『江戸読本の研究』第三章 江戸読本の世界

第四節 意味としての体裁 −俊徳丸の変容−
高 木   元 

 一 江戸読本の体裁

わが国の19世紀小説を質量ともに代表する江戸読本。その魅力が伝奇的な起伏に富んだ筋の運びだけではなく装幀や挿絵にも存することは、おそらく保存状態のよい初印本に触れる機会を得た読者の一致した見解であろう。味気ない縹色無地表紙で、いかにも書物然として流布していた18世紀の浮世草子や前期上方読本に対して、江戸読本は次第に色摺りで華やかな意匠を凝らした表紙を持つに至る。袋こそあっさりとした文字だけのものが多かったと思われるが、見返しにはさり気なく内容に則した飾り枠などを用い、繍像には主な登場人物を描いてその運命を暗示する賛が入れてある。多くは漢文序を備え、目録は章回体小説に擬した独特の様式を持ち、さらに本文中には時に刺戟的な画柄の挿絵が入れられていた。

このような江戸読本の気取った華やかさは、読者に対する本自体の自己主張として意識的に造本された結果である。ひとたび手にとってみると、重ね摺りを施した華麗な口絵は展開を暗示し、目録は大まかな筋を示し、さらに挿絵に一瞥を加えると、もう読まずにはいられなくなるという具合に本が創られているのである。きわめて単純化してしまえば、同時期の草双紙が絵外題簽から錦絵風摺付表紙に移行していったように、商品としての魅力を持たせるための所為と見做せるかもしれない。

しかし、作品内容と体裁とが不可分な関わりを持ちつつ各ジャンルを形成していた近世文芸にあって、比較的格調高く堅い雰囲気を保持しようとした江戸読本が、なぜ派手な装いを持つに至ったのであろうか。おそらく〈読本〉という名称とは裏腹に、単に筋を読むだけのものから、次第に口絵や挿絵という視覚的な要素の比重が増し、現代の読者たちと同様に、モノとしての本自体の美しさをも愛玩するようになったからであろう。本というモノは本質的に手で弄んで読むものであり、単に文字列が記されていればよいという実用品ではないのである。

 二 俊徳麻呂謡曲演義

初板初印の美しい江戸読本が、摺りたてのきわめてうぶな状態で保存されている作品の1つとして、広島市立図書館浅野文庫に所蔵されている振鷺亭主人作・蹄斎北馬画の『俊徳麻呂謡曲演義しゆんとくまるようきよくえんぎ(文化6〈1809〉年、石渡利助板)を挙げることができる▼1。現存本としては『国書総目録』に僅か2本を見るに過ぎないし、『古典籍総合目録』にも登載されていないが、現在までに管見に入ったものは端本を含めて13本余りある。これは江戸読本の残存本数からいえば平均的な数字だと思われる▼2

この本には謡本の体裁に擬した大層凝った装幀が施されている。半紙本5巻5冊、栗皮色地に梅花氷裂を散らし、中央上部に長方形無郭の文字題簽「俊徳丸\巻之一\亀の井\まゝ子さん\門法楽」と、巻1の第1回から第3回までの見出しを曲名風に配置している。見返しには薄墨の飾り枠の内側を墨で潰し「謡曲演義俊徳丸」と白く抜いてある。自序「俊徳丸艸序」には節付と胡麻点とを付け▼3、雅楽器の意匠を用いた総目録を掲げている。これらは謡曲『弱法師よろぼうし』を強く意識したものと思われるが、それにしても徹底した凝り方をしている。

さて、謡曲『弱法師』や説経『しんとく丸』(正保5〈1648〉)に結実した俊徳丸の世界は、次第にほかの世界と綯い交ぜにされて変容を遂げていった。浄瑠璃では謡曲『富士太鼓』の筋を加えた『莠伶人吾妻雛形ふたばれいじんあずまのひながた(享保18年初演)や、「愛護若あいごのわか」物の趣向を取り入れた『摂州合邦辻せつしゆうがつほうがつじ(安永2〈1773〉年初演)などがある。小説では富士浅間と俊徳丸を結びつけた先行作として享保15〈1730〉年刊の八文字屋本『冨士浅間裾野櫻▼4』がある。振鷺亭はこれらの人口に膾炙した作品に題材を求めたのであるが、本作がこの八文字屋本によっていることは、すでに柴田美都枝氏が指摘している▼5。だが、新たに書き加えられた趣向も多く、作品全体には〈鏡塚の由来譚〉としての枠組が与えられている。口絵の最後に▼6

