『江戸読本の研究』第二章 中本型の江戸読本

第三節 馬琴の中本型読本 −改題本再刻本をめぐって−
高 木  元

  一 はじめに

 馬琴が読本における著作活動を中本型読本から開始したことは、馬琴の個人史のみならず、江戸読本の歴史にとっても示唆的なことであった。なぜなら中本という本の形態が、草双紙に代表される江戸地本における大衆小説の標準ともいえる規格であったからである。
 大衆小説とは、読者の評判によって売行が左右される一種の<商品>である。したがって、板元や作者に要求されたのは、美しい装幀を施し、人気絵師の挿絵を入れ、奇抜な構想に新規な趣向を盛り込むことである。この大衆小説の流行こそが、貸本屋が江戸読本という新たなジャンルを開拓するに際しての必要条件であった▼1
 現代において、流行性の強い商品を開発するに際しては必ず事前に市場調査が行なわれ、そのためにアンテナショップなどが活用されている。しかし、近世期に貸本屋という流通業者が商品の企画製作にまで携わったということは、おそらく劃期的な出来事であったはずである。そして、それを促した一因が中本型読本というジャンルにあったのである。出板手続が楽で出板経費の負担が少なくて済むという板元側の問題だけでなく、作者の側も定型化された既成のジャンルと違い、自由に筆が執れたと思われるからである。
 このような十九世紀初頭の活性化した江戸出板界において、ひたすら職業作家を志していた馬琴と新興零細書肆である貸本屋との利害は一致し、中本型読本という恰好の実験場を得たのである。しかし単なる筆試しに終始したわけではなかった。揺籃期から全盛期にかけて八つの作品を出し続け、ジャンルとしての中本型読本の成立を担ったのである。従来、馬琴の中本型読本は、半紙本の本格的な読本執筆を開始するのに際しての習作として位置付けられてきたが、それのみならず中本型読本というカテゴリーの積極的な推進者でもあった。このことは、伝奇性の強い半紙本読本である『月氷竒縁』や『石言遺響』などが刊行された文化初年以後も、世話性の強い中本型読本の執筆を続けていることから明らかであろう。
 すなわち、馬琴の中本型読本を通史的に見ていくことにより、また、それらの改題本や再刻本を調査することによって、中本型読本の商品価値がどのように変化し、そして享受され続けたかを知ることができるはずである。

  二 執筆刊行時期

 馬琴の中本型読本を、書名、巻冊丁数、刊行年、画工、板元、善本の所蔵機関名、という順で示し、次に序と刊記、〇で改題本再板本、◆で翻刻、*で備考を示して一覧にしてみた。

一、高尾舩字文 五巻五冊六十九丁 寛政八年(序) 長喜 蔦屋重三郎 岩瀬文庫
   ( 序 )寛政捌丙辰年孟春
   (刊記)蔦屋重三郎
  〇再刻本 高尾舩字文 中本五冊 國貞画 天保六〜七年刊 国会
  ◆「国文学論叢第六輯―近世小説研究と資料―」(慶応義塾大学国文学研究会)
   「説林」四十四号(愛知県立大学国文学会)
  *再刻本には色摺り口絵を付す。

二、小説比翼文 二巻二冊六十五丁 享和四年 北斎辰政 仙鶴堂 国会
   ( 序 )享和三年弥生も半過るころ
   (刊記)享和四年歳宿甲子正月吉日兌行\鶴屋喜右衛門
   ○改題後印本 遊君操連理餅花(きみ□みさをれんりのもちはな)丁卯、仙鶴堂版
   ◆叢書江戸文庫『中本型読本集』(国書刊行会)
    続帝国文庫『名家短編傑作集』(博文館)

