だとかぬかしたのホンノをか焼餅やきもち甚助ぢんすけだよ。くちひろいことをふのぢやありませんがわたしハイいのちつなぐこと出来できません。うま不味まづいの五味(ご み)あぢすいあまいも噛分かみわけてもつれたことをさばくもくち。それをなんのと悪口わるくちいはれるとくち年貢ねんぐいらないから此方こつちでもしやべりつけるりますハネ。べちやくちや/\/\/\アヽ気怠けつたるつてた。

耳の曰
みなさんの御話おはなし一々いち/\聞分きゝわけて見ましたがそれ所謂いはゆる水掛論みづかけろん唐土もろこし(らう)子とかいふ変人へんじんいつたに大声(だいせい)里耳(り じ)らずトサ。しかし雅俗(がぞく)ともに善ぜん惡あくときゝわけるがわつちやく金言きんげん(みゝ)さかふといひますがみゝあなかつ穿ぽぢつてときにやァ又みみりなことにきます。兎角とかく耳糞みゝくそたまらねへやう用心ようじんしてれさへすれからぬこと御座ござりやせんハサ

鼻の曰
はなは失礼しつれいな申ぶん御座居こざいますかわたくし大山たいさんたとへられて面部(めん)ぶ うちでハ一座いちざ座頭ざがしら自慢じまんわたし持前もちめへだが満更まんざらみゝとつはなつけるやうな御託ごたくげやせん。しかしわたしがなけりやァ柴舟しばぶね蘭奢待らんじやたい伽羅きやら麝香じやかう嗅分かぎわけ理屈りくつにやァまゐりやせん。それだから世のたとへにも一番いつちさきでることを鼻駆はながけだの鼻腹はなばらなぞと申やす。天狗てんぐじやァねへがこりやァ真似まね御座ごぜめへ。

足の曰
「これ/\ 目のよるところへ玉でもよるかとおもつたら口広くちひろしやべりだてみみやかましくつてはなもちがならねへ。御前おまへがたよくきかつせへ。みんなようあるものゝしつようなきものゝ理屈りくつしらねへからはなせねへ。それ有用(うよう)(む)用の道具だうぐでござる。そも/\大地をふむを見よ。おのれふむところ(う)用にしてふまざるところ(む)用ならずや。その無用なるところ余人(よじん)これをふむべし。各自おのれ/\勝手かつてのみをしつ(あし)難儀なんぎをさつぱりしらず。又わざはくちよりおこる。みみ淫声(いんせい)きいけがれをさとらず五(よく)煩悩ぼんなうきざはな香氣(かうき)かいついゑいとはず。かほハすなはち目口の置所おきどころなり。もしひとつにても居所ゐどころちがへばこれ片輪かたわそしるべし。見ききぐもあぢはふもこのあしなくてかなふまじ。汝等なんぢらくちやしなふも手に具足ぐそくするあしあつてこゝろほつするところゆく自由じゆうたりるとしらざるか。それゆゑたりぬを不足(ふそく)あまるを(たり)るとふならずや。まだ/\沢山たくさんふことあり。コレヤイだまなんぢ逆上のぼせわずらときヤレきさげよ三よとあしやいと何事なにごとぞ。くち飲酒酔狂(いんしゆすいきやう)挙句あげくはて我等われらにあたり傘灸からかさぎうくるしみ如何いかばかりとおもひやれ。そのうへだまがぐらつくゆゑあし我等われらどぶはままた昼中ひるなかいぬくそときおの粗相そさうりをらずあしけがれをかぞへたてヤレきたねへのどうだのと他人たにんのやうにぬかしをる。汝等わいらがおごるそのときあし何時いつでもしりかれしびれきれるがまうけとあんまなさけなからういはれてかほ真赤まツかい面目めんぼくげにきゝみみつぶはなあたまあせたら%\一(く)いで閉口(へいこう)/\。
物の本作者 假名垣魯文戯誌\一惠斎芳幾戲画


◆見世物 「舶來大象圖はくらいたいさうのづ(大判一枚、一龍斎芳豊画、[亥二改]文久三年二月、藤岡屋慶次郎)は「天竺てんぢく馬爾加まるかこくヒツーベルケンさんふもと大原野だいげんのしやうするところうまれてより三さい女象めざうなり\于時文久癸亥三月上旬より西兩國廣小路に於て奉入御覧に候\魯文。象潟やむかしを今の朧月」とあるが、興行宣伝のために使用されたのかもしれない。引札や報条との区別が微妙であるが、「大曲馬」のごとく興行の内容を詳説してあれば後日の記録のために作成されたものであると判断できる。

中天竺馬爾加國出生ちうてんぢくばるかこくしゆつしやう新渡舶來大象之圖しんとはくらいだいぞうのづ (假名垣魯文、一龍齋芳豊画、[改亥二]文久二年二月、藤慶梓、彫長) ADMT

