『鷲談傳奇桃下流水』−解題と翻刻−

高 木  元 

【解題】

 本作は、文化六年十一月二十二日に出板された『小櫻姫風月奇観』に続いて、文化七年正月二十七日に出板されたものである。巻五の巻末に付された跋文に拠れば、文化五年三月六日に起稿し五月十五日に巻一を脱稿していたが、残りの四巻は翌文化六年十月二十八日から十二月九日に仕上げたとあるから、実際に書き始められたのは本作の方が先立ったようである。
 どのような事情で一年半も放置されていたのかは不明ではあるが、文化五年から六年に掛けては大量の草双紙の執筆を行っていたことは間違いない。どういう勘定に成っているのか分からない点もあるが「文化五年京山作十七部之一」とか「文化巳春京山作十種之一」などと標榜して多作を誇っている。デビュー直後の草双紙作者としては異例の多作といわざるを得ない。たとえば、文化六年刊の合巻『千本桜祇園守護』の序文に「文化五年戊辰秋七月草稿成」とあるように、執筆時期を明らかにしている草双紙も多く、その驚くべき執筆速度が知れる。
 この文化期半ばは、江戸読本の刊行にとっても絶頂期であり、京山に対しても早くから板元である貸本屋からの執筆依頼があった。序文の「観竹堂得刻之」という行文や、本書の口絵に掲げられた「師宣の図」に関する説明に「此書を著述する縁で観竹堂より贈られた」と書いていることから、観竹堂すなわち上州屋仲右衛門からの執筆依頼があったものと推測できるのである。ところが、実際に本書を刊行したのは、刊記から了解できるように栄山堂(丸山佐兵衛)であった。双方ともほとんど出板実績のない本屋であるが、井上隆明『改訂増補・近世書林板元総覧』(青裳堂書店)に拠れば、栄山堂は本書しか出していないのである。
 そこで『享保以後・江戸出版書目』を見ると「文化七午年正月廿七日廻し割印 去冬行事 同前」「同六巳年十二月掛改済/鷲談傳竒・桃花流水 全五冊 山東京山作/哥川豊広画 板元売出し 前川弥兵衛/同百廿五丁」とあり、『外題作者画工書肆名目集』には「鷲談傳竒・桃茂(ママ)流水 五冊 京山作/豊広画 前川弥兵衛/午正月廿二日校本廻ル正月廿五日上本/廻ル廿七日売出し 十一月十九日廻ル」とあるように、書物問屋として出願をした前川弥兵衛の名前しか見られない。実は、この前川弥兵衛は『小桜姫風月奇観』の出願板元でもあり、京山作の読本を前後して二作出願したことになる。しかし、本書では見返に盛文堂(前川弥兵衛)・栄山堂と蔵版元を並べて書き、刊記にも「仝梓」としており、単なる出願書肆ではなく相板元と成っている点に注意が惹かれる。つまり、観竹堂から栄山堂への板元の移動、そして彼等貸本屋と書物問屋である前川弥兵衛との関係が、本書の執筆が一年半放置されていたことと無関係であるとは考えにくいのであるが、今はこれ以上の詮索はできない。
 ついでながら、本書の巻一と二のみには『小桜姫風月奇観』と同様に句読点がほとんど施されていない。しかし、不審なことに巻三以下は一般的な読本と同様に句読点の区別無く白点が打たれている。執筆時期の問題とは直接関係ないと思われるが、翻刻本文からは分からない点なので一応記しておくことにする。
 さて、本書には本格的な作品論として、津田眞弓「山東京山読本考−『鷲談伝奇桃花流水』をめぐって−」(『日本女子大学大学院文学研究科紀要』二、一九九六年三月)が備わっている。序文自体が京山のあげつらった蒋士銓の戯曲『雪中人』の「填詞自序」に擬して書かれていることを指摘し、明示された典拠である三好松洛・竹田小出雲合作の浄瑠璃『花衣いろは縁起』と登場人物とその形象に着目した詳細な比較検討を通じて、勧善懲悪を徹底した武家の敵討物語として再構成していることを指摘し、京山の心底に去来する理想的な武士に対する憧憬を読みとっている。
一方、京山の文学史上の位置に関する示唆に富む論考として、内田保廣「『不才』の作家−山東京山試論−」(『近世文学論叢』明治書院)がある。氏は「不才」であると繰り返し公言して憚らなかった京山の作家としての意識を、「書肆が主導して、出版が行われていた当時の、作者の位置とそこに形成された」ものとし、商業出版の確立にともなって量産を強いられる作者にとって、作品構成力の不足という欠陥、すなわち京山のいうところの「不才」は、彼の作品にとって大きな障害ではなかったと結論付ける。その具体例として本書の左衛門、飾磨、横島の三人が同じように切腹して死ぬという同一趣向が繰り返される点を挙げ、また鷲にさらわれた三之助について「三之助のゆくへは三之巻にくはしくしるす」と予告していることに関して、読者の読み方を筋の展開ではなくてプロセスの方へ誘導するための方法であると指摘する。さらに、柏木と小君を捕らえた女非人達の描写が、主筋の展開とは無関係であるにも関わらず、三回分も延々と続けられた上で、唐突に登場する摩利支天の化身と見られる猪によって救われる点を挙げ、見せ場と全体の展開が遊離してしまってる形は読本には不向きであったが、長編合巻にとっては場面の描写で短期的に読者の興味を引くこの方法(オムニバス)が有効であったと説いている。

【書誌】

活字本表紙  活字本刊記 活字本刊記
『山中三之助復讐美談・鷲談傳桃下流水』(明治十八年、菱花堂)

【表紙】

表紙

鷲談傳奇/巻之一(〜五)

【見返】

見返・序

山東嵒京山 填詞[京山先生三種曲之一]/鷲談傳奇・桃花流水/歌川豊廣畫圖・文化庚午新譜・書舗 盛文堂・榮山堂

【自序】
自序 [橋坐山東]
戊辰の春墨水觀花之次(ついで)。友人柳菴綾瀬別業を過ぐ。飲漱六水閣。對岸の桃花爛燦にして錦の如し。柳菴と分韻。詩興最も濃也。偶元遺山集本を見る。中に劇冊一本夾刺有り。予曰く主人何等不風流。蒹葭と玉樹と同一架。柳庵劇本を採て予に示して曰く。此書劇詞場中為翹楚者。竹田出雲作する所の花衣篇たり。蓋し駕國史所載鷲攫良辨話作之。清人蒋士銓於鐡丐傳。與編雪中人傳奇相類也。千穐之佳話。慰十載之遐思。請試讀之。於斯乎倚欄干。酔眼を開きて之を読む。間妙句有り。覚えず全部を終ぬ。天色竟に晩れ。歩月帰家。此夕兀坐。意有所觸。構局成編。遂に一齣を作り夜達曙人事雑還。小暇書之。三十七日を越え稿脱す。題して曰く鷲談傳奇桃花流水と。以似柳菴。觀竹堂得て之を刻し。遂に出雲之徒と。其流を同す。
刻成り之れに序す。文化戊辰歳立秋日也。 山東嵒京山撰 [京山][仙杳]


題

書画舫
爲 京山詞宗[月松風艸]
筆歌墨舞 〓小影[戯印小影]

画賛

[石斎] 讀桃花流水三首
巾〓綱常事可風 筆花涙染桃花紅 偶然讀到詼諧處 天籟嘘々入耳中
詞苑曾推若士湯 南安梦境太荒唐 不傳梅柳傳桃李 壓倒風流玉茗堂
意蕊情絲細品量 桃花流水有餘香 頭廳間袖三長手 却與春光作主張
 戊辰春 空谷樵者草 [正雅]

[片玉]
春塘〓鞭過于
空谷主人之山舘
偶見讀桃花流水
作予亦戲作此圖合
與京山氏 酔僊[酔][仙]

画賛

此書脱稿後辱 両公子之雙絶藏篋際怕
冒帋魚拘卷首以似 大方清鑒
 文化戊辰三月 京山陳人[京山]

 題家弟京山新作[艸一枝復意華]
橋北墨花初競奇 堪慚燈下作篇遅
閑窗春雨生眠日 寒室秋宵結悶時
展覧偏憐忠義志 沈唯深悪姦曲姿
熟耳嬰児知風路 自異爺娘童話痴
 醒々齋京傳[田蔵][山東]

師宣

日本繪 菱川師宣圖[師宣]
風の柳の吹まゝにさそふ水あらはと聞へしは恨かちなる世の中の人の心をくみてしる淺草川のはやきおふねはうはきの波にうちまかせまつち山の松の嵐にその夜の夢をさまさせわかれぢのさう/\しさ首尾といふ字のうつゝなさせいもん/\らちもみたれてひと花心へにくひ事きいたよすかもそれも御身のたのしみならはよしそれとてもへ

右に著す師宣の図は淡彩の絹幅なり此書を刻する觀竹堂市に購得たりとて予に贈れり圖中に題したる文は三浦屋の小紫といふ阿曾比の作れる萓草といふ小歌なる事洞房語園に見ゆ家兄京傳翁の家藏に小紫の短尺ありその運筆此書に相似たり師宣は小紫と時を同うせしものなれば此題辭は小紫の書なるべくおぼゆめり
藻の花や繪にかきわけてさそふ水と晋子の讃せしもこの阿曾比なるべしおのれ此書を著述せる縁によりて得たる一軸なれば縮書してこゝに掲つ好事家の一觀に具するのみ 酔々子識之[京山]

口絵

秋季(あきとし)の内君(うちぎみ)(はな)の方(かた)一子氏王丸(うちわうまる)志賀里(しがのさと)花見(はなみ)の図(づ)
山桜花の下風吹にけり 木のもとことの雪のむらきへ

口絵

 [山東]
桃文稱辟惡
桑表質初生
  [京山]
○山中(やまなか)左衞門(さゑもん)正當(まさはる)

雪瓜星眸世所稀
摩天専待振毛衣
    [石斎]
山中(やまなか)左衞門(さゑもんの)一子(いつし)三之助(さんのすけ)

口絵

地獄坂(ぢごくざか)の女非人(をんなひにん) 鬼芝(おにしば)
 [山東]
旧曲聽来猶有
恨故園皈去却
無 [京山]

星合(ほしあい)梶之輔(かぢのすけ)照連(てるつら)
[文齋]
十年磨一劍
霜刄未嘗試
今日把示君
誰爲不平事
 [石華]

