『江戸読本の研究』第一章 江戸読本の形成

第一節 江戸読本の板元 −貸本屋の出板をめぐって−
高 木  元

  一 『出像稗史・外題鑑』

 江戸読本の初作は山東京伝の『忠臣水滸傳』(寛政十一年)であるといわれている。『水滸傳』と『仮名手本忠臣蔵』とを撮合した新奇な内容や、白話語彙に傍訓を振った生硬な文体、さらには半紙本で繍像を持つという造本様式から見ても、前期に上方で出来した短編怪談奇談集としての読本とは一線を画す作品であった。
 これから紹介する『出像稗史(ゑいりよみほん)・外題鑑(げだいかゞみ)(以下『外題鑑』)は、江戸読本のカタログとでもいうべきものであるが、やはり冒頭に『忠臣水滸傳』を据えている。両面摺りの一枚物(縦三十糎×横四十二糎ほど)で、『忠臣水滸傳』以降文化末年頃までに刊行された百種ほどの江戸読本の外題と冊数と作者画工とを挙げて、簡単にその内容を紹介したものである。板行年の記載は見当たらないが、おそらく文化末年頃のものと推測される。表面標題の下に、

汗牛といはんは猶すこしきなり一日文溪堂主人 予が草扉をとふて近世發市の小説の外題鑑をゑらましむかたくいなめどゆるさずやう/\筆をとれは寛政の末享和の間いま文化十をあまりにかぞへて其小説百有餘部かばかり行はるゝこと古に聞ず後世にあるべきかはこれが為に市紙の價むかしに倍す井蛙の管見をもて細改にいたらず麁漏の罪はゆるし給へ上方の絵本をゑらむの日後編にくわしくすべし
一楊軒玉山撰

とある▼1。裏面の末尾には、「右にもれたる草紙且は京大坂のしん板等後編にゑらみ増補仕候左様に御覧奉願上候以上」と後編が予告され、その下に刊記が記されている。

     蔦屋重三郎   大坂    塩屋長兵衛
東都書賈 丸屋文右衛門  江戸小傳馬町三丁目
     鶴屋金助         丁子屋平兵衛

 つまり、この『外題鑑』を中心になって板行したのは、当時まだ貸本屋であった文溪堂丁子屋平兵衛であった。また出板の目的について、

右にあらはす外題はよみ本を翫ひ給ふ・ひめ・との・たちの為に備ふれば出来の巧拙甲乙をわくるにあらず只その数の荒増を挙て次第の順は思ひいだせるまゝにしるせば必しも論し給ふな何の本を今一度よまんとおぼす時の便とするのみ

とある。読本は草双紙と違って庶民が簡単に買えるほど安価な本ではなかったから、販売広告というよりは、主として貸本屋の客に対する案内であると同時に、貸本屋の品揃えのための手引きや在庫目録としても使われたものと考えられるのである。読本読者の大部分が貸本屋の客であったことを考えれば当然であろう。また、

左に記したるは中形のよみ本也但仇討等の冊子は限りあらず故に・式亭主人・十返舎主人・振鷺亭主人の滑稽本のみを畧記す

とあるように、刊記の右側に二十八作の滑稽本を列挙している▼2。さらに、中本型読本や上方出来の読本は後編で扱うと予告されているが、その後編は管見には入っていない▼3
 さてここで注意したいのは、この『外題鑑』に登載された読本の選択基準についてである。江戸読本という用語こそ用いていないが、明らかに江戸作者の手になり江戸書肆が板元となった作品を撰んだものなのである▼4。つまり、ここに掲載されている読本を丁寧に分析すれば、江戸読本の形成期をめぐる作者や画工のみならず、筆耕や彫工、さらには板元と貸本屋との相互関係など、さまざまな出板事情が解明できるはずである。
 幸いなことに、江戸読本の出板記録として『画入讀本・外題作者畫工書肆名目集』(以下『名目集』)が残され、文化四〜九年頃までの様子がわかる。さらに『享保以後江戸出版目録』(以下『割印帖』)につけば、開板出願書肆名などが判明する▼5。現存する江戸の出板関係資料が比較的少ない中にあって、文化期の読本に限っては恵まれた環境である。ところが肝心の江戸読本の初板本に関する書誌調査は、まだなされていないようである。そこで、とりあえず『外題鑑』に登載されている本について、可能な限り網羅的な書誌調査を試みた結果、ほぼ初板に関する出板事項は把握できたものと思う▼6

  二 江戸読本の概観

 以下、文化期の江戸読本についての概観をまとめておくことにしたい。
 まず『外題鑑』に登載されている作品の中で、別枠に掲げられている滑稽本と、『歌舞伎年代記』および『膝栗毛』の二作とは、ともに江戸読本と称するには不適当なので、一応除外して考えることにした。また同じ題名の作品が二編三編と続いている場合や、前後編が時間的に隔たって刊行された場合、これらを同じ作品として一つに勘定する場合は<種>を用い、編毎に刊行数を別々に数える場合には<点>を用いることにする。こうして登載されている江戸読本の数を勘定してみると、全部で九十三種百十一点ということになる。
 そこで、まず年次ごとの刊行数をグラフにしてみた(一種につき■一個。□は後編や二、三編目を表わしている)

                      ■ 寛政十一(一七九九)年
                        寛政十二(一八〇〇)年
                      □ 享 和 元(一八〇一)年
                        享 和 二(一八〇二)年
                    ■■■ 享 和 三(一八〇三)年
                    □■■ 文 化 元(一八〇四)年
                □■■■■■■ 文 化 二(一八〇五)年
              ■■■■■■■■■ 文 化 三(一八〇六)年
               □□■■■■■■ 文 化 四(一八〇七)年
□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 文 化 五(一八〇八)年
    ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 文 化 六(一八〇九)年
             □□□■■■■■■■ 文 化 七(一八一〇)年
                   □■■■ 文 化 八(一八一一)年
                ■■■■■■■ 文 化 九(一八一二)年
                   ■■■■ 文 化 十(一八一三)年
                     □■ 文化十一(一八一四)年
                  □■■■■ 文化十二(一八一五)年
                     □■ 文化十三(一八一六)年
                     □□ 文化十四(一八一七)年

