10年ほど以前からパリに出掛けては、フランス国立図書館版画部(BnF Est.)に所蔵されているデュレコレクションや、国立図書館とパリ装飾美術館図書室(BAD)などに分散して所蔵されているトロンコワ・ルボーディコレクション、さらに国立ギメ東洋美術館図書室(MNAAG Bib.)や、国立言語文化大学共通利用図書館(BULAC)▼1、国立高等美術学校(ENSBA)などに所蔵されている和本、とりわけ〈江戸読本〉を中心とした書誌調査を続けてきた▼2。
フランス以外では、オランダ国立民族学博物館蔵シーボルトコレクションや、ベルギー王立図書館、サンクトペテルブルクのロシア国立図書館、大英博物館などにも足を運んだが、多くの和本が西欧で、現在に到るまで大切に保存されていることに驚かされた。
これらの和本の大半は、19世紀に来日した熱心な日本東洋学者たちが西欧に紹介した〈絵入本〉や浮世絵に触発されて、西欧で蒐集されたコレクションを中心としたものである。結果的に、彼等は19世紀末期の西欧におけるジャポニズムの流行を準備したことになる。
ところで、日本に於ける近世期の出板物の世界史的な特徴は、〈絵入本〉が多かったことにある。浮世絵、とりわけ18世紀に誕生した多色摺の錦絵や彩色絵本の目を見張る美しさは、同時代の世界中に類例を見ないといっても過言ではないだろう。西欧において、油性インクで黒々と印刷された立派な革装の洋本を見慣れた瞳が、板目木版を用いて水彩染料で摺られた錦絵の持つ透明感と和本のしなやかな柔らかさとに魅せられたとしても、何等の不思議もない▼3。
一方、巷には多くの大衆小説が錦絵と同様の木版技術を用いて製版本として流布していた。その装丁造本には凝った意匠が施され、さらには錦絵の画工(浮世絵師)が担当した精緻な口絵や挿絵にも、描かれている日本の風俗に関する興味も相俟って、西欧からの訪問者たちは強い感興を催したことであろう。それらを、手に入れて各国へ持ち帰ったものが、現在西欧に遺されている和本群の呼び水となったのである。
フランスの実業家であり、来日したこともある宗教や民俗学にも造詣の深かったエミール・ギメが蒐集した和本を核として、その後ギメ博物館が蒐集した和本群は、現在ギメ東洋美術館▼4に引き継がれて図書室に所蔵されている▼5。これらも大半が絵入本である。すでに、戦前に書目カードは備わっていたものの、その後、元司書であり現在は館長付顧問をなさっている尾本圭子氏に拠って追加整備されたが、それでも未だにギメコレクションの全貌は明らかにされていない。目下、現司書の長谷川正子氏が丹念な原本に拠る調査を積み重ねて書目目録を準備されている。その作成過程で整理方法について疑問を呈されたのが本稿で紹介する〔読本挿絵集〕(仮題)である。
※
読本の享受史として、明治期の活字翻刻本や講談速記本として利用されたことについては報告したことがあるが▼6、貸本屋を通じて流通した板本その物がどうなったかに就いては、福田安典氏に拠る調査報告が備わる。明治初年に愛媛県松山市で開業した貸本屋・汲汲堂の縁故者から、昭和11年に愛媛県立図書館に寄贈された板本群は、廃業した同業者から仕入れて形成されたもので、それらは河内屋茂兵衛が求版後印した読本や人情本・滑稽本であること。それ故、此等の貸本が如何に廉価な貸本として大方の娯楽読物として供給され、そして板本としての終着を迎えたかを調査した報告である▼7。
