『鷲談傳奇桃下流水』−解題と翻刻−

高 木  元 

【解題】

 本作は、文化六年十一月二十二日に出板された『小櫻姫風月奇観』に続いて、文化七年正月二十七日に出板されたものである。巻五の巻末に付された跋文に拠れば、文化五年三月六日に起稿し五月十五日に巻一を脱稿していたが、残りの四巻は翌文化六年十月二十八日から十二月九日に仕上げたとあるから、実際に書き始められたのは本作の方が先立ったようである。
 どのような事情で一年半も放置されていたのかは不明ではあるが、文化五年から六年に掛けては大量の草双紙の執筆を行っていたことは間違いない。どういう勘定に成っているのか分からない点もあるが「文化五年京山作十七部之一」とか「文化巳春京山作十種之一」などと標榜して多作を誇っている。デビュー直後の草双紙作者としては異例の多作といわざるを得ない。たとえば、文化六年刊の合巻『千本桜祇園守護』の序文に「文化五年戊辰秋七月草稿成」とあるように、執筆時期を明らかにしている草双紙も多く、その驚くべき執筆速度が知れる。
 この文化期半ばは、江戸読本の刊行にとっても絶頂期であり、京山に対しても早くから板元である貸本屋からの執筆依頼があった。序文の「観竹堂得刻之」という行文や、本書の口絵に掲げられた「師宣の図」に関する説明に「此書を著述する縁で観竹堂より贈られた」と書いていることから、観竹堂すなわち上州屋仲右衛門からの執筆依頼があったものと推測できるのである。ところが、実際に本書を刊行したのは、刊記から了解できるように栄山堂(丸山佐兵衛)であった。双方ともほとんど出板実績のない本屋であるが、井上隆明『改訂増補・近世書林板元総覧』(青裳堂書店)に拠れば、栄山堂は本書しか出していないのである。
 そこで『享保以後・江戸出版書目』を見ると「文化七午年正月廿七日廻し割印 去冬行事 同前」「同六巳年十二月掛改済/鷲談傳竒・桃花流水 全五冊 山東京山作/哥川豊広画 板元売出し 前川弥兵衛/同百廿五丁」とあり、『外題作者画工書肆名目集』には「鷲談傳竒・桃茂(ママ)流水 五冊 京山作/豊広画 前川弥兵衛/午正月廿二日校本廻ル正月廿五日上本/廻ル廿七日売出し 十一月十九日廻ル」とあるように、書物問屋として出願をした前川弥兵衛の名前しか見られない。実は、この前川弥兵衛は『小桜姫風月奇観』の出願板元でもあり、京山作の読本を前後して二作出願したことになる。しかし、本書では見返に盛文堂(前川弥兵衛)・栄山堂と蔵版元を並べて書き、刊記にも「仝梓」としており、単なる出願書肆ではなく相板元と成っている点に注意が惹かれる。つまり、観竹堂から栄山堂への板元の移動、そして彼等貸本屋と書物問屋である前川弥兵衛との関係が、本書の執筆が一年半放置されていたことと無関係であるとは考えにくいのであるが、今はこれ以上の詮索はできない。
 ついでながら、本書の巻一と二のみには『小桜姫風月奇観』と同様に句読点がほとんど施されていない。しかし、不審なことに巻三以下は一般的な読本と同様に句読点の区別無く白点が打たれている。執筆時期の問題とは直接関係ないと思われるが、翻刻本文からは分からない点なので一応記しておくことにする。
 さて、本書には本格的な作品論として、津田眞弓「山東京山読本考−『鷲談伝奇桃花流水』をめぐって−」(『日本女子大学大学院文学研究科紀要』二、一九九六年三月)が備わっている。序文自体が京山のあげつらった蒋士銓の戯曲『雪中人』の「填詞自序」に擬して書かれていることを指摘し、明示された典拠である三好松洛・竹田小出雲合作の浄瑠璃『花衣いろは縁起』と登場人物とその形象に着目した詳細な比較検討を通じて、勧善懲悪を徹底した武家の敵討物語として再構成していることを指摘し、京山の心底に去来する理想的な武士に対する憧憬を読みとっている。
一方、京山の文学史上の位置に関する示唆に富む論考として、内田保廣「『不才』の作家−山東京山試論−」(『近世文学論叢』明治書院)がある。氏は「不才」であると繰り返し公言して憚らなかった京山の作家としての意識を、「書肆が主導して、出版が行われていた当時の、作者の位置とそこに形成された」ものとし、商業出版の確立にともなって量産を強いられる作者にとって、作品構成力の不足という欠陥、すなわち京山のいうところの「不才」は、彼の作品にとって大きな障害ではなかったと結論付ける。その具体例として本書の左衛門、飾磨、横島の三人が同じように切腹して死ぬという同一趣向が繰り返される点を挙げ、また鷲にさらわれた三之助について「三之助のゆくへは三之巻にくはしくしるす」と予告していることに関して、読者の読み方を筋の展開ではなくてプロセスの方へ誘導するための方法であると指摘する。さらに、柏木と小君を捕らえた女非人達の描写が、主筋の展開とは無関係であるにも関わらず、三回分も延々と続けられた上で、唐突に登場する摩利支天の化身と見られる猪によって救われる点を挙げ、見せ場と全体の展開が遊離してしまってる形は読本には不向きであったが、長編合巻にとっては場面の描写で短期的に読者の興味を引くこの方法(オムニバス)が有効であったと説いている。

【書誌】

活字本表紙  活字本刊記 活字本刊記
『山中三之助復讐美談・鷲談傳桃下流水』(明治十八年、菱花堂)

【表紙】

表紙

鷲談傳奇/巻之一(〜五)

【見返】

見返・序

山東嵒京山 填詞[京山先生三種曲之一]/鷲談傳奇・桃花流水/歌川豊廣畫圖・文化庚午新譜・書舗 盛文堂・榮山堂

【自序】
自序 [橋坐山東]
戊辰の春墨水觀花之次(ついで)。友人柳菴綾瀬別業を過ぐ。飲漱六水閣。對岸の桃花爛燦にして錦の如し。柳菴と分韻。詩興最も濃也。偶元遺山集本を見る。中に劇冊一本夾刺有り。予曰く主人何等不風流。蒹葭と玉樹と同一架。柳庵劇本を採て予に示して曰く。此書劇詞場中為翹楚者。竹田出雲作する所の花衣篇たり。蓋し駕國史所載鷲攫良辨話作之。清人蒋士銓於鐡丐傳。與編雪中人傳奇相類也。千穐之佳話。慰十載之遐思。請試讀之。於斯乎倚欄干。酔眼を開きて之を読む。間妙句有り。覚えず全部を終ぬ。天色竟に晩れ。歩月帰家。此夕兀坐。意有所觸。構局成編。遂に一齣を作り夜達曙人事雑還。小暇書之。三十七日を越え稿脱す。題して曰く鷲談傳奇桃花流水と。以似柳菴。觀竹堂得て之を刻し。遂に出雲之徒と。其流を同す。
刻成り之れに序す。文化戊辰歳立秋日也。 山東嵒京山撰 [京山][仙杳]


題

書画舫
爲 京山詞宗[月松風艸]
筆歌墨舞 〓小影[戯印小影]

画賛

[石斎] 讀桃花流水三首
巾〓綱常事可風 筆花涙染桃花紅 偶然讀到詼諧處 天籟嘘々入耳中
詞苑曾推若士湯 南安梦境太荒唐 不傳梅柳傳桃李 壓倒風流玉茗堂
意蕊情絲細品量 桃花流水有餘香 頭廳間袖三長手 却與春光作主張
 戊辰春 空谷樵者草 [正雅]

[片玉]
春塘〓鞭過于
空谷主人之山舘
偶見讀桃花流水
作予亦戲作此圖合
與京山氏 酔僊[酔][仙]

画賛

此書脱稿後辱 両公子之雙絶藏篋際怕
冒帋魚拘卷首以似 大方清鑒
 文化戊辰三月 京山陳人[京山]

 題家弟京山新作[艸一枝復意華]
橋北墨花初競奇 堪慚燈下作篇遅
閑窗春雨生眠日 寒室秋宵結悶時
展覧偏憐忠義志 沈唯深悪姦曲姿
熟耳嬰児知風路 自異爺娘童話痴
 醒々齋京傳[田蔵][山東]

師宣

日本繪 菱川師宣圖[師宣]
風の柳の吹まゝにさそふ水あらはと聞へしは恨かちなる世の中の人の心をくみてしる淺草川のはやきおふねはうはきの波にうちまかせまつち山の松の嵐にその夜の夢をさまさせわかれぢのさう/\しさ首尾といふ字のうつゝなさせいもん/\らちもみたれてひと花心へにくひ事きいたよすかもそれも御身のたのしみならはよしそれとてもへ

右に著す師宣の図は淡彩の絹幅なり此書を刻する觀竹堂市に購得たりとて予に贈れり圖中に題したる文は三浦屋の小紫といふ阿曾比の作れる萓草といふ小歌なる事洞房語園に見ゆ家兄京傳翁の家藏に小紫の短尺ありその運筆此書に相似たり師宣は小紫と時を同うせしものなれば此題辭は小紫の書なるべくおぼゆめり
藻の花や繪にかきわけてさそふ水と晋子の讃せしもこの阿曾比なるべしおのれ此書を著述せる縁によりて得たる一軸なれば縮書してこゝに掲つ好事家の一觀に具するのみ 酔々子識之[京山]

口絵

秋季(あきとし)の内君(うちぎみ)(はな)の方(かた)一子氏王丸(うちわうまる)志賀里(しがのさと)花見(はなみ)の図(づ)
山桜花の下風吹にけり 木のもとことの雪のむらきへ

口絵

 [山東]
桃文稱辟惡
桑表質初生
  [京山]
○山中(やまなか)左衞門(さゑもん)正當(まさはる)

雪瓜星眸世所稀
摩天専待振毛衣
    [石斎]
山中(やまなか)左衞門(さゑもんの)一子(いつし)三之助(さんのすけ)

口絵

地獄坂(ぢごくざか)の女非人(をんなひにん) 鬼芝(おにしば)
 [山東]
旧曲聽来猶有
恨故園皈去却
無 [京山]

星合(ほしあい)梶之輔(かぢのすけ)照連(てるつら)
[文齋]
十年磨一劍
霜刄未嘗試
今日把示君
誰爲不平事
 [石華]

口絵

(むすめ)小姫(こひめ)
山中(やまなか)左衞門(さゑもん)(の)(つま)栢木(かしはぎ)
[酉弐]
生別死愁一夜来芳心明意
去難回霜風破却満樹泥〓
染鬆面置苔
 酔々軒主人題 [京山]

山中(やまなか)左衞門(さゑもんの)家〓(けらい)
春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)
[酉弐]
忠骨孝肝鐡石心
家無四壁不貧獨
飛動鴻鵠志意風
裏劍光斬冦人知
 酔々子題 [京山][橋坐山東]

口絵

[石齋]
萬般物象皆能鑒
一箇人心不可明
  [京山]
頑婦(ぐはんふ)眞弓(まゆみ)(の)(かた)
 [山東]
薪和埜花採
歩帯山詞唱 [京山]
由良之進(ゆらのしんの)家弟(をとゝ)簑作(みのさく)

口絵

[山東]
眉黛奪将萱草色
紅裙妬殺石榴花
 [京山]
山中三之助 再出
五月雨(さみだれ)の小督(こがう)

山樵(やまかつ)枝朶六(しだろく)
[酉弐]
誰愛風流高格調
共憐時丗儉梳粧
 [京山]
深雪(みゆき)

再識・目録

僕自幼嗜〓印章。凡銀銅牙角玉石随材奏刀。嘗挟此技一遊文場已久矣。今欲售此技以充楮墨之費。然則不復属閑巧夫。茲定工價。開欸于巻尾。願 諸君賜顧者。嗣索拙作榮幸々々。統乞垂鑒。
 文化戊辰夏五 山東京山[京山]欽白

僕幼き自り嗜て印章を〓す。凡そ銀銅牙角玉石材に随て奏刀す。嘗て此の技を挟で文場に遊ぶこと已に久し。今此の技を售て以て楮墨の費に充んと欲す。然は則ち復閑巧夫(ムダビマ)に属さず。茲に工價を定めて。巻尾に開欸す。願は 諸君賜顧の者。嗣て拙作を索めば榮幸々々。統て垂鑒を乞ふ。
 文化戊辰夏五 山東京山[京山]欽白

鷲談傳竒桃花流水目録
 巻之一
壽筵(じゆえん) 失兒(こをうしのふ) 飛劍(けんをとばす)
 巻之二
臥劍(けんにふす) 顛狂(てんきやう) 鳴琴(めいきん)
 巻之三
乞銭(ぜにをこふ) 神護(じんご) 義樵(きせう) 血戰(けつせん)
 巻之四
幽栖(ゆうせい) 〓金(かねをひらふ) 熱閙(にぎはい) 義漢(ぎかん)
 巻之五
没水(みづにぼつす) 竒遇(きぐう) 窺栖(すみかをうかゞふ) 迎福(ふくをむかふ)
通計(つうけい)十八齣(せき)

目録・本文

鷲談傳竒桃花流水(わしのだんでんきとうくわりうすい) 巻之(けんの)

江戸 山東京山編次 


  第一齣 壽筵(じゆえん)