 ここに見られる推移は、上方読本や中本型読本を含めた読本全体の総出板部数の推移と、ほぼ同様の変化を示していると思われる。
 寛政末から漸増して文化五年に頂点を迎え、その後は漸次減っていく。そして文化十一年に『南總里見八犬傳』肇輯、翌十二年に『朝夷巡嶋記』初編が発刊されると、次第に長編続きものが流行し、文政天保期には江戸読本の主流は長編読本になってしまうのである。
 さて江戸読本の定義の一つの要件として、江戸書肆が発刊したものとしたが、相板元として上方の本屋の参加も見られる。大坂三十三点、京都十点、名古屋二点という具合で、とくに目立つのが大坂の文金堂河内屋太助の十七点である。馬琴の初作『月氷竒縁』を出した縁からか、とりわけ馬琴の作品には深く関わっており六点の蔵板元にもなっている。そのほか、勝尾屋六兵衛や、大野木市兵衛、植村藤右衛門等も多くに参加して相板元となっているが、蔵板元となっているのは河内屋太助だけである。もちろん江戸読本であるから単独で出したものは一点も見られないが、いち早く江戸の書肆と連携している点に注意が惹かれる。
 なお「三都板」と明記するものも二点あるが、文政以降の再板や求板になると三都板のみならず、尾張名古屋を加えた四都板なども、別段珍しいものではなくなる。
 ここで作者について見ることにしよう。『外題鑑』に登載されている著作数の多い順に挙げてみる。

 曲亭馬琴 三十種 三十七点
 山東京伝  十種  十一点
 小枝繁   九種  十三点
 柳亭種彦  六種   六点
 高井蘭山  四種   七点
 振鷺亭主人 四種   四点
 談洲樓焉馬 三種   三点
 芍薬亭長根 三種   三点
 梅暮里谷峨 三種   三点
 六樹園   二種   二点
 山東京山  二種   二点
 感和亭鬼武 一種   二点(ほかに「鬼武校」が一種)

 このほかにも、無名で実体の不明な作者たちのものが十種ほどある。
 馬琴が生涯に書いた読本は全部で四十種あるが、そのうちの中本型読本八作と『外題鑑』刊行後に出された二種を除いた三十種三十七点がここに載っている(馬琴校も一種ある)。一方、山東京伝の方は、江戸読本と呼ぶには躊躇させられる『図画・通俗大聖傳』(寛政二年)を除いた十種十一点が登載されている。二人の作品を合わせると、実に四十種四十八点にのぼる。つまり文化期における江戸読本出板点数のうち、馬琴だけで約三分の一、京伝と合わせると、全体のほぼ半数弱に達することになるのである。
 この半数弱という数量は全体に占める割合としては確かに多い。だが残り半分は、ほかの作者の作品なのである。彼らは所詮二流作家たちではあるが、だからといって駄作ばかりとはいえない。それどころか、これらの多様な作者による作品を抜きにして、江戸読本の全体像を把握するのは不可能であろう。換言すれば、これら二流の読本作者たちが生み出した作品に関する研究なくしては、江戸読本の全体像を見通すことはできないと思われるのである。
 一方、画工についても同様に一覧にしてみよう。

 葛飾北斎 二十八種 三十八点
 蹄斎北馬  十五種  十九点
 一陽斎豊国 十三種  十三点
 一柳斎豊広 十一種  十三点
 北尾重政   四種   五点
 蘭斎北嵩   四種   四点
 柳川重信   二種   三点
 勝川春亭   二種   二点
 盈斎北岱   二種   二点
 歌川国直   一種   二点

 右の表から察知できるように、圧倒的に北斎の描いた作品が多い▼7。また、北斎一門の関わる割合は五割を越すのである。読本よりは草双紙向きの似顔をよくした豊国や、敵討物の名手といわれた豊広も意外に多い。
 江戸読本の初期作『繪本三國妖婦傳』や『繪本加々見山列女功』などは、実録写本に見られる「〜事」という箇条書きの目録を持ち、この体裁の顕著な特徴から見て、上方の絵本読本と様式上で深い関係を持っていると思われる。また江戸読本の中でも『ゑ入櫻ひめ』や『繪入つね世物語』のように、外題に「絵入」を標榜するものが多い。さらに、見返しや広告などでは「繪入読本」という用語によって江戸読本を指す用例が次第に増えてくる。
 つまり、江戸読本における挿絵は単なる添えものではなく、題名に標榜するくらいに、その魅力の重要な一端を積極的に担っていたのである。草双紙より大きな紙面に、迫力ある構図を嵌め込み、さらに薄墨や艶墨を施して絵自体としても大層興趣あるものとなった。これは北斎およびその門下の手柄であった。上方の絵本物と比較すればその違いは一目瞭然であるが、江戸の読者の嗜好を反映して丁寧に描き込まれた伝奇的な酸臭の強い絵柄が多い。さらに現代における江戸読本の魅力も、おそらくこれらの挿絵がなければ半減してしまうはずである。
 なお、当時の画工たちは作者の描く下絵に基づいて筆を執ったのであるから、挿絵にも作者の意志が少なからず反映していると見て間違いない。ただ、丁寧に自筆稿本や校合本と比較してみると、時には画工が作者の指示や本文を無視して勝手に描いてしまうこともあったようである。
 ところで、江戸読本の看板ともいうべき馬琴と北斎の組み合せによって出された作品は十一種十八点ある。とくに『椿説弓張月』の成功が両者の名声を共に高めたものと思われる。他方、京伝は豊国との組み合せが多く六種六点ある。こちらの組み合せは草双紙合巻の看板となったもので、京伝合巻の大半を豊国が描いている。
 ところが、なぜか京伝と北斎の組み合せは一つも見られないのである。いま一つ目に付くのは、馬琴と豊広の組み合せで九種十一点ある。豊広はこのほかには京伝と京山の各一作を手掛けただけであるから、いかに馬琴作の比重が重いかが知れよう。
 さて、多くの江戸読本に目を曝していると、無意識のうちに特定の作者の作風と一定の画工の画風とが結び付き、漠然としたイメージとして頭に残っていることが多い。とくに似た筋立の多い江戸読本の作品内容の記憶は、挿絵の図柄や雰囲気に依拠する部分が大きいのである。おそらく過去の大勢の読者たちの場合も同じだったはずである。右の統計は、その印象を数値化したものだといってよいだろう。

