『敵討誰也行燈』 −解題と翻刻−
高 木   元 

〈解題〉

前号の『敵討枕石夜話』に引続き、今回は『敵討誰也行燈』を紹介する。本書も曲亭馬琴の中本型読本である。

馬琴読本の研究史上、中本型読本に言及されたものはまだ決して多いとは言えない。周知の事ではあるが、近世文芸に於ける本の形態は内容と不可分な関係を保有している。馬琴の場合も中本型読本八作のうち七作までが所謂「敵討物」であり、黄表紙・合巻との比較も中本型読本を考えていく上で必要だと思われる。又、書肆の思惑を別にすれば、文化4年以後は中本型読本を執筆していない。黄表紙、合巻、中本型読本、半紙本読本等の形態が混在している文化初期の馬琴の文学活動を研究していくに当っての基礎作業として、現在稀覯となってしまった本書の初板本を挿絵と共に翻刻する事は、あながち無意味ではないと思われる。

さて、題名となっている誰也行燈は、見返しに意匠されているが、その名の由来については『古今青楼噺之画有多』(安永9〈1780〉に見られ、これを利用している。又、『近世江都著聞集』巻9に見られる佐野次郎左衛門と万字屋八橋の話に取材している。この話は並木五瓶によって『青楼詞合鏡』(寛政9〈1797〉年江戸桐座初演)に脚色され、「吉原千人斬」として知られている。更に、講談、実録にもなり、現在では『籠釣瓶花街酔醒』(三代河竹新七作、明治21〈1888〉)年東京千歳座初演)として良く知られている。内田保広氏は、この籠釣瓶譚と『幡随院長兵衛一代記』とが、権八小紫譚を介して結びつき、本書に利用されていると説かれている。(『近世文芸』29号所収「馬琴と権八小紫」)更にこの佐野次・八橋譚は文化9〈1812〉年の合巻『鳥籠山鸚鵡助剣』で再び用いられるのである。一方、後藤丹治氏は『太平記』の「新田義貞が剣を海中に投じて潮を退けるといふ故事」等を典拠として挙げられ(『太平記の研究』388頁)又、向井信夫氏は『窓の須佐美』第3巻中の1話を本書第4編で潤色使用している事を指摘されている。(『続日本随筆大成』第5巻付録)典拠ではないが、口絵第1図は振鷺亭の読本『千代嚢媛七変化物語』(文化5〈1808〉・北馬画)の巻之5の挿絵「簗太良北海に挺頭魚を殺す」に酷似している。その上、何故かこの図だけが自筆稿本(天理図書館蔵・上巻のみ)に見られる下絵と全く別の図柄となっている。何らかの関連があると思われる。又、この鰐と闘う趣向も後に『朝夷巡島記』第6編(文政10〈1827〉で繰り返されるのである。

この様に様々な話を撮合して成る本書は、里見家の御家騒動を多くの犠牲の上に敵討ちをもって解決していくという構成を持つのである。

〈書誌〉


書 型 中本2巻2冊 18.5糎×12.9糎
表 紙 栗色無地(原題簽は底本、校合本共に現存せず)
見返し 黄色地。柳下流水と誰也行燈の意匠。「曲亭馬琴戲編/一陽齋豐國画/敵討かたきうち誰也行燈たそやあんどう」「立とまる土手馬もその柳蔭」「丙寅發兌全二冊」
序 題 「敵討誰也行燈叙かたきうちたそやあんどうのじよ
目録題 なし
内 題 「敵討誰也行燈かたきうちたそやあんどう(下)巻」
柱 題 「(魚尾)(下)丁付」
尾 題 「敵討誰也行燈かたきうちたそやあんどうげのまき巻 おはんぬ(上巻はルビなし)
匡 郭 単辺。15.8糎×11.5糎
丁 付 上巻 叙1丁(序一) 目録1丁(一オ・三ウ) 口絵2丁(一ウ二オ・二ウ三オ) 本文27丁(四オ〜三十ウ) 計31丁。 下巻 本文30丁(一オ〜三十ウ)  跋1丁(下の三十一)刊記広告1丁(丁付なし) 計32丁
行 数 叙7行 本文9行 跋8行
刊 記 「文化三丙寅年春正月發行/書肆 鶴屋金助梓」
その他 「曲亭著述六種中全本二冊乙丑秋七月上旬稿了」「剞〓[厥+刀] 小泉新八郎」と刊記の前にある。又、序一オに、水谷文庫、平林等の印あり。

本書には改題再摺本がある。主な書誌的異同を記しておく。『再栄花川譚かへりさきはなかわものがたり(序題)半紙本4冊に分冊。「文化十三年丙子孟春」(序)と入木して直してある。内題「再栄花川譚巻之一(〜四)」、尾題「花川巻之一(〜四)終」(巻之4は大尾)とそれぞれ入木。跋と刊記を欠き、口絵、挿絵の薄墨による彩色も一切省かれている。巻末には「文化新刻目録」が付され「皇都書林 東三条通寺町西入ル町 丸屋善兵衛」とある。丁付は、巻之1(序一オ〜十五ウ)巻之2(十六オ〜三十ウ)巻之3(一オ〜十六ウ)巻之4(十七オ〜三十ウ+半丁)と機械的に分冊した為、文章が途中で分断されている。

また、『〈改|訂〉日本小説年表』には「敵討紀念長船 二 曲亭馬琴文化四年」とあり、本書の改題再摺本かとも思われるが未見。又、『再栄花川譚』を底本とし挿絵を書直した活字本が明治17〈1884〉年6月に、金幸堂(稲垣良助)出版・金栄堂(牧野惣次郎)発売で刊行されている(〈追補参考図版〉参照)。 校訂が杜撰なのは「読み物」としての出版ゆえ致しかたない。

〈凡例〉


一 原則的に原本通りに翻刻したが、以下の諸点に手を加えた。
一 片仮名は特に片仮名の意識で使われていると思われるもの以外は平仮名に直した。
一 右に拘わらず、助詞の「は」に「ハ」が用いられている場合は、これを残した。
一 「叙」に使用されている句読点「、(白)」は、読点と句点とに直した。
一 本文には句読点の区別なく句点が用いられているが、読点と句点とに区別した。
一 衍字や欠字、表記上の誤りと思われる箇所は〔 〕で示した。
一 挿絵は該当箇所に入れ、付された説明も翻字した。
一 内容が転換する箇所で改行した。
一 各丁の区切りに」印を付し、裏には丁付を示した。
一 底本には、故向井信夫氏御所蔵の初板本を使用させて頂いた。又、校合本として、服部仁氏より上巻を拝借した。記して深く感謝致します。


見返

〈翻刻〉

敵討誰也行燈叙かたきうちたそやあんどうのじよ[蕉窗夜雨]

くれたけ物語ものがたりに、そののみみゝのこりて、そのことハいとおぼろかなるぞおほかる。いでや行水ゆくみづの。ながれのさとことともきこえし、蜘手くもでかよ八橋やつはしに、二郎じらう左衛門ざゑもんあさきえにしも、浅茅あさぢつゆのきりぎりす、つゞりあはせて隠家かくれがの、兵衛がたけくありし事、ある梅堀うめぼり五郎兵衛が、よくあく」 とにあかぬ恋路こひぢを、挾隈さくまとみ次郎がくるわ闇撃やみうち善悪あやめもわかぬぬしそ、誰也たそや最期さいごのそのころより、ともそめたる行燈あんどうの、ひかりめでたきたまくしげ、いまふたまきのぶことしかなり。

 文化丙寅孟春

曲亭馬琴戯識[馬琴][著作堂] 

目録

上巻じようのまき目録もくろく
○ 第一編だいゝつへん隠家かくれが兵衛が生育おひたち
  附タリ  〔ちゝ紀念かたみ研済とぎすました長舩おさふね業物わざものしゆう使令つかひ蹴込けこんたる垣越かきごし剪毬それまり
○ 第二編だいにへん佐野さのゝ次郎左衛門が紀行みちのき
  附タリ  〔ちからハはかられぬ〓[虫+再]うはばみ綱引つなひき・ゆくへハさだかならぬ若殿わかとの遁世とんせい

下巻げのまき目録もくろく
○ 第三編だいさんへん芝崎しばさき寺入てらい主従しゆうじう

口絵 【口絵第一図】
第四編だいしへん挾野さの次郎左衛門じらうざゑもん殺鰐圖わにをころすづ\あら海の底に入りけり三日の月\法橋吾山」1

口絵 【口絵第二図】
第五編だいごへん挾隈さくま闇撃圖やみうちのづ\稲つまや闇のかた行五位のこゑ\はせを」2
  附タリ  〔とりにがされぬこひ癖者くせもの・うちかへしたるきぬた片袖かたそで
○ 第四編だいしへん義女ぎじよ八橋やつはし事蹟ことのあと
  附タリ  〔つま首級こうべ祝言しうげんのとりさかなむこ引出ひきで復讐ふくしう頭髻もとどり
○ 第五編だいごへん誰也行燈たそやあんどう縁故ことのもと
  附タリ  〔忠義ちうぎにあへなきかたきどちの死出旅しでのたび身方みかたにむすぶ婚縁こんえんのお國入くにいり

總目録そうもくろく をはんぬ3

敵討誰也行燈かたきうちたそやあんどう上巻

馬琴戲述

  第一編だいいつへん隠家かくれが兵衛が生育おひたち

はなハさかりに、つきくまなきのみを見るものかハ。ちりながさすハいづみすゞしからじ。ゆきのらずハまつみさほもかひなからん。されバまづしくなりて、のちのこゝろきよく、をはりのぞみてめでたきことのこすなど、すべて五十年のあがなふにたるぞかし。むかしハ相州さうしう新井あらゐ城主じようしゆ三浦みうら義同よしあつ入道にうどう道寸どうすん小扈従こごしようたりしも、永正ゑいせう十五年七月十五日、道寸どうすん父子ふし滅亡めつぼうのゝちハ、心ならずも武蔵國むさしのくに江戸のかたにおちくだり、芝崎村しばさきむらかたほとりに、かすかなるすみかして、三十餘年よねん浪人らうにんたてとほし、」 艱難かんなんいふべうもあらざれど、二君じくんにつかへじと思ひさだめたれバ、是をしもうれひとせず、親子おやこ四人尾羽をはうちからして、つま三年みとせ已前いぜんをさりしが、二人ふたりの子どももとしごろになりつれバ、せめてかれらがおひさきをバ、ともかくもしてたてさせばやと思ひしも、淡雪あはゆきあはときえゆく、二月きさらぎのはじめより、こゝちあしとて打臥うちふしけるが、今ハはやたのみすくなく見えしかバ、今茲ことし十六才なりし児子せがれ長吉、十二才なりし女児むすめ八橋やつはしまくらちかくまねきよせ、いきしたにかき口説くどきけるハ、御身おんみ兄弟きやうだいハ、ちゝ浪人らうにんしてのち出生うまれたれバ、ふるき事ハよくもわきまへしらざるべし。われもそのむかしは、田津たづ4 造酒助みきのすけ徳敦のりあつ名告なのりて、三浦みうら陸奥入道むつのにうどう義同よしあつぬしの家臣いへのこたり。しかるに主君しゆくん滅亡めつぼうのときハ、われいまだ弱年じやくねんなりしかど、ふたゝび仕官しくわんねがはずして、すでにそのこゝろざしいたしたり。されど御身おんみハ、ちゝこゝろざしつぎて、生涯しようがい浪人らうにんせんもよしなし、われなきのちハ、兄弟きやうだいよくこゝろあはせ、身をたていへおこすべし。たとひめいうすうんつたなくして、民間みんかんくちはつるとも、よくまよひて人をしへたげたがひせいむさぼることなかれ。これ今般いまは紀念かたみ也とて、二尺三寸長舩おさふね近忠ちかたゞ一腰ひとこしを、長吉にあたへつゝ、ねぶるがごとく息絶いきたえけり。兄弟きやうだい子共こどもハ、はつか三年のうち二親ふたおやうしなひしかバ、こゝろぼそくもかなしくて、何せんすべも

