十九世紀の草双紙 −明治期の草双紙をめぐって−

高 木  元 


  はじめに

草双紙という近世期を代表する端麗な絵入小説は、表紙の紙色やその装いと内容との変化を伴いながらも、十七世紀末から十九世紀末に至るという息の長い歴史を保有してきた。五丁を基本単位とした中本サイズで、全丁に挿絵が入り、その挿絵の余白が仮名文字に拠って埋められているという板面は、草双紙の一貫した特徴であった。鈴木重三氏は

江戸時代中期から後期に江戸の地で行われた絵説き小説版本の一体。広義には、赤本、黒本青本、黄表紙、合巻と、ほぼ順次史的に展開し、明治前期に及ぶ文芸種目の総称。狭義には、この内の合巻のみを指すが、通常は全般の称▼1

と定義している。

さて、十九世紀の草双紙は、ほぼ合巻の時代ということになるが、そこには幕藩体制の崩壊と明治維新という大きな政治体制の転換期が挟まれていた。一般的な文学史においても近世と近代とは明治維新で劃期されており、本来は通底しているはずの小説史も分断して記述されることが多い。しかし、政治経済体制の変化が、一朝一夕にして人々の読書生活に大変革をもたらしたとは考えにくい。整版本から活版への移行も、維新後断続的に約十年間続いた局地的内戦時代を経て、明治十五年頃を転換点として緩やかに移行していったものと考えられ、メディア史の観点からも、文学史を明治維新で区分する発想法は必然性に欠けるといわざるを得ない。

石田元季『草雙紙のいろ/\』▼2は、函入りで趣味の良い装丁を施された草双紙(史)に関する愛すべき書物であるが、基本的に明治期の草双紙に至る言及は見られない。また、今日でも色褪せない蘊蓄に富み、何処かに再録されてしかるべき鈴木重三『合巻について』▼3も、「衰滅期」として位置付けられた明治期の合巻については、

西洋の化学染料の濫用による表紙絵の質的低下、体裁は九枚三冊で一編を成すようになったこと(中略)、惰性的な長編ものの引き継ぎの一方、世相を語る報道的な題材が出たこと、本文の字が大きくなり、ついには金属活字がとって代って、いわゆる「東京式合巻」(名付け親は三田村鳶魚氏と思います)ができること、そしてこれらが新聞の続きものや、雑誌小説へと解消して行くこと、等をわずかに指摘する程度にとどめ、すべて他日にゆずることといたします。

と述べるに過ぎず、期された「他日」も未だ来っていない。

このような近世近代の分断的文学史の記述は、とりわけて草双紙史に限ったことではないのであるが、今十九世紀という枠組で文学史を構想してみると、整版本から活版本へというメディア変遷史に則して論じられるという利点があると思われる。その際に扱うジャンルとして、近世近代を通貫して刊行され享受されていた草双紙は、最も相応しい素材になると言い得よう▼4

そこでまずは近世期からの継続的な視点を以て▼5、明治初頭における草双紙の様相を整理し直してみることにする。

  絵入本の種類

日本には物語や小説の多くが絵入本で(もしくは絵入本化されて)享受されてきたという伝統がある。絵入本の中に於ける草双紙の史的位置を確認するために、まずは絵入本の諸相について概観しておきたい。

近世期には俳諧や狂歌を添えた瀟灑な絵入本が出されていた。たとえば〈絵俳書〉『父の恩』(享保十五年)や〈狂歌絵本〉『画本虫えらみ』(天明八年)などであるが、本の大きさは様々で多様な展開をしていた。また、画集としては『一蝶画譜』(明和七年)や『北齋漫画』(文化十一年〜)など絵師の名前を冠することが多く、『明朝紫硯』(延享三年)などを含めて〈画譜〉と呼ばれ、一方、粉本集『写宝袋』(享保五年)や『為斎画式』(元治元年)などは〈絵手本〉などと称された。この種の絵入本は『潜龍亭画譜』(明治十四年)などのように、明治期に入っても刊行が続けられている▼6

これら絵入本には全丁に絵が入り、それなりに主題や編集意識は見られるが、〈草双紙〉のごとく一貫した筋の本文を持たないので、〈草双紙〉とは区別するために〈絵本〉と呼ぶことにしたい▼7

嘉永頃から明治初期に至るまでの時期に、中本型の〈絵本〉が多く出されている。具体的には『八犬傳銘々誌略』二編(春水作、芳虎画、山口屋板、嘉永五〜六年)や『繍像水滸銘々傳』二編(江境庵花川編、芳年筆、大橋堂板、慶應四年)などの〈銘々伝もの〉、『和漢英雄百人一首』(緑亭川柳編、山口屋板、嘉永元年)▼8や『義烈百人一首』(川柳編、山口屋板、嘉永三年)などの武将英雄略伝を添えた〈百人一首もの〉は嘉永期に多く、このほか『武勇競』(定岡作、芳幾画、品川屋朝治郎板、慶応二年六月改)▼9など〈英雄揃〉〈高名武勇の伝〉〈軍物がたり〉を主題化した〈絵本〉は枚挙にいとまがない。