  三 江戸読本の板元

 ここでは初板の刊行に関与した板元についてだけ考えてみたい。
 まず江戸読本の刊記を縦覧していくと、鶴屋喜右衛門と角丸屋甚助を除いて、単独で刊行されているものは意外に少ないことに気付く。次に刊記と蔵板および開板出願書肆の関係に注目すると、必ずしも開板申請をした書肆が蔵板元となっていないことに気付く▼8
 そこで刊記に記されたすべての書肆の名寄せをし、刊記に出てくる頻度と蔵板の点数を調べて整理したのが次に示した表である。なお配列は蔵板元になっている作品の点数が多い順にし、これが同じ場合は刊記に現われる回数の多い順とした。つまり実質的に江戸読本の刊行に関わった度合の強い順に並べたのである。
 また、『名目集』の巻末に付されている名前一覧(文化五年五月から文化六年二月頃に記録されたもの)を参照して、それぞれの書肆の渡世についても調べてみた。◎「江戸三組書物問屋名前」(通油組二十六人仲通組十二人南組二十三人)

●「貸本屋世利本渡世の者にて手広にいたし候者名前」(十八人)
〇「町々貸本屋世話役名前」(三十三人、十二組凡i1E69i六百五十六人)
△「地本問屋名前」(二十四人)

 堂号と書肆名の間に付けた右の記号で渡世を表わし、不明の場合は無印、名古屋を含む上方の書肆には×を付けた。
 たとえば、一番最初の「衆星閣◎〇角丸屋甚助」は、渡世としては◎書物問屋と〇貸本屋世話役を兼ねており、十三点の江戸読本に蔵板元と明示され、さらに二十三点の作品の刊記にその名が記され(蔵板元になっている本を含む)、そのうち十七点の開板出願をしているのである。

 堂号 渡世 書肆名   蔵板  刊記  出願
 衆星閣◎〇角丸屋甚助  十三 二十三 十七
 僊鶴堂◎△鶴屋喜右エ門 十三  十七 十五
 山青堂〇●山崎平八    十  十一
 文金堂 ×河内屋太助   九  十八  一
 平林堂〇●平林庄五郎   九  十一
 木蘭堂 ●榎本惣右衛門  八   八
 同 右〇 榎本平吉   〔八   八 〕
 桂林堂 ●石渡利助    六   八
 平川館〇●伊勢屋忠右衛門 四   九
 螢雪堂〇 三河屋〓兵衛  四   四
 耕文堂  伊勢屋忠右衛門 三   三
 耕書堂◎△蔦屋重三郎   三   五
 慶賀堂 ●上總屋忠助   三   三
 雄飛閣 ●田邊屋太兵衛  三   三
 雙鶴堂△●鶴屋金助    二   八
 柏榮堂〇●柏屋半蔵    二   六
 鳳来堂 ●住吉屋政五郎  二   五
 柏新堂 ●柏屋清兵衛   二   四
 玉泉堂〇●大和屋文六   二   三
 永壽堂◎△西村與八    二   三  二
 文溪堂〇 丁子屋平兵衛  二   二
 咬菜堂〇●伊勢屋治右エ門 二   二
 文亀堂 △伊賀屋勘右衛門 二   二
 宇多閣 ●本屋儀兵衛   二   二
 逍遥堂◎ 若林清兵衛   一  十一 十一
 盛文堂◎ 前川弥兵衛   一   六  三
 樂養堂  大坂屋茂吉   一   三
 史籍堂  關口平右衛門  一   三
 柏悦堂 ●柏屋忠七    一   三
 蘭秀堂  篠屋徳兵衛   一   二
 龍池閣  中村屋久蔵   一   二
 群書堂  石渡佐助    一   一
 松茂堂 △濱松屋幸助   一   一
 松涛館  中村藤六    一   一
 昌雅堂  中川新七    一   一
 瑞玉堂◎ 大和田安兵衛  一   一  一
 榮山堂  丸山佐兵衛   一   一
 文栄堂 ×河内屋嘉七   一   一
 連玉堂  加賀屋源助   一   一
 北林堂◎ 西宮彌兵衛      十三 十三
 文刻堂◎△西村源六        十  十
 慶壽堂◎ 松本平助        七  七
     ×勝尾屋六兵衛      七
     ×植村藤右エ門      六
 層山堂◎ 西村宗七        五  四
     ×大野木市兵衛      四
 崇高堂 ×河内屋八兵衛      三
 泰山堂◎ 竹川藤兵衛       三  三
      大和屋伊助       二
 申椒堂◎ 須原屋市兵衛      二  二
 栄邑堂◎△村田屋次郎兵衛     二  一
 東壁堂 ×永樂屋東四郎         二

