『八犬傳銘々誌畧』 −解題と翻刻−
高 木  元

【解題】

曲亭馬琴歿後4年目に当たる嘉永5〈1852〉年の正月23日より江戸市村座の春狂言として3代目桜田治助作「里見八犬伝」(初編〜8編)が上演された。これが大当りをし、翌、嘉永6〈1853〉年にも正月21日より「里見八犬伝」(7編〜9編)が同座の春狂言として上演された。この時の上演は、正本写合巻『今様八犬伝』全6編(嘉永5年刊、2代目春水作、国芳画、紅英堂蔦屋吉蔵・錦耕堂山口屋藤兵衛板)として草双紙化されている。

『南総里見八犬伝』にとって、この嘉永5年という年は特別な年であった。この年に至るまでに、『八犬伝』を抄録して合巻化した笠亭仙果『雪梅芳譚犬の草子』(豊国画、紅英堂蔦屋吉蔵板)は23編までが刊行されており、以後56編(明治14〈1881〉年)まで続く。一方、『犬の草紙』に対抗して、2代目春水『仮名読八犬伝』(国芳画、文溪堂丁子屋平兵衛板)が出され、競作状態になっていたが、こちらは嘉永5年時に16編までが刊行されており、以後31編(慶応4〈1868〉年)まで続くことになる。

この他、二世焉馬作の常磐津豊後大掾正本『八犬義士誉勇猛』(三代豊国画、文亀堂伊賀屋勘右衛門板)が嘉永4〈1851〉年中に出板されており、嘉永5年の秋からは、見立て役者大首絵大錦50枚続「八犬伝犬の草紙」(二代国貞画、紅英堂蔦屋吉蔵板)が出されることになる(向井信夫「嘉永五年里見八犬伝上演の周辺」、『江戸文藝叢話』、八木書店、1995五年)

嘉永5年の歌舞伎上演を契機とした作品がもう一つある。それが、ここで紹介する『八犬傳銘々誌畧』である。この作品は2代目為永春水の手に拠って編まれ、嘉永5年に刊行されたダイジェスト版八犬伝の一種である。嘉永から安政期にかけては、中本サイズの絵本物軍記や武将英雄一代記などが流行した時期で、本作も他の絵本物と同様に、挿絵や見返などに色摺りを施し、極めて美麗な本に仕立てられている。

八犬伝のダイジェストとして特筆すべきは、編年式や巻順に記述されたものではなく、見開きに2名ほどの登場人物を描き、そこに彼等が関った事件を略述するという銘々伝として編まれた点にある。今回は紹介できなかったが、翌、嘉永6年に刊行された第2集に採られた登場人物名を挙げておく。

犬江新兵衛仁・暴風舵九郎・妙真・丁田町之進・神宮〓平・卒川菴八・簸上社平・十條力二郎・十條尺八郎・曳手・單節・越杉駄一郎遠安・竈門三宝平五行・音音・荘役根五郎・丁六・〓介・舩虫・鴎尻並四郎・千葉介自胤・畑上語五郎高成・馬加大記常武・粟飯原首胤度・粟飯原妻子(手枕・稲城・夢之助)・篭山逸東太縁連・品七・調布・犬坂毛野胤智・坂田金平太・渡邊綱平・卜部季六・臼井貞九郎・馬加鞍弥吾常尚・戸牧并鈴子・犬江屋依介・水澪・鵙平・赤岩一角武遠・雛衣・犬村大學禮儀・犬村蟹守儀清・正香・窓井・假一角・泡雪奈四郎秋實・四六城木工作・後の濱路

なお、底本には佐藤悟氏所蔵の初板本を使用させて頂き、校合本として架蔵の後印本を用いた。

【書誌】

 [編成]中本 一巻一冊  17.8糎×12.8糎
 [表紙]浅縹無地に花丸の型押しを散らす
 [題簽]左肩(13×3糎)子持枠中に「八犬傳銘々誌畧 全」
 [見返]中央に「八犬傳銘々誌畧 初帙」、右に「爲永春水編」、左に「一猛齋芳乕畫」「錦耕堂\發行」
 [叙末]「嘉永五壬子歳季春吉旦新鐫 為永春水識」
 [改印]「米良」「渡辺」「子〓」
 [内題]なし
 [柱刻]「八犬銘々誌 丁付」
 [尾題]なし
 [匡郭]単辺無界(15.4×10.3糎)
 [刊記]「東都書林 日本橋通壹丁目 須原屋茂兵衛・同貳丁目 山城屋佐兵衛・同所 小林新兵衛・芝神明前 岡田屋嘉七・同所 和泉屋市兵衛・本石町十軒店 英大助・芳町親仁橋角 山本平吉・大傳馬町二丁目 丁子屋平兵衛・横山町壹丁目 出雲寺万次郎・浅草茅町二丁目 須原屋伊八・横山町三丁目 和泉屋金右衛門・馬喰町貳丁目 山口屋藤兵衛板」
 [備考]見返には空色と薄紅色の色摺が施され、序文背景や口絵挿絵には薄墨のみならず薄紅色で花模様などが摺り込まれている。なお、後印本には色摺りは見られない。
 〔付言〕底本の使用を許された佐藤悟氏に深く感謝申し上げます。

【翻刻】

〔表紙〕
表紙

〔見返・序〕
序・見返

里見さとみ義實よしざね結城ゆふきおち安房あは創業さうぎやうのむかしよりつひ八犬士はつけんし出現しゆつげんして房總ばうさうかゞやかすまですべて百令ひやくれい六巻むまきあり。これを里見さとみ八犬傳はつけんでんといふ。ハよくひとしるところにして今更いまさらいはんもことふりにたれどかゝ長編ちやうへん冊子ふみにしあれバ看官みるひと首輯はじめけみしおはりて後輯こうしふよみ給はんころまでかれ家系かけい如此々々しか/\なりこれ出所しゆつしよ箇様々々かやう/\とよく記臆きおくしてあらんこと上根じやうこんひとらずはべれど下根げこん婦女子ふぢよし幼童わらはべなンどハいとかたくして忘易わすれやすかり。され春雨はるさめしづけきまた冬篭ふゆごもり巨燵咄こたつばなし那書かのしよ評判ひやうばんなさんとき甲乙かれこれでん混雑こんざつせバ物忘ものわすれてふおきなめきてつひ佳境かきやういりがたからん。とき書賈しよか何某なにがしありかね這義このぎおもふをもてをしてこれが銘々誌めい/\しあましむ。またこのなきにあらねバ當初そのかみ仮名讀かなよみ八犬傳はつけんでんつゞ近屬ちかごろ後日譚ごにちものがたりといふ合巻がうかんものほんあみ里見義尭さとみよしたか出身しゆつしんより二世にせ三世さんせ犬士けんしのうへさへ追局ついきやくしたることあるを今更いまさら固辞いなまんやうもなくかの長編ちやうへんうちよりして其要そのえうをのみ抄録せうろくしつ圖上づしやうにこれを畧記りやくきして題号なづけ銘々誌畧めい/\しりやくとす。されつたな小冊せうさつなれどわづか半員はんてう短文たんぶんをもてたとへ原傳げんでん給はずともその概畧おほよそしるべきもの
嘉永五壬子歳季春吉旦新鐫

