『江戸読本の研究』第四章 江戸読本の周辺

第三節 草双紙の十九世紀 −メディアとしての様式−
高 木  元 

  一 はじめに

近世期全般を通じて、もっとも広く大勢の読者に読み継がれてきた文芸ジャンルは草双紙であった。17世紀後半、赤本に始まった草双紙は、時代が下るにつれて黒本、青本、黄表紙と、内容に見合った装いの変化を遂げつつ出板され続けた。19世紀に至り合巻としての様式が定着した後は、「今じや合巻といへば子どもまでが草双紙のことだと思ひやす」▼1ということになったのである。

この草双紙が近世小説の一ジャンルとして異例な息の長さを保った理由は、継続的な需要に支えられた商品価値を維持すべく、時世の流行に合わせて体裁と内容とを変化させ続けたからにほかならない。

従前の文学史に従えば、19世紀後半という時期は、幕末開化期として括られ、いわば発展史観的に近代文学発生前夜として見做されてきた。草双紙合巻も末期戯作と位置付けられ、低俗なものとされてきたのである。しかし本来の戯作というものは、18世紀末に安永天明期の黄表紙や洒落本を中心とした狂歌壇に生きた人々の、自己顕示と自己韜晦の微妙な平衡感覚に基づく表現主体の精神性に関する謂いである▼2。すなわち戯作であることは、作品自体の文学的価値とは次元を異にする問題のはずである。確かに近世後期になると、後期戯作という用語でいわゆる通俗小説を指示するようになった。だが通俗的でない近世後期小説などは存在しなかったのであるし、やはり文学的価値を表わす用語としてではなく、表現主体の作品との距離観を含んだ意味合いをも考えるべきであろう。ならば幕末開化期の草双紙を取り上げて、末期戯作としての低俗性だけをあげつらってみても何の意味もないのである。

文化史的な観点に立脚すれば、過去に出板された本というモノ自体には、本質的な価値の相違はないのである。つまり出板されて流通していた以上は、それを維持していた社会機構と、それを享受した少なからざる人々とが存在していたわけで、そのことは本自体の文学的価値とはまったく次元を異にする問題なのである。敢えて強弁すれば、文学的価値の発見や顕彰のみが国文学研究の目的ではないはずであるし、まして見るべきものはないと等閑視されてきた作品群を研究対象としなければ、我が国の十九世紀小説の大半は放置されたままでよいことになってしまう▼3

そこで本節では、近世近代という時代区分を相対化するために、幕末維新開化期を包括した十九世紀を一つの時代区分として見る視点に立ち、まずは作品評価を留保しつつ、草双紙というジャンルについて考えてみることにしたい。

  二 合巻の史的展開

まず草双紙合巻の変遷について、鈴木重三氏の所説▼4にしたがって整理すると次のようになる。

  
勃興期(前)文化4年〜文化6年 短編読切。形式の揺籃期。
勃興期(後)文化7年〜文化14年 短編読切。形式の定着期。
爛熟期(前)文政元年〜文政6年 短編読切が中心。発展期。
爛熟期(後)文政7年〜天保14年 短編長編の併存。転換期。
衰 退 期弘化元年〜慶応3年 長編続物が中心。沈滞期。
衰 滅 期明治元年〜明治20年頃 新聞雑誌へ解消。終息期。

勃興期前期には、敵討物流行による黄表紙の長編化という変化から2〜3冊(巻)を合冊(巻)するようになり、読本からの影響を受けつつ試行錯誤をしていた。後期になると、次第に錦絵風摺付表紙を持つ前後2巻(全30丁)という形式でほぼ安定する。短編読切合巻が中心の時代で、内容的には歌舞伎と接近し、表紙や挿絵に役者似顔が多く用いられるようになる。

