【解題】
『南総里見八犬伝』抄録本等の紹介を続けて来たが、今回は未翻刻である合巻『今様八犬傳』の初編と二編とを紹介する。
本作は全六編、各編上下(各十丁)二冊。二代目為永春水作、歌川(一勇齋)国芳画、嘉永五〜六(1852〜3)年、錦耕堂山口屋藤兵衛・紅英堂蔦屋吉蔵板で、『南総里見八犬伝』の歌舞伎上演(嘉永五年、江戸市村座)に基づく〈正本写〉(しようほんうつし)と呼ばれている種類の合巻である。この正本写とは、佐藤悟「正本写略説」(『正本写合巻年表』、国立劇場、2011)に就けば、
正本とは歌舞伎の脚本のことで、台帳ともいう。正本写とは上演された歌舞伎の舞台をそのまま草双紙の上に再現した合巻を指していう文学史の用語なのである。多くの場合、正本写の本文は正本の梗概で、挿絵にはその上演時の役者似顔絵を使用したり、大道具や花道・回り舞台といった舞台機構を示すこともある。また台帳の様式で描かれることすらあった。
とある。同氏編『正本写合巻年表』にも「嘉永五年一月二十九日初日、市村座「里見八犬伝」【役】【絵】(【辻】は一月二十三日初日)。【渥】」として掲出されている。すなわち、渥美清太郎「歌舞伎小説解題」(『早稲田文学』1927年10月)に掲載されており、役割番付、絵本番付、辻番付で確認できたということである。
さて、『南総里見八犬伝』が初めて脚色され歌舞伎上演されたのは、原作が完結する天保十三(1842)年以前で未だ半分程しか出されていない天保五(1834)年十月の『金花山雪曙(きんくわざんゆきのあけぼの)』(大阪若太夫芝居)であった。以来『絵本里見八犬伝』(天保六(1835)年閏七月、京都四条道場芝居)、『花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつふさ)』(天保七(1836)年一〜三月、)など上方での上演が続く。江戸では『八犬伝評判楼閣(はつけんでんうはさのたかどの)』(天保七年四月、森田座)が上演されるが、大部分は名古屋を含めた上方での上演であった。
向井信夫氏は、嘉永五年の八犬伝上演に際して抄録合巻『雪梅芳譚犬の草紙』や『仮名読八犬伝』などの出版とその流行が背景にあったことを述べられている(「嘉永五年里見八犬伝上演の周辺」、『江戸文学叢話』、1995、八木書店。初出『國語と國文學』1978年11月)が、この嘉永五年は、実に多くの八犬伝関連作が出された年でもあった。
一方、岩田秀行・小池章太郎氏は「役者絵を読む」一〜五(「跡見学園女子大学国文学科報」21〜25、1993〜7年)で、錦絵シリーズ「八犬伝犬の草紙」大判錦絵全五十枚と目録(二代目歌川国貞画、嘉永五年九〜十二月、紅英堂蔦屋吉蔵版)の役者似顔の考証を通じて、役者似顔研究の効用について論じられている。この考証を参照するに、本作で使用されている役者似顔は、実際の上演時の役者よりも、見立てで描かれた「犬の草紙」に多くを準拠しているようである。
既に本作刊行時には『八犬伝』原作は完結していたが、歌舞伎化された脚色に基づいているために、少なからざる改編がなされている。特に原作の発端部である伏姫物語を後に回し、最初に犬坂毛野の出生譚に触れた上で、まずは「大塚の場」から始めているのが特徴的である。与四郎犬が紀二郎を喰い殺すこと、蟇六等による与四郎の惨殺、番作の切腹から村雨丸の譲渡、犬塚信乃と浜路の許嫁、網乾左母二郎の横恋慕、宮六との婚礼、円塚山での浜路と犬山道節兄弟の邂逅、額藏の仇討までの一連の話が、原作に拘わらず順不同に場面毎に登場人物と事件とが集約されて展開する。すべて歌舞伎舞台における同じ場面で物語を展開するための工夫である。そのためか、各編の口絵では話の展開とは無関係に名場面を描いて見せている。
また、八犬伝関連の浮世絵も多くに役者似顔が用いられていることから考えて当然ではあるが、歌舞伎や本作(挿絵)に基づくものが少なくない。例えば、歌川国芳の「圓塚山」(大判錦絵二枚続、嘉永五年、佐野喜板)で寂寞道人(犬山道節)が印を結んでいるのは、網乾左母二郎に自ら腹に村雨丸を突き立てさすべく術を施した躰である事などは、本作から知る事が出来る。なお、この図版は『八犬伝の世界』(千葉市立美術館編図録、2008年、図88)に掲載されている。
編作者である二代目為永春水が自ら初編の序文にも記しているが、既に『貞操婦女八賢誌』『仮名読八犬伝』『八犬伝後日譚』『八犬伝銘々誌略』の四種の八犬伝ものに手を染めていた。二代目春水は仮名垣魯文と並んで八犬伝ものを多く執筆しているが、比較的原作に忠実な抄録が多い魯文に比べると、脚色や銘々伝など自由な改編作が多いと思われる。
【書誌】
初編
編成 中本 四巻 上下二冊 十七・九糎×十一・五糎
表紙 錦絵風摺付表紙「今様八犬傳」「初編上(下)」「爲永春水作」「一勇齋國芳画」「嘉永五子春新板」「錦耕堂文庫」
見返 (上冊)「今様八けん傳初へん上の巻」「為永春水作」「歌川國芳画」「錦耕堂梓」「とり女画」\ (下冊)「今様八犬傳第初篇下之巻」「爲永春水作」「一勇齋國芳画」「錦耕堂板」「とり女画」
序末 「嘉永五歳子如月新鐫 爲永春水記」
改印 [馬込][濱](一オ・十一オ)
柱刻 「八犬傳 一 (〜二十)」
匡郭 単辺無界 (十五・六×十・四糎)
刊末 「國芳画」「春水作」(十ウ)\「爲永春水作」「一勇齋國芳画」(二十ウ)
諸本 慶應義塾圖書館(202-508-1-2)・東京大学総合図書館(E24-1136)・麗澤大学田中・館山市立博物館・専修大向井・架蔵/(改題後印本)船橋市立図・架蔵
備考 見返の「とり女画」は見返の画工名で歌川国芳の娘である。表紙見返し等には明記されていないが初編上冊の奥目録は蔦屋吉蔵のもの。
二編
編成 中本 四巻 上下二冊 十七・九糎×十一・九糎
表紙 錦絵風摺付表紙「今様八犬傳」「第貳編」「上(下)」「爲永春水作」「一勇齋國芳画」「紅榮錦耕両板」
見返 (上冊)「いまやう八けむてむ」「春水さく」「國よしゑ」「錦耕紅榮/両堂合梓」「国よし女とり画」\ (下冊)「今様八犬傳」「第二編の下」「爲永春水作」「一勇齋國芳画」「紅栄堂/錦耕堂/合梓」「國芳女/とり画」
序末 「壬子仲春新局 春水誌」
改印 [福][村松][子閏](一オ・十一オ)
柱刻 「今様八犬傳 一 (〜二十)」
匡郭 単辺無界 (十五・四×十・四糎)
刊末 「春水作」「國芳画」(十ウ)「爲永春水作」「一勇齋國芳画」「浄書/草鳥」(二十ウ)
諸本 慶應義塾圖書館(202-508-1-2)・東京大学総合図書館(E24-1136)・麗澤大学田中・館山市立博物館・専修大向井・架蔵/(後印本)船橋市立図・架蔵本
備考 二編から板元として紅栄堂(蔦屋吉蔵)が明記されるが、初編上冊の奥目録は蔦屋吉蔵のものが付されている。
仮名遣いや清濁などは原文通りとしたが、読み易さを考慮して以下の諸点に手を加えた。
・序文以外の本文には、漢字を宛てて私意的解釈を示し、原文は振仮名として残した。
・原文の漢字に振仮名が施されている場合は、( )で括って示した。
・原文の漢字直後に割り書きで訓みが示されている箇所はそのままにした。
・本来「ハ(バ)」は平仮名であるが、助詞だけは「ハ (バ)」のままとした。
・原文には一切使用されていない句読点を補った。
・「なにゝ」を「何〔に〕」の如く原文にない文字は〔 〕で括った。
・本文中の飛び印(▲▲や■■など)は省略した。
・全丁の挿絵を掲げ、それとの参照のために丁数を示した。
・底本として慶應義塾圖書館蔵本を使用させて頂いた。記して感謝いたします。
初編表紙
見返・序
見返 1オ
〔序〕
僕甚麼なる過世かありけん。那八犬士に因深く。當初婦女八賢誌に。毫を採そめてより。仮名読及後日譚を綴り。又銘々誌を編たりしに。今又這書を編述なせバ。既にして原傳より。引出せる冊子五種におよべり。恁まで犬士に縁ハあれど余に牡丹の痣もあらず。玉もなければ疵もなく。世の笑覧を蒙る事偐にいふ人の褌で相撲を取るに似たれとも〓ハみゆるしもあるべきか。尓バ這書の基くところ當時世にもてはやさるゝ。那俤を写せしなれども其侭にして紙筆に述れバ事理の通ぜぬ事もやあらんと思ふが例の戯作者だましい。怯きながら甲乙と新に筆を加えつゝ。八士里見に仕ゆるまでを短き文に書とりたれば。編數も又長からずして。原本のおもむきをも。當時のさまをも知らしむる早手まはしの新板は外題に所謂八房の梅咲く春を賣出しの。書房が市の魁策子買人の山に殊の外込合候事ありとも御老人さま御女中さまも跡よりそろ/\御覧なされず出たと听たら一番がけに。御贔屓厚き御評判を隅から隅まで願ふになん