挿絵

【挿絵】田津たつ長吉猟師りやうしのわざをきらひ日ごとにちからくらべして劔術けんじゆつをまなばん事をのぞみおもふ5

わきまへず。元來もとよりしかるべき親属しんるいもなくて、淺草川あさくさがは猟師りやうし兵衛といふものゝ女房にようぼうハ、彼等かれら外叔母はゝかたのをばなれバ、茂兵衛夫婦ふうふ芝崎村しばさきむらに來りて、のちの事などとりいとなみ、長吉八橋やつはしをバわがいへに引とりて養育よういくせり。 さる程に長吉ハ、叔母をばもとやしなはるゝといへども、猟師りやうしわざにこゝろをとめず、只顧ひたすら武家ぶけ奉公ほうこうせん事をねがふがゆゑに、旦暮あけくれの手すさびにも、ぼう使つかひつぶてうち相撲すまふなどとるに、ちからあくまでつよ〔く〕くして、ひろき浅草あさくさ里人さとびとも、かれ相手あひてにたつものなし。むべなるかな、のち隱家かくれがの茂兵衛とよばれて、當時そのかみ第一だいゝち任侠をとこだてきこえしハ、此長吉が」6 事にぞありける。 これハさておき、こゝに安房あは里見さとみ義弘よしひろ家臣いへのこに、挾隈さくま富之進とみのしん範光のりみつといふものハ、ならびなき劔術けんじゆつ達人たつじんにて、捕手とりて竹内たけのうち極意ごくゐうけつたへ、このほか十文字もんじ長刀なぎなた〓[金+連]くさりがま琴柱ことぢなど、いへ/\秘奥ひおうきはめたり。しかれども稟性うまれつき柔和にうわにして、わざほこる事なかりしに、どう家中かちう挾野さのゝ太郎左衛門たらうざゑもんといふもの、これも富之進とみのしんとおなじく、武藝ぶげいをもつて高禄こうろくたまはりながらそのわざはるかおとりて、やゝもすれバ他門たもん弱人わかうどあなどらるゝ事ありしかバ、太郎左衛門ふかくこれをいきどほり、所詮しよせん富之進とみのしんとうちはたして、このうらみをはらすべしなど、いとはしたなくのゝしりけるを、太郎左衛門がおとゝなり」 ける次郎左衛門ハ、今茲ことし廾四さい壯者わかものなれども、天性てんせい怜悧さかしき男子をのこなれバ、これきのどくに思ひ、御身ハ富之進とみのしんどのゝ父御てゝご官太夫くわんだいふ殿との高弟こうていにて、彼人かのひと吹挙すいきよにあづかり、家中かちう師範しはんゆるされ給ひし事なれバ、挾隈さくまいへたいして、甲乙こうおつあらそはんハ義理ぎりにたがへり。ことさら今の富之進とみのしんどのも、武藝ぶげいかへり父御てゝごにもまさり給ふをもて、それがしも師弟してい礼義れいぎつくしてうやまひまゐらするにこそ、忠義ちうぎの二こゝろつかバ、はやく偏執へんしうの思ひをひるがへして、むかしのごとくしたしまじはり給へかしといさむれば、太郎左衛門いよ/\焦燥いらだち骨肉こつにく同胞どうほうなんぢさへ、われをうとみて、」7 富之進とみのしんをひくものを、もし渠奴きやつ打伏うちふせずハ、他人たにんくちいかでふさがん。ふたゝあらそひとゞむるならバ、義絶ぎぜつすべしといひこらし、つひ一通いつゝう願書ねがひしよをたてまつりて、挾隈さくま富之進とみのしん為合しあひおふせつけられ下さるべし、と申出まうしいでしかバ、主君しゆくん義弘よしひろ承引せういんあつて、富之進とみのしん太郎左衛門のりやう師範しはん御前ごぜんおい為合しあいいたすべきよしをめいぜらる富之進とみのしんハあへて勝負せうぶこのまざれども、主命しゆうめい黙止もだしがたければ、すなはち太郎左衛門と立合たちあひて、立地たちどころ打臥うちふせけれバ、義弘よしひろます/\挾隈さくま賞美せうびし給ひて、當座たうざに百五十貫文くわんもん加増かぞうをぞたまはりける。 富之進とみのしんハ此よろこびに、」かねてしんたてまつる、武州ぶしう浅草あさくさ觀丗音くわんぜおんに、繪馬ゑま奉納ほうのうせばやとて、あらた白木しらき橿かしをもつて、木太刀きたち二振ふたふりつくらせ、これを三尺あまりのがくかざりつけて、従者ともびと二人に扛擔かきになはせ、門人もんじん両三人を召倶めしぐして、浅草寺あさくさでらまゐをりしも、廣沢村ひろさはむらくろ[田+土+〓]、きのふのあめみづあふれ、一反いつたんあまりがあいだハ、草履ざうりにてハわたるべうもあらず。従者ともびともかくとしらねバ、木履ぼくり旅宿りよしゆくのこしおきたりと申すに、みな/\せんかたなくて、はかまのそばたかくつまみあげ、この行潦にはたづみわたらんとす。浩処かゝるところ年紀としのころ十七八のわかもの、馬手めて畔路あぜみちよりあゆみつ。この光景ありさまを見るとやがて、おのれが」8 穿はけ木履ぼくりぬぎて、富之進とみのしんまへひざまづき、このへんにハひるおほし、これをめさるべうもやと申しつゝ、かの木履ぼくりをさしいだせバ、富之進とみのしんこゝろざしかたじけな〔し〕しと回答えいらへして、木履ぼくりりて穿はきつゆばかりもあしらさずしてこゝをこゆるに、かの壯者わかものもすそひきからげてむかふへわたり、又その木履ぼくりもちかへりて、かはる/\門人もんじんかしてけり。富之進とみのしん門人もんじんも、そのこゝろざしまめやかなるを見て、ふかくかんじ、従者ともびとにもたせたる、ぜに一杖ひとすぢをとらせしかバ、壯者わかものおしいたゞきてこれをかへし、さて申すやう、御志みこゝろざしをもどくにたれど、人のためくつること、かゝるむくひうけんとハあらず。ねがひまゐらせたき事あるによりて、さハ」

挿絵

【挿絵】挾隈さくま富之進とみのしん浅艸寺あさくさでら参詣さんけいのみちすがら長吉が木履ぼくりかり行潦にはたつみをわたりそのこゝろざしをかんじて武藝ぶげい指南しなんせんとやく9

つかふまつりたりと申富之進とみのしんきゝて、ねがひとハ何事ぞ、身におうぜし程の事ハ、きゝとゞけてさすべし。とく/\申候へといへば、壯者わかものいよ/\かゞめ、かく申せバ嗚呼おこなるものおぼされんが、わが身元來ぐわんらい武藝ぶげい執心しうしんなりといへども、御覽ごらんのごとく此あたりハ、くさふかき田舎ゐなかにて、しかるべき師匠しせうもなく、日來ひごろこゝろうく思ひたりしに、只今たゞいま殿とのもたせ給へる繪馬ゑまを見るに、房州ぼうしう里見さとみ家中かちう挾隈さくま富之進範光のりみつ敬白けいはくしるしあれバ、とはずしてすでにその人なるをしれり。そも/\殿との武藝ぶげいすぐれ給ひし事ハ、近國きんごくにかくれなきを、はしなくも行會ゆきあひまゐらせしこそ、思ひも」10 かけぬさいはひなれ。これを三丗さんぜえんにして、お草履ざうりなりともかいつかみ、殿とのさまたちの稽古けいこのをり/\、見なれ見まねて太刀たちぬくすべ、捕手とりてのはしをもおほゆるならバ、此うへもなき御高恩ごゝうおん。とかく御家いへ奉公ほうこうのぞみにて候、と大地だいちにひれふしねがふにぞ、富之進とみのしん感心かんしんし、下〓かひ[不+一+邑]の〓[土+巳]橋いきやうためしならふ、かれ日本にほん張良ちやうりやうならん。かゝるものにをしへずハ、弓矢神ゆみやがみ冥利みやうりつくべし。なんぢ父母ふぼありや、としハいくつ、は何といふととへバ、な〔ハ〕長吉ちやうきちよばれて十八才也。おやどもハさきに身まかりて、浅草かはほとりなる、叔母をばもとやしなはれ候とこたふ。そハよきみちつひで也。われとゝもによといひてまづ觀丗音くわんぜおん参詣さんけいし、それより」 長吉に案内あないさせて、猟師りやうし兵衛がいへいたり、しか%\の物がたりして、この壯者わかものをわれにさせよといへバ、茂兵衛夫婦ふうふ縁由ことのよしきゝておもふやう、長吉ハとても猟師りやうしとなりはつべきものにあらず。こと力技ちからわざをこのみて、人にきずつけなどする事たび%\なれバ、これよき仕合なりと了簡りやうけんし、さつそく得心とくしんしてまゐらすべきよしを回答いらへすれバ、富之進とみのしん大によろこび、やがて長吉をして房州ぼうしうたちかへり、かれ草履取ざうりとりにして召使めしつかひつゝ、をり/\武藝ぶげい指南しなんするに、もとよりこのむところなれバ、わづか二三年のうちに、めき/\と上達しようたつし、高弟こうていともがらといへども、かへりて長吉をハあなどりがたく」11 ぞおぼえける。 こゝに又佐野さのゝ太郎左衛門ハ、すぎつるとしはれなる為合しあひにうちまけて、面目めんぼくうしなひしより、ます/\門人もんじんうとはなれしかバ、いとゞ無念むねんやるかたなく、富之進とみのしんとハ屋敷やしきとなりて、かきたゞ一重ひとへへだつれとも、通路つうろたち胡越こゑつのごとく、若黨わかたう中間ちうげんいたるまて、たがい言葉ことばをかはす事さへきんずれバ、人みな爪弾つまはぢきして太郎左衛門をにくみ、富之進とみのしんをひくもののみぞおほかる。元來もとより富之進とみのしんハ、風流ふうりうの心がけもありて、をり/\まりなどて、遊ぶを、富之進がおとゝなる富次郎といふもの、日來ひごろこれをうらやみ、おのれもかゝるあそびをこそとおもへども、富之進とみのしんこれをゆるさず、御身おんみ今茲ことし十八才にて、武藝もいまだ未熟みじゆくなる」 に、もし遊藝ゆうげいに心をうばゝるゝときハ、夲業ほんぎやうがいとなるべし。あにまりをうらやましく思ひ給はゞ、われもこのゝちハまじといふに黙止もだせしが、一日あるひ富之進ハ出仕しゆつしして畄守るすなれバ、富次郎わざくれに、かのまりをとり出し、長吉を相語かたらひつゝ、には立出たちいでたりけるに、主従しゆうじうそのわざうとけれバ、あなたこなたとほどに、とみ次郎がまりそれて、隣屋敷となりやしき撲地はたおつるに、長吉是ハとうちおどろき、あしをそらにして慌忙あはてふためけども、そのかひなけれバ、富次郎もつてほか周章しうせうし、隣家りんか挾野氏さのうぢとハ、年來としごろなるに、われよしなきたはぶれして、まり彼処かしこへ蹴おとしたれバ、たとひ乞求こひもとむるとも、たやすくかへすまじされバとてこのまゝに」12 すておかバ、兄貴あにきのかへり給ふて、まりをいかにしつる、ととはれんも難義なんぎなり。さて何とすべきとかき口説くどけバ、長吉もともうれひて申やう、かゞめいぬにハ、しもとたゆむとこそ申せ。太郎左衛門様いか程憤いきどほり給ふとも、それがしいくにもわびて、まりをうけとりかへるべし。御心安くおぼし給へといひつゝ、一刀ひとこしたばさみて太郎左衛門が屋敷へはしりゆき、言葉ことばこまやかに、礼義れいぎあつくして、くだんまりをぞもとめける。 これよりさき太郎左衛門ハ、にはにたち出て、泉水せんすいさきそめたる杜若かきつばたをながめりしに、思ひもよらず一まりさかひかきとびこして、百會ひやくゑのあたりへだう[手+堂](ポン)おつれハ、おどろいかりてそのまり踏潰ふみつぶし、」 しばしとなりのかたを白眼にらみつゝ、こなたよりやいひかけん、かれわびるをやまたんと、とさまかうさま思ふ折しも、下部しもべ権平、長吉か口上をとりつぎて、しか%\の事也と申に、太郎左衛門きゝもあへず、其奴そやつはやく庭口にはぐちより引ずりたれと下知げちするにぞ、権平切戸を押開おしひらき、長吉が肩先かたさきつかんで、掾頬ゑんがはちかく引居ひきすえたり。時に太郎左衛門大のまなこいからし、なんぢ富之進とみのしん下部しもべよな。なんぢしゆうあしにかけて、つねもてあそぶこのまりを、わがいたゞきつけしうへハ、弓矢ゆみや八幡はちまん堪忍かんにんならず。殊更ことさらみづからてもわびる事か、ふけとびなん下郎げらうをもつて、まりさせよといひすこそ安からね、といきまきあらくのゝしれハ、長吉頭かしらを」13 にほりこみ、おふせこと%\御尤ごもつともにハ候へども、主人しゆじんかつてこの事をしらず。下郎げらうめがわざくれに、しゆうまり盗出ぬすみいだし、あやまつておには蹴込けこみあまつさへ歴々れき/\のおつぶりへ、おちかゝりしとハうんつきたとひ手討てうちになれバとて、うらみとハ思はねど、むし同前どうぜん下郎げらうあやまちたゞいくにも御恕おゆるしあつて、ゆゑなくまりを給はらバ、世々よゝ生々しよう/\御高恩ごゝうおん、と身をへりくだしゆう思ひ、とハきゝわけず太郎左衛門、只顧ひたすらこへ振立ふりたて、やをれ下郎げらうさむらひつふりまり蹴着けつけわびたりともゆるすべきや。これハ富之進とみのしんがいひつけて、われに恥辱ちぢよくをとらせ、ひそかきやうもよほすとおぼし。覚期かくごせよといひもをはらず、かたなすらりとぬきはなせバ、長吉はるかとびすさり、つみあつてくびはねら」

