19世紀末、すなわち幕末から明治初年に掛けての戯作者たちの動向に関する調査研究は等閑に付されてきた。その一因は、発展史観の桎梏から逃れられなかった日本文学史が、長年にわたって近世と近代とを明治維新で劃期してきたからである。文学的達成の発見とその顕彰とを自己目的化してきた国文学ゆえ、近代文学史の冒頭に名前が挙げられることの多い仮名垣魯文でさも、近世期における鈍亭時代の著述については充分な調査は備わっていない。このように、基礎研究すら着手されていないにもかかわらず、幕末明治初期の戯作類は〈文学的価値〉なる観点から低く見做され、いまだにその研究価値が見出されることは少ないようである。
しかし、大量の読み物が生産され消費されてきたという文化的プラチック▼1は、社会史的観点からも調査し検討すべき余地が充分に残されているものと思われる。この時期に読み捨てられてきた切附本の調査を思い立ったのも、斯様な日本文学史の欠陥を、幕末から明治初年を通底する十九世紀という枠組みで捉え直すために有用な資料群であると愚考したからに他ならない。幸いにして、30余年来蒐集してきた架蔵資料は、ほぼ切附本の全体像を知ることができる程度の規模になったので、立命館大学アートリサーチセンターの赤間亮氏の手を煩わせて全点全丁の撮影をお願いし、既にインターネット上で公開されている▼2。
さて、幕末の戯作者でもあった初代岳亭(春信・定岡・五岳・丘山など)は、狂歌摺物の絵師としても多くの佳作を遺し、『画本柳樽』や、最長編の江戸読本『俊傑神稲水滸傳』 (全29編、文政11(1828)年?明治20(1887)年)初〜4編迄の画作者として知られているが、その研究は余り進捗していない。わずかに、伝記調査と資料蒐集とに永年の努力をされてきた小田島洋氏の一連の仕事▼3が備わるのみである。就中、氏は従来の文学史や辞典類の言説において、初代岳亭と二代目岳亭とが混同されていることを指摘し、さらに初代の没年が安政3(1856)年以前で在ることを示す新資料を提示されている。
この二代目岳亭については、切附本を調査してきた過程で少なからざる資料にその名を見出すことが出来ることに気付き、とりわけ「岳亭春信遺稿」とする『〈神稲徳次郎|木鼠孝蔵〉 武勇水滸傳』の序で、二代目岳亭が初代岳亭を「師翁」と記述していることを紹介したことがある▼4。また、鈍亭(仮名垣)魯文の遺した仕事を調査している最中にも、魯文と関係の深い二代目岳亭の名前が出てくる資料があるとメモしていた。この時期の戯作界では、作者だけでなく画工や音曲関係者、役者など広い人脈の中で活動をしていたために、その全体像を把握するためには、楽屋落ち的要素の強い細部の記述についても注意を払う必要があるからである。
しかるに最近になって、全南大学校文化社会科学大学の康志賢氏が二代目岳亭の調査を精力的に進めつつあり、その結果を「著編述作品年表」として発表する用意があることを知った。これ幸いと、取り敢えず手許の資料類を提供したので、二代目岳亭の全体像に関する研究については康氏の仕事を待ちたい。しかし良い機会なので、断片的ではあるが手許の資料などについて報告しておくことにする。
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まず、切附本に作者や序者として記載のある「岳亭」は全て二代目岳亭のものと考えられる。以下、一点ずつ上げながら具体的な記述に拠り考証してみたい。
『釋尊御一代記拾遺第四輯』(芳宗画、安政5年、糸屋庄兵衛)
内題下「岳亭梁左 編次\鈍亭魯文 校合」。序末には「……綴 る三編讀切 も世ハ見限らで暴病にも。遁れて拾遺三冊を。委られたる追加注文。筆硯万福活業の。大吉利潤早速と。早呑込の安請合も。五衰三熱三十日前。借金の苦患に間を得ざれば岳亭大人の助筆を乞て。終に至宝成道の諸根の稿を脱するものから。題目序品の發語を。教主めかして説になん。……\鈍亭魯文漫題」とあり、魯文作の三編読切完結後に、「拾遺」(三冊)として出されたもので、岳亭の助筆を受け「編次」としたことが分る。
内題下に「岳亭梁左 編次\鈍亭魯文 校訂」とあり、序には「爰に予が友鈍亭主人そが同盟岳亭子と倶に計て釋尊御一代の概畧を綴れり……是に叙せんとする者は、陸奥の草深き澤間より出て今東江の都に住る\□((虫損))凉亭臥□□((虫損))」とある。