来ル三月上旬より\西両國廣小路に於\て興行仕候
それざう獣類じうるい君主くんしにして行状おこないさながら人林じんりんおよばす。ふしとらおき清浄きよきしよくして紅塵かうぢんをいとへり。支那しな大国たいこくなるもそのしやうぜず。支那しなびとそのかたちにてみるのみ。かるがゆへ漢土かんどにハざうなづく。一身いつしん運動うんどうはなにあり。總體そうたい力量ちからそびらとゞまる。一度ひとたびこのれいじうを見るものハ、七難しちなん即滅そくめつ七福しちふくしやうず。看官かんくわんまげ竒々きゝとして拍掌はくしやうすべし。
「大象の鼻にかけてはほのめかす\濁らぬ江戸の水の味ひ」
假名垣魯文

中天竺舶來大象之圖ちうてんぢくはくらいだいさうのづ (大判竪絵一枚、假名垣魯文賛、一龍齋芳豊画、[改亥二]文久三年二月、藤岡屋慶次郎板) ADMT

亞細亞洲あぢあしう天竺てんぢく馬爾加ばるかこく出生しゆつせう。生じてよりわづかに三歳。形象かたちたい山のごとくはなかけはしたり。總身そうしん黒色こくしよくほねふとにくこへまへあしつめ鼈甲べつかうひとしく後足うしろあしつめ石のごとし。けんみゝふくろをかけたるごとし。
于時ときに文久三癸亥弥生やよい上旬、西両国廣小路しろこうじにおゐて観物場くわんぶつじやうひらき、諸人しよにん目前もくぜん一見いつけんあらたにすることゝハなりぬ。
「姫氏國の毛綱につなく大象は\うこかぬ御代のためしとそなる」
假名垣魯文賛

佛蘭西 大曲馬 CROUE SOUEIE (大錦三枚続、仮名垣魯文記、朝香楼芳春画、[改未十一]明治四年十一月、木屋宗次郎板) ADMT

佛國ふらんす曲馬きよくば「スヱリ」と云るハ積年せきねん六十二さい肥満ひまん勇壮ゆうそう老人らうしんにして、馬術ばしゆつ曲乗きよくのりわさに於けるや、五大洲たいしう雷鳴らいめいとゝろき、世界せかい第一としやうするに足べき名誉めいよ稀代きたい人物じんぶつなり。子弟していいづれも熟煉しゆくれんせざるハなく、衆目しゆうもくおどろかすが中に、むすめ、スリヱ曲馬きよくば早業はやわざ千古せんこ未發みはつけいじつに、神仙しんせんちうひとなる
假名垣魯文記

○スリヱ大きなる馬を自在(じざい)につかひ、馬その言葉ことばおうじて、あるひハよこ(ね)、又ハひざかゞめ、はやけりしづかにあゆみ、かくしたる物を嗅付かぎつけてその在処ありかる也。\三ッまりを両の手にて使つかひわけ、うま背中せなかにて拍子ひやうしをとるなり。\ならびてかける二ひきの馬に彼方此方あちこちうつりて、ぬのをあやどり様々さま%\の曲をなして、のちにわざごとあり」
三びきのかけをはしりながら、一人ハ途中とちうにて一人のかたひ付、図のごとくしてはしること、かはる%\なり。これなスリヱ門人の曲にして目を驚せり。\二ひきならびてり、一人ハ馬上にて宙返ちうがへりをなし、いま一人のまたくゞ早業はやわざ。\スリヱのむすめ、馬の横腹よこはらり、板子いたごへ輪をくゝりて馬のえんをはなれる名曲。\馬の後方しりへこしけ、あるひハよこになり、又ハうつぶしながら輪のり早業はやわざ筋斗もんどりをきり楽屋がくやはいる。\うま背中せなか鯱立しやちほこだちとなり、かけをおひ、あるひハとんぼがへりをして、つゝち、又ハ片足かたあしにてかけをおびながらよこになり、仰向あほむきうつぶしとなりてきよくつくす。」
スリヱの門人軽業かるわざの一曲、高サ五丈余の上なるふさよりさがり、身をそらして彼方あなたさがりたる撞木しゆもくくこと、ましらずゑをつたふよりもすみやか也。\スリヱの弟子でし三人、梯子はしごよりさがり、一人ハ手足を(づ)のごとくそらして左の一人の身体からだき、両人からみてぶらさが軽業かるわざのはやごと、見物けんぶつきもさむからしむ。\スリヱ氏大馬にまたかりながら身を輪にして馬上に筋斗もんどりをきること屡々しば/\首尾しゆびまとひてのはなわざ、馬のはなるゝこと五丈余なり。」

◆鯰絵 「老まづ」が魯文の手になるものであることが野崎左文『仮名反古』に記されており、北原糸子『地震の社会史』(講談社学術文庫、2000。初出は1983年『安政大地震と民衆』)では、他の魯文作という鯰絵と共に紹介されている。また、宮田登・高田衛監修『鯰絵』(里文出版、1995)に所収されている「鯰絵総目録」では、これらの鯰絵が図版とともに翻刻されている。しかし、鯰絵は〈際物〉であるが故に作者や画工名も板元も記されていないのが一般的であり、魯文の手になるものが多数在ると言われつつも考証は困難をきわめ進捗していないが、先行研究に拠って掲出しておく。 安政の大地震直後に出されたと思しき仮綴じの小冊子の方では、三田村鳶魚氏が「大道散人」という魯文の戯名を指摘している。鯰絵に見える「地震亭念魚」などと云う戯号も魯文かと思われる。

