二代目岳亭の遺業

高 木   元 

19世紀末、すなわち幕末から明治初年に掛けての戯作者たちの動向に関する調査研究は等閑に付されてきた。その一因は、発展史観の桎梏から逃れられなかった日本文学史が、長年にわたって近世と近代とを明治維新で劃期してきたからである。文学的達成の発見とその顕彰とを自己目的化してきた国文学ゆえ、近代文学史の冒頭に名前が挙げられることの多い仮名垣魯文でさも、近世期における鈍亭時代の著述については充分な調査は備わっていない。このように、基礎研究すら着手されていないにもかかわらず、幕末明治初期の戯作類は〈文学的価値〉なる観点から低く見做され、いまだにその研究価値が見出されることは少ないようである。

しかし、大量の読み物が生産され消費されてきたという文化的プラチック▼1は、社会史的観点からも調査し検討すべき余地が充分に残されているものと思われる。この時期に読み捨てられてきた切附本きりつけぼんの調査を思い立ったのも、斯様な日本文学史の欠陥を、幕末から明治初年を通底する十九世紀という枠組みで捉え直すために有用な資料群であると愚考したからに他ならない。幸いにして、30余年来蒐集してきた架蔵資料は、ほぼ切附本の全体像を知ることができる程度の規模になったので、立命館大学アートリサーチセンターの赤間亮氏の手を煩わせて全点全丁の撮影をお願いし、既にインターネット上で公開されている▼2

さて、幕末の戯作者でもあった初代岳亭(春信・定岡・五岳・丘山など)は、狂歌摺物の絵師としても多くの佳作を遺し、『画本柳樽』や、最長編の江戸読本『俊傑神稲水滸傳しゆんけつしんとうすいこでん (全29編、文政11(1828)年?明治20(1887)年)初〜4編迄の画作者として知られているが、その研究は余り進捗していない。わずかに、伝記調査と資料蒐集とに永年の努力をされてきた小田島洋氏の一連の仕事▼3が備わるのみである。就中、氏は従来の文学史や辞典類の言説において、初代岳亭と二代目岳亭とが混同されていることを指摘し、さらに初代の没年が安政3(1856)年以前で在ることを示す新資料を提示されている。

この二代目岳亭については、切附本を調査してきた過程で少なからざる資料にその名を見出すことが出来ることに気付き、とりわけ「岳亭春信遺稿」とする『〈神稲徳次郎|木鼠孝蔵〉 武勇水滸傳』の序で、二代目岳亭が初代岳亭を「師翁」と記述していることを紹介したことがある▼4。また、鈍亭(仮名垣)魯文の遺した仕事を調査している最中にも、魯文と関係の深い二代目岳亭の名前が出てくる資料があるとメモしていた。この時期の戯作界では、作者だけでなく画工や音曲関係者、役者など広い人脈の中で活動をしていたために、その全体像を把握するためには、楽屋落ち的要素の強い細部の記述についても注意を払う必要があるからである。

しかるに最近になって、全南大学校文化社会科学大学の康志賢氏が二代目岳亭の調査を精力的に進めつつあり、その結果を「著編述作品年表」として発表する用意があることを知った。これ幸いと、取り敢えず手許の資料類を提供したので、二代目岳亭の全体像に関する研究については康氏の仕事を待ちたい。しかし良い機会なので、断片的ではあるが手許の資料などについて報告しておくことにする。

     ※

まず、切附本に作者や序者として記載のある「岳亭」は全て二代目岳亭のものと考えられる。以下、一点ずつ上げながら具体的な記述に拠り考証してみたい。

釋尊御一代記拾遺しやくそんごいちたいきしふゐ第四輯(芳宗画、安政5年、兵衛)

内題下「岳亭梁左 編次\鈍亭魯文 校合」。序末には「……つゞ三編さんぺん讀切よみきり見限みかぎらで暴病ころりにも。のがれて拾遺しふゐ三冊さんさつを。ゆだねられたる追加おひかけ注文ちうもん筆硯ひつけん万福まんふく活業よわたりの。大吉だいきち利潤りしゆん早速さつそくと。はや呑込のみこみやす請合うけあひも。五衰ごすい三熱さんねつ三十日みそかまへ借金おひめ苦患くげんいとまざれば岳亭がくてい大人うし助筆たすけこふて。つゐ至宝しいはう成道じやうだう諸根しよこん稿かうだつするものから。題目だいもく序品じよほん發語いとぐちを。教主きやうしゆめかしてとくになん。……\鈍亭魯文漫題」とあり、魯文作の三編読切完結後に、「拾遺」(三冊)として出されたもので、岳亭の助筆を受け「編次」としたことが分る。



釋迦御一代記拾遺第五輯しやかごいちだいきしうゐたいごしふ(安政5年冬)

内題下に「岳亭梁左 編次\鈍亭魯文 校訂」とあり、序には「こゝに予がとも鈍亭どんてい主人しゆじんそが同盟どうめい岳亭がくていともはかり釋尊しやくそん御一代ごいちだい概畧あらましつゝれり……これぢよせんとするものは、陸奥みちのく草深くさふか澤間さはまよりいでいま東江とうこうみやこすめる\□((虫損))凉亭臥□□((虫損))」とある。

また、口絵(3丁裏)に千社札の意匠で「〈岳|亭〉梁左」「〈鈍|亭〉魯文」「交來」「ホリ竹」「八九勝」等、提灯に「鶴亭秀賀・鈍亭魯文・万亭應賀・大黒屋歌雀・市川家橘」と見える。

架蔵本には板元名等の記載が見られないが、芳宗画の糸庄版だと推測される。また、管見に入った後印本として「御届明治十年五月\地本おろし日本橋通四丁目 横町六番地 佐野金之助板」(見返「東都書林 積玉堂梓」)が在る。

釋迦御一代記しやかごいちだいき第六編結局(安政7年、小田島洋氏蔵・架蔵)