(いま)は昔(むかし)應永(をうえい)の年間(ころほひ)近国(あふみのくに)松江(まつえ)の庄(しやう)に松江(まつえの)判官(はんぐわん)藤原(ふぢはらの)秋季(あきとし)といふ人(ひと)ありけり。強氣(きやうき)勇猛(ゆうもう)にして武略(ぶりやく)に長(ちやう)じ南朝(なんてう)に忠勤(ちうきん)を奉(たてまつ)りし功(こう)によりて去(いぬ)る明徳(めいとく)三年南北(なんぼく)両朝(りやうてう)和睦(わぼく)の刻(きざみ)江州(ごうしう)松江(まつえ)に加恩(かおん)の所領(しよりやう)を賜(たまはり)しより後(のち)彼所(かのところ)に居(きよ)を移(うつ)し餘多(あまた)の家臣(かしん)を扶助(ふじよ)なして家(いへ)冨榮(とみさかへ)けり。秋季(あきとし)の妻(つま)を花(はな)の方(かた)といふ。前(さき)には南朝(なんてう)の后宮(こうきう)に仕(つか)へたる女房(にようぼう)にして哥学(うたまなび)はさらなり絲竹(いとたけ)のしらべ絵(ゑ)かき花(はな)むすびの技(わさ)にさへいと妙(たへ)なりけるうへに艶姿(すがた)秀衆(うつくしく)(こゝろ)ざま貞介(たゞし)かりけるにぞ夫婦(ふうふ)のなかもわりなくて睦深(むつみふか)くかたらひぬ。嫡子(ちやくし)氏王丸(うぢわうまる)といふは先妻(せんさい)の子(こ)にして花(はな)の方(かた)には継(まゝ)しきなかなりけるが花(はな)のかたさらに隔(へだつ)るこゝろなく我(わが)(まこと)の子(こ)のごとくおもひなし愛養(めでやしなひ)て已(すで)に氏王丸(うぢわうまる)十一歳(さい)にいたり。
(とき)は応永(をうゑい)七年の春(はる)秋季(あきとし)四十の初度(しよど)にあたりければ誕生(たんじやう)の日(ひ)にいたりなば家臣(かしん)(ら)をあつめ初老(しよろう)の年賀(ねんが)を祝(いは)ひ喜(よろこ)びの酒宴(しゆゑん)を催(もよほ)すべしとかねて其心(そのこゝろ)がまへありけるに花(はな)の方(かた)のはからひとして家臣(かしん)(ら)に祝(いは)ひの歌(うた)をよませ賀筵(がえん)の日(ひ)披講(ひこう)なさしむべしとて寄松祝(まつによするいはひ)といふ兼題(けんだい)をいだされたり。さるゆへに日(ひ)ごろ哥道(かだう)に志(こゝろざし)あるものは哥合(うたあはせ)する思ひしてよろこぶといヘどもその技(わざ)に疎(うと)きものどもはおのれが俗(さとび)たるをはぢらひけり。秋季(あきとし)は兵革(へいかく)の間(あいだ)に成長(ひとゝなり)て武事(ぶじ)をこのみ雅事(みやびたること)には心(こゝろ)をもちひざれば祝(いはひ)の哥(うた)をあつむるはさのみ興(きやう)あることゝはおもはざれども北(きた)の方(かた)のおぼし立(たち)なればそのまゝにうちおき給ひぬ。
(こゝ)にまた秋季(あきとし)が普代(ふだい)恩顧(おんこ)の長臣(ちやうしん)に山中(やまなか)左衞門(さゑもん)正當(まさはる)といふ者(もの)ありけり。性質(せいしつ)廉直(れんちよく)にして禮節(れいせつ)を重(おもん)じ子通(しつう)(きん)を脱(だつ)し伯鸞(はくらん)(かまど)を滅(めつ)するの風旨(おもむき)をしたひて最(いと)老実(ろうじつ)なる武士(ぶし)なりけるが武藝(ぶげい)のいとま且(かつ)て和哥(わか)をこのみ京(みやこ)なる某(なにがし)の卿(きやう)の弟子(をしへご)となりてそのみちにかしこければ秋季(あきとし)の四十(はつおひ)を賀(が)する祝哥(いはひうた)を奉(たてまつ)らすべき役(やく)にぞえらばれける。これ則(すなはち)(かれ)が身(み)を亡(ほろぼ)し家(いへ)を失(うしな)ふべき一端(いつたん)とは后(のち)にぞおもひしられける。
かくてほどなく秋季(あきとし)が吉誕(きつたん)の日(ひ)にいたりければ秋季(あきとし)廣院(ひろざしき)に家臣(かしん)(ら)をあつめ嫡子(ちやくし)氏王丸(うぢわうまる)をしたがへて上座(かみくら)に坐(ざ)をまうけければ山中(やまなか)左衞門(さゑもん)ひとまの障子(しやうし)をひらかせ輝光(かゞやき)わたる文臺(ぶんだい)のうへにあまたの懐紙(くわいし)をつみのせて捧(さゝげ)いで秋季(あきとし)の左(ひだり)の方(かた)にひきさがりて席(せき)をまうく。家臣(かしん)の面々(めん/\)は両側(りやうかは)に袖(そで)を連(つらね)て居(ゐ)ならびけり。花(はな)の方(かた)は簾(みす)たれたる裏(うち)にあまたの侍女(おもとびと)をしたがへ侍従(じじう)黒方(くろばう)のたぐひにやあらんいと妙(たへ)なる薫(かほ)りをほのめかせて哥(うた)の披講(ひこう)をきかれけり。時(とき)しも夜(よる)の事なりければ銀燭(ぎんしよく)の光(ひかり)金屏(きんびやう)に輝(かゞやき)て画(ゑがけ)(つる)千歳(ちとせ)のすがたをうつし彩色(いろどれる)(まつ)万代(よろづよ)の緑(みどり)をこめて最(いと)も冨貴(めでたき)光景(ありさま)なり。
(とき)に山中(やまなか)左衞門(さゑもん)文臺(ふんだい)をとりすゝみ出(いで)て吟上(よみあぐ)る哥(うた)どもをきけばあるひは万代(よろづよ)を松(まつ)の尾山(をやま)のかげしげみとことぶきあるひは住(すみ)の江(え)に生(おひ)そふ松(まつ)の枝(えだ)ごとにと祝(いは)ふ。子(ね)の日(ひ)する埜辺(のべ)の小松(こまつ)をうつし栽(うへ)て年(とし)の尾(を)ながき齢(よはひ)をいのれば相生(あひおひ)のをしほの山(やま)とよみかけて千(ち)とせのかげをたのみ千秋(せんしう)を賀(が)し万歳(まんぜい)を祝(いは)ひ三十一(みそひと)文字(もじ)の員(かづ)はおなじけれども詠(よみ)いづる意(こゝろ)はおのがさま%\にていづれおろかはなかりけり。披講(ひかう)もやゝ半(なかば)なるとき左衞門(さゑもん)星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)照連(てるつら)といふものゝよめる哥(うた)の上(かみ)の句(く)を吟(きん)じさして懐紙(くわいし)を手(て)にとりあげしばし思案(しあん)する介(てい)なりしが膝(ひざ)の下(もと)へとり除(のけ)て次(つぎ)の哥(うた)を吟(ぎん)じけり。秋季(あきとし)これを見咎(みとがめ)て左衞門(さゑもん)に對(むか)ひ汝(なんぢ)(いま)(ばん)の照連(てるつら)と名告(なのり)をあげ上(かみ)の句(く)を吟上(よみあげ)たるのみにて何(なに)ゆゑ懐紙(くわいし)を取除(とりのけ)しぞ。不審(いぶかしき)ふるまひなりと問(とは)れければ左衞門(さゑもん)(かしら)をさげ星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)がよめる哥(うた)につきては左衞門(さゑもん)所存(しよぞん)候へば披講(ひこう)をひかへ候。君(きみ)には唯(たゞ)このまゝに御(おん)見逃(みのが)したまはるべしと事(こと)あり気(げ)なる言葉(ことば)を聞(きゝ)(はげ)しき気質(きしつ)の秋季(あきとし)なればうけひく気色(けしき)はさらになく汝(なんぢ)その哥(うた)につきて存(そんず)る旨(むね)ありとは不審(ふしん)なり。事(こと)分明(ふんみやう)に申すべしと宣(のたまふ)ことばの尾(を)につきて梶之助(かぢのすけ)すゝみいでいかに左衞門(さゑもん)かばかり多(おほ)き哥(うた)のうちにて僕(やつがれ)がよみたるうたにかぎり披講(ひこう)をはぶくのみならず文臺(ぶんだい)の上(うへ)にすらおかざるは心得(こゝろえ)がたき事(こと)なり。相公(との)の御(ご)不審(ふしん)を蒙(かうふ)るのみか朋輩(ほうばい)の手前(てまへ)面目(めんぼく)なし。いで/\おもふむねをきくべしと眼(め)に角(かど)たてし形勢(ありさま)に席(せき)は粛然(しらけ)て見へたりけり。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)秋季(あきとし)に對(むか)ひ相公(との)の御(ご)不審(ふしん)とあらば一通(ひとゝをり)その子細(しさい)をきこえあぐべし。梶之助(かぢのすけ)も聞(きゝ)候へとてかの懐紙(くわいし)を手(て)にとりあげ ○我君(わがきみ)は末(すえ)の松山(まつやま)はる%\とこす白浪(しらなみ)のかづもしられず
とよめるは不祥(ふじやう)の歌(うた)にて候。それいかにとなれば我君(わがきみ)は末(すへ)とつゞきたるは

挿絵

【挿絵第一図 山中(やまなか)左衞門(さゑもん)星合(ほしあい)梶之助(かぢのすけ)が詩作(しさく)を詰(なじつ)て一場(いちじやう)の妖〓(わざわひ)を醸(かも)す】

(いむ)べき詞(ことば)なり。又(また)(なが)れてとゞまらず碎(くだ)けて消(きへ)やすき波(なみ)の数(かづ)に君(きみ)が齢(よはひ)をよそへたるも祝(いはひ)の心(こゝろ)には協(かなひ)がたし。評(ひやう)する身(み)としてかゝる不祥(ふじやう)のよみ哥(うた)を聞(きこ)へ上(あげ)んは相公(との)への惶(おそれ)あり。さるゆゑにとりのけ候ひぬ。いかに梶之助(かぢのすけ)(いま)申せしは此(この)山中(やまなか)が僻(ひが)おもひにや。おん身(み)の説(せつ)をうけたまはらんとことばを烈(はげま)していひけるに膽(きも)(ふと)き梶之助(かぢのすけ)も返答(へんとう)にさしつまり赤面(せきめん)してぞ居(ゐ)たりける。短(たん)気の秋季(あきとし)(おほい)に怒(いか)り連忙(あはたゞ)しく座(さ)を立(たち)給ひ梶之助(かぢのすけ)が髻(もとゞり)(つか)みて掎(ひきふし).やをれ照連(てるつら)(わ)が文事(ぶんじ)に疎(うと)きを軽視(あなどり)不祥(ふじやう)の哥(うた)を詠(えい)じて主人(しゆじん)を嘲哢(てうろう)なす横道者(わうたうもの)。扇(あふぎ)の骨身(ほねみ)におほべよといひてりゆう/\ぱつしと撃(うち)すゑたまへば髻(もとゞり)ふつと截(きれ)て髪(かみ)も乱(みだ)れ額(ひたい)の疵(きづ)に鈍染(にじむ)(ち)は頬(ほゝ)のあたりに流(ながれ)くだりて見(み)ぐるしかりける形勢(ありさま)也。秋季(あきとし)もとの席(せき)にかへり山中(やまなか)左衞門(さゑもん)にむかひ汝(なんぢ)梶之助(かぢのすけ)を引立(ひきたて)て早く目通(めとを)りを遠(とを)ざけよと主人(しゆじん)の命(めい)にせんすべなく山中(やまなか)左衞門(さゑもん)梶之助(かぢのすけ)に對(むか)ひ哥(うた)を難(なん)ぜしは評(ひやう)する者の役(やく)なればなり。かならず恨(うらみ)給ふべからず。相公(との)の命(おゝせ)なれば席(せき)を除(しりぞ)きたまへといひけるに梶之助(かぢのすけ)なんの答(いらへ)もせず左衞門(さゑもん)を眸(まなじり)にかけふかく恨(うらみ)たるさまにて次(つぎ)の間(ま)へしりぞきければ家臣(かしん)(ら)(かほ)を見(み)あはせて言葉(ことば)をいだす者もなく大(おゝい)に興(きやう)を醒(さま)しけり。秋季(あきとし)頓而(やがて)(ざ)を立(たち)給ひ歌(うた)の披講(ひこう)は重(かさね)てのことゝし席(せき)をかへて酒(さけ)(くむ)べし。みな/\彼所(かしこ)へ来(きた)るべしと宣(のたま)ひつゝ氏王丸(うぢわうまる)を伴(ともなひ)て奥(おく)の殿(との)へぞ入(いら)れける。
かくて次(つぎ)の日花(はな)のかた秋季(あきとし)にのたまふは昨日(きのふ)(かぢ)之助の哥(うた)なりといふを聞(きゝ)はべりしにその哥(うた)の忌(いま)はしきのみにあらず。かの一首(いつしゆ)は大治(たいぢ)三年に撰(えらは)れたる金葉集(きんえうしゅう)(が)の部(ぶ)に載(のせ)たる永成(えいせい)法師(ほつし)の哥(うた)に候。〔此哥を難じたる説基俊の悦目鈔に見ゆ〕梶之助は常(つね)からまけじたましゐの男(おのこ)ときゝはべれば此度(このたび)哥をよまざらんにはその俗(さとび)たるを人にそしられんことをいとひ屏風(びやうぶ)などに粘(おし)たる色紙(しきし)なんどに書(かき)たる松(まつ)に寄(よせ)たる祝(いは)ひ哥(うた)を認(み)て金葉集(きんえうしう)の哥ともしらず哥の意(こゝろ)もろく/\暁(さと)し得(え)ず上(かみ)の五(いつ)文字(もじ)をつくりかえて哥詠(うたよみ)(がほ)に懐紙(くわいし)をいだしかの席(せき)に連(つらなり)しは最(いと)/\堪笑為(かたはらいたきわざ)に候。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は君(きみ)の問(とは)せ給ふゆゑにやむことなく席上(せきしやう)にてかの哥(うた)を難(なん)じ候へども金葉集(きんえうしう)の哥とはしりながら其(その)出所(でところ)をいはず。梶(かぢ)之助(すけ)に哥(うた)盗人(ぬすひと)の悪名(あくみやう)をとらせざるは小町(こまち)に旡名(なきな)をおはせたる黒主(くろぬし)の昔(むかし)がたりに事(こと)かはり実(げ)にも仁義(じんぎ)の雅男(みやびを)に候はずやとひたすら賞美(しやうび)したまひければ秋季(あきとし)これを聞(きゝ)いかにもさこそとおもはるゝ心(こゝろ)より左衞門が志(こゝろざし)を感(かん)じ當時(そのかみ)義家(よしいへ)(きやう)の帶(たい)せられたる鳩丸(はとまる)といへる短刀(たんとう)のかたを摸(うつし)て作(つく)らせたる短刀(たんとう)を当座(とうざ)の褒美(ほうび)として山中左衞門にとらせ梶(かぢ)之助はおしこめおかれけり。