「老まづ」\常磐壽無事大夫直傳

「そも/\なまづれたること、盤石ばんしやくされ、諸々八方のわざは数千人(すせんにん)の見ごりをなして、古今(こゝん)うれひをす。しゆんの時候(じこう)いかりのときてんにはかにくもり、大地しきりにりしかバ、くらかべふせがんと、小やぶかげりたまふ。此おり町々まち/\廃屋はいほくとなり、根太ねだり戸をかさね、おのが軒端のきばふさぎて、そのはりをもたささりしかハ、むざと最期さいご入寂(にうじやく)のおはり、無駄むだ(し)たまひしより、なまづをあやふと申とかや、かやうにすでかき間違(まちがひ)に身をたみうれひをバ、きみなさけでおすくひの、(こめ)五合(ごんかふ)古壁ふるかべのほこりたへせぬ天変(てんへん)(ち)ごく、どう/\/\と、みくらのつちに、たるゝものこそせつなけれ」
安政二乙卯年十月二日\新吉原仮宅場所付「浅草之分\一 東仲町\西 同\花川戸丁\山の宿\聖天町\目瓦丁\山谷丁\今戸丁\馬道\田町\深川仲町」「深川\一 永代寺門前仲丁\同 東仲丁\山本丁佃丁\松村丁\八幡御旅所門前丁\続御舟蔵前丁\八郎兵衛屋敷\松井丁\入江丁\長岡丁\陸尺屋敷\時ノ鐘屋敷\常ハ丁」
げい者「おめにかけます軽わざハ野中の一本すぎてござります」\なまず「七分三分のかね合/\」

〈{あめにハ|こま〔ます〕野宿のじゆく しばらくの外寝そとね 市中三畳\自作

東医とうい南蛮なんばんほねつぎ外料ぐはいりやう日々あら/\はつこう地震ぢしん出火しゆつくはのそのあいだに、けがをなさゞるものあらんや。かずかぎりなきなかちやうまづ吉原よしはらずい市川いちかは、つぶれしいへあらごとに、たちまち火事くはじおほ太刀だちハ、つよくあたりししんのすぢぐま日本堤にほんづゝみのわれさきと、ころびつおきつかけゑぼし、きやつ/\とさは猿若さるわか町、芝居しばゐやけ去年こぞ二度にどかさ〓菱つるびしまたはいを、かき素袍そほういづれもさま、なんとはやひじや厶りませぬか、じつ今度こんどたいへんハ、うそじや厶らぬ本所ほんじやう深川ふかがははなし築地つきぢしばやままるうちから小川をがはまち見渡みわた焼場やけばあかッら、太刀たちしたならぬ梁下はりしたに、ふたゝしかれぬそのために、まかいでたるそれがしハ、鹿嶋かしまだい神宮じんぐう身内みうちにて、盤石ばんじやく太郎いしずへ、けふ手始てはじめになまづをバ、要石かなめいしにておさへし上ハ、五重ごぢうとうりんハおろか、一厘いちりんたり共うごかさぬ、たれだとおもふヤヽつがも内證ないしよ立退たちのきげいしや燗酒かんざけやけたつぶれたそのなかで、いろかいの繁昌はんじやうハ、うごかぬ御代みよ御惠おんめぐみ、ありが太鼓たいこかねおとたへぬ二日の大せがき、ホヽつらなつて坊主ぼうず


家苦やくはらひ

アヽラ うるさいな/\。こんばんこよひの雨風あめかぜに、いへくらどうしやおしなべて、まちもやしきも、おにかはら家根やねいたまでもさらひませう。きよねんのやくのなまづめが、一周忌いつしうきにハはやてかぜ、八月すへの五日いつか、はやのきなみそろふ家々いへ/\も、きのふの無事ぶじハけふの苦と、かはるもはやき飛鳥川あすかがはおか淵瀬ふちせ大出水おほでみづ、かぜハおそれいりまめの、さて/\ふくハふくハうち□□おかどをながむれバ、そらに戸板といた舞上まひあがり、平地ひらちいけとなるかみに、なみだあめみづまして、ながるゝふねたけいかだ、ながいものにハまきはしら、たちよるかげの大木たいぼくも、から折口おりくち死出しで山寺やまでらに、はかなきおりからに、このやくはらひがとんで出、ふくろの中へさらり/\。
風雷散人戯述 [印](丸に三つ巴)