内題下に「岳亭梁左 編次\鈍亭魯文 披閲」とあり、序には「釋迦御一代記第六編結局大團圓前鈍亭魯文抄録後岳亭梁左編次故木合本全六巻至寶成道勧功徳佛法弘通偈仰信看官披閲讀誦經\魯鈍翁誌[印]」、下に「諸法しよはふ實相じつさうとくときみねあらしのりこゑ万法まんはふ一如ときくときたに朽木くちきほとけとかやこゝ戀岱れんたい鈍亭とんていしゆ人釋尊しやくそん御一代の精訳せいしやく也墨硯ぼくけんくもおこし筆頭の雨を降して變化くわきはまりなしゆへ前編ぜんへん三帙しつなほおこなはれて再ひ獅子しゝ法座はふざなほ追加ついかまきときかけたり人通じんつうかねたる魔神まじんひとし外道げだう俗夫そくふ具眼ぐがん誹謗そしり不顧視かへりみず香煙かうえん紫雲しうんまたがりておな霊臺うてなのぼらんと結帶たすきたのみにまはらぬふでほことりのべて活地獄くわつぢごく苦悩くのうなし大尾たいびとなしゝハ提婆達夛だいばだつた可言いふべく呵々(かゝ)\于時安政七庚申孟春 岳亭梁左戯題[印]」 「わがへも一鍬ひとくわいれし作男さくおとこ釋迦しやか菩薩ぼさつにかゆる苗代なはしろ 秀賀\いにしへをしのぶをかそゆかしけれ見ぬひともまじる友達ともだち 露香\月花つきはなほかにひとりの友垣ともがきゆきあかり枝折しをりたのめば 清沙\このみちおほあたまともなれかしとなまくら殿とのかげそゆめり 花流\はすにのりのみちをもまなびてやけうよみどりかるかわづ 一庭\つもりにしかずかきつめてことにしきころもつゞりあげけり 魯文」

外題「釋迦御一代記」、改印「申六改」、板心「釈迦六」、38丁、刊記「東都忍岡 岳亭梁左編次\仝 戀岱 鈍亭魯文披閲\仝 洛橋 一松齋芳宗画圖\仝 駒篭 椿園玄湖傭書\于時安政己未孟春結局\書房〈江戸日本橋|通第三坊〉糸屋庄兵衞・糸屋福次郎 梓」。 挿絵(36ウ37オ)に梁左・魯文・芳宗・一庭を描く。



報讐信太森かたきうちしのだのもり後編(袋入本、鈍亭魯文作、国周画、安政6年、兵衛)

岳亭梁左序「往昔そのかみ小説せうせつに、九尾きうびきつねして妲妃だつきとなるとつくり、近衛こんゑのみかど玉藻前たまものまへあひしゝことハ、謡曲えうきよく滑稽こつけいにして、信田しのだもり操觚かきかへは、妻恋つまごひ稲荷いなりしやへんすめる、此道このみち老狐らうこ鈍亭どんてい長公あにき机上きしやうれり。されバ紙上しじやう白面はくめんと、九尾きうび管毛ふんでえうをなし、善惡ぜんあく邪正じやしやうおしえさとし勁松彰歳寒けいしやうせいかんにあらはれ貞臣見國危ていしんくにのあやうきにあらはるゝとなせり。ゆへ勤蠢きんしゆん変化へんくわありて、かの清明せいめい三部さんぶ秘書ひしよに、綴目とじめかたくずつるへんついだる六冊ろくさつの、大尾たいび簡端はじめ駈者かけだしものが、いとぐちひらく文象もんざうハ、ざきぎつねといふべきに哉\おなじあななる忍岡しのふがおかかの蓮池はすいけまつをかつぎて\己未孟夏\岳亭梁左述」。

この本は、安っぽい切附本流行の最中にあって豪華美麗な装丁が施された中本型読本に近いもので、同年に森治から同様の体裁でまとめて六点の魯文作が出されている▼5。魯文はこれらの本の見返や序などに「假名垣魯文」と記しており、「假名垣」号の早い使用だと思われるが、あるいは「鈍亭」から「假名垣」への転機となった袋入本と見做すことが出来るかもしれない。なお、その後同様の体裁の袋入本が出された形跡も見られないが、もしかしたら「假名垣」号の披露という意味合いがあったのかも知れない。

さて、魯文のことは措いて、この序文で二代目岳亭は自らを「駈者かけだしもの」と称しているので、魯文の引き立てによって安政半ばから戯作を始めたものと考えても良いかも知れない。

なお、跋末には「清真堂せいしんだう菓舗くわしみせにおゐて梅笠うめがさ陳人ちんじん\春亭京鶴誌」とある。


忠勇景清全傳ちうゆうかげきよぜんでん(袋入本、鈍亭魯文作、惠齋画、安政6年、森治)

岳亭梁左の漢文叙「是歳コトシ天〓雪飄リ春寒花遅シ。偶友生ヲ撩シテ向火夜話ス。坐隅ニ一客有リ、喃々トシテ景清全傳ヲ讀メリ。乃鈍亭魯文子カ著ス所也ナリ。凡ソ柱ニ膠シ管ヲ観者ハ之ヲ叩テマサニ劔ヲ按シテ目ヲ〓トス。シ燭ヲ秉リ燈ヲ剪ル人之ヲ見ハ、節ヲ撃テ頭ヲ頷ス所有ン。略其微意ヲ跡ルニ、則忠義ヲ貴テ勧善懲悪之道ヲヘ、人情ヲ冩シテ以伉儷愛慕之心ヲ著ス。維劇傀儡ノ曲胸ノ次ニ蟠リ、滑稽洒落ノ戯、毫ノ端ニ貫ク。糟粕敢テナメズ。狐ノ涎レ其レ舐ツベシ。若乃レ評林花ヲ攅テ、新鮮笑海人ヲシテ蜿シ轉ハ令ム。漢ヲ譯シテ俗ニ通シ、諺ヲ絢テ以テ詞ヲ隱。〓(アヽ)魯文子ハ誰人也ナンソヤ。蓋シ前身須狸奴白〓之精ナルヘキカ。タヽ稗宦者流之知ラザル所ヲ知ルノミニアラス。况ンヤ又辧瀾夫カノ慱問ニ答ベキ者ヲヤ。自在ナル矣哉カヤ。此於テ興ニ乗シテ戯ニコレカ序ヲ為ス\〓安政庚申孟春小台麓且志菴之〓(デコ)人〓ヲ忍川軒ニ〓ス\岳亭梁左識」(私意で書き下した)

この本も、前項『報讐信太森』と同様に豪華美麗な装丁が施された中本型読本に近い袋入本で、まとめて六点出されたものの一つである。

序文は二代目岳亭が漢文で書いている。斯様な中本型の大衆小説に「漢文序」とは、如何にも似つかわしくない。それも書き下してすらないのである。内容的には一般的な序文と同様であると思われるが、明らかに漢文体の戯文という風情であり、肩肘張った印象を受ける。また、序末で「〓山人でこさんじん」と自称しているが、戯画化された二代目岳亭像を見ると額が高く出ている所謂オデコなので、それを踏まえた戯号だと思われる。「出子散人」と記すこともあった。



敵討腕野喜三郎一代記かたきうちうでのき〔さぶろういちだい〕だいき(岳亭春信作、芳春画、万延元年、田屋三郎)