三、曲亭傳竒花釵兒 二巻二冊六十丁 享和四年 未詳 濱枩堂 蓬左文庫
   ( 序 )享和癸亥肇秋中浣
   (刊記)享和四年甲子春正月兌行\蔦屋重三郎・濱松屋幸助梓
   ◆『繁野話・曲亭傳竒花釵兒ほか』(新日本古典文学大系80、岩波書店)
    「研究実踐紀要」六号(明治学院中学東村山高校)
   *役者似顔を用いる。

四、盆石皿山記前編 二巻二冊五十一丁 文化三年 一柳齋豊廣 鳳来堂 国会
   ( 序 )文化ひのえ寅のとし正月
   (刊記)文化二年乙丑夏五月著述・同三年丙寅春正月發行\住吉屋政五郎
   〇改題後印本 繪本皿山奇談 半紙本四冊
   ◆「研究実踐紀要」七号
   *後印本は後に半紙本八冊になる。

五、敵討誰也行燈 二巻二冊六十一丁 文化三年 一陽齋豊國 鶴屋金助 個人
   ( 序 )文化丙寅孟春
   (刊記)文化三年丙寅年春正月發行\鶴屋金助
   〇改題後印本 〔敵討紀念長船〕(未見)
   〇改題後印本 再榮花川譚 半紙本四冊 文化十三年 国会
   ◆「研究実踐紀要」五号
   ※乙丑秋七月上旬稿了(刊記)乙丑年六月下浣稿(稿本)、初印本は稀覯。
    稿本は上巻のみ存(天理図書館善本叢書『近世小説稿本集』、八木書店)

六、苅萱後傳玉櫛笥 三巻三冊七十七丁 文化四年 葛飾北斎 榎本惣右衛門・平吉 架蔵
   ( 序 )丙寅立秋後一日
   (刊記)文化四丁卯年正月發販\榎本惣右衛門・同 平吉
   〇改題後印本 石堂丸苅萱物語 中本〔三冊〕 〔文化六〕 天理
   〇改題後印本 石堂丸苅萱物語 半紙本三冊
   ◆「説林」四十号、影印本は内田保廣編(三弥井書店、一九八〇年)
   *中本の後印本は絵外題簽。起稿「丙寅年夏のはじめ」(序)

七、盆石皿山記後編 二巻二冊六十四丁 文化四年 一柳齋豊廣 鳳来堂 国会
   ( 序 )文化柔兆摂提格麦秋上浣
   (刊記)文化三丙寅年皐月上浣著述\同四乙卯年春正月吉日發販\鶴屋喜右衛門・住吉屋政五郎梓
   〇改題後印本 繪本皿山竒談 半紙本
   ◆「研究実踐紀要」八号
   *刊記に鶴喜が加わる。

八、巷談坡〓庵 三巻三冊八十五丁 文化五年 一柳斎豊廣 慶賀堂 天理
   ( 序 )文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ
   (刊記)文化五戊辰年正月吉日發販\村田次郎兵衛・上總屋忠助梓
   ○改題後印本 薄雲うすくもが侠気いきぢ/溶女うねめが貞操みさほ・提庵二枚羽子板つゝみのいほにまいはごいた
          中本三冊 文化七年 文亀堂梓行 京山序
   〇後印本 半紙本 文化七年、山東京山序
   〇改刻本 中本 松亭金水序
   ◆「愛知県立大学文学部紀要」四十一号、「未刊江戸文学」十四、十七号(未刊江戸文学刊行会)
   *改刻本には色摺り口絵入り。

九、敵討枕石夜話 二巻二冊六十二丁 文化五年 一柳斎豊廣 慶賀堂 国会
   ( 序 )文化丁卯年皐月中浣
   (刊記)文化五年歳次戊辰春王正月吉日發販\村田屋次郎兵衛・上總屋忠助梓
   〇改題後印本 讎同志石與木枕 半紙本四冊 文化七年 京山序
   〇改題再刻本 觀音利生記 中本四冊 松亭金水叙
   〇改竄改刻本 観音利益仇討 中本一冊 松園梅彦纂補(切附本)
   ◆「研究実踐紀要」四号
   *起稿は「丙寅の年雷鳴月下旬」(序)