為永春水誌」

〔口絵〕
口絵

義實よしざね安房あはわたらんとして三浦みうらさき昇天しやうてんたつ」〈1〉」
〔本文〕

2ウ3オ

伏姫ふせひめ八房やつぶさいぬ

伏姫ふせひめ義実よしざね息女そくぢよなり。けんにして美貌かほよし。かつ安西あんざい景連かげつらといふものやくそむきて里見さとみかこむ。里見さとみへいかてつきて其城そのしろすでにおちいらんとす。ときいぬあり八房やつぶさづく。義實よしざねこのいぬたはむれていはくなんぢ敵將てきしやう景連かげつらかみころ数百個すひやくにん躬方みかたすくはゞなんぢ伏姫ふせひめ婿むこにせん」と。八房やつぶさその景連かげつらくびをとりかへる。これよりこのいぬひめ戀暮れんぼす。義実よしざね忿いかつころさんとする。伏姫ふせひめちゝ歎乞なげきこひつひ八房やつぶさともなはれ冨山とやまおく分入わけいりてよりつね法華経ほけきやう読誦どくじゆす。さらにそのおかされず。されどもいぬをうけて〓妊くわいにんする事六ヶ月ろくかつきはぢみづかやいばふ ふ。」〈2〉

ゝ大ちゆだい法師ほうし

ゝ大ちゆだい幼名えうみやう加多美かたみといふ。ちゝ神餘じんよもと忠臣ちうしん金碗かなまり孝吉たかよしすなはちこれ也。孝吉たかよし一旦いつたん里見さとみたす功成こうなり名遂なとげ自殺じさつするとき加多美かたみ祖父おほぢ一作いつさくいだかれてきたつてちゝ對面たいめんす。義實よしざねこれを〓育やういくしてやが大輔だいすけ孝徳たかのり名告なのらこのもの成長ひとゝなるおよばゝ長狭ながさ半郡はんぐんわけあたへて婿むこにせばやとおもひ給へり。しかるに大輔だいすけ孝徳たかのりあるとき安西あんざい使つかひしてことならず。八房やつぶさ伏姫ふせひめともなひしときゝひそか冨山とやま分登わけのぼ鳥銃てつほうをもて八房やつぶさをうつ。そのたまあまつて伏姫ふせひめあたる。大輔だいすけおどろかつくひ自殺じさつなさんとしたりしを義実よしざねとゞめられつひもとゞり薙損なぎすて法号ほうがうをゝちゆだいとあらためかの伏姫ふせひめ疵口きずぐちなる白気はつきとも飛去とびさりたるやつたまたづねんとて冨山とやま下山げさんなせしより行脚あんぎや数多あまたとしつひ八犬士はつけんしかへのち安房国あはのくに延明寺えんみやうじ住職ぢうしよくす。

3ウ4オ

犬塚いぬづか番作ばんさく一戍かづもり

番作ばんさく大塚おほつかうぢなり。のち犬塚いぬづかあらたむ。ちゝ持氏もちうぢりやう公達きんだち春王しゆんわう安王あんわうかしづきにしてその匠作せうさく三戍みつもりといふ。とも結城ゆうき篭城らうじやうせしがそのしろつひ落去らくきよしてりやう公達きんだちとらへられ美濃國みのゝくに金蓮寺きんれんじにてうたれさせ給へるときちゝ匠作せうさく討死うちじにす。このとき番作ばんさく十六さい武勇ぶゆうちゝおとらねバかの太刀取等たちとりらきりちらして君夫くんふ首級しゆきううばひとり同国どうこく御坂みさか程遠ほどとほからぬ拈華菴ねんげあんといふ山道場やまでらに三のかうべかくすにおよびてはからず悪僧あくそう蚊牛ぶんぎうきつ総角結ゆひなづけつま手束たつかあひとも故郷ふるさとかへるのとき家名かめい姉婿あねむこ蟇六ひきろくうばはれてそのある甲斐かひなけれども番作ばんさくさらにあらそはず。持氏もちうぢ相傳さうでん宝刀みたちきこえし村雨丸むらさめまる一口ひとふり一子いつし信乃しのゆづりあたへそののためにはかりことのこしてす。古今こゝん味曽有みそう廉士れんしといふべし。」〈3〉

犬塚いぬづか信乃しの戍孝もりたか

信乃しの番作ばんさく一子いつしにして八犬士はつけんし一個ひとりなり。いとけなくして父母ふぼかうあり。かつ飼犬かひいぬ与四郎よしらうきつかうたまたり。これより実名じつみやう戍孝もりたか名告なの番作ばんさく自殺じさつするにおよびて伯母おば婿むこがりやしなはる。されども伯母おば婿むこ蟇六ひきろくはさら也。伯母おば亀篠かめざゝ善人まめびとならねバはりむしろせるがごとし。ひとり良友りやうゆう額蔵がくざうあり。またかの濱路はまぢ貞節ていせつあれどもいまだこんむすばざれば信乃しのしたしく物言ものいはず。たま/\滸我こがおもむくやちゝ遺訓ゐくんはたさんとて村雨丸むらさめまる一口ひとふり成氏なりうぢたてまつらんとするにこの太刀たちまた偽物にせものなり。成氏なりうぢいかつとらへんとす。これより芳流閣はうりうかくのはたらきなど種々くさ/\ものがたりあり。後帙こうちつ再出さいしゆつすべし。