内題下「東都忍川 岳亭春信 筆記」、自序「うで三郎後のちに、晋子しんし其角きかく門人もんじんとなりて、片枝へんしがうすと、山東庵さんとうあんおきな奇跡考きせきかうにいへれども、その本傳ほんでんしるせしものなし。十年とゝせあまりのむかし艸紙さうしうへきゝたる、三郎が物語ものがたりを、紙魚しみ住家すみかとなしをきしに、このほど芸藁ぜんごをあはせて、不足ふそくおぎなひ、鎌倉かまくら地名ちめいかりて、一代記いちだいきとなし、紫式部むらさきしきぶが、石山いしやま源氏げんじまき經文きやうもんの、裏書うらがきなせし古言ふることに、いさゝか血筋ちなみあるものから、下書さうかうさへも屑紙ほぐかみに、補修つゞりあはせし、ことにぞありける\此書このしよふでとること三度みたびはじめに冩本しやほんにせよとすゝむものありて弘化かうくは二巳年望のぞみにまかせしに。しよひと行方ゆくかたしらず。其後そのご嘉永かえひ四亥年。合巻かうかんにせまほしくと文屋ぶんや主人しゆじんこのみ二度ふたゝびふでをとりしが。いへとも焼失やきうしないままた此処こゝその轉記でんきしよこととハなりぬる\萬延はじめのとし初冬」。

この自序は「東都忍川」とあるので二代目岳亭のものだと思われるが、既に弘化嘉永頃に戯作者として活動していたということになろうか、不審である。襲名は何らかの方法で披露されていたはずであるから、この襲名時期を明らかに出来る書証の出現が望まれる。

なお、東大総合図書館に自筆稿本が所蔵されている由を康氏より教示された。稿本には「作者 岳亭春信\画師 一梅齋芳春」とあるが、板元名は記されてない。序文に貼紙訂正が在り「嘉永元(1848)年」を「嘉永四(1851)年」と、序末「萬延元(1860)」の「元」を消し、年記の「菊月」を「初冬」と訂してある。



青戸硯雲切仁左衞あをとすゞりくもきりにざゑもん (岳亭春信作、芳春画、文久元年春、吉文)

内題下に「岳亭春信 文認」、序「てんをバはかるべしてんをバきはむべからずと、をさなきふみもていにしへのはなしくさきこえたる、雲切くもきりとなんいひけるしらなみのものがたりを、文屋ふみやこのみさちて、わずかなる小冊せうさつ白帋はくしにつらね、かんがへのくはしからずふみのうへをさなくて、言葉ことばたらねバいふ事毎こと%\こゝろとほらず、景色けしきをおしみてはししもふむがごときにたれども、さらに虚名きよめいをまじへず穿鑿せんさくをなせりけるも、くだをもててんうかゞふことはざなりけれ\ひゑのやまの片邊かたほとりに\文久元辛酉季春\狂作堂のあるじ述」。

この序文は自序として読めると思われるが、署名の下に印刻がないので「狂作堂主人」が二代目岳亭の別号であると断定はできない。また「文屋の好に幸を得て」などという口吻はそれかと思わせるが、東叡山下のことを「ひゑのやまの片邊りに」といったのであろうか、不審である。

末丁広告には「繪本ゑほん勇士鏡ゆうしかゞみ 初へんより十へんまで追々近刻義士ぎし銘々傳めい/\でん 初へんより十へんまで近刻仕候 \〈敵|討〉うで喜三郎きさふらう 全冊青戸硯あをとすゞり雲切くもきり仁左衛門にざゑもん 全冊日向ひゆうが景清かげきよ一代咄いちたいばなし 全冊 江戸馬喰町四丁目 吉田屋文三郎板」と、近刻予告(縄張り)を含めた書名が見えている。



英雄成生功記えいゆうせいしやうかうき前輯(ぜんしう)(鈍亭魯文抄録、國周画、万延元年、糸庄)

岳亭主人序「とも魯文ろぶんなるものは。小男さを鹿しかつまごひのさとにすめる遊民たはれびとなるが。をさなきころよりものほんかくわざをこのみて。つゐ活業すぎはひとぞなせり。そハ唐土人もろこしびとのいへるこゝろをりふでたがやすみちにしてなし。得難えがたきのすさみなるを。はづか一本ひともとのふんで。ひとひらのかみもていにしいま治乱ことのあとつゞり。よきすゝあしきこらす意匠むなだくみさく文漢をとこいさほにして。田をつくのらうにかもたらまじやは\しのぶをかほとりにすめる 岳亭主人しるす」板心は「政清」、尾題は「佐藤成生功記前輯」、巻末に糸庄の広告「一代記いちだいき讀切冊よみきりもの 武者むしや繪草史ゑざうし その繪図ゑづ一枚〓いちまいずり 端本はほん 横本よこほん 青標帋あをびやうしたぐひ かつ字引じびき 要文抄えうぶんせうとう 品物しなもの澤山たくさん所持しよぢ仕候間御用向ようむき被仰付可被下候」。



〈神稲徳次郎|木鼠孝蔵〉武勇水滸傳ぶゆうすいこでん(岳亭春信作、芳春画、万延2年4月改)

内題下には「岳亭春信遺稿」とある。序文は、上部に「岳亭定岡」という堂号を揮毫した扁額を描き、その下に「師翁しをう岳亭がくてい定岡さだおか神稲しんとう徳次郎とくじらう鼡小僧主ねづみこほうしはじめとして猛賊がうどうひやく八人をあはせ俊傑しゆんけつ神稲しんとう水滸傳すゐこでんだいせしハへんつきかずをかさね今亦いまゝた書肆しよしこのみとて徳治郎とくじらうでんあめすゝめふでとりやへす七尺しやくさつてかげをわすかにちな燈火ありあけかゝげながらに雑書ざつしよをひらきしよこくの疑團ぎだん集合しゆうがうせりされとも國々くに%\ものがたりにいたりてさらにきよせつをまじへずひと作者さくしや空言くうげんとしたもうな\萬延ふたとせ太郎月 東都忍川市隱 春信筆記」とある。

さらに口絵見開一図の次に

  蝶/\や何をたすねて水の上  一艸
  ふりあげた鞭にからまる小蝶哉  喜樂
  浪をおひ浪におはるゝ小蝶かな  一星
  蝶一ッ 廬生が窓を出しにや  露>香
  是がマア毛虫の末か池のてふ  ママ似彦
  水かみに影の流るゝ小蝶かな  可山介
  繪筆にも来て眠りけり春の蝶  芳春
と追善句が並ぶ。つまり、初代岳亭の没年は本作の刊行から余り遡らない時期、それも二代目が「岳亭梁左」と名告っていた安政期以降ではなかったかと想像できる。