   *以下一点の刊記にだけ見られる書肆が三十九あるが、ここでは取り上げないことにする。
 また蔵板が二書肆にわたる場合や、相板の場合も重複して勘定してある。

 一口に初板の刊行に関与した板元といっても、開板出願元と蔵板元、さらには相板元との間には明確な相違があるようだ。つまり右の表から次の指摘ができるのである。
 まず、開板申請は書物問屋からしか行なわれていないこと▼9、そしてその書物問屋の中には、出願をして相板元として刊記に名を連ねていながら、蔵板数の少ない書肆が目に付くことである。すなわち、表の末尾の方にあり◎の付いている西宮彌兵衛、西村源六、松本平助、西村宗七、竹川藤兵衛、須原屋市兵衛、村田屋次郎兵衛の蔵板はない。このほか、若林清兵衛や前川弥兵衛、大和田安兵衛も蔵板は一点しかない。彼らは書物問屋として開板出願をしても刊記に名を連ねただけで、蔵板元としては明示されていない場合が多いのである。つまり『割印帖』に記された板元とは、江戸読本の出板に書物問屋が携わったという書類上の記録であり、実質的な板元は、刊行された本に蔵板元と記されている方なのである。
 この蔵板元とは、出板経費の大半を出資して板株を所有している書肆のことである。ならば多額の先行投資を必要とした新作企画について、資金調達はもちろんのこと、流行や読者の要求を充分に検討した上で、どの作家に稿本を依頼し、どの画工に挿絵を描かせるかなどという、出板に関わる具体的な企画や人選や資金調達などをしたのは、ほかでもない蔵板元自身であったはずである。
 このように考えた上で、いま一度、先の一覧表の冒頭の方に挙げた、数多くの江戸読本の蔵板元になっている板元(山崎平八、平林庄五郎、榎本惣右衛門、榎本平吉、石渡利助、伊勢屋忠右衛門、三河屋〓兵衛、上總屋忠助、田邊屋太兵衛等)の渡世を見ると、「●貸本屋世利本渡世の者にて手広にいたし候者」、それも「〇町々貸本屋世話役」が、その主体を形成している様子が一目瞭然なのである。
 以上のことから、文化期江戸読本の実質的な板元は貸本屋であったと結論付けてよいものと思われる。
 なお、表の冒頭にある角丸屋甚助と鶴屋喜右衛門は、書物問屋であるにもかかわらず、その蔵板数の多さは際立っている。しかし角丸屋が貸本屋世話役でもあること、また鶴喜が地本問屋でもあることと密接な関連があったと考えれば理解できよう。
 最後に、開板申請した書物問屋と蔵板元の関係で、とくに目に付くものを掲げておくことにする。

開板申請書肆…蔵板元(*は本人、( )内の数字は出板点数)
角丸屋甚助……衆星閣(*十二)文金堂(三)
鶴屋喜右衛門…仙鶴堂(*十一)
西村源六………平林堂(七)
若林清兵衛……山青堂(七)文金堂(二)
松本平助………木蘭堂(五)慶賀堂(二)
西宮彌兵衛……桂林堂(四)螢雪堂(二)雄飛閣(二)
竹川藤兵衛……咬菜堂(二)
鶴屋金助………平林堂(二)

 これらの書物問屋と貸本屋の関係が、実際のところいかなるものであったのかは、いまのところ不明である。しかし書物問屋にとって貸本屋は本来得意先のはずであった。その貸本屋が出板に進出してきたのに対して、これを系列化しようという意図があったと考えればよいのかもしれない。

  四 板元としての貸本屋

 ところで、江戸の出板文化史上における貸本屋の機能については、早くから詳細な研究が備わっている▼10。当時の貸本屋に関する認識は、よく引かれる例であるが、京伝の読本『雙蝶記』の序文に「板元は親里なり。読んでくださる御方様は壻君なり。貸本屋様はお媒人なり」とあることから、作者や板元と読者の間にあって作品の普及や販売を担っていたというものであった。
 しかし長友千代治氏は、貸本屋の役割は土地柄や文化程度、経済程度等の立地条件に応じて異なるとし、とくに都市型の貸本屋の役割について、

貸本屋とは新本や古本を買い入れて商品にし、これを読者に貸して見料を稼ぐものである。そのため貸本屋は、とくに新本については商品とする本の作、画にわたって評価、吟味し、読者の反応をさぐり、次にはこれを後の作品に反映させるよう、要求することがあった。つまり貸本屋は読者をリードするとともに、制作にも介入したのである。それのみならず、みずから新版発行を行なうこともあった。

と説き、さらに『近世物之本江戸作者部類』(以下『作者部類』)の記述から、丹念に貸本屋の出板事例を取り出している▼11。つまり出板に携わった貸本屋の基本的位置付け、およびその機能については、すでに余すところなく整理して提示されているのである。
 そこで、ここでは貸本屋が出板をしていたことを確認できる別の史料を挙げておきたい。出板史の方面では比較的知られていると思われる国会図書館蔵の旧幕引継文書『類集撰要』である▼12
 まず、注目に値するのは、折しもくすぶっていた書物問屋と新興の零細出板業者(貸本屋)との利権をめぐる争いに乗じて、出板検閲体制の実質的な再編強化が行なわれたことである▼13

 <繪入讀本改掛始而被仰付候節>申渡

上野町 肝煎名主 源 八 
村松町 同見習  源 六 
鈴木町 同 断  源 七 
雉子町 同 断 市左衛門 

右は近來流行繪入讀本同小冊類年々出板いたし候分行事共立合相改メ禁忌も無之候得は伺之上致出板候仕來候処已來右改方申渡候間入念禁忌相改差合無之分ハ已來伺ニ不及出板并賣買共為致可申候。

但新板書物奈良屋市右衛門方江相伺差圖請來候本は都而是迄之通取斗候様書物問屋行事共江申渡候間可得其意候。

右之通被仰渡奉畏候。下本草案永く留置候而は出板之年後ニ可相成候ニ付成丈致出情相改メ遣し可申旨被仰渡奉承知候。為御請御帳ニ印形仕置候。以上。
  文化四卯年九月十八日

右名前四人印 
書物問屋行事共 

以上の史料からは、文化四年秋に四人の絵入読本改掛肝煎名主が任命されたことがわかる。同時に、文化四年九月に記録が開始されている『名目集』が、肝煎名主任命後の出板記録であることも明らかになった。
 さて、これに続く同年十月の条を順に見ていくと、書物問屋と貸本屋等の抗争の様子がわかる。その一部を引用しておこう。

    一札之事
一 繪入讀本同小冊類私共仲ヶ間外之者共江上方筋より荷物直積并御當地仲間外ニ而出板之品行事改を不請近來猥ニ取引致候義有之取締不宜ニ付此上右躰之儀無之様仕度右は御觸流も有之候様仕度此段各方より御願ニ成下候様此度私共より書付差出候處右一条は先規仲間内規定も有之候ニ付上方筋并御當地仲ヶ間外糶本貸本屋共江も能々及懸合得与取極メ可申。其上ニ而も行届兼候儀有之候ハヽ其節は御取斗方も可有之段被仰聞候ニ付此上我儘成取斗不仕新板物之儀ハ逸々私共方へ差出候上各方御改を請可申旨夫々申合せ則別帋之通仲ヶ間外御當地糶本屋貸本屋共并上方直荷引受候者共より私とも方迄一札取置候間右写し差出申候。尤上方筋書物問屋江も直荷物積送申間敷段追々及懸合候間是又取極次第書面写シ差出可申候。然上は向後行届可申奉存候得共尚又私共精々心付紛敷繪入讀本無之様可仕候。此段為御届申上候。以上。
   文化四卯年十月

