『南總里見八犬傳』第二十四回


【本文】
 第(だい)廿四回(くわい) 〔軍木(ぬるで)(なかたち)して荘官(せうくわん)に説(と)く蟇六(ひきろく)(いつは)りて神宮(かには)に漁(すなとり)す〕
 却説(かくて)陣代(ぢんだい)簸上(ひかみ)宮六(きうろく)は、曩(さき)に荘官(せうくわん)(ひき)六が女児(むすめ)濱路(はまぢ)を眷憐(みそめ)てより、恋々(れん/\)の慾火(よくくわ)(とゞ)めかたくて、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘(わす)られず、媒妁(なかたち)もがな、と思ふ氣色(けしき)の、坐(そゞろ)に顕(あらは)れたりけれは、媚(こび)て勢利(せいり)を旨(むね)とする、そが属役(したつかさ)軍木(ぬるて)五倍二(ごばいじ)、傍(かたへ)に人(ひと)なき折(をり)を見て、宮(きう)六にいふやう、「人(ひと)思ひあれば色(いろ)に出(い)づ。色(いろ)に出(いづ)れは人(ひと)もしるなり。某(それがし)属者(ちかころ)、尊公(そんこう)の氣色(けしき)によりて、既(すで)にその意(ゐ)を察(さつ)したり。そは必(かならず)(ひき)六が女児(むすめ)なる、濱路(はまぢ)とやらんが事なるべし。槐門(くわいもん)貴族(きぞく)の姫上(ひめうへ)ならば、及(およ)びかたき事もあるべし。尊公(そんこう)配下(はいか)の一(いつ)荘官(せうくわん)、そが女児(むすめ)のうへならば、なでふ御(み)こゝろを労(ろう)し給ふに及(およば)ん。もし娶(めと)り給はんとならば、某(それがし)媒妁(なかだち)仕らん。一卜たび言(こと)を傳(つた)へなば、蟇(ひき)六歡(よろこ)びて承引(うけひく)べし。尊意(そんゐ)如何(いかに)」と密語(さゝやけ)ば、宮六(きうろく)莞然(につこ)とうち笑(ゑみ)て、「寔(まこと)に和殿(わとの)の察知(さつち)の如(ごと)し。さばれ濱路(はまぢ)は、蟇(ひき)六が一女(ひとりむすめ)なり。且(かつ)(むこ)かねもありと聞(き)けば、輒(たやす)くは承引(うけひく)べからず。われこの故(ゆゑ)に思へ共、思ひかねつゝ思はずに、和殿(わどの)に怪(あや)しめられし也」といへば五倍二(ごばいじ)小膝(こひざ)を進(すゝ)め、「それは尊公(そんこう)遠慮(ゑんりよ)に過(すぎ)たり。蟇(ひき)六は配下(はいか)の荘官(せうくわん)、倒(たふ)さんとも起(おこ)さんとも、公(こう)の御(み)こゝろひとつにあらん。尓(しか)らば壻(むこ)がねありといふとも、忽地(たちまち)に変改(へんかい)して、こだみの婚縁(こんえん)を結(むす)ぶべし。渠(かれ)もし遅々(ちゝ)して迷(まよ)ひを取(と)らば、是(これ)自滅(じめつ)を招(まね)くなり。某(それがし)これらの利害(りがい)によりて、説(と)かば必(かならず)(したが)はん。御(み)こゝろやすく思ひたまへ」と誇皃(ほこりか)に肯(うけが)ふにぞ、宮六(きうろく)(なゝめ)ならず歡(よろこ)びて、次(つぎ)の日(ひ)種々(くさ/\)の聘物(おくりもの)を、七八人(ン)の奴隷(しもべ)に舁(かゝ)して、軍木(ぬるで)五倍二(ごばいじ)を媒妁(なかたち)とし、私(ひそか)に蟇(ひき)六が宿所(しゆくしよ)に遣(つかは)しけり。
 さる程(ほど)に五倍二(ごばいじ)は、蟇六(ひきろく)(がり)(おもむ)きて、軈(やが)てあるじに對面(たいめん)し、簸上(ひかみ)(きう)六が懇望(こんまう)の事(こと)の趣(おもむき)、婚縁(こんえん)の一議(いちぎ)を述(のべ)て、只管(ひたすら)に説勸(ときすゝむ)るに、蟇(ひき)六早(とみ)に応(いらへ)せず。「且(まづ)荊妻(けいさい▼ワガツマ)に相譚(かたらふ)て、ともかくも仕らん」といひかけて退(しりぞ)きしが、俟(まつ)こと半〓(はんとき)あまりにして、やうやくにいで來(き)つ。五倍二(ごばいじ)に對(むか)ひていふやう、「おん媒妁(なかたち)の趣(おもむき)を、濱路(はまぢ)が母(はゝ)にも示(しめ)し候ひき。寔(まこと)に思ひかけもなく、よろづ御蔭(みかげ)を庇(かうむ)るなる、簸上(ひかみ)大人(うし)(ねんごろ)に、濱路(はまぢ)を娶(めとり)給はんとて、しかも亦(また)重重(おもおも)しき、媒妁(なかたち)を賜(たまは)りしは、親子(おやこ)が僥倖(こぼれさいはひ)也。しかはあれども、こゝにひとつの難義(なんぎ)あり。犬塚(いぬつか)信乃(しの)といふものは、妻(つま)亀篠(かめさゝ)が甥(おひ)なるに、云云(しか/\)の故(ゆゑ)をもて、稚(おさな)きより、養(やしな)ひとり、濱路(はまぢ)と養子(やうし)(あはせ)にして、職禄(しよくろく)を讓(ゆづ)らん、と契約(けいやく)して候に、當時(たうじ)證人(せうにん)(あまた)あり。素(もと)より信乃(しの)を女壻(むこ)にすなるは、わが夫婦(ふうふ)の情願(ねがひ)にあらず、又(また)濱路(はまぢ)が情願(ねがひ)にも候はず。只(たゞ)里人(さとひと)(ら)が贔負(ひく)ゆゑに、已(やむ)ことを得(え)ず候なり。かゝれば信乃(しの)を遠離(とほさけ)て、後(のち)にこそおん籍(うけ)を仕らめ」といはせもあへず、五倍二(ごばいじ)は冷笑(あざわら)ひ、「いはるゝ趣(おもむき)胡乱(うろん)也。よしや然(さ)るすぢあるにもせよ、一トわたりに聞(き)くときは、言(こと)を両端(りやうたん)に寓(よ)するに似(に)たり。簸上(ひかみ)(うぢ)へ婚縁(こんえん)を、結(むすば)んと思ふ事、偽(いつは)りなきものならば、治定(ぢじやう)の返答(へんたう)し給ひて、後(のち)に彼(かの)(むこ)がねを、遠離(とほさく)るとも遅(おそ)きにあらず。某(それがし)不肖(ふせう)なれども、當城(たうぜう)の属役(しよやく)たり。陣代(ぢんだい)の為(ため)に媒妁(なかたち)して、胡乱(うろん)の返答(へんとう)は傳(つた)へかたし。迷(まよ)ひを取(と)らば和殿(わどの)がうへ也。冥罰(めうばつ)は速(すみやか)ならんに、當坐(たうざ)に决著(けつちやく)せられぬは、いかにぞや」と威(おど)されて、蟇(ひき)六は忽地(たちまち)に、顔色(がんしよく)(あを)みて、歯戦(はぶるひ)し、答(こたへ)んとするに得(え)いはれず、やうやくに我(われ)にかへりて、思はず太(ふと)き息(いき)を吻(つ)き、「軍木(ぬるで)(こう)説得(ときえ)て理(り)あり。某(それがし)短才(たんさい)魯鈍(ろどん)なれ共、再(ふたゝ)び得(え)かたき女児(むすめ)が婚縁(こんえん)、いかでか推辞(いなみ)奉らん。只(たゞ)その故障(こせう)あるよしを、まうすまでにて候ひし。されば件(くだん)の障(さゝはり)を、穩便(おんびん)に除(のぞか)ん事、容易(ようゐ)にはなしかたし。こはわが親子(おやこ)の為(ため)のみならず、後々(のち/\)まで簸上(ひかみ)殿(との)のおん為(ため)に候へば、苦心(くしん)して計(はか)るべし。且(まづ)その期(ご)に至(いた)るまで、婚縁(こんえん)の議(ぎ)を秘(ひ)し給ひね。