4ウ5オ

里見さとみ治部大輔ぢぶのたいふ義實よしざね

義実よしざね初名しよみやうまた太郎といふ。里見さとみ季基すゑもとなんなり。はじ結城ゆふき盾篭たてこもこと三年さんねんそのしろおちいときにのぞみてちゝ遺訓いくんにもだしがたく老黨らうだう氏元うぢもと貞行さだゆき安房國あはのくににおしわた麻呂まろ安西あんざいよるといへども信時のぶとき景連かげつらこばみていれず。かつ金碗かなまり孝吉たかよしあふ神餘じんよのために義兵ぎへい逆臣ぎやくしん山下やました定包さだかねちうのちまた信時のぶとき景連かげつらうつ安房あはりやく上総かづさしたが房総ばうさうかゞやかす。その義成よしなりまたけんなり。義実よしざねのがれて義成なりゆづる。これより滝田たきた老候らうこうしようせらる。中興ちうこう里見さとみといふべし。」〈4〉

金碗かなまり八郎はちらう孝吉たかよし

孝吉たかよし神餘じんよ光弘みつひろしんなり。光弘みつひろ定包さだかねざんもち玉梓たまづさ色香いろかめて国政こくせいこれよりみだるゝをなげ孝吉たかよししば/\いさむれとも光弘みつひろまどひてこれをいれず。孝吉たかよし是非ぜひなく安房あはる。のち定包さだかね姦計かんけいにて光弘みつひろうたれ給ふときゝうるしして乞食こつじきとなりふたゝ安房あは立皈たちかへりて定包さだかねをねらふをりから義実よしざね邂逅かいごうしてたちまち定包さだかね誅伐ちうばつ古主こしう光弘みつひろあだほうず。義実よしざねかれこうしようしておももちひんとすれどもうけず。功成こうなり名遂なとぐるときにいたりて自殺じさつしてをいさぎよくす。もつとも大義たいぎいはんか。

5ウ6オ

嬖女おんなめ玉梓たまづさ

玉梓たまづさ光弘みつひろ愛妾あいせう也。容貌かたち傾国けいこくいろかざるといへどもそのこゝろざし臭悪しうあくにして姦臣かんしん定包さだかね密通みつつうひそかかれ逆意ぎやくいたすけ光弘みつひろをおしたをつい定包さだかねつまとなりてこれをもて本意ほんいありとす。のち定包さだかねうたるゝにおよびてそのかうべはねられしが怨念おんねんあるひハたぬきとなりあるひハ八房やつぶさいぬとなりて里見さとみあだなさんとせしも伏姫ふせひめけんなるとえん行者ぎやうじや功力くりきによりて怨霊おんれう忽地たちまち解脱げだつしつ。つい正果しやうくわたりとなん。」〈5〉

山下やましたさく左衛門尉ざゑもんのぜう定包さだかね

定包さだかね光弘みつひろ讒臣ざんしんなり。かつきみしいせんとすれどもいまたそのはかりごとず。しかるに朴平ぼくへい無垢三むくざうといふものそのねらうたんとすときゝやが光弘みつひろ放鷹たかがりをすゝめかね〓人くちとり何某なにがし吩付いひつけ光弘みつひろうまどくはせみちにてうまたをるゝにおよびておのれ乗馬ぜうめ主人しゆじんのらしめはかッて朴平ぼくへいこれさしむ光弘みつひろこゝうたれてのち定包さだかね国家こつか横領わうれうなしかの玉梓たまづさハいふもさらなりその光弘みつひろ嬖女おんなめすべおのれものとしつ。昼夜ちうや歓楽くわんらくつくせしが天道てんたういかでゆるしし給はん。つひ義実よしざねちうせられて臭名しうめいながつたふ。

6ウ7オ

杣木そまきの朴平ぼくへい 洲崎すさきの無垢三むくざう

朴平ぼくへい無垢三むくざうとも金碗かなまり八郎が若黨わかたうにしてかつ武術ぶじゆつ弟子おしへごなり。孝吉たかよし安房あはさりてののち二個ふたりおのれ故郷こきやう退しりぞけふりをたてけるがこのとき山下やました定包さだかねかみまどはししもくるしめかつ忠臣ちうしん讒害ざんがいすることおつつのるといへどもみなその威勢ゐせいおそるゝをもてたれとてくちいだせるハなし。定包さだかねつね白馬しろうまる。ひと渾名あだなして人喰馬ひとくひうまといふ。朴平ぼくへいもとより侠気きやうきあり。無垢三むくざうもまた義気ぎきあれバ光弘みつひろぬしの」〈6〉
淫酒いんしゆにふけるも孝吉たかよし刀称どの浪々らう/\せしもみな定包さだかねなすわざなれバ人喰馬ひとくひうまねらうつ國主こくしゆためかんすかんとひそか談合だんかうしたりしを定包さだかねはやく洩聞もれきゝはかッて光弘みつひろわがうまのらしめ定包さだかね鷹野たかの披露ひろうせしかバときこそたれと朴平ぼくへい落葉畷おちばなはて埋伏まいふくして白馬はくばのりしハ定包さだかねおもたがへて光弘みつひろ遠矢とほやをもて射落いおとしたり。這時このとき無垢三むくさう神餘じんよ近臣きんしん那古なこの七郎にうちとられ朴平ぼくへいとらへられてつひひとやうちす。をしむべきの侠者きやうしやなれどもおもんばかりらずして國主こくしゆしいするのみならずまたやいばさびとなることてんなるかはためいなるか。

7ウ8オ

神餘じんよ長狭助ながさのすけ光弘みつひろ

光弘みつひろ旧家きうかにして安房あは半國はんごくれうするをもておし国主こくしゆ披露ひろうしつ。麻呂まろ安西あんざい旗下きかなすにぞいきほひなきにあらざりしが定包さだかねがためにはかられて朴平ぼくへい矢先やさきにかゝり落葉畷おちばなはて朝露あさつゆともいのちおとせしハいと果敢はかなき最期さいごなり。」〈7〉

那古なこの七郎しちらう由武よしたけ

七郎ハ光弘みつひろ近臣きんしんなり。そのこゝろざま忠直ちうちよくにしてさら玉梓たまづさ定包さだかねへつらはずよくそのきみかしづきつゆはかりもわたくしなし。れバ光弘みつひろ鷹狩たかがりをりから乗馬じやうめにはかたをれしを平常たゞごとならずおもふにぞ落葉おちばといへる字義じぎのべしば/\いさめとゞめしかども光弘みつひろつひにこれをもちひず。はたして途中とちう凶変けうへんあり。ときに七郎武勇ぶゆうをあらはし無垢三むくざううちとめしがつゞ躬方みかたのなかりしかバやが朴平ぼくへいにぞうたれける。