爛熟期前期に入ると、内容も外観も洗練され、上中下3巻(全30丁)をもって1編とするものが見え始める。ただし文政元年の出板部数だけが極端に減じており、これは前年に「慰みもの花美の上甚だ高料なる事然るべからずと御沙汰有之」(文政元〈1818〉年10月28日付鈴木牧之宛馬琴書翰)▼5という取り締りがあったためである。後期になると、文政7年に「西遊記」の翻案作である『金毘羅舩利生纜』(馬琴作、英泉画)が出されたのを契機に、『偐紫田舎源氏』などの長編合巻が流行していく。一方、飢饉や社会不安の中で、山東京山『豊年百姓鏡』のように新風を樹立しようとする動きも見られた▼6

衰退期は、天保改革直後の弘化年間の自粛期を経て、嘉永以降になると長編続物が刊行されていく。一方、新興板元の手によって上演歌舞伎の筋書風草双紙である正本写▼7や、実録講談を抄録した切附本▼8が流行する。

衰滅期の初めは、明治維新後の混乱中にも長編合巻の続編が出された。明治10年代に入って小新聞の続き物や雑誌から独立した〈明治期草双紙〉▼9が出始めるが、活版印刷による所謂〈東京式合巻〉▼10が出現すると、明治15年頃を境にして木板の所謂〈江戸式合巻〉は次第に姿を消す。さらに20年代に入ると活字洋装本が主流をしめ、ついに草双紙は見られなくなる。

  三 天保の改革

以上見てきたような変遷をたどった19世紀の草双紙史にとって、最初の大きな転換点は天保改革である。草双紙というジャンル自体の内包していた問題が顕在化した契機に過ぎないとも考えられるが、少し具体的に見てみよう。

天保改革によって人情本が大打撃を蒙ったことは言を俟たない。しかし草双紙も、天保14〈1843〉年には新作がほとんど見られなかった。翌弘化元年に出たものでも、表紙は悉く濃淡の墨だけを用いた地味な絵柄で、教訓的な作品か、さもなければ再板(摺)ものであった。一方、人気作であった『偐紫田舎源氏』も絶板にされ、板元であった老舗鶴屋喜右衛門も衰退の一途をたどることになる。だが肝心なのは、天保12〈1841〉年12月に改革の要諦として打ち出された株仲間解散令が、嘉永4〈1851〉年3月の再興令まで効力を持ち続けたことである▼11。検閲の強化や教訓の奨励が行なわれたと同時に、重板類板を監視する機構がなくなり、新規開業が勧められた。類板重板の心配がないから、新興の板元が参入するのは比較的容易であった。これらの板元は嘉永再興時には〈仮組〉となり、以後の草双紙出板を担っていくことになる。結果的には、書物問屋や地本問屋は解体し、業界の再編成が行なわれることになったのである。

その渦中、鶴喜と対照的に飛躍的発展を遂げたのが紅英堂蔦屋吉蔵。種彦や春水という作者を失った天保改革後、読本抄録などを中心とする長編続物という方向を定め、衰退期から衰滅期にかけて陸続と長編合巻を出し続けたのであった。

明治期後印本特有の黄色無地表紙を持つ『八犬傳犬廼草紙』巻44巻末に付された蔦屋吉蔵の広告「明治七年甲戌陽春開板標目」には11種の長編合巻が挙げられ、「何編迄出板」などと記されている。明治4〈1871〉年刊の蔦吉(林吉蔵)板『薮鴬八幡不知』(有人作、芳虎画)巻末広告では、「厚化粧萬年嶋田、廾編大尾」以下「七ふしき葛飾譚、十五大尾」まで、10作の長編合巻がすべて「大尾」となっている。これらの広告は嘉永以降、蔦吉が続けてきた様式であり、予告の意味合いも含まれていたので信用はできない。実際に出た最終巻数と出板時期については、原本で確認しながら今後の精査が必要ではあるが、天保改革以後の継続的な出板が明治10年頃まで続けられていたことは確認できる。

また同じ黄色表紙の『水鏡山鳥奇談』(秀賀作、國周画、元治2〈1865〉年)には、見返しに「假名垣魯文著\明治十四年四月新刻」と見え、こちらは鶴喜から地本問屋元組株を譲り受けた辻岡文助の手になる本の後印であった。これらの事例からは、明治に入ってからも長編合巻の続編だけでなく、旧作の後印本も出されていたことがわかる。