さらに巻末に「此書このしよことながくして神稲しんとうとく次郎木鼡きねづみ孝蔵かうそう行末ゆくすへまてをときつくせず。ゆへにはゝおいね立山たてやまなる文吉ぶんきちあだうつ一巻いつかん萬尾まんひとなしぬ。諸子しよしこのみまちへんつぐべし。 さきとし神稲水滸傳しんとうすゐこでん合巻がうくわんになをし宇治うぢ拾遺じゆういのべたり。そのものがたりハ古事こじひきつくりまうけしがちかきになかいづべし。されどもこのものがたりとおほいにたがひておなじからず。これしよこくにありふれたるはなぐさむねとしたり。板元はんもとをたばかりひとさくせるものそのまゝにうつし將禄しやうろくなりとていだせるハなし。ゆへさくつたなくして巻中くわんちゆういでたる國々(くに/\)にあらわす。なかにもしま龍穴りうけつさるひとあり。これなん彼地かのちにいたりてたづもとむるにやすし。みぎりのかた五六間けん岩屋いはやまへよりいはうへをいたるなり。本文ほんもんにいでたり。画工ぐはかう筆者ひつしやわらふべけれど此所こゝをもつてゆるしたまへ。」 などと、殊更に切附本というジャンルの本質が抄録であることを踏まえた上で、敢えて独自性を主張している。これらの言説を見るに、本作は「岳亭春信遺稿」と標榜しつつも、実質的には追悼作として二代目岳亭の手に成ったものであると考えられる。

また、末丁の広告に「青戸硯あをとすゞり雲切くもきり仁左エ門にさえもん敵討かたきうちうで喜三郎きさぶらう日向ひゆうが景清かげきよ一代咄いちだいばなし・〈神稲徳次郎しんとうとくじらう木鼠孝蔵きねずかうぞう廻國くわいこく□□□((汚損))石川いしかわ五右衛門ごえもん一代咄いちだいばなし・〈岳亭春信作|一梅齋芳春画〉」とあるが、此処に列挙されている題名は他の切附本に付された吉田屋文三郎板と相似しているので、本作も吉文板ではないかと思われ、同時に原本に刊年が見られない『日向景清一代咄』『執讐海士漁舩』なども万延二(1861)年(=文久元年)頃の刊行ではないかと推測できる。つまり、この頃の吉文と二代目岳亭の緊密さがうかがわれるのである。



日向景清一代咄ひゆうがかげきよいちだいばなし (岳亭春信作、芳春画、吉文)

内題下に「岳亭春信筆記」、柳亭露香による序末に「……宝暦ほうれきむかしより日向ひゆうが景清といへるものがたりあるをもて我友わがとも岳亭がくてい主人しゆじん音和おとわたき長咄ながばなしを一小冊いつせうさつくみとりてすゞりひたす事とハなりぬ\柳亭露香述」とある。



執讐海士漁舩かたきうちあまのつりふね (岳亭梁左作、芳春画、吉文)

外題は『天竺徳兵衛一代話』、内題下「岳亭梁左著」。序文なし。京伝の合巻『敵討天竺徳兵衛』 (豊国画、文化5(1808)年)の抄録物であるが、登場人物名などが改変され、天竺徳兵衛の出自を純友の末流とはせずに、原話には見られなかった細川浪六の復讐譚を組み込み、〈堀川猿廻しの段〉を利用した箇所を〈水木辰之助舞扇遊里通住吉〉の趣きに変えるなど、それなりに作品構成にも手を加えている。



武者修行巡録傳むしやしゆぎやうくわいろくでん (序題、芳宗画、万延2年正月)

見開き1図に、大宅太郎光國おほやのたらうみつくに宮本武蔵政名みやもとむさしまさな吉岡拳法よしおかけんほう佐々木巖流さゝきがんりう松井民次郎義仲まついたみじらうよしなか以下の豪傑等を略伝事跡と共に描いた絵本。序末「文武ぶんぶ両道りやうだううつせるかな画筆ぐわひつ二道にだうにも大平たいへい餘澤よたくならめや\時萬延二辛酉太郎月筆染\東叡山下北窓 岳亭春信記」と、画作であることを記している。



伊達黒白鑑』前傳 (岳亭春信補修、刊年未詳)

外題『伊達黒白論』(一本『仙代萩黒白論』)(7枚丁付が重複)計31丁。 巻末(丁付では23ウ)に「集言」として「この評定ひやうじやうまき玉光齋きよくこうさい主の実傳じつでんしるしたる成しが丁数の短文なれバ今仁木につきだん正左衛門のでんのべよと在をさいはひ其物がたりをひらくにいたれり。されども本傳ほんでんを云にあらずつたなふでもて綴合つゞのあはせたるにハ在どもきよじつかへるの理言ことわざ二木ふたきはじめの忠臣ちうしんも後にハあくためにくまれるのことにしてうそ眞事まことと見ゆるしたまへ」と在るように、龍川漁者『伊達姿評定鑑』、玉光齋主人序、直政画、品川屋久助板と合綴されている。後印改修本か。



敵討高名録かたきうちかうめうろく (岳亭春信作、玉櫻芳年画、文久2年2月改)

外題「芳宗画」。扉に「二本杉大明神」を描き「はるいろよとの舞はらねどもこゝにわすれしせみ羽衣はごろも\岳亭賛」とある。自序「序文じよぶんかへ二本杉にほんすぎいだせしハものかつねがふ人のもときたりて気精きせいかけるゆへにしるせしなれバ巻中くわんちうあるにあらず。ともてんのいたゞかずと一心いつしんめたる一筋ひとすぢ新古しんことは雑書ざつしよひらいて見出みいづるをそのまゝ集合しうがふせるのみなれバつたなきもまた多からめ\東都忍川赤本作者 岳亭春信傳」。

目録に相当する「巻中くわんちう仇討あだうち連名記れんめうき總數そうかず貮拾八番にじうはちばん」には「石井いしい玄次郎げんじらうおとゝ樊次郎ばんじらう」以下「石井いしい常右エつねゑもんむすめすて」までが列挙されており、全丁絵入りで簡潔に事跡が記述されている絵本。末丁には「四季ともにさかりはつきぬ草双帋大吉利市いつもめでたし」とあり、広告「武者修行巡録傳\男達銘々傳\敵討高名録\怪談伽草紙\岳亭作芳年畫」が載る。このうち『怪談伽草紙』は未見。



敵討高名録かたきうちかうめうろく(2編、岳亭春信作、一松齋芳宗画、文久2戌秋序)

自序「初編しよへんまきにハ所有あらゆる古今こゝん敵討かたきうちしるしけるに板元はんもと欲心よくしんから二編にへんまきこのみ請込うけこみこれかあれかと雜書ざうしよひらいところはら工風くふうかぎあれ昔咄むかしはなしに聞覚きゝおぼへて千艸袋ちぐさぶくろ抜書ぬきかきからひろあつめ怪談くわいだんはなしうち仇討あだうち目先めさきかゆ画工くわこうハおなじみふでみどり一松齋いつしようさいなを三編へん初春はつはる雪消ゆきげともにとくことしかり\文久二 秋 岳亭主人記」。