嘉永五歳子如月新鐫
口絵
1ウ2オ
本文
2ウ3オ
[ほつたん] 竹の矢来に幕打廻し、非常を防ぐ掟の庭へ、藍原首(おほど)が妻の稲木と其一人リ子の夢之助を、追立て引立て入来たる、畑上語路五郎高成ハ、衣服大小厳しく白鞘入の、一ト振を家来に持たせて進み寄り、睨廻しつゝ「ヤイ両人。汝等が父なり夫なる藍原首胤度ハ、千葉(ちば)家(け)譜代の臣として、竊に成氏(なりうぢ)に心を合せ、当家の重宝嵐山の笛を滸我(こが)へ持参の折に、幸ひ馬加(まくはり)殿〔の〕指図として、籠山逸東太を討手に差向け、途にて首ハ討取りたれども、嵐山の御ン笛ハ、其場よりして行方知れず。是みな首が逆心より事起りたる訳とあつて、其妻子たる汝等を只今誅伐せしむるものなり。猶此上に、問ふべきハ首が側女調布(たつくり)と言ふ奴、懐胎したりと聞及べバ、彼をも誅伐なさんとせしに、藍原の家に伝はる落葉丸の一ト振を、竊に持て逐電せし由。是も又汝等親子が言合せてのことならん。さァ真直に白状せよ」ト睨付れバ、稲木ハ騒がず「その調布と言ふ者ハ、懐胎してより早三年、今に至りて産の気つかず、これ血塊に極まりし、と医者の言ひつることもあり。夫のみならず、今ハ早、行方知れぬ彼が身を、親子が何とて知るべきぞ。それにつけても夫胤度、忠信無二の士なるを [次へ]2ウ3オ
3ウ4オ
[つゞき] 馬加大記(だいき)が企により逆臣ありと言ひ做して、非道の刄に命を落し、其妻子なる我々迄、當千寺(たうせんじ)の瑞伝和尚の命乞をも聞入れなく殺すと言ふハ情なし。殺さバ殺せ此怨み、馬加籠山二人ハ固より汝も軈て刃の錆。今にぞ思ひ知せんト、涙ちばしる怨みの目尻。同じ思ひに夢之助も、共に遺恨の歯をくひしばり「今母上の仰せの通り、父上の非業の御最期、みな大記奴が做す業と思ひながらも今更に、怨みも返さず闇々と、命を落す無念さよ。いで此上ハ、腹掻切り、あの世で父へ申訳、母上然らバト短刀を、弓手の腹へ突立つれバ「アレまァ待て、夢之助。死なバ共にト駆寄る母を、語路五郎が押隔て「とてもかくても調布が行方を白状せぬ上ハ、生けて措ても詮無い奴。幸ひ是なる白鞘ハ、小笹(をざゝ)丸と名付けたる彼の嵐山の御ン笛に等しき当家の重宝なれバ、其切味を試すハ此時、忝へと三拝して、刄を受けよト言ふより早く、家来に持たせし白鞘を、抜閃かす刄の下に、親子が首ハ落にけり。
○調布が落葉丸を携へて千葉の館を逐電なし犬坂の里に隠棲みて胤度が忘形見犬坂毛野を設ること、後の本文に合せ見るべし。 3ウ4オ
4ウ5オ
[よみはじめ] 滝野川の水茶屋の床几に掛りし三人ン連れ「イヤ申し宮六様、一寸あれを御覧じまし。莟も遣ず散りもせぬ。実に梅の真盛り。しかし花より団子茶屋、此処の渋茶で眺めるハ如何にしても惜しい物。何れ海老屋か扇屋で、唐茶(たうちや)と遣ずハなァ。五十川「成程、此ハ五倍次殿の言はるゝ通り、拙者も同意、梅も良けれど桜色に成らねバ頓と興がないト戯け半分。菴八が言ふを宮六押留め「梅を見ても桜を見ても、物言ふ花が手に入らねバ左右心が浮立ぬ。もう無駄口も止めにせい。無言/\ト差俯く顔を覗いて五倍次が「此ハ亦きついもの。貴方が梅より桜より物言ふ花と仰るハ、彼蟇六が一人娘浜路か事で候はん。夫ならハ御心安かれ。まだ蟇六にハ申さねども、女房の亀笹にハ何時ぞや申入れたるに、御陣代(ごぢんだい)を婿がねとハ冥加に余りし娘が幸せ。夫蟇六に仰せあらバ早速御請け致しませうと申した口も候へバ、先づ母親ハ承知と言ふもの。其内折を見合せて蟇六に面談致し、浜路ハ貴方の御内方。「イヤ安請合ひ合点が行かぬ。例へ蟇六亀笹が此婚姻を承知するとも、肝心の浜路にハ信乃(しの)とやらん言ふ奴を妻合するとか聞及べバ「ハテその事も知てハ御座れと、信乃でも五のでも六のでも、御支配下の高〔が〕村長、御陣代の勢ひにて寝るも起すも貴方の儘。其処等を以て某が蟇六夫婦を説きすくめ天晴れ御手に入れませう。「然らバ汝の働きで浜路を身どもの宿の妻。そうなる時ハ箱入のまだ手入らずの初物を、こりャまァ夢か夢ならバ必ず覚なと浮立つ宮六。斯る折しも向ふより蟇六が妻亀笹ハ娘浜路を同道して [つぎへ]4ウ5オ
5ウ6オ
[つゝき] 僕の背助下女の松、皆打連れて出来たり。亀笹ハにこやかに打笑みながら「喃娘、此間からして何とやら気合いが悪いと言やる故大切な掛娘、もし病気でも重つてハと父様にもきつい御案じ。幸い今日ハ日よりも良く、梅も盛りと聞し故、其方を連れての出養生。ちと浮々と為遣らぬか。「其御言葉は嬉しけれども、私ハ早う信乃さんと祝言するが何より楽しみ。「アレ又しても信乃信乃と。尤も私が甥なれど、心の合はぬ弟の番作が倅故、顔見るさへ疎しいト言ふに、背助が差出でゝ「イヤ申し御袋様、何ぼ貴方が御嫌ひでも、御嬢様と信乃様を御許嫁になされたハ、此村中が皆証人。然うでハないかト 見返れバ、下女のお松が「ヲゝ夫々、其上ならす御嬢様ハ彼信乃様に恋焦がれ、其故のぶら/\病。何でも早う御祝言を [二のまきへ]5ウ
[〔一〕の巻より] 為された方が良さそうなト言ふを、亀笹睨付け「其方達迄が同じ様に主を主とも思はぬ言葉、道草せずときり/\おじや。娘も早うト迫立てられ「喧し婆ァの死損ないと背助が呟く口小言を耳にも掛けず亀笹ハ先に立ちつゝ歩来るを、菴八ハ其と見て「噂にすれバ影とやら、物言ふ花が夫其処へト称したてれバ、宮六がぐつと澄して咳払ひ、良き折柄と五倍次が出迎ひつゝ差招き、此ハ/\亀笹殿、娘御を同道にて扨ハ花見と出られたな。さァ/\此処へ掛け給へ平に/\ト勧むれバ、亀笹ハ会釈して「御陣代様を初めとして五倍次様菴八様、こりや貴方にも此花をト言ふに、宮六衣紋を繕ひ「身共ハ梅の盛りより其所ら辺りに在します盛りの花がト言ひながら横目でじろりと浜路が顔、見られて浜路ハ顔背けつんとする程、見とるゝ宮六、五倍次ハ差寄つて「イヤ何御袋亀笹殿、兼て拙者が申入れたる彼の婚姻のト [つぎへ] 6オ
6ウ7オ
[つゞき] 言掛くるを亀笹ハ咳に打紛らしつゝ「五倍次様、其等の事も私が胸に畳んで居りますれど何を言ふにも娘が病気、なな御合点かト知らする目顔、夫と悟つて五倍次が「如何様其義も承知致した。まだ訊ねたき子細もあれバ何かの話ハ海老屋にて「ヲゝ話なら此宮六も御娘にたんと話がある。さァ身と一緒に浜路殿、御手々を取らふト差寄れバ、浜路ハついと身を外し、私しや貴方ハ嫌いじやもの「アレまた矢張ぴんしやんと「イヱ斯様に我儘を申すが矢張病の業、娘に篤くり言聞せ、きつと貴方へ此母がト執成す亀笹、五倍次が「万事抜からぬ亀笹殿、娘御も諸共にさァ/\此方へト身を起せバ、皆一堂に連立ちて海老屋を指してそ歩み行く。
斯る所へ犬塚信乃ハ手飼の犬の与四郎を引連れながら出来たり。床几に腰を打掛けて「ても美しい花盛、自由に成らバ父様を御連れ申して見せましたい。本に思へバ此信乃ハ亡母様の遺言とて女子姿の長振袖。心にも無い髪化粧も親の心を安めん為。其に就ても父様ハ嘸待侘て御座んせう。弁天様へ御参して些とも早く、夫々ト身を起さんとする所へ、背助が知らせに喜びて、いそ/\出来る娘の浜路。信乃が辺りへ差寄つて「信乃さん、御前も御花見かへ。私しや御前に逢いたふても、彼の母様が側を放さず、今日も今日とて、宮六面が私を捉へて無理計り。漸々其場を逃出でて此処で御前に逢たのハ弁天様の引合せ、私しや御前に色々と話がたんとト差俯く顔を覗ひて「浜路さん、私へ話と御言ひのハ「さァ其話ハ。ヲゝ夫々御前と私ハ許嫁夫婦事して遊んでも、誰も笑ひハしやんすまい。其時に此人形を二人が仲の役にして、可愛つてと寄添へバ、「イヱ/\御前と遊ふのハ私ハ嫌で御座んすぞへ。其が何故なら浜路さん、彼意地悪の伯母様御夫婦、とても私を末長ふ可愛がつてハ下さんすまい。私ハ其より、喃与四郎、其方を馬に戦の真似事。御前ハ一人で遊ばんせ。あばよトばかり与四郎に打跨りつゝ走行く。跡に浜路ハ本意なげに見送る。後に窺ふ宮六「夫婦事なら信乃よりも此宮六とト抱付くを「又かひなァト突退けて浜路ハちやいと退て行く。入り違つて亀笹が五倍次菴八諸共に歩来たるを、宮六ハ浜路と [つぎへ]
○与四郎犬が亀笹の飼ひ猫、紀次郎を噛殺すこと。次の本文と併せ見るべし。 6ウ7オ
7ウ8オ
