『江戸読本の研究』第三章 江戸読本の世界

第一節 『松浦佐用媛石魂録』論
高 木  元

 一 問題の所在

 文化五年(一八〇八)、馬琴は五点十冊の合巻と十一点五十五冊の読本を刊行している。この年は馬琴の生涯において、一年間の刊行数が最大の年であり、同時に文学史上、読本の刊行数が最大の年であった。そして、文化三年から五年に至る三年間に、馬琴読本の約半数が刊行されているのである。
 『松浦佐用媛石魂録』(以下『石魂録』)は、この多作期の頂点たる文化四年五月の序を持っている。その前編(三巻三冊)は翌年文化五年に刊行された。下巻の奥付に「右石魂録後編来冬無遅滞出版」と予告があるにもかかわらず、後編(七巻七冊)が刊行されたのは二十年後の文政十一年(一八二八)であった。その間の事情を後編上帙の「再識▼1」に見てみよう。

この書(しよ)前集(ぜんしふ)三巻(みまき)。〔第(だい)一回(くわい)より第(だい)十回(くわい)に至(いた)る。楮數(かみかず)九十一頁(ひら)〕文化(ぶんくわ)四年(よねん)丁卯(ひのとう)の夏(なつ)。書肆(しよし)雙鶴堂(さうくわくだう)の需(もとめ)に応(おう)して創(さう)したり。是(これ)よりして後(のち)。又(また)後集(こうしふ)の討求(もとめ)ありといへども。筆硯(ひつけん)煩夛(はんた)の故(ゆゑ)をもて。いまだ果(はた)さゞりけるに。雙鶴堂(さうくわくだう)物故(もつこ)して。その刻板(こくはん)數十枚(すじうひら)。千翁軒(せんおうけん)の手(て)に落(おち)たり。こゝをもて千翁軒(せんおうけん)。梓(あづさ)を續(つぎ)て全(まつたう)せんとて。予(よ)が著(ちよ)を乞(こ)ふこと頻々(ひん/\)也。予(よ)はその舊作(きうさく)たるをもて。今(いま)さら稿(こう)を續(つが)まく欲(ほり)せず。且(かつ)(だい)十回(くわい)の結局(むすび)なる。〔末(すゑ)の龍華(たつはな)の巻(まき)なり〕玉嶋(たましま)母子(ぼし)兄弟(きやうだい)再會(さいくわい)し。清縄(きよつな)自刃(じじん)の段(だん)に至(いた)りて。一部(いちぶ)の趣向(しゆこう)(すで)に全(まつた)し。又(また)何事(なにこと)をか綴起(つゞりおこ)さん。この故(ゆゑ)にその請(こは)るゝを許諾(うけひ)しより。又(また)五六年(ねん)を歴(ふ)る程(ほど)に。翁軒(おうけん)(しば/\)柴扉(さいひ)を敲(たゝ)きて。請求(こひもとむ)ることいよ/\急(きう)也。よりて已(やむ)ことを得(え)ず。今茲(ことし)病後(びやうご)に研(すゞり)を發(ひら)きて。後集(こうしふ)七巻(なゝまき)を綴(つゞ)り做(な)して。もて稍(やゝ)(せめ)を塞(ふさぎ)にき。前集(ぜんしふ)發兌(はつだ)の歳(とし)よりして。こゝに二十一个年(かねん)。拙(つたな)き隋(まゝ)に老(おい)せぬ筆(ふで)もて。又(また)後集(こうしふ)を續出(つぎいだ)せるは。吁(あゝ)われながらいと/\をかし。(後編一巻)

 また、『近世物之本江戸作者部類』(以下『作者部類』)には次のようにある▼2

文政の初の比半蔵▼3石魂録前編の古板を購得て後編を刊行せまく欲りし文政五六年の比より曲亭にこれを乞ふといへとも前編を綴りしより既に二十許年に及ひていたく流行に後れしものなれハ作者のこゝろこゝにあらす。この故に久しく稿を創めさりしに半蔵なほこりすまに乞ふこと年を累ねて已さりけれハ曲亭竟に黙止かたくて編を續て全本となしたる也。

 「流行に後れし」「旧作」というのは年月が経過した結果である。なぜ予定通り翌年に後編が書かれなかったのであろうか。単に「筆硯煩多の故」に、未完の作品を二十年も放置しておいたのであろうか。「已ことを得ず」書かれた後編ではあったが、「勢ひ八犬傳に及ふへくもあらされとも亦是隋て行れたりといふ」(『作者部類』)のである。確かに後印本も多く出板されており、さらに笠亭仙果により「仮名読み石魂録」とでもいうべき合巻『松浦舩水棹婦言(まつらぶねみさほふげん)』が嘉永六年(一八五三)から安政三年(一八五六)にかけて、一勇斎国芳の華麗な挿絵によって刊行されている。これらのことからも『石魂録』の評判をうかがうことができるであろう。
 ところで、後編の序には次のようにある。

今茲肇秋曝書ノ間。曩篇三巻ヲ取テ之ヲ讀ムニ。〓然トシテ世ヲ隔タル者ノ如シ。 即舊案ニ縁テ。 以新研ヲ發シ。 黽勉シテ稿ヲ續ク焉。未數月ニ至ラズ。 本篇七巻方ニ成レリ。 此レ後集之以世ニ刊布スル所也。蓋人情ハ舊キヲ〓フ。 時好ニ也走レハ也。是ノ擧ヤ也既ニ時好ニ後レテ。 又自售ンコトヲ索ム。 寔ニ兎ヲ獲テ蹄ウケヲ忘ルヽ者之為ル所。予カ之志ニ非ス也。

 いま、この「即縁舊案。以發新研。黽勉續稿焉」という内容を検討することによって、『石魂録』前後編の相違とその意味について考察していきたい。

 二 作品構想

 まず『石魂録』の構想が組み立てられた過程をたどってみよう。
 『松浦佐用媛石魂録』という題に示されたように、佐用媛伝承によるところが多い。全編のストーリーは、佐用媛が狹手彦と別れなければならなかったという「前生の因果」を滅することへ向けて展開していく。前編の「再識」に次のようにある。