按本傳俊徳麻呂姓氏未詳蓋俟識者之後勘也。一書曰眞徳或作新徳百済王之後裔稱山畑長者延暦年間之人也云云。時人稱其長者有徳而稱哉。今尚舊蹟存于河州高安郡山畑村中。土人呼之鏡冢雖不載紀傳口碑勒尚矣。嗚呼旌俊徳之美名永令為鑑萬代者乎。予此所記非稽査本拠。只掲出弱法師之謡曲以属詞為覧話本者而作也。亦唯深耻虚譚吁於俊徳人其捨諸乎。

と記してあるが、『河内志』の記述▼7や、『河内名所図會▼8』に見える、

真徳麿の古跡 山畑村の中にあり。土人、鏡塚と呼ぶ。一説に、俊徳あるいは新徳に作る。この人、姓氏分明ならず。あるが曰く、百済王の後にして、山畑長者と号し、延暦中の人なり。謡曲「弱法師」に見えたり。大坂天王寺南門の外に真徳街道あり

などという俗説により、俊徳丸を四天王寺救世観音の申し子で齋明王の弟調宰相の太子調子丸の再誕とし、級照姫しなてるひめを四天王寺庚申の申し子で前生を百齋王敬福の娘として設定したものと思われる。

また、口絵には俗にいう死神として『首楞嚴經しゆれうごんきやう』から「癘鬼れいき」を引いてその姿を描き、巻1の最後にある4丁続きの挿絵では、秘伝の巻物を掴んだまま切り取られた腕▼9から煙が立ちのぼり、その中に『山海経』に「其ノ状黄嚢ノ如。赤コト丹火ノ如。六ノ足四ノ翼アリ。渾敦トシテ面目無。是レ歌舞ヲ識ル」とある「帝江」という奇態な天上之神の姿を描く。また挿絵でも『本艸綱目』によるという「山獺やまおそい」や、「三尸」「九蟲」「三彭」「七魂」などの奇妙な虫などの絵を出している。画工の北馬が跋文に、

此書このふみもとよりむかし物語ものかたりなんどのさまなるべき作者のこゝろならねばたゞ俤子わらはべきやうあるためにとて九蟲こゝのつのむしなんどのかたち本草綱目ほんぞうこうもく名目めうもくのみに山獺やまおそいてふものも其状かたちのせざれバたゞおどろ/\しうかきなしつなべて繪虚事ゑそらこと見侍はべりてたびてんかし

と記す通り、これらは『冨士浅間裾野櫻』によったものではない。

このほかにも、詐術としての〓〓かまゆでの刑、恋文を運ぶ雁、入定塚の前でのダンマリ模様、善悪邪正を映す善亀鏡という宝鏡、桓平白狐の子孫三足の白狐が妖術を使っての仇討、波瀲なぎさを惨殺すると腹中から傳胎知命という異形の虫が飛び去り楽譜の一書を得る趣向などなど、実に江戸読本らしい伝奇的で血腥い趣向に満ちた作品なのである。

 三 冨士浅間裾野櫻

 ところで、典拠として用いられた『冨士浅間裾野櫻』には『俊徳丸一代記』(天明8〈1788〉)という改題本がある。体裁は大本5巻5冊、外題角書には〈新畫|圖入〉とある▼10。巻末に付された和泉屋卯兵衛の広告に、

俊徳丸一代記しゆんとくまるいちだいき ひらかな絵入五冊 俊徳しゆんとく一生いつしやう日本の楽人がくにん住吉の冨士ふじ天王寺の浅間あさま春藤しゆんどう仲光なかみつ夫婦ふうふ忠臣ちうしん俊徳丸天王寺西門におひて参詣さんけいの人々にかほをさらせし事迄いさいニ出ス
梅若丸むめわかまる一代記 ひらかなゑ入五冊 松わか梅若兄弟けうだいの事を出し母班女はんぢよ天狗てんくちぎりをむすひあに松若を取もどせし事奥州おうしう角田川すみだがは由来ゆらいとうまでくはしくしるす
愛護若あひごのわか一代記 ひらかな絵入五冊 あいごの若一生を委細いさいにし并継母けいぼざんげんの事ひめの成行ゑい山の阿闍梨じやり志賀唐崎の一ツ枩の因縁いんえん迄いだす