[つゞき] 心得抱付けバ亀笹ハ愕然として「此ハまァ宮六様、貴方ハ何と為されますト言はれて気付く宮六が「南無三、此ハ間違つた。其に就けても彼浜路、とかく信乃奴に操を立て何を言ふても、ぴんしやんと、身共が側へハ如何しても「ハテ寄らぬのが其処が生娘。最前海老屋で五倍次様に密かに御話し申した通り、信乃が親番作ハ先の管領持氏朝臣の御佩刀と聞えたる村雨丸を所持なせバ、其を此方へ巻上んと娘を信乃に許嫁け、固より手立に為し事故、彼御剱さへ手に入らバ信乃ハ直ぐさま追出し、其後替ハ宮六様、貴方を婿にする時ハ娘が幸せのみならず私等夫婦も行く/\ハ、左団扇の楽隠居。夫じやに拠て今暫く「成程、夫で落着た。御剱の手に入る其上ハ急度浜路ハ某へ「挙げいで何と致しませう。先其迄ハ隠密にト話半ばへ、与四郎が亀笹の手飼の猫、彼紀次郎を引銜へ走出るを追掛て背助も共に出来たり。追留めんとするうちに、彼与四郎ハ紀次郎を噛殺しつゝ逃げて行く。此有様に亀笹ハ狂気の如く走寄り、噛殺されし紀次郎を抱取りつゝ抱締めて「可愛や不憫や愛しや。最前迄も今迄も私に抱れて心地良げに喉を鳴して居たものを、此有様ハ何事ぞ。飼主が飼主なら飼るゝ犬迄斯様に、心の曲つた物かいのと怨つ泣つ掻口説を、熟々聞て五倍次か進寄りつゝ「亀笹殿、其愁傷ハ尤もながら、猫の敵を取るのみならず、彼村雨をも巻上げる手段を思当つたり。手段ハ斯様ト 耳に口「すりや、彼犬が御教書をト言ふを留めて五倍次ハ、宮六菴八諸共に囁合いつ点頭きつ [つぎへ]7ウ8オ
8ウ9オ
[つゞき] 示合せて別れける。
[こゝのゑとき] 「イヤ申し番作様。此春先に其様に引籠つて御座つたら却て病に障るであらう。何処も彼所も梅の盛り、杖でも付て出さつしやれ。私共ハ日がな一日鋤鍬担て野良廻り。体に骨を折る代り、病と言つたら少しでも薬に支度も御座らねへト一人が言へバ今一人ハ「しかし此処の番作様ハ例へ腰ハ立すとも此村中でハ大事の御人。姉婿の蟇六に、みす%\家督を奪われながら、夫を少しも争はぬ心立が労しさに、村の衆が談合して、些の田畑と此家を買求めて進ぜたを忝いとて、村中の子共を集めて手習学文教へて下さるのみならず、百姓の為になる書物をさへ拵へて、私等がに迄分る様して下された御陰故、夫から作に巧者が付き田畑の収穫も倍に増して、村の者にハ大幸せ。此方ハ四角な文字ばかり知つてかと思ふたに、田畑の事迄明るいとハ肝の潰れた御人しや。と皆感心して居りますぞへ。夫ハそうと長話して却て病気に障るも知れぬ。又明日見舞て進ぜませうト言ひつゝ立てバ、番作が「何時も/\親切に良う訊ねてハ下された。茶も進ぜずに気の毒なト言ふを後ろに百姓共ハ打連立ちて帰り行く。入違ふて向ふより [次へ]8ウ9オ
9ウ10オ
[つゞき] 信乃ハいそ/\馳来り門の戸開て内に入り、「父様、只今戻りました。今日も又弁天様へ御参り申した帰り道、余り見事に咲いた故、父様への御土産に一枝手折つて来ましたト差出す梅を見て莞尓「夫ハ良う気が付いた。今日ハ幸ひ手束が命日。母の仏間へ供へて遣りやれ。此花瓶にと番作が指図に、信乃ハ喜びて手折りし花を花瓶に挿しつ眺めつするところへ、ずつと入り来る亀笹が何時に変りてにこやかに「此頃ハ打絶へて病気の様子も問ひませぬが、顔の色もずんと良く夫でハ追つけ病気も本復。ヲゝ信乃も家にかいの。少し見ぬ間にめつきりと大きう成つたト追従たら%\、信乃ハ見るより手をつかへ「伯母様、御出なされましたか。サァお茶一つト差出す、茶碗を亀笹手に取つて「ナニ構やんな措てたも。本に其方ハ良い子じやのト褒めらるゝ程気味悪く、信乃ハそこ/\座を立て「ドレ水汲んでト言ひながら手桶片手に出て行く。
跡を亀笹見送りて、あの子の大きう成やつたを見るに就けても、喃番作、兼て其方と約束して信乃と浜路ハ許嫁。早く母屋へ引取つて村長を信乃に譲り、蟇六殿と私とハ裏の背戸屋に楽隠居、初孫の顔見るが今から何よりの楽しみな。夫に就けても一度ハ其方が所持の村雨丸、今も大事に持てかやト味なとこら持込んで御剱をしてやる下心と早くも悟て嘲笑ひ「又しても御剱の詮索、身じんに逼りて先達てあの村雨ハ売払ひ「手許に無いとか、夫や嘘じや。村雨丸ハ大塚の家に係る大事の御宝。其が無けれバ彼信乃を「婿にせぬなら許嫁を変改しても苦う御座らぬ。心の合ぬ姉じや人。言葉交すも身の汚れ。とつとゝ立て行つしやひトにべ無き言葉に亀笹ハ「行かいでかいのト身を起し「でも強情なト言捨てゝ、門まて出しが信乃を見返り「ヲゝ水汲で冷たからう。押付け母屋へ [次へ]9ウ10オ
10ウ広告
[つゞき] 引取て浜路と祝言する時ハ、此方の大事の婿じやもの。斯様な卑しい手業をバさせるが私ハ痛々しい。其方ハ賢い者じや故、今此伯母か訊る事何〔に〕拠らず教てたも。「夫や伯母様の事じやもの、私か知て居る事なら。「ヲゝ其言葉が正ならバ彼村雨の在処をバ内緒で私に知せて呉りや。「イヱ/\私ハ其様な村雨とやらハ終ぞ未だ。「イヤ隠しやんな。夫や偽り、良い子じや程に一寸その。「夫でも私ハ知ぬもの。「ヱゝ此子迄が同し様に親の心を受継で、斯もしぶといものかいの。阿呆らしいト亀笹ハ面憎らして戻行く。
○これより下の巻へ続く
〔広告〕
藏版新刊珎奇雜書略目録
遊仙沓春雨艸紙 〈十一編|十二編〉 〈緑亭川柳作|一陽齋豊國画〉
田舎織糸線狭衣 〈四編|五編〉 〈仝作|同画〉
天録太平記 〈初ヨリ|追々出板〉 〈仝作|一勇齋國芳画〉
奇特百歌仙 同断 〈仝作|一立齋廣重畫〉
畸人百人一首 全一冊 〈仝案|同画〉
狂句五百題 全二冊 五代目川柳著
東都書房 南傳馬町一丁目 蔦屋吉蔵板 」奥目録
〔見返〕
見返11オ
「今様八犬傳\第初篇下之巻\爲永春水作\一勇齋國芳画\錦耕堂板」「とり女画」
〔下〕
信乃ハ水をバ汲み果てゝ打振りつゝ、花瓶へ水を移し仏間へ供へ、父の後へ立寄て背中を撫でつ慰むる。折しも外方騒しく、数箇所の痛手を負ひながら走り帰りし与四郎が縁先近く倒るゝを、信乃ハ見るより走り寄り「こりや与四郎が此様にト言ふに、番作驚きて共に一間を膝行出で傷の様子を篤と見て「此深傷ハとても適はぬ。是も大方姉婿の蟇六殿〔の〕仕業トな言ふを、番作押留め「例へ何奴の業にもせよ突殺るゝハ犬の定業、せめてハ粥なと拵へて「此与四郎に喰せへとか。心得ましたト言ひつゝも、有りあふ菰を犬に打掛け、信乃ハしほ/\立て行く。斯る時しも表より、犬塚番作在宿なるか。軍木五倍次、卒川菴八、対面せんト大柄に僕背助を引連れつゝ案内もなく座に通れバ、番作会釈して「此ハ/\軍木氏、卒川氏にも連立て此見苦しき陋宅へ何故あつてト問ひ掛れバ、五倍次声を振立てて「ヤア何故とハ落着顔。此度、鎌倉管領より下し給る御教書を村長方にて披見の折から、汝か飼犬与四郎とやらん [次へ]11オ
11ウ12オ
[つゞき] 一間の中に駆入りて、彼の御教書を此様にト取出す一通。番作か目先へくつと突付けて「御教書破却ハ謀反も同然。拠て犬めハ仕留しかども飼主とても罪ハ逃ぬ。犬追ひ 犬めハ 見たる背助奴も同罪故、汝と共に縄打つて獄屋へ引かん。其為に此処迄召連れ来りしなり。さァ尋常に縄懸れと言ふ所じやが、コレ番作、其処が世に言ふ詠と歌。汝が所持の村雨丸、其を身共に逓与しなバ鎌倉へ差上げて今度の事ハ穏便に円く済すが、返答ハ如何に/\と差寄れバ、背助ハ聞くより怖々ながら進出で「番作様、村雨とやら何とやら訳ハ知ねど、其品を五倍次様に差上げて私が命を助けてト手を合せつゝ掻口説くを、熟々聞いて番作ハ嘲笑ひつゝ「コレ御両所、其大切な御教書を与四郎が食裂かバ、先飼主の某より、宿を預る蟇六が首をバ何故に刎られぬ。夫のみならず、村雨を鎌倉へ差上げて若し御許しの無き時ハ各々何とし召るぞ。見掛けに拠らぬ大騙り、言すと知た拵へ事。其手で旨村雨を取るゝ様な番作ならず。莫迦な事をト睨付れバ、五倍次ハ驚愕として左様知れたら是非が無い。番作覚悟ト抜掛る小手を返して捩上げ挙れバ、引続いて切込む菴八か刄を番作引外し、膝に楚と押敷いたる。此有様に驚く背助後をも見すに逃けて、隙を覗ひ五倍次菴八、又斬掛るを番作が右と左りへ身を翻して二人を捕て投出し「腰ハ立ねど犬塚番作、猶此上にも抗〔ば〕鎌倉表へ罷出で此等の旨を対決せうか。返答何とト決付れバ五倍次慌〔て〕 [つぎへ]11ウ12オ
12ウ13オ