仰(おふせ)には背(そむき)候はず」といふに五倍二(ごばいじ)(おもて)を和(やわ)らげ、「いはるゝ趣(おもむき)こゝろえたり。早速(さうそく)の承諾(せうだく)は、某(それがし)さへに面目(めんもく)なり。性急(せいきう)に似(に)たれども、吉日(きちにち)なれば、陣代(ぢんだい)より、贈(おくら)るゝ聘礼(たのみ)の件々(しな/\)、齎(もたら)して候なり」といひつゝ目録(もくろく)を逓与(わた)すになん、外面(とのかた)に在(あ)る軍木(ぬるで)が若黨(わかたう)、主(しゆう)の咳(しはぶき)を暗号(あひづ)にて、件(くだん)の聘物(おくりもの)を運(はこ)び入(い)れつゝ、処陜(ところせき)まで縁頬(えんがは)へ、ひとつ/\に並(ならべ)すえたり。蟇(ひき)六は、と見かう見て、胸(むね)うち騒(さは)けど、辞(ぢ)するによしなく、受書(うけふみ)を写(したゝ)めて、五倍二(ごばいじ)に逓与(わた)しつ、歡(よろこ)びの盃(さかつき)を、進(まゐら)せんとて奴婢(ぬび)を召(よ)ぶを、五倍二(ごばいじ)(きう)に推禁(おしとゞ)め、「いまだ彼(かの)障礙(せうげ)を除(のぞ)かで、賀酒(よろこびさけ)に時(とき)を移(うつ)さば、忽地(たちまち)闔宅(やうち)のものにしられて、後(のち)に事を行(おこな)ひかたけん。簸上(ひかみ)殿(との)もいかばかりか、待(まち)わびしくこそおはすらめ。饗應(けうおふ)は且(しばら)く預(あづ)けて、はや罷(まか)らん」と身(み)を起(おこ)せば、蟇(ひき)六は、さなりと応(いらへ)て、敢(あへて)(また)これを禁(とゞ)めず、恭(うや/\)しく額(ぬか)をつき、「倉卒(さうそつ)至極(しごく)、遺憾(いかん)千万(せんばん)、さらば再(かさね)て來臨(らいりん)まで、預(あづか)り侍(はべ)る」と先(さき)にたちて、玄関(げんくわん)の板敷(いたしき)まで、送(おく)り出(いで)つゝおのが名(な)の、蟇(ひき)に等(ひと)しく身(み)を平(ひら)めかして、臂(ひぢ)を張(は)り、頭(かうべ)を擡(もたげ)、「寔(まこと)に千秋(せんしう)萬歳(ばんぜい)」と迭(かたみ)に祝(しく)し、祝(しく)されて、留(とゞま)る舅(しうと)、媒人(なかうど)は、披(ひら)く扇(あふぎ)に夕日影(ゆふひかげ)、土用(どよう)(ちか)つく俄晴(にはかはれ)、長櫃(ながひつ)(かき)し従者(ともひと)(ら)は、吹入(ふきい)るゝ風(かぜ)を誉(ほめ)あへず、主(しゆう)の後方(あとべ)に引(ひき)そふたり。蟇(ひき)六は見送(みおくり)(はて)て、そが侭(まゝ)裡面(うち)に入(い)る程(ほど)に、竊聞(たちきゝ)したる亀篠(かめさゝ)は、やをら紙門(ふすま)を推(おし)ひらきて、彼(かの)種種(くさぐさ)の聘物(おくりもの)を顋(あご)もて数(かぞへ)て、うち微笑(ほゝゑ)み、「吁(あな)めでたの結納(ゆひいれ)や」といへば蟇(ひき)六手(て)を抗(あげ)て、「音(おと)(たか)し、人(ひと)もや聞(きか)ん。濱路(はまぢ)と信乃(しの)(ら)にしられ給ふな。この品々(しな/\)には大袱(おほふろしき)を、とくうち被(かけ)給はずや。おん身(み)(しばら)く張番(はりばん)せよ。われ土藏(ぬりこめ)へ運(はこ)び入(い)れて、長櫃(ながひつ)の中(うち)に隱(かく)さん。あなや/\」と焦燥(いらたて)ば、亀篠(かめさゝ)は忙(いそがは)しく、袱(ふろしき)(あまた)もて來(き)つゝ、被(き)すれば蟇(ひき)六袴(はかま)の稜(そば)を、〓挾(つまばさみ)して袖(そで)巻揚(まきあげ)、女児(むすめ)に見せぬ聘礼物(たのみのしるし)は、親(おや)のみ靡(なび)く柳樽(やなぎたる)、母(はゝ)が竊(ひそか)によろこん布(ふ)の、和名(わめう)はひろめ、鯣(するめ)より、なほ重宝(ちやうほう)は鰹(かつを)の脯(ほしゝ)、これらはさせる直(ね)うちなし。特(こと)に氣(き)を張(は)られしは、飾附(かざりつけ)の白髪苧(しらがそ)より、なほ素(しろ)やかなる白銀(しろかね)也。しかも生(なま)にて二十枚(まい)、これに並(なら)びて巻衣(まきゝぬ)五本(ほん)、「綾(あや)にやあらん、錦(にしき)(か)」と木口(こくち)を見るのみ觧(と)く隙(ひま)なし。白木(しらき)の臺(だい)はなくもがな、と思ふ物(もの)からこゝには置(おか)れず。二ッ左右(さゆう)に引提(ひきさげ)て、藏(くら)の戸口(とくち)を出(で)つ入(い)りつ、わが物(もの)ながら夫婦(ふうふ)して、盗(ぬす)むがごとき心配(しんはい)は、その度(たび)(ごと)に「人(ひと)や見る。來(こ)ずや」と問(と)へば、「來(こ)ず」といふ。鸚鵡(あふむ)かへしは歌(うた)ならで、わが腰折(こしを)れん疲労(つかれ)(あし)、辛(から)くも隱(かく)し藏(おさ)めけり。時(とき)しもながき夏(なつ)の日(ひ)なれば、奴婢(ぬひ)は彼此(あちこち)に睡臥(ねふりこけ)、濱路(はまぢ)は納戸(なんど)に只(たゞ)ひとり、洗衣(あらひきぬ)を熨斗(のし)てをり。信乃(しの)は菩提院(ぼだいいん)へ詣(まうつ)るとて、嚮(さき)に出(いで)たるが、いまだ還(かへ)らず。只(たゞ)額藏(がくざう)のみ、いづ処(こ)にかをりけん、蟇(ひき)六が彼(かの)品々(しな/\)を、運(はこ)び隱(かく)して後(のち)に見れば、客房(きやくざしき)の次(つぎ)の間(ま)に、単衣(ひとへきぬ)の領(えり)をひらきつゝ、蚤(のみ)を捻(ひねり)て居(ゐ)たりける。
 さる程(ほど)にその夜(よ)さり、あるじ夫婦(ふうふ)は臥房(ふしど)に入(いり)て、臥(ふし)つゝ簸上(ひかみ)宮六(きうろく)が、婚縁(こんえん)の事を密語(さゝやき)て、信乃(しの)を亡(うしな)ふべき計策(はかりこと)を商量(だんかふ)す。當下(そのとき)亀篠(かめさゝ)は、葡萄(はらばひ)(ふし)て、枕(まくら)に手(て)を掛(かけ)、「かくまで愛(めで)たき事あるべしとは、神(かみ)ならぬ身(み)のしらずして、わらはが豫(かね)て思ひしは、彼(かの)網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)は、管領家(くわんれいけ)に仕(つかへ)しとき、禄(ろく)(あまた)(たまは)りし、出頭人(きりもの)なりき、と聞(きこ)えたり。又(また)云云(しか/\)の故(ゆゑ)をもて、退糧人(らうにん)にはなりたれども、云云(しか/\)のすぢあれば、遠(とほ)からずして鎌倉(かまくら)へ、召(めし)かへされん、とみづからいへり。渠(かれ)が濱路(はまぢ)を眷(み)る目(め)にて、その情(ぜう)あるよしをば知(し)りつ。こゝらに稀(まれ)なる美男(びなん)なれば、濱路(はまぢ)も終(つひ)には信乃(しの)が事を、思ひ忘(わす)れて、彼(かの)(ひと)と、情由(わけ)あれかし、と淫奔(いたつら)を、誨(をしゆ)るにはあらねども、些(ちと)の情(なさけ)を被(かけ)ておかば、彼(かの)(ひと)帰参(きさん)せん時(とき)に、それ程(ほど)の利益(りやく)はあらん。