  第二齣 失児(こをうしなふ)

近江国(あふみのくに)志賀里(しかのさと)は〔三井の北.西郡(にしこほり).正興寺(しやうこうじ).新(しん)在家(ざいけ)の四村をむかしの名ごりといふ〕往古(わうこ)景行(けいかう)天皇(てんわう)を始(はじめ)(たてまつ)り天智(てんち)の帝(みかど)も都(みやこ)したまひたる旧都(きうと)にして昔(むかし)なつかしき景色(けしき)は山さくらの香(か)にのこりて世々(よゝ)の撰集(せんしゆう)にも此地(ち)の春(はる)をよまざるはなく京極(きやうこく)の御休(みやす)所も一樹(いちじゆ)のかげに一種(ひとくさ)の物語(ものがたり)をのこし給ひつ名(な)におへる櫻(さくら)の名所(めいしよ)なり。此里(さと)の裏(うち)にも花園(はなぞの)といふ所(ところ)はわきて櫻(さくら)のおほければ弥生(やよひ)のころは貴賎(きせん)群集(くんしゆ)して豊饒(にぎはし)かりき。
(さて)も山中左衞門は一日(あるひ)かの花園(ぞの)の花見んとて妻(つま)の柏木(かしはぎ)を伴(ともな)ひ今歳(ことし)十二歳(さい)になれる娘(むすめ)小君(こきみ)と五歳の男子(なんし)三之助(すけ)(ら)は一つ轎子(のりもの)に對合(むかひあは)せてのらしめ二人の婢女(こしもと)と三人の僕(しもべ)を供(とも)にしたがへて花見の調度(てうど)飯笥(さゝへ)分盒(わりご)など持(もた)せ家(いゑ)には譜代(ふだい)の家来(けらい)春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)といふ老実(ろうじつ)なる者をのこして留守(るす)をまもらせ花園(はなぞの)さして立出(たちいで)けり。朝(あさ)のほどは天(そら)(くも)りぬれども行程(みち)も半(なかば)(すぎ)るころは晴(はれ)わたりて長閑(のどか)になりければ山中左衞門妻(つま)の栢木(かしはぎ)に對(むか)ひ邂逅(たまさか)の蹈青(のあそび)に曇(くもり)たる空(そら)の心がゝりなりしに快晴(くわいせい)して一入(ひとしほ)の興(きやう)をそへたり。家(いへ)にのこる由良(ゆら)之進もかげごといふて喜(よろこ)ぶべしといふに栢木(かしはぎ)さこそ候はん。花園(はなぞの)にもほどちかく候へば小君(きみ)三之助等(ら)は轎子(かご)よりおろし歩行(あゆませ)候はんとて松(まつ)かけに轎子(かご)をたてゝ兄弟(きやうだい)をおろし三之助は左衞門栢木等(ら)(て)をとりて歩行(あゆませ)つゝほどなく花園(ぞの)の里(さと)にいたりけり。
(とき)しも弥生(やよひ)の半(なかば)なりければ八重櫻(やえさくら)は今を〓(さかり)に咲(さき)いでゝ枝(えだ)もたゆげに見えひとえは散(ちり)そめて時(とき)ならぬ雪(ゆき)かとあやまたる躑躅(つゝじ)山吹(やまぶき)こゝかしこに咲(さき)みちて得(え)も説(いはれ)ざる好景(かうけい)なり。左衞門等(ら)彼所(かなた)此所(こなた)を見めぐりけるに或(あるひ)は幕(まく)の内(うち)に糸竹(いとたけ)の調(しらべ)を合(あは)せ或は花(はな)のもとに今様(いまやう)をうたふもあり茶(ちや)を販(ひさ)くものは筵(むしろ)をならべて息所(いこひどころ)をまうけ酒(さけ)(うる)ものは小店(こみせ)を區(かまへ)て客(きやく)をまねく。常(つね)には寂寞(さみしき)山里(やまざと)も花のためにぞ賑(にぎは)ひける。左衞門は静(しづか)なる櫻(さくら)のもとに用意(ようい)の幕(まく)をうたせんとしつるをりしも遥(はるか)(むかひ)のかたより四五人(にん)の士(さふらひ)に前路(ぜんろ)を護(まも)らせ女童(めのわらは)二人(ふたり)を前(さき)に立(たゝ)せ餘多(あまた)の侍女(おもとびと)を従(したが)へたる上臈(じやうろう)(かたち)(きよ)らなる若公(わかぎみ)を伴(ともな)ひ給ひ行列(ぎやうれつ)たゞしくしづやかに歩行(あゆみ)(き)給ふ。左衞門(さゑもん)これを見て柏木(かしはぎ)にむかひかしこへ来(き)給ふは花(はな)の方(かた)と氏王(うぢわう)(ぎみ)也。さだめて此(この)花園(はなぞの)に櫻(さくら)(がり)してあそび給ふならめ。我々(われ/\)此所(こゝ)にあるは君(きみ)へのおそれあればまづこなたへ来(きた)るべしとて此所(このところ)を立去(たちさ)り櫻花(さくらばな)(みち)見えぬまで散(ちり)にけりとよみたる志賀(しが)の山越(やまごえ)のかたにいたり見(み)わたす景色(けしき)(こと)にすぐれたる所(ところ)に幕(まく)(うち)まはし氈(けむしろ)しきて飯笥(さゝへ)分盒(わりご)などとりいだし午飯(ひるげ)たうべ杯(さかづき)めぐらして四方(よも)の山々(やま/\)を眺望(ながむる)に此(この)(ところ)は花園(はなぞの)を去(さ)る事(こと)半里(はんみち)ばかりにして人家(じんか)(まれ)なる僻陋(へきろう)の地なれば深山(みやま)躑躅(つゝじ)岩間(いはま)に發(さき)みち櫻(さくら)は松椙(まつすぎ)にまじりて渓川(たにがは)に散(ちり)かゝるさま寂蓼(せきりやう)たる景色(けしき)なり。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は文雅(ぶんが)をたのしむ士(ものゝふ)なれば花園(はなぞの)の花(はな)の豊饒(にぎはしき)よりは此地(このち)の蕭條(しやう%\)たる

挿絵
【挿絵第二図 山中(やまなか)左衞門(さゑもん)江州(こうしう)滋賀(しがの)花園(はなぞの)に遊(あそ)んで櫻(さくら)を觀(み)る圖(づ)

