『江戸読本の研究』第二章 中本型の江戸読本

第一節 中本型読本の展開

高 木  元

  一 中本型読本の定義

 中本型読本という用語については少し説明を加える必要があると思われる。というのも、まだそれほど普遍的な用語として認知されていないからである。そのせいか〈中型読本〉とも〈中本読本〉とも、あるいは〈中本もの読本〉とも呼ばれることがあり、場合によっては〈中形読本〉とされることもある。どれを採ってもよさそうなものであるが、無用な混乱を避けるためには文学史用語として統一した方が都合がよい。そこで〈中本型読本〉という呼称に統一したらいかがかと考え、これを用いることにした。
 じつは〈中本型読本〉という用語自体は、近代になって使われ始めたもので、近世における用例はないようである。ところが〈中形読本〉や〈中本〉という用語には、近世当時に人情本や滑稽本を指示した用例が見られる。たとえば、前述した『出像稗史外題鑑』には「左に記したるは中形のよみ本也。但、仇討等の冊子は限あらず。故に……滑稽本のみを略記す」とあり、「滑稽本」と「仇討等の冊子」とを共に「中形のよみ本」と呼んでいる。時代の下がった天保九年の『増補外題鑑』では「近来、児女童幼の愛玩し給ふ中形本の外題をこまやかに集め……おなぐさみに中形本類を著作てあそび給ふの種本ともなり」とあり、この場合の「中形本」は人情本を指示している。このほか広告などにも多くの用例が見られる。これでは文学史用語として使うには紛らわしく、具合が悪いので、とくに「仇討等の冊子」を指していう場合に〈中本型読本〉という用語が使われ始めたのである。このような呼称の混同は同時に内容的な混同を反映したものでもあり、ほかのジャンルとの境界が漠然としている中本型読本の特質を象徴しているのである。
 本来〈中本〉というのは本の大きさを表わす用語である。普通の読本が〈半紙本〉と呼ばれる菊判(二十三×十六糎)ほどであるのに対して、〈中本型読本〉とは、やや小さい四六判(十八×十三糎)ほどの書型を持つ読本を指す。近世小説はジャンルごとに、ほぼその体裁が決まっていて、書型とその内容とは不可分の関係を持っていた。この中本という書型が用いられているのは、洒落本の一部(大菎蒻)、滑稽本、人情本、草双紙(黄表紙合巻)などである。式亭三馬が「讀本(よみほん)ハ上菓子(じやうくわし)にて。草雙紙(くさざうし)ハ駄菓子(だくわし)也」(『昔唄花街始(むかしうたくるわのはじまり)』跋)と記しているごとく、半紙本読本は近世文学中にあっては一番格調の高い知的な小説であった。これに対し中本型の滑稽本や人情本は大衆向きの娯楽小説、草双紙に至っては婦女子向きの絵を主体とした小説である。そして本来は単に大きさを表わした〈中本〉という用語は、次第に滑稽本や人情本という中本サイズが用いられた大衆小説の諸ジャンルを指して用いられるようになったのである。一方、このような大衆小説の書型である中本型で刊行された読本は、単に半紙本読本を小さくしただけでなく、内容的にも中本仕立ての諸ジャンルと密接な関係を持ったのである。中村幸彦氏は「人情本と中本型読本▼1」で、その特徴を、(一)既成の読本的規格から自由、(二)読者層に合わせ表現が平明、(三)世話的であり演劇色が濃厚、という三点に要約して押さえている。これは中本型読本に関する唯一のまとまった論考で、中本型読本の孕む本質的な問題がジャンルにあることを示唆している。
 ところで曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』(以下『作者部類▼2』)という江戸文壇史の中で、文化四年に執筆した作品を列挙した後に「この後中形のよみ本作らす」と、ことさらに注記し、また山東京伝の半紙本読本『忠臣水滸傳』について「水滸傳を剽窃模擬せしもの是より先に曲亭が高尾舩字文ありといへともそは中本也」と卑下している。そして当の京伝は遂に中本型読本には手を染めなかったのである。また、同書「讀本作者部第一」の冒頭には「文化年間細本銭(ホソモトデ)なる書賈の作者に乞ふてよみ本を中本にしたるもあれとそは小霎時(シハシ)の程にして皆半紙本になりたる也」とある。つまり作者にとっては格調の低いものであり、書肆にとっては仕込みの経済的負担が軽い読本、それが中本型読本なのであった。
 このような性質を持つ中本型読本は、さまざまの新しい試みを実験してみる場としては最適であったといえる。とくに寛政より文化の初頭にかけての江戸文壇は、新しいジャンルの模索期であった。草双紙は黄表紙から合巻へとその装いを変化させつつあり、極端な写実性ゆえに破綻寸前であった洒落本は寛政の改革を契機として姿を消し、滑稽本が流行した。かくて本そのものの商品価値が増大し、作者も書肆もより売れるものを編み出す必要に迫られたのである。このような状況の下、江戸読本の様式をめぐる試行錯誤は、とりわけこの中本型読本というジャンルを通じて試みられたのである。
 そこで江戸読本の成立をめぐる実験が行なわれた享和までを〈初期〉、草双紙との間において様式上の振幅を見せる文化前半を〈中期〉、人情本の揺籃期である文化後半から文政までを〈後期〉と三期に分けて、主な作者について具体的な作品に触れながら中本型読本の史的な展開の様相を概観してみる。なお、切附本として読本の格調を失っていく嘉永以降は第五節に述べることにする。

  二 初期の中本型読本

 中本型読本の原初的形態を示す作品として、横山邦治氏が「中本もの書目年表稿▼3」の冒頭に挙げているのは、容楊黛の『敵討連理橘(かたきうちれんりのたちばな)』である。安永十年初春序、五十五丁一冊、江戸書肆の西宮新六板。作者の容楊黛は下谷長者町の医師松田某であるというが未詳、天明二年一月初演の『加々見山旧錦絵』(江戸外記座、西宮新六板)の作者でもある。中本型読本のごく初期の作品というだけでなく〈浄瑠璃読本〉とでも称すべき、文学史上特異な位置を占める作品である。
 水谷不倒氏は『古版小説挿絵史▼4』で、本書について「此書には挿絵はなく、口絵が唯一枚あるだけだ。筆者は誰であるか知れないが、之は作者の自画作ではなく、勝川派の絵師の描いたものであろう▼5。内容は白井権八と小紫の話で、その経緯が、安永七年刊、田螺金魚の『契情買虎之巻』に似た所がある」と記している。
 この解題には訂正すべき点が多く、鈴木敏也氏は「「敵討連理橘」の素材を繞つて▼6」で、一般に流布している権八小紫の情話とは別系統の説話が用いられている点、また『契情買虎之巻』とは内容的に関係がない点を指摘し、さらに関連の強い作品として浄瑠璃『驪山比翼塚(めぐろひよくづか)(江戸肥前座、安永八年七月七日初演)を挙げて紹介した。すなわち、

播州龍野城主の家老本庄典膳は子が無いので同藩の白井助市を養子としたが、その後、女子をもうけ八重梅と名づけた。殿の奥方は八重梅を助市の弟権八に媒した。典膳は頗る民心を得てゐたが、実は渋川玄蕃と謀つて主家横領を企てゝいる。この玄蕃はかね/\八重梅に思を寄せてゐた。権八は典膳等の陰謀を知り、主家のため又兄のために典膳を討ち取り、お家の宝刀千寿丸を奪つて立退いた。そこで助市は養父の仇討に発足しなければならない破目に陥り、八重梅は自害する。逃亡した権八は川崎で幡随長兵衛と知つたが、鈴森で非人を斬り、その振舞を認められて長兵衛と義兄弟の盟約をなし、江戸に赴いてその家に匿まはれる。こゝに浅草蔵前の米屋明石屋の養子栄三郎は、吉原三浦屋の小紫と二世を契る仲であつた。栄三郎の許婚お関に心のある番頭甚九郎は姦策によつて栄三郎を養家から追放せしめたが、長兵衛のために助けられる。而してお関の貞節は遂に栄三郎を動かし改悛の末、婚姻にまで導く。一方犬垣頭平太なるものが小紫を落籍せんとする。この事を長兵衛が栄三郎のために気にかけていると知つた権八は、かの千寿丸の剣を質入して金を作る。しかも、土手で甚九郎を殺し、その所持金をも贋金と知らないで奪つた。そこで権八は、長兵衛の宅から身を退いて自首せんとし、一策を案じ、女房お時に懸想したと見せかける。長兵衛は却つて親女房と縁を切り権八を庇って自首せんとする。この争ひの中にお時は身売を決意して宝刀の質うけせんとする。とど長兵衛は権八を落してやる。こゝにまた目黒大鳥村に閑居する山田右内は栄三郎の実父であるが、国許で権八の父に大恩をうけた事があつた。一日、右内の家へ虚無僧姿の男が宿を求めた。折柄、廓を抜け出た小紫が栄三郎と共にこの家を尋ねてくる。右内はこの二人が兄妹であると語つて、二人を自害させようとする。それは権八の身代りにしたいためである。ところへ龍野から早飛脚で、権八にお咎めなしとの報があった。虚無僧は助市の仮の姿でこの報を聞いて共々に喜ぶ。しかし天下の法と廓の掟とを立てるために、権八と小紫とを表向には亡き者として、生きながらの比翼塚が建立されたのである。

というものである。この浄瑠璃『驪山比翼塚』は、翌九年には同題の春朗画の黄表紙としても刊行されているが、『敵討連理橘』がこの浄瑠璃を典拠としていることは明確である。
 なお権八小紫の情話に関する論としては、内田保廣氏の「馬琴と権八小紫▼7」が備わり、実録をはじめとして、その説話系統を詳細に整理した上で、馬琴が中本型読本『小説比翼文』(享和四年)で利用した際の摂取法について論じている。
 一方、中村幸彦氏は「人情本と中本型読本」で、初期の中本型読本が実録を題材に選んでいることに言及し、その性格を〈世話中編小説〉と規定した。さらに『契情買虎之巻』についても「洒落本調は持つけれども、その本質はむしろ、世話中編小説なる読本の一、もしくは江戸におけるその初出であったかも知れない」と述べている。この『契情買虎之巻』は、実際の事件を小説化したもので、実録や浄瑠璃によった作品ではないが、後に多くの追随作を生んでおり▼8、やはり初期の中本型読本の一つとして見なしてよいものと考えられる。
 横山邦治氏は「初期中本ものと一九の中本もの―その実録的性格について―▼9」で、この『敵討連理橘』と作者不明の中本型読本『女敵討記念文箱(おんなかたきうちかたみのふみばこ)(天明二年三月、中山清七板)とを取り上げ、この二作の〈敵討〉を標榜する〈初期中本もの〉について「浄瑠璃の影響による世話種たることもさることながら、基本的には実録に根差したもの」と位置付け、さらに中本型読本を多作した十返舎一九の作品に、この実録を種本とする方法が継承されていることを明らかにしている。
 ここまで簡単に従来の研究に触れてきたが、『敵討連理橘』の特徴は何といっても浄瑠璃色の濃さにある。丸本まがいの文体や表記法、さらには段の構成法や人物の形象など、おそらくは意図的に浄瑠璃を反映したものである。いま少し積極的に考えれば、容楊黛が『加々見山旧錦絵』に手を染める前段階の、いわば筆慣らしと考えることもできよう。『加々見山旧錦絵』が本書と同じ西宮新六の板であることから考慮すると、あるいは板元の側からの依頼によって、上演されることのない読むための浄瑠璃、すなわち〈浄瑠璃読本〉を書いたのかもしれない。
 後に馬琴は、この様式を一段と徹底させて『化競丑満鐘(ばけくらべうしみつのかね)(寛政十二年)を書いており、種彦も『勢田橋龍女本地』(文化八年)を出している。中国の伝奇を院本風に翻案した馬琴の中本型読本『曲亭傳竒花釵兒(きよくていでんきはなかんざし)(享和四年)も、上演を意図せずに書かれた〈浄瑠璃読本〉の一支流と見てよいであろう。
 ところで『加々見山旧錦絵』の大当りは、前述の『女敵討記念文箱』の刊行にも関係があるはずである。この初期中本型読本もやはり色濃く浄瑠璃色を備えているからである。
 余談になるが、鏡山が弥生狂言として定着し、市村座で「加賀見山」が上演された享和三年三月にも、江戸読本『繪本加々見山列女功(かがみやまれつじよのいさおし)(川関惟充序、山青堂板)が刊行されている。明らかに弥生興行を当て込んだもので、巻末に付録として上演時の配役、尾上(常世)、おはつ(粂三郎)、岩藤(松助)が詠んだ句を掲載している(後印の際には削除されてしまう)。この作品は外題に「絵本」と冠するように挿絵が多く、上方の〈絵本物〉の流れに位置付けられる作品である。ところが、その巻末に「……童蒙の一助ともならんかと、勧善懲悪の姿を今目に写、浄瑠璃本と読本との其間を、八文字屋本の趣向に取組、詞遣いと道具建を新にして、此春の桜木にちりばめ……」とある。つまり、これもまた浄瑠璃を意識した作品なのであった。
 『敵討連理橘』が刊行された安永十年(四月二日改元、天明元年)といえば、まだ上方で怪談奇談集(前期読本)が刊行され続けていた頃で、江戸読本の出現には少し間がある過渡的な時期である。これらごく初期の中本型読本は短編でもあり、中国小説を利用した形跡も見られないことから、江戸読本成立までにはまだほど遠いものと見なければならない。
 さて寛政期に中本型読本を多作し、江戸読本への先鞭を付けたのは振鷺亭である。当時異国情緒に富む新奇な小説として人気のあった『水滸傳』の趣向を翻案した『いろは酔故傳』(寛政六年序)は、見返しに、

