高 木 元
【解題】
本作は、文化6(1809)年11月22日に出板された『小櫻姫風月奇観』に続いて、文化7(1810)年正月27日に出板されたものである。巻5の巻末に付された跋文に拠れば、文化5(1808)年3月6日に起稿し5月15日に巻1を脱稿していたが、残りの4巻は翌文化6(1809)年10月28日から12月9日に仕上げたとあるから、実際に書き始められたのは本作の方が先立ったようである。
どのような事情で1年半も放置されていたのかは不明ではあるが、文化5年から6年に掛けては大量の草双紙の執筆を行っていたことは間違いない。どういう勘定に成っているのか分からない点もあるが「文化五年京山作十七部之一」とか「文化巳春京山作十種之一」などと標榜して多作を誇っている。デビュー直後の草双紙作者としては異例の多作といわざるを得ない。たとえば、文化6年刊の合巻『千本桜祇園守護』の序文に「文化五年戊辰秋七月草稿成」とあるように、執筆時期を明らかにしている草双紙も多く、その驚くべき執筆速度が知れる。
この文化期半ばは、江戸読本の刊行にとっても絶頂期であり、京山に対しても早くから板元である貸本屋からの執筆依頼があった。序文の「観竹堂得刻之」という行文や、本書の口絵に掲げられた「師宣の図」に関する説明に「此書を著述する縁で観竹堂より贈られた」と書いていることから、観竹堂すなわち上州屋仲右衛門からの執筆依頼があったものと推測できるのである。ところが、実際に本書を刊行したのは、刊記から了解できるように栄山堂(丸山佐兵衛)であった。双方ともほとんど出板実績のない本屋であるが、井上隆明『改訂増補・近世書林板元総覧』(青裳堂書店)に拠れば、栄山堂は本書しか出していないのである。
そこで『〈享保|以後〉江戸出版書目』を見ると「文化七午年正月廿七日廻し割印 去冬行事 同前」「同六巳年十二月掛改済/鷲談傳竒・桃花流水 全五冊 山東京山作/哥川豊広画 板元売出し 前川弥兵衛/同百廿五丁」とあり、『外題作者画工書肆名目集』には「〈鷲談|傳竒〉桃茂(ママ)流水 五冊 京山作/豊広画 前川弥兵衛/午正月廿二日校本廻ル正月廿五日上本/廻ル廿七日売出し 十一月十九日廻ル」とあるように、書物問屋として出願をした前川弥兵衛の名前しか見られない。実は、この前川弥兵衛は『小桜姫風月奇観』の出願板元でもあり、京山作の読本を前後して2作出願したことになる。しかし、本書では見返に盛文堂(前川弥兵衛)・栄山堂と蔵版元を並べて書き、刊記にも「仝梓」としており、単なる出願書肆ではなく相板元と成っている点に注意が惹かれる。つまり、観竹堂から栄山堂への板元の移動、そして彼等貸本屋と書物問屋である前川弥兵衛との関係が、本書の執筆が1年半放置されていたことと無関係であるとは考えにくいのであるが、今はこれ以上の詮索はできない。
ついでながら、本書の巻1と2のみには『小桜姫風月奇観』と同様に句読点がほとんど施されていない。しかし、不審なことに巻3以下は一般的な読本と同様に句読点の区別無く白点が打たれている。執筆時期の問題とは直接関係ないと思われるが、翻刻本文からは分からない点なので一応記しておくことにする。
さて、本書には本格的な作品論として、津田眞弓「山東京山読本考―『鷲談伝奇桃花流水』をめぐって―」(『日本女子大学大学院文学研究科紀要』2、1996年3月)が備わっている。序文自体が京山のあげつらった蒋士銓の戯曲『雪中人』の「填詞自序」に擬して書かれていることを指摘し、明示された典拠である三好松洛・竹田小出雲合作の浄瑠璃『花衣いろは縁起』と登場人物とその形象に着目した詳細な比較検討を通じて、勧善懲悪を徹底した武家の敵討物語として再構成していることを指摘し、京山の心底に去来する理想的な武士に対する憧憬を読みとっている。
一方、京山の文学史上の位置に関する示唆に富む論考として、内田保廣「『不才』の作家―山東京山試論―」(『近世文学論叢』明治書院)がある。氏は「不才」であると繰り返し公言して憚らなかった京山の作家としての意識を、「書肆が主導して、出版が行われていた当時の、作者の位置とそこに形成された」ものとし、商業出版の確立にともなって量産を強いられる作者にとって、作品構成力の不足という欠陥、すなわち京山のいうところの「不才」は、彼の作品にとって大きな障害ではなかったと結論付ける。その具体例として本書の左衛門、飾磨、横島の三人が同じように切腹して死ぬという同一趣向が繰り返される点を挙げ、また鷲にさらわれた三之助について「三之助のゆくへは三之巻にくはしくしるす」と予告していることに関して、読者の読み方を筋の展開ではなくてプロセスの方へ誘導するための方法であると指摘する。さらに、柏木と小君を捕らえた女非人達の描写が、主筋の展開とは無関係であるにも関わらず、3回分も延々と続けられた上で、唐突に登場する摩利支天の化身と見られる猪によって救われる点を挙げ、見せ場と全体の展開が遊離してしまってる形は読本には不向きであったが、長編合巻にとっては場面の描写で短期的に読者の興味を引くこの方法(オムニバス)が有効であったと説いている。
【書誌】
【表紙】
鷲談傳奇/巻之一(〜五)
【見返】
山東嵒京山 填詞[京山先生三種曲之一]/鷲談傳奇・桃花流水/歌川豊廣畫圖・文化庚午新譜・書舗 盛文堂・榮山堂
【自序】
自序 [橋坐山東]
戊辰の春墨水觀花之次。友人柳菴綾瀬別業を過ぐ。飲漱六水閣。對岸の桃花爛燦にして錦の如し。柳菴と分韻。詩興最も濃也。偶元遺山集本を見る。中に劇冊一本夾刺有り。予曰く主人何等不風流。蒹葭と玉樹と同一架。柳庵劇本を採て予に示して曰く。此書劇詞場中為翹楚者。竹田出雲作する所の花衣篇たり。蓋し駕國史所載鷲攫良辨話作之。清人蒋士銓於鐡丐傳。與編雪中人傳奇相類也。千穐之佳話。慰十載之遐思。請試讀之。於斯乎倚欄干。酔眼を開きて之を読む。間妙句有り。覚えず全部を終ぬ。天色竟に晩れ。歩月帰家。此夕兀坐。意有所觸。構局成編。遂に一齣を作り夜達曙人事雑還。小暇書之。三十七日を越え稿脱す。題して曰く鷲談傳奇桃花流水と。以似柳菴。觀竹堂得て之を刻し。遂に出雲之徒と。其流を同す。
刻成り之れに序す。文化戊辰歳立秋日也。 山東嵒京山撰 [京山][仙杳]
書画舫
爲 京山詞宗[月松風艸]
筆歌墨舞 〓小影[戯印小影]
[石斎] 讀桃花流水三首
巾〓綱常事可風 筆花涙染桃花紅 偶然讀到詼諧處 天籟嘘々入耳中
詞苑曾推若士湯 南安梦境太荒唐 不傳梅柳傳桃李 壓倒風流玉茗堂
意蕊情絲細品量 桃花流水有餘香 頭廳間袖三長手 却與春光作主張
戊辰春 空谷樵者草 [正雅]
[片玉]
春塘〓鞭過于
空谷主人之山舘
偶見讀桃花流水
作予亦戲作此圖合
與京山氏 酔僊[酔][仙]
此書脱稿後辱 両公子之雙絶藏篋際怕
冒帋魚拘卷首以似 大方清鑒
文化戊辰三月 京山陳人[京山]
題家弟京山新作[艸一枝復意華]
橋北墨花初競奇 堪慚燈下作篇遅
閑窗春雨生眠日 寒室秋宵結悶時
展覧偏憐忠義志 沈唯深悪姦曲姿
熟耳嬰児知風路 自異爺娘童話痴
醒々齋京傳[田蔵][山東]
日本繪 菱川師宣圖[師宣]
風の柳の吹まゝにさそふ水あらはと聞へしは恨かちなる世の中の人の心をくみてしる淺草川のはやきおふねはうはきの波にうちまかせまつち山の松の嵐にその夜の夢をさまさせわかれぢのさう/\しさ首尾といふ字のうつゝなさせいもん/\らちもみたれてひと花心へにくひ事きいたよすかもそれも御身のたのしみならはよしそれとてもへ
右に著す師宣の図は淡彩の絹幅なり此書を刻する觀竹堂市に購得たりとて予に贈れり圖中に題したる文は三浦屋の小紫といふ阿曾比の作れる萓草といふ小歌なる事洞房語園に見ゆ家兄京傳翁の家藏に小紫の短尺ありその運筆此書に相似たり師宣は小紫と時を同うせしものなれば此題辭は小紫の書なるべくおぼゆめり
藻の花や繪にかきわけてさそふ水と晋子の讃せしもこの阿曾比なるべしおのれ此書を著述せる縁によりて得たる一軸なれば縮書してこゝに掲つ好事家の一觀に具するのみ 酔々子識之[京山]
秋季の内君花の方一子氏王丸志賀里花見の図
山桜花の下風吹にけり 木のもとことの雪のむらきへ
[山東]
桃文稱辟惡
桑表質初生
[京山]
○山中左衞門正當
雪瓜星眸世所稀
摩天専待振毛衣
[石斎]
山中左衞門一子三之助
地獄坂の女非人 鬼芝
[山東]
旧曲聽来猶有
恨故園皈去却
無 [京山]
星合梶之輔照連
[文齋]
十年磨一劍
霜刄未嘗試
今日把示君
誰爲不平事
[石華]
娘小姫
山中左衞門之妻栢木
[酉弐]
生別死愁一夜来芳心明意
去難回霜風破却満樹泥〓
染鬆面置苔
酔々軒主人題 [京山]
山中左衞門家〓
春瀬由良之進
[酉弐]
忠骨孝肝鐡石心
家無四壁不貧獨
飛動鴻鵠志意風
裏劍光斬冦人知
酔々子題 [京山][橋坐山東]
[石齋]
萬般物象皆能鑒
一箇人心不可明
[京山]
頑婦眞弓之方
[山東]
薪和埜花採
歩帯山詞唱 [京山]
由良之進家弟簑作
[山東]
眉黛奪将萱草色
紅裙妬殺石榴花
[京山]
山中三之助 再出
五月雨の小督
山樵枝朶六
[酉弐]
誰愛風流高格調
共憐時丗儉梳粧
[京山]
深雪
僕自幼嗜〓印章。凡銀銅牙角玉石随材奏刀。嘗挟此技一遊文場已久矣。今欲售此技以充楮墨之費。然則不復属閑巧夫。茲定工價。開欸于巻尾。願 諸君賜顧者。嗣索拙作榮幸々々。統乞垂鑒。
文化戊辰夏五 山東京山[京山]欽白
僕幼き自り嗜て印章を〓す。凡そ銀銅牙角玉石材に随て奏刀す。嘗て此の技を挟で文場に遊ぶこと已に久し。今此の技を售て以て楮墨の費に充んと欲す。然は則ち復閑巧夫に属さず。茲に工價を定めて。巻尾に開欸す。願は 諸君賜顧の者。嗣て拙作を索めば榮幸々々。統て垂鑒を乞ふ。
文化戊辰夏五 山東京山[京山]欽白
鷲談傳竒桃花流水目録
巻之一
壽筵 失兒 飛劍
巻之二
臥劍 顛狂 鳴琴
巻之三
乞銭 神護 義樵 血戰
巻之四
幽栖 〓金 熱閙 義漢
巻之五
没水 竒遇 窺栖 迎福
通計十八齣
鷲談傳竒桃花流水 巻之一
江戸 山東京山編次
第一齣 壽筵
今は昔應永の年間近国松江の庄に松江判官藤原秋季といふ人ありけり。強氣勇猛にして武略に長じ南朝に忠勤を奉りし功によりて去る明徳三年南北両朝和睦の刻江州松江に加恩の所領を賜しより後彼所に居を移し餘多の家臣を扶助なして家冨榮けり。秋季の妻を花の方といふ。前には南朝の后宮に仕へたる女房にして哥学はさらなり絲竹のしらべ絵かき花むすびの技にさへいと妙なりけるうへに艶姿秀衆心ざま貞介かりけるにぞ夫婦のなかもわりなくて睦深くかたらひぬ。嫡子氏王丸といふは先妻の子にして花の方には継しきなかなりけるが花のかたさらに隔るこゝろなく我實の子のごとくおもひなし愛養て已に氏王丸十一歳にいたり。
時は応永七年の春秋季四十の初度にあたりければ誕生の日にいたりなば家臣等をあつめ初老の年賀を祝ひ喜びの酒宴を催すべしとかねて其心がまへありけるに花の方のはからひとして家臣等に祝ひの歌をよませ賀筵の日披講なさしむべしとて寄松祝といふ兼題をいだされたり。さるゆへに日ごろ哥道に志あるものは哥合する思ひしてよろこぶといヘどもその技に疎きものどもはおのれが俗たるをはぢらひけり。秋季は兵革の間に成長て武事をこのみ雅事には心をもちひざれば祝の哥をあつむるはさのみ興あることゝはおもはざれども北の方のおぼし立なればそのまゝにうちおき給ひぬ。
爰にまた秋季が普代恩顧の長臣に山中左衞門正當といふ者ありけり。性質廉直にして禮節を重じ子通巾を脱し伯鸞竃を滅するの風旨をしたひて最老実なる武士なりけるが武藝のいとま且て和哥をこのみ京なる某の卿の弟子となりてそのみちにかしこければ秋季の四十を賀する祝哥を奉らすべき役にぞえらばれける。これ則彼が身を亡し家を失ふべき一端とは后にぞおもひしられける。
かくてほどなく秋季が吉誕の日にいたりければ秋季廣院に家臣等をあつめ嫡子氏王丸をしたがへて上座に坐をまうけければ山中左衞門ひとまの障子をひらかせ輝光わたる文臺のうへにあまたの懐紙をつみのせて捧いで秋季の左の方にひきさがりて席をまうく。家臣の面々は両側に袖を連て居ならびけり。花の方は簾たれたる裏にあまたの侍女をしたがへ侍従黒方のたぐひにやあらんいと妙なる薫りをほのめかせて哥の披講をきかれけり。時しも夜の事なりければ銀燭の光金屏に輝て画る千歳のすがたをうつし彩色松万代の緑をこめて最も冨貴光景なり。
時に山中左衞門文臺をとりすゝみ出て吟上る哥どもをきけばあるひは万代を松の尾山のかげしげみとことぶきあるひは住の江に生そふ松の枝ごとにと祝ふ。子の日する埜辺の小松をうつし栽て年の尾ながき齢をいのれば相生のをしほの山とよみかけて千とせのかげをたのみ千秋を賀し万歳を祝ひ三十一文字の員はおなじけれども詠いづる意はおのがさま%\にていづれおろかはなかりけり。披講もやゝ半なるとき左衞門星合梶之助照連といふものゝよめる哥の上の句を吟じさして懐紙を手にとりあげしばし思案する介なりしが膝の下へとり除て次の哥を吟じけり。秋季これを見咎て左衞門に對ひ汝今伴の照連と名告をあげ上の句を吟上たるのみにて何ゆゑ懐紙を取除しぞ。不審ふるまひなりと問れければ左衞門頭をさげ星合梶之助がよめる哥につきては左衞門所存候へば披講をひかへ候。君には唯このまゝに御見逃したまはるべしと事あり気なる言葉を聞烈しき気質の秋季なればうけひく気色はさらになく汝その哥につきて存る旨ありとは不審なり。事分明に申すべしと宣ことばの尾につきて梶之助すゝみいでいかに左衞門かばかり多き哥のうちにて僕がよみたるうたにかぎり披講をはぶくのみならず文臺の上にすらおかざるは心得がたき事なり。相公の御不審を蒙るのみか朋輩の手前面目なし。いで/\おもふむねをきくべしと眼に角たてし形勢に席は粛然て見へたりけり。山中左衞門秋季に對ひ相公の御不審とあらば一通その子細をきこえあぐべし。梶之助も聞候へとてかの懐紙を手にとりあげ ○我君は末の松山はる%\とこす白浪のかづもしられず
とよめるは不祥の歌にて候。それいかにとなれば我君は末とつゞきたるは
【挿絵第一図 山中左衞門星合梶之助が詩作を詰て一場の妖〓を醸す】
忌べき詞なり。又流れてとゞまらず碎けて消やすき波の数に君が齢をよそへたるも祝の心には協がたし。評する身としてかゝる不祥のよみ哥を聞へ上んは相公への惶あり。さるゆゑにとりのけ候ひぬ。いかに梶之助今申せしは此山中が僻おもひにや。おん身の説をうけたまはらんとことばを烈していひけるに膽太き梶之助も返答にさしつまり赤面してぞ居たりける。短気の秋季大に怒り連忙しく座を立給ひ梶之助が髻掴みて掎.やをれ照連我が文事に疎きを軽視不祥の哥を詠じて主人を嘲哢なす横道者。扇の骨身におほべよといひてりゆう/\ぱつしと撃すゑたまへば髻ふつと截て髪も乱れ額の疵に鈍染血は頬のあたりに流くだりて見ぐるしかりける形勢也。秋季もとの席にかへり山中左衞門にむかひ汝梶之助を引立て早く目通りを遠ざけよと主人の命にせんすべなく山中左衞門梶之助に對ひ哥を難ぜしは評する者の役なればなり。かならず恨給ふべからず。相公の命なれば席を除きたまへといひけるに梶之助なんの答もせず左衞門を眸にかけふかく恨たるさまにて次の間へしりぞきければ家臣等顔を見あはせて言葉をいだす者もなく大に興を醒しけり。秋季頓而座を立給ひ歌の披講は重てのことゝし席をかへて酒酌べし。みな/\彼所へ来るべしと宣ひつゝ氏王丸を伴て奥の殿へぞ入れける。
かくて次の日花のかた秋季にのたまふは昨日梶之助の哥なりといふを聞はべりしにその哥の忌はしきのみにあらず。かの一首は大治三年に撰れたる金葉集賀の部に載たる永成法師の哥に候。〔此哥を難じたる説基俊の悦目鈔に見ゆ〕梶之助は常からまけじたましゐの男ときゝはべれば此度哥をよまざらんにはその俗たるを人にそしられんことをいとひ屏風などに粘たる色紙なんどに書たる松に寄たる祝ひ哥を認て金葉集の哥ともしらず哥の意もろく/\暁し得ず上の五文字をつくりかえて哥詠顔に懐紙をいだしかの席に連しは最/\堪笑為に候。山中左衞門は君の問せ給ふゆゑにやむことなく席上にてかの哥を難じ候へども金葉集の哥とはしりながら其出所をいはず。梶之助に哥盗人の悪名をとらせざるは小町に旡名をおはせたる黒主の昔がたりに事かはり実にも仁義の雅男に候はずやとひたすら賞美したまひければ秋季これを聞いかにもさこそとおもはるゝ心より左衞門が志を感じ當時義家郷の帶せられたる鳩丸といへる短刀のかたを摸て作らせたる短刀を当座の褒美として山中左衞門にとらせ梶之助はおしこめおかれけり。
第二齣 失児
近江国志賀里は〔三井の北.西郡.正興寺.新在家の四村をむかしの名ごりといふ〕往古景行天皇を始奉り天智の帝も都したまひたる旧都にして昔なつかしき景色は山さくらの香にのこりて世々の撰集にも此地の春をよまざるはなく京極の御休所も一樹のかげに一種の物語をのこし給ひつ名におへる櫻の名所なり。此里の裏にも花園といふ所はわきて櫻のおほければ弥生のころは貴賎群集して豊饒かりき。
偖も山中左衞門は一日かの花園の花見んとて妻の柏木を伴ひ今歳十二歳になれる娘小君と五歳の男子三之助等は一つ轎子に對合せてのらしめ二人の婢女と三人の僕を供にしたがへて花見の調度飯笥分盒など持せ家には譜代の家来春瀬由良之進といふ老実なる者をのこして留守をまもらせ花園さして立出けり。朝のほどは天曇りぬれども行程も半過るころは晴わたりて長閑になりければ山中左衞門妻の栢木に對ひ邂逅の蹈青に曇たる空の心がゝりなりしに快晴して一入の興をそへたり。家にのこる由良之進もかげごといふて喜ぶべしといふに栢木さこそ候はん。花園にもほどちかく候へば小君三之助等は轎子よりおろし歩行候はんとて松かけに轎子をたてゝ兄弟をおろし三之助は左衞門栢木等手をとりて歩行つゝほどなく花園の里にいたりけり。
時しも弥生の半なりければ八重櫻は今を〓に咲いでゝ枝もたゆげに見えひとえは散そめて時ならぬ雪かとあやまたる躑躅山吹こゝかしこに咲みちて得も説ざる好景なり。左衞門等彼所此所を見めぐりけるに或は幕の内に糸竹の調を合せ或は花のもとに今様をうたふもあり茶を販くものは筵をならべて息所をまうけ酒賣ものは小店を區て客をまねく。常には寂寞山里も花のためにぞ賑ひける。左衞門は静なる櫻のもとに用意の幕をうたせんとしつるをりしも遥向のかたより四五人の士に前路を護らせ女童二人を前に立せ餘多の侍女を従へたる上臈貌清らなる若公を伴ひ給ひ行列たゞしくしづやかに歩行来給ふ。左衞門これを見て柏木にむかひかしこへ来給ふは花の方と氏王君也。さだめて此花園に櫻狩してあそび給ふならめ。我々此所にあるは君へのおそれあればまづこなたへ来るべしとて此所を立去り櫻花道見えぬまで散にけりとよみたる志賀の山越のかたにいたり見わたす景色殊にすぐれたる所に幕打まはし氈しきて飯笥分盒などとりいだし午飯たうべ杯めぐらして四方の山々を眺望に此所は花園を去る事半里ばかりにして人家稀なる僻陋の地なれば深山躑躅岩間に發みち櫻は松椙にまじりて渓川に散かゝるさま寂蓼たる景色なり。山中左衞門は文雅をたのしむ士なれば花園の花の豊饒よりは此地の蕭條たる
【挿絵第二図 山中左衞門江州滋賀花園に遊んで櫻を觀る圖】
山景を愛し詩歌を詠じて一入の興をそへにけり。
一子三之助は今歳五ッの愛ざかり縹色の綸子に寳尽しを色入に染いだしたる小袖を着し前日秋季山中に給りたるかの鳩丸といふ短刀はほどよきおのれが帶料なりとてこれを差手に深山躑躅の枝をもちて飛翔胡蝶を追まはす体いと捷才なり。姉の小君後よりこゑかけ三之助よものゝ命はとらざるものぞ。父上の訶詆給ふらめといふに猶追まはりて止ざりけり。柏木は幕の内より婢女等にこゑかけ三之助に怪我さすな。あれかしこへ走り行しぞ渓川のほとりに行すなと心をつかひあれ見たまへ。いまの胡蝶を花の枝にて撃おとしぬ。惺ハふるまひする童かなといふに左衞門莞尓かれが旡病にしてしかも健に生たつは我々が一ッの福也。いざ酌給へ今一ッ飲べしと杯とりあげ夫婦むつまじく酒酌かはしつゝ我子のこゝろよく遊び戯るゝを見て餘念なく樂しみ居たるをりしも後の山の方に笛の音かすかに聞えけるが漸々にちかくなりて山を下るを見れば芻蕘の童二三人草を刈いれたる篭を背負一人の童は牛に跨り笛を晩風に弄していできたりぬ。左衞門彼等をよびとゞめ菓子などとらせければ童子ども喜びて牛はかたへに放ちおき樹の下に並座し菓子をわかちとりてうち喰ぬ。三之助は彼牧童が牛にのり来つるを見ておのれもかの牛にのらめといふに過ありてはあしく候とて婢女どもこれをとゞめけれどもさらに聞いれず泣わめきければ左衞門婢女にむかひ農家に〓たる牛は柔和なるものなり。騎めといはゞ騎せよといひてかの童に牛を牽いださせければ三之助泣とゞめてよろこびいざ/\といふにぞ婢かれを抱てのせんとしたる時柏木立より稚児よ其短刀は婢女どもに持せよといふに三之助頭をうちふりいな/\父上の御馬にめし給ふやうに刀はさして騎べしといひてうけひかざればこれをも彼が心のまゝにしてのせければ手をうちてよろこび〓然わらひやよ/\阿姐見給へ童は牛にのりはべりぬといひつゝ牧童に牽れ婢女にとらへられてこゝかしこへ騎ありき最嬉しきさまなりければ母の柏木夫にむかひ牛にのりてこゝろよきや寳どのゝ咥なる顔つきの愛らしさ。幼けれどもあの腰の居やう常の小児とは違ふて見へ候といふに左衞門さにこそとて夫婦私語て我児を美稱するも人の親たる常なり。左衞門妻にむかひ日ざしもよほど傾きぬ。暮ちかくならぬ間にいざかへりなんとて取ちらしたる飯笥分盒などとりかたづけさせ三之助をも牛よりおろさばやとしけるをりしも對の山の方より一陣の慕風〓と吹きたり樹林〓々となりひゞき満山の櫻一度にぱつと飛ちつたるうちより年旧大G翼を振て勢猛く翔来り嗚呼哉といふ間に牛にのりたる三之助をかい〓みて古松を掠て飛上りければ左衞門これを見て仰天なし刀おつとり駈いだし木の根岩尖飛こえ/\雲井のGの行かたへ足を空にぞ追ゆきける。柏木は声ふるはせあな悲しやのふと泣叫。梦現ともわきまへず。倒つ轉つ後に続て追行しが夫におくれて立とゞまり空をのぞみて身を憫悵足を翹て手をのばしあれよ/\と叫べども翼をもたぬ人の身の其甲斐さらになかりけり。