◆死絵 「三代歌川豊国 死絵」(大判二枚続、一鶯齋國周、[改子十二]元治元年十二月、松嶋彫政、錦昇堂板)は元治元年十二月十五日に歿した三代豊国の追悼のために出されたものであるが、伝記事項を含む長文の「填詞」が付されており絵師の死絵としては破格であろう▼9。魯文は「今年こんねんくれて今年の再來さいらいなく古人こじんさつて古人に再會さいくわいなし\哥川うたがは水原みなかみかれ流行りうかう半月はんげつへんずべし\水莖の跡ハとめても年波の寄せて帰らぬ名殘とそなる\應畧傳悼賛需\戯作者假名垣魯文誌」と追悼の賛を書いている。
一般的に「死絵」は歌舞伎役者の追悼として出されたものが多い。似顔で描かれ辞世や追悼の詩句が入れられているものが多く、「填詞」が入っているものは少ないと思われる。

◆実録講談 講釈師が読んだ剣豪の実録などの粗筋を紹介するものである。揃物が多かったと思われるが、大揃いで何枚になるか不明なものが多い。たとえば、『英名二十八衆句』 (芳幾・芳年画、錦盛堂、慶応二年十二月改)は二十八枚組の最初に「目録」が附され、上に「勝間源五兵衛」以下「濱島正兵衛」まで二十八人が上げられ、下に「繍像略傳」の担当者として順に「假名垣魯文・岳亭定岡・山々亭有人・爲永春水、瀬川如皐・河竹其水、一葉舎甘阿・巴月庵紫玉・井雙菴笑魯・可志香以」が並べられ、「傭書 松阿弥交來」「彫工 清水柳三」「慶応三丁卯秋\梓客 錦盛堂」とある。

東錦浮世稿談 三好屋魯山 (「一魁齋芳年筆」) 国文研
これこの一個いつこ大剛だいがう勇士ゆうし父兄ふけいあたをむくはんと、廻國くわいこく修行しゆぎやうの武者わらぢ、ひまゆく駒の足がきをはやめ、光陰くわういんすでに古郷ふるさととほきかのみちのくの二本松に、はからずうけまがつみの、つみならぬ身を言觧いひとけども、とくによしなきいましめのなはひきちぎり、獄舎ひとやをやぶりてつひに天日を見る時を得たり。
填詞 かな垣魯文記
岩見重太郎包輔

東錦浮世稿談あつまのはなうきよかうだん 伊東凌西 (「一魁齋芳年、[辰二改]明治元年二月 国文研
きつね千歳せんさい美女びぢよすと唐土もろこししよへたれど、五百歳こひやくさいをたもちて美童ひとうすの正説しやうせつなし。うそまことかしらぬ筑紫つくし壮士さうし宮本みやもとうし妖狐えうこ試合しあい竒々きゝ怪々くはい/\虚々実々きよ/\しつ/\談〓たんへい凌西りやうさいせい舌頭せつとうよりかうするところ名話めいわにしていと面白をもしろきハはく面のきつねけるゆへなりしか。
填詞 假名垣魯文記
「宮本無三四正名」「妖狐の怪」

講談一席話かうだんいつせきわ 邑井貞吉 (大判、松雪斎銀光筆、「淺尾之局 尾上菊五郎」、渡辺彫栄、具足屋嘉兵衛) 都中央
善惡両面加々見のうら梅芳き名に似すやらで残忍さんにん非道に組せし女夜刄奸どくたちまむくひハ覿てきいましめのみか青蛇くちなは苛責かしやく苦痛くつうの七てん八倒すねにきづもつ小笹原千里をはしる惡事の條々浅きたくみの尾をあらはしてハ妖狐えうこかわはがるゝに至れり
魯文述

於下總國笠河原竸力井岡豪傑等大闘争圖しもふさのくにかさかはらにおゐてけいりきゐおかのがうけつらおほけんくはのづ (芳虎畫、子二改 元治元年、伊勢兼、彫長・松嶋彫大・片田彫長) ルーアン美術館

近世水滸傳
異朝もろこし大宋たいそうとき洪信こうしん伏魔ふくま殿でんあばきて、百八の豪傑がうけつあらはれ、そうの天下をさわがせし小説せうせつハ、けん羅貫中らかんちう水滸傳すゐこでん著明いちしるし。我朝わがてういつのころにやありけん、下總國しもふさのくに笠河原かさかわらといへるに、其頃そのころ有名いうめい侠客けうかく竸力けいりき富五郎とみごらうといへる者、親分おやぶん笠川かさがわ髭造しけそうあだとしねらふ、井岡ゐおかさと侠首けうしゆ捨五郎すてごらう出會しゆつくわいし、かたみ子分こぶんおとゝ分ととなふる者数人すにんしたがへ、泰山たいさんおもきし、めい鴻毛こうもうかろきにたくらべ、はぢり名をおしみ、双方さうはう一足も退しりぞかず、ながれて河原をひたし、かばねつんで山をなし、さけぶこゑ、天にひゞき、つるぎおと、地をふるふ。そが中に、武者修行むしやしゆぎやう浪士らうし平手ひらて壹岐いきといへる者、身たけ六尺有余いうよ、劔道司馬しば秀胤ひでたねの門人にして、出ぼつ自在じざい奥儀おうぎきはめ、當世たうせい不思儀ふしぎの名人なりしか、此人にしてこのやまいあり。平生へいぜいへきあしかりけれバ、勘氣かんきをうけて浪々らう/\し、下總千歳せんざいの里なる竸力が食客しよくかくなつて在けるが、この闘争けんくわのおり、ずい一の竸力方にて、井岡の夛勢たぜいと手いたくたゝかひ、ついに多勢のため討死うちじにをぞとげたりける。竸力けいりき方も数多の井岡ゐおか勢とたゝかふて、すて五郎を見うしなひ、つい夲意ほんゐとげずといへども、後世こうせいにとゝめたり。
概畧  假名垣魯文記 

