『南總里見八犬傳』第四回

 第(だい)(し)(くわい) 小湊(こみなと)に義実(よしさね)(ぎ)を聚(あつ)む\笆内(かきのうち)に孝吉(たかよし)(あた)を逐(お)

 却説(かくて)義実(よしさね)主従(しゆう%\)は、此(こゝ)の池(いけ)、彼(かしこの)(かは)と、淵(ふち)をたづね、瀬(せ)に立(たち)て、途(みち)より途(みち)に日(ひ)を消(くら)せば、白濱(しらはま)の旅宿(りよしゆく)へかへらず、ゆき/\て長挾郡(ながさのこふり)、白箸河(しらはしかは)に渉猟(あさる)ほどに、はや三日にぞなりにける。日数(ひかず)もけふを限(かぎ)りと思へば、こゝろ頻(しきり)に焦燥(いらだつ)のみ。獲(えもの)は殊(こと)にありながら、小〓(こふな)に等(ひと)しき鯉(こひ)だにも、鈎(はり)にかゝるは絶(たえ)てなし。千劔振(ちはやふる)(かみ)の代(よ)に、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)こそ、失(うせ)にし鈎(はり)を索(もとめ)つゝ、海龍宮(わたつみ)に遊(あそ)び給ひけれ。又(また)浦嶋(うらしま)の子(こ)は堅魚(かつを)(つ)り、鯛(こひ)(つり)かねて七日まで、家(いへ)にも來(こ)ずてあさりけん、例(ためし)に今(いま)も引(ひ)く糸(いと)の、紊(みだ)れ苦(くる)しき主従(しゆうじゆう)は、思はずも面(おもて)をあはして、斉一(ひとしく)嗟嘆(さたん)したりけり。
 浩処(かゝるところ)に河下(かはしも)より、声高(こゑたか)やかに唄(うた)ひつゝ、こなたを望(さし)て來(く)るものあり。主従(しゆう%\)これを見かへれば、最(いと)(きたな)げなる乞児(かたゐ)也。什麼(そも)いかなる打扮(いでたち)ぞ。ふり乱(みだ)したる髪(かみ)は、春(はる)の末黒(すぐろ)の芒(すゝき)の如(ごと)く、掻垂(かきたれ)たる裳(ものすそ)は、秋(あき)の浦(うら)による海松(みる)に似(に)たり。手(て)ともいはず、顔(かほ)ともいはず、あやしき瘡(かさ)のいできたる、人(ひと)の皮膚(はだへ)はなきものをや。熟(じゆく)せる茘枝(れいし)、裂(さげ)たる柘榴(ざくろ)、巨(ふり)たる蟇(ひき)の背(そびら)といふとも、かくまではあらじかし。さても命(いのち)は惜(をし)きものかな。世(よ)に疎(うとま)れ、人(ひと)に嫌(きらは)れても、得(え)(しな)ざりける。うち見ても忌々(いま/\)しきに、渠(かれ)は何(なに)とも思はざるにや、底斜(そこなゝめ)なる面桶(めんつう)をうち鳴(な)らし、訛(だみ)たる声(こゑ)して唄(うた)ふを聞(き)けば、「里(さと)(み)えて、/\、白帆(しらほ)(はし)らせ風(かぜ)もよし、安房(あは)の水門(みなと)による舩(ふね)は、浪(なみ)に碎(くだ)けず、潮(しほ)にも朽(くち)ず、人(ひと)もこそ引(ひ)け、われもひかなん」くり返(かへ)しつゝ來(く)る程(ほど)に、やがて河邊(かはべ)に立(たち)とゞまり、彼(かの)人々(ひと/\)の釣(つり)するを、つく/\とうち見てをり。流(なが)るゝ膿血(うなぢ)の臭(くさ)けれは、主従(しゆう/\)は鼻(はな)を掩(おほ)ふて、とく逝(いね)かし、とおもふものから、乞児(かたゐ)は立(たつ)こと久(ひさしう)して、近(ちか)くよりつゝひとり/\に、笠(かさ)の内(うち)をさし覗(のぞ)き、「あな刀祢(との)ばらの釣(つり)ざまこそこゝろ得(え)ね。或(あるひ)は〓(ふな)、或(あるひ)は鰕(えび)、鈎(はり)を呑(のむ)をば皆(みな)(すて)て、何(なに)をか獲(え)まく思ひ給ふ」としば/\問(とは)れて氏元(うぢもと)は、已(やむ)ことを得(え)ず頭(かうべ)を回(めぐら)し、「否(いな)わが欲(ほり)するものは鯉(こひ)也。他(あだし)(うを)は好(このま)しからず。無益(むやく)の殺生(せつせう)せじと思へば、一ッもとゞめず放(はな)せし」といふを乞児(かたゐ)は聞(きゝ)あへず、腹(はら)を抱(かゝえ)てうち笑(わら)ひ、「こゝにて鯉(こひ)を求(もとめ)給ふは、佐渡(さど)にして狐(きつね)を訊(たづね)、伊豆(いづの)大嶋(おほしま)に馬(うま)を問(とふ)より、なほ労(ろう)して功(こう)なき所為(わざ)也。いまだ聞召(きこしめさ)れずや。安房(あは)一國(いつこく)には鯉(こひ)を生(せう)ぜず、又(また)甲斐(かひ)にも鯉(こひ)なしとぞ。是(これ)その風土(ふうど)によるもの歟(か)。又(また)一説(いつせつ)に、一國(いつこく)十郡(じうぐん)ならざれば、彼(かの)(うを)はなきもの也。波巨(はきよ)の冠(くわん)たるものなればといへり。そのなき物(もの)を求(もと)め給ふは、実(じつ)に無益(むやく)の殺生(せつせう)ならん」とあざみ傲(ほこ)りつ、掌(て)を拍(うち)て、又(また)「呵々(かや/\)」とうち笑(わら)へば、義実(よしさね)おぼえず竿(さを)を捨(すて)、「現(げに)巨魚(こぎよ)は池中(ちゝう)に生(せう)せず、大鵬(たいぼう)は燕雀(えんじやく)の林(はやし)に遊(あそ)ばず。われいかなれば世(よ)を挟(せば)み、天高(てんたか)けれども跼(せくゞま)り、地(ち)は厚(あつ)けれども蹐(ぬきあし)して、安房(あは)一郡(いちぐん)の主(ぬし)にすら容(い)られず。然(さ)るを喩(たとへ)を龍(たつ)に取(と)り、今又(いまゝた)(こひ)に久後(ゆくすゑ)を、思ひよせしは愚癡(ぐち)なりき、元來(もとより)(こひ)はこの地方(ところ)に、なしとしりつゝ釣(つり)せよ、といひつる人(ひと)の心(こゝろ)の底(そこ)は、濁江(にごりえ)ながら影(かげ)見えて、ふかき伎倆(たくみ)と今(いま)ぞしる。もしこの乞児(かたゐ)に逢(あは)ざりせば、彼(かの)毒計(どくけい)にあてられなん。危(あやう)かりし」と今更(いまさら)に、只管(ひたすら)驚嘆(きやうたん)し給へば、乞児(かたゐ)はこれを慰(なぐさめ)て、「さのみ悔(くや)しく思ひ給ふな。陸奥(みちのく)にも鯉(こひ)はなし。彼処(かしこ)は五十四郡(ぐん)なり。しかれば鯉(こひ)の生(せう)すると、生(せう)せざるとはその國(くに)(こふり)の、大小(だいせう)によるものかは。かゝれば一國(いつこく)十郡(ぐん)に充(みた)ざれは、鯉(こひ)なしといふものは、牽強附会(けんけうふくわい)の臆説(おくせつ)ならずや。十室(とかど)の邑(むら)にも忠信(ちうしん)あり。譬(たとへ)ば里見(さとみ)の御曹司(おんぞうし)、上毛(かみつけ)に人(ひと)となりて、一个(いつか)(こく)を知(し)るによしなく、この処(ところ)に漂泊(ひやうはく)して、膝(ひざ)を容(い)るゝの室(いへ)なき如(ごと)し」といふに主従(しゆう/\)(め)を注(くは)して、乞児(かたゐ)の顔(かほ)をうち熟視(まも)る。
 そが中(なか)に義実(よしさね)は、うち聞毎(きくごと)に嘆息(たんそく)し、「人(ひと)は形貌(かたち)によらぬものかな。汝(なんぢ)が辨論(べんろん)乞児(かたゐ)に似(に)ず、楚(そ)の狂接輿(きやうせつよ)の類(たぐひ)なる歟(か)。又(また)(かの)光明(くわうめう)皇后(くわうくう)に、垢(あか)を掻(かゝ)せし権者(こんじや)の類(たぐひ)(か)。固(もと)より吾(われ)をしるもの歟(か)。その名(な)を聞(きか)まほしけれ」と訝(いぶか)り給へば、莞然(につこ)と咲(えみ)、「こゝは人(ひと)の往還(ゆきゝ)(しげ)かり、誘(いざ)給へ」とて先(さき)に立(たて)ば、主従(しゆう%\)はなほ訝(いぶか)ながら、遽(いそがは)しく竿(さを)をおさめて、後(あと)に跟(つき)つゝゆく程(ほど)に、小松原(こまつはら)の郷(さと)(ちか)き、山蔭(やまかげ)に誘引(いざなひ)て、おのが背(そびら)にうち被(き)たる、菰(こも)を脱(ぬぎ)て塵(ちり)うち拂(はら)ひ、樹下(このもと)にうち布(し)きて、義実(よしさね)を居(すえ)まゐらすれば、氏元(うぢもと)と貞行(さだゆき)は、夏草(なつくさ)を折敷(をりしき)て、主(しゆう)の左右(さゆう)についゐたり。