  四 合巻の丁数と冊数

ではつぎに、もう一つの大きな転換点であった〈明治期草双紙〉の登場と、活版印刷の普及について見ることにしたい。

まず気になるのは編巻の構成の変化である。勃興期は6巻2冊(30丁)や5巻2冊(25丁)などが一般的であったのが、次第に6巻3冊(30丁)という構成のものが出てくる。爛熟期に入り長編続き物が流行しだすと4巻2冊(20丁)が標準になり、これが衰滅期まで続く。もちろん黄表紙仕立の廉価版でしか出板されなかった作品もあったし、上紙摺りの半紙本仕立の編成とは相違する場合もある。さらに景物本などでは2巻1冊(10丁)という編成も見られるから、一概にはいえないが、大きな変化の流れとしては、6巻2冊・6巻3冊・4巻2冊というように変化していったものと思われる。表紙の絵柄を考えれば、2枚続きより3枚続きの方が見映えがする。だが3で割り切れない巻数の場合に中途半端な丁で綴じ分けなければならず、現に2冊の作品を3冊に綴じ分けた後印本なども存在する。ただ明治11年以降に出た〈明治期草双紙〉になると、今度は3冊が標準になるのである。

この現象を読本の場合と同じように、貸本屋が見料を稼ぐためにする分冊だとすれば理解しやすいが、草双紙の場合は個人購入の方が多かったと思われるので、そう簡単には片付かない。あるいは表紙の作成経費などを考慮した仕込みと売価という損得勘定の結果であろうか。

一方、丁数の問題でいえば、5丁で1冊を構成するという伝統は近世末期まで律義に守られていた。次の馬琴書翰によれば▼12

一金瓶梅稿本、極細字ニて、難義の趣申上候ニ付、画と文ト別冊ニいたし、書ハ大字ニ書候ハヽ宜しかるへきト思召候よし被仰示、此義は野生もかねてさいたし度存候へとも、草紙類改名主抔申者ハ、本性頑ニて、聊も例ニちかひ候へハ、稿本を不受取候。只今の合巻物ハ一冊十丁つゝニ候へとも、それすら赤本の例を推て、稿本ハ五丁を一冊ニして出し候様、諸板元へ被申示候。況や画と文ト別冊なとにせん事ハ、中/\諾ひ不申候。これニて餘は御亮査可被成候。
(天保九年十月二十二日篠齋宛)

とあるように、改名主の側からの要求であったことが知れる。

きわめて特殊な例外と考えてよいのであろうが、『大内山月雪誌』(東里山人作、国直・英泉画、文政6〈1823〉年、岩戸屋板)は、前後2編で5巻各9丁の45丁、『新型染松之葉重』(春町作、安秀画、文政12〈1829〉年、鶴喜板)は、2巻各8丁の16丁というように、規格外の作品もあった。

天保以降の合巻では5丁区切りの意識が次第に薄くなり、絵柄や文章が5-6丁の間でも続くものが出てくる。それでも基本的に5丁で1冊という意識は、中本型読本や人情本、滑稽本にはまったく見られないものであるから、草双紙に一貫する要件と考えてよいと思われる。