九月懸り行事 六人連印
改掛り名主衆中           

 この記録は、『名目集』の「手広にいたし候」貸本屋の末尾にある「右十八人の者共より書物問屋共え、上方直荷物并に江戸板共改を受す売捌申間敷旨之取極、一札取置申候」という記述に、ぴったりと符合するのである。
 つまり、この時点における「手広にいたし候」貸本屋とは、嘉永四年株仲間再興時の「仮組」に相当するような、仲間株を持っていないだけの、実質的には書物問屋と変わらない存在であったものとも考えられるのである。さらに記録は続く。

    以書付御願申上候
一 繪入讀本并小冊之類去秋中各様方へ改方掛り被仰付候ニ付私共仲間内は勿論仲間外之者ニ而も開板仕度品ハ先規定之通仲間内之者を相頼草案本を以私共江差出下見仕各様方之御改ヲ請禁忌有之所ハ委く相改候上開板為致候。并京大坂ニ而出板之品も私共仲間内へ積下シ候分ハ是又右同様取斗禁忌有之候得は上方へ申遣し相改候上致商賣候。然ル処上方より仲間外之本屋江直積下候品ハ不沙汰ニ致商賣候ニ付改方難行届奉存候。尤去秋中各様方へ申上候之通私共仲間定ニ而上方より仲間外之者へ荷物直積下候義致間敷旨申合置候処近頃猥ニ相成仲ヶ間外直積下候ニ付猶又去十月中京大坂行事共江も右之段申遣し并御當地仲ヶ間外之者より上方下リ荷物引受申間敷一札取置候。然處此度いつまて草四冊七福七難圖會五冊浦青梅二冊同後編二冊仲間外新右衛門町上総屋忠助方へ上方より荷物積送不沙汰ニ致商賣候。去冬一札まて差出置右躰之儀有之候而は自然禁忌之品も賣捌候様相成取締不宜奉存候。依之何卒仲間外之者上方より荷物引受不申様、御觸被成下并京大坂書物屋共江も御當地仲間外之者へ荷物積下し不申様ニ為仰付候ハヽ取締も宜且は仲間内之者も商内手廣ニ相成問屋株之規模も有之仲間一同難有仕合奉存候。何卒仲間外之者共へ御觸被成下并上方書物屋共へも右之段被仰渡候様御願被下度此段各様迄御願申上候。以上。
   文化五年辰二月

書物問屋   
須原屋茂兵衛 
代 儀左衛門 
山崎 全兵衛 
竹川 藤兵衛 
去卯九月行事    
  西村源六 
繪入讀本改懸り肝煎名主中      

 書物問屋は、かなりの危機意識を持って貸本屋の出板取り締りを嘆願したようであるが、これもまた『名目集』の、石渡利助と上總屋忠助に関する「此両人書物屋外ニ而上方直荷物引請候者」という記述に対応しているのである。
 以上の『類集撰要』の記事から『名目集』の記述を裏付けることができる。つまり、貸本屋等が出板に携っていたのみならず、上方の書肆と直接取引をして上方出来の絵入読本類を改めを受けずに売り捌いていたという事実が明らかになったのである。
 ところで、決して資本の豊かではないと思われる貸本屋が、少なからざる先行投資▼14を必要とし、かつ多大なリスクの伴う出板という事業に乗り出すためには、どうしてもスポンサーが不可欠であったと思われる。この資金源については資料が見つからず、残念ながら明らかにすることができないでいる。しかし資金調達や開板申請を依頼する書物問屋との交渉に際しては、説得力のある魅力的な企画を提出することはもちろん、信頼できる営業力をも示さなければならなかったはずである。その点きちんと組織された貸本屋の世話役は、客の評判はもとより貸本屋たちの意見をも吸収して、流行に関する情報分析などを容易にできる立場であっただろう。
 そして何よりも大切なのは、売れそうな作者に企画通りの稿本を遅滞なく貰うことであった。とくに流行作者の信頼が得られないとうまくいかないのである。京伝から三年もの間『浮牡丹全傳』の稿本を貰えなかったため、先行投資が回収できずに潰れてしまった貸本屋住吉屋政五郎の例(『作者部類』)を見れば、この推測があながち的外れでないことが知れよう。しかし資金力のない板元は、潤筆や画料の安い作者や画工しか使えなかったのである。自画作や板下筆耕の作品が目に付くのも、このような経済的背景があったからではなかろうか。
 こうして推測してみると、現代の出版事情とあまり変わらないように思えてくる。製作者としての板元が持ち込んだ企画を、いかに自分の書きたい材料に合致させて書くかという程度に作家の裁量範囲は限られていたと考えたい▼15。場合によっては、いくつかの江戸読本序文に見えるように、粉本を渡されることさえも珍しいことではなかったと思われる。とくに二流作家になれば、なおさら板元からの細かい注文が多かったはずである。

  五 貸本屋の出板

 鶴屋喜右衛門については別の問題を孕んでいるので次節で述べるとして、ここでは主な貸本屋ごとに出板傾向を整理して、その特徴を見ておくことにしたい。
 まず、書物問屋で貸本屋世話役でもあった麹町平川町二丁目家主、衆星閣角丸屋甚助は、一般学問教養書にも従来物にも積極的に手を出し、文化期に急成長した書肆である。馬琴の『作者部類』によれば、以前は下駄屋をしていたという。江戸読本の出板に関して注目すべきは、次に掲げるように出板した読本のすべてに葛飾北斎を画工として使っている点である。