また、口絵(3丁裏)に千社札の意匠で「〈岳|亭〉梁左」「〈鈍|亭〉魯文」「交來」「ホリ竹」「八九勝」等、提灯に「鶴亭秀賀・鈍亭魯文・万亭應賀・大黒屋歌雀・市川家橘」と見える。
架蔵本には板元名等の記載が見られないが、芳宗画の糸庄版だと推測される。また、管見に入った後印本として「御届明治十年五月\地本おろし日本橋通四丁目 横町六番地 佐野金之助板」(見返「東都書林 積玉堂梓」)が在る。
『釋迦御一代記第六編結局』(安政7年、小田島洋氏蔵・架蔵)
内題下に「岳亭梁左 編次\鈍亭魯文 披閲」とあり、序には「釋迦御一代記第六編結局大團圓前鈍亭魯文抄録後岳亭梁左編次故木合本全六巻至寶成道勧功徳佛法弘通偈仰信看官披閲讀誦經\魯鈍翁誌[印]」、下に「諸法實相と説時ハ峯の嵐も法の音万法一如と聽時ハ谷の朽木も佛とかや爰に戀岱の鈍亭主人釋尊御一代の精訳也墨硯の雲を發し筆頭の雨を降して變化究りなし故に前編三帙ハ尚行れて再ひ獅子の法座に居り追加の巻を説かけたり予ハ人通も得兼たる魔神に等き外道の 俗夫具眼の誹謗も不顧視香煙紫雲に駕りて同じ霊臺に騰らんと結帶を頼みに廻らぬ筆の戟採のべて活地獄の苦悩を成て大尾となしゝハ提婆達夛と可言哉呵々(かゝ)\于時安政七庚申孟春 岳亭梁左戯題[印]」 「我田へも一鍬いれし作男釋迦を菩薩にかゆる苗代 秀賀\いにしへを忍が岡そゆかしけれ見ぬ世も人もまじる友達 露香\月花の外にひとりの友垣や雪を灯の枝折たのめば 清沙\此道の大あたまともなれかしとなまくら殿の陰に添めり 花流\蓮の葉にのりの道をもまなびてや經よみ鳥に馴る蛙等 一庭\つもりにし数かきつめて言の葉の錦の衣綴あげけり 魯文」
外題「釋迦御一代記」、改印「申六改」、板心「釈迦六」、38丁、刊記「東都忍岡 岳亭梁左編次\仝 戀岱 鈍亭魯文披閲\仝 洛橋 一松齋芳宗画圖\仝 駒篭 椿園玄湖傭書\于時安政己未孟春結局\書房〈江戸日本橋|通第三坊〉糸屋庄兵衞・糸屋福次郎 梓」。 挿絵(36ウ37オ)に梁左・魯文・芳宗・一庭を描く。
『忠勇景清全傳』(袋入本、鈍亭魯文作、惠齋画、安政6年、森治)岳亭梁左序「往昔の小説に、九尾の狐化して妲妃となると作り、近衛帝玉藻前を愛しゝことハ、謡曲の滑稽にして、信田の森の操觚は、妻恋稲荷の社辺に棲る、此道の老狐、鈍亭長公の机上に成れり。されバ紙上の白面と、九尾の管毛に妖をなし、善惡邪正の教を聡、勁松彰歳寒、貞臣見國危の語となせり。故に勤蠢の変化有て、彼清明が三部の秘書に、綴目ハ硬き葛の蔓、編を次だる六冊の、大尾の簡端に駈者が、緒ひらく文象ハ、尾嵜狐といふべきに哉\同穴なる忍岡に彼蓮池の松藻をかつぎて\己未孟夏\岳亭梁左述」。
この本は、安っぽい切附本流行の最中にあって豪華美麗な装丁が施された中本型読本に近いもので、同年に森治から同様の体裁でまとめて六点の魯文作が出されている▼5。魯文はこれらの本の見返や序などに「假名垣魯文」と記しており、「假名垣」号の早い使用だと思われるが、あるいは「鈍亭」から「假名垣」への転機となった袋入本と見做すことが出来るかもしれない。なお、その後同様の体裁の袋入本が出された形跡も見られないが、もしかしたら「假名垣」号の披露という意味合いがあったのかも知れない。
さて、魯文のことは措いて、この序文で二代目岳亭は自らを「駈者」と称しているので、魯文の引き立てによって安政半ばから戯作を始めたものと考えても良いかも知れない。
なお、跋末には「清真堂の菓舗におゐて梅笠陳人\春亭京鶴誌」とある。
岳亭梁左の漢文叙「是歳天〓雪飄リ春寒花遅シ。偶友生ヲ撩シテ向火夜話ス。坐隅ニ一客有リ、喃々トシテ景清全傳ヲ讀メリ。乃鈍亭魯文子カ著ス所也。凡ソ柱ニ膠シ管ヲ観者ハ之ヲ叩テ将ニ劔ヲ按シテ目ヲ〓トス。儻シ燭ヲ秉リ燈ヲ剪ル人之ヲ見ハ、節ヲ撃テ頭ヲ頷ス所有ン。略其微意ヲ跡ルニ、則忠義ヲ貴テ勧善懲悪之道ヲ述ヘ、人情ヲ冩シテ以伉儷愛慕之心ヲ著ス。維劇傀儡ノ曲胸ノ次ニ蟠リ、滑稽洒落ノ戯、毫ノ端ニ貫ク。糟粕敢テ嘗ズ。狐ノ涎レ其レ舐ツベシ。若乃レ評林花ヲ攅テ、新鮮笑海人ヲシテ蜿シ轉ハ令ム。漢ヲ譯シテ俗ニ通シ、諺ヲ絢テ以テ詞ヲ隱。〓(アヽ)魯文子ハ誰人也。蓋シ前身須狸奴白〓之精ナル應カ。啻稗宦者流之知ラザル所ヲ知ルノミニ匪。况ンヤ又辧瀾夫慱問ニ答ベキ者ヲヤ。自在ナル矣哉。此於テ興ニ乗シテ戯ニ之カ序ヲ為ス\〓安政庚申孟春小台麓且志菴之〓(デコ)人〓ヲ忍川軒ニ〓ス\岳亭梁左識」(私意で書き下した)。