「笹川勢」「ましらの源治」「篠嵜の政吉」「平手壹岐」\「水島破門」「成田の新藏」「浪切重三」「竸力富治郎」\「清瀧佐七」「神樂獅子雷八」「地引の虎松」「なだれの岩松」「桐島辰五郎」「提緒の猪之助」「井岡捨五郎」

画工一魁齋くはこうはいつくわいさい名目一對競めうもくのいつゝいくらべ美勇水滸傳びゆうすいこでん (中錦五十番続、一魁齋芳年画、假名垣魯文記、[卯八改]慶応三年八月、亀遊堂壽梓)

  龍 宮 炎出見命
  龍 種 竜王太郎
  時 代 黒雲皇子  横 行 赤松重太丸  梅 容 夢野蝶吉
  世 話 白木駒吉  飛 行 姫松力之助  柳 髪 女勘助
  旧 館 滝夜刄姫  桟 橋 木曾義仲  二 郎 大原武松
  旧 鼠 清水冠者  虹ノ橋 尾形児雷也  二 刀 宮本武蔵
  仁 王 金神長五郎  残 刄 蝦蟇九郎  箱 根 高木虎之助
  不 動 倶利加羅釼五郎  虎 狼 大蛇丸  山ノ井 六木杉之助
  良 門 相馬太郎  勇 善 鳥山秋作  強 力 明石志賀之助
  鬼 門 稲葉太郎  美 惡 青柳春之助  強 勇 大島丹蔵

画工一魁齋くはこうはいつくわいさい名目一對競めうもくのいつゝいくらべ美勇水滸傳びゆうすいこでん 〈惣|揃〉 〈一魁齋芳年画|亀遊堂壽梓〉   中錦五十番續

  金 猫 瑳峩の大領  東 奥 松ヶ枝関之助  怪 力 神洞小二郎
  金 鈴 魔陀羅丸  北 雪 藤波由縁之助  怪 傳 木鼠小法師
  江ノ島 白菊丸  矢 武 勇婦綱手  不 人 姐妃のお百
  大 嶋 白縫姫  弓 張 勇妻八代  不 二 三國太郎
  侫 士 仁木弁之助  天 麗 大友若菜姫  良 将 里見義成
  勇 士 高木午之助  天 狗 小僧霧太郎  良 士 牛若三郎
  妖 狸 犬江親兵衛  駿 河 宇治常悦  美 少 末珠之助
  野 猪 犬田小文吾  駿 馬 犬山道節  美 性 尾ノ虎王丸

  假名垣魯文記

玄治店げんやだな画漢中ぐハかんちう水滸すいこ一百いつひやく八個はちにん画巧ゑがきて。画中ぐハちう豪傑がうけつ称誉たゝへられしも。天岡てんかう地〓ちさつ星霜せいさうひさしく。繪櫃ゑびつ石碣せきかつ堅固かたくとざして。再度ふたゝびひら洪信こうしんなきを。一魁齋いつくはいさい芳年よしとし教頭きやうとう單身ひとりゆうもん末坐すへいでて。師風しふう奪體ばつたい換骨くわんこつし。梓客はんもと應需もとめにおうじ義勇ぎゆう 善惡ぜんあく好漢かうかん麗婦れいふ容像かたち画成なすこと五十ごじういん題号なづけ美勇びゆう水滸傳すいこでん嗚呼あゝ大哥うしかう架空むなしからす 芳梅はうはい未春みしゆん諸木しよぼくさきがけたとへ 金聖嘆きんせいたん繪難坊ゑなんほうふく魔殿まてんあな鑿索うかち佳不佳よしあし批評ひひやうありとも水滸すいこひい稗官者流はいくわんしやりうが。當世とうせい二代にたい画勇子くはゆうじと。ホヽ請證うけあつまうす。
假名垣魯文題 

炎出見命
炎出見尊ほでみのみことあに釣針つりばりを かり給ひ、海辺うみべつりをたれ たまひ、ついうしなひ、兄のいかり はなはだしきゆへ、あかめだいに り、はりたづねんとして龍宮りうぐういたり、思はず豊玉姫とよたまひめちぎり于珠うんじゆ満珠まんじゆの二ッを給ふ。