 まず、それぞれの作品の執筆時期を検証してみよう。稿本や刊記に「稿了」や「著述」と記してある場合は問題ないが、それ以外の場合は序文の中の言及が参考になるし、序の年記が刊記より早い場合は、序の年記を稿了の時期と見なすことにする。

作 品     起 稿     稿 了     刊 行   板 元
高尾舩字文           寛政七年中カ  寛政八年  蔦重
小説比翼文           享和三年三月  享和四年  鶴喜
曲亭傳竒花釵兒         享和三年七月  享和四年  濱幸(蔦重)
盆石皿山記前編         文化二年五月  文化三年  住吉屋
敵討誰也行燈          文化二年七月  文化三年  鶴金
苅萱後傳玉櫛笥 文化三年春〜夏 文化三年七月  文化四年  榎本平吉・惣右衛門
盆石皿山記後編         文化三年五月  文化四年  住吉屋(鶴喜)
巷談坡〓庵           文化三年七月  文化五年  上忠
敵討枕石夜話 文化三年六月下旬 文化四年五月  文化五年  上忠

 こうして並べてみると、馬琴の中本型読本の刊行は、寛政八年、享和四年、文化三年以降と明確に三つの時期に分かれていることがわかる。

  三 時代区分

 馬琴読本の初作が寛政八年刊の『高尾舩字文』である。江戸読本の濫觴となった山東京伝の『忠臣水滸傳』より早い時点で『水滸傳』を利用したもの。目録に「夫は小説の水滸傳、是は戯文の先代萩」とあるように、我国の演劇に中国白話小説を付会するという方法を試みた作品で、馬琴自ら『近世物之本江戸作者部類』で次のように述懐している▼2

寛政七年乙卯の夏書賈耕書堂蔦重の需に応して、高尾舩字文五巻を綴る 大半紙半枚の中本にてさし画は長喜画けり 是よみ本の初筆也 明年丙辰の春発行 當時未熟の疎文なれともこの冊子の開手絹川谷藏か霹靂鶴之助を師として相撲をまなふ段は水滸傳なる王進史進師徒のおもむけを模擬したりこの餘の段も焚椒録今古奇観なとより翻案したるすち多かりなれとも當時は滑稽物の旨と行はれたれはさせる評判なし江戸にては三百部はかり賣ることを得たれとも大坂の書賈へ遣したる百五十部は過半返されたりといふそはかゝる中本物は彼地の時好に称はす且價も貴けれはなといひおこしたりとそ