 當下(そのとき)乞児(かたゐ)は逡巡(あとしさり)して、恭(うや/\)しく額(ぬか)を著(つき)、「いまだ見参(げんざん)に入(い)れるものに候はねば、不審(いぶかし)と思召(おぼしめし)けん。これは神餘(じんよ)長挾介(ながさのすけ)光弘(みつひろ)が家隷(いへのこ)に、金碗(かなまり)八郎(はちらう)孝吉(たかよし)と呼(よば)れしものゝ、なれる果(はて)にて候かし。金碗(かなまり)は神餘(じんよ)の一族(いちぞく)、歴々(れき/\)たる武士(ぶし)なれ共、
【挿絵】「白箸河(しらはしがは)に釣(つり)して義実(よしざね)義士(ぎし)にあふ」「里見よしさね」「堀内貞行」「杉倉氏元」\「金碗(かなまり)孝吉(たかよし)(よる)里人(さとひと)をあつむ」「金まり八郎」
庶子(しよし)たるをもつて家臣(かしん)となりぬ。しかれども老臣(ろうしん)の第一席(だいゝつせき)に候ひしが、某(それがし)はやく父母(ふぼ)を喪(うしな)ひ、年(とし)なほ廾(はたち)に充(みた)ざれば、その職(しよく)に堪(たへ)ずとて、このときに微禄(びろく)せられて、僅(はつか)に近習(きんじゆ)に使(つかは)れたり。かくて主君(しゆくん)の行状(ぎやうでう)よからず、色(いろ)を好(この)み、酒(さけ)に荒(すさ)み、側室(そばめ)玉梓(たまづさ)に惑溺(わくでき)して、後堂(こうだう)の内(うち)を出(いで)ず。佞人(ねいじん)定包(さだかね)を重用(ちやうよう)して、賞罰(せうばつ)を任(まか)せしかば、これより家則(かそく)いたく紊(みだ)れて、神(かみ)は怒(いか)り、人(ひと)はうらめり。その危(あやう)きこと鶏卵(とりのこ)を、累(かさね)たるに異(こと)ならねども、老黨(ろうだう)は禄(ろく)の為(ため)に、その非(ひ)をしりつゝこれを諫(いさめ)ず、民(たみ)はおそれて訴(うつた)へず。君(きみ)はみづから法(ほう)を犯(おか)して、これを暁(さと)るによしなければ、某(それがし)(しきり)に面(おもて)を犯(おか)して、争(あらそ)ひ諫(いさむ)れどもそのかひなし。比干(ひかん)が肝(きも)を刀尖(きつさき)に串(つらぬ)き、伍子胥(ごししよ)が眼(まなこ)を東門(とうもん)に掛(かく)るまで。しばしば諫(いさ)めて用(もち)ひられずは、死(しな)ばや、と思ひ候ひしが、つく/\と思ひかへせば、臣(しん)として君(きみ)の非(ひ)をいふ、その罪(つみ)も又(また)(かろ)からず。大廈(たいか)の覆(くつがへら)んとするときに、一木(いちぼく)いかでかこれを〓(さゝえ)ん。身退(みしりぞ)くより外(ほか)なし、と既(すで)に深念(しあん)を决(さだめ)しかば、那古(なこの)七郎(しちらう)、天津(あまつの)兵内(ひやうない)といふ、両個(ふたり)の同僚(どうやく)にのみ、志(こゝろざし)を告(つげ)しらせ、妻子(やから)なき身(み)の心(こゝろ)やすさは、夜(よ)に紛(まぎ)れて逐電(ちくでん)し、上総(かづさ)へ赴(おもむ)き、下総(しもふさ)へうち越(こえ)、上野(かみつけ)下野(しもつけ)いへばさらなり。陸奥(みちのく)の盡処(はて)までも、旅(たび)より旅(たび)に日(ひ)を弥(わた)る。便着(たつき)には倣得(ならひえ)たる、劍術(けんじゆつ)拳法(やわら)の師範(しはん)と呼(よば)れて、是首(ここ)に半年(はんねん)、彼首(かしこ)に一季(いつき)、またぬ月日(つきひ)もたつとしなれば、はや五年(いつとせ)を經(ふ)るまゝに、故主(こしゆう)の安否(あんひ)(こゝろ)もとなく、今茲(ことし)(ひそか)に上総(かつさ)まで、還(かへ)りしことは奈麻余美(なまよみ)の、甲斐(かひ)こそなけれ主家(しゆうか)の滅亡(めつぼう)。『皆(みな)定包(さだかね)が逆意(ぎやくゐ)に起(おこ)りて、杣木(そまきの)朴平(ぼくへい)無垢三(むくざう)(ら)が、獵箭(さつや)に命(いのち)を隕(おと)し給ふ』と聞(きゝ)つるときは腸(はらわた)断離(ちぎ)れ、骨(ほね)も碎(くだく)る心持(こゝち)せり。
 件(くだん)の朴平(ぼくへい)無垢三(むくざう)は、父(ちゝ)がときより生育(おひたゝ)せ、年來(としごろ)使(つか)ひし私卒(わかたう)なりき。彼等(かれら)もをさ/\わが家(いへ)の、劔法(けんじゆつ)を傳受(でんじゆ)しつ。侠気(をとこぎ)なるものなれば、農家(のうか)の子(こ)には生(うま)れても、畊耘(たかやしくさき)る事を好(この)まず、いつ/\までもと思ひけん、某(それがし)に棄(すて)られて、又(また)土民(どみん)にはなりたれども、苛法(からきはつと)の苦(くる)しさに、主(しゆう)の仇(あた)、身(み)の讐(あた)なる、定包(さだかね)を射(い)て殺(ころ)さん、と思ふ矢坪(やつぼ)をはかられて、うたてき所行(わざ)をしてけり、と推量(おしはか)れば猶(なほ)(うらみ)ても、怨(うらみ)(あか)ぬは彼(かの)逆賊(ぎやくぞく)、狙撃(ねらひうた)んと思へども、面(おもて)は豫(かね)て見しられたり、近(ちか)つくべうもあらざれば、晋(しん)の豫譲(よじやう)に做(なら)ひつゝ、身(み)に漆(うるし)して姿(すがた)を窶(やつ)し、日毎(ひごと)に瀧田(たきた)を徘徊(はいくわい)して、間(ま)なく時(とき)なく窺(うかゞ)へ共、露(つゆ)ばかりも便(たよ)りを得(え)ず。怪(あや)しむ人(ひと)のなきにあらねば、且(しばら)く彼処(かしこ)を遠離(とほざか)りて、この処(ところ)へ來(く)る程(ほど)に、よに隱(かく)れなき巷(ちまた)の風聞(ふうぶん)、里見(さとみの)冠者(くわんじや)義実(よしさね)ぬし、結城(ゆふき)の屯(たむろ)を脱(のが)れ來(き)て、麻呂(まろ)安西(あんざい)をたのみ給へど、彼(かの)人々(ひと/\)は能(のう)を忌(い)み、才(さえ)を娟(ねた)みてこれを用(もち)ひず、剰(あまつさへ)(こと)を設(まうけ)て、殺(ころ)さんと計(はか)れるよし、不思議(ふしぎ)に耳(みゝ)に入(い)るといへ共、君(きみ)に告(つげ)なん因(よすが)はあらず。一トたび御名(みな)を聞(きゝ)しより、只(たゞ)嬰児(みどりこ)が垂乳母(たらちめ)を、慕(した)ふ心持(こゝち)はするものから、そは何処(いづこ)にとうちつけに、人(ひと)に問(とふ)べきことならねば、胸(むね)のみ苦(くる)し。しかはあれど、いかでめぐりもあはんとて、彼此(をちこち)となく呻吟(さまよひ)つゝ、けふはこゝにとしら箸(はし)の、河邊(かはべ)に來(く)れば釣(つり)する刀祢(との)ばら、他郷(たけう)の人(ひと)とおぼしきに、人表(にんひやう)骨相(こつがら)平人(たゞひと)ならず。親(した)しく見えても礼儀(れいぎ)に稱(かな)ふ、その為体(ていたらく)は主従(しゆう/\)也。これぞ正(まさ)しく彼(かの)(きみ)ならん、と推量(おしはか)れども白地(いさゝめ)に、いひよるよしも渚漕(なぎさこ)ぐ、蜑(あま)が舟歌(ふなうた)に擬(なぞら)へて、事情(ことのこゝろ)を述(のべ)たりし。