山景(さんけい)を愛(あひ)し詩歌(しいか)を詠(えい)じて一入(ひとしほ)の興(きやう)をそへにけり。
一子(いつし)三之助(さんのすけ)は今歳(ことし)五ッの愛(あひ)ざかり縹色(はなだいろ)の綸子(りんず)に寳尽(たからづく)しを色入(いろいり)に染(そめ)いだしたる小袖(こそで)を着(ちやく)し前日(さきのひ)秋季(あきとし)山中(やまなか)に給りたるかの鳩丸(はとまる)といふ短刀(たんとう)はほどよきおのれが帶料(さしりやう)なりとてこれを差手(さして)に深山(みやま)躑躅(つゝじ)の枝(えだ)をもちて飛翔(とびこう)胡蝶(こてふ)を追(おひ)まはす体(てい)いと捷才(かしこげ)なり。姉(あね)の小君(こきみ)(うしろ)よりこゑかけ三之助(さんのすけ)よものゝ命(いのち)はとらざるものぞ。父上(ちゝうへ)の訶詆(しかり)給ふらめといふに猶(なほ)(おひ)まはりて止(やま)ざりけり。柏木(かしはぎ)は幕(まく)の内(うち)より婢女(こしもと)(ら)にこゑかけ三之助(さんのすけ)に怪我(けが)さすな。あれかしこへ走(はし)り行(ゆき)しぞ渓川(たにがは)のほとりに行(ゆか)すなと心(こゝろ)をつかひあれ見たまへ。いまの胡蝶(こてふ)を花(はな)の枝(えだ)にて撃(うち)おとしぬ。惺ハ(さかしき)ふるまひする童(わらは)かなといふに左衞門(さゑもん)莞尓(うちゑみ)かれが旡病(むびやう)にしてしかも健(すこやか)に生(おひ)たつは我々(われ/\)が一ッの福(さいわひ)也。いざ酌(つぎ)給へ今一ッ飲(のむ)べしと杯(さかづき)とりあげ夫婦(ふうふ)むつまじく酒(さけ)(くみ)かはしつゝ我子(わがこ)のこゝろよく遊(あそ)び戯(たはふ)るゝを見て餘念(よねん)なく樂(たの)しみ居(ゐ)たるをりしも後(うしろ)の山(やま)の方(かた)に笛(ふえ)の音(ね)かすかに聞(きこ)えけるが漸々(やう/\)にちかくなりて山を下(くだ)るを見れば芻蕘(くさかり)の童(わらべ)二三人草(くさ)を刈(かり)いれたる篭(かご)を背負(せおひ)一人の童(わらは)は牛(うし)に跨(またが)り笛(ふえ)を晩風(ばんふう)に弄(ろう)していできたりぬ。左衞門彼等(かれら)をよびとゞめ菓子(くわし)などとらせければ童子(わらべ)ども喜(よろこ)びて牛(うし)はかたへに放(はな)ちおき樹(き)の下(もと)に並座(ならびざ)し菓子(くわし)をわかちとりてうち喰(くひ)ぬ。三之助(すけ)は彼(かの)牧童(ぼくどう)が牛(うし)にのり来(き)つるを見ておのれもかの牛(うし)にのらめといふに過(あやまち)ありてはあしく候とて婢女(こしもと)どもこれをとゞめけれどもさらに聞(きゝ)いれず泣(なき)わめきければ左衞門婢女(こしもと)にむかひ農家(のうか)に〓(やしなひ)たる牛(うし)は柔和(にうわ)なるものなり。騎(のら)めといはゞ騎(のら)せよといひてかの童(わらは)に牛を牽(ひき)いださせければ三之助泣(なきを)とゞめてよろこびいざ/\といふにぞ婢(こしもと)かれを抱(いだき)てのせんとしたる時(とき)柏木(かしはぎ)(たち)より稚児(わこ)よ其(その)短刀(ひとこし)は婢女(こしもと)どもに持(もた)せよといふに三之助(すけ)(かしら)をうちふりいな/\父上(ちゝうへ)の御馬(おんま)にめし給ふやうに刀(かたな)はさして騎(のる)べしといひてうけひかざればこれをも彼(かれ)が心(こゝろ)のまゝにしてのせければ手(て)をうちてよろこび〓然(にこ/\)わらひやよ/\阿姐(あねうへ)見給へ童(われ)は牛(うし)にのりはべりぬといひつゝ牧童(ぼくどう)に牽(ひか)れ婢女(こしもと)にとらへられてこゝかしこへ騎(のり)ありき最(いと)(うれ)しきさまなりければ母(はゝ)の柏木(かしはぎ)(おつと)にむかひ牛(うし)にのりてこゝろよきや寳(たから)どのゝ咥(にこやか)なる顔(かほ)つきの愛(あひ)らしさ。幼(おさな)けれどもあの腰(こし)の居(すはり)やう常(つね)の小児(こども)とは違(ちが)ふて見へ候といふに左衞門(さゑもん)さにこそとて夫婦(ふうふ)私語(さゝやき)て我児(わがこ)を美稱(びしやう)するも人の親(おや)たる常(ならひ)なり。左衞門妻(つま)にむかひ日ざしもよほど傾(かたぶ)きぬ。暮(くれ)ちかくならぬ間(ま)にいざかへりなんとて取(とり)ちらしたる飯笥(さゝへ)分盒(わりご)などとりかたづけさせ三之助(すけ)をも牛よりおろさばやとしけるをりしも對(むかひ)の山(やま)の方(かた)より一陣(いちぢん)の慕風(ぼうふう)(さつ)と吹(ふき)きたり樹林(じゆりん)〓々(そく/\)となりひゞき満山(まんざん)の櫻(さくら)一度(いちど)にぱつと飛(とび)ちつたるうちより年旧(としふる)大G(おほわし)(つばさ)を振(ふつ)て勢(いきほひ)(たけ)く翔来(かけりきた)り嗚呼哉(あはや)といふ間(ま)に牛(うし)にのりたる三之助をかい〓(つか)みて古松(こしやう)を掠(かすめ)て飛上(とびあが)りければ左衞門これを見て仰天(ぎやうてん)なし刀(かたな)おつとり駈(かけ)いだし木(き)の根(ね)岩尖(いわかど)飛こえ/\雲井(くもゐ)のG(わし)の行(ゆく)かたへ足(あし)を空(そら)にぞ追(おひ)ゆきける。柏木(かしはき)は声(こゑ)ふるはせあな悲(かな)しやのふと泣叫(なきさけび)。梦現(ゆめうつゝ)ともわきまへず。倒(こけ)つ轉(まろび)つ後(あと)に続(つゞき)て追行(おひゆき)しが夫(おつと)におくれて立(たち)とゞまり空(そら)をのぞみて身(み)を憫悵(もだへ)(あし)を翹(つまだ)て手(て)をのばしあれよ/\と叫(さけ)べども翼(つばさ)をもたぬ人の身の其(その)甲斐(かひ)さらになかりけり。
(あはれむ)べし三之助は胸(むね)のあたり掻(かき)やぶられたりとおぼしくて懐紙(ふところかみ)鮮血(ちしほ)に染(そまり)て〓々(ひら/\)と吹散(ふきちり)手足(てあし)を掉(ふる)はして煩(もが)きくるしむ体(てい)朦朧(かすか)に見え泣叫(なきさけ)ぶ声(こゑ)は初雁(はつかり)のやうに聞(きこ)えて哀(あはれ)といふもおろかなり。柏木はこれを見ていとゞ悲(かな)しさやるかたなく非歎(ひたん)にせまりて氣(き)をうしなひはたと僵(たふ)れて消(きえ)いりぬ。小君(こきみ)もこゝに走(はし)りつき柏木に懐(いだき)つき母(はゝ)人心をたしかになし給へや。悲(かな)しやのふと声(こゑ)を調(とゝのへ)てなき悶(もだ)ゆれば婢女(こしもと)(しもべ)追々(おひ/\)に走集(はせあつま)り渓川(たにがは)の水(みづ)を掬(きく)して顔(かほ)に嘘(ふき)かけ声々に呼活(よびいかし)ければ漸々(やう/\)に人心(ごゝ)ちつきたるをこしもとゞも抱(いだき)かゝえて幕(まく)の内に皈(かへ)りけり。山中(やまなか)左衛門は手(て)をむなしく立皈(たちかへ)り此躰(このてい)を見て露現(つゆうつゝ)ともなく痴果(あきれ)(まど)ひけるが斯(かく)てあるべき事ならねば小君を副(そ)へて柏木をかごにのせ二人のしもべはあとへのこして花見(はなみ)の調度(てうど)をとりおさめさせ袴(はかま)の裾(すそ)(たかく)(かゝげ)て轎(のりもの)に副(つきそひ)またもG(わし)のきたるかと樹林(じゆりん)の梢(こずへ)に眼(まなこ)を配(くば)りつゝ心(こゝろ)も空(そら)もくれかゝる路(みち)を忙(いそ)ぎて皈(かへ)りにけり。〔三之助のゆくへは三之巻にくはしくしるす〕
(それ)は偖(さて)おきこゝにまた星合(ほしあひ)(かぢ)之助(すけ)は前日(さきのひ)山中左衞門がために我(わが)詠哥(よみうた)を評(ひやう)せられて主人(しゆじん)秋季(あきとし)の怒(いかり)をおこし多(おほ)くの人前(なか)にて打擲(てうちやく)せられかぎりなき耻辱(ちぢよく)をうけたるのみならず勤仕(きんし)をとゞめられけるに山中(やまなか)左衞門(さゑもん)はこれに事(こと)かはりかの哥(うた)を難(なん)じたる賞(ほうび)として秋季(あきとし)秘藏(ひそう)し給ふ鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)を渠(かれ)に給(たまはり)たりと聞(きく)(おのれ)があしきをかへりみずたゞ左衞門(さゑもん)のみふかく恨(うら)み已(すで)に一月(ひとつき)あまりも閉居(とぢこもり)けるに秋季(あきとし)より免許(ゆるし)のさたもなかりければこれも左エ門(さゑもん)の讒(ざん)するにこそとおのれが歪(ゆが)む心(こゝろ)に比(くら)べて囘僻(ひがおもひ)しいかにもして渠(かれ)に憂目(うきめ)を見せて此恨(このうらみ)を報(むく)はばやと思ひけるが間居(かんきよ)の身(み)なれば山中(やまなか)に出(いで)あふべき便(よすが)もなくとやせまじかくやすべきと思ひ煩(わづら)ひけり。
(そも/\)(この)梶之介(かぢのすけ)といふ者(もの)は播州(ばんしう)(とゞろき)が濱(はま)といふ所(ところ)に住(すめ)る漁人(りやうし)篷六(とまろく)といふ者(もの)の子(こ)なりしに少年(としわかき)より武藝(ぶげい)を好(この)みて性質(うまれつき)乖巧(わろがしこ)ければおのれが才藝(さいげい)をたのんで人(ひと)を軽詆(かろしめ)酒色(しゆしよく)を好(この)んで業(なりはひ)をつとめず。父(ちゝ)は蘆〓(ろゐ)の間(あいだ)に生(うまれ)たる匹夫(ひつぷ)なれば漁(すなどり)を業(わざ)として一生(いつしやう)ををはらんは可分(あたりまへ)なるべけれども己(おのれ)は才藝(さいげい)ある身(み)をもつて扁舟(へんしう)に棹(さほさし)て生涯(しやうがい)をおくり白頭(はくとう)波上(はしやう)に白頭(はくとう)の翁(おきな)とならんは計策(はかり)なきに似(に)たりとて二十(はたちの)(とし)に両親(ふたおや)を捨(すて)て国(くに)を立(たち)のき諸國(しよこく)を遍歴(へめぐり)けるが五年以前(いぜん)(ゆゑ)あつて秋季(あきとし)の家(いへ)に仕官(つかえ)今歳(ことし)三十(みそじ)にあまれどもいまだ妻(つま)もなく鵲(かさゝぎ)といふ妾(てかけ)をめしつかひ家内(かない)(わづか)に六七人のくらしなり。
(さて)梶之助(かぢのすけ)一日(あるひ)(には)に〓(こしかけ)を置(おき)て胡坐(あぐら)し酒(さけ)を飲(のみ)て居(ゐ)たりしに墻(かき)を隔(へだて)て人(ひと)の談語(ものがたり)するをきくに一人(ひとり)は山中(やまなか)左エ門(さゑもん)が僕(しもべ)の声(こゑ)なれば渠(かれ)何等(なにら)の事(こと)を談(だん)ずるやらんと墻(かき)の隙(ひま)よりうかゞひ見るに山中(やまなか)が僕(しもべ)(て)に酒壜(とくり)を提(さげ)細貨(こまもの)の荷(に)をせをひたる男(おのこ)に對(むか)ひけふは主人(しゆじん)夫婦(ふうふ)児曹(こどもしゆ)を伴(ともな)ひて花園(はなぞの)の花見(はなみ)に行(ゆか)れたれば皈(かへり)はかならず夜(よ)にいるべし。用事(ようじ)あらば明日(あす)(きたる)べしといふに商人(あきびと)これを聞(きゝ)御誂(おんあつらへ)ものゝ事(こと)につき聞(きこ)えあげたき事(こと)ありしゆゑわざ/\来(き)つるに他適(おるす)とあらばかさねて参(まい)るべしとて右左(みぎひだ)りへわかれさりぬ。梶之助(かぢのすけ)もとの〓(こしかけ)にかへり自(みづから)一杯(いつぱい)をくみて心(こゝろ)におもへらく左エ門(さゑもん)めは夫婦(ふうふ)うちつれて櫻(さくら)がりして娯(たのしみ)をなすに我(われ)は渠(かれ)がためにかく閉居(へいきよ)して日(ひ)をおくるこそ口(くち)おしけれ。短慮(たんりよ)愚昧(ぐまい)の秋季(あきとし)なればこのうへ渠(かれ)が毒舌(どくぜつ)を信(しん)じいかなる罪(つみ)に行(おこなは)んもはかりがたし。左エ門(さゑもん)がごとき鼠輩(そはい)の為(ため)に金玉(きんぎよく)の身(み)を過(あやまた)んは旡智(ちなき)に似(に)たり。今(いま)はからず渠(かれ)が他行(たぎやう)せるをきゝつるこそ幸(さいわひ)なれ。宵闇(よひやみ)の黒暗(くら)(まぎ)れ左エ門(さゑもん)(め)を只(たゞ)一刀(ひとかたな)に斬殺(きりころ)し日来(ひごろ)の恨(うらみ)をはらすべしと悪意(あくい)一決(いつけつ)なし庭履(にはげた)を穿(はき)て立上(たちあが)りたるをりしも三之介(さんのすけ)を挈飄(さらひ)たるG(わし)此所(このところ)を飛行(ひぎやう)しつるにや三之介(さんのすけ)が腰(こし)に帶(さし)たるかの鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)刀室(さや)をはなれて空中(くうちう)よりおちくだり梶之介(かぢのすけ)が〓(ひたい)を殆(あやう)く椋(かす)りて水盤(てうづばち)の傍(かたはら)なる樹(き)の根(ね)を貫(つらぬき)てぞ立(たち)たりける。梶之介(かぢのすけ)(びつくり)し何者(なにもの)の所為(しわざ)にやと四邊(あたり)に眼(まなこ)をくばれども軒(のき)に飛翔(とびかう)(つばくら)のほかは眼(め)に遮(さへきる)ものも

挿絵
【挿絵第三図 山中(やまなか)左衞門(さゑもん)の一子(いつし)三之助鷲(わし)にさらはるゝ圖】

なかりければ訝(いぶかり)つゝ彼(かの)一刀(いつとう)をとりあげ見れば日来(ひごろ)秋季(あきとし)の秘藏(ひそう)したる鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)なるにぞ梶之介(かぢのすけ)ます/\異(あや)しみ独言(ひとりごと)にいひけるは此(この)短刀(たんとう)はまさしく秋季(あきとし)殿(どの)山中(やまなか)左エ門(さゑもん)に與(あた)へたまひしと聞(きゝ)つる鳩丸(はとまる)に紛(まぎれ)なし。しかるに今(いま)空中(くうちう)より落(おち)たるはいかにもいぶかしきことなりと持(もち)たる短刀(たんとう)を熟々(つれ/\)と打視(うちながめ)て一〓(しばらく)思案(しあん)しけるが驀然(たちまち)莞尓(くはんじ)とうちゑみこの劔(つるぎ)不思議(ふしぎ)に我手(わがて)にいりたるはこれまさしく天(てん)の賜物(たまもの)なり。説話(うはさ)に聞(きけ)は花(はな)の方(かた)氏王(うじわう)殿(どの)もろとも今日(けふ)しも鶴鳴川(つるなきがは)の別業(しもやかた)に到(いた)り給ふよし皈(かへ)りは慥(たしか)に二更(にこう)のころにいたるべし。一筋道(ひとすぢみち)の地藏坂(ちぞうざか)に待伏(まちぶせ)なして氏王(うじわう)殿(どの)の轎子(のりもの)に此(この)短刀(たんとう)を擲(なげうた)ば山中(やまなか)左エ門(さゑもん)に疑(うたがひ)かゝり愚直(ぐちよく)なる左エ門(さゑもん)なれば腹切(はらきる)は必定(ひつぢやう)ならん。しかる時(とき)は我手(わがて)を下(くだ)さずして渠(かれ)が家(いへ)の亡(ほろぶ)るを.不知(しらず)(がほ)して看(み)べきは闇討(やみうち)よりも遥(はるか)にまさる良計(りようけい)也。これにしかず/\と獨(ひとり)(つぶや)く背后(うしろ)の方(かた)にいつの程(ほど)にか妾(てかけ)の鵲(かさゝぎ)(かの)(しやうぎ)にこしかけて居(ゐ)たりけるが彼方(かなた)には此家(このや)に仕(つか)ふる〓奴(しもべ)織平(をりへい)といふ者(もの)(には)の掃除(そうぢ)に来(きた)りしにや笆(かき)を隔(へだて)て立聞(たちぎく)(かほ).三人思はず見合(みあはせ)ければ梶之助(かぢのすけ)(て)ばやくかの短刀(たんとう)を袖(そで)にて覆(おほ)ひ秘(かく)し左(さ)あらぬ介(てい)にて鵲(かさゝぎ)に打對(うちむかひ)(ひ)もはや暮(くれ)なんとすればかしこの小院(こざしき)に至(いた)り燭(しよく)をてらして酒(さけ)くむべし。こゝにある酒(さけ)(さかな)もかしこへ持来(もちきた)れよといひつゝ前(さき)に立(たち)て庭隅(にはずへ)の小亭(こざしき)にいたり鵲(かさゝぎ)に酌(しやく)とらせ.しばし酒(さけ)くむむなだくみ.玉(たま)の杯(さかづき)底知(そこしら)ずいかなる巧(たくみ)や 醸(かも)すらん。
(この)(かさゝぎ)といふは原(もと)逢坂(あふさか)の関(せき)のほとりにすめる武士(ぶし)の浪人(らうにん)の妻(つま)の妹(いもと)なりしが貧(まづし)きくらしする姉婿(あねむこ)のもとに養(やしなは)るゝをものうくおもひ貧苦(ひんく)の助(たすけ)にもなれかしと竊(ひそか)に姉(あね)とはかりて假親(かりおや)をたのみ素性(すじやう)をかくして梶之助(かぢのすけ)が方(かた)へ妾(てかけ)奉公(ほうこう)に来(き)つるなり。生質(うまれつき)