この本も、前項『報讐信太森』と同様に豪華美麗な装丁が施された中本型読本に近い袋入本で、まとめて六点出されたものの一つである。
序文は二代目岳亭が漢文で書いている。斯様な中本型の大衆小説に「漢文序」とは、如何にも似つかわしくない。それも書き下してすらないのである。内容的には一般的な序文と同様であると思われるが、明らかに漢文体の戯文という風情であり、肩肘張った印象を受ける。また、序末で「〓山人」と自称しているが、戯画化された二代目岳亭像を見ると額が高く出ている所謂オデコなので、それを踏まえた戯号だと思われる。「出子散人」と記すこともあった。
内題下「東都忍川 岳亭春信 筆記」、自序「腕の喜三郎後に、晋子其角が門人となりて、片枝と号と、山東庵の翁、奇跡考にいへれども、其本傳を記せし潔なし。予十年あまりの昔、艸紙の上に見聞たる、喜三郎が物語を、紙魚の住家となし客しに、此ほど芸藁をあはせて、不足を補ひ、鎌倉の地名を借て、一代記となし、紫式部が、石山に源氏の巻を經文の、裏書なせし古言に、聊血筋在ものから、下書さへも屑紙に、補修合し、事にぞありける\此書に管を取事三度。始めに冩本にせよと直る者ありて弘化二巳年望にまかせしに。書も人も行方しらず。其後嘉永四亥年。合巻にせまほしくと文屋の主人。好に二度筆をとりしが。家と共に焼失ひ今また此処に其轉記を書す事とハなりぬる\萬延はじめのとし初冬」。
この自序は「東都忍川」とあるので二代目岳亭のものだと思われるが、既に弘化嘉永頃に戯作者として活動していたということになろうか、不審である。襲名は何らかの方法で披露されていたはずであるから、この襲名時期を明らかに出来る書証の出現が望まれる。
なお、東大総合図書館に自筆稿本が所蔵されている由を康氏より教示された。稿本には「作者 岳亭春信\画師 一梅齋芳春」とあるが、板元名は記されてない。序文に貼紙訂正が在り「嘉永元(1848)年」を「嘉永四(1851)年」と、序末「萬延元(1860)」の「元」を消し、年記の「菊月」を「初冬」と訂してある。
内題下に「岳亭春信 文認」、序「天をバ測るべし天をバ究むべからずと、をさなきふみもて昔へのはなし艸に聞えたる、雲切となん云けるしらなみの物がたりを、文屋の好に幸を得て、わずかなる小冊の白帋につらね、考のくはしからず文のうへをさなくて、言葉たらねバいふ事毎に心通らず、景色をおしみて橋の霜を踏がごときに似たれども、さらに虚名の地をまじへず穿鑿をなせりけるも、管をもて天を窺の諺ざなりけれ\ひゑのやまの片邊りに\文久元辛酉季春\狂作堂のあるじ述」。
この序文は自序として読めると思われるが、署名の下に印刻がないので「狂作堂主人」が二代目岳亭の別号であると断定はできない。また「文屋の好に幸を得て」などという口吻はそれかと思わせるが、東叡山下のことを「ひゑのやまの片邊りに」といったのであろうか、不審である。
末丁広告には「繪本勇士鏡 初へんより十へんまで追々近刻 ・義士銘々傳 初へんより十へんまで近刻仕候 \〈敵|討〉腕の喜三郎 全冊 ・青戸硯雲切仁左衛門 全冊\日向景清一代咄 全冊・ 江戸馬喰町四丁目 吉田屋文三郎板」と、近刻予告(縄張り)を含めた書名が見えている。
岳亭主人序「余か友魯文なるものは。小男鹿の妻ごひの里にすめる遊民なるが。をさなき頃より物の本書わざを好て。終に活業とぞなせり。そハ唐土人のいへる心に織筆に耕の道にしてなし。得難きのすさみなるを。〓に一本のふんで。ひとひらの紙もて古へ今の治乱を綴り。善に勧め悪を懲の意匠ぞ編文漢の功にして。田をつくの労にかも似たらまじやは\忍が岡の辺にすめる 岳亭主人しるす」板心は「政清」、尾題は「佐藤成生功記前輯尾」、巻末に糸庄の広告「一代記讀切冊 武者繪草史 其余繪図一枚〓 端本 横本 青標帋の類ひ 且字引 要文抄等 品物澤山所持仕候間御用向被仰付可被下候」。
内題下には「岳亭春信遺稿」とある。序文は、上部に「岳亭定岡」という堂号を揮毫した扁額を描き、その下に「師翁岳亭定岡神稲徳次郎鼡小僧主を始めとして猛賊百八人をあはせ俊傑神稲水滸傳と題せしハ編を次て数をかさね今亦書肆の好とて予に徳治郎の傳を操と索に筆を取やへす七尺さつて師の影をわすかに因み燈火を挑げながらに雑書をひらき諸こくの疑團を集合せりされとも國々の物がたりにいたりてさらに虚せつをまじへず見る人作者の空言としたもうな\萬延ふたとせ太郎月 東都忍川市隱 春信筆記」とある。