口絵

(むすめ)小姫(こひめ)
山中(やまなか)左衞門(さゑもん)(の)(つま)栢木(かしはぎ)
[酉弐]
生別死愁一夜来芳心明意
去難回霜風破却満樹泥〓
染鬆面置苔
 酔々軒主人題 [京山]

山中(やまなか)左衞門(さゑもんの)家〓(けらい)
春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)
[酉弐]
忠骨孝肝鐡石心
家無四壁不貧獨
飛動鴻鵠志意風
裏劍光斬冦人知
 酔々子題 [京山][橋坐山東]

口絵

[石齋]
萬般物象皆能鑒
一箇人心不可明
  [京山]
頑婦(ぐはんふ)眞弓(まゆみ)(の)(かた)
 [山東]
薪和埜花採
歩帯山詞唱 [京山]
由良之進(ゆらのしんの)家弟(をとゝ)簑作(みのさく)

口絵

[山東]
眉黛奪将萱草色
紅裙妬殺石榴花
 [京山]
山中三之助 再出
五月雨(さみだれ)の小督(こがう)

山樵(やまかつ)枝朶六(しだろく)
[酉弐]
誰愛風流高格調
共憐時丗儉梳粧
 [京山]
深雪(みゆき)

再識・目録

僕自幼嗜〓印章。凡銀銅牙角玉石随材奏刀。嘗挟此技一遊文場已久矣。今欲售此技以充楮墨之費。然則不復属閑巧夫。茲定工價。開欸于巻尾。願 諸君賜顧者。嗣索拙作榮幸々々。統乞垂鑒。
 文化戊辰夏五 山東京山[京山]欽白

僕幼き自り嗜て印章を〓す。凡そ銀銅牙角玉石材に随て奏刀す。嘗て此の技を挟で文場に遊ぶこと已に久し。今此の技を售て以て楮墨の費に充んと欲す。然は則ち復閑巧夫(ムダビマ)に属さず。茲に工價を定めて。巻尾に開欸す。願は 諸君賜顧の者。嗣て拙作を索めば榮幸々々。統て垂鑒を乞ふ。
 文化戊辰夏五 山東京山[京山]欽白

鷲談傳竒桃花流水目録
 巻之一
壽筵(じゆえん) 失兒(こをうしのふ) 飛劍(けんをとばす)
 巻之二
臥劍(けんにふす) 顛狂(てんきやう) 鳴琴(めいきん)
 巻之三
乞銭(ぜにをこふ) 神護(じんご) 義樵(きせう) 血戰(けつせん)
 巻之四
幽栖(ゆうせい) 〓金(かねをひらふ) 熱閙(にぎはい) 義漢(ぎかん)
 巻之五
没水(みづにぼつす) 竒遇(きぐう) 窺栖(すみかをうかゞふ) 迎福(ふくをむかふ)
通計(つうけい)十八齣(せき)

目録・本文

鷲談傳竒桃花流水(わしのだんでんきとうくわりうすい) 巻之(けんの)

江戸 山東京山編次 


  第一齣 壽筵(じゆえん)

(いま)は昔(むかし)應永(をうえい)の年間(ころほひ)近国(あふみのくに)松江(まつえ)の庄(しやう)に松江(まつえの)判官(はんぐわん)藤原(ふぢはらの)秋季(あきとし)といふ人(ひと)ありけり。強氣(きやうき)勇猛(ゆうもう)にして武略(ぶりやく)に長(ちやう)じ南朝(なんてう)に忠勤(ちうきん)を奉(たてまつ)りし功(こう)によりて去(いぬ)る明徳(めいとく)三年南北(なんぼく)両朝(りやうてう)和睦(わぼく)の刻(きざみ)江州(ごうしう)松江(まつえ)に加恩(かおん)の所領(しよりやう)を賜(たまはり)しより後(のち)彼所(かのところ)に居(きよ)を移(うつ)し餘多(あまた)の家臣(かしん)を扶助(ふじよ)なして家(いへ)冨榮(とみさかへ)けり。秋季(あきとし)の妻(つま)を花(はな)の方(かた)といふ。前(さき)には南朝(なんてう)の后宮(こうきう)に仕(つか)へたる女房(にようぼう)にして哥学(うたまなび)はさらなり絲竹(いとたけ)のしらべ絵(ゑ)かき花(はな)むすびの技(わさ)にさへいと妙(たへ)なりけるうへに艶姿(すがた)秀衆(うつくしく)(こゝろ)ざま貞介(たゞし)かりけるにぞ夫婦(ふうふ)のなかもわりなくて睦深(むつみふか)くかたらひぬ。嫡子(ちやくし)氏王丸(うぢわうまる)といふは先妻(せんさい)の子(こ)にして花(はな)の方(かた)には継(まゝ)しきなかなりけるが花(はな)のかたさらに隔(へだつ)るこゝろなく我(わが)(まこと)の子(こ)のごとくおもひなし愛養(めでやしなひ)て已(すで)に氏王丸(うぢわうまる)十一歳(さい)にいたり。
(とき)は応永(をうゑい)七年の春(はる)秋季(あきとし)四十の初度(しよど)にあたりければ誕生(たんじやう)の日(ひ)にいたりなば家臣(かしん)(ら)をあつめ初老(しよろう)の年賀(ねんが)を祝(いは)ひ喜(よろこ)びの酒宴(しゆゑん)を催(もよほ)すべしとかねて其心(そのこゝろ)がまへありけるに花(はな)の方(かた)のはからひとして家臣(かしん)(ら)に祝(いは)ひの歌(うた)をよませ賀筵(がえん)の日(ひ)披講(ひこう)なさしむべしとて寄松祝(まつによするいはひ)といふ兼題(けんだい)をいだされたり。さるゆへに日(ひ)ごろ哥道(かだう)に志(こゝろざし)あるものは哥合(うたあはせ)する思ひしてよろこぶといヘどもその技(わざ)に疎(うと)きものどもはおのれが俗(さとび)たるをはぢらひけり。秋季(あきとし)は兵革(へいかく)の間(あいだ)に成長(ひとゝなり)て武事(ぶじ)をこのみ雅事(みやびたること)には心(こゝろ)をもちひざれば祝(いはひ)の哥(うた)をあつむるはさのみ興(きやう)あることゝはおもはざれども北(きた)の方(かた)のおぼし立(たち)なればそのまゝにうちおき給ひぬ。
(こゝ)にまた秋季(あきとし)が普代(ふだい)恩顧(おんこ)の長臣(ちやうしん)に山中(やまなか)左衞門(さゑもん)正當(まさはる)といふ者(もの)ありけり。性質(せいしつ)廉直(れんちよく)にして禮節(れいせつ)を重(おもん)じ子通(しつう)(きん)を脱(だつ)し伯鸞(はくらん)(かまど)を滅(めつ)するの風旨(おもむき)をしたひて最(いと)老実(ろうじつ)なる武士(ぶし)なりけるが武藝(ぶげい)のいとま且(かつ)て和哥(わか)をこのみ京(みやこ)なる某(なにがし)の卿(きやう)の弟子(をしへご)となりてそのみちにかしこければ秋季(あきとし)の四十(はつおひ)を賀(が)する祝哥(いはひうた)を奉(たてまつ)らすべき役(やく)にぞえらばれける。これ則(すなはち)(かれ)が身(み)を亡(ほろぼ)し家(いへ)を失(うしな)ふべき一端(いつたん)とは后(のち)にぞおもひしられける。
かくてほどなく秋季(あきとし)が吉誕(きつたん)の日(ひ)にいたりければ秋季(あきとし)廣院(ひろざしき)に家臣(かしん)(ら)をあつめ嫡子(ちやくし)氏王丸(うぢわうまる)をしたがへて上座(かみくら)に坐(ざ)をまうけければ山中(やまなか)左衞門(さゑもん)ひとまの障子(しやうし)をひらかせ輝光(かゞやき)わたる文臺(ぶんだい)のうへにあまたの懐紙(くわいし)をつみのせて捧(さゝげ)いで秋季(あきとし)の左(ひだり)の方(かた)にひきさがりて席(せき)をまうく。家臣(かしん)の面々(めん/\)は両側(りやうかは)に袖(そで)を連(つらね)て居(ゐ)ならびけり。花(はな)の方(かた)は簾(みす)たれたる裏(うち)にあまたの侍女(おもとびと)をしたがへ侍従(じじう)黒方(くろばう)のたぐひにやあらんいと妙(たへ)なる薫(かほ)りをほのめかせて哥(うた)の披講(ひこう)をきかれけり。時(とき)しも夜(よる)の事なりければ銀燭(ぎんしよく)の光(ひかり)金屏(きんびやう)に輝(かゞやき)て画(ゑがけ)(つる)千歳(ちとせ)のすがたをうつし彩色(いろどれる)(まつ)万代(よろづよ)の緑(みどり)をこめて最(いと)も冨貴(めでたき)光景(ありさま)なり。
(とき)に山中(やまなか)左衞門(さゑもん)文臺(ふんだい)をとりすゝみ出(いで)て吟上(よみあぐ)る哥(うた)どもをきけばあるひは万代(よろづよ)を松(まつ)の尾山(をやま)のかげしげみとことぶきあるひは住(すみ)の江(え)に生(おひ)そふ松(まつ)の枝(えだ)ごとにと祝(いは)ふ。子(ね)の日(ひ)する埜辺(のべ)の小松(こまつ)をうつし栽(うへ)て年(とし)の尾(を)ながき齢(よはひ)をいのれば相生(あひおひ)のをしほの山(やま)とよみかけて千(ち)とせのかげをたのみ千秋(せんしう)を賀(が)し万歳(まんぜい)を祝(いは)ひ三十一(みそひと)文字(もじ)の員(かづ)はおなじけれども詠(よみ)いづる意(こゝろ)はおのがさま%\にていづれおろかはなかりけり。披講(ひかう)もやゝ半(なかば)なるとき左衞門(さゑもん)星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)照連(てるつら)といふものゝよめる哥(うた)の上(かみ)の句(く)を吟(きん)じさして懐紙(くわいし)を手(て)にとりあげしばし思案(しあん)する介(てい)なりしが膝(ひざ)の下(もと)へとり除(のけ)て次(つぎ)の哥(うた)を吟(ぎん)じけり。秋季(あきとし)これを見咎(みとがめ)て左衞門(さゑもん)に對(むか)ひ汝(なんぢ)(いま)(ばん)の照連(てるつら)と名告(なのり)をあげ上(かみ)の句(く)を吟上(よみあげ)たるのみにて何(なに)ゆゑ懐紙(くわいし)を取除(とりのけ)しぞ。不審(いぶかしき)ふるまひなりと問(とは)れければ左衞門(さゑもん)(かしら)をさげ星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)がよめる哥(うた)につきては左衞門(さゑもん)所存(しよぞん)候へば披講(ひこう)をひかへ候。君(きみ)には唯(たゞ)このまゝに御(おん)見逃(みのが)したまはるべしと事(こと)あり気(げ)なる言葉(ことば)を聞(きゝ)(はげ)しき気質(きしつ)の秋季(あきとし)なればうけひく気色(けしき)はさらになく汝(なんぢ)その哥(うた)につきて存(そんず)る旨(むね)ありとは不審(ふしん)なり。事(こと)分明(ふんみやう)に申すべしと宣(のたまふ)ことばの尾(を)につきて梶之助(かぢのすけ)すゝみいでいかに左衞門(さゑもん)かばかり多(おほ)き哥(うた)のうちにて僕(やつがれ)がよみたるうたにかぎり披講(ひこう)をはぶくのみならず文臺(ぶんだい)の上(うへ)にすらおかざるは心得(こゝろえ)がたき事(こと)なり。相公(との)の御(ご)不審(ふしん)を蒙(かうふ)るのみか朋輩(ほうばい)の手前(てまへ)面目(めんぼく)なし。いで/\おもふむねをきくべしと眼(め)に角(かど)たてし形勢(ありさま)に席(せき)は粛然(しらけ)て見へたりけり。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)秋季(あきとし)に對(むか)ひ相公(との)の御(ご)不審(ふしん)とあらば一通(ひとゝをり)その子細(しさい)をきこえあぐべし。梶之助(かぢのすけ)も聞(きゝ)候へとてかの懐紙(くわいし)を手(て)にとりあげ ○我君(わがきみ)は末(すえ)の松山(まつやま)はる%\とこす白浪(しらなみ)のかづもしられず
とよめるは不祥(ふじやう)の歌(うた)にて候。それいかにとなれば我君(わがきみ)は末(すへ)とつゞきたるは