とあり、同時に3作の八文字屋本を改題改修本として出している▼11。これらの3作には、序文と目録、挿絵を新たに作り直すというまったく同様の改修が加えられている。享保末期から天明8〈1788〉年までには約50年の年月を経過しており、板元も移ったのであるから化粧直しが施されても別段不思議はないのであるが、ただし加えられた改変の意味は一考に値する。まず、巻1の目録を並べてみる。

冨士浅間裾野桜ふじあさますそのゝさくら  一之巻
    目録
第一 舞台ぶたい調子てうしのつる女中乗物のりもの
    大御堂おほみだう荘厳しやうごん光輝ひかりかゞや星月夜ほしづきよ鎌倉かまくら繁昌はんじやう
    よいたね薪捨まきすてひらきかゝる我身の栄花ゑいぐわ
    表門おもてもんあく口明くちあけうらまはる女のはし智惠ぢゑ
第二 親子おやこゑんきりもぐさあつさ覚る紙子かみこ火打ひうち
    吸付すいつい乳守ちもりの大夫ゑんあるむすぶの帋子姿かみこすがた
    家の秘曲ひきよく傳受でんじゆうけずに勘當かんどううけた身
    恩愛をんあい中垣なかがきいふにいはれぬ親子おやこ義理詰ぎりづめ
第三 思ひもよらぬ災難さいなん身にかゝる縄目なわめはぢ
    のぞみひらくる庭桜にはざくら花をふらすまひそで
    楽所がくしよ障子せうじさしてとる舞楽ぶがく大事だいじ
    てん/\とまひ太鼓たいこ討手うちてハしれぬちゝかたき

この浮世草子特有の言語遊戯的な凝った目録様式は、読んでも直ちに内容のわかる書き方がなされていない。それが改題改修本では次のように変えられている。

俊徳丸一代記しゆんとくまるいちだいき  巻一
      目録
一、北條ほうでう武蔵守むさしのかみ平高時たいらのたかとき安部長者あべのてうじやさる事
一、楽人がくにん冨士ふじ妻女さいぢよ乗打のりうち家老からう口論こうろんの事
一、冨士ふじ信吉のぶよし家形やかたきたる事
一、冨士ふじ一子いつし左京之進さきやうのしん勘気かんきのわびする事
一、萬秋楽ばんしうらくまい傳授でんじゆの事
一、阿左京之進信吉のぶよし屋敷やしきしのぶ事
一、冨士ふじ横死わうしの事
一、左京之進とらわれとなる事

この「〜事」で終るという書式は簡潔に内容を表わしていて、目録を追っただけで一通りの筋がわかるようになっている。実録体小説風もしくは読本風に直されているのである。そして、この書式は化政期以降の江戸読本の全盛期に至っても、上方出来の後期読本に継承される体裁上の顕著な特徴でもある。

また、挿絵も画面をいくつかに区切った細かい異時同図法で詞書が入れられているものから、一場面を大きく描き文字の入らない体裁に変更されている▼12。これも、読本風に直されたといっても差し支えないと思われる。

これらの体裁改変を直ちに浮世草子の読本化を意図したものと断定することはできないが、和泉屋卯兵衛ただ一人の気まぐれではない。享保18〈1733〉年の八文字屋本『那智御山手管瀧なちのやまてくだのたき』も、寛政9〈1797〉年に『袈裟物語』と改題改修されて浅田清兵衛から出されており、これまた序文目録挿絵を彫り直し、巻頭見出しも読本風に直された改題改修本であった。

浮世草子には分類されていないが、宝暦4〈1754〉年刊『和州非人敵討實録』(多田一芳序、和泉屋平四郎板)も文化6〈1809〉年に『復讐・繪本襤褸錦つづれのにしき(播磨屋新兵衛板)という改題本が出されているが、全丁に絵の入った絵本体裁で「享和酉の夏五月雨の頃 浪華の漁翁誌す」という序を持つ改刻本である▼13。さらに後になってから『敵討綴之錦』(河内屋藤兵衛板)▼14という、鼠色表紙に意匠を凝らした題簽を貼り、見返しと法橋玉山の手になる口絵挿絵を加えた江戸読本仕立ての改題改修本が出されている。これには「享和酉の夏五月雨の頃 浪華の漁翁誌す」という序に加えて、宝暦板にあった一芳の序を「跋」と象嵌して付けられている。つまり、旧作の様態を読本風に変えて改題改修した本は浮世草子だけには限らないのである。