憐べし三之助は胸のあたり掻やぶられたりとおぼしくて懐紙鮮血に染て〓々と吹散手足を掉はして煩きくるしむ体朦朧に見え泣叫ぶ声は初雁のやうに聞えて哀といふもおろかなり。柏木はこれを見ていとゞ悲しさやるかたなく非歎にせまりて氣をうしなひはたと僵れて消いりぬ。小君もこゝに走りつき柏木に懐つき母人心をたしかになし給へや。悲しやのふと声を調てなき悶ゆれば婢女僕追々に走集り渓川の水を掬して顔に嘘かけ声々に呼活ければ漸々に人心ちつきたるをこしもとゞも抱かゝえて幕の内に皈りけり。山中左衛門は手をむなしく立皈り此躰を見て露現ともなく痴果迷ひけるが斯てあるべき事ならねば小君を副へて柏木をかごにのせ二人のしもべはあとへのこして花見の調度をとりおさめさせ袴の裾高〓て轎に副またもGのきたるかと樹林の梢に眼を配りつゝ心も空もくれかゝる路を忙ぎて皈りにけり。〔三之助のゆくへは三之巻にくはしくしるす〕
夫は偖おきこゝにまた星合梶之助は前日山中左衞門がために我詠哥を評せられて主人秋季の怒をおこし多くの人前にて打擲せられかぎりなき耻辱をうけたるのみならず勤仕をとゞめられけるに山中左衞門はこれに事かはりかの哥を難じたる賞として秋季秘藏し給ふ鳩丸の短刀を渠に給たりと聞己があしきをかへりみずたゞ左衞門のみふかく恨み已に一月あまりも閉居けるに秋季より免許のさたもなかりければこれも左エ門の讒するにこそとおのれが歪む心に比べて囘僻しいかにもして渠に憂目を見せて此恨を報はばやと思ひけるが間居の身なれば山中に出あふべき便もなくとやせまじかくやすべきと思ひ煩ひけり。
抑此梶之介といふ者は播州轟が濱といふ所に住る漁人篷六といふ者の子なりしに少年より武藝を好みて性質乖巧ければおのれが才藝をたのんで人を軽詆酒色を好んで業をつとめず。父は蘆〓の間に生たる匹夫なれば漁を業として一生ををはらんは可分なるべけれども己は才藝ある身をもつて扁舟に棹て生涯をおくり白頭波上に白頭の翁とならんは計策なきに似たりとて二十歳に両親を捨て国を立のき諸國を遍歴けるが五年以前故あつて秋季の家に仕官今歳三十にあまれどもいまだ妻もなく鵲といふ妾をめしつかひ家内僅に六七人のくらしなり。
偖梶之助一日庭に〓を置て胡坐し酒を飲て居たりしに墻を隔て人の談語するをきくに一人は山中左エ門が僕の声なれば渠何等の事を談ずるやらんと墻の隙よりうかゞひ見るに山中が僕手に酒壜を提細貨の荷をせをひたる男に對ひけふは主人夫婦児曹を伴ひて花園の花見に行れたれば皈はかならず夜にいるべし。用事あらば明日来べしといふに商人これを聞御誂ものゝ事につき聞えあげたき事ありしゆゑわざ/\来つるに他適とあらばかさねて参るべしとて右左りへわかれさりぬ。梶之助もとの〓にかへり自一杯をくみて心におもへらく左エ門めは夫婦うちつれて櫻がりして娯をなすに我は渠がためにかく閉居して日をおくるこそ口おしけれ。短慮愚昧の秋季なればこのうへ渠が毒舌を信じいかなる罪に行んもはかりがたし。左エ門がごとき鼠輩の為に金玉の身を過んは旡智に似たり。今はからず渠が他行せるをきゝつるこそ幸なれ。宵闇の黒暗紛れ左エ門奴を只一刀に斬殺し日来の恨をはらすべしと悪意一決なし庭履を穿て立上りたるをりしも三之介を挈飄たるG此所を飛行しつるにや三之介が腰に帶たるかの鳩丸の短刀刀室をはなれて空中よりおちくだり梶之介が〓を殆く椋りて水盤の傍なる樹の根を貫てぞ立たりける。梶之介恟し何者の所為にやと四邊に眼をくばれども軒に飛翔燕のほかは眼に遮ものも
【挿絵第三図 山中左衞門の一子三之助鷲にさらはるゝ圖】
なかりければ訝つゝ彼一刀をとりあげ見れば日来秋季の秘藏したる鳩丸の短刀なるにぞ梶之介ます/\異しみ独言にいひけるは此短刀はまさしく秋季殿山中左エ門に與へたまひしと聞つる鳩丸に紛なし。しかるに今空中より落たるはいかにもいぶかしきことなりと持たる短刀を熟々と打視て一〓思案しけるが驀然莞尓とうちゑみこの劔不思議に我手にいりたるはこれまさしく天の賜物なり。説話に聞は花の方氏王殿もろとも今日しも鶴鳴川の別業に到り給ふよし皈りは慥に二更のころにいたるべし。一筋道の地藏坂に待伏なして氏王殿の轎子に此短刀を擲ば山中左エ門に疑かゝり愚直なる左エ門なれば腹切は必定ならん。しかる時は我手を下さずして渠が家の亡るを.不知顔して看べきは闇討よりも遥にまさる良計也。これにしかず/\と獨〓く背后の方にいつの程にか妾の鵲彼〓にこしかけて居たりけるが彼方には此家に仕ふる〓奴織平といふ者庭の掃除に来りしにや笆を隔て立聞顔.三人思はず見合ければ梶之助手ばやくかの短刀を袖にて覆ひ秘し左あらぬ介にて鵲に打對日もはや暮なんとすればかしこの小院に至り燭をてらして酒くむべし。こゝにある酒肴もかしこへ持来れよといひつゝ前に立て庭隅の小亭にいたり鵲に酌とらせ.しばし酒くむむなだくみ.玉の杯底知ずいかなる巧や
醸すらん。
此鵲といふは原逢坂の関のほとりにすめる武士の浪人の妻の妹なりしが貧きくらしする姉婿のもとに養るゝをものうくおもひ貧苦の助にもなれかしと竊に姉とはかりて假親をたのみ素性をかくして梶之助が方へ妾奉公に来つるなり。生質
【挿絵第四図 鳩丸短刀之図】
〓才姿もなべてならず年も二八の春霞いろかをつゝむ袖垣にまだ歯も染ぬ白梅のゑめるがごとき面影はいとにくからぬふぜいなり。
偖梶之助鵲に對今我彼所にありて密事を〓しを汝さだめて聞つらめ.聞つるか.いかに/\と問かけられ何とこたえてよからめとたゆとう胸をそれぞともいはぬ色なる山吹の露にたはみしごとくにさしうつむきてぞゐたりける。梶之助はいちはやく渠が心中を臆度汝は我枕の塵をも払ふものなればたとへ密事を聞つるとも妨なし。さりながらひとかたならぬ密計をきかれてそのまゝにすておかんは我が一ッの心障なれば汝我に對して二心を懐まじきといふ誓紙をかくべしといふに鵲やうやく顔をあげ妾こといかなるふかき因縁ありてや去年の冬より君の側ぢかくつかへまゐらせて鴛鴦の襖の初氷解たる帶の二重三重すくせむすぶの神かけて長きおん惠にもあづかり奉らんと思ふこゝろからはたとへいかなる密事を聞候とも人に漏し候はんとは露ばかりもおもひはべらず。さりながらもし他より漏たるときも妾をこそうたがひ給ふべけれ。心の鏡曇りなきしるしには誓紙をしたゝめ候はんこと妾がのぞむ所に侍り。いざ部屋にゆきてしたゝめなんといひて立んとするをひきとゞめいな/\こゝにありて書べし。料紙は取来らしむべしとて自庭におりたち飛石づたひに庭下駄ならして隔にかまへたる枝折戸をひらき且しはぶきをさきにたて牛平は居ずや疾来れといひて呼ければ一声答して牛平といふ僕いできたりぬ。梶之助は折戸のもとにたちて牛平をちかくまねきしばし囁きもとの座に立かへりければ頓て牛平料紙硯箱とり来り〓のはしにおきて立さりぬ。
梶之介鵲に對誓紙の文言は他の事を書におよばず。わらはすくせのえにしふかく君といもせのむつみをなすからはたとへいかなることありとも二心をいだくまじといふ事をかきてをはりに神おろしを書記すべし。汝が名を記したるのみにてあて名はかくにおよばずと細に教へければ鵲は梶之助がのぞむまゝに書しるしこれにておん心はれ候やと誓紙をさしいだしければ梶之介手に取あげてよみくだしいかにもかゝるしるしを見るうへはいよ/\汝が心底の厚きをしり愛戀の想ひ日来にませり。まづこなたへよりねといひつゝ手をとりてひきよすると見えしが忽髻抓んでひきたふしけるにぞ鵲は連忙おどろきこは何ゆゑの御怒ぞゆるしたまへと泣叫ぶ。梶之助は膝たてなほし左の手に鵲が髻をにぎり右の手には彼鳩丸をもちするどき眼を見ひらきてはたとにらみ汝は山中左衞門の弟簑作といふものゝ妻の妹なるよし頃日牛平が告るによりてしれり。汝が今宵の為体日来にことかはり心あつきやうにもてなすはなをも
【挿絵第五図 星合梶之助奸計の漏事を億度して了〓鵲を殺す】
密事をこまやかにきかんとはかるにうたがひなし。汝姉につながる縁によりて今宵の密事を山中が方へしらさんためのした心とは我このあきらかなる眼にて見ぬきたり。汝に誓紙をかゝせたるは我が一ッの計策なり。饑たる羊のごとき身をもつて虎の鬚をひねらんとはかる痴婦もの此一刀の引導にて地獄城へなりとも極樂国土へなりとも汝がおもふかたへゆけかしといひつゝ雪のごとき胸もとへ氷なす彼短刀をぐさとさしとほしけれは鮮血さと迸りてもすそを染る紅は此世からなる血盆地獄劔の山にのぼされて身を裂るゝがごとくなり。鵲くるしき息をつきこれまでおん身の悪行を見きくにつけうとましく思ひしゆゑいとまとらんと思ひゐたるに山中左エ門殿をうしなはんとのわるたくみを今宵はからず聞しは幸ひとわざと心をゆるさせばやとまめ/\しき心ねを見せつるにはやくも是を暁られて邪見の刄につらぬかれ命とらるゝ口惜さよころさばころせたとへ此身はずた/\に斬るゝとも魂魄は此世にとゞまり此恨をむくはでやあるべきと柳眉をけたて牙をかみ虚空をつかむ苦痛の体顔に乱るゝ黒髪は月を遮る青柳の目もあてられぬ形勢なり。梶之介はあざわらひあなかしましき喚言かな。いで/\此世のいとまとらすべしとさもにくさげに詈りてふりそでの袂を口に〓のんどぶへを一〓ゑぐりければ手足をもがくだんまつま此世あのよのわかれ霜紅顔むなしく変じつゝ浅黄櫻と散うせて旡常の風のふきめぐる軒にかけたる簷馬は音も輪廻の責念仏.廻向の鉦ときこゆれど三途は暗き蝋燭の涙をおとす人もなし.かの魏国の曹操が刺客をふせぐ計策に命おとせし寵妾にも遥にまさる哀也。
梶之介は鮮血したゝる劔をさげて〓先に立いで軒にかけたる簷馬をとりてせわしくふりならしければ此響かねての相圖にやありけん彼しもべ牛平さきほど鵲とともに密事を立聞しつるしもべ織平を高手こてにいましめさるぐつはをはませてひききたりぬ。織平は梶之介が血刀をさげたるを見てます/\おどろき逃んともがくを牛平がなはをひかへてはたらかせずおゝせにまかせかくのごとくにはからひ候。おぼすごとくにせさせ給へと〓放てば梶之介〓の上より織平が首ちうに打おとし出来せしぞ牛平さきほど汝にかたりしごとく密事をきゝたる鵲織平の両人を.かく手にかけしうへはてだてをもつて鵲にかゝせつる誓紙に織平といふあてなを書加へ渠ら二人を不義もの也といつわり死骸はきやつらが親族へわたすべし。我は是より地蔵坂へ立こえ氏王どのゝ皈りをまちはかりことをほどこすべし。しのび姿のよういせよといふ間程なき二更の鐘に梶之介は氣も〓れかの鳩丸は服紗につゝみてかくし持黒き頭巾に黒小袖我家ながらしのぶ身のやみはあやなき庭づたひ竹の生墻おしわけて栖の鳥を驚し逸足出して走行ぬ。
第三齣 飛劔
此日花方は氏王丸を伴ひて花園にいたり彼所此所を徘徊て櫻を賞じたまひけるに年老たる家臣すゝみいで此所に御幕をはらさせたまひ花見る人の〓閧しきさまを御覧あるべうとすゝめけるに花の方おゝせけるは今日鶴鳴川の山荘にいたり氏王丸をも慰べきよし相公に聞えあげつればこゝには時をうつすべからず。殊更あまたの人集よりて最かしましければ早々去りなんと宣ひて花園をたちさり
【挿絵第六図 梶之助劔を飛せて氏王丸に疵】
ふたゝび轎にのりて鶴鳴川の別業にいたりたまひけるにかねてそのまうけありつれば書院に彩席をしきつらね花の方氏王丸ともに錦の〓に座したまひかたはらに並居たる侍女等は思ひ/\に着かざりたれは留木のかほりほのめきてこゝにも花の咲つるかといとはなやきたる粧ひなり。
かくてさま%\のおんあそびに時うつり黄昏のころにいたりて皈舘を促したまひ花の方氏王丸轎子にのりたまひて皈路におもむきたまひけるが路の程半過ころ日はまつたく暮にけり。さても星合梶之助は我家をしのび出地藏坂といふ所の並木の松に〓今や/\とまつほどに遥向の方に灯のひかり見えければすはや氏王丸の来つるはと肝鯰をつくりて枝のしげみに身をかくしてゐたるにかの灯のちかづくを見ればそれにはあらで農人ども明松をてらし高話しつゝ過去ぬれば本意なく思ふ所に一〓ありて堤の上に提灯の光かゝやき行列たゞしくきたるを見ればこれは花の方氏王君の黨勢なり。やゝ近づきければ梶之助は松の枝に
【挿絵第七図 氏王丸櫻狩の皈るさ暗に疵らる】
身をかため氏王丸の轎を目がけて彼鳩丸を手裏劔に打つけたるにねらひたがはず轎子の窗を打やぶりければ氏王丸あつと一声叫び給ひけるにぞ供の侍連忙おどろき提灯をてらして轎子の戸を開見ればこはいかに氏王丸肩尖に短刀をつらぬかれあなくるしやたへがたやと泣わめき朱にそみてぞおはしける。供人等はこれを見てます/\おどろき打よりて介抱なし若侍は曲者を捕へんとそこか爰かと走まはる。梶之助はしすましたりと打ゑみて松のこずゑに身をひそめ猶もやうすをうかゞひけり。されども氏王丸の手きづ急所をよけし浅手なれば供にめしつれられたる医人いそがはしく藥を用ひて疵をつゝみ花のかたの轎へうつしのせまゐらせ片時もはやく御皈舘あるべうとて供人等一塊となりて轎の前后を守護りやかたをさしていそぎ皈りぬ。梶之介は此人々のはるかに行去るを見て松をくだりてもと来しみちへたちさらんとしたるとき.木立のしげみより何者なるやらん突出.こゑをもかけず鐺を把へてたぢ/\とひきもどしぬ.梶之助はひかれながら其力量を試み.あやめもわかぬ闇夜なれば打扮はしかと見へざれども.たゞものならずと思ふにぞ.言辞をいださばもし声を聞しらるゝこともあるらめと口を閉てものいはず.心のうちに點頭つゝたゞ一討と刀の柄に手をかけしに.渠もまた手ばやく鐺をとつてこぢあげければ.さすがの梶之助も持有かねて前のかたへ〓倒んとせしを危く踏とゞめ力をきはめて振放ち間もあらせず斬つくる刀の列欠閃を.かの者は飛鳥のごとく身をよけて木立を楯に伺居る。梶之介は空を斬て気をいらち打もらせしか残念やと.おもふ心の乱あし石の地藏にゆきあたりさてはと踏こむ拝打佛の袈裟がけ驀地に火ばなぱつと飛散たり。此ひまにかのものは梶之助を瞥然と見て探よりたる手の尖にさわるを補へし小袖の袂互のはづみに引断る袖は后日の證拠ともならぬ旡紋の黒染も洗へばわ〔か〕る善悪邪正梶之介は此ひまに跡を晦せ逃去けり。
○此時梶之助を柱えたる者何人といふこといまだ詳ならず四之巻をよみえてしるべし。
鷲談傳竒桃花流水巻之一 終
絵入読本 小枝 繁 先生作・蹄齋北馬先生画 催馬樂奇談 全部六冊近日賣出
〓〓先生著す処の小説は恋女房染分手綱といへる院本にもとづき丹波少将俊寛僧都がことをまじへ團介といへる悪〓山神の祟にて馬と化畜生道に落るといへども多々の仇をなす與作重井が若盛は花盛の遊山に奇縁を結逸平が忠義は左内が得實と日を同ふす財宝をつかむ爪の長は鷲塚兄弟が悪行也。小満染絹が婬邪の甚しきあれば景政法師の道徳あつて火車にさらわる亡者を助け終に成仏なさしむれば山神再び現て團介が妖馬を本に帰せしむ善悪二道に染分る心の駒に手綱ゆるすなと唄ふも読も催馬楽の鼻綱を取し三橘が人間一生五十三次の戒とせし作物語也 雄飛閣の主人にかわつて 岡山鳥述
鷲談傳竒桃花流水巻之二
第四齣 臥劒
茲にまた山中左衞門は一子三之助を鷲にとられ其日も暮はてしころ我家へ皈り.かしは木は歎にしづみて病人の如くなれば常の寝所へいれて小君侍女等に介抱させ家来春瀬由良之進をめしたりしにこれも悲歎の涙に目をすりあかめて出来る山中左衛門由良之進に詞をまじえんとせしをりしもかしは木の介抱をなし居たりし侍女のうち歳久しくめしつかひたるもの二人かしこのひとまよりしやくりあげつゝ泣いりてはせいで左衞門を見てかたへによりゐつ.額をあはせて顔に袖をおほひ音をとゝのへて泣けり。左衞門泣ごゑをきゝて誰にやと顧に此両人なればかしは木が身の上おぼつかなくいかになく(泣)ぞとたづねけるに一人がいふ.たゞ今三之助君がつねめしの御小袖のうちかさねたる袂より蒲公英の花のちぎりたると木瓜の実のいで候。これは昨日御庭に遊び給ひたるをり.糸はかしこきものならんこれを摘たりとて見せ給ひしが袂のうちに貯へおき給ひしとおぼえ候。摘れたる蒲公英の花だにいまだ枯果候はぬにと思へば三之助君の御俤目の先に見ゆるやうにていと/\かなしく候。かしは木君へはきかせじとしのび音にたえかねてこゝにはせいで候也と云つゝ猶むせかへりてぞ泣ける。
山中左衞門是をきゝて腸もさけちぎるゝばかり又も悲嘆にせまりけるが由良之進に打對ひ汝をめしたる事別事にあらず。かの鷲は必定志賀の山中に住なるらんと思へば片時も早く彼山中にわけのぼり鷲を射とめて稚児が讎を復し彼が死體の哺み残されたるもあるやらん。尋もとめんと思ふなり。はやく其用意せよと命じしに由良之進勇立.こはよきおぼし立に候。僕も御供しはべらん。家奴どもの心剛なる奴原をおんともさせ松明あまた貯もちて今宵一夜はかの山中に明し候はん。しからば用意仕ん。御支度あるべしと席をしりぞき奴僕に斯と告しにそれがしも参らん。かれがしも御供せんといひて家奴どもかい/\しく打扮つゝ手々に犬鎗をもちて夜中山路の猪狼をも追べき備をなしこれかれの用意全くをはりて山中左衞門に告ければ左衞門は狩裳束に身をかため替弓手鎗までをも持しめて由良之進とともに主従およそ廾人あまり路をいそぎて初更のころほひ志賀の山にいたりつきあまたの僕等明松をふりてらして山ふかくわけのぼり谷をわたり嶺をこえこゝかしこを巡ありきて月の光に梢をのぞみ鷲の行方三之助が死體をたづねもとめしにふつに其有所知ず空しく時を移して夜も明わたりければせんすべなく麓に下り此山中に鷲やをると里人にたづねけるにすべて此邊の山々には鷲の住候事を聞もおよび候はずといふを聞てます/\力もくぢけ形ばかりはいかめしく打扮たるがすご/\として我家をさしてぞ皈りける。
さて山中左衞門家に皈りつきしに主人のかへりたるを見て家にのこりありし老たる奴僕あはたゞしく門外にはしりいでつゝ山中にむかひ昨日御主人の立出給ひたるあとへ御舘より重き侍しゆ両人走来り山中はあらざるや。君より火急の御めし也とさもいかめしく宣ひしゆゑにしか%\のよしをば申てよき事に候や又あしくやあらんはかりしりがたく候へばたゞ家にはおはし給はざるよしを申せしに両人の御方なに事にや私語あひてふたゝびせわしく走皈り給ひしがしばらくありて又はじめの人にもあらぬが走来り此度は御主人の行さきをきびしく尋とひ由良之進どのをもたづね候故左衞門どのは今宵由良之進を具して立いで候が下ざまのそれがしなればよくもしりはべらずといらへ候にかの両人かしは木君にとはんとて案内もなく打とほりしが.かしは木君がいたくなやみ居玉ふを見てしいてとひも仕らず扨こそ/\といひつゝ打驚たるさまに見え候よし侍女衆の申候。かの両人は其侭皈られ候と事こまやかに告たりしを左衞門聞て心中にあやしみつゝひとまに入て狩裳束を常の服にかえて由良之進にかしは木が事を心せよと命じ朝飯をしたゝめをはり主人が火急の用といひ彼僕が物語をきゝて其縁故をさとしがたく昨夜の宵よりいへにあらざるのみならず氏王殿の疵をうけたりし事は他聞をいとひてもらしもせざりしかば左衞門のしるべうもあらず。
彼鳩丸の短刀によりておのが身にあづかる事とはつゆ知ずとやあらんかくやあらんと人のうへのみおぼつかなく例の如く主人秋季の舘へいたりけるに秋季直に左衞門を召出し證據の為にとてとゞめおきし彼鳩丸をとりいだし.はるか下りて平伏なせし山中左エ門が前になげやり汝其短刀におぼえありやといふ詞のいといら立ければ山中左衞門まづ不審くて短刀をとりあげ見るにおぼえのある鳩丸なれば打驚よく/\見るに鮮々しき血の刄を染たるを見てます/\驚きこは何ゆゑに候ぞとたづねけるに秋季脇息おしのけて肱を張つゝ山中を礑と睚眦何ゆゑとは横道者。昨夜地蔵坂の辺にて何者ともしれず其短刀を飛せて氏王丸が櫻狩のかへるさなりし輿へ打付肩尖へ手疵をおはせたり。其一刀は前の日汝へ与へし鳩丸なれば汝が所為ならんと申すものおほし。言譯ありや返答せよいかに/\と気をいらちて宣ば山中左衞門おそれ入て平服なし御諚には候へども譜代重恩の御主人へ對したてまつり.さる大悪をおこなひ候心底のものに候はざる事はと.半いはして秋季頭うちふり.いな/\人心ははかりがたし。昨夜の騒動他聞をいとひてあながちにかくしおきたりといへども長臣の身としてきゝもおよばざる事はよもあらじ。しかるに昨夜側づかひの侍どもをつかはしてめしたりしに両度の使をむなしうなして家にあらざりしは汝が心中に一物あるゆゑとこそしられつれ.さておくべきかは覚悟せよと宣つゝつと立て御佩刀に手をかけ給ひければ最前より障子のかげに窺居給ひたる花の方あはたゞしくはせいで給ひ秋季をおしとゞめ.御手討と見えしはさることながらかれを御手にかけさせ給ひては氏王丸に庇つけしものは誰とも分明ならず。稚児とはなさぬなかのわらはが伴ひいでし途中にてさる事ありしを事不分明になしすてゝはいかにもうしろめだく候へば左衞門を御糾明ありて氏王丸に疵しものをめしとらへ給はんこそねがはしくはべるなれと理ある詞に秋季打点頭てもとの席にをられ猶山中にむかひ汝今なにとかいひつるが言譯あらば申せと宣へば左衞門わづかに頭をあげて短刀を前におき此鳩丸を以て氏王君へ疵しゆゑにやつがれを御うたがひ給ふは理ながら申上る仔細一とほり聞えわけ給はるべし。君にもしろしめさせ候ごとく當年五歳になりに〔ぬ〕男三之助此短刀を見候て程よきおのれが指料とこゝろえしきりに請候ゆゑに子に甘きは親のならひにて御賜とはぞんじながらかれに與へて他出のはれにかならず帶させ候ひしにやつがれも昨日花園の花見にまかりつるが北の方若君もかのちへ御遊び給ひたるを見うけ奉りて妻子を具して君とおなじ所にをり候はんは失礼と存じ花ぞのを立さり志賀の山間にいたりて花を賞て時をうつし黄昏ちかくなるまゝに皈路におもむき候はんと.思ひたちしをりしも向の山上より大Gおとし来りて男三之助をかい掴雲井はるかに飛さりて行方知ずなり候。此日も鳩丸はかれが帶しをり候まゝにてGにとられ候へば一定腰より抜はなれて落たるを人のひろひとりて氏王君へ此短刀をもつて疵つけ候ことかとおぼえ候。たとへやつがれ氏王君を害したてまつらんといたせしにもせよ君よりたまはりたる此短刀をもて打かけ候はんやうもはべらす。昨夜宵のほどより家来を具して志賀の山中へわけのぼり男の讎なる鷲を射とめ候べしと夜さら山中をへめぐり今朝家に皈候ゆゑに御めしにも応せず。氏王君の事は聞も候はず.さる仔細に候へばおのれが所為にあらざることは暁しわけさせ給はるべしと事の仔細をありていにいひのべたりしに秋季これをきかれて左衞門を打見やり一子を鷲にとらるゝほどの虚気者よもや大事は為出すまじ。今申条理あるに似たればまづ今日はゆるしつかはすべし。明日より日数三日のあいだに氏王に庇つけたる曲者をからめ捕て引来べし.さなきに於ては汝が罪の逃れかたきは自暁し辨べし.とく/\立とのたまひつゝ席を蹴たてゝ奥殿へ入給ひければ花の方もあとにしたがひて席を立れけり.