挿絵

【挿絵】長吉剪鞠それまりをうけとらんため太郎左衛門に打擲ちやうちやくせられながらいよ/\わび14

るゝはちからおよばねど、一合いちごうとつても富之進とみのしん下部しもべ主人しゆじん一言いちごんことわりにもおよび給はず、あなたのまゝにハなりますまい。といふも使すなはちいのちのをしさ、うち打擲ちやうちやくあそばして、御了簡ごりやうけんだになるならバ、むかひハ仕らず。なう権平どのとやら、とりなしたのむとそでを、ふりはらつ回答いらへもせず、太郎左衛門あざわらひ、くちかしこくもほざいたり。今このまりだにかへすならバ、思ふまゝにならふとな。それ/\権平、其奴そやつつらひだふみにじれ。うけ給はると権平が、しゆうにおとらぬ傍若無人ぼうじやくぶじん泥臑どろずね蹴出けだして蹴飛けとばせバ、まだぬるしとて太郎左衛門、庭下駄にはげた穿はきつゝちやうる、ひたい三寸やぶれ口、ながるるハ無念むねんなみだ、じつとこらゆ健氣けなげ壯者わかもの、」15 太郎左衛門あきはて、思ひのほかしぶといやつ。それ/\まりうけとれと、いひつゝかたなをとりなほし、寸々ずん%\切裂さけバ、これハとおどろく長吉か、片頬かたほへはつしとなげつくる、そのまりつかんなげかへし、一寸いつすんむしにも五分のたましひごめになつたもこのまりを、ゆゑなく貰受もらひうけたいばかり。切裂きりさかれてハまりよりも、このを丸くハかへられず、とむねをすえたる一言いちごんに、太郎左衛門ます/\いかり、たすけかへすをこのうへの、さいわひとは思ひしらず、とんて火に入るなつむしなんぢいのちもねぐさつた。たゝんでしまへと目で下知げぢすれハ、點頭うなつきながら権平が、脇指わきさし引ぬき切付るを、長吉ひらりとかいくゞり、すぐうしろへかつぎ」 なげどんぶりはまる泉水せんすいの、どろまみれて濡鼠ぬれねづみねこにあふたるごとくにて、うごめく権平かひなしとて、太郎左衛門ハ二無三に、きつてかゝれバ長吉も、ぜひなくかたなぬきあはせ、丁々ちやう/\はつしと切むすぶ、手煉しゆれん刀尖きつさきめざましき、うんきはめか太郎左衛門、とび石につまづいて、よろめくところを長吉が、たりとふみこむおがみうちかたなにおふ長舩近忠おさふねちかたゞ切味きれあぢすつぱとから竹わり、二になつてたふるゝとき、やう/\きしはひつく権平、なんぢ冥土めいどともせよと、頭髻たぶさつかんむなさかを、つらぬくかたな池水いけみづも、しほにそめなす韓紅からくれなゐもみぢながすに彷彿さもにたり。 この物音ものおとをもれきゝてや、太郎左衛門かいもと水草みくさ、何心なく」16 はしつ、この光景ありさまおどろあはて、こや喃々なう/\さけこゑ只事たゞごとならずと若黨わかたう中間ちうげん、おつとりかたな立出たちいづれバ、には主従しゆうじうあへなき最期さいごかたきハ長吉のがさじとて、弓手ゆんで馬手めてよりとりまくを、あるひ切伏きりふせふみたふし、透間すきまをうかゞひ長吉ハには築垣ついがき跳越おどりこえ、ゆくへもしらずにげうせけり

  第二編だいにへん佐野さのゝ次郎左衛門が紀行みちのき

この日佐野さのゝ次郎左衛門ハ、出仕しゆつししていへにあらざれハ、かつてこの事をしらざりしに、若黨わかたう中間ちうけんがしか%\の事ありとて、おひ/\につげ來れバ、かつおどろかついかり、とるものもとりあへすはしかへりしかど、」

挿絵

【挿絵】長吉ハやむことをず太郎左衛門主従しゆうじう切伏きりふへい跳越おどりこえのか17

はや長吉ハ、いづゆきけん、しるものさらになかりける。このをりしも挾隈富之進さくまとみのしんハ、城中じようちうより退しりぞかへ途中とちうにて、くだん風声ふうぶんきゝしかバ、いそがはしく屋敷やしきたちかへりて、おとゝとみ次郎にまつ縁故このよしとへとみ次郎もつゝむに言葉ことばなく、まりを太郎左衛門がには踏落ふみおとしたる始終はじめをはりものがたりさだめて長吉ハ、のがれがたき手話てづめとなりて、やむことをず、太郎左衛門主従しゆうじううつ立退たちのきつらんといへバ、富之進とみのしんいよ/\おどろき、早速さつそく人を東西とうざいいたして長吉を追畄おひとめさせ、ふたゝび出仕しゆつしして縁由ことのよし訴聞うつたへきこたてまつるに、挾野さのゝ次郎左衛門も、あに太郎左衛門が事を訴出うつたへいでぬ。義弘よしひろつぶさ両家りやうけうつたへ聞食きこしめして太郎左衛門事武藝ぶげい18師範しはんたるをもつて、名もなき下郎にうたれしこそ言語同断ごんごどうだん越度おちどなれ。これによりて、おとゝ次郎左衛門ハ門戸もんことざし、なが慎居つゝしみおりて、かさねてのおふせをまつへし、又富之進とみのしんハ長吉が往方ゆくへをたづね、からめとつてたてまつるべしとぞ仰下おふせくだされける。 さる程に長吉ハ、やむことをず太郎左衛門主従しゆうじう討畄うちとめて、五七あまりおちたりしが、たちまちに思ふやう、われいまひところして立追たちのかバ、そのたゝりおんある主人しゆじんかゝりなん。いでや引かへして名告なのつて出、いさぎよしなせんにハと思ひさだめ、もとみちたちかへらんとしつゝ、又思ふやう、われ立かへりてその本末もとすゑ吟味ぎんみせらるゝときハ、とみ次郎様の難義なんぎとも」なるまじきにあらず。とかく主家しゆうか風声ふうぶんをよくきゝて、のち存亡そんほうさだめばやとて、二三日ハそのほとりの山里やまさとたちしのびて、よそながらかの容子やうすきけハ、主人しゆじんハ何のとがめもなしといふに心おちつき、つひ故郷ふるさとなりける武州ぶしう浅草あさくさおもむきて、叔母夫をばむこ兵衛がいへいたれバうちにハあたらしき位牌ゐはい二面にめんすえて、香花こうはなそなへ里人さとびとあまた會合つどひつゝ、念佛ねんぶつしてありけるが、人みな長吉がかへたるを見て大に、よろこびまづこなたへとていざなはしに、いもとはしも立出て、たえてひさしき對面たいめんをうれしめど、うれひのいろおもてにあらはれておぼつかなけれバ、長吉もこゝろにすいしながら、まづそのゆゑを」19 とへハ、里人さとびと言葉ことばひとしくしていふやう、こゝの兵衛夫婦ふうふハ、日來ひごろ病事やむこともなき人なるに、この月のはじめより、時疫じえきやみ打臥うちふせしが、あはれなるかや猟舩りやうせんを、弘誓ぐぜいふねのりかえて、夫婦ふうふ月も日もかはらず、あしたつゆきえうせたり。しかるに御身ハ奉公〓ほうこうかせぎ[手+上下]にとて、いづへかゆきてより、この二三年ハおとづれもなく、あとのこるハとしわかな妹子いもとごひとり、見るにさへいたましくて、村中むらぢう相語かたらひ送葬そう/\にぎやかにとりおこなひ、けふハ初七日しよなのか逮夜たいやなれバ、かやうに打よりて回向ゑかうしまいらする也。やよはし女郎ぢよらうおにのやうなる兄御せなごのかへられたれバ、よき後楯うしろだて出來できてめでたし。」