末(すゑ)おぼつかなき所以(わざ)なれども、濱路(はまぢ)と信乃(しの)が間(なか)を堰(せ)く、柵(しがらみ)になるものは、親(おや)の護(も)る目(め)の隙(ひま)なきより、外(よそ)へこゝろをうつし繪(ゑ)の、浦(うら)の網乾(あぼし)に濱路(はまぢ)の女松(めまつ)、繋(つな)ぎ留(とむ)るにますものなし、とおもひしはそら憑(だの)めにて、今(いま)は渠(かれ)さへ障(さゝはり)の、そのひとつになることもやあらん。男態(をとこぶり)は美(よく)もあれ、召(めし)かへさるゝや、返(かへ)されずや、固(もと)より不定(ふじやう)の痩浪人(やせらうにん)と、威徳(いきほひ)をさ/\城主(ぜうしゆ)に等(ひと)しき、陣代(ぢんだい)殿(どの)とはひとつにしがたし。悔(くや)しき事をしてけり」と舌(した)うち鳴(な)らせば、蟇(ひき)六は、起直(おきなほ)りて手(て)を叉(こまぬ)き、「つら/\物(もの)を案(あん)するに、濱路(はまぢ)は今(いま)の女(め)の子(こ)に似(に)げなく、鄙言(ことわざ)にいふ馬鹿(ばか)正直(せうぢき)。信乃(しの)を良人(をつと)と思ひとりて、貞操(みさほ)をも立(たて)かねまじき、渠(かれ)が氣質(きしつ)を推(お)すときは、縦(たとひ)左母二郎(さもじらう)が袖(そで)を曳(ひく)とも、志(こゝろさし)を移(うつ)すべからず。さばれおん身(み)はわれにまして、見(み)も聞(きゝ)もせし事あるべし。濱路(はまぢ)が網乾(あぼし)と情由(わけ)あるを、認(みとめ)たりや」と潜(ひそめ)き問(とへ)ば、亀篠(かめさゝ)(かうべ)をうち掉(ふり)て、「いな網乾(あぼし)こそ情(ぜう)をも運(はこ)べ、濱路(はまぢ)は何(なに)とも思はぬやうなり。信乃(しの)とが情由(わけ)はわすれもせぬ、去歳(こぞ)の秋(あき)、糠助(ぬかすけ)が、死向(しになん/\)とせし比(ころ)に、信乃(しの)が子舎(へや)より忙(あはたゝ)しく、濱路(はまぢ)が出(いづ)るをちらと見つ。これより後(のち)は由断(ゆだん)せず、目〓(まなさや)(はづ)して護(も)る程(ほど)に、そがほとりへもよらせねど、已前(いぜん)には野合(ころびあひ)し歟(か)。とにかく邪魔(ざま)になるものは、信乃(しの)一人(ひとり)にこそ侍(はべ)らめ」といへば蟇(ひき)六嘆息(たんそく)して、「荘客(ひやくせう)(ばら)が口囂(くちかしま)しさに、當坐(たうざ)(のが)れの思はずに、濱路(はまぢ)を信乃(しの)に妻(めあは)せん、といひつる事の悔(くや)しさよ。寔(まこと)に口(くち)は禍(わざはひ)の、門(かど)の檜(ひのき)は一卜年(とせ)に、十尋(とひろ)廿尋(はたひろ)(のび)るとも、いひ延(のべ)かたき陣代(ぢんだい)の、性急(せいきう)をいかにせん。只(たゞ)(すみやか)に信乃(しの)を亡(うしな)ひ、後(うしろ)やすくするこそよけれ。為(せん)(すべ)あらん」と眉(まゆ)をよせ、霎時(しばし)(かうべ)を傾(かたふく)れば、遠寺(ゑんじ)の鐘(かね)の声(こゑ)とゝもに、〓(かや)にとり著(つ)く蚊(か)の叫(さけ)び、其処(そこ)に三ッ四ッ、六ッ七ッ、家裡(やうち)の人(ひと)は定(しづま)りて、夜(よ)は九ッになりにけり。且(しばらく)して蟇(ひき)六は、頭(かうべ)を挙(あげ)て莞尓(につこ)と咲(ゑ)み、「亀篠(かめさゝ)いまだ尋思(しあん)はあらずや。われ妙計(めうけい)を生(せう)じたり」といふに亀篠(かめさゝ)起直(おきなほ)りて、「その妙計(めうけい)とはいかなる事ぞ」と傾(かたむく)る耳(みゝ)を引(ひき)よせて、「顧(おも)ふに信乃(しの)は頗(すこぶる)思慮(しりよ)あり。熟(うま)く渠(かれ)を計(はから)ん事、苦肉(くにく)にあらざれば施(ほどこ)しがたし。抑(そも/\)(さきの)管領(くわんれい)成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)は、番作(ばんさく)信乃(しの)(ら)が主(しゆう)すぢなれば、これによらば計(はか)りつべし。さても足利(あしかゞ)成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)は、持氏(もちうぢ)のおん子(こ)にて、むかし結城(ゆふき)落城(らくぜう)の後(のち)(うた)れ給ひし、春王(しゆんわう)安王(あんわう)の弟(おとゝ)なるが、成氏(なりうぢ)(いまだ)永壽王(ゑいじゆわう)と稱(せう)せられし、宝徳(ほうとく)四年(ねん)の春(はる)、京都(きやうと)將軍(せうぐん)の恩免(みゆるし)を蒙(かうむり)給ひて、鎌倉(かまくら)に立(たち)かへり、六代(ろくだい)の管領(くわんれい)なりしに、その重臣(ちやうしん)、摂管領(せつくわんれい)、扇谷(あふきがやつ)持朝(もちとも)ぬし、山内(やまのうち)顕房(あきふさ)ぬしと睦(むつま)しからず。君臣(くんしん)相攻(あひせむ)ること年(とし)ありて、享徳(きやうとく)四年(ねん)六月十三日〔一ニ云(いふ)、康(こう)(せい)元年(ぐわんねん)。〕成氏(なりうぢ)(つひ)に、鎌倉(かまくら)の御所(ごしよ)を放火(ほうくわ)せられ給ひしかば、下總國(しもふさのくに)に赴(おもむ)き、猿嶋郡(さしまのこふり)、許我(こが)の熊浦(くまうら)といふ処(ところ)に屋形(やかた)を修理(しつら)ひ、こゝに移(うつ)り給ふにより、許我(こが)の御所(ごしよ)とぞ唱(となへ)たる。かくて又(また)、文明(ぶんめい)四年(ねん)には、成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)、山内(やまのうち)顕定(あきさだ)ぬしに、許我(こが)の城(しろ)を攻落(せめおと)されて、同國(どうこく)千葉(ちば)へ没落(ぼつらく)し、千葉(ちば)陸奥守(むつのかみ)康胤(やすたね)を頼(たの)みてをはせしに、今茲(ことし)〔文明(ぶんめい)十年。〕両(りやう)管領(くわんれい)と、おん和睦(わぼく)の議(ぎ)(とゝの)ひて、許我(こが)へ帰城(きぜう)し給ひし、と世(よ)の風声(ふうぶん)に隱(かく)れなし。われ今(いま)これらの事によりて、信乃(しの)を云云(しか/\)と欺(あざむ)きて、神宮河(かにはかは)へ誘引(さそひ)(いだ)さん。おん身(み)は翌(あす)、昼(ひる)の間(ま)に、竊(ひそか)に左母二郎(さもじらう)が宿所(しゆくしよ)へいゆきて、箇様(かやう)々々(/\)にこしらへ給へ。この謀(はかりごと)合期(がつこ)せば、彼(かの)村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)を畧(と)るべし。これは是(これ)苦肉(くにく)の一計(いつけい)、尤(もつとも)(ほどこ)し難(かた)しといへども、如此(しか)せざればいかにして、手剛(てごは)き彼奴(かやつ)を賺(すか)し得(う)べき。件(くだん)の宝刀(みたち)わが手(て)に入(い)らば、又(また)額藏(がくざう)に如此(しか)々々(/\)と説示(ときしめ)し、途(みち)にて信乃(しの)を亡(うしなは)せん。