 つまり、『水滸傳』をはじめとする中国白話小説を利用したが当時の流行に合わず、また中本仕立の本は上方で受け入れられなかったというのである。この作品で試みられた趣向や造本の工夫は、後の江戸読本では一般的になるのであるが、この時点では失敗に終わった。予告されていた『舩字文後篇水滸累談子(すいこかさねだんす)』も出されず未完のまま中絶してしまったが、天保半ばになって全面的に再刻されている。中本五冊、初編二冊は天保六年刊で「蔦屋重三郎・柴屋文七\合板」(見返し)、後編三冊は「天保七丙申歳孟陽発販\版元赤松庄太郎・中村屋勝五郎\製本所柴屋文七」(刊記)、各冊の巻首に元板の口絵に対応した国貞画の色摺りの口絵一図がある。天保七年といえば、いまだ完結には及んでいないものの、すでに『南總里見八犬傳』が広く読まれている時期である。ここに来てやっと『舩字文』を読む読者層が形成されたという判断が、板元側にあったのだと考えられる。
 『舩字文』刊行の後九年間を経た享和四年に、二作の注目すべき中本型読本が出された。題名に「小説」「伝竒」という異国情緒の溢れる語彙を冠した意欲作『小説比翼文』と『曲亭傳竒花釵兒』とである。『比翼文』の方は浮世草子や実録に中国小説を併せたもの、『花釵兒』の方は中国の芝居を浄瑠璃風に翻案し、かつ中国戯曲の脚本様式によって表現したものである。ともに彼我の戯曲や小説というジャンルを、それぞれ取り合わせて書かれた点が新鮮であった。ところが、この二作品は比較的伝本が少なく、改題本や再刻本が出された形跡が見出せないのである。このことが直ちに二作の不成功を意味するのかどうかはわからない。しかし、ほかの馬琴中本型読本には改題後印本や再刻本が多く存在しており、長期間にわたって商品価値を保ちつつ、多くの読者に読まれてきたものと考えられる。ならば、やはり何か商品としての魅力に欠ける要素があったものと思われるのである。それか否か、享和四年(文化元年)には中本型読本を執筆していない。
 文化期に入ると、その板元の中心が貸本屋となる点に注意が惹かれる。文化二年には、中本型読本としては長編に属する作品である『盆石皿山記』前編と『敵討誰也行燈』が執筆され、文化三年には、『盆石皿山記』後編と『苅萱後傳玉櫛笥』が書かれている。『盆石皿山記』は『絵本皿山竒談』という半紙本の後印本が流布しており、『敵討誰也行燈』には『再榮花川譚』(半紙本四冊、文化十三年、丸屋善兵衛板)があり、『苅萱後傳玉櫛笥』には、文化六年ごろ鶴屋金助から出された改題改修本がある。この本には合巻風の絵外題簽が付けられ、薄墨を用いた口絵の一部が削除されている▼3。中本型読本の読者層の変化がうかがえる現象である。

  四 文化五年の慶賀堂

 さて、この時期の作品で問題にすべきは『巷談坡〓庵』である。文化三年五月(序年記)に稿了したと思われるにもかかわらず、文化五年の刊行になっている。これはどう考えても時間がかかり過ぎている。実際のところ、中本型読本一編に費やされる執筆期間については、起稿時期が判明しないものが多いので正確にはわからない。しかし、「二冊にて五日限りに請合し」(誰也行燈跋文)などという極端な例を除けば、「一帙の草蒿ハ一旬を出ずして成」(『盆石皿山記』前編跋文)あたりが妥当なところだと思われる。
 そこで注意深く初板本の見返しを観察してみると、どうも「戊辰發販」の「戊辰」に象嵌した痕跡が見受けられる。さらに、刊記の「文化五戊辰年\正月吉日發販」の「文化五戊辰年」という部分も入木して手を加えてあるように見える。おそらく板木が完成した後に何らかの事情があって当初の予定より刊行が一年遅れたため、部分的に手直しされたものと考えられる。
 一方、文化三年六月下旬に起稿していながら稿了までに約一年も費やしている『枕石夜話』もまた不自然である。この間の事情は「序文」に見えている。

この冊子(さうし)はいぬる丙寅の年(とし)。雷鳴月(みなつき)下旬(げじゆん)倉卒(さうそつ)の際(あいだ)に草(さう)を起(おこ)し。草(さう)する事央(なかば)にして止(や)む。しかるを今茲(ことし)慶賀堂(けいがだう)のあるじ。その草稿(さうこう)を獲(え)て。梨棗(りそう)に登(のぼ)せんと乞(こ)ふ。よつて嗣録(しろく)して首尾(しゆび)二巻(にくわん)とし。更(さら)に校正(きやうせい)して。その需(もとめ)に應(おう)ずといふ。
文化丁卯年皐月中浣
著作堂主人誌[馬琴]