かくて山中左衞門はかの鳩丸を僉議の為に請うけて家に皈り由良之進をめして事のやうすを申きかせ家の浮沈にかゝはるべき一大事なれば昼夜をいはずさま%\になして曲者を僉議なせしにかの梶之助が所為とは誰しるものもなかりければ曲者をたづねいだすべうもあらずむなしく二日の日をすごし第三ン日の日もはや西にかたふきければ左衞門はこゝろも心ならず五ッの年までそだてあげたる三之助は鷲にとられ妻の柏木は悩に打臥曲者は捕得ずとりかさねたる身の困果明日はいかなる憂目や見んと今日の日蔭におのが身もつれて消ゆく思ひなり。左衞門一間に閉篭叉手して思ふやうそれと心づく方は残る所もなく僉議しつれどもかの曲者のしれざるは我運命の盡べきときのいたれるならん。猶よくこれを勘校るに鳩丸の短刀鷲に抓れたる三之助が腰より劔挺氏王どのゝ輿のうへに落くだりて疵をうけ給ひたる事もやある.そのほどもはかりがたし.とまれかくまれ我君より賜はりて我家にある劍をもて御主人の若君へ疵をおはせたれば御命にはつゝがなしと聞つれども曲者のいでざるにおきては其罪の逃るべき謂なし。加之ならず短気火性の我君なればいかなる
【挿絵第八図 山中左エ門誣告の罪を得て自殺す】
耻をうけて命をめされんもはかりがたし.たゞ此うへはこれまでの命と諦め君より乞請来りし鳩丸の短刀にて腹切がせめてもの申譯なり.と獨思案の胸を居已に其心支度しつれどもことし十二の娘小君が母の悩みを苦になして悲涕泣を見るにつけ妻の事をも思ひやり我なきのちはさぞかしと輪廻に絆ぐ身のほだし心も弱り気も折けしばし涙に哽咽けるがかくては最期もおぼつかなく家にありては妨おほし菩提寺にいたりてこそと彼鳩丸をものにつゝみて懐中なしかしは木小君をはじめとし由良之進へも心の裏の暇乞をなし事にかこつけて家を立出菩提寺さしていそぎけり.かゝるとき左衞門が心中いかに悲しかりけん思ひはかるべし。
○そも/\山中左衞門が菩提所は花裳山国字寺と号する禅院にして左衞門が家を去事一里あまりを隔てたる花渓といふ所にあり。時の住寺佛月禅師はその齢八旬に近く道徳の聞へいみじくして種々の竒特を見せ給ふゆゑに人皆活佛と稱皈依のものもおほしとなん。左衞門は此禅師とは壇越の好あるのみならず和歌の道をもつてまじはりもふかゝりけるほどに佛月禅師に對面なして事の仔細を物がたり自殺と覚悟したる事をも聞せければ禅師涙をながしとかくの詞もまじへずしばし思案の体なりしがをりから本堂には壇越の男女老たるも若きも打交りて百万遍の念仏を行ひをれり。褝家には聞もおよばざる事をさすも此禅師の見識なるべし。禅師は百万遍のねぶつ唱ふるこゑのいとかしましきをきゝて左衞門にむかひ此所は事を談ずるによろしからず。まづこなたへとおくまりたる小院にいたり何事にやあらんしばらく譯き暁し給ひ事をはりてのち再左衞門を伴ひて本堂にいたり彼百万遍の檀越に打むかひこれにをらるゝは山中左衞門とよびて當國松江の庄松江の判官秋季どのゝ長臣なり.さる人ありとは聞もおよび給ひつらん。武士道のたちがたき事ありとて當寺にきたりて貧道引導をうけ自殺し給はんとの願なるを.さま%\にとゞめしかども承引なければせんすべなし.おの/\かゝづらひ給ふ事にはあらざれども貧道たのみなれば此人のために其所にて百万遍を唱え菩提のよすがともなして給はれかしといひければ壇越の人々目と目を見あはし興さめがほに見えけるが禅師の餘義なきたのみなればせんかたなげに承引ぬ。されども腹切を見んはうへなくいまはしき事なれば一人立二人立暇も乞ずして逃皈るものぞおほかりける.しかせしはさもこそと思はるゝなり.
さて山中左衞門は仏月禅師の引導をうけをはりけるにをりから庭前の櫻の枝に鶯の鳴ければ辞世とおぼしく
かゝ(斯)るとき(時)たかね(高音)にき(来)なくうぐひすのちか(誓)ひうれしきのり(法)の一ふし
と打〓じつゝ猶たんざくにしるし髻ふつとおしきりて.短册にとりそえこれは妻へ遺物にとらせ給はれかしと禅師に託し腹切の所におしなほりければ百万遍の人々左衞門を中央になして達に居並び念珠の大なるを引環しければ仏月禅師高座にありて鉦打ならし念仏を唱え給ふにつれて皆同音にとなえけり。左衞門は徐にはだをおしぬぎ片袖を引断りてかの鳩丸をかい繰包南旡あみだぶつともろともに腹へぐつさと突立れば鮮血さつと激りて畳を朱にそめながし鬢髪みだれて苦痛の体此世からなる修羅道をせめてはたすくる〓急念仏皆目を閉て幾同音ことにせわしく唱ゆれば是を冥途の案内とし鮮血したゝる短刀を持手にまた手をもちそえて吭のくさりを掻切つ。前に合破と倒れ臥し此山寺の入相に消てはかなくなりにけり。
第五回 顛狂
爰に又山中左衞門が妻の栢木は彼日家に皈りて后病の床に打臥て一切物も食ずたゞ三之助がことをのみ歎きかなしみをれば鳩丸の事につきて左衞門が身に疑かゝりたる事はいたわりの障ともなるべしとて語もきかせざりけるゆゑに此日も左衞門は只所用ありて家にあらざるとのみこゝろえ自殺せしとはゆめにだにしらず。とにかく心をものにうつして三之助が事をわすれんと小君に琴をひかせ婢女に頭痛をもませて居たりしに由良之進あはたゞしく走来りて栢木に對ひ.かの短刀の事にて疑かゝりし事をはじめとし今また仏月禅師より使僧をもて左衞門が自殺の事をしらせ辞丗のたんざく外に二品をおくりこされたる事を語り涙ながらにつゝみをひらきかのたんざくと左衞門が髻及自殺の短刀をとりいだして栢木がまへにおきければ栢木はあまりの事にえも泣ずたんざくに髻をとりそえてひと目見しよりむね迫音をはなつて哽咽かへりうつぶしに倒れ伏しきえいるばかりに見えければ由良之進はせよりてたすけおこし背を撫りつゝ介抱の甲斐なき主人の身果とともになみだを洒ぎけり。小君も顔にそでをあてしやくりあげつゝ泣居たる。栢木は由良之進を推除て.つと身をおこし
○おゝめでたい/\花がさいたは/\花はみよしの志賀の里こちの殿が御馬にめして三之助を輿にのせてそれ/\/\あれ/\/\と顛狂していなれば由良之進打おどろき小君はかなしくとりすがり.のふ情なき母うへや心をたしかになし給へ。のふ/\と泣叫べば栢木は見もやらず繰り枕をいだきあげ.ねんねこせいの子もりうた我子を愛す如にてみどりの髪の青柳も心とともにふりみだしさらに正氣はなかりけり。
由良之進かのたんざくを手にとりあげなみだをはらひあまたゝびよみくだして心にうなづき泣居し小君にうちむかひ.やよ孃君〔俗にいふおじやうさま〕御父上の御辞丗を聞給へ
○かかるときたかね(高根)にき(来)なくうぐひすのちかひうれしきのり(法)の一ふし
かくあそばしたる御水ぐきを見るにかたきうちの五文字を折句にあそばしたんざくかゝん例をもらして此字を墨つぎにあそばせしは氏王君に疵つけし曲者を僉議しいだし旡実の罪におん腹めしたるかたきをうちくれよと人にしらさぬたんざくの御遺言おんはらめしたる鳩丸を禅師かたよりおくられしは夫と悟りしはからひならん。泣ておはする所にあらず。心を男々しくもち給へ。たとへ敵は鬼神なりとも御助太刀つかまつり御本望をとげさせん。孃君いかにと勇すれば小君もたんざくを手にとりあげむねんのなみだに哽咽つゝ由良之進うれしきぞや女ながらも山中の〓子娘もしや敵にいであはゞ真如此とかの鳩丸を採よりはやく片邊の琴をぱつしときれば糸は左右へ柱は飛ちり雁の群居る川面へ箭を放たる如くなり。由良之進打よろこびこは遖の御手のうち知音の琴にひきかえて讎を復する鉛の琴勇しや/\。僕はこれより国字寺へ立越御主人の御死骸を葬る用意つかまつり御舘へも事の仔細を聞えあげん。御いたはしきは栢木君よく/\介抱なし給へと立上んと
【挿絵第九図 山中左衞門の妻栢
木さま%\の怪を見る】
なしたるをりから案内もなく組子の大勢席を蹴たてゝいり来り.ヤァ/\由良之進うけたまはれ。山中左衞門自殺の次第國字寺より聞あげしに秋季公きこしめし左衞門自殺なしたるこそ氏王丸へ疵つけしにきはまりつれ。かれが妻子をめしとりて其罪をたゞさんとおんいかりはげしきを花の方のお情にて妻子の命はゆるされしが家は没収栢木小君由良之進は領所の堺より追放ち當国の徘徊はゆるし給はざるとの嚴命なり.とく/\此家を立さるべし。否ば搦て将てゆかん。返答いかにと罵ば由良之進はおもひもよらず打おどろきしが立張股し組子にむかひて平伏なし.やかたの嚴命いかでか違背つかまつらん。さりながらしばしの間と.いふをうちけす組子の首長.いゝや片時も有餘はかなはぬ。早く此家をあけわたせと虎威にほこれる權柄には返す詞もあらざりければ栢木にかくと告て立のく用意をすゝむれば心乱れし栢木も年来住ひし我家を立さる事のかなしきや.わらはをいづくへつれゆくぞゆるしてくれよ由良之進堪忍せよと声を立つゝ身をふるはせて泣たりしは目もあてられぬありさまなり。由良之進やう/\にすかしなぐさめ小君もろとも婢女等に倡引せおのれは左衞門が遺物のしな%\を懐中なし主人の用金はしちかく納置し百両を竊に取て袖にいれ寝耳へ水仕の女子までひきつれて立いでければ組子の面々跡につきて領地の堺にいたり三人を追放てもとの道へ立皈りぬ。
さて由良之進召仕の男女に對汝等は此所より御暇給はるべし。ひとまづ御家に立皈り今の組子の内首長たる両人へ愁訟なし汝等が貯の品を乞請て心まかせに立のくべしといひをしえければ年来召仕たる者どもは何国までも御供しはべらんと涙をそえていひつれども由良之進これを許さずみなこと%\く追皈し主従僅三人にて何方へや身をよせんと繋ぬ舟のおもひにて忙然としてたゝずみぬ。
由良之進が家弟に簑作といふ者有どもゆゑありて浪人となり逢坂の関のほとりに住ひすれば當國の徘徊をとゞめられし身にては立寄べうもあらず。山中が親族どもは秋季の怒に觸ん事をおそれて寄もつけざればたのむべき蔭もなく由良之進がすこしの相識をたよりとし津の國へと志し風魔し栢木をいたわり歳はもゆかざる小君をたすけて二里あまり〓り来り。地獄ざかといふ切所にぞさしかゝりける。時ははや二更の頃とおぼしく遠寺の鐘声幽にひゞき涙いとはでとよみたる朧月さへ曇りがちにして行路もおぼつかなく渓の水音松吹風梢をつたふ猿のこゑそのわびしきこといへばさらなり。さすがに心剛なる由良之進なればものに屈せず両人を倡引て地獄坂も半越来しをりしも路の傍なる茂林のうちより七八人の山賊等あらはれいで路の真中に立塞り前にすゝみし賊由良之進を睚眦汝がふところの重げに見ゆるは必定路金の貯あらん。命惜は置てゆけと足弱連と見あなどる詞を聞て由良之進奴等に先をとられじと返答もなく抜打にぱつしと斬たる手練の早業前にすゝみし山賊が首宙にうちおとし轉々々と下り坂.まろびゆきしを栢木が目ばやく見つけてはしりつき生首を拾ひとり懐かゝえて莞々笑ひ.三之助よう戻りしぞ父上もまちかねておはせしに.なぜ目をあかぬ。目をあきや.や.と月にすかして打おどろき礑と地上へ投捨てのうおそろしやと泣叫。乱心の我母をいたわる小君がかなしさつらさ身のおき所もなかりけり。由良之進は猶賊どもにわたりあひ勇を振て戰にぞ小君は母の手をとりてもと来し道へ立もどり松の木蔭に身をかくし母をすかして言さずしばしはこゝにぞしのびをる。
「さて小君等が忍びたる所より道をへだてし向の方に這入ばかりに造たる菰ばりの假屋のありつるがとしのほど四十あまりの女非人假屋の出ぐちにもうけたる垂むしろを推撥げ面ばかりさしいだして光眼をむきいだし栢木小君等が佇立をるを打見やりて莞尓とわらひ心のうちに点頭つゝ居ながら小石を探りとり打ならすべき布の緒も腐断たる古やしろの鰐口を目がけ〓ひ違はず打つけしにこれやかねての相図ならん四五人の女非人ども假屋のうしろの小徑より.つと走いでしを手揮してちかくよらせ耳につけて耳語ければ此者ども打うなづき栢木小君がかくれ居たる後の方へしのびより詞もかけず手どりあしどりものだにいはさぬ猿轡うちかつぎてぞ率てゆきける。
爰に又由良之進はかの賊どもを追ちらし栢木小君がをらざるを見て大に周意二人が名をかはる/\よばゝりつゝこゝやかしこをたづぬれども呼に答は〓〓のみ更に行方のしれざれば心せわしく胸をどり二人が身のうへおぼつかなくをりから月も暗なりてものゝあやめもわかたざればなほたづぬべき便もなくもしや打もらしつる山賊どもに勾引行れ給ひしやらん。または怜悧小君どの里あるかたへおちつるか。便におぼす僕にしばしなりとも別れてはさぞかしわびしくあるべきに賊が跡を追べきか里あるかたへ走んやとやせんかくやとたゆたひて西へ走東へはせ心迷しをりしもあれ最前の女非人假屋のうちより立出つゝ由良之進を呼とゞめやよ旅人の殿二人連のお女中をたづね迷ひ給ふにや。それはさきほど此辻堂を左へ過て走給ひしが一定里へとこゝろざし今ごろは四五町あまりも走ゆき給ひつらん。
【挿絵第十図 春瀬由良之進山賊と戰圖】
とくあの道をいそぎ給へ。女子ふたりで夜の道〓おいたはしやはやくおひつき給へかしといと信々しくいひければ由良之進これを聞欺かるゝとはつゆしらずこはよくこそしらせつれ。やうやくに安堵せり。情の詞うれしきぞと.市足いだしてはせゆきぬ。女非人は跡見送〓虚気な漢じやと令笑ひしづかに小哥をうたひつゝ栢木小君をつれ去しかの小徑へぞ立さりける。
○跡へ走くる一人の旅人最前の戦に由良之進がおとしたる財布の紐を足にかけ立とゞまりて拾ひとり毬灯にてらし見てこりや見おぼえのある金財布百両余の此大金すりや此道にたがはじと拾し財布を懐中なし足をはやめてはしりゆきぬ。此旅人善人なるか悪人なるか次の巻に載記たるを見てしろしめせかし。
第六回 鳴琴
栢木小君を勾引たる女非人は名を鬼芝とよびて地獄坂の谷陰に住居して多の女非人を集て其首長となり昼は手下の女どもを四方にいだして此丘尼順禮辻神子辻太夫のたぐひに打扮せて錢を乞せ一日の食雜用其價をさだめて貪取一銭にても不足あるときはいたくむちうつ事地獄の鬼の餓鬼を責るが如くなれば阿芝といふ名もおのづから鬼芝とぞ呼なしける。地獄坂の谷かげこそ鬼芝が住居にはいと似やはしけれ。
○去程に鬼芝はかの假屋をいでゝ谷陰の住家に皈り出歯の葱と異名せし五十余りの女非人をよびよせ栢木小君等が事をたづねけるにねぶかゞはからひにて空屋のうちに縛しおきつるときゝてうち点頭缺火鉢に陶器の酒を煖ながら今日の命をつなぎたる雜用銭を改見て.誰も/\能精が出るかして一銭も不足がない。此鬼芝も毎日々々坂中の假屋に出て往来の人に銭乞ながら懐中行李に目をとゞめ山賊どもが犬となるも畢竟はもの奪たる分口が慾さゆゑ何になりても安くは居れぬ世のたつき明日もまた精出して銭を乞へ.サァ/\みないてやすめ/\とゆるしをうけて女ども囲炉裏の四囲により集り今日物乞し身の上話古木を焚て缺茶鐺煮る茶も花香はなかりけり。心悲べし栢木小きみは出歯の葱に引れつゝ鬼芝が面前に居られければ小君はかなしさやるせなく如何なる者の住家ぞと怖々あたりを顧れば壁くづれ地板朽て何となき臭気鼻を襲ひ囲炉裏のはたに居並たる女原を見れば老たるもあり若きもありておほくは襤褸を身にまとひ髪はおどろをいたゞきて面垢づき蝨をひろひて前歯に噛もあり.笊籬のうちに半見えたる米を探りて銭を撰りいだすもあり.瘡の膿汁を拭ひをるかたはらにて缺腕に稗飯たかくもりて打食もあり.梅干桶の
【挿絵第十一図 山中左エ門の妻児を失て狂人となる。娘小君千辛万苦して孝をつくす】
うちへ痰を吐たるを薯蕷汁とまちがへ奮とりてかい啜るもありて惣ら乞食の住家なれば小君はたゞ胸のみをどりて詞をも出さゞりけり。
鬼芝小君にむかひ汝がかたはらにをるは汝が面に似かよひたればさだめし母にてありつらんがかゝる所にて居眠りする体気ちがひとこそしられつれ。親子ともに此所に捕れしうへは井に陥たる蟇も同前なればとてもかくても逃いづることはかなひがたし。今日より我乞食の群に加り明日より街にいでゝ銭を乞雜用の銭をつくのひて長く此所にとゞまるべし.もし又それに隨ずは地獄坂の鬼芝が餓鬼責にせめつけて辛き憂めにあはすぞと茶碗の酒を飲ながらさもにくさげに云ければ小君は悲さ怖さおに芝に打對いかに御身が云如くこれなるは妾が母上なり。ゆゑありて狂気となり父上も非命に死し剰家をも失て都のしるべを心ざし道を急者なれば慈悲とも情とも思ひとりて何とぞゆるしてかへし給へと泣ながら云ければ鬼芝は小君が泣を見てかたほに打笑じひの情のとは日来わしらがつかふ詞と云を聞て栢木が「なに鷲が掴.ヲゝ掴とも/\眼の光にゆだんすな。小君をつれて逃行んこちへ/\と手をとりてはせいださんとなしけるを出歯のねぶかゞ立塞り栢木を突倒しあだかしましい風魔女こいつは大きな〓ものいつその事に一思ひと喉に両手をかけゝれば小君はあはてゝとりすがりこれのうゆるしてくださんせと子どもの軟弱力にて推停んとなしけるにちよこざいすなと踏倒し已にあやうき命の際鬼芝ねぶかに声をかけ「やれまて出歯よまだはやいは。氣短に事をすな。其氣ちがひめに口たゝかせては〓しからん。猿轡に三寸縄其所の楹に縛ておけとさしづにまかせぐる/\まき荒木柱の後手は目もあてられぬ形勢なり。小君はいとゞかなしくて母うへのふと立よれば突のけられて浪々々。また起上れば蹴倒され.ヱヽくちおしい旡念じやと長袂をかほにあて哽咽てぞ泣臥ける。
鬼芝ねぶかと顔見あはし.年にも似ざる胆心のある小女郎かな。怜悧やつは物の道理も暁させやすし。汝我いふ事をよく聞をれ。最前もいふ如く此所へ捕れては辞でも唯々でもわがおもふ如くになして追つかはでおくべきかは。乞食の群に加りて此ところにとゞまりをらば母の命もつゝがなく縄目は今にもゆるしてとらす。辞か唯々か返詞せいと又傾る茶碗の酒むかしは色香もありつらんとおもふ目もとも打凹み頬さきこけて鼻尖り色艶うせし顔色は枝にふりある櫻樹の立枯したるごとくなり。出歯のねぶかは鬼芝に打對ひ見れば面もうつくしく歳のほども十二三袖乞さするは惜きしろもの。人買にうりわたさばといふを打けす鬼芝が「それをおのしに習はふか。あの氣ちがひめを人質とし此小女児を街におひだし袖乞さすれば人買の目にとまり先から来りて買んといへば百両のものならば二十両や十両の足がつきて高直になるは必定ならん。もし又きやつが親族ども此両人をとりもどさんといはんには乞食群の足洗銭いづれの道にも金の蔓じや。斯こま/\しく心づけねば多のたばねがなるべきかといはれてねぶかはかしらを掻たくみのふかきをかんじけり。
小君はやう/\顔をあげ.とてものがれぬわれ/\二人おん身らが群にいりいかなる事をもすべきほどに母うへのあの縄目何とぞゆるしてくだされと哭泣ながらにいひければ鬼芝は打うなづき.唯々そうなくてはかなはぬ事。年三日乞丐の身となれば三年其樂をわすれずといふ世の諺もあれば乞食の飯も喰て見よ。我群にて銭乞にもさま%\の為方あれども藝をなして銭を乞ふものは
【挿絵第十二図 柏木小君等丐嫗の手に捕られて辛苦にあふ】