この書(しよ)の一名(いちみやう)を。松浦佐用媛石魂録(まつらさよひめせきこんろく)ともいふべし。故(ゆゑ)いかにとなれバ。領巾靡山(ひれふるやま)に妾(せう)をもとめ。望夫石(ぼうふせき)(しよう)に子(こ)を産(うむ)を發端(ほつたん)とす。しかれば瀬川采女(せがはうねめ)ハ。後(のた)の狹手彦(さでひこ)にして。博多秋布(はかたあきしく)ハ。後(のち)の佐用媛(さよひめ)とも見なし給ひね。

 つまり登場人物の前生を伝承世界に求めたのである。また、前編の序に代えて「領巾靡山考(ひれふりやまのかうがへ)」という考証を書いている。ここで『万葉集』巻五の領巾靡山伝承と『幽明録』等に見られる望夫石の故事との類似について触れている。『万葉集』に見られるような、出征して行く夫を恋慕う妻が山上で領巾を振ったという領巾振山伝承は、『古今著聞集』『十訓抄』では中国の望夫石の故事と並べられ、さらに『本朝女鑑』『曾我物語』では後に石に化したと記され、いつしか佐用媛石化の伝承となっている。馬琴の考証もこのことに触れ、「和漢の貞婦化して石となり、その全体を遺す事いよ/\思ひわきまへかたし」と、佐用媛伝承を望夫石の故事として見做している。
 また、『日本書紀』欽明紀に見えるの伊企儺の妻大葉子の歌が、『万葉集』の佐用媛の歌に似ていると、この箇所を引用している。これは新羅を討とうとした伊企儺が敵に捕えられ、敵の王を罵ったために殺され、またその妻大葉子も捕えられ、夫の死を悼んで「韓国(からくに)の城(き)の上(へ)に立(た)ちて大葉子(おほばこ)は領巾(ひれ)(ふ)るすみも日本(やまと)へ向(む)きて」という歌を詠んだという伝承である。この記事の後に大伴狹手彦の記事があることから、領巾振山伝承はこの大葉子を佐用媛と誤ったものだという考証を加えた後に「佐用媛(さよひめ)が事(こと)ハ。今(いま)も節婦(せつふ)の亀鑑(きかん)として。これを稱賛(せうさん)す。亦(また)大葉子(おほはこ)が亊(こと)に至(いた)りてハ。しらざるもの多(おほ)し。伊企儺(いきな)夫婦(ふさい)の幸(さち)なきにあらずや」と結句している。馬琴はこの考証で引用した伝承も登場人物の前世として設定している。つまり伊企儺は浦二郎、伊企儺を殺した敵将胡子和は糸萩、大葉子は千鳥の前世となっているのである▼4
 ところで、『石魂録』は前編の見返しに「瀬川采女復讎奇談」とあるように、いわゆる〈仇討物〉という大きな枠組が与えられていた。この枠組は全編を一貫する構想として二十年を隔てた前後編を繋ぎとめる機能を果たしたと思われる。

作者(さくしや)(いはく)。前編(ぜんへん)三冊(さんさつ)稿(こう)(なつ)て。まづ刊行(かんこう)す。こゝに述(のぶ)るところ。稍(やゝ)(なかば)に過(すぎ)ず。これより以下(すゑ)。瀬川采女(せかはうねめ)鎌倉(かまくら)に赴(おもむ)く中途(ちうと)。殃危(わざはひ)にあふこと。及(およ)び瀬川浦二郎(せかはうらじらう)が傳(でん)。博多弥四郎(はかたやしらう)讒死(ざんし)の弁(べん)。若黨(わかたう)俊平(しゆんへい)。簑七(みのしち)が始終(しゞう)。秋布(あきしく)が艱難(かんなん)苦節(くせつ)。終(つひ)に仇人(かたき)鼠川嘉二郎(ねずかはかじらう)。長城野兵太(をさきのひやうだ)を撃(うち)て。名(な)を海内(かいだい)に高(たかう)し。その後(のち)俳優(はいゆう)瀬川路考(せかはろこう)。采女夫婦(うねめふうふ)が忠節(ちうせつ)心烈(しんれつ)と。英才(ゑいさい)怜悧(れいり)を景慕(けいぼ)し。瀬川(せかは)と号(ごう)し。濱村屋(はまむらや)と家称(かせう)せし事(こと)の終(をはり)まで。来載(らいさい)(つぎ)て後篇(こうへん)に著(あらは)すべし。(前編下巻末)

 このように前編が書き上げられた段階において、全編のプロットは固定されていたものと思われる。また、この引用からわかるように瀬川菊之丞に関連する瀬川采女帰還伝承が利用されている。『太閤記』巻十四「秀吉公憐於夫婦之間事」や、『本朝烈女伝』巻五「妻女伝・菊子」によってこの伝承の全体を知ることができる。便宜上、梗概を記す。

島津の家臣、小野摂津守の娘菊子は、龍造寺の家臣、瀬川采女正に嫁した。折からの文禄の役で高麗へ出征していった夫を恋慕い、菊子はつのる想いをしたためた長文の便りを船に託す。ところが嵐で船が難破し書簡が浜へ漂着する。これを拾った漁師が役人に届け、さらに秀吉の下に送られる。秀吉はこの文を読んで憐み、采女を帰還させる。再会を喜んだ夫婦は秀吉に謝す。すると秀吉はこの夫婦を称賛して多くの引出物を与えた。

 この伝承は、さらに潤色が加えられ『玉帚木(たまははき)』巻四「波路文匣▼5」に見られる。この中で、菊子と采女の別離の場面に修辞として佐用媛が登場している。

かくて夜あけはなれければ、采女正いまはこれまでなりとて、たもとをふりきり出行ば、菊子はなげきにたへかねて、しばしは人心ちもなかりける。かのむかしまつらさよ姫が夫のわかれをかなしみて、身をもだへひれふりたるありさまも、かくやあらんとあはれなり。(強調高木)