 途中で執筆を中断した理由は書かれていないが、文化四年の新板を予定して執筆が始められたことは間違いない。
 つまり、文化五年に上総屋忠助(慶賀堂)から刊行された『坡〓庵』と『枕石夜話』の二作は、本来は文化四年に出るべきはずの作品だったのである。この遅滞の理由については、上総屋忠助が文化三年三月の大火に罹災したためではないかと推測できる▼4。ところが、それのみならず文化四年の冬には、書物問屋仲間でもないのに上方読本等を勝手に取次販売したということで一札を取られている▼5。この事件も上総屋忠助の出板活動を考える上で無視できないことである。上総屋忠助は、ほかの貸本屋に先駆けて、文化三年という早い時点で馬琴の半紙本読本『三國一夜物語』を出していることからもうかがえるように、果敢に書物問屋仲間に対抗し、江戸読本出板に意欲的な貸本屋であった。これらのことを考えるに、「文化年細本銭なる書賈の作者に乞ふてよみ本を中本にしたるもあれとそは小霎時の程にして皆半紙本になりたる也」(『作者部類』)と馬琴が記すところの「細本銭なる書賈」は、おそらく上総屋忠助のことではないかと推測できる▼6。さらに、感和亭鬼武の滑稽本『春袋睾丸釣形』(文化四年)などには登場人物の一人(上忠)として挿絵にも描かれており、蹄斎北馬との関係も深かったようだ。いずれにしても色々と興味深い書肆で、文化初頭における馬琴との繋がりも気になるところである。

  五 敵討枕石夜話

 さて、『枕石夜話』に改題改修本が存在することは、早くに横山邦治氏の紹介がある▼7。外題に「絵本枕石伝」とある半紙本四冊で、伊賀屋勘右衛門板。内題尾題に入木し『浅艸寺一家譚讎同士石木枕』とし、口絵を削り、挿絵の薄墨板を省略し、序文を文化七年京山のものに代えている。いまだ閲覧する機会に恵まれないが、広島大学には同板の改題後印本『觀音靈應譚』(半紙本五冊、丁子屋源次郎板)が所蔵されているという。
 この京山の序文は未紹介なので全文を引いておく▼8

叙言
山東京山識[京山]
むかし/\の赤本(あかぼん)ハねりま大根(だいこん)ふといのねやんりや様はありや/\といふことば書(がき)にしていかにもひなびたる書(かき)ざまなりしに金々(きん/\)先生(せんせい)榮花(えいくは)の夢(ゆめ)一度(ひとたび)さめてよりのち古調(こてふ)(へん)じて洒落(しやれ)となり洒落(しやれ)(また)(へん)じて古調(こてふ)となる洒落(しやれ)と古調(こてふ)とかならずしも文化巳の夏日(かじつ)伊賀屋のあるじ予(よ)が晝寝(ひるね)の枕(まくら)をたゝきて此書(このしよ)に序(じよ)せよと〓(もとめ)たり巻(くハん)を繙(ひらき)て閲(けみす)れバ友人(ゆふじん)馬琴(ばきん)子が例(れい)の妙作(みやうさく)なり教導(けうだう)にてハ四情(じやう)河原(かハら)伊勢ハ白子の勧善(くハんぜん)懲悪(ちようあく)何地(どこで)か一度(いちど)見た機関(からくり)作者(さくしや)の胸(むね)のつもり細工(さいく)(この)一屋(ひとつや)の扉(とぼそ)を覘(のぞか)バ石(いし)の枕(まくら)の故事(ふること)も今(いま)目前(めのまへ)に見るごとく老人(らうしん)(まど)からあいさつするまでこまやかに御目がとまれバ前篇(ぜんへん)ハおかハり/\
    文化午のはつ春

 ところで、阪急池田文庫に所蔵されている『觀音利生記』という本は、挿絵などをすべて描き直した『枕石夜話』の再刻本である。内題「觀音利生記」、外題「繪本觀世音利生記」、半紙本五冊、曲亭馬琴纂補、松亭金水叙、弘化期の刊行であろうか、巻三と五の巻頭に改印[渡]がある。刊記には「皇都藤井文政堂\寺町通五条上ル町\書林山城屋佐兵衛」と見え、どうやら本来は中本として出されたものの後印本のようであった。ところが、鈴木俊幸氏がこの再刻本の初印本を所蔵しているのを知った。氏の御厚意によって熟覧する機会を得たので簡単に書誌を記しておく。