挿絵

【挿絵】長吉故郷ふるさと浅草あさくさたちかへりいもと八橋やつはしにあふて叔母夫をばむこ茂兵衛妻夫めをとをさりしよしをきゝておどろく20

今よりハ大舩おほぶねれるがごとく、こゝろいかりうちおろし給へなど、いとかしましくいひあへるも、浦人うらびとのつねぞかし。長吉ハこれを聞て、年來としごろめぐみふかゝりし、叔母御をばご夫婦ふうふ臨終りんじうに、あはざる事を悔歎くひなげき、又里人さとびとあつなさけをよろこびきこえて、いもと八ッはしちからあはせ、仏事ぶつじ追善ついぜんねんごろにいとなみける。 かくていみどもはてしかバ、村長むらおさをはじめ、さと打こぞりて、長吉を兵衛と改名かいめいし、叔母御をばごいへたて給へとすゝむるに固辞もだしがたく、一旦いつたんそのにまかせて、名迹みやうせき相續さうぞくするといへども、かねてこゝろに思ふやう、われ亡父なきちゝ遺言ゆいごんを守り、武士ぶしとなりて田いへ引起ひきおこさんとちかひしが、やむことをず人をころして、たちまち21 日蔭ひかげとなれバ、とても仕官しくわんねがひかなはず。又太郎左衛門殿にハ、次郎左衛門殿といふ弟御おとゝごもあるなれバ、かならずわれをねら[穴+鬼]ふべし。しかれバわがいのちハ、けふあつてあすなき身なるを、何条なんでうわづらはしき浦人うらびとわざをしてむさぼるべき。とかくいもとむこをとりて相續さうぞくさせんにハ。されどゆゑなくしてこの事をいひいだすとも、里人さとびと承引うけひくすまじけれバ、まつおこなひほしいまゝ[手+玄]にして丗の人にうとまるゝやうにはからんとて、漁猟の事ハ外にしつ、さと壯者わかものをあつめて力技ちからわざを事とし、あるひは喧嘩の腰押こしおし、密通の出入いでいりよはきをたすつよきをとりひしぎ、よこしまなるをせいたゞしきに方人かたうどせしかバ、その下風かふうに」 たつ壯者わかもの居多あまた出來いてきける程に、かたきをもつハ、をしのぶといふこゝろにて、みづから隠家かくれが兵衛とぞせうしける。 そのころ浅草川あさくさかはみなみに、梅堀うめぼり五郎兵衛といふ溢者あふれものありけり。手下てした悪輩あくはい十人をやしなひ、近在きんざい宮地みやち都鄙とひ色里いろさと横行わうぎやうし、やゝもすれバ喧嘩けんくわをしかけて、人の懐中物くわいちうものうばひとり、なかばきほひにしてなかばぞくをなすといへども、そのさとひさしくすめバ、おほくハかれ手下てしたつきて、茂兵衛をあなとるものすくなからざりしに、茂兵衛がすまひする浅草川あさくさかはより、うばいけにつゞきて、一條ひとすぢ小川をがはあり、このところ西にし淺草寺あさくさでら境内きやうないひがし無戸村むとむら〔今の砂利場の辺歟〕也。このかはにハぬしありといひ」22 つたへて、とし一二度ハ、かならず水死すいしするものありとぞ。さて一日あるひかぜいたくふきあれて、猟舩りやうせんいだしがたけれバ、兵衛ハ雜魚ざこなりともつらはやとて、釣竿つりさをたづさへ、この川端かはばたをそここゝとたちめぐるに、夏艸なつくさしげみより、小蛇こへび一ッ跂出はひいでて、茂兵衛が足首あしくびをくる/\とまきしかバこの愚者しれもの何するぞと思ひつゝ、はらひのけず打まもりれバ、このへびのちから、 なりにもず、しやちなどにてしむるごとくおぼえて、やうやく川へ引入れんとす。こハくせものごさんなれとて、兩足りやうあししかふみこたへ、引入られじとかまへほどに、穿はきたる木履ぼくりもろともに、片足かたあしハ五六寸、 つちなかへめりこみて、さながら」

挿絵

【挿絵】長吉ハかくれの茂兵衛と改名かいめいしてのち一日あるひ枝川えだがはのほとりにてうはばみ[虫+〓]にあしをまつはれ大に勇力ゆうりきをあらはしける23

よりはへたるごとく、茂兵衛ちからやまさりけん、このへびなかよりふつゝとれ、川水かはみづざは/\と逆巻さかまくと見えけるが、水ハたちまちへんじ、今まで小蛇こへびと思ひしも、廾尋はたひろあまりの大蛇だいじやにて、かしらのかたハ川むかひなる、まつ必死ひつし巻着まきつきつゝ、二ッにれてうごめき居たれバ、流石さすが兵衛も仰天ぎやうてんし、しばしあきれてありけるところへ、里人さとびと四五人來かゝりて、この光景ありさまにうちおどろき、やがて茂兵衛にちからあはせ、やうやくかの〓[虫+〓]蛇うはばみを打ころしぬ。 さてこの事一郷いちごう美談びだんとなりて、ある日そのちからをこゝろみんとて、ふとなはを茂兵衛が足首あしくびむすつけ究竟くつきやう壯者わかもの十人ばかりして、そのなはをひく」24 に、いまだひきやうよはしといふ。次第しだいに人をくはえて、およそ三十人あまり、ちからをきはめて引しかバ、その事時茂兵衛莞尓につこわらひて、かの〓[虫+〓]蛇うはばみか引たりしハ、かくごとおぼえたりといふにみな/\ます/\感伏しはじめあなどりし壯者わかものも、兄とせうしおやとたのみて、その手にぞしよく(○ツク)しける。 是ハさておき安房あはの國にハ、里見義弘よしひろの御舎弟、冠者くわんじや次郎義廉よしかど、ある近従きんじゆさむらひ挾隈さくまとみ次郎只一人を召倶めしぐして、やかたをしのび出給ふ。その故いかにとたつぬるに、義廉よしかどおもひもの佐江さえの方といへる女房あり。その容儀ようぎ丗にたぐひなかりし程に、こよなく寵愛ちやうあいし給ひて.比翼ひよく連理れんりちぎりあさからざりしに、はからずも持病ぢびやうつかへ」 とりつめて.名花めいくわ一朝いつちやうあらしりぬ。かゝるなけきの折しもあれ、かね婚縁こんえん沙汰さたありける、小弓をゆみ御所ごしよ義明よしあきら息女そくぢよ近日きんじつ輿入こしいれきこえしかバ義かどます/\物うき事に思ひなし、つひ遁丗とんせいこゝろざしふかくひそかやかた脱出ぬけいでて、浦人うらびと便舩びんせんして、武州ぶしう品革しなかははまつき給ふ舩中せんちう里見さとみ重宝ちやうほう小槻形こつきかたつるぎをバ、みづから海底かいていしづめ給へり是すなはち今より佛門ぶつもんに入りてふたゝび故郷こきやうへかへらじとちかひ給ふによつて也。かくて義廉よしかと主従しゆうじうハ、いさゝか由縁ゆかりつきて、芝崎村しはさきむら道場どうしやうはしり入り、剃髪ていはつの事をたのみきこえ給へハ住持ぢうぢ聖人せうにんかひ/\しく舎匿かくまいまゐらせ、祝髪しくはつの事ハいまだおそきにあらず」25 とて、学寮がくりやうのかたはらに別室べつま修理しつらひ義廉よしかど主従しゆうじうおきまゐらせけり。 さる程に里見さとみ義弘よしひろハ、義廉よしかど逐電ちくでんの事をきゝて大におどろき給ひ、小弓をゆみ義明よしあきらハ、京都きやうと将軍せうぐん庶流しよりう足利あしかゞ政氏まさうぢ二男じなんにして、年來としごろ方人かたうどなるに、わがおとゝ婚姻こんいんきらひて、出奔しゆつぽんせしと風聞ふうぶんあらバ、晋秦しん/\したしみたちまちやぶれて、ことおよぶべし。いかにも穏便おんびんのはからひをもつ冠者くわんじや次郎をめしかへすへしとて、やがて挾隈さくま富之進とみのしんひそかまねき給ひ、なんぢおとゝとみ次郎事、義廉よしかどともしてやかた立退たちのきたれハ、なんぢ内々ない/\その行方ゆくへハしりつらんいそぎ義廉よしかど追畄おひとめめしつれまゐるべしもし等閑なほざり沙汰さたにおよはゞなんぢとても罪科ざいくわのがるべからず。」

挿絵

【挿絵】冠者くわんじや次郎じらう義廉よしかど佐江さえかたをうしなひて愁歎しうたんのあまり挾隈さくま富次郎とみじらう只一人をめししてひそかに武蔵むさしたちこえ給ふ舩中せんちう小槻形こつきがた宝劍ほうけんうみしづめながく仏門ぶつもんに入らんとちかひ給ひける26

きびしくめいじ給ひしかバ、富之進とみのしんおそれ入ておふせうけ、あへて心あてとてハなけれども、つぎ日鎌倉かまくらさしたびだちぬ義弘よしひろハ事のついでをもつて、佐野さのゝ次郎左衛門におふせ下されけるハ、なんぢあに太郎左衛門、下郎げらうの手にかゝりて相果あひはて越度おちどによつて、なんぢにハ久しく蟄居ちつきよ申つけおくところ、今般こんはん思ふむねあるをもつて、追放ついほうせしむる也。もし一ッのこうたつるならバ、めしかへさるゝ事もあるべしとめいじ給へバ、次郎左衛門ありがたしと御うけ申て、その日俄頃にはか屋敷やしきを引はらひ、いもと水草みくさともなひて武蔵むさしのかたへおもむきしが、みちすがら思ふやう、主君しゆくん厳命げんめいに、一ッのこうを立よとあるハ、かたきたづぬついでをもつて、義廉よしかどきみ行方ゆくへらバ、ともなひ」27 まゐらせよとある御心みこゝろなるべし。しかれバ立地たちどころあたをむくひ、冠者くわんじやどのにたづねあひまゐらせて、ことなる忠節ちうせつをあらはし、あに死後しごはぢすゝがんものをと思ひさだめ、ゆく/\下總しもふさなる國府こふだいまで來たりし日、六十六部の行者ぎやうじやに行あひしが、この六部ろくぶ、次郎左衛門を、と見かう見て、こハわか殿との次郎左衛門様、従者ともびとをもつれ給はす、兄弟きやうだい只二人にて、いづ國へおもむき給ふといふに、次郎左衛門も熟視よくみれバ、かの六部ろくぶハ、もとめし使つかひし若黨わかたう佐一さいち兵衛といふものなれバ、たがいにうちおどろきて、まづかれがうへをとふに、佐一兵衛こたへて、それがし年來としごろ奉公ほうこう首尾しゆびよくつとめおふせ故郷ふるさと鎌倉かまくら引籠ひきこもりしハはや十年のむかし也」 されど身のさいわひもなくてつまおくれ、加之しかのみならず最愛さいあい一子いつしをもうしなひつれバ、丗の中を味氣あぢきなく思ひなし、日本國中の霊場れいじやう巡拝じゆんはいして、なき人の後世ごせとふ〔ら〕ひ、五年にしてやうやく念願ねんぐわん成就じようじゆしたれバ一たび鎌倉へ立かへるべうおもひ、東國とうごくつえひく折しも、こゝにてあひまゐらせしハ、つきせぬ主従しゆうしうえんなるべし。きみハ又いかなるゆゑありて、かくあやしげなるたびをバし給ひつると問に、次郎左衛門ハあに横死わうしの事、わがうへまでもおちもなく、事細やかに物がたれバ、佐一兵衛ハます/\おどろき、しからハ足弱あしよはともなひて、かたきを索給はんハ便たよりなきわざ也まづそれがしととも鎌倉かまくら立越たちこえ給へ水草みくさ様をバわれらあつかりまゐらせて、」28 よきにいたはり候べしといふに、次郎左衛門もかれこゝろざしまことあるをよろこび、しからバいもとが事をハなんぢにたのむべし。鎌倉かまくら東國とうごく第一たいゝち繁昌はんじようなれバ、かたき長吉も、彼処かしこなどにあるまじきにあらされど、われハまづ常陸ひたち下野しもつけ兩國りやうごくたづねあとよりぞおもむくべき。なんぢいよ/\故郷こきやうへかへるならハ、水草みくさをバすぐともなひくれよといふに、佐一兵衛一議いちぎにもおよばせう引してこのところより水草みくさともな葛飾かつしかのかたへ立帰たちかへれバ、次郎左衛門ハ只ひとり東北うしとらをさしてわかれける。 されバ佐一兵衛ハ水草みくさして名にしおふ、武蔵むさし下總しもふささかひなる、墨田川すみだかはまで來たりしにこの時日もやゝ向暮くれなんとすれバ、このわたりを過てこそ宿やどり

挿絵

【挿絵】挾野さのゝの次郎左衛門ハあにあたむくはためいもと水草みくさともなひて下總しもふさのかたへ立こゆるみちにてもとのわかたう佐一兵衛〔に〕あづけその身ハ常陸ひたちのかたへおもむきけりしかるに梅堀うめほりの小五郎兵衛この容子やうすを見て水草みくさをうばい立のく29