[つゞき] 押留め「ヤレ早まられな番作殿。今のハ此方の出損ない、もう何事も穏便/\。卒川さらハ帰らうと、打れし腰を擦りなから顔を顰めて立上れバ「とハ言ふものゝト菴八又立掛るを留むる五倍次「ハテ何事も我胸に。一先づ此処をト言ひながら、目で知すれバ点頭きて逃るが如く出行きける。斯る折しも、奥の間より暖簾押分け立出る信乃ハ、彼方を見送りて父の側に進寄り「様子ハ彼処にて聞ました。御教書破却ハ偽りにもせよ、彼等二人リハ当所の陣代簸上宮六が下司、今の遺恨を根に持て、如何なる謀計を做さんも知れず。御思案あつてか父上ト言ふに、番作莞尓と笑ひ「浅薄くも企し彼が奸計、此上何程謀るとも丈の知れたる蠅虫共、恐〔る〕事ハ無けれども、我に一つの分別あり。彼村雨の一振を此処へ持遣れと言付れバ、信乃ハ心得立上り、梁に吊りたる青竹の内に納し彼一振を取出しつゝ持出るを、番作取つて押頂き「此一振ハ忝くも鎌倉の先の管領持氏朝臣の御佩刀にして、春王君に譲せ給ひし村雨の御剱、仍ち是也。此御剱の奇特と言ぱ、抜けバ刄に水滴を生し、殺気を含で打振る時ハ、宛らにして村雨の梢を洗ふに彷彿り。拠て其名を村雨と言ふ。拝見しやれと抜放せバ、信乃ハ喜び進寄り、在り合ふ紙燭(しそく)を振照して鍔元より切先迄熟視りつゝ、莞尓と打笑み「実に稀代き刄哉。色七星の紋輝きて三尺の氷猶寒し。彼の草凪の劔ハ知ず。抜丸、小烏、鬼丸なンど言ふともおさ/\劣るまじ。見るハ初て稀代の銘釼、斯る劔もあるものト熟視り又熟覧れバ、番作佶と容姿を改め「往昔結城落城の砌、我父大塚匠作主、此村雨を我に与へ御遺言ハ有りしかども、我ハ手傷に行歩適ず、生涯御剱を打守護りて此片田舎に埋木の花咲く春も無き老の身が、何時まで世を貪ん。此村雨の御ン佩刀ハ只今汝に授くべし。今日よりして男と成り、信乃戍孝(もりたか)と名を名告り、折を得バ滸我に赴き春王君の御弟なる成氏朝臣に御剱を参らせ、家をも名をも再興よかし。言ふべき事も此迄也。然らバとばかり番作ハ、差添すらりと抜き閃かし腹へぐつと [つゞき]12ウ13オ
13ウ14オ
[つゞき] 刺通せバ「喃父上ト駆寄る信乃を尻目に睨んで、番作ハ苦き息をほつと付き「こり狼狽な倅戍孝、我此腹ハ嘉吉(かきつ)の往昔結城の城にて斬るべきを、今迄存命へ居たりしハ、親の遺言を果さん為、今ハ汝に御剱を譲り、此世に思ひ置く事無し。汝ハ今より伯母夫婦に其身を寄て成人り、過去り給ひし祖父様と今此父が遺志を嗣で、家名を再興よかし。今こぞ返す君父(くんふ)の御恩。あら心地よや嬉やト留る信乃を膝に押敷き、再び刄に手を掛て心静に引回し、咽喉掻切て俯に倒て息ハ絶にけり。信乃ハ彷彿ら狂気の如く虚き遺骸に取付いて正体も無く嘆しが、我と心を取直し「何時迄言ふても返らぬ繰言。此上ハ父様の遺言を守るが責てハ孝行。夫に就ても与四郎ハ未だ死やらひで居る様子。苦痛を助けて得させんト村雨丸を携へつゝ [つぎへ]13ウ14オ
14ウ15オ
[つゞき] 犬の側へ立寄て「其方ハ年来飼慣れたる名残ハいとゞ惜けれど、とても適はぬ其深傷、覚悟窮めて成仏せよ。如是畜生発菩提心、南無阿弥陀佛ト唱へも敢ず、振閃かす刄の下に、犬の首を打落せバ、忽然として傷口より颯と立たる血潮と共に、現はれ出でたる一つの名玉(めいぎよく)折しも彼方の藪陰より、垣根押分けて立出づる額藏。夫とも信乃ハ知らざれハ、件の玉を手に受けて「今、与四郎が現はれ出でたる此玉ハト言ふに、額藏進寄り「我も所持なす名玉に寸分変らぬ彼白玉、其のみならす、玉の内に自然と表はす孝の一字「又我玉にハ義の一字。玉と玉とが一対にト言ひつゝ思はず顔見合せ 「其方ハ僕額藏殿、扨ハ先より其処に居て「様子ハ残らず承わつた。某も又御身に等しき玉を所持做すのみならず、最前よりして見受し所、御身の腕に痣在りて、形牡丹の花に似たり。我にも同じ痣在れバ、過世奇しき縁ならんト玉と痣とを表出して見すれバ、信乃ハ打驚ろき「扨ハ和殿も当初ハ由在る人の子なるべし。名告り給へと問掛くれバ「如何にも我身ハ相模の住人犬川衛次が一人子にて同名荘助義任(よしたふ)是也。父ハ主君を諫めかね切腹なして家断絶。我ハ其時僅かに七才、母諸共に彷徨ひつゝ蟇六殿〔の〕門辺にて母ハあいなく此世を去り、夫より是非無く僕の奉公「其と聞てハ猶頼母し。此玉と言ひ痣と言ひ、寸分違わぬ上からハ今より和殿と兄弟の義を結んハ如何にそやト言ふに、額藏喜びて「願ふても無き身の幸ひ、此処で互ひに義を結べバ御身の父ハ我父なり。先づ遺骸を取措き給へ。我ハその間に与四郎の死骸を何処ぞト鍬押取り辺り見廻し立上れバ、信乃ハ手早く番作の死骸に立る袖屏風、心ばかりの香花も又思出す泪の [つぎへ]14ウ15オ
15ウ16オ
[つゞき] 種。此暇に額藏ハ梅の木陰に与四郎が死骸を深く埋むれバ、信乃ハ硯を取出だし、梅の幹を削り、何かさら/\書記し「此与四郎ハ我身と同年。日来手慣し飼犬の、責めてハ後世を助けん為ト言ひつゝ筆を収むれバ、額藏は佶と見て「如是畜生発菩提心。此ハ菩提を弔ふ八字。又我々が所持なす玉ハ、仁義禮智の八行(はつこう)の中を分ちし孝義の二字「互ひに身を立て名を挙る。先づ其迄ハ大川氏人目を忍ぶ仮の名の和殿ハやつぱり小厮〔の〕額藏「モシ犬塚の若旦那、何かの話ハ又重て、早御暇ト額藏ハ村長方へと急ぎ行く。 蟇六棲家の段 「イヤ申し旦那様、月日の経つのハ早いもので此世を去れた番作様の今日ハ即ち一周忌。御汁(しる)の味噌ハ擦上げたが、額藏殿が戻ねバ料理にも掛られぬト背助が言へバ、主人の蟇六「又彼奴が出た先で油を売て居をるであらう。何奴も此奴も世話の焼けた役立〔た〕ずの喰潰しト一寸言ふにも憎体口。斯る折しも門口より立帰り来る額藏が、下籠片手にずつと入り「額藏只今戻りました。今日ハ生憎魚が時化で其処等一面駆回はり、御注文の大鯛一枚鮃を片身に蛤まで、漸々買ふて参りました。夫に就けても心得ぬハ、番作様の御法事の御献立にハ似合はぬ生魚。どふも合点が、喃背助ト言ひつゝ後を見返バ [四の巻へ]15ウ
[三の巻より] 背助ハ聞て興醒め顔「成程御主の言ふ通り。私も又最前から旦那様や御上様が、蝶花型の銚子島台、合点が行ぬト思ふたが、扨ハ旦那が簡略故、御法事と祝言を一緒にされると思はれる。然うだ/\ト点頭バ、下女のおよしが差寄つて「其御祝言ハ信乃様と浜路様とで御座んせう。「夫ハ言はずと知れた事。しかし旦那の御言葉を聞ねバ如何も落着かぬ。此御祝言ハ信乃様か、もし又他に婿様がト聞く額藏を、蟇六が尻目に佶と睨付け「ヱゝべろ/\と喧しい。誰が祝言しようとも汝等が知つた事でハ無い。額藏ハ奥へ行き言付けた肴拵へ、背助も共に早く行けト言はれて、背助ハ身を起し「ドレ夫ならバ奥へ行て飯でも喰て働かうと言ふを、蟇六聞留め「ヱゝ又しても飯々と、真実主人の為を思はゞ三度のものハ二度喰て、夜ハ八ッまで夜業をし、朝ハ又七ッから起て働かねバ、主人の恩ハ報れぬ。額藏奴ハ取分けて忘れもせまい往昔、汝が母が我門で雪に凍へて行倒たを仏心の此蟇六、ヤレ不憫やト引取て、其遺骸を葬りし雑費も少ない事でハない。其時其方ハ確か七才。今此歳迄、育上げ成人させたハ誰が陰ぞ。皆蟇六が情け故 [次へ]16オ
16ウ17オ
[つゞき] 腕も肩も続くたけ、給金無しで一生涯使つて遣ねバ損ハ埋らぬ。奥の料理を仕舞たら、風呂の水をも汲込んで米も一臼搗ておけ。きり/\為ぬかと強要れて、額藏ハ立上り「貴方の御無理ハ御尤も、然らバ料理に掛ろふかト背助およしも打連立ち、奥をさしてぞ入りにける。折から門へ案内してしづ/\入来る軍木五倍次、蟇六ハ出迎ひ「此ハ/\五倍次様先づ/\彼方へ御通り下れ。ソレ亀笹御茶上げや。御煙草盆と立騒げバ、五倍次ハ座に直り、兼て申入れたる通り、御息女の浜路殿と宮六殿婚姻の事、万事質素を好れゝバ、今宵婿入を兼れて宮六殿御入り在る筈。盃ハ只型ばかりにて、祝言の儀式相済まバ浜路殿を同道して、其余の儀式ハ簸上殿〔の〕の館に於て致さるゝ由。拠て結納の目録を即ち持参致たり。披見召されト差出すを、蟇六ハ恐る/\請頂きつゝ押開き「何々金子三十両蟇六殿御夫婦へ、同く金子十五両、巻物五ッ浜路殿、同く五両召使へ。是や大層な御結納。召使へ下れた五両も此方へ捲上げれバ、皆な合せて五十両ト言ふものを、側から亀笹が差覗きつゝ莞尓/\もの「本にまァ、御陣代取置きの張れた事わいの。殊に今宵の儀式さへ只型ばかりと仰れバ [つぎへ]16ウ17オ
17ウ18オ
[つゞき] 物要ずで済む今宵の婚姻、斯様な目出度婿入りが又と二つ在うかト喜ぶ夫婦、五倍次が「イヤ何、中々其程の金子許りで済ハ致さぬ。婚姻首尾良く整は〔ハ〕孰れ御礼ハ重ねて別段「ナニ又御金を下さるとな。亀笹御礼を申さぬか。どう言ふ事やら私ハ生付いて御金が好物「そりやもう御前計りじやない。私も何より一番好ト夢中に成て喜こぶ折しも、蟇六が門前へ来掛〔か〕る網乾左母次郎、後に着たる二人リの駕篭舁き其名を井太郎、加太郎とて、在所で名打の無頼漢、立留まりて「モシ親方、歩め/\と此様にせしを何処まで引張の > だト言ふに、左母次ハ振返り「ヱヽ騒々しい静かにしろ。汝等二人リを頼だハ、此処の娘を釣出す算段。首尾良く遣バ酒手ハずつしり「夫なら娘も得心で「ナニ得心位なら汝等を頼で来ハしねへ「夫でハ余程魂胆が「難しいのを遣るが魂胆。俺が合図を知せる迄、な、な、合点かト耳に口囁き示バ点頭きて、二人リハ裏手へ左母次ハ表の口へと忍び行く。内にハ夫とも知ざれバ五倍次ハ夫婦に向ひ「拙者が持参の契の目録受納あつて、先ハ満足、併し乍ら娘御の心を聞ねバ落着ぬト言ふを、蟇六聞敢へず「娘にも薄々ハ申聞かせて措きましたれど、兎角、信乃奴が居る間ハ娘が心も定らず。依て信乃奴を欺きて今日滸我へ旅立する下心 [つぎへ]17ウ18オ
