文化元(1804)年に初演された『天竺徳兵衛韓噺』は、蝦蟇の妖術を用いた謀反人劇として好評を博し、後の江戸戯作に大きな影響を与えました。しかし残念なことに、4代目鶴屋南北の台帳は残っていないので、初演時の様子は良く分かりません。『鶴屋南北全集』第1巻に収まる『天竺徳兵衛万里入船』は、天保12〈1841〉年のもので、その内容は、役者評判記や『歌舞妓年代記』などの記述によると、初演時とは大きく様子が違うのです。ただ幸いなことに、文化3〈1806〉年に市村座で上演された『波枕韓聞書』の台帳が残っていました。これは南北のものではないのですが、初代尾上松助自身による天竺徳兵衛の再演であるため、初演時の様子を知るための貴重な資料となっています(鵜飼伴子「蝦蟇の妖術考」)。
〈絢交ぜ〉と呼ばれる、別の話を強引に付会する作劇法を得意とした南北は、文化5年上演の『彩入御伽艸』では皿屋敷や小幡小平次怪談と、文化6年上演の『阿国御前化粧鏡』では、累の怪談と付会した天竺徳兵衛物を書いています。以下、これらの南北劇に影響を受けて作られた戯作小説を紹介してみましょう。
南北とも影響を与えあった山東京伝の草双紙合巻『敵討天竺徳兵衛』 (文化5〈1808〉)は、天徳が肉芝道人から授かった蝦蟇の妖術を駆使して御家再興足利家滅亡の陰謀を企てるが、妖術封じの蛇によって失敗するという筋立てです。また、同じく京伝が〈徳兵衛〉という名から連想して曾根崎心中に付会した『〈天竺徳兵衛|お初徳兵衛〉ヘマムシ入道昔話』 (文化10〈1813〉年)や、世界を鏡山に求めて小紫権八譚と絢交ぜにした『尾上岩藤/小紫権八/天竺徳兵衛・草履打所縁色揚』 (文化12〈1815〉年)があります。ちなみに、岳亭梁左の切附本『報讐海士漁船』 (安政期〈1854〜〉)は、京伝の『敵討天竺徳兵衛』に別趣向を加えて書き換えたものです。
草双紙の一種として〈正本写〉と呼ばれる歌舞伎の筋書き合巻があります。『天竺徳兵衛韓噺』 (天保4〈1830〉年)は、天保3年に河原崎座で上演された『天竺徳兵衛韓噺』を、配役通りの役者似顔を用いて紙上に再現したものです。また、安政4〈1857〉年春の森田座上演『入船曾我倭取舵』を綴った「狂言堂如皐原稿・柳水亭種清綴合、梅蝶楼国貞画図・国綱補助」という『入艤倭取楫』 (安政4〈1857〉年)も同様です。これらの正本写からは、当時の舞台風景を垣間見ることがができます。
一方、本格的な小説ジャンルであった読本では、為永春水の『〈天竺|徳瓶〉仙蛙奇録』 (嘉永4〈1851〉〜安政5〈1858〉年)くらいのもので、天徳を扱った作品は多くはありません。ただし、蝦蟇の妖術を趣向として利用したものには、京伝読本『桜姫全伝曙草紙』 (文化2〈1805〉年)や、同『善知鳥安方忠義伝』 (文化3〈1806〉年)があります。京伝は特に天徳が気に入っていたとみえて良く使っていまして、『曙草紙』の蝦蟇丸が鷲尾義治の首級を口にくわえて水門より逃走する場面の挿絵などは、南北の舞台 (吉岡宗観邸裏手水門の場)を思い起こさせるものがあります。式亭三馬による唯一の読本である『〈流転|数回〉阿古義物語』 (文化7〈1810〉年)でも、蝦蟇の妖術が趣向化して用いられています。
これらの作品群からは、南北の天徳物が近世後期の戯作に与えた影響の大きさを知ることができるでしょう。天徳という蝦蟇の妖術使いが反逆者として形象化されていく背景として、天草四郎の幻影が垣間見えることについては、すでに指摘がありますが、式亭三馬の『戯場訓蒙図彙』 (享和3〈1803〉年)「蝦蟇」の項には、印を結ぶ男と巨大な蛙が描かれていて、蝦蟇のイメージが良く分かります。この天徳物は、さらに〈自来也(児雷也)物〉という蝦蟇文学を代表する作品群へと継承されていくことになるのでした。