此書ハ魏晋唐宋元明ノ小説ヲ採リ、源氏物語ノスジヲ交ヘテ世話狂言ニ和ラゲ、白猿ガ荒事、路考ガ若女形、訥子ガ和実、杉暁ガ色悪、其外若ィ衆大勢ニナゾラヘテ趣向トス。誠ニ紙上ニ劇場アツテ筆下ニ声色アルガ如シ。

と記されている。発端で石櫃を開くと黒気が立ち昇り金の光となって八方に飛び散るのは、家に不義者が現われる予兆であるとし、高求、宋江、九龍紋などという登場人物の名をもじって使用している。御家騒動風の展開をするが、結末ですべては一睡の夢であったと逆転させ韜晦してしまう。文体は洒落本的な砕けた会話調を用い、口絵にはそれとなく役者似顔風のものを入れている。馬琴はこの作品を「部したる物にあらねとも水滸傳に本つくこと京傳が忠臣水滸傳より前に在り」「酔語と題して相似さるもの也」(『作者部類』)と評す。ただ無自覚的であったかもしれないが、中国白話小説と日本演劇の付会という、江戸読本成立に関わる問題を提起した作品として注目に値する。
 これを継承し、一歩進めたのが馬琴の『高尾舩字文』(寛政八年)である。目録で「夫(それ)ハ小説(たうほん)の水滸傳(すいこでん)\是(これ)は戯文(しばゐ)の先代萩(せんだいはぎ)」とその種を明かしているように、先代萩の世界(『伊達競阿国戯場』)に『水滸傳』の趣向を付会した作品。凡例に「此書(このしよ)や。戲房(がくや)は唐土(から)の稗説(ものがたり)に倣(なら)ひ。戲廂(ぶたい)ハ日本の演史(ぎだゆう)を引く」と見えるように、自覚的な翻案意識に支えられたもので、『今古奇観』第三話「滕大尹鬼断家私」(通俗本『小説奇言』巻三)などの中国小説を、わが国の演劇である先代萩の世界に付会した作品でもある。しかし、巻末で予告された後編『水滸累談子』が出板されていないことからもわかるように、評判はあまり芳しいものではなかった。中国小説からも趣向を取り込んでいる点においては『いろは酔故傳』より一歩踏み込んだものである。後日『南總里見八犬傳』において大成される『水滸傳』翻案による大長編国字稗史小説の先駆的役割を果たしたという意味で、馬琴にとっては記念碑的処女作であった。
 この二つの中本型読本『いろは酔故傳』と『高尾舩字文』は、本格的江戸読本の濫觴となる京伝の半紙本読本『忠臣水滸傳』前後編(寛政十一、享和元年)を生み出す直接の契機の一つとなった作品で、文学史上持つ意義は決して小さくなかった。しかもそれは方法上だけでなく、繍像風の口絵や五巻五冊で一編を形成するという造本上でも影響を与えていたのである。
 さて『いろは酔故傳』の作者である振鷺亭は、本名猪狩貞居、通称与兵衛といい、別号に関東米、金龍山下隠士などがある。その伝については精確なところはわからないが、寛政初年より洒落本、噺本、滑稽本の筆を執り、後には読本や合巻も書いている。このほかにも二作の中本型読本『風流夕霧一代記』と『芳礼綿助手柄談』とを刊行している(共に刊年未詳、寛政期ヵ)。寛政期の後半は江戸読本成立への過渡期であり、振鷺亭自身が明確なジャンルの意識を持っていたとは考えられない。前述の『出像稗史外題鑑』を見ると、現在では滑稽本とする『会談興晤〓雅話(ももんがわ)(刊年未詳、寛政期ヵ)と『いろは酔故傳』が並べられ、共に滑稽本として扱われている。つまり、作者や書肆の意識にはこの両者の区別が見られないのである。馬琴は自作『高尾舩字文』について「當時ハ滑稽物の旨と行はれたれハさせる評判なし」(『作者部類』)と記すが、江戸読本というジャンルが未分化なこの時期にあっては、流行がすべてなのであった。したがって棚橋正博氏が「振鷺亭論▼10」で、この二作を中本型読本として扱わなかったのも、それなりに納得できるのである。つまり『風流夕霧一代記』は人情本的な雰囲気を持った作品で、後になって『紀文大尽全盛葉南志』(文政五年)と人情本風に改題後印され、一方『芳礼綿助手柄談』の方は『水滸傳』を利用しながらも滑稽本的色彩の濃い作品だからである。しかし、ここでは中本型読本の江戸読本成立への過渡期における一つの試行錯誤の軌跡として見ておきたい。
 さて『風俗本町別女傳』(寛政十年、以下『別女傳』)は、『水滸傳』ではないがやはり中国白話小説を利用しており、浄瑠璃『糸桜本町育』に付会した作品である。その強引な付会は、作品としての完成度を損なっているとも考えられるが、以下具体的に典拠の摂取利用の様子を見てみよう。
 水谷不倒氏は『選択古書解題▼11』で、典拠として「呉衙門隣船赴約」(『醒世恒言』第二十八巻)と「売油郎独占花魁」(『醒世恒言』第三巻)を挙げている。どちらにも当時すでに日本語訳(抄出)があり、おそらく振鷺亭が用いたのは原本ではなく、その翻訳の方であろう。
 まず一つは、逆旅主人(石川雅望)訳『通俗醒世恒言』(寛政二年)の巻之二「呉衙内隣船赴約」である。はじめの方に、

タゞ一件(ヒトツ)ノ異(コト)ナル事アリ。這人(コノヒト)カゝル一箇(イツカ)ノ清標(セイヒヨウ)人物(ジンブツ)ニシテ。東西(モノ)ヲ喫(クラ)フ事至(イタツ)テ多(オホ)ク毎日(マイニチ)三升(サンシヤウ)ノ飯(メシ)。二〓(ニキン)アマリノ肉(ニク)。十餘〓(ジウヨキン)ノ酒(サケ)ヲ喫(キツ)ス。コレモ父(チヽ)ノ呉府尹(ゴフイン)ノ他(カレ)ガ食傷(シヨクシヤウ)セン事ヲ恐(オソ)レテ。定置(サタメオキ)タル規矩(キク)ニシテ。呉衙内(ゴカイタイ)ガ食量(シヨクリヤウ)ニハ。未(イマ)ダ足(タ)ラザル程(ホド)ナリ。
【頭注】三升ハ日本ノ今ノ一升五合ホトニアタルヘシ

これに対応する『別女傳』上冊の第一回冒頭には、

(この)佐七郎先祖(せんぞ)業平(なりひら)ともいつべき美男(びなん)にて眉清(まゆきよく)目すゞやかにて面(おもて)玉のごとく也。年已(としすで)に十九。幼(おさな)き時より書(しよ)をよみ広(ひろ)く万事(ばんじ)に通(つう)じ詩哥(しいか)書画(しよぐは)みなすべてよろし。たゞ一つのきずあり。此人かゝる風雅(ふうが)のやさ男にして物をたべる事(こと)(いたつ)て多(をゝ)く毎(まい)日一舛(しやう)五合(ごう)の飯(めし)一舛(しやう)の酒をのむ。是も父の業正(なりまさ)が定置(さだめおい)たるにて佐七郎が食事(しよくじ)にはいまだたらざる程(ほど)なり。(句点を補った)

とある。これは呉衙内(佐七郎)の唯一の欠点として形象化された大食というキズに関する部分である。表現上用字まで一致する部分もあるが、面白いことに「三升ノ飯」に関する頭注がほぼ本文中にそのまま用いられ、『別女傳』では「一舛五合の飯」となっているのである。また、『別女傳』に用いられた頭注という衒学的な形式も、この典拠より取り入れたものであろう。
 『別女傳』上冊第一回、船に隠れた佐七郎が鼾をかいて父親に見付かってしまうまでの筋は、ほぼこの典拠『通俗醒世恒言』に沿って展開している。しかし佐七郎が、大変な美人である小糸と取り違えて、ひどく不器量なお房と契りを結ぶ、という設定は典拠には見られないものである。また佐七(呉衙内)がお房(秀娥)へ送った詩は典拠では詩の奥に付された小字となっており、「承芳卿雅愛(ホウケイノカアイヲウク)敢不如命(アエテメイノコトクナラサランヤ)」とある。これを引いて振鷺亭が「承芳卿雅愛(おまへのおなさけにあづかる)敢不如命(なんぞおやくそくをたがゑん)」と傍訓を付したのであろう。
 さて「売油郎」の方、贅世氏訳『通俗赤縄奇縁』(宝暦十一年)巻二の中ほどに、

ソノ日天氣(キ)晴明(セイメイ)ニシテ。游(ユウ)人蟻(アリ)ノ聚(アツマ)ルガ如ク。遥(ハルカ)ニ十景塘(ケイトウ)ノ方ヲ眺(ナガ)ムレバ。桃紅(モヽクレナイ)ニ柳緑(ヤナギミドリ)ニシテ。湖(コ)中ノ游船(ユウセン)絃歌(ケンカ/ヒキウタヒ)ノ声(コヱ)。往来(ワウライ)紛々(フン/\)ト喧(カマビス)シク。……秦重(シンチヤウ)(カノ)女子ヲ見ケルニ。花ヲ欺(アザム)キ。月ヲ嗤(ワラ)フノ貌(カタチ)アリテ。終(ツイ)ニ目ニ見サル姿(スガタ)ナリケレバ。秦重(シンチヤウ)(タチマチ)(タマシイ)ヲ奪(ウバ)ハレ。暫(シバラ)ク呆(アキ)レ居タリケル。他(カレ)(モト)老實(ラウジツ/ジツテイ)ノ子弟(シテイ/ワカイモノ)ナレバ。イマダ烟花(エンクワ/イロザト)ノ行径(カウケイ/ヤウス)ヲ知ラズ。是(コレ)什麼(ナン)ノ人家ナラント。怪(アヤ)シミ居ケル處(トコロ)ニ。

とある。対応する『別女傳』下冊の第三回冒頭に対応する部分を見ると、

その日天気(てんき)(はれ)やかにして、遊(はなみの)人蟻(あり)の集(あつま)るがごとく、遥(はるか)に風景(ふうけい)をながむれば、花紅(くれない)に柳緑(やなぎみどり)にして、川(かは)は屋根(やね)舟ひきうたふ声(こえ)おもしろく、詩(し)を作(つく)り哥(うた)をよむべき気色(けしき)也。……佐七、彼(かの)遊君(ゆうくん)を見けるに、花(はな)を欺(あざむ)き月を笑(わら)ふの容(かたち)ありて、終(つい)に目に見ざる姿(すがた)なりければ、佐七忽(たちまち)(たましい)をうばわれ、しばらくあきれゐたりける。佐七元じつていなれば、くるわの大門をしらず。是(これ)(いづれ)の女(おんな)ならんと、見とれ入てゐけるに