18ウ19オ
[つゞき] にて候へバ彼を追出し、其上にて御案内を致すで御座らう。何ハ格別。コレ亀笹娘を此処へ呼出だし、先づ一通り言聞しやト夫の言葉に亀笹ハ、下女のおよしを招寄せ言付れバ、およしハ心得頓て浜路を連来れバ亀笹ハ柔和に打笑みながら「喃娘。其方ハとんだ僥倖者。五倍次様が御出なされ、今日ハ幸ひ吉日なれバ宮六様と其方を祝言さすると仰つて、御結納の品々迄御持なされて下れた。さァ/\ちやつと御請けしやト言れて浜路ハ打驚き「そりや母さんの御言葉ながら、私や幼い時からして彼信乃さんと許嫁。他へ嫁くのハ如何あつてもト言ふに蟇六進寄り「嫌じやと言ふて其儘措こうか。御陣代を婿に取バ其方計りか親迄が浮上る大幸せ。良い子じや早う応ト言や「イヱ/\私や何程でも此事ばかりハ堪忍して「然う言遣ても、彼信乃ハ其方を嫌ふて居るでハないか。夫とも信乃より又他に「アイ色男ハ此処に居る。色だ/\ト表よりずつと入来る左母次郎、蟇六ハ不審顔に「其方ハ網乾左母次殿、藪から棒に色々と「アイ色だから色と言ふ。夫も浮気な訳しやァねへ。現在の御袋、婿にしやうと言約束。然すれバ浜路ハ俺の女房。一緒に来遣れト手を取るを「そうハ成ぬト隔る亀笹、蟇六ハ手を組で「如何も俺にハ合点が行ぬ。其とも亀笹ひよつと其方が「如何して私がそんな。まァ「例へ何でも彼で在うが、貰ひ掛つた娘浜路、是非共俺が連て行く。夫とも達て成ぬと言やァ、村雨丸を頼れた子細を信乃にぶちまけて「其を言れて成るものか「夫なら娘か「さァ其ハト二人リが争ひ。五倍次ハ刀片手に膝立直し「段々事に枝が先、拙者ハとんと気が揉る。宮六殿へ返答ハ「さァ何事も私が胸に畳んで御座りますれバ、後程迄に急度御返事。亦左母次殿〔の〕言はるゝも、如何やら無理とも思れねど、今と言ふてハ挨拶が「成らぬとならバ仕方がねへ、奥で返事を俟ちやせうト左母次ハ奥へ五倍次ハ心遺して戻行く。 つぎのゑとき 犬塚信乃ハ只一人奥の一間に閉籠り軍学の書(しよ)を読み居しが、何思ひけん吐息を付き「本に思へバ此身程、世に味気無き者ハ無い。母上にハ早く遅れ、頼に思ひし父上も去年の此日に世を去給ひ、今日ぞ即ち一周忌。夫さへあるに我ハ亦、心良からぬ伯母婿に引取られてより丸一年、針の筵に [つぎへ]18ウ19オ
19ウ20オ
[つゞき] 起伏も油断のならざる此家の内、其も何故、父上の臨終に遺す御教訓。此村雨の一振を何卒滸我へ持参なし、成氏公に奉り、父祖(ふそ)の忠義を顕して身を立て家を再興ん為とハ思へども、今にてハ伯母御夫婦に養はれ此身が此身の儘ならず、世ハ春ながら春ならぬ心の憂を何とせんト思案半へ立出づる、浜路ハ辺り見廻して「信乃さん、此処においでぞか。私御前に逢たふてト言ふに、此方ハ見返りて「然う言はるゝハ浜路殿、如何して御前ハ此一間へト言ふ顔熟々打目守り「何故に来たとハ聞へませぬ。御前と私ハ親々の御許受た夫婦なり。夫に御前ハ余所/\しく他人扱らへ為しやんすが私心から恨しい。御前ハ私が嫌じや故、滸我とやらんを託けて此家を出行く御心か、夫なら然うと打明けて何故に言ふてハ下んせぬ。隔てられるが悲いト袂を口へ忍泣き。信乃も不憫と差寄つて「中々然ふ言ふ訳でハ無い。滸我へ参るハ父の遺言。彼所の首尾だに良きならバ御身を彼地へ迎へ取るとも又ハ此身が立帰るとも、結んだ縁を徒にハせぬ。「其なら真実末永う「何の見捨て良からうかト互に寄添ふ後より「逢に相生の松こそ目出度かりけれト謡ひながらに蟇六ハ銚子土器取添て一間の内より立出つゝ二人が中へ座を占て打笑ながら「喃信乃よ、其方ハ兼て滸我へ赴き村雨丸を参らせたしと私を初め亀笹へも度々言ふてハ居るなれども番作が一周忌を済した上と延措きしが、今日ハ誠に黄道吉日。娘浜路と祝言做し、儀式終らバ直に発足。すりや私に旅立を御許なされて下さるとな。ヱヽ忝ふ御座ますト喜ぶ信乃に喜ぶ浜路「そんなら最前宮六面に嫁入さすると仰つたハ「其方の心を引見る為。さァ/\早う盃をと言はれて浜路ハいそ/\と早酌交す三三九度の盃、終バ信乃ハ手を付き「兼て望し旅立を御許下るのみならず、浜路殿と盃まで致し上ハ発足を「イヤ盃ハ済だれども [つぎへ]19ウ20オ
20ウ奥目録
[つゞき] 未だ/\肝心肝文の床盃が済ぬでハ「すりや、彼臥所の盃迄「ハテそうせねバ俺よりも娘が得心しをるまい。彼が心も推量して名残をたんと惜んで行きやれ
○コレ/\およし案内をト言葉の下より出来るおよし「モシ御嬢さま御嬉しからう。旦那様の御指図で御寝室も疾ふから取つてある。さァ/\御出ト手を取つて二人リを伴ひ奥に入る。斯る折しも物陰にて様子立聞く亀笹が夫の前に進出で「御前ハ気でも違ふたか。宮六様と彼程迄約束固た浜路をバ可愛げも無い彼信乃にト言ふに蟇六打笑ひ「祝言させたハ此方の手段。其目論見ハ斯様/\ト囁き示せバ亀笹ハ思はず莞尓と打笑て「すりや床入の其暇に、彼村雨を人知れず「何と旨か「天晴妙計「コレ声高し。竊に/\。 ○これより第二編に続く。めでたし/\/\/\/\/\
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嘉永五壬子歳新鐫藏版目録
阪東太郎後世譚 〈八編|九編〉 〈西馬作|貞秀画〉
岸柳四魔談 〈三編|四編〉 〈同作|國輝画〉
〈倣像|水滸〉 侠名鑑 〈初輯|二輯|三輯〉 樂亭西馬稿案 〓持樓國輝画圖
〈勸善|懲惡〉 乗合噺 〈七編|八編〉 〈柳下亭種員作|一陽齋豊國画〉
江戸鹿子紫草紙 〈二編|三編〉 〈文亭梅彦作|香蝶樓豊国画〉
小栗判官駿馬誉 〈中本|一冊〉 〈西馬編|芳虎画〉
象頭山夛宮日記 〈中本|一冊〉 〈樂亭譯|國輝画〉
爲朝弓勢録 仝 〈同|同〉
東都馬喰町二丁目西側
〈書物地本|繪草紙〉 問屋 山口屋藤兵衞 奥目録
〔後ろ表紙〕
後ろ表紙
〔二編表紙〕
二編表紙
〔見返〕
見返・序
「いまやう八けむてむ/春水さく/國よしゑ/〈錦耕紅榮|両堂合梓〉」「国よし女とり画」
〔序〕
熟當時のありさまを観るに、物みな迅きを手柄とすなれバ、歳に一度の七夕まつりも、六日の旦の露をむすびて、短冊色紙もそむべきなるを、五日の夜より笹に結ひつけ、二度の月見のいしくも、夜明ぬうちにまろめあげ、隣へ贈るを勝とすなンど、なほ此類いと夛し。尓バ合巻となづけし冊子も、來年の新板を、ことしの秋より賣出しの、魁いそぐもむべなるべし。夫さへあるに這策子ハ、俄作りの一夜酒、甘いか辛いか再考を、加ゆる間もなく彫あげて、又おかはりのお急ぎを、安請合に筆ハ採れども、三國一は偖おきて、釜さへ光らぬ駄賣の醴、たゞ於夛福に舐させて、渠がわらひを見んのみなり。
〔口絵〕
口絵
「里見伏姫\金碗大輔」
1ウ2オ
〔本文〕
2ウ3オ
[初編の道具がひとつ廻りてこゝの画とき] 「まァ/\待つた浜路殿、私の言葉も聞果てず死ぬるハ此身へ面当か、聞分けなしと留むる信乃、浜路ハ尚も身悶へ做し「放して死なして下さんせ。御前に添ふを楽みに長い月日を待ち俟つた其甲斐あつて父様の御許受て祝言の盃までハ做しながら、今ハ枕ハ交されぬ、時節を待てとハ胴欲な、其程私が嫌ならバ、何故打明けて斯々と言ふて聞せて下さんせぬ。思ふ殿御を旅立〔た〕せ身ハ捨てられた野辺の花、何時迄永らへ居りませうト又取直す必死の刄、信乃ハ漸々もぎ離し「其疑がひハ然る事乍ら、最前も言ふ通り、全く御身を嫌ふにあらねど、身の心願を果さぬ以前、妻を娶るハ親への不孝。其のみならず今日ハ又世に亡父の一周忌、其命日に身を汚さバ子として親を思はぬ道理、今祝言の盃さへ快からず思へども、蟇六殿〔の〕言葉に背かバ又旅立の妨げと思ひし故に、逆はず盃ばかりハ致せしなり。例枕ハ交ずとも親の許し夫婦なり。如何でか心の変るべき。閨房に添寝の睦言を致すばかりが夫婦に非ず。此処の処を聞分けて、滸我より此身が立返るか又ハ御身を迎るか、先づ其迄ハ此儘にト 説諭したる真意に、浜路ハ恥て差俯き「事を分けたる其御言葉、元来正しい御心と知てハ居れど女子の愚痴乱りがはしき鬱々を言ふたが今更恥しい。此上ハ御機嫌良う。滸我とやらより御帰りを私ハ待つて居りまするト言ふも涙の曇声、流石の信乃も不憫さに乱〔る〕胸を押鎮め、押鎮めても恩愛の涙ぞ遣瀬無かりける。此より先に、蟇六ハ兼て企し事なれハそろり/\と忍寄り、屏風の裾に開措いたる穴より中を差覗き、隙を見澄し村雨丸を手を差入れて盗出し [次へ]2ウ3オ
3ウ4オ