一方、帝國文庫など江戸文学の翻刻叢書を多数出版していた博文館が、明治30年に原板木(部分的には改刻されている)を使用した板本『南総里見八犬伝』(木箱入り37冊に合綴)を出していたことを紹介したことがあるが▼8、板本自体は明治期に入っても19世紀末まで、それなりに商品価値を保持しつつ流通していたものと思われる。
さて、読本は一般的に貸本屋を通じて流通していたジャンルであるから、大名家の奥向▼9や素封家が所蔵していた本を除けば、保存状態の良好な本は皆無である。多くは貸本屋の手に拠って表紙が変えられたり、本文に裏打したりして改装されている。と同時に、初板初摺に近い善本であったとしても、貸本屋から貸本屋へと転々と流通し、結果的に夥しい読者の手を経ているが故に、良く読まれた本ほど手擦れなどの痛みがひどく、また落書も多い。場合によっては、手擦れ防止や防虫のために小口や地に柿渋が塗られた甚だ汚らしい本も見受ける。
20世紀に入って活字本が図書の流通市場を席巻し、貸本屋が廃業していった後の板本は、散逸して次第に端本化し、一部分は古書市場に流通したものの、大半は襖の下張や裏打などに使用されてしまったと想像される。
そこで、本稿ではパリに残存している江戸読本の板本の様相についての報告をすることに拠って、20世紀に入ってからの江戸読本の板本の往方の一端に就いて思いを馳せたいと思う。
※
ギメ東洋美術館に所蔵されている一群の〔読本挿絵集〕は、全部で150冊程が確認できた▼10。〈江戸読本〉を中心として、後期の〈上方絵本読本〉の口絵と挿絵、つまり一般の西欧人には読めない日本語の本文を除いて、取り敢えずは見れば分かる絵の部分だけを抜き出して合冊した半紙本で、各冊には『好古文庫』や『画工の友』などという書題簽が貼付されている。この資料は一定程度まとめて1893年5月頃に、ギメ博物館に拠ってパリで購入された和本だと思われ、受入簿には一律にタイトルが「Roman Japonais illustre'」や「Gwa-ko-no-tomo」と記されており、その後も1900年5月まで断続的に同様の資料を購入したようである▼11。
具体的な本の書誌を記しておこう。請求番号「17389」が一番若いものであるが、半紙本一冊、『好古□□』(書題簽)が貼付され、下部に当初の整理番号と思しき「434/1」と打付書きされている。と同時に一丁表(以下「1オ」)の上部に、明らかにフランス人が記したと思しき特徴ある書体で「434」以下の数字、すなわち「1」と赤鉛筆にてアンダーライン付きで書かれている▼12。
全15丁、表紙は浅縹地に紋文様、『朝夷巡嶋記』の表紙を流用した物と思われる。一連の此等の資料と同様に、子持枠を持つ「MUSEE' GUIMET」の下に「N°/ T. / R.」と三段に印刷された薄紫色のラベルに手書きにより「17389 / J-1 / VI 」、もう一つの子持枠が印刷された白いラベルには「Roman Japanais illustre'」と手書きされたものが貼付されている。表紙裏は白。
表紙
貸本屋口上
1オ上部には円形のギメ蔵書朱印「MUSE'E GUIMET / ★ MINISTERE DE L'INSTRUCTION PUBLIQUE」(ギメ美術館/文部省)、下部には楕円の受入朱印「BIBLIOTHEQUE / MINISTERE DE L'INSTRUCTION PUBLIQUE / MUSE'E GUMET」が捺され、中に受入番号が手書きされている。
1オは、時に貸本屋本に貼付されているのを見掛けるものであるが、印刷された貸本屋の口上が貼り込まれている▼13。