三〓や四〓とりあぐるは苦にならぬ。賎しからぬ汝が人品定て覚し藝があらふ。鼓うつか舞まふかたゞしは琴か川字線かそれいへと問ひかけられ乞食非人となりさがるはいかなる前丗の因果ぞとまたむせかへる悌泣。葱にまけぬ髯〓の男勝家鴨のやうにあゆみいで.これ小女児苦痛目にあはぬうち藝があらばはやういへいはぬとかうじやがこたえたかと腿をふつゝり摘られて顔赤らめて痛をしのび「もうゆるしてくだされませ。藝といふていひたつる程のことはなけれども母人にをしえられし筑紫琴と諸禮の折形花むすびふつゝかながらといひさしてまたもなみだにくれければ鬼芝はうちわらひ諸禮折形花むすびは銭もらふ用にはたゝぬは。まだしも琴をおぼえしは其身の幸ひ前の月痘瘡で死だ小草が遺物の破琴義甲もきやつには合であろとりいだして弾せて見よ。その藝のよしあしで銭貰はする所為が違ふとさしづに葱がこゝろえて破れ襖の納戸よりとりいだしたる古琴に柱匣と琴甲をとりそえて小君が前にさしつくれば囲炉裏のほとりの女ども興ある事に思ひつゝ小君がめぐりに居並びて謗つ笑ひつ鴬を烏がなぶるごとくなり。小君はなんとせんかたもなみだを拭ひて引寄る片脚〓たる趁跛琴柱匣を脚に挟助し胸も逆柱にせりつめし声を哀にふりたてゝ
(八かけまへかずならぬ (十かけむかふ身にはたゞ (きんかけむかふ思ひもなくてあれかし (六かけむかふ人なみ/\の うすころも (十より八まで九十袖のなみだぞ (七半かけ七ひかずむかふよりかなしき二
といとたえにかきならせば栢木は身を惆動つゝ猿轡を振解.あなくるしやたえがたや腕も断るゝばかりぞやと強縛せし荒縄に腕首を摺やぶりながるゝ鮮血滴りて簀子を朱に染なせり.小君は見るよりむせかへりのぞみにまかせしうへからは母うへの縛をどふぞゆるして給はれといへども鬼芝頭をふり.いな/\気のちがふたるやつなれば容易縄目はゆるしがたし。哭面せずと琴をひけ弾ぬと母に痛めさすぞと睚眦つけられてこゑふるはし
(十かけむかふあごかれて (十かけむかふおもひねのまくらにかはす (八かけむかふおもかげ
(左二ツのちの左より引れんそれかとてかたらんと (四二ッ九思へばゆめは (七半かけ/むかふより七引ず八さめけり
栢木は涙をふるひあなくるしや/\.もふよきほどにゆるしてたべ。小きみ詫してたもらぬかと母は縄目に身を惆動子は琴の緒に責られて涙に湿る爪音もいとゞあはれにきこえける。
(とかけまへしら雪の (七引ず三二ッ八みゆきの (十より八まで三二ッ/八二ッのちの八よりつもるとしは (引れんふるとも (十かけあらまじや
(九十ともろ五十八ともに (かいて左二ッねみだれかみの (七かけむかふ/七引ず 九かほはせ
鬼芝は声をかけ.もふよいやめにせい。軒に立て物乞にはやくにたゝぬ筑紫琴明日から石山寺の境内にて草席の上に面を晒し琴をひきて銭貰へ。母と汝と二人前の喰雜用四〓の銭を虧しをると懲めの小刀針辛き憂目にあはするぞ。これ髯〓よ気ちがひめが縄をとき薮蔭の空家へ追入戸ざしを嚴しくかためておけ.小児女が琴の手なみ手が韜てよかんめり。こゝへ来りて腰をうてといはれて小君は又恟り胸を冷して立かぬるを来をらぬかと叱られて.怖づ/\側によりそへば惡臭のする織布に肥たる臀の細帯は似気なく艶なる鹿の子結乞食の腰をうつくしく貴なる小君が打思ひ旡慚にも又怛々然かりけり。
鷲談傳竒桃花流水巻之二終
鷲談傳竒桃花流水巻之三
第七回 乞銭
抑近江國石山寺は。天平勝宝六年の草創にして。本尊二臂如意輪観音は。長僅に六寸。聖徳太子の御作なり。聖武の朝にいたりて。僧正良辧丈六の如意輪をつくりて。太子の御作を腹内におさめ給ふ。今の本尊これなり。凡一千有餘年の霊場なれば。都鄙遠近の参詣日毎に群をなし。絡々繹々としてしばらくもたゆることなし。
頃しも弥生のすへなれば。山内の花ども散あり開くありて。ことさらに熱閙しく。さま%\の商人は更なりいろ/\の物乞あるがなかに。色よく咲し藤架の下に筵をしき筑紫琴をかきならして。もの乞娘あり。そのありさまいかにとなれば。髪は京様に結なして。花の元結をかけ。蘆花のかんざしをいたゞき。花田の絹に紅葉の流るゝさまを。色入に染いだしたる振袖に。鹿子綸子の紫の色も。すこしうつろひたる帯を結びたれ。泣はらしたりと見ゆる目もとも。結句はうるはしき。これすなはち山中左衞門が娘の小君なりけり。例のたえなるつま音といひ。貴やかなるすがたを見て。この藤架の四邊所せきまでにつどひあつまり。押凝立て聞もあり。傍の憩所に腰かけて聞をるもありて。人々銭を投与ふれば。琴をひきながら頭をたれて礼をなすさま。いかにもあはれげなれば。情も冨家の女房たちは露銀の涙をおとし。慈悲も有徳の翁らは繋銭の耳をかたふけければ。小君は日毎におほくの銭をえて。定の食雑用を缺ず〓ひ母には口にかなふものをもとめてすゝめ。猶あまりたる銭は鬼芝へ与へければ。如法貪慾の鬼芝なれば。いつもゑかほをつくりて。拳をあてらるゝ事もなく。思ひしよりはなか/\に心こそやすくはあれ。
日毎に顔を晒して。もの乞するは。其身ばかりか親までの耽辱なれば。身をきらるゝやうにかなしくは思へども。一銭の貯もなく立よるべき蔭だになければ。よしや母をつれて立のくとも。乞食するより外に思案なく。かくてあらば。由良之進がたづね来ることもやあるらんと。それをはかなき便にて月ごろをすごしけり。小君が心のうちいかばかりわびしかりけん。おもひはかるべし。
山中左衞門が親しかりしものどもゝ。栢木小君らは非人とまでになりさがりしなんど。知をるものもありつれども。罪をおかせしものゝ妻子なりとて。すくひたすくる人もなく。当國の徘徊はとゞめられし
【挿絵第十三図 山中左エ門の娘小君父にわかれ家を失ひ冷落して路上に琴を弾じもつて母をやしなふ】
身なれども。乞食となりては余所目に見なして。そのとがめもなく。夏をむかへ秋をおくりて。冬のすゑにぞいたりにける。此ごろは歳もやゝおし迫りければ。街の踏音せわしくひゞきて。往来人も用ありげに走さり。空さへ時雨がちなれば。石山詣の人足も。木の葉とともに散ゆきて。山内すべて物さみしければ。小君は朝まだきに起いでゝさとにくだり。こゝかしこの軒に立て袖乞をなし。昼より例の所にいでゝ。寒風に膚を吹れ。琴をかきならす手の亀手を。たえしのびつゝ。こゑのかぎりふりたてゝ。謡へども。かの藤架の藤波も。よるとたのめし人足は稀にして。降来るものは木の葉のみ。暮やすき冬の日なれば。とかくする間に。日もはや西へ入相の鐘ひゞきければ。蒔ちらせし銭を落葉とともにかきあつめ。朝のほど袖ごひしたる銭と。あはせつれども。今日の命を繋ぐべき数に足ず。鬼芝にこれをつかはさば。いかなる憂目にやあふべき。とかなしくもおそろしかりしが。如法孝行の小君なれば。其身の打擲るゝを覚悟にて。母に餓をしのがせんと。御寺の門前に出て。餅賣門に腰をかゞめ。人並の價をいだしながら。乞食のかなしさには詞をひくゝいひければ。主の女房小君を見て。いと不便に思ひ。價をかへしてのぞみの如くとらせよといひければ。店の小ものも情あるものにて。餅あまたをとらせければ。小君はうれしく。御家さまありがたふござりますと。いかにも乞児めきたる詞を出して禮をのべ。地獄坂へと急ぐほどに。日もいりはてゝ雪さへふりいだしつるが。竹笠だにもたざれば。袖うち払ひつゝ跣になりて。闇き道を心ぼそくたどる/\。かの荒屋に皈りつき。干破戸の隙間より内のやうすをさし覗ば。囲炉裏に榾火をたきて。おほくの女非人ども腹かきいだしてあたりをり。
鬼芝は例の陶器酒を飲をれり。小君は戸尻僅にあけて枯〓といり。水桶のもとに足そゝぎて居たりしに。かの葱榾火の火かげに透し見て。「誰にかある小君ならずや。いかにしてか遅かりしぞ。鬼芝どのゝ下待て居らるゝに。とくかしこへゆけといふ。其詞の片端を鬼芝耳ばやに聞つけ。小君が皈りしとや爰へ来よと呼つけられ。おづ/\渠が面前にいで。懐中より繋たる銭をとりいだし。今日は空も時雨候故に人足もすくなく。半〓あまり不足にははべれども。今日の不足は明日こそ償はべるべけれ。まづ是を取納給はるべし。といひてさしいだしければ。鬼芝是を聞て眼を大きくなし。汝此程は乞児の業も馴顔になりて。朝のほどは人の門に立施の手のうちを〓ぎ。晝はかしこにありて物乞へば。僅に四〓の銭を懐にせざる事はよもあらじ。跛の阿卞和。盲のお杖さへ。定の食料は一銭も缺事なし。思ふに汝は物乞さきにて餅菓を買ひ喰ひ。旡用の銭を費すゆゑに。肝要の食料には足ざるとおぼえたり。餓鬼の口先にて此鬼芝を掠んとするこそ心憎けれ。打ずは腹のすゑやうなしと。襟首掴んで引倒し。飲乾たる酒壜をもつて。續打にうちすえければ。酒壜はくだけて飛散つゝ。額に疵をうけゝれば。小君はかなしきこゑをあげ。これのうゆるしてくだされと。身を縮て逃んとするを。如法非道の鬼芝なれば。耳にもいれず。髻を手にからみ。宙にひきたて打んと拳をあげけるに。小君が袂より債たる餅ども。打こぼれければ。鬼芝これを見てます/\いかり。偖こそ/\といひつゝ猶つよく責つけゝり。女ばらは側杖をおそれて。立よるものもなかりしが。此餅を見てたまりえず。ばひちらがひて拾ひとりしに。跛のお卞和も這いだして拾ひければ盲のお杖も缺酒壜に探りあて。餅とこゝろえ一口にかぶりつき。打驚たる顔の。いと可咲ければ。葱と彼黒塚が見て。鉄漿のとゞろ兀たる廣くちあきて。くはつ/\と笑ひけり。
鬼芝はやう/\小君をゆるして突はなち「けふはまづゆるしつかはすべきが。明日より一銭にても不足あらば。かの氣ちがひめをほし殺し。一人前の銭をへらし。心やすくしてとらすべし。此小女郎にかゝづらひて酒のゑひをさましたり。いざ火桶抱へて眠んと。破ふすまを引たてゝ。ひとまのうちへ入にけり。小君は袖を顔にあて。ひらみ臥てゐたりしが。葱黒塚を始として。臥戸/\へ立さりければ。跡に小君は唯一人。やう/\と顔をあげ。松江の判官秋季公の長臣。山中左衞門の冢子娘。いかに零落しつればとて。乞食非人に打擲れ。面に疵までうけたること。犬猫に斉しきぞや「ヱヽくちをしや旡念やと。袖を喰裂身をもだへ。すゝりあげたる血の涙。ことはりせめて〓惻し。折から二更の鐘ひゞき。栖をかゆる厂のこゑ。窓の障子にさら/\と。降かゝりたる夜の雪。筧の水もむせかへり。いとゝ哀をそえにけり。
小君はひとり打点頭。抜足しつゝ。鬼芝が臥戸のふすまにしのびより。耳をつけて寝息をうかゞひ。ふすまをわづかにおしあけて。母を入おく空屋の鑰子を盗取て。又抜足しつゝ。背戸の口を徐々にあけ。こそりと出て戸を引たて。盗し鑰を口に咥え。裾鶴脛に引あげつゝ。雪ふみわけて空屋にはせより。鬼芝が干殺すといひし一言おそろしく。今夜母をたすけいだし。何方へなりとも落行んと。鑰をあはせて鎖をあけ。戸の端に手をかけて。明んとせしにさらに明ず。諸手をかけてもあかざれば。なほさま%\になしけれども。釘をもてかためしごとく。指の入る程もあかざれば。こはいかなる事にかと。頭かたげて不審みしが。歳に似あはぬ發明なれば。さては今夜の雪にて。戸の氷りつきしに疑なし。と心付はしつれども。洒ぐべき湯茶もなく。打毀ばかしこへひゞきて。渠等が眠りを覚し。捕へられんは必定なり。こはいかにせん残念やと。軒の氷柱も劍の山。涙も氷の地獄坂。こゝにて母を殺すかと。こゑをしのびて哽咽。雪のうちに臥轉び。しばし涙にくれけるが。空屋のうちの靜さに。母の身のうへおぼつかなく。家の后へ立まはり。小き窗に顔をよせ。雪の明りにすかし見れば。こはいたましや栢木は。髪はおどろをいたゞきて。古薦を敷物とし。小君が力に辛苦して。繿りあげたる。小蒲團を身に覆ひ。弓のごとく身をかゞめ。塵芥のうちに打臥たるは。旡慙といふもおろかなり。小君は一目見るよりも。むねせまりて哽咽。母さまのふと云んとせしが。こゝろづきて口を覆ひ。心乱し母さまの。いつもの声音をたて玉ひ。かの鬼めに聞れなば。わが身ばかりか。母さまをも。辛き憂目にあはすべし。鑰は袂にありながら。明られぬ戸の雪の関。親に言ことさへも。ならぬはいかなる因果ぞやと。袖をかさねて顔にあて。しやくりあげて泣けるが。さるにても飢やし玉ふらんと。袂に残りし一ッの餅を。手に探りつゝ。猶すかし見れば。栢木が枕もとの缺椀に。握り飯のあるを見て。うれしや飢はし玉はじ。さりながら身動もし玉はぬは。もしや今夜の大雪に。凍死にうせ玉ひしやと。こゝろ迷ひておぼつかなく。特見交見さし覗く。襟に吹こむ夜の雪。ともに消入る思ひなり。子の心親に通じけん。栢木は眠りをさまし。いとはかなきこゑをいだし「吁寒き夜かなまばらなる簀子より。風もたまらず吹あげて。身うちを斬るゝごとくなり。此寒さに小君はいかにしつるやらん。今日は一度もたづね来ずと。亂心してもさすがは恩愛。子を思ふこゝろのうち。思ひやられてあはれなり。旡恙き母を見て。小君は飛立うれしさに。思はずしらず「ヤヽ母さま/\と呼かけければ。栢木はこれをきゝて首をあげ。窗の方を揉つ眇つ打見やれば。小君は猶もこゑをかけ「母さまわしじや。小君じやわいのといひければ。栢木はうれしげに身を起し。窗の下に膝行よりて。壁を力にのびあがり「唯々小君かなぜ夜深には来りしぞ。といふ顔ばせも詞つきも。常の人のごとくたしかなれば。ます/\うれしく「母さまきゝ玉へ。最前しか%\の事にて。憂目にあひしが。渠が一言御命もおぼつかなく思ひ。今夜母さまとともに。此所を逃去んと思ひしに。板戸を氷に綴られて。いかにともせんすべなし。今夜はむなしくすごすとも。明日の夜はかならず思ひを果すべし。と涙ながら云きかせければ。亂心の栢木も。身をはかなしと思ひてや。痩たる顔に涙をながしつゝ。うち点頭ければ。小君はやう/\なみだを拭。こゝに佇立て時をうつすとも。母さまの介抱もならず。閑入して見つけられんは。思ひたちし事の妨ともなるべし。と母にいとまをつげてわかれさり。戸口へもとのごとく錠をさし。目じるしある所の雪を掻分て。盗し鑰を埋おき。雪の足跡を打けしつゝ後へ歩行て。背戸の口に立とまり。雪に咽を潤して。一息吻とつくをりしも。とたんとひゞく。雪折竹。思はず胸を冷しけり。
第八回 神護
かくて次の朝は。雪も晴ければ。小君去り気なくもてなして。例のごとく立いでければ。鬼芝葱を招ていふやう。我昨日かの小女郎が欲迷言を聞しに。渠は当國松江の判官秋季殿の。御内の者の娘なるよし。此月ごろ祟のなかりしは。我々が幸なり。此のち長くとゞめおかば。事の破れとなるべきもはかりがたし。気ちがひめは縊り殺し。小児女めは遠国へ賣渡んと思ふなり。汝よろしくはからへといひければ。葱こゝろえて。頓て人買のもとへはせ行けるが。時をうつして立皈り。鬼芝を片方に招き。我等人買のもとにいたり。渠を伴ひて石山寺にいたり。竊に
【挿絵第十四図 惡婦鬼しば猪の牙にかけられて命をおとす】
小君を見せ。琴の手際をも聞せて。身の代を七十両にきはめ。金を才覚して明日来るやうに。たしかに約束して皈り来り候と。手柄顔にいひければ。鬼芝ば打ゑみつゝ。いしし/\と譽そやし。黒塚にも斯と告。三人ひとまに座をつらね。こゝろ祝ひの酒壜酒。缺茶碗をぞめぐらしける。
○こゝにまた。小君は此夜家に皈り。鬼芝等が寝謐りたるをうかゞひて。落支度をなし。背戸に出て。埋おきし鑰をもつて。鎖しをあけ。母人声を立玉ふなと。手をとりて忙せつゝ。外の方へいでけるをりしも。鬼芝葱黒塚等は。栢木を殺さんとこゝに来り。二人が体を月明りにすかし見て。打おどろき。鬼芝葱にこゑかけゝれば。こゝろえたりと飛かゝり。小君が襟首かい掴んで。后さまに引倒せば。鬼芝は足を飛せて。栢木を蹴据けるが。病疲たる痩足なれば。立上る事も叶ず。掌を合て泣叫び。ゆるし玉へ/\と。身をふるはせて怖るゝは。目も當れぬ形勢なり鬼芝はせゝらわらひ「やい小君。何の間にやら。盗出せし空屋のかぎ。此慈悲深い鬼芝が。目を掠たる其罰で。見つけられしは百年目。穀潰の顛狂めは我引導でころすも慈悲。親の顔も今が見をさめ。よく見ておけと睚つくれば。小君は葱に竦められ。身動さへもならざれば。いとも哀に声をあげ「母さまはしりてのとほりの物狂ひ。爰を逃んといたせしは。みなわたくしがたくみ事。母さまのお命はお助なされて。其かはりには。此小君を斬なりと突なりと。お心まかせになされませ。慈悲じや情じや。お家様。これのふ/\と泣声にて。涙をそゝいでいひければ。鬼芝は栢木が。胸を足下に踏つけて。用意に持し棒尖にて。小君が優き頬さきを軽く突「此美しい面つきに。生れおつたが其身の幸。死たくても死せはせぬ。賣駄に賣て勤奉公。足手絢の。氣ちがひめは。打殺て犬の腹。母は幽霊。子は傾城。こりやよい狂言の趣向であらふ。どりや幽霊にしてやらう。今が最期じや堪念せよと。栢木を踏墾ぎ。猪追捧を振挙て。眉間を目當の拝うち。あはやと見ゆる折しもあれ一疋の猪。垣をこえて飛きたり。向所をきらひもせず。空屋の壁を突破り。鬼芝が棒を振あげたるを見て。怒をなして飛かゝるを。身をかはせてどつしと打ば。猪はます/\怒りをなし。牙をならし毛を逆立。躍り舉ると見えたりしが。鬼芝を牙にかけ。一丈余り〓あげしに。血煙りは雨の如く。降て湧たる手負猪。獸のために殺されしは。惡の報としられたり。猪は猶もたけりくるひ。逃ゆく葱黒塚をも。追まはして。懸殺し。面屋のうちに駈入て。こゝかしこ奮迅まはりければ。女非人ども周章迷ひ。蛛の子を散が如く。足を空に逃散ぬ。猪は面屋を走いだし。何方ともなく駈さりけり。
此猪小君が目には。背のうへに摩利支天の尊像。朧気に見えさせ給ひければ。さては此地獄坂の古社に立せ給ふ。摩利支尊天。われ/\が急難をすくはせ給ひたるに疑なし。と奇異の思ひをなし。随喜の泣を洒つゝ。御社の方にむかひて。遥拝せり。
鬼芝葱黒塚等は。或は脇腹あるひは鳩尾を。突破られ。朱に染りて死果しは。こゝろよきありさまなり。思ふに渠等としごろ御社のほとりに住て。さま%\の惡行をなし。神前に懸たる鍔口を。おのれらが惡事の相図に用来りしなんど。旡慙の所行なれば。今斯く神罰を下し給ひしも。猶遅しといふべし。
さて小君ははじめて夢のさめたるごとく。斯冷落はしつれども。神の冥助に危き命をたすかりしは。未武運につきざるとおぼえたり。と心凉くなりて。栢木をたすけおこし。此閑に落行んと。最前猪の破りたる垣をこえしに。此所に一すじの渓川ありて。僅なる川幅なれども。昨日の雪解に。水かさまさりて。渡るべうもあらず。いかにせんと思ひしが。驀地こゝろづき。今日鬼芝が指圖にて。持皈りたる例の琴を。とりきたりて。渓川へ掛わたし。物狂ひの栢木を。「たすけて歩危さは。胸もをどりて。轟の橋を難なくわたりこえ。消のこりたる雪を蹈。月の光に玉ぼこの。道をもとめて落行ぬ。
第九回 義樵○〔此段は三之助鷲にさらはれたる話のつゞきなり〕