※以下略

〔将門〕 (大判二枚続、改印 [午十]安政五年十月、芳虎画)  都中央

相馬さうま小次郎こじらう将門まさかと比叡山ひえいさん伊豫掾いよのぜう純友すみともともに、へい安城あんじやうおろして、四海しかい平呑へいどん逆意ぎやくいくはだて、たゞち東國とうごく走下はせくだり、下総國しもふさのくに猿嶋郡さるしまこほり廣山ひろやま内裏だいりたて一門いちもん従類じふるい高官かうくわんさづけ、みづかしんくわうていがうし、もつは叛企むほんいろあらはし、まづ軍陣くんじん手初てはじめに、ひたちの大掾だいぜう国香くにかほろぼし、逆位ぎやくゐあさひのぼるがごとく、空行そらゆくかり面前まのあたりおち忽地たちまちせりといへり。
鈔録一家 鈍亭魯文記 


◆役者芝居 役者絵は浮世絵において中心的な題材だといえるが、役者名や狂言の外題だけではなく、台詞や長文の「填詞」が入っているものも少なくない。『源氏雲浮世画合げんじくも うきよゑあはせ(一勇齋國芳画、伊勢市板、弘化三、五十四枚揃)は、各巻に則して巻中歌を色紙風に記した下に、芝居の登場人物を一部役者似顔を用いて描き、説明文の最後に「填詞 花笠外史」などとある。これらは揃物としてシリーズ化されているものが多いが、一部分だけを掲出しておく。

美伊達みたて五節句ごせつく花方揃侠気名弘わかてぞろひいきぢのなびろめ 一名ほめことば (大判五枚組、豊國筆、假名垣魯文讃詞、[亥九改]文久三年九月、錦昇堂) 都中央

新玉あらたまの|春五郎はるごらう〉 坂東彦三郎 〈音羽屋|薪 水〉

定紋ぢやうもんつるハ。青陽せいやうそらのし藝頭げいとう評判ひやうばん三都みつやぐらほとんどたかし。幼遊おさなあそびいかのぼりに。九字くじびし骨組ほねぐみよく。あが出世しゆつせ位附くらいづけ立身りつしん大吉だいきち門松かどまつの。竹三たけさとよびしも昨日きのふとくれ。今朝けさ新玉あらたまはる五郎。まだ年玉としだま若水わかみづの。元日ぐわんじつ二日ふつか三坐さんざ稀物まれものかの刈萱かるかややまだんにハ。名誉ほまれ高野たかのおくをきはめ。くみやしつらん玉川たまがはに。古人こじん紀伊國きのくにのおもがけをよくもうつせし鏡山かゞみやま尾上をのへにからむいはふぢハ。草履ざうり手煉しゆれんたしかにこたへ。小田をだ種蒔たねまく春永はるなが長閑のどけわざをみどりの松永まつなが。大入せる大膳だいせんの。いきほひりようのぼるがごとく。實盛さねもりがものがたりにハ。弁舌べんぜつ布引ぬのびきたきてよどまず道風たうふう蛙場かはづばには。青柳あをやぎのすゞりのふかきをさぐれり。これをあをげバいよ/\たかき。銀杏いてう花菱はなびしはなばしら仁木につき弾正だんじやうがせりしは。高麗こま唐土もろこしにきこえたる。甘輝かんき稀代きたい秘術ひじゆつをあらはし わがもと神風かみかぜや。福岡ふくをかみつぎの十人ぎり。こハふるいちのふるきをしたひし 二見ふたみがうらの俳優わざおぎ伊勢いせ音頭おんど音羽屋おとはやにひゞきわたりし坂東ばんどう武者むしや加役かやく若女形おやま大将軍たいしやうぐん諸藝しよげい兼備けんび座頭ざがしら。かぶこぞつ旦那だんな侠客たてしゆ花方はなかたみぎひだりもきゝもの/\。
江戸前の戯作者 假名垣魯文讃詞 


※以下、弥生やよひの|雛太郎ひなたらう中村芝翫 成駒屋、 幟鯉のぼりこひの|鐘吉しやうきち河原崎権十郎 〈山崎屋|三升〉、 ふたぼしの|みつ吉〉 沢村田之助 〈紀伊國屋|曙山〉、菊重きくがさねの|陽三やうざう 市村羽左衛門 〈立花屋|家橘〉。

近世水滸傳きんせいすゐこでん (大錦繪三十六番續、豊国画、[戌九改]万延二年九月、伊勢兼)

湯灌場ゆくわんば 小僧こぞう 吉三 市村竹之丞 吉三きちさつぶて浄圓寺じやうゑんし門番もんばん吉平きちへいせかれにして幼稚いとけなきより膽太きもふといまだ前髪まへがみたちよりしてかけふけ悪事あくじにさかしき曲者くせものなりこゝ當時たうじ小姓こしやうもり左門さもんといへるものすこふる文がくありてこと無双ぶそう美男びなんなれバ檀家だんかの中なる八百屋久兵衛きうべゑむすめ於七といへる美女びぢよこの左門をふか戀慕れんぼひそかに吉三を仲立として艶書えんじよおくつい階老かいらうちぎりをむすべるをちゝ久兵衛これをすゐし娘をとゞめて浄円寺にまうづことゆるさゞれバ於七おもひにあこがるゝをりから吉三きたりて於七にいふやうおん身さまてに左門ぬしにあはんことを思召おほしめし給ハゝはな出火しゆつくわまきれに浄円寺におもむき給へと言葉ことはたくみにしめすにぞおぼここゝろの一すちに吉三がをしへしまに/\しけれバ吉三出火しゆつくわさいはひに金銀財宝さいほう若干そくばくぬすみとりし事たちまち露顕あらはれ官府くわんふにひかれ於七とともに火あふりの罪科さいくわしよせられしかバ後人こうしん於七吉三郎とつゐせしうき名をにうたひぬ
畧傳史 假名垣魯文記 