一方、横山邦治氏は「「都鳥妻恋笛」から「隅田川梅柳新書」へ▼15」で、『梅若丸一代記』と改題改修された八文字屋本『都鳥妻恋笛みやこどりつまごひのふえ』が、天保13〈1842〉年には『梅花流水』と改題され、大本5冊ながらも表紙と題簽に色摺りが施され、繍像と挿絵が追加されて、あたかも江戸読本かと見紛う体裁で出されていることを紹介し、浮世草子と読本の連続性を考えてみるべきだと説いている。

もちろん、作風や題材も決して無関係ではなかったと思われるが、いま見てきた例などは、中身はまったく同じものにもかかわらず、表紙と目録と挿絵という、いわば一番目立つ箇所の様式を新たにすることによって、従来の浮世草子とは別の(場合によっては読本としての)読まれ方を期待したものと考えられるのである。

つまり、本というモノにとって、機能と意匠とは決して別の次元の問題なのではなく、体裁という外面的様式こそが享受されるべき内容を規定してしまうという側面を持っているのである。

 四 俊徳丸一代記

以下、近代になってからの問題に移るが、手許に『俊徳丸一代記』という内題を持つ、明治23〈1890〉年刊の洋装活版本1冊がある。表紙は破損しており外題は不明、大きさは縦21.5×横14.5糎の菊判。変体仮名をも字母とする5号活字が用いられ、ほぼ総ルビで、組みは29字詰11行。天に空白が多く取られた印面の大きさは、ボール表紙本と同様の四六判ほど。「明治23年9月2日 山口徳太郎\櫻井三世仁兄玉案下」とある書翰体の「換序」2頁と、「耕作」という署名の入った口絵3図(6頁)を含めて全部で280頁。内題下に「東京櫻井三世口述\仝 山口徳太郎速記」と見え、長短はあるものの第1席から第31席までに区切られ、中途に口絵と同筆の挿絵5図(10頁)が入っている。これは俗に「赤本」とも呼ばれていた速記本講談小説▼16で、刊記は次のようになっている。

明治廿三年十月七日印刷
同   年十月九日出版
明治卅一年五月五日再版
       京橋區元數寄屋町一丁目三番地
*** 著作者  岩  本  五  一
*版*    淺草區南元町二十五番地
*権* 發行者  鈴  木  與  八
*所*    下谷區御徒町一丁目七番地
*有*     大山活版所
*** 印刷者  山  田  仙  藏
發 行 所 淺草區南元町二十五番地 盛陽堂

巻末の「附言」には出版に至った経緯について次のように記されている▼17

附言ふげんに申上升近頃ちごろ速記そつきがくと申ものが流行りうこうに相成ましたので彼處あちらでも此處こちらでもこの速記そくきいたさせますがれは文章ぶんしやうちが御覧ごらんあそばすには至極しごくわかやすうござゐ升……書肆しよし三林堂主人しゆじん三世おのれ一日あるひ四方山よもやま談話だんわわたりましたついで……主人あるじの申しますにはにか速記法そくきはふさそうものを一版いつぱん印刷こしらへたいがにか、たねはないかとのはなしからいたしてこの俊徳丸のせつわたりました近頃ちかごろ兎角とかく文學ぶんがく世界せかいとは申しながら、中々なか/\學術がくじゆつ進歩しんぽ容易ようゐでは御座いません、うわべばか進歩しんぽいたしてりましてもそのわざけんければしん進歩しんぽけには相成あいなりませんれば生地なまぢ自稱じしやう天狗てんぐ文章ぶんしやうる先生よりは、かへつてこの速記方そくきはふはうほどよろしうござゐ升、三世わたくしれがはじめてゝございますから、んな事を看客かんかくに申上ていかとん相分あいわかりませんが三林堂さんりんどう主人しゆじんの申しますのにはひとひて面白おもしろいのが一ばんだから、やつろとのすゝめを便たよりと致してヤツト大尾たいびまでこぢつけましたが、なにいたしてもふか取調とりしらべますが御座いませんので、充分じうぶん看客かんかく御意ぎよいるか、らぬかわあいわかりませんが、從來これまで祭文さいもんみがうたひますやうなものとはチト事がかはッてります、故人こじん振鷺亭しんろていと申す作者さくしやつくりました、俊徳麻呂謡曲演義しゆんとくまろようきよくゑんぎと申す稗史よみほんがございます小生わたくし參考さんこう一閲いちゑついたしましたが、古人こじんさく當世とうせいからるとあま虚々敷そら%\しい事がかいてあッて、それにくうござゐ升から小生わたくし偶意ぐうゐをもつて、べつ趣向しゆこう相立あいたてまして御機嫌ごきげんうかゝひましタ、もとより歴然れきぜんいたした、正史せいしつて、つゞりましたものでハ御座ございませんたゞ俊徳丸、合法かつぱう古跡こせきりて忠信ちうしん孝貞かうてい形状さまくちにまかせてべましたけのものでございますから振鷺亭しんろてい著作さく小生おのれ口演こうゑんとお見並みくらべをねが升焉ゑん