とあり、ほぼ忠実な翻案をしていることがわかろう。
 このようにして典拠『通俗赤縄奇縁』の巻之二中ほどより巻之三第五回までの一連の筋が、そのまま『別女傳』の下冊第三回に翻案されているのである。この「売油郎」は「短編白話小説中第一級の名作といってよい作品で、江戸人にも大いに好まれた▼12」のであり、何度も翻訳されているが、『別女傳』ではまったく別の筋の一部分として取り込まれている。
 さて「売油郎」全体の筋であるが、女主人公の瑶琴(王美)は、一家離散の後、騙されて娼家に売られてしまう。無理やりに水揚げさせられ、遊女にされてしまうが、やがてその美貌と才能により全盛をきわめることになる。最後には幸せな結婚をして、両親にもめぐり会うことができた。というように、数奇な運命をたどった女の物語である。一方これに似た境遇を経験したのが『通俗金翹伝』(宝暦十三年)の女主人公である翠翹である。翠翹は、無実の罪で捕らえられた父弟を救うために妾奉公を決意するが、騙されて娼家に売られてしまう。やはり、その美貌と才能により全盛を窮めるのであるが、その後も多くの艱難辛苦を経ることになる。やがて軍閥徐明山に妻として迎えられ、彼女を騙した男たちに対して、その恨みを晴らすことができた。が、それも束の間、官軍の策にはまって明山は滅ぼされてしまう。官軍に捕らえられた翠翹は、命だけは助けられ、最後には家族とも再会できるのであるが、やがて出家してしまうのであった。 右の梗概の紹介でわかる通り、『別女傳』第四回は『通俗金翹伝』巻之五の結末に当たる部分の翻案なのであった。

 この女を主人公に据えた二つの白話小説は比較的有名な作品であり、両者を通読した時に、その共通する主題に気付くはずである。おそらく振鷺亭もこの点に注目したに違いない。
 以上見てきた中国種の典拠について整理すると、

 第一回 『通俗醒世恒言』巻之二
 第三回 『通俗赤縄奇縁』巻之二〜三
 第四回 『通俗金翹伝』巻之五

という具合になる。第二回も同様に通俗物の典拠がありそうだが、残念ながら、まだ明らかにできないでいる。しかし、女の片付き方による得失を語る場面は『通俗赤縄奇縁』に見えているし、また恩愛別離の愁嘆場なども『通俗金翹伝』で連綿と綴られているので、これらの部分も第二回と関係があると思われる。いずれにしても各回ごとに別の通俗物(白話小説の翻訳)を典拠として、これを継ぎ合わすことによって組み立てられた作品なのであった。
 『別女傳』が登場人物たちの性格に一貫性を欠き作品としての完成度を損なっているとしたら、それは典拠を付会するに際しての結合のさせ方が性急であったためである。だが振鷺亭は、翻訳を通してではあろうが複数の白話小説の中から共通の主題を見いだし、これを繋ぎ併せて日本演劇の世界に取り込んだのである。この江戸読本成立前夜における中本型読本を通じての試みは、振鷺亭の手柄として高く評価してよいと思われる。
 享和に入り馬琴は興味深い試みをしている。前に少し触れたが『曲亭傳竒花釵兒』(享和四年、以下『花釵兒』)では、中国の伝奇『笠翁伝奇十種曲』の「玉掻頭」を浄瑠璃風に翻案し▼13、さらにそれを中国戯曲の様式で記述しているのである。少し引用してみると、

〔末たちやく〕あたり見(み)まハし耳(みゝ)に口(くち)〔私語介さゝやくみぶり〕  〔浄かたき〕ムウすりやこよひのうちにかつらめを  〔末たちやく〕人しれず只(たゞ)一トうち  〔浄かたき〕シしのべ  〔末たちやく〕はつとこたへて軍蔵(ぐんざう)ハ。奥(おく)の一ト間(ま)へ 仝下〔臺在機関まハりどうぐぶたいかハる

という具合である。もっともこの様式には先行作があり、八文舎自笑の『役者綱目▼14(明和八年)は『笠翁伝奇十種曲』の「蜃虫楼」を翻訳している。また寛政二年には銅脈先生(畠中頼母)の『唐土奇談▼15』があり、やはり笠翁の『千字文西湖柳』を翻訳している▼16。馬琴はこれらの先行作を踏まえ、実験的な試みとして中本型読本に中国戯曲の様式を導入してみたのであろう。しかも様式だけでなく筋や造本にまで、演劇的趣向を凝らしている。このことは自叙巻頭の「遊戯三昧」という印記にも如実に表れているのである。尾崎久彌氏が「馬琴初期の芝居好▼17」で黄表紙『松株木三階奇談』(享和四年)などを例示して説いているが、『花釵兒』の場合は中国戯曲の様式に日本演劇を付会しており、そこに馬琴の工夫があったのである。たとえば、浄瑠璃風の人物形象、丸本まがいの文体、五段という編成、さらには挿絵に役者似顔を用いる▼18など、他作に比して極端に強い演劇趣味が見られるのである。袋や見返しに「一名彼我合奏曲」と標榜するごとく、中国伝奇を日本の浄瑠璃といかに付会していくか、という江戸読本の模索期における斬新な試みであったが、作品自体の完成度は決して高くはなかった。
 なお様式上『花釵兒』の後塵を拝した作品としては、山東京伝の合巻『敵討天竺徳兵衛』(文化五年)や『女侠三日月於仙』(文化五年)、柳亭種彦の合巻『国字小説三蟲拇戦』(文政二年)などがある。
 一方、『小説比翼文』(享和四年、以下『比翼文』)は中国典拠として、『醒世恒言』第八「喬太守乱点鴛鴦譜」(訓点本『小説精言』巻二)の指摘がある▼19。だが、ここから利用したのは女装した美少年が美女と契りを結ぶという部分的な趣向に過ぎない。むしろ中心は浄瑠璃『驪山比翼塚』(安永八年)や実録『比翼塚物語』(写本)、さらに容揚黛の中本型読本『敵討連理橘』(天明元年)などさまざまな形で流布していた小紫権八譚である。これら実録の小紫権八譚を換骨奪胎して、『比翼文』全体の枠組としているのである。すでに内田保廣氏が「馬琴と権八小紫」(前出)で詳細に分析しているように、『比翼文』では実録の約束に従いながらも権八の〈悪〉を薄め、その庇護者である幡随院長兵衛を〈侠客〉として形象化している。つまり馬琴は、この改変によって道義性を強調したのである。とはいっても表面的な〈勧善懲悪〉臭は、後年の馬琴読本に比べればずっと希薄である。
 一方、水野稔氏は「馬琴の短編合巻▼20」で、浮世草子『風流曲三味線』巻四、五(宝永三年)と読本『西山物語』太刀の巻(明和五年)とを、『比翼文』の全体の構想に関わる典拠として挙げている。『風流曲三味線』によって権八と濃紫との因縁の伏線を設定し、『西山物語』によって両家の葛藤の発端として武芸試合を設定したのであった。
 ところで読本では作中人物たちの関係に前生の因縁を設定し、その宿世によって筋の進行を合理化することが多い。すなわち〈因果応報〉と呼ばれている方法である。馬琴の場合は、後に益々この傾向が強くなり馬琴読本の顕著な特徴の一つになるのだが、すでに『比翼文』においてその萌芽が見られる。すなわち権八と濃紫の前生を権八の父が撃ち取った雌雄の雉子であったとすることにより、この二人が現世では夫婦として添い遂げられないように設定したのである。そして、このような仏教思想を借用した因果律は、以後の読本の構想法として作者と読者との間における暗黙の約束事となったのである。
 さて馬琴は『比翼文』の自叙でも言及しているように、美少年の持つ妖しい美しさや男色に対して興味を持っていたようだ。享和元年の黄表紙『絵本報讐録』(あえて玉亭主人と署名)で男色ものを手掛けているし、後年、未完の長編読本『近世説美少年録』九編(文政十一〜弘化四年、四編以下は『玉石童子訓』と改題)では善悪二人の美少年を主人公としているのである。それでも公式的な発言では、男色に対して露骨な嫌悪の念を説いている。このように『比翼文』は、以後の馬琴読本において自覚的に方法化される多くの要素を孕んでおり、馬琴読本の出発点として重要な位置を占める作品であるということができよう。
 いまここに挙げた『曲亭傳竒花釵兒』と『小説比翼文』とは同じ享和四年の刊行であるが、一方で〈伝奇〉を、他方で〈小説〉を題名として掲げている点に注意すべきである。共に中国の文芸用語であり、当時にあってはさほど一般的な語彙ではなかったからである。にもかかわらず、あえてこの象徴的な二語を題名に使用したところに、一部知識人たちの中国趣味を摂取し、江戸読本という新しいジャンルに採り入れんとする意図が明確に見て取れるのである。
 ここまでの初期の中本型読本に見られるのは、文人の戯作気分が残る振鷺亭と、新しい江戸読本というジャンルに意欲を燃やす馬琴との二人による、中国文芸をいかに摂取利用するかという試行錯誤の軌跡であった。