 場所も肥前であり、朝鮮へ出征する夫との別離を悲しむ菊子の心情は、まさに佐用媛のそれに合致しているのである。これを馬琴が看過するはずはない。ここに見られる菊子の設定は、深窓で養われ、見目形美しく、ひたすらに敷島の道に思いを寄せ、和歌を詠じ、これを見聞く人々はみな見ぬ恋いに焦れたとなっている。これらはすべてそのまま秋布の設定に利用されていると思われる▼6
 この伝承に関連する瀬川菊之丞について馬琴は次のように記している。

〇傳に曰。近世の歌舞伎役者。瀬川菊之丞は。吉次菊子が情義を景慕して。瀬川と稱し。菊之丞と名つきたり。こは世の人の知る所也。按するに。元祖瀬川菊之丞は。享保十五年の冬。初て東行して。中村勘三郎座へ出たり。〔當時評判記の品定上上吉也〕このとき弟菊二郎は。京都榊山四郎太郎座にあり〔評判記の品定上白上なり〕この菊之丞が俳名を。路孝といひしは。吉次が父の名を。道孝(みちたか○ドウコウ)といへるに。よく暗合すといふべし。又二代目瀬川菊之丞は。 〔養子也世の人これを王子路孝といへり。〕小字(をさなな)を瀬川吉次といひにき。これも亦采女吉次が名を取れるにや。強て説をなすときは。菊次郎が俳名を仙女(せんぢよ)といひしは。浦二郎が實名の。選如(のぶゆき○センジヨ)字音相近し。これらは蛇足(じやそく)の辧(べん)なるを。縡(こと)の因(ちなみ)に識すのみ。(後編七巻末)
路考が屋号(イヘナ)を濱村屋と唱るも吉次等が母は濱村氏也と前集に見えたれは縁あり(同右頭注)

 強調した部分に馬琴の作為が表出している。瀬川菊之丞に関する伝が登場人物の命名に利用されているのである。
 さらに、三代目瀬川菊之丞は、享和元年九月市村座で黒船忠右衛門女房おまさを勤めた時から、菊の字を憚って菊之丞を改め路考とした▼7のである。これは作中の秋布の名に利用されていると思われる。

秋布(あきしく)ハ石切山(いしきりやま)なる。叢菊(むらきく)の中(うち)にて。生(うま)れたりといへバ。菊子(きくこ)と呼(よぶ)べきものならんを。當時(たうじ)(いむ)よしありけれバ。菊(きく)の異名(ゐめう)を取(とり)たりと聞(きゝ)ぬ。然(さ)らバけふより改(あらた)めて。菊子(きくこ)といはまほしけれ。(後編七巻)

 菊の異名について、前編で『事物異名』『蔵玉』『莫伝抄』『藻塩草』などを引き考証した後、重陽に菊を折布て褥として生まれた秋布について次のようにある。

(から)に女節(ぢよせつ)。壽客(じゆかく)と呼(よ)び。和(やまと)に少女花(をとめはな)。まさり草(くさ)と稱(となへ)て。霜(しも)に後(おく)るゝ花(はな)の操(みさほ)を。貞女(ていぢよ)のうへに譬(たとへ)たれバ。今(いま)博多(はかた)(や)四郎が。女児(むすめ)を菊(きく)に象(かたど)りて。秋布(あきしく)と名(な)づけしも故(ゆゑ)あり。(前編上巻第二)

 この貞節の象徴である菊は、その異名「唐蓬」を採って題名ともなっている▼8。「唐蓬大和言葉(からよもぎやまとことば)と名(な)づくるものハ。霜(しも)に後(おく)るゝ菊(きく)の操(みさほ)を。義男(ぎだん)節婦(せつふ)に比(たとへ)ていふ也」(前編再識)とあるように、菊は『石魂録』の構想に通底する連想の軸となっているのである。
 ここまでを整理してみよう。まず、松浦という渡海地点をめぐる〈佐用媛−狹手彦〉の別離の伝承と〈瀬川采女−菊子〉の別離と再会の伝承とが〈貞女〉という項で括られて重ねられたものと思われる。その直接の契機は『玉帚木』に求められるだろう。一方〈瀬川菊〉の名は〈瀬川菊之丞〉を想起させ、〈菊之丞−菊二郎〉の兄弟をモデルにして〈太郎−二郎〉という松浦の地名を冠した兄弟の設定を促したと考えられる。さらに佐用媛伝承と〈大葉子−伊企儺〉の伝承を利用して、仇討物という大きな枠組の中に、前生の因果を背負った登場人物たちが配されたものと思われる。

 三 龍神と佐用媛

 佐用媛伝承の記事がある『万葉集』八七一を、拓本風の意匠で引用した前編上巻の口絵の上部に、向かい合った二尾の龍が描かれている。この一図は佐用媛伝承と龍神との関係を暗示している。
 『石魂録』において、佐用媛は世界を統一していく機能を持つ超越した存在のはずであった▼9。ところが佐用媛は夢告に二度だけ登場して、それ以後は出てこない。そこに龍神の化身が登場して秋布等を冥助するのである。ならば龍神は、佐用媛に代わり『石魂録』を統一する機能を持つものとして設定されたと考えることができる。ところが、文脈上は佐用媛と龍神は何一つ脈絡を持っていないのである。この点を馬琴の想像力の問題として考えてみたい。
 北条氏の始祖伝承として弁才天を扱ったものがある。『本朝神社考』の「江ノ嶋」の条に、

北条四郎平時政詣榎島祈子孫蕃栄之事。三七日夜一人美婦緑衣朱袴忽来告時政曰汝後胤必執国権若其無道七世有失言巳而還。時政驚怪見之大蛇長可二十丈入海中。獲其所遺三鱗。鱗甚大取著之旗。所謂北条家三鱗形絞是也。