また、言及されることは少ないのであるが、上方版に多く見られる合羽摺に拠る全丁彩色絵入の〈彩色絵本〉も中本で、その標目数も少なくなかった▼10 。たとえば『里見八犬伝』上下二冊(長谷川小信画、綿屋喜兵衛版、明治期)は全丁の挿絵に色摺を施した抄録本で、上冊十丁下冊八丁と変則的であるが、本文は漢字仮名交りで序文には「合巻」とある。外題簽が剥離していて見返がなく、序文中に『〔英雄揃〕』とある一冊(柱心「英勇」、好古齋主人撰、芳虎画、藤英堂吉蔵)は、「嘉永壬子(五)春/南濱の漁夫識」という序文を持ち「里見八犬士」「小栗十英士」「南朝三木一艸」から「尼子十勇士」に至るまで、その一人一人を略画で描き名前を入れたもので本文は持たない。手許の本は題簽が剥離しているので外題は分らないが、見返題『和漢美立・續三國志傳』(知不足齋梓)と、同『〈英傑〉續三國志傳』(知不足齋梓)は、一冊二十丁の全丁の下半分に合羽摺の絵が入り、その上部に説明が載っている。前者はノドに「五(六)ノ〔丁付〕」とあることからシリーズものの五・六編のようである。一方、後者は同題ながらノドに「見八ノ〔丁付〕」とあるので別のシリーズかも知れないが『〈英傑〉三國志傳』(秋艸菴著、梅窓園画)も同様の板面を持っている。

これらの合羽摺に拠る〈彩色絵本〉に関しても、草双紙に隣接するものとして位置付けておく必要がある。

絵入本といえば、〈切附本〉についても触れなければならない▼11。基本的に中本一冊読切で、表紙は合巻風の摺付表紙でありながら、本文は読本風の漢字仮名交りである。安政期以降に大量に出された廉価本で、その発生期には鈍亭魯文が中心的な役割を担った。内容的には実録種が多いが、読本や演劇等の抄出本もある。一冊ほぼ五十丁ほどで挿絵数は読本より多いが、その割合には差がある。中には『將門一代記』(魯文、安政二年)のように全丁絵入のものもあるが、その挿絵中には漢字仮名交りの本文が入り込んでいて、明治期の草双紙と同様である。つまり〈切附本〉の一部は明治期の草双紙の体裁を先取していたということができるのである。

前述した『武勇競』巻末に在る奥目録に

 御手本おんてほん往來物わうらいもの      都々一どゝいつ端唄はうたるゐ

〈新板〉いろはかるた    彩色小本いろいりこほんるゐ品々しな/\

 流行りうかう錦繪にしきゑるゐ品々しな/\    武者むしや切附本きりつけほん品々(しな/\

 切附一代記本きりつけいちたいきほん品々しな/\   〈歳々改正〉年數ねんすう早見はやみ

 案文あんもん書翰しよかんふくろ       横本〈はうた・どゝいつ・大津絵〉類品々

   〈地本絵双紙〉問屋 浅草茅町壹丁目 品川屋朝治郎板

と見えており、幕末明治初期の地本問屋が扱っている商品の中でも、〈切附本〉は〈草双紙〉などと同様に地本として扱われていたことが窺い知れる。

さて、従来のメディア史では、明治期に入ると木板(整版)に代って活版が普及する、と記述されることが多かったが、近年の磯部敦氏に拠る研究で、この過渡期に於いて銅版が重要な位置を占めていることが明らかになってきた▼12

幕末に多く木板で刊行された絵入本は、そのままでは活版化しにくかったと思われ、多くが明治十年代以降に銅版絵本として再生産されている。挿絵に(機械)木版などを用いたものも少なくないが、挿絵版と文字活字の混植は難しかったと見えて、全丁絵入でその余白に本文を活字で組んだ本は見受けられない。しかし、銅版ならば文字と絵は木板と同様に手で書いたものをそのまま製版することが可能である上に、細かい文字も写真のような画図も鮮明に印刷できた。〈微塵〉とも呼ばれ文字情報の集積度が高いので、本自体を小さくできるため小本や袖珍本の分野で流行った。これらの銅版本が、製版から活版への移行期に並行して多数出されていたことは、多くの小説が絵入本であったという伝統と無関係であるはずがなく、注意すべき事実だと思われる。

銅版絵本には『繪本里見八犬傳』小本一冊(金壽堂、明治二十四年)など洋装本も見受けるが、基本的に『〈繪本〉徳川十五代記』小本一冊(風月庄左エ門、明治廿年)などの小さな和装本が多い。これらの奥目録を見ると「銅版切附本」や「銅版小本」などと記されているが、磯部氏が〈銅版草双紙〉という用語を用いたように、摺付表紙を持つ中本型の『兒雷也豪傑物語』(綱島亀吉、明治二十三年)などは紛れもなく〈草双紙〉体裁である。ただ、挿絵を左右に広げてパノラマ風に見せる仕掛が施されているものが多い点が形態的な特徴であるが、少数ながら前出の合羽摺絵本や木板の切附本にも観音開き風挿絵の例がないわけではなかった。これらの〈銅版草双紙〉は明治二十年前後に島鮮堂、豊栄閣や金壽堂などから多数が出版されていることが分る▼13

以上、具体的に概観してきたが、絵入であることがメディアの選択を要求したことから、明治三十年代まで木板と銅版とが並行して使用されてきた。しかし活版の普及と石版に拠る色摺技術との発展に伴って、十九世紀末には次第に絵入本は姿を消していくことになる。つまり、十九世紀とは、謂わば絵入地本の時代であったと概括することが出来るわけである。