8ウ9オ

安西あんざい三郎さぶらう大夫たいふ景連かげつら

景連かげつら姦智かんちたけたり。かつ定包さだかねきみしいして安房あは半國はんごく横領わうれうすときゝねたましことかぎりなけれバ麻呂まろ信時のぶときひたいあはせて定包さだかねうたんとすれどもいまだそのはかりごとず。とき義実よしざね安房あはきたる。安西あんざいこばみてこれいれず。かへつ義実よしざねのために定包さだかねうたる。このとき景連かげつら麻呂まろはかッて信時のぶとき所領しよれううばひとり里見さとみ互角ごかくいきほひをる。あるとき安西あんざい領地れうち凶作けうさくなり。義実よしざねこれに三千俵びやうこめす。れどもこれかへさず。翌年よくねん里見さとみ領地れうち凶作けうさく也。義実よしざね金碗かなまり大輔だいすけをして安西あんざいこめらしむ。景連かげつら里見さとみかてとぼしきを大輔だいすけあざむとゞめてきう里見さとみしろかこむ。とき八房やつぶさいぬありてつひ景連かげつら噛殺かみころす。」〈8〉

麻呂まろの小五郎こごらう信時のぶとき

信時のぶときゆうあれどもなし。かつ多慾たよくにしてほろぼすをらず。かつ義実よしざね定包さだかねかこむ。定包さだかねすくひを麻呂まろ安西あんざいはしめていはく「義実よしざねほろぼさバ東條とうでうしろ一郡いちぐんをそへて両君りやうくんのうちにまゐらせん」と。信時のぶときよろこんで東條とうてうむか氏元うぢもと對陣たいぢんす。とき景連かげつら姦計かんけいあり。やが氏元うぢもと内通ないつうはかッて信時のぶときぢん夜討ようちさせその信時のぶとき本城ほんじやうなる平館ひらだて責落せめおとして所領しよれうこと/\横領わうれうす。信時のぶときつひはかられてかうべ氏元うぢもとのためにうしな領地れうち景連かげつらためうばはる。

9ウ10オ
義實内方よしざねのないはう五十子いさらご

五十子いさらごハよくみちさかしくしてことにやさしき生質うまれなり。ちゝ上総國かづさのくに椎津しゐづ城主じやうしゆ真里谷まりや入道にふだう静蓮じやうれんこれなり。五十子いさらご義実よしざねしてよりすで一女いちぢよ一男いちなんむ。長女ちやうぢよハすなはち伏姫ふせひめにて二男じなん二郎太郎じらうたらうといふ。のち八房やつぶさいぬにとられて伏姫ふせひめ冨山とやまるにおよびてつひうれひにしづみてす。」〈9〉

里見さとみ御曹子おんぞうし義成よしなり

義成よしなり義実よしざねなんなり。初名しよみやう二郎太郎じらうたらうといふ。その平生ひとゝなり寛仁くわんじんにしてなほはた智勇ちゆう兼備けんびせり。もつとも大將たいしやうありといふべし。れバ義成よしなりとなりてより安房あは上総かづさハいふもさらなり下総しもふさまでもきりしたが威風ゐふう隣國りんごくならぶものなし。かつくはふるに八犬士はつけんしあり。其他そのた孝継たかつぐ以下いか老黨らうだうよくそのきみ補佐ほさせしかバたま/\鎌倉かまくらりやう管領くわんれい〈山内|扇谷〉水陸すゐりく三隊みて大軍たいぐんをもて里見さとみうちまくほりせしもかへつやぶれ乱走らんそうす。よつ天皇すべらみことよりみことのりたまはりつ。安房守あはのかみけん上総介かづさのすけかつ左少將さしやう/\にんぜらる。

10ウ11オ


堀内ほりうち蔵人くらんど貞行さだゆき

貞行さだゆき里見さとみ譜代ふだいしんにして四家老しからうずい一個いちにんなり。はじめ季基すゑもと遺訓いくんによりて結城ゆふき落城らくじやうのそのみぎ義実よしざねしたかひて安房國あはのくににおしわた数度すどいくさ戦功せんこうあり。就中なかんづく三浦みうらさきにてわたりにふねもとめし頓才とんさいよく氏元うぢもとみきいづべし。義実よしざね肱股ここうしんいはんか。」〈10〉

梺村ふもとむらの技平わざへい

技平わざへい安房国あはのくに冨山とやまふもと荘客ひやくしやう也。あるとき背戸せどいぬありて一匹いつひき雛狗こいぬみその親犬おやいぬせり。技平わざへいこれをあはれみて小屋こやつくかゆなどあたへてかの雛狗こいぬやしなほどあやしむべし。冨山とやまかたより一匹いつひきたぬき飛来とびきたつてくだん雛狗こいぬをふくます。かくすること夜毎よごとにしてこのいぬやうや肥太こへふとれバたぬきつひきたらずなりけり。とき貞行さだゆき東條とうでうより滝田たきたしろにいたるのみちにてこの奇事くしごと傳聞つたへきゝ義実よしざねかくぐ。義実よしざねくだんいぬめしやがそのうちかはしむ。これすなはち八房やつぶさなり。よつ技平わざへいにハ東西ものあまたたまはりしとなん。

11ウ12オ


杉倉すぎくら木曽介きそのすけ氏元うぢもと

氏元うぢもと実直じつちよくにしてさらことばかざことなくかつゆうありてよくきみ補佐ほさす。これまた四家老しからう一個いちにんなり。はじ堀内ほりうち貞行さだゆきとも義実よしざねしたがふて結城ゆふきおち安房あはにいたる。義実よしざね定包さだかねうつおよびて東條とうでうしろをあづかり麻呂まろ信時のぶとき突伏つきふせたり。かく定包さだかねほろびてのち東條とうでうよりめさるゝとき路次みち上総かづさ一作いつさくあふひい孝吉たかよしあはさしむ。もつとも老練らうれんといふべし。」〈11〉

上總國かづさのくに関邑せきむらの莊客ひやくせう一作いつさく 加多美かたみ

一作いつさく金碗かなまりうぢ若黨わかたうにて孝吉たかよしちゝつかふのち年老としおい上総かづさ退しりぞ関邑せきむら農夫のうふとなる。これに一個ひとりむすめあり。それが小萩こはぎといふ。孝吉たかよし光弘みつひろいさめかね浪々らう/\となりしとき一作いつさくいへ宿やどかりて小萩こはぎがもとにぬれそめしよりかれ〓妊くわいにんすといふにおどろ孝吉たかよししよのこしてる。小萩こはぎやがつきみちて男子なんし一個ひとりをまうけながらつひ産後さんごみまがりぬ。よつ其子そのこ加多三かたみづく。かく孝吉たかよし安房あはおこりて定包さだかね滅亡めつぼうせしときゝ加多三かたみいだきて安房あはにいたるとき孝吉たかよし自殺じさつして其処そこのぞみをうしなふものからこれより里見さとみ扶助ふぢよせられてゆたかおひをむかへしとぞ。
加多美かたみでんくわしくゝちゆだい條下でうかいだせり。よつてこゝにハはぶきつ。