[つゞき] 己が刀の中子を外し剱(み)ばかり彼方此方掏替て元の如くに屏風へ刺入れ此方の一間へ忍出〔て〕辺り見廻し、ほつと息「ヤレ/\嬉しや忝や。年來日頃心を掛けたまつ、一振ハして遣つたぞ。れに就ても此御剱、抜バ刄に水気顕れ、殺気を含んで打振る時ハ水気四方に散乱すと伝聞〔き〕しが、見るハ初めて、試して見んと抜放し再度三度打振れバ、村雨丸の奇特ハ違はず、顔にぱら/\降掛る水気に驚く蟇六ハ、一人莞尓/\打笑て「実に争はれぬ刄の奇特、人目に掛らぬ其間に。ヲヽそれ/\ト村雨の剱を鞘に納つゝ、傍辺に在合ふ押入の中へ竊かに押隠し「古ひ奴だが、もしひよつと人が見たらバ蛙に成れ良か/\と押入の戸を閉切つて奥へ入る。斯る折しも物陰にて様子覗ふ左母次郎が、ずつと立出で独白「親父奴旨くし居つたを、其処をも一つ俺様が上手を遣てト押入より彼一振を取出し行んとせしが打案じ「是を此儘持て行くハ何とやら危物ト腰に差したる刀を抜出し彼此比べて莞尓と笑ひ「反も長さも丁度良ひドレ此暇にト左母次郎ハ又其中子を抜替へつゝ村雨丸を我鞘ニ収めて腰に差し、蟇六が刀へハ己が劔(み)をバ掏替へて入んとせしが「待て些時、最前彼処にて覗へバ此村雨を試せし様子、もし又今にも抜いて見て水気が無くバ悪しかるべし。ハテ何がなト言ひつゝも見返る此方に手水鉢。是幸いと立寄つて手早く汲取る一柄杓を鞘の内に流込み刄を収めて又元の戸棚の中へ差入れつゝ辺り見廻し奥へ行くとも知ずして蟇六ハ亀笹と諸共に暫くあつて奥より立出で「我村雨の一振を年來奪取らんと思へど、番作ばかりか信乃も亦、片時側を離さねバ、彼左母次郎を語ひて盗ませんとハしたりしかど、左母次郎奴が先程の素振、貴奴も油断の成らぬ奴。其処を思つて仕組んだ手段、娘を餌に旨/\と「すりや村雨の一振を「ヲヽちよろまかして此処にあるト押入の戸を引開けて彼偽物を取出せバ「其ハ洵に御手柄/\。私も噂に聞いたれども、ついぞ未だ見ぬ水気の奇特。此間に一寸私にも「見せて呉れいと言やるのか。大切の品なれど一寸見せうかイヤよそうか。「コレ焦さずト、さァ早ふト擦寄る亀笹。蟇六ハ軈て刄を抜放し「今こそ見する御剱の奇特、着物が濡る其方へ寄りや。どふだ/\ト打振れバ [つぎへ]3ウ4オ
4ウ5オ
[つゞき] 水気にあらぬ手水鉢の水を含みし刄の滴ばらり/\と降掛れバ亀笹ハ打驚き「洵に不思議な刀の奇特、コレ見やしやんせ。此鞘にも水気が溜つて居りますぞへト見するを蟇六受取つて「最前試して見た時より余程水気が増したと見へる。此一振をしてやれバ直に信乃奴ハ追出し、其跡へ宮六殿を迎へて娘の婿にすれバ、御陣代の舅御様故、村の仕置も我自由。其のみ成らず此御剱を鎌倉へ持参して扇谷家へ差上ぐれバ、夫を功に召出され品ニ拠つたら国取大名「然う成時ハ私ハ奥様、綾〔や〕錦や縮緬に「其方が紋と我紋を比翼に付けて楽むハ「コリャまァ夢でハ無いかいなト、夫婦が喜ぶ其所へ、庭の柴折戸押開けて、ずつと入来る若党鉄内(てつない)、蟇六ハ驚きて手早く刀を押隠せバ、鉄内ハ手を支へ「先刻軍木五倍次様より申入れたる婚姻の事如何〔が〕あらんと御旦那の宮六様にも強い待兼。其御返事を今一度承つて [つぎへ]4ウ5オ
5ウ6オ
[つゞき] 参れとある五倍次様の仰付けられ、少しも早く御返事をと言ふに、蟇六出迎へて「此ハ/\鉄内殿、御使柄とて御苦労千万。此方の一件も今少しにて片付けバ最早程無く此方より御案内を致すで御座らう。此旨宜敷く五倍次様迄「然らバ其事片付次第「早速御沙汰致しませうト言ふに、鉄内打点頭きて、もと来方へ帰行く。折しも信乃ハ旅装して一間の中より出来たれバ浜路ハもとより僕の背介下女のおよしも打連て奥より出〔て〕居並ぶにぞ、亀笹ハ笑しげに「其方ハ発足し遣るのか。思ふた通り祝言して娘も嘸や嬉しからう。せめてハ今宵一夜だもと思へど、今日ハ黄道吉日。留るハ其方の本意であるまい。随分道中機嫌良う、滸我へ至りて望の如く首尾良く御剱を差上げなバ、早く吉左右知せてたもト言ひつゝ此方を見返れバ、蟇六も進出で「此処と滸我とハ程遠からねバ一人行くとも道中に心掛ハあらねども、村の衆の手前もあれバ千住(せんじゆ)川の辺迄小厮一人を付遣る。額藏参れと呼立つれバ、はつト答へて小厮額藏「誘御伴ト立出づれバ、信乃ハ夫婦に打向ひ「遺漏無き做され方、此身に余りて忝し。滸我の首尾だに宜敷くバ、早速に立帰へり其折御礼を申すべし。浜路殿にも恙なく、御二人様にも軽々せられよ。およし背介も機嫌良うト皆夫々に挨拶して、早外方へ立出づるを、浜路ハ見送る切戸口「御機嫌良うト言ひさして、跡ハ涙に口籠るを、見返る信乃も哀別の思ひハ同じ濡羽鳥、涙見せじと額藏に会釈をしつゝ先に立てバ、後に従ふ [つぎへ]5ウ6オ
6ウ7オ
[つゞき] 額藏ハ荷物を肩に軽々と尻引絡げて付て行く。後見送りて蟇六ハほつと一息付ながら「是で信乃奴ハ追出したれバ、もう邪魔に成る奴ハ無い。さァ是からが真実の祝言。亀笹用意をしやらぬかト言ふに浜路ハ驚きて「又此上の祝言とハそりやまァ誰が祝言を「ハテ知たこと。宮六殿に其方を添せる祝言じやハ「それでも私やたつた今あの信乃さんと盃を「させたハ信乃を追出す手立。滸我へ行きてハ又再び帰る事無き彼信乃に、何時迄未練を遺すのじや。夫よりさらりと思切り宮六殿に身を任せて親の心を休めて呉れ。賢い者じやト言ふ親の顔熟々と打守り「そりや御胴欲で御座ります。女子の子と産れてハ二人の殿御に見ゆるなと教草にもあるものを、此事ばかりハ父様の御言葉ながら私や嫌じやトや堪忍してト泣沈めバ蟇六ハ気色を変へ「此程言ふても口説ても聞入れ無くバ是非が無い。留立てするなト脅しの脇差抜くより早く我腹へ突立てんとする勢ひに「アレまァ待つてと留むる亀笹、浜路ハ見るより駆寄つて父の刄に縋り付き「こりや何故の御生害「ヱヽ何故とハ聞ぬぞや、兼て仲立五倍次殿より申込まれし其方の事、心にハ染ねども否と言はれぬ先ハ陣代、差上げませうと請合ふたれバ今更其方が不承知と言ふとも中々許れず。言訳無さの此切腹、留ずと離して死して呉れト又閃かす刄の切先。浜路ハ猶も取留めて涙乍らに顔振上げ「例へ無理でも非道でも養育受けた父様が死ぬると迄に [つぎへ]6ウ7オ
7ウ8オ
[つゞき] 御覚悟を做れた上ハ是非も無いト言ひつゝ又もや泣沈めバ、為済したりと亀笹が「そんなら其方ハ父様の彼御言葉に従ふとか。コレ蟇六殿聞しやんせ。浜路ハ得心したといなト言ふに蟇六刄を収め「娘が得心する上ハ背介ハ早く此事を [つぎへ]7ウ8オ
8ウ9オ
[つゞき] 五倍次殿に御知せ申せ、およしハ娘を奥へ伴ひ機嫌直して身仕舞を早く/\ト急がすれバ、心ならねど詮方無く、およしハ浜路を慰めて手を取り奥へ赴けバ、背介も渋々身を起し「ドレ行て来うかト立て行く。
斯て其日も程無く暮て空さへ曇る宵闇の、辺り小暗き奥庭へ浜路ハ一人忍出で後先見廻し独白「今日ハ如何なる日なるぞや。待ちに待たれた信乃さんと妹背結ぶの盃を交す間も無く本意無い別れ。夫さへあるに父さんが彼胴欲な做され方、邪非道と知り乍らも三ッの歳から養はれ、親と言ふ名のある者を死ると迄に言はしやんすを如何まァ見捨て居らりやうぞ。とハ言ふものゝ今更に [つぎへ]8ウ9オ
9ウ10オ
[つゞき] 他男に身を任せてハ女子の道が立難し。此上ハ身を捨〔て〕親と夫へ申訳け。そうじや/\ト打点頭、傍に在り合ふ古井戸の側迄歩寄りたりしが「せめて再度信乃さんの御顔が見たい。見て死にたい。此程想ふ私の心、先へハ通じぬことかいのト又さめ%\と打歎く。後に窺ふ左母次郎が「其程信乃に逢ひたくバ俺が逢せて遣りやせうト言ふに浜路ハ驚きて、其儘井戸へ飛入らんとするを、聢り抱留め「是ハしたり浜路さん。御前ハ悪い了見だぜ。其程信乃に逢ひたくバ、是から信乃〔の〕後追ふて滸我へ行くのが上分別。俺も今迄御前にやァ足駄を履て首丈け惚てハ居たが、最前から夫を想ふ御前の心底聞いて心が入替り、何時の筋なら御前をバ縛絡げて猿轡、ところを今度ハ立役に成つたからにやァ浜路さん、何処が何処迄駕籠をもち御前を信乃に逢はせて遣る。幸い此処に四手駕籠。さァ来なせへト手を取バ「夫でハ如何も父さんにト言ふを、理無く引立〔て〕駕籠に押込み合図の礫。折しも彼方の木陰より現れ出づる二人の駕籠舁「親方首尾ハ「此駕籠に。急いで頼む「合点ト舁出す駕籠に、左母次郎も伴に引添ひ走り行く。 奥にハおよしが慌て声「モシ御嬢様が見へませぬ。浜路様がト呼立る声に驚く蟇六夫婦ハ「何ぢや、娘が居をらぬと。扨ハ信乃奴と言合はせ駆落せしに違ひあるまひ。夫のみならず左母次郎が奥に見へぬも心掛り。娘を誘出だしたハ左母次か信乃か。何〔に〕もせよ、今婿入の前になり。娘が居らねバ大変/\。者共早く追手に行け。どふじや%\ト急立ちて、夫婦ハ共に立つ居つ騒廻れバ、男共ハ手に/\提灯六尺棒、当処も無しに追ふて行く。折しも背介ハ外方より息急と立帰り「最前の御口上を五倍次様へ申上しに、殊外の御悦びで、只今此処へ御出の筈、アレ/\向ふへ提灯の見へるが確か婿様と言ふに、蟇六又驚き「ナニ婿殿が見へるとか。そりやこそな、そりやこそな、亀笹早く袴を持て。およしハ其処等を掃出して燭台へ炭を継ぎ、火鉢へ明りを点ておけ。 [つぎへ]9ウ10オ