速記を用いた舌耕文芸の単行本活字化の早い例としては、三遊亭圓朝の人情話を若林[王甘]藏と酒井昇造とが速記した『怪談牡丹燈篭』(東京稗史出版曾社刊、1884年)が有名である。一方、明治19〈1886〉年からは「やまと新聞」に圓朝の作品が連載され始め、好きな時に好きな場所で読めるという速記本講談小説の流行に一層の拍車がかかった。この速記本講談小説について神田伯治口演、吉岡欽一速記の『自來也▼18』に付された呑鯨主人の「序」に、

速記術そつきじゆつなる言語げんご寫眞しやしんしるせし冊子さつし近來きんらい普通ふつう小説しやうせつまさるもおとことなしれば小説しやうせつ出版しゆつはん數多かずおほしといへども都下とかいう講談師こうだんし十八番とくいとするものゑらび之にくわゆるに老練ろうれんの速記者をしてしるせる講談こうだん小説しやうせつにはとをく及ぶところにあらず

とある。つまり、速記という「言語の寫眞」によった講談小説は、高座での語りを髣髴とさせ耳目に入りやすいから「普通小説」に劣らないというのである。ところが、同体裁の『自雷也物語』という本▼19があり、こちらは紛れもなく江戸読本『報仇竒談自來也説話』▼20の翻刻本なのである▼21

速記本講談小説『自來也』の方は、どちらかといえば合巻の『児雷也豪傑譚』に基づく神田伯治の創作といってよい。つまり、この時期の大衆読物には、実録体小説種の速記本講談小説と近世小説の翻刻という二つの潮流があったのである。

 五 速記本講談小説

ところで、前に引いた速記本『俊徳丸一代記』の付言に振鷺亭の江戸読本『俊徳麻呂謡曲演義』に基づくとあったように、単なる翻刻でも自由な創作でもなく、いわば江戸読本の講談化とでもいうべき作品も行なわれていたのである。改めて序を見ると、

換序
排呈はいてい御口演ごこうゑん俊徳丸しゆんとくまる一代記清書せいしよ出來しつたい御印刷ごゐんさつへお廻送くわいそう被下度。ひては再讀さいどくいたし候ところれは貴君きくんべつ御著作ごちよさくあそばされ候ものとぞんじ候。小生しやうせいも。御案内ごあんないごとく。小説はめしよりもすきにて。從來じうらい印板いんばん流布るふするものは大概おそらくざるものなし(れは自稱じしやう天狗てんぐ)とまうしてもよろし次第しだいに御坐候れば天明てんめい時代じだい作者さくしや振鷺亭しんろていと申すひと著作つくられし俊徳麻呂謡曲演義しゆんとくまろようきよくゑんぎと申す稗史ふみほんも。一度ひとたび閲讀ゑつどく仕候得共。如何いかにせん。つく物語ものがたり目前もくぜんいだし。きよとしじつとしてうかがふにたらず。こと支那しなせつ諸書しよしよより引用いんようしてつくるものをもつて往々わう/\空々敷そら/\し箇處かしよ澤山たくさん相見あいみへ候。貴君きくんの御著作ハれとはんして温故知新おんこちしんその情態じやうたい穿うがち。もつ今様風いまやうふう御著作ごちよさくせられしハしんに今日の童蒙どうもう婦幼ふやうをしてむにてき其感そのかんいだかしむし。元來げんらい俊徳丸しゆんとくまる古説こせついへども。こと其間そのかんそんもつ風俗ふうぞく疇昔ちうせきしかうして其實そのじつ現時げんじれしはじつに小生感腹かんぷくほか無之これなく候本文、荻葉おぎは奇妙院きめうゐん小冠者こくわんじや神經談しんけいだん春緒はるを小式部こしきぶ薄命はくめい俊徳丸しゆんとくまる合法がつはう心裡しんり一々いち/\其人そのひと目撃もくげきするがごとくにしてしん愉快ゆくわい相覺あいおぼへ候よつて筆序ふでついでに小生の想像そうざうを申上く候敬具けいぐ
 明治廿三年九月二日
山口徳太郎拝呈
 櫻井三世仁兄玉案下