挿絵

【挿絵第一図 山中(やまなか)左衞門(さゑもん)星合(ほしあい)梶之助(かぢのすけ)が詩作(しさく)を詰(なじつ)て一場(いちじやう)の妖〓(わざわひ)を醸(かも)す】

(いむ)べき詞(ことば)なり。又(また)(なが)れてとゞまらず碎(くだ)けて消(きへ)やすき波(なみ)の数(かづ)に君(きみ)が齢(よはひ)をよそへたるも祝(いはひ)の心(こゝろ)には協(かなひ)がたし。評(ひやう)する身(み)としてかゝる不祥(ふじやう)のよみ哥(うた)を聞(きこ)へ上(あげ)んは相公(との)への惶(おそれ)あり。さるゆゑにとりのけ候ひぬ。いかに梶之助(かぢのすけ)(いま)申せしは此(この)山中(やまなか)が僻(ひが)おもひにや。おん身(み)の説(せつ)をうけたまはらんとことばを烈(はげま)していひけるに膽(きも)(ふと)き梶之助(かぢのすけ)も返答(へんとう)にさしつまり赤面(せきめん)してぞ居(ゐ)たりける。短(たん)気の秋季(あきとし)(おほい)に怒(いか)り連忙(あはたゞ)しく座(さ)を立(たち)給ひ梶之助(かぢのすけ)が髻(もとゞり)(つか)みて掎(ひきふし).やをれ照連(てるつら)(わ)が文事(ぶんじ)に疎(うと)きを軽視(あなどり)不祥(ふじやう)の哥(うた)を詠(えい)じて主人(しゆじん)を嘲哢(てうろう)なす横道者(わうたうもの)。扇(あふぎ)の骨身(ほねみ)におほべよといひてりゆう/\ぱつしと撃(うち)すゑたまへば髻(もとゞり)ふつと截(きれ)て髪(かみ)も乱(みだ)れ額(ひたい)の疵(きづ)に鈍染(にじむ)(ち)は頬(ほゝ)のあたりに流(ながれ)くだりて見(み)ぐるしかりける形勢(ありさま)也。秋季(あきとし)もとの席(せき)にかへり山中(やまなか)左衞門(さゑもん)にむかひ汝(なんぢ)梶之助(かぢのすけ)を引立(ひきたて)て早く目通(めとを)りを遠(とを)ざけよと主人(しゆじん)の命(めい)にせんすべなく山中(やまなか)左衞門(さゑもん)梶之助(かぢのすけ)に對(むか)ひ哥(うた)を難(なん)ぜしは評(ひやう)する者の役(やく)なればなり。かならず恨(うらみ)給ふべからず。相公(との)の命(おゝせ)なれば席(せき)を除(しりぞ)きたまへといひけるに梶之助(かぢのすけ)なんの答(いらへ)もせず左衞門(さゑもん)を眸(まなじり)にかけふかく恨(うらみ)たるさまにて次(つぎ)の間(ま)へしりぞきければ家臣(かしん)(ら)(かほ)を見(み)あはせて言葉(ことば)をいだす者もなく大(おゝい)に興(きやう)を醒(さま)しけり。秋季(あきとし)頓而(やがて)(ざ)を立(たち)給ひ歌(うた)の披講(ひこう)は重(かさね)てのことゝし席(せき)をかへて酒(さけ)(くむ)べし。みな/\彼所(かしこ)へ来(きた)るべしと宣(のたま)ひつゝ氏王丸(うぢわうまる)を伴(ともなひ)て奥(おく)の殿(との)へぞ入(いら)れける。
かくて次(つぎ)の日花(はな)のかた秋季(あきとし)にのたまふは昨日(きのふ)(かぢ)之助の哥(うた)なりといふを聞(きゝ)はべりしにその哥(うた)の忌(いま)はしきのみにあらず。かの一首(いつしゆ)は大治(たいぢ)三年に撰(えらは)れたる金葉集(きんえうしゅう)(が)の部(ぶ)に載(のせ)たる永成(えいせい)法師(ほつし)の哥(うた)に候。〔此哥を難じたる説基俊の悦目鈔に見ゆ〕梶之助は常(つね)からまけじたましゐの男(おのこ)ときゝはべれば此度(このたび)哥をよまざらんにはその俗(さとび)たるを人にそしられんことをいとひ屏風(びやうぶ)などに粘(おし)たる色紙(しきし)なんどに書(かき)たる松(まつ)に寄(よせ)たる祝(いは)ひ哥(うた)を認(み)て金葉集(きんえうしう)の哥ともしらず哥の意(こゝろ)もろく/\暁(さと)し得(え)ず上(かみ)の五(いつ)文字(もじ)をつくりかえて哥詠(うたよみ)(がほ)に懐紙(くわいし)をいだしかの席(せき)に連(つらなり)しは最(いと)/\堪笑為(かたはらいたきわざ)に候。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は君(きみ)の問(とは)せ給ふゆゑにやむことなく席上(せきしやう)にてかの哥(うた)を難(なん)じ候へども金葉集(きんえうしう)の哥とはしりながら其(その)出所(でところ)をいはず。梶(かぢ)之助(すけ)に哥(うた)盗人(ぬすひと)の悪名(あくみやう)をとらせざるは小町(こまち)に旡名(なきな)をおはせたる黒主(くろぬし)の昔(むかし)がたりに事(こと)かはり実(げ)にも仁義(じんぎ)の雅男(みやびを)に候はずやとひたすら賞美(しやうび)したまひければ秋季(あきとし)これを聞(きゝ)いかにもさこそとおもはるゝ心(こゝろ)より左衞門が志(こゝろざし)を感(かん)じ當時(そのかみ)義家(よしいへ)(きやう)の帶(たい)せられたる鳩丸(はとまる)といへる短刀(たんとう)のかたを摸(うつし)て作(つく)らせたる短刀(たんとう)を当座(とうざ)の褒美(ほうび)として山中左衞門にとらせ梶(かぢ)之助はおしこめおかれけり。

  第二齣 失児(こをうしなふ)