さらに口絵見開一図の次に
と追善句が並ぶ。つまり、初代岳亭の没年は本作の刊行から余り遡らない時期、それも二代目が「岳亭梁左」と名告っていた安政期以降ではなかったかと想像できる。
蝶/\や何をたすねて水の上 一艸 ふりあげた鞭にからまる小蝶哉 喜樂 浪をおひ浪におはるゝ小蝶かな 一星 蝶一ッ 廬生が窓を出しにや 露>香 是がマア毛虫の末か池のてふ 負似彦 水かみに影の流るゝ小蝶かな 可山介 繪筆にも来て眠りけり春の蝶 芳春 さらに巻末に「此書事永くして神稲徳次郎木鼡孝蔵の行末まてをとき盡せず。ゆへに母おいね立山なる文吉の敵を討て一巻の萬尾となしぬ。諸子の好を待て編を次べし。予 先の年神稲水滸傳を合巻になをし宇治拾遺を述たり。其物がたりハ古事を引て著まうけしが近きに世の中に出べし。されどもこのものがたりと大いにたがひて同じからず。是は諸こくにありふれたる咄し草を胸としたり。板元をたばかり人の作せる物を其まゝに認將禄なりとて出せるハなし。故に作つたなくして巻中に出たる國々(くに/\)を圖にあらわす。中にも江の嶋の龍穴ハ見さる人あり。是なん彼地にいたりて尋ね索るに安し。右りの方へ五六間岩屋の前より岩の上をいたるなり。余ハ本文にいでたり。画工筆者も笑ふべけれど此所をもつて見ゆるしたまへ。」 などと、殊更に切附本というジャンルの本質が抄録であることを踏まえた上で、敢えて独自性を主張している。これらの言説を見るに、本作は「岳亭春信遺稿」と標榜しつつも、実質的には追悼作として二代目岳亭の手に成ったものであると考えられる。
また、末丁の広告に「青戸硯雲切仁左エ門・敵討腕の喜三郎・日向景清一代咄・〈神稲徳次郎|木鼠孝蔵〉廻國□□□((汚損))・石川五右衛門一代咄・〈岳亭春信作|一梅齋芳春画〉」とあるが、此処に列挙されている題名は他の切附本に付された吉田屋文三郎板と相似しているので、本作も吉文板ではないかと思われ、同時に原本に刊年が見られない『日向景清一代咄』『執讐海士漁舩』なども万延二(1861)年(=文久元年)頃の刊行ではないかと推測できる。つまり、この頃の吉文と二代目岳亭の緊密さがうかがわれるのである。
内題下に「岳亭春信筆記」、柳亭露香による序末に「……宝暦の昔より日向景清といへる物がたりあるをもて我友岳亭主人音和の瀧の長咄しを一小冊に汲とりて硯を混す事とハなりぬ\柳亭露香述」とある。
外題は『天竺徳兵衛一代話』、内題下「岳亭梁左著」。序文なし。京伝の合巻『敵討天竺徳兵衛』 (豊国画、文化5(1808)年)の抄録物であるが、登場人物名などが改変され、天竺徳兵衛の出自を純友の末流とはせずに、原話には見られなかった細川浪六の復讐譚を組み込み、〈堀川猿廻しの段〉を利用した箇所を〈水木辰之助舞扇遊里通住吉〉の趣きに変えるなど、それなりに作品構成にも手を加えている。
見開き1図に、大宅太郎光國、宮本武蔵政名、吉岡拳法、佐々木巖流、松井民次郎義仲以下の豪傑等を略伝事跡と共に描いた絵本。序末「文武の両道を摸せる哉画筆の二道にも大平の餘澤ならめや\時萬延二辛酉太郎月筆染\東叡山下北窓 岳亭春信記」と、画作であることを記している。
外題『伊達黒白論』(一本『仙代萩黒白論』)、(7枚丁付が重複)計31丁。 巻末(丁付では23ウ)に「集言」として「此評定の巻ハ玉光齋主の実傳を誌たる成しが丁数の短文なれバ今予に仁木弾正左衛門の傳を述よと在を幸ひ其物語りを開にいたれり。されども本傳を云にあらず拙き筆もて綴合たるにハ在ども虚ハ實に返るの理言二木が始めの忠臣も後にハ惡の為に惡まれるの事にして虚も眞事と見ゆるし給へ」と在るように、龍川漁者『伊達姿評定鑑』、玉光齋主人序、直政画、品川屋久助板と合綴されている。後印改修本か。
外題「芳宗画」。扉に「二本杉大明神」を描き「春の色を見よとの舞は知らねどもこゝに忘れし蝉の羽衣\岳亭賛」とある。自序「序文に替て二本杉を出せしハ物に勝を願ふ人の木の本に来りて気精を懸るゆへに記せしなれバ巻中に在にあらず。倶に天のいたゞかずと一心込めたる一筋の新古を問ず雑書を開いて見出るを其儘に集合せるのみなれバ拙きもまた多からめ\東都忍川赤本作者 岳亭春信傳」。