とある▼10。この伝承に関して折口信夫は、「弁才天女はもと龍であって、北条氏の祖先と結婚して子を産んだ▼11」と述べている。『石魂録』中に時宗が榎嶋弁天へ参詣する記事があり、馬琴がこの伝承を踏まえて書いたものであると思われる。
 この弁才天と龍とは竹生島弁才天の本地譚(佐用姫説話▼12)を想起させる。中世の語りものに登場する「さよひめ」が佐用媛伝承と直接の関係を持つとは即断できないが、無関係ではないだろう。まず、佐用媛伝承の背景に神功皇后伝承や在地の神婚伝承等の水神伝承が広がっている点▼13と、人身御供となった「さよひめ」が水神(大蛇)の犠牲になることが、何らかの関連を持つと思われる。また近世に至るまでの多くの別離の場面の修辞として佐用媛伝承が利用されており、たとえば謡曲『池贄』などに見られるように▼14、この佐用媛の別離のモチーフが中世の人身御供譚に登場する必然性は充分にあると思われる。このような説話形成上の影響関係だけでなく、黒本『小夜姫唐船▼15(宝暦八年)のように、佐用媛伝承と佐用姫説話をないまぜにした話が存在しているのである▼16
 ところで、『石魂録』にも佐用姫説話の影響が認められる。たとえば健三夫婦(瀬川吉次の両親)が鏡の宮に申し子をする時の次の記述はどうであろう。

(かみ)もし人間(にんげん)にありしときの悲(かなし)みに思ひくらべ給はゞ。何(な)どか憐(あはれ)み給はざらん。(前編上巻第一)

 明らかに神(佐用媛)の本地を意識した発想であろう。この申し子の段、また作中の人買い、法華経提婆品、如意宝珠などの諸趣向は、佐用姫説話からの影響と考えることができる。この佐用姫説話には、〈佐用媛−弁才天−龍〉を結合させる要素が備わっているのである。
 また、作中の主なる事件が海や海辺という龍神の支配領域での出来事として描かれている。主要な地点として鎌倉、赤間の関、松浦が挙げられる。これらの場所にも水神伝承が見られる。江ノ島弁才天は鎌倉のほど近くであるし、「龍神の洞」が設定されている赤間の関には、神功皇后伝承に付加された龍神伝承がある▼17。さらに北九州には宗像神が鎮座し、松浦にも鏡の宮▼18などの神功皇后伝承がある。神功皇后を水神の鎮魂を任とする最高位の巫女であると見るならば、水神の鎮魂呪具である領巾や鏡を持つ佐用媛にもその投影があるはずである▼19。このようにして考えてくると、

松浦(まつら)に鏡神社(かゞみのみや)あり。みな佐用媛(さよひめ)が事迹(ことのあと)なりといひ傳(つた)ふ。或(あるひ)ハ鏡(かゞみ)の宮(みや)ハ。神功皇后(じんごうくわうがう)。松浦山(まつらやま)に登(のぼ)りて。手(て)づから御鏡(みかゞみ)を安置(あんち)し給へるを神体(しんたい)とすといふ。しかれども。源氏物語(げんじものがたり)。新古今集(しんこきんしう)(とう)に。鏡(かゞみ)の宮(みや)をよめる哥(うた)を見れバ。佐用媛(さよひめ)が事迹(ことのあと)とするかとおぼし。(前編上巻第一)

という馬琴の設定も、あながち根拠のないものではないのである。つまり、佐用媛伝承の背後にある水神伝承を、佐用姫説話や神功皇后伝承の享受に際して、さらに奥深い龍神信仰と関わらせるという馬琴の想像力の大きな広がりの中に、佐用媛伝承と龍神との脈絡が求められるのではないだろうか。

 四 典拠の問題

 麻生磯次氏は『石魂録』の中国典拠として明代小説『平山冷燕』を挙げた▼20。氏が詳説しているように、馬琴がこの書に興味を感じたのは、随所に見られる詩文の考較などの格調の高さであろう。馬琴は原話の漢詩を和歌に直したり、「筆戦舌戦」の場面で「門字の謎」の詩を『狂詩選▼21』から採ったりして、存分に衒学的な言語遊戯性を持った趣向を凝らしている。ただし『平山冷燕』の利用は、前編上巻第二回「陰陽(いんよう)贈答(ぞうとう)して名(な)(はじめ)て香(かうば)し」から同中巻第五回「才(さい)を猖(そねん)で讒奸(ざんかん)(つみ)せらる」までの一連のプロットに限られているように思われる。
 ところで馬琴は『平山冷燕』(四才子伝)について、文政十二年二月十二日付殿村篠齋宛書簡で、「四才子傳ハ能文ニて詩句聯句抔実ニ妙也。乍去趣向ハ淡薄ニて今の流行ニあひ不申候。文人の歓ひ候小説ニて御座候▼22」という感想をもらしている。一方、文政十年三月二日付同人宛の書簡で「石魂録後編ヲ両三年已前より被頼居候へ共、二十余年前の著述ニて、流行もちがひ候を、今さら書きつぎ候事甚難義ニ候▼23」と前編の趣向がいまに合わないことを述べている。つまり『平山冷燕』に負うところの大きい前編の趣向が淡白で、いまの流行に合わないということになる。では二十年前である文化初頭の流行はどうであったのだろうか。『稚枝鳩』(文化二年)、『勧善常世物語』(文化三年)、『新累解脱物語』(文化四年)などが当時の流行に適ったのは、アクの強い残虐な描写によるものであろう。文化初期の流行を猟奇趣味と残虐さと括るならば、『石魂録』前編は当時の流行にすら合致していなかったと思われる。ここに『石魂録』の一問題がある。
 『平山冷燕』冒頭「小引」に次のようにある▼24

縦覧近世書坊間發行的諸種傳奇小説、除醒世覺世外、總不外乎才子佳人。然流行既廣、珠目自混、其文其事、若非失之平平、即係體渉于淫、欲求其語登大雅、〓而不淫、猶如鳳之毛、麟之角、豈是易求!然此平山冷燕、因有其特殊之價値、故如雲中矯鶴、巍巍乎大有雄居文壇之概、此非他、蓋由于其用筆不俗、且別具機杼、而非其他的一味以偸香竊玉爲發揮文體之根由、而作爲燈下間談之資料者可比。