近江国(あふみのくに)志賀里(しかのさと)は〔三井の北.西郡(にしこほり).正興寺(しやうこうじ).新(しん)在家(ざいけ)の四村をむかしの名ごりといふ〕往古(わうこ)景行(けいかう)天皇(てんわう)を始(はじめ)(たてまつ)り天智(てんち)の帝(みかど)も都(みやこ)したまひたる旧都(きうと)にして昔(むかし)なつかしき景色(けしき)は山さくらの香(か)にのこりて世々(よゝ)の撰集(せんしゆう)にも此地(ち)の春(はる)をよまざるはなく京極(きやうこく)の御休(みやす)所も一樹(いちじゆ)のかげに一種(ひとくさ)の物語(ものがたり)をのこし給ひつ名(な)におへる櫻(さくら)の名所(めいしよ)なり。此里(さと)の裏(うち)にも花園(はなぞの)といふ所(ところ)はわきて櫻(さくら)のおほければ弥生(やよひ)のころは貴賎(きせん)群集(くんしゆ)して豊饒(にぎはし)かりき。
(さて)も山中左衞門は一日(あるひ)かの花園(ぞの)の花見んとて妻(つま)の柏木(かしはぎ)を伴(ともな)ひ今歳(ことし)十二歳(さい)になれる娘(むすめ)小君(こきみ)と五歳の男子(なんし)三之助(すけ)(ら)は一つ轎子(のりもの)に對合(むかひあは)せてのらしめ二人の婢女(こしもと)と三人の僕(しもべ)を供(とも)にしたがへて花見の調度(てうど)飯笥(さゝへ)分盒(わりご)など持(もた)せ家(いゑ)には譜代(ふだい)の家来(けらい)春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)といふ老実(ろうじつ)なる者をのこして留守(るす)をまもらせ花園(はなぞの)さして立出(たちいで)けり。朝(あさ)のほどは天(そら)(くも)りぬれども行程(みち)も半(なかば)(すぎ)るころは晴(はれ)わたりて長閑(のどか)になりければ山中左衞門妻(つま)の栢木(かしはぎ)に對(むか)ひ邂逅(たまさか)の蹈青(のあそび)に曇(くもり)たる空(そら)の心がゝりなりしに快晴(くわいせい)して一入(ひとしほ)の興(きやう)をそへたり。家(いへ)にのこる由良(ゆら)之進もかげごといふて喜(よろこ)ぶべしといふに栢木(かしはぎ)さこそ候はん。花園(はなぞの)にもほどちかく候へば小君(きみ)三之助等(ら)は轎子(かご)よりおろし歩行(あゆませ)候はんとて松(まつ)かけに轎子(かご)をたてゝ兄弟(きやうだい)をおろし三之助は左衞門栢木等(ら)(て)をとりて歩行(あゆませ)つゝほどなく花園(ぞの)の里(さと)にいたりけり。
(とき)しも弥生(やよひ)の半(なかば)なりければ八重櫻(やえさくら)は今を〓(さかり)に咲(さき)いでゝ枝(えだ)もたゆげに見えひとえは散(ちり)そめて時(とき)ならぬ雪(ゆき)かとあやまたる躑躅(つゝじ)山吹(やまぶき)こゝかしこに咲(さき)みちて得(え)も説(いはれ)ざる好景(かうけい)なり。左衞門等(ら)彼所(かなた)此所(こなた)を見めぐりけるに或(あるひ)は幕(まく)の内(うち)に糸竹(いとたけ)の調(しらべ)を合(あは)せ或は花(はな)のもとに今様(いまやう)をうたふもあり茶(ちや)を販(ひさ)くものは筵(むしろ)をならべて息所(いこひどころ)をまうけ酒(さけ)(うる)ものは小店(こみせ)を區(かまへ)て客(きやく)をまねく。常(つね)には寂寞(さみしき)山里(やまざと)も花のためにぞ賑(にぎは)ひける。左衞門は静(しづか)なる櫻(さくら)のもとに用意(ようい)の幕(まく)をうたせんとしつるをりしも遥(はるか)(むかひ)のかたより四五人(にん)の士(さふらひ)に前路(ぜんろ)を護(まも)らせ女童(めのわらは)二人(ふたり)を前(さき)に立(たゝ)せ餘多(あまた)の侍女(おもとびと)を従(したが)へたる上臈(じやうろう)(かたち)(きよ)らなる若公(わかぎみ)を伴(ともな)ひ給ひ行列(ぎやうれつ)たゞしくしづやかに歩行(あゆみ)(き)給ふ。左衞門(さゑもん)これを見て柏木(かしはぎ)にむかひかしこへ来(き)給ふは花(はな)の方(かた)と氏王(うぢわう)(ぎみ)也。さだめて此(この)花園(はなぞの)に櫻(さくら)(がり)してあそび給ふならめ。我々(われ/\)此所(こゝ)にあるは君(きみ)へのおそれあればまづこなたへ来(きた)るべしとて此所(このところ)を立去(たちさ)り櫻花(さくらばな)(みち)見えぬまで散(ちり)にけりとよみたる志賀(しが)の山越(やまごえ)のかたにいたり見(み)わたす景色(けしき)(こと)にすぐれたる所(ところ)に幕(まく)(うち)まはし氈(けむしろ)しきて飯笥(さゝへ)分盒(わりご)などとりいだし午飯(ひるげ)たうべ杯(さかづき)めぐらして四方(よも)の山々(やま/\)を眺望(ながむる)に此(この)(ところ)は花園(はなぞの)を去(さ)る事(こと)半里(はんみち)ばかりにして人家(じんか)(まれ)なる僻陋(へきろう)の地なれば深山(みやま)躑躅(つゝじ)岩間(いはま)に發(さき)みち櫻(さくら)は松椙(まつすぎ)にまじりて渓川(たにがは)に散(ちり)かゝるさま寂蓼(せきりやう)たる景色(けしき)なり。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は文雅(ぶんが)をたのしむ士(ものゝふ)なれば花園(はなぞの)の花(はな)の豊饒(にぎはしき)よりは此地(このち)の蕭條(しやう%\)たる

挿絵
【挿絵第二図 山中(やまなか)左衞門(さゑもん)江州(こうしう)滋賀(しがの)花園(はなぞの)に遊(あそ)んで櫻(さくら)を觀(み)る圖(づ)