  三 中期の中本型読本

十返舎一九
 文化期に中本型読本をもっとも多く刊行したのは十返舎一九である。一九は本名重田貞一、明和二年駿河府中に生まれ、天保二年八月七日歿、享年六十七歳という。若い頃は上方で浄瑠璃作者を志したが、寛政六年には江戸の書肆蔦屋重三郎の食客となった。翌年より自画作の黄表紙を出し始めたが、筆耕までこなしたので書肆に大変重宝がられた。後に『道中膝栗毛』が大当りして、全国に一名を馳せることになる。また著述で生活を立てた最初の戯作者だといわれ、生涯に書いた作品は五百種を超えるという。とくに黄表紙や合巻をはじめとし、洒落本、滑稽本、そして人情本と、中本で刊行された通俗大衆小説を中心に活躍した。実は中本型読本を最も多く刊行したのも、この一九なのであった。近世後期の大衆小説作家としては、第一人者であったということができるのである。
 加えて本屋仲間との付き合いが深く、有能な出板企画者でもあったらしい。従来は式亭三馬の手柄といわれている〈合巻〉という草双紙の造本の上での工夫も、おそらく最初は一九の発案であったものと思われる▼21。三馬が声高に功名をいい立てるのに対して、一九の方は控え目で地味なので正当な評価が得られないのである。あの口の悪い馬琴でさえも一九については「生涯言行を屑とせす浮薄の浮世人にて文人墨客のごとくならされハ書賈等に愛せられ」た、と好意的に書き留めている(『作者部類』)
 さて『膝栗毛』の流行と共に板元から路銀を貰って地方旅行に出かけることが多くなり、その旅先で取材した口碑などを作中に利用するようになる。完結していない作品の多い点が気になるが、十作ほどある中本型読本には地方の伝承を題材にした作品が多く見られる。
 一九という署名はないが『熊坂傳奇東海道松之白波』(文化元年)は、牛若丸に討たれた盗賊熊坂長範の一代記で、悪漢小説的な要素は式亭三馬の合巻『雷太郎強惡物語』(文化三年)や馬琴の半紙本読本『四天王剿盗異録』(文化二年)に通じる。この作品の題簽には「全部十冊合巻」とあり、黄表紙風の造本であるが前後二冊に〈合巻〉されている。五丁一冊の意識が見られるので草双紙の感覚で書かれたものであるが、挿絵が全丁に入っていない点や挿絵の余白に本文がない点から、中本型読本に近いものと見てよいと思われる。
 また、一九の『相馬太郎武勇籏上』(文化二年)も同様の体裁を持ったもので、頼光と四天王に滅ぼされた平良門の一代記である。これらの作品は寛政期に多数出板された一代記物や戦記物の流れを汲んだものである。馬琴の関わった『畫本武王軍談』(寛政十三年)など「この冊子の形ハ半紙と中本の間なる物なれハ中形本と唱ふ」(『作者部類』)という、いわば歴史教科書的な絵本である。この内容を中本型読本に持ち込んだのが一九の初期中本型読本なのである。同様の〈合巻〉体裁はあまり見かけないので、おそらく一時的な試みとして出されたものと思われる。
 『復讐玄話浪花烏梅(なにわのうめ)』前二編後一編(文化二年)は、重勝五七郎という悪人の一代記風の作品である。故郷を追われた五七郎は遊女霞野をめぐる意趣返しに人を殺す。その後も悪行を重ね、遂に侠客夢の市兵衛等の助太刀によって討たれる。序文では、大坂で浄瑠璃作者としての修業をしていた頃『男伊達浪花雀』という播州三木の敵討を書き写し、その面白い箇所を採ってこの作品を書いたと記す。話の筋としては一応完結しているにもかかわらず続編が予告されているが、刊行には至らなかったようである。
 『復讐竒語天橋立』前二冊後二冊続一冊(文化三〜五年)は三編まで三年にわたって刊行されたもので、中本型読本としては長編に属す。逆怨みによる不当な敵討と、それに対する正当な敵討という込み入った展開に、狐の奇談や霊験譚を配した作品。『丹後縞』という写本を種本にしたと記している。なお、本書には文化五年鶴屋金助板で絵外題簽を貼り付けた体裁のものがある。三編まで揃ったところで刊行されたものと思われる後印本である。
 『風声夜話翁丸物語』全二冊(文化四年)は犬の報恩譚を絡めた敵討物で、疫神や鼠の怪異など奇怪な民譚が利用されている。『甲州鰍沢報讐(かじかざわのあだうち)』前二冊(文化四年)は一名「身延山御利生伝記」とあり、日蓮大師の霊験譚を利用した敵討物。後編予告があるが未見。『孝子美談白鷺塚』前二冊(文化五年)は丹後国与謝郡涙の磯にあるという白鷺塚の由来譚に絡めた敵討物で、狐の怪異譚を利用している。これも後編予告があるが未見。
 『復仇女實語教』全二冊は文化六年の新板として前年十月二十八日に売り出されたものである。内容的に分類すれば敵討物となるが、随分と奇抜な趣向を用いている。発端部にある「猟師に追われた狼を助けてやったところ、逆に狼に喰わせろと要求される」という話は、中国の明代の伝奇小説『中山狼伝』(流布している民譚名は「東郭先生」)に見えている。この話から「中山狼」が「忘恩負義」を表わす成語となったというが、実は林羅山の『怪談全書』(元禄十一年)巻之二「中山狼」に翻案されており、末尾に「説海ニアリ」と付記されている。おそらく一九はこれを下敷に用いたものと思われ、「實語教」という題にふさわしく、教訓的な話として枕の部分に利用したというのならわかるのだが、「傍らにあった栗の木に狼の要求の理非を問うと狼の論理の方を正当だと答える」という狼の忘恩を正当化した部分を用いている。夢として扱っている点が意味深長である。
 また敵討の方法も奇抜である。病身で余命幾許もないかつての家臣を相手に、華々しく身代りの敵討をして真の敵をおびき出すという趣向である。『大岡政談』の「石地蔵吟味の事」の着想にも通ずる部分が見られ、敵討物の一趣向としては面白いのであるが、結末があまりにもあっけないので少々拍子抜けの恨みはある。
 同年刊の一九の合巻『三峯霊験御狼之助太刀(おいぬのすけだち)(春亭画、鶴喜板)でも本作と似通う趣向が数多く使われている。狼が登場するのはさて措き、病人相手の果し合いや、庚申塔を捕まえて敵討をして一味を発見するなどという趣向である。もちろん全体の筋はまったく別のものだが、同じ作者が同じ時期に書いたものとして興味深いものがある。
 なお本作の挿絵中、最初の一図は明らかに象嵌されたものである。伝本が少ないので理由は未詳とせざるを得ないが、気になる改変である。挿絵は北馬が描いており、面白い悪戯をしている。挿絵中に一九や取り巻きの連中を描き込んでしまうのである。着物に付けられた紋の意匠から一九、感和亭鬼武、東汀等が、それとわかるように描かれているのである。別の一図にも鬼武が描かれており、さらに同年の一九の合巻『大矢數譽仇討』(春亭画、西与板)の末丁にも鬼武の歌が入れられている。この時期の二人の交流の深さがうかがわれる。
 一九はその生涯におよそ五百種の多作を誇っているというが、草双紙をはじめとして滑稽本、中本型読本、人情本と、中本型の書型を用いた諸ジャンルの変遷が個人史の中で辿れる貴重な作家である。ジャンルの境界で、その交代に深く関与しているはずだからである。一九の中本型読本には実録や民譚に取材した作品が多いようである。作品の舞台を江戸以外の上方西国に求め、由来譚に絡めた敵討に動物の報恩譚や怪異譚を織り込むという方法は、一九独特の行き方を示したものと思われる。おそらく大坂での浄瑠璃作者としての修業中に実録の扱い方を学び、また各地への旅行中に足で集めた材料も少なくなかったはずである。

感和亭鬼武

 感和亭鬼武もまた中本型読本の多作者である。鬼武は本名前野曼七(満七郎とも)という。はじめ曼亭と号し文化二年に感和亭と改めている。伝記については不明な点が多いが、宝暦十年生まれ、文政元年二月二十一日歿、享年五十九歳という。寛政初年には代官の手代として奥州桑折に下っており、江戸との間を行き来していたようである▼22。寛政初期には山東京伝の門を敲き、「京伝門人」と署名した作品もある。しかし本格的に草双紙の筆を執り始めた享和二年以降は十返舎一九に接近し、その取り巻きの一人として「栄邑堂咄之会」に列席している。比較的知られた当り作としては、読本『報仇竒談自来也説話』(文化三年、後編は同四年)や滑稽本『有喜世物真似舊観帖』一〜三編(文化二〜六年)があるが、江戸戯作界における鬼武の位置は決して高いものではなかった。にもかかわらず江戸戯作者としては典型的な人物の一人でもあった▼23
 鬼武は寛政から文化にかけて、およそ五十種ほどの読本、草双紙、滑稽本、噺本などを書いている▼24。その中でとくに注目したいのは、七作の中本型読本である。この七作という数は、中本型読本に限っていえば、多作を誇る一九と馬琴に次ぐ点数なのである。しかも鬼武の中本型読本のうち三作に合巻仕立ての改題改修本が存在している。おそらく鬼武の中本型読本には、板元の要求や合巻読者の嗜好に合致する部分が多く備わっていたのであろう。だからこそかなり売れ、その結果として三作もの改題改修本が出されたものと思われる。
 『竒児酬怨櫻池由來』全三巻(文化三年)は発語(序)で「相傳(あいつたへて)(いはく)(さくら)と号(なつく)る所以(ゆゑん)ハ昔(むかし)池中(ちゝう)に大蛇(だいじや)(すめ)りと于時(ときに)國主(こくしゆ)の妾女(せうぢよ)(さくら)の前(まへ)なるもの池中(ちゝう)に沈没(ちんぼつ)す國主(こくしゆ)これを 傷(いたみ)(かるがゆへ)に妾(せう)の名(な)を傳(つたへ)て桜邑(さくらむら)の櫻池(さくらいけ)といふ其后(そのゝち)肥後(ひご)阿闍梨(あじやり)皇圓(くわうゑん)上人(しやうにん)の霊魂(れいこん)此池(このいけ)に入寂(にうじやく)すと云々」と、『和漢三才図会』の「桜池」の項に見える水神伝承と皇円上人入寂説話を紹介している。桜池の主霊である桜と縣義虎との間に出生した奇児鱗太郎が亡父と亡義兄の敵を追っている時、偶然室津の遊女勇女と知り合う。両人が所持する横笛から同じ敵員弁滋広を持つことがわかり、折りよく勇女の下に通ってきた敵を討つという話である。種々の説話を巧く構成しており、処女作としてはよくまとまった作品である。
 『復讐鴫立沢』全二冊(文化三年)は、享保二年七月十七日夜五ッ時に大坂の高麗橋上であった妻敵討を題材としている。その実説は『月堂見聞集』巻之九などに記録されているが、際物として近松門左衛門の浄瑠璃『鑓の権三重帷子』(享保二年八月)に仕組まれたのをはじめとし、西沢一風の浮世草子『乱脛三本鑓』(享保三年)、さらに『女敵討高麗茶碗』や『雲州松江の鱸』などでもこの事件が扱われている。このように枠組みとしては広く人口に膾炙した題材を用いながら、鬼武は大きく改編している。物難い武士が同僚の妻に口説かれ、その色香に迷って駈落ちして罪を重ね、遂には討たれてしまうというもので、「勧善懲惡の一助ともならめ」(序)と編んだものにしては、やや不穏当な題材である。
 また発端部では、城主に命を助けられた狐が恩返しにと城中の有様を密かに知らせていたが、ある日御所望の鰹を求めて城外に出たところ野犬に殺され、事が露見するという奇談を用いる。この狐の話の典拠は未詳であるが、伊原青々園は松江侯に関わる伝説として『演劇談義』(岡倉書房、昭和九年)で紹介している。
 この『鴫立沢』は中本型読本の中でも比較的短い作品である。発端部を除けばごくありきたりの敵討物で、とりたてて特徴があるわけではない。むしろ、この作品の特徴は北馬の描いた挿絵にあるのである。
 第一の特徴は、挿絵中の有坂五郎三郎と阿町に、初代の男女蔵と三代の路考の似顔が使われている点である▼25。そもそも半紙本読本の挿絵に役者似顔を用いた前例は皆無ではないが、あまり見かけない。対してこの時期の草双紙合巻の方は、およそすべてが似顔になっていると考えて間違いない。この相違は読者層の違いから生じたものであるが、本質的には芝居との距離の置き方の差なのである。
 第二の特徴は、挿絵中にさりげなく作者自身が描き込まれている点である。よく見ると着物の意匠として鬼武の書判が利用され、袖のところに「鬼」とある。そのほかの人物にも鬼武周辺の人を当て込んでいるようで、今日でいえばヒッチコック映画並みの鑑賞が可能なのである。
 これらの作者と画工の渾然一体となった仕掛けは、画工である北馬の本名有坂五郎八が敵役の名「有坂五郎三郎」と無関係ではないことを知ると、俄然はっきりとしてくるのである。さらに結末近くで「有坂五郎三郎」が変名として用いている「東汀」という名も、ほかの鬼武の作品でよく見かける人である。たとえば滑稽本『春岱[睾丸]釣形』(文化四年)では、蹄齋(北馬)、上忠(慶賀堂上総屋忠助)、松波などと共に登場人物の一人として登場し、挿絵に「東汀」と描かれている。また『自来也説話』後編に序文を送ったのも「東汀間人」なる人物なのである。
 こうして見ると、鬼武と周辺の人物とが作品世界に深く関わっている様子がよくわかる。とくに画工である北馬は鬼武の作品の大部分に挿絵を描いており、一九などと共にかなり親密な付き合いをしていたものと思われる。草双紙『女仇討菩薩角髪』(文化十四年)でも同様なのだが、鬼武が敵役に北馬の実名を使ったのを見て、北馬の方でも挿絵中に仲間の似顔を描き込んでしまう。おそらく、こんな具合に作品が作られていったのであろう。つまり『鴫立沢』は、趣向として鬼武とその周辺の人物の楽屋落ちを秘めた作品なのである。これも半紙本読本では実現不能な中本型読本ならではの新奇な工夫であった。
 『報寇文七髻結緒』全二冊(文化五年)は、小紫権八の世界に『助六』の趣を採り入れている。序文で「今歳(ことし) 余(あらは)す處(ところ)十有余編の中(うち)侠客(をとこだて)てふもの綴(つゞ)り入(いれ)たる戯述(げじゆつ)四五遍(しこへん)(これ)(みな)起梓客(はんもと)の好(このみ)に任(まか)す處(ところ)なり蓋(けだし)此書(このしよ)の作意と[奇遇]糸筋(よるべのいとすじ)とう稗史(よみほん)は別(わけ)て混(こん)し雑(まじは)りたる事(こと)あり」と述べるごとく、文化八年刊の半紙本読本『東男奇遇糸筋』全五冊でもやはり侠客を扱い、こちらでは『助六』と『糸桜本朝育』を綯い交ぜにしている。
 『函嶺(かんれい)復讐談』全二冊(文化五年)の「函嶺」は箱根のことであるから、曾我物の面影を映していることは容易に想像できよう。ただし、この作品では山荘太夫説話に付会するために兄弟を姉妹に直している。跋文では、

(かの)三庄太夫の説(せつ)に似寄(により)(はべ)れど茲(この)復讐(ふくしう)の一条(いちでう)は往古(いにしへ)(かゝ)る實話(じつは)ありしと 幼頃(いとけなきころ)小耳(こみゝ)に聞振(きゝふり)し有(あり)の儘(まま)を書綴(かいつゞ)