是は偖おき三之助が行方いかにとなれば。松江秋季殿の居舘より。東北三里を隔て伊吹山の麓に。八彦村といふ所あり。こゝは今の谷居十村なり。八彦は其古名なるを。いつの頃よりか。伊吹山の麓なるゆゑに。名産の艾に因て。灸村とよびならはせしを。后に灸の火の字を忌て。谷居十村と書改たるよし。宝暦年間の人。近江の医師。石川久庵が筆記に見えたり。文字には。谷居の十村とものすれども。僅なる孤村にして。前には伊吹の山近く聳へ。後に栢原の驛遠く隔りて。いかにも幽僻の谷地なりとぞ。
此村に名を柴朶六とよびて。歳は四十の老の坂に登り初て。山樵を丗の生活とし。身代は細き梢をつたふといへども。膽太くして力あくまで強く。容秀でゝ心清し。かりにも歪たる行をなさず。腰に指礁斧の善事をのみ好て身に〓ふ繊布の。あら/\しき舉動はせざりけり。妻を尾峯といひて歳は三十に余れども。昔の花の何所やらに残りて心ばへさへいと優し。
柴朶六は日毎に伊吹山にのぼりて薪を採。尾峯はいつも家にありて手業に晒す挿艾。さしもかそけきくらしなり。
頃は弥生も半すぎて。いつの日にてありしやらん。柴朶六例のごとく伊吹山にのぼりて薪を採けるが。日も西山に傾くを見て家路に皈らばやと思ひ。薪を背負身支度せしをりしも。何方ともなく小児の泣声いとかすかに聞えければ。紫朶六大に怪みながらもし猿の声かと。斧を杖に頭舉。耳を澄してよく/\聞ば。東の方にあたりて正しく小児のこゑなり。柴朶六思ふやう。かゝる深山へ小児をつれて登来る人もあらじ。これは一定山賊なんとが子どもを勾引来りて。此山にかくれのぼりしに疑ひなし。此奴真二ッになしてくれんずと。いまだ其実否をも見とゞけざるに先怒をなしつゝ。負たる薪を片方に打捨。斧にかけたる革袋の刀室をはづして打かたげ。根笹を推わけ嵒をつたひ。こゑを案内に尋つきて。こゝかしこ見巡ども。更に人影も見えず。小児の声も止ければ。こはいかにかと佇立しに。頭の上にて「きやッと泣いだせしこゑを聞て仰ぎ見れば。大木の楠の梢に鷲の巣ありて。巣のうへにさしのぞきし枝に親鷲とおぼしく。五才ばかりの男子をかい抓み。今にも喰ひ裂んとし。巣の内の雛に見せて楽しむ体なり。柴朶六山賊と思ひの外。これを見て打おどろきしが。如法慈悲ある男なれば。なじかはもつて〓〓べき。木にのぼるは年ごろの業なれば。斧を腰にさして猿の如くに梢をつたひ。鷲のうしろへまはりけるが。鷲は雛を愛するに心をとられて。柴朶六が来るをしらざりければ。しすましたりと喜び。猶も身を屈めて覘ひより。砺すましたる大斧を肱長にとりのべて。力にまかせてぱつしと打しに。鷲の背中を二ッになし。余る力に枝までも。半寸にすつぱと斬落せり。柴朶六は心周章。小児の命おぼつかなしと。忙しく木を下りて駈より見れば。鷲は片足に枝を掴。片足に小児を抓。朱に染りて倒たり。小児は襟首を抓み墾れ。絶入てありければ。鷲の爪を折〓きて小児を懐とり。助りもはやすると。傍に生茂りたる蓬生を採り。揉絞たる青汁を口に嗽ぎいれければ。やがて息を吹かへし。母さまのふと一声も。最期のきはと思はれて。歯を〓りてくるしむ体。いともあはれのありさまなれば。鬼とも組べき柴朶六も。涙さしぐみ。物悲しく。とやせんかくやと思へども。人里遠山中なれば。いかにともせんすべなく。膝にのせて顔うちまもり。念仏唱るばかりなり。
此をりしも採薬の医師とおぼしく。両三人打連てこゝに来ければ。柴朶六はいとうれしく。餓鬼が仏を見つけたるごとく。袖にすがりて仔細をかたり。気つけの薬をもとめければ。医師ども柴朶六が仁心を稱美しつゝ。年老たる医師懐中より藥をいだしてあたへければ。一人は外料とおぼしく。腰にさげたる袋の中より膏藥をとりいだして疵口へつけなどし。三人の医者さま%\に介抱しければ。断かゝりたる玉の緒を。やう/\につなぎとめぬ。柴朶六は大に喜。詞のかぎり礼をのぶれば。この醫師どもゝ採藥に深入して皈路を失ひ。日さへ暮かゝりたれば。殊更難義のをりから。柴朶六に逢たりとて。ともに喜びけり。
さて柴朶六は小児を懐にいれ。斧のさきに鷲を縛しつけて打かたげ。最前の薪はそのまゝに捨おき。医師等が案内して麓の方へぞいそぎける。年老の医師道すがら柴朶六にいふやう。昔時良辧僧正稚時鷲にとられ。不思議に命助りてのち。僧正までにすゝみたる事。元亨釈書といふ書物にあり。此小児もかゝる山中にて惡鳥の觜をのがれ。そのうへ我々はからず来りあはし。薬を与へて命を助りたること。此うへもなき運のつよき小児なり。猶又幸なる事には。此鷲の骨。打身くじきに用ひて。甚功あるものなり。已に本艸といふ書物にも。〓〓の骨折腸断骨を治する事を主るとあり。〓Gとは則鷲の事なり。家に皈ば鷲の骨を黒焼にして。酒にて呑せ給へ。かならずしるしあらんとをしえければ。柴朶六ます/\喜びけり。老人かさねて。同伴の醫者にむかひ。各々も聞給へ鷲に。〓鷲。虎鷲。狗鷲。の別有樵者が此鷲は。本艸に所謂〓Gなり。よく見ておぼえ給へ。西域記にも鷲の事を
【挿絵第十五図】
のせ。太平廣記などには鷲にとられたる故事もあれども。かゝる山道の九折を歩行ながらは語るもわづらはしく。聞もうるさからん。いらざる博覧自慢に口をたゝきて。足もとに目をつけず。躓て轉んには。和黨達にわらはれんとものがたりしつゝ。柴朶六が後につきて麓にくだり。医師等は爰にて別去ぬ。
さて柴朶六は家に皈り。しか%\のよし語りければ。妻の尾峯も慈悲深き女子なれば。よき善行をし給ひたりとてうちよろこび。医師がをしへしごとく鷲の骨を用ひければ。そのしるしありていたみもうすらぎ。此夜小児は尾峯が懐に眠りぬ。次の日は頻に父母をしたひて泣わめくにぞ。その父母の名を問どもつよく物におどろきたるゆゑにや。人事を忘てたしかにもいひ出さず。責問んも病のさわりならんと打おきて。日夜小児の事にのみかゝづらひて。其四五日は活業をも休みをれり。
かくて一日一人の商人来りしだ六が鷲をとりたる事。此谷地に来て聞たりとて。鷲の尾を。矢の羽に買んとのぞみけり。柴朶六は此頃銭の貧しきをりなればよき幸とし。價を定て賣わたしけるが。此商人尾峯が肌つけに背負居たるかの小児を見て。打おどろき。此糸殿は。当國松江庄。松江の判官秋季殿の御家来。山中左衛門といふ人の子息なり。名は三之助どのとか聞おぼえぬ。鷲に抓れたるを助けめされしと聞しは。此糸殿にて候ひしや。さてもいたわしや。山中どのこそ。さぞかしたづねておはすらめ。早く親のもとへもどしたまへ。かならず褒美にありつき給はん。我等は松江の家中へも。商のためにいでいりすれば。山中殿も知る人なり。打すてゝは皈りがたし。我等すぐに。此和子を伴ひゆき。山中どのへ手わたしして。褒美の事も取持べし。これはいかにといひければ。柴朶六大に驚。偖は山中左衛門どのゝ子息にておはしけるか。我前の年。秋季公の領地にて。惡漢にいであひ。口論つのりて。二人を殺せしに。山中どのゝはからひにて。人殺の罪をのがれ。今日まで命ながらふも。かの人の仁心ゆゑなり。かゝる恩人の子息ともしらず。はからず一命を助け。大恩を報いたるこそ。うれしけれ。褒美などゝは思ひもよらじ。片時もはやく和子殿を連行て。喜ばせ申さんと。三之助を背に負。商人に隨て立出けるが。皈りは夜にも入べしとふたゝび。家に立もどり。身の護りにとて。例の斧を腰にさし。忙しく出行けり。
第十回 血戦 ○〔此だんは。山中左衛門はらをきり。栢木小君家を立のきしより。四五日のちの事をしるす〕
去程に柴朶六は。商人に隨て。一里余り来りけるに。商人柴朶六にむかひ。我等かしこに見ゆる。八幡の社内にすこしの所用あれば。和殿は此松の下にしばらく待てたまはれよ。もはや一里あまりも来つれば。よき休所なるべしと柴朶六をまたせおき。左の小徑に入て足ばやにはせゆき。僅に半丁ばかり隔たる社の門の内に入ぬ。こゝは小高き山の上にて。木ども立こめて。いと神さびたる宮地にて。守人のありとも見えず。社の后なる大木の椙のもとに。筵をしきて。七八人の若侍ども。丈六の膝をつらね。酒宴をなしてをり。そのさまいと狼藉たり。上座に丈六かきて居たる侍彼商人が来るを見て。首尾はいかにととひければ。商人此侍の面前にひざまづき。御主人の御推量のごとく。わたくしへは渡し申さず候ゆゑ。かの者に三之助を伴はせ。かしこの松の下にまたせおき候ひぬ。たゞものならざる顔つきに候へば。御油断候なといひければ。若侍うちわらひ。樵者の分際にて何ほどの事をかしいださん。汝はまづこゝにありて彼はかしこにまたせおくべし。我別に謀ありといひて。席に連たる侍どもにむかひ。閉居の身分たるそれがし。密に和黨達を招て人家はなれし。此所へ會合せしは。別事にあらず。前の日地蔵坂において。氏王殿に疵しは。此星合梶之助が所為なりとは。ゆめにもしれるものなく。罪を山中左衛門に負はせて。腹をきらせ。栢木小君等。當國をはらはれて家亡びたれば。和歌の席の恨みをはらして。心凉しゝといへども。鷲にとられたる三之助。不思議の一命をたすかり。八彦村の樵者が家にあるよし。ゆゑありてきゝいだしつるが。かの童めを活おきては。我朝夕の心障なれば。僕牛平を如斯商人に打扮せ。しか%\の謀にて樵者に三之助を伴はせ。今かしこの松かげにまたせおきつるよし。我が手をくだすはやすけれども。此度北朝の残将松倉殿へ内通し。年頃讎とする秋季どのを襲はせ。莫太の恩賞にあづからんといふ。我密謀に組し給ふおの/\なれば。一味の手はじめに。かの樵者と三之助を斬殺し。後の災となるべき。芽出しの草を刈とりてたまはるべしと。一座を見まはしていひければ。惡黨ども一義にもおよばず。心やすしとうけひきければ。梶之助打喜び。しからばかやう/\にはからひ給へ。とをしへをうけて。七八人の悪黨ども。酔ざましには。よきなぐさみなりとて。おの/\山をくだりけり。
さて柴朶六は。かゝる事のありともしらず。松の根に腰かけて。三之助を膝にのせ。商人が皈り来るを待居たるに。七八人の若侍小径の方より来けるが。柴朶六が松の根に腰かけたるを見て。立とゞまり。汝何やつなれば。八幡宮の神木たる。此松に腰かけしぞ。神木に腰かけしは。神主の我々が頭のうへに腰かけしも同前なり。此奴のがすな打て取と。抜連て切てかゝれば。柴朶六は事ともせず。松を小楯に身をかため。こざかしき山賊の昼鼠。八幡の神木は社内の椙といふことを。しるまじと思ふにや。野良猫の手並を見よと。三之助を
【挿絵第十六図 樵夫柴朶六三之助をたすけて近江にいたり途中にて難にあふ 酉斎 文章豈頼有團圓忠孝 神仙理別然安詩赫號書 萬本直教張許遍街傳 京山】
左に抱へ。斧をまはして。片手打。先にすゝみし両人を。左右へ薙よと見へけるが。四ッになりて倒れけり。残る奴原これを見て。四五人ひとしく力を合せ。刀尖するどく立むかへば。柴朶六はこれを物ともせず。斧の柄を口に咥え。傍の石地蔵を目より高くさしあげて。一声かけて打つけしに。仏にうたれて三人まで。地獄落の鼠のごとく。目玉飛出て往生せり。つゞく者のあらばこそ。舌を吐て肝を消し。こはかなはじと逃ゆくを。又追打の梨子割に。二ッにわかれて倒れたり。
星合梶之助は。八幡の社頭にのぼり。此体を望み見て。柴朶六が勇におそれて。二の手にいづる心もなく。頭を掻て居たりけるが。心さときものなれば。前の日此神前へ納おきたる。弓矢の額にこゝろづき。重藤に鏑箭とつて。矢頃を定。しだ六が抱き居たる三之助を。射をとさんと。満月のごとくに引絞り。つる音高くはなちけるが。三之助が運やつよかりけん。覗ひはづれてしだ六が。脇腹へぞ射付ける。再二の矢をつがひけるが。奉納の弓なれば。弦上てせんすべなく。猶も様子を望み見れば。農業に出たる百姓原鋤鍬かたげてこゝかしこよりはせ集り。すは山賊よ剛盗よ。箭はいづくより射かけしぞ。と口々によばゝりければ。梶之助便あしゝと。似せ商人の牛平を従へ。何方ともなく逃うせけり。
百姓ばらは柴朶六がめぐりにあつまり。此人を見れば大力のきこえたかく。此あたりまでも顔をしられたるしだ六なれば。うちおどろき。さま%\にいたわりけり。かゝる急所の痛手なれば。並々のものならんには。即座にも死すべきに。大力無双の柴朶六なれば。射付られたる白羽の矢の朱になりしを壓折て地上へなげうち。かゝる飛道具にあらずんば。幾十人来りたりとも。闇々痛手は負まじきに。残念や口おしやと。拳をにぎり〓をなし。怒る眼に旡念の涙。勇しくもまたあはれなり。
かくて百姓ばらうちより深切にいたわりつゝ。しだ六を山輿にのせ。三人して打かたげ。三之助を背に負。時ははや日も暮ければ。松明をふり照して。八彦村にいたり。その家におくりつけて立皈りぬ。尾峯は夫が体を見て。梦うつゝともわきまへずこは何ゆゑぞなさけなやと。手負の膝にすがりつき。こゑをあげてぞ歎ける。柴朶六くるしき息をつき。不審はもつとも我かく痛手をおひたるは。かやう/\の事なりとものがたり。さつする所かの商人。道にて我を殺し。三之助殿を山中氏へつれゆき。其身一人にて。褒美の金にありつかんたくみなるべし。同類のものあまた打とめしが。かの商人にいであはず。うちもらしつるこそ遺恨なれ。僅〓箭の一すぢぐらいに。命をうしなふしだ六にはあらざれども。脇腹を野深に射られ。疵口に夜風とほりて。五臓六腑も悩乱すれば。とても助べき謂なし。此和子殿が命をたすけ。此和子殿のために命をすつること。これ全く前世よりの因縁なるべし。かならず恨と思ふなと。死の一念を動ざるは狂雲禪師の一偈に。大勇褝に道ありとは。かゝる人をやいひけらし。尾峯はとかくのいらへもせず。哽咽てぞ泣入ける。
三之助は此程より。思はず此家に日をおくり。疵も癒て夫婦にも馴親しみ。ことに俐發の生れなれば。我ゆゑかくと思ふから。稚き胸におきあまる。つらさかなしさとりまぜて。いともかなしき声をあげ。おぢさま死でくださるな。わしゆゑに殺しては。侍の道が立ぬ。此やうな事父上の聞召ば。わしを捨てはおかしやるまい。死だらきかぬいやじや/\と足ずりして泣ければ。柴朶六うれしく膝行より。三之助がかしらをなで。唯々よういふてくださつた。栴檀は二葉よりかんばしゝとは和どのゝ事。たのもしき今の一言。此柴朶六も種根の山樵にても候はず。播州の國司曾根松家に仕えて餝磨の六郎と召れたる士なりしが。ゆゑあつて
【挿絵第十七図 石少 無情骨肉成呉越 有義天涯作至親 三義村中傳美譽 河西千載想奇人 京山】
浪々の身となり。一生山樵にて朽果ん覚悟なりしが。代々つたはる我力量。血脉の男子もなく。我代にいたりて絶果んと。これのみ心にかゝりしが。和どのが今の一言といひ。惡鳥の觜をのがれし洪運の程。末たのもしく思ひはべれば。漢の李達が虎血を啜りしためしにならひ。餝磨代々の力量を。我今和殿に授べしと。銅作をとりいださせ。全身の力を腕に入。劍尖をもつて力瘤を突破り。鮮血を器にうけさせて。三之助へぞ飲せける。
かゝるをりしも星合梶之助がはからひにて。しだ六が跡を慕て来たる悪輩ども。垣のすきよりうかゞひをりしが。しだ六が腕を突やぶりしを見て。時分はよしと庭に飛いり。三之助を目がけつゝ。たゞ一打と切付る。ふしぎなるかな三之助。こゝろえたりと身をかはせ。立蹴に礑と〓おとして。つゞいて庭に飛くだり。年貢のためにつみおきたる。籾の俵のちから業。悪輩どもをちかづけず。尾峯がさしだすかの斧を。手ばやく採てふりまはし。真向梨子割車切。矢庭に四五人切倒す。形に似せざる力量は。頼光公に仕えたる。かの金時が稚立も。かくやとばかり勇き。しだ六は痛手ながら。苦痛をわすれて打よろこび。さてこそや我力量をうけつぎ給ひけれ。かく大勢を手にかけ給ひし人殺しの罪にかはり二ッには此矢疵に命をはらんも口おしければ。いさぎよく腹きらん。女房さらばと詞のした。銅づくりをとりなほし。腹へぐつさと突たつれば。尾峯はわつと哽咽。三之助も泣いだし。おぢさま死でくださるな。おん身ばかりがたよりじやと。虫がしらするひと言は。刃に臥たる爺親の。草葉のかげにてきくならば。さぞやかなしく思ふめり。しだ六は眼をとぢ。引まはしたる刀尖に。さはるはたしかに矢の根ならんと。〓いだし。これゆゑに
【挿絵第十八図 三之助枝朶六が生血を呑で立地に大力となる】
こそと口おしく。よく/\見れば〓の莖へ。象眼にて
星合梶之助照連所持
と彫入あれば。柴朶六これを見て大に怒り。さては我を遠矢にかけしは。梶之助が所為なりしや。我播州にありしとき。渠はいやしき漁師のせがれ。武家奉公を心ざし。親を捨て逐電なし近年松江殿に仕えて星合梶之助と各告よし巷説にきゝおよびぬ。渠に恨をうけんこと。身に覚なしといへども。種根のいやしきやつなれば。金に目をかけかの商人に組したるに疑なし。漁師のせがれが拳にかゝり。命を果す餝磨の六郎。よく/\武運につきはてしか。咳ざんねんや口おしやと。〓を簀子にうちつけて。怒ば一しほ激る。鮮血は瀧のごとくにて。又も苦痛に迫けり。妻はやう/\涙をぬぐひ。女子でこそあれ此尾峯。夫の敵の梶之助。やはか安穩でおくべきや。頓て手向ん敵の首。くさばのかげにてまち給へ。人は最期の一念にて。苗宇に迷ふと聞はべれば。恨を残さず往生あれ。南旡あみだ仏/\と夫がよはる顔色に。つれて唱る六字づめ。ともに消たき風情なり三之助はのびあがりしだ六が耳に口。こなたの敵はわしがとる。強ふなつた三之助。堪忍はしておかぬと。よばゝる声の奈落迄。ひゞきて消ゆく目をひらき。莞尓せしが此世のわかれ。合破と倒れておち入けり。
鷲談傳竒桃花流水巻之三終
鷲談傳竒桃花流水巻之四
第十一回 幽栖
生死涅槃猶如昨梦と説給へるも。あはれにこそおぼゆれ。きのふ過にしあとはけふの夢なり。今日の事も又明日の夢にして金烏の翅。玉兎の足夢より夢に歩行するは。人としてとゞまりがたき旅寝ぞかし。
去程に尾峯は柴朶六を野外の煙となし。事はてゝ後竊に三之助をともなひ。松江の庄にいたりて。山中が家をたづねけるに。左衛門は國字寺にて自殺なし。栢木小君等家を追れて其行方をしるものなく。梶之助は三之助を打もらして心安からざるのみならず。秋季を愚將とあなどり。松倉家へ内通の密謀一味のうちに反忠のものありて。已に捕へらるべきを。とくさとりしり。かの牛平を伴ひて行方しれず逐電なせしときゝて操の胸にはりつめし弓もをれてせんすべなく。再三之助をともなひて八彦村へ立皈りけるが。かれこれにて村をもさはがせければ。おのづから人の思はくも疎くなりて。ちからとたのむべき人もなく。朝夕の心細さいはんかたなし。かくては夫の敵をたづぬべきたよりもあしゝと。わづかなる家財を代なしてこれを路金となし。夫が形見の銅作と最期の恨の鏃とを所持なして。住なれし八彦村を立のき。梶之助と栢木等が行方を尋んと。まづ都へいで。爰彼所を経廻りけるが。其おとづれをもきかざれば。ひとまづ尾峯がふるさとなる。三河國宮路山のほとりへ来りて。かりの住家をもとめ。所がらの活業。白苧染苧をつくりて。世のたつきとなし。糸よりほそきけふりをたてゝ。三之助をば養子のやうにいひなし。そのとしもいつかくれて。くる春をもいとわびしくぞむかへける。