ところが〈明治期草双紙〉になると、9丁で1冊という規格が生じる。『新門辰五郎游侠譚』2編▼13の叙を見ると、

新門辰五郎游侠譚叙
草双紙を合巻と稱ふるハ。原五枚一冊を。二冊合して一冊とし。四冊を上下二冊一帙に。製したれバ尓いふなり。然るを方今の草双紙をも。書肆ハ是亦合巻と。稱ふるハ謂なし。又草双紙ハ其昔。人情世態質素の頃。還魂紙に武佐墨もて。摺たる草紙なりけれは。最臭かりしより臭草紙と。世に之を稱へしと歟。些下さらぬ名義なりしを。文明の今日に至り。九枚三冊一帙の。製本と做るを以て。之をこそ九三草紙の。稱謂を得たれと云ハまく耳。とばかりにして陋拙杜撰の。余が是の綴る九三草紙ハ。少し時代の楔なれバ。故九三草紙と云ハれやせん。遮莫傍訓新聞の。續雜報を再綴なる。世話狂言の新奇を競ふ。少壮編輯先生方にハ迚も及ばぬ梅星叟。今の世態ハしら髪天〓を。撥くも烏滸なる所興にこそ
  明治十二年第五月立夏後五日
梅星叟乙彦記 

とあり、9丁3冊だから草双紙だという珍説を開示している。

この規格が一体どこから生じたのかわからないけれども、明治11年の『鳥追阿松海上新話』▼14『夜嵐阿衣花廼仇夢』▼15『藻汐草近世竒談』▼16などは、9丁ものの早い例であろう。この時期には8丁1冊という体裁で出された草双紙も見掛けるから、混乱はあったのであろうが、5丁1冊の規格から自由になったことは注目に値する。

  五 活字本の板面

明治になって変わったのは丁数だけでなく、赤い化学染料を主体とした派手な色使いの表紙絵や、袋や口絵に施された色摺りなどである。しかしこれらは華やかではあるが、絵は全般的に稚拙になった。また総傍訓の新聞からの影響もあろうが、振り仮名付漢字混じりの本文は切附本に先例があり、少しく教育的配慮があったことがうかがえる。しかし文字自体が大きくなったせいで挿絵全体は弛緩した緊張感のないものになった。とくに正本写は下手な似顔で趣に乏しい上、舞台の再現というよりは筋書に近いものに変っていったようだ。

内容的には完結していることに対するこだわりが強まったものと見え、だらだらと続いた長編続き物合巻に対して「三編読切」という広告が目に付く。これも挿絵ごとの場面性よりも筋の展開へと興味が移っていったことをうかがわせる現象である。金属活字を使用した活版の普及も、見ることより読むことへの傾斜に一層の拍車をかけたのである。

活版印刷が用いられた草双紙風戯作の濫觴とされる明治12年の『高橋阿傳夜叉譚』▼17も、初編の中下冊だけが各8丁で、木板に戻った2編からは各9丁となっており、〈明治期草双紙〉の規格で出されている。また全編が活版で出版されたはじめとされる明治12年の『巷説兒手柏』▼18と同年の『松之花娘庭訓』▼19も、本文は活版で1編3冊(27丁)の「読切」である。本文以外は刊記も木板で、袋や表紙、見返し、序文、口絵には色摺りを施している。この2作品は「芳譚雑誌」に発表されたものの単行本化であるが▼20、使用済みの挿絵板木をトリミングして転用するなどして▼21、挿絵をほぼ1丁おきに入れているが、大部分の頁は本文だけで、絵を見る読み物としての草双紙からは離れてしまった。しかし造本上は律義に草双紙風の体裁を保持しているのである。

この様式は明治16年頃から出版され始める読本や草双紙の翻刻本と同様である。共隆社の引札には次の通り見えている▼22

藏版稗史發賣御披露
玩弄の赤本一變して。敵討物の前編後編と巻を分ちしハ。南仙笑楚満人の發明にて。續き話の十冊物を合巻二冊に分たるハ。式亭三馬が(雷太郎強惡物語)に嚆矢り。近年までも合巻ハ。丸假名ばかりの筆工なりしを。活字に代用て傍訓をせしハ。小學生徒の便利を計る。拙き僕が考へにて。明治十二年の秋九月。彌左衛門町の文永堂より。(巷説兒手柏)といふ上下二帙の讀切物を出版したるが創めにて。意外の高評を得たりしより。今日江湖の草双紙ハ活字に限る物とハ成ぬ。斯いへバ相撲取の。己が勝たる話のみを誇面にするに似たれど。今流行の活版の。鉛にあらぬ銀座二丁目六番地へ。假本局を新に設けし共隆社ハ。繪入の稗史を盛大に發兌す。社員ハ何れも柳亭を遊び所とする友ゆゑ。僕も亦向後ハ。近所の同社を筆勞れの休息所に往復て。門人等に校合を托ね。摺彫なんども他に優て。美麗を旨とする而巳ならず。精々廉價に賣捌けバ。拙著に限らず諸先生が新作の續物も。實録の古い譚も。歳々數百部混雜て。積出す主〓ハ紙型の文字の。欠ず崩れず山なす程に。續々御用の御引立を。社員に代つて希がふハ小説の作者。
柳亭種彦[印]
東京々橋區銀座貮丁目六番地             
     明治十七年八月 日開業
        