山景(さんけい)を愛(あひ)し詩歌(しいか)を詠(えい)じて一入(ひとしほ)の興(きやう)をそへにけり。
一子(いつし)三之助(さんのすけ)は今歳(ことし)五ッの愛(あひ)ざかり縹色(はなだいろ)の綸子(りんず)に寳尽(たからづく)しを色入(いろいり)に染(そめ)いだしたる小袖(こそで)を着(ちやく)し前日(さきのひ)秋季(あきとし)山中(やまなか)に給りたるかの鳩丸(はとまる)といふ短刀(たんとう)はほどよきおのれが帶料(さしりやう)なりとてこれを差手(さして)に深山(みやま)躑躅(つゝじ)の枝(えだ)をもちて飛翔(とびこう)胡蝶(こてふ)を追(おひ)まはす体(てい)いと捷才(かしこげ)なり。姉(あね)の小君(こきみ)(うしろ)よりこゑかけ三之助(さんのすけ)よものゝ命(いのち)はとらざるものぞ。父上(ちゝうへ)の訶詆(しかり)給ふらめといふに猶(なほ)(おひ)まはりて止(やま)ざりけり。柏木(かしはぎ)は幕(まく)の内(うち)より婢女(こしもと)(ら)にこゑかけ三之助(さんのすけ)に怪我(けが)さすな。あれかしこへ走(はし)り行(ゆき)しぞ渓川(たにがは)のほとりに行(ゆか)すなと心(こゝろ)をつかひあれ見たまへ。いまの胡蝶(こてふ)を花(はな)の枝(えだ)にて撃(うち)おとしぬ。惺ハ(さかしき)ふるまひする童(わらは)かなといふに左衞門(さゑもん)莞尓(うちゑみ)かれが旡病(むびやう)にしてしかも健(すこやか)に生(おひ)たつは我々(われ/\)が一ッの福(さいわひ)也。いざ酌(つぎ)給へ今一ッ飲(のむ)べしと杯(さかづき)とりあげ夫婦(ふうふ)むつまじく酒(さけ)(くみ)かはしつゝ我子(わがこ)のこゝろよく遊(あそ)び戯(たはふ)るゝを見て餘念(よねん)なく樂(たの)しみ居(ゐ)たるをりしも後(うしろ)の山(やま)の方(かた)に笛(ふえ)の音(ね)かすかに聞(きこ)えけるが漸々(やう/\)にちかくなりて山を下(くだ)るを見れば芻蕘(くさかり)の童(わらべ)二三人草(くさ)を刈(かり)いれたる篭(かご)を背負(せおひ)一人の童(わらは)は牛(うし)に跨(またが)り笛(ふえ)を晩風(ばんふう)に弄(ろう)していできたりぬ。左衞門彼等(かれら)をよびとゞめ菓子(くわし)などとらせければ童子(わらべ)ども喜(よろこ)びて牛(うし)はかたへに放(はな)ちおき樹(き)の下(もと)に並座(ならびざ)し菓子(くわし)をわかちとりてうち喰(くひ)ぬ。三之助(すけ)は彼(かの)牧童(ぼくどう)が牛(うし)にのり来(き)つるを見ておのれもかの牛(うし)にのらめといふに過(あやまち)ありてはあしく候とて婢女(こしもと)どもこれをとゞめけれどもさらに聞(きゝ)いれず泣(なき)わめきければ左衞門婢女(こしもと)にむかひ農家(のうか)に〓(やしなひ)たる牛(うし)は柔和(にうわ)なるものなり。騎(のら)めといはゞ騎(のら)せよといひてかの童(わらは)に牛を牽(ひき)いださせければ三之助泣(なきを)とゞめてよろこびいざ/\といふにぞ婢(こしもと)かれを抱(いだき)てのせんとしたる時(とき)柏木(かしはぎ)(たち)より稚児(わこ)よ其(その)短刀(ひとこし)は婢女(こしもと)どもに持(もた)せよといふに三之助(すけ)(かしら)をうちふりいな/\父上(ちゝうへ)の御馬(おんま)にめし給ふやうに刀(かたな)はさして騎(のる)べしといひてうけひかざればこれをも彼(かれ)が心(こゝろ)のまゝにしてのせければ手(て)をうちてよろこび〓然(にこ/\)わらひやよ/\阿姐(あねうへ)見給へ童(われ)は牛(うし)にのりはべりぬといひつゝ牧童(ぼくどう)に牽(ひか)れ婢女(こしもと)にとらへられてこゝかしこへ騎(のり)ありき最(いと)(うれ)しきさまなりければ母(はゝ)の柏木(かしはぎ)(おつと)にむかひ牛(うし)にのりてこゝろよきや寳(たから)どのゝ咥(にこやか)なる顔(かほ)つきの愛(あひ)らしさ。幼(おさな)けれどもあの腰(こし)の居(すはり)やう常(つね)の小児(こども)とは違(ちが)ふて見へ候といふに左衞門(さゑもん)さにこそとて夫婦(ふうふ)私語(さゝやき)て我児(わがこ)を美稱(びしやう)するも人の親(おや)たる常(ならひ)なり。左衞門妻(つま)にむかひ日ざしもよほど傾(かたぶ)きぬ。暮(くれ)ちかくならぬ間(ま)にいざかへりなんとて取(とり)ちらしたる飯笥(さゝへ)分盒(わりご)などとりかたづけさせ三之助(すけ)をも牛よりおろさばやとしけるをりしも對(むかひ)の山(やま)の方(かた)より一陣(いちぢん)の慕風(ぼうふう)(さつ)と吹(ふき)きたり樹林(じゆりん)〓々(そく/\)となりひゞき満山(まんざん)の櫻(さくら)一度(いちど)にぱつと飛(とび)ちつたるうちより年旧(としふる)大G(おほわし)(つばさ)を振(ふつ)て勢(いきほひ)(たけ)く翔来(かけりきた)り嗚呼哉(あはや)といふ間(ま)に牛(うし)にのりたる三之助をかい〓(つか)みて古松(こしやう)を掠(かすめ)て飛上(とびあが)りければ左衞門これを見て仰天(ぎやうてん)なし刀(かたな)おつとり駈(かけ)いだし木(き)の根(ね)岩尖(いわかど)飛こえ/\雲井(くもゐ)のG(わし)の行(ゆく)かたへ足(あし)を空(そら)にぞ追(おひ)ゆきける。柏木(かしはき)は声(こゑ)ふるはせあな悲(かな)しやのふと泣叫(なきさけび)。梦現(ゆめうつゝ)ともわきまへず。倒(こけ)つ轉(まろび)つ後(あと)に続(つゞき)て追行(おひゆき)しが夫(おつと)におくれて立(たち)とゞまり空(そら)をのぞみて身(み)を憫悵(もだへ)(あし)を翹(つまだ)て手(て)をのばしあれよ/\と叫(さけ)べども翼(つばさ)をもたぬ人の身の其(その)甲斐(かひ)さらになかりけり。
(あはれむ)べし三之助は胸(むね)のあたり掻(かき)やぶられたりとおぼしくて懐紙(ふところかみ)鮮血(ちしほ)に染(そまり)て〓々(ひら/\)と吹散(ふきちり)手足(てあし)を掉(ふる)はして煩(もが)きくるしむ体(てい)朦朧(かすか)に見え泣叫(なきさけ)ぶ声(こゑ)は初雁(はつかり)のやうに聞(きこ)えて哀(あはれ)といふもおろかなり。柏木はこれを見ていとゞ悲(かな)しさやるかたなく非歎(ひたん)にせまりて氣(き)をうしなひはたと僵(たふ)れて消(きえ)いりぬ。小君(こきみ)もこゝに走(はし)りつき柏木に懐(いだき)つき母(はゝ)人心をたしかになし給へや。悲(かな)しやのふと声(こゑ)を調(とゝのへ)てなき悶(もだ)ゆれば婢女(こしもと)(しもべ)追々(おひ/\)に走集(はせあつま)り渓川(たにがは)の水(みづ)を掬(きく)して顔(かほ)に嘘(ふき)かけ声々に呼活(よびいかし)ければ漸々(やう/\)に人心(ごゝ)ちつきたるをこしもとゞも抱(いだき)かゝえて幕(まく)の内に皈(かへ)りけり。山中(やまなか)左衛門は手(て)をむなしく立皈(たちかへ)り此躰(このてい)を見て露現(つゆうつゝ)ともなく痴果(あきれ)(まど)ひけるが斯(かく)てあるべき事ならねば小君を副(そ)へて柏木をかごにのせ二人のしもべはあとへのこして花見(はなみ)の調度(てうど)をとりおさめさせ袴(はかま)の裾(すそ)(たかく)(かゝげ)て轎(のりもの)に副(つきそひ)またもG(わし)のきたるかと樹林(じゆりん)の梢(こずへ)に眼(まなこ)を配(くば)りつゝ心(こゝろ)も空(そら)もくれかゝる路(みち)を忙(いそ)ぎて皈(かへ)りにけり。〔三之助のゆくへは三之巻にくはしくしるす〕
(それ)は偖(さて)おきこゝにまた星合(ほしあひ)(かぢ)之助(すけ)は前日(さきのひ)山中左衞門がために我(わが)詠哥(よみうた)を評(ひやう)せられて主人(しゆじん)秋季(あきとし)の怒(いかり)をおこし多(おほ)くの人前(なか)にて打擲(てうちやく)せられかぎりなき耻辱(ちぢよく)をうけたるのみならず勤仕(きんし)をとゞめられけるに山中(やまなか)左衞門(さゑもん)はこれに事(こと)かはりかの哥(うた)を難(なん)じたる賞(ほうび)として秋季(あきとし)秘藏(ひそう)し給ふ鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)を渠(かれ)に給(たまはり)たりと聞(きく)(おのれ)があしきをかへりみずたゞ左衞門(さゑもん)のみふかく恨(うら)み已(すで)に一月(ひとつき)あまりも閉居(とぢこもり)けるに秋季(あきとし)より免許(ゆるし)のさたもなかりければこれも左エ門(さゑもん)の讒(ざん)するにこそとおのれが歪(ゆが)む心(こゝろ)に比(くら)べて囘僻(ひがおもひ)しいかにもして渠(かれ)に憂目(うきめ)を見せて此恨(このうらみ)を報(むく)はばやと思ひけるが間居(かんきよ)の身(み)なれば山中(やまなか)に出(いで)あふべき便(よすが)もなくとやせまじかくやすべきと思ひ煩(わづら)ひけり。
(そも/\)(この)梶之介(かぢのすけ)といふ者(もの)は播州(ばんしう)(とゞろき)が濱(はま)といふ所(ところ)に住(すめ)る漁人(りやうし)篷六(とまろく)といふ者(もの)の子(こ)なりしに少年(としわかき)より武藝(ぶげい)を好(この)みて性質(うまれつき)乖巧(わろがしこ)ければおのれが才藝(さいげい)をたのんで人(ひと)を軽詆(かろしめ)酒色(しゆしよく)を好(この)んで業(なりはひ)をつとめず。父(ちゝ)は蘆〓(ろゐ)の間(あいだ)に生(うまれ)たる匹夫(ひつぷ)なれば漁(すなどり)を業(わざ)として一生(いつしやう)ををはらんは可分(あたりまへ)なるべけれども己(おのれ)は才藝(さいげい)ある身(み)をもつて扁舟(へんしう)に棹(さほさし)て生涯(しやうがい)をおくり白頭(はくとう)波上(はしやう)に白頭(はくとう)の翁(おきな)とならんは計策(はかり)なきに似(に)たりとて二十(はたちの)(とし)に両親(ふたおや)を捨(すて)て国(くに)を立(たち)のき諸國(しよこく)を遍歴(へめぐり)けるが五年以前(いぜん)(ゆゑ)あつて秋季(あきとし)の家(いへ)に仕官(つかえ)今歳(ことし)三十(みそじ)にあまれどもいまだ妻(つま)もなく鵲(かさゝぎ)といふ妾(てかけ)をめしつかひ家内(かない)(わづか)に六七人のくらしなり。
(さて)梶之助(かぢのすけ)一日(あるひ)(には)に〓(こしかけ)を置(おき)て胡坐(あぐら)し酒(さけ)を飲(のみ)て居(ゐ)たりしに墻(かき)を隔(へだて)て人(ひと)の談語(ものがたり)するをきくに一人(ひとり)は山中(やまなか)左エ門(さゑもん)が僕(しもべ)の声(こゑ)なれば渠(かれ)何等(なにら)の事(こと)を談(だん)ずるやらんと墻(かき)の隙(ひま)よりうかゞひ見るに山中(やまなか)が僕(しもべ)(て)に酒壜(とくり)を提(さげ)細貨(こまもの)の荷(に)をせをひたる男(おのこ)に對(むか)ひけふは主人(しゆじん)夫婦(ふうふ)児曹(こどもしゆ)を伴(ともな)ひて花園(はなぞの)の花見(はなみ)に行(ゆか)れたれば皈(かへり)はかならず夜(よ)にいるべし。用事(ようじ)あらば明日(あす)(きたる)べしといふに商人(あきびと)これを聞(きゝ)御誂(おんあつらへ)ものゝ事(こと)につき聞(きこ)えあげたき事(こと)ありしゆゑわざ/\来(き)つるに他適(おるす)とあらばかさねて参(まい)るべしとて右左(みぎひだ)りへわかれさりぬ。梶之助(かぢのすけ)もとの〓(こしかけ)にかへり自(みづから)一杯(いつぱい)をくみて心(こゝろ)におもへらく左エ門(さゑもん)めは夫婦(ふうふ)うちつれて櫻(さくら)がりして娯(たのしみ)をなすに我(われ)は渠(かれ)がためにかく閉居(へいきよ)して日(ひ)をおくるこそ口(くち)おしけれ。短慮(たんりよ)愚昧(ぐまい)の秋季(あきとし)なればこのうへ渠(かれ)が毒舌(どくぜつ)を信(しん)じいかなる罪(つみ)に行(おこなは)んもはかりがたし。左エ門(さゑもん)がごとき鼠輩(そはい)の為(ため)に金玉(きんぎよく)の身(み)を過(あやまた)んは旡智(ちなき)に似(に)たり。今(いま)はからず渠(かれ)が他行(たぎやう)せるをきゝつるこそ幸(さいわひ)なれ。宵闇(よひやみ)の黒暗(くら)(まぎ)れ左エ門(さゑもん)(め)を只(たゞ)一刀(ひとかたな)に斬殺(きりころ)し日来(ひごろ)の恨(うらみ)をはらすべしと悪意(あくい)一決(いつけつ)なし庭履(にはげた)を穿(はき)て立上(たちあが)りたるをりしも三之介(さんのすけ)を挈飄(さらひ)たるG(わし)此所(このところ)を飛行(ひぎやう)しつるにや三之介(さんのすけ)が腰(こし)に帶(さし)たるかの鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)刀室(さや)をはなれて空中(くうちう)よりおちくだり梶之介(かぢのすけ)が〓(ひたい)を殆(あやう)く椋(かす)りて水盤(てうづばち)の傍(かたはら)なる樹(き)の根(ね)を貫(つらぬき)てぞ立(たち)たりける。梶之介(かぢのすけ)(びつくり)し何者(なにもの)の所為(しわざ)にやと四邊(あたり)に眼(まなこ)をくばれども軒(のき)に飛翔(とびかう)(つばくら)のほかは眼(め)に遮(さへきる)ものも