 『平山冷燕』が高踏的であるが故の価値を主張しているのである。この趣旨の翻案を試みたものが『石魂録』前編ではないだろうか。「再識」でも、『伊勢物語』『大和物語』に言及していることから、歌物語を意識して書かれたことは間違いない。
 前編が敢えて当時の流行を無視して書かれた理由の一つに、文化五年に蔦屋重三郎より馬琴にまわされた「合巻作風心得之事▼25」のような当局からの圧力があったのかもしれない。だが、それだけでなく一つの実験として高踏的であるが故の価値を主張したいという内在的理由があったのではなかろうか。それは多分、当初は『唐蓬大和言葉』という題名を考えていたごとく、『平山冷燕』の翻案意識に支えられたものであったはずである。また、同時に馬琴自身の書く楽しみに支えられた部分が大きかったに違いない。多作期にあって、京伝との競作において増長してきた猟奇趣味と残虐さに対する反省なり批評なりが、高踏的な作者自らの書きたい小説を書かせたのであろう▼26
 ところがこの実験は思わしい結果を生まなかったものと思われる。文政年間になると、「今の流行にあひ不申候」と繰り返して「申逃れ」(前掲書翰)たのは、自分の手腕を称賛できる読者がおらず、大衆に受け入れられなかったと判断したからに相違ない。
 この前編に対する反省を踏まえて、後編では〈流行〉を意識する職業作家たる自覚に支えられた新たな趣向が見られる。『石魂録』前編(初板初印本)刊記の後の「双鶴堂発販書目」に次のようにある。

松浦佐用媛石魂録 曲亭馬琴著 〔前編三冊・後編三冊〕

 これによれば、前編を刊行した当初の書肆(作者)の計画では「後編三冊」であったことがわかる。ところが、文政十一年に刊行された後編は上下帙合わせて七冊なのである。丁数から見ても予定の二倍の分量になっている。これは、前編刊行時の構想(旧案)に新たな趣向(新研)が書き加えられたことを示している。後編四巻末の「石魂録後集七巻を釐(さき)て上下二帙となす附言(ふげん)」に次のようにある。

さて又(また)この書(しよ)の前集(ぜんしふ)に。玉嶋(たましま)清縄(きよつな)(ら)亡滅(ほろびう)せて。人寡(ひとすくな)なる後集(こうしふ)なれバ。只(たゞ)秋布(あきしく)と俊平(しゆんへい)と。主従(しゆう/\)二人(ふたり)の道(みち)ゆきぶりを。三巻(みまき)あまりに綴做(つゞりな)せしが。後(のた)の〓儲(しこみ)になれる也。

 この道行きの途中で、俊平は秋布にいい寄り誤って殺してしまう夢を見る。この趣向について後藤丹治氏は、『刈萱桑門筑紫〓』第四段の女之助と繁氏の御台所の道行きを典拠に持つ「馬琴としては異色ある一段となっている」と指摘している▼27。夢見の段として劇中劇の手法を典拠によっているのだが、馬琴はさらに手の込んだ趣向にしている。

俊平(しゆんへい)ハいと浅(あさ)まし。と思へバ他事(たじ)に紛(まぎ)らして。はやく臥房(ふしど)に入(い)りたるが。日比(ひごろ)の疲労(つかれ)に熟睡(うまゐ)をしたり。かくて秋布(あきしく)ハ。次(つぐ)の日(ひ)の早旦(まだき)より。(後編三巻十二丁裏)
(あは)れわれ。男子(をのこ)と生(うま)れし生甲斐(いきかひ)に。只(たゞ)この美人(びじん)を妻(つま)とせバ。百年(もゝとせ)の性命(せいめい)を。一歳(ひととせ)に縮(ちゞむ)るとも。惜(をし)むべき事にはあらねど。(後編三巻十四丁表)
(おそ)るべし慎(つゝし)むべし。と心(こゝろ)で心(こゝろ)を警(いまし)めたる。これより後(のち)ハ情(じやう)を禁(とゞ)め。慾(よく)を征(せい)する工夫(くふう)をせばや。と思ひつゝ又(また)(ねむ)りけり。間話休題(あだしことはさておきつ)。有然程(さるほど)に秋布(あきしく)主従(しゆう%\)ハ。その暁(あかつき)に浪速(なには)を立(たち)て。三四日(みかよか)とゆく程(ほど)に。(後編三巻十四丁裏)

 読者は「間話休題」の前で夢の場面は終わったと思わされてしまう。ところが、これ以下が実はまた夢の場面なのである。

いでや自刑(じけい)を行(おこなは)んとて。諸肌(もろはだ)(ぬぎ)て刀(かたな)を抜取(ぬきと)り。刃(やいは)に袖(そで)を巻添(まきそえ)て。南無(なむ)とばかりに刀尖(きつさき)を。肚(はら)へぐさと突立(つきたつ)る。と思へバ頻(しき)りに腹痛(ふくつう)して。愕然(がくねん)として驚(おどろ)き覚(さめ)けり。是(これ)暁方(あけかた)の夢(ゆめ)にして、身(み)ハなほ難波村(なんばむら)にあり。(後編三巻十九丁裏)

 五丁にわたって読者を騙したのである。職業作家のサービス精神とでもいおうか、明らかに前編には見られない趣向である。後編になると、このような趣向が随所に見られる。たとえば、秋布が敵討に出かける時に、南殿から護身刀を頂く場面では次のようにある。

これは是(これ)命婦丸(みやうふまる)と名(な)つけたる。筑紫鍛冶(つくしかぢ)の業物(わざもの)也。長(たけ)ハ一尺二寸にして。〓(めぬき)に銀(ぎん)の猫(ねこ)を附(つけ)たり。よりて一條院(いちでふいん)の愛(めで)させ給ひし。韓猫(からねこ)の故事(ふること)もて。命婦丸(みやうふまる)とは名(な)つけたり。この逸物(いちもつ)の猫(ねこ)をもて。彼(かの)鼠川(ねずかは)を撃捕(うちとら)んに。勝(かた)ずといふことあるべからず。(後編二巻十四回)