共隆社    
再拝 

たとえば同社刊行の『膏油橋河原祭文』▼23を手にとってみると大層美麗な本で、この広告に虚偽のないことが一目瞭然である。原本は馬琴作豊国画文政6〈1823〉年鶴喜板の読切合巻であるが、原表紙の意匠を生かし原序文を摸刻し、厚手の和紙に布目空摺りを施した口絵は、あっさりとした色摺りで原本の構図を生かしてある。さらに挿絵も駒割風のものではなく全頁か見開全部を用いており、詞書(書き込み)まで例の変体仮名で入れてある。本文は漢字を宛て振仮名を附した活字を用いて翻刻してあるが、本全体としては原本の持っている雰囲気の保存に努めているのである。

それでも、さすがに絵を見てから本文を読むという、草双紙の本来的な鑑賞法に耐えるものではない。活字になって読む速度も大幅に速くなったはずで、加えて挿絵が簡略化されて減ったので、同時に出ている読本の翻刻と、字面上では変らなくなってしまったのである。

前の『膏油橋河原祭文』巻末に付された「稗史出版書目」を見れば、「柳亭種彦閲尾形月耕畫\〇復讐浮木龜山\繪入上下二冊\定價金六拾錢」以下「曲亭馬琴作尾形月耕畫\〇殺生石後日怪談\繪入上中下三冊\近刻」まで、読本を主体として草双紙をも交えた28作の既刊本と近刻予告(活版)とが載る。ここで近刻予告されていた『殺生石後日怪談』▼24も、確かに出版されている。最初和装本で出され、後に洋装本(ボール表紙本)になっているが、この時点では洋装本の方が若干高価であった。

  六 メディアとしての様式

明治10年代には、文政期以降の合巻の序文を集めた『曲亭馬琴戯作序文集』▼25や、京伝馬琴三馬の読本類の序文を集めた『稗史三大家文集』▼26、さらには『稗官必携戯文軌範』▼27などという序文集の類が木板和装本で多く出されるが、これらも後に『馬琴妙文集』▼28のような活版洋装本で流布することになる。この序文集や美文妙文集の存在も、近世期の享受とは位相を異にすることをうかがわせている。筋を追うという読み方ではなく、味読暗誦のための本だと思われるから、必然的に手許に置いておく必要があるはずである。どう考えても貸本屋が媒介する類の本ではあり得ないのである。また維新後は諸大名の勤番が離散してしまい、貸本屋は多くの得意先を失った▼29。そのうえ新聞が普及し、同時に従来は貸本屋本として流布していた写本の実録本も、榮泉社の古今實録シリーズ(明治15〈1882〉年1月〜18〈1885〉年9月)に収められ、共隆社の翻刻シリーズと併せて大量の読物が短期間に供給された。すでに旧来の商売を成立させられる状況ではなくなってしまったのである。この貸本屋の衰退により、近世期の板本の流通は著しく滞ったものと思われる。つまり、草双紙が読みたくてもその機会が少なくなったのである。