をももとむべけれとて、只顧ひたすらみちをいそぐ折しも、かたはら藪蔭やぶかげよりさもいかめしき大男おほをとこ忽然こつぜんとあらはれ出、ゆきちがひさまあしあげて、佐一兵衛をはたたふし、水草みくさ小腋こわきにかいこんで、あとをくらましにげうせけり。佐一兵衛ハわきばら[月+害]をいたくられ、しばし絶入たえいりてありけるが、やうやくに人ごゝちつきて身をおこせバ、水草みくさすでうばひとられて、もはや初更しよやのころなるにぞ、こハ何とせんと慌忙あはてふためきたゞ狂人きやうじんのごとくはしりめぐりつゝ、すがら彼此をちこち呻吟さまよへども、水草みくさがゆくへハしれざりける。かの梅若うめわかたづねたる、野上のがみ班女はんぢよがいにしへも、かくやとおぼえてあはれなり。

敵討誰也行燈上巻

敵討誰也行燈かたきうちたそやあんどう下巻

馬琴戲編

  第三編だいさんへん芝崎しばさき寺入てらい主従しゆうじう

墨田すみだ川原かはらにて佐一さいち兵衛をうちたふし、水草みくさうばひとりて立去たちさり癖者くせものハ、梅堀うめぼり小五郎兵衛こゞらうひやうゑなり。この五郎兵衛、水草みくさ容色ようしよくすぐれたるをて、俄頃にはか慾心よくしんおこり、かく非道ひどうおこなひをなして、わがいへともなひかへり、おどしつすかしつ、さま%\いひこしらへて、つぎの日元吉原もとよしはらとかいへる傾城町けいせいまちにつれゆきて、おのれがいもとなりといつはり、年季ねんき七年の身價みのしろ、六十兩をうけとり、そのかねをバみな淫酒いんしゆためにつかひはたせしとぞ。妓院ぎいん(○ユウヂヨヤ)のあるじも、水草みくさことさら」 みやびやかなるをてふかくよろこび、禿かぶろだちよりこゝに生育おひたつものハ、おのづからなれきゝなれて、手煉てれん手管てくだ怜悧さかしけれど、これハ十七才のきのふまで、かゝるわたりせんとも思ひかけざる女子をなごなれバ、糸竹いとたけ調しらべ香花こうはなちやハさらなり、さと諸譯しよわけをものみこませ、そののち突出つきだしといふものにして、きやくにもあはすべけれとて、芝崎村しばさきむら道場どうじようとなりて、所持しよぢ別荘べつそうあれバ、老女おうなひとり、はらはひとりをつけて、しばしこのところにやしなひおく程に、光陰くわういんはゆくみづよりもよどみなく、はやくも三五月をぞたりける。 こゝに芝崎しばさき道場どうじようにハ、冠者くわんじや次郎義廉よしかどぬし、挾隈さくまとみ次郎とともに、しば」1 しうきをしのび給ふに、をりしも七月七日のなれバ、はしちかうたちいでて、牽牛けんぎう織女しよくぢよ故事ふることなどかたいであきのはつかぜまちがほに、かや軒端のきばとびかふほたるも、二星じせい天降あまくだるかとあやしまれ、ふけゆくまゝいもられず、只顧ひたすらうそぶきておはしけるに、忽地たちまち隣堺となりさかい生垣いけがき切破きりやぶりて、こなたへしのびいづるものあり。こハまつたく盗人ぬすびとならん。追遺おいやらひておどろかさばやとて、主従しゅうじうごろのぼうたづさへ木陰こかげうかゞひ給ふともしらず、癖者くせものかきくゞりて、たやすのがれ出るところを、待設まちまうけたる義廉よしかど主従しゆうじう兩足りやうそくはらひて打仆うちたふせバ、癖者くせものだう[手+堂]とまろびつゝ、反起はねおきるをおこさじと、とみ次郎とびかゝり、」

挿絵
【挿絵】よしかど芝崎しばさき閑居かんきよのときとみ次郎ともにぬすびとおひちらし給ふ2
みぎかひなしかる。もの/\しやとふりはらふ、そでちぎれてのこり、やみハあやなし癖者くせものハ、あとをも見ずしてにげてゆく、いづちまでもと追蒐おひかくるを、義廉よしかどしばしとよびとめ給ひ、やよとみ次郎、にぐるものをバとほくなひそ。あとにもひとりの癖者くせものあり。とのたまこゑをしるべにて、とみ次郎さぐりよれバ、虚焼そらだきかほりえならずして、たへなるはだへまさしく女子をなご、こハこゝろえずともろともに、わがすむ部屋へや引立ひきたてかへり、さてらしてよく見れバ、年紀としのころハ十七八とおぼしき未通女をとめの、ゆきはづかしき姿すがたらうたけしを、ものいふ事のならぬやうに、ぬのにてくちくゝりしめたれバ、やがてはま3 せたる手拭てのごひをとらせて、義廉よしかどつく%\見給ふに、その顔色がんしよく声音こはねまで、さきりしおもひもの佐江さえかたつゆたがはざれバ、こハなきたまのあこがれて、しばしまみゆるものなるか。わがためひとあつて、返魂香はんごんかうたきけん、と今さら心ときめきつゝ、まづそのうへをとひ給へバ、女子をなごこたへて申すやう、わらははもと安房あはくにのものなるが、惣領そうりやうあに、太郎左衛門といふものを人にうたれ、そのあたむくはためつぎなるあにともなはれて、武藏むさしのかたへたびたちけるに、みちにてもと若黨わかたう佐一さいち兵衛といふものにめぐりあひ、その人にせられて鎌倉かまくらおもむかんとて、墨田すみだ川原かはら〔と〕とかいふところまでたるをりしも、いとむく」 つけきあらをとこが、佐一兵衛をうちたふし、わらはを奪去うばひさりておのれがいもとなりといつはり、元吉原もとよしはらとやらんいふ色里いろざとうりわたしぬ。されバこのハ思ひもかけず、河竹かはたけのながれにしづみて、そでなみだかはかねバ、あるじいまだきやくにハあはせず、この御寺みてらのあなたなる、別荘べつそうやしなひおきて、しばし物学ものまなびさせたりしに、かのあらをとこ五郎兵衛とやらんいふわるものにて、をり/\彼処かしこにしのびつ、わりなく口説くどきよるといへども、たえて返事へんじもせざりしが、かれいかなる伎倆たくみありけん、今宵こよひふけてしのび來り、わらはに手拭てのごひはませ、かたひきかけてはしり出しを、老女おうなわらはも、うまくねふりてこれを」4 しらずうきがうへなるはづかしめを、うけもやせんとあさましくも、又かなしくもおぼえしに、はからずすくひ給はる事、うれしといふもあまりあり、とものがたりつゝあはせ、あなたこなたを伏拝ふしおがめバ、とみ次郎きゝとがめて、安房國あはのくにの人にて、あに太郎左衛門といふものを、人にうたせしとあるからハ、さてハ挾野さのゝ次郎左衛門のいもと水草みくさどのにハあらずやといへバ、をんなも大にうちおどろき、こハなにとしてわがうへを、くはしくもしり給ひし。いかにも水草みくさなりといへバ、義廉よしかども思ひかけずとて、今はたつき主従しゆうしうの、にしをあやしみ給ひけり。 ときとみ次郎がいふやう、挾野氏さのうぢとわがいへとハ、このとしごろ不和ふわなるゆゑに、のきをならべてすみながら、」 御身おんみにもおもてあはせたる事もなけれど、太郎左衛門に水草みくさといふ、すゑいもとありし事はよくしりたり。かくいふそれがし挾隈さくまとみ之進がおとゝとみ次郎、これなるハやかた舎弟しやてい冠者くわんじや次郎じらう義廉よしかどぎみにておはする、と御身の上をものがたれバ、水草みくさはるかさつて、こハ/\いかに、とばかりに、よろこびつ又かなしみつ、ゆめゆめ見るこゝちせり。とみ次郎ハ、次郎左衛門が、あたねら[穴+鬼]ふと聞くにさへ、家隸けらいながら義理ぎりある長吉、かれをやみ/\うたせじ、と思へどさらいろにも出さず。冠者くわんじや次郎ハなき人に、たる水草みくさあはれみて、われもしむかしの身なりせバ、請出うけいだしてこの女子をなごに、苦界くがいつとめハさせまじきに、なまじいいとひてし、くちをしさ」5 よとなさけある、言葉ことばこひのあらはれて、思ひつめたる遁世とんせいも、うはのそらなる氣色けしきなれバ、これさいはひとみ次郎、わか殿とのにもこの日来ひころ徒然つれ%\かちにましませバ、水草みくさどのハこゝにありて、しばしなぐさめまゐらせ給へ。われらハのこあつさあたりか、俄頃にわか頭痛づゝうたへがたし、とこのはづ頓作病とんさくびやう障子せうじひきたておくまりたる、一室ひとまに入りてやすらひける。 あきとハいへど短夜みじかよの、次第しだい/\にふけまさり、ほしちぎりをかはたけも、まだのみして初恋はつこひの、睦言むつごとよそにもらさじと、鴛鴦をしふすま烏鵲かさゝぎの、はしなきゆめをむすべるをりしも、梅堀うめぼりの小五郎兵衛ハ、住持ぢうぢ同宿どうしゆくひきつれて、手燭てしよくさしつけ部屋へやを、」