  正本写の流れ

歌舞伎小説とも呼ばれた所謂〈正本写しようほんうつし〉とは、歌舞伎筋書風の内容を持ち、役者似顔を駆使して舞台を彷彿とさせる挿絵が描かれた合巻体裁の本である。この〈正本写〉も十九世紀後半に近世近代を通じて出されている。早い紹介として、坪内逍遙『少年時に観た歌舞伎の追憶』▼14に「草雙紙仕立の正本」として一覧表化されており、三田村鳶魚「柳水亭種清」▼15では、種清が〈正本写〉の代表的な作者として挙げられ、「演劇画報」に連載された「芝居見たまま」が〈正本写〉の流れを汲むものであると指摘されている。一方、渥美清太郎「歌舞伎小説解題」▼16では具体的な書目が作成された上で解題が付されている。また、本間久雄『明治文学史』上巻▼17でも「開化期の劇文学」の中に「第三節 正本寫」として独立して扱い、〈正本写〉の明治十四、五年頃の盛行について、黙阿弥原作を筋書風にしたものが多いことや、柳水亭種清のほか、久保田彦作、武田交來、篠田仙果等の活躍について記述している。

その他、秋庭太郎、石田元季、小池藤五郎等に関連する仕事があることは、鈴木重三が以下の論文で言及するところであるが、芝居趣味が濃厚な柳亭種彦の『正本製しようほんじたて(文政五年〜)を「記述描写様式を演劇に倣う」ものとしたのに対して、〈正本写〉について

上演歌舞伎戯曲を小説式に引直した内容を持ち、淵源は古く黄表紙頃から認められるが、文政期にほゞ定型をとり始め主として安政前後に最も盛行し、明治二十年頃までに及ぶ合巻の一類で、冊数に出入はあるが、ほぼ三編読切を定型とするものである。

と定義している▼18。十九世紀末の草双紙に思いを馳せる時に「ほぼ三編読切を定型とするもの」という指摘は傾聴に値する。

以下、明治期の〈正本写〉に見られる呼称に注目してみたい。名作の誉れが高い武田交來『霜夜鐘十時辻筮しもよのかねしふじつじうら』全五編(錦壽堂、明治十三年)は見返に「歌舞伎新報抜萃」とあり、「舞臺ぶたい形容けいようそれ其侭復冩かきぬい當今たうこん流行はや草双紙さうしになさんと錦壽堂きんしゆだう主人あるじ目論見もくろみ(初編自序)、四編序「巧妙こうみやうこの合巻がふくわん。」(芳川春濤、明治十三年十月)などとある。竹柴琴咲『御殿山桜木草紙』十丁二冊(市村座、榮久堂、明治十四年五月)の自序には、

狂言きやうげん筋書すぢがきハ「歌舞伎かぶき新報しんぱう」のかぶひとしく、なをまた目今もつこん賣出うりだしの「諸藝しよげい新報しんぱう」のしやおいても活版くわつぱんもつたゞち摺立すりたて遅速ちそくあらそ刊行かんかうなせバ、いま世界せかい劇場げきぢやう合巻がふくわんなぞ因循いんじゆんならん、と版元ふみや主人あるじことはりしも、これ子供こどもしゆのお眠気ねむけざましに御覧ごらんいれ草紙さうしなれバ画組ゑぐみばかりでくるしからず、と再應さいおう依頼いらいまかせ、いさゝか餘白よはく埋草うめくさ荒筋あらすぢのみを綴合つゞりあはせバ、つたなきところハとがめたまはず笑覧せうらんほどこひねがふ。
(句読点と括弧は原文になし)

とあり、当時の様子が分る。一方、梅素薫『黒白論織分博多こくびやくろんおりわけはかた色成楓夕栄いろなるもみぢのゆふばえ僞甲當世簪まがいかうたうせいかんざし』三冊讀切(猿若座、錦榮堂、明治十五年十月)の自序には「この合巻がふくわんつゞれとある錦榮堂きんゑいだうせつなるたのみにヲツト承知せうちハするものゝ」と見え、また、梅素薫『妹背山婦女庭訓いもせやまおんなていきん神靈矢口渡しんれいやぐちのわたし千種花音頭新唄ちくさはなおんどのしんうた』三冊讀切(新富座、錦榮堂、明治十六年十月)の自序には「れい歌舞伎かぶき合巻がふくわん序詞じよしにまがひて大吉たいきち利市りいし (略)編者 好劇堂主人誌」などという具合に〈正本写〉は自らを「歌舞伎(劇場)の合巻」と呼んでいる。

一方、武田交來『松梅雪花三吉野あひじゆのゆきはなとみよしの』上下二冊(新富座、錦榮堂、明治十四年一月)の自序では「初春(はつはる)きやうげん毎日(まいにち)(かは)る手習鑑(てならひかゞみ)けいこがてらの草双紙(くさざうし)も源蔵(げんざう)ならぬ筆耕(ふでとり)の業(わざ)を兼(かね)たる吉書(きつしよ)(はじ)め」とあり、野久和橘莚『月梅薫朧夜(つきとうめかほるおぼろよ)』二冊(中村座、栗園堂、明治二十一年五月)の自序には「河竹氏(かわたけし)が。新作(しんさく)の仕組(こんだて)を。そつくり其(その)(まゝ)やき直(なを)し。即席(そくせき)合巻(りやうり)の上下綴(おてがる)にと。梓元(ふみや)の求(もと)めに(略)」とあり、巻末にも、「このきやうげんの合巻(くささうし)のごひやうばんもヨカ/\/\/\にはんもともはらつゞみのうちだし」▼19とある。桃川燕林編輯『賞集花之庭木戸(ほめつどふはなのにはきど)』全五編(藍泉校訂、國政画。金松堂、明治13年)の二編轉々堂序には「虚飾(きよしよく)を旨(むね)とし。案翻(かきかへ)る事(こと)を得(え)ざれども。一向(ひたすら)正史(せいし)にのみ因(よれ)バ。合巻(くさゞうし)の御花主(おとくい)にハ。倦(あか)れて不向(ふむき)なる故(ゆゑ)に。」とある。