首尾(しゆび)わが計(はか)る如(ごと)くなりて、濱路(はまぢ)を陣代(ぢんだい)へ嫁(よめ)らするとき、左母二郎(さもじらう)に口説(くぜつ)あるべし。渠(かれ)もし狂(くる)ひて威勢(いきほひ)を憚(はゞか)らず、妨(さまたげ)する事あらんには、簸上(ひかみ)殿(との)に訴(うつたへ)て、搦捕(からめとら)するもいと易(やす)し。只(たゞ)むづかしきは信乃(しの)が事也。必(かならず)(さと)られ給ふな」としのび/\に説示(ときしめ)せば、亀篠(かめさゝ)(きゝ)て感嘆(かんたん)し、「寔(まこと)に浮雲(あぶな)き所為(わざ)なれども、おん身(み)はわかき時(とき)よりして、水煉(すいれん)は達者(たつしや)也。老(おい)ては初(はじめ)に劣(おと)るとも、舩頭(せんどう)に賄賂(まいな)ふて、資(たすけ)にせば過失(あやまち)あらじ。網乾(あぼし)を謀(はか)るはわらはにあり。復(また)(のたま)ふな、こゝろ得(え)(はべ)り。かくてはやうやく安堵(おちゐ)たり。陣代(ぢんだい)を壻(むこ)にせば、村々(むら/\)の事いふもさら也、威徳(いきほひ)城主(ぜうしゆ)に等(ひと)しかるべし。吁(あな)(たの)しや」と歡(よろこ)びの、溢(こぼ)るゝ笑(ゑみ)を洩(もら)さじ、と掌(たなそこ)(くち)に推當(おしあて)つゝ、迭(かたみ)に耳(みゝ)を取(とり)かはし、相譚(かたらひ)(はつ)れば夏夜(なつのよ)の、暁(あけ)かた近(ちか)くなるまゝに、蟇(ひき)六も亀篠(かめさゝ)も、慾(よく)に疲労(つか)れて小手(こて)まくら、ぬるとはなしに目睡(まどろみ)けり。
 されば亀篠(かめさゝ)は次(つぎ)の日(ひ)(ひつじ)下刻(くだるころ)、里(さと)の不動堂(ふどうだう)へ詣(まうつ)る、と偽(いつは)りて、ひとり漫(そゞろ)に背門(せど)より出(いで)て、竊(ひそか)に網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)が宿所(しゆくしよ)に赴(おもむ)き、外(と)に立在(たゝずみ)て窺(うかゞ)ふに、手習子(てらこ)(ら)ははや退(しぞ)き去(さり)て、歌曲(うた)の弟子(をしえこ)はいまだ來(きた)らず。あるじはもたれ柱(はしら)に倚(より)て、一節切(ひとよきり)を吹(ふき)てをり。折(をり)こそよけれ、と進(すゝ)み入(い)るを、左母二郎(さもじらう)見かへりて、忽地(たちまち)(ふえ)の手(て)をとゞめ、「こは珎(めづら)し、何等(なにら)の風(かぜ)の吹(ふき)よせてや、みづから訪(とは)せ給ひたる。いざこなたへ」と立迎(たちむか)へて、花莚(はなむしろ)を披(ひら)きつゝ、上座(かみくら)へ推居(おしすゆ)れば、亀篠(かめさゝ)は莞(にこ)やかに、「いな、人傳(ひとつて)にはいひかたき、彼此(かれこれ)の一議(いちぎ)あり。おん身(み)が智惠(ちゑ)を借(から)んと思ひて、ひとり竊(ひそか)に詣來(まうき)たり。外(よそ)へ心(こゝろ)をつけてたべ」といふに網乾(あぼし)はこゝろ得(え)て、出居(いでゐ)の簾(すだれ)(ひき)おろし、そがまゝ奥(おく)へ坐(ざ)をすゝめて、間近(まちか)く耳(みゝ)をさしよすれば、亀篠(かめさゝ)(こゑ)を低(ひくう)して、「いといひかたき事なれども、おん身(み)が濱路(はまぢ)と情由(わけ)ある事、わらはは豫(かね)てしるものから、わかきどちは誰(たれ)も彼(か)も、よにあるまじき事には侍(はべ)らず。見捐(みすて)てだに給はらずは、壻(むこ)がねにとまで思へども、いかにせん、濱路(はまぢ)と信乃(しの)が稚(おさな)きとき、如此(しか)々々(/\)のことありて、里人(さとひと)(ら)に媒妁(なかたち)せられ、夫婦(ふうふ)にせん、といひ号(なつけ)し、言葉(ことば)は今(いま)さら反故(ほんこ)に得(え)ならず。荘官(せうくわん)とのもこゝろには、おん身(み)を愛(あい)して、信乃(しの)がなくば、壻(むこ)にせん。家(いへ)をも嗣(つが)せん。信乃(しの)は妻(つま)の〓(おひ)ながら、箇様(かやう)々々(/\)の怨(うらみ)ある、番作(ばんさく)が子(こ)にしあれば、わが為(ため)になるものにはあらず。いかで彼奴(かやつ)を遠離(とほさけ)て、おん身(み)を壻(むこ)にと豫(かね)てより、いはれしことの空(むな)しからで、如此(しか)々々(/\)に計(はか)りなば、信乃(しの)は他郷(たけう)へ赴(おもむ)くべし。就(つき)ては渠(かれ)が稚(をさな)き時(とき)に、壻(むこ)引出(ひきで)とて取(と)らせたる、荘官(せうくわん)どのゝ秘藏(ひさう)の一口(ひとふり)、世(よ)に類(たぐひ)なき名劍(めいけん)を、とり復(かへ)さんと思へども、明々地(あからさま)に求(もと)めては、返(かへ)すべくもあらずかし。よりて云云(しか/\)に計(はか)りなん。おん身(み)も亦(また)云云(しか/\)に相計(はから)ひて、荘官(せうくわん)どのゝ佩料(さしれう)もて、信乃(しの)が件(くだん)の一卜刀(こし)を、搨替(すりかえ)てたびてんや。勿論(もちろん)こなたの一刀(ひとこし)も、長短(ながさみしかさ)を豫(かね)て量(はか)りて、その用意(ようゐ)するならば、〓(さや)あひかたき事はあらじ。事(こと)なるときはこよなき幸(さいは)ひ、おん身(み)が為(ため)にも侍(はべ)らずや」と虚事(そらごと)実事(まこと)とり雜(まじ)へ、辞巧(ことばたくみ)にこしらゆれば、左母二郎(さもじらう)はつく/\と、聞(きゝ)つゝ愧(はぢ)たる面色(おもゝち)にて、額(ひたひ)に手(て)を當(あて)、沈吟(うちあん)したる、頭(かうべ)を擡(もたげ)て四下(あたり)を見かへり、「人(ひと)がましく思はれずは、かゝる密事(みつじ)をいかにして、佻々(かろ/\)しく相譚(かたらひ)給はん。こゝろ得(え)て候也。さばれ某(それがし)(ぢやう)さまに、懸想(けさう)せざるにあらざれども、鮑(あはび)の貝(かい)の片思(かたもひ)にて、彼君(かのきみ)はいと強顔(つれな)し。そを情由(わけ)ありと宣(のたま)ふは、おん目鏡(めかね)の曇(くも)れるならん。さるを某(それがし)化骨(あだほね)(をり)て、首尾(しゆび)よく大刀(たち)を搨替(すりかえ)たりとも、娘(ぢやう)さまなほも氣(き)づよくは、家尊(かぞ)父母(いろは)もせんすべなからん。この議(ぎ)はいかに」と期(ご)を推(お)せば、亀篠(かめさゝ)ほゝと打笑(うちわら)ひ、「あな鈍(おぞ)ましや、粹(すい)には似(に)げなし。信乃(しの)がをらずならんには、濱路(はまぢ)は誰(たれ)にか憚(はゞか)るべき。渠(かれ)が靡(なび)くと靡(なび)かぬは、すべておん身(み)のこゝろにあらん。二親(ふたおや)の知(し)る事には侍(はべ)らず。親(おや)の許(ゆる)さぬ夫(をとこ)に連(つれ)て、逃亡(にげはし)るもの世(よ)に夛(おほ)かり。