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【挿絵】梅堀うめほり五郎兵衛ハ義廉よしかど水草みくさ密通〔み〕つゝう見あらはしかねにせんと較計もくろむ6
あらゝかにひきあくれバ、うちにハおどろ義廉よしかど水草みくさ迯出にげいでんにもかや[虫+尉]の中、おびさへとけて面目めんぼくも、捺落ならくそこへ入りたき風情ふぜい五郎兵衛ハ用捨ようしやなく、かや[虫+尉]の釣手つりてきりおとし、二人ふたり襟髪えりがみかいつかみて、膝下しつかへくつと引居ひきすゆる。この物音ものおととみ次郎も、一室ひとまはしいづれども、はや密夫みそかを露顕ろけんせし、この為体ていたらくすくふべき、方便てだてなけれバこぶしにぎり、くひしばりてひかへたり。五郎兵衛ハいきまきあらく、只今たゞいまもいふとほり、これなるハわがいもとよんどころなきかねづかへ、近曽ちかごろくるわ奉公ほうこうさせしが、親方おやかたかれ別荘べつそうやしなひおきて物学ものまなばするを、この真男まめをとこ相語かたらひて、人もなげなるころあひよそからもれ7 てハ親方おやかたへ、義理ぎりかくれバをとこもたゝずと、よひからつけておさへ出入ていり畢竟ひつきやうてら揚屋あげや同前どうぜん、そら念仏ねぶつする坊主ぼうずもなれあひ、これにてもなほ寺法じほうたつ、とのゝしりくるふ伎倆たくみ土圭とけいまがるこゝろの撞木しゆもくより、かねにすると見てとる住持ぢうぢ、さわぎたる氣色けしきもなく、このじんゆゑあつて、當寺たうじ寓居ぐうきよいたさるれど、出家しゆつけならねバほとけをしへを、まもるべきやうもなし。されど淫奔いんほんを事として、霊場れいじようけがせしうへハ、早々さう/\てら追放ついほうすべし。又女子をなごハ御身がいもとといへど、すでくるわうつたれバ、これ又其許そこのまゝにもならじ。ことさらこの女子をなごかゝへたる妓院ぎいん(ユウジヨヤ)あるじ何某なにがしハ、當寺たうじ檀那だんなにてあるなれバ、女子をなごハこゝよりおくるべし。しかればおん義理きりかくる事もなく、をとこのすたる事もなし、といはせもあへず五郎兵衛、から/\と打笑うちわらひ、口かしこくもいはるれど、石佛いしぼとけをたふしたやうに、こんだおの/\をよびおこし、たま/\おさへ盗人ぬすびとを、このまゝにおくべきか。ぜひこのをとこもらうけこゝろのまゝにはからはんと、かさにかゝるを住持ぢうぢかさねて、人のさがハ見ゆれども、わが善悪さがハ見えぬやら。たつこのじんこゝろのまゝにせんとあらバ、其許そこもとをも又かへしがたし。およそふけて人をとふにハ、門外もんぐわいよりおとなひて、門守かどもりおこし、案内あないさせて入るべきに、さハなくしてかきくゞり、へいこえたりしからハ、とりもなほさず盗人ぬすびと同前どうぜん。まづこのことより糺明きうめいせんや。といはれて流石さすがの小五郎兵衛も、」8 それハとばかりごもれバ、とみ次郎すゝみ出、最前さいぜんしのびきたれるに癖者くせもの、とりにがせどものこる、その片袖かたそでとさし出すを、住持ぢうぢそれをバもやらず、ものとられねバ盗人ぬすびとを、はなちやる出家しゆつけやく。小五郎兵衛たにいひぶんなくハ、こと明白めいはくたゞすにおよばず。いざ/\梅堀うめぼり退参たいさんあれ、とよらずさはらぬ挨拶あいさつに、伎倆たくみのうらをかくばかり、當然たうぜん横紙よこがみも、やぶりかねたるたちしほあしく、しからバ渠奴きやつこのてらを、忽地たちまちし給へ。もし一日もとめおかバ、吃度きつと出入でいりいたすべし。そのとき後悔こうくわいし給ふな、とほざきにほざいて小五郎兵衛ハ、小門こもんくゞりひらかせて、やがて家路いへぢにかへりける。 住持ぢうぢの上人は義廉よしかど主従しゆうじうにうちむかひ、わかとハはいひな」 がら、遁世とんせいのぞみひきかへ、おどろき入たる不義ふぎ放蕩ほうとう。かゝるうへはちからおよばず。御痛おんいたはしくハ候へども、あけなバいづかたへも御越おんこしあれ。又女子をなごことハ、親方おやかたびよせて、ひきわたしつかはすべし。と委細いさいめいじ給ふにぞ、役僧やくそううけたまはり、天明しのゝめのころ人をせて、かの親方おやかたまねきよせ、水草みくさ逓与わたしたりけれバ、冠者くわんじや次郎主従しゆうじうも、あやまり耻入はぢいりて、しほ/\てらをたち出給ひ、いづくにあてハなけれども、こゝろ筑紫づくし神垣かみがきを、いくうつして上久かみさびし、湯嶋ゆしまのかたへおもむきて、しげ小松原こまつはらすぎ給ふに、待設まちまうけたる小五郎兵衛、手下てしたわるもの十人あまり、大路おほぢせましとたちふさがり、形状かたちにも押着わうちやくもの、以後いごの」9 見懲みごらぼうくらへ、とうつてかゝれバ富次郎、しゆううしろ立向たちむかひ、ぬきあはせても多勢たせい無勢ぶせいひらめぼう肩腰かたこしの、わかちもなく打居うちすえられ、主従しゆうじういきもたえ%\に、そのまゝ撲地はたたふれけり。 小五郎兵衛こゑをかけ、是奴こやつころすもつみつくり、みなひけ/\とあご[思+頁]で下知げちとみ次郎がふところに、をさし入てちぎられし、わが片袖かたそでをとりかへして、たちかへらんとするをりしも、思ひもかけず松蔭まつかげより、小五郎兵衛まづまてと、よびとゞめて立出たちいづるハ、隠家かくれが兵衛なり。これハとおどろく小五郎兵衛、手下てしたやから氣味きみわるく、一ッところへよりこぞれば、とみ次郎おきかへり、こハめづらしや長吉ちやうきち。われ/\が難義なんぎすぢを、しつて」

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【挿絵】茂兵衛しかへしして冠者くわんじや主従しゆうじうをすくひまゐらす10

こゝへハきたりしか。思ひかけずとよろこべバ、兵衛ハつち兩手りやうてつき多年たねん御恩ごおんあたにして、故郷ふるさと浅草あさくさにげかへり、しばしうきをしのぶの、隠家かくれが兵衛とあらため、わがまゝに日はおくれども、主君しゆくんめぐみ片時へんしわすれず。しかるにこのほどわか殿とのにハ、やんごとなき御方おんかた御供ともあつて、芝崎しばさき道場どうじよう御坐ござある事を、かたのものが聞出きゝいだし、今朝こんちやう未明みめいはして、小五郎兵衛が較計もくろみまで、委細くはしくつぐるにこゝろもとなく、みちをいそぎてまゐりしに、今一足ひとあしおそくして、彼等かれら打擲ちやうちやくにあはせまゐらせしこそくやしけれ。されど兵衛がまゐれるからは、何事なにごとうちまかせ、それにて見物けんぶつし給ふべし、といひなぐさめて」11 小五郎兵衛が、ほとりちかくあゆみより、単衣ひとへそでかたまでかきあげなが脇指わきざしかたなを、こじり[金+當]みじかにして、をひたとたちならび、彼処かしこなる二方ふたかたハ、兵衛がおんあるひとなるに、なにとがあつて打擲ちやうちやくせし。そのわけきかんととひかくれバ、小五郎兵衛あざわらひ、とがなきものをうつべきか。其奴そやつハわがいもと密會しのびあひあにおもてどろ大盗人おほぬすびと以後いごいましめなさけしもといたいめハしうちぞ、とそらうそぶけ兵衛きゝて、いや盗人ぬすびと宛名あてながちがふ。なんぢ日外いつぞやたび女子をなご拐挈かどはかし、いもといつはくるはうりて、許多あまた身價みのしろむさぼれども、なほあかずしていろ假托ことよせふたゝ女子をなご盗出ぬすみいだして、とほあがた八重やへうりの、較計もくろみちがふた意趣ゐしゆかへし。證据しようこハこれぞと」 いひもあへず、小五郎兵衛がふところより、引出ひきいだしたる以前いぜん片袖かたそで、それハとあはててさしいだす、腕首うでくびとらえなげつくれバ、手下てした悪棍わるものさはきたち、うちてかゝる六尺ぼうを、一ッによせて引手ひきたくり、あたるをさいはひうちすゆれバ、算木さんきみだすにことならず。兵衛ハかく打伏うちふせてのゝし[勹+言]りけるハ、くるわこひ賣物うりもの買物かひものかの女子をなご客達きやくたちと、新枕にひまくらするそのにハ、このかたさまのおともして、兵衛があはまゐらする。さまたげんものハたれにもあれ、いきとめるを合点がてんなら、かならず出入でいりをもつてよ、とあくまでに廣言くわうげんし、白眼にらみつくれバ小五郎兵衛、許多あまた手下てしたもろともに、點頭うなづくばかりこしたゝず。こゝちよかりし光景ありさま也。 かくて兵衛」12義廉よしかど主従しゆうじうともなひかへり、兩三日ハわがいへにおきまゐらせしが、こゝハひと出入でいりしげくして、をしのび給ふに便たよりあしけれバとて、ちかほとり借屋しやくやうつし入れたてまつり、おのれハ日ごとにゆきかよひて、よろづとぼしからずまかなひまゐらせしかバ、冠者くわんじや次郎はさら也、とみ次郎も只管ひたすらかれまことあるこゝろざし感悦かんゑつし、主従しゆうじうさらにちからをて、十日あまりをすぐせしに水草みくさ誰也たそや改名かいめいし、近日きんじつきやくむかふるといふ風聞ふうぶんあれバ、兵衛その日より郷導しるべして、誰也たそや義廉よしかどにあはせまゐらせしに、小五郎兵衛かともがらも、さき爲返しかへしに手懲てごりして、これをこばまんとすることかなはず、かへりて胡盧ものわらひにぞなれりける。

 第四編だいしへん義女ぎぢよ八橋やつはし事蹟ことのあと

冠者くわんじや次郎じろう義廉よしかどハ、隠家かくれが兵衛が郷導しるべにて、突出つきだしのその日より、誰也たそや會馴あひなれ給ひしかバ、誰也たそや義廉よしかど古主こしゆうなるに姿すがたことさらひなび給へバ、この殿とのならであだきやくに、をまかせじとちぎほどに、かねつまるハ廓通さとがよひ生平つねなり。兵衛ハ所持しよぢ猟舩りやうせん沽却うりしろなし、あるひ利足りそく過分くわぶんかね借受かりうけなどして、遊興ゆうきやう雜費ざつひ調みづきまゐらせしに、近曽ちかごろ誰也たそやがかたへ、黄金こがねあまたもてる田舎客ゐなかきやくのありて、たゞ一度いちど坐敷ざしきつとめしに、身受みうけせんとて、その事すでとゝのふよしきこえけれバ、義廉よしかどハいふも更也さらなり兵衛も」13 かの女子をなごを、あだし人に逓与わたしてハ、とみ次郎へ義理ぎりたゝず、かつ小五郎兵衛がともがらに、わらはれんもくちをしとて、只管ひたすら焦燥いらだてども、さしあたりて身價みのしろの、とゝのふべきよすがもなけれバ、いもと八橋やつはしくるわらばやと思ひしが、又思ひめぐらせバ、たとひ手結てづめかねなりとも、たゞ一人のいもとうつて、人の遊興ゆうきやうたすくるなど、縁由ことわけしらぬ世の人ハ、爪弾つまはぢきしてあざけ[心+里]るべし。とかくしき金あるむこをえらみて、その金を誰也たそや手附てつけにわたし、しばし身受みうけの事をこばまバ、そのうちにハ、べつとゝのの調ふべき手段しゆだんもありなんと思案しあんし、所持しよぢ猟舩りやうせんそうほかに、如此しか々々/\田地でんぢありなど、よきにいつはりこしらへて、八橋をめあはすべき、」 むこをがなとたづぬるに、無戸村むとむらみなみなる、舟川戸ふなかはど〔今いふ花川戸〕の三五右衛門といふものなかだちして、男態をとこぶりこそ二のまちなれ、百兩のしき金にて、壻入むこいりすべしとのぞむものあるよしを告来つげきたれバ、兵衛大によろこびて八橋やつはしにもいひきかせ、すみやか熟談しゆくだんして、すで婚礼こんれいにもなりにけれバ、三五右衛門ハ短袴みぢかばかまを、またげるやうに穿はきなして、かのむこともなひ来り、是ハなり鰐藏わにぞうとて、もと鎌倉かまくらにて、いととめりし商人あきんど二男じなん也。見給ふごとく容貌かほかたち葛城かつらぎかみたれど、心さまハいけほとけにて候なる。常言ことわざうまにハのりて見よ、人にハそひてしれといふこともあれバ、只玉椿つばき八千代やちよかけて、夫婦ふうふむつましく相語かたらひ給へなど、まめだちて引合ひきあはするにぞ、茂兵衛」14 同胞はらから燈燭ともしびをさしむけて、その人をよく見るに、なりといへるもことわりや、かみみゝわきと、うなじのあたりにまだらのこり、はなあなはつかにあきて、眼汁めしるおびたゞしくながいで眉毛ゆみげ一條ひとすぢもなくて、はだへハすべて猿滑さるすべりといふのごとく、又覇王樹さぼてんかみ[衣+上]しも[衣+下]せたるにことならねバ、八橋やつはしあきれあきれて、二目ふためとも見もやらず、かゝるべしともしらざりし。兵衛もいもと便びんなさと、きこえさへうしろめだく、しばし回答いらへもせざりしが、たま/\調とゝの今宵こよひ布金しきかね疥癩かつたいにもせよ餓鬼がきにもあれ、一旦いつたんむすびし婚縁こんえんを、やぶらんハ男子をのこにあらず、とこゝろざしはげましつゝ、みつからたつさかづきを、とりいだをりしもあれ、外面とのかたよりはら/\と、うちしつぶてをとこもとゞり、ひとつ/\」