 「鼠川(ねずかわ)嘉二郎(かじろう)」という片目片跛の敵と誤って「根塚(ねづか)若二郎(わかじろう)」を討とうとすることなども同じ趣向である。また後編になると龍神の妖術が前面に出されてくる点も見逃せない。
 このように、後編には明らかに前編とは違う点に作者の意が用いられているのである。馬琴の書く意識は自己充足的なものから、読者の興味を意識したものへと変化してきたのである。
 ここまで見てきたのは、前後編の一貫した構想と、変化した書く意識が趣向の相違として見られるということであった。

 五 前後編の差異

 前後編の趣向の相違は、作者における読本観の変化を意味している。以下、登場人物たちの形象に注目して考えていきたい。
 前編において秋布は才に長けた貞婦として描かれている。貞婦という概念で佐用媛と瀬川菊子を括ったからである。この両者は待つ女として位置付けられる。ところが後半になると秋布は追う女へと成長を遂げるのである。

近層(ちかころ)先非(せんひ)を悔(くふ)よしありて。一生涯(いつせうがい)(うた)をば詠(よむ)まじ。問(とは)るゝ事(こと)を博士態(はかせぶり)て。論(ろう)ずまじけれ。と誓(ちか)ひ侍(はべ)りき。その故(ゆゑ)ハ親(おや)と良人(をつと)が。非命(ひめい)に世(よ)を逝侍(さりはべ)りしも。始(はじめ)を推(お)せバ博士態(はかせぶり)たる。わらはが愆(あやまち)より起(おこ)り侍(はべ)りき。(後編二巻十四回)

という才女であるが故の罪障性の自覚を契機として、
(おや)良人(をつと)の。忌服(きふく)の怕(おそ)れハ有(あり)ながら。迚(とて)もわが身(み)を贄(にゑ)にして。死(し)ぬるに憚(はゞか)ることやハある。鶴岡(つるがおか)なる大神(おほんかみ)の。社頭(しやとう)に祈念(きねん)を凝(こら)さんものを。と深念(しあん)をしつつ走(はし)り出(いで)て。……それ将(はた)(かみ)の威徳(ゐとく)にも。及(およ)ばせ給はぬものならバ。秋布(あきしく)が露(つゆ)の命(いのち)を。七日(なのか)の間(あはひ)に取(と)らせ給へ。(後編二巻十三回)

という自己犠牲を決意する。そしてこの決意が龍神の加護を発動させるのである。かくして聖痕▼28としての〈才〉を捨て〈美貌〉を編笠で隠した仇討ち、夫恋いの流浪が開始されるのである。この流浪受苦は貞婦であるが故の罪障性、つまり戦地に赴いた夫に対し綿々とその情を訴える文を出したという、武士的倫理において否定されるべき行為▼29の贖罪過程としての意味を持っていると考えることができる。秋布の描かれ方のこのような変化は、馬琴の瀬川采女帰還伝承に対する批判が後編になって明確にされたものとして理解されるのである。
 ところで、この道行きの後、行動者としての秋布は相対的に後退してしまう。代わって前面に登場してくるのが糸萩である。秋布が佐用媛伝承を担っているように、糸萩は日高川伝承を担っている。

わらはハ件(くだん)の人々(ひと%\)を。追(お)ひつゝこゝに来(き)ぬるもの也。いかばかりの足(そく)なりとも。舩賃(ふなちん)は〓(いとは)しからず。乗(の)して追著(おひつき)給へかし。と憑(たの)めバ舟人(ふなひと)微笑(ほうゑみ)て。原来(さては)おん身(み)ハ清媛(きよひめ)(か)。こゝは日高(ひたか)にあらねども。世渡(よわた)りなれバ推辞(いなま)んや。疾(とく)(のり)給へ。と応(いらへ)をしつゝ。(後編七巻廿三回)

 海岸まで吉次等を追ってきた糸萩と船頭とのやりとりである。糸萩の追跡は、三年間待ち続けた浦二郎を秋布に取られたと思い込む怨念によるものである。怨念を果たさずにはいられない糸萩は、秋布との対比の中で負の方向性を持った女の執念の体現者として描かれている。この糸萩の情念は背景にある清姫の情念により補強される。つまり〈秋布−糸萩〉が対偶の方法▼30により〈佐用媛−清姫〉として対比されているのである。しかし、この構造を単に〈貞婦−淫婦〉としてとらえ切ることはできない。『神霊矢口渡』第四「道行比翼の袖」に次のような記述がある▼31