挿絵
【挿絵第四図 鳩丸(はとまる)短刀(たんとう)(の)(づ)

〓才(かしこく)姿(すがた)もなべてならず年(とし)も二八の春霞(はるかすみ)いろかをつゝむ袖垣(そでがき)にまだ歯(は)も染(そめ)ぬ白梅(しらうめ)のゑめるがごとき面影(おもかげ)はいとにくからぬふぜいなり。
(さて)梶之助(かぢのすけ)(かさゝぎ)に對(むかひ)(いま)(われ)彼所(かしこ)にありて密事(みつじ)を〓(つぶやき)しを汝(なんぢ)さだめて聞(きゝ)つらめ.聞(きゝ)つるか.いかに/\と問(とひ)かけられ何(なに)とこたえてよからめとたゆとう胸(むね)をそれぞともいはぬ色(いろ)なる山吹(やまぶき)の露(つゆ)にたはみしごとくにさしうつむきてぞゐたりける。梶之助(かぢのすけ)はいちはやく渠(かれ)が心中(しんちう)を臆度(おしばかり)(なんぢ)は我(わが)(まくら)の塵(ちり)をも払(はら)ふものなればたとへ密事(みつじ)を聞(きゝ)つるとも妨(さまたげ)なし。さりながらひとかたならぬ密計(みつけい)をきかれてそのまゝにすておかんは我(わ)が一(ひと)ッの心障(こゝろざはり)なれば汝(なんぢ)(われ)に對(たい)して二心(ふたごゝろ)を懐(いだく)まじきといふ誓紙(せいし)をかくべしといふに鵲(かさゝぎ)やうやく顔(かほ)をあげ妾(わらは)こといかなるふかき因縁(えにし)ありてや去年(こぞ)の冬(ふゆ)より君(きみ)の側(そは)ぢかくつかへまゐらせて鴛鴦(をし)の襖(ふすま)の初氷(はつごほり)(とけ)たる帶(おび)の二重(ふたへ)三重(みへ)すくせむすぶの神(かみ)かけて長(なが)きおん惠(めぐみ)にもあづかり奉(たてまつ)らんと思ふこゝろからはたとへいかなる密事(みつじ)を聞(きゝ)候とも人(ひと)に漏(もら)し候はんとは露(つゆ)ばかりもおもひはべらず。さりながらもし他(た)より漏(もれ)たるときも妾(わら〔は〕)をこそうたがひ給ふべけれ。心(こゝろ)の鏡(かゞみ)(くも)りなきしるしには誓紙(せいし)をしたゝめ候はんこと妾(わらは)がのぞむ所(ところ)に侍(はべ)り。いざ部屋(かしこ)にゆきてしたゝめなんといひて立(たゝ)んとするをひきとゞめいな/\こゝにありて書(かく)べし。料紙(りやうし)は取来(とりきた)らしむべしとて自(みづから)(には)におりたち飛石(とびいし)づたひに庭下駄(にはげた)ならして隔(へだて)にかまへたる枝折戸(しをりと)をひらき且(まづ)しはぶきをさきにたて牛平(うしへい)は居(をら)ずや疾(とく)(きた)れといひて呼(よび)ければ一声(ひとこゑ)(いらへ)して牛平(うしへい)といふ僕(しもべ)いできたりぬ。梶之助(かぢのすけ)は折戸(をりど)のもとにたちて牛平(うしへい)をちかくまねきしばし囁(さゝや)きもとの座(ざ)に立(たち)かへりければ頓(やが)て牛平(うしへい)料紙(りやうし)硯箱(すゝりばこ)とり来(きた)り〓(えん)のはしにおきて立(たち)さりぬ。
梶之介(かぢのすけ)(かさゝぎ)に對(むかひ)誓紙(せいし)の文言(もんごん)は他(た)の事(こと)を書(かく)におよばず。わらはすくせのえにしふかく君(きみ)といもせのむつみをなすからはたとへいかなることありとも二心(ふたごゝろ)をいだくまじといふ事をかきてをはりに神(かみ)おろしを書記(かきしる)すべし。汝(なんぢ)が名(な)を記(しる)したるのみにてあて名(な)はかくにおよばずと細(こまやか)に教(をし)へければ鵲(かさゝき)は梶之助(かぢのすけ)がのぞむまゝに書(かき)しるしこれにておん心はれ候やと誓紙(せいし)をさしいだしければ梶之介(かぢのすけ)(て)に取(とり)あげてよみくだしいかにもかゝるしるしを見るうへはいよ/\汝(なんぢ)が心底(しんてい)の厚(あつ)きをしり愛戀(あいれん)の想(おも)ひ日来(ひごろ)にませり。まづこなたへよりねといひつゝ手(て)をとりてひきよすると見えしが忽(たちまち)(もとゞり)(つか)んでひきたふしけるにぞ鵲(かさゝぎ)は連忙(あはて)おどろきこは何(なに)ゆゑの御怒(おんいかり)ぞゆるしたまへと泣叫(なきさけ)ぶ。梶之助(かぢのすけ)は膝(ひざ)たてなほし左(ひだり)の手(て)に鵲(かさゝぎ)が髻(もとゞり)をにぎり右(みぎ)の手(て)には彼(かの)鳩丸(はとまる)をもちするどき眼(まなこ)を見ひらきてはたとにらみ汝(なんぢ)は山中(やまなか)左衞門(さゑもん)の弟(おとゝ)簑作(みのさく)といふものゝ妻(つま)の妹(いもと)なるよし頃日(このごろ)牛平(うしへい)が告(つぐ)るによりてしれり。汝(なんぢ)が今宵(こよひ)の為体(ていたらく)日来(ひごろ)にことかはり心(こゝろ)あつきやうにもてなすはなをも

挿絵
【挿絵第五図 星合(ほしあい)梶之助(かぢのすけ)奸計(かんけい)の漏事(もれんこと)を億度(おくど)して了〓(こしもと)(かさゝぎ)を殺(ころ)す】

密事(みつじ)をこまやかにきかんとはかるにうたがひなし。汝(なんぢ)(あね)につながる縁(えん)によりて今宵(こよひ)の密事(みつじ)を山中(やまなか)が方(かた)へしらさんためのした心とは我(わが)このあきらかなる眼(まなこ)にて見ぬきたり。汝(なんぢ)に誓紙(せいし)をかゝせたるは我(わが)が一(ひと)ッの計策(けいさく)なり。饑(うへ)たる羊(ひつじ)のごとき身(み)をもつて虎(とら)の鬚(ひげ)をひねらんとはかる痴婦(たはけ)もの此(この)一刀(いつとう)の引導(いんどう)にて地獄城(ぢごくじやう)へなりとも極樂(ごくらく)国土(こくど)へなりとも汝(なんぢ)がおもふかたへゆけかしといひつゝ雪(ゆき)のごとき胸(むな)もとへ氷(こほり)なす彼(かの)短刀(たんとう)をぐさとさしとほしけれは鮮血(せんけつ)さと迸(ほどばし)りてもすそを染(そむ)る紅(くれなゐ)は此世(このよ)からなる血盆(けつぼん)地獄(ぢごく)(つるぎ)の山(やま)にのぼされて身(み)を裂(さか)るゝがごとくなり。鵲(かさゝぎ)くるしき息(いき)をつきこれまでおん身(み)の悪行(あくぎやう)を見きくにつけうとましく思ひしゆゑいとまとらんと思ひゐたるに山中(やまなか)左エ門(さゑもん)殿(どの)をうしなはんとのわるたくみを今宵(こよひ)はからず聞(きゝ)しは幸(さいは)ひとわざと心(こゝろ)をゆるさせばやとまめ/\しき心(こゝろ)ねを見せつるにはやくも是(これ)を暁(さと)られて邪見(じやけん)の刄(やいば)につらぬかれ命(いのち)とらるゝ口惜(くちをし)さよころさばころせたとへ此身(このみ)はずた/\に斬(きら)るゝとも魂魄(なきたま)は此世(このよ)にとゞまり此恨(このうらみ)をむくはでやあるべきと柳眉(りうび)をけたて牙(きば)をかみ虚空(こくう)をつかむ苦痛(くつう)の体(てい)(かほ)に乱(みだ)るゝ黒髪(くろかみ)は月(つき)を遮(さへき)る青柳(あをやぎ)の目(め)もあてられぬ形勢(ありさま)なり。梶之介(かちのすけ)はあざわらひあなかしましき喚言(よばいごと)かな。いで/\此世(このよ)のいとまとらすべしとさもにくさげに詈(のゝし)りてふりそでの袂(たもと)を口(くち)に〓(ねぢこみ)のんどぶへを一〓(ひとゑぐり)ゑぐりければ手足(てあし)をもがくだんまつま此世(このよ)あのよのわかれ霜(しも)紅顔(かうがん)むなしく変(へん)じつゝ浅黄(あさぎ)(さくら)と散(ちり)うせて旡常(むじやう)の風(かせ)のふきめぐる軒(のき)にかけたる簷馬(ふうれい)は音(をと)も輪廻(りんゑ)の責(せめ)念仏(ねぶつ).廻向(えかう)の鉦(かね)ときこゆれど三途(さんづ)は暗(くら)き蝋燭(ろうそく)の涙(なみだ)をおとす人もなし.かの魏国(ぎのくに)の曹操(そう/\)が刺客(しかく)をふせぐ計策(けいさく)に命(いのち)おとせし寵妾(てうせう)にも遥(はるか)にまさる哀(あはれ)也。
梶之介(かぢのすけ)は鮮血(せんけつ)したゝる劔(つるき)をさげて〓先(えんさき)に立(たち)いで軒(のき)にかけたる簷馬(ふうれい)をとりてせわしくふりならしければ此(この)(ひゞき)かねての相圖(あひづ)にやありけん彼(かの)しもべ牛平(うしへい)さきほど鵲(かさゝぎ)とともに密事(みつじ)を立聞(たちぎゝ)しつるしもべ織平(をりへい)を高手(たかて)こてにいましめさるぐつはをはませてひききたりぬ。織平(をりへい)は梶之介(かぢのすけ)が血刀(ちがたな)をさげたるを見てます/\おどろき逃(にげ)んともがくを牛平(うしへい)がなはをひかへてはたらかせずおゝせにまかせかくのごとくにはからひ候。おぼすごとくにせさせ給へと〓放(つきはな)てば梶之介(かぢのすけ)(えん)の上(うへ)より織平(をりへい)が首(くび)ちうに打(うち)おとし出来(でか)せしぞ牛平(うしへい)さきほど汝(なんぢ)にかたりしごとく密事(みつじ)をきゝたる鵲(かさゝぎ)織平(をりへい)の両人(りやうにん)を.かく手(て)にかけしうへはてだてをもつて鵲(かさゝぎ)にかゝせつる誓紙(せいし)に織平(をりへい)といふあてなを書加(かきくは)へ渠(かれ)ら二人を不義(ふぎ)もの也といつわり死骸(しがい)はきやつらが親族(しんぞく)へわたすべし。我(われ)は是(これ)より地蔵坂(ちぞうざか)へ立(たち)こえ氏王(うぢわう)どのゝ皈(かへ)りをまちはかりことをほどこすべし。しのび姿(すがた)のよういせよといふ間(ま)(ほど)なき二更(にこう)の鐘(かね)に梶之介(かぢのすけ)は氣(き)も〓(せか)れかの鳩丸(はとまる)は服紗(ふくさ)につゝみてかくし持(もち)(くろ)き頭巾(づきん)に黒(くろ)小袖(こそで)(わが)(いへ)ながらしのぶ身(み)のやみはあやなき庭(には)づたひ竹(たけ)の生墻(いけがき)おしわけて栖(ねぐら)の鳥(とり)を驚(おどろか)し逸足(いちあし)(いだ)して走行(はしりゆき)ぬ。

  第三齣 飛劔(つるきをとはす)

此日(このひ)花方(はなのかた)は氏王丸(うじわうまる)を伴(とも〔な〕)ひて花園(はなぞの)にいたり彼所(かなた)此所(こなた)を徘徊(みめぐり)て櫻(さくら)を賞(しやう)じたまひけるに年老(としおひ)たる家臣(かしん)すゝみいで此所(このところ)に御幕(おんまく)をはらさせたまひ花見(はなみ)る人(ひと)の〓閧(にぎはゝ)しきさまを御覧(ごらん)あるべうとすゝめけるに花(はな)の方(かた)おゝせけるは今日(こんにち)鶴鳴川(つるなきがは)の山荘(しもやかた)にいたり氏王丸(うじわうまる)をも慰(なぐさむ)べきよし相公(との)に聞(きこ)えあげつればこゝには時(とき)をうつすべからず。殊更(ことさら)あまたの人(ひと)(つどひ)よりて最(いと)かしましければ早々(とく/\)(さ)りなんと宣(のたま)ひて花園(はなぞの)をたちさり

挿絵
【挿絵第六図 梶之助(かちのすけ)(けん)を飛(とば)せて氏王丸(うぢわうまる)に疵(きづゝく)