としている。なお本作の序文は当時の中本型読本の性質をよくいい得ているので、少々長いが引いてみる。

一日(あるひ)書肆(しよし)慶賀堂(けいがどう) が草蘆(さうろ)を訪(とふら)ひ一回(いつくはい)の雑話(ざつは)(おはつ)て后(のち)いへらく近来(ちかころ)小説(しやうせつ)和文(わぶん)讀夲(よみほん)の類(たぐひ)歳々(せい/\)出版(しゆつぱん)すといへども女童(をんなわらべ)の字義(じぎ)に踈(うとき)は其文(そのぶん)の高上(かうしやう)なるにつれて難分事(わけかたきこと)(をゝ)く這(これ)を見るに倦事(うむこと)あり因茲(これによつて)俗文(ぞくぶん)卑言(ひげん)を不厭(いとはず)童蒙(とうもう)にも讀易(よみやす)からんを要(よう)とし二巻(にくはん)の書(しよ)を編(あみ)て與(あた)へよと請(か)ふ原来(もとより) 予 がごとき文(ぷん)に朦(くらき)は卑拙(いやしくつたなき)にあらては綴(つゞ)ることかたし僥倖(これさゐはひ)といえども近(ちか)き頃(ころ)まで讀夲(よみほん)は童子輩(どうじはい)の弄(もてあそび)にあらざれば諸名家(しよめいか)半点(すこしく)(ぶん)に力(ちから)を容(もちゆ)るに至(いた)れる歟(か)(いま)や流行(りうかう)して年々(ねん/\)遍出(あみいだ)せる讀夲(よみほん)なれバ那(かの)艸本(くさほん)の如(ごと)く児女(じぢよ)幼童(ようどう)も見まく欲(ほつ)する事(こと)になんしかあらば が不学(ふがく)の俗文(ぞくぶん)卑詞(ひし)も可用(もちゆべき)ときなるにやとさりや作意(さくい)は華林戯(しばゐ)に靠(もとつ)き文(ぶん)は音節談(じやうるり)に據(より)此書(このしよ)を綴(つゞ)りて書肆(しよし)の需(もとめ)に應(おう)す閲(み)る人(ひと) 予 が面皮(めんひ)の厚(あつき)を饒(ゆる)し玉へといとくちに其(その)分説(いゝわけ)をしるす耳(のみ)

 文化年間に入り読本が流行し、この文化五年には出板部数では頂点に達する。ここに至って大衆化した読本は、需要に見合った質の低下が求められる。かつての知識人たちの高踏的戯作性が徐々に退色していき、大衆的な娯楽性が前面に押し出されるようになってきたのである。また鬼武の卑下自慢もさることながら、この年には多くの無名作者が中本型読本に手を染めているのである。さらに「那艸本の如く児女幼童も見まく欲する」ので草双紙的な中本型読本が出来する。この背景には、読本の流行による大衆化という事情があり、それがとりわけ中本型読本に強く反映したのである。
 『増補津國女夫池』全二冊(文化六年)に至っては、近松の『津国女夫池』の抄出本ともいえるもので、「増補」したのは、ほんの発端部に過ぎない。
 『撃寇竒語勿來関(なこそのせき)』全四冊(文化六年)は東北地方の実録によったものと思われる。剣術試合の折、卑怯な手を使って父を殺された娘が、道中の他見を憚って自ら顔を焼いた忠臣を伴い敵討に赴く。夢の場や亡霊の出現など伝奇性の強い趣向が織り込まれ、花街の喧嘩や侠客を描きながら遂に仇を討つというもの。序文では人から聞いた話であると記している。
 鬼武の当り作としては半紙本読本『報仇竒談自来也説話』前後二編(文化三〜四年)がある。これは猟奇的な妖術や霊薬を使う義賊小説で、その新奇な趣向が評判となった。一方、中本型読本では地方の伝承や演劇実録に取材しながらも、侠客を扱う作品が多い点が特色となっている。「名(な)に逢(あ)ふ人々(ひと/\)の作意(さくい)を見聞(みきく)(まゝ)に彼(あれ)を学(まな)び是(これ)を習(なら)ひ歳々(せい/\)年々(ねん/\)(あらはす)(『勿來関』跋)という作家であったが、その伝記についても不明な点が多く、出典研究を含めて今後の研究の余地が多く残されている。とくにいま述べてきた中本型読本については、従来ほとんど触れられたことがなかったが、江戸読本研究上興味深い位置を占めている作家だと思われる。原稿料だけで生活できるほどの職業作家ではなかったから、肩肘を張らずに楽しみながら書いていたのであろう。

曲亭馬琴

 馬琴にも次の八種の中本型読本がある。

一、高尾舩字文     五 長喜画  寛政八年序  蔦屋重三郎板
二、小説比翼文     二 北斎画  享和四年刊  鶴屋喜右衛門板
三、曲亭傳竒花釵兒   二 未詳   享和四年刊  濱松屋幸助板
四、敵討誰也行燈    二 豊國画  文化三年刊  鶴屋金助板
五、盆石皿山記(前編)  二 豊廣画  文化三年刊  住吉屋政五郎板
五、盆石皿山記(後編)  二 豊廣画  文化四年刊  住吉屋政五郎板
六、苅萱後傳玉櫛笥   三 北斎画  文化四年刊  榎本惣右衛門板
七、巷談坡堤庵     二 豊廣画  文化五年刊  上總屋忠助板
八、敵討枕石物語    二 豊廣画  文化五年刊  上總屋忠助板

 文化期の作品は、実験的な意味合いの強かった寛政享和期の作品とは大分相違がある。以下、少し丁寧に見ていくことにする。
 『敵討誰也行燈』二巻二冊(文化三年)の題名となっている誰也行燈は、見返しに意匠されているが、その名の由来は『古今吉原大全』(明和五年)の巻四「吉原年中行事」に見えている▼26

扨鐘四ッの時。大門口をしめ。くゞりより出入す。両河岸(かし)は。引四ッ打て。木戸をしめ此時。丁/\へ。中あんどうをともす。是をたそやあんどうとなづく。むかし。庄司甚右ヱ門が家の名を。西田やといふ。此内に。京より来りし。たそやといへる。名高き女郎ありけり。ある夜引ヶ四つ過て。あげやよりかへりしに。何者ともしれず。たそやを殺害(せつがい)に及びける。其比より。用心のためとて。丁中に行燈(あんどう)を出す。よりて。たそや行(あん)燈の名あり。

 この吉原名物を利用して構想を立てたのである。
 一方では『近世江戸著聞集』巻九に見られる佐野次郎左衛門と万字屋八橋の実録に取材している(『異本洞房語園』にも見えている)。これは「吉原千人切り」と呼ばれているが、並木五瓶によって『青楼詞合鏡』(寛政九年江戸桐座初演)に脚色されている。後には講談にもなり、現代では『籠釣瓶花街酔醒』(三代河竹新七作、明治二十一年東京千歳座初演)としてよく知られている。内田保廣氏は、この籠釣瓶譚と『幡随院長兵衛一代記』とが権八小紫譚を介して結び付き、『誰也行燈』に利用されていると説いている(前出「馬琴と権八小紫」)。後になって、この佐野次八橋譚は合巻『鳥籠山鸚鵡助劔』(文化九年)で再び用いられることになるのである。
 はやくに後藤丹治氏は『太平記』の「新田義貞が劔を海中に投じて潮を退けるといふ故事」などを典拠と指摘し▼27、向井信夫氏は『窓の須佐美』第三巻中の一話を第四編で潤色使用していることを指摘した▼28
 なお本書には自筆稿本が残っており▼29、これを見るとかなり正確に製板されていることがわかる。しかし口絵の一図だけが下絵(首級を描く)とまったく異なる図柄で、振鷺亭の読本『千代嚢媛七変化物語』(文化五年)巻五の挿絵「簗(やな)太郎北海(ほつかい)に挺頭魚(ふかざめ)を殺(ころ)す」(北馬画)に酷似している。この改変の理由は定かではないが、図柄が不穏当であったためであろうか。いずれにしても大筋としては、里見家の御家騒動を多くの犠牲の上に敵討によって解決していくというものである。
 『盆石皿山記』前後二編各二巻二冊(文化三、四年)は、馬琴の中本型読本では最も大部の作品である。構想もほかの作品に比べて複雑になっており、趣向も凝らされている。まとまった作品論はいまだ備わっていないが従来〈伝説物〉と分類され、題材として皿屋敷伝説、鉢かづき伝説、苅萱桑門伝説が指摘されている。
 自序には「みまさかや久米のさらやまさらさらに我名はたてじ万代までに」(『古今和歌集』巻之第二十、神あそびの歌)を踏まえた借辞が見られるが、美作国、久米の更山という場所は〈皿〉から得た着想であると思われる。錦織、佐用丸などという登場人物名も付近の地名によったのである。
 また継子譚が取り入れられているが、「紅皿缺皿」(話型としては「米福粟福」)よりもむしろ「皿々山」と呼ばれる話を利用している。これは、殿様が姉妹に盆皿を見せて歌を詠ませ、実子に比べて上手な継子の方を城へ連れて行くという話である。このほかにも継子譚には「継子の椎拾い」や「継子と井戸」と呼ばれる話型もある。さらに「鉢かづき」も継子譚に属する型である。
 馬琴がどのような資料によったかは詳らかにできないでいるが、これらの継子譚を集めて趣向としてちりばめたものと思われる。つまり「紅皿缺皿」「椎拾い」「盆皿」「皿」「井戸」という趣向の連続の根底には、継子譚を集大成するという意識が存したのである。「皿」と「井戸」にまつわる話が連想の鍵となり、皿屋敷伝承へと構想が展開していく。一般に『播州皿屋敷』として人口に膾炙した話を利用しながらも、伴蒿蹊『閑田耕筆』(享和元年)巻二に所収の次の話を利用したようである▼30

上野国の士人の家に秘蔵の皿二十枚ありし。もしこれを破るものあらば一命を取るべしと、世々いひ伝ふ。然るに一婢あやまちて一枚を破りしかば、合家みなおどろき悲しむを、裏に米を舂く男これを聞きつけて、わが家に秘薬ありて、破れたる陶器を継ぐに跡も見えず、先ずその皿を見せ給へといふに、皆色を直してその男を呼んで見せしに、二十枚をかさねて、つくづく見るふりして、持ちたる杵にて微塵に砕きたり。人々これは如何にとあきれれば、笑ひていふ、一枚破りたるも二十枚破りたるも、同じく一命をめさるるなれば、皆わが破りたると主人に仰せられよ。この皿陶器なれば一々破るる期あるべし。然らば二十人の命にかかるを、我れ一人の命をもてつぐのふべし。継ぐべき秘薬ありといひしはいつはりにて、かくせんがためなりと、一寸もたじろがず、主人の帰りを待ちたるに、主人帰りてこの子細を聞きてその義勇を甚だ感じ、城主へまうして士に取り立てられたりしが、果して廉吏なりしとかや。