何(なに)とか聞(きか)せ給ひけん。里(さと)(み)えて/\とは、里見(さとみ)の君(きみ)を得(え)て歡(よろこ)ぶ、民(たみ)の心(こゝろ)を表(ひやう)したり。白帆(しらほ)(はし)らせ風(かぜ)もよしとは、白帆(しらほ)は源家(げんけ)の籏(はた)をいふ。こゝに義兵(ぎへい)を揚(あげ)給はゞ、威風(いふう)に靡(なびか)ぬ民草(たみくさ)なし、といへるこゝろを隱(かく)したり。安房(あは)の水門(みなと)へよる舩(ふね)は、浪(なみ)に碎(くだ)けず、潮(しほ)にも朽(くち)ず、人(ひと)もこそひけ、われもひくとは、『荀子(しゆんじ)』に所云(いはゆる)(きみ)は舩(ふね)也。君(きみ)(いま)漂泊(ひやうはく)し給ひて、麻呂(まろ)安西(あんさい)(ら)に忌嫌(いみきらは)れ、難義(なんぎ)におよび給へども、國人(くにうと)なべて贔屓(ひき)たてまつれば、竟(つひ)におん身(み)に恙(つゝが)なく、瀧田(たきた)、舘山(たてやま)、平舘(ひらたて)なる、剛敵(ごうてき)を、うち平(たひら)げ給はん、と祝(しゆく)してかくは諷(うたへ)る也。今(いま)(ぎ)に仗(より)て籏(はた)を揚(あげ)、猛(にはか)に瀧田(たきた)へ推寄(おしよ)せて、定包(さだかね)が罪(つみ)をかぞへ、短兵急(たんへいきう)に攻(せめ)給はゞ、一挙(いつきよ)して城(しろ)を落(おと)さん。彼(かの)(ぞく)(すで)に誅伏(ちうふく)して、平郡(へぐり)長挾(ながさ)を取(とり)給はゞ、麻呂(まろ)安西(あんさい)(ら)は討(うた)ずも倒(たふ)れん。先(さき)にするときは人(ひと)を制(せい)し、後(おく)るゝときは征(せい)せらる。とく/\思ひたち給へ。彼(かの)(しろ)は如此(しか)(/\)々なり、箇様(かやう)箇様(かやう)」と地理(ちり)要害(えうがい)を、手(て)にとるごとく述(のべ)しかば、氏元(うぢもと)も貞行(さだゆき)も、よに憑(たのも)しき心持(こゝち)して、頻(しきり)に耳(みゝ)を側(そはだ)てたり。
 かゝりけれども義実(よしさね)は、その議(ぎ)に従(したが)ふ氣色(けしき)なく、「いはるゝ所(ところ)われには過(すぎ)たり。謀(はかりごと)よしといふとも、寡(くわ)をもて衆(しゆう)に敵(てき)しがたし、况(いはんや)われは浮浪人(ふらうにん)なり。何(なに)を因(よすが)に躬方(みかた)を集(あつめ)ん。今(いま)(たゞ)主従(しゆう/\)三四人(ン)、瀧田(たきた)の城(しろ)を攻(せめ)んとせば、蟷〓(いぼじりむし)が斧(たつき)を揚(あげ)て、車(くるま)にむかふに異(こと)ならず。及(および)がたし」と辞(いろひ)給へば、金碗(かなまり)八郎小膝(こひざ)をすゝめ、「いふがひなく見え給ふものかな。大約(おほよそ)二郡(にぐん)の民(たみ)百姓(ひやくせう)、彼(かの)逆賊(ぎやくぞく)に虐(しへた)げられ、怨(うらみ)骨髓(こつずい)に徹(とほ)るといへども、権(けん)に壓(おさ)れ、威(ゐ)におそれて、且(しばら)く渠(かれ)に従(したが)ふのみ。人(ひと)として義(ぎ)によること、草木(くさき)の日影(ひかげ)に向(むか)ふがごとし。君(きみ)(いま)こゝに孤独(こどく)を辞(ぢ)せず、神餘(じんよ)が為(ため)に逆(ぎやく)を討(うち)、民(たみ)の土炭(とたん)を救(すくは)んとて、一トたび籏(はた)を揚(あげ)給はゞ、蟻(あり)の密(あまき)に聚(つど)ふが如(ごと)く、響(ひゞき)の物(もの)に應(おう)するごとく、皆(みな)(よろこん)で走集(はせあつま)り、仁義(じんぎ)の軍(いくさ)に命(いのち)を擲(なげうち)、生(いき)ながら定包(さだかね)が宍(しゝむら)を啖(くらは)ん、と願(ねがは)ざるもの候はんや。孝吉(たかよし)(もの)の数(かず)ならねども、計畧(はかりこと)をめぐらして、衆人(もろひと)を集合(つどへ)んこと、掌(たなそこ)をかへすより易(やす)かり。計畧(はかりこと)は箇様(かやう)(/\)々」と間(ま)ちかく寄(より)て密語(さゝやけ)ば、義実(よしさね)は「有理(げにも)」と應(いらへ)て、はつかに点頭(うなつき)給ふにぞ。
 側(かたへ)に聞(きけ)る氏元(うぢもと)(ら)は、「竒(き)なり、竒(き)なり」と感嘆(たんせう)して、又(また)さらに孝吉(たかよし)を、とさまかうさまうち熟視(まも)り、「惜(をしい)かな金碗(かなまり)どの。忠義(ちうぎ)の為(ため)とはいひながら、皮膚(はだへ)は瘡(かさ)に包(つゝま)れて、つや/\人(ひと)の面影(おもかげ)なし。さでは躬方(みかた)を集(あつむ)るに、しる人(ひと)ありとも、名告(なの)るとも、それとは思ひかけざるべし。もしその瘡(かさ)の頓(とみ)に愈(いゆ)る、良藥(りやうやく)なくは不便(ふべん)の事也。藥剤(くすり)もがな」と慰(なぐさむ)れば、孝吉(たかよし)(きゝ)て袖(そで)を掻揚(かきあげ)、「故主(こしゆう)の為(ため)には身(み)もをしからず、遂(つひ)に廢人(かたは)となりぬとも、彼(かの)逆賊(ぎやくぞく)を滅(ほろぼ)さば、望(のぞみ)は既(すで)に足(たり)なんものを、わが為(ため)による軍兵(ぐんひやう)ならねば、面影(おもかげ)は変(かは)るとも、露(つゆ)ばかりも妨(さまたげ)なし。必(かならず)懸念(けねん)し給ふな」といひつゝ腕(かひな)をかき拊(なづ)れば、義実(よしさね)(しばら)く沈吟(うちあん)じ、「志(こゝろさし)はさもありなん。さりとて愈(いゆ)る瘡(かさ)ならば、愈(いや)すにますことあるべからず。漆(うるし)は蟹(かに)を忌(いむ)もの也。されば『漆(うるし)を掻(か)く家(いへ)にて、もし蟹(かに)を烹(に)ることあれば、漆(うるし)ながれてよらずとなん。よりて思ふに、今(いま)その瘡(かさ)は、漆(うるし)の毒(どく)に觸(ふれ)たるのみ。内(うち)より發(いで)きしものならぬに、蟹(かに)をもてその毒(どく)を觧(とか)ば、立地(たちどころ)に愈(いえ)もやせん。用(もち)ひて見よ」と宣(のたま)へば、孝吉(たかよし)その智(ち)に感佩(かんはい)して、遂(つひ)に又(また)(これ)を推辞(いなま)ず。「この浦曲(うらわ)には蟹(かに)(おほ)かり。いかで試(こゝろ)み候はん」とことうけまうす折(をり)もよし、蜑(あま)の子(こ)どもが頭(かうべ)のうへに、魚籃(ふご)を載(のせ)つゝ來(き)にければ、貞行(さだゆき)氏元(うぢもと)(いそがは)しく、こや/\と呼(よび)とゞめ、何(なに)ぞと問(とへ)ば蟹(かに)也けり。あな愛(めで)たしと笑(えみ)ながら、遺(のこ)りなく買(かひ)とるに、その数(かず)三十あまりあり。