※以下略。

蜘絲錦白縫くものいとにしきのしらぬひ

義婦|雄浪岩井紫若 (國周画、本、片田彫長、[改子八]元治元年八月 国文研

長門國ながとのくに竹嵜たけさきちか堀江ほりえ漁夫ぎよふ櫓作ろさくむすめ也。心操こゝろばへひとすぐれ、兩親ふたおや孝心かうしんふかく、そのとし三十みそじ近付ちかづくまて他人ひとすゝむどもをつともたず。老父らうふはごくまんがために、おきいでつりをたれ、うをとりては市にうり或時あるときハ人にやとは磯山いそやまゆき焚木たきゞこるに、うまて力つよく、男も及ぬはたらきせり。あるいさき川にすなどりせしあみうちに、ちゝ恩人おんじん雪岡ゆきをか夛太夫たゞいふむすめ照葉てりはを引上て家にともなひ、其來由をとひけるに、照葉ハなく/\兄冬次郎が横死わうしのことより、おとゝ力松ととも家來けらい村岡むらをか真平しんへい便たよりて、はる%\と長門路なかとちわたり來て、惡者わるものために力松がゆくへをうしなひ、その身はいさぎ川の土橋とばしより落入おちいりしこと、しか%\とかたるに、恩家おんか退轉たいてんを、櫓作ろさく親子おやこハうちなげき、てりはをいたはりかくまひける。かくて櫓作病死ひやうしのち雄浪をなみがはら水棹みさほあに無理むり右エ門ゑもんそのせがれ牙八きばはちためあだせられ、水棹みさほは兄をうつ深疵ふかでし、雄波をなみ従兄いとこ牙八を討とりて、照葉てりはともなひ國をり、出雲國いづものくに琴彈山ことひきやまなる露月尼ろげつにいほりおもむき、しばらくこゝに身をかくせしが、また三賊さんぞくの爲にしもだい厄難やくなんかふむりて、大力たいりき無双ふさう義婦きふ雄波も、鶏矇眼とりめの病に賊手そくしゆにかゝり、墓場はかばのつゆとぞきえにける。
假名垣魯文抄録 

※以下、〈鳥山|犬千代〉中村芝翫、 〈亀谷|多門之助〉沢村訥舛、 〈菊池|貞行〉中村福助、 〈玄海|灘右エ門〉河原崎権十郎、 〈大友|若菜姫〉沢村田之助、 〈滝川|小文治〉市川九蔵、 〈雪岡|力松〉坂東三津五郎、 〈漁師|春吉〉市川家橘、 〈雪岡|冬次郎〉坂東彦三郎までは確認している。


◆料亭芸者

〈春色|今様〉三十六會席 (山々亭有人・假名垣魯文 戲述 一〓斎芳幾筆 [巳四改]明治二年四月 高知市民図

山谷八百膳/深川平清/木挽町醉月/千束田川屋/代地川長/今戸大七/同有明樓/芝車家/坂本町錦語樓/本街小櫻/山谷八百半/築地青柳/平松町魚仙。 品川町萬林/深川山松茂堂/両ごく青柳/柳ばし梅川/下谷松源/甚左衞門町百尺/おなじく豊田屋/高砂町万千/柳島はし本/金春三のへ/橋場川口/深川福安。 しば大もん宝治/王子ゑびや/おなじくあふぎ屋/淺草廣小路壽仙楼/木母寺うゑはん/よし原京まち金子/同江戸町海老長/きはら店千歳楼/代地ともへや/厩ばし昇月/高輪萬清
はなさかりに月ハくまなきを春秋しゆんじう長きをたのしむは東京とうけい餘澤よたくにして。九夏きうか炎暑あつさ兩国りやうごく橋間はしま隅田川すみだがは中洲なかずにながし。玄冬げんとう素雪そせつ巨燵こたつぶとんにながめて。家根舟やねぶねすだれをかゝぐ四時しいじ觀樂くわんらく。そのしゆとするハしよくにあり。されバ割煮れうりつう通家つうかえらみて。これ祥瑞しやうずい歌妓うつわそゆるは。〓齋けいさい大人うし筆頭ひつとうおこり。ならんで寸楮すんちよ戲文けぶんのぶるハ。魯文ろふん有人ありひと兩兄りやうけい筆端ひつたんれり。この三子さんし當世たうせい画作くわさくちう三聖さんせいにして。所謂いはゆる酢甞すなめ粋達すいたちなれバ流行りうかうこのうちこもり。製巧せいこういたれりつくせり。時勢粧じせいそう案内しるべこれより穿うがてるハなしとせん。
応需 秋津齋我洲戲述 [印] 