12ウ13オ

拈華庵ねんげあんの惡僧あくそう蚊牛ぶんぎう

蚊牛ぶんぎう吉蘇きそ御坂みさかほどとほからぬ拈華菴ねんげあん庵主あんしゆにて破戒はかい旡慚むざん悪僧あくそうなり。かつ手束たつか懸想けさうしてかれはかまゐりにきたりしを詭欺たばかり留守るすをたのみ小夜さよふけころかへ手束たつかをとらへてかき口説くどけこばみてほとりへ寄著よせつけねバはておどし菜刀ながたなをうちひらめかしていどむとき其処そこ犬塚いぬづか番作ばんさくありてつひ悪僧あくそう蚊牛ぶんぎうる。ぶつ弟子でしとしていろむさぼ冥罸みやうばつまことにおそるべし。」〈12〉

貞婦ていふ手束たつか

手束たつかゐの丹三たんざふ直秀なをひで女児むすめなり。直秀なをひで結城ゆふき篭城らうじやうをりから大塚おほつか匠作せうさく約束やくそくして女児むすめ手束たつか番作ばんさくよめにとハちぎりけり。しかるにやくせし匠作せうさく直秀なをひで討死うちじにしつ。手束たつかはゝさへみまがりぬ。されども良縁りやうえんつきざるところ拈華菴ねんげあんにて番作ばんさく出會いであひ夫婦ふうふとなりて大塚おほつかぢうす。かく手束たつか男子をのこゞ三人みたりまでまうけしかども襁褓むつきのうちになくなりて一人ひとりとして生育おひたつものなし。番作ばんさく これをうれふるにぞ手束たつかこれよりたきがはなる辨才天べんざいてん日参につさんしつ。つひ神女しんによ竒事くしごとあひ信乃しのうむさいはひあり

13ウ14オ

毒婦どくふ龜篠かめざゝ

亀篠かめざゝ大塚おほつか匠作せうさく女児むすめにて番作ばんさくにハ異母はらがはりあねなり。されどもこゝろざまちゝにもおとゝにも義理ぎりあるはゝ病着いたつき看病みとるこゝろハつゆほどもなくかの蟇六ひきろくとふかくちぎりてこれをまたなきたのしみとしつ。さて匠作せうさく討死うちじになしはゝほどなくみまがりしかバ亀篠かめざゝこれをさいはひにして蟇六ひきろくつまとなりもて生涯しやうかい本意ほんいとす。のち宮六きうろく婿入むこいり伎倆たくみことのくひちがひてなかだち渾木ぬるて五倍二ごばいじやいばにかゝりて非命ひめいす。これ不幸ふかう不義ふぎ冥罸みやうばつなるべし。」〈13〉

大塚おほつかの莊官せうくわん蟇六ひきろく

蟇六ひきろくハそのはじめ放蕩はうとう旡頼ぶらい破落者いたづらものなり。かつ匠作せうさく女児むすめ亀篠かめざゝ密通みつつうしこれと夫婦ふうふになりけるが成氏なりうぢいで給ふにより荘官せうくわんになりのぼるの僥倖こぼれさいはひあり。かく濱路はまぢ養女やうぢよとしはかッて信乃しの婿むこにせんとす。のちまた陣代ぢんだい宮六きうろく濱路はまぢめとらんといふにおよびて神宮川かにはがはすなどり信乃しの村雨むらさめ宝刀みたちうばかれをバ滸我こがあざむりて濱路はまぢ宮六きうろくにおくらんとせしにこゝ左母二郎さもじらうといふものありて女児むすめ濱路はまぢうは村雨丸むらさめまるさへすりかへたれバ蟇六ひきろく主意ふんべつくひちがひてつひ陣代ぢんだい宮六きうろくがためにうたる。

14ウ15オ

農夫ひやくせう糠助ぬかすけ

糠助ぬかすけ安房あはひとにて犬飼いぬかひ現八げんはち実父じつふなり。さきゆゑあつて安房あは追放つひはうせられげん八をふところにして行徳ぎやうとくまでさまよひきたり。うえいのちすてんとせしを滸我こが飛脚ひきやくすくはれてちとかねさへめぐまれしかバこれより武蔵むさし大塚おほつかきた籾七もみしち後家ごけ入夫にふふして犬塚いぬづか親子おやことしたしかりしが其後そののち重病ぢうびやうをせめてすでいのちおはらんとするとき信乃しの我子わがここと遺託ゐだくす。信乃しのまたこれをげん八に報知つげ実父じつふのうへをあきらかにす。」〈14〉

奴隷しもべ背助せすけ

背助せすけ蟇六ひきろく奴隷しもべなり。さがにぶけれどもさらにまた悪意あくいなし。たま/\主人しゆじん蟇六ひきろく夫婦ふうふきううたるゝに出會いであひたいちときずをうけおどろきおそれて床下ゆかしたかくのち額蔵がくざう〓倶もろとも社平しやへいとらへられつひひとやのうちにす。あはれむべきの癡人ちじんなり。

15ウ16オ

簸上ひがみ宮六きうろく

宮六きうろく大塚おほつかしろ陣代ぢんだい簸上ひがみ蛇太夫じやたいふ長男ちやうなんなり。そのちゝみまかりたるのち宮六きうろくすなはちしん陣代ぢんだいたり。かつ近郷きんがう巡検じゆんけんをりから蟇六ひきろくがり止宿ししゆくせし濱路はまぢ姿すがた懸戀けんれんして属役しよくやく軍木ぬるて五倍二ごばいじをもて婚姻こんいん言入いひいれしに蟇六ひきろくとみ承諾うけひきさて婿入むこいりにいたり濱路はまぢ逐電ちくてんせしときゝ忽地たちまちいかつて蟇六ひきろくるときに額蔵がくざう走皈はせかへッて宮六きうろくうつしゆあだほうず。」〈15〉