すなわち明治期の〈正本写〉は「合巻」と見なされており、「合巻」は時に「くさぞうし」と訓まれる場合もあった▼20

これら明治期の〈正本写〉も草双紙史の中に位置付けなければならないのは明らかであるが、何よりも後に触れる〈明治期草双紙〉と同一の、一編三冊という造本様式を備えている点で重要である。

  明治期に流通していた合巻類

A.近世期合巻の後印本

明治期に入ってから摺られた近世期合巻の後印本についても触れておく必要がある。初摺時に付されていた合巻の錦絵風摺付表紙が黄色無地表紙に文字題簽を施したものに変えられ、時に改題されている場合もある。

明治期後印本特有の黄色無地表紙を持つ辻岡文助板『水鏡山鳥奇談』(秀賀作、國周画、元治二年原刊)は、見返に「假名垣魯文著\明治十四年四月新刻」と見えるが、魯文の名前が出ていることが不審である。また、同体裁の『柳の幕魁草紙』(瓢長作、春水閲、國貞画、安政元年原刊)は〈正本写〉であるが、見返に「明治十三年七月製本改正\為永春水編輯」「八編大尾」とあり、双方とも一冊二十丁に合冊されている。また、『吉野山千本桜』(濤治綴、種清序、安政三年七月改)も黄色無地表紙で前述した二作と同体裁であるが、安政三年七月市村座上演に拠るという種清編『義経千本桜』(辻文版)の改題改竄後印本であろう▼21。これらは全て辻文が蔵板している旧板を改装して後印本として摺ったものであった。

なお、明治期の合巻に見られる赤藍の強い摺付表紙を持つ改装改題本『花咲綱五郎實傳記』二冊(英壽作、芳宗画、辻文)には「濱」「馬込」の改印が在ることから原板は嘉永期のものであることが分るが、原板は未確認である▼22。表紙に「辻文板」と見えるから、長編ではない読切合巻の場合は、黄色無地表紙に改装されているわけではないようだ。

ここでは辻文板だけを例示したが、他の板元も同様に後印本を出している。

B.近世期長編合巻の続編

一方、旧作の後印本のみならず近世から続いていた長編合巻の続編も出板し続けられていた。たとえば『八犬傳犬廼草紙』四十編(紅英堂蔦屋吉蔵板)の明治期後印本に付された奥目録「明治七年甲戌陽春開板標目」には、

厚化粧萬年嶋田(あつげせうまんねんしまだ) 〈八九十〉編〈春水作國貞画〉
        新局九尾傳(しんきよくきうびでん)  〈十三出板〉〈春水作國貞画〉
室町源氏胡蝶巻(むろまちげんじこてうのまき) 〈廿三出板〉〈種彦作國貞画〉
        筆海四國聞書(ふでのうみしこくのきゝがき) 〈十三出板〉〈種彦作國貞画〉
鼠祠通夜譚(ねづみほこらつやものがたり)  〈八編出板〉〈種彦作國貞画〉
        明鴉墨画廼裲襠(あけからすすみゑのうちかけ) 〈十五出板〉〈種彦作國貞画〉
童謡妙々車(わらべうためう/\ぐるま) 〈二十五出板〉〈種彦作國貞画〉
        花封莟玉章(はなふうじつぼみのたまづさ) 〈十編大尾〉〈種彦作國貞画〉
薄俤幻日記(うすおもかげまぼろしにつき) 〈廾迄出板〉〈春水作國貞画〉
        八犬傳犬の双紙(はつけんでんいぬのそうし) 〈五十五出板〉〈柳亭作國政画〉
(なゝ)ふしぎ葛飾譚(かつしかものがたり) 〈十迄出板〉〈種彦作國貞画〉
         南傳馬町壹丁目 蔦屋吉藏板

と十一種の長編合巻が列挙されていて、明治七年の時点で何編まで出ていたのかが分る▼23

他の板元の場合も同様で、たとえば、『北雪美談時代鏡(ほくせつびだんじだいかがみ)』全四十八編(春水作、國貞画、若林堂板、安政二〜明治十六年)を出し続けていた若狭屋与市も、明治四年板の奥目録には『雑談雨夜質庫』『池園もの語』『庭訓武蔵鐙』などを並べているし、また、『白縫譚(しらぬいものがたり)』全七十一編(種員他作、豊國他画、藤岡屋他板、嘉永二〜明治十八年)などは、三十六年間の長きに及ぶ間に板元が三回変わり、後印板のみならず覆刻板も存在し非常に複雑な様相を呈している▼24