ところで明治合巻であるが、本来的に画の比重が軽い雑誌や新聞記事を単行本化したにもかかわらず、当初は草双紙の約束事通りに全丁に画が入っていた。ところが活版による所謂〈東京式合巻〉が出てくると、本来の草双紙が持っていた画が主で文が従という側面が急速に失われていったのである。木板に比べて組版の自由度が著しく低いせいもあろうが、画は文字通りの挿絵となり、詞書(書き込み)も見られなくなった。さらに1頁あたりに収まる文字数も格段に増え、読みやすい、読むための本となってしまったのである。

すなわち活字媒体が草双紙を草双紙でなくしてしまったのである。と同時に、草双紙が享受される基盤の方も失われていた。この活字メディアへの推移は、商業出版および流通機構そのものを再編成しただけでなく▼30、作品の様式までも変更を余儀なくしていったのである。文学がメディアやそれに規定される様式から自由に存在できないのは、むしろ当然のことかもしれない。しかし、草双紙という様式それ自体がメディアとして機能できた時代、それが19世紀でもあった。

かつて黄表紙の時代には戯作者として活動していた草双紙の作者たちの一部は、次第に出板資本に囲い込まれて職業作家となった。その後しばらくは業界周辺に雑家として存在することが可能な時代もあったが▼31、最後に自らが記者編集者として新しいメディア自体を創出しなければならない時代を迎えた時、草双紙というジャンルとともに、近世という時代もまた終ったのであった。