『觀音利生記』 中本(十七・五×十一・八糎) 四巻四冊
 表紙 鳥の子色(灰色で沙羅形地に花菱丸を散らす)
 題簽 左肩(十二×二・七) 「觀世音利生記(春−冬)
 見返 「曲亭翁著 歌川國直畫\觀世音利生記\東都 金幸堂板」
 柱刻 「くわんおん一(−四)
 刊記 「京都書林\山城屋佐兵衞、河内屋藤四郎、大文字屋専藏
     浪花書林\秋田屋市兵衞、河内屋茂兵衞、河内屋源七郎
     東都書林\丁子屋平兵衞、釜屋又兵衞、菊屋幸三郎板」(巻四後ろ表紙見返し)
 構成 巻一、松亭金水叙二丁、口絵二丁(薄墨濃淡二色入三図)、本文十七丁半、挿絵三図。
    巻二、十九丁半、三図。
    巻三、二十一丁、三図。
    巻四、十八丁以下破損、三図。
 備考 改印なし。本文は用字の違いを除けば概ね初板本に忠実である。、
    口絵挿絵中に新たに賛が加えられており、次のような松亭金水の叙文が付されている。

觀音利生記叙
妙法蓮華経普門品は、観音大士の功力を挙て、その霊驗を説れたり。そも/\観世音菩薩ハ、廣大無邊の大徳ある事、世の人の知る所ながら、わきて武蔵の浅草なる、大慈大悲正観音ハ、往昔 推古の朝に當つて、宮戸川より出現まし/\、世々の 天子将軍も、尊崇し給ふ〓佛なれバ、貴賎道俗渇仰して、利益を蒙るもの無量なり。謂ある哉かの経に、若人あつて諸〓〓の、財宝奇珍を求めん為、海に浮ぶの時にあたつて、悪風竜魚の災あり。此時御名を称ふれバ、竜魚の難を免かれて、風穏になるとなん。迅雷鳴雨烈しく、樹木を碎く時に遇ひて、御名を称ふる人あれバ、時に應じて消散す。其餘の功徳甚深无量、実に不可思議の〓應あれば、挙て人の信ずるものから、日々に新にまた日々に、新なりける感應あり。そが中に古へより、語り聞え書に留て、話柄となすことの、また洩たるも鮮からず、因て曲亭子が遺るを拾ひ、今様風流の文に編て、もて童蒙の伽となし、且勧〓の一助となす。その筆頭の妙なるハ、例の翁の事なれば、今更にいふにたらず。必求て看給へかしと、販元にかはりて願奉つるになむ。

應需     
松亭金水誌 

この再刻本のほかにも、『金龍山淺草寺聖観世音靈驗記』(安政二年)という浅草寺縁起を入話にして『枕石夜話』を抄録した切附本が存在する。このように多様な改題本や再板本、さらには抄録本が出来されたのは、浅草寺を中心とする浅草周辺の伝承を扱ったものであるからに違いない。

  六 巷談坡〓庵

 一方、『坡〓庵』にも、「文化午の春」という年記の京山序文に付け替えられた改修後印本がある。半紙本五冊、「翰山房梓」「乙亥」と見返しに象嵌し、口絵(四オ)の薄墨板(三浦屋薄雲の姿)を彫り直し、内題の「巷談」を削り「坡〓庵」としたもの。巻下の末尾に付けられた「附言(門人逸竹齋達竹評)(二十九オ〜三十一ウ)も省かれている。刊記は、京山序文の年記にもかかわらず「文化十二乙亥年孟春新刻\書肆\江戸日本橋通一町目 須原屋茂兵衞\京三條通柳馬場西ヘ入 近江屋治助」となっている(天理図書館本)。そのほか「河内屋喜兵衞、大文字屋與三郎板」や、『粂平内坡〓菴』という外題を持つ四都板などが管見に入っている▼9。これらの板に付された京山序文を紹介しておく。