 場所や二十枚の皿という設定は異なるものの、馬琴は筋をこのまま利用しているのである。本作以外にも皿屋敷伝説を使ったものとして合巻『皿屋敷浮名染着』(文化十一年)がある。
 以下は部分的な趣向だが、前編第二で源七が遁世する場面や父子再会の場面は『苅萱桑門筑紫轢』を踏まえたものと思われる。この苅萱伝説は文化四年の中本型読本『苅萱後傳玉櫛笥』でも取り上げられており、また他作でも頻繁に利用されている点を見ると、馬琴にはとくに関心が深かった素材だと思われる。
 また前編第四、広岡兵衛が深夜に山神廟の梁に隠れて出没する異形のものを退治する段は、浅井了意『伽婢子』(寛文六年)巻十一の一「隠里」に似た話がある。後編第七に見られる、飼っていた鸚鵡が奸夫淫婦の密言を覚えてしまい主人がそれと知るという趣向について、徳田武氏は『開元天寶遺事』(和刻本は寛永十六年)の「鸚鵡告事」によるとする▼31
 結末の後編第十で、寂霊和尚の済度により紅皿の怨魂が仮現していた姿が消えてしまう段は、後編執筆直前の文化二年十二月に刊行された京伝の読本『櫻姫全傳曙草紙』の結末の一齣を想起させる。なおこの「寂霊和尚」と「永沢寺」建立の話、「誕生寺の椋」「宇那提森」「塩垂山」などは『和漢三才図会』に見えているから、案外手近な資料を使ったのかもしれない。
 『苅萱後傳玉櫛笥』三巻三冊は葛飾北斎画で、文化四年に木蘭堂から刊行された。中本型読本としては丁数が多目であるが、六丁にわたる「附言」が付されている。叙文には、文化三年春から夏にかけて北斎が馬琴宅にいたかと思わせる記述が見られ、その北斎に本作の執筆を勧められたとある。内容は説経節で有名な苅萱説話の後日譚として構想されたもの。中村幸彦氏は、この枠組の典拠として仏教長編説話『苅萱道心行状記』(寛延二年)を指摘した▼32。地名や人名をはじめとする苅萱説話からの要素は、多くがこの本から取られているのである。一方、妾腹の子が成人後に父と対面するという展開は、中国白話小説『石点頭』の第一話「郭挺之榜前認子」か、もしくは抄訳本『唐土新話(まことばなし)(安永三年)を踏まえたものである(前出中村論文)
 信州善光寺の親子地蔵の本地譚である苅萱説話には、妻妾の嫉妬、落花に無常を観じての発心、父子再会の折に名告れない等という有名な悲劇構成モチーフがちりばめられている。ところが馬琴はその一切を捨ててしまい、恩愛別離という発心譚の持つ基本的なモチーフを払拭した上で、家族再会、家門栄達という結末に向けた現世的な因果譚として再構成している。「縦(たとひ)佛家(ぶつか)の忠臣(ちうしん)といふとも、祖先(そせん)の爲(ため)には不孝(ふこう)(叙)という発想から、「縦(たとひ)(つく)り設(まうけ)るものなれバとて、義理(ぎり)に違(たが)へる談(たん)は、人も見るに堪(たへ)ざるべく、われも實(じつ)に作(つく)るに忍(しのば)ず」(附言)というのである。ここから直ちに馬琴の仏教に対する批判を読むのは当らないと思われるが、このように合理化されているのである。
 本作の前にも苅萱説話を趣向化した作品はいくつかあったが、とりわけ享保二十年豊竹座初演『苅萱桑門筑紫〓』の影響力が強かった。これは馬琴も何度か使っており、繁氏館の段「一遍上人絵伝」によるという妻妾の頭髪が蛇になって縺れ争う場面が、『盆石皿山記』前編(文化三年)では丑の時参りの姿絵から蛇が出る箇所で挿絵として視覚化されている。また、慈尊院の段女之介の淫夢は『松浦佐用媛石魂録』後編(文政十一年)でも利用され、さらに『椿説弓張月』『俊寛僧都嶋物語』『南總里見八犬傳』でも趣向化されているのである▼33。『筑紫〓』の改作で興味深いのが『苅萱二面鏡』(寛保二年)という八文字屋本で、結末は石堂丸が十五歳になったら家督を譲って繁氏遁世めでたしめでたしという具合で、浮世草子の定法通り祝言で締め括っている。
 ところで、不可解なのが口絵の「忠常(たゝつね)人穴(ひとあな)に入(いる)」と「鍾馗(しようき)(れい)をあらはして虚耗(きよがう)の鬼(おに)を捕(とら)ふ」の二図である。共に発端部に出てくるだけで本筋には関係しない。忠常の富士人穴探検の話は「附言」に引用されている通りに、胤長の伊東が崎の洞探検の話と共に『吾妻鏡』の建仁三年夏六月に見られる。一方、本文には出拠が示されていない「源性(げんしよう)算術(さんじゆつ)に自誇(じふ)して神僧(あやしきそう)に懲(こら)さる」という挿絵に描かれた挿話も、実は『吾妻鏡』正治二年十二月三日の条に見えているのである。本作の趣向上での『吾妻鏡』の位置は小さくない。
 「逸史」に見えるという虚耗を退治した鍾馗の挿話には、特別の興味があったらしく、「附言」で井沢蟠龍『広益俗説弁』を引きつつ考証しているが、早くに享和元年の上方旅行の記録である『羇旅漫録』巻一「戸守の鍾馗」でも「遠州より三州のあひだ。人家の戸守はこと/\く鍾馗なり。かたはらに山伏某と名をしるしたるもあり鍾馗のこと愚按ありこゝに贅せず」と記していた。また、文化八年刊『燕石雑志』巻一「早馗大臣」でも触れ、『兎園小説』第九集(文政八年)にも輪池の考証を載せ、『耽奇漫録』には「清費漢源畫鍾馗」を出している。

 「著述はわが生活の一助なり。この故にわが欲するところを捨て、人の欲するところを述ぶ」(附言)といいつつも、これらの考証を延々と続けざるを得なかったところに、馬琴流読本の行き方が暗示されていると思われる。
 なお、文化六年頃、春亭画の合巻風絵題簽を付けた改題本『石堂丸苅萱物語』が出されている。
 『巷談坡〓庵』は一柳斎豊広画で三巻三冊、文化五年に慶賀堂から刊行された。同年同板元刊の『敵討枕石夜話』と共に、曲亭馬琴の中本型読本としては最後の作品である。ただ、序文の年記は文化丙寅(三)年となっており、刊行が一年遅れたものの思われる。「巷談」と標榜するごとく、江戸の伝承的人物である粂平内、三浦屋薄雲、向坂甚内、土手の道哲などを登場人物として構想された敵討物。巻頭には仰々しく「援引書籍目録」をおき『江戸名所記』『事迹合考』など江戸関係の本を二十冊ほど挙げている。本文中でも割注を用いて考証を加えるなど、近世初期の江戸風俗に対する興味を示しつつ作品背景として利用している。この点について大高洋司氏は、山東京伝の『近世奇跡考』巻之一の十一・十二・十七、巻之二の四・十・十一、巻之三の八、計七ヶ所の引用と、『骨董集』上之巻の二十「耳垢取古図」と挿絵(巻下十一ウ十二オ)との関係を指摘している▼34
 後印本として、序文を文化七年の山東京山序に付け替えた本がある。序文によれば文亀堂(伊賀屋勘右衛門)板のようだが、残念ながらこの板は管見に入っていない。この序文中に「此繪草紙」と見えており、本作が中本型読本としては珍しく挿絵中に「ヤレ人ごろし/\」「うすくもさいごなむあみだぶつ」などという草双紙風の詞書が書き込まれている点、やや草双紙寄りの性格がうかがえる。この時期に何作か見られるような絵題簽付の体裁で出されたのかもしれない。
 巻末には「亦問。こゝに説ところは。半虚にして半実なるか。答て云、皆虚なり、比喩なり。仏家に所謂善巧方便のたぐひと見て可也」といった調子で、金聖〓の外書を真似て「門人逸竹斎達竹」なる仮託の人物との評答を載せている。やや堅苦しい印象を受けるが、基本的には敵討物の枠組を持ち、複数の伝承を組み合わせた点に面白さがある。中本型読本としての、さまざまな実験が行なわれた作品である。
 後印改修本として、「翰山房梓」「乙亥」と見返しに象嵌した半紙本三巻五冊があり、刊記は「文化十二年己亥年孟春新刻\書肆\江戸日本橋通一町目\須原屋茂兵衛\京三條通柳馬場西へ入\近江屋治助」となっている(天理図書館本)。目録などを彫り直し、内題等の「巷談」を削り「坡〓庵」とし、巻下巻末の「附言」も省かれている。この体裁の本には、刊記を欠いた本(学習院大本)のほかに、「河内屋喜兵衛\大文字屋與三郎」板があり(広島大本)、また天保期の後印本と思われる『粂平内坡〓庵』(外題)という江戸丁子屋平兵衛から大坂河内屋茂兵衛まで四都六書肆が刊記に並ぶ、口絵の薄墨をも省いた半紙本五冊もある(個人蔵)。いつの改竄だかわからないが、口絵の薄墨板(薄雲の姿四オ)を彫り直した本もある(林美一氏蔵)
 この後印板の多さは、それだけ広く読まれた傍証になると思われるが、じつは本作には序文と口絵を彫り直した中本三巻五冊の再刻板も存在する(都立中央図書館本)。幕末期の出来だと推測されるが、改装裏打ちされている上、見返しや刊記を欠くため出板事項は未詳である。口絵には濃淡二色の薄墨が入れられ、本文は内題の「巷談」を削り「坡〓庵」とした板を用いているようであるが、挿絵第六図(巻中三ウ四オ)は薄墨板がないと間が抜けてしまうためか削除されている。新刻された序末には「于時乙丑鶉月仲旬\飯台児山丹花の〓下に\曲亭馬琴誌\松亭金水書」とあるが、この「乙丑」は不可解である。慶応元年ならばすでに馬琴は歿しているし、文化二年なら原板の序より早くなってしまうからである。また、どう見ても馬琴の文体とは考えられず、おそらくは松亭金水の仕業ではないかと思われる。金水はこの時期に『敵討枕石夜話』の再刻本『観音利生記』の序文を書いており、さらに『江都浅草観世音略記』(中本一冊、弘化四年、文渓堂板)を編んだりと、浅草関連の本に手を染めているからである▼35
 『敵討枕石夜話』二巻二冊(文化五年)は、馬琴の中本型読本としては最後の作品となる。序文で『回国雑記』や『江戸名所記』をそのまま引用し、浅草姥が池の一ッ家伝承を紹介している。登場人物たちには「綾瀬」「浅茅」「駒形」などと浅草近辺の地名が与えられている。一方、一ッ家の〈石の枕〉からの連想で『和漢三才図会』に見える常陸国枕石寺の由来を付会している。この寺の回国行者の路銀を奪って殺害した戸五郎が、一旦は栄え、やがて没落するのは座頭殺しに絡む長者没落譚の形式を踏む。海上を進行する船が突然動かなくなり、船底を調べると大きな角が刺さっていたという奇談は、大槻茂賀『六物新志』(天明六年)の「一角」の条や『土佐淵岳志』などを参照したのであろう。馬琴はこの角を殺された回国行者の怨魂が化したものとし、さらに『吾妻鏡』四十一の建長三年三月六日浅草寺に「牛の如き物」が出現したという記事を利用、この「牛の如き物」を〈牛鬼〉とする。この〈牛鬼〉によって戸五郎の妻綾瀬が殺され、娘浅茅は吐きかけられた涎沫により懐胎、五年後に娘駒形を産む。この時夜な夜な牛鬼の吠えた島が「牛島」であるとして、地名由来譚にしているのである。
 その後、浅茅は一ッ家で旅宿を営み、石の枕で旅人を殺して路銀を奪うようになる。ある晩投宿した美少年の身代りになって駒形は石の枕に死す。これを知って怒った浅茅は美少年を追うが池の端で討たれ大蛇と化すが因果を諭され得度する。折よくその場に居合わせた戸五郎は、美少年が自分の殺した回国行者の息子であることを知って討たれる。
 敵討物としては安易な構成であり、筋立も伝承によるところが多いが、展開過程にさまざまの趣向を取り入れており、そこに読者の興味を吸引しようとした作品である。人口に膾炙した題材を用いる場合は、誰しも結末は知っているわけであるから、その改編ぶりにこそ作意が払われるのである。この作品においては、浅草という空間に〈石枕〉と〈牛鬼〉に関する伝承を重ね合わせていく手法が採られている。
 ところで馬琴が『枕石夜話』を執筆したのは文化三年六月からであるが、なぜか途中で筆を折っている。にもかかわらず文化四年になってから慶賀堂上総屋忠助の要求で続きを執筆したのである。この慶賀堂は文化三年刊の半紙本読本『三國一夜物語』(五巻五冊)の板元であったが、売り出して間もない同年三月の大火で板木を焼失してしまったのである。前述の『巷談坡〓庵』が文化三年七月に稿了していたのに文化五年の新板となったのも、こうした事情があったからだと考えられる。
 さらに推測を重ねれば、馬琴の中本型読本の板元の中で、慶賀堂だけが中本型読本を出す以前に半紙本読本の板元になっているので、早くから何か特別な関係があったのかもしれない。また一度筆を折った作品の「嗣録」をしたのも、この板元に対する配慮からであろう。いずれにしても、いま注意したいのは、板元の注文で「嗣録」した『枕石夜話』が文化三年六月に起筆されている点である。つまりこの時点で作品の構想はまとまっていたということになる。ならば馬琴が中本型読本を執筆したのは文化三年の秋までと考えてよいだろう。折しも生活のために続けてきた手習いの師匠をやめているのである。つまり、この時点で初めて江戸読本作家としての見通しがたったということを意味しているのであり、それと同時に中本型読本の筆を執ることもなくなったのである。