これら長編合巻の続編や、近世期合巻の後印本が何時頃まで何処の板元に拠って摺り出されていたか、という問題は受容史として重要である。

C.明治出来の合巻

十丁一冊で摺付表紙を備え、全丁絵入りで挿絵の周囲を平仮名で埋めるという近世期の合巻を継承した最後の徒花として、『明良双葉艸(めいりようふたばぐさ)』全八編(應賀作、周延画、澤村屋板、明治十六〜二十一年)が良く引き合いに出されるが、『薄緑娘白波(うすみどりむすめしらなみ)』全八編(魯文作、芳幾画、青盛堂板、慶応四〜明治四年)や『柳蔭月朝妻(やなぎかげつきのあさづま)』全六編(有人作、国貞画、紅英堂板、明治二〜五年)、『藪黄〓八幡不知(やぶうぐいすやはたしらず)』全五編(有人作、芳虎画、紅英堂板、明治四〜五年)など、明治に入ってから新刻された美麗な合巻が見られる▼25

ところで、これら明治出来の美しい合巻とは別に、木板の十丁一冊で摺付表紙を備え全丁絵入という〈合巻〉の特徴を保存している〈明治期合巻〉がある。ただし、挿絵の周囲を埋める本文は漢字仮名交りという、〈切附本〉のうちの全丁絵入のものと同様の造本様式のものである。

具体的に挙げると、『大久保仁政談』(第一〜四号、各八丁、紅木堂、明治十一年)、『時代模様鼠染色(じだいもやうねずみのそめいろ)(二十丁二冊、松延堂、明治十四年)、『心筑紫博多今織(しんちくしはかたいまをり)(十丁三冊、後補奥目録に宮田伊助)、『筑紫潟箱崎文庫(つくしがたはこざきぶんこ)(二十丁二冊、永島孟齋畫、松延堂)、『梅加賀金澤實記(うめのかゞかなざはじつき)(二十丁二冊、松延堂)、『伊達評定奥之碑(だてひやうぢやうおくのいしぶみ)(二十丁二冊、松延堂)、『大久保政談 松前屋五郎兵衛一代記』(二編二十丁、宮田孝助、明治十四年)、『〈おしゆん傳兵衞〉赤縄(ゑにし)の猿曳(さるひき)(上下二冊各十丁、國政画、関根孝助、明治十六年。後印「明治二十年一月\沢久次郎」)など赤色を基調とする摺付表紙を備えた草双紙で、多くは松延堂(大西庄之介)板のようである。内容的には実録などの抄録が多いと思われるが、これらの全体像は明らかになっていない▼26

この〈明治期合巻〉の特徴は、とにかく作りが安っぽいことである。絵も雑で大味であり、文字も仮名漢字混じりで大きくなり、文章自体も短くて絵の周囲に空間が多くスカスカな印象である。細かく精緻で美麗な江戸期の合巻とは印象がまるで異なる。しかし、紛うことなく〈合巻〉と呼んで差支えのない一群なのである。したがって、この一群のものを特定する必要がある場合には、文字通り〈明治期合巻〉と呼べば良いと思われる▼27

D.明治期草双紙

ここでいう〈明治期草双紙〉とは、山崎金男が「純明治物の草双紙」と呼んで「明治時代の事件を描寫し、明治時代を背景として、明治の人物を活躍せしめたる草双紙」▼28と定義したものである。

一般には『鳥追阿松海上新話』(久保田彦作、周延画、錦栄堂板、明治十一年)がその濫觴として据えられている。保存状態の良い原本を手に取ると、幕末から流通した化学染料を用いた袋や錦絵風摺付表紙から鮮烈な印象を受けるが、ボカシや空摺が施されて丁寧に摺られたものである。表紙をめくると見返や序文にも意匠が凝らされている。化政期の合巻では許されていなかった口絵の彩色も、淡彩を用いてはいるが何度も重ねて摺られたとても美しいものである。それは明らかに化政期の合巻に見られる落着いた瀟灑さとは違う、新時代を感じさせる美麗さである▼29

さて、造本様式を見ると、一編が九丁三冊から成る袋入の木板印刷本であり、全丁に挿絵を備え周囲に漢字仮名混じりの本文が書き込まれているもので、主として明治十年代に刊行されている。内容的には新聞の〈続きもの〉に基づくという特徴を持っている。前述の〈明治期合巻〉を読み捨てられた廉価な〈切附本〉に比定するならば、〈明治期草双紙〉はそれとは比較にならない程の愛玩すべき本であったといえよう。同じ地本の流れを汲んだものでありながら、値段もかなり違ったはずである。ならば享受層にも相違があって然るべきであろう。