10ウ広告
[つゞき] 今の騒で男共ハ皆追出し遣つたれバ勝手元が人少な、背介ハ何をうろ/\する。竃に魚を焼べ、猫に薪木を引るな。イヤ夫よりも娘が行方知ぬがどふも心許無い。勝手の事ハおよしに任せ、其方ハ浜路を見て来やれ。亀笹袴を何故持たぬ「コレ御袴ハ御前の御手に「ヱヽ夫ならバ何故そうと早く俺にハ知せて呉れぬ。是てハ袴が後前、亀笹何を狼狽へる。早く羽織を着ぬのか。娘ハ未だか。婿殿ハト言ふ事さへも後先に、一人リ気を揉む蟇六ハ、己が心の捩袴、狼狽へ廻るぞ可笑しけれ。 [下の巻へつゞく]
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藏版新刊珎奇雜書略目録
遊仙沓春雨艸紙 〈十一編|十二編〉 〈緑亭川柳作|一陽齋豊國画〉
田舎織糸線狭衣 〈四編|五編〉 〈仝作|同画〉
天録太平記 〈初ヨリ|追々出板〉 〈仝作|一勇齋國芳画〉
奇特百歌仙 同断 〈仝作|一立齋廣重画〉
畸人百人一首 全一冊 〈仝案|同画〉
狂句五百題 全二冊 五代目 川柳著
東都書房 南傳馬町一丁目 蔦屋吉蔵板 」奥目録
〔二編下〕
〔見返〕
見返11オ
「爲永春水作/今様八犬傳 第二編の下/一勇齋國芳画/紅栄堂・錦耕堂合梓」「國芳女とり画」
〔本文〕
斯る折しも宮六ハ若党の鉄内に定紋付の提灯を持せ、五倍次、菴八諸共に、蟇六が門口より案内頼むと言入れバ、内にハ未まだ掃除最中。夫と見るより狼狽へて「そりや婿殿〔の〕御出でじやぞ。背介奴が摺掛けた味噌も大方其儘あらう。御吸物〔の〕間合はぬト亀笹ハ擂鉢引寄せ脇差の鐺にて我を忘れて味噌を摺れバ、蟇六も間違へて在り合ふ擂粉木腰に差込み、持つたる [つぎへ]11オ
11ウ12オ
[つゞき] 帚木を捨てもあへず、慌てふためき出迎へ「是ハ/\宮六様、五倍次様にも菴八様にも皆御揃ひにて、ようこそ/\さゝつゝつふと御通りなされ。彼処へ/\ト誘へバ、宮六ハ衣紋繕ひ袂の内より匂袋をひけらかしつゝ内に入り、澄した顔で座に直れバ、五倍次菴八鉄内迄も続ひて一間に入来たり。各々挨拶終りて後、五倍次ハ進出で「先刻ハ御人に与かり、此方の御都合宜敷き由承つて安心致した。是に拠つて取敢へず婿君を同道致し、菴八諸共此迄推参。呉々も申した通り、盃ハ只形ばかり、必ず心配御無用/\。又結納の品々ハ先刻渡した目録通り、後より押付け持参の筈。目出度く受納致されよト言ふに、蟇六額を撫て「痛入つたる其仰せ。亀笹何をうろ/\する。御盃を早く持て。ソレ御吸物ト急がすれバ亀笹ハ挨拶さへ宣べも終らず勝手へ立出で、程無く運ぶ吸物膳を皆夫々に置並べたる立振舞ひも慌しきに、亀笹ハ鼻の先に鍋墨をべつたりと塗付けたるを少しも知らず。口をつぼめ目を細めつ、意匠たら/\進出〔て〕喋るを蟇六見返りて [つぎへ]11ウ12オ
12ウ13オ
[つゞき] 是ハ如何にと苦々しげに目顔で夫と知すれども、一向に気が付かず尚も喋るを袖を引き「己が顔ハト押遣れバ「私の顔が如何しましたト懐中鏡を取出だし映して驚愕。顔背け手早く紙にて押拭へバ鉄内ハ差出でゝ「イヤ申し蟇六様、亀笹様の御顔より此方の羽織ハ裏返し。其上、腰の擂粉木ハ何の為じやト笑ひ出せバ、蟇六初めて心付き、袖に隠して擂粉木を後へ投遣り、羽織をも手早く脱で着直せバ、五倍次此を執成して「御夫婦の戯れも時にとつての一興/\。いざ御吸物を頂戴ト言ふに、宮六菴八も共に主人に挨拶して、各々椀の蓋を取れバ五倍次ハ愕然として「此や蛤の御吸物と存じの外に此様な灰墨だらけの古束子。此御馳走ハ痛入るト挟出だせハ、亀笹驚き「女子共が狼狽へて粗相を致すも程がある。御免なされて下されましト手早く膳を引替ゆれバ五倍次ハ苦笑ひ「イヤ御取込みの時なれバ斯様な事も儘あるもの。此上ハ蟇六殿御盃をと取合はせバ「イヤ先此ハ婿様より「イヤ/\此ハ舅御より「イヱ/\平にト挨拶の果しなけれバ宮六が「然らバ御免ト盃取上げ並々受けて押頂き一口呑しが、あつと吐出し、いと苦しげなる声をして [つぎへ]12ウ13オ
13ウ14オ
[つゞき] 「式(しき)か作法か知ねども、我に煮酢を呑ませるとハ情けない御持成ト言ふに夫婦ハ又驚き、重ね%\の不調法を勝手の者に託けて其過失を塗隠せど、最前の吸物も又此銚子も亀笹が手づから為たる事なれバ女子共をも叱られず。一座白けて見ゆるにぞ、五倍次ハ気の毒気に「夜に入りての酒盛故、勝手の混雑嘸あらん。酒と酢ハ似寄りの品、拙者が椀の束子より比べて見れバ粗相が軽い。肝心大度の簸上殿、是式の事御構い有うか。此盃ハ一巡にして、早く嫁御を出ださるが何よりの御持成ト取持ち顔なる催促に、蟇六ハ困り果て「如何にも娘を差出だし御盃をも為すべきなれど、浜路ハ宵より俄の病気「ナニ娘御が病気となト言葉半ばへ立返る背介ハ一間へ入来たり「イヤ申し旦那様。其処等一へん尋ねても御嬢様の御行方がト半分言せず打消す蟇六「ヱヽつか/\ト何を戯言。最前娘が病気故 [つぎへ]13ウ14オ
14ウ15オ
[つゞき] 医者を呼びに遣したが、扨ハ医者が出違ふて行方が知れぬと申すのか。知れぬでハ相済まぬ。も一度行つて尋ねて来い。ヱヽ気が揉るハ急がぬかト言ふを宮六押留め「浜路が病気とあるならバ医者を求める迄も無い。乗物にて連帰り、我方にて典薬を申付けて養生致さん。寝間へ案内致されよト言はれて蟇六弥々慌て「さァ其儀ハト差詰りしが、思ひ切て容貌を改め「今迄ハ包みしが、斯くなる上ハ詮方なし。娘ハ宵に逐電して今に行方が知ませぬト言ふに愕然く三人ンの中にも宮六躍起と成り「婚姻の今に至り、娘が逐電致したで事が済ふと思ひ居るか。さァ如何するト急立てバ蟇六畳へ頭を摺付け「恐入たる事なれども、娘を誘出した奴も大方夫と存じて居れバ家内の者共残り無く追手に出しましたれバ押付け引連れ帰るハ必定。先づ其迄の申訳けに兼て御存知、知れたる村雨丸の一振を貴方に御預け申すのが偽りならぬ拙者が面晴れ。いざ御請取下さりませト言ひつゝ以前の押入より取出す刀を恭しく宮六の前に差出だせバ、宮六少し面を和げ「すりや此刀が伝へ聞く「村雨丸の正真正銘。抜バ刄に水気滴り、殺気を含んで打振る時ハ水気散じて村雨の梢を洗うに異らず。疑しくバ御試しあれト言ふに宮六刄を引抜き見れども少しの水気も無し。是ハ如何にト立上り力に任て [つぎへ]14ウ15オ
15ウ16オ
[つゞき] 打振れバ、後の柱に打当り弓の如くに曲りしを、菴八ハ見て打笑ひ、天晴切物。水気ハ無く火気(くはき)を負ふたる焼丸ト 言ふに、宮六弥々怒り「もう此上ハ了見ならぬ。煮酢ばかりか煮湯を飲せ、又其上に我々を茶にして遊びし今宵の返報。水も溜らず汝等が首打落す。覚悟せよト 持つたる刄を打捨てつゝ我腰刀を抜くより早く、狼狽へ廻る蟇六が肩先深く切込めバ「アレまァ待つてト亀笹が支ゆる後に五倍次が「邪魔ひろぐなト抜打ちに背骨を掛けて切下ぐれバ、菴八も又抜連れて共に斬らんと閃す刄に、背介ハ小鬢を斬られ頭を抱へて逃込めバ、後にハ宮六、五倍次はじめ菴八も鉄内も共に刄を打振り/\、悶へ苦しむ蟇六夫婦を興に任せて嬲切り、思ひの儘に苛みて、留めの刀を刺す。折しも立帰り来る額藏が、提灯の火に驚きて、血刀鞘に収めも敢ず、逃んとするを額藏が早くも夫と見て取りて「主人夫婦の横死と言ひ、各々方の其有様。言はずと知れた主の仇敵。逃げ給ふとも逃さじと言ふに、宮六、五倍次等ハ、相手ハ一人と嘲笑ひ「陣代の我々に無礼を拡ぐ蟇六夫婦、誅伐したハ役目の表、夫をも畏れぬ仇敵呼わり、汝も主の相伴せよト三人ン等しく抜掛くる臂を押へて突廻はし「村長に科あらバ問注所にて糺さるべきを、夜中の騒動心得ず。斯く言ふ我ハ小厮額藏、御相手にハ立〔た〕ずとも主人の仇敵、立合ふて勝負召れト 怯まぬ勇魂。侮り難しと三人ンハ竊に刄を抜連れて、物をも言はず双方より斬て掛るを引外し、共に刄を抜合せ、二撃三撃闘ふ程に、右より進む宮六ハ唐竹割に斬割れ、是ハと驚く五倍次菴八、怯む処を付入つて同じ枕に斬倒せバ、此有様に鉄内ハ慌てふためき逃行くを、逃しハせじと額藏が、逐んとしたる後より、転つ転びつ背介ハ立出で「ヲヽ良い所へ額藏殿、旦那の仇敵を立刻に撃れたハ御手柄なれど、彼左母次郎が嬢様を何処へか連て走つたハト [つぎへ]15ウ16オ
16ウ17オ