ふたゝび轎(のりもの)にのりて鶴鳴川(つるなきがは)の別業(しもやかた)にいたりたまひけるにかねてそのまうけありつれば書院(しよいん)に彩席(いろむしろ)をしきつらね花(はな)の方(かた)氏王丸(うじわうまる)ともに錦(にしき)の〓(しとね)に座(ざ)したまひかたはらに並居(なみゐ)たる侍女(こしもと)(ら)は思ひ/\に着(き)かざりたれは留木(とめき)のかほりほのめきてこゝにも花(はな)の咲(さき)つるかといとはなやきたる粧(よそほ)ひなり。
かくてさま%\のおんあそびに時(とき)うつり黄昏(たそがれ)のころにいたりて皈舘(きくわん)を促(うなが)したまひ花(はな)の方(かた)氏王丸(うじわうまる)轎子(のりもの)にのりたまひて皈路(きろ)におもむきたまひけるが路(みち)の程(ほど)半過(なかばすぐる)ころ日(ひ)はまつたく暮(くれ)にけり。さても星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)は我家(わがや)をしのび出(いで)地藏坂(ぢぞうざか)といふ所(ところ)の並木(なみき)の松(まつ)に〓(よぢのぼり)(いま)や/\とまつほどに遥向(はるかむかふ)の方(かた)に灯(ひ)のひかり見えければすはや氏王丸(うじわうまる)の来(き)つるはと肝鯰(きもなます)をつくりて枝(えだ)のしげみに身(み)をかくしてゐたるにかの灯(ひ)のちかづくを見ればそれにはあらで農人(のうにん)ども明松(たいまつ)をてらし高話(たかばなし)しつゝ過去(すぎゆき)ぬれば本意(ほい)なく思ふ所(ところ)に一〓(しばらく)ありて堤(つゝみ)の上(うへ)に提灯(てうちん)の光(ひかり)かゝやき行列(ぎやうれつ)たゞしくきたるを見ればこれは花(はな)の方(かた)氏王(うじわう)(きみ)の黨勢(とうぜい)なり。やゝ近(ちか)づきければ梶之助(かぢのすけ)は松(まつ)の枝(えだ)

挿絵
【挿絵第七図 氏王丸(うぢわうまる)(さくら)(がり)の皈(かへ)るさ暗(あん)に疵(きづゝけ)らる】

(み)をかため氏王丸(うしわうまる)の轎(のりもの)を目(め)がけて彼(かの)鳩丸(はとまる)を手裏劔(しゆりけん)に打(うち)つけたるにねらひたがはず轎子(のりもの)の窗(まど)を打(うち)やぶりければ氏王丸(うじわうまる)あつと一声(ひとこゑ)(さけ)び給ひけるにぞ供(とも)の侍連(さふらひ)(あはて)おどろき提灯(てうちん)をてらして轎子(のりもの)の戸(と)を開(ひらき)見ればこはいかに氏王丸(うじわうまる)肩尖(かたさき)に短刀(たんとう)をつらぬかれあなくるしやたへがたやと泣(なき)わめき朱(あけ)にそみてぞおはしける。供人(ともひと)(ら)はこれを見てます/\おどろき打よりて介抱(かいほう)なし若侍(わかさふらひ)は曲者(くせもの)を捕(とら)へんとそこか爰(こゝ)かと走(はせ)まはる。梶之助はしすましたりと打(うち)ゑみて松(まつ)のこずゑに身(み)をひそめ猶(なほ)もやうすをうかゞひけり。されども氏王丸(うじわうまる)の手(て)きづ急所(きうしよ)をよけし浅手(あさで)なれば供(とも)にめしつれられたる医人(くすし)いそがはしく藥(くすり)を用(もち)ひて疵(きづ)をつゝみ花(はな)のかたの轎(のりもの)へうつしのせまゐらせ片時(へんし)もはやく御皈舘(こきくわん)あるべうとて供人(ともびと)(ら)一塊(ひとかたまり)となりて轎(のりもの)の前后(ぜんご)を守護(まも)りやかたをさしていそぎ皈(かへ)りぬ。梶之介(かぢのすけ)は此(この)人々(ひと%\)のはるかに行去(ゆきすぐ)るを見て松(まつ)をくだりてもと来(き)しみちへたちさらんとしたるとき.木立(こだち)のしげみより何者(なにもの)なるやらん突出(つといでゝ).こゑをもかけず鐺(こじり)を把(とら)へてたぢ/\とひきもどしぬ.梶之助(かぢのすけ)はひかれながら其(その)力量(ちから)を試(こゝろ)み.あやめもわかぬ闇夜(あんや)なれば打扮(いでたち)はしかと見へざれども.たゞものならずと思ふにぞ.言辞(ことば)をいださばもし声(こゑ)を聞(きゝ)しらるゝこともあるらめと口(くち)を閉(とぢ)てものいはず.心(こゝろ)のうちに點頭(うなづき)つゝたゞ一討(ひとうち)と刀(かたな)の柄(つか)に手(て)をかけしに.渠(かれ)もまた手(て)ばやく鐺(こじり)をとつてこぢあげければ.さすがの梶之助(かぢのすけ)も持有(たもち)かねて前(まへ)のかたへ〓倒(こけ)んとせしを危(あやう)く踏(ふみ)とゞめ力(ちから)をきはめて振放(ふりはな)ち間(ひま)もあらせず斬(きり)つくる刀(かたな)の列欠(いなづま)(ひらめく)を.かの者(もの)は飛鳥(ひてう)のごとく身(み)をよけて木立(こだち)を楯(たて)に伺居(うかゞひゐ)る。梶之介(かぢのすけ)は空(くう)を斬(きり)て気(き)をいらち打もらせしか残念(ざんねん)やと.おもふ心の乱(みたれ)あし石(いし)の地藏(ぢぞう)にゆきあたりさてはと踏(ふみ)こむ拝打(おがみうち)(ほとけ)の袈裟(けさ)がけ驀地(たちまち)に火(ひ)ばなぱつと飛散(とびちつ)たり。此(この)ひまにかのものは梶之助(かぢのすけ)を瞥然(ちらり)と見て探(さぐり)よりたる手(て)の尖(さき)にさわるを補(とら)へし小袖(こそで)の袂(たもと)(たがひ)のはづみに引断(ひきちぎ)る袖(そで)は后日(ごにち)の證拠(しやうこ)ともならぬ旡紋(むもん)の黒染(くろぞめ)も洗(あら)へばわ〔か〕る善悪(ぜんあく)邪正(じやしやう)梶之介(かぢのすけ)は此(この)ひまに跡(あと)を晦(くらま)せ逃去(にげさり)けり。
○此時(このとき)梶之助(かぢのすけ)を柱(さゝ)えたる者(もの)何人(なにひと)といふこといまだ詳(つまびらか)ならず四之巻(まき)をよみえてしるべし。
鷲談傳竒桃花流水巻之一 終


広告

絵入読本 小枝 繁 先生作・蹄齋北馬先生画 催馬樂奇談(さいばらきだん) 全部六冊近日賣出
〓〓(せつり)先生(せんせい)(あらは)す処(ところ)の小説(せうせつ)は恋女房染分手綱(こひにようぼうそめわけたづな)といへる院本(じやうるりぼん)にもとづき丹波(たんばの)少将(せう/\)俊寛(しゆんくわん)僧都(さうづ)がことをまじへ團介(だんすけ)といへる悪〓(わるもの)山神(さんしん)の祟(たゝり)にて馬(うま)と化(けし)畜生道(ちくせうだう)に落(おつ)るといへども多々(さま%\)の仇(あた)をなす與作(よさく)重井(しげのい)が若盛(わかざかり)は花盛(はなざかり)の遊山(ゆさん)に奇縁(きえん)を結(むすび)逸平(いつへい)が忠義(ちうぎ)は左内(さない)が得實(とくじつ)と日(ひ)を同(おなじ)ふす財宝(たから)をつかむ爪(つめ)の長(ながき)は鷲塚(わしづか)兄弟(きやうだい)が悪(あく)(ぎやう)也。小満(こまん)染絹(そめぎぬ)が婬邪(いんじや)の甚(はなはだ)しきあれば景政(けいせい)法師(ほうし)の道徳(どうとく)あつて火車(くわしや)にさらわる亡者(もうじや)を助(たす)け終(つい)に成仏(じやうぶつ)なさしむれば山神(さんしん)(ふたゝ)び現(あらはれ)て團介(だんすけ)が妖馬(ようば)を本(もと)に帰(き)せしむ善悪(せんあく)二道(にどう)に染分(そめわく)る心(こゝろ)の駒(こま)に手綱(たづな)ゆるすなと唄(うた)ふも読(よむ)も催馬楽(さいばら)の鼻綱(はづな)を取(とり)し三橘(さんきつ)が人間(にんげん)一生(いつせう)五十三次(つぎ)の戒(いましめ)とせし作(つくり)物語(ものがたり)也 雄飛閣の主人にかわつて 岡山鳥述


鷲談傳竒桃花流水(わしのだんでんきとうくわりうすい)巻之二

江戸 山東京山編次 

  第四齣(せき) 臥劒(けんにふす)