凡士農工商共、夫々の職分家業に因て、持用の品物を尊み、今日を営事、世上一般也。然るに、近來写本の巻中に聊白紙あれば種々の書入、又は形さへ覚束なき木偶、或は見苦敷男女の陰躰抔画き、君臣父子の中にて面を赤め合事まゝ多し。是等は、必竟一時の興に乗じての戯れならんか。併、其職分の道具へ疵付給ふは僻こと也。著述拙く筆者の誤りあらば、只言語を以て其過を咎め、巻中への戯画楽書は許給へ。貸本常に是を歎き、愁ふること深し。因て諸君子に訴ふる事尓三島
以下、見開き毎に通し番号を付して記述し、左右の丁を別に記述する必要があれば「右」「左」とする。また書名は初出のみ内題を記し、二度目以降は適宜略した。
【1】 『朝夷巡嶋記全傳』初編巻五の挿絵「仇をうち難を避る庄司畷の黎明」(7ウ8オ)
【2】 【1】左の裏打に『〈寒燈夜話〉小栗外傳』巻四の本文(6オウ)が使用されているが、小口が全部切れているため裏面が見開きになっている。
【3】 右は『巡嶋記』初編巻五本文中の上下に入れられた挿絵「阿三郎患難許我の里を過る」(13ウ下半分)、左は右の続きで、挿絵「阿三郎元服して名を朝夷義秀改む」(14オ上半分)
【4】 右に『巡嶋記』初編巻五の挿絵「大石山に義秀朔鳥を射る」(21ウ22オ)のうち21ウのみが裏返しに【3】左と糊付けされている。
左は【5】の挿絵と同じ丁の表側で『巡嶋記』三編巻二の本文(5オ)【5】 『巡嶋記』三編巻二の挿絵「金瘡に苦みて廣光策を遺さんとす」(5ウ6オ)、左の裏打は『小栗外傳』巻十の本文(14オ)
【6】 裏打された『小栗外傳』巻十の本文(14ウ)と【7】の挿絵と同じ丁の表側で『巡嶋記』三編巻二の本文(16オ)
【7】 『巡嶋記』三編巻二の挿絵「羽蟻たつ誰か後の世や捨卒塔婆\東岡舎羅文」(16ウ17オ)。以下は挿絵の反対側、本文の丁同士を糊付けしてある。
【8】 『巡嶋記』三編巻二の挿絵「老婆春心公子を苦しむ」(24ウ25オ)
【9】 『巡嶋記』三編巻三の挿絵「黒萩途に塞玄にあふ」(3ウ4オ)
【10】 『巡嶋記』三編巻三の挿絵「色中餓鬼人間夜叉」(背景薄墨)、「明處有王法暗裡有鬼神」(背景艶墨)(12ウ13オ)
【11】 『巡嶋記』三編巻三の本文(13ウ、22オ)、【10】左と【11】右の挿絵と同じ丁の本文同士を糊付けしたものが剥がれたか。
【12】 『巡嶋記』三編巻三の挿絵「元晴智惠吉見主従を知る」(薄墨)(22ウ23オ)
【13】 『巡嶋記』三編巻四の挿絵「時夏驕て守詮が軍議を折く」(4ウ5オ)
【14】 『巡嶋記』三編巻四の挿絵「時夏生拘られて經任に降る」(艶墨)(13ウ14オ)
【15】 『巡嶋記』三編巻四の挿絵「時夏を射て守詮達六を擒にす」「平泉の敗軍糠田重正戦死す」(20ウ21オ)
【16】 『巡嶋記』三編巻五の挿絵「鵜東二計信夫荘司が舘に使す」(3ウ4オ)
【17】 右は『巡嶋記』三編巻五の挿絵「圓山の舘に元晴守詮等戦死す」(13オ14ウ)の右半分(13オ)、左は半丁の挿絵「知人の才泰時光仲を薦む」(26オ)
【18】 巻末半丁は【16】左の挿絵と同じ丁の裏側で『巡嶋記』三編巻二の本文(26ウ)、左は後ろ表紙見返。
後ろ表紙は浅縹地に三つ巴紋文様があり、表紙のツレだと思われる。
やや記述が煩雑になったが、要するに『朝夷巡嶋記』三編の巻二〜巻五の挿絵(各巻三図宛)だけを順に抜き出し、挿絵を見開きにして反対側の文字だけの丁同士を糊付けし一冊に改装したものである▼14。
ただし、最初が初編巻五の挿絵であるし、三編巻五も【17】のように右半分だけである上に、原本では次に入っている半丁の挿絵「鳰江嫋竹途に賊兵とたゝかふ」(17ウ)を欠いている。つまり、一作品の口絵挿絵を順に網羅しようという編集意識は見られない。