口絵に田宮坊太郎の敵討を載せ、本文は全丁絵入りで累説話・越後万吉・間墨善之烝・大井美知丸の怪談をオムニバスする切附本。板心「高名二」、巻末に幣を持つ額の高い二代目岳亭春信像が描かれている。



山崎大合戦 (文亭春峩序、文久2年、糸庄、大阪府立中之島図)

序末「……長物語ながものがたりを、なつ短夜話みぢかきやわつゞれよと、新庄堂しんしやうだう軍配ぐんばいに、童男どうなん童女どうぢよ押寄おしよせて、曳々声ゑい/\ごゑ御評判ごひやうばんつくえむかつてこひねがふになん\文久二戌年菊月\東都忍川市隠 文亭春峩述」

この「文亭春峩」も「東都忍川市隠」とあるから二代目岳亭の別号であろう。



義勇八犬傳ぎゆうはつけんでん』初編 (岳亭定岡作、芳宗画、元治元年春、糸庄)

外題「国周画」、扉に「犬も尾をふることの葉を今もなを実に八人の星まつりより ママ亭」とある。

自序「いぬ意懐いかいの したがッて怨念おんねんずとかや。婦志姫ふしひめ八ッぶさ呼聞名いそなはれて冨山とやまいたより八犬士はつけんし銘々めい/\傳記でんき蓑笠さりつをう一世いつせのこ行末ゆくすへをしるせいだせり。草帋さうしのはじめに引上ひきあげその面影おもかげうつせよと問屋とひやこのみにひさしぶりなまけたふでとりなくしのぶがはいほりいで清水しみづもと轉宅てんたく八房やつぶさならぬやつがれがいぬもあるけばばうとやら八犬士はつけんしにはあらずとも八笑人はつせうじんともまちて東叡山とうゑいざんもりかげなる南窓なんさう頬杖ほうづえしなからすゞりぬらこととハなりぬ\子初春\春信改 岳亭定岡述」。

全丁挿絵入り、『南総里見八犬伝』の抄録切附本。巻末に「これより左母さぼ二郎じらうがすりかへたる村雨丸むらさめまるいだすくだりは二のまきに書入かきいれ引つゞき出板しゆつはん仕候\文亭鈔録・一松齋工筆」とあり、この「文亭」も二代目岳亭の別号であろうか。なお、本作は二編と併せて、拙稿「義勇八犬傳 −解題と翻刻− (「人文研究」第35号、千葉大学文学部、2006年3月)で紹介した。



義勇八犬傳ぎゆうはつけんでん』2編 (岳亭定岡作、文久3年10月改、糸庄)

扉に自画像を描き「江柳えやなぎげられな浮氷うきごほり\文廼屋仲丸賛\春峩自画」とある。この「春峩」も二代目岳亭の別号であることになる。

自序「師克在和不在衆いくさにかつことはくわにあらずしゆうにあり犬塚いぬづか信乃しの森高もりたか古賀こが城内じやうない數千すせん討手うつて切抜きりぬけ宝龍閣ほうりうかくのぼ玄八げんはち綬合くみあひ戸根川とねがはおちたるをわたるにふねと三へんのこしぬ。もとよりその筋書すじがきにもたらぬこと書入かきいれにして新庄堂とんや催促さいそくふせぐのみなれば、うれるは画工ぐわこう手柄てがらにして馬琴ばきんおうにあらば、さぞなげかはしくおもはんとつぶやき/\ぶんて繪をきし戯作げさくみち草如是畜生ちくしやう菩提ぼだい〔心〕じん義礼れいの、たま/\に人のはたけくわれる谷中やなかの〔道〕の片邊かたほと清水しみづもとふでそめぬ。」 (〔 〕内は推読)

架蔵本は序末の年記と序者名とを削った痕跡が見えることから後印本だと思われる。また、10丁以下破損しているため、巻末の署名も未見である。また、予告されている3編も未見。早印完本の出現を待ちたい。



河中島両將傳記かはなかじまりやうしやうでんき (岳亭定岡作、慶応2丙寅夏序、山口屋)

内題下に「岳亭定岡 文記」。自序「それ大将たいしやうたるひと大國たいこくたも大勢たいぜいもち武勇ぶゆうすぐれたりといふとも合戦かつせんこのむときかならほろぶ。木登き ほりはて水練すゐれんみづはつ理言たとへ天下てんか太平たいへいたりともそななき士卒しそつあなどくにうばはんことほりす。文武ぶんぶとりつばさにひとしくくるま両輪りやうわにして両方りやうはう長短ちやうたんあらバまつたからず。左傳曰師克在和いくさにかつことハくわにありしうにあらず君臣和合不成くんしんわがふならず十万じうまんせいありともたのむべからず。いま河中島かはなかじま武將ぶしやう傳記でんき題号だいがうして天文てんぶん十四年をはじめとして同二十三ねんまでの合戦かつせんのべしん謙謙信けんしんをもてこの双紙さうしつばさとする而巳のみ\慶應二 寅夏\岳亭定岡述」

上中下2冊。錦耕堂の軍談シリーズ。



繪本太閤記ゑほんたいかうき』初編 (岳亭定岡作、芳盛画、慶応2年3月改、吉文)

内題下「岳亭定岡文巻」、自序「輕虜けいりよもの不可以治國くにをおさむべからず獨智とくちの者ハ不可存君きみをぞんずべからずとや。つら/\おもつまびらかしよせざれバ、生得しやうとくみづからたれりとす。日吉丸ハ吾身わがみかへりみることをり、よく人をしるさい智在て、おのづからそのしよくいたり桐樹とうじゆちやうずること一歳ひとゝせ丈余じやうよ萬木ばんぼくこれおよぶ者なし。むべなるかな、豐太閤ほうたいかう花號黙もんじころとする〔瓢箪の図〕(もの)これよるものならん\丙寅初秋\岳亭定岡文記」。

袋入本、上下2冊。挿絵 (34表)には「岳亭画」とある。板元「吉文」は後印か。



繪本太功記ゑほんたいこうき』巻之2 (岳亭定岡作、芳盛画、慶応2年、文江堂)

内題下「岳亭定岡文案」、自序「てんときあり人にときあり文江堂ぶんこうだう主人しゆじ 秀吉ひでよし出世しゆつせ物語ものがたりをしたゝめよとこのみときさいはひのひさしくやまひにおかされて休作きうさくなせしさいさきよし日吉丸ひよしまる誕生たんじやうよりかきつゞめたる二編にへんまき画工ぐわこう作者われ出氣物しゆもつ出来できあき延引えんいんなせし云分いひわけはや霜月しもつき寒夜かんやをいとはず引書いんしよをひらきて筆鳥ふでとりなきつれわた東雲しのゝめごろ二階にかい初声うぶごゑ外事よそならずへんかさねなが天窓あたまいま二のまき二代にだい出子助でこすけ初湯うぶゆさはぎのそのなかすゞりみづをつぎさしてありのまんまをしるしおはんぬ\岳亭定岡述」