 義実(よしさね)はこれを見て、「箇様(かやう)にせよ」と教(をしへ)給へば、孝吉(たかよし)はこゝろ得(え)(はて)て、その半(なかば)は生(いき)ながら、甲(こう)を碎(くだ)きて全身(みうち)にぬりつ。そが間(ひま)に貞行(さだゆき)(ら)は、腰(こし)なる燧(ひうち)をうち鳴(な)らし、松(まつ)の枯枝(かれえ)を折焼(をりたき)て、残(のこ)れる蟹(かに)を炙(あぶ)りつゝ、甲(こう)を放(はなち)、足(あし)を去(さり)て、孝吉(たかよし)に與(あたふ)るを、ひとつも殘(のこ)さず服(ふく)せしかば、さしも今(いま)まで臭(くさ)かりし、膿血(うなぢ)は乾(かは)き、瘡痂(かさぶた)は、只(たゞ)(か)く隨(まゝ)に脱落(こぼれおち)て、大(おほ)かたならず愈(いえ)にけり。現(げに)掲焉(いちじるき)(くすり)の効驗(こうげん)、神佛(しんぶつ)孤忠(こちう)を憐(あはれみ)て、かゝる竒特(きどく)を示(しめ)すに似(に)たり。「竒(き)也/\」と氏元(うぢもと)は、貞行(さだゆき)もろ共(とも)(たて)に見つ、横(よこ)にながめて嘆賞(たんせう)し、「あれ見給へ」と指(ゆびさ)せば、孝吉(たかよし)は馬蹄迹(うまざくり)の、溜水(たまりみづ)を鏡(かゞみ)にして、わが面影(おもかげ)をつく/\と、見つゝ感涙(かんるい)を禁(とゞめ)あへず、「皮膚(はだへ)はつゞける処(ところ)もなく、掻乱(かきみだ)せし瘡(かさ)は、今(いま)立地(たちところ)に愈(いえ)たる事、文武(ぶんぶ)の道(みち)に長(たけ)給ふ、良將(りやうせう)の賜(たまもの)なり。名医(めいゐ)は國(くに)を医(ゐ)するとかや。某(それがし)が身(み)ひとつは、屑(ものゝかす)にも候はず。乱(みだ)れし國(くに)をうち治(おさ)め、民(たみ)の苦艱(かんく)を救(すく)ひ給はゞ、寔(まこと)にこよなき仁術(じんじゆつ)ならん。此(この)ところは麻呂(まろ)安西(あんさい)が、采地(れうぶん)に候はねば、よしや限(かぎ)れる日(ひ)を過(すぐ)す共、彼等(かれら)もせんすべなからん歟(か)。さりとて猶豫(ゆうよ)すべきにあらず。嚮(さき)に密語(さゝやき)まうせしごとく、はやく彼処(かしこ)へ赴(おもむ)き給へ」と叮嚀(ねんころ)に勸(すゝ)めつゝ、蓬(おどろ)の髪(かみ)を掻(かき)あげて、髻(もとゞり)(みじか)に引結(ひきむす)ぶ。腰(こし)には縄(なは)の帯(おび)ながら、隱(かく)してもてる匕首(あひくち)を、さして往方(ゆくへ)は小湊(こみなと)の、浦曲(うらわ)(はるか)に誘引(いざなひ)ぬ。
 さる程(ほど)に、金碗(かなまり)八郎(はちらう)孝吉(たかよし)は、里見(さとみ)主従(しゆう%\)に郷導(みちしるべ)して、小湊(こみなと)へ赴(おもむ)けば、夏(なつ)の日(ひ)ながらはや暮(くれ)て、廾日(はつか)あまりの月(つき)はまだ、待(まつ)としなれば出(いで)やらず、只(たゞ)誕生寺(たんぜうじ)の鐘(かね)の声(こゑ)、僂(かゞなふ)れば亥(ゐ)の時(とき)なり。さてもこの小湊(こみなと)なる、高光山(こうくわうさん)誕生寺(たんぜうじ)は、敢川村(あへかはむら)のうちにあり。日蓮(にちれん)上人(せうにん)出生(しゆつせう)の地(ち)なるをもて、日家(につか)上人(せうにん)開基(かいき)して、一宇(いちう)の精舎(せうしや)を建立(こんりう)し、誕生寺(たんせうじ)と名(なづ)けたり。かくてぞ良賤(りやうせん)渇仰(がつこう)し、僉(みな)この檀那(だんな)となりしかば、法門(ほうもん)長久(とこしなへ)に繁昌(はんぜう)す。俗(よ)にいふ上総(かづさ)の七里(しちり)法華(ほつけ)、安房(あは)七浦(なゝうら)の経宗(きやうしう)とて、大(おほ)かた題目宗(だいもくしう)なれども、就中(なかについて)長挾郡(ながさのこふり)は、祖師(そし)誕生(たんぜう)の地(ち)なればにや、苟且(かりそめ)にも他宗(たしう)をまじへず、偏固(へんこ)の信者(しんじや)(おほ)かりける。
 されば金碗(かなまり)孝吉(たかよし)は、豫(かね)て計(はか)りしことなれば、且(まづ)里人(さとひと)(ら)を聚(つどへ)んとて、誕生寺(たんせうじ)のほとりなる、竹叢(たかむら)に火(ひ)を放(かけ)たり。させる燃草(もえくさ)ならねども、野干玉(ぬばたま)のくらき夜(よ)なれば、火氣(くわき)忽地(たちまち)に天(そら)に衝(のぼり)て、梢(こすゑ)の宿鳥(ねとり)立騒(たちさわ)ぎ、法師(ほうし)ばらは撞木(しゆもく)を早(はや)めて、鐘(かね)を撞(つく)ことしきりなり。
 かゝりし程(ほど)に彼此(をちこち)なる、里人(さとひと)(ら)は驚(おどろ)き覚(さめ)て、門(かど)の戸(と)推開(おしあけ)瞻仰(あふぎみ)て、「すはわが寺(てら)に事(こと)こそあれ。起(おき)よ、出(いで)よ」と罵(のゝし)りつゝ、里人(さとひと)は棒(ぼう)を引提(ひきさげ)、荘客(ひやくせう)は農具(のうぐ)を携(たづさへ)、漁夫(れうし)舟人(ふなおさ)、祢子(ねこ)も釋氏(しやくし)も、おの/\先(さき)を争(あらそ)ふて、喘々(あへぎ/\)(はし)り來(き)つ。と見れば寺(てら)は恙(つゝが)なく、其処(そこ)を去(さ)ること両三町(りやうさんちやう)、人(ひと)もかよはぬ竹藪(たけやぶ)のみ、果敢(はか)なくも焼(やけ)たるなり。夜(よ)は静(しづか)にして風(かぜ)(ふ)かず、里(さと)(とほう)して小舎(こいへ)もなければ、人(ひと)(みな)(はし)り聚(つどひ)し比(ころ)、火(ひ)は大(おほ)かたに鎮(しづま)りて、鐘(かね)も音(おと)せずなりしかば、衆人(もろひと)(さら)に呆(あき)れ惑(まど)ひて、鉢巻(はちまき)にせし手拭(てのごひ)を、觧(とき)つゝ汗(あせ)をとるもあり。「これはいかなる白徒(しれもの)か、うたてき所行(わざ)をしたるぞや。野火(のび)のすさりてうつりし歟(か)。斯(かう)とはしらず可惜(あたら)(よ)を、人(ひと)も我(われ)も起(おこ)されて、迩(ちか)きは十町、遐(とほき)は三四里(り)、飛(と)ぶがごとくに走(はし)り來(き)て、減(へら)せしうへに立腹(たつはら)の、やるかたなきをいかにせん」「さりとてさせる事なきは、歡(よろこ)ぶべき筋(すぢ)ならずや」といはれて咄(どつ)と笑(わら)ふもあり。しうねく罵(のゝし)るものも皆(みな)、集合(つどひ)し儘(まゝ)に憇(いこ)ひてをり。
 當下(そのとき)金碗(かなまり)孝吉(たかよし)は、焼殘(やけのこ)りたる薮蔭(やぶかげ)より、咳(しはぶ)きしつゝ立出(たちいづ)れば、衆皆(みな/\)斉一(ひとしく)これを見て、人(ひと)か、鬼(おに)か、とばかりに、且(かつ)(おどろ)き且(かつ)(あき)れて、「あれよ/\」といふ程(ほど)に、孝吉(たかよし)は手(て)を抗(あげ)て、「衆人(もろひと)あやしむことなかれ。われは甲夜(よひ)より此(この)ところに、〓達(なんたち)をまつもの也」と喩(さと)せば更(さら)にと見かう見て、「原來(さては)(まさ)なき所行(わざ)をして、俺們(われ/\)を迷(まよは)せし、白物(しれもの)は彼奴(かやつ)也。打(うて)よ。括(くゝ)れよ」と鬩(ひしめ)くを、騒(さわ)がず軈(やが)て進(すゝ)み寄(より)、「縁由(ことのよし)を告(つげ)ざれば、しか思はるべきことながら、故(ゆゑ)なくこゝに火(ひ)を揚(あげ)て、〓達(なんたち)を集合(つどへ)んや。名告(なのり)をせん」と推鎮(おししづ)め、「その國(くに)(みだ)れて忠臣(ちうしん)あらはれ、その家(いへ)(なや)みて孝子(こうし)(い)づ。志(こゝろざ)すことあればこそ、かくは浮世(うきよ)に隱笠(かくれがさ)、みのざま窶(やつ)れ果(はて)たれば、それとは思ひかけぬなるべし。われは舊(もと)の國主(こくしゆ)に仕(つかへ)し、金碗(かなまり)八郎(はちらう)孝吉(たかよし)なり。曩(さき)には君(きみ)を諫(いさめ)かねて、心(こゝろ)ならずも身退(みしりぞ)き、旅宿(たびね)に年(とし)を經(へ)たれども、舊恩(きうおん)いかでか忘(わす)るべき。逆臣(ぎやくしん)定包(さだかね)を撃(うた)ん為(ため)、濳(しの)びて故郷(こけう)に立(たち)かへり、名(な)を変(かえ)、姿(すがた)を窶(やつ)しつゝ、をさ/\隙(ひま)を〓(ねらへ)ども、人(ひと)(おほ)ければ天(てん)に捷(かつ)、讐(あた)は三里(さんり)の城(しろ)に居(ゐ)て、万人(まんにん)の従類(じゆうるい)あり。豫譲(よじやう)が劔(つるぎ)を橋下(きやうか)に磨(とぎ)、又(また)あるときは忠光(たゞみつ)が、眼(まなこ)を魚鱗(ぎよりん)に覆(おほへ)どもかひなし。さりとて平舘(ひらたて)、々山(たてやま)なる、麻呂(まろ)安西(あんさい)は心(こゝろ)(きたな)く、逆(ぎやく)に與(くみ)して恥(はぢ)とせず。古主(こしゆう)に舊交(きうこう)ありといふとも、これらに機密(きみつ)を告(つげ)がたし。形(あぢき)なき世(よ)を憤(いきどほ)り、墓(はか)なきこの身(み)を恨(うらむ)るのみ。