叙言
山東京山識 

花に二度咲の花あり月に后の月ありはじめあれバをはり初もの外題ハ緑の青表帋中ハくれなゐの赤本花咲老漢の花と共にひらきて閲バかち/\山の手に鋼鐵をならす戯作の本店曲亭馬琴子の作なりぬしハどうやら見申た黄金の長者の郭通ひを發端とし浅草河原の暗闘月も朧の薄雲が亰町の猫通ひたる揚屋入の全盛話一寸太夫を雁金屋溶女が傳土手の道鐵甚内橋の縁故までいと信だちてうつしとりたる鏡が池の昔語引書ハ則洞房語園・丸鏡・事跡合考外が濱數本の書を参考し趣向をたてたる此繪草帋御評判ハありそ海の巌に背を〓文亀堂の宿主如才の如の字もなき作に序せよといふにいな舩のいなみがたなく馬琴子かために月花の脇櫂を盪ていきまきあらく詈つゝ あたるぞ/\といふ事しかり
  文化午の春

 ところで、この本にも序文と口絵を彫り直した改修板がある。都立中央図書館蔵の中本三巻五冊で、改装され裏打ちされており、見返しや刊記を欠くため出板事項は未詳ながら、あらたに描き直された口絵には濃淡二色の薄墨が施され、明らかに幕末の出来だと思われる。本文には内題の「巷談」という部分が削られた元板を用いているようだ。また、中巻挿絵(三ウ四オ)は薄墨板がないと体裁を成さないためか削除されている。この序文には、いささか問題がある。

〓談坡〓庵の序
青き葉の繁るが中に此頃は雨に色づく梅もめづらしと詠れたる五月雨のをやみなき徒然に例の書賈はつれ%\の伽草を思ひ出てや新著の冊子を小止なく乞るゝまゝに倭と漢土の古事を是彼と思ひ合すれど婦幼の愛よろこぶべきやすらかなるはなし種は最まれなり。それ大聲は俚耳に不入と既に古人の金言あり。そも童蒙の伽艸に君子の拍掌せらるゝ深理の妙説ハ馬耳東風の類ひなるべしと兼てはかりし戲文の著述なれバ百年遺笑のわざくれと他の謗を心とせず唯一向に児女達の愛翫せる趣向を旨とすれバ街談〓説の淺々しきを種としつ。黄金長者の廓通にむかし/\の物語を菱川の画の古くうつして三谷通ひを眼前にしるす廓の古雅風流。彼薄雲が猫の故事渋谷の里の名にしおふ金王丸の名をかりてハ駒牽沢の稱をも稚く説て禿山継母が慈愛義士の傳堤の道哲の孝心悟道鴈金屋の畷女が薄命を鏡が池の水鏡に清くうつせし節婦の情甚内橋の復仇に勾坂が積悪の報を示し粂の平内の因縁にむすび結びし江戸鹿乃子ゆかりを尋ねる紫の一本芒武蔵野の千艸の花の露しげきその名所を假用して百年餘りの星霜を經にし古跡の一奇談かたり傳えて耳近きを綴り合する〓堤の菴。博識君たちの覧にハあらず婦女子の眼気をさまし善を勧め悪を懲老婆心のみ。
 于時乙丑鶉月仲旬

飯台児山丹花の〓下に  
曲亭馬琴誌     
松亭金水書 

 この序文は一読して馬琴の文体ではないと感じられるはずである。おそらく金水の手によって偽作されたものであろう。そもそも馬琴が再板本に自ら序文を書き与えた作品はほかに例を見ないし、「乙丑」という干支も妙である。もし慶応元年の乙丑ならば馬琴はすでに歿しているし、文化ならば二年に相当する。初板の序文は「文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ\曲亭馬琴みづから叙」という文化三年の年記を持つもので、まったく別の文章である。一体何を根拠にして「于時乙丑鶉月仲旬」としたのか、はなはだ不可解である。