夫を慕ふ執着心。蛇共成べき日高の川。領巾靡山の悲しみも是には。いかで増るべき。

 ここでは佐用媛と清姫とを並立している。正確にいえば、日高川伝承の方が佐用媛伝承より「夫を慕ふ執着心」が強いということなのかもしれない。だが、両者を「夫を慕ふ執着心」で括った点に意味がある。佐用媛が夫を慕い追跡が不能な故に石と化したのに対し、清姫はその追跡を可能にするために蛇と化したのである。共にその追跡の障害は前に横たわっていた川(海)であった。ならば、川渡り=渡海の可否が両者の相違である。つまり佐用媛と清姫は「夫を慕ふ執着心」の有様を逆転させた伝承を、それぞれが担っているのである▼32
 渡海地点における望夫石伝承は、その裏側に川渡り伝承を保有しているといえよう。つまり、望夫石の内側に女の執念が封じ込められていると見ることが可能なのである。
 前編における秋布の貞婦性には、待つ女として望夫石に封じ込められた女の執念が秘匿されていた。これは、〈秋布−糸萩〉の対比の中で明らかにされる。〈秋布−糸萩〉の関係は、双子で何から何まで酷似している〈吉次−浦二郎〉の関係によって側面から規定される。吉次にとって浦二郎は「鏡に映る影」(後編二巻十九丁裏)なのである。対偶の方法において、影はその実像を相対化して裏側から照らし出す機能が与えられていると考えられる。
 つまり、秋布の内部に隠されていた情念が糸萩によって照らし出されているのである。これは秋布の内部における貞婦であることと女である情念との葛藤や成長が、糸萩の行動を通じて描かれたということである。行動の叙述が中心である読本において、待つ女から追う女に変貌した秋布の内部での葛藤は、影である糸萩の行動によらなければ表現できなかったと考えられるのである。
 一方、浦二郎は裏二郎でもあり、吉次の影として代受苦の任を負い、長い漂流の末、潮毒に犯され体中がふくれ口がきけない乞食となる。その浦二郎が、宿直葛篭の車に乗せられて経を唱えながら女に曳かれるように、そこには小栗の土車が投影されている。つまり、浦二郎の仮死−再生の背後に餓鬼阿弥蘇生説話が見られる。小栗が照手によりその罪障の贖いを代行され蘇生することができたように、浦二郎も糸萩の血によって再生できたのである。
 そして、この〈浦二郎−糸萩〉の関係は、〈吉次−秋布〉にとっての犠牲者である玉嶋、清縄、俊平等の死の意味を照らし出す。つまり、近世道徳に沈められて死んでいった者たちの上に、古代伝承へ回帰して血で贖うという側面が重ねられることによって、読本的悲劇としての犠牲死の意味が浮上してくるのである。それは、近世道徳を貫くことによって死んだ者に対する一種の鎮魂歌だったのではないだろうか。古代伝承のロマネスクな世界こそ、魂の自由な飛翔の場としてふさわしかったのであろう。
 このように見てくると、伝承を織り交ぜた対偶の方法は、単に一対という意味ではなく、物語を立体化し、ストーリーを活性化する方法であることがわかる。この方法を馬琴が獲得したことによって初めて、前編の持つ衒学的な言語遊戯性に支えられた貞婦物語という否定的側面を克服することができたのである。
 前編の構想に拘束された因果を解きほぐすという後編の逃れがたい限定にもかかわらず、伝承の扱い方による立体化の方法は、前編刊行時の構想を反転することに成功をもたらしたのである。

 六 虚実の場

 馬琴は巻末に次のように書き加えている。

大約(おほよそ)小説(せうせつ)に。實場(じつのば)あり虚場(きよのば)あり。虚場(きよぢやう)ハ所云(いはゆる)。乾坤丸(けんこんまる)舩舶中(せんはくちう)の縡(こと)の趣(おもむき)。又(また)村山俊平(むらやましゆんへい)が夢寝(ゆめ)の一段(いちだん)。即(すなはち)これ也。實(じつ)はよく情態(じやうたい)を写(うつ)すをいふ。虚(きよ)は猶(なほ)(か○ニセモノ)の如(ごと)し。虚實(きよじつ)の二場(ふたば)を辧(べん)するものを。よく小説(せうせつ)を観(み)るといはまし。(後編七巻末)

 これは馬琴流の逆説ではなかろうか。〈虚場〉において描かれる情態が〈実場〉の建前を相対化して、その実態を浮き彫りにするのである。夢見の段では、俊平の〈忠心義胆〉に対して夢という幻想の方法によって、内面における愛慾の煩悶を描き、乾坤丸▼33の段では、〈現世〉に対して龍神の妖術という幻想の方法で、洋中の別世界というユートピアを対置したのである。
 この〈虚場〉における幻想の方法はストーリーの流れを停滞させ混乱させてしまうが、同時にストーリーの豊饒性を創出していると考えられる。いま、確認しなければならないのは、前編には〈虚場〉がないということである。そして、後編の大部分が〈虚場〉であることを見れば、後編が前編を相対化していることに気付く。ここに新たな趣向として〈虚場〉を後編に書き込まなければならなかった必然性があったのである。
 さらに深読みしていけば、仇討物という建前的枠組の中で、『石魂録』はまったく建前と異なる別途の主題を追求していると見ることができるかもしれない。

 夫婦が共に住めないという男女の関係性の欠落を補足しようとする願望が女主人公の行動原理となり、そこに結ばれるはずのない因縁の男女を配することによって『石魂録』が成立しているとするならば、『石魂録』は馬琴にとって異色な女の内的葛藤を描いた物語であるということができるのである。