三之助は年一ッかさねて殊にかしこくなり。形も力につれて大きやかに。余所外の子どもに比れば。十一二才ばかりに見えけり。生質直にして尾峯を誠の母のごとくに親しみ。つゆばかりもその教にそむくことなく。梢に登て菓を探り。流にのぞんで魚を驚すたぐひの遊びをなさず。おのづから志高く。さながらよしある士の胤とは。人品と行とにてもしられけり。
尾峯が糸の手業もはか%\しからねば此あたりより程ちかき。かの紫匂ふとよみし。藤川の駅にいでゝ。旅人の行李をもち。其賃をとりて。尾峯が世わたりのたすけとしけるが。大力旡双の童なれば。およそ馬とひとしき重荷をもちて。貸銭をうる事人よりおほく。旅人等も幼き童の重き行李をもつをおもしろがり。三之助が来るをまちて。ものを
【挿絵第十九図】
もたせければ。此藤川の驛をかせぐ物持ども。いつも手を空くして頭を掻けるがとても腕に勝事あたはず。竊に心をいらちけるとぞ。
さて一日三之助は例の如く海道にいでゝ家にあらず。尾峯が手業の糸車。いとしき夫にわかれてより。花のすがたも其侭に。とりつくろはぬ山櫻。鄙には惜きすがたなり。
時しも〓雨ふりいだしければ。尾峯は周章て門邊に立いで。干ておきたる。染苧をとりいれんとしつるをりしも。當所の縣守が下司横嶋悪五郎といふ若侍。雨具の用意もなく。一人の従者をしたがへ此所を通りけるが。尾峯が容色を見て。色ごのみの目をおどろかし。從者に對ひ。われは此家をかりて待べき程に。汝は宿所にかへりて雨具を持参せよと。命じもたせ来りし。吸筒分盒の一包をたづさへ。尾峯が跡につきて内にいり。しか%\のよしをいひければ。尾峯は惡五郎を紋花筵の上にをらしめ。うや/\しくてをつき。おもきおんかたの雨やどりなればこそ。かゝるいぶせき所をもいとひ給はず。御入も候ひけれ。ごらんのごとき貧きくらし。せめてお茶をと立んとせしを。惡五郎おしとゞめ。いや/\それにはおよび申さぬ。けふは大屋川の鮎とりに行んとせしが。雨もよひのそらあひ故。途中よりのかへりあし。幸なる吸筒分盒。こゝにてひらき申さんと。酒樽ながらにかんをつけ。尾峯が酌にて数盃をかたむけ。あだめく詞をまじへつゝ。酒は不得手の尾峯へも。旡理に飲する惡五郎。花盗人としられけり。尾峯はそれとさとれども。縣守の下司なれば。柳に風の吹しだい。ことやはらかにもてなしけり。悪五郎其図にのり。不良の門に入んとするを。尾峯は操をやぶられじと。顔に紅葉を散し髪。程々あやうきをりしもあれ。三之助立皈り。此体を見て大に怒り。悪五郎が襟首掴で引倒。拳をあげて連打。散々に打けれども。三之助が力におそれ。ゆるせ/\と呼りながら。傍に落散たる。尾峯が櫛を手ばやく拾ひ。〓つ轉つ逃さりけり。
○これは偖おき爰に又。都の人にて名を山科屋弥四六といふもの。所用ありて三州にくだり。藤川の驛亭に泊りけるが。里人あまた東をさしてはせ行ければ。何事にやあらんと宿の主にたづねしに。主曰これは世にあはれなる物語にて候。當所の宮地山は昔持統天皇幸行ならせ給ひて頓宮ありしところなれば。昔より殺生禁断の所なるに。此ほど彼山の麓に住寡婦尾峯といふもの。宮地山にのぼりて宿鳥をとり。山中へとりおとしたる。頭櫛を證拠として搦捕れ。今日暮六の鐘を相圖に大屋川へ沈にかけらるゝよし。夫を見んとて里人等の。かくはせゆき申す也。金子百両をいだして罪を購ば命たすかる事。これもむかしよりのさだめなり。かの女に娘もあらば。かゝる時は身をうりても。母の命を助べきに。養子の三之助と申すは力こそ強けれ。歳端のゆかぬ小童なれば。金の才覚は思ひもよらず。血の涙にてをるとのうはさと語るうちに。主の女房が傍より。主にむかひ。彼尾峯とやらんは下司の悪五郎が心にしたがはざりしゆゑ。渠其座にて尾峯が落せし櫛を盗み。戀を叶えぬ遺恨じやと。聞ばきくほどむごたらしうござりますと。はなすを聞て弥四六主に対。さても/\いたはしき女が身のうへ。金で助る命ならば百両の金子は我等合力いたすべし。御身よろしくはからひ給へ。かならずしも戲ごとにあらず。実に一命を助たく思へば。時刻をうつさずはからひ給へといそがせければ。主夫婦も大によろこび。村長へしか%\のよしきこえつぎ。主村おさ弥四六其余役々の里人等。大屋川にはせつけ。弥四六は尾峯が親族なりといひたて。金子百両をいだして罪をあがなひければ。罪人けいごの武士ども事の由を人はせて縣守へきこえあげけるに。古法なればくるしからずとさし圖にまかせ。金をおさめて尾峯が縄目をゆるし。村長へ渡ければ尾峯はゆめのさめたるごとく。三之助もかくときゝて此所へかけつけ。ともに喜ぶこと。いへば更なり。
かくて尾峯は三之助をともなひ。村長主等にしたがひて旅亭にいたり。此人々に礼をのべ。殊更弥四六には詞のかぎりいひつくし。大恩を謝しければ。弥四六尾峯に對。命の親といはれては却て迷惑。合力した百両は三之助が身の代金。とばかりいふては合点が行まい。もと我活業は見せ物師なるが。此たび矢矧の橋のほとりなる〔橋長さ二百八間東海道第一の長橋なり〕佛光寺に〔此てらいまははいす〕来四月はじめより弥陀如来開帳ありときゝ。其賑に乗じて利を得と都より縁竿刀玉なんどするものを引具して彼地に来り。仏光寺の辺にかり住居して。開帳のはじまるをまつ内に。此驛中に三之助といふ大力の童あるよし噂に聞。此度の見せものゝ数にくはへて太夫となし。浪華下りといひなして力業をさせ。多くの金にありつかんと。此旅亭に泊り。聞およびし三之助が家をたづね。給金の高をきはめ抱行んと思ひしに。はからざる和主の難儀。三之助が母と聞て。おしげもなき百両は。三之助が身の代なり。開帳の日数六十日をかぎりて。我目づもり七十両とは思へども。百両の身の代は。開帳の日のべが當。斯したわけの金なれば。礼をうけては殊の外迷惑すると。こまやかにものがたれば。傍にきゝ居たる宿の主。さもこそあるらめあまり見事なしかたであつたとうちわらひぬ〔斯て后彼悪玉郎は尾峯がこと縣守にもれきこえて此地を逃のきけるとぞ〕
【挿絵第二十図 三之助民家に養れて義母に孝をつくす圖】
第十二回 〓金
爰に又春瀬由良之進は。彼地獄坂にて栢木小君等を見うしなひけるが。近江一國は秋季より徘徊をとゞめられし身なれば。久しく足をとゞめがたく。栢木小君等も此國には居給ふまじ。かならず都の方へ登給ひしならんと。其あとをしたひてたづねのぼりけるが。更に音信をも聞ず。とかくする間におのれがたくはへの路金をもつかひ盡して。せんかたなく慰におぼえたる尺八を吹て旅虚旡僧に身を打扮し。人の門に立て銭を乞。これを路銀として。中國を歴巡り。主人のゆくへと敵の在家を尋つゝ。旅中に歳をこえてむなしき春をむかへ。猶東國をたづねばやと東海道をくだりて。尾張國宮の駅にいたりぬ。
年来聞およびたる熱田の神垣もあたりちかければ。行て拝みたてまつれり。そも/\當社は人皇十二代の帝。景行天皇の御時より御鎮座まし/\て。東海東山両道第一の霊社なれば。信心肝にめいじ。遠からずして主人にめぐりあひ。讎を復して世にいづる時にあはしめ給へと。社頭にぬかづきてしばらく祈念しけり。
時ははや黄昏のころなれば。今宵の梦をむすばんと。寝覚の里にいたりけるが。〔美濃に同名の地あり〕路の傍に物あるを見て拾つるに。およそ百両あまりの金を服紗に包たるなり。由良之進大に驚き。何ものゝおとしけるか。包の内にしるしやあると。傍なる古社に腰うちかけて。其包をひらき見るに。黒染の片袖と。財布に入たる百両の封金有けり。熟々視れば此包金は。去年地獄坂にて山賊にいであひ。追散たる時取おとしつる金にして。封じめに山中の家の縫印を印たれば。紛べうもあらず。財布も猶其時の侭なり。又包し服紗の端に白裂を縫付。是に星合氏と記したり。由良之進更に其故を暁しがたく。包を膝にのせて腕を組首を左右へ傾て。しばらく思案しつゝ心中におもへらく。我おとしたるときかの山賊。此金をひろひとらば。賊の身として今迄貯えもつべき謂なし。包みし服紗の端に星合氏としるしたるは。彼星合梶之助が家の品なるべし。過つるころ都にありて。彼が巷説を聞しに。秋季公に對して邪惡の行をはかり。事あらはれて逐電しつるよし。此事を聞て『氏王君に疵しは。もし彼が所為にはあらざるやらん。』と梶之助にもめぐりあひたく思ひて。かく月ごろをすごしたるに。今此服紗に包たる金。再我手に皈たるは。熱田明神忠義に辛勤する志を感応まし/\て。授給ひたるにうたがひなしと。猶遥拝しつゝ梶之助此金を拾ひ。再爰におとしたるならん。大金なれば必定尋ね来るべし。渠を捕へて可為やうこそあれと。百両は懐中にをさめ。石をかはりとして元の所に捨おき。社の内に身をかくしつゝ。替竹と見せたる一腰を膝によせ。餌をおきて獣をとるごとく。今や来ると待居たり。
斯てやゝ時移りて日は暮けれども。いまだ人影も見えざれば。今宵は此社にあかさばやと思ひさだめて心を寛になし。猶まつほどに。向の方より爰へ来る人かげ見えければ。目をとゞめて見居たるに。やがて近くなりたるを。月かげにすかし見れば。深編笠に面をかくし。黒き小袖に朱刀室の両刀を帶。さながら浪人と見えたる者。金のほとりにいたり。篇笠のうちより爰彼所窺ひ見る体。身の丈肩のかゝり。見おぼえある梶之助に疑なし。さてこそとうれしけれ。用意の一腰うしろにかくし。此方も天蓋に面をかくして。彼が背后にしのびよる。とはしらずして。かのつゝみを拾ひとり。おしいたゞきて懐にをさめ。立さらんとなしけるを。由良之進詞もまじへず。鐺をしかと捕へて后のかたへ引もどす。胆ふときやつと見えて。おどろきたる気色もなく。篇笠取て片方に打すて。刀の柄に手をかくる。由良之進是を見て。とつたる鐺を突放ち。飛〓〓つゝ。天蓋をかなぐり捨て。双方ぱつしと切むすぶ。刀と刀の十文字。月の光に刃のあひだ。互に顔を見交て。「ャァ兄じや人。由良之進どの「さいふは弟の簑作なるか。こはそもいかにと両人が。寝覚の里の夢かとばかり。知果て詞もつがざりけり。
さて両人は刀を刀室にをさめ。由良之進打よろこびて。簑作にむかひ。絶て逢ざる兄弟の。かゝる所にしてはからず落合たるは。そもいかなるゆゑならん。問べき事語べきこと一夕の談にあらずといへども。先かしこの社に来れといひて。両人社内に對座し。由良之進先に詞をいだして曰。我身上の事どもは次に語るべし。さしあたりて聞まほしきは。星合氏としるしたる服紗に。我落したる百両を包み。あやしき片袖を添たるを。汝が所持なすは最不審き事なり。必定仔細あらん。いかなるゆゑぞと問ければ。簑作が曰。此一義につきては甚入組たる物語の候。よく心して聞給へ。御身もしり給ふ如く。我播州の國司。曽根松家の家臣。箕取氏の養子となり。両親の死后にいたりて。餝磨六郎が妹深雪をむかへて妻となし。深雪が妹鵲をも我方へ引取て養ひおき候。しかるに餝磨六郎ゆゑあつて主人より暇給はり。それがしも六郎がことに與りたりとておなじく浪々の身となり。暇給はりしことにつきて。それがし六郎と
【挿絵第二十一図 此繪の謂こゝにいわず本文を讀てしるべし】
一家の縁を断候。かの鵲は『女の身なり』とて。姉にしたがひて某が家にありて。逢坂の関のほとりに三人わびしくくらし候が。鵲姉とはかりて我には『侍女の奉公する』と偽り。彼星合梶之助が妾となり候。しかるに一夜梶之助が僕牛平といふもの。周章く来りていふやう。『鵲どの織平といふものと密通なし。今宵ことあらはれて。御主人梶之助どの両人を手討にいたされたり。不義の證拠はこれなり』とて。鵲が自筆にて。織平が方へつかはしたる。夫婦の誓紙を見せ。『手討の死體を引とるべし』とあるに。いかにともせんすべなく。その夜梶之助が家にいたらんと。地蔵ざかへさしかゝりしに。をりしも宵闇の暗まぎれ。あやしき曲者に行逢。山賊と思ひつれば。はからず『捕ん』と思ふ心になり。立まはるひまに渠が切こむ刀。石地蔵をきりて火花ぱつと飛散。其ひかりにて曲者が面をちらりと見て。猶捕んとして片袖を引断り。曲者は逃さり候。かくて梶之助が家にいたり。其夜初て梶之助に對面せしに。以前の曲者に似りつれば。鵲を手討にせしといふも。いと怪しけれども。掲焉證拠あれば。争べき処なく。葬の事彼是にて。四五日は心忙しく打過。一日巷説を聞ば。『地藏坂にてしか%\の事ありて。山中どのに疑ひかゝり。一家の滅亡おぼつかなし』と聞て大におどろき。引断たる片袖の袂のうちにありつる此服紗に。星合氏としるしたるのみならず。〔此服紗は梶之助短刀包て地蔵坂へ持行しふくさなり〕我曲者にいであひたる夜と。氏王君の疵を得給ひたる夜と同夜同刻なれば。疵しものは梶之助に一定せり。さるゆゑに『服紗を證拠となして。山中どのを助ん』と。其日直に山中どのゝ家にいたりしに。家は空家となりて人影も見えず。山中どのは國字寺にて自殺と聞。御身の跡をしたひて走行。地獄坂にて此百両をひろひ。財布に目おぼえあれば『扨は都の方へ落給ひしならん』とこゝろえ。かの地にいたりて四五日が程。こゝかしこたづねもとめけれども。音信をも聞ざれば。空しく家に皈り。斯年月を過し。今月某の日鵲が一周忌の仏事をいとなみしに。其夜の夢に鵲告て曰。『我梶之助が為に謀られて。不義の惡名をうけ。非命の刃にかゝり。怨魂宙宇にさまよひて。浄土の往生を遂がたし。尾張國熱田明神に参詣あらば。我恨をはらすべき便りを得給はん』と告候。ゆゑに。『讎を復て修羅道の恨をはらさせばや』と。今日此地に来り。明神へ詣しかへるさ。此包を取落し。はからず兄上にめぐりあひしは。最不思議なる事どもなりと。事細に物語ければ。由良之進は主人の讎明白に知れて。喜事かぎりなく。山中左衛門自殺のことを初とし。今日にいたるまでの事を。詳に語りきかせ。此夜兄弟此辻堂に夜を明し。鵲が夢中の告もあれば。由良之進が志せしかたを尋んと。兄弟打連て。東の方へぞ下りにける〔○みの作百両の金の包をこゝへもちきたりしは一ッにはかたきのせうこ二ッには兄にもあはんかとの心なるべし〕
第十三回 熱閙
そも/\矢矧川は。水源岐蘇の山渓より落て末を鷲塚川と云。西尾に到て二流となり。海に入。三河三大河の一なり。架す橋を矢矧の橋といふ。其名長くつたはりて。殊に名高き長橋なり。深草の元政が。矢矧の橋に書つけて見んと咏しも。腰の矢立のすさみなるべし。
去程に由良之進簑作等は。こゝに来りて橋のほとりの茶店に憩ひ。その光景を見るに。此頃矢矧にちかき仏光寺へ。都某の御寺より。釋迦如来遷座まし/\て。開帳ありければ。参詣の諸人群をなして。橋上の往来絡繹たり。利を射る商人どもは。開帳の熱閙を的にかけて。あたり狭しと店をひらき。新製の餅に案じの味をやり。工風の手遊びに小児の目をよろこばしむ。菓を売ものあり。飴販ものあり。軍書読説經かたり。去程に哀なるは。親の因果が子に報たりといふ片輪者。丹波國より生捕たりといふ鳥獸。怪しと奇しき物を見する所あり。楊弓の射場には光陰の矢をはなち。藥を販には隙ゆく獨樂をまはす。かゝる類すべて人の心を慰て足をとゞむるもの。所せきまでに連りて。笛を吹音。鼓うつひゞき。糸のしらべ。唱歌のこゑ。其熱閙しきこといへばさらなり。猶此地の光景をこまやかにものせんには。風来山人が『根なし草』とかいへる草紙の筆糟なりといひもやせん。こゝにもらしぬ。
さて由良之進簑作等は茶店を立いで。かゝる駢閧の地なれば。もしやたづぬる人にめぐりあふこともやあると。こゝかしこうかゞひあるき。よきをりなれば開帳をも拝んと。橋をわたりて仏光寺の門前にいたりけるに。此大路のうちに薦すだれをもて假屋をかまへ。紙もてはれる扁額に童の力業する体を彩色の圖に作りて。入口に掲げ。片方には浪華くだり童の力持と。柿色の地に白く染いだしたる〓を建。笛鼓の音いとおもしろくひゞかせぬれば。此假屋のまへはことさら人の山をなしぬ。由良之進簑作にむかひ。かゝる大力の童を武士の子にせば。一方の用にも立べきを。路傍に立て人の目を慰るは。いとをしむべき事に
【挿絵第二十二図 山中が忠臣由良之進虚旡僧に扮して柏木小君をたづぬる図】
あらずやといへば。簑作は人に隔られていらへもならず。おしこりたる群集をわけつゝ。両人うちつれて寺にまうで。開帳を拝て再此所にいたり。世のかたりぐさなれば。童の力業を見物せばやと。假屋のうちに入て見るに。正面の舞臺にはうちはやしするもの膝をつらね。見物の群集は假屋のうちに充満せり。由良之進等は諸人の后に立て見居たりしに。わたり二尺あまりもあるらんと見ゆる鐘を。四五人の男どもして。いかにも重げに荷ひいだし。舞臺の正めんにすへおきてしりぞきければ。上下の上ばかりつけたる男。手にあふぎを持て立いで。此鐘を大力の童が持事を。さま%\の手品しておもしろくいひをはり。さてのち童が立いでたる体を見るに。粉紅繻子の長上下に。むらさき縮緬の振抽を着し。歳はいまだ十歳ばかりと見へて。いかにも愛しく見えければ。見物の群集口々に讃つゝ。こちおしあちおし。ひしめきあひてこれを見る。童は諸人に禮をなし。鐘を肩にのせて舞臺をめぐりけるが。此たびは鐘のうへに二八あまりの舞姫をたゝせ。糸竹のしらべにあはせて舞をまはせ。あふぎをひらきてゆるやかにつかふさま。古今に稀なる大力なれば。諸人一同。讃る声。しばらく鳴はやまざりけり。
由良之進は此童の三之助に似たるを見て。心中大にあやしみけるが。かたはらに立たる医師。同伴の士に對ひ。我あふみに遊學のをりから。伊吹山へ採藥にのぼり。鷲にとられし小児に藥をあたへて。命を助たることありしが。此童を見るに。其をりの小児によく似たりといふ。由良之進是を聞。さては三之助君にうたがひなし。不思議の一命をたすかり給ふのみならず。いかにしてかかゝる大力にはなり給ひたると。且よろこび
【挿絵第二十三図 三之助養親のために身をうりて力業を諸人に見する】
且あやしみ。簑作とともに諸人をおしわけ。詞をかはさんとなしけるが。まてしばしかゝる諸人の中にては。巷説に流布なして。御主人の耻辱なりと。とびたつ胸をおししづめ。假屋を立いで。前に立て人をまねく男に三之助が住所をたづねけるに。彼山科屋弥四六が旅宿を教られて。其家にいたり。弥四六に對面して。事の子細をたづねければ。弥四六尾峯が難義をすくひ。百両の身の代にて。三之助を抱たることをかたりければ。由良之進大におどろき。弥四六にむかひ。元来三之助どのは近江の國にてよしある御方の子息なるが。前の年鷲にさらはれ。御行方しれず。必定悪鳥の餌食になり給ひしとは思へども。金鷲童子の故事を。はかなきよすがにたのみて。もし命たすかりて。世におはす事もやあると。家来の我々かくすがたをやつして。諸國を歴巡り。御行方をたづねしに。はからず此所にてめぐりあひしは。主従の幸なり。身の代金を償はゞ。異義もあるまじ。たゞ今三之助どのをわたしくれられよと。懐中より彼百両をとりいだして。弥四六が前におきければ。弥四六眉を皺め。命さることには候へども。三之助をかしこにいだしてより。僅の日数に候へば。かの假屋をつくりたる。諸色に費たる金。三之助が力業のために得たる銭をもつてつくのひがたければ。元金百両のほかに金二十両をそえ給はゞ。いかにも三之助を渡し申べし。夫も三之助をもかゝへたる證文に。彼尾峯を三之助が母と記しつれば。尾峯が一応の詞を聞ざれば。各方へはわたしがたしと。利口気にいひければ。簑作これを聞て。怒の詞をいださんとしたるを。由良之進。目をもつてこれを制し。弥四六に打むかひ。和主が申所いかにも道理なれば。尾峯とやらんが家にいたり。渠を伴ひ来りて。再説話すべしと百両を懐におさめ。弥四六に尾峯が住所を問ひ。其地をさしてぞいそぎける。