袋入本上下2冊。



繪本太功記ゑほんたいこうき』巻之3 (岳亭定岡作、芳盛画、慶応3年正月改)

内題下「岳亭定岡文按」、自序「四海しかいなみしづかに、諫鼓かんここけふかふして、八荒武徳はつくわうぶとくなびき風雨ふううえだをならさず、月雪花つきゆきはなもてあそび、ひとともとする、作者さくしやもとより、童毛どうもうしゆうハ、芳盛ぐわとうふんで武者人形むしやにんぎやうはなもなき草藁したがきから、鎧兜よろひかぶとすじほねに、強弱つよいよわい結目けじめをわかち、善惡ぜんあくともにかみかたち、つくりばへせぬ書抜かきぬきも、これ太平たいへい物語ものがたりにこそ\于時ときに慶應けいおう元年ぐわんねん仲夏ちうか中の日忍川しのぶがは草菴さうあん豊村とよむらぬしの軍用ぐんようぐすり手傳てつだいながら\岳亭定岡記」

袋入本上下二冊。



繪本太功記ゑほんたいこうき』巻之4 (岳亭定岡作、芳盛画、慶応2年秋、吉文)

内題下「岳亭定岡文記」、自序「呉漢ごかん左慈さじあざな元放げんはう経学けいがくこのみ天柱山てんちうざんに入、道をまな石室しつあひだ秘書ひしよをいよ/\神異しんいじゆつ鍛錬たんれんなし、あかゞねぼんつりをたれて鱸魚すゞきを求め、山林さんりんに入てひつじとなる変化へんくわきはまりなし。いま太閤記たいかうきまきにいたりて秀吉ひでよし栗原くりばら山に分入わけいり竹中たけなか重治しげはるたのみ、のち軍学くんがく道廣ひろ変化へんくはの術をきわめてむかふにてきなく、天下てんかの武将とあをがる。なくして大家たいかをなすものハやぶるるのみちありて久しからず。同僚ほうゆうといへともそのなすことのよろしきを眞似まねときさい いをなすことあり。かうの眞似して孝子かうしとよばれ、惡のまねしてあく人となる。交定猶杵舂間まじはることハしよきうのあいだにさだむといへるも、みちまなぶ上下しやうげのへだてあらずして、きをあしきをすてなバそのとくことおほからんと、老婆心らうばしん序文じよぶんにしるすも、もとより伽草紙とぎさうし心意しんいならん\丙寅の秋\岳亭定岡述」

袋入本上下2冊。挿絵 (18裏)には「岳亭自画」とある。板元「吉文」は後印版か。



繪本太閤記』5之巻 (岳亭定岡作、芳盛画、慶応3年9月改)

内題下「岳亭山人定岡 文記」、自序「今太閤記の(ママ)まきにいたりしハ、これさいはい、せんなり匏瓜いさごこまをいださん風ハなけれど、雜書さつしよひらひて、あとさきを合すも、むかしのたねふくべ、ひやうたん川へうちこんだ、とわらひ給ふかしらねとも、ころんでけがのないまじない。まんとなるまで、のう/\となまづをおさへるさけひやうたん、葫蘆ふくべあたまは作者のあざな、うつた中間の一光齋くわうさい、酒はやめたと水入に、つかふふくべも一升の、とくをそなへし壷蘆ひさごにありける \夕顔かほだなの下谷にすめる\岳亭定岡しるす」

袋入本上下2冊。序文中で「葫蘆ふくべあたまは作者のあざな」と例のオデコを上げ、同時に画工の芳盛についても「中間の一光齋」とある。巻頭「集意」と巻末に「次の巻」の予告があるが、刊否は未詳。



諸國大合戦しよこく  かつせん』2編 (序題、岳亭定岡作、芳幾画、慶応2年6月改、當世堂)

自序「師克在和不在(いくさにかつことハくわにありしうにあらず)勝負せうぶろんぜず。みゝなれたる一孤いつこ豪傑がうけつをゑらみてわづかでんしるし童毛だうもうはやくわかやすく、弁慶へんけい大力たいりき義經よしつね利發りはつなるも、いにしへの繪巻物ゑまきものもて御伽おとぎばなしの便たよりとせり、とこのみ得手ゑてかけぶねふて左楫とりかぢ雑書ほんばこ港口みなとをひらく初霞はつがすみきしあたり當世堂とうせいだうきりはなしたる艫縄ともづなが、丁度てうど人氣じんき相生あいおい七五三錺しめかざりなり。画工ぐわかう若松わかまつふねよしと評判ひやうばんねがふ。御岸われらだうに、はなれなみちかいとにこそ\岳亭定岡 文記」

外題「武勇競」。全丁絵入りで「鎌倉の権五郎景政かげまさ・鳥海弥三郎、桃井直常、菊地武光、足利高經、小山悪四郎隆政、殿法印良忠、佐々木三郎盛綱、野木入道ョ玄」を略伝と共に描いた絵本。初編は未見。



宮本無三四實傳記みやもとむさしじつでんき (岳亭定岡作、芳盛画、明治二年正月改、山口屋)

内題下「忍川市人 岳亭定岡文案」。自序「かう百行ひやくかうもとにして忠臣ちうしん孝子かうしもんよりいづると仁義じんぎ五常ごじやうたゞかうまつたくなるがゆへにおこる。これ真似まねかうとなりこれ似世にせしんとなる。そのとくあまありこゝとも一光齋いつかうさい宮本みやもと無三四むさしにあらねども筆校ひつかう両刀りやうたうもつ書坊しよはうもとめ早藝はやわざ我流がりう作者さくしやかづならねど巌流がんりう氣取きどり受込うけこみ傳記でんきにつゞる草藁したゑ出句助でくすけかの白倉しらくらといわれんにこそ。

集意 白倉しらくら源吾げんご右衛門のむすめ糸萩いとはぎといへるハ本傳ほんでんならねとこのしよ無三四むさしひとすじにしてのぞぶんつめ見安みやすからんをもつぱらとなしけれバ帆掛舩ほかけぶねかぜなきがごと所謂いわゆるつやのあらざれバなかまきなるひとくだりハ編者へんしや余晴よせいり給へかし \丙寅の春日\忍川の市人/岳亭定岡記」

上中下2冊。錦耕堂の軍談シリーズ。一光齋芳盛が画工と筆耕とを兼ねていたことが記されており興味深い。



伊賀水月録いがすゐげつろく (岳亭定岡作、芳盛画、明治2年正月改、山口屋)