况(いはんや)(おや)が壻(むこ)がねに、定(さだめ)て後(のち)は睦(むつま)しきも、睦(むつま)しからぬも楫(かぢ)を執(と)る、夫(をとこ)の才(さえ)と不才(ふさい)にあり。これは是(これ)江湖(よのなか)の、わかきどちのうへをいふのみ。わらはが目(め)にすら情由(わけ)あらん、と見ゆるおん身(み)と濱路(はまぢ)が事は、衆人(もろひと)(ねた)む姿(すがた)の池(いけ)の、波(なみ)のうね/\浮草(うきくさ)に、竿(さほ)さす舟(ふね)の隔(へだつ)る共、終(つひ)にひとつによらざらんや。期(ご)を推(お)すこと歟(か)」とうち笑(わら)へば、左母二郎(さもじらう)は頭(かうべ)を掻(か)き、「しか聞(き)けば理(ことわ)りなり。後(のち)の事は後(のち)にして、まづ要緊(えうきん)は大刀(たち)の事、容易(ようゐ)の所為(わざ)にはあらざれども、命(いのち)にかえて仕(つかまつ)らん」といふに亀篠(かめさゝ)ます/\歡(よろこ)び、更(さら)に額(ひたひ)をうち合(あは)せて、その日(ひ)の暗号(あひづ)、事(こと)の首尾(しゆび)、「これは如此(しか)々々(/\)、彼(かれ)は亦(また)、箇様(かやう)々々(/\)」とおちもなく、耳語(さゝやき)つ、点頭(うなづき)つ、思はず時(とき)を移(うつ)せしかば、亀篠(かめさゝ)は遽(いそがは)しく、別(わかれ)を告(つげ)て走(はし)り出(いで)、軈(やが)て宿所(しゆくしよ)へ還(かへ)りつゝ、竊(ひそか)に事(こと)の趣(おもむき)を、蟇(ひき)六に告(つげ)しかば、蟇(ひき)六ふかく歡(よろこ)びて、只顧(ひたすら)に亀篠(かめさゝ)が、口才(こうさい)を稱讃(せうさん)し、「かゝれば信乃(しの)を謀(はか)るに易(やす)かり。面白(おもしろ)し/\」と含咲(ほくそゑみ)してゐたりける。
 かくてその日(ひ)は暮(くれ)にければ、蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)は、信乃(しの)を閑室(かんしつ)に召(よび)ていふやう、「曩(さき)には里(さと)の誰彼(たれかれ)が、和殿(わどの)に濱路(はまぢ)を妻(あは)せよとて、しば/\催促(さいそく)したれども、豊嶋家(としまけ)の滅亡(めつぼう)により、去歳(こぞ)は世間(よのなか)(しづか)ならで、心(こゝろ)ならずも延引(ゑんいん)せり。しかるに今茲(ことし)は、許我(こが)の御所(ごしよ)、成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)、両(りやう)管領家(くわんれいけ)と和議(わぎ)(とゝの)ひ、千葉(ちば)より熊浦(くまうら)へ、帰城(きぜう)ならせ給へり、と聞(きけ)り。祖父(おほぢ)匠作(せうさく)ぬしは、成氏(なりうぢ)の御(ご)舎兄(しやけう)、春王(しゆんわう)安王(あんわう)(りやう)公達(きんたち)の近臣(きんしん)なりき。よりて番作(ばんさく)も父(ちゝ)と共(とも)に、一旦(いつたん)結城(ゆふき)に籠城(ろうぜう)したり。かゝれば素(もと)より彼(かの)御所(ごしよ)は、和殿(わとの)が為(ため)に主(しゆう)すぢなれども、山内(やまのうち)扇谷(あふきがやつ)の両家(りやうけ)と不和(ふわ)にして鎌倉(かまくら)を追落(おひおと)され、許我(こが)にすら身(み)を置(おき)かねて、千葉(ちば)を憑(たの)みてをはせし程(ほど)に、當城(たうぜう)のぬし大石(おほいし)殿(との)も、鎌倉(かまくら)へ出仕(しゆつし)して、両(りやう)管領(くわんれい)に属(しよく)し給へば、許我(こが)殿(との)のおんうへは、噎(おくび)にもいひ出(いで)かたくて、思ひし事もいはざりき。かくて今茲(ことし)は、件(くだん)の御和議(わぎ)(とゝの)ひて、世(よ)は長閑(のど)やかに、道(みち)もいと廣(ひろ)くなりぬ。大塚(おほつか)の家(いへ)を興(おこ)すべきは、抑(そも/\)(いま)この時(とき)にあらずや。よりて年来(としごろ)のわが存念(ぞんねん)を告(つぐ)るなり。そをいかにといはゞ、和殿(わどの)が立身(りつしん)のたつきにせんもの、村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)にますことなし。これを携(たづさへ)て許我(こが)に赴(おもむ)き、由来(ゆらい)を述(のべ)、先祖(せんそ)の忠死(ちうし)を訴(うつたへ)、その宝刀(みたち)を献(たてまつ)らば、召出(めしいだ)されん事疑(うたが)ひなし。和殿(わとの)許我(こが)に留(とゞま)らば、われ遠(とほ)からずして、濱路(はまぢ)をおくり遣(つかは)すべし。又(また)(とゞま)らずして立(たち)かへらば、壻養子(むこやうし)の披露(ひろう)して、職禄(しよくろく)を讓(ゆづ)るべし。さるときは大石(おほいし)殿(との)も、村長(むらおさ)にしてやは措(おか)ん。必(かならず)諸司(しよし)の上(うへ)にをらせて、陣代(ぢんだい)にもせられん歟(か)。われも和殿(わとの)が徳(とく)によりて、忽地(たちまち)(おもて)をおこすべし」といへば亀篠(かめさゝ)(かたへ)より、「吾儕(わなみ)夫婦(ふうふ)に男児(をのこゞ)なし、ちからと憑(たの)むはそなたのみ。為(ため)わろかれと思はぬよしは、これもてよろづ察(さつ)し給へ。六月(みなつき)にする旅(たび)なれば、いと堪(たへ)かたく侍(はべ)らんが、許我(こが)とて遠(とほ)き境(さかひ)にあらず。善(ぜん)は急(いそ)げ、と俗(よ)にもいふ。とく思ひ起(たち)給へかし」と誠(まこと)しやかに勸(すゝ)めけり。信乃(しの)は軍木(ぬるて)五倍二(ごばいじ)が、簸上(ひかみ)宮六(きうろく)が為(ため)に媒妁(なかたち)して、濱路(はまぢ)に聘礼物(たのみのしるし)を贈(おく)りし、本日(そのひ)の事(こと)の趣(おもむき)を、額藏(がくざう)が闕窺(かいまみ)て、はやその事を告(つげ)たるに、今(いま)(また)伯母(をば)と伯母夫(をばむこ)が、年来(としごろ)(ひそか)に念(おもひ)を被(かけ)たる、村雨(むらさめ)の名刀(めいたう)を、許我(こが)の御所(ごしよ)へ進(まゐ)らせよ、と只管(ひたすら)に勸(すゝむ)るは、原来(さては)われを出(いだ)し遣(や)りて、濱路(はまぢ)を宮六(きうろく)に嫁(よめ)らすべき、底心(したこゝろ)なるべし、と言下(ごんか)に暁(さと)りて、莞然(につこ)と笑(ゑ)み、「不肖(ふせう)の某(それがし)、かくまでに、おん慈愛(いつくしみ)を被(かうむ)ること、いと歡(よろこば)しくこそ候へ。村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)の事は、両(りやう)公達(きんたち)のおん像見(かたみ)にて候へは、折(をり)もあらば許我(こが)殿(との)へ、獻(たてまつ)れと親(おや)もいひにき。さればこの事、二(ふた)がたの、仰(おふせ)なくとも申シ出(いだ)して、おん指揮(さしづ)に任(まか)せん、と思ふ折(をり)から云云(しか/\)、と宣(のたまは)するこそ幸(さいは)ひなれ。