第十四回 義漢
爰に又かの尾峯は。あやうき一命をたすかりたりといへども。三之助に別れてより心わびしく。かの惡五郎が事に懲て。宵より門を鎖し。燈火ほそくたてたるもとに。夜方仕事の苧を捻りて居たりしに。門口をほと/\と敲き。尾峯どのおはするや。對面申たしといふ。そのこゑの聞なれざれば。心にいぶかりつゝ。何人にておはするやとたづねければ。我々は三之助どのゝ事につきて来りたり。仔細は對面のうへにてかたるべしといふ。尾峯此詞を聞。こは弥四六どのゝつかひならんと。口に咥へたれたる苧を方燈にうちかけ。〓を燈して庭にくだり。門の戸をひらきつゝ〓のひかりにて照し見るに。一人は虚旡僧一人は士なれば。心中に怪ながら三之助がことといひしに。心をゆるしてまづこなたへとて内にいれぬ。
さて両人にむかひ。わらはに何の用ありて。いづくよりきたらせたまひけるやとたづねければ答ていふ。それがしは近江國松江の家臣。山中左衛門と申ものゝ家来。春瀬由良之進と申者に候と聞て尾峯大に喜び。さては由良之進どのにておはしけるか。左衛門君の旡慚の御最期御家亡びて御浪々の虚旡僧すがた。さぞかしわびしくおぼすらんと。何事もよくしりたる詞を聞て。由良之進簑作等大におどろき。その子細をたづねければ。柴朶六が三之助を助けたることをはじめとし自殺の始末。三之助が大力になりたること敵梶之助および。かしは木小君らをたづねんと都にのぼりたること。此地へうつり住て悪五郎がために旡実の罪におとされ。三之助が身の代金のためにあやうき一命を助りたること。涙をそえてものがたりければ。由良之進簑作ら柴朶六が義心を感じ尾峯が貞操を讃。由良之進も身のうへの始末くわしくかたり。さてのち三之助をとりもどすべきことの話にうつり由良之進尾峯にむかひ。百両の金子は所持すれども。外に二十両の金子は。かく浪々の身のうへにては。心やすくとゝのひがたし。おんみ何とぞ弥四六に對談なして。元金百両にて三之助君をとりもどすやうにはからひ給はれかしとたのみければ。尾峯がいふ。今ものがたりたるごとく畢竟はかの弥四六ゆゑに。あやうき命をたすかりつれば。わらはがためには恩ある人なり。その恩をも報はず。此度の一義についていくばくの金を費させんは。わらはがしのびざる所なり。渠が所望の廾両は。わらはが償ひ申べし。とはいへ斯るまづしきくらしなれば。黄金の貯ははべらねども。代なすべき一品ありとて。古き櫃のうちより銅作りの太刀をとりいだし。是は妾が夫柴朶六どのゝ重代にして。自殺したるも此劍。最期のきはの遺物なれども。義理に沈むる金の質。世にきこえたる梵字丸。二十両は心やすしと。袱子にかいくるみ。袖に抱えて立んとするを。簑作しばしとおしとゞめ。梵字丸とは聞およびたる業物。一見仕たしと。太刀を乞取。方燈のもとに膝行よりて。太刀の拵劍の作り。一目見るよりうちおどろき。抜たる太刀を刀室におさめてをみねにかへし。其太刀は餝磨六郎が家重代。是を所持めさるからは。御身は六郎が縁の御人にてはあらざるやと。いへば尾峯は涙さしぐみつゝ。夫の耻辱なれば其本名はあらはさゞりしが。かく知めすうへはせんすべなし。たゞ今御ものがたりいたしたる。柴朶六と申は則餝磨六郎どのゝなれの果にて候なり。簑作曰しからば御身は六郎どの浪々の身となりし后。渠に嫁し給ひつらん。それがしも曽根松家の浪人にて。六郎どのゝ妹深雪を妻にもちて。近しき一家の中なりしが。ゆゑあつて縁をきり。互に面會せざること十餘年。その住所さへしらざれば。御身を六郎どのゝ妻とはしるべうもあらず。絶て久しき一家の親も。此太刀故に名告あひ。六郎どのゝ義心に耻入。我過をあらためて。再むすばん一家の親。以来は縁者と思はるべしと。三人のものよろこぶことかぎりなし。
さて簑作尾峯にむかひ。かく縁者となるからはおん身が親里をも聞まほしゝ。語り給へといひければ。尾峯がいふ。おきかせ申もはづかしながら。父はいやしき百姓畠作と申もの。母の名を田結とよびて。則此地の者なりしが。美濃國にうつり。妾十一十二の二歳に双親ともに死別れ。人買に謀れて。野上のさとの〔関が原と垂井との間に有むかしは駅なり古哥多し〕一夜妻。おほくの客をむかふるうち。大力旡双の六郎どのも。思案の外の道に迷ひ水もらさじと契しに。阿曽比に買れし年季も果て。六郎どのへ嫁し候と涙脆なる袖の露。おちものこさず語りけり。簑作これを聞て不便におもひ。たのみすくなき御身のうへ。さぞこそわびしくおぼすらめ。それがし縁者となるうへは。行すゑ力となり申さん。心やすく思はるべしと。信やかにいひければ。尾峯はうれしく。かの梵字丸を再袱子にかいくるむ。由良之進これを見て歎息なし。旡念の最期の遺物といひ。家重代の此劍。金ゆゑ人手にわたすこと。草葉のかげの六郎どのへ。我々顔の向やうなし。
「簑作曰。「いはゞ些の二十両尾峯曰。「貧ほどつらきものはあらじ。はて自由ならぬ浮世なりと三人ひとしく歎息のをりから。庭の隅のかたより。「其金わしが借ませうと。立いづる若者あり。思ひがけなきことなれば。三人これはと打おどろき。知呆て詞もまじへざれば。若ものは面高にのしあがり。三人と膝をつらねて尾峯にむかひ。おん身われを見知つらんと。いふかほを。火影にすかし。おどろく胸をおししづめ。汝は横嶋悪五郎。わらはを旡実の罪におとし。事あらはれて逐電なし。再此家へしのびしは「惡五郎曰。讎を報ひに来つるかと。うたがふは理なり。聞にしのびぬ二十両。持あはせつればかし申さんと。懐中より金とりだし。尾峯が前になげあたへ。質にとるは此重代と。梵字丸を奪取て。両肌脱よと見えけるが。腹へぐつさと突立たり。人々これはと打驚立かゝるを製しつゝ。くるしげなる息をつき。我かく自殺つかまつる事。さぞかし不審におぼすらん。ひととほり聞てたべ。今夜此家にしのび入尾峯どのを縛しあげ。何方へなりともつれゆきて。壓状ずくめに口説おとし。戀暮の胸をはらさんと。最前こゝへきたりしに。戸口をかためて入がたく。いかゞはせんと思ふうち。おの/\がたの影を見て木立の茂みに身をかくし。戸口を明しはさいはひと。跡についたる闇まぎれ。簀子の下に這かゞみ。仔細のこらず聞つるが。尾峯どのゝ身のうへばなし。肝にこたえて此腹切。是見て暁給はれと。首にかけたる守袋。尾峯にわたせばかいとつて。手ばやくひらくそのうちに三重四重かさねし紙包。応永二年乙亥の五月五日暁の誕生。畠作次男。善太臍帯。と記したるは紛れもなきわらはが弟二ッのとしに生別「悪五郎曰。笠縫の里の某に。〔美濃の国赤坂の宿の南北にあり契沖は三河にありともいへり〕親しらずの養子となりしに。身持あしくて追いだされ。縣守の下司も。我身にあまる出丗なるに。其程をもわきまへず。虎の威をかる非義非道。姉ともしらず今宵しも。猿轡まで用意せしは。畜生道へ誘引ゆく。我身の因果日来の悪行。今夜初て善人となりたるは。簀子の下にて聞居しに忠義と義心と貞節と。おの/\がたのものがたり。六根五臓へしみわたり。年来の惡五郎も元の善太に立かへり姉上への申譯。餝磨家の重代にて。かく自殺仕れば。六郎どのゝ手討も同前。梵字丸の功徳にて。極樂國土へ往生なし。父上母上に對面して。でかした善太ういやつじやと。讃られたうござりますと。鬢髪乱て色變じ。おとす涙は村雨の。軒の滴に類ひけり。
姉は弟にとりすがり。のう善太にてありけるか。些二人の姉弟。年来のこひしさは。なか/\ことばにつきがたし。戀慕の闇に迷しは。御身ばかりの因果じやない。わらはもおなし因果ぞや。御身が産の母さまは。七日もたゝず。血暈といふ病にて。旡常の風のいたわしさ。其時わしは十一才。啼入そなたをだきかゝえ。こゝかしこにて貰ひ乳汁。わしが小さな懐で。夜中に啼るゝかなしさつらさ。摺糊では啼やまず。隣の子持がきゝかねて。のませてくるゝ痩乳も。男の子にはのみたらず。そのたび/\に母さまの。嘸やまよはせ給はんと。血の涙を流せしぞや。二ッのとしまで手しほにかけ。やう/\はだに負るゝころ。生別れの親しらず。弟としらず姉としらず。敵同士も因果づく。今逢て今別るゝ。わしがこゝろを推寮せよと。哽咽たるいぢらしさ。余所に見る目もあはれなり。
悪五郎。二人にむかひ。姉のことをたのみければ。由良之進涙をはらひ。煩悩即菩提と釈給へば。后の丗こそたのもしけれ。尾峯どのゝ身のうへは。我々よきにいたはるべし。心おきなく往生あれと。聞て手負がよろこぶかほ「嗟乎うれしやかたじけなや。コレあねうへ死る命を全うして。助太刀とは思ひしが。此人々のあるゆゑに。自殺と覚悟しつるなりと。次第によはるふるひ声。簑作もなみだをぬぐひ。善にも強き悪五郎どのゝ此最期。つらなる縁者の我々両人。世にあらせたく思へども。助がたき深手なれば。いかんともせんすべなし。たゞ此うへはいさぎよく。見事に腹を召れよと。す詞に気をひきたて。姉うへさらば。人々さらば。さらば/\と引まはす。其刀尖をとりなほし。吭に突立て。磨上たる玉の緒も。きれてはかなくなりにけり。
○作者曰。山中左エ門。餝磨六郎。横嶌悪五郎。三人終を同じうせるは。自編筆の拙をしれども。前に發兌の期あり。后に書肆の催促あり。〓をへだてゝ凍瘡を掻ながら。今日は何の日ぞと問ふ山妻笑て答て曰。文化巳のとし十二月十日。せんかたなく稿を脱せり。
鷲談傳竒桃花流水四之巻終
鷲談傳竒桃花流水巻之五
第十五回 没水
爰にまた栢木小君等は。地獄坂にて危き難をのがれ。からうじて逃去けるが。何國をあてと。志すかたもなければ。或深山の峨々たるに行なやみては。嵒を枕として木実に飢をしのぎ。あるひは荒磯の凛々たるに打臥ては。浪の音に夜を明し。骸は〓〓と衰て見るにかげもなく。流落のすがたいとあはれなり。
子を思ふ夜の鶴。叢の雉子はさもこそあるらめ。目をよろこばしむる花の朝。心をたのしましむる月の夕も。一日の粮乏しければ思ひを慰るかたもなく。半日の命さへおぼつかなくて。乾くひまなき血の涙。木葉衣も紅葉して。丗に山姥といふものも。かくやとこそは思はるれ。樵路にかよふ花の陰。月もろともに山を出て。やすむ重荷の旅人に。一銭の情をうけ。五百機たつる窗に立ては。枝の鴬はうしやを乞。小君が馴し乞児の業の。今さら用に立たるぞうらめしき。栢木は例の狂女なれば。我子をかへせ夫をもどせと。往来の人を追めぐれば。そりやこそ狂女がきたりつれと。里の童がつどひ来て。近よりては突倒し。遠く逃ては石を投つけ。手を打てわらはるゝ。小君が心はいかならん。狂ひ/\てこゝかしこ。呻吟ありき。三河國逢屋川のほとりにいたれり。狂女心のおちつきたるをりにやあらん。
みどり子に。逢屋の川と聞つれど。なほも行衛はしら波の音。
をりしも雨ふりいだしぬれば。路の傍なる木蔭に立て。雨のはれ間をまちけるが。往来の人も爰にはせ入て雨をしのぎけり。
人々晴間をまちわびて。さま%\の話をするを聞ば。旅の男。連に對。此雨がながくふらば。天竜川が覺束ないといへば。連の男打笑。今ふりだした雨に。一泊りも先の川留を案じやるは。余りうちこした了簡。そのやうな氣でありながら。親父が疝気持じやに。なぜ橙を植やらぬ。といふはしたしきなかの友達なるべし。田舎婆々が獨言に。背戸へ古綿をほしておいたに。あの心つかずめが取入れはしをるまいとは。おほかた嫁の事ならん。
ひとりの旅僧かたはらに立たる男にむかひ。行脚の序なれば。當所に名高き燕子花の名所をたづねんと思ひ候が。何方にて候ぞとたづねけるに。此男は此ほとりのものとおぼしく。懐中に一二冊の本をさし入。人品もいやしからず見えて。さながら物ごのみのやうに見ゆ。されば旅僧が彼名所を問るならん。男答て曰。八橋の古跡は池鯉鮒より八町ばかり東の方。牛田村といふ所の松原に石標あり。是より左へ入る事七町ばかり。そこに一堆の丘山あり。其側の凹なる。池の形の芝生をさして。燕子花のありし所と申候。其北の方に遇妻川といふ流ありて。今は土橋を架せり昔は八橋をわたせし流なりと。口碑につたえ候。かの丘山に業平塚あり。これは後人の彼物がたりによりて建しものならんと。細にをしえければ。旅僧うちよろこびて。礼をのべ又曰。かの古跡のほとりなる。旡量寺とか申に。伊勢物語の古画の繪巻物ありと聞候が。いかに見給ひしやとたづぬ。男答て曰。去物ありしやらん。今はありともきゝ候はず。伊勢物語を丗に業平の作ともいひ。又寛平の官女伊勢が作とも申。又諾冊の尊のみとのまくばひより。男女物語といふを。伊勢の二字に畧訓して。しか名づけしといふ説もあれども。清輔が袋草紙には。業平の作に一決せり。されどもかの物がたりにかける。仁和の御門芹川の行幸は。業平没後の事なれば。敢て在民の筆ともいひがたし。業平は元慶四年に薨じ給ひ。大和國在原寺に葬と世に申せども。河海抄には。吉野川にて昇仙せしやうにかきなし候と。物しりがほの問ず語を。旅僧憎がりて。業平が仙人になられんには。ちと男ぶりが好すぎ候はんと打わらへば。物しり男も薄わらひして口を閉ぬ。
松が根に腰かけたる赤親父は。馬長とおぼしく。池鯉鮒の馬市の話するが。いと声高なり。其かたはらに稚児を伴ひたる女。菓の荷ひ賣する男にむかひ。いかに江南の渡橘どの。柳下の惠太は矢矧の開帳へ行て飴を賣に。よく賣れて多くの利を得ると聞ぬ。和どのも行て菓をうり給へといふ。菓売が曰。我も一日かしこへゆきて賣つるが。いかにも参詣はおほけれども。思ふがごとくには賣もせず。草臥もうけの銭少なり。しかしさま%\の見せ物芝居ありて。慰に行んにはたのしみならん此度開帳にて銭まうけしたるは。童の力持なり。女曰其子は藤川の宿にて物持したる。鷲にとられて命助りたりといふ評判の児なりと聞しが。夫にやといふ。菓うりいかにもかの三之助なり。都より下りたる。弥四六といふもの。大金にて三之助をかゝえ。見せものにいだしたるよし。都の人は除才がないと。話するを栢木は。かくと聞より。つとはせよりて菓うりにむかひ。鷲にとられし三之助とは。戀しゆかしき愛し児なり。かへせもどせと狂ひいふ。
人々はこれを見て。こは氣ちがひよとおどろけば。小君は母をおしとゞめ。いかにもこれは物狂にて候なれば。旡礼はゆるし給はるべし。今宣ひし三之助とは。此かたにこゝろあたりの候。其住里はいづくにて候と。腰をかゞめてたづねければ。菓売がいはく。此乞児女め。人をば大に魂消させたり。小女がしほらしさに。たづぬることはをしゆべし。三之助が親は藤川のほとりなる。宮路山の麓と聞しに用事あらばかしこへたづね行といふ。猶くはしく聞まほしけれども。栢木に蹴ちらされたる菓を。拾ひあつむるがきのどくさに。強て問れもせず。うれしさに胸騒ぎて晴間をもまたず母の手をとりて。木蔭を立いでけるが。藤川の宿は東の方と聞つれば。雨にぬれつゝいそぎけり。
小君は道すがら。栢木にしか%\のよし聞せければ。狂たる心にも。我子にあはすると聞てよろこぶことかぎりなく。
【挿絵第二十四図 柏木三之助が往方を尋えて路をいそぎ過て渓川へおつるところ】
猶路をいそぎて。一ッの橋あるところにいたりぬ。あやうき橋を渡る陸人とよみし大屋川の橋なるべし。爰を過て川涯をゆきけるが。雨はます/\ふりて道あしく。日さへくれかゝりぬれば。狂女の足もとはことにさだかならず。縫いだしたる竹の根に。〓跌て。よこさまに打倒れ。泥にすべりて真逆。大屋川へぞおちいりぬ。小君はかなしき声をあげ。母さまのふとよぶ甲斐も。浪にゆられて沈みつ浮つ。ゆくへもしれずながれけり。小君はわつとこゑをたて。〓泥の中へうち臥て。絶入ばかりに見えけるが。やう/\と涙をぬぐひ。世には河伯もおはすと聞はべるに。いかなればかゝる憂目にはあはせ給ひけるぞ。月ごろ地獄坂にとらはれ居て。鬼芝に責懲られ。さま%\慙忍目にあひたるを。命にかけてしのびつるは。母さまを助いだし。由良之進にめぐりあひて。父上の敵を打。修羅の思ひをはらさせんと。思ひつめたる一念を神もあはれとおぼしてや。摩利支天の御蔭にて。危命助りて。爰かしこさまよひありき。今日はからずも三之助が。生て此丗にありしと聞。母さまのうれしみ給ひしは。今目の先にあるやうなり。月ごろの血の涙も。今日のうれしき涙にて。洒んと思ひつるに。此川のもくづとなり。死顔さへも見られぬとは。よく/\薄き親子の縁。いかなる前世の惡業ぞや。今思ひあはすれば。いつになき母人の口ずさみ。「みどり子にあふやの川ときゝつれど。なほも行衞は白浪の音とのたまひしは。此白浪ときえ給ふ。前表にてありけるか。是がいまはの形見ぞと。泥に印せし足跡に。額をつけて哭しづみ。むせかへりたる不便さは詞にはいひがたし。
小君はやう/\涙をはらひ。暇令三之助が在家をば聞つるとも。物狂の母人を。淵川へおとせしと。人に顔があはさるべきか。今まで迷ひありきしごとく。死出の山。三途の川も母人ともろともに。おなじ闇路をともなはゞ。なか/\うれしくあるべしと。母の落たるところより南旡あみだぶつと唱つゝ。瀬枕たかき川中へ。身を飛せんとなしつるをりしも。思ひがけなき後より。やれまち給へと声かけて。帶を此丗の力草。ちりかゝりたる撫子の。露の命をつなぎとめけり。
第十六回 竒遇
是はさておき爰に又。由良之進簑作等は。百両にかの二十両をくはへて三之助をとりもどし。よろこぶことかぎりなく。今夜は善太が〔惡五郎が事〕初七日の待夜なれば。里人をあつめて心ばかりの仏事をいとなみ。事はてゝみな/\立皈りければ。みの作由良之進に對ひ。三之助君はとたづねければ。由良之進薄笑ひし。大力になられてから。心までが大勇に。里人等がうちよりて。飲食する騒しさも。空耳に聞なして。納戸のうちにて大の字なり。うちかけしものまでも。踏脱給ひし寝相のわろさ。小気味のよい肥太やう。丗になき人と思ひしに。かく健な姿容を見るも。柴朶六どのゝ情。ふたつには今夜の仏善太が義心の金ゆゑなり。これにつけても御二人は。いづくの浦におはすやらん。地獄坂にて御別れ申。今におゆくへしれざるは。生死のほどもおぼつかなしと。涙さしぐむ兄の顔。簑作側から気を励し。今さらいふてかへらぬ繰言。初七日の仏事もをはりつれば。僕ひとまづ故郷へ皈り。路金の用意つかまつり。再東國へくだり。敵の在家御二方のゆくへ。草をわけてもたづぬべし。夫はそれにいたせ。尾峯どのゝ墓参り。黄昏にはもどらるゝといはれしに。かへりのおそきはいぶかしゝと。かい立て簑作が。燈火うつす方燈の。かげごと言つるをりからに。戸口を明て皈り来し。尾峯があとよりひとりの小女。二人は見るよりうちおどろき。思ひかけざる小君さま。こは夢なるか寤かと。とりすがりたる顔を見て。「ャァ御身は由良之進。一人は弟の簑作なるか。こはそもいかにと主従が。つきぬ縁にめぐりあふ。そのうれしさやいかならん。三之助にもあはせければ。兄弟手に手をとりかはし。なくよりほかのことぞなき。