(こゝ)にまた山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は一子(いつし)三之助(さんのすけ)を鷲(わし)にとられ其日(そのひ)も暮(くれ)はてしころ我家(わがや)へ皈(かへ)り.かしは木(ぎ)は歎(なげき)にしづみて病人(やまふど)の如(ごと)くなれば常(つね)の寝所(しんしよ)へいれて小君(こきみ)侍女(こしもと)(ら)に介抱(かいほう)させ家来(けらい)春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)をめしたりしにこれも悲歎(ひたん)の涙(なみだ)に目(め)をすりあかめて出来(いできた)る山中(やまなか)左衛門(さゑもん)由良之進(ゆらのしん)に詞(ことば)をまじえんとせしをりしもかしは木(ぎ)の介抱(かいほう)をなし居(ゐ)たりし侍女(こしもと)のうち歳(とし)(ひさ)しくめしつかひたるもの二人かしこのひとまよりしやくりあげつゝ泣(なき)いりてはせいで左衞門(さゑもん)を見てかたへによりゐつ.額(ひたい)をあはせて顔(かほ)に袖(そで)をおほひ音(こゑ)をとゝのへて泣(なき)けり。左衞門(さゑもん)(なき)ごゑをきゝて誰(たれ)にやと顧(かへりみる)に此(この)両人(りやうにん)なればかしは木(ぎ)が身(み)の上(うへ)おぼつかなくいかになく(泣)ぞとたづねけるに一人(ひとり)がいふ.たゞ今(いま)三之助(さんのすけ)(ぎみ)がつねめしの御(おん)小袖(こそで)のうちかさねたる袂(たもと)より蒲公英(たんほゝ)の花(はな)のちぎりたると木瓜(ぼけ)の実(み)のいで候。これは昨日(きのふ)御庭(おんには)に遊(あそ)び給ひたるをり.糸(いと)はかしこきものならんこれを摘(つみ)たりとて見せ給ひしが袂(たもと)のうちに貯(たくは)へおき給ひしとおぼえ候。摘(つま)れたる蒲公英(たんぽゝ)の花(はな)だにいまだ枯果(かれはて)候はぬにと思へば三之助(さんのすけ)(ぎみ)の御(おん)(おもかげ)(め)の先(さき)に見ゆるやうにていと/\かなしく候。かしは木(ぎ)(ぎみ)へはきかせじとしのび音(ね)にたえかねてこゝにはせいで候也と云(いひ)つゝ猶(なほ)むせかへりてぞ泣(なき)ける。
山中(やまなか)左衞門(さえもん)(これ)をきゝて腸(はらわた)もさけちぎるゝばかり又(また)も悲嘆(ひたん)にせまりけるが由良之進(ゆらのしん)に打對(うちむか)ひ汝(なんぢ)をめしたる事(こと)別事(べつじ)にあらず。かの鷲(わし)は必定(ひつぢやう)志賀(しが)の山中(さんちう)に住(すむ)なるらんと思へば片時(へんし)も早(はや)く彼(かの)山中(さんちう)にわけのぼり鷲(わし)を射(ゐ)とめて稚児(わこ)が讎(あた)を復(ふく)し彼(かれ)が死體(しがい)の哺(ついば)み残(のこ)されたるもあるやらん。尋(たづね)もとめんと思ふなり。はやく其(その)用意(ようい)せよと命(めい)じしに由良之進(ゆらのしん)勇立(いさみたち).こはよきおぼし立(たち)に候。僕(やつがれ)も御供(おんとも)しはべらん。家奴(しもべ)どもの心剛(こゝろがう)なる奴原(やつばら)をおんともさせ松明(たいまつ)あまた貯(たくはへ)もちて今宵(こよひ)一夜(いちや)はかの山中(さんちう)に明(あか)し候はん。しからば用意(ようゐ)(つかまつら)ん。御(おん)支度(したく)あるべしと席(せき)をしりぞき奴僕(しもべ)に斯(かく)と告(つげ)しにそれがしも参(まゐ)らん。かれがしも御供(おんとも)せんといひて家奴(しもべ)どもかい/\しく打扮(いでたち)つゝ手々(てゝ)に犬鎗(いぬやり)をもちて夜中(やちう)山路(さんろ)の猪(しゝ)(おほかみ)をも追(おふ)べき備(そなへ)をなしこれかれの用意(ようい)(まつた)くをはりて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)に告(つげ)ければ左衞門(さゑもん)は狩裳束(かりしやうぞく)に身(み)をかため替弓(かえゆみ)手鎗(てやり)までをも持(もた)しめて由良之進(ゆらのしん)とともに主従(しゆう%\)およそ廾人あまり路(みち)をいそぎて初更(しよこう)のころほひ志賀(しが)の山(やま)にいたりつきあまたの僕等(しもべども)明松(たいまつ)をふりてらして山(やま)ふかくわけのぼり谷(たに)をわたり嶺(みね)をこえこゝかしこを巡(めぐり)ありきて月(つき)の光(ひかり)に梢(こずえ)をのぞみ鷲(わし)の行方(ゆくへ)三之助が死體(しがい)をたづねもとめしにふつに其(その)有所(ありしよ)(しれ)ず空(むな)しく時(とき)を移(うつ)して夜(よ)も明(あけ)わたりければせんすべなく麓(ふもと)に下(くだ)り此(この)山中(さんちう)に鷲(わし)やをると里人(さとびと)にたづねけるにすべて此邊(このほとり)の山々(やま/\)には鷲(わし)の住(すみ)候事を聞(きゝ)もおよび候はずといふを聞(きゝ)てます/\力(ちから)もくぢけ形(かたち)ばかりはいかめしく打扮(いでたち)たるがすご/\として我家(わがや)をさしてぞ皈(かへ)りける。
さて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)(いへ)に皈(かへ)りつきしに主人(しゆじん)のかへりたるを見て家(いへ)にのこりありし老(おひ)たる奴僕(しもべ)あはたゞしく門外(もんぐわい)にはしりいでつゝ山中(やまなか)にむかひ昨日(きのふ)(ご)主人(しゆじん)の立出(たちいで)給ひたるあとへ御舘(おんやかた)より重(おも)き侍(さふらひ)しゆ両人(りやうにん)走来(はせきた)り山中(やまなか)はあらざるや。君(きみ)より火急(くわきう)の御(おん)めし也とさもいかめしく宣(のたま)ひしゆゑにしか%\のよしをば申てよき事(こと)に候や又(また)あしくやあらんはかりしりがたく候へばたゞ家(いへ)にはおはし給はざるよしを申せしに両人(りやうにん)の御方(おんかた)なに事にや私語(さゝやき)あひてふたゝびせわしく走皈(はせかへ)り給ひしがしばらくありて又(また)はじめの人(ひと)にもあらぬが走来(はせきた)り此度(このたび)は御(ご)主人(しゆしん)の行(ゆく)さきをきびしく尋(たづね)とひ由良之進(ゆらのしん)どのをもたづね候故(ゆゑ)左衞門(さゑもん)どのは今宵(こよひ)由良之進(ゆらのしん)を具(ぐ)して立(たち)いで候が下(しも)ざまのそれがしなればよくもしりはべらずといらへ候にかの両人(りやうにん)かしは木(ぎ)(ぎみ)にとはんとて案内(あんない)もなく打(うち)とほりしが.かしは木(ぎ)(ぎみ)がいたくなやみ居(ゐ)玉ふを見てしいてとひも仕(つかまつ)らず扨(さて)こそ/\といひつゝ打驚(うちおどろき)たるさまに見え候よし侍女(こしもと)(しゆ)の申候。かの両人(りやうにん)は其侭(そのまゝ)(かへ)られ候と事(こと)こまやかに告(つげ)たりしを左衞門聞(きゝ)て心中(しんちう)にあやしみつゝひとまに入(いり)て狩裳束(かりしやうぞく)を常(つね)の服(ふく)にかえて由良之進(ゆらのしん)にかしは木(ぎ)が事(こと)を心(こゝろ)せよと命(めい)じ朝飯(あさはん)をしたゝめをはり主人(しゆじん)が火急(くわきう)の用(よう)といひ彼僕(しもべ)が物語(ものがたり)をきゝて其(その)縁故(ゆゑ)をさとしがたく昨夜(さくや)の宵(よひ)よりいへにあらざるのみならず氏王(うぢわう)殿(どの)の疵(きづ)をうけたりし事は他聞(たもん)をいとひてもらしもせざりしかば左衞門(さゑもん)のしるべうもあらず。
(かの)鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)によりておのが身(み)にあづかる事(こと)とはつゆ知(しら)ずとやあらんかくやあらんと人(ひと)のうへのみおぼつかなく例(れい)の如(ごと)く主人(しゆじん)秋季(あきとし)の舘(やかた)へいたりけるに秋季(あきとし)(たゞち)に左衞門(さゑもん)を召出(めしいだ)し證據(せうこ)の為(ため)にとてとゞめおきし彼(かの)鳩丸(はとまる)をとりいだし.はるか下(さが)りて平伏(へいふく)なせし山中(やまなか)左エ門(さゑもん)が前(まへ)になげやり汝(なんぢ)(その)短刀(たんとう)におぼえありやといふ詞(ことば)のいといら立(だち)ければ山中(やまなか)左衞門(さゑもん)まづ不審(いぶかし)くて短刀(たんとう)をとりあげ見るにおぼえのある鳩丸(はとまる)なれば打驚(うちおどろき)よく/\見るに鮮々(なま/\)しき血(ち)の刄(やいば)を染(そめ)たるを見てます/\驚(おどろ)きこは何(なに)ゆゑに候ぞとたづねけるに秋季(あきとし)脇息(きやうそく)おしのけて肱(ひぢ)を張(はり)つゝ山中(やまなか)を礑(はた)と睚眦(ぬめつけ)(なに)ゆゑとは横道者(わうだうもの)。昨夜(さくや)地蔵坂(ぢぞうざか)の辺(ほとり)にて何者(なにもの)ともしれず其(その)短刀(たんとう)を飛(とば)せて氏王丸(うぢわうまる)が櫻狩(さくらがり)のかへるさなりし輿(のりもの)へ打付(うちつけ)肩尖(かたさき)へ手疵(てきづ)をおはせたり。其(その)一刀(いつとう)は前(さき)の日(ひ)(なんぢ)へ与(あた)へし鳩丸(はとまる)なれば汝(なんぢ)が所為(しよゐ)ならんと申すものおほし。言譯(いひわけ)ありや返答(へんとう)せよいかに/\と気(き)をいらちて宣(のたまへ)ば山中(やまなか)左衞門(さゑもん)おそれ入(いつ)て平服(へいふく)なし御諚(ごぢやう)には候へども譜代(ふだい)重恩(ぢうおん)の御主人(ごしゆじん)へ對(たい)したてまつり.さる大悪(たいあく)をおこなひ候心底(しんてい)のものに候はざる事はと.半(なかば)いはして秋季(あきとし)(かしら)うちふり.いな/\人心(じんしん)ははかりがたし。昨夜(さくや)の騒動(そうどう)他聞(たもん)をいとひてあながちにかくしおきたりといへども長臣(ちやうしん)の身(み)としてきゝもおよばざる事はよもあらじ。しかるに昨夜(さくや)(そば)づかひの侍(さふらひ)どもをつかはしてめしたりしに両度(りやうど)の使(つかひ)をむなしうなして家(いへ)にあらざりしは汝(なんぢ)が心中(しんちう)に一物(いちもつ)あるゆゑとこそしられつれ.さておくべきかは覚悟(かくご)せよと宣(のたまひ)つゝつと立(たち)て御佩刀(おんはかせ)に手(て)をかけ給ひければ最前(さいぜん)より障子(しやうじ)のかげに窺(うかゞひ)(ゐ)給ひたる花(はな)の方(かた)あはたゞしくはせいで給ひ秋季(あきとし)をおしとゞめ.御手討(おんてうち)と見えしはさることながらかれを御手(おんて)にかけさせ給ひては氏王丸(うぢわうまる)に庇(きづ)つけしものは誰(たれ)とも分明(ふんみやう)ならず。稚児(わこ)とはなさぬなかのわらはが伴(ともな)ひいでし途中(とちう)にてさる事ありしを事(こと)不分明(ふふんみやう)になしすてゝはいかにもうしろめだく候へば左衞門(さゑもん)を御糾明(ごきうめい)ありて氏王丸(うぢわうまる)に疵(きづ)しものをめしとらへ給はんこそねがはしくはべるなれと理(ことはり)ある詞(ことば)に秋季(あきとし)(うち)点頭(うなづき)てもとの席(せき)にをられ猶(なほ)山中(やまなか)にむかひ汝(なんぢ)(いま)なにとかいひつるが言譯(いひわけ)あらば申せと宣(のたま)へば左衞門(さゑもん)わづかに頭(かしら)をあげて短刀(たんたう)を前(まへ)におき此(この)鳩丸(はとまる)を以て氏王(うじわう)(ぎみ)へ疵(きづ)しゆゑにやつがれを御(おん)うたがひ給ふは理(ことわり)ながら申上る仔細(しさい)一とほり聞(きこ)えわけ給はるべし。君(きみ)にもしろしめさせ候ごとく當年(たうねん)五歳(ごさい)になりに〔ぬ〕男(せがれ)三之助此(この)短刀(たんとう)を見候て程(ほど)よきおのれが指料(さしりやう)とこゝろえしきりに請(こひ)候ゆゑに子(こ)に甘(あま)きは親(おや)のならひにて御賜(おんたまもの)とはぞんじながらかれに與(あた)へて他出(たしゆつ)のはれにかならず帶(たい)させ候ひしにやつがれも昨日(さくじつ)花園(はなぞの)の花見(はなみ)にまかりつるが北(きた)の方(かた)若君(わかぎみ)もかのちへ御遊(あそ)び給ひたるを見うけ奉りて妻子(さいし)を具(ぐ)して君(きみ)とおなじ所(ところ)にをり候はんは失礼(しつれい)と存(ぞん)じ花(はな)ぞのを立さり志賀(しが)の山間(やまあひ)にいたりて花(はな)を賞(しやうじ)て時(とき)をうつし黄昏(たそかれ)ちかくなるまゝに皈路(きろ)におもむき候はんと.思ひたちしをりしも向(むかふ)の山上(さんしやう)より大G(おほわし)おとし来(きた)りて男(せがれ)三之助をかい掴(つかみ)雲井(くもゐ)はるかに飛(とび)さりて行方(ゆくへ)(しら)ずなり候。此日(このひ)も鳩丸(はとまる)はかれが帶(たい)しをり候まゝにてG(わし)にとられ候へば一定(いちぢやう)(こし)より抜(ぬけ)はなれて落(おち)たるを人のひろひとりて氏王(うじわう)(ぎみ)へ此(この)短刀(たんとう)をもつて疵(きづ)つけ候ことかとおぼえ候。たとへやつがれ氏王(うぢわう)(ぎみ)を害(がい)したてまつらんといたせしにもせよ君(きみ)よりたまはりたる此(この)短刀(たんとう)をもて打(うち)かけ候はんやうもはべらす。昨夜(さくや)(よひ)のほどより家来(けらい)を具(ぐ)して志賀(しが)の山中(さんちう)へわけのぼり男(せがれ)の讎(あた)なる鷲(わし)を射(ゐ)とめ候べしと夜(よ)さら山中(さんちう)をへめぐり今朝(こんちやう)(いへ)に皈(かへり)候ゆゑに御(おん)めしにも応(おう)せず。氏王(うじわう)(ぎみ)の事は聞(きゝ)も候はず.さる仔細(しさい)に候へばおのれが所為(しわざ)にあらざることは暁(さと)しわけさせ給はるべしと事の仔細(しさい)をありていにいひのべたりしに秋季(あきとし)これをきかれて左衞門(さゑもん)を打(うち)見やり一子(いつし)を鷲(わし)にとらるゝほどの虚気者(うつけもの)よもや大事(だいじ)は為出(しいだ)すまじ。今(いま)申条(でう)(ことはり)あるに似(に)たればまづ今日(こんにち)はゆるしつかはすべし。明日(みやうにち)より日数(ひかづ)三日のあいだに氏王(うじわう)に庇(きづ)つけたる曲者(くせもの)をからめ捕(とり)て引来(ひきく)べし.さなきに於(おい)ては汝(なんぢ)が罪(つみ)の逃(のが)れかたきは自暁(みづからさと)し辨(わきまふ)べし.とく/\立とのたまひつゝ席(せき)を蹴(け)たてゝ奥殿(おくでん)へ入給ひければ花(はな)の方(かた)もあとにしたがひて席(せき)を立(たゝ)れけり.
かくて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)はかの鳩丸(はとまる)を僉議(せんぎ)の為(ため)に請(こひ)うけて家(いへ)に皈(かへ)り由良之進(ゆらのしん)をめして事(こと)のやうすを申きかせ家(いへ)の浮沈(ふちん)にかゝはるべき一大事(いちだいじ)なれば昼夜(ちうや)をいはずさま%\になして曲者(くせもの)を僉議(せんぎ)なせしにかの梶之助(かぢのすけ)が所為(しわざ)とは誰(たれ)しるものもなかりければ曲者(くせもの)をたづねいだすべうもあらずむなしく二日(ふつか)の日(ひ)をすごし第(だい)三ン日の日(ひ)もはや西(にし)にかたふきければ左衞門(さゑもん)はこゝろも心(こゝろ)ならず五ッの年(とし)までそだてあげたる三之助は鷲(わし)にとられ妻(つま)の柏木(かしはぎ)は悩(なやみ)に打臥(うちふし)曲者(くせもの)は捕得(とらへえ)ずとりかさねたる身(み)の困果(いんぐわ)明日(あす)はいかなる憂目(うきめ)や見んと今日(けふ)の日蔭(ひかげ)におのが身(み)もつれて消(きえ)ゆく思ひなり。左衞門(さゑもん)一間(ひとま)に閉篭(とぢこもり)叉手(うでぐみ)して思ふやうそれと心(こゝろ)づく方(かた)は残(のこ)る所(ところ)もなく僉議(せんぎ)しつれどもかの曲者(くせもの)のしれざるは我(わが)運命(うんめい)の盡(つく)べきときのいたれるならん。猶(なほ)よくこれを勘校(かんがふ)るに鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)(わし)に抓(つかま)れたる三之助が腰(こし)より劔挺(さやばしり)氏王(うじわう)どのゝ輿(のりもの)のうへに落(おち)くだりて疵(きづ)をうけ給ひたる事(こと)もやある.そのほどもはかりがたし.とまれかくまれ我君(わがきみ)より賜(たま)はりて我家(わがいへ)にある劍(つるぎ)をもて御主人(ごしゆじん)の若君(わかぎみ)へ疵(きづ)をおはせたれば御命(おんいのち)にはつゝがなしと聞(きゝ)つれども曲者(くせもの)のいでざるにおきては其(その)(つみ)の逃(のが)るべき謂(いはれ)なし。加之(しかのみ)ならず短気(たんき)火性(くはせい)の我君(わがきみ)なればいかなる