現(げに)(ことわざ)にも寸善(すんのぜん)、尺魔(さくのま)といふことの候へば、明日(めいにち)發足(ほつそく)(つかまつ)らん」と早(はや)る言葉(ことば)にあるじ夫婦(ふうふ)は、大(おほ)かたならずうち歡(よろこ)び、「心(こゝろ)いそぎのせらるゝは、吾儕(わなみ)もおなじ歡(よろこ)びなれども、翌(あす)といふてはとにかくに、行装(たびよそほひ)も整(とゝの)ひかたし。暦(こよみ)を繰(くり)て日子(ひから)がよくは、明后日(あさて)と定(さだ)め給へかし。従者(ずさ)には背介(せすけ)か額藏(がくざう)を、二人(ふたり)に一人(ひとり)(つかは)すべし。あな愛(めで)たし」ととり囃(はや)せは、信乃(しの)は忝(かたじけな)し、と恩(おん)を謝(しや)して、軈(やが)て子舎(へや)に退(しりぞ)けは、額藏(がくざう)は庭(には)の草木(くさき)に、水(みづ)を沃(そゝ)ぎかけてをり。折(をり)こそよけれ、と招(まね)きよせ、縁頬(えんがは)に立(たち)ながら、今(いま)(ひき)六亀篠(かめさゝ)(ら)にいはれし事、わが思ふ事さへに、言葉(ことば)せわしく耳語(さゝやけ)は、額藏(がくざう)(きゝ)て、うち点頭(うなつき)、「寔(まこと)に推量(すいりやう)し給ふごとく、おん身(み)を下総(しもふさ)へ旅(たび)たゝせて、後(うしろ)やすく彼(かの)婚姻(こんいん)を、執(とり)(とゝのへ)ん為(ため)なるべし。只(たゞ)(いたま)しきは濱路(はまぢ)どの也。當今(たゞいま)の少女(をとめ)には、その心操(こゝろばへ)(あり)かたきまで、おん身(み)を慕(した)ふとしりながら、そを一朝(いつちやう)にふり捨(すつ)る、仇結(あだむす)びなる妹〓(いもせ)の縁(えん)、後(のち)の怨(うらみ)はいかならん」といはれて信乃(しの)は嘆息(たんそく)し、「人(ひと)木石(ぼくせき)にあらざれば、思(おもは)ざるにあらねども、女子(をなこ)はすべて水性(すいせう)にて、よるにもはやく、移(うつ)るに早(はや)かり。某(それがし)こゝにをらずならば、親(おや)のこゝろに従(したが)ふなるべし。大丈夫(だいぢやうふ)たらんもの、恋憐(れん/\)として一(いち)女子(ぢよし)に、生涯(せうがい)を愆(あやまた)れんや。再(ふたゝ)び得(え)かたきものは時(とき)なり。只(たゞ)うち捨(すて)てゆかんのみ」といへば額藏(がくざう)さにこそ、と応(いらへ)て軈(やが)て立(たち)わかれ、庭(には)の曲々(くま/\)(は)く程(ほど)に、信乃(しの)は裡面(うち)にぞ入(い)りにける。
 さる程(ほど)に亀篠(かめさゝ)は、脚絆(あよび)よ、笠(かさ)の紐(ひも)よとて、信乃(しの)が起行(たびたち)の用意(ようゐ)しつ。濱路(はまぢ)はこゝろ進(すゝま)ねど、親(おや)の指揮(さしづ)に裁(たち)て縫(ぬ)ふ、二田山(にたやま)木綿(もめん)の単衣(ひとへきぬ)、涙(なみだ)を包(つゝ)む袖形(そでがた)に、縞(しま)も千行(ちすぢ)の濃縹〓(こひはなた)、わが身(み)はこゝに何時(いつ)までか、曳遺(ひきのこ)さるゝ糸(いと)の端(はし)、結(むす)ぶ縁(えに)しの竭(つき)ずもあらば、やがて夫(をとこ)を返(かへ)し縫(ぬ)ひ、一個(ひとつ)刺縫(したて)て又(また)一個(ひとつ)(むね)には堪(たへ)ぬ物(もの)思ひ、やるかたもなき歎(なげ)きせり。
 かくてその次(つぐ)の日(ひ)は、信乃(しの)が行装(たびのよそほひ)も、大(おほ)かたに整(とゝの)ひつ。當下(そのとき)亀篠(かめさゝ)は信乃(しの)が子舎(へや)に來(き)ていふやう、「假初(かりそめ)ならぬおん身(み)が心願(しんぐわん)、殊(こと)さらに初旅(うひたび)の事にしあり。人(ひと)のちからの及(およ)ばぬものは、愛敬(あいけう)と厄難(やくなん)なり。發足(ほつそく)も翌(あす)としいへば、よろづに暇(いとま)あらずとも、親(おや)の墓(はか)へも参詣(さんけい)し、又(また)瀧野川(たきのかは)の辨才天(べんざいてん)へも、参(まゐ)り給へかし」といふ。信乃(しの)(きゝ)て、「菩提院(ぼだいいん)へは今朝(けさ)まゐりぬ。現(げに)瀧野川(たきのかは)なる辨才天(べんざいてん)へは、某(それがし)幼稚(いとけな)き時(とき)に、母(はゝ)の病著(いたつき)平愈(へいゆ)の祈願(きぐわん)を、かけ奉(たてまつ)りし事もあり。思ひ忘(わす)れしにはあらねども、生平(つね)には詣(まうつ)る事稀(まれ)也。仰(おふせ)に従(したが)ひ候はん」といふに亀篠(かめさゝ)外面(とのかた)瞻仰(あほぎ)て、「急(いそが)ずはかへさは暮(くれ)ん。とく/\」と勸(すゝむ)れは、信乃(しの)は衣(きるもの)を更(あらた)めて、例(れい)の両刀(ふたこし)を跨(わきはさ)み、いそしく宿所(しゆくしよ)を立出(たちいで)たり。
 さる程(ほど)に、信乃(しの)は只管(ひたすら)に路(みち)を走(はし)りて、その日(ひ)(さる)の左側(ころほひ)に、辨天堂(べんてんだう)へ参(まゐ)り著(つ)き、瀧(たき)垢離(こり)に身(み)を浄(きよ)めて、霎時(しばし)神前(しんぜん)に黙祷(もくとう)し、軈(やが)て下向(げこう)に赴(おもむ)く程(ほど)に、途(みち)のゆくての田中(たなか)にて、思ひかけなく蟇六(ひきろく)が、網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)を伴(ともなふ)て、老僕(おとな)背介(せすけ)に漁網(あみ)を被肩(かつが)せ、こなたをさして來(く)るにあひけり。蟇(ひき)六は、一反(いつたん)あまり、こなたより呼(よび)かけて、「信乃(しの)よ、和殿(わとの)は心願(しんぐわん)あれば、瀧野川(たきのかは)(まうで)しつる、と聞(きゝ)しに、果(はた)してこゝにて遭(あひ)にき」といふ間(はし)に信乃(しの)は遽(いそがは)しく、笠(かさ)を脱(とり)て進近(すゝみちか)つき、「こは夕(ゆふ)こえて漁猟(すなとり)に歟(か)。何処(いつこ)へとて赴(おもむ)き給ふ」と問(とへ)ば蟇(ひき)六うち笑(ゑみ)て、「さればとよ。翌(あす)は和殿(わとの)が首途(かどて)也。餞別(はなむけ)(さけ)の肴(さかな)にとて、彼此(あちこち)を問(とは)せしかど、魚屋(なや)には折(をり)ふしなしといへり。故(ゆゑ)に俄頃(にはか)に網(あみ)をおろして、翌(あす)の肴(さかな)を獲(え)んと思ひて、忙(あはて)て宿所(しゆくしよ)を出(いづ)る折(をり)、網乾(あぼし)(うぢ)に訪(とは)れしかは、誘引立(いざなひたて)て來(き)つる也。和殿(わとの)所要(しよえう)は果(はて)たらん。いざもろ共(とも)に」と先(さき)に立(たて)ば、左母二郎(さもじらう)も會釈(ゑしやく)して、只管(ひたすら)(すゝ)めいざなひけり。便是(すなはちこれ)(ひき)六が、豫(かね)て巧(たくめ)る奸計(かんけい)也。