目録に相当する「巻中仇討連名記・總數貮拾八番」には「石井玄次郎弟樊次郎」以下「石井常右エ門娘すて」までが列挙されており、全丁絵入りで簡潔に事跡が記述されている絵本。末丁には「四季ともに盛りはつきぬ草双帋大吉利市いつもめでたし」とあり、広告「武者修行巡録傳\男達銘々傳\敵討高名録\怪談伽草紙\岳亭作芳年畫」が載る。このうち『怪談伽草紙』は未見。
自序「初編の巻にハ所有古今の敵討を記けるに板元の欲心から二編の巻の好を請込是かあれかと雜書を開て見た處が腹に工風の限り在バ昔咄しに聞覚へて千艸袋の抜書から拾ひ集し怪談の咄の内の仇討と目先を替る画工ハおなじみ筆の緑の一松齋なを三編ハ初春の雪消と友にとく事しかり\文久二戌 秋 岳亭主人記」。
口絵に田宮坊太郎の敵討を載せ、本文は全丁絵入りで累説話・越後万吉・間墨善之烝・大井美知丸の怪談をオムニバスする切附本。板心「高名二」、巻末に幣を持つ額の高い二代目岳亭春信像が描かれている。
序末「……長物語りを、夏の夜の短夜話に綴れよと、新庄堂の軍配に、童男童女押寄て、曳々声の御評判、机に向つて希ふになん\文久二戌年菊月\東都忍川市隠 文亭春峩述」
この「文亭春峩」も「東都忍川市隠」とあるから二代目岳亭の別号であろう。
外題「国周画」、扉に「犬も尾をふることの葉を今もなを実に八人の星まつりより 兵亭」とある。
自序「犬は意懐を展随ッて怨念を散ずとかや。婦志姫八ッ房に呼聞名はれて冨山に至り帝より八犬士の銘々傳記は蓑笠翁を一世お残す行末をしるせ出せり。草帋のはじめに引上其面影を圖せよと問屋の好みに久しぶりなまけた管を鳥が啼忍川の菴を出て清水が元に轉宅の八房ならぬやつがれが犬もあるけば棒とやら八犬士にはあらずとも八笑人の友まちて東叡山の森かげなる南窓に頬杖しなから硯を濡す事とハなりぬ\子初春\春信改 岳亭定岡述」。
全丁挿絵入り、『南総里見八犬伝』の抄録切附本。巻末に「是より左母二郎がすり替たる村雨丸を出すくだりは二のまきに書入れ引つゞき出板仕候\文亭鈔録・一松齋工筆」とあり、この「文亭」も二代目岳亭の別号であろうか。なお、本作は二編と併せて、拙稿「義勇八犬傳 −解題と翻刻−」 (「人文研究」第35号、千葉大学文学部、2006年3月)で紹介した。
扉に自画像を描き「江柳に釣り上げられな浮氷\文廼屋仲丸賛\春峩自画」とある。この「春峩」も二代目岳亭の別号であることになる。
自序「師克在和不在衆と犬塚信乃森高古賀の城内に數千の討手を切抜て宝龍閣に登り玄八と綬合て戸根川に落たるを渡るに舩と三編に残しぬ。本より其筋書にもたらぬ事を書入にして新庄堂の催促を防ぐのみなれば、うれるは画工が手柄にして馬琴翁の世にあらば、さぞ嘆かはしく思はんとつぶやき/\文を捨て繪を切り抜きし戯作の道草如是畜生菩提〔心〕仁義礼智の、たま/\に人の畑に鍬を入れる谷中の〔道〕の片邊り清水が元に筆を染ぬ。」 (〔 〕内は推読)
架蔵本は序末の年記と序者名とを削った痕跡が見えることから後印本だと思われる。また、10丁以下破損しているため、巻末の署名も未見である。また、予告されている3編も未見。早印完本の出現を待ちたい。
内題下に「岳亭定岡 文記」。自序「夫大将たる人大國を保ち大勢を持て武勇勝れたりといふとも合戦を好時ハ必ず亡ぶ。木登ハ木に果水練ハ水に果る理言天下太平たりとも備へ無ハ士卒侮り國を奪事を欲す。文武ハ鳥の翼にひとしく車の両輪にして両方か長短あらバ全からず。左傳曰師克在和君臣和合不成バ十万の勢あり共頼むべからず。今河中島武將傳記と題号して天文十四年を始として同二十三年までの合戦を述て信謙謙信をもて此双紙の翼とする而巳\慶應二丙 寅夏\岳亭定岡述」
上中下2冊。錦耕堂の軍談シリーズ。
内題下「岳亭定岡文巻」、自序「輕虜の者ハ不可以治國、獨智の者ハ不可存君とや。熟思ひ審に處せざれバ、生得の智を自足りとす。日吉丸ハ吾身を顧ることを知り、宜人を知の才智在て、おのづから其職に登、桐樹の長ずる縡、一歳丈余萬木是に〓ぶ者なし。宜なるかな、豐太閤が花號黙とする〔瓢箪の図〕(もの)、是に寄ものならん\丙寅初秋\岳亭定岡文記」。
袋入本、上下2冊。挿絵 (34表)には「岳亭画」とある。板元「吉文」は後印か。