亀遊堂 集玉堂 愛錦堂 亀松堂合梓 


春色三十六會席 〈中代地|川長〉「柳橋小勝・柳はし小満」(朝霞楼芳幾画 玉惣 [辰十二改]明治元年十二月

とう朋町を出る唄妓裏河岸を通ふ小唄、細腰ほそごし柳橋やなぎばしわたりて右へ入る川ちやうろう上、角力すまふ甚九しんく櫓太鼓やくらだいこ赤萬あかまんこへにして、すてゝこをどりハ阿房珎丹あぼちんたん足拍子あしびやうしなるべし。澤瀉鶴おもだかづるかすかにさへづり、哥澤うたざはの水ほそながる。花柳はなやぎ手振てふりしなやかなるきつねさんの腕前うでまへふしくれたるとも酒興しゆけう景物けいぶつにて主とするハこの調進てうしんなめり。
假名垣魯文填詞 

※以下略、〈品川町|万林〉「芳町せい・よし町小糸」、〈東両國|青柳〉「柳ばしつま・同小かつ」、〈甚左エ門町|百尺樓〉「正木屋いく・三よしのふみ」と三十六軒まで続く。


以上、甚だ不完全ではあるが、魯文の関わった填詞の概略を紹介してきた。魯文研究にとって大量の逸文が存在していることを示したことになる筈である。此等を調査蒐集することは浜の真砂を数えるようなものかもしれないが、ある程度デジタル化した画像が公開され始めているので、嘗てよりは効率的に調査が可能になってきていると思われる。しかし、浮世絵の場合は填詞者の名前がメタデータとして登録されていないことが多く、一標目づつ見て行かなければならない。画像データを公開する時には、資料に記述されている文字情報は細大漏らさず書誌として付して欲しいものである。



▼1.高木元「魯文の売文業」(「国文学研究資料館紀要」第34号、国文学研究資料館、2008)。なお、拙サイトで公開している版では多少増補してある。
▼2.高木元「十九世紀の絵入メディア−錦絵の〈填詞〉をめぐって−」(「國語と國文學」1095号、東京大学国語国文学会、2015・2)
▼3. 現代に於いて「填詞」は楽曲の歌詞を意味するようで、「原文歌詞、中文填詞」という用例を多数見受ける。
▼4.享和2年刊の森羅子著『燈下戯墨玉之枝』という江戸読本がある。また、馬琴が「とるにしも足らぬ燈下の戯墨、或は一時半閑の随筆」(文化12年6月24日黒沢翁麿宛書翰)と記す如く、「燈下」と「戯墨」とは続けて用いられることが多かった。
▼5.切附本とは主として安政期に魯文が主導して創出したジャンルで、すでに出ている読本や実録などの抄出ダイジエストを目的として粗製濫造された。高木元「末期の中本型読本−所謂〈切附本〉について−」(『江戸読本の研究−十九世紀小説様式攷−』、ぺりかん社、1995)参照。また、魯文が仮名垣を使い出すのは万延以降であり、それまでは鈍亭を名告っていた。高木元「鈍亭時代の魯文−切附本をめぐって−」 (「社会文化科学研究」第11号、千葉大学大学院社会文化科学研究科、2005・9)。
▼6.野狐庵は魯文の別号であり、序者の署名下の印に[尚古]とあることから、これも魯文である。つまり他序に見せかけた自序であり、江戸後期の戯作ではよく見掛けた。
▼7.高木元「二代目岳亭の遺業」(「人文社会科学研究」第23号、千葉大大学院人文社会科学研究科、2011・9)参照。拙サイトでは増補版を掲載してある。
▼8.この資料はすでに注2拙稿「十九世紀の絵入メディア」で紹介した。なお、以下の原文は平仮名ばかりなので適宜漢字を宛て原表記は振仮名に残した。振仮名のない漢字と振仮名が括弧に入っているものは原表記。
▼9.この資料も注2拙稿「十九世紀の絵入メディア」で紹介した。

付記 本稿はJSPS科研費25370207の助成を受けたものです。
補記 初出で「〔目口耳鼻の自慢話を足叱るの図〕二枚続き」としたものは、右側にもう一枚ある三枚続きの『心学身之要慎』であること、金沢美術工芸大学の院生である伊藤美幸氏の御教示に与った。学恩に感謝致します。(2018年11月)

#「魯文の〈填詞〉」
#「大妻国文」47号 (2016年3月16日)所収
# 補訂(2018年11月23日)
# Web版では字体や表記レイアウト等を変更してあります。
# Copyright (C) 2016-8 TAKAGI, Gen
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# 用許諾契約書の複製物は「GNU フリー文書利用許諾契約書」という章に含まれる。
#               大妻女子大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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