たとえば、『〈其名も高橋毒婦の小傳〉東京奇聞(とうきやうきぶん)』全七編の初編序には、

(かね)て惡事(あくじ)に其(その)(な)も高橋(たかはし)於傳(おでん)が履歴(りれき)ハ、既(すで)に府下(ふか)の諸(しよ)新聞(しんぶん)にも委敷(くはしく)(い)で、我(わが)東京新聞(とうきやうしんぶん)でハ第(だい)五百廿八号(がう)(本月一日)に其(その)發端(ほつたん)を掲(かゝ)げて漸(やうや)く其(その)成長(おひたち)を示(しめ)し、号(かう)を遂(おふ)て今日(こんにち)いまだ半(なかば)に至(いた)らす。此(この)塩梅(あんばい)でハどれだけ續(つゞ)くで有(あら)う、と筆(ふで)を横啣(よこぐは)へにして考(かん)がへてゐる所(ところ)へ、書肆(しよし)島鮮堂(とうせんだう)の主人(しゆじん)が來(き)て謂(いへ)らく、ドヾ何卒(どうぞ)アヽあれをホヽ本(ほん)にして下(くだ)さいズヾ隨分(ずゐぶん)モヽ儲(もう)かります、とおでんの至極(しごく)(あた)たかい相談(さうだん)に、成(なる)ほど新聞紙(しんぶんし)ハ散逸(さんいつ)しやすく連續(れんぞく)したる傳(でん)(き)も切々(きれ%\)にて讀(よみ)づらけれバ、之(これ)を冊子(さうし)に綴(つゞ)りなほして挿繪(さしゑ)を加(くは)へなバ、興(きやう)あるのみか記者(きしや)の丹誠(たんせい)も永(なが)く朽(くち)ざる梓(あづさ)に留(とま)り、其(その)(うへ)幾許(いくら)か煖(あた)たまること、と岡本(をかもと)(し)をおだてこんで、漸々(やう/\)(こゝ)(まで)(ぶつ)ぱたいたが、甘(あま)いと辛(から)い世(よ)わたりの夜延(よなべ)仕事(しごと)の急拵(きふごしら)へ、どうか餘(あま)り沢山(たくさん)に味噌(みそ)をつけぬ様(やう)にしたいもの。
 明治十二年二月下旬
芳川俊雄誌 [印]
(句読点は原文になし)

とあり、これらの美麗な〈明治期草双紙〉と新聞記事との関係が知れる。以下、従来注目されることのなかった「岡本起泉著・芳川俊雄閲、島鮮堂板」という一連の〈明治期草双紙〉について概観するために、取り敢えず一覧にしてみる。

岡本起泉著述書目(稿)
・夜嵐阿衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)   全五編、明11・6、勘造綴、孟斎画▼30
其名も高橋毒婦の小傳 東京奇聞(とうきやうきぶん)    全七編、明12・2、勘造綴、房種画
・島田一郎梅雨日記(しまたいちらうさみだれにつき)   全五編、明12・6、勘造綴、房種画▼31
・白菖阿繁顛末(はなあやめおしげのなりゆき)      全三編、明13・辰春、起泉綴、周延画
・坂東彦三倭一流(ばんどうひこさやまといちりう)    全三編、明13・4、起泉編、周延画、春濤閲
・澤村田之助曙草紙(さはむらたのすけあけぼのざうし)   全五編、明13・7、起泉作、周延画▼32
・幻阿竹噂聞書(まほろしおたけうはさのきゝがき)     全三編、明14・1、起泉綴、房種画
・川上行義復讐新話(かはかみゆきよしあだうちばなし)   全二編、明14・1、起泉綴、春濤閲、 周延画
・色吉原盛糸裲襠(いろもよしはらせいしのうちかけ)    全三編、明14・5、起泉、國松画
東京に開き横濱に薫る 花岡奇縁譚(はなをかきえんものがたり)全三編、明15・2、起泉綴、国松画
・恨瀬戸恋神奈川(うらみのせどこひのかながは)     全二編、明15・2、起泉綴、国松画
・思案橋暁天竒聞(しあんばしあかつききぶん)      全二編、明15・2、俊雄閲、國松画
・娘浄瑠理噂大寄(むすめじやうるりうはさのおほよせ)    初編、明15・3、俊雄閲、國松画

この三十歳で若死したという「岡本起泉」こと岡本勘造についての研究は深まっていないが、投書家として出発して「東京魁新聞」(後に「東京新聞」と改題)の編集長を経て「有喜世新聞」印刷長となり「諸藝新聞」を創刊し、仮名垣・柳亭・為永派に属さなかった作家として新聞記事に基づく戯作を〈明治期草双紙〉として出し続けた点は興味深い▼33。おそらく、板元である島鮮堂(綱島亀吉)の主導によって実現したものと思われる。この島鮮堂の出版について『明治期刊行書目』を見ると「〔絵本〕伊達実記・天一坊実記・岩見英勇記・怪譚姐妃之於百・義経一代記・川中島大合戦・太閤記・頼光大江山鬼退治・先代萩・岩見重太郎一代記・宮本武勇伝・小説児雷也豪傑物語・山中鹿之助一代記・日蓮上人御一代記・里見八犬伝・西遊記・廿四孝・加藤清正一代記・三荘太夫・小栗判官一代記・天草軍記・石川五右衛門・鹿児島軍記・日本一桃太郎・佐賀怪猫伝・苅萱物語」などとあり、廉価な〈明治期合巻〉をも多数出していることが分る。

つまり〈明治期合巻〉と〈明治期草双紙〉との双方を同時に出していたわけで、両者が商品として競合しなかったことが分る。

  明治期の草双紙

以上、十九世紀の〈草双紙〉の、絵入本中における〈絵本〉との相違を確認した上で、明治期の草双紙に隣接する諸相を、合羽摺の〈彩色絵本〉や〈切附本〉〈銅版草双紙〉〈正本写〉と分類整理した。その上で、明治期の草双紙を A.近世期合巻の後印本、B.近世期合巻の続編、C.明治期合巻、D.明治期草双紙と四つに分類し、その名称についての私見を示した。

たとえば、明治十一年の『五人殲苦魔物語(ごにんぎりくまものがたり)』初編に付された奥目録に「草双紙(くさざうし)類一代記(いちだいき)讀切(よみきり)本類品々」とあるが、この「草双紙」は〈明治期合巻〉を「讀切本」は〈明治期草双紙〉(もしくは〈切附本〉)を意識した謂いであると考えて良いのかもしれないし、明治十三年の『竹田善次(たけだぜんじ)新形賎機小紋(しんがたしづはたこもん)』の奥目録にある「新合巻(しんぱんのくさざうし)續物(つゞきもの)切附物(いつさつもの)一代記(いちだいき)かな附(つき)本類(ほんるい)」の「新合巻」は〈明治期草双紙〉を謂っているのだと考えられる。