柳亭種彦

 柳亭種彦の『情花竒語奴の小まん』前後二編各二巻二冊(文化三〜四年)は、発端部において斜橋道人の中本型読本『近代見聞怪婦録』(享和三年)より狐の敵討の一節を利用し、浄瑠璃『容競出入湊』『津国女夫池』や『とりかえばや物語』、『雨月物語』の「青頭巾」などを使っていることが指摘されている。種彦にとっては読本の初作であるが、構想趣向ともによく練られた佳作である。同じく種彦の『總角物語』二編各二巻二冊(文化五〜六年)は、助六総角の情話を翻案した里見家の御家騒動で、登場人物たちの間に複雑に絡まる因果関係を設けている。この前編の表紙には蒸篭をあしらった意匠を摺り込み、後編では色摺りの色紙型絵題簽に杏葉牡丹(団十郎の替紋)をあしらうなど、表紙の意匠にまで心を配っている。後に草双紙で本領を発揮する種彦であるが、読本においても造本の洗練された美しさに趣味の良さがうかがえる。
 一般に中本型読本は、地味な色の無地表紙に短冊型の文字題簽を貼ったものが多く、おそらくは天理図書館蔵『總角物語』巻末に貼り込まれているような多色摺りを施した絵入りの袋に入れられていたものと思われる。しかし次第に凝った美麗な意匠の表紙が見られるようになる。これも読者層の変化に伴う現象の一つなのである。

小枝 繁

 小枝繁は戯号、通称は露木七郎次、また〓〓(せつり)陳人、絳山樵夫などとも号した人物で、水戸藩の臣、四谷忍原横町に住み城西独醒書屋といった。青山焔〓蔵に住んでいた時期もあったらしく、撃剣に長じ卜筮に詳しいともいう。文政九年八月七日歿、享年六十八歳というが、一説には天保三年四月十九日歿とも。詳しいことは明らかではない▼36
 馬琴や京伝に次ぐ中堅読本作家として活躍し、処女作『復讐竒話繪本東嫩錦』(文化二年)以後十数作の読本を出している。鈴木敏也氏は、未刊に終った読本の自筆稿本序文に「今茲丙申」(天保七年)とあることを紹介し、従前の歿年に疑義を提出している▼37

 当時複数のジャンルにまたがって筆を執る作家が多かった中で、その著述は読本に集中しており、ただ一作の合巻『十人揃(じゆうにんまえ)皿譯續(さらのやきつぎ)(文化九年、西与板▼38を画工北岱の要請にしたがって書いているに過ぎない。
 さて小枝繁が読本を主として書いていたのは、一番知的で格調の高いジャンルであった故でもあろうが、同時に馬琴のように職業作家として潤筆だけで生活していたわけではなかったからである。流行を創り出すような独創的な話題作はなかったものの、比較的堅実に流行に即した作品を残している。書肆にとっては気軽に執筆依頼ができた、重宝な作者の一人であったはずである。
 中国白話小説に対する知識も少なからず持っていたものと思われる。処女作『繪本東嫩錦』は、白話語彙に和訓を振った中国臭の強い生硬な文体で書かれ、「十五貫戯言成巧禍」(『醒世恒言』)の趣向を用いている▼39。この『東嫩錦』が刊行された文化二年といえば、馬琴の半紙本読本の初作『月氷竒縁』が出た年でもあり、江戸読本としては比較的早い時期である。なお、京伝の『安積沼』(享和三年)からの影響の指摘がある▼40。一方『繪本璧落穂』前後編(文化三、五年)では、翻訳のなかった白話小説『金石縁全傳』を翻案して利用しているという▼41
 全著作のうち中本型読本は二作だけで、『於梅粂之助高野薙髪刀(こうやかみそり)』二巻二冊(文化五年)と『愛護復讐神〓伝(しんえんでん)』前後二編五冊(文化五、六年)とがある。これらの中本型読本では比較的平易な文体を用い、あまり中国臭も強くなく肩肘を張った感じはしない。半紙本との格の差や読者層の違いを配慮したものと思われる。
 さて『高野薙髪刀』については、同年同板元から出された『繪本璧落穂』後編の初印本に付された広告に、

於 梅      小枝繁著
   高野薙髪刀 蘭齋北嵩画   中本二冊出来
粂之助      葛飾北斎校

俳優(わさおぎ)になす角額(すみびたい)といへるによりて。新(あらた)に作(つく)りもふけたる物語(ものがたり)にして。一振(ひとふり)の夭劔(ようけん)を冶(きたひ)しよりこと発(おこ)り。仁海(じんかい)が神通(しんつう)。強八(がうはち)雪路(ゆきぢ)が婬悪(いんあく)。牛都(うしいち)が夭祟(たゝり)粂之助(くめのすけ)が孝(かう)。梅児(おむめ)が貞(てい)。等(とう)のこと有枝(いろ/\)有葉(さま%\)にいりくみたる。おもしろき絵入(ゑいり)読本(よみほん)也。

と見える。この紹介からもわかるように、いわゆる高野山心中つまり近松の浄瑠璃『高野山女人堂心中万年草』(宝永五年四月、竹本座)や、その改作『角額嫉蛇柳』(明和八年、豊竹和歌三座上場)を踏まえている。序文で「角額てふ俳優の書をよみはべりしに」と記しているので小枝繁は『角額嫉蛇柳』の方を見ていたようだ。しかし全編は敵討物として結構されており、もちろん心中物ではない。作品全体の世界として人口に膾炙した浄瑠璃を取り込んだのであり、登場人物名や高野山という場所以外は、部分的な趣向(偽筆の手紙など)を借りたに過ぎず、主となる話の筋からいえば、まったく別の作品である。
 零落した武士が家の再興を息子に託すという展開の中で、冒頭部で用意された妖剣の祟りが、家の再興を果たすまでに通過せざるを得ないすべての災禍の原因になるように仕組んでいる。この展開に加える脇筋として、殺された女の怨恨が小蛇となり敵の男に纏わり付くという、いわゆる蛇道心説話を用いている。この話は『因果物語』などに見られる唱道話材として流布していた仏教怪異説話で、千代春道の中本型読本『復讐竒談東雲草紙(しののめそうし)(文化五年)や、式亭三馬の半紙本読本『流轉數囘阿古義物語』(文化七年)にも用いられている。そして結末では、この脇筋も主筋の敵討に合流して大団円となるのである。
 このように芝居の世界を骨格として用い、主筋と脇筋を巧みに絡めていく創作方法は近世後期小説の常套手段であるが、次第に多くの筋をより複雑に混合して創作されるようになるのである。
 なお、本書を「北斎画\曲亭馬琴編述」と改竄し、半紙本五冊に分冊した改題改修本『於梅粂之助花雪吹高嶺復讐』(外題は『於梅粂之助繪本花雪吹』)がある。小枝繁の作風が馬琴に似ていることもあるが、挿絵も北斎門人の筆なので、馬琴北斎という江戸読本の黄金コンビの作とするには、大変に都合がよかったのであろう。しかし改竄本が出されたということは、それだけの商品価値を持っていたということであり、おそらくこの作品に対する板元の判断を示唆しているものと思われる。
 『愛護復讐神〓伝』の方は、説経をはじめとする「愛護若」ものの翻案であるが、八文字屋本『愛護初冠女筆始』(享保二十年)を利用し、また人面瘡を趣向とするなど伝奇性に富んだ作品。中本型読本としては長い部類に属するが構成上の破綻もなく完成度の高い作品である。

一溪庵市井

 一溪庵市井という人物については、残念ながら何一つわかっていない。『国書総目録』では一溪庵を感和亭鬼武の別号として挙げているが根拠は未詳。おそらく別人だと思われるが、実体の解明については後考を俟ちたい。文化年間に入り、次第に流行してきた江戸読本は、一溪庵の中本型読本『復讐竒談七里濱』三巻三冊(以下『七里濱』)が出板された文化五年に出板点数の上では頂点を迎える。中本型読本においても事情は同じ。主要な読本作家のほぼ全員がこの年に中本型読本を刊行しているのである。ただ山東京伝だけは、楚満人遺稿という合巻風の中本型読本『杣物語僊家花(そまものがたりせんかのはな)(文化五年)の序文を書いているに過ぎない。一流作家としての誇りの故か中本型読本は一つも書いていないのである。
 ところで『七里濱』の初板本を見ると、大層効果的に薄墨板が使われた挿絵に目が惹かれる。ほかの中本型読本にも薄墨板を用いたものがないわけではない。しかし『七里濱』では表紙に色摺りを施して貝殻の意匠の貼題簽を用いるなど、かなり造本に意匠が凝らされているのである。その上『七里濱』の改題改修本『島川太平犬神物語』(文化六年)には、表紙に大きな色摺りの合巻風絵題簽が施された本がある。『七里濱』の刊行後わずか一年足らずで板元が変わり、改題改修されていたのである。後印本の常として序跋類や挿絵の薄墨板は省かれてしまっている。
 このような改変は、制度上は書物問屋しか出板することができない読本(中本型読本)を、地本問屋が出すために行なった偽装工作ではないかと考えられる。とくに文化六年頃にまとめて数点の中本型読本を求板し、合巻風に仕立て直して改題改修本を出したのは、貸本屋から出発して後に書物問屋になった雙鶴堂鶴屋金助であった。『名目集』によれば、鶴屋金助が地本問屋になったのが文化五年六月であり、面白いことに、これらの改題本の出板と時期を同じくしているのである。同様の改題改修本は、鬼武の中本型読本三作をはじめとして全部で六種類ほど確認できる。おそらく中本型読本の読者層が次第に拡大し、合巻の読者にまで及んだということであろう。同時に女性読者の獲得を意図した板元の販売戦略だともいい得るのである。
 一方、自序に、

余生業の暇に書を好む。一日、本草綱目を読みて、番木鼈の条下に至る。此草や獣を殺すの毒あり。就中く能く狗を毒し死に至らしむ。茲に於て忽ち一奇事を案得して、島川礒貝両士の是非と与に復讐の一事を著す。

とあるように、内容的にはいわゆる「御堂前の仇討」の世界を取り込んだもの。実説かどうかは不明ながら、貞享元年二月八日阿波徳島の藩士島川太兵衛が礒貝実右衛門を殺害し出奔、貞享四年六月三日御堂前にて礒貝兵左衛門等に討たれたという事件である。早くから芸能化されており、浄瑠璃『敵討御未刻太鼓』(長谷川千四、享保十二年)や、この改作『御堂前菖蒲帷子』(菅専助、安永七年)などがある。また歌舞伎では『郭公合宿話』(享和二年四月、河原崎座)や、『初紅葉二木仇討』(文化三年七月、中村座)に仕組まれている。とくに、この文化三年の上演が好評であったものと思われ、式亭三馬は合巻『御堂詣未刻太鼓』(文化四年春三月稿文化五年)を出している。
 このように『七里濱』が出板される前に、いくつもの「御堂前の仇討」の世界を扱う先行作がある。ところが直接的に典拠となった作品を特定できない。その上肝心の敵討の場所を御堂前ではなく七里浜に変え、題名も「御堂前」ではなく「七里浜」としているのである。このように舞台を上方から関東に移したのは、おそらく江戸の読者を意識したからに相違ない。
 人物名などは芝居の世界としての約束事に従いつつも、序文に見えているように趣向として〈犬神の妖術〉と〈唐猫の香器〉とを設定している。さらに阿波国の御家騒動であることから、広く四国地方に伝承されていた民譚「犬神憑き」を付会したのかもしれない。
 作者の実態は不明ながらも敵討に際して女の犠牲死を用意するなど、全体の説話的構成も整っており、敵討物としてはよく仕組まれた作品である。また部分的な趣向にも和漢の説話が工夫を凝らされて配置されており、作者の教養がうかがい知れる作品である。