次の例は 17474 『画工の友』(書題簽)で、半紙本一冊、浅縹色表紙、下部に当初の整理番号と思しき「434/114」と打付書きされている。
全23丁、表紙は浅縹地に紋文様。一連の此等の資料と同様に、薄紫色ラベルに手書きで「17474 / J-1 / VI 」、もう一つのラベルには「Roman Japanais illustre'」と手書きしたものを貼付。
表紙裏には落書「本屋謹曰價高直モ不顧見人甚以馬鹿同前トハ兼テ心得校見過キ料出入稀也\戌年ヨリ改連テ致ス也」。
一オは【1】右丁の表側で『小説東都紫』巻四(16オ)の本文。上部に「114」と赤鉛筆で書かれ、受入番号(17474)が書かれた楕円の受入朱印と円形のギメ蔵書朱印が捺されている。
【1】 『小説東都紫』巻四挿絵「源八熊と挑んで力量をためす」(16ウ17オ)
【2】 右は巻四本文(17ウ)、左は巻五本文(2ウ)。双方とも挿絵丁の反対側。
【3】 『小説東都紫』巻五挿絵「鷲蔵鎌倉にて木綿を商ふ」(2ウ3オ)
【4】 右は巻五本文(3ウ)、左は巻六本文(1オ)、上部に貸本屋印[長門][三嶋]
【5】 『小説東都紫』巻六挿絵「左司馬瀬川にかよふ」(1ウ2オ)
【6】 右は巻六本文(2ウ)、左は巻六本文(5オ)
【7】 『小説東都紫』巻六挿絵「瀬川左司馬に助太刀を頼む」(5ウ6オ)
【8】 『忠勇阿佐倉日記』初輯巻一口絵「近江阿佐倉の郷の長花井當左エ門が一子當吾道雄\畠山の近臣遠田嘉門が女児鵆後に阿千代と改む」 (口ノ3ウ口ノ4オ)。艶墨薄墨。
【9】 『忠勇阿佐倉日記』初輯巻一口絵「當左エ門が渾家阿種\花井當左エ門道郷\千葉忠蔵恒治」(口ノ4ウ口ノ5オ)。藍色薄墨。
【10】 右は『忠勇阿佐倉日記』初輯巻一「總目録」(口ノ5ウ)左は『忠勇阿佐倉日記』初輯巻一の本文(8オ)
【11】 『〈木曽義仲〉鼎臣録』巻二挿絵「騰々走馬\謇々英士\一雄一鞭\諫而不レ正」(18ウ19オ)
【12】 右は『鼎臣録』巻二の本文 (19ウ)、左は同巻三本文(5オ)。
【13】 『鼎臣録』巻三挿絵「幽精詫レ婦非レ狂非レ疾\誠忠至心未然自然」(5ウ6オ)
【14】 右は『鼎臣録』巻三の本文(6ウ)、左は同巻三本文(12オ)。
【15】 『鼎臣録』巻三挿絵「偕腦乳哺ノ愛\忽慕血脉ノ情」「能守忍ノ一字\深慎義士ノ行」(12ウ13オ)
【16】 右は『鼎臣録』巻五の本文(13ウ)、左は同巻五本文(21オ)。
【17】 『鼎臣録』巻五挿絵「剛却而柔\強却而弱\百將可レ計\忍之一字」(21ウ22オ)
【18】 右は『鼎臣録』巻五の本文(22ウ)、左は同巻三末尾の本文(21オ)。
【19】 『近世説美少年録』一輯巻五の挿絵「出像第十二\大夫次家族と倶に阿夏母子を款待す」(21ウ22オ)
【20】 『近世説美少年録』一輯巻五の挿絵「出像第十三\三少年遨遊。走牧馬」(28ウ29オ)
【21】『流轉數囘阿古義物語』巻四挿絵「其續」(4ウ5オ)
【22】右は『阿古義物語』巻四本文(5ウ)、裏打に『月宵鄙物語』巻四本文(1オウ)が使われている。左は『阿古義物語』巻四本文(11オ)
【23】『阿古義物語』巻四挿絵(11ウ12オ)。薄墨欠
【24】巻末半丁は『阿古義物語』巻四挿絵「三助狐妻の小女郎狐が毒死を視て愁歎の体」(18ウ)
黄色地の後ろ表紙が付けられているが、裏側には貸本屋の営業文書▼15が貼られていて、見返から文書の裏側が透けて見えている。