ところで、〈東京式合巻〉という用語▼34が文学史用語として不適切であることは、佐々木亨氏が繰り返し強く主張してきた▼35ことで、全面的に首肯できる。明治期の草双紙が流布している時に、京阪では活字本で西南戦争ものが出され▼36、転々堂主人『巷説兒手柏(かうせつこのてがしは)(二編四冊、文永堂、明治十二年)や同『松之花娘庭訓(まつのはなむすめていきん)(全三冊讀切、具足屋、明治十二年)等を先駆として二十年代に入ると次第に活版が戯作の主流と化して行くことになる。

だがしかし、中本型読本や切附本の板面を彷彿とさせる錦絵風摺付表紙を持つ明治期の活字本は、全丁に絵が入り「絵が主で文が従」という草双紙の特徴を欠いているので、最早〈草双紙〉とは呼べないのではないか。尤も、名著全集の『偐紫田舎源氏』▼37や『大師河原撫子話(だいしがはらなでしこはなし)▼38など、合巻の翻刻に際して全丁にある挿絵を覆刻した上で、その透き間に活字で本文を組んであれば〈活版草双紙〉と呼んでも良いかもしれない。だが、全頁にわたる画文混植は、明治初期の活版組版技術では困難であったはずであるし、経済的にも事業として成立し得なかったであろう。実際、斯様な明治期の活字本は管見に入っていない。誤解を恐れずに言ってしまえば、固より〈東京式合巻〉すなわち〈活版草双紙〉など存在し得なかったのである。

山本和明「読本の〈近代〉」▼39が指摘するように、明治十年代半ば過ぎに出された江戸小説の活字翻刻本には、摺付表紙を持ち美麗な色摺口絵を備えたものが多い。これもまた、活版の特性に対応した近代的な〈絵入本〉の在り方であったといえよう。

正続『帝国文庫』に『白縫譚』や『北雪美談時代鏡』『児雷也豪傑譚』などの長編合巻が活字翻刻として入れられる明治三十年代に入ると、大衆小説の趨勢は見るものから読むものへと変貌していく。十九世紀の終焉と伴に草双紙の歴史も幕を閉じることになるのであった。