挿絵
【挿絵第三図 山中(やまなか)左衞門(さゑもん)の一子(いつし)三之助鷲(わし)にさらはるゝ圖】

なかりければ訝(いぶかり)つゝ彼(かの)一刀(いつとう)をとりあげ見れば日来(ひごろ)秋季(あきとし)の秘藏(ひそう)したる鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)なるにぞ梶之介(かぢのすけ)ます/\異(あや)しみ独言(ひとりごと)にいひけるは此(この)短刀(たんとう)はまさしく秋季(あきとし)殿(どの)山中(やまなか)左エ門(さゑもん)に與(あた)へたまひしと聞(きゝ)つる鳩丸(はとまる)に紛(まぎれ)なし。しかるに今(いま)空中(くうちう)より落(おち)たるはいかにもいぶかしきことなりと持(もち)たる短刀(たんとう)を熟々(つれ/\)と打視(うちながめ)て一〓(しばらく)思案(しあん)しけるが驀然(たちまち)莞尓(くはんじ)とうちゑみこの劔(つるぎ)不思議(ふしぎ)に我手(わがて)にいりたるはこれまさしく天(てん)の賜物(たまもの)なり。説話(うはさ)に聞(きけ)は花(はな)の方(かた)氏王(うじわう)殿(どの)もろとも今日(けふ)しも鶴鳴川(つるなきがは)の別業(しもやかた)に到(いた)り給ふよし皈(かへ)りは慥(たしか)に二更(にこう)のころにいたるべし。一筋道(ひとすぢみち)の地藏坂(ちぞうざか)に待伏(まちぶせ)なして氏王(うじわう)殿(どの)の轎子(のりもの)に此(この)短刀(たんとう)を擲(なげうた)ば山中(やまなか)左エ門(さゑもん)に疑(うたがひ)かゝり愚直(ぐちよく)なる左エ門(さゑもん)なれば腹切(はらきる)は必定(ひつぢやう)ならん。しかる時(とき)は我手(わがて)を下(くだ)さずして渠(かれ)が家(いへ)の亡(ほろぶ)るを.不知(しらず)(がほ)して看(み)べきは闇討(やみうち)よりも遥(はるか)にまさる良計(りようけい)也。これにしかず/\と獨(ひとり)(つぶや)く背后(うしろ)の方(かた)にいつの程(ほど)にか妾(てかけ)の鵲(かさゝぎ)(かの)(しやうぎ)にこしかけて居(ゐ)たりけるが彼方(かなた)には此家(このや)に仕(つか)ふる〓奴(しもべ)織平(をりへい)といふ者(もの)(には)の掃除(そうぢ)に来(きた)りしにや笆(かき)を隔(へだて)て立聞(たちぎく)(かほ).三人思はず見合(みあはせ)ければ梶之助(かぢのすけ)(て)ばやくかの短刀(たんとう)を袖(そで)にて覆(おほ)ひ秘(かく)し左(さ)あらぬ介(てい)にて鵲(かさゝぎ)に打對(うちむかひ)(ひ)もはや暮(くれ)なんとすればかしこの小院(こざしき)に至(いた)り燭(しよく)をてらして酒(さけ)くむべし。こゝにある酒(さけ)(さかな)もかしこへ持来(もちきた)れよといひつゝ前(さき)に立(たち)て庭隅(にはずへ)の小亭(こざしき)にいたり鵲(かさゝぎ)に酌(しやく)とらせ.しばし酒(さけ)くむむなだくみ.玉(たま)の杯(さかづき)底知(そこしら)ずいかなる巧(たくみ)や 醸(かも)すらん。
(この)(かさゝぎ)といふは原(もと)逢坂(あふさか)の関(せき)のほとりにすめる武士(ぶし)の浪人(らうにん)の妻(つま)の妹(いもと)なりしが貧(まづし)きくらしする姉婿(あねむこ)のもとに養(やしなは)るゝをものうくおもひ貧苦(ひんく)の助(たすけ)にもなれかしと竊(ひそか)に姉(あね)とはかりて假親(かりおや)をたのみ素性(すじやう)をかくして梶之助(かぢのすけ)が方(かた)へ妾(てかけ)奉公(ほうこう)に来(き)つるなり。生質(うまれつき)

挿絵
【挿絵第四図 鳩丸(はとまる)短刀(たんとう)(の)(づ)

〓才(かしこく)姿(すがた)もなべてならず年(とし)も二八の春霞(はるかすみ)いろかをつゝむ袖垣(そでがき)にまだ歯(は)も染(そめ)ぬ白梅(しらうめ)のゑめるがごとき面影(おもかげ)はいとにくからぬふぜいなり。
(さて)梶之助(かぢのすけ)(かさゝぎ)に對(むかひ)(いま)(われ)彼所(かしこ)にありて密事(みつじ)を〓(つぶやき)しを汝(なんぢ)さだめて聞(きゝ)つらめ.聞(きゝ)つるか.いかに/\と問(とひ)かけられ何(なに)とこたえてよからめとたゆとう胸(むね)をそれぞともいはぬ色(いろ)なる山吹(やまぶき)の露(つゆ)にたはみしごとくにさしうつむきてぞゐたりける。梶之助(かぢのすけ)はいちはやく渠(かれ)が心中(しんちう)を臆度(おしばかり)(なんぢ)は我(わが)(まくら)の塵(ちり)をも払(はら)ふものなればたとへ密事(みつじ)を聞(きゝ)つるとも妨(さまたげ)なし。さりながらひとかたならぬ密計(みつけい)をきかれてそのまゝにすておかんは我(わ)が一(ひと)ッの心障(こゝろざはり)なれば汝(なんぢ)(われ)に對(たい)して二心(ふたごゝろ)を懐(いだく)まじきといふ誓紙(せいし)をかくべしといふに鵲(かさゝぎ)やうやく顔(かほ)をあげ妾(わらは)こといかなるふかき因縁(えにし)ありてや去年(こぞ)の冬(ふゆ)より君(きみ)の側(そは)ぢかくつかへまゐらせて鴛鴦(をし)の襖(ふすま)の初氷(はつごほり)(とけ)たる帶(おび)の二重(ふたへ)三重(みへ)すくせむすぶの神(かみ)かけて長(なが)きおん惠(めぐみ)にもあづかり奉(たてまつ)らんと思ふこゝろからはたとへいかなる密事(みつじ)を聞(きゝ)候とも人(ひと)に漏(もら)し候はんとは露(つゆ)ばかりもおもひはべらず。さりながらもし他(た)より漏(もれ)たるときも妾(わら〔は〕)をこそうたがひ給ふべけれ。心(こゝろ)の鏡(かゞみ)(くも)りなきしるしには誓紙(せいし)をしたゝめ候はんこと妾(わらは)がのぞむ所(ところ)に侍(はべ)り。いざ部屋(かしこ)にゆきてしたゝめなんといひて立(たゝ)んとするをひきとゞめいな/\こゝにありて書(かく)べし。料紙(りやうし)は取来(とりきた)らしむべしとて自(みづから)(には)におりたち飛石(とびいし)づたひに庭下駄(にはげた)ならして隔(へだて)にかまへたる枝折戸(しをりと)をひらき且(まづ)しはぶきをさきにたて牛平(うしへい)は居(をら)ずや疾(とく)(きた)れといひて呼(よび)ければ一声(ひとこゑ)(いらへ)して牛平(うしへい)といふ僕(しもべ)いできたりぬ。梶之助(かぢのすけ)は折戸(をりど)のもとにたちて牛平(うしへい)をちかくまねきしばし囁(さゝや)きもとの座(ざ)に立(たち)かへりければ頓(やが)て牛平(うしへい)料紙(りやうし)硯箱(すゝりばこ)とり来(きた)り〓(えん)のはしにおきて立(たち)さりぬ。
梶之介(かぢのすけ)(かさゝぎ)に對(むかひ)誓紙(せいし)の文言(もんごん)は他(た)の事(こと)を書(かく)におよばず。わらはすくせのえにしふかく君(きみ)といもせのむつみをなすからはたとへいかなることありとも二心(ふたごゝろ)をいだくまじといふ事をかきてをはりに神(かみ)おろしを書記(かきしる)すべし。汝(なんぢ)が名(な)を記(しる)したるのみにてあて名(な)はかくにおよばずと細(こまやか)に教(をし)へければ鵲(かさゝき)は梶之助(かぢのすけ)がのぞむまゝに書(かき)しるしこれにておん心はれ候やと誓紙(せいし)をさしいだしければ梶之介(かぢのすけ)(て)に取(とり)あげてよみくだしいかにもかゝるしるしを見るうへはいよ/\汝(なんぢ)が心底(しんてい)の厚(あつ)きをしり愛戀(あいれん)の想(おも)ひ日来(ひごろ)にませり。まづこなたへよりねといひつゝ手(て)をとりてひきよすると見えしが忽(たちまち)(もとゞり)(つか)んでひきたふしけるにぞ鵲(かさゝぎ)は連忙(あはて)おどろきこは何(なに)ゆゑの御怒(おんいかり)ぞゆるしたまへと泣叫(なきさけ)ぶ。梶之助(かぢのすけ)は膝(ひざ)たてなほし左(ひだり)の手(て)に鵲(かさゝぎ)が髻(もとゞり)をにぎり右(みぎ)の手(て)には彼(かの)鳩丸(はとまる)をもちするどき眼(まなこ)を見ひらきてはたとにらみ汝(なんぢ)は山中(やまなか)左衞門(さゑもん)の弟(おとゝ)簑作(みのさく)といふものゝ妻(つま)の妹(いもと)なるよし頃日(このごろ)牛平(うしへい)が告(つぐ)るによりてしれり。汝(なんぢ)が今宵(こよひ)の為体(ていたらく)日来(ひごろ)にことかはり心(こゝろ)あつきやうにもてなすはなをも

