草双紙とは江戸時代を代表する絵入りの大衆小説であった。製版と呼ばれる木版画の技法によって、和紙に墨で摺られ袋綴じにされた和装本である。浮世絵師等によって全頁に挿絵が描かれ、その余白に主として平仮名で物語が記されている。美濃紙半裁を2つ折りにした中本(19×13cm程)と呼ばれた大きさの板本で、現在の四六判と呼ばれている本に相当する。新書版より少し大きく文庫本の倍よりは小振りな、愛玩すべき柔らかな手ざわりの本である。
この草双紙は江戸時代小説の中でも一番長い期間にわたって出板され続けたジャンルで、江戸初期(17世紀の中頃)から明治20年代(19世紀末)に至るまで新作や長編の続作が陸続と出され、その後も明治時代を通じて大勢の愛読者に読み継がれてきた。初期には朱色だった表紙は、黒色・青色(草色)へと、その内容の変化に伴って変えられ、それぞれ赤本・黒本・青本・黄表紙と呼ばれている。5丁(紙5枚=10頁)で1冊に製本するという規格があったが、次第に内容が長編化して冊数が増えたので、文化期(19世紀初頭)に入ると製本の手間を省くために数冊を合冊するようになった。以後、合巻と呼ばれるようになる。また明治10年代になると、9丁3冊で1編という新規格の明治期草双紙が出されることになる。
草双紙は一貫して浄瑠璃や歌舞伎をはじめとする演劇と密接な関係を持ち続けてきたが、とりわけ黒本時代は浄瑠璃との関係が深く、特に坂田公時の息子である金平が活躍する金平浄瑠璃ものが多かった。青本・黄表紙時代には歌舞伎の流行に影響されて、時に挿絵中に役者似顔が用いられるようになり、合巻時代になると挿絵にも歌舞伎舞台を彷彿とさせるものが多くなり、多色刷りの役者絵のように美しい錦絵風の摺付表紙が用いられるようになる。狭義の草双紙とは、この錦絵風摺付表紙を備えた合巻を指すことが多い。
この250年余の歴史を有する草双紙の挿絵は、少なく見積もっても約30万コマにのぼったと試算されたのは木村八重子氏であるが、同氏の『草双紙の世界』(ぺりかん社、2009年)では豊富な図版を示されながら草双紙の変遷を解説されていて、あふれんばかりの草双紙の魅力に触れることのできる最適の入門書となっている。
さて、ここで文政元(1818)年刊の合巻『宝舩黄金檣』の一節を紹介してみよう。巻中で所謂楽屋落ちとして、本筋とは直接関わらない出版界の舞台裏が、見開き1丁「金銀のために使はれて人々身を苦しめる所の画組み」として趣向化されて挿入されている。
中央上部には、顔が小判となっている板元の和泉屋市兵衛が描かれ、「皆が精を出してさつ/\とやりなせへ。わしが此処に控て居るから、猿が餅じや」と言っている。出板に係る資金を先行投資しているのは板元であるから、売れないと困るが、売れれば儲かるのも板元であった。続けて「遅いと板元も利あいが悪いから自づから二年後へ廻りますぞ。何でも早いがお徳じや/\」とあるが、そもそも草双紙は新春を慶賀する景物であったので、新年の売り出しに間に合わないと大幅に売り上げに響いたのであり、手間賃を貰って仕事をしている職人達と板元との利害は一致していたのである。
一方、右上に描かれた作者の東里山人は「先画組ハ当たり前の芝居がかり」と言っている。これは「挿絵のレイアウトは普通の合巻と同様に、歌舞伎舞台を彷彿とするように描こう」という意味である。近世期の絵入り本は、作者は本文のみならず挿絵等の下絵(画稿)をも描くのが通例であった。戯作では表紙や口絵・挿絵が売れ行きを左右するほど大きな意味を持っていたので、浮世絵師の人気も無視できなかったが、絵の構図は画工の着想ではなく、作者の示した稿本に基づいて清書されていたのである。