▼1 鈴木重三「草双紙」(『日本古典文学大辞典』、岩波書店、1984年)
▼2 石田元季『草雙紙のいろ/\』(南宋書院、1933年)
▼3 鈴木重三『合巻について』(文化講座シリーズ第9巻、大東急記念文庫、1961年)
▼4「草双紙−発生から終焉まで」(「江戸文学」35号、ぺりかん社、2006年11月)や、木村八重子『草双紙の世界』(ぺりかん社、2009年)など
▼5 高木 元「草双紙の十九世紀−メディアとしての様式−」参照
▼6『潜龍亭画譜』には仮名垣魯文が序文を書いている。このような画譜類の序文を戯作者が書くことは珍しいことではなかったようだ。高木 元「魯文の売文業( 「国文学研究資料館紀要」34号、2008年)など。
▼7 絵入読本の中にも〈絵本もの〉と呼ばれる主として上方で出された一群の実録種のものがあるが、これらは文章が主体の絵入小説であり、ここでいう〈絵本〉とは別のものである。また〈絵草紙〉という呼称もあるが、こちらは〈草双紙〉に近似している用例が多い。長友千代治「絵草紙考」(「中京大学図書館学紀要」14号、1993年)や、鈴木俊幸「絵草紙屋追懐」(「江戸文学」15号、ぺりかん社、1996年)など。
▼8 改題され『和漢忠孝八十人一首』一冊(仙果編、竹屋次郎吉板、嘉永六年)として出されたのは同本か。
▼9 序首に「諸国大合戦二編の序」とある。摺付表紙で九丁。
▼10『合羽摺の世界』(阪急学園池田文庫、2002年)は、合羽摺の浮世絵を集めたもので参考に成る。
▼11 高木 元「末期の中本型読本―いわゆる〈切附本〉について―(『江戸読本の研究』第二章第五節、ぺりかん社、1995年)所収、同「切附本書目年表稿(『同』第二章第六節所収)など。
▼12 磯部 敦「銅版草双紙考」(「近世文藝」75号、日本近世文学会、2002年1月)や、同氏「銅版草双紙小考」(「江戸文学」35号、ぺりかん社、2006年)など。
▼13 磯部 敦「銅版草双紙書目年表稿(上)(「教育・研究」15号、中央大学附属高校、2001年)、同氏「銅版草双紙書目年表稿(下)(「中央大学大学院論究(文学研究科篇)」34号、中央大学大学院、2002年)に詳しく、早くは明治十年代の上方から、下っては明治三十年代まで出ていることがわかる。
▼14 坪内逍遙『少年時に観た歌舞伎の追憶』(日本演藝合資社、1920年)
▼15 三田村鳶魚「柳水亭種清」(『三田村鳶魚全集』第23巻、中央公論社所収。初出は「早稲田文学」243号、1926年4月)
▼16 渥美清太郎「歌舞伎小説解題」(「早稲田文学」261号、1927年10月)
▼17 本間久雄『明治文学史』上巻(日本文学全史 巻十、東京堂、1935年)
▼18 鈴木重三「後期草双紙における演劇趣味の検討」(「国語と国文学」、1958年10月)
▼19 野久和橘莚『月梅薫朧夜』は児玉弥吉版、十二丁二冊(上一〜五、下六〜十二丁と変則的)、漢字が少ないパラルビが用いられており、大切は21年2月の浅草吾妻橋開橋の当て込みになっている。
▼20 明治期の草双紙の語彙とその訓みについては、高木元「草双紙の〈明治〉(新古典文学大系明治編「明治戯作集」月報、2010/02)に具体的な用例を示して述べた。
▼21 鈴木重三「後期草双紙における演劇趣味の検討」(「国語と国文学」、1958年10月)の末尾に挙げられた書目に見えている。
▼22 板心「辻占」にそぐわないのであるが、嘉永五年『比翼紋濃紫染』(英壽作、芳宗画、浜田屋徳兵衛板)の改題本か。
▼23 この奥目録は数年間にわたって使い回されていたようで、「明治四年」の年記を持つものは編数が異なっている。
▼24 近年、佐藤至子氏に拠って『白縫譚』上中下(国書刊行会、2006年)という最善のテキストが提供され、そこに精緻な書誌調査を踏まえた解題が付されている。
▼25『国書総目録』などが慶応三年で区切って明治以降を切り捨ててしまったので所在情報が調べにくいのであるが、どの程度の標目数が在ったかについては、その全体像を解明する必要がある。なお、山々亭有人については、土谷桃子『江戸と明治を生きた戯作者』(近代文芸社、2009年)参照。
▼26 石川嚴『〈明治初期〉戯作年表』(石川嚴『〈明治初期〉戯作年表』、從吾所好社、1927年)や、山口武美『〈明治前期〉戯作本書目』(日本書誌学大系第十巻、青裳堂、1980年)が備わっているが、この種の安っぽい合巻の大部分が未掲載である。ただ手掛りとなるのが『〈国立国会図書館所蔵〉明治期刊行図書目録』〈第四巻語学・文学の部〉(1973年)である。ただし、これらの明治期合巻は一括して〔絵本〕と表題されていることが多い。
▼27 これらの〈明治期合巻〉は国会図書館と早稲田大学図書館以外に纏まって保存されていることは少ないようだ。時に各地の市立中央図書館などで郷土資料として寄贈されたものが保存されていることがあるが、これらの所在調査には多くの時間と労力とを費やす必要があるだろう。
▼28 山崎金男「合巻式純明治の草双紙」(「東京新誌」第一巻第三号、従吾所好社、大正十五年十月)
▼29 山崎金男氏は前注に掲げた論文中で「作、畫、刷の三つが皆上乗の出來で、明治草双紙の代表作として恥かしくない」「明治草双紙六佳選」として『夜嵐阿鬼奴花廼仇夢』『藻汐草近世奇談』『伊香保土産』『霜夜鐘十字辻筮』『冠松眞土暴動』『朧月夜花の唇』の書名を挙げている。
▼30 日本現代文學全集『明治初期文學集』第一巻(講談社、1969年)所収。興津要編岡本勘造略伝記が載る。
▼31『近世實録全書』第拾九巻 明治の実録(三)(早稲田大学出版部、大正七年)所収
▼32『近世實録全書』 第拾八巻 明治の実録(二)(早稲田大学出版部、大正六年)所収
▼33 テキストの内容的な調査吟味は今後の課題であるが「東京新聞」との比較検討などしてみたい。
▼34 三田村鳶魚「明治年代合巻の外観」(「早稲田文学」明治文学号、大正十四年三月)
▼35 佐々木亨『明治戯作の研究―草双紙を中心として―』(早稲田大学モノグラフ21、早稲田大学出版部、2009年)の序章参照。初出は「明治の合巻―所謂明治式合巻と東京式合巻なる名称をめぐって―」(「徳島文理大学文学論叢」12号、1995年)など。
▼36 前注の佐々木氏の所説を参照
▼37 日本名著全集『偐紫田舎源氏』上下(日本名著全集刊行会、1927〜8年)
▼38 『大師河原撫子話』(丸井図書出版、1977年)。天保に再板された馬琴合巻の複製で、山田恒夫氏の翻刻と略注釈、入江清久氏の解説と梗概を備える。
▼39 山本和明「読本の〈近代〉」(『日本のことばと文化―日本と中国の日本文化研究の接点―』所収、溪水社、2009年)



#「十九世紀の草双紙 −明治期の草双紙をめぐって−
# 隔月刊「文学」(岩波書店、2009年11-12月)所収
# Web版では字体やレイアウトのみならず図版を入れるなど大幅に変更してあります。
# Copyright (C) 2009 TAKAGI, Gen
# この文書を、フリーソフトウェア財団発行の GNUフリー文書利用許諾契約書ヴァー
# ジョン1.3(もしくはそれ以降)が定める条件の下で複製、頒布、あるいは改変する
# ことを許可する。変更不可部分、及び、表・裏表紙テキストは指定しない。この利
# 用許諾契約書の複製物は「GNU フリー文書利用許諾契約書」という章に含まれる。
#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
# Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU
# Free Documentation License, Version 1.3 or any later version by the Free Software Foundation;
# A copy of the license is included in the section entitled "GNU Free Documentation License".


Lists Page