▼1. これは初板初印本だけにあり、後印本では「肥前松浦潟頭巾靡山望夫石之図」と題する口絵となっている。
▼2. 木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八年)
▼3. 『石魂録』後編の板元である千翁軒大坂屋半蔵のこと。
▼4. 麻生磯次「松浦佐用媛石魂録と平山冷燕」(『江戸文学と中国文学』、三省堂、一九四六年)
▼5. 浮世草子、林義端作、元禄九年刊。引用は国会本による。
▼6. 麻生氏は瀬川采女伝説として『玉帚木』の趣向を採り入れたとするが、『太閤記』や『本朝列女伝』でなく『玉帚記』を典拠としなければならなかった必然性があったと思われる。
▼7. 『歌舞伎年表』『歌舞妓年代記』にも見えている。いわゆる「菊法度」。
▼8. 『画入読本外題作者画工書肆名目集』には「唐蓬大和言葉\松浦佐用媛石魂録と改」とある。前編の板本につけば、内題尾題は象嵌されており、柱刻は「大和言葉」となっている。菊法度のために出願後、書名が変更されたのであろう。
▼9. 麻生磯次『江戸小説概論』(山田書院、一九五六年)
▼10. 同じ伝承は、ほかに『和漢三才図会』『太平記』『北条九代記』などにも見えている。
▼11. 折口信夫「龍の伝説」(『折口信夫全集』十六巻、中央公論社、一九五六年、初出一九四〇年)
▼12. 説経節『まつら長者』(『まつら長じや』)、奈良絵本『さよひめ』『さよひめのさうし』など。なお、これらの説話を佐用媛伝承と区別するために、ここでは〈佐用姫説話〉と呼ぶことにする。
▼13. 吉井巌「サヨヒメ伝承と山上憶良」(「国文学」二十三巻五号、學燈社、一九七八年四月)
▼14. 「父母あれはと舟を慕へば。姫も互に名残を惜み。招けば招く風情はさながら。松浦佐用姫かくやらんと。汀にひれ伏し泣き居たり」(名著全集『謡曲三百五十番集』)。なお、この『池贄』所収の和歌は、佐用姫説話と類似のプロットを持つ謡曲『松浦姫』(『未刊謡曲集』十四、古典文庫、一九六九年)にも見られる。
▼15. 『松浦佐用姫望夫石』(明和四年)も同一のものである。改題後印本か。
▼16. 『註文通書物語』(文化十三年、東里山人)も佐用姫説話に佐用媛伝承を付会した合巻である。
▼17. 『本朝怪談故事』巻四第六「和布苅神事」(高田衛・阿部真司編、伝統と現代社、一九七八年)
▼18. 『百錬抄』『東鑑』『松浦古来略伝記』など。
▼19. 山上伊豆母「水呪と巫女」(「伝統と現代」四十八号、伝統と現代社、一九七七年九月)
▼20. 未見だが『望夫石』という伝奇(『晨風閣叢書第一集』所収)が典拠の可能性を持つと思われる。『大漢和辞典』(大修館書店)「望夫石」の項に「傳奇の名。清初、海上の變に常熟の戴高の子、研生と、王氏の女の琴娘とが婚約のまま音信が絶えたが、幾星霜へ歴て團圓したことを演ず」とある。
▼21. 『かくやいかにの記』(『随筆百花苑』六巻、中央公論社、一九八三年)第四段では、『背紐』(享保十三年)から採ったとするが、徳田武氏は「馬琴読本の漢詩と『南宋志伝』『狂詩選』」(『日本近世小説と中国文学』)で、都賀庭鐘編『漢国狂詩選』(宝暦十三年)の馬琴自筆写本『狂詩選』に見える同詩の上に朱の丸が二個付されていることから、直接のよりどころとして『狂詩選』を指摘した。なお、『かくやいかにの記』第五段では『耳食録』兇賊の条が『石魂録』後編巻之一「渡海の舩中に少年清談す」の典拠であると指摘している。後藤丹治氏は「庭鐘の諸作と後世文学」(「学大国文」六号、大阪学芸大学、一九六三年)で、これを支持した上で『古今奇談英草紙』「豊原兼秋」の条に胚胎したものであると述べている。
▼22. 原翰所在不明。藤井乙男氏による転写本の翻刻を載せる『日本大学総合図書館蔵馬琴書翰集』(八木書店、一九九二年)による。なお、文化四年刊『墨田川梅柳新書』(鶴喜板)の巻末予告広告には『石魂録』とは別に『名歌徳四才子傳』が掲出されているが、この『四才子傳』とは『平山冷燕』の一名「四才子書」に通じるところから、当初は別本にする計画だったようだ。
▼23. 『馬琴書翰集』(天理図書館善本叢書53、八木書店、一九八〇年)
▼24. 引用した「小引」は『新式標點平山冷燕』(王祖箴標點、大達圖書供應社、二十三年十二月再版)に付されているもの。馬琴の所見本について、柴田光彦氏は「馬琴旧蔵は「新刻批評繍像平山冷燕」(六巻 康煕 中静寄山房刊 八冊)をさすのか、また新収のものは、おそらく清版四冊本」(早稲田大学図書館紀要別冊3「早稲田大学図書館所蔵曲亭馬琴書簡集」、早稲田大学図書館、一九六八年)と考証しているが、該本にこの「小引」があったかどうかは未確認。
▼25. 『著作堂雑記(抄)(『曲亭遺稿』、国書刊行会、一九一一年)に次のようにある。

〇去る九月二十日(文化五年)、蔦屋重三郎より文通之寫、
 合巻作風心得之事
一 男女共兇惡の事、
一 同奇病を煩ひ、身中より火抔燃出、右に付怪異の事、
一 惡婦強力の事、
一 女〓幼年者盗賊筋の事、
一 人の首抔飛廻り候事、
一 葬禮の體、
一 水腐の死骸、
一 天災之事、
一 異鳥異獣之圖、
右之外、蛇抔身體手足へ巻付居候類、一切◎此の間不明夫婦の契約致し、後に親子兄妹等の由相知れ候類、都而當時に拘り候類は不宜候由、御懸り役頭より、名主山口庄左衛門殿被申聞候に付、右之趣仲ヶ間申合、以來右體の作出板致間敷旨取極致置候間、御心得にも相成可申哉と、此段御案内申上候、
      九月二十日
蔦重
    〇著作堂様
▼26. 徳田武氏は「文人の小説、戯作者の小説」(『日本近世小説と中国小説』)で、三宅匡敬作の上方出来読本『絵本沈香亭』(文化三年)が中国小説の翻訳に近いものであるのと比較して、馬琴が『石魂録』の詩文考較部に長嘯子『挙白集』や『藤原仲文章』『円珠庵雑記』などの和書から引いている点に注目し、雅の要素の意識的導入を見る。
▼27. 「解説」(日本古典文学大系60『椿説弓張月』上巻、岩波書店、一九五八年)
▼28. 秋布が佐用媛の後身であるが故の〈才〉と〈美貌〉を意味する。
▼29. 松田修「概説」(有斐閣選書『近世の文学(上)』一章「幻のルネッサンス」、一九七六年、有斐閣)
▼30. 水野稔「馬琴文学の形成」(『江戸小説論叢』、中央公論社、一九七四年)
▼31. 浄瑠璃、福内鬼外(平賀源内)作、明和七年正月江戸外記座初演、須原屋市兵衛刊。引用は『風来山人集』(日本古典文学大系55、岩波書店、一九六一年)による。
▼32. 源内のこの認識を馬琴が継承している。
▼33. 乾坤丸という大船の記事は、いわゆる黒田騒動物である『寛永箱崎文庫』(帝国文庫『騒動實記』所収、博文館、一八九三年)に見えている。


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