さて、この 17474 は様々な作品が取り合わされているが、作者や挿絵を担当した画工別に編成するというような特別な編集意識も見て取れず、ただ適当に集めて一冊にしたとしか考えられない。使用されている挿絵は全丁が裏打されているわけでもなく、裏打に使用されている紙も、【22】のように挿絵を採ったのとは別の読本のものであったり、実録写本や営業文書と様々である。付けられている表紙も、手近な適当なものを用いたと思われ、特に本来は表表紙として使用されていたものを、穴の向きに合わせて逆様にして(題簽を付けたまま)後ろ表紙として使用しているものもある。
〔読本挿絵集〕に所収されている作品名を、ほぼ整理番号順に列挙してみる▼16。
朝夷巡嶋記・開巻驚奇侠客傳・小説東都紫・月霄鄙物語・左刀奇談・復讐譽通箭・景清外傳松の操・俊寛僧都嶋物語・繪本金花談・南朝外史武勇傳・繪本金毘羅神靈記・〈報仇竒談〉自来也説話・浄瑠理媛物語・〈芳薫好話〉高木迺實傳・俊傑神稲水滸傳・繪本烈戦功記・繪本西遊全傳・阿旬殿兵衞實實記・善知安方忠義傳・繪本復仇英雄録・南總里見八犬傳・占夢南柯後記・〈流轉數囘〉阿古義物語・繪本忠臣蔵・夢想兵衞胡蝶物語・優曇華物語・〈姉菅根弟孝太郎〉孝子嫩物語・本朝悪狐傳・美濃舊衣八丈綺談・繪本昔語松虫墳・繪本報仇誓〓摺・繪本白狐傳(阿也可志譚)・松浦佐用媛石魂録・繪本楠公記・青砥藤綱摸稜案・繪本通俗三國志・新編水滸畫傳・〈寒燈夜話〉小栗外傳・報讐奇話那智の白糸・唐金藻右衞門金花夕映・嫩髪蛇物語・濡燕栖傘雨談・通俗排悶録・勇婦全傳繪本更科草紙・昔語茨之露・道成寺鐘魔記・近世説美少年録・〈鎌倉外傳〉繪本平泉實記・〈近世新話〉雲乃晴間雙玉傳・〈天竺得瓶〉仙桂竒録・〈假名手本〉後日之文章・山桝大夫後編古意今調録・椿説弓張月・復仇越女傳・玉石童子訓・刀筆青砥石文鸞水箴語・繪本彦山權現霊験記・繪本璧落穂・絲櫻春蝶竒縁・雲妙間雨夜月・忠孝潮來府志・忠勇阿佐倉日記・〈木曽義仲〉鼎臣録・〈忠孝節話〉雲井物語・〈伊勢日向〉寄生木草紙・そのゝゆき・繪本伊賀越孝勇傳・葦牙草紙・文覺上人発心之記橋供養・〈西國順禮〉幼婦孝義録・頼豪阿闍梨恠鼠傳・繪本淺草霊験記・新続古事談・繪本雪鏡談・繪本合邦辻・繪本佐野報義録・星月夜顯晦録・豪傑勲功録・名勇發功談・楳精奇談魁草紙・源平外記染分草・源氏一統志・斐陀匠物語・稲妻表紙後編本朝酔菩提・烈戰巧記・雙蝶記・復讐二見浦・新田義統功臣録(繪本璧落穂の改題本)・繪本甲越軍記・月氷奇縁・古實今物語・小幡小平次死霊物語復讐安積沼・繪本太閤記
一瞥を加えただけでも、文化以降の江戸読本と上方絵本読本の大半が網羅されている様子が見て取れる。これは、そのまま19世紀の貸本屋における江戸読本の蔵書構成を反映していると見做すことが出来よう。
※
さて、このような読本の挿絵だけを綴じ合わせた資料は国内では余り見かけない。では、誰が何時このような〔読本挿絵集〕を作成して西欧にもたらしたかという疑問が生じる。
此処まで見てきたように、印記や手擦れ等の状態から貸本屋旧蔵本を用いて造本されたことは確実である。それ故、摺りの状態は区々で必ずしも後印本ばかりではないが、保存状態の良好なものは少ない。
「好古文庫」「画工の友」という書題簽は毛筆行書体で書かれており、日本で作成されたものだと思われる。この題簽が剥離して、原題簽や、原題簽が剥離した上に打付書きされた外題、または貸本屋が書いた題簽などが現れたものが少なくない。つまり、貸本屋本に貼られていた題簽の上から「好古文庫」「画工の友」という題簽が貼付されているのである。これら一連の改装作業は日本で行われたと考えるのが自然である。