内題下「岳亭定岡文案」、自序「天に時あり人に時あり文江堂の主人秀吉の出世物語りを認めよと好も時に幸ひの久しく病ひにおかされて休作なせし才先吉と日吉丸誕生より書つゞめたる二編の巻画工も作者も出氣物の出来秋延引なせし云分も早霜月の寒夜をいとはず引書をひらきて筆鳥が啼つれ渡る東雲頃二階の初声外事ならず編を重し長天窓今二の巻に二代の出子助初湯さはぎの其中に硯の水をつぎさして在のまんまを記おはんぬ\岳亭定岡述」
袋入本上下2冊。
内題下「岳亭定岡文按」、自序「四海浪静に、諫鼓苔深ふして、八荒武徳に靡、風雨枝をならさず、月雪花を弄び、見ぬ世の人を友とする、作者は元より、童毛衆ハ、芳盛が毫の武者人形、目も鼻もなき草藁から、鎧兜の筋骨に、強弱の結目をわかち、善惡ともに髪かたち、作ばへせぬ書抜も、是太平の物語にこそ\于時慶應元年仲夏中の日忍川の草菴に豊村ぬしの軍用藥を手傳ながら\岳亭定岡記」
袋入本上下二冊。
内題下「岳亭定岡文記」、自序「呉漢の代の左慈字ハ元放、経学を好て天柱山に入、道を学び石室の間に秘書をいよ/\神異の術を鍛錬なし、銅の盃に釣をたれて鱸魚を求め、山林に入て〓となる変化きはまりなし。今太閤記四の巻にいたりて秀吉栗原山に分入、竹中重治を師と頼み、後軍学の道廣く変化の術をきわめて向ふに敵なく、天下の武将とあをがる。師なくして大家をなすものハ破るの道ありて久しからず。同僚といへとも其成ことの宜きを眞似る時ハ幸をなすことあり。孝の眞似して孝子とよばれ、惡のまねして惡人となる。交定猶杵舂間といへるも、道を学に上下のへだてあらずして、宜きを取り惡きを捨なバ其徳を得る事多からんと、老婆心を序文にしるすも、元より伽草紙の心意ならん哉\丙寅の秋\岳亭定岡述」
袋入本上下2冊。挿絵 (18裏)には「岳亭自画」とある。板元「吉文」は後印版か。
内題下「岳亭山人定岡 文記」、自序「今太閤記の六の巻にいたりしハ、是さいはい、せんなり匏瓜、駒をいださん巧風ハなけれど、雜書を開ひて、あとさきを合すも、むかしの種ふくべ、ひやうたん川へうちこんだ、と笑ひ給ふかしらねとも、轉でけがのないまじない。まん尾となるまで、のう/\と鯰をおさへる酒ひやうたん、葫蘆あたまは作者のあざな、うつた中間の一光齋、酒はやめたと水入に、つかふふくべも一升の、徳をそなへし壷蘆にありける \夕顔棚の下谷にすめる\岳亭定岡しるす」
袋入本上下2冊。序文中で「葫蘆あたまは作者のあざな」と例のオデコを上げ、同時に画工の芳盛についても「中間の一光齋」とある。巻頭「集意」と巻末に「次の巻」の予告があるが、刊否は未詳。
自序「師克在レ和不在レ衆(いくさにかつことハくわにありしうにあらず)と勝負を論ぜず。耳なれたる一孤の豪傑をゑらみて少に傳を記、童毛の急分り安く、弁慶の大力、義經の利發なるも、古への繪巻物もて御伽ばなしの便とせり、と好を得手に帆かけ船、管左楫に雑書の港口をひらく初霞、岸に當の當世堂。切はなしたる艫縄が、丁度人氣に相生の七五三錺なり。画工の若松舟に美よしと評判を希ふ。御岸も胴の間に、はなれな道の海とにこそ\岳亭定岡 文記」
外題「武勇競」。全丁絵入りで「鎌倉の権五郎景政・鳥海弥三郎、桃井直常、菊地武光、足利高經、小山悪四郎隆政、殿法印良忠、佐々木三郎盛綱、野木入道ョ玄」を略伝と共に描いた絵本。初編は未見。
内題下「忍川市人 岳亭定岡文案」。自序「孝ハ百行の本にして忠臣ハ孝子の門より出ると仁義五常も唯孝全なるが故におこる。是を真似て孝となり是を似世て臣となる。其徳余り有。爰ニ予が友一光齋ハ宮本無三四にあらねども繪と筆校の両刀を以て書坊が需の早藝に我流作者の数ならねど巌流氣取の受込ハ傳記につゞる草藁の出句助彼白倉といわれんにこそ。
集意 白倉源吾右衛門の娘糸萩といへるハ本傳ならねと此書無三四を一ト筋にして他を除き文を詰て見安からんを専らとなしけれバ帆掛舩の風なきが如く所謂艶のあらざれバ中の巻なるひとくだりハ編者の余晴と知り給へかし \丙寅の春日\忍川の市人/岳亭定岡記」
上中下2冊。錦耕堂の軍談シリーズ。一光齋芳盛が画工と筆耕とを兼ねていたことが記されており興味深い。
内題下「岳亭定岡 文案」。自序「水の月手にも取れぬを書とりて御兒童様がたの御伽にもせよと錦耕堂の主人の乞はるゝに任せ廻らぬ毫の鹿の毛以て羊の紙に書綴らんと幾度か机に向へど元来淺き智惠袋思はす過し月日の數に催促の早馬ハ日々に来るに詮方なけれバ馬鹿おし強しと御笑ひも顧みず起原ハ政宗河井子ゆへに母の入れ智惠荒木の義気を櫻井が櫻木にものして仇討の名高きを伊賀の上野のうへまでも美名を末世に知らせんといふものハ\慶應四辰 夏\岳亭主人述」