されば曩(さき)には、亀篠(かめさゝ)に勸(すゝめ)させて、信乃(しの)を瀧野川(たきのかは)へ出(いだ)し遣(や)り、且(しばら)くして蟇(ひき)六は、漁網(あみ)を背介(せすけ)に被肩(かつが)せて、宿所(しゆくしよ)を出(いで)んとする程(ほど)に、暗号(あひづ)によりて左母二郎(さもじらう)は、門邊(かとべ)より伴(ともなは)れ、はからずして田中(たなか)にて、信乃(しの)にあふ如(ごと)くにしたり。かくまでに謀(はか)らざれは、信乃(しの)が疑(うたが)ふこともやとて、根(ね)つよくは巧(たくみ)し也。信乃(しの)は斯(かう)忙々(あはたゝ)しき折(をり)、こゝろ漁猟(すなどり)にあらざれ共、底意(そこゐ)はしらず伯母夫(をばむこ)の、わが為(ため)に網(あみ)をおろし、留別酒(りうべつさけ)の設(まうけ)にすとて、伴(ともなは)るれば推辞(いなむ)によしなく、困(こう)じながらに打(うち)つれ立(たち)て、神宮(かには)河原(かはら)へ赴(おもむ)きけり。蟇(ひき)六は豫(かね)てより、相識(あひし)る家(いへ)にて舩(ふね)を借(か)り、一人(ひとり)の楫取(かぢとり)、土太郎(どたらう)とかいふものを雇(やとふ)て、船(ふね)に乗(の)らんとする程(ほど)に、忘(わす)れたり、と小膝(こひざ)を拍(うち)て、遽(いそがは)しく背介(せすけ)を近(ちか)つけ、「嚮(さき)に宿所(しゆくしよ)を出(いづ)るとき、只管(ひたすら)にこゝろ早(はや)りて、偏提(さゝえ)割籠(わりこ)を忘(わす)れたり。汝(なんぢ)は走一走(ひとはしり)に立(たち)かへりて、彼(かの)兵粮(ひやうらう)を取(とり)て來(こ)よ。急(いそ)げ急(いそ)げ」と焦燥(いらだて)ば、うけ給はると応(いらへ)あへず、家路(いへぢ)を投(さし)て走去(はせさり)けり。蟇(ひき)六はかく欺詐(たばかり)て、背介(せすけ)をば還(かへ)しつ、信乃(しの)左母二郎(さもじらう)共侶(もろとも)に、件(くだん)の舩(ふね)に乗移(のりうつ)れは、土太郎(どたらう)は械(かぢ)を取(とり)て、河中(かはなか)へぞ漕出(こぎいだ)す。
 當下(そのとき)(ひき)六は、襦袢(ずばん)ひとつに脱更(ぬぎかえ)て、腰簑(こしみの)を著(つけ)、竹笠(たけかさ)を戴(いたゞ)き、網(あみ)を引提(ひさげ)て、〓(へさき)に立(たて)ば、左母二郎(さもじらう)は茶(ちや)を煮(に)んとて、褊小(さゝやか)なる曲突(くど)に向(むか)ひて、生柴(なましば)(をり)て、火(ひ)を吹(ふ)く程(ほど)に、蟇(ひき)六は壮年(さうねん)より、殺生(せつせう)は好(この)みたり。うちおろす網(あみ)は手(て)に隨(したが)ひて、江鮒(えふな)(すばしり)なンどの獲(え)もの、板子(いたこ)のうへに引揚(ひきあげ)られて、左(ひだり)に反(はね)、右(みぎ)に反(はね)たる、とる手隙(てひま)なくいと興(きやう)あり。
 さる程(ほど)に日(ひ)はくれて、十七日の月(つき)いまだ升(のぼ)らず、舩中(せんちう)(しばら)く暗(くら)けれ共、蟇(ひき)六は豫(かね)てより、巧作(たくみなし)たることなれば、興(きやう)に乗(じやう)するおもゝちして、只管(ひたすら)にうちおろす、網(あみ)もろ共(とも)に身(み)を跳(おど)らせて、水中(すいちう)へ陥(おちい)りけり。衆皆(みな/\)吐嗟(あはや)、と驚(おどろ)き騒(さわ)ぎて、板子(いたこ)を投入(なげい)れなどするに、水面(すいめん)(くら)ければ其処(そこ)とも得(え)わかず。信乃(しの)は有繋(さすが)に伯母夫(をばむこ)の、溺(おぼ)るゝを見るに忍(しの)ばず、手(て)ばやく衣(きぬ)を脱捨(ぬぎすて)つゝ、波(なみ)を披(ひら)きて飛入(とびい)れば、楫取(かぢとり)の土(ど)太郎も、續(つゞい)て〓(ざんぶ)と飛入(とびいつ)たり。蟇(ひき)六は少壮(わかき)より、水煉(すいれん)には長(たけ)たり。且(しばら)く水底(みなそこ)を潜(くゞり)て、右手(めて)にからめる網(あみ)の緒(を)を觧流(ときなが)し、信乃(しの)が跳(おど)り入(い)るに及(およ)びて、忽地(たちまち)に浮揚(うきあが)り、いたく溺(おぼ)るゝ如(ごと)くにす。信乃(しの)はこれを救(すくは)んとて、蟇(ひき)六が手(て)を取(と)れは、蟇(ひき)六も亦(また)信乃(しの)が腕(かひな)を、楚(しか)と捉(とり)て放(はな)さず、深水(ふかみ)へ引(ひき)て只管(ひたすら)に、推沈(おししづめ)んとする程(ほど)に、土(ど)太郎亦(また)(たすけ)(き)て、陽(うへ)には蟇(ひき)六を救(すく)ふが如(ごと)く、底意(そこゐ)は信乃(しの)を水中(すいちう)に亡(うしなは)んとしつれども、信乃(しの)は稚(をさな)き比(ころ)よりして、水馬(すいば)水煉(すいれん)歩渡(かちわたり)まで、心(こゝろ)かけずといふことなく、膂力(ちから)は義秀(よしひで)親衡(ちかひら)に、劣(おと)るべくもあらざれは、脚手(あして)に〓縁(まつは)る土(ど)太郎を、一反(いつたん)あまり蹴流(けなが)して、蟇(ひき)六を肱腋(こわき)に掻込(かいこ)み、頭(かうべ)を挙(あげ)て見かへるに、舩(ふね)は遥(はるか)に推流(おしなが)されたり、近(ちか)づくべくもあらざれは、蟇(ひき)六を抱揚(いだきあげ)つゝ、左手(ゆんて)のみ働(はたらか)して向(むかひ)の岸(きし)に泅着(およぎつく)に、蟇(ひき)六は、大力(だいりき)に、抱縮(だきすく)められし事なれば、鵜(う)に啄(ついばま)れし雜魚(ざこ)に似(に)たり。水(みづ)を飲(のま)ざる用心(ようじん)のみして、阿容(おめ)々々(/\)と引揚(ひきあげ)らる。とかくする程(ほど)に、土(ど)太郎も泅(およ)ぎ著(つき)て、信乃(しの)と共(とも)に蟇(ひき)六を、倒(さかさま)に引立(ひきたゝ)して、少選(しばらく)(みづ)を吐(はか)せ、傍(かたへ)の小屋(こいへ)に扶入(たすけいれ)れて、藁火(わらび)に暖(あたゝ)め勦(いたは)りつ。そが中(なか)に土(ど)太郎は、流(なが)るゝ舩(ふね)を追留(おひとめ)んとて、河原(かはら)を下(しも)へ走去(はせさり)ぬ。
 かゝりし程(ほど)に左母二郎(さもじらう)は、諜(しめ)しあはせし事なれば、舩(ふね)の流(なが)るゝを幸(さいは)ひにして、河下(かはしも)へ赴(おもむ)きつゝ、
【挿絵】「苦肉(くにく)の計(はかりこと)蟇六(ひきろく)神宮河(かにはかは)に没(ぼつ)す」「左母二郎」「土太郎」「ひき六」「信乃」