 復讐竒話・繪本東〓錦    小枝繁 北斎 文化二年正月
 新編水滸画傳初編初帙     馬琴 北斎 文化二年九月
 春宵竒譚・繪本璧落穂前編  小枝繁 北斎 文化三年正月
 そのゝゆき          馬琴 北斎 文化四年正月
 新編水滸画傳初編後帙     馬琴 北斎 文化四年正月
 春宵竒譚・繪本璧落穂後篇  小枝繁 北斎 文化五年正月
 斐〓匠物語         六樹園 北斎 文化六年正月
 假名手本・後日之文章     焉馬 北斎 文化六年正月
 忠孝潮來府志         焉馬 北斎 文化六年正月
 經島履歴・松王物語     小枝繁 北斎 文化九年正月
 寒燈夜話・小栗外傳     小枝繁 北斎 文化十年正月
 寒燈夜話・小栗外傳     小枝繁 北斎 文化十一年正月
 寒燈夜話・小栗外傳     小枝繁 北斎 文化十二年正月

 こうして見ると、江戸読本の初期から文化末までコンスタントに出板を続けていることがわかる。また、上方との相板も多いようだ。しかし、『そのゝゆき』の板行に関わる米輔の一件(『作者部類』参照)で馬琴の不興を買い、『そのゝゆき』後編はもちろんのこと、以後の馬琴の読本は出板できなくなってしまったが、小枝繁をはじめとする作者等の稿本を得て、そのすべてを北斎に描かせている。また京伝ともうまくいかず、京伝読本の刊行にはまったく関与できなかった。
 とかく問題ばかりを起こした甚助について「人格の問題のようでもある」▼16ともいわれているが、北斎との関係はよかったようである。文化後半には、かなり筆料が高くなっていた北斎を使っている点から、読本の挿絵は北斎でなければ、という強い思惑が感じられる。そして何より、江戸読本の板元としては一番多数の本の刊行に関わっており、大坂の書肆と提携して懸命に鶴喜等に対抗したものと思われる。その程度が急激に過ぎて人気作者からは疎まれたが、ほかの作者を得て着実に江戸読本流行の一端を担ったのである。
 なかでも小枝繁との関係には注意すべきである。その処女作『繪本東〓錦』は江戸読本流行の兆しに乗じた企画であり京伝の『安積沼』との密接なる交渉が指摘されているが▼17、この早い時期に江戸読本を執筆できる作者を世に出した功績は、紛れもなく角丸屋甚助のものである。また『新編水滸画傳』の企画も決して悪いものではなかった。幸か不幸か馬琴は手を引いてしまったが、高井蘭山を得て完結させたのである。そして、これもまた北斎の筆であった。
 貸本屋世話役の平永町代地元右衛門店、山青堂山崎平八も特徴のある本屋である。作者の中でも柳亭種彦との繋がりが強かったと見え、その作品の過半はこの書肆から発兌したものである。

 繪本加々見山列女功   川関楼主人 なし 享和三年三月
 近世怪談霜夜星        種彦 北斎 文化五年正月
 唐金藻右衛門金花夕映     谷峨 北嵩 文化六年正月
 淺間嶽面影草紙        種彦 北嵩 文化七年正月
 加之久全傳香篭艸       谷峨 豊国・国房 文化八年正月
 淺間嶽面影草紙後帙逢州執着譚 種彦 北嵩 文化九年正月
 綟手摺昔木偶         種彦 重信 文化十年正月
 美濃舊衣八丈綺談       馬琴 北嵩 文化十年十一月
 南總里見八犬傳        馬琴 重信 文化十一年十一月
 南總里見八犬傳第二輯     馬琴 重信 文化十三年十二月

 特徴的なのは文化五年以降に主たる出板活動が見られる点で、几張面にほぼ一年に一作のペースで出している。梅暮里谷峨の作品が二種あるが、作風が種彦に似ていなくもない。また画工に蘭斎北嵩を使っているのは山青堂だけである。重信との関係も気になる。
 何よりも特筆すべき点は、最後までは続かなかったものの、江戸読本を代表する不朽の名作『南總里見八犬傳』板行の口火を切ったことである。平林堂から譲られた企画であったが、これ以前の馬琴読本は『美濃舊衣八丈綺談』だけしかなく、いわば実績のない板元であった。文化末から文政以降に読本が長編化していくに伴って板元地図も大きく変動していくが、その一端を示した事例である。

 貸本屋世話役の本所松坂町家主、平林堂平林庄五郎が出したのは、すべて馬琴の作である。

 繍像復讐石言遺響       馬琴 北馬 文化二年正月
 椿説弓張月前篇        馬琴 北斎 文化四年正月
 敵討裏見葛葉         馬琴 北斎 文化四年正月
 椿説弓張月後篇        馬琴 北斎 文化五年正月
 椿説弓張月續篇        馬琴 北斎 文化五年十二月
 椿説弓張月拾遺        馬琴 北斎 文化七年八月
 椿説弓張月殘篇        馬琴 北斎 文化八年三月
 青砥藤綱摸稜案        馬琴 北斎 文化九年正月
 青砥藤綱摸稜案後編      馬琴 北斎 文化九年十二月

 何よりも文化二年に『石言遺響』を出した点は注目すべきである。江戸読本にとっても馬琴にとっても、まだ手探りの状態である未開のジャンルであったからである。また後に『椿説弓張月』を流行させ、馬琴北斎のコンビを定着させた功績も決して小さいものではない。この実績からであろうか、馬琴の信頼していた数少ない板元の一つであったことが『作者部類』の記述からうかがわれる。蔵板の中には京伝の『昔話稲妻表紙』などのように、別の板元から板株を買って後印している本もある。
 貸本屋世話役の深川森下町治助店、木蘭堂榎本惣右衛門、同平吉もやはり馬琴作が多い板元である。

 三七全傳南柯夢        馬琴 北斎 文化五年正月
 阿波之鳴門          種彦 北斎 文化五年正月
 由利稚野居鷹      醉月庵主人 北斎 文化五年正月
 阿旬殿兵衛實實記       馬琴 豊広 文化五年十一月
 常夏草紙           馬琴 春亭 文化七年十二月
 三七全傳第二編・占夢南柯後記 馬琴 北斎 文化九年正月
 絲櫻春蝶竒縁         馬琴 豊清・豊広 文化九年十二月
 皿皿郷談           馬琴 北斎 文化十二年正月