[つゞき] 言ふに額藏驚きて「ナニ浜路様を左母次奴が連出したとか。残念や。扨ハ今方此処へ来る途で逢ふた四手駕籠、後に付添ふ男こそ、面ハ楚と見定めねど慥に網乾左母次郎。其行先ハ円塚山、跡追掛けて、ヲヽ夫ト出んとしたる門口より、宮六が弟簸上社平(しやへい)若党鉄内諸共に数多の組子を召連れつゝ、捕つたと声掛け込入るを、額藏透さず身を開き、手当り次第に投退け突退け表の方へ立出づるを、猶も遣ぬト鉄内が武者振付くを頭顛倒。折しも空ハ掻曇り辺り小暗き闇の夜を、是幸いと額藏ハ、跡を隠して馳去るにぞ、社平を始め組子等ハ、額藏ならんと心得て、背介を矢庭に打倒し、厳しく縄をぞ掛けにける。
[こゝのゑとき] 円塚山の松陰へ、どつさり下す四ッ手駕籠、其駕籠舁の井太郎、加太郎汗拭きながら「モシ親方急げ/\と言はるゝ故、杖をもせずに大塚から此峠迄通して来た。骨折代をと手を出せバ、左母次ハ点頭懐中より取出す金を、井太郎が一寸と捻つて嘲笑ひ「方組たつた一両だぜ。命を元手の今夜の仕事、僅かな金で追払はれ、己一人に良事をさせてハ此方の顎が干る。此街道で板橋の橋を省いた井田の井太郎「其相方の加太郎が目に掛つたが其方の不運。駕籠の女ハ言ふに及ばず路用の金も大小も身ぐるみ脱いで置ひて行けト強請掛けれバ、打笑ひ「ヱヽ喧しい藪蚊共、欲くバ此世の暇からト言ひつゝ引抜く刄の稲妻。右に立たる井太郎が肩先深く斬下ぐれバ、程もあらせず加太郎が打込む息杖引外し肋を掛て横殴り。斬られて〓〓く弱腰を [つぎへ]16ウ17オ
17ウ18オ
[つゞき] 発止と蹴倒し留めの刀、刺すを後に井太郎が又起上がつて組付くを「ヱヽ面倒なト振解き払ふ刀に井太郎ハ腰の番を切通され二つに成つて倒るゝにぞ、左母次ハほつと一息付き、刄を鞘に収めつゝ駕籠の簾を押上げて、浜路が手を取り助出し、顔擦寄せて「喃浜路、物強請りする二人リをバ殺して退れバ、もう外に何にも怖い事ハ無い。此から其方ハ俺が女房。満更悪くもあるめへト抱付れて浜路ハ仰天「夫なら私を信乃さんに「逢せて遣らうと言つたのハ其方を連出す謀計。其方が何程想つても、とても信乃にハもう逢はれぬ。未練を遺さぬ其為に、何も彼も言つて聞せる。固り信乃が発足ハ村雨丸の一振を成氏侯へ捧げん為。ところを親御の蟇六殿が信乃と御前の床入り最中、屏風の穴から手を入て、ものした刀を再一番、俺がものして此処に在る。然すれバ信乃が滸我行くとも、村雨丸が偽物故、縛首ハ知た事。世に亡き信乃に何時迄も心中だてをしようより、俺の心に従へハ、其方を連れて都へ上り、此村雨の一振を室町殿へ差上げて、此身の出世ハ思ひの儘。如何じや/\ト手を取つ背中を撫つ慰むれバ、浜路ハ弥々驚きしが、深案を定めて進寄り「聞バ聞程恐しい。父上の謀計。斯う成る上ハ今更に家へとてハ帰られず。外に頼りの無い私。夫なら御前ハ真実に村雨丸とやらの一振を「ハテ疑ふも程がある。見たくハ夫と抜出だし渡すを、浜路ハ手に取つて見る様にして持直し、夫の仇と言ふより早く、油断を見澄し左母次郎が右の腕に斬付れど、流石ハか弱き女の手の内、掠傷なれバ事ともせず、忽ち刄を奪取り,怒りに任せて浜路が乳の下四五寸ばかり斬込めバ、あつと叫て倒るゝを、其儘其処へ踏据へて「恋なれバこそ様々に賺せバ弥々付上り、我に向つて刄物三昧。可愛さ余つて [つぎへ]17ウ18オ
18ウ19オ
[つゞき] 憎さが百倍。其程信乃に添ひたくバ暇を取らせる。後世で添へ。此世の名残も今些時。泣きたくバ泣け。言ひたくバ言へ。其苦しみを見るも一興。然らバ是にて聴聞せんト刄を土に突立てつゝ石に腰掛け大胡坐、浜路ハ苦しき眼を見開き「恨しや左母次郎。主在る此身に無体の恋慕、其のみ成らず村雨の御剱迄も掠取り、夫に難儀を掛けたる怨み、せめて一太刀なりともと思ふに甲斐無き此深傷、夫に就けても我身程世に味気無き者ハ無い。小さい時から親々の御許受けた妹と背も、只名のみにて添寝もせず、実の親ハ煉馬の家臣犬山氏とか聞しのみ、御顔も知らず、名も知らず。せめて実の親兄弟の其生死を聞日迄、夫に再び逢ふ日迄命が欲い。死にとも無いト涙ながらに掻口説けバ、左母次ハ聞いて伸上り「扨々、長々しい世迷言承つて殆んど退屈。親の為にハ孝女でも、信乃が為にハ貞女でも、俺が為にハ些も成ぬ。もう良い程に苦んだら、汝が心を掛て居る村雨丸で引導を、然らバ渡て遣さんト言ひつゝ静かに身を起し浜路の上に踏跨り留めの刀を刺んするに、不思議や左母次が身内痺れて宛ら物に狂ふが如く空を掴んで身を揉む程に、手に持つ剱の我と我腹にぐつと突立ちて、うんと一声叫びもあへず尻居に撞と倒るゝ折しも、片方に在り合ふ岩室の内に佇む怪しの道人(だうじん)、印を結し手を解き進出でつゝ、左母次郎が腹に立たる村雨丸を抜バ、忽ち息吹返し蹌踉ながら差添への小太刀を抜ひて斬掛るを、右と左リへ遣違はし片手殴りに撲地と斬る刄の冴に、左母次郎ハ翻筋斗を打て倒るゝを、道人(だうじん)是にハ目も呉れず、頻に水気立上り空にハ雷鳴渡る刄の奇特を佶と見て「音に聞へし村雨丸。図らず我手に入たるハ、仇敵を討べき時節到来。あな喜ばしや嬉しやト押頂きつゝ押拭ひ、刄を鞘に収むれバ、忽ち静る稲妻雷電。其時件の道人ハ、倒し浜路を引起こし、活を入るれバ息吹返し、見れバ怪しき介抱に振放さんと身を藻掻くを、些も緩めず「コレ妹。世に憚りの無きにあらねど夜の茂山、人絶て他に聞く者有ざれバ、子細を語らん良く聞け。我ハ其方の腹替りの兄犬山道松(みちまつ)忠與(たゞとも)是也。抑主君煉馬(ねりま)殿にハ池袋の戦闘ひにハ遅速、残らず討れ給ひ [つぎへ]18ウ19オ
19ウ20オ
[つゞき] 父も其場で敢無き御最期。我も長らふへきに有らねど、目指す仇敵に出会はねバ、不思議に其場を切抜けしより、やがて復讐(ふくしう)の大義を企て、家に伝る火遁(くはとん)の術にて多くの愚民を惑はかし軍用金を集めんと、此岩室に忍び居て思はず立聞く此場の有様。其方の言葉に、実の親ハ煉馬の家臣犬山と言ふにて思ひ合すれバ、我に一人の妹あり。当時我父道策(どうさく)様、二人の側室を持ち給ひ一人リの名を黒白と言ひ、又一人リをバ阿是非と言ふ。或時、我父ハ戯れに二人の側室に打向ひ、汝等二人の其内にて早く男子を産みたる者を本妻にすべしと有り。然るに阿是非ハ身籠りて則ち我身を産落せし故、軈て本妻にせられしに、其後黒白も懐胎して程無く其方を産みしかども、阿是非に先を越されしを嫉ましく思ふにより、我母ばかりか我迄も黒白が為に害せられしに、我ハ運良く蘇へり、黒白が悪事顕はれたれバ、父の怒り甚しく、黒白ハ終に罪せられ、当時の子の其方迄、生涯不通の約束にて蟇六とやら言ふ者〔の〕養女に為られしとぞ。然れバ妹ハ有りとハ聞けど、一度父の捨て給ふを我如何にして見返らんと此迄便りもせざりしに、思掛け無き今宵の対面。母の悪事の身に報ひ斯る非業の死(し)ハ為せども、夫の為に操を破ず今際の際迄親を思ふ其真心の届ひてや、計らず兄〔に〕巡会ひ即座に仇を報ひしのみか、最期に実の親を知りしハ誠実を憐む天の配剤、是を冥土の土産として仏果を得よト説示せバ、浜路ハ苦しさ打忘れ「扨ハ御前が兄さんか。母の悪事を露知らず、便りの無いを今迄も憾んでゐたが勿体無い。月頃慕ふた兄さんに御目に掛りて親の事聞く嬉しさに就きて、又心掛りハ夫の身の上、滸我へ持参の村雨丸が真正ならずバ言訳け立〔た〕じ。此上頼むハ兄さんばかり。是より滸我へ赴きて御剱を夫に渡して給べ。拝みまするト言ひながら血に染む両手を合すれバ、兄ハ聞〔き〕つゝ嘆息して「其方が願ひハ尤もなれども、君父(くんふ)の仇敵なる定正(さだまさ)を謀り寄て狙撃つにハ又と得難き此銘刀「すりや其仇敵を討つ迄ハ「不憫ながらも相成らぬト言はれて浜路ハ胸塞がり、あつと一声叫びしが、其儘息ハ絶にけり。斯る所へ息急と走来たりし額藏が、夫と見るより駆寄つて道松が携へたる刀の鐺を引留れバ、此方ハ [つぎへ]19ウ20オ
20ウ奥目録
[つゞき] 騒がず振払ひ、互に抜合ふ白刄と白刄、些時が間戦ふ程に、苛つて討込む額藏が刄ハ逸て片方なる石にかつちり打当れバ、ぱつと立つたる石火(せきくわ)の光、道松得たりと飛退さり、火を見て隠るゝ火遁の術に影を隠して失にけり。
○これより第三編、伏姫山の段に続く。めでたし/\/\/\
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嘉永五壬子歳新鐫藏板目録
阪東太郎後世譚 〈八編|九編〉 〈西馬作|貞秀画〉
岸柳四魔談 〈三編|四編〉 〈同作|國輝画〉
〈倣像|水滸〉 侠名鑑 〈初輯|二輯|三輯〉 樂亭西馬稿案 〓持樓國輝画圖
〈勸善|懲惡〉 乗合噺 〈七編|八編〉 〈柳下亭種員作|一陽齋豊國画〉
江戸鹿子紫草紙 〈二編|三編〉 〈文亭梅彦作|香蝶樓豊国画〉
小栗判官駿馬誉 〈中本|一冊〉 〈西馬編|芳虎画〉
象頭山夛宮日記 〈中本|一冊〉 〈樂亭譯|國輝画〉
爲朝弓勢録 仝 〈同|同〉
東都馬喰町二丁目西側 〈書物地本|繪草紙〉 問屋 山口屋藤兵衞 奥目録
〔後ろ表紙〕
後ろ表紙