▼1 山東京山『先讀三國小女郎』(文化8〈1811〉年)。石田元季『草雙紙のいろ/\』(南宋書院、1928年)にも引かれている。
▼2 鈴木俊幸「戯作と蔦屋重三郎(上)(「中央大学国文」35号、1992年)
▼3 平岡敏夫「明治二十年代前後の埋没小説の研究」(「稿本近代文学」12集、1989年)は、近代文学の成立期・出発期についての研究が、既成の近代文学史を相対化できる可能性を説いている。なお「稿本近代文学」の12集と14集では「明治二十年代前後の埋没小説」という特集を組んでいる。
▼4 鈴木重三「合巻について」(文化講座シリーズ9、大東急記念文庫、1961年)
▼5 水野稔「馬琴雑記」(『江戸小説論叢』、中央公論社、1974年、初出は1963年)所引の転写本翻刻による。
▼6 渡辺守邦「天保合巻の一傾向」(「近世文芸」10号、日本近世文学会、1964年)
▼7 坪内逍遥「繪入刊行脚本(其一)草双紙仕立の部」(『逍遥選集』12巻、春陽堂、1927年、初出は1920年)、渥美清太郎「歌舞伎小説解題」(「早稲田文学」261号、1927年10月)、鈴木重三「後期草双紙における演劇趣味の検討」(「国語と国文学」、東京大学国語国文学会、1958年10月号)
▼8 草双紙と中本型読本の折衷様式を持つ。本書第二章第五節参照。
▼9 単に明治期に出板された草双紙という意味ではなく、錦絵風摺付表紙の木板で全丁に絵が入っていて、1冊9丁の3冊で1編を構成し、本文に振り仮名付漢字が用いられている様式の草双紙を指す。主として明治10年代に出た美麗なもの。
▼10 三田村鳶魚「明治年代合巻の外観」(『三田村鳶魚全集』23巻、中央公論社、1977年)に「外形から錦絵表紙袋入りの合巻を、木版と活版とで、江戸式、東京式と言っている」とある。しかし、活版のものは全丁に絵が入っているわけではなく5丁という基本的な構成要素も失せるので、もはや〈草双紙〉とは呼べない。その一方で、銅版草双紙や粗製濫造された明治出来の合巻が20年代以降も大量に出されている。なお〈江戸式〉〈東京式〉という呼称は精確ではないので使用しない。
▼11 この件についての意義の指摘と分析とは、前田愛「天保改革における作者と書肆」(『前田愛著作集』2巻、筑摩書房、1989年、初出は1960年)による。
▼12 大澤美夫・柴田光彦・高木元編校『日本大学総合図書館蔵馬琴書翰集』(八木書店、1992年)
▼13 明治12年5月7日御届、武田傳右衛門(出版人)。聚栄堂(大川屋錠吉)・文栄堂(武田傳右衛門)合梓。梅星叟(萩原)乙彦綴、一梅齋(生田)芳春画。2編6巻6冊(各9丁)。木板。
▼14 明治11年1月18日出版御届、假名垣魯文閲・久保田彦作著、周延画、錦榮堂、3編9冊(各9丁)。木板。明治17年刊の活字版存。
▼15 明治11年6月18日出版御届、芳川俊雄閲・岡本勘造綴、孟齋画、金松堂、5編15冊(各9丁)。木板。
▼16 明治11年12月17日刊(明治12年1月・篠田仙果序)、篠田仙果録(編輯人)、永島孟齋(芳虎)画、見返し虎嶺画、青盛堂(堤吉兵衛)、3編9冊(各9丁)。木板。
▼17 明治12年2月13日〜4月22日刊、假名垣魯文作、守川周重画、金松堂(辻岡屋文助)、8編24冊(各9丁、初編中下冊は8丁)
▼18 明治12年9月、轉々堂主人(高畠藍泉)著、惠齋芳幾畫、文永堂・大島屋、2編4冊(各10丁)
▼19 明治12年12月20日御届(于時明治己卯猟月下澣・轉々堂藍泉識)、高畠藍泉作、落合芳幾画(題外口画・豊原國周画)、具足屋(福田熊次郎)、3冊(各9丁)
▼20 本田康雄「版木から活字へ―稿本の終焉―」(「国語と国文学」、1988年12月号)に詳細な比較考証が備わる。
▼21 前田愛「明治初期戯作出版の動向―近世出版機構の解体―」(『前田愛著作集』2巻、筑摩書房、1989年、初出は1963〜1964年)。この時期の出板機構の変遷については、すでに前田氏の行き届いた見取図が備わっている。本稿は主としてこの仕事によっている。
▼22 中央大学図書館所蔵の長谷川如是閑旧蔵「引札集」所収。鈴木俊幸氏の教示による。
▼23 和装本(和紙袋綴)、中本1冊、40丁。「明治十八年五月十二日飜刻御届\同年七月出版\定價金三拾錢\著作人故曲亭馬琴\飜刻出版人千葉茂三郎\發兌所稗史出版共隆社\賣捌所 東京及各府縣書肆繪双紙店\東京地本同盟組合之章[組合][証]」。表紙口絵に布目空摺りを施し色摺り。見返しに「瀧村弘方畫」、1丁表に原板の馬琴序を摸刻しノドに「小倉刀」とある。
▼24 洋装本(ボール表紙本)、中本1冊、318頁。「明治十八年五月十二日飜刻御届\同十九年四月出版\同年七月七日別製本御届\同七月出版\同二十年一月十七日再版御届\同二月出版\同年三月廿四日三版御届\同年四月出版\定價金三拾錢\著作人故曲亭馬琴\飜刻出版人千葉茂三郎\發兌所稗史出版共隆社\賣捌所東京及各府縣書肆繪双紙店」。
▼25 半紙本1冊、42丁、渡部白鴎纂輯、明治11年官許、渡部氏蔵版。
▼26 中本2冊、39丁+24丁、萩原乙彦編輯標注、仮名垣魯文序、明治12年10月出版、出版人松嵜半造、發賣人瀬山直次郎。
▼27 中本、岡本竹二郎編輯、明治16年序。焉馬や文京、種彦らの書いた報條を集めてある。
▼28 洋装四六版145頁、大月隆編、明治31年、文學同志會。
▼29 塚原渋柿「江戸時代の軟文学」(『趣味研究大江戸』、1913年、大屋書房)
▼30 矢作勝美「近代における揺籃期の出版流通―明治初年〜明治二十年代へ―」(「出版研究」12号、講談社、1981年)
▼31 本書第四章第四節参照。


# 『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』(ぺりかん社、1995)所収
# 補訂 2009/11/23 「十九世紀の草双紙(「文学」2009/11-12)に用語等を合わせた。
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