(ひそか)に信乃(しの)が副刀(さしぞひ)の〓釘(めくぎ)を抜(ぬき)とり、又(また)(ひき)六が副刀(さしぞひ)の〓釘(めくぎ)を外(はづ)し、ひとつ/\に抜放(ぬきはなち)て、此彼(これかれ)を引替(ひきかえ)つゝ、〓(さや)に納(おさめ)んとする程(ほど)に、怪(あや)しむべし、信乃(しの)が刀(かたな)の中刃(なかご)より、水氣(すいき)忽然(こつぜん)と立冲(たちのぼ)りて、夏(なつ)なほ寒(さむ)き袖袂(そでたもと)、膝(ひざ)も露(つゆ)けき稀世(きせい)の名刀(めいたう)、毛骨(みのけ)いよ竦(たつ)(ばかり)なれは、左母二郎(さもじらう)(おほ)きに驚(おどろ)き、「傳(つた)へ聞(きく)、故(もとの)鎌倉(かまくらの)管領(くわんれい)持氏(もちうぢ)朝臣(あそん)の重寶(ちやうほう)に、村雨(むらさめ)と名(な)つけられたる一卜刀(こし)あり。一トたびこれを抜放(ぬきはな)せば、忽然(こつぜん)として水氣(すいき)(たち)、殺氣(さつき)を含(ふくみ)てうち振(ふ)れは、刀尖(きつさき)より濆飛(ほとはし)る、その水(みづ)さながら村雨(むらさめ)の木杪(こすゑ)を洗(あら)ふごとくなれは、村雨(むらさめ)といふとなん。しかるに今(いま)この信乃(しの)が刀(かたな)、彼(かの)村雨(むらさめ)と相似(あひに)たり。かゝればこの〓刀(れいたう)、初(はじめ)は蟇(ひき)六が重宝(ちやうほう)なるを、故(ゆゑ)ありて信乃(しの)に與(あたへ)し、といひつるは偽(いつはり)にて、一旦(いつたん)結城(ゆふき)に楯籠(たてこも)りし、信乃(しの)が親(おや)番作(ばんさく)が、春王(しゆんわう)安王(あんわう)(りやう)公達(きんたち)より、領(あづか)りし物(もの)にして、彼(かの)村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)なるべし。これをわが故主(こしゆう)、扇谷殿(あふぎがやつとの)へ獻(たてまつ)らば、即(すなはち)帰参(きさん)のよすがとならん。又(また)(ひと)に賣與(うりあたへ)ば、その價(あたひ)千金(せんきん)ならん。蟇(ひき)六とてもこの焼刃(やきは)を、認(みし)れるにはあらざるべし。宝(たから)の山(やま)に入(い)りながら、他人(たにん)の物(もの)にやはすべき」とひとりごち、ひとり頷(うなつ)き、又(また)(あはたゝ)しくおのが刀(かたな)の、〓釘(めくぎ)を外(はづ)して、蟇(ひき)六が刃(やいば)と比(くらべ)(み)るに、反(そり)も長(ながさ)も相似(あひに)たれば、「饒倖(うまし)々々(/\)」と竊(ひそか)に歡(よろこ)び、遽(あはたゝ)しくわが刃(やいば)を、蟇(ひき)六が〓(さや)に納(おさ)め、又(また)信乃(しの)が刃(やいば)を取(とり)て、わが刀(かたな)の〓(さや)に納(おさ)め、又(また)(ひき)六が刃(やいば)をもて、信乃(しの)が副刀(さしぞひ)の〓(さや)に納(おさむ)るに、孰(いづれ)も長短(ちやうたん)(ひと)しきにより、〓乎(しつくり)として恰(あたかも)(よ)し。
 浩処(かゝるところ)に土(ど)太郎は、流(なが)るゝ舩(ふね)を追蒐(おつかけ)(き)つ、岸(きし)の夏草(なつくさ)かきわきて、「喃伊(なうい)々々(/\)」と、呼(よ)ぶ程(ほど)に、左母二郎(さもじらう)は見かへりて、おぼつかなげに械(かい)を操(あやつ)り、とかくして舩(ふね)をよすれば、土(ど)太郎閃(ひら)りと乗移(のりうつ)りて、舊(もと)の辺(ほとり)に漕戻(こぎもど)し、そがまゝ舩(ふね)を繋(つな)ぎ留(とむ)れは、左母二郎(さもじらう)は陸(くが)に登(のぼ)りて、蟇(ひき)六が安否(あんひ)を問(と)ひぬ。
 されば亦(また)、犬塚(いぬつか)信乃(しの)は、その思慮(しりよ)才学(さいかく)(ひと)に超(こえ)たり。片時(へんじ)も由断(ゆだん)せしにあらねど、蟇(ひき)六が入水(じゆすい)せしは、計(はか)りてわれを溺(おぼ)らせんとて、楫取(かぢとり)の土(ど)太郎を、豫(かね)て竊(ひそか)に相譚(かたらふ)て、如右(しか)せしならん、とのみ思ひて、舩中(せんちう)に在(あ)る左母二郎(さもじらう)が、村雨(むらさめ)の名刀(めいたう)を、搨替(すりかえ)んとは思ひもかけず。舩(ふね)の寄(よ)るを待(まち)つけて、わが衣(きぬ)を取(とり)て穿(みにつ)け、わが両刀(りやうたう)を取(とり)て、腰(こし)に帶(おび)たるのみ。事(こと)倉卒(さうそつ)の間(あはひ)にして、しかも夜中(やちう)の事にしあれば、抜放(ぬきはなち)ても見ざりけり。嗚乎(ああ)(をし)むべし、親(おや)も子(こ)も、年来(としころ)(もり)し宝刀(みたち)なれ共、只(たゞ)寸隙(すんげき)の由断(ゆだん)によりて、他手(ひとて)に落(おつ)るは、時運(じうん)なるべし。
作者(さくしや)(いはく)、神宮(かには)(むら)は、豊嶋郡(としまのこふり)、今(いま)の王子(わうじ)(むら)より北(きた)のかた、十七八町(てう)にあり。こゝに河(かは)あり、神宮河(かにはかは)といふ。蓋(けだし)その地(ち)によりて名(な)つけたるのみ。水上(みなかみ)は戸田(とた)より落(おち)て、千住(せんじゆ)に至(いた)り、墨田河(すみたかは)を歴(へ)て、海(うみ)に入(い)れり。神宮(かには)の西(にし)のかた、豊嶋(としま)(むら)の河(かは)ぞひに、豊嶋(としま)信盛(のぶもり)の舘(たち)の迹(あと)あり。今(いま)は鋤(すか)れて、纔(はつか)に遺(のこ)れり。嘗(かつて)長禄(ちやうろく)長亨(ちやうきやう)の地図(ちづ)を考(かむがふ)るに、この河(かは)の南岸(みなみのきし)なる村々(むら/\)、尾久(■■)、豊嶋(としま)、梶原(かぢはら)、堀内(ほりのうち)、十條(でふ)〔一本(いつほん)千條(せんてせふ)に作(つく)る〕稲附(いなつき)、志村(しむら)(とう)の数村(すうそん)ありて、神宮(かには)(むら)なし。按(あん)するに、かにはは、梶原(かぢはら)を訛(なま)れる也。今(いま)神宮(かには)と書(かく)は古実(こじつ)にあらず。かゝれば神宮(かには)の舊名(きうめう)は、梶原(かぢはら)堀内(ほりのうち)(むら)なるべし。こは無益(むやく)の辨(べん)なれ共、この半頁(はんびら)に楮餘(ちよよ)あればしるしつ。
南総里見八犬傳第三輯巻之二終


# 『南総里見八犬伝』第二十四回
# Copyright (C) 2004-2012 Gen TAKAGI
# この文書を、フリーソフトウェア財団発行の GNUフリー文書利用許諾契約書ヴァー
# ジョン1.3(もしくはそれ以降)が定める条件の下で複製、頒布、あるいは改変する
# ことを許可する。変更不可部分、及び、表・裏表紙テキストは指定しない。この利
# 用許諾契約書の複製物は「GNU フリー文書利用許諾契約書」という章に含まれる。
#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
# Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU
# Free Documentation License, Version 1.3 or any later version by the Free Software Foundation;
# A copy of the license is included in the section entitled "GNU Free Documentation License".
Lists Page