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【挿絵】八橋やつはし鰐藏わにざう婚姻こんいん何ものともしらずあまたのもとゞりをなげこむ15

ふだつけて、七人がしるしたれバ、兵衛大にいかのゝしり、われよくこれすいしたり。今宵こよひ婚姻こんいんさまたげして、すぎつる遺恨ゐこんはらさんため、小五郎兵衛がともがら奸計かんけいきはまれり、いで引捉ひきとらへせられたる、ぬれぎぬさせん、といひかけてたちあがるを、三五右衛門引とゞめ、兄貴あにきこそさハおぼせ、わかき女子をなごの事なれバ、ほかちぎりしをとこありて、うらみもとゞりきりはらひ、あかき心をしめせしもの。しかれバわれらむこどのをあづかかへり、いよ/\妹御いもとご他心あだごゝろなきにおいてハ、又べつに日をえらみ、さかづきさするもおそからじ、といはせもあへすこゑふり立、かくまでむすびし婚縁こんえんあすへものば兵衛ならず。よしや八橋やつはし密男みそかをあらバ、くびならべる天下てんかおきてむここゝろ16 にまかするに、なにはゞかりのあるべきや、と言潔こといさぎよくいひはなせバ、鰐藏わにそう聞てうち點頭うなづきしうとおふせいとたのもし。人づてならで八橋やつはしが、密男みそかをハわれたゞすべし。いざ給へとて泣沈なきしづむ、つまの手をとる夫より、むここしなかうども、ふすま引あけおくまりたる、戸屋のかたへおもむきける。 かねも物おもへとや夕ぐれて、みちくらけれど富次郎ハ、とみの事とて挑灯ちやうちんも、ともさでひとりくるわより、もどりしてうちに入り、茂兵衛にむかひていへりけるハ、誰也たそやが身受もあすに、はや事せまるときこゆれバ、義廉よしかどふかくうれひ給ひ、もしわが方に引ならずハ、ともしなんともたへつゝ、今宵こよひも又かへり来まさず。いかにいさむれどもきゝ入なければ、この事なんぢに」 つげんため、ひそかきたれりと物がたれバ、兵衛聞てこゑひくうし、こゝろ安くおぼし給へ。身受の金もすこしく調とゝのひたれバ、あすハかならず事なるべし。なほくはしくハくるわにゆきて申さめなど、回答いらへもいまだはてざるに、手づからもて小挑灯こちやうちん野袴のはかまたるさむらひが、外面とのかたよりさしのぞき、兵衛にあはんとおとなふハ、これまがふべうもなき、挾隈さくま富之しんにてありけれバ、富次郎大にあはて、かくるゝひま納戸なんどおし入、戸だな入る後影うしろかげを、それと見れども富之しんハ、しらずがほしてうちに入れバ、兵衛もうちおどろきつゝしようじ、思ひがけずとばかりに、かしら席薦たゝみにすり着れバ、富之しん自若じじやく(○ツネノゴトク)として、めづらしや長吉、劔術けんじゆつの」17 一流いちりうきはめたる挾野さのゝ太郎左衛門をうつ立退たちのきしはたらきほむべき事にあらねども、男子をのこ意氣地ゐきぢ是非ぜひおよばず。それにひきかへにくむべきハ、わがおとゝ富次郎冠者くわんじや殿どの御供おともしてやかた逐電ちくてんし、あまつさへ[月+貝+〓]元吉原もとよしはら遊女うかれめ誰也たそやとやらんがかたへかよひ給ふを、一言いちごんいさめをも申さず、千金の御身を悪處あくしよいさなたてまつるハ、言語同断ごんごどうだん愚人しれものなり。われハかゝる事ともしらず、主君しゆくん内意ないゐうけ給はり、きやう鎌倉かまくらたづねめぐり近曽ちかごろこの江戸に来りて、遠近をちこち徘徊はいくわいし、風声ふうぶんにて主従しゆうじうの、ゆくへもその身のおこなひも聞て仰天ぎやうてんせざるべき。この沙汰さた故郷こきやうもれざるうち、かの誰也たそや受出うけいだし、ともかくもはからばやと思ひ定めひそかに」

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【挿絵】挾隈さくま富之進とみのしん兵衛いへへたづね來る折しも悪徒わるものとも酒樽さかたるになひこむ18
くるわおもむきて誰也たそや對面たいめんし、わがうへをもうちあかして、かれ素性すじようたづぬれハ、挾野さのゝ次郎左衛門がいもと水草みくさといひしもの也、とみづから名告なのるにます/\當惑たうわくそも/\かの水草みくさ事ハ、先君せんくん御落胤おとしたねなりけるにそのころ奥方おくがたねたみふかきをもつて、うまざる以前いぜんかれはゝをハ、次郎左衛門かちゝ太惣たそう兵衛にくだし給ひぬ。この事穏便おんびんなるがゆゑに、しる人たえてなしといへども、冠者くわんじや次郎と水草みくさとハ、兄弟きやうたいにておはするを、しらぬ事とハいひながら、とみ次郎が誘引いざなひて、このから畜生道ちくしようどうおとしまゐらする不不忠ふちう、いにしへにもそのためしきかず。元来もとよりなんぢかの主従しゆうじうを、舎匿かくまひおく事よくしつたづきたれることなれバ、義廉よしかどぎみハいふもさら也、」19 富次郎にはやくあはせよ、手討てうちになさんとつかを、かゝるべしとハ思ひきや、茂兵衛ハはりむしろにも、ざするがごときこゝちして、よりいでたる錆刀さびがたなむね挾隈さくま返答へんとうも、しかねてためらふ門口かとくちより、五郎兵衛が手下てしたわるもの、七人そらふてさんばらがみ菰裹こもづゝみ酒樽さかだるを、かつぎつれてうちに入り、思ひおもふた八橋やつはしに、むこどりすると聞て本意ほゐなく、をとこすててみな發心ほつしん精進酒しようしんざけなといはゝんとて、もてさけさかなハなし、いざ/\馳走ちそうになるべし、といとかしましくどよめけバ、思ひもかけぬ彼処かしこより、そのさかなまゐらせん、といひつゝ出来いでくむこ鰐藏わにざう八橋やつはしくび引提ひきさげて、酒樽さかだるうへにかきすえ女児むすめ一人ひとりむこ八人、なびきしか」 なびかざるかハしらねども、けふよりハわがつまなるに、不義ふぎ汚名おめいあらせてハ、しうとまでくださん事、むこになつたるかひなけれバ、是非ぜひろんぜす八橋やつはしが、くびうちおとして當座たうざさかな。かく手料理てりやうり振舞ふるまふからハ、其処そこへならびし密夫みそかをたち、相伴しようばんあれといひもあへず、とびかゝりてちやうる、真向まつかう梨割なしわり車切くるまきり、きりつくされて悪棍わるものども、一人ひとりのこらずしんでけり。兵衛思はずあふぎたて、あつぱれむこどのでかされし、とほむれどいさ氣色けしきもなく、かたなぬぐひさやおさめほめらるゝハわれならで、みな八橋やつはしあにをおもふ、信義しんぎ其許そこ精忠せいちうに、たけきこゝろもはぢし、かひなきわがるべしとて、富之進とみのしん目礼もくれいし、ことをあらためていへりけるハ、」20 われまことなんぢうたれたる、太郎左衛門がおとゝなる、挾野さのゝ次郎左衛門常正つねまさ也。すぎつるとしあにうたれしそのより、復讐ふくしうに思ひをこがすといへども、蟄居ちつきよあふせかうむりしかバ、いたづら月日つきひすぐし、そのゝちほしいまゝにすることゆるされてより、せき八州はつしうへん[彳+扁]れきしてなんぢたづねしに、あるとき下総しもふさ銚子口ちやうしぐちより便舩びんせんして、相模さがみのかたへおもむかんとせしに、そのふねあやかしつきて、すでくつがへりなん/\とす。こハわに所爲わざ也とて、舩人ふなびと戦慄おぢおのゝくにぞ、われそのとき思ふやう、とても本望ほんもうとげずして、むなしくおぼしなんより、そのわにつきとめて、うんてんにまかせんものをと、みづからふなばた跳出おどりいづれハ、高浪こうらう左右さゆうにさとわかれて、千石せんごくつむふねよりも、なほ大きやかなる」

挿絵

【挿絵】次郎左衛門八橋やつはし義心ぎしんかんじて茂兵衛を見迯みのが21

悪魚あくぎよ忽然こつぜんうかみ出、くちひらきて逆来むかへきたるを、こゝろに神佛しんぶつ祈念きねんしつ、みじかかたなにぎりもち、わにあぎど[思+頁]に飛入とびいりつゝのんど[月+亢]のあたりをかきやふり、その痍口きづくちよりのがいでからうじて悪魚あくぎよとめしが、われ立地たちどころ絶入たえいりて、さらいくべうもあらざるを、舩人ふなびと介抱かいほうにて、数月すげつのゝちやうやく本復ほんふくすといへども、一旦いつたんわに咽喉のんどに入りしかバ、にくたゞ毛髪かみのけぬけ、さながら癩人らいびやうやみのごとくなりぬ。むかし唐山もろこししん豫讓よじようハ、はいのみうるしし、姿すがたやつしてあたねら[穴+鬼]ふ、われハもとめずしてかくばかり、形状かたちむかしことなれバ、あたたづぬるに究竟くつきやうなりとよろこびつゝ、つひ鎌倉かまくらおもむき、もと若黨わかとう佐一さいち兵衛をとふて、いもと水草みくさ21安否あんひとへバ、かれ墨田すみだ川原かはらにて、野人やじんうばひとられしと、きくことごとうきをかさね、佐一兵衛とともに武蔵むさしきたりて、水草みくさがゆくへをたづねしに、元吉原もとよしはらにて誰也たそやよばるゝ遊女うかれめは、その人なりとほのかきくゆきて見ばやと思ふをりしもなんぢ在処ありかしれたるうへ、むこをえらむと風聞ふうぶんあれバ、佐一兵衛をなかうどとし、たやすくこれを謀課はかりおほせて、討果うちはたさんとおももなく、ふつわいたるよひ騒動そうどうはかりことにもせよ、妹背いもせえんむすびつる八橋やつはしに、わがうへをあかさずハ、いろまよひてかの女子をなごを、おとしいるゝにたりとおもひ、つぐるにまことをもつてせしかバ、八橋やつはしふかくかなしみて、なにとぞわらはがこうべはね、こよひの仇討あだうち」 をのべてたべ、と舎兄いろねを思ふ真實しんじつせつなるたのみ黙止もだしがたく、うつたるくびハけふ一日、われからゆるす身がはりぞや。人の賢愚けんぐひとしからずとハいへど、讐人かたきながらそのおこなひ、あにちうありいもとあり。それに引かへ吾儕われわれハ、人倫じんりんみちうとく、あにハうきの人ににくまれ、いもとハ又河竹かわたけながれしづむのみならず、けものたるあやまちあり。ちうある兵衛をうちとつて、あにうらみすゝぐとも、いもと悪名あくみやうすゝぎがたし。こゝをもて八橋やつはしこゝろざしむなしうせず、そのくびうつて小五郎兵衛が、手下てした奴原やつばら切剿きりつくす、むこしうと因縁いんえん縁故えんこかくのごとしと物語ものがたれバ、富之進とみのしんもうちおどろき、げにいまわるものどもを討畄うちとめのうち、只人たゝびとならずと思ひしに、さてハ」22 挾野さのゝ次郎左にてありつるかな。声音こはねむかしにかはらねど、その人とも思はれず、といひもはてざるそのところへ、なかうどの佐一兵衛一室ひとまより立出たちいでて、近曽ちかごろ舩川戸ふなかわどすまひして、かたき手引てびきなかだちハ、挾野さの若黨わかたう佐一兵衛、わがためにハしゆうあた兵衛いかにとつめよせたり。茂兵衛縁由ことのよしきゝて、おどろくといへどもさらさわがすして、次郎左衛門がまへにしめをとこみが隠家かくれが兵衛が、いもと八橋やつはしたすけられ、つら押拭おしぬぐう存命ながらふべき。いざたちあがつてあにあたくびうちおとして手向たむけ給へ、といひつゝうなじさしのばせバ、いふにやおよぶと次郎左衛門、かたなすらりと抜放ぬきはなして、兵衛がもとゞりきりはらひ、冠者くわんじやどのをかくまひし、つみある」 兵衛を次郎左衛門が、わたくしにハうちがたし。この事殿とののおきゝたつし、敵討かたきうち後日ごにち沙汰さた空衣くういさしたるためしにならひ、こうべかゆもとゞりのり郷導しるべ吾妹子わきもこが、くたれかみ一睡ひとねぶりねぶれハ善悪あやめもわかなくに、にハあれどもなしのもと隠家かくれが茂睡もすい入道にうとう法号ほうごうし、いもとかなきあととむらはれよ、といふに茂兵衛も感伏かんふくし、いのちをしむにあらねども、しばしハこゝにすみだかわ、ながらふるあはれとハ、ゆふこえてゆくひとも見よ。待乳まつちやまくさに、なほ再會さいくわいすべしと、ちかひかたいしぶみの、一首いつしゆハこれとしられたり。 富之進とみのしん感激かんふくし、一旦いつたんよつて、次郎あた見迯みのがせども、見迯みのがしがたきハとみ次郎。さい24 ぜん在所ありかおきし、といひつゝ戸棚とだなに手をかくるを、あけさせじと隠家かくれかへだてつ、はらひつ、あらそふほどに、ひきたふせバ押入おしいれの、うしろかべ切抜きりぬきて、うちにハさらひともなし。さてハ委細いさいきゝしつて、面目めんぼくなさににげうせしか。たゞこゝろあつての事か。ゆくへハまさ元吉原もとよしはら冠者くわんじや次郎の御身おみうへも、おぼつかなしとて富之進とみのしん、おつとりがたな走出はしりいづれバ、兵衛ハさらなり次郎左衛門、佐一兵衛ももろともに、もすそかゝげ[塞-土+足]て追行おひゆきける。