内題下「岳亭定岡 文案」。自序「みづつきにもれぬをかきとりて御兒童様おこさまがたの御伽とぎにもせよと錦耕堂はんもと主人あるじはるゝにまかまはらぬふんで鹿しかひつじかみ書綴かきつゞらんと幾度いくたびつくへむかへど元来もとよりあさ智惠袋ちゑぶくろおもはすすごせ月日つきひかず催促さいそく早馬はやうま日々ひゞきたるに詮方せんかたなけれバ馬鹿ばかおしつよしと御笑わらひもかへりみず起原おこり政宗まさむね河井かはゐゆへにはゝ智惠ぢゑ荒木あらき義気ぎゝ櫻井さくらゐが櫻にものして仇討あだうち名高なだかきを伊賀いが上野うへののうへまでも美名びめい末世まつせらせんといふものハ\慶應四 夏\岳亭主人述」

上中下三冊。錦耕堂の軍談シリーズ。



山崎大合戦やまさきおうかつせん (岳亭定岡作、芳春画、明治2年8月改、山口屋)

内題下に「岳亭定岡文記(文意)」。自序「それ日吉丸ひよしまるむかしより桐樹とうじゆちやうすること一歳ひととせ丈余しやうよ萬木ばんぼくこれ およぶものなし。豊太閤ほうたいかう馬印うましるし千成せんなりひさごはなちりより此巻このまき前後せんご作者さくしや仙果せんか大人うしさき柳亭りゆうてい種彦たねひこはたよりいでたるつる壺廬ひさごもまたやなぎかげうつすおななかれの腰葫蘆こしひやうたんひさしくさく延引たへたりしが明地あきちあるたねひたせと朝香樓てうかうろふすいもとづきつるとつたのむすつけまきちらしたるひとふくろおりさいは日吉ひよしまる朝鮮てうせんまでのなが物語ものかたりをひさこのつると希ふなん\時 )明治二巳年孟夏\岳亭定岡」

上中下三冊。錦耕堂の軍談シリーズ。



     ※

ここまで切附本について見てきたが、次に草双紙に触れておきたい。幕末に広く読まれた合巻は所在の知れないものも少なくないが、基本的に板本は多数摺られたものなので何処かには残存しているものである。その出現を気長に待つしかないのであるが、気にしていると入手できる機会に恵まれることもある。以下の管見に入ったものと架蔵本とについて紹介しておこう。

伊賀越誉仇討 (外題、岳亭梁左序、安政6年9月改)

2編各2巻合1冊 (各冊13〈6+7〉丁)、錦絵風摺付表紙二枚続き、前編序はオデコの作者自画像の上に「姑々むかし/\書出かきだし善悪せんあく邪正じやせうこめたるハ當世風たうせいふう夜咄よはなしひとしく此所こゝ〓點くぎりつぎまきあと翌晩めうばんものかたり遺紙のこをしかう待宵まつよひつきまでかぎりあれハ前後ぜんご二冊にさつ中入なかいりまへとし伊賀いが上野うへの仇討あたうちへんかへてとあふきハチ/\まはらしたのぶることしかり\岳亭梁左\安政七己未春脱稿\[未九改]」

後編序「そもこの草紙さうしつねきく伊賀上野いがのうへの仇討あたうちにことなるところ何故なにゆへぞや。鈍亭とんていうしかげふみなに紙候しかうつくへなほ雑書ざつしよひらい繰返くりかへせど差當させる工夫くふうあらざれバ子幽こみ田にのこりもゝ太郎鬼おにしまなるたから政宗まさむねさるかにとのあらそひより靱負ゆきへうたれる土船つちふね松之烝まつのじやう舌切したきりすゞめおもき葛籠つゞらなかから見越みこしにあらぬ悪四郎あくしらう枯木かれきはなさく伊賀上野いがのうへの於房おふさねづみ娘入よめいりいちさかへ目出度めでたし/\\于時安政己未孟春\[未九改]\忍川しの かはながれすゝりたゝえて\岳亭梁左述」。板心「いがこへ前上 (下)」「いがこへ後上 (下)」。

板元も画工も記載がない。5丁の倍数になっていない変則的な丁数構成である。(偶然見かけた1冊本の外題「芳宗画」)


伊賀

伊賀


天竺徳兵衛蟇夜話てんぢくとくべゑがまのよばなし (序題、出子散人作、歌川國久画、文久元年)

4巻合1冊 (20丁)、外題「天竺徳兵衞\芳宗画」、序「古池ふるいけかはず飛込とびこみづおととハ桃青翁とうせいおう一代いちだい名吟めいぎん。それにゆかり此稗史さうしにも名高なだか天竺てんぢく徳兵衛とくべゑこれ戯場げじやう一番いちばん目幾いつかはらぬ評判おほいりをはづさぬ春信がふでのあや。去年こぞ作意しくみ再案かきかへまは舞臺ぶたい趣向めさきかへしハふるいけならぬ新奇しんき妙算めうさん。さるをやつかれ短才たんさいもてこの半丁はんてう填詞うめくさハさりとハおし蹲踞つくばった蝦蟇かえるつらみづおと。いけしやあ/\とのぶるになん\文久元辛酉初冬\忍川の北窓に 山亭秋信」、板心「がま」、巻末「出子散人作\歌川國久画」、この末丁に文机に両肘を付いたオデコの作者像が描かれている。

なお、序者「山亭秋信」は梁左の別号か。あるいは仲間であろうか。

架蔵の比較的早印と思しき1本は20丁1冊。もう1本は改装された明治期の後印本で上下2分冊され10ウと11オの絵柄が繋がっていない。外題は明治期特有の化学染料を用いた上下続きの絵柄で「天竺てんぢく徳兵エ一代記\上ノ巻\下ノ巻」とある。序末の年記を削った板木の磨り減った後印本で、上巻奥目録に「錦繪圖扇問屋〈日本橋区|本銀町二丁目角〉澤村屋清吉」とある (下巻の後ろ表紙欠)


天竺     天竺
      早印本表紙                     巻末


天竺
                 明治期後印分冊本表紙


以下は錦絵の填詞などであるが、偶然見かけたものを記録するしか方法がないので上げておく。

英名二十八衆句 (錦絵、芳幾・芳年画、錦盛堂、慶応2年12月改)