上中下三冊。錦耕堂の軍談シリーズ。
内題下に「岳亭定岡文記(文意)」。自序「夫日吉丸の昔より桐樹の長する縡一歳丈余萬木是ニ 〓ぶものなし。豊太閤が馬印千成ひさご花落より此巻の前後の作者仙果大人ハ先の柳亭種彦の畑より出たる蔓壺廬予もまた柳の影うつす同じ流れの腰葫蘆久しく作を延引しが明地の在に種ひたせと朝香樓の進に元づき蔓とつたの結び附まき散したるひと袋折も幸ひ日吉まる朝鮮までの長物語をひさこのつると希ふなん\時ニ )明治二巳年孟夏\岳亭定岡」
上中下三冊。錦耕堂の軍談シリーズ。
ここまで切附本について見てきたが、次に草双紙に触れておきたい。幕末に広く読まれた合巻は所在の知れないものも少なくないが、基本的に板本は多数摺られたものなので何処かには残存しているものである。その出現を気長に待つしかないのであるが、気にしていると入手できる機会に恵まれることもある。以下の管見に入ったものと架蔵本とについて紹介しておこう。
『伊賀越誉仇討』 (外題、岳亭梁左序、安政6年9月改)
2編各2巻合1冊 (各冊13〈6+7〉丁)、錦絵風摺付表紙二枚続き、前編序はオデコの作者自画像の上に「姑々の書出善悪邪正を込たるハ當世風の夜咄に等しく此所で〓點て次の巻へ後ハ翌晩の語と遺紙候を待宵の月の出迄と限りあれハ前後二冊を中入前とし伊賀の上野の仇討ハ篇を替てと扇ハチ/\巡ぬ舌に述事しかり\岳亭梁左\安政七己未春脱稿\[未九改]」
後編序「抑此草紙ハ常に聞伊賀上野の仇討にことなる所ハ何故ぞや。鈍亭兄が影を踏何か紙候と机に直り雑書を開て繰返せど差當工夫も非れバ子幽田に遺し桃太郎鬼が嶋なる宝の政宗猿と蟹との争より靱負が討れる土船に松之烝が舌切雀重葛籠の中から出る見越にあらぬ悪四郎枯木に花咲伊賀上野於房が鼡の娘入と一が華て目出度/\\于時安政己未孟春\[未九改]\忍川の流を硯に満て\岳亭梁左述」。板心「いがこへ前上 (下)」「いがこへ後上 (下)」。
板元も画工も記載がない。5丁の倍数になっていない変則的な丁数構成である。(偶然見かけた1冊本の外題「芳宗画」)
『天竺徳兵衛蟇夜話』 (序題、出子散人作、歌川國久画、文久元年)
4巻合1冊 (20丁)、外題「天竺徳兵衞\芳宗画」、序「古池や蛙飛込む水の音とハ桃青翁が一代の名吟。それに因の此稗史は世にも名高き天竺徳兵衛。是哉戯場の一番目幾も替らぬ評判をはづさぬ春信が管のあや。去年の作意を再案し廻り舞臺に趣向を替しハふるいけならぬ新奇妙算。さるを僕短才もて此半丁へ填詞ハさりとハ押の蹲踞蝦蟇の面へ水の音。いけしやあ/\と述るになん\文久元辛酉初冬\忍川の北窓に 山亭秋信」、板心「がま」、巻末「出子散人作\歌川國久画」、この末丁に文机に両肘を付いたオデコの作者像が描かれている。
なお、序者「山亭秋信」は梁左の別号か。あるいは仲間であろうか。
架蔵の比較的早印と思しき1本は20丁1冊。もう1本は改装された明治期の後印本で上下2分冊され10ウと11オの絵柄が繋がっていない。外題は明治期特有の化学染料を用いた上下続きの絵柄で「天竺徳兵エ一代記\上ノ巻\下ノ巻」とある。序末の年記を削った板木の磨り減った後印本で、上巻奥目録に「錦繪圖扇問屋〈日本橋区|本銀町二丁目角〉澤村屋清吉」とある (下巻の後ろ表紙欠)。
早印本表紙 巻末
明治期後印分冊本表紙
以下は錦絵の填詞などであるが、偶然見かけたものを記録するしか方法がないので上げておく。
『英名二十八衆句』 (錦絵、芳幾・芳年画、錦盛堂、慶応2年12月改)
28枚組の最初に「目録」が附され、上に「勝間源五兵衛」以下「濱島正兵衛」まで28人が上げられ、下に「繍像略傳」の担当者として順に「假名垣魯文・岳亭定岡・山々亭有人・爲永春水、瀬川如皐・河竹其水、一葉舎甘阿・巴月庵紫玉・井雙菴笑魯・可志香以」が並べられ、「傭書 松阿弥交來」「彫工 清水柳三」「慶応三丁卯秋\梓客 錦盛堂」とある。二代目岳亭は、このうち「天日坊法策」 (芳幾画)の填詞を担当。「梅折てあたり見まはす野中哉 一髪」、填詞「翼あるものハ高きを畏れず鰭あるものハ深きに喜游す。仁義の道に才なく惡意に翼鰭あるハ其身を亡す劔なり。四海を呑毒蛇法策ハ師大日坊が教にもとり観音院の門に花賣の老婆於三を殺して墨附短刀をうばい鎌倉山の星月夜を望み自己頼朝の落胤天日坊と名のりて竹川伊賀之助等を始め一味の惡意に兵法一偏の力侯封万戸の栄その功半途にして大江廣元が智個の鑑に見やぶられ天網終に洩らすことなく由比ヶ濱にひかれて命ハ潮の泡ときえ汚名を太平の物がたりに残せり\忍川の水下に流を汲て\岳亭定岡記」。