と、速記者が講釈師の提灯持ちをしているが、基本的な筋は原話を逸脱していない上に、口絵と挿絵は描き直されているものの、明らかに北馬の手になる原画を踏まえたものである。改変されているものは、「波瀲」という女敵役を「荻葉」という名前に変えて〈毒婦〉と形容している点。また、「其性淫毒なり」という山獺の趣向や、合邦道人が級照媛の体内から三尺九虫三魂七魄を追い出す場面の描写、さらには狐の怪異や入定の詐術などという、振鷺亭が好んで書き込んだと思われる江戸読本らしい伝奇的モチーフは悉く排除され、ことさらに道徳教訓的な叙述が補われているのである。これらは「作り物語を目前へ出し。虚とし見。實として窺ふに足ず。殊に支那の説を諸書より引用して作るものをもつて往々空々敷き箇處澤山に相見へ候」と巻末附言にいう部分を、敢えて避けたということになるだろう。

このような江戸読本を典拠とする速記本講談小説は、ほかにもいくらか挙げられると思われるが▼22、たとえばこれも同じく菊判洋装本『苅萱石堂丸』▼23は、第1回の冒頭部で、石堂丸の実伝は芝居狂言などとは大いに違うので「一口わたくし幼年えうねんみぎりより、二三の原書げんしよもとづいて、樣々さま%\苦心くしんいたし、いたらぬながらその事實じゞつ潤色じゆんしよくくわへ、言葉ことばはなかざッてえんじ」るといいながら、実のところ中身は馬琴の中本型読本『苅萱後傳玉櫛笥かるかやごでんたまくしげ▼24の筋をなぞっただけのものである。基本的には安政期に流行した切附本▼25の一部に見られる読本を抄出したものと同趣である。ただ、『苅萱石堂丸』は典拠を秘匿しているだけ非良心的であるといえるかもしれないが、にもかかわらず、剽窃とか抄出として片付けてしまうわけにはいかない。切附本との最大の相違は、高座で口演されたものを速記した(という様式を採る)読み物であるという点である。当然、速記術という「言語の寫眞」技術の確立が前提になるわけであるが、実はその速記された原稿に、さらに後から手を入れたようである。つまり、講談という場の枠を嵌めた口述筆記という装置を仮設することによって作られたものが、速記本講談小説という様式なのである。

江戸読本の翻刻本が大量に出版された近代の一時期に、よく知られている「八犬士伝」や「自来也」など以外にも、江戸読本に題材を求めた講談や速記本講談小説が存在したことは看過できない。そして、それらの本が同様の菊判洋綴装にカラー表紙という体裁を持っていたということは、前述した通り造り手側が同じ読まれ方を想定しているということであるから、ほぼ同一の読者層を想定してもよいかと考えられるのである。

 六 意味としての体裁

ところで、翻刻本によって江戸読本の原文を読むのと、講談速記本によって語り手の独演を媒介とした会話体で同様の筋を読むのとでは、本質的にどこが違うのであろうか。言文一致の問題を持ち出すまでもなく享受の位相は違う。作品世界に対して文字通りの〈語り手〉が具体的な存在としてあらかじめ設定された文体は、〈語り手〉による要約や注釈や脱線が自在である。と同時に作品世界の情報はすべて〈語り手〉の管理下におかれているわけで、前述の『俊徳丸一代記』のように近代合理主義的な発想で、本来的な江戸読本の魅力を削ぎ落して、いたずらに教訓化されてしまいかねないのである。このことは、江戸読本の文体にも多声的な叙述が備わっていることに改めて気付かせてくれる。つまり、叙述を問題にせずに筋や登場人物の行動がすべてであるかのごとき錯覚を持って近世後期小説を読むことはできないのである。