 憖(なまじい)に現身(うつせみ)の、息(いき)の内(うち)こそ術(すべ)なけれ。死(し)しての後(のち)に霊(れう)になりて、遂(つひ)に怨(うらみ)を復(かへ)さんには、腹(はら)を切(き)らん、と思ふ折(をり)、里見(さとみの)冠者(くわんしや)義実(よしさね)ぬし、結城(ゆふき)の寄手(よせて)を殺脱(きりぬけ)て、白濱(しらはま)に漂泊(ひやうはく)し、安西(あんさい)(ら)を頼(たの)み給ふに、彼等(かれら)は忌(いみ)てしばしも留(とゞ)めず。箇様(かやう)(/\)々に言(こと)を設(まうけ)て、殺(ころ)さんとせしかども、縡(こと)いまだその期(ご)に至(いた)らず。われはからずも白箸(しらはし)の、河畔(かはべ)に行(ゆき)あひ奉(たてまつ)り、忽卒(あからさま)に物(もの)いひかけて、竊(ひそか)に試(こゝろ)み奉(たてまつ)るに、彼(かの)(きみ)(とし)なほわかしといへども、言語(げんぎよ)応對(おうたい)(じん)あり義(ぎ)あり、実(じつ)に文武(ぶんぶ)の良將(りやうせう)也。大約(おほよそ)結城(ゆふき)に篭(こも)りし武士(ぶし)、或(あるひ)は撃(うた)れ生拘(いけど)られ、恙(つゝが)なきは稀(まれ)なるに、主従(しゆう%\)不思議(ふしぎ)に乕口(こゝう)を脱(のが)れて、こゝに漂泊(ひやうはく)し給ふこと、わが身(み)ひとつの幸(さち)ならず。彼(かの)逆賊(ぎやくぞく)定包(さだかね)に、年來(としごろ)いたく虐(しへたげ)られ、しのび/\にうち歎(なげ)く、〓達(なんたち)が福(さいはひ)ならずや。はやく彼君(かのきみ)に従(したが)ひまゐらせ、定包(さだかね)を滅(ほろぼ)さずは、是(これ)(すなはち)賊民(ぞくみん)也。一國(いつこく)なべて餘殃(よわう)を受(うけ)ん。國(くに)の為(ため)に逆(ぎやく)を討(うち)、義(ぎ)に仗(よ)るものは良民(りやうみん)也。ながく土炭(とたん)を脱(まぬか)れて、子孫(しそん)(かならず)餘慶(よけい)を受(うけ)ん。今(いま)このことを告(つげ)んとするに、言(こと)は必(かならず)(もれ)(やす)し。ひとり/\にいふよしなければ、已(やむ)ことを得(え)ず火(ひ)を揚(あげ)て、この篁(たかむら)へ集會(つどへ)たり。こは苟且(かりそめ)のことならず」と叮嚀(ねんごろ)に説示(ときしめ)せば、僉(みな)(よろこび)てもろ手(て)を拍(うち)、「こよなく窶(やつ)れ給ひしかば、面影(おもかげ)を認(みし)れるものも、金碗(かなまり)どのとは思ひかけず、よしなきことをいひつるかな。不礼(ぶれい)はゆるさせ給へかし。素(もと)より智(ち)もなく才(さえ)もなく、虫(むし)に等(ひとし)き俺們(われわれ)なれども、誰(たれ)か國主(こくしゆ)の舊恩(きうおん)を忘(わす)るべき、誰(たれ)か定包(さだかね)をうらめしく思はざらん。憎(にく)しと思へどちから及(およ)ばず、勢(いきほ)ひ當(あたり)がたければ、月日(つきひ)はこゝを照(てら)さずや、とうち歎(なげ)きて候ひし。しかるに里見(さとみ)の君(きみ)の事、誰(たれ)とはなしに風声(ふうぶん)す。素姓(すせう)を問(とへ)は源家(げんけ)の嫡流(ちやくりう)、世(よ)に又(また)(まれ)なる良將(りやうせう)也、と聞(きゝ)つる日(ひ)より慕(したは)しく、おの/\足(あし)を翹(つまたて)て、渇望(かつぼう)せざるものもなし。夏(なつ)の日(ひ)よりも苛醒(いらひど)き、ゑせ大領(たいれう)に病萎(やみしぼ)む、民草(たみくさ)を憐(あはれみ)て、こゝに軍(いくさ)を起(おこ)し給はゞ、誠(まこと)に國(くに)の大幸(たいこう)なり。孰(たれ)か命(いのち)を惜(をし)むべき。冀(こひねがはく)は金碗(かなまり)どの、これらのよしを申給へ」と辭(ことば)ひとしく応(いらへ)しかば、孝吉(たかよし)後方(あとべ)を見かへりて、「其処(そこ)にて聞(きか)せ給ひけん、はや縡成(ことなり)て候」と呼内(おとなひ)まうせば義実(よしさね)は、氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)を將(い)て薮蔭(やぶかげ)より、徐々(しづ/\)と進(すゝ)み出(いで)て、衆人(もろひと)にうち對(むか)ひ、「われこそ里見(さとみ)義実(よしさね)なれ。乱(みだれ)たる世(よ)は殊更(ことさら)に、弓箭(ゆみや)とる身(み)のならひとて、修羅(しゆら)闘場(とうぢやう)に奔走(ほんさう)し、矢傷(ししやう)の鳥(とり)となるものから、悪木(あくぼく)の蔭(かげ)には憇(いこ)はず。さりとて民(たみ)の父母(ふぼ)たるべき、その徳(とく)(たえ)てなしといへども、人(ひと)(もし)われを捨(すて)じとならば、われ亦(また)その議(ぎ)によらざらんや。譬(たとへ)ば千里(せんり)の駿馬(ときうま)も、その足(あし)なければ走(はし)りがたく、万里(ばんり)に羽(は)を振(のす)、大鵬(たいぼう)も、翼(つばさ)なければ飛(とぶ)ことかなはず。われは孤独(こどく)の落武者(おちむしや)なれ共、今(いま)衆人(もろひと)の佐(たすけ)を得(え)たり。遂(つひ)になすことなからずやは。さはれ滝田(たきた)は剛敵(ごうてき)なり。馬(うま)物具(ものゝぐ)(とゝの)はず、兵粮(ひやうらう)の貯(たくはへ)なくは、佻々(かろ/\)しく進(すゝ)みかたし。こはいかにして可(か)ならん」と問(とは)れて衆皆(みな/\)(おもて)をあはし、「現(げに)しかなり」とばかりに、霎時(しばし)回答(いらへ)はせざりけり。