「填詞\此入道の漢名を。絡蹄といひ形容をさして海藤花と称。花洛にてハ十夜鮹。又海和尚ともいふといへり、然るに當時人界に。持奏ると聞ものから、許夛の魚類是をうらやみ。龍宮城に集會て蛸魚に對て故を問、入道例の口を鋒せ。渠等に答て説るやう。善哉々々(ぜんざい/\)我ハ乍麼藥師如来の化身にして圓頂赤衣ハ即身即佛八足に八葉の蓮華をかたどり八功徳水自在を行とす、智力を論なバ但馬の大鮹松に纏し巴蛇を。根ぐる蒼海へ引汐の。調理ハ御身等が腹にほふむり、万葉集の妹許も芋を堀との雅言將近来の童謡にも。蛸の因縁報きて。おてらがならてと唄しハ欲を離た悟にして。足袋八足の入費を厭ぬ。珎宝休位清淨無垢。しかハあれども折々(をり/\)ハ浮気の浪に乗がきて生れながらに酢いな身と。我から身を喰足をくふ。破戒の罪を侵せしゆへ此程市場辻街に、身を起臥の優つとめ火宅の釜にゆであけられ。煮られて喰るゝ堕獄の苛責。必ずうらやむことなかれと。床を叩て諭せしハ實に百日の説法も。芋の放屁にきゆるといへる。電光朝露のお文さま。あら/\ゆで蛸、疣かしこ/\\作者卵割\二代の蘖\忍川市隠 岳亭春信戲誌」
「天蓋を身の\袈裟ころも八葉の\蓮華に坐せる\蛸の入道」「みなそこに\こそりてありか鯛ひらめ\すくひ給へや\南無あみの目に\假名垣 魯文」
蛸入道の周囲に「あまだい・かつを・みのがめ・まご九郎・ふぐ・あんかう・なまづ・たい・人魚・めばる・おとひめ・いなせ」が集まって説法を聞いている様子が描かれている。
この外にも雑書や引き札類にも名前が見られ、また『都々逸うかれ駒』(中本1冊、10丁)の口絵に「ころ/\とかめハころげて日のながき\恩愛のきづなをかけし三味線に娘の所作を引語りせり\岳亭梁左賛\作者六馬」、巻末には「都々逸仕立所\汗亭六馬、よしもり門人盛みつゑがく\めてたし\大當り、岳亭校合」などとあるように、都々逸など音曲本にも魯文などと共に加わっている▼6。
さらに、見立番付集「新会あづまの寿」(東京誌料 448−13)に入っている「似た物くらべ」(3枚)は末尾に「岳亭(定岡)戯作\光齋(芳盛)図画」とある。「駒沢の朝皃\植木屋の朝顔」は浄瑠璃『生写朝顔話』を踏まえ、「親父のかんき\五将軍のかんき」は親父の「勘気」と『国性爺合戦』の「甘輝」との洒落、「曾我のたいめん\大平のたいめん」は曾我の「対面」と大平の「鯛麺」(鯛素麺=祝言用の料理)とを掠めるなど、演劇に基づく絵入りの見立戯文である。
以上、片々たる資料を紹介してきたが、ことは二代目岳亭のみならず、幕末開化期の戯作者については今後とも資料の蒐集が不可欠である。彼等の活動の幅の広さもあり、都々逸などの歌謡や狂歌俳諧のみならず、引き札や他作の序跋などの調査は容易ではないと思われるが、斯様な作業の蓄積によって近世近代の狭間における戯作者達の遺した仕事が明らかに成ると思われる。また、それは近世近代文学史の連続性と差異性とを検証するために必要な作業なのである。
注
▼1. 山本哲士『プラチック理論への招待』(三交社、1992) 参照。
▼2.https://www.dh-jac.net/db1/books/search.html
▼3. 科研報告書『岳亭八島五岳基礎的研究その一(〜二)』(1977〜8)、室蘭市教員特別研究報告書『岳亭八島五岳基礎的研究その3』(1980)、「岳亭の基礎的研究−岳亭活動年表−」(第6回 国際浮世絵学会〈2001年11月〉の口頭発表資料に別稿を添えた私家版) など。集大成したものの早期公刊が待ち望まれる。
▼4. 高木元「切附本瞥見−岳亭定岡の二作について−」(「近世部会会報」8号、日文協近世部会、1986夏 )
▼5. 高木元「末期の中本型読本−いわゆる〈切附本〉について−」(『江戸読本の研究』第2章第5節、ぺりかん社、1995) 所収。
▼6. 高木元「魯文の売文業」(「国文学研究資料館紀要」第34号、国文学研究資料館、2008)。
附言 康志賢氏よりは資料の所蔵機関などに就き多くの教示を得、また小田島洋氏は御架蔵の資料の借覧を許された。お二方から蒙った学恩に深く感謝致します。