『俊徳丸一代記』という題名を持った作品を追いつつ明治期の出版についても見てきたが、最初に触れた『俊徳麻呂謡曲演義』にも翻刻が備わっている。四六判錦絵風摺付表紙の和装本『俊徳丸白狐蘭菊』(明治18年3月24日翻刻御届\同年7月 (ママ)日出版、野村銀次郎)と、四六判洋装『古今小説名著集』第17巻(明治24年、礫川出版會社)とである。これらは、四六判であり、菊判洋装という現代の文芸雑誌風の速記本講談小説の類とは別の存在として見るべきである。何度か述べてきたように、本の大きさや体裁とは確実にその享受の様相を規定したものだからである。


▼1.和泉書院の読本善本影印叢刊の一冊として入れられる予定なので、書誌および諸本研究はそちらへ譲りたい。
▼2.一概にはいえないが『国書総目録』や国文学研究資料館のデータベースに登載されていなくても、どこかに所蔵されていることがある。したがって現存本の数を問題にする時に『国書総目録』の登載本数を根拠にするのは危険である。ただし、中には当時の出板記録類に記されながらも現存本が発見されていない振鷺亭作北斎画『安褥多羅賢物語』などもある。いずれにしても保存のよい初印本は稀であり、とりわけ不当に価値を貶められた再刻本(改題再刻本)の方の善本となると伝本は少ないようだ。また、当時評判になって売れたとしても、本が多数残っているわけではないし、逆に馬琴が売れなかったと記して有名な山東京伝の『雙蝶記』ですら幕末の後印本を確認できるのである。
▼3.栗杖亭鬼卵作『謡曲春榮物語』(文化15年、河内屋嘉七板)も同体裁の序文を持つ謡曲に基づく作であり、三熊野文丸作『小説竒談峯の雪吹』(文化7年、玉集堂板カ)も同様の序を備えている。また、馬琴の『旬殿實々記』巻之9でも龍宮の珠取として謡曲「海土」の一部分が引用されている。
▼4.大本5巻5冊、序「享保十五戌の\としの始作者其磧\作者自笑」、刊記「享保十五年戌ノ正月吉日\ふ屋町通せいぐはんじ下ル町八文字屋八左衛門」。
▼5.柴田美都枝「江戸読本の展開 文化年間」(『読本の世界―江戸と上方―』、世界思想社、1985年)53頁。
▼6.火炎太鼓風の絵の中に書かれている。なお、句点を私に補った。
▼7.享保21〈1736〉年刊『日本輿地通志』河内之7、2丁表に、「鏡冢 山畑村ニ在。俗云眞徳麻呂ノ舊蹟。事ハ與呂法師曲詞ニ見。或曰女孺従五位下百濟王眞徳ノ墓。延暦中ノ人」とある。
▼8.享和元〈1801〉年刊。『日本名所風俗図会』11巻(角川書店、1981年)所収。
▼9.この場面は歌舞伎の舞台を髣髴とさせる画組である。しかし、巻物を掴んだ腕ごと切り落すのは『莠伶人吾妻雛形』に見られる趣向であり、本文中の記述とは齟齬している。
▼10.序末「天明七つのとし\未正月吉日」、柱「富士」、刊記「天明八年戊申正月吉日\書林\大坂心斎橋北詰 和泉屋卯兵衛」。さらに、刊記を「大坂上難波町 播磨屋新兵衛\同心斎橋博労町 勝尾屋六兵衛」と改めた後印本も存。
▼11.長谷川強『浮世草子考証年表―宝永以降―(日本書誌学大系42、青裳堂書店、1984年)によれば、『梅若丸一代記』は享保19年正月刊『都鳥妻恋笛』の改題改竄本、『愛護若一代記』は享保20年正月刊『愛護初冠女筆始』の改題本とある。
▼12.神谷勝広「浮世草子の挿絵―様式の変遷と問題点―(「近世文芸」50号、日本近世文学会、1989年6月)によれば、絵入狂言本の挿絵から影響を受けて八文字屋が意識的に採用した詞書入異時同図法様式は、享保末年にはほぼ定着し、また、それが次第に読本風に変化していくとする。
▼13.刊記脇の広告に「繪入敵討綴之錦 全部六冊 敵討の始末ひらかなニ委敷して面白きよみ本也 出来」とあり、原板木に改修を加えた本ではない。
▼14.刊記には河内屋藤四郎以下河内屋藤兵衛まで3都9書肆が列記されている。宝暦板の改題改修板の後印本だと思われる。
▼15.横山邦治「序にかえて」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、1974年)。
▼16.新島広一郎編著『講談博物志』(私家版、1992年)では、多くの版元とその手掛けた講談本シリーズについて、長年にわたって蒐集された実物のカラー図版を示して解説している。なお、国立劇場演芸図書室蔵の『合邦辻敵討俊徳丸』(錦城齊貞玉口演、加藤由太郎速記、明治39年、春江堂)はまったく別のもの。
▼17.旧稿に引用した架蔵本には一部破損していて不明の部分があった。此処の引用(web版)では、後日入手した次の刊記を持つ別の再版本『俊徳丸一代記』に拠った。