挿絵
【挿絵第五図 星合(ほしあい)梶之助(かぢのすけ)奸計(かんけい)の漏事(もれんこと)を億度(おくど)して了〓(こしもと)(かさゝぎ)を殺(ころ)す】

密事(みつじ)をこまやかにきかんとはかるにうたがひなし。汝(なんぢ)(あね)につながる縁(えん)によりて今宵(こよひ)の密事(みつじ)を山中(やまなか)が方(かた)へしらさんためのした心とは我(わが)このあきらかなる眼(まなこ)にて見ぬきたり。汝(なんぢ)に誓紙(せいし)をかゝせたるは我(わが)が一(ひと)ッの計策(けいさく)なり。饑(うへ)たる羊(ひつじ)のごとき身(み)をもつて虎(とら)の鬚(ひげ)をひねらんとはかる痴婦(たはけ)もの此(この)一刀(いつとう)の引導(いんどう)にて地獄城(ぢごくじやう)へなりとも極樂(ごくらく)国土(こくど)へなりとも汝(なんぢ)がおもふかたへゆけかしといひつゝ雪(ゆき)のごとき胸(むな)もとへ氷(こほり)なす彼(かの)短刀(たんとう)をぐさとさしとほしけれは鮮血(せんけつ)さと迸(ほどばし)りてもすそを染(そむ)る紅(くれなゐ)は此世(このよ)からなる血盆(けつぼん)地獄(ぢごく)(つるぎ)の山(やま)にのぼされて身(み)を裂(さか)るゝがごとくなり。鵲(かさゝぎ)くるしき息(いき)をつきこれまでおん身(み)の悪行(あくぎやう)を見きくにつけうとましく思ひしゆゑいとまとらんと思ひゐたるに山中(やまなか)左エ門(さゑもん)殿(どの)をうしなはんとのわるたくみを今宵(こよひ)はからず聞(きゝ)しは幸(さいは)ひとわざと心(こゝろ)をゆるさせばやとまめ/\しき心(こゝろ)ねを見せつるにはやくも是(これ)を暁(さと)られて邪見(じやけん)の刄(やいば)につらぬかれ命(いのち)とらるゝ口惜(くちをし)さよころさばころせたとへ此身(このみ)はずた/\に斬(きら)るゝとも魂魄(なきたま)は此世(このよ)にとゞまり此恨(このうらみ)をむくはでやあるべきと柳眉(りうび)をけたて牙(きば)をかみ虚空(こくう)をつかむ苦痛(くつう)の体(てい)(かほ)に乱(みだ)るゝ黒髪(くろかみ)は月(つき)を遮(さへき)る青柳(あをやぎ)の目(め)もあてられぬ形勢(ありさま)なり。梶之介(かちのすけ)はあざわらひあなかしましき喚言(よばいごと)かな。いで/\此世(このよ)のいとまとらすべしとさもにくさげに詈(のゝし)りてふりそでの袂(たもと)を口(くち)に〓(ねぢこみ)のんどぶへを一〓(ひとゑぐり)ゑぐりければ手足(てあし)をもがくだんまつま此世(このよ)あのよのわかれ霜(しも)紅顔(かうがん)むなしく変(へん)じつゝ浅黄(あさぎ)(さくら)と散(ちり)うせて旡常(むじやう)の風(かせ)のふきめぐる軒(のき)にかけたる簷馬(ふうれい)は音(をと)も輪廻(りんゑ)の責(せめ)念仏(ねぶつ).廻向(えかう)の鉦(かね)ときこゆれど三途(さんづ)は暗(くら)き蝋燭(ろうそく)の涙(なみだ)をおとす人もなし.かの魏国(ぎのくに)の曹操(そう/\)が刺客(しかく)をふせぐ計策(けいさく)に命(いのち)おとせし寵妾(てうせう)にも遥(はるか)にまさる哀(あはれ)也。
梶之介(かぢのすけ)は鮮血(せんけつ)したゝる劔(つるき)をさげて〓先(えんさき)に立(たち)いで軒(のき)にかけたる簷馬(ふうれい)をとりてせわしくふりならしければ此(この)(ひゞき)かねての相圖(あひづ)にやありけん彼(かの)しもべ牛平(うしへい)さきほど鵲(かさゝぎ)とともに密事(みつじ)を立聞(たちぎゝ)しつるしもべ織平(をりへい)を高手(たかて)こてにいましめさるぐつはをはませてひききたりぬ。織平(をりへい)は梶之介(かぢのすけ)が血刀(ちがたな)をさげたるを見てます/\おどろき逃(にげ)んともがくを牛平(うしへい)がなはをひかへてはたらかせずおゝせにまかせかくのごとくにはからひ候。おぼすごとくにせさせ給へと〓放(つきはな)てば梶之介(かぢのすけ)(えん)の上(うへ)より織平(をりへい)が首(くび)ちうに打(うち)おとし出来(でか)せしぞ牛平(うしへい)さきほど汝(なんぢ)にかたりしごとく密事(みつじ)をきゝたる鵲(かさゝぎ)織平(をりへい)の両人(りやうにん)を.かく手(て)にかけしうへはてだてをもつて鵲(かさゝぎ)にかゝせつる誓紙(せいし)に織平(をりへい)といふあてなを書加(かきくは)へ渠(かれ)ら二人を不義(ふぎ)もの也といつわり死骸(しがい)はきやつらが親族(しんぞく)へわたすべし。我(われ)は是(これ)より地蔵坂(ちぞうざか)へ立(たち)こえ氏王(うぢわう)どのゝ皈(かへ)りをまちはかりことをほどこすべし。しのび姿(すがた)のよういせよといふ間(ま)(ほど)なき二更(にこう)の鐘(かね)に梶之介(かぢのすけ)は氣(き)も〓(せか)れかの鳩丸(はとまる)は服紗(ふくさ)につゝみてかくし持(もち)(くろ)き頭巾(づきん)に黒(くろ)小袖(こそで)(わが)(いへ)ながらしのぶ身(み)のやみはあやなき庭(には)づたひ竹(たけ)の生墻(いけがき)おしわけて栖(ねぐら)の鳥(とり)を驚(おどろか)し逸足(いちあし)(いだ)して走行(はしりゆき)ぬ。

  第三齣 飛劔(つるきをとはす)

此日(このひ)花方(はなのかた)は氏王丸(うじわうまる)を伴(とも〔な〕)ひて花園(はなぞの)にいたり彼所(かなた)此所(こなた)を徘徊(みめぐり)て櫻(さくら)を賞(しやう)じたまひけるに年老(としおひ)たる家臣(かしん)すゝみいで此所(このところ)に御幕(おんまく)をはらさせたまひ花見(はなみ)る人(ひと)の〓閧(にぎはゝ)しきさまを御覧(ごらん)あるべうとすゝめけるに花(はな)の方(かた)おゝせけるは今日(こんにち)鶴鳴川(つるなきがは)の山荘(しもやかた)にいたり氏王丸(うじわうまる)をも慰(なぐさむ)べきよし相公(との)に聞(きこ)えあげつればこゝには時(とき)をうつすべからず。殊更(ことさら)あまたの人(ひと)(つどひ)よりて最(いと)かしましければ早々(とく/\)(さ)りなんと宣(のたま)ひて花園(はなぞの)をたちさり

挿絵
【挿絵第六図 梶之助(かちのすけ)(けん)を飛(とば)せて氏王丸(うぢわうまる)に疵(きづゝく)

ふたゝび轎(のりもの)にのりて鶴鳴川(つるなきがは)の別業(しもやかた)にいたりたまひけるにかねてそのまうけありつれば書院(しよいん)に彩席(いろむしろ)をしきつらね花(はな)の方(かた)氏王丸(うじわうまる)ともに錦(にしき)の〓(しとね)に座(ざ)したまひかたはらに並居(なみゐ)たる侍女(こしもと)(ら)は思ひ/\に着(き)かざりたれは留木(とめき)のかほりほのめきてこゝにも花(はな)の咲(さき)つるかといとはなやきたる粧(よそほ)ひなり。
かくてさま%\のおんあそびに時(とき)うつり黄昏(たそがれ)のころにいたりて皈舘(きくわん)を促(うなが)したまひ花(はな)の方(かた)氏王丸(うじわうまる)轎子(のりもの)にのりたまひて皈路(きろ)におもむきたまひけるが路(みち)の程(ほど)半過(なかばすぐる)ころ日(ひ)はまつたく暮(くれ)にけり。さても星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)は我家(わがや)をしのび出(いで)地藏坂(ぢぞうざか)といふ所(ところ)の並木(なみき)の松(まつ)に〓(よぢのぼり)(いま)や/\とまつほどに遥向(はるかむかふ)の方(かた)に灯(ひ)のひかり見えければすはや氏王丸(うじわうまる)の来(き)つるはと肝鯰(きもなます)をつくりて枝(えだ)のしげみに身(み)をかくしてゐたるにかの灯(ひ)のちかづくを見ればそれにはあらで農人(のうにん)ども明松(たいまつ)をてらし高話(たかばなし)しつゝ過去(すぎゆき)ぬれば本意(ほい)なく思ふ所(ところ)に一〓(しばらく)ありて堤(つゝみ)の上(うへ)に提灯(てうちん)の光(ひかり)かゝやき行列(ぎやうれつ)たゞしくきたるを見ればこれは花(はな)の方(かた)氏王(うじわう)(きみ)の黨勢(とうぜい)なり。やゝ近(ちか)づきければ梶之助(かぢのすけ)は松(まつ)の枝(えだ)

挿絵
【挿絵第七図 氏王丸(うぢわうまる)(さくら)(がり)の皈(かへ)るさ暗(あん)に疵(きづゝけ)らる】

(み)をかため氏王丸(うしわうまる)の轎(のりもの)を目(め)がけて彼(かの)鳩丸(はとまる)を手裏劔(しゆりけん)に打(うち)つけたるにねらひたがはず轎子(のりもの)の窗(まど)を打(うち)やぶりければ氏王丸(うじわうまる)あつと一声(ひとこゑ)(さけ)び給ひけるにぞ供(とも)の侍連(さふらひ)(あはて)おどろき提灯(てうちん)をてらして轎子(のりもの)の戸(と)を開(ひらき)見ればこはいかに氏王丸(うじわうまる)肩尖(かたさき)に短刀(たんとう)をつらぬかれあなくるしやたへがたやと泣(なき)わめき朱(あけ)にそみてぞおはしける。供人(ともひと)(ら)はこれを見てます/\おどろき打よりて介抱(かいほう)なし若侍(わかさふらひ)は曲者(くせもの)を捕(とら)へんとそこか爰(こゝ)かと走(はせ)まはる。梶之助はしすましたりと打(うち)ゑみて松(まつ)のこずゑに身(み)をひそめ猶(なほ)もやうすをうかゞひけり。されども氏王丸(うじわうまる)の手(て)きづ急所(きうしよ)をよけし浅手(あさで)なれば供(とも)にめしつれられたる医人(くすし)いそがはしく藥(くすり)を用(もち)ひて疵(きづ)をつゝみ花(はな)のかたの轎(のりもの)へうつしのせまゐらせ片時(へんし)もはやく御皈舘(こきくわん)あるべうとて供人(ともびと)(ら)一塊(ひとかたまり)となりて轎(のりもの)の前后(ぜんご)を守護(まも)りやかたをさしていそぎ皈(かへ)りぬ。梶之介(かぢのすけ)は此(この)人々(ひと%\)のはるかに行去(ゆきすぐ)るを見て松(まつ)をくだりてもと来(き)しみちへたちさらんとしたるとき.木立(こだち)のしげみより何者(なにもの)なるやらん突出(つといでゝ).こゑをもかけず鐺(こじり)を把(とら)へてたぢ/\とひきもどしぬ.梶之助(かぢのすけ)はひかれながら其(その)力量(ちから)を試(こゝろ)み.あやめもわかぬ闇夜(あんや)なれば打扮(いでたち)はしかと見へざれども.たゞものならずと思ふにぞ.言辞(ことば)をいださばもし声(こゑ)を聞(きゝ)しらるゝこともあるらめと口(くち)を閉(とぢ)てものいはず.心(こゝろ)のうちに點頭(うなづき)つゝたゞ一討(ひとうち)と刀(かたな)の柄(つか)に手(て)をかけしに.渠(かれ)もまた手(て)ばやく鐺(こじり)をとつてこぢあげければ.さすがの梶之助(かぢのすけ)も持有(たもち)かねて前(まへ)のかたへ〓倒(こけ)んとせしを危(あやう)く踏(ふみ)とゞめ力(ちから)をきはめて振放(ふりはな)ち間(ひま)もあらせず斬(きり)つくる刀(かたな)の列欠(いなづま)(ひらめく)を.かの者(もの)は飛鳥(ひてう)のごとく身(み)をよけて木立(こだち)を楯(たて)に伺居(うかゞひゐ)る。梶之介(かぢのすけ)は空(くう)を斬(きり)て気(き)をいらち打もらせしか残念(ざんねん)やと.おもふ心の乱(みたれ)あし石(いし)の地藏(ぢぞう)にゆきあたりさてはと踏(ふみ)こむ拝打(おがみうち)(ほとけ)の袈裟(けさ)がけ驀地(たちまち)に火(ひ)ばなぱつと飛散(とびちつ)たり。此(この)ひまにかのものは梶之助(かぢのすけ)を瞥然(ちらり)と見て探(さぐり)よりたる手(て)の尖(さき)にさわるを補(とら)へし小袖(こそで)の袂(たもと)(たがひ)のはづみに引断(ひきちぎ)る袖(そで)は后日(ごにち)の證拠(しやうこ)ともならぬ旡紋(むもん)の黒染(くろぞめ)も洗(あら)へばわ〔か〕る善悪(ぜんあく)邪正(じやしやう)梶之介(かぢのすけ)は此(この)ひまに跡(あと)を晦(くらま)せ逃去(にげさり)けり。
○此時(このとき)梶之助(かぢのすけ)を柱(さゝ)えたる者(もの)何人(なにひと)といふこといまだ詳(つまびらか)ならず四之巻(まき)をよみえてしるべし。
鷲談傳竒桃花流水巻之一 終