軍木ぬるて五倍二ごばいじ

五倍二ごばいじ宮六きうろく属役したつかさにてとも大塚おほつかしろにあり。かつ陣代ぢんだいきう六がためにひき六が女児むすめ濱路はまぢ媒酌なかだちす。しかるに濱路はまぢ行方ゆくゑれず婿むこ引手ひきでにとていだしたる村雨丸むらさめまる宝刀みたちさへまたこれ偽物にせものなりしかバひき六はきう六にうた五倍二ごばいじハ又亀篠かめざゝがいす。かく額蔵がくざうはせかへ宮六きうろくうたるゝにおよびてその疼痍いたでおふはしる。のち額蔵がくざうちうせんとするときおもひがけなき犬塚いぬづか法場おきてのにはさはがしてつひ五倍二ごばいじ信乃しのうた伯母おばうらみをほうぜらる。

16ウ17オ

土田とだの土太郎どたらう 交野かたの加太郎かたらう 板野いたの井太郎ゐたらう

土太郎どたらう太郎太郎ハ豊島としまさん太郎とよばれたる水陸すゐりく悪棍わるもの也。とき網乾あぼし左母二郎さもじらう濱路はまぢ豪奪がうだつしたりし夜途よみちに」〈16〉 行轎たびかごやとひつゝ圓塚山まるづかやままでたりしにこの轎夫かごかき別人べつじんならずかの太郎と太郎なり。とも曲者くせものなれバかごなる濱路はまぢそれぞとさと〓奪ねだつものになさんとせしを左母二さもじがためにうたれたり。これよりさき太郎ハひき六に相譚かたらはれて神宮川かにはがはにて人知ひとしれず信乃しのうしなはんとしたりしにそのはかりこと合期がつこせず。ひき六これを不足ふそくおもひて辛苦銭ほねをりしろおほからざれバ太郎ハあるゆふべひきがりおもむきてちと酒價さかてかりんとせしにをりから濱路はまぢ逐電ちくてんして追留おひとめんとするときなれバひき六ハまた太郎をたの左母二郎さもじらうおはせまくす。太郎これをうけがひて円塚山まるづかやままで追来おひきた濱路はまぢとりかへさんとしてこれもまた左母二さもじころさる。

17ウ18オ

網乾あぼし左母二郎さもじらう

左母二郎さもじらう扇谷あふぎがやつ定正さだまさつかえて扈従こせうたりしが便侫べんねい利口りこう曲者くせものなれバつひつみ鎌倉かまくら追放つひはうせられ武蔵むさし大塚おほつかきたぢうす。かつひき六が信乃しのはかり村雨丸むらさめまるすりかへんとするとき亀篠かめざゝこれを左母二さもじ相譚かたらひことならバ濱路はまぢをもてめあはせんとやくしたり。左母二さもじ濱路はまぢこゝろあれバ忽地たちまちうべなひてくだん宝刀みたちすりかゆるときまたさら悪念あくねんしやうひき六にハ贋物にせものをつかませまこと宝刀みたちかすめたり。かくきう六が婿入むこいりひそか濱路はまぢ奪去うばひさ円塚山まるづかやままでおもむきつゝかの三太郎さんたらうころつくまち濱路はまぢをも殺害せつがいす。とき犬山いぬやま道節だうせつあり左母二郎さもじらうきついもとうらみきよむ。」〈17〉

節婦せつふ濱路はまぢ

濱路はまぢ煉馬ねりま倍盛ますもり老臣らうしん犬山いぬやま道策だうさく女児むすめにして道節だうせつ異母はらがはりいもとなり。はじ実母じつぼ悪心あくしんによりてちゝおはれてひき六が養女やうぢよとなる。かつ信乃しのめあはせんとはれていまだまくらともにせず。かへつ簸上ひがみ宮六きうろくになびかせんとす。その婿入むこいりのぞみてみづか經死くびれしなんとするを左母さも二郎に豪奪がうだつせられ圓塚山まるづかやままでともなはれてすで姦婬かんいんせらるべきをせつまもりてしたがはず。左母二さもじ一太刀ひとたちうらみんとしてつひ邪慳じやけんやいばにかゝる。されどもてんめぐみやありけん。はからずそのあに道節だうせつ環會めぐりあひうらみきよむるのみならず実父じつふ実母じつぼのうへさへきいいさゝか今般いまは志願のぞみぐ。

18ウ19オ

犬山いぬやま道節だうせつ忠與たゞとも

道節だうせつ犬山いぬやま貞與さだとも入道にふだう道策だうさくなんにしてこれまた八犬士はつけんし一個いちにん也。ちうたま感得かんどくす。よつ忠與たゞともといふ。はじ道策だうさく二口ふたり側女そばめあり。その黒白あやめ阿是非おぜひといふ。このとき道策だうさくたはむれいは汝等なんぢらはや男子なんしうま正妻ほんさいになさんとなり。とき阿是非おぜひ道節だうせつ黒白あやめまた濱路はまぢむ。よつ阿是非おせひ正妻ほんさいとす。黒白あやめハこれをふかねたあるとき阿是非おぜひ毒殺どくさつなし道節だうせつ縊殺くびりころせり。しかるに道節だうせつ蘇生そせいして黒白あやめ悪事あくじ忽地たちまちあらはれ黒白あやめつひつみせられ濱路はまぢ生涯せうがい不通ふつうをもてひき六にとらせたり。かく池袋いけぶくろたゝかひに主君しゆくん倍盛ますもりちゝ道策だうさく定正さだまさためうたれしかバ道節だうせつ君父くんふあだたる」〈18〉
扇谷あふぎがやつねらうたんにあるひ寂莫じやくまく道人だうじん名告なのりはからずいもと環會めぐりあふなど再出さいしゆつくはしくす。

犬川いぬかは荘助さうすけ義任よしたふ

荘助さうすけ伊豆國いづのくに北條ほうでう荘官せうくわん犬川いぬかは衛士ゑじ則任のりたふ一子いつしにして八犬士はつけんし一個いちにんなり。則任のりたふ地頭ぢとう苛政かせいいさもちひられずして自殺じさつせり。そのとき荘助さうすけわづか七歳しちさいはゝとも故郷こきやうをはなれ大塚おほつかさとまでさまよひはゝひき六のかどにてす。これよりして荘助さうすけひき六の小厮こものとなりかり額蔵がくざうよばれたり。かつ犬塚いぬづか信乃しのしられてはじめて本心ほんしんあらはすにいたる。荘助さうすけもとよりたま感得かんどくす。よつ実名じつみやう義任よしたふといふ。一回ひとたび信乃しの滸我こがおく皈路きろにして道節だうせついもと名告なのりあふをきゝ這時このとき道節だうせつたゝかふてかたみたまかへるの竒事きじあり。かく荘官せうくわん夫婦ふうふためきう六をうつなどなほ再出さいしゆつくはしくせん。