明治四十年一月十九日再版印刷
明治四十年一月十九日再版發行
      {明治廿三年十月七日印刷/同年十月九日出版}
        京橋區元數寄屋町一丁目三番地
*** 著作者   岩  本  五  一
*版*     東京市淺草區三好町七番地
*權* 發行者   大  川  錠  吉
*所*     東京市淺草區南元町廿六番地
*有* 印刷者   川  崎  清  三
***     東京市淺草區南元町廿六番地
    印刷所  大 川 屋 印 刷 所
        東京市淺草區三好町七番地
發行所 聚榮堂 大  川  屋  書  店

▼18.大正元年11月25版、大川屋書店。初版(未見)は明治29年。
▼19.洋装、菊判、183頁、序「明治三十一年秋十月、志摩 蒼海漁夫識」、刊記「明治三十三年二月十四日印刷\明治三十三年二月十九日出版\飜刻發行者・東京市日本橋區通三丁目十三番地・内藤加我\印刷者・東京市日本橋區新和泉町一番地・瀧川三代太郎\發行所・東京市日本橋區通三丁目十三番地・金櫻堂\印刷所・東京市日本橋區新和泉町一番地・今古堂活版所」。
▼20.感和亭鬼武作、高喜斎校合、蹄斎北馬画、半紙本5巻6冊、文化3年丙寅歳孟春、中村藤六板。蛇足ながら、この序文に洋装菊判という体裁について「現今流行の洋綴製」と記されているのが興味深い。
▼21.序末に「以て巻端の半丁を塞ぐと云爾」とあるにもかかわらず、2頁にわたって序文が書かれているのが妙だと思っていたら、ボール表紙本『兒雷也豪傑物語』(四六判、洋装、115頁、内題「自來也物語」、明治20年1月10日御届、同22年4月30日印刷、同年5月1日再版、柳葉亭繁彦閲、漫遊曾發兌)に付された序文と、振仮名の多寡を除けばまったくの同文であった。この本は明治20年に鶴聲社から出されたものの再版と目されるが、さらに早く明治17年に四六判の和装本として共隆社からも柳葉亭繁彦閲で出されており、版元や版型を変えながら何度も出版されたようだ。ただしその間にいく度か挿絵の描き換えと活字の組み直しを行なっており、どうやら前版を原稿として用いたものと思われる。近代に入ってからの、このような江戸小説翻刻本出版をめぐる様相は、なお一層の資料収集が必要であり、版元の関係を含めて今後の課題として残されている。
▼22.鬼卵の読本『長柄長者繪本黄鳥墳』(文化8〈1811〉)にも、同様の速記本講談小説『鴬塚復讐美談』(錦城齋貞玉講演・今村次郎速記、いろは書房、明治30年11月)があり、同時に『今古實録鴬墳物語』(上下1巻、榮泉社、明治17年11月)に翻刻され、さらに四六判和装『鴬墳物語』(榮泉主人序、巻末破損で書誌事項不明)も出ている。この鴬塚の話は合巻でも扱われ、演劇にも仕組まれ、山々亭有人・松亭金水『鴬塚千代廼初声』(全4編、安政3年〜明治2年)という人情本にもなっている。これらの検討は別稿「草双紙・読本の雅俗−黄鳥塚説話の諸相− (「國文學」學燈社 1999/02)に譲りたい。
▼23.石川一口講演、中村卯吉速記、明治40年再版、駸々堂。
▼24.曲亭馬琴作、葛飾北斎画、3巻3冊、文化4年、榎本惣右衛門・同平吉板。
▼25.本書第二章第五節参照。


# 『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』(ぺりかん社、1995)所収
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