尾峯はこれを見て膝をうち。さてはおんものがたりに聞およびたる。小君ぎみにておはしけるか。それともしらず善太が墓まゐりのかへるさ。あやうき御命を助けたりと。しか%\のよし物語れば。由良之進みの作等。大に喜び。姉君は尾峯どの。弟君は柴朶六どの。二ッの命をたすけられしは。よく/\ふかき縁ならんと。小君を中に左右より。母の事をたづねければ。小君は何と返答も。さしつまりたる鳩尾へ刃を刺るゝ思ひにて。気をとりつめて悶絶なし。うんとのつけにそりかへり。顔の色もかはりければ。人々周章て懐おこし。由良之進が腰さげに。貯へ持し気付さへ。歯を関てとほらざれば。尾峯は厨にはせゆきて。木〓の水を口に含み。面上へ吹かけて。三人ひとしく声をあげ。小君さま/\/\。心をたしかにすえ給へ。小君さまい。のふ/\と。呼声あたりへ聞えければ。小君をよぶはたれ人ぞと。明ておきたる門口より。つとはせ入しすがたを見れば。水に濡たるあやしの女。よく/\見れば栢木なれば。二人は夢に夢見しごとく。こは栢木君にておはしけるかと手をとりて座につくれば。三之助はかけよりて。母さまなつかしうござりますと。いふ顔一目みだれがみ。乱れ心の栢木も「唯々三之助か。とばかりにて。横にかゝえて膝にのせ。親子二人がいだきあひ。声をとゝのへてぞ哭れける。かゝる閑に尾峯は小君をよび活し。さま%\にいたわりければ。やう/\に正氣となり。旡恙母を見て。かぎりなく喜びぬ。
かゝるをりしも四五人の男ども。たしかにこゝなり/\と。庭のうちにこみいりて。明松てらして物をたづぬる体なれば。由良之進大にあやしみ。何ごとなるぞと問つるに。いぶかり給ふはことわりなり。我々は網瀬村の漁師なるが。この日ぐれ大屋川にて水におちたる女をたすけ。所はいづくとたづぬれども。気ちがひと見えていふこともさだかならず。いづくの人ともしれざれば。村長どのへつれゆかんと。かしこの道をとほりしに。足をそらに駈いだし。雨はふる闇さはくらし。かいくれゆくへのしれざれば。女と見ゆる足跡をしたひて爰へ来ましたと。いへば側から一人の男。あれ/\かしこに気ちがひ女。さては此家にゆかりあるもの。「由良之進いはるゝごとくかのお方は。其が御主人今日途中にて雨にあひ。泥に滑りて入水のよし。不思議の命を助りしも。おの/\方の御情。ゆる/\おれいも申たし。まづ/\こなたへ入給へと。いへば漁師が口々に此潮さきに閑どつて。居られふや役介者をわたすうへは。礼はかさねてうけませう。皆のしゆござれと打つれて。危き命たすけしを恩とも思はぬ漁師ども。心は水のごとくなり。
栢木やう/\に顔をあげ。三之助を膝よりおろして傍にをらしめ。由良之進に打對ひ。妾三之助に別てより。悲歎に迫おのづから心乱べきやと思ひつるに。夫左衛門どのゝ自殺ときゝしよりのちは。すべて寤のごとくなりしに。三之助にめぐりあひて。はじめて夢のさめたるにひとしく。再本心に立かへれり。三之助をはじめ
【挿絵第二十五図 柏木三之助親子再会の図】
汝等此家にあること。さだめてふかきゆゑあらん。語りきかせよと言語たゞしくいひければ。人々此体を見て。そのよろこびいふもさらなり。主従四人みの作尾峯。さま%\の難をのがれ。おの/\あやうき一命をたすかりて。六人一家に集ること。類ひまれなる竒遇なり。
第十七回 窺栖
星合梶之助照連は。某の判官に内通なし。主家を亡して莫大の恩賞を得。其勢に乗じて再大望を企んとはかりしに。煌々たる天鏡に照されて。悪事忽にあらはれ。近江國を逐電なせしが。秋季どのより都へ訴へ。人形をもつてせんぎ嚴しければ。こゝかしこへ身をかくして。三河國某の郡。岩巻山に住。山賊の魁首となりて在ふるほどに。爰より尾峯が所へは僅に七八里ばかりを隔つれば。手下のものども由良之進等が事を聞いだし。しか%\のよし告ければ。梶之助かの牛平をちかくめしよせ。由良之進等我を敵とつけねらふよし。手下の奴等がしらせつれば。打捨ておきがたし。明日の夜手下を引具して。渠等が住家へおしよせ。鏖にせんと思へば。汝今夜彼所へ行。竊に其地理をうかゞひ来るべし。外に一ッの所用あり。形を馬長に打扮て。一人の小賊をしたがへ。知立の馬市に至て。我乗料の駿足をもとめ。馬は小賊にひかせて先へ皈し。汝は夜に入てかしこへしのぶべしとて金子をわたしければ。牛平命をうけて座を立つるに。梶之助再牛平をよびとゞめ。今宵の事は我身にあづかる一義なれば。例の酒に仕損じすな。木鼠の六。小猿の八等は。間謀に名を得しものどもなれども。由良之進等が面を見しらざれば用ひがたし。汝鳥の巣をよく嗅きたれと命じければ。牛平こゝろえて小賊を隨へ山をくだりてまづ知立へぞいそぎける。
扨行ほどに。二里あまり来りて一ッの村にいたり。酒店の前を過けるが。一人の客床机に腰をかけ茶碗に酒を浪々とうけ。ごぼ/\と飲を見て。酒好の牛平口に咥をひき。しり目にかけて通りつるが。立とゞまりて小賊にむかひ。これよりゆくさきは二里あまりの廣野にて。憇べき茶店もなければ。此所にて一杯を喫すべしと。うちつれて酒店に入。馬を買べき大金をもちたれば。おのづから心驕りて。美酒佳〓を命じ。両人うちむかひて。献つ酬つしたゝかに飲ければ。大に沈酔なし。足もとも浪々として酒店を立いで。かの廣野にさしかゝりけるが。一すぢの徑も三すぢ四すぢに見えて。足の蹈所もさだかならず。両人芝生に倒れ臥し。高〓して寐入けり。
かくてやゝときうつり。日まつたく暮て夜風に酔を吹さまされ。かの小賊突然と身をおこし四邊を見て大におどろき。牛平を呼おこしければ。牛平も打おどろき。小賊にむかひ。かく時をうつして夜にも入ぬれば。馬市もをはりつらん。馬を率ずして山にかへらば。魁首が例の榜笞を喰ふべし。我最前かの酒店が馬房に肥馬をつなぎたるを見ておきたり。汝かしこにしのびいり。馬を盗みてひきかへり。知立にて買たりといつわるべし。榜を喰ざるのみならず。馬の價の此金は。我と汝と馬の脊わりに分つべしと甘き話に乗がきて。駈いだしたる膝栗毛。酒店をさしていそぎけり。
牛平は小流の水を掬して醉ざめの渇を医し。裾鶴脛にかゝげ。路をいそぐほどに。初更のころ尾峯が家にいたり透垣を潜て戸口のもとにしのびより。戸の隙間より覗見るに。由良之進燈火のもとに坐し。ほかに人影も見えざれば。牛平思ふやう。我由良之進を打とり奴が首を魁首に見せ。褒美にあづかり。間謀の名人なりと讃られし。木鼠小猿等が鼻をひしぐべしと。腰の刀を抜放て後手にかくしもち。戸口あらゝかに打敲き。村長よりの急用なり。此品をうけとり給へ。はやく/\とよばゝりければ。由良之進思へらく。鎖たる柴門をこそ敲べけれ。戸口をはげしくうちたゝくはいぶかしき舉動なり。此ほど岩巻山に強盗ありて。悪行をなすと聞ぬ。油断すべきにあらずと。まづ答て「今に明申さんまち給へといひつゝ。業物の刀尖に簑をつらぬき。戸ぐちをあけてさしいだせば。まちまうけたる拝打。簑をばつさりきりおとしぬ。扨こそ曲者ごさんなれと。外の方にをどりいで。又きりつくるを月かげに。心得たりと身をかはせ。弱腰礑と蹴倒しつゝ。起しもたてずおさへつけ。曲者を生捕たり。みの作来れとよばゝりければ。納戸のうちより走り出。縄を/\と呼声に。物かけ竿に古びたる。縄を手ばやくかいとつて。かしこにはせつけ高手小手にぞいましめける。
扨曲者を庭に引すゑ。〓を燈して曲者が面を見れば。豈はからんや梶之助が草履つかみの牛平なれば。手を打て大に喜び。栢木。三之助小君等も納戸より立いでゝ打驚ぬ。由良之進牛平にむかひ。汝此に来りて虎の髯を捻は一定梶之助が犬なるべし。在体に白状せば。一命は助くべし。もし白状せざるにおひては。汝をもつて梶之助に準へ栢木どの。尾峯ぬしは夫の讎。姉上乙どのゝためには親の敵。簑作は妹の恨。我はもとより主人の讎敵。一太刀づゝなぶり斬に呵嘖。身を賽目に刻べし。白状せんや身を刻れんや。とく/\返答仕れと。氷の如き業物を面前にさしつくれば。牛平これを見て。面を顰身を縮め「吁申ます/\。命惜ければこそ慾もすれ。何事も命が物種。梶どのゝ悪事の次第。のこらずおきかせ申すべしと。鵲を手討にせし事。地藏坂の悪計。柴朶六を遠矢にかけし事ども。落ものこさず語りけり。由良之進猶梶之助が栖家をたづね。岩巻山の案内をくわしくきゝて。牛平をば空房のうちに繋ぎおきぬ。これはいかにとなればもし梶之助をとりにがさば。牛平をもつて證人となし。近江にかへりて左衛門が旡実の罪に自殺せしを秋季どのへ聞え上主家を起さん心となん。並々の者ならんには。一時の怒に乗じて。牛平が首を刎べきに。由良之進は実に思慮ふかき忠臣なり。
かくて簑作と計りて。岩巻山に打入んと思へども。あまたの手下ありと聞て。素脱にてはおぼつかなく。牛平が所持なしたる金子あれども。私に用うべきにあらずと。渠に借うけ。此金を以て鎖帷子〓〓楯の類。十分に調ひければ。次の夜由良之進みの作等三之助にしたがひて。おの/\堅固に身をかため。岩巻山の麓にいたりしに。時すでに三更の頃なりけり。牛平が告るによりて。かねてもうけし謀ごとなれば。ふもとに酒店をひらきて梶之助が目代となり。旅人等が荷物懐中を窺者の家に放火しければ。案に違はず山上の賊ども。火をすくはんと大勢山をくだりけり。
由良之進等は賊どもを十分に偽引いだし。放火の光に路をもとめて。かねて聞たる間道より〓り。三之助先にすゝみて。大斧をもつて柵門を打やぶり。名のりかけ/\。叫呼で斬ていれば。小賊等不意をうたれて狼狽なし。太刀よ矛よと騒ぐ中へ。かねて用意の投明松をなげちらし。光りのしたより三人が。從横旡尽にきつてまはれば。討るゝ者数をしらず。三之助は幼年なれども餝磨六郎が武勇をうけつぎたれば。膽氣烈しくはせまはり。大斧を電光のごとくひらめかして。四角八面に切散す。
【挿絵第二十六図 山中三之助復讎之図】
彼木鼠の六郎。小猿の八郎等は。梶之助が股肱とたのむ賊等なれば。名のりをあげてはせむかひ。小童めを逃すなと。二人ひとしく斬つくる。こゝろえたりと身をかはせば。力あまつて前の方。よろめく襟首かい掴で。三間ばかり投わたせば。岩角に頭を打つけ。朱になりてのたれ臥す。三之助から/\と打笑。小猿が面は真赤な。木鼠ものがすまじと。腰を取て引倒。うんとひと声蹈ひしがれ。眼玉飛出し形勢は。地獄おとしのごとくにて。木鼠の八郎には。似あはしかりける最期なり。
小賊どもこれを見て。扨も竒異なる童かな。人間業にはよもあらじ。小天狗の化身ならん。とても敵對かなふまじと。頭をかゝえて逃散けり。三人は猶奥深く馳入。梶之助をたづねけるが。行方更にしれざれば。さては逃さりけるならん。かくまでこゝろをくだきしに。こは残念や口おしやと。三人顔を見あはせて。旡念の涙はら/\/\。かゝる油断を見すまして。天井より飛くだり。詞もまじへず斬てかゝる。由良之進こゑをかけ「ャァ汝は星合梶之助。身の悪事はおぼえあらん。糸どのぬかり給ふなと。詞の下より三之助。唯々合点じや太刀をひけ。手捕にせんと勇立。斧をからりと投捨て。鶴にとびつく〓の。はやくも〓をかい潜り。帶を掴でふりまはし。庭の大地へ投すへたり。おこしも立ず左右より。忠臣義心の両人が。襟首壓てはたらかせず。高手小手にぞいましめける。実こゝちよき形勢なり。此時いづくともなく鵲一羽飛きたり。梶之助が頭の上を舞めぐり。月下にこゝちよき音をはつし。身より光をはなちて。西方へとびさりけり。おもふにこれはかの鵲が怨魂鳥と化して爰にきたり。恨をはらして浄土の往生をとげけるなるべし。かくて三人は薄手もおはず。年来の本望をたつし。よろこぶことかぎりなく。簑作一疋の馬をひききたりて。三之助を
【挿絵第二十七図「其二圖」 當場扮作丑生姿惡貌 美心相見知天地従来 如雜劇丗營一齣介 無私醒々斎主人題 [山][東]】
のらしめ。梶之助を引立三之助が大斧をうちかたげて。馬の左にしたがへば由良之進は木鼠小猿等が首を刀尖につらぬきて。右の方に付添けり。三之助は二人の英雄を馬の左右にしたがへ。手綱かいくりつゝ麓をさしてうたせけるは。遖勇々しき武者ぶりなり。
第十八回 迎福
去程に人々は。尾峯が家に皈着ける。時ははや夜も明ぬれば。由良之進事の仔細を一通の書面に記し。縣令の官邸にいたり呈しければ。縣守みづからいでゝ由良之進に對面し忠義の程を賞讃なし。両人の生捕を本國へ引給ふにつき警固の人夫を借との御所望いと安事に候。士卒はいかほども貸申さん。心おきなく召具し給へ。かの賊どもは発足のみぎりまでは。邸中の獄屋に繋おき申さんと。いとねんごろにいひければ。由良之進禮をのべ。詞にまかせて梶之助牛平を獄にくだしおき。心しづかに旅よそほひをとゝのへ。尾峯をも伴ひて。すべて六人のものすでに発足の日限にいたりぬれば。縣守より二人の賊等を囚車にのせ。あまたの武士をしたがへて。これを護らせ。旭とともに村中を発しければ。近郷の諸人集ひきたりて。肩を並べ袖をつらね押凝立て見物す。
かくて日あらずして近江にいたり。由良之進が願書に縣守よりの添文を加へて。松江の舘に呈しければ。秋季殿二通の書を披見あられて。且喜び且おどろき。時をうつさず六人の者をめしいだして。再事の仔細をたづねられければ。由良之進梶之助が片袖。ならびに苗字を記たる服紗。柴朶六を射殺たる姓名を〓つけし矢の根等をさしいだし。左衛門が旡実の罪を言訳ければ。牛平が白状といひ。掲焉の證拠あれば。事明白にわかち。縣守へは謝礼の返書に使者をそえ。警固の武士どもをば重く賞じて皈國せしめけり。
偖主從の願にまかせ。領所の廣場に一町四面の柵欄をゆはせ。警固の武士甲乙を守り。三之助をはじめ。栢木小君を合手とし。由良之進簑作を助太刀とさだめ。梶之助を獄舎より引いだして。復讐の勝負を行せけるに。三之助梶之助にわたり合。二太刀。三太刀うちあひしが。何の苦もなく提首にして立上りければ。見物の諸人したり/\と讃こゑ。しばらく鳴はやまざりけり。
秋季どの大によろこび。此日牛平をも刑戮せしめ。次の日六人の者に礼服をつけさせて。改て對面なし。三之助には本領安堵のうへおほくの加恩を給はり。由良之進をば直参に召いだし給はんとありけるに。固辞しければ。もとのごとく山中が長臣として。別に秋季殿より食禄を給はり。由良之進が代なりとて。弟簑作を直参となし玉ひぬ。のちに由良之進が願にて。餝麓の苗字を名告せ。六郎が家をつがせけるとぞ。小君はことさら至孝なりとて。黄金百枚に化粧田五十町を給はる。栢木尾峯等をも褒美し給ひ。左エ門が廢舘に修理をくはえて返し給ひければ。三之助等もとのごとく移住。賀客門前に市をなして。美名を遠名に輝せり。
かくてのちかの國字寺に於て。左エ門および柴朶六鵲等が追福をいとなみけるが。此日栢木尾峯仏前に於て剃髪し。仏月禅師の徒弟となり。栢木を栢樹尼とよび。尾峯を峯月と名づけ。勝地に庵をむすびて行ひすましけり。峯月尼は後年故郷に皈てか。矢矧川のほとりに移り住。九十余才にして正覚の終をとれり。西矢矧東の山手に墓あり。丗にこれを美婦塚といふ。峯月尼が尾峯といひし時住たる。宮路山のふもとを。山中三之助が出丗の地なりとて。後人
【挿絵第二十八図 山中一家再松江家へ皈参の圖 千祥萬禎】
山中里とよびならはせり。尭孝師の『富士日記』にも。〔富士日記は永亨四年足利義教公の命によりて作れり〕
旅衣たつきなしともおもほへず 民も賑ふ山中の里
されば悪人亡びて善人栄へ。山中一家の者目出度春をむかへけり。これ則忠肝孝胸の明徳。天理の昭影たるに相てらして。かゝる幸の時にはあひけるならん。詞いやしく書ざまつたなきものがたり書といへども。竹馬に鞭をあぐる童べ。花間に草を摘小女等。春雨のつれ%\。秋の夜長のなぐさめに。一度巻を繙て。丗教のはしくれともならば。作者の幸もつとも甚しからん。
鷲談傳竒桃花流水巻之五 大尾
此書。はじめの一巻は。文化五年辰の春三月初六に筆を起して。事のひま/\に記しつれば。五月中の五日に。稿を脱せり。残る四まきは。今年巳の冬十月末の八日より筆をとりて。十二月九日に編しをはれり。かゝるせわしきすさみなれば。一編の趣味商量するに遑あらず。窗前に陰を惜みて。燈下に夜を更し。庭の松風さつ/\とつゞり侍れば。おもひあまりて言葉たらざる処もいとおほかりなん。冬の日の短き才をもて作り著たる書の。春の日の永くつたはるもの。一二部はありもやする。そはなか/\の耻なるべしと。筆のついでに。ものし侍りぬ。山東京山識 [京][山]
京山先醒は。京伝先醒の令弟なり。彫蟲詩画の技を挟で。文場に遊ぶ事。茲に歳あり。近来螢窗の暇。稗史を編して。筆を湖上の流に洒ぐ。本編填詞の如は。耳目玩好の書に屬するといへども。竊に。打悪釣善の詞を交つれば。児曹の觀に具するとも。實に妨なしといわん。先醒。姓は岩瀬。名は。凌寒。字鐡梅。一字京山。山東と稱するものは。戯編の假姓のみ。その堂を鐡筆といひ。その居を方半とよぶ。其家は江戸日本橋第四街東へ折する小巷にあり。
詩事 天山老人識 [天山]
江戸 山東京山填詞
歌川豊廣畫圖
筆耕 橋本徳瓶
剞〓 七人敢不贅
小櫻姫風月竒觀 山東京山編次 歌川國貞画圖 前編全四冊出版
名画縁雪姫物語 山東京山編次 全部六冊近刻 近刻
北越雪中図會 全五冊 山東京山著并藏版
此書は作者雪中に北越にありて作れり雪中熊をとる図説雪中に生ずる竒虫異花ノるい雪中ちゞみをさらす図説雪車〓〓雪帽の図るいかの地雪のふりはじめよりゆきのとくるまでの事さま%\の竒談をしるせり
白水先生口授 近刻 産婦やしなひ草 全二冊 山東京山述并藏版
此書は産婦の身もち食物のさし合ものにつまづきころびたる時腹のもみやう産ぜん産ごのこゝろえくわいたいのうちより男女をしる傳子をもうくる方すべて産婦にかゝはりたる事をしるせり産婦ある家にはなくて叶はぬ書なり
京傳商物報條 きれ地并にかみたばこ入當年は別てめづらしき新がた風流なる雅品あまた仕入仕候相かはらず御もとめ可被下候 讀書丸〔一トツヽミ壱匁五分〕第一きこんのくすりものおぼえをよくす心腎のきよそんを補ふ老若男女つねに身をつかはずかへつて心を労する人用てよし 極製きおう丸 大極上々の薬品を用ひのりをいれずしてくまのゐにて丸ず功のうかくべつなり ○京傳京山自画賛あふぎはりまぜるいたんざく
京山篆刻 水晶印一字十匁銅印一字五匁ろう石一字〔白字五分朱ゝ七分〕
古てい近てい好にまかす値をさだめてもとめやすからしむ
赤穂名産 花鹽 折づめ箱いり御進物向しな%\梅さくらの形そのほかさま%\のかたちにつくりて見てもうるはしき雅品なり 江戸京橋鈴木町 山名屋武七
文化七年庚午歳正月 發兌
江戸書肆 前川弥兵衛 丸山佐兵衛 仝梓
[筆硯萬福大吉日利] 筆硯萬福大吉日利