文政7年刊の中本型読本『殺生石後日怪談』初編上冊見返(架蔵)
本書は半紙本仕立(22.2cm×15.2cm)、初編上下2冊(上冊21丁・下冊22丁)。縹色無地表紙左上に合巻風摺付題簽「殺生石後日怪(恠)談初編上(下)\曲亭馬琴著\歌川豊國画(歌川國貞画)」(括弧内は下冊)を貼付。
上冊見返「殺生石後日怪談〈初|編〉上冊\文政七年新版\曲亭馬琴戲編〈甲申|新鐫〉\歌川豊國繪畫〈全本|二册〉\
合巻の繪草紙は筆畊のいと多かるを猶画の中へ書納れ侍れバ合印あまたあり且細字なるをもて讀にわづらはしく思ひ給ふも侍りてん。この冊子は作者の新案にて画と筆畊を別にしたれば見るに目易く讀に煩しからず。價も亦合巻とさのみの高下あらずして御遣物に直打あり。讀本と合巻を兼て下直の三徳あればこれを利便の冊子といはん歟
江戸馬工郎町 山口屋藤兵衛版
下冊見返「殺生石初編下册\曲亭馬琴作〈文政甲申孟春|國字小説魁本〉\歌川國貞画〈江戸馬工郎町|書肆錦耕堂梓〉\文政甲申新版」。
自序末「文政七年甲申春正月新版 曲亭馬琴述[馬琴]」。板心「殺生石 (下)丁付」。
上冊巻末「殺生石後日怪談初編ノ上終\馬琴作」(21ウ)、
下冊巻末「殺生石後日怪談初編下終\曲亭馬琴作[乾坤一叢亭]\〈上|冊〉歌川豊國画[年玉]\〈下|冊〉歌川國貞[圀貞]」「浄書 藍庭晋米謄冩\彫工 鈴木栄次郎 剞〔ケツ〕」(下22了ウ)。左上に「家傳神女湯」など「瀧澤氏製」薬広告存、「取次所」「いつみや市兵衛」「河内や太助」とある。
さて、本書は天保4年刊の5編下帙で完結するまでに、かなり複雑な出板経緯を辿ることになるのであるが、この間の事情については、向井信夫「殺生石と山口屋」(『江戸文藝叢話』、八木書店、1995。初出「『殺生石』と山口屋について」、「馬琴日記月報」3、中央公論社、1973年9月)が備わっていて間然する余地はない。すなわち、文政4年に山口屋に請われて起稿した初編は、
中形読本風の上下物として文政七年春の新板で売り出された。しかし、錦絵や合巻の、それも小体な問屋だった錦耕堂では、この種の板本はなかなか捌け切れず、翌八年春にはこれを合巻に仕立直して、再び売り出したが、矢張り捗々しい売行きはなかったようである。この為二編の稿本は板行されず、錦耕堂はこれを同業の芝神明前の甘泉堂(和泉屋市兵衛)に売渡して了った。
のであった。ところが、所在の知られている本は何れも後印本であり、長年にわたって文政7年の刊記を持つ本の所在が確認されていなかったのである。
本書は2009年夏にデパート古書展で偶然入手したものであるが、面白いことに出て来る時には続くもので、佐藤悟氏も最近同版の下冊を入手された。そこで、早速並べて比較してみた。佐藤本は摺付表紙を持つ中本仕立、同一板木が用いられたもので、顕著な摺りの相違は認められなかった。ただ、図版からも分かると思われるが、上冊見返上部の「七」とその下の「〈甲申|新鐫〉」に微妙な墨色の相違が認められ書体にも違和感がある。下冊見返にも板木に手が加えられている痕跡を認めることが出来る。初摺時にも予定通りに進行しなかった事情が介在したのかも知れない。いずれにしても、文政7年の刊記を持つ本が現存することを確認できたわけである。
なお、都立中央図書館蔵の一本は、上冊見返に「乙酉」、序末に「八年乙酉」、下冊見返も「文政乙酉孟春」と入本され、奥目録に「文政八年乙酉春」とある山口屋板。さらに丹表紙に文字題簽を持つ後印本では見返もなく序末の年記も削られる。【参考図版】
仮名主体の本文だけの丁に草双紙風の挿絵を加え、初編だけは5丁1冊の規格から外れた中本型読本と草双紙の折衷様式であったが、2編以降は板面様式を継承しつつも合巻として出された。後印本のみならず、ボール表紙本や、和装活字本である家庭繪本文庫の1編としても出され、長く読み継がれたテキストである。