 そが中(なか)に、村長(むらおさ)とおぼしくて、老(おい)たるもの両三人(りやうさんにん)、班(むれ)をはなれてすゝみ出(いで)、「寔(まこと)に御詫(ごぢやう)で候へば、聊(いさゝか)愚按(ぐあん)を申(ス)なり。凡(およそ)長挾(ながさ)一郡(いちぐん)は、定包(さだかね)が股肱(こゝう)の老黨(ろうだう)、萎毛(しへたげ)酷六(こくろく)があづかりにて、東條(とうでふ)に在城(ざいぜう)せり。こゝを去(さ)ること遠(とほ)からず。且(まづ)(こと)の手(て)あはせに、酷六(こくろく)を撃(うち)給はゞ、物具(ものゝぐ)兵粮(ひやうらう)いへばさら也、一郡(いちぐん)忽地(たちまち)おん手(て)に入(い)りなん。かくて滝田(たきた)を攻(せめ)給はゞ、進退(しんたい)自由(じゆう)に候はずや」と言(こと)委細(つばらか)に告(つげ)まうせば、義実(よしさね)感嘆(かんたん)(おほ)かたならず、頻(しき)りに左右(さゆう)を見かへりて、「おの/\あれを聞(きゝ)たる歟(か)。野夫(やぶ)にも功者(こうのもの)ありとは、この叟等(おきなら)をいふべきなり。竒(き)を出(いだ)し、敵(てき)をはかるは、神速(すみやか)なるにますものなし。今宵(こよひ)(すぐ)さま推懸(おしかけ)て、彼処(かしこ)に備(そなへ)なきを撃(うた)ん。箇様(かやう)(/\)々にせよかし」と謀(はかりこと)を示(しめし)給へば、孝吉(たかよし)(ら)はこゝろを得(え)て、氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)もろ共(とも)に、聚合(つどひ)し村民(たみ)を数(かぞふ)れば、一百五十(いつひやくごじう)餘人(よにん)あり。迺(すなはち)これを三隊(みて)にわけて、謀(はかりこと)を傳(つたふ)れば、僉(みな)(よろこび)て令(げぢ)を承(うけ)、手(て)に物(もの)なきは篁(たかむら)なる、巨竹(おほたけ)を伐(きり)とりて、竹槍(たけやり)として挾(わきはさ)む。その一隊(ひとて)は四十餘人(よにん)、堀内(ほりうち)貞行(さだゆき)これを將(い)て、假(かり)に金碗(かなまり)孝吉(たかよし)を縛(いましめ)つゝ、先陣(せんぢん)に進(すゝみ)けり。これ則(すなはち)義実(よしさね)の、計畧(はかりごと)によればなり。後陣(ごぢん)は則(すなはち)五十人、杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)大將(たいせう)たり。中軍(ちうぐん)は六十人、義実(よしさね)みづから將(せう)として、二隊(ふたて)は間徑(こみち)より遶(めぐ)り出(いで)、城(しろ)の正門(おほて)のほとりにて、一隊(ひとて)にならん、といそがしたり。
 さる程(ほど)に、東條(とうでふ)には、定包(さだかね)が目代(もくだい)なる、萎毛(しへたげ)酷六郎(こくろくらう)元頼(もとより)、「小湊(こみなと)の火(ひ)を鎮(しづ)めよ」とて、甲夜(よひ)には夥兵(くみこ)を出(いだ)せしか、火(ひ)ははや滅(きえ)つ、里遠(さととほ)き、野火(のび)なるよしを傳聞(つたへきゝ)て、夥兵(くみこ)は途(みち)よりかへりつゝ、再寐(またね)の夢(ゆめ)を結(むす)ぶ程(ほど)に、暁(あけ)がたちかくなりにけり。
 浩処(かゝるところ)に人夥(ひとあまた)、正門(おほて)の城戸(きど)を敲(たゝ)くにぞ、門卒(かどもるつわもの)は駭(おどろか)されて、誰(たそ)と問(とへ)ば、小湊(こみなと)なる、敢川(あへかは)の村長(むらおさ)(ら)が、盗賊(ぬすびと)を捕(とら)へしとて、牽立(ひきたて)て來(き)つる也。縁故(ことのもと)を尋(たづぬ)れば、「さン候甲夜(よひ)の間(ま)に誕生寺(たんぜうじ)の竹薮(たかやぶ)なる、野火(のび)を滅(けさ)んとする程(ほど)に、癖者(くせもの)を捕(とらへ)たり。力量(りきりやう)早技(はやわざ)面魂(つらたましひ)、凡庸(よのつね)のものにあらず。軈(やが)て出処(しゆつしよ)を責問(せめとへ)ば、只(たゞ)(のゝしり)て実(じつ)を得吐(えはか)ず。しる人(ひと)ありてまうすやう、渠(かれ)は舊(もと)の國主(こくしゆ)に仕(つかへ)し、金碗(かなまり)八郎(はちらう)孝吉(たかよし)といふものなり。古主(こしゆう)の讐(あた)を復(かへ)さんとて、姿(すがた)を窶(やつ)し、名(な)を変(かえ)て、月(つき)ごろ瀧田(たきた)を排徊(はいくわい)せし、縡(こと)分明(ふんみやう)に顕(あらは)れたり。こは輕(かろ)からざる罪人(つみひと)なるに、もし過失(あやまち)して走(はしら)せなば、後難(こうなん)(のが)るべうもあらず。よりて暁(あく)るをまたずして、大勢(たいぜい)して將(い)て参(まゐ)りぬ。これらのよしを申(シ)給へ」と声高(こゑたか)やかに訴(うつたへ)けり。そのとき門卒(かどもるつわもの)は、窓(まど)推開(おしひら)き、つら/\見て、「よくこそしたれ、霎時(しばし)(まて)。まうして入(い)れん」と応(いらへ)あへず、戸(と)を引立(ひきたて)て走(はし)り去(さり)、此彼(これかれ)にや告(つげ)たりけん、且(しばらく)して瓦落(ぐわら)(/\)々と、閂(くわんぬき)の音戛(おとがら)めかして、角門(くゞりもん)を推(おし)ひらき、「皆(みな)とく入(い)れ」と呼入(よびい)るれば、縛(いましめ)られたる態(ふり)をして、先(さき)に進(すゝ)みし孝吉(たかよし)は、索(なは)をはらりと揮觧(ふりほど)き、左方(ゆんで)に立(たつ)たる兵士(つわもの)が、刀(かたな)の鞆(つか)に手(て)を掛(かけ)て、引抜(ひきぬき)(うばふ)て〓(はた)と〓(き)る。刃(やいば)の光(ひかり)もろ共(とも)に、頭(かうべ)は飛(とん)で地(ち)に落(おち)たり。思ひかけなき事なれば、「こは狼藉(らうせき)や」とばかりに、慌忙(あはてふため)く兵士(つわもの)を、追立(おつたて)(すゝ)む貞行(さだゆき)は、孝吉(たかよし)(ら)に力(ちから)を戮(あは)して、薙倒(なぎたふ)し、〓払(きりはら)ひ、無人郷(ひとなきさと)に入(い)るごとく、はや二(に)の城戸(きど)へ攻(せめ)つけたり。そが間(ひま)に荘客們(ひやくせうばら)は、大門(だいもん)を推(おし)ひらき、鬨(とき)を咄(どつ)と揚(あげ)しかば、氏元(うぢもと)と一隊(ひとて)になりて、溝端(ほりばた)ちかく寄(よせ)たりける。義実(よしさね)これを聞(きゝ)あへず、「時分(しぶん)は今(いま)ぞ、図(づ)をぬかすな。すゝめ進(すゝ)め」と令(げぢ)し給へば、衆人(もろひと)(なに)かは勇(いさま)ざらん。軈(やが)て合(あは)する鬨(とき)の声(こゑ)、勢(いきほひ)(うしほ)の涌(わく)ごとく、驀地(まつしくら)に走入(はせい)りて、一二(いちに)の城戸(きど)をうち破(やぶ)り、「狗黨(くたう)の萎毛(しへたげ)、とく出(いで)よ。里見(さとみ)冠者(くわんしや)義実(よしさね)ぬし、この地(ち)に歴遊(れきゆう)し給ひしを、衆人(もろひと)(おし)て主君(しゆくん)と仰(あふ)ぎぬ。されば逆賊(ぎやくぞく)定包(さだかね)をうち滅(ほろぼ)し、國(くに)の汚穢(けがれ)を掃(はらひ)給ふ、仁義(じんぎ)の軍(いくさ)に誰(たれ)か敵(てき)せん。そのゆくところ、過(よぎ)るところ、老弱(ろうにやく)〓食(たんし)壺醤(こせう)して、これを迎(むかへ)(たてまつ)り、只今(たゞいま)(こと)の手(て)あはせに、まづこの城(しろ)を献(たてまつ)りぬ。先非(せんひ)を悔(くや)しく思はんものは、降参(こうさん)して頸(くび)を續(つ)げ。惑(まど)ひをとらば玉石(ぎよくせき)と、もろ共(とも)に碎(くだ)けなん。出(いで)よ/\」と喚(よび)かけて、縦横(じゆうわう)無碍(むげ)に捲立(まくりたつ)れば、城兵(ぜうひやう)ます/\辟易(へきゑき)して、防(ふせ)ぎ戦(たゝかは)んとするものなく、冑(かぶと)を脱(ぬぎ)弓箭(ゆみや)を棄(すて)、僉(みな)拝伏(はいふく)して命(いのち)を乞(こひ)ぬ。