 惣右衛門と平吉との関係はよくわからないが、同住所同号であり常に刊記に並んで見えているので、あるいは血縁関係ではないかと思われる。ただし惣右衛門は「手広に致し候貸本屋」であるが、平吉の方は貸本屋世話役をしている。目立たないが中堅の板元として比較的売れゆきのよい作品を出した書肆である。
 右表中『由利稚野居鷹』は馬琴作として予告広告のあった作品であるが、いかなる事情があったのか無名作者の手になったものである。なお『名目集』には、作中の蒙古退治の一条が、時事問題に触れるとして差し留められた様子が記されている。

 貸本屋である青物町、桂林堂石渡利助は書物問屋からもっとも攻撃された板元である。馬琴の作はなく、振鷺亭と談洲楼焉馬の作品の板元となっている。

 繪本敵討・待山話       焉馬 豊国 享和四年正月
 春夏秋冬春編        振鷺亭 豊国 文化三年正月
 千代曩媛七變化物語     振鷺亭 北馬 文化五年正月
 俊徳麻呂謡曲演義      振鷺亭 北馬 文化六年正月
 忠孝潮來府志         焉馬 北斎 文化六年正月
 陰陽妹脊山         振鷺亭 北斎 文化七年正月

 この内で、焉馬の『待山話』と振鷺亭の『春夏秋冬』とは、江戸読本中では珍しく挿絵に役者似顔を用いている▼18。そのせいで似顔の得意な豊国に描かせているのであろう。振鷺亭との関係も気になるところであるが、この登場人物のほぼ全員に似顔を使うという企画は、どうも板元の発案ではなかったかと思われる節がある。江戸読本にはふさわしくない趣向であったためか、ほかではあまり見られない趣向だからである。
 ところで、少しく奇妙なことではあるが、前掲の『外題鑑』の板元でもある貸本屋世話役の小伝馬町弐町目家主、文溪堂丁子屋平兵衛が刊行に関わっていた江戸読本は、

 復讐古實・獨揺新語   熟睡亭主人 榮松齋長喜 文化五年正月
 月宵鄙物語        四方歌垣 柳々居辰齋 文化七年正月
 天縁竒遇         神屋蓬洲 同人文化九年正月

の三点に過ぎない。文政天保期には上方の河内屋一統と組んで、『南總里見八犬傳』をはじめとする長編読本や人情本の板元として大活躍をするのであるが、文化期には貸本屋世話役として資本を貯めていたのであろうか、無名作者の読本を筆料の安い画工に描かせているに過ぎない。とりわけ神屋蓬洲は、画工はもちろんのこと筆耕まで自分でやってのけた、安上がりな作者である。
 いま見てきた以外にも、たとえば出板企画を知る手掛りとして、広告から得られる情報も有益である。作品の成立を巡って趣向(典拠や構想)の受け渡しが行なわれたことが推測できる場合もある▼19。また刊記などの隅に小さく「傭筆」と記されている筆耕、すなわち板下の浄書をした者に関する情報も見逃せない。
 たとえば『石言遺響』には二〜四巻の筆耕として「濱枩幸助」と見える。彼は『繪本東〓錦』の板元松茂堂で、このほかにも馬琴の中本型読本『曲亭傳竒花釵兒』(享和四年)などを出している。また、数少ない馬琴の門人の一人である節亭琴驢(岡山鳥)も筆耕をしながら戯作を学んだようで、次の諸作に見えている▼20

 新累解脱物語           島五六六
 頼豪阿闍梨恠鼠傳         節亭琴驢
 由利稚野居鷹           節亭琴驢〔校正〕
 復讎竒語・雙名傳前篇       節亭琴驢(馬琴の序末)
 報怨珎話・とかえり花       岡山鳥
 忠兵衛梅川赤縄竒縁傳・古乃花双紙 岡山鳥
 夢想兵衛胡蝶物語         序跋・岡山鳥
 昔語質屋庫            嶋岡節亭
 常夏草紙             嶋岡節亭
 馬夫與作乳人重井・催馬樂竒談   神田丹前住・岡山鳥
 三七全傳第二編・占夢南柯後記   嶋岡節亭
 青砥藤綱摸稜案          岡節亭

 このほかに、石原駒知道二十点、近田中道(千形仲道)十五点、鈴木武筍(皎窓武筍)十五点、橋本徳瓶四点などがある▼21。このように、江戸読本の出板現場に関わる人物の関係も見えてくるのである。
 順を追って主な板元に関して詳細に見てきたが、個別の書肆と作者や画工との関係についても一覧表にすることによって一目瞭然になった。そこからは、板元としての貸本屋にはそれぞれ特徴があり、企画や営業の手腕を発揮していた様子がうかがえたものと思う。
 また、丁子屋平兵衛板『外題鑑』が企画そのものからして貸本屋の需要によるものであり、蔵板元である貸本屋によって編まれた江戸読本カタログなのであった。
 以上、『外題鑑』を手掛りとして文化期の江戸読本を俯瞰し、おもに板元に焦点を当てて見てきた。いきおい作者の位置については、受動的な側面を強調する結果になってしまった。一見うしろ向きの見解のようではあるが、出板機構の内部で著述をすることの外面的な規制の実態を、一旦は確実に押さえておかなければならないと思う。なぜなら、馬琴の『作者部類』における口吻を額面通り受け取り、作者が板元を牛耳って思い通りのものを書き与えていたかの如き感覚では、正しい判断を下すことはできないからである。
 長友氏が「近世文学、ことに第二文芸といわれるような庶民文芸は、このような本屋が主導権を取りつつ、作者や周辺との緊張関係の中で産み出されてきた」▼22と説くように、板元を中心にした商業ベースに乗らなければ江戸読本の著述は不可能だったのである。だが同時に、その一定の枠の中では、作者の手腕にすべてがかかっていたともいえ、またそれだからこそ、板元には作者の魅力を引き出すための製作者(プロデューサ)としての手腕が不可欠なのであった。