挿絵
【挿絵第八図 山中左エ門誣告(ふこく)の罪(つみ)を得て自殺(じさつ)す】

(はぢ)をうけて命(いのち)をめされんもはかりがたし.たゞ此(この)うへはこれまでの命(いのち)と諦(あきら)め君(きみ)より乞請(こひうけ)(きた)りし鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)にて腹切(はらきる)がせめてもの申譯(わけ)なり.と獨(ひとり)思案(しあん)の胸(むね)を居(すえ)(すで)に其(その)(こゝろ)支度(がまえ)しつれどもことし十二の娘(むすめ)小君(こきみ)が母(はゝ)の悩(なや)みを苦(く)になして悲涕(しく/\)(なく)を見るにつけ妻(つま)の事(こと)をも思ひやり我(わが)なきのちはさぞかしと輪廻(りんゑ)に絆(つな)ぐ身(み)のほだし心(こゝろ)も弱(よは)り気(き)も折(くじ)けしばし涙(なみだ)に哽咽(むせび)けるがかくては最期(さいご)もおぼつかなく家(いへ)にありては妨(さまたげ)おほし菩提寺(ほだいじ)にいたりてこそと彼(かの)鳩丸(はとまる)をものにつゝみて懐中(くわいちう)なしかしは木(ぎ)小君(こきみ)をはじめとし由良之進(ゆらのしん)へも心(こゝろ)の裏(うち)の暇乞(いとまごひ)をなし事(こと)にかこつけて家(いへ)を立出(たちいで)菩提寺(ぼだいじ)さしていそぎけり.かゝるとき左衞門(さゑもん)が心中(しんちう)いかに悲(かな)しかりけん思ひはかるべし。
○そも/\山中(やまなか)左衞門(さゑもん)が菩提所(ぼだいしよ)は花裳山(くわしやうざん)国字寺(こくじじ)と号(がう)する禅院(ぜんいん)にして左衞門(さゑもん)が家(いへ)を去(さる)事一里(いちり)あまりを隔(へだ〔て〕)てたる花渓(はなだに)といふ所(ところ)にあり。時(とき)の住寺(ちうじ)佛月(ぶつげつ)禅師(ぜんじ)はその齢(よはひ)八旬(じゆん)に近(ちか)く道徳(だうとく)の聞(きこ)へいみじくして種々(しゆ%\)の竒特(きどく)を見せ給ふゆゑに人(ひと)(みな)活佛(いきぼとけ)と稱(しやうじ)皈依(きゑ)のものもおほしとなん。左衞門(さゑもん)は此(この)禅師(ぜんじ)とは壇越(だんおつ)の好(よしみ)あるのみならず和歌(わか)の道(みち)をもつてまじはりもふかゝりけるほどに佛月(ぶつげつ)禅師(ぜんじ)に對面(たいめん)なして事の仔細(しさい)を物(もの)がたり自殺(じさつ)と覚悟(かくご)したる事(こと)をも聞(きか)せければ禅師(ぜんじ)(なみだ)をながしとかくの詞(ことば)もまじへずしばし思案(しあん)の体(てい)なりしがをりから本堂(ほんどう)には壇越(だんおつ)の男女(なんによ)(おひ)たるも若(わか)きも打交(うちまじ)りて百万遍(ひやくまんべん)の念仏(ねんぶつ)を行(おこな)ひをれり。褝家(ぜんけ)には聞(きゝ)もおよばざる事(こと)をさすも此(この)禅師(ぜんじ)の見識(けんしき)なるべし。禅師(ぜんじ)は百万遍(ひやくまんべん)のねぶつ唱(とな)ふるこゑのいとかしましきをきゝて左衞門(さゑもん)にむかひ此所(このところ)は事(こと)を談(だん)ずるによろしからず。まづこなたへとおくまりたる小院(こざしき)にいたり何事(なにごと)にやあらんしばらく譯(と)き暁(さと)し給ひ事(こと)をはりてのち再(ふたゝび)左衞門(さゑもん)を伴(ともな)ひて本堂(ほんどう)にいたり彼(かの)百万遍(ひやくまんべん)の檀越(だんおつ)に打(うち)むかひこれにをらるゝは山中(やまなか)左衞門(さゑもん)とよびて當國(たうごく)松江(まつえ)の庄(しやう)松江(まつえ)の判官(はんぐわん)秋季(あきとし)どのゝ長臣(ちやうしん)なり.さる人(ひと)ありとは聞(きゝ)もおよび給ひつらん。武士道(ぶしだう)のたちがたき事(こと)ありとて當寺(たうじ)にきたりて貧道(わが)引導(いんだう)をうけ自殺(じさつ)し給はんとの願(ねがひ)なるを.さま%\にとゞめしかども承引(せういん)なければせんすべなし.おの/\かゝづらひ給ふ事にはあらざれども貧道(わが)たのみなれば此人(このひと)のために其所(そのところ)にて百万遍(ひやくまんべん)を唱(とな)え菩提(ぼだい)のよすがともなして給はれかしといひければ壇越(だんおつ)の人々(ひと%\)(め)と目(め)を見あはし興(きやう)さめがほに見えけるが禅師(ぜんじ)の餘義(よぎ)なきたのみなればせんかたなげに承引(うけひき)ぬ。されども腹切(はらきる)を見んはうへなくいまはしき事なれば一人(ひとり)(たち)二人(ふたり)(たち)(いとま)も乞(こは)ずして逃皈(にげかへ)るものぞおほかりける.しかせしはさもこそと思はるゝなり.
さて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は仏月(ぶつげつ)禅師(せんじ)の引導(いんだう)をうけをはりけるにをりから庭前(ていぜん)の櫻(さくら)の枝(えだ)に鶯(うぐひす)の鳴(なき)ければ辞世(じせい)とおぼしく
  かゝ(斯)るとき(時)たかね(高音)にき(来)なくうぐひすのちか(誓)ひうれしきのり(法)の一ふし
と打〓(うちぎん)じつゝ猶(なほ)たんざくにしるし髻(もとゞり)ふつとおしきりて.短册(たんざく)にとりそえこれは妻(つま)へ遺物(かたみ)にとらせ給はれかしと禅師(せんじ)に託(たく)し腹切(はらきり)の所(ところ)におしなほりければ百万遍(べん)の人々左衞門(さゑもん)を中央(なか)になして達(めぐり)に居並(ゐなら)び念珠(ねんじゆ)の大なるを引環(ひきめぐら)しければ仏月(ぶつげつ)禅師(せんじ)高座(かうざ)にありて鉦(かね)(うち)ならし念仏(ねぶつ)を唱(とな)え給ふにつれて皆(みな)同音(どうおん)にとなえけり。左衞門(さゑもん)は徐(しづか)にはだをおしぬぎ片袖(かたそで)を引断(ひきちぎ)りてかの鳩丸(はとまる)をかい繰包(くるみ)南旡(なむ)あみだぶつともろともに腹(はら)へぐつさと突立(つきたつ)れば鮮血(せんけつ)さつと激(ほどばし)りて畳(たゝみ)を朱(あけ)にそめながし鬢髪(ひんはつ)みだれて苦痛(くつう)の体(てい)此世(このよ)からなる修羅道(しゆらだう)をせめてはたすくる〓急念仏(せめねぶつ)(みな)(め)を閉(とぢ)て幾(いく)同音(どうをん)ことにせわしく唱(とな)ゆれば是(これ)を冥途(めいど)の案内(しるべ)とし鮮血(ちしほ)したゝる短刀(たんとう)を持(もつ)(て)にまた手をもちそえて吭(ふゑ)のくさりを掻切(かききり)つ。前(まへ)に合破(かつは)と倒(たふ)れ臥(ふ)し此(この)山寺(やまでら)の入相(いりあひ)に消(きえ)てはかなくなりにけり。

  第五回 顛狂(てんきやう)

(こゝ)に又(また)山中(やまなか)左衞門(さゑもん)が妻(つま)の栢木(かしはき)は彼(かの)(ひ)(いへ)に皈(かへ)りて后(のち)(やまひ)の床(とこ)に打臥(うちふし)て一切(つや/\)(もの)も食(すゝま)ずたゞ三之助がことをのみ歎(なげ)きかなしみをれば鳩丸(はとまる)の事(こと)につきて左衞門(さゑもん)が身(み)に疑(うたがひ)かゝりたる事はいたわりの障(さわり)ともなるべしとて語(かたり)もきかせざりけるゆゑに此日(このひ)も左衞門(さゑもん)は只(たゞ)所用(しよよう)ありて家(いへ)にあらざるとのみこゝろえ自殺(じさつ)せしとはゆめにだにしらず。とにかく心(こゝろ)をものにうつして三之助が事(こと)をわすれんと小君(こきみ)に琴(こと)をひかせ婢女(こしもと)に頭痛(づつう)をもませて居(い)たりしに由良之進(ゆらのしん)あはたゞしく走来(はせきた)りて栢木(かしはぎ)に對(むか)ひ.かの短刀(たんとう)の事(こと)にて疑(うたがひ)かゝりし事をはじめとし今(いま)また仏月(ぶつげつ)禅師(ぜんじ)より使僧(しそう)をもて左衞門(さへもん)が自殺(じさつ)の事(こと)をしらせ辞丗(じせい)のたんざく外(ほか)に二品(ふたしな)をおくりこされたる事(こと)を語(かた)り涙(なみだ)ながらにつゝみをひらきかのたんざくと左衞門(さへもん)が髻(もとどり)(および)自殺(じさつ)の短刀(たんとう)をとりいだして栢木(かしはぎ)がまへにおきければ栢木(かしはぎ)はあまりの事にえも泣(なか)ずたんざくに髻(もとどり)をとりそえてひと目(め)見しよりむね迫(せまり)(こへ)をはなつて哽咽(むせ)かへりうつぶしに倒(たふ)れ伏(ふ)しきえいるばかりに見えければ由良之進(ゆらのしん)はせよりてたすけおこし背(せ)を撫(さす)りつゝ介抱(かいほう)の甲斐(かひ)なき主人(しゆじん)の身果(みのはて)とともになみだを洒(そゝ)ぎけり。小君(こきみ)も顔(かほ)にそでをあてしやくりあげつゝ泣居(なきい)たる。栢木(かしはぎ)は由良之進(ゆらのしん)を推除(おしのけ)て.つと身(み)をおこし
○おゝめでたい/\花(はな)がさいたは/\花(はな)はみよしの志賀(しが)の里(さと)こちの殿(との)が御馬(むんま)にめして三之助(さんのすけ)を輿(こし)にのせてそれ/\/\あれ/\/\と顛狂(こゝろみだれ)していなれば由良之進(ゆらのしん)(うち)おどろき小君(こきみ)はかなしくとりすがり.のふ情(なさけ)なき母(はゝ)うへや心(こゝろ)をたしかになし給へ。のふ/\と泣叫(なきさけ)べば栢木(かしはき)は見もやらず繰(くゝ)り枕(まくら)をいだきあげ.ねんねこせいの子(こ)もりうた我子(わかこ)を愛(あい)す如(ごとく)にてみどりの髪(かみ)の青柳(あをやぎ)も心(こゝろ)とともにふりみだしさらに正氣(しやうき)はなかりけり。
由良之進(ゆらのしん)かのたんざくを手(て)にとりあげなみだをはらひあまたゝびよみくだして心(こゝろ)にうなづき泣居(なきい)し小君(こきみ)にうちむかひ.やよ孃君(じやうぎみ)〔俗にいふおじやうさま〕御(おん)父上(ちゝうへ)の御(ご)辞丗(じせい)を聞(きかせ)給へ

かるときかね(高根)(来)なくぐひすのかひうれしきのり(法)の一ふし

かくあそばしたる御水ぐきを見るにかたきうちの五文字(ごもじ)を折句(をりく)にあそばしたんざくかゝん例(れい)をもらして此字(このじ)を墨(すみ)つぎにあそばせしは氏王(うじわう)(ぎみ)に疵(きづ)つけし曲者(くせもの)を僉議(せんぎ)しいだし旡実(むじつ)の罪(つみ)におん腹(はら)めしたるかたきうちくれよと人にしらさぬたんざくの御遺言(ごゆいげん)おんはらめしたる鳩丸(はとまる)を禅師(ぜんし)かたよりおくられしは夫(それ)と悟(さと)りしはからひならん。泣(ない)ておはする所(ところ)にあらず。心(こゝろ)を男々(をゝ)しくもち給へ。たとへ敵(かたき)は鬼神(おにかみ)なりとも御(おん)助太刀(すけだち)つかまつり御本望(ごほんもう)をとげさせん。孃君(じやうぎみ)いかにと勇(いさま)すれば小君(こきみ)もたんざくを手(て)にとりあげむねんのなみだに哽咽(むせび)つゝ由良之進(ゆらのしん)うれしきぞや女(をんな)ながらも山(やま)中の〓子(そふりやう)(むすめ)もしや敵(かたき)にいであはゞ真(まつ)如此(このごとく)とかの鳩丸(はとまる)を採(とる)よりはやく片邊(かたへ)の琴(こと)をぱつしときれば糸(いと)は左右(さゆう)へ柱(ぢ)