  七 松亭金水と浅草

 ただ、ここで思い当たるのは前述した『敵討枕石夜話』の再刻本の存在である。あちらも金水の手になる本で、やはり金水の序文が付されたものであった。
 江戸後期を通じて浅草寺の開帳を当て込んで出板された草双紙は枚挙にいとまがない。また、浅草寺縁起に関する書も多く、松亭金水によって編まれた『江都浅草観世音略記』(外題「金龍山淺草寺正觀世音御縁起」、中本一冊、弘化四年三月、文渓堂板)には、その来由を詳に述たるの書。世に多しといへども。或は俚老の口碑に傳ふる所を旨として。頗る杜撰なるもの多く。或ひハ小冊にして見るに絶ず。或ハ大部にして需むるに難し。とあり、人口に膾炙した三社大権現御由来が絵入りで平易に記されている。これなどを見ると、ここまでに見てきた再刻本は、『江都浅草観世音略記』を弘化期に出した金水が、浅草に馴染み深い馬琴の旧作を利用したものと推測できるのである。
 浅草に関する読みものは近世期を通じて恒常的に需要があり、これに対して供給される新作は少なかったはずである。そのような状況の中で、金水は旧板を利用した<おっかぶせ>と呼ばれる覆刻改竄板を作ったのであった。その方法の安直さは、この時期の出板では決して珍しい現象ではないが、問題は馬琴の中本型読本が持っていた商品価値である。
 文化期から幕末までは半世紀ほどの時間を経ており、その間に、後印本、改題改修本、再刻本などが継続的に出されているのは、一時的な流行ものではなく随分と息の長い享受があったことを想定させるのである。それも、馬琴の中本型読本の中では伝本が少なく後印本も見かけない享和四年の二作ではなく、とくに浅草に関する題材を用いた文化五年の二作であった。これらは、皮肉なことに、馬琴がことさらに「この後中形のよみ本を作らす」(『作者部類』)と記した中本型読本としては最後の作品であった。



▼1.本書第一章第一節参照。
▼2.木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八年)
▼3.鶴屋金助が文化六年に地本問屋になったことと関係があるかもしれない。馬琴の中本型読本以外にも感和亭鬼武の作品に同様の改修本が存在している。
▼4.『作者部類』に「三國一夜物語五巻こも亦その板文化丙寅の火に焼て烏有となりぬ」という記述がある。
▼5.『画入読本外題作者画工書肆名目集』の「貸本屋世利本渡世の者ニ而手広にいたし候者名前」の中で、とくに「書物屋外ニ而上方直荷物引請候者」として上総屋忠助の名が挙げられている。また、『類集撰要』文化五年辰二月の条に「御當地仲ヶ間外之者より、上方下リ荷物引受申間敷一札取置候然處、此度、いつまて草四冊、七福七難圖會五冊、浦青梅二冊、同後編二冊、仲間外新右衛門町上総屋忠助方へ上方より荷物積送、不沙汰ニ致商賣候。去冬、一札まて差出置、右躰之儀有之候而は、自然禁忌之品も賣捌候様相成、取締不宜奉存候」と見える。
▼6.『作者部類』には「日本橋四日市なる書賈上総屋利兵衛、上総屋忠助利兵衛に仕えて分家せしもの也」とある。
▼7.横山邦治『讀本の研究―江戸と上方と―』(風間書房、一九七四年)、二五一頁。
▼8.中村幸彦氏所蔵本(国文学研究資料館マイクロフィルム)による。
▼9.林美一「翻刻巷談坡堤庵」(「未刊江戸文学」十四・十七冊、未刊江戸文学刊行会、一九五五・五九年)の解題中、改修後印本の板元として「文龜堂伊賀屋勘右衛門」が挙げられているが、序文中の記述によるものか。


# 『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』(ぺりかん社、1995)所収
# 補訂 2006/01 改題後印本2本追加
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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