左上に描かれた画工の勝川春扇は、稿本の画稿を見ながら「コウト、此処の所ハ敵役が名剣を奪ひ取て、だんまりのたち回りがあらうといふもんだから、何れ樋の口か又ハ後ろに藪畳のあいしらいがねへと見てくれが良くねへ」と言っている。すなわち「この場面は敵役が御家の重宝である名剣を奪い取り、ダンマリ模様の立ち回りがあるはずの場面だから、背景には大道具としての水門か笹藪でも描き込まないと見栄えがしない」と判断したのであろう。さらに「左りへ刀を持たせたも、右で切り倒し左へ持ち直して見せたやつだ」などと、読者からの突っ込みを予想し、あらかじめ予防線を張っているのが可笑しい。
この挿絵の下部には、本文を清書する筆耕(筆工・傭書)・板木を彫る彫工(板木師)・完成した板木を刷る刷師(板摺)という職人が配されていて、板元の企画先導の下で出板が行われていたことが一目瞭然となる図柄で、作者ですら一職人に過ぎないと見做すことができるのである。
いずれにしても、作者と画工の間に歌舞伎の作劇法や演出に関する共通認識が存したからこそ、このような連携作業が可能であったことが良く分かる資料である。
さらに歌舞伎に密着した草双紙として、歌舞伎舞台を紙上に再現した「正本製」と呼ばれるものや、実際の上演舞台の報道や予告をするための「正本写」と呼ばれる草双紙が出された。正本とは芝居の台帖のことであるから、此等は芝居の筋書きを草双紙化したものなのである。役者似顔が用いられ、あたかも舞台を観ているように鑑賞できたのである。見立てによって実際の上演時とは異なる配役や異なる演出で描かれる場合も少なくなかったのであるが、舞台上の名場面を写実的に描いた筋書きとして人気があった。
また、著名な歌舞伎役者を〈作者〉として売り出された草双紙があり、佐藤悟氏の「役者名義合巻作品目録」(叢書江戸文庫24『役者合巻集』、国書刊行会、1990)によれば約80種が確認できる。もちろん作者名義を役者名としただけで、実際は戯作者の代作によるものであった。沢村宗十郎作『近江源氏湖月照』が序者である岡三鳥の手に成るものであり、7代目市川団十郎作『会席料理世界も吉原』が校合者として名前を出している五柳亭徳升の手に成るなど、序者や校合者として実作者の名前が知れるものも少なくない。次第に代作によることは読者にも知られたものと思われるが、贔屓の役者の狂歌(自筆)が添えられていたり、お気に入りの役者が主役として活躍する似顔入りの草双紙が人気を博したことは想像に難くない。また、歌舞伎狂言作者であった4代目鶴屋南北(姥尉輔)や河竹黙阿弥も草双紙も執筆していた。これらは板元が役者の人気に乗じて利益を求めた企画であった。
ところが、文政期以降に刊行された長編合巻に基づいて脚色された歌舞伎狂言も少なくなかった。『児雷也豪傑譚話』(嘉永5〈1852〉年、河原崎座)や『しらぬい譚』(嘉永6〈1853〉年、河原崎座)のほかにも、柳亭種彦作『偐紫田舎源氏』による『内裡模様源氏紫』(天保9〈1838〉年、市村座)や『東山桜荘子』(嘉永4〈1851〉年、中村座)、曲亭馬琴作『新編金瓶梅』による『金瓶梅曾我松賜』(万延元〈1860〉年、中村座)、万亭応賀作『釈迦八相倭文庫』による『花見台大和文庫』(安政元〈1854〉年、中村座)などがある。
草双紙と歌舞伎とは、相互に依存しながら19世紀末を飾った大衆文化の一潮流なのであった。
『白縫物語』64篇の校合本(大妻女子大学図書館蔵)14丁裏15丁表。
下部の書き込みは、作者による彫り損ないを指摘する朱筆で、出板された板本では正しく直されている。