19ウ20オ

足利あしかゞ左兵衛督さひやうゑのかみ成氏なりうぢ

成氏なりうぢ鎌倉かまくらさきの管領くわんれい持氏もちうぢ朝臣あそん季子すゑのこなり。幼名ようみやう永壽王ゑいじゆわうといふ。かつ鎌倉かまくら滅亡めつぼう
をりしも乳母めのと何某なにがしこれをいだきて信濃しなの山中さんちうのがれゆきぐん安養寺あんやうじかくれしを管領くわんれい憲忠のりたゞ老臣らうしん長尾ながを昌賢まさかた相謀あいはかりてやが鎌倉かまくらむかへとり八州はつしう連帥れんすゐあをがれしがのちまた鎌倉かまくら追落おひおとされて下総しもふさ滸我こが在城ざいじやうす。これを滸我こが御所ごしよといふ。成氏なりうぢもとより不明ふめいにして横堀よこぼり在村ありむら重用ちやうようあるひハ現八げんはちひとやくるしあるひハ信乃しの芳流閣はうりうかくとらへんとすのち里見さとみとらはれとなりはじめて先非せんひくふにいたり。信乃しのよくこれをなぐさめて村雨丸むらさめまる宝刀みたちまいらす。」〈19〉

横堀よこぼりふひと在村ありむら

在村ありむら滸我殿こがどの執権しつけんなり。されどもそのさが不良ふりやうにしてのうねたさいいみきみのために賢路けんろふさぎてそゞろ我意がいもてあそ賞罰せうばつともにおのがまゝにす。され犬飼いぬかひ現八げんはち獄吏ひとやづかさ職役しよくやく固辞いなみいとまこひしとき在村ありむらかねげん八が武術ぶじゆつひいでしをひそかいめ
とがとして禁獄きんこくす。この忠良ちうりやうひとしへたぐることはなはだし。にくむべしこの非義ひぎしん

20ウ21オ

新織にひおり太夫だいふ敦光あつみつ

帆太夫ほだいふ滸我こが御所ごしよ成氏なりうぢ朝臣あそんつかえて武者むしやがしらたり。かつ信乃しの現八げんはち引組ひきくみ小舟こぶねうちおちとき其舟そのふね忽地たちまちともづなちぎれて行方ゆくゑれずなりしかバ在村ありむらやが帆太夫ほだいふめいじて信乃しの行方ゆくゑたづね〔ね〕しむ。帆太夫ほだいふつひ行徳ぎやうとくおもむ古那屋こなやといへる居停はたごや信乃しのかくるを主人あるじ文五兵衛ぶんごべゑいましめて信乃しの搦捕からめとらんとすとき山林やまばやし房八ふさはち義死ぎしにより犬田いぬた小文吾こぶんごそのくびをもて信乃しのなりとして帆太夫ほだいふ逓与わたす。帆太夫ほたいふこれをまこととおもひつひ文五兵衛ぶんごべゑゆるして滸我こがかへる。

犬飼いぬかひ現八げんはち信道のぶみち

現八げんはち幼名ようめう玄吉げんきちよば荘客ひやくせう糠助ぬかすけなり。かつてそのとし二才にさいのころ滸我こが走卒あしがろ犬飼いぬかひ見兵衞けんべゑ養取やしなひとられて見八けんはちあらたのちまたげん八と名号なのる。しんたま感得かんとくす。よつ実名じつめう信道のぶみちといふ。これまた八犬士のずい一個いちにんなり。さら武術ぶじゆつ二階松にかいまつ山城やましろ介にまなびて允可いしんか高弟かうていなり。養父やうふけん兵衛みまがりてのち獄舎長ひとやがしら轉役てんやくせらる。しかるに執權しつけん在村ありむら権威けんゐをほしいまゝにするをもてつみなくして獄舎ひとやつながるゝものおほし。現八げんはちこれため呵責かしやくしもととるしのびず。していとまこふ在村ありむらこばみて禁獄きんこくせられしがこれをゆるして犬塚いぬづか信乃しの捕手とりてめいぜられつい芳流閣はうりうかくにて信乃しの引組ひきくみまた二犬士にけんし名告なのりあふことの畧傳りやくでん再出さいしゆつすべし。

21ウ22オ

犬飼いぬかひ見兵衛けんべゑ

見兵衛けんべゑ滸我殿こがどの走卒あしがろなり。その職録しよくろくいやしけれどもまたかの在村ありむらよこしまつね慈善じぜんこゝろふかかなひたるほどことひと難義なんぎすくはんとちかへり。しかるにけん兵衛に実子じつしなし。あるとき里見さそみ使つかひして行徳ぎやうとくかゝりしとき入江橋いりえばしうへよりしてうへつかれたる行人たびゞと稚児おさなごいだきつゝしづめんとするを推禁おしとゞおやにハちと路銀ろぎんとらせてつひ其児そのこ購得あがなひえたり。これすなはち現八げんはちなり。現八げんはちのちつかえて一万貫いちまんぐはんぬしとなり犬飼いぬかひいへおこことまた見兵衛けんべゑ慈善ぢぜんとく。」〈21〉

古那屋こなや文五兵衛ぶんごべゑ

文五兵衛ぶんこべゑ神餘じんよ忠臣ちうしん那古なこの七郎しちらうおとゝなり。當初そのかみあになる七郎しちらう朴平ぼくへい無垢三むくざうたゝかふて朴平ぼくへいがためにうたれたり。そのとき文五ぶんご兵衛十八さいもとより多病たびやうなりけれバ逆臣ぎやくしん定包さだかねうつことかなはず。つい行徳ぎやうとく退しりぞきて市人いちびととハなりしなり。これに男女なんによ二個ふたりあり。冢子うひこ小文吾こぶんごといひつぎ女児むすめ沼藺ぬひといふ。この文五ぶんご兵衛ハさがとしてつりすることふかこのめり。とき犬塚いぬづか犬飼いぬかひ小舟こぶねうちおちかさなりてながれて行徳ぎやうとくたるをる。やが二個ふたりいへかくま忽地たちまち帆太夫ほたいふためいましめられしがそのわざはひほどなくとけ里見殿さとみどの扶持ふちせられじゆをもつて安房あはおはる。

22ウ23オ

房八ふさはちつま沼藺ぬひ 一子いつし大八だいはち

沼藺ぬい文五ぶんご兵衛が女児むすめなり。とし二八にはちはるころ市川いちかは舟長ふなをさ山林やまばやしふさ八がつまとなりて男児をのこ一個ひとりをまうけたり。それ真平しんへいといひまた渾名あだなして大八だいはちともいふ。のち犬江いぬえ新兵衛しんべゑよばれしハこれなり。かつおつと離別りべつせられておや文五ぶんご兵衛がいへおくらる其夜そのよおつと義死ぎしするにおよびてともふさ八がにかゝりてす。されどもその狗死いぬじにならず。つひ夫婦ふうふしほをもて信乃しの必死ひつしやまひをいやす。大八だいはつこと後帙こうちつ犬江いぬえ新兵衛しんべゑ烈傳れつでんくはしくす。よつこゝにハをのみしるしつ。」〈22〉

〓〓もがりの犬太いぬた

犬太いぬた當初そのかみ鎌倉かまくら追放ついはうせられて行徳ぎやうとくへハたりしものなり。その膂力ちからあくまでつよ心悍こゝろたけくしてしかもゆがめり。ひとみな毒蛇どくじやごとおそれり。あるとき犬太いぬた酔狂すひきやうのあまり路上みち一條ひとすぢ〓〓もがりなは引渡ひきわたなわ紙牌かみふだむすびさげて此所このところよぎらんとほりするものハぜに百文ひやくもんいだすべし云々しか/\とぞかいたりける。往来ゆききの老弱らうじやくほと/\難義なんぎす。このとき小文吾こぶんご十六さいかれ悪行あくぎやういきどほくだんなはひきちぎりつい犬太いぬた蹂殺ふみころしてさとうれひはらふたり。かく犬太いぬたころしてよりひといつか綽號あだなして犬田いぬた小文吾こぶんごとぞ喚做よびなしける。

23ウ24オ

塩濱しほはまの鹹四郎からしらう 板〓いたごき均太きんた 牛根うしがね孟六もうろく

鹹四郎からしらう孟六まうろく均太きんたとも葛飾かつしか破落戸いたづらものにてもなくもなきものどもなり。かつ辻相撲つぢすまふこのむをもて小文吾こぶんご弟子でしとすれどもこゝろよからぬ奴原やつばらゆへ小文吾こぶんごしたしくよせつけず。しかるに祇園ぎおんまつりつぎ栞崎しほりざきにて房八ふさはち故意わざ犬田いぬだはぢしめて小文吾こぶんごいかりをおこさせうたれて信乃しの身代みがはりになりなんものをとおもへども」〈23〉
犬田いぬたおや教訓きやうくんまもりてさらにとりあはざりしを鹹四郎からしらう〔ハ〕つたきゝ(やが)犬田いぬたいへおもむ弟子でしから師匠しせう破門はもんするとてのゝしりあへずうつてを小文吾こぶんごがために投懲なげこらされ一旦いつたん其所そこにげかへりしがふけふたゝしのきたり。簀子すのこしたかく信乃しの此家このやあること聞済きゝすましつゝ立出たちいづるを忽地たちまち現八げんはちとらへられ三個みたりひとしくころされける。

24ウ25オ

山林やまばやし房八郎ふさはちらう

房八ふさはち市河いちかは舟長ふなをさにて家名かめい犬江屋いぬえやといふ。ちゝ安房あは住民ぢうみんにてかの杣木そまぎ朴平ぼくへい一子ひとりごなるがやが犬江屋いぬえや婿養子むこやうしとなり房八ふさはちをバまうけしなり。かくてそのちゝ今般いまはのとき房八ふさはちまねきていふやう。「俺父わがちゝ杣木そまぎの朴平ぼくへいどのあやまッて国主こくしころ近臣きんしん那古なこの七郎をも其場そのばにおいて〓仆きりふせたり。しかるに我娘わがむすめ沼藺ぬいおや那古なこうぢおとゝのよし。なんぢいまよりこゝろつくもし文五ぶんご兵衛親子おやこがうへにことあるときハいのちにかへてもたすけとなりてそのむかし七郎しちらうどのをがいしたる祖父おほぢ汚名をめいきよめよ」となり。これによつてふさ八がはかり小文吾こぶんごやいばにかゝり信乃しの身代みがはりになるのみならずつひ夫婦ふうふしほをもてその難病なんびやうさへいやしたり。もつとも義者ぎしやかゞみはんか。」〈24〉

犬田いぬた小文吾こぶんご悌順やすより

小文吾こぶんご文五ぶんご兵衛が冢子うひこにてこれまた八犬士はつけんし一個ひとりたり。ていたま感得かんどくす。よつ実名じつめう悌順やすよりといふ。そのさが市人いちびと息子せがれ剱術けんじゆつ拳法やはら相撲すまふの手まで習得ならひえずといふことなし。れどもつね温和おんくわにしてちゝつかえてまたかうなり。かつ犬塚いぬづかかくまふにおよ千辛せんしん万苦ばんくしたりしに山林やまばやし義死ぎしによりてちゝなわめとくのみならずはからずゝちゆたい照文てるぶみあふ里見さとみ過世すくせあることやが犬塚いぬづか犬飼いぬかひ武蔵むさし大塚おほつかおくきてまたかの額蔵がくざう必死ひつしすくともはしり荒芽山あらめやまおもむくなど犬士けんしでんいづれもながかり。よつ再出さいしゆつくはしくす。

25ウ刊記

蜑崎あまざき十一郎じふいちらう照文てるぶみ

照文てるぶみ里見さとみ家臣いへのこにして伏姫ふせひめかしづきたりし蜑崎あまさき十郎照武てるたけ冢男ちやうなんなり。かつ義実よしざねめいかうむあまねく犬士けんしまねかんがためひそかせきひがしなる國々くに/\潜行しのびあるきあるひハ修験すげんじや観得くわんとく仮名かりなしてつい小文吾こぶんご信乃しのをはじめ八犬士はつけんし具足ぐそくせしめひとしく安房あはあつまるにおよびてよく招賢せうけんにかなへりとて数千貫文すせんぐわんもん加恩かおんたまふ。またこれ一個いつこ功臣こうしんといふべし。」〈25〉


    日本橋通壹丁目  須原屋茂兵衛
    同   貳丁目  山城屋佐兵衛
    同     所  小林新兵衛
    芝 神 明 前  岡田屋嘉七
東都  同     所  和泉屋市兵衛
    本石町十軒店   英 大 助
    芳町親仁橋角   山本平吉
書林  大傳馬町二丁目  丁子屋平兵衛
    横山町壹丁目   出雲寺万次郎
    浅草茅町二丁目  須原屋伊八
    横山町三丁目   和泉屋金右衛門
    馬喰町貳丁目   山口屋藤兵衛板」

〔後ろ表紙〕
後ろ表紙


#「説林」第44号(愛知県立大学国文学会、1996年)掲載
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