 第五編だいごへん誰也行燈たそやあんどう縁故ことのもと

挾隈さくまとみ次郎ハ、戸棚とだなうちにかくれて、あに富之進とみのしん物語ものがたりを、」 一五一十いちぶしじうきゝとゞけ、大におどろきて悔耻くひはづるといへども、今ハそのかひなかりしほどに、せめて誰也たそや刺殺さしころして、義廉よしかど汚名おめいをすゝぎ、はらかきらんとおもさだめ、ひそかかべ切破きりやぶりて、その元吉原もとよしはらはしりゆき、誰也たそや呼出よびいだしていへりけるハ、御身おんみ根引ねびきことにつきて、冠者くわんじやさまにもしらせませず、兵衛が申べきことありとて、只今たゞいま彼処かしこ揚屋あげやにあり。いざ給へ、よき左右さうあらんとたばかるにぞ、誰也たそやハこれをまこととし、うれしきまゝに心忙こゝろいそがしけれバ、禿かむろのみをつれはしり出、とみ次郎とともに賢蔵寺町けんそうじまちのかたへおもむくに、さと子四ねよつもはやすぎて、いとくらつねよりも、ゆき25 ハはやく迹絶とだへたり。時分じぶんハよしととみ次郎、抜手ぬくても見せずうしろより、誰也たそや撲地はた切伏きりふせて、おこしも立すとゞめの刀尖きつさき魂消たまぎるこへともろとも〔に、〕わつと泣出なきだ禿かぶろ周章しうしよう。ひとりきゝつけふたりが見つけ、すは人殺ひとごろしといふほどこそあれ、手に/\桿棒よりぼう長楷子ながはしご搦捉からめとらんとひしめけバ、自害じがいするもあら物/\し、と多勢たせい相手あいてきりたて/\、思ひきはめしにものぐるひ。こゝを最期さいごたゝかへバ、このいきほひに辟易へきゑきし、みなむら/\と逃散にげちつたり。いでこのひまはららん、ともつたるかたなをとりなほせバ、手下てしたあたかへさため兵衛があとしたひつゝ、はしたる小五郎兵衛、思ひもよらぬうしろより、しか

挿絵

【挿絵】挾隈さくまとみ次郎誰也たそや切害せつがい比類ひるいなきはたらきして五郎兵衛をころす26

むをふりほとき、わきばら[月+害]ふかくちやうつけバ、だう[手+堂]とたふるゝ五郎兵衛が、むねのあたりへのつかゝり、かたな逆手さかてにわれとわが、はらへぐつとつきたつる。 浩処かゝるところ富之進とみのしん、四人ひとしはしつ。かくと見てこハいかに、と人々おどろくそのなかにも、富之進とみのしんこゑをかけ、やをれおとゝ、そのかたな、しばし引廻ひきまはさずしてあにが今、いふことをよくきけよかし、といふに茂兵衛がさしよりて、いだきとゞめていたはれバ、富之進とみのしんことはをあらため、さきにわれよそながら、冠者くわんじやどのと誰也たそやとハ、兄弟きやうだいなりとものがたりしハ、元来ぐわんらいあとなき空言そらごとにて、なんぢ誰也たそやころさせて寸忠すんちうたてさすべき、はかりことにてありけるなり。そのゆゑ義廉よしかどぎみ佐江さえかたの」27 いろおぼれ、小弓家をゆみけ婚姻こんいん固辞いなみ給ふのみならず、かの愛妾あいせうが世をさつたる愁歎しうたんのあまり、遁世とんせいのぞみありとて、やかた逐電ちくてんし給ひながら、ふたゝび誰也たそやが色にまよひ、放蕩ほうとうきこえあるときハ、両家りやうけ和親したしみつひやぶれて、君家くんかの御一大となりなんハ眼前がんぜんなり。いかにもして思ひきらせまゐらせ、ゆゑなく帰舘きくわんあらせまほしく、誰也たそやにハさきだつて、ひそか存念ぞんねんをかたりきかせ、先君せんくん御落胤おとしだねなりといつはりて、ねよころせと人ならぬ、心をおにになしたりし、この身の劬労くろうかずならず。誰也たそやなんぢが一めいすてたれバこそ浪風なみかぜもたゝでおさま兩家りやうけ大幸たいかうよそにハ誰也たそや

挿絵

【挿絵】とみ次郎誰也たそやころしてわか殿との汚名おめいをすゝぎ自害じがいする28

めいも、挾隈さくまこひ意趣切ゐしゆぎりといひもてつたへバおのづから、主君しゆくん浮名うきなきえぬべし。とうちあかしたるむねやみ真如しんによの月にあへるがごとく、たゞ手をあはとみ次郎が、今般いまは本望ほんもう次郎左衛門も、はじめのうらみひきかへて、いもと最期さいごもなか/\に、忠義ちうぎのはしとなりつるか、とこゝろにほめていへばえに、いはぬなげきをひとつに、思ひせまりて冠者くわんじや次郎、物蔭かげより立出たちいで給ひ、わが色慾しきよくまよひより、つみなき人をころせしことかへりみれバ面目めんぼくなし。さりながら、とてもやかたかへりがたきハ、前頃さきつころ故郷ふるさとより、武藏むさしおもむ舩中せんちうにて、小槻形こつきかた宝劔ほうけん海底かいていしづめたれバ、先祖せんぞ不幸ふこう兄上あにうへに、いひわけなし」29のたまへバ、次郎左衛門すゝみいで、そのハ御こゝろやすかるべし。それがし日外いつぞやとめたるわにはらを、浦人うらびとさかせ見れハ、うち一振ひとふりつるぎありて、まがふべうもあらぬ御家おいへ重宝ちやうほうつきがたの名劔めいけんなれバ、もしや義廉よしかどぎみにハ入水じゆすいましませしかとあやぶ[阜+占]みながら、はなさず所持しよぢいたせり。いざ/\かへまゐらせん。といひつゝこしなるかたなとつて、冠者くわんじや次郎にたてまつれバ、義廉よしかとはいふもさらなり。みな/\不思議ふしぎ忠節ちうせつぞ、と次郎左衛門を賞美せうびして、本領ほんりやう安堵あんど吹挙すいきよせり。かゝるうへ冠者くわんじやさま御供おともして、わか住家すみかまで帰らせ給へあと兵衛が請取うけとつて、」 くるは出入でいりハよきやうに、とりおさめんと申にぞ、しからバなんぢにまかせんとて、帰路きろうながとみしん。見おくるおとゝ死出しでたび冥土めいどやみらすなる、手向たむけハたそや行燈あんどうを、いつッのまちにおくことハ、この因縁いんえんとしら鞆組つかぐみ挾野さのゝ次郎左じろざ八橋やつはしも、くるはにかゝるものがたり、妻恋つまこ雉子きじ浅草あさくさに、その隠家かくれがハかくれなき、いろ里見さとみ小弓御所をゆみごしよゆゑなく婚禮こんれいとゝのひて、めでたくさかへ給ひしとなん。

敵討誰也行燈かたきうちたそやあんどう下巻げのまきおはんぬ

跋

それ詩人しじんにあらずんバ、ていする事なかれとハ、むだぼねをらせぬ古人こじん金言きんげん。げにや知音ちいんにあらざれバ、伯牙はくがこと三絃さみせんほどハ、とつちりとんときくものなし。されバこのしよの事たるや、ものしりくさいしやらくさい、おど文句もんくはさらりとやめて、どもによまする八文字もんじ、ちよつとつまん揚衿あげづまは、いづくのたそや誰也たそや道中どうちうながはなしさつまでも、ゆくべきものを二冊にさつにて、五日かぎりに請合うけあいし、川畄かわどめなしの上下物じようげもの、たしか画工ぐわこう一陽斎いちようさい歳々さい/\ねん相似あいにたる、はな江戸ゑど作人さくひと樹々きゞ本屋ほんややまとて桜木さくらぎに、ちりはめられて面目めんもくも、なしのもととかきこえてし、事蹟じせきふであやつりの、狂言綺語きやうげんきぎよとりなして、今茲ことしもかはらぬ評判ひやうばんを、まつやま朝参あさまいり、百度参ひやくどまいりの催促さいそくハ、いくめぐりして三圍みめぐりの、土手どてつくえ向嶋むかふじまはなさぬすゞり墨田川すみだかは、そのどころにちかむ、この板本はんもともとめおうじて、ばつさへひとらず、かさねてこゝにだいする而已のみ

簑笠軒[簑笠][曲亭之印]

刊記

曲亭著述六種中全本二冊乙丑秋七月上旬稿了
  画工     一陽齋歌川豐國
  剞〓[厥+刀]      小泉新八郎
十返舎一九著
 〈復讐|奇談〕   天 橋 立
一陽齋豊國画         全二冊

刊記

鏡池植女物語かゞみがいけうへめものがたり 〈曲亭主人戯作|中本二冊來卯出板〉

名ハそれとしらずともしれと詠したる遊女うへ女がふかき言の葉をたづね人のまことの切なるを述この書序文に述懐のことばを吐かず篇中に悪しやれを云ず人を警するにたらずといへども見るものに害なし出板の日四方の高評希のみ

文化三丙寅年春正月發行

書 肆  鶴屋金助 梓


〈附記〉 本稿を成すに当り、向井信夫氏には貴重な資料の使用を許されたばかりでなく、様々の有益な御教示をいただいた。末稿ながら記して、厚く御礼申上げます。また、機械可読化に際しては神田正行氏のお手を煩わせた。併せて感謝致します。

〈追補参考図版〉

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# 「研究実践紀要」第5号(明治学院中学校・東村山高等学校、1982年6月20日) 所載。
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