▼1 引用は都立中央図書館蔵の資料によった。なお、横山邦治編『為永春水編 増補・外題鑑』(和泉書院影印叢刊、和泉書院、一九八五年)の巻末折込みとして影印復刻されている。
▼2 ここでいう「中形のよみ本」は滑稽本を指し「仇討等の冊子」の方が中本型読本を指していると考えられる。
▼3 天保九年に為永春水編『増補・外題鑑』が出されているが、あくまでも「増補」であって、予告された後編とは別の意図で編まれたものと思われる。なお、この増補版の成立については、鈴木圭一「資料報告『書林文渓堂藏板目録』・『東都書林文渓堂藏版中形繪入よみ本之部目録』−『増補・外題鑑』成立の一過程−」(「読本研究」四輯下套、渓水社、一九九〇年)に詳しい。
▼4 もちろん完全に網羅しているわけではなく、『忠婦美談・薄衣草紙』(津川亭作、文化八年、西村源六板)など若干の洩れもある。また、上方の作者であるから純粋な江戸読本ではないが、中川昌房『小説東都紫』(文化四年三月、石渡利助・上総屋忠助板)なども、やはり江戸書肆のみが発兌している。
▼5 『名目集』は「国文学論叢一輯 西鶴−研究と資料−」(慶応義塾大学国文学研究会編、至文堂、一九五七年)に松本隆信氏の手によって紹介されており、『割印帖』は朝倉治彦・大和博幸編『享保以後・江戸出版書目(新訂版)(臨川書店、一九九三年)に翻刻されている。書誌書目シリーズ10『江戸本屋出版記録(上中下)(ゆまに書房、一九八四年)は『割印帖』の影印復刻。
▼6 具体的な調査結果については本書第一章第三節に掲げた。
▼7 『北齋讀本插繪集成』全五巻(美術出版社、一九七三年)に、その全貌が明らかにされている。
▼8 一般に読本の蔵板元は初板本の見返しに記載されていることが多い。刊記に「梓行」などと蔵板元が明記されている本もあるが、複数の書肆が並び、その中で蔵板元が不明の場合には、やはり見返しによらなければならない。また刊記や見返しを欠く場合でも、広告の蔵板書目や序文中の記述、まれには柱刻などから蔵板元が知れることもある。
▼9 大坂の板元である文金堂河内屋太助からの開板申請が一件見られるが、上方の本屋の場合は江戸の書物問屋を売出し元として申請したものと思われる。
▼10 濱田啓介「馬琴をめぐる書肆・作者・読者の問題」(『近世小説・営為と様式に関する私見』、京都大学学術出版会、一九九三年、初出は一九五三年)、前田愛「出版社と読者−貸本屋の役割を中心として−」(『前田愛著作集』二巻、筑摩書房、一九八九年、初出は一九六一年)、広庭基介「江戸時代貸本屋略史」(「図書館界」、一九六七年一〜三月)、長友千代治「行商本屋・貸本屋・読者」(『近世の読書』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九八〇年)など。
▼11 長友千代治『近世貸本屋の研究』(東京堂出版、一九八二年)
▼12 拙稿「『類集撰要』巻之四十六−江戸出板史料の紹介−」(「読本研究」二輯下套、渓水社、一九八八年)
▼13 佐藤悟氏は「読本の検閲―名主改と『名目集』―」(「読本研究」六輯上套、渓水社、一九九二年)で、拙稿を引き「高木のいう検閲態勢の強化のため、改の主体が町年寄から町名主に移管されたという点」に疑問を呈し、単に事務処理の軽減策であり「少なくとも改正した側には検閲強化の意図はなかったと思われる」と指摘し、にもかかわらず名主の自己規制が働いて「結果的にはこの改制度の改正が検閲の強化になったとする高木の指摘は正しい」と述べている。佐藤氏が指摘する通り、確かに「体制側の意図」ではなかったと思われる。ただし、『京都書林行事上組済帳標目』(書誌書目シリーズ5『京都書林仲間記録』五、ゆまに書房、一九七七年)の「文化四年卯九月より同五年辰正月迄」の箇所に、

 一 繪入讀本類別段嚴重御吟味ニ付江戸より書状到来返状候写之
 一 江戸仲ヶ間外ニ直賣致間敷旨一統相觸候一件

などとあるのを見るにつけても、文化四年九月の改め制度改変に関する現場側の認識は「別段厳重御吟味」、すなわち実質的には<検閲の再編強化>だったのである。
▼14 前述した濱田氏の調査によれば、読本二十五丁五冊を発行するのに八十両ほどの元手を必要とするという。おそらく、この元手は先行投資しなければならなかったはずである。
▼15 内田保廣「曲亭馬琴−作家の成立−」(「解釈と鑑賞」、至文堂、一九七九年八月)
▼16 長友千代治『近世貸本屋の研究』(前掲)
▼17 鈴木敏也「小枝繁の處女作から京傳を眺める」(「国文学攷」二巻一輯、広島大学国語国文学会、一九三六年四月)
▼18 向井信夫「古書雑録(五)−元文曾我と「絵本敵討待山話」−」(「愛書家くらぶ」九号、一九六九年五月)
▼19 拙稿「江戸読本の新刊予告と<作者>−テキストフォーマット論覚書−」(「日本文学」、日本文学協会、一九九四年十月)
▼20 『とかえり花』の巻末に、岡山鳥作として三作の読本が予告されているが管見に入っていない。なお、岡山鳥については本書第四章第四節参照。
▼21 ここには出てこないが、後に松亭金水が筆耕から作者になっている(拙稿「近世後期の出板界」「日本古典文学会々報」117、一九九〇年)。また、彫工に関しても、菊地茂兵衛は式亭三馬の父親であるし、朝倉力蔵は東西庵南北と名乗って戯作を始める(拙稿「もう一人の南北」「近世部会会報」7、日本文学協会近世部会、一九八四年)
▼22 長友千代治「本屋の貸本、貸本屋の出版」(前掲『近世の読書』所収、初出は一九八一年)


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