この〔読本挿絵集〕には[三嶋]や[長門]という貸本屋印が捺された本が多い。営業文書で裏打されている本にも彼等の蔵書印が捺されていることから、三嶋某、または長門(吉兵衛▼17)という貸本屋の旧蔵書がこの〔読本挿絵集〕の基礎になっていると考えられる。
つまり、明治期に入って19世紀も終わろうとしている頃、廃業した貸本屋本が古本として出回った際に、日本の業者の手で輸出用に作成されたものであると推測できるのである。折りしもジャポニズムの流行で西欧の市場では日本の絵入本や錦絵が売れていたからである。
現存する西欧のコレクションでは、読む部分の多い読本より、見た目の品が良い絵本(狂歌絵本など)や錦絵の方が多数見受けられるようである。しかし、読本の挿絵も浮世絵師が担っていたわけであるし、何より極東の島国である日本の歴史風俗を描いた絵画資料、ないしは絵本として鑑賞されたものであろう。一連の「好古文庫」や「画工の友」という命名は、その享受のされ方を良く表していると思われる▼18。
さて、ギメ東洋美術館にこれだけ大量に保存されているということは、かなりの〔読本挿絵集〕がヨーロッパに渡っていると考えられる。管見の範囲では、ベルギー王立図書館の蔵書にも読本に混じって、挿絵だけを綴じ合わせた同様の本が四点ほど見出された。
・「好古文庫」四(FS XLI 353)と打付書。『畫本信長記』初編巻八(2ウ3オ)などと『阿古義物語』巻二(3ウ4オ)を所収。
・「本朝武藝」六(354)と打付書。『畫本信長記』初編巻八(15ウ16オ)など所収。
・「繪本画工艸帋」十七(576)と打付書。『忠孝潮来府志』巻四などを所収。
・「好古文庫」七(609)と打付書され、『繪本亀山話』巻六と『絵本西遊記』巻八を所収。
「好古文庫」という書名が共通するのみならず、同王立図書館蔵の『新編水滸画傳』(236)には[長門]、『椿説弓張月拾遺』巻五(238)には[長門][三嶋][本清]の蔵書印が捺された上に見返には「三島の口上」が貼付されている。つまり、西欧にもたらされた読本や〔読本挿絵集〕はパリのみならず、各国の様々なコレクションに分散していたものと思われる。
しかし、和本の整理や目録作成には崩し字解読や書誌学の知見が不可欠である上に、この手の〔読本挿絵集〕などは図書館などでは整理の仕様がなく、未整理の侭で放置されている可能性がある。今後、それらの調査が進み、〔読本挿絵集〕に関する今少し具体的な様相が知れるようになると良いと思われる。
江戸読本にとって口絵挿絵の評判が売行に大きく影響を与えていたことは知られているが、明治期に国内で貸本屋本としての役割を終えた板本たちが、絵入本であったが故に西欧に渡って生き残っていたわけである。あらゆる事が国境を越えてグローバル化しつつある時代に、150年前に西欧に渡った本が、大切に保管され続けていたことは、あるいは驚嘆に値することではないかもしれない。しかし、日本の文化遺産が海外の人々の目によって評価され保存され続けていたことは、日本の古典遺産の意義が、偏狭な国粋主義(美しい日本の文化は日本人にしか理解できないという説)などとは無縁であることを証しているものだと思われる。
注
▼1. 旧パリ東洋語図書館(BIULO)。2006年に国文学研究資料館から和本の目録が出されている。【付記】 本稿は、ギメ東洋美術館図書室司書の長谷川正子氏の御厚意に拠り成ったものです。 毎年お邪魔する度に、整理途中の資料から該当する資料を探し出して調査を許されたのみならず、多くの御教示を忝くしました。また、本稿の発表と写真の使用とを許された図書室長のクリスチィーナ・クラメロッティ氏にも心より感謝申し上げます。