28枚組の最初に「目録」が附され、上に「勝間源五兵衛」以下「濱島正兵衛」まで28人が上げられ、下に「繍像略傳」の担当者として順に「假名垣魯文・岳亭定岡・山々亭有人・爲永春水、瀬川如皐・河竹其水、一葉舎甘阿・巴月庵紫玉・井雙菴笑魯・可志香以」が並べられ、「傭書 松阿弥交來」「彫工 清水柳三」「慶応三丁卯秋\梓客 錦盛堂」とある。二代目岳亭は、このうち「天日坊法策」 (芳幾画)の填詞を担当。「梅折てあたり見まはす野中哉 一髪」、填詞「つばさあるものハたかきをおそれずひれあるものハふかきに喜游きゆうす。仁義じんぎみちさいなく惡意あくいつばさひれあるハそのほろぼつるぎなり。四海しかいのむ毒蛇どくしや法策ほうさく大日坊たいにちばうをしへにもとり観音院くわんおんゐんもん花賣はなうり老婆らうば於三おさんころして墨附すみつき短刀たんとうをうばい鎌倉山かまくらやま星月夜ほしづきよのぞ自己おのれ頼朝よりとも落胤らくいん天日坊てんにちばうのりて竹川たけかは伊賀之助いがのすけ等をはじ一味いちみ惡意あくい兵法ひやうほう一偏いつへんちからこうほう万戸ばんこさかえそのこう半途はんとにして大江おほえ廣元ひろもと智個ちしやかゞみに見やぶられ天網てんかうつひらすことなく由比ヶ濱ゆゐがはまにひかれていのちうしほあはときえ汚名をめい太平たいへいものがたりにのこせり\忍川の水下に流を汲て\岳亭定岡記」。



芋喰僧正魚説法いもくひそうじやううをせつはう (錦絵、芳幾戯画、山本平吉、安政6年12月改)

填詞てんしこの入道にうだう漢名かんめうを。絡蹄こくていといひ形容かたちをさして海藤花かいとうげとなふ花洛みやこにてハ十夜鮹じゆうやだこ又海和尚かいおしやうともいふといへり、しかるに當時たうじ人界にんかいに。もてはやさるるときくものから、許夛あまた魚類うろくずこれをうらやみ。龍宮城りうくうじやう集會あつまり蛸魚たここむかひゆへとふ入道にうたうれいの口をとがらせ。かれこたへとけるやう。善哉々々(ぜんざい/\)われ乍麼そも藥師やくし如来によらひ化身けしんにして圓頂ゑんてう赤衣しやくえ即身即佛そくしんそくぶつ八足はつそく八葉はちえう蓮華れんげをかたどり八功はつく徳水とくすい自在じざいぎやうとす、智力ちりきあけなバ但馬たじま大鮹おほたこまつまとひ巴蛇うはばみを。ぐる蒼海うみ引汐ひきしほの。調理ちやうり御身おみはらにほふむり、万葉集まんえうしういもがりいもほるとの雅言みやひことはた近来ちかごろ童謡こうたにも。たこ因縁いんえんむくひきて。おてらがならてとうたひしハよくはなれさとりにして。足袋たび八足そく入費いりめいとはぬ。珎宝ちんぼう休位きうゐ清淨しやう%\無垢むく。しかハあれども折々(をり/\)浮気うはきなみのりがきてうまれながらにいなと。われからくひあしをくふ。破戒はかいつみをかせしゆへ此程このほど市場いちば辻街つぢ/\に、起臥をきふしうきつとめくわ宅のかまにゆであけられ。られてくはるゝ堕獄だごく苛責かしやくかならずうらやむことなかれと。ゆかたゝひさとせしハに百日の説法せつはうも。いも放屁はうひにきゆるといへる。電光でんくわう朝露ちやうろのおふみさま。あら/\ゆでたこあなかしこ/\\作者卵割\二代の蘖\忍川市隠 岳亭春信戲誌」

「天蓋を身の\袈裟ころも八葉の\蓮華に坐せる\蛸の入道」「みなそこに\こそりてありか鯛ひらめ\すくひ給へや\南無あみの目に\假名垣 魯文」

蛸入道の周囲に「あまだい・かつを・みのがめ・まご九郎・ふぐ・あんかう・なまづ・たい・人魚・めばる・おとひめ・いなせ」が集まって説法を聞いている様子が描かれている。



この外にも雑書や引き札類にも名前が見られ、また『都々逸うかれごま(中本1冊、10丁)の口絵に「ころ/\とかめハころげて日のながき\恩愛のきづなをかけし三味線に娘の所作を引語りせり\岳亭梁左賛\作者六馬」、巻末には「都々逸仕立所\汗亭六馬、よしもり門人盛みつゑがく\めてたし\大當り、岳亭校合」などとあるように、都々逸など音曲本にも魯文などと共に加わっている▼6。 さらに、見立番付集「新会あづまの寿」(東京誌料 448−13)に入っている「似た物くらべ」(3枚)は末尾に「岳亭(定岡)戯作\光齋(芳盛)図画」とある。「駒沢の朝皃\植木屋の朝顔」は浄瑠璃『生写朝顔話』を踏まえ、「親父のかんき\五将軍のかんき」は親父の「勘気」と『国性爺合戦』の「甘輝」との洒落、「曾我のたいめん\大平のたいめん」は曾我の「対面」と大平の「鯛麺」(鯛素麺=祝言用の料理)とを掠めるなど、演劇に基づく絵入りの見立戯文である。

以上、片々たる資料を紹介してきたが、ことは二代目岳亭のみならず、幕末開化期の戯作者については今後とも資料の蒐集が不可欠である。彼等の活動の幅の広さもあり、都々逸などの歌謡や狂歌俳諧のみならず、引き札や他作の序跋などの調査は容易ではないと思われるが、斯様な作業の蓄積によって近世近代の狭間における戯作者達の遺した仕事が明らかに成ると思われる。また、それは近世近代文学史の連続性と差異性とを検証するために必要な作業なのである。



▼1. 山本哲士『プラチック理論への招待』(三交社、1992) 参照。
▼2.https://www.dh-jac.net/db1/books/search.html
▼3. 科研報告書『岳亭八島五岳基礎的研究その一(〜二)(1977〜8)、室蘭市教員特別研究報告書『岳亭八島五岳基礎的研究その3(1980)、「岳亭の基礎的研究−岳亭活動年表−(第6回 国際浮世絵学会〈2001年11月〉の口頭発表資料に別稿を添えた私家版) など。集大成したものの早期公刊が待ち望まれる。
▼4. 高木元「切附本瞥見−岳亭定岡の二作について−(「近世部会会報」8号、日文協近世部会、1986夏 )
▼5. 高木元「末期の中本型読本−いわゆる〈切附本〉について−(『江戸読本の研究』第2章第5節、ぺりかん社、1995) 所収。
▼6. 高木元「魯文の売文業(「国文学研究資料館紀要」第34号、国文学研究資料館、2008)


附言 康志賢氏よりは資料の所蔵機関などに就き多くの教示を得、また小田島洋氏は御架蔵の資料の借覧を許された。お二方から蒙った学恩に深く感謝致します。


# 「二代目岳亭の遺業The Works of Gakutei Ryousa
# 千葉大学大学院「人文社会科学研究」(23号、2011年9月30日)所収
# Web版では字体や表記レイアウト等を変更してあります。
# 『天竺徳兵衛蟇夜話』の項、増補改訂(2012年5月28日)
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