六樹園ほか

 六樹園の『天羽衣』二巻二冊(文化五年)は、この時期には珍しく敵討物ではない。作者の浪漫的嗜好を反映した雅文体で記述されており、謡曲『羽衣』を踏まえて中国白話小説『醒世恒言』の「両縣令競義娘孤女」や「陳多寿生死夫婦」を翻案したものである。なお六樹園は同年の合巻『敵討記乎汝(かたきうちおぼえたかうぬ)』で敵討物のパロディを試みている。
 神屋蓬洲は、挿絵はもとより筆耕彫工まで一人でやってのけた器用な人物で、中本型読本には『復讐十三七月(はつかのつき)』三巻三冊(文化五年)と『敲氷茶話龍孫戛玉(たけのともずり)』二巻二冊(文化六年)がある。趣向挿絵共凝った作品であるが、惜しいことに二作とも未完である。
 盛田小塩の『復讐竒怪完義武逸談』三巻三冊(文化四年)は前半部で『奇異雑談集』巻一の四「古堂の天井に女を磔にかけおくこと」を丸取りした敵討物である▼42。いずれにしても、奇談の一つを敵討の枠組として取り込んだ単純な構成の作品である。
 千世蔭山人(盛田小塩)の『因縁竒談近世風説柳可美』二巻三冊(文化四年)は京都の遊女美和の発心譚。節亭山人『繪本復讐放家僧』三巻四冊(文化三年)は際どい描写を含む男色物。岡田玉山の『阿也可之譚』(文化三年)は口絵挿絵に多色摺りを施した綺麗な本だが、信田妻の筋に依拠したもの。
 いま列挙した『完義武逸談』以下の四作の匡郭は、ほぼ中本型読本の大きさであるが、紙型がやや大きく中本と半紙本の中間ほどの大きさである。『柳可美』以外は上方の書肆より出されたものなので江戸読本とはいえないが、前述した一九の『天橋立』も岐阜の書肆の手になる後印本はやはりこの中間型であった。
 一方、馬琴の『敵討裏見葛葉』五巻五冊(文化四年)や種彦の『阿波之鳴門』五巻五冊(文化五年)をはじめとして、手塚兎月の『小説竒談夢裡往事』四巻四冊(文化五年)、千鶴庵万亀の『かたきうちくわいだん久智埜石文』三巻三冊(文化五年)、高井蘭山の『復讐竒話那智の白糸』五巻五冊(文化五年)、蓬洲の『復讐雙三弦』三巻五冊(文化九年)、東里山人の『山陽奇談千代物語』二編十冊(文政十年)、一九の『名勇發功譚』五巻五冊(文政十一年)、滄海堂主人の『復讐野路の玉川』二編九冊(天保七年)などは半紙本より少し小さい匡郭を持ちながら、中間型の紙型で出されている。これらの〈中間型読本〉は単に紙の大きさの規格の相違から生まれたものかもしれないが、前述のごとく中本型読本とも傾向を異にする作品が含まれており、一応別に扱った方がよさそうである。一見したところでは上方板にこの様式が多い。なお明らかに初印時より半紙本に摺られた中本型読本もあり、これは貸本屋向きに作られたものと考えられる。
 文化期の半ばには草双紙に近い様式の中本型読本が見られ、同時に中本型読本並の格調を備えた草双紙も出現する。これらは中本型読本の読者層の広がりを反映したもので、流行に従って大衆化し、それに見合う形での造本上の変化なのであった。

  四 後期の中本型読本

 文化期の末には中本型読本はほとんど見られない。所見本は半紙本仕立ての後印本であったが、文松庵金文の『忠臣烈女東鑑操物語』五巻五冊(文化十年)は東北の阿曾沼での御家騒動を骨子とし、犬の報恩譚や狐の怪異などの伝奇的要素を取り込んだもの。発端部の「筒井筒」では『伊勢物語』を利かせ、その二人が結末「結赤縄」で結ばれるといった恋愛小説風の構成を持っている。
 文政期に入ると狐郭亭主人の『薄雲伝竒郭物語』五巻五冊(文政二年)がある。この作品は妖獣退治に始まり破戒僧の妖術、薄雲の猫の怪異、女の亡霊と多くの猟奇的趣向が散りばめられ、総角助六の情話が利用された敵討物である。この文政初年には人情本の濫觴とされている一九の『清談峯初花』前編や瀧亭鯉丈の『明烏後正夢』初編が出板されている。
 一九の『遠の白浪』三巻三冊(文政五年)は、「一本駄右衛門東海横行記」(見返し)とあるように白浪物。東里山人の『夢の浮世白璧草紙』二編六冊(文政七年)は「契情白璧が事跡」(序)を扱ったもの。やや横幅の広い紙型を用い、匡郭を双柱にしている。目録の体裁や会話文の導入、句読点を用いない表記法などに人情本的要素が見られる。
 東西庵南北こと板木師朝倉力蔵の『江戸自慢翻町育(二人藝者一對男)』三巻五冊(文政十一年)は、中本型読本から人情本への過程を端的に示す演劇趣味の強い作品で、色模様をも含むが、基本的には「観善徴悪をさとす」(叙)敵討物である。『糸桜本朝育』の世界を取り込み、地の文で筋を進行しながら会話体を導入し、全文ではないが次のように正本風にしている。

おりしもとなりざしきのかげしばゐのせりふは菊之丞と団十郎[菊]人の心とあすか川きなふのふちもけふの瀬とかわらさんすはどのごのつね[団]こよいしゆびしてあふたも人のせわ……[菊]かならずまつてゐさんせや大ぜいにてほめるはま/\成田屋引
【佐】あのせりふのとふり金といふやつにはかなはねヱの【糸】それも女によりけりサ〇

隣室より聞こえる声色(「鰻谷」菊之丞と団十郎の見立て)を利用している。おもいれ「〇」や「此所ぶんまはしにて」などとあり、さらに義太夫まで使って趣向としている。この徹底した演劇趣味は草双紙や人情本の読者を意識したものであろうか。当時の風俗流行への言及や濡れ場の描写、妻妾同居の結末などは人情本を思わせる。また改題後印本『江戸紫恋の糸巻』の存在は、当時の読者に好評だったことを物語っているだろう。なお所見本は半紙本であったが、改題後印本は中本で出されている。
 一方、人情本の元祖為永春水の『武陵埜夜話』三巻三冊(文政十一年)は匡郭を取り払った人情本風の造本ではあるが、色模様のない敵討物で、会話文を導入し愁嘆場を強調した作品である▼43。同じく『小説坂東水滸傳』前後二編各三巻三冊(文政十三〜十四年)は一名「千葉系譜星月録」とあり、千葉家の御家騒動を「星塚佐七、星合於仙、星井志津馬、星野正作、星川主水、星影利光、星石賢吾」の七人の活躍で解決するという構想の『八犬傳』模倣作である。
 以上見てきたように文化期末から文政期に出板された中本型読本には、人情本への過渡的な内容様式を持った作品が多い。が、反面半紙本の史伝物を指向する作品も見られる。またこの時期の人情本にも中本型読本的な伝奇性を残した作品も多く、厳密な意味でのジャンル分けは困難であろう。つまりこの時期もまた過渡期であり、狂蝶子文麿の半紙本読本『五大力後日物語』五巻五冊(文化十一年)が口絵挿絵を除いた本文で中本大の匡郭を用いているように、その試行錯誤が中本型読本を通して試みられたのであった。




▼1.中村幸彦「人情本と中本型読本」(『中村幸彦著述集』五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九五六年)
▼2.木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八年)
▼3.横山邦治「中本もの書目年表稿」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、一九七四年、初出は一九七〇年)
▼4.水谷不倒『古版小説挿絵史』(『水谷不倒著作集』五巻、中央公論社、一九七三年、初出は一九三五年)
▼5.画工は記されていないが、向井信夫氏は勝川春英の筆かと推測する。
▼6.鈴木敏也「「敵討連理橘」の素材を繞つて」(藤村博士功績記念会編『近世文學の研究』、至文堂、一九三六年)
▼7.内田保廣「馬琴と権八小紫」(「近世文芸」二十九号、日本近世文学会、一九七八年六月)
▼8.本書第二章第四節参照。
▼9.横山邦治「初期中本ものと一九の中本もの―その実録的性格について―」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、一九七四年)
▼10.棚橋正博「振鷺亭論」(「近世文芸研究と評論」十一号、研究と評論の会、一九七六年)
▼11.水谷不倒『選択古書解題』(『水谷不倒著作集』七巻、中央公論社、一九七四年、初出は一九二七年)
暉峻康隆『江戸文學辭典』(冨山房、一九四〇年)では、『通俗赤縄奇縁』を挙げている。
▼12.日野龍夫「解題」(『近世白話小説翻訳集』二巻、汲古書院、一九八四年)
▼13.徳田武「『曲亭伝奇花釵児』と「玉掻頭伝奇」」(『日本近世小説と中国小説』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九七八年)、同「解説」(新日本古典文学大系『繁野話・曲亭伝奇花釵児・催馬楽奇談・鳥辺山調綫』、岩波書店、一九九二年)
▼14.八文舎自笑『役者綱目』(『歌舞伎叢書』第一輯、金港堂、一九一〇年)
▼15.複製本に『唐土奇談』(内藤虎次郎解説、更生閣、一九二九年)がある。
▼16.石崎又造『近世日本に於ける支那俗語文學史』(弘文堂書房、一九四〇年)
▼17.尾崎久彌「馬琴初期の芝居好」(『近世庶民文学論考』、中央公論社、一九六五年、初出は一九五〇年)
▼18.義輝の顔は沢村源之助の似顔である旨、向井信夫氏より教示を得た。
▼19.麻生磯次『江戸文学と中国文学』(三省堂、一九四六年)
▼20.水野稔「馬琴の短編合巻」(『江戸小説論叢』、中央公論社、一九七四年、初出は一九六一年)
▼21.向井信夫「十返舎一九滑稽もの5種」解題(近世風俗研究會、一九六七年)
▼22.鈴木俊幸「寛政期の鬼武」(「近世文芸」四十四号、日本近世文学会、一九八六年六月)
▼23.三田村鳶魚「『有喜世物真似旧観帖』解題」(『三田村鳶魚全集』廿二巻、中央公論社、一九七六年、初出は一九三六年)
▼24.本書第四章第五節参照。
▼25.向井信夫氏の教示による。
▼26.『古今吉原大全』(『洒落本大成』四巻、中央公論社、一九七九年)
なお、後に『古今青楼噺之画有多』(安永九年)に絵を加えて抄録されている。
▼27.後藤丹治『太平記の研究』(河出書房、一九三八年)
▼28.向井信夫「書廚雑記(五)(『続日本随筆大成』五巻付録、吉川弘文館、一九八〇年)
▼29.長友千代治『近世小説稿本集』(天理図書館善本叢書65、八木書店、一九八三年)
▼30.伴蒿蹊『閑田耕筆』(『日本随筆大成』一期十八巻、吉川弘文館、一九七六年)
ずっと後だが、松亭金水の『積翠閑話』や暁鐘成の『雲錦随筆』にも見えている。
▼31.徳田武「『八犬伝』と家斉時代」(『日本近世小説と中国小説』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九八一年)
ただ典拠としては、むしろ馬琴の合巻『鳥篭山鸚鵡助劔』(文化九年)の方が一致点が多い。また、この趣向は改題本が広く流布していた『語園』(寛永四年)下、「鸚鵡賊を告事」にも出ている。
▼32.中村幸彦「読本発生に関する諸問題」(『中村幸彦著述集』五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九四八年)
▼33.後藤丹治「解説」(日本古典文学大系60『椿説弓張月』上巻、岩波書店、一九五八年)
▼34.大高洋司「湛湛青天不可欺―『新累解脱物語』解題正誤―」(「いずみ通信」十一、和泉書院、一九八八年十月)
▼35.本書第二章第三節参照。
▼36.菩提寺であるという市ヶ谷薬王寺に出掛けてみたのだが墓石は見当らなかった。寺側の協力が得られず、それ以上の調査はできなかった。
▼37.鈴木敏也「「南枝梅薫九猫士傳」解説」(『秋成と馬琴』、丁子屋書店、一九四八年)
▼38.なお本作中主人公の名「きく(菊)」が「さく」と細工して直されている点について、鈴木重三氏は「校合本は語る―「おきく」と「おさく」―」(「書誌学月報」三十八号、青裳堂書店、一九八八年)で、所蔵の自筆校合本を図示し、菊千代君の生誕に伴う「菊禁」の一件と、序の年記「辛未」が「壬申」に直されていることなどを紹介している。馬琴の『松浦佐用媛石魂録』で「秋布」の名を「菊」にできなかったことや、瀬川菊之丞が路考と名乗ったのも同様の理由によるものであろう。
▼39.横山邦治『讀本の研究―江戸と上方と―』(風間書房、一九七四年)
▼40.鈴木敏也「小枝繁の処女作から京伝を眺める」(「国文学攷」二巻一輯、広島大学国語国文学会、一九八六年)
▼41.徳田武「『金石縁全伝』と馬琴・小枝繁」(『日本近世小説と中国小説』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九八六年)
▼42.向井信夫氏の教示。同じ話は『諸国百物語』巻二の五「六端の源七ま男せし女をたすけたる事」にもある。
▼43.向井信夫「人情本寸見(二)(「書誌学月報」二十五号、青裳堂書店、一九八六年三月)に解題が備わり、延広真治氏の手によって水野稔編『近世文芸論叢』(明治書院、一九九二年)に翻刻されている。



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