 かくて里見(さとみ)義実(よしさね)は、刃(やいば)に〓(ちぬら)ずして、東條(とうでふ)の城(しろ)を乗取(のつと)り、賊將(ぞくせう)萎毛(しへたけ)酷六(こくろく)を索(たづね)給ふに、「渠(かれ)ははや落亡(おちうせ)て、その往方(ゆくへ)をしらず」といふ。義実(よしさね)(きゝ)て眉根(まゆね)をよせ、「彼(かの)もの慚愧(ざんぎ)後悔(こうくわい)し、志(こゝろざし)を改(あらため)て、けふよりわれに従(したが)はゞ、われ舊悪(きうあく)を咎(とがめ)んや。然(さ)るを無明(むめう)の酔醒(えひさめ)ず、いちはやく逃亡(にけうせ)せし事、固(もと)より惜(をしむ)に足(た)らねども、直(たゞ)に瀧田(たきた)へ遁(にげ)かへりて、定包(さだかね)に告(つげ)んには、安西(あんさい)麻呂(まろ)(ら)に諜(てう)じ合(あは)せて、時日(じじつ)を移(うつ)さず推(おし)よせ來(き)つべし。われ今(いま)(あらた)に城(しろ)を獲(え)て、二三百の士卒(しそつ)あれ共、半(なかば)は降参(こうさん)しつるものなり。主客(しゆかく)の勢(いきほひ)甲乙(こうおつ)あり。謀(はかりこと)合期(がつこ)せずして、三方(さんほう)に敵(てき)を受(うけ)なば、何(なに)をもてこれに當(あた)らん。誠(まこと)に諱々(ゆゆ)しき大事(だいじ)にあらずや。酷六(こくろく)(すで)に走(はし)るとも、いまだ遠(とほ)くはゆくべからず。氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)二隊(にて)にわかれて、疾(とく)追留(おひとめ)よ」と令(げぢ)し給へば、「うけ給はりぬ」と応(いらへ)あへず、はやうち出(いで)んとする折(をり)から、金碗(かなまり)八郎(はちらう)孝吉(たかよし)は、何処(いづこ)へか走去(はせさり)けん、軍兵(ぐんびやう)十人(ン)あまりを將(い)て、忽然(こつぜん)とかへり來(き)つ。大將(たいせう)義実(よしさね)にまうすやう、「けふの働(はたら)き彼此(かれこれ)と、優劣(まさりおとり)は候はねど、某(それがし)はこの城(しろ)の案内(あんない)をよくしりぬ。されば衆軍(しゆぐん)に先(さき)たちて、三(さん)の城戸(きど)をうち毀(こぼち)、賊將(ぞくせう)萎毛(しへたげ)酷六(こくろく)を、生拘(いけとら)んとてあさりにけれど、絶(たえ)てその所在(ありか)をしらず。顧(おもふ)に城(しろ)の西北(いぬゐ)には、一條(ひとすぢ)の活路(ぬけみち)あり、前面(むかひ)は檜山(ひのきやま)にして、右(みぎ)のかたは樹立(こだち)ふかく、左(ひだり)は崖(きりぎし)(たかう)して、下(した)は千尋(ちひろ)の谷川(たにかは)也。
【挿絵】「笆内(かきのうち)に孝吉(たかよし)酷六(こくろく)を撃(うつ)」「金まり大輔」「しへた毛こく六」
城中(ぜうちう)(いち)の要害(えうがい)にて、人(ひと)にしらさぬ秘所(ひしよ)なれば、笆(かき)の内(うち)と名(な)づけたり。彼奴(かやつ)はこゝより遁(にげ)つらん、と推量(おしはか)りて候へば、こゝろ利(きゝ)たる軍兵(ぐんびやう)を駈催(かりもよほ)し、岨(そは)を傳(つた)ひ、蔓(かつら)にとり著(つき)、捷徑(ちかみち)よりうち出(いで)て、前面(むかひ)を佶(きつ)と見わたせは、女房(にようばう)(こ)どもを〓(はんだ)に乗(のし)たる、主従(しゆう/\)すべて八九人、東南(たつみ)を指(さし)て走(はし)るものあり。熟視(つく/\み)れば酷六(こくろく)なり。這奴(しやつ)もはじめは神餘(じんよ)の老黨(ろうだう)、われには遙(はるか)(たち)まさりて、主君(しゆくん)のおぼえ大(おほ)かたならず。その禄(ろく)をもて身(み)を肥(こや)し、眷属(うから)妻孥(やから)を養(やしな)ひながら、忠義(ちうぎ)の為(ため)には得(え)(しな)ずして、逆賊(ぎやくぞく)に媚諛(こびへつら)ひ、東條(とうでふ)に在城(ざいぜう)して、飽(あく)まで民(たみ)を虐(しへたげ)たる、天罰(てんばつ)(つひ)に〓(まぬか)れず。落城(らくぜう)のけふに及(およ)びて、迯(にぐ)るとも脱(にが)さんや。金碗(かなまり)八郎こゝにあり、かへせ戻(もど)せ、と呼(よび)かけて、透間(すきま)もなく追蒐(おつかく)れば、轎夫(かごかき)どもはこれに〓(おびえ)て、走跌(はしりつまつ)き轉輾(ふしまろび)、〓(はんだ)を撲地(はた)とうち堕(おと)せば、女房(にようばう)(こ)どもは吐嗟(あなや)と叫(さけ)びて、千尋(ちひろ)の谷(たに)へ滾落(まろびおち)、株(くひぜ)に打(うた)れ、石(いし)に碎(くだ)かれ、骨(ほね)も遺(のこさ)ず死(しん)でけり。
 萎毛(しへたげ)は眼前(まのあたり)、妻子(やから)の横死(わうし)を救(すく)ふにすべなく、鉾杖(ほこつゑ)(つき)て岸邊(きしべ)に立在(たゞずみ)、こなたを佶(きつ)と見かへりて、脱(のが)れかたくやおもひけん、主従(しゆう/\)七人(ン)魚鱗(ぎよりん)に備(そなへ)て、追來(おひく)る我(われ)をまつ程(ほど)に、躬方(みかた)は鶴翼(くわくよく)に連(つらなつ)て、鷙鳥(しちやう)の燕雀(ことり)を撃(うつ)ごとく、旋風(つむぢ)の沙石(いさご)を巻(まく)ごとく、吐(どつ)と〓(おめい)て突崩(つきくづ)す。地方(ところ)は名(な)に負(お)ふ節処(せつしよ)也。天(よ)は明(あけ)ながら雲(くも)ふかき、岨(そは)山蔭(やまかげ)の樹下(このした)(やみ)。進(すゝ)むも退(のく)も一騎打(いつきうち)、互(たがひ)に識(しつ)たるどちなれば、鎧(よろひ)の袖(そで)を潜脱(くゞりぬけ)て、先(さき)を争(あらそ)ふ躬方(みかた)の英氣(ゑいき)に、遁足(にげあし)(つき)たる雑兵(ざふひやう)(ら)は、霎時(しばし)(さゝえ)て散散(ちりちり)に、走(はし)るを追蒐(おつかけ)追詰(おひつめ)て、殘(のこ)りなく生拘(いけど)りつ、竟(つひ)に賊將(ぞくせう)萎毛(しへたげ)を、撃(うち)とりて候」と辞(ことば)せわしく演説(ゑんぜつ)して、件(くだん)の俘(いけどり)を引居(ひきすえ)させ、酷六(こくろく)が頸(くび)もろ共(とも)に、実檢(じつけん)に入(い)れしかば、義実(よしさね)思はず嘆息(たんそく)し、「夫(それ)(へい)は凶器(けうき)なり。徳(とく)(おとろへ)て、武(ぶ)を講(こう)じ、澤(たく)(た)らざれば、威(ゐ)をもて制(せい)す。こは已(やむ)ことを得(え)ざるのみ。城(しろ)を攻(せめ)、地(ち)を争(あらそ)ふも民(たみ)を救(すくは)ん為(ため)なれば、われ樂(たのし)みて人(ひと)を殺(ころ)さず。さは定包(さだかね)に従(したが)ふもの、みな悪人(あくにん)にはあるべからず。或(ある)は一旦(いつたん)の害(がい)をおそれ、或(ある)は時(とき)と勢(いきほひ)に、志(こゝろざし)を移(うつ)すもの、十にして八九なるべし。この故(ゆゑ)に非(ひ)を悔(くひ)て、躬方(みかた)にまゐるものとしいへば、やがて命(いのち)を助(たすく)るのみかは、用(もちひ)ざることなきものを、什麼(そも)いかなれば萎毛(しへたげ)が、従卒(じゆうそつ)は生拘(いけど)られ、彼身(かのみ)は却(かへつて)(かうべ)を喪(うしな)ひ、剰(あまつさへ)(つま)と子(こ)は、石堰水(いはせくみづ)ともろ共(とも)に、皮肉(ひにく)(くだ)けて死(しに)たりけん。こは時(とき)と勢(いきほひ)に、志(こゝろさし)を移(うつ)されて、逆(ぎやく)に従(したが)ふのみならず、必(かならず)(てん)の赦(ゆるさ)ざる、兇悪(けうあく)のものなるべし。よしや悪(あく)には従(したが)ふとも、みづから悪(あく)をなすべからず。努(ゆめ)(つゝし)め」と説諭(ときさと)し、金碗(かなまり)が牽(ひき)もて來(きた)せし、俘(いけとり)を釋放(ときゆる)させ、「凡(およそ)(あらた)にまゐれるものは、軍功(ぐんこう)の夛少(たせう)によりて、後日(ごにち)に恩賞(おんせう)あるべし」と正首(まめやか)に仰(おふせ)しかば、僉(みな)感涙(かんるい)を禁(とゞめ)あへず、「とても捨(すつ)べき命(いのち)なりせば、はじめよりこの君(きみ)に、従(したがは)ざることよ」とて、慚愧(ざんぎ)後悔(こうくわい)今更(いまさら)に、身(み)の置(おく)ところをしらざりける。