広告

絵入読本 小枝 繁 先生作・蹄齋北馬先生画 催馬樂奇談(さいばらきだん) 全部六冊近日賣出
〓〓(せつり)先生(せんせい)(あらは)す処(ところ)の小説(せうせつ)は恋女房染分手綱(こひにようぼうそめわけたづな)といへる院本(じやうるりぼん)にもとづき丹波(たんばの)少将(せう/\)俊寛(しゆんくわん)僧都(さうづ)がことをまじへ團介(だんすけ)といへる悪〓(わるもの)山神(さんしん)の祟(たゝり)にて馬(うま)と化(けし)畜生道(ちくせうだう)に落(おつ)るといへども多々(さま%\)の仇(あた)をなす與作(よさく)重井(しげのい)が若盛(わかざかり)は花盛(はなざかり)の遊山(ゆさん)に奇縁(きえん)を結(むすび)逸平(いつへい)が忠義(ちうぎ)は左内(さない)が得實(とくじつ)と日(ひ)を同(おなじ)ふす財宝(たから)をつかむ爪(つめ)の長(ながき)は鷲塚(わしづか)兄弟(きやうだい)が悪(あく)(ぎやう)也。小満(こまん)染絹(そめぎぬ)が婬邪(いんじや)の甚(はなはだ)しきあれば景政(けいせい)法師(ほうし)の道徳(どうとく)あつて火車(くわしや)にさらわる亡者(もうじや)を助(たす)け終(つい)に成仏(じやうぶつ)なさしむれば山神(さんしん)(ふたゝ)び現(あらはれ)て團介(だんすけ)が妖馬(ようば)を本(もと)に帰(き)せしむ善悪(せんあく)二道(にどう)に染分(そめわく)る心(こゝろ)の駒(こま)に手綱(たづな)ゆるすなと唄(うた)ふも読(よむ)も催馬楽(さいばら)の鼻綱(はづな)を取(とり)し三橘(さんきつ)が人間(にんげん)一生(いつせう)五十三次(つぎ)の戒(いましめ)とせし作(つくり)物語(ものがたり)也 雄飛閣の主人にかわつて 岡山鳥述


鷲談傳竒桃花流水(わしのだんでんきとうくわりうすい)巻之二

江戸 山東京山編次 

  第四齣(せき) 臥劒(けんにふす)

(こゝ)にまた山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は一子(いつし)三之助(さんのすけ)を鷲(わし)にとられ其日(そのひ)も暮(くれ)はてしころ我家(わがや)へ皈(かへ)り.かしは木(ぎ)は歎(なげき)にしづみて病人(やまふど)の如(ごと)くなれば常(つね)の寝所(しんしよ)へいれて小君(こきみ)侍女(こしもと)(ら)に介抱(かいほう)させ家来(けらい)春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)をめしたりしにこれも悲歎(ひたん)の涙(なみだ)に目(め)をすりあかめて出来(いできた)る山中(やまなか)左衛門(さゑもん)由良之進(ゆらのしん)に詞(ことば)をまじえんとせしをりしもかしは木(ぎ)の介抱(かいほう)をなし居(ゐ)たりし侍女(こしもと)のうち歳(とし)(ひさ)しくめしつかひたるもの二人かしこのひとまよりしやくりあげつゝ泣(なき)いりてはせいで左衞門(さゑもん)を見てかたへによりゐつ.額(ひたい)をあはせて顔(かほ)に袖(そで)をおほひ音(こゑ)をとゝのへて泣(なき)けり。左衞門(さゑもん)(なき)ごゑをきゝて誰(たれ)にやと顧(かへりみる)に此(この)両人(りやうにん)なればかしは木(ぎ)が身(み)の上(うへ)おぼつかなくいかになく(泣)ぞとたづねけるに一人(ひとり)がいふ.たゞ今(いま)三之助(さんのすけ)(ぎみ)がつねめしの御(おん)小袖(こそで)のうちかさねたる袂(たもと)より蒲公英(たんほゝ)の花(はな)のちぎりたると木瓜(ぼけ)の実(み)のいで候。これは昨日(きのふ)御庭(おんには)に遊(あそ)び給ひたるをり.糸(いと)はかしこきものならんこれを摘(つみ)たりとて見せ給ひしが袂(たもと)のうちに貯(たくは)へおき給ひしとおぼえ候。摘(つま)れたる蒲公英(たんぽゝ)の花(はな)だにいまだ枯果(かれはて)候はぬにと思へば三之助(さんのすけ)(ぎみ)の御(おん)(おもかげ)(め)の先(さき)に見ゆるやうにていと/\かなしく候。かしは木(ぎ)(ぎみ)へはきかせじとしのび音(ね)にたえかねてこゝにはせいで候也と云(いひ)つゝ猶(なほ)むせかへりてぞ泣(なき)ける。
山中(やまなか)左衞門(さえもん)(これ)をきゝて腸(はらわた)もさけちぎるゝばかり又(また)も悲嘆(ひたん)にせまりけるが由良之進(ゆらのしん)に打對(うちむか)ひ汝(なんぢ)をめしたる事(こと)別事(べつじ)にあらず。かの鷲(わし)は必定(ひつぢやう)志賀(しが)の山中(さんちう)に住(すむ)なるらんと思へば片時(へんし)も早(はや)く彼(かの)山中(さんちう)にわけのぼり鷲(わし)を射(ゐ)とめて稚児(わこ)が讎(あた)を復(ふく)し彼(かれ)が死體(しがい)の哺(ついば)み残(のこ)されたるもあるやらん。尋(たづね)もとめんと思ふなり。はやく其(その)用意(ようい)せよと命(めい)じしに由良之進(ゆらのしん)勇立(いさみたち).こはよきおぼし立(たち)に候。僕(やつがれ)も御供(おんとも)しはべらん。家奴(しもべ)どもの心剛(こゝろがう)なる奴原(やつばら)をおんともさせ松明(たいまつ)あまた貯(たくはへ)もちて今宵(こよひ)一夜(いちや)はかの山中(さんちう)に明(あか)し候はん。しからば用意(ようゐ)(つかまつら)ん。御(おん)支度(したく)あるべしと席(せき)をしりぞき奴僕(しもべ)に斯(かく)と告(つげ)しにそれがしも参(まゐ)らん。かれがしも御供(おんとも)せんといひて家奴(しもべ)どもかい/\しく打扮(いでたち)つゝ手々(てゝ)に犬鎗(いぬやり)をもちて夜中(やちう)山路(さんろ)の猪(しゝ)(おほかみ)をも追(おふ)べき備(そなへ)をなしこれかれの用意(ようい)(まつた)くをはりて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)に告(つげ)ければ左衞門(さゑもん)は狩裳束(かりしやうぞく)に身(み)をかため替弓(かえゆみ)手鎗(てやり)までをも持(もた)しめて由良之進(ゆらのしん)とともに主従(しゆう%\)およそ廾人あまり路(みち)をいそぎて初更(しよこう)のころほひ志賀(しが)の山(やま)にいたりつきあまたの僕等(しもべども)明松(たいまつ)をふりてらして山(やま)ふかくわけのぼり谷(たに)をわたり嶺(みね)をこえこゝかしこを巡(めぐり)ありきて月(つき)の光(ひかり)に梢(こずえ)をのぞみ鷲(わし)の行方(ゆくへ)三之助が死體(しがい)をたづねもとめしにふつに其(その)有所(ありしよ)(しれ)ず空(むな)しく時(とき)を移(うつ)して夜(よ)も明(あけ)わたりければせんすべなく麓(ふもと)に下(くだ)り此(この)山中(さんちう)に鷲(わし)やをると里人(さとびと)にたづねけるにすべて此邊(このほとり)の山々(やま/\)には鷲(わし)の住(すみ)候事を聞(きゝ)もおよび候はずといふを聞(きゝ)てます/\力(ちから)もくぢけ形(かたち)ばかりはいかめしく打扮(いでたち)たるがすご/\として我家(わがや)をさしてぞ皈(かへ)りける。
さて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)(いへ)に皈(かへ)りつきしに主人(しゆじん)のかへりたるを見て家(いへ)にのこりありし老(おひ)たる奴僕(しもべ)あはたゞしく門外(もんぐわい)にはしりいでつゝ山中(やまなか)にむかひ昨日(きのふ)(ご)主人(しゆじん)の立出(たちいで)給ひたるあとへ御舘(おんやかた)より重(おも)き侍(さふらひ)しゆ両人(りやうにん)走来(はせきた)り山中(やまなか)はあらざるや。君(きみ)より火急(くわきう)の御(おん)めし也とさもいかめしく宣(のたま)ひしゆゑにしか%\のよしをば申てよき事(こと)に候や又(また)あしくやあらんはