【解題】
曲亭馬琴歿後4年目に当たる嘉永5〈1852〉年の正月23日より江戸市村座の春狂言として3代目桜田治助作「里見八犬伝」(初編〜8編)が上演された。これが大当りをし、翌、嘉永6〈1853〉年にも正月21日より「里見八犬伝」(7編〜9編)が同座の春狂言として上演された。この時の上演は、正本写合巻『今様八犬伝』全6編(嘉永5年刊、2代目春水作、国芳画、紅英堂蔦屋吉蔵・錦耕堂山口屋藤兵衛板)として草双紙化されている。
『南総里見八犬伝』にとって、この嘉永5年という年は特別な年であった。この年に至るまでに、『八犬伝』を抄録して合巻化した笠亭仙果『雪梅芳譚犬の草子』(豊国画、紅英堂蔦屋吉蔵板)は23編までが刊行されており、以後56編(明治14〈1881〉年)まで続く。一方、『犬の草紙』に対抗して、2代目春水『仮名読八犬伝』(国芳画、文溪堂丁子屋平兵衛板)が出され、競作状態になっていたが、こちらは嘉永5年時に16編までが刊行されており、以後31編(慶応4〈1868〉年)まで続くことになる。
この他、二世焉馬作の常磐津豊後大掾正本『八犬義士誉勇猛』(三代豊国画、文亀堂伊賀屋勘右衛門板)が嘉永4〈1851〉年中に出板されており、嘉永5年の秋からは、見立て役者大首絵大錦50枚続「八犬伝犬の草紙」(二代国貞画、紅英堂蔦屋吉蔵板)が出されることになる(向井信夫「嘉永五年里見八犬伝上演の周辺」、『江戸文藝叢話』、八木書店、1995五年)。
嘉永5年の歌舞伎上演を契機とした作品がもう一つある。それが、ここで紹介する『八犬傳銘々誌畧』である。この作品は2代目為永春水の手に拠って編まれ、嘉永5年に刊行されたダイジェスト版八犬伝の一種である。嘉永から安政期にかけては、中本サイズの絵本物軍記や武将英雄一代記などが流行した時期で、本作も他の絵本物と同様に、挿絵や見返などに色摺りを施し、極めて美麗な本に仕立てられている。
八犬伝のダイジェストとして特筆すべきは、編年式や巻順に記述されたものではなく、見開きに2名ほどの登場人物を描き、そこに彼等が関った事件を略述するという銘々伝として編まれた点にある。今回は紹介できなかったが、翌、嘉永6年に刊行された第2集に採られた登場人物名を挙げておく。
犬江新兵衛仁・暴風舵九郎・妙真・丁田町之進・神宮〓平・卒川菴八・簸上社平・十條力二郎・十條尺八郎・曳手・單節・越杉駄一郎遠安・竈門三宝平五行・音音・荘役根五郎・丁六・〓介・舩虫・鴎尻並四郎・千葉介自胤・畑上語五郎高成・馬加大記常武・粟飯原首胤度・粟飯原妻子(手枕・稲城・夢之助)・篭山逸東太縁連・品七・調布・犬坂毛野胤智・坂田金平太・渡邊綱平・卜部季六・臼井貞九郎・馬加鞍弥吾常尚・戸牧并鈴子・犬江屋依介・水澪・鵙平・赤岩一角武遠・雛衣・犬村大學禮儀・犬村蟹守儀清・正香・窓井・假一角・泡雪奈四郎秋實・四六城木工作・後の濱路
なお、底本には佐藤悟氏所蔵の初板本を使用させて頂き、校合本として架蔵の後印本を用いた。
【書誌】
[編成]中本 一巻一冊 17.8糎×12.8糎
[表紙]浅縹無地に花丸の型押しを散らす
[題簽]左肩(13×3糎)子持枠中に「八犬傳銘々誌畧 全」
[見返]中央に「八犬傳銘々誌畧 初帙」、右に「爲永春水編」、左に「一猛齋芳乕畫」「錦耕堂\發行」
[叙末]「嘉永五壬子歳季春吉旦新鐫 為永春水識」
[改印]「米良」「渡辺」「子〓」
[内題]なし
[柱刻]「八犬銘々誌 丁付」
[尾題]なし
[匡郭]単辺無界(15.4×10.3糎)
[刊記]「東都書林 日本橋通壹丁目 須原屋茂兵衛・同貳丁目 山城屋佐兵衛・同所 小林新兵衛・芝神明前 岡田屋嘉七・同所 和泉屋市兵衛・本石町十軒店 英大助・芳町親仁橋角 山本平吉・大傳馬町二丁目 丁子屋平兵衛・横山町壹丁目 出雲寺万次郎・浅草茅町二丁目 須原屋伊八・横山町三丁目 和泉屋金右衛門・馬喰町貳丁目 山口屋藤兵衛板」
[備考]見返には空色と薄紅色の色摺が施され、序文背景や口絵挿絵には薄墨のみならず薄紅色で花模様などが摺り込まれている。なお、後印本には色摺りは見られない。
〔付言〕底本の使用を許された佐藤悟氏に深く感謝申し上げます。
【翻刻】
〔表紙〕
〔見返・序〕
里見義實結城を落て安房に創業のむかしより遂に八犬士出現して威を房總に輝すまで凡百令六巻あり。これを里見八犬傳といふ。這ハよく人の識ところにして今更言んも事ふりにたれど恁る長編の冊子にしあれバ看官首輯を閲しおはりて後輯を読給はん頃まで甲が家系ハ如此々々なり乙が出所ハ箇様々々とよく記臆してあらん事上根の人ハ知らず侍れど下根の婦女子幼童なンどハ最難して忘易かり。然バ春雨の閑けき夜又ハ冬篭の巨燵咄に那書を評判做んとき甲乙の傳混雑せバ物忘れてふ叟めきて卒に佳境に入がたからん。時に書賈何某あり豫て這義を念ふをもて予をしてこれが銘々誌を編しむ。予も又この意なきにあらねバ當初仮名讀八犬傳を綴り近屬後日譚といふ合巻物の本を編て里見義尭が出身より二世三世の犬士のうへさへ追局したる事あるを今更固辞んやうもなく那長編の中よりして其要をのみ抄録しつ圖上にこれを畧記して題号て銘々誌畧とす。尓バ拙き小冊なれど僅に半員の短文をもて縦原傳を看給はずとも其概畧を識べきもの歟。
嘉永五壬子歳季春吉旦新鐫
〔口絵〕
義實安房へ渡らんとして三浦が崎に昇天の龍を看る圖」〈1〉」
〔本文〕
伏姫并八房の犬
伏姫ハ義実の息女なり。賢にして美貌し。嘗て安西景連といふもの約に叛きて里見を囲む。里見の兵糒つきて其城既におちいらんとす。時に犬あり八房と名づく。義實這犬に戯れて曰「〓敵將景連を噛殺し数百個の躬方を救はゞ〓を伏姫が婿にせん」と。八房その夜景連が首をとり皈る。是よりこの犬姫に戀暮す。義実忿て殺さんとする。伏姫父に歎乞て遂に八房に伴はれ冨山の奥に分入てより常に法華経を読誦す。更にその身を犯されず。尓ども犬の気をうけて〓妊する事六ヶ月恥て自ら刃に伏ふ。」〈2〉
ゝ大法師
ゝ大ハ幼名を加多美といふ。父ハ神餘の原の忠臣金碗孝吉すなはち是也。孝吉一旦里見を資け功成名遂て自殺するとき加多美ハ祖父一作に抱かれて来つて父に對面す。義實これを〓育して軈て大輔孝徳と名告せ這者成長に及ばゝ長狭半郡を分あたへて婿にせばやと思ひ給へり。然るに大輔孝徳ハ或とき安西に使して事ならず。八房伏姫を伴ひしと聞竊に冨山に分登り鳥銃をもて八房をうつ。其玉あまつて伏姫に中る。大輔驚き且悔て自殺なさんとしたりしを義実に禁られ遂に髻を薙損て法号をゝ大とあらため那伏姫の疵口なる白気と倶に飛去たる八の玉を索んとて冨山を下山なせしより行脚に数多の年を經て遂に八犬士を倶し皈り後安房国延明寺に住職す。
犬塚番作一戍
番作ハ大塚性なり。後犬塚と改む。父は持氏の両公達春王安王の傅にしてその名を匠作三戍といふ。倶に結城に篭城せしが其城遂に落去して両公達ハ捕られ美濃國金蓮寺にて討れさせ給へる時父匠作も討死す。這とき番作十六歳武勇ハ父に劣らねバかの太刀取等を〓ちらして君夫の首級を奪とり同国御坂に程遠からぬ拈華菴といふ山道場に三の首を躱すに及びて料らず悪僧蚊牛を〓て総角結の妻手束に遇倶に故郷に皈るのとき家名を姉婿蟇六に奪れて其身ハ在に甲斐なけれども番作さらに争はず。持氏相傳の宝刀と听えし村雨丸の一口を一子信乃に譲りあたへその子のために斗を遺して死す。古今味曽有の廉士といふべし。」〈3〉
犬塚信乃戍孝
信乃ハ番作が一子にして八犬士の一個なり。幼くして父母に孝あり。嘗て飼犬与四郎を〓て孝の字の玉を得たり。是より実名を戍孝と名告る番作自殺するに及びて身を伯母婿許養はる。尓ども伯母婿蟇六はさら也。伯母亀篠も善人ならねバ針の席に坐せるがごとし。唯良友額蔵あり。又かの濱路が貞節あれどもいまだ婚を結ばざれば信乃ハ親しく物言はず。たま/\滸我に赴くや父の遺訓を果さんとて村雨丸の一口を成氏に奉らんとするに這太刀も又偽物なり。成氏怒て捕へんとす。是より芳流閣のはたらきなど種々の譚あり。〓は後帙に再出すべし。
里見治部大輔義實
義実ハ初名を又太郎といふ。里見季基の男なり。始め結城に盾篭る事三年その城陥る時にのぞみて父の遺訓にもだしがたく老黨氏元貞行を将て安房國におし渡り麻呂安西に憑といへども信時景連こばみて納ず。嘗て金碗孝吉に遇て神餘のために義兵を起し逆臣山下定包を誅し後また信時景連を討て安房を畧し上総を従へ威を房総に輝す。その子義成また賢なり。義実世を遁れて義成に譲る。是より滝田の老候と称せらる。中興里見の祖といふべし。」〈4〉
金碗八郎孝吉
孝吉ハ神餘光弘が臣なり。光弘定包が讒を用ひ玉梓が色香に愛て国政これより乱るゝを歎き孝吉屡諫れとも光弘惑ひてこれを納ず。孝吉是非なく安房を去る。後定包が姦計にて光弘撃れ給ふときゝ身に漆して乞食となり再び安房に立皈りて定包をねらふ折から義実に邂逅してたちまち定包を誅伐し古主光弘の讐を報ず。義実渠が功を賞して重く用ひんとすれども受ず。功成名遂るときにいたりて自殺して義をいさぎよくす。最大義の士と云んか。
嬖女玉梓
玉梓ハ光弘の愛妾也。容貌に傾国の色を餝るといへども其志臭悪にして姦臣定包と密通し竊に渠が逆意を資て光弘をおし仆し遂に定包が妻となりてこれをもて本意ありとす。後定包が討るゝに及びてその身も首を刎られしが怨念或ひハ狸となり或ひハ八房の犬となりて里見に讐を做んとせしも伏姫の賢なると役の行者の功力によりて怨霊忽地解脱しつ。了に正果を得たりとなん。」〈5〉
山下柵左衛門尉定包
定包ハ光弘の讒臣なり。甞て君を弑せんとすれどもいまた其計を獲ず。然るに朴平無垢三といふもの其身を覘ひ討んとすと聞軈て光弘に放鷹をすゝめ豫て〓人何某に吩付光弘の馬に毒を飼はせ途にて馬の薨るゝに及びて自が乗馬に主人を乗しめ計ッて朴平等に是を射さしむ光弘爰に討れて後定包国家を横領なしかの玉梓ハいふもさらなり其余光弘が嬖女等を都て自が物としつ。昼夜歓楽を尽せしが天道争か許し給はん。遂に義実に誅せられて臭名永く世に傳ふ。
杣木朴平 洲崎無垢三
朴平と無垢三ハ倶に金碗八郎が若黨にして且武術の弟子なり。孝吉安房を去ての後ハ二個も自が故郷に退き煙りを立けるが這時山下定包ハ上を惑はし下を苦しめ且忠臣を讒害する事日を追て募るといへども咸その威勢に懼るゝをもて誰とて口に出せるハなし。定包常に白馬に乗る。人渾名して人喰馬といふ。朴平素より侠気あり。無垢三もまた義気あれバ光弘主の」〈6〉
淫酒にふけるも孝吉刀称の浪々せしも咸定包が做わざなれバ人喰馬を覘ひ討て國主の為に姦を鋤んと竊に談合したりしを定包はやく洩聞て計ッて光弘を俺馬に乗しめ定包鷹野と披露せしかバ時こそ得たれと朴平等ハ落葉畷に埋伏して白馬に乗しハ定包と思ひ違へて光弘を遠矢をもて射落したり。這時無垢三ハ神餘の近臣那古七郎に討とられ朴平ハ捕られて遂に獄の中に死す。実に惜むべきの侠者なれども慮の足らずして國主を弑するのみならず身も又刃の錆となる事天なるか将命なるか。
神餘長狭助光弘
光弘ハ旧家にして安房半國を領するをもて推て国主と披露しつ。麻呂安西を旗下と做にぞ勢ひなきにあらざりしが定包がために計られて朴平等が矢先にかゝり落葉畷の朝露と倶に命を落せしハ最も果敢なき最期なり。」〈7〉
那古七郎由武
七郎ハ光弘の近臣なり。其心ざま忠直にして更に玉梓定包等に諂らはずよくその君に傅て毫はかりも私なし。尓れバ光弘鷹狩の折から乗馬の俄に薨れしを平常ならず思ふにぞ落葉といへる字義を演て屡諫禁しかども光弘遂にこれを用ひず。果して途中に凶変あり。時に七郎武勇をあらはし無垢三を討とめしが続く躬方のなかりしかバ軈て朴平にぞ撃れける。
安西三郎大夫景連
景連ハ姦智に闌たり。甞て定包君を弑して安房半國を横領すと聞嫉き事限りなけれバ麻呂信時と額を合せて定包を討んとすれどもいまだ其計を獲ず。時に義実安房に来る。安西こばみて是を納ず。反て義実のために定包を討る。這とき景連麻呂を計ッて信時の所領を奪ひとり里見と互角の勢ひを張る。或とき安西の領地凶作なり。義実これに三千俵の米を借す。然れども是を返さず。翌年里見の領地凶作也。義実金碗大輔をして安西に米を借らしむ。景連里見の糒乏しきを知り大輔を欺き留めて急に里見の城を囲む。時に八房の犬ありて遂に景連を噛殺す。」〈8〉
麻呂小五郎信時
信時ハ勇あれども智なし。且多慾にして身を亡ぼすを知らず。甞て義実定包を圍む。定包援ひを麻呂安西に乞はしめて曰く「義実を亡ぼさバ東條の城に一郡をそへて両君のうちにまゐらせん」と。信時喜んで東條に對ひ氏元と對陣す。時に景連姦計あり。軈て氏元に内通し謀ッて信時が陣に夜討させ其身ハ信時が本城なる平館を責落して所領悉く横領す。信時遂に計られて首を氏元のために失ひ領地を景連が為に奪はる。
義實内方五十子
五十子ハよく婦の道に賢しくして殊にやさしき生質なり。父ハ上総國椎津の城主真里谷入道静蓮是なり。五十子義実に嫁してより既に一女一男を産む。長女ハすなはち伏姫にて二男を二郎太郎といふ。後八房の犬にとられて伏姫冨山に入るに及びて遂に患にしづみて死す。」〈9〉
里見御曹子義成
義成ハ義実の男なり。初名を二郎太郎といふ。その平生寛仁にして猶將智勇を兼備せり。最大將の器ありといふべし。尓れバ義成の代となりてより安房上総ハいふもさらなり下総までも伐従へ威風隣國に竝ぶものなし。且加るに八犬士あり。其他孝継以下の老黨よくその君を補佐せしかバたま/\鎌倉の両管領〈山内|扇谷〉水陸三隊の大軍をもて里見を討まく欲せしも反て敗て乱走す。因て天皇より詔を賜りつ。安房守兼上総介且左少將に任ぜらる。
堀内蔵人貞行
貞行ハ里見譜代の臣にして四家老の随一個なり。始め季基の遺訓によりて結城落城のその砌り義実に従ひて安房國におし渡り数度の軍に戦功あり。就中三浦が崎にて渡りに舩を覓めし頓才よく氏元が右に出べし。義実肱股の臣と云んか。」〈10〉
梺村技平
技平ハ安房国冨山の麓の荘客也。或とき背戸に狗ありて一匹の雛狗を産みその親犬死せり。技平これを憐みて小屋を造り粥など与へてかの雛狗を育ふ程に怪むべし。冨山の方より一匹の狸飛来つて件の雛狗に乳をふくます。恁すること夜毎にして這犬漸く肥太れバ狸ハ遂に来らずなりけり。時に貞行東條より滝田の城にいたるの途にて這奇事を傳聞義実に恁と告ぐ。義実件の犬を召て軈て園の中に飼しむ。是すなはち八房なり。因て技平にハ東西あまた賜りしとなん。
杉倉木曽介氏元
氏元ハ実直にして更に辞を錺る事なく且勇ありてよく君を補佐す。是また四家老の一個なり。始め堀内貞行と倶に義実に従ふて結城を落て安房にいたる。義実定包を討に及びて東條の城をあづかり麻呂信時を突伏たり。恁て定包亡びてのち東條より召るゝとき路次に上総の一作に遇て引て孝吉に會さしむ。最老練の士といふべし。」〈11〉
上總國関邑莊客一作 加多美
一作ハ金碗性の若黨にて孝吉の父に仕ふのち年老て上総に退き関邑の農夫となる。これに一個の女あり。それが名を小萩といふ。孝吉光弘を諫めかね浪々の身となりしとき一作が家に宿かりて小萩がもとに濡そめしより渠〓妊すといふに駭き孝吉書を残して去る。小萩ハ軈て月みちて男子一個をまうけながら遂に産後に卒りぬ。因て其子を加多三と名づく。恁て孝吉安房に起りて定包滅亡せしと聞加多三を抱きて安房にいたる時に孝吉自殺して其処に望みを失ふものから是より里見に扶助せられて豊に老をむかへしとぞ。
○加多美が傳ハ委しくゝ大の條下に出せり。因てこゝにハ省きつ。
拈華庵惡僧蚊牛
蚊牛ハ吉蘇の御坂に程遠からぬ拈華菴の庵主にて破戒旡慚の悪僧なり。甞て手束に懸想して渠が墓参りに来りしを詭欺て留守をたのみ小夜更る頃皈り来て手束をとらへてかき口説ど阻みてほとりへ寄著ねバ果ハ威の菜刀をうち閃して挑むとき其処に犬塚番作ありて遂に悪僧蚊牛を〓る。現に佛弟子として婬を貪る冥罸まことに懼るべし。」〈12〉
貞婦手束
手束ハ井丹三直秀が女児なり。直秀結城に篭城の折から大塚匠作に約束して女児手束を番作が婦にとハ契りけり。然るに約せし匠作も直秀も討死しつ。手束が母さへ卒りぬ。尓ども良縁の尽ざる所か拈華菴にて番作に出會夫婦となりて大塚に住す。恁て手束ハ男子を三人までまうけしかども襁褓のうちになくなりて一人として生育ものなし。番作 これを患ふるにぞ手束ハ是より滝の川なる辨才天に日参しつ。遂に神女の竒事に遇て信乃を産の倖あり
毒婦龜篠
亀篠ハ大塚匠作の女児にて番作にハ異母の姉なり。尓ども心ざま父にも弟にも似ず義理ある母の病着を看病こゝろハ毫ほどもなくかの蟇六とふかく契りてこれを又なき楽みとしつ。偖匠作ハ討死なし母も程なく卒りしかバ亀篠これを倖にして蟇六の妻となりもて生涯の本意とす。後宮六が婿入の夜伎倆し事のくひちがひて媒渾木五倍二が刃にかゝりて非命に死す。是不幸不義の冥罸なるべし。」〈13〉
大塚莊官蟇六
蟇六ハそのはじめ放蕩旡頼の破落者なり。甞て匠作が女児亀篠と密通しこれと夫婦になりけるが成氏世に出給ふにより荘官になりのぼるの僥倖あり。恁て濱路を養女とし計ッて信乃を婿にせんとす。後また陣代宮六が濱路を娶らんといふに及びて神宮川の漁の夜信乃が村雨の宝刀を奪ひ渠をバ滸我へ欺き遣りて濱路を宮六におくらんとせしに爰に左母二郎といふ者ありて女児濱路を奪ひ去り村雨丸さへすりかへたれバ蟇六が主意くひちがひて遂に陣代宮六がために討る。
農夫糠助
糠助ハ安房の人にて犬飼現八の実父なり。嚮に故あつて安房を追放せられ現八を懐にして行徳までさまよひ来り。饑て命を損んとせしを滸我の飛脚に救はれて些の金さへ恵まれしかバ是より武蔵の大塚に来り籾七が後家に入夫して犬塚親子としたしかりしが其後重病身をせめて既に命も終らんとするとき信乃に我子の事を遺託す。信乃またこれを現八に報知て実父のうへを明にす。」〈14〉
奴隷背助
背助ハ蟇六が奴隷なり。性鈍けれども更にまた悪意なし。たま/\主人蟇六夫婦が宮六等に討るゝに出會ひ額に些の痍疵をうけ駭きおそれて床下に躱る後額蔵と〓倶に社平等に捕へられ卒に獄のうちに死す。憐むべきの癡人なり。
簸上宮六
宮六ハ大塚の城の陣代簸上蛇太夫が長男なり。その父卒りたる後ハ宮六すなはち新陣代たり。甞て近郷巡検の折から蟇六許止宿せし夜濱路が姿に懸戀して属役軍木五倍二をもて婚姻の義を言入れしに蟇六頓に承諾て偖婿入の夜にいたり濱路が逐電せしと聞忽地怒つて蟇六を斬るときに額蔵走皈ッて宮六を討て主の讐を報ず。」〈15〉
軍木五倍二
五倍二は宮六が属役にて倶に大塚の城にあり。甞て陣代宮六がために蟇六が女児濱路を媒酌す。然るに濱路ハ行方知れず婿引手にとて出したる村雨丸の宝刀さへ又これ偽物なりしかバ蟇六は宮六に討れ五倍二ハ又亀篠を害す。恁て額蔵が走皈り宮六が撃るゝに及びてその身も疼痍を負て走る。後額蔵を誅せんとするとき思ひがけなき犬塚等が法場を騒がして遂に五倍二ハ信乃に討れ伯母の怨みを報ぜらる。
土田土太郎 交野加太郎 板野井太郎
○土太郎井太郎加太郎ハ豊島の三太郎と喚れたる水陸の悪棍也。時に網乾左母二郎が濱路を豪奪したりし夜途に」〈16〉 行轎を傭ひつゝ圓塚山まで来たりしに此轎夫ハ別人ならずかの井太郎と加太郎なり。倶に名を得し曲者なれバ轎なる濱路を夫ぞと悟り〓奪て物になさんとせしを左母二がために討れたり。是より嚮に土太郎ハ蟇六に相譚はれて神宮川にて人知れず信乃を亡はんとしたりしに其謀合期せず。蟇六これを不足に思ひて辛苦銭の多からざれバ土太郎ハ或夕蟇六許赴きて些の酒價を借んとせしに折から濱路が逐電して〓を追留んとする時なれバ蟇六ハ又土太郎を憑み左母二郎等を追せまくす。土太郎これを諾ひて円塚山まで追来り濱路を取かへさんとしてこれも又左母二に殺さる。
網乾左母二郎
左母二郎ハ扇谷定正に仕えて扈従たりしが便侫利口の曲者なれバ遂に罪を獲て鎌倉を追放せられ武蔵の大塚に来り住す。甞て蟇六が信乃を謀て村雨丸を搨かへんとするとき亀篠これを左母二に相譚事ならバ濱路をもてめあはせんと約したり。左母二ハ濱路に心あれバ忽地に諾ひて件の宝刀を搨かゆるとき又更に悪念生じ蟇六にハ贋物をつかませ真の宝刀ハ掠めたり。恁て宮六が婿入の夜竊に濱路を奪去り円塚山まで赴きつゝ那三太郎を殺し尽し又濱路をも殺害す。時に犬山道節あり左母二郎を〓て妹の怨を清む。」〈17〉
節婦濱路
濱路ハ煉馬倍盛の老臣犬山道策が女児にして道節が異母の妹なり。始め実母の悪心によりて父に追れて蟇六が養女となる。甞て信乃に娶せんと言はれていまだ枕を倶にせず。反て簸上宮六になびかせんとす。その婿入の夜に臨みて自ら經死んとするを左母二郎に豪奪せられ圓塚山まで伴はれて既に姦婬せらるべきを節を守りて従はず。左母二を一太刀怨みんとして遂に邪慳の刄にかゝる。尓ども天の惠やありけん。料らず其兄道節に環會怨を清むるのみならず実父実母のうへさへ听て聊今般に志願を遂ぐ。
犬山道節忠與
道節ハ犬山貞與入道道策の男にして是又八犬士の一個也。忠の字の玉を感得す。因て忠與といふ。始め道策に二口の側女あり。その名を黒白阿是非といふ。這時道策戯て曰く汝等速く男子を産バ正妻になさんとなり。時に阿是非ハ道節を産み黒白ハ又濱路を産む。因て阿是非を正妻とす。黒白ハこれを深く妬み或とき阿是非を毒殺なし道節を縊殺せり。然るに道節蘇生して黒白が悪事忽地あらはれ黒白ハ遂に罪せられ濱路ハ生涯不通の義をもて蟇六にとらせたり。恁て池袋の戦ひに主君倍盛父道策も定正の為に討れしかバ道節ハ君父の讐たる」〈18〉
扇谷を覘ひ討んに或ハ寂莫道人と名告料らず妹に環會など〓ハ再出に委くす。
犬川荘助義任
荘助ハ伊豆國北條の荘官犬川衛士則任が一子にして八犬士の一個なり。則任地頭の苛政を諫め用ひられずして自殺せり。そのとき荘助僅に七歳。母と倶に故郷をはなれ大塚の里までさまよひ来て母ハ蟇六の門にて死す。是よりして荘助ハ蟇六の小厮となり仮に額蔵と呼れたり。甞て犬塚信乃に識れてはじめて本心を顕すにいたる。荘助素より義の字の玉を感得す。因て実名を義任といふ。一回信乃を滸我に送り皈路にして道節が妹と名告あふを听這時道節と戦ふて迭に玉を替るの竒事あり。恁て荘官夫婦の為に宮六を討など猶再出に委せん。
足利左兵衛督成氏
成氏ハ鎌倉前管領持氏朝臣の季子なり。幼名を永壽王といふ。甞て鎌倉滅亡
の折しも乳母何某これを抱きて信濃の山中に脱ゆき郡の安養寺に躱れしを管領憲忠の老臣長尾昌賢等相謀りて軈て鎌倉へ迎へとり八州の連帥と仰がれしが後また鎌倉を追落されて下総滸我に在城す。これを滸我の御所といふ。成氏素より不明にして横堀在村を重用し或ひハ現八を獄に苦め或ひハ信乃を芳流閣に捕んとす後里見の囚となりはじめて先非を悔にいたり。信乃よくこれを慰めて村雨丸の宝刀を献らす。」〈19〉
横堀史在村
在村は滸我殿の執権なり。尓どもその性不良にして能を妬み才を忌君のために賢路を塞ぎて漫に我意を弄び賞罰ともに己がまゝにす。然バ犬飼現八が獄吏の職役を固辞て身の暇を乞しとき在村豫て現八が武術に秀しを竊に忌バ
〓を咎として禁獄す。這他忠良の人を虐ぐる事酷し。憎むべし這非義の臣。
新織帆太夫敦光
帆太夫ハ滸我の御所成氏朝臣に仕えて武者頭たり。甞て信乃が現八と引組小舟の中に落し時其舟忽地纜ちぎれて行方も知れずなりしかバ在村軈て帆太夫に命じて信乃が行方を索〔ね〕しむ。帆太夫遂に行徳に赴き古那屋といへる居停に信乃が躱れ在るを知り主人文五兵衛を縛めて信乃を搦捕んとす時に山林房八が義死により犬田小文吾その首をもて信乃なりとして帆太夫に逓与す。帆太夫これを真とおもひ卒に文五兵衛を許して滸我へ皈る。
犬飼現八信道
現八ハ幼名を玄吉と喚れ荘客糠助の子なり。甞てその歳二才のころ滸我の走卒犬飼見兵衞に養取れて名を見八と改め後また現八と名号る。信の字の玉を感得す。因て実名を信道といふ。是又八犬士の随一個なり。更に武術を二階松山城介に学びて允可の高弟なり。養父見兵衛卒りて後獄舎長に轉役せらる。然るに執權在村ハ権威をほしいまゝにするをもて罪なくして獄舎に繋るゝ者多し。現八ハ是が為に呵責の笞を執に忍びず。辞して身の暇を乞に在村阻みて禁獄せられしがこれを赦して犬塚信乃が捕手を命ぜられ遂に芳流閣にて信乃と引組又二犬士名告會ことの畧傳ハ再出すべし。
犬飼見兵衛
見兵衛ハ滸我殿の走卒なり。その身の職録卑しけれども又かの在村が邪に似ず常に慈善の心深く身に〓ひたる程の事ハ人の難義を救はんと誓へり。然るに見兵衛に実子なし。或とき里見へ使して行徳へ来かゝりしとき入江橋の上よりして餓疲れたる行人が稚児を抱きつゝ身を投めんとするを推禁め親にハ些の路銀を取せて遂に其児を購得たり。是則現八なり。現八後に仕えて一万貫の主となり犬飼の家を起す事また見兵衛が慈善の徳歟。」〈21〉
古那屋文五兵衛
文五兵衛ハ神餘の忠臣那古七郎の弟なり。當初兄なる七郎ハ朴平無垢三等と戦ふて朴平がために撃れたり。そのとき文五兵衛十八歳。素より多病なりけれバ逆臣定包を討ことかなはず。遂に行徳に退きて市人とハなりしなり。これに男女二個の子あり。冢子の小文吾といひ次の女児を沼藺といふ。這文五兵衛ハ性として釣する事を深く好めり。時に犬塚犬飼が小舟の中に落累なりて流れて行徳に来たるを見る。軈て二個を家に躱ひ忽地帆太夫が為に縛められしが其禍も程なく解て里見殿に扶持せられ壽をもつて安房に卒る。
房八が妻沼藺 一子大八
沼藺ハ文五兵衛が女児なり。年二八の春の頃市川の舟長山林房八が妻となりて男児一個をまうけたり。夫が名を真平といひ又渾名して大八ともいふ。後に犬江新兵衛と喚れしハ是なり。甞て夫に離別せられて親文五兵衛が家に送らる其夜夫が義死するに及びて倶に房八が手にかゝりて死す。尓どもその死ハ狗死ならず。遂に夫婦が血しほをもて信乃が必死の病ひを〓す。大八が事ハ後帙犬江新兵衛の烈傳に委くす。因て爰にハ名をのみ記しつ。」〈22〉
〓〓犬太
犬太ハ當初鎌倉を追放せられて行徳へハ来たりし者なり。その膂力飽まで剛く心悍くしてしかも曲めり。人咸毒蛇の如く怕れり。或とき犬太ハ酔狂のあまり路上に一條の〓〓索を引渡し索に紙牌を結びさげて此所を過らんと欲するものハ銭百文を出すべし云々とぞ書たりける。往来老弱殆難義す。這とき小文吾十六歳渠が悪行を憤り件の索を引ちぎり遂に犬太を蹂殺して里の患を掃ふたり。恁ハ犬太を殺してより世の人いつか綽號して犬田の小文吾とぞ喚做ける。
塩濱鹹四郎 板〓均太 牛根孟六
鹹四郎孟六均太ハ倶に葛飾の破落戸にて妻もなく子もなきものどもなり。甞て辻相撲を好むをもて小文吾が弟子とすれども心よからぬ奴原ゆへ小文吾親しく寄つけず。然るに祇園の祭の次の日栞崎にて房八が故意と犬田を羞しめて小文吾に怒りを起させ討れて信乃が身代になりなんものをと思へども」〈23〉
犬田ハ親の教訓を守りて更にとりあはざりしを鹹四郎〔ハ〕等ハ傳へ聞(やが)て犬田が家に赴き弟子から師匠を破門するとて詈りあへず打てを小文吾がために投懲され一旦其所を迯皈りしが夜更て再び忍び来り。簀子の下に躱れ居て信乃が此家に在事を聞済しつゝ立出るを忽地現八に捕られ三個斉しく殺されける。
山林房八郎
房八ハ市河の舟長にて家名を犬江屋といふ。父ハ安房の住民にてかの杣木の朴平が一子なるが軈て犬江屋の婿養子となり房八をバ産しなり。恁てその父今般のとき房八を招きていふやう。「俺父杣木朴平どの過ッて国主を殺し近臣那古七郎をも其場において〓仆たり。然るに我娘沼藺が親ハ那古姓の弟のよし。〓今より心を尽し〓文五兵衛親子がうへに事あるときハ命にかへても佐となりて其昔七郎どのを害したる祖父の汚名を雪よ」となり。これによつて房八が謀て小文吾が刃にかゝり信乃が身代になるのみならず遂に夫婦が血しほをもてその難病さへ〓したり。最義者の鑑と言はんか。」〈24〉
犬田小文吾悌順
小文吾ハ文五兵衛が冢子にて是又八犬士の一個たり。悌の字の玉を感得す。因て実名を悌順といふ。其性市人の息子に似ず剱術拳法相撲の手まで習得ずといふ事なし。然れども常に温和にして父に仕えて又孝なり。甞て犬塚を躱ふに及び千辛万苦したりしに山林が義死によりて父の縛を解のみならず料らずゝ大照文に遭て里見に過世ある事を知り軈て犬塚犬飼を武蔵の大塚へ送り往きて又かの額蔵の必死を救ひ倶に走て荒芽山に赴くなど犬士の傳ハ何れも長かり。因て再出に委くす。
蜑崎十一郎照文
照文ハ里見の家臣にして伏姫の傅たりし蜑崎十郎照武が冢男なり。甞て義実の命を被り普く犬士を招んが為に竊に関の東なる國々を潜行つ或ひハ修験者観得と仮名して遂に小文吾信乃等をはじめ八犬士を具足せしめ斉しく安房に集るに及びてよく招賢の義にかなへりとて数千貫文の加恩を賜ふ。又是一個の功臣といふべし。」〈25〉
日本橋通壹丁目 須原屋茂兵衛
同 貳丁目 山城屋佐兵衛
同 所 小林新兵衛
芝 神 明 前 岡田屋嘉七
東都 同 所 和泉屋市兵衛
本石町十軒店 英 大 助
芳町親仁橋角 山本平吉
書林 大傳馬町二丁目 丁子屋平兵衛
横山町壹丁目 出雲寺万次郎
浅草茅町二丁目 須原屋伊八
横山町三丁目 和泉屋金右衛門
馬喰町貳丁目 山口屋藤兵衛板」
〔後ろ表紙〕