 かくて又(また)義実(よしさね)は、孝吉(たかよし)(ら)に宜(のたま)ふやう、「酷六(こくろく)瀧田(たきた)へ逃(にげ)かへらば、定包(さだかね)火急(くわきう)によせ來(き)つべし、と思へば心安(こゝろやす)からざりしに、孝吉(たかよし)がけふの働(はたら)き、わが胸中(きやうちう)をしるに似(に)たり。城兵(ぜうひやう)散落(さんらく)せずといふとも、翌(あす)よりして三日が程(ほど)には、必(かならず)彼此(をちこち)へ聞(きこ)えなん。しからば麻呂(まろ)と安西(あんさい)は、娟(そねみ)て定包(さだかね)を佐(たすく)るなるべし。先(さき)にすれば人(ひと)を制(せい)し、後(おく)るゝときは制(せいせ)らる。この〓昏(ゆふぐれ)にうち發(たち)て、通宵(よすがら)(はし)りて平郡(へぐり)に入(い)らば、敵(てき)の膽(きも)を冷(ひや)さん歟(か)。初度(しよど)の合戦(かつせん)躬方(みかた)に利(り)あらば、麻呂(まろ)安西(あんさい)(ら)は聞怕(きゝおぢ)して、絶(たえ)て頭(かうべ)を出(いだ)すべからず。そはとまれかくもあれ、まづ勸賞(けんせう)を沙汰(さた)せん」とて、金碗(かなまり)八郎(はちらう)孝吉(たかよし)を、第一番(だいゝちばん)と定(さだめ)させ、荘園(しようゑん)(あまた)(たび)けれども、故(もと)より思ふよしありとて、固辞(かたくいろ)ひてこれを受(うけ)ず。第二番(だいにばん)には小湊(こみなと)にて、「東條(とうでふ)を取(とり)給へ」と申シすゝめし叟(おきな)ども、三人(ン)を召出(めしいだ)して、その名(な)を問(とは)せ給ひしかば、「三平(さんへい)四治郎(しじらう)仁總(にさう)」と答(こた)ふ。義実(よしさね)(きゝ)てうち微笑(ほゝえみ)、「こはいと愛(めで)たき名(な)也かし。三平(さんへい)とは、山下(やました)、麻呂(まろ)、安西(あんさい)の三雄(さんゆう)を平(たいらぐ)る、前象(もとつさが)といふべき歟(か)。四治(しじ)は四郡(しぐん)を治(おさめ)ん祥(さが)也。二総(にさう)は、則(すなはち)上総(かづさ)下総(しもふさ)、後(のち)かならずわが掌(て)に入(い)らん歟(か)。かゝればその名(な)をひとつに合(あは)して、おの/\三四(さんし)十二个(か)(むら)に、今又(いまゝた)二増倍(にさうばい)すれば、三十六所(しよ)の長(おさ)たるべし」とて、御教書(みぎやうしよ)を賜(たび)にければ、皆(みな)万歳(ばんせい)と唱(となへ)つゝ、歡(よろこび)いさみて退出(まかで)けり。第三番(だいさんばん)は氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)、この餘(よ)泛々(はん/\)の輩(ともがら)は、録(ろく)するに遑(いとま)あらず。或(あるひ)は秩禄(ちつろく)を宛行(あておこなは)れ、或(あるひ)は牽出物(ひきでもの)を賜(たまは)れば、おの/\斉一(ひとしく)拝舞(はいぶ)しつ。「賞(せう)(おもう)して、罰(ばつ)(かろ)し、死(し)せるものも更(さら)に生(いく)、活(いけ)る物(もの)は栄(さかえ)たり。江(え)に還(かへ)る車轍(わだち)の魚(うを)、雪(ゆき)の中(なか)なる常盤木(ときはき)、君(きみ)が齢(よはひ)はさゞれ石(いし)の、巖(いはほ)となるまで竭(つき)せじな」と今様(いまやう)を合奏(うたひつれ)て、壽(ことぶ)き興(けう)じ奉(たてまつ)りぬ。
 さる程(ほど)に義実(よしさね)は、法度(はつと)を寛(ゆるう)して、民(たみ)を安撫(なで)、軍令(くんれい)を正(たゞしう)して、士卒(しそつ)を励(はげま)し給ひしかば、招(まね)かざれどもまゐるもの、数(す)百人(ン)に及(およ)びけり。これらは過半(くわはん)とゞめ置(おき)て、杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)とゝもに城(しろ)を守(まも)らせ、僅(はつか)に二百餘騎(よき)を將(い)て、孝吉(たかよし)を先陣(せんぢん)とし、貞行(さだゆき)を後陣(ごぢん)として、平郡(へぐり)へ進發(しんばつ)し給へば、氏元(うぢもと)はこれを諫(いさめ)て、「斯(かく)ては無下(むげ)におん勢(せい)(すくな)し。この城(しろ)にこそ二三百の士卒(しそつ)あらば足(たり)なん」と頻(しきり)に密語(さゝやき)申せしかば、義実(よしさね)(かうべ)をうち掉(ふり)て、「否(いな)この城(しろ)はわが巣(す)也。もしこゝを破(やぶ)られなば、何処(いつこ)へか還(かへ)るべき。合戦(かつせん)は必(かならず)しも、勢(せい)の夛少(たせう)によるにもあらず、我(われ)に利(り)あらば二百騎(き)が、千騎(き)二千騎(き)にもなりぬべし。わがうへには懸念(けねん)せで、汝(なんぢ)はよく城(しろ)を守(まも)れ。なほいふべき事こそあれ。麻呂(まろ)安西(あんさい)(ら)には和睦(わぼく)せよ、必(かならず)これと争(あらそ)ふべからず。瀧田(たきた)の敵兵(てきへい)よせ來(きた)らば、力(ちから)を竭(つく)して防(ふせ)ぎ戦(たゝか)へ。かならず出(いで)て追(お)ふべからず。これ安全(あんぜん)の良策(りやうさく)也。努々(ゆめ/\)(おこた)るべからず」と叮嚀(ねんごろ)に説諭(ときさと)し、さて先陣(せんぢん)をいそがして、軈(やが)て出陣(しゆつぢん)し給ひけり。
 果(はた)せるかな里見(さとみ)の一軍(いちぐん)、その夜(よ)、前原浦(まへはらうら)と濱荻(はまおぎ)なる、堺橋(さかひばし)を渡(わた)す折(をり)、義実(よしさね)の徳(とく)を慕(した)ひ、風(ふう)を望(のぞみ)て帰降(きごう)する、野武士(のぶし)郷士(ごうさむらひ)なンど、百騎(き)二百騎(き)うちつれ立(たち)て、こゝにて追著(おひつき)(たてまつ)り、軍勢(ぐんぜい)千騎(き)になりしかば、後々(のち/\)までもこの橋(はし)を千騎橋(せんきはし)と唱(となへ)たり。加旃(しかのみならず)この処(ところ)は、むかし源頼朝(みなもとのよりとも)(けう)、當國(たうこく)へ推渡(おしわた)り、上総(かつさ)へ赴(おもむ)き給ふとき、この川(かは)のほとりにて、後陣(ごぢん)を待(また)せ給ひしとて、待崎(まつさき)と字(あざな)せる。側(かたへ)に白籏(しらはた)の神祠(やしろ)あり。義実(よしさね)(すなはち)(うま)より下(を)りて、征箭(そや)二條(ふたすぢ)を奉納(ほうなう)し、且(しばら)く祈念(きねん)し給へば、真夜中(まよなか)なるに白鳩(しらはと)二隻(には)、社頭(しやとう)の松(まつ)の梢(こすゑ)より、はた/\と軒〓(はたゝき)して、平郡(へくり)のかたへ飛去(とびさり)ぬ。これを見る諸(しよ)軍兵(ぐんびやう)、「合戦(かつせん)勝利(せうり)(うたがひ)なし」とて、勇(いさま)ざるものなかりけり
南総里見八犬伝巻之二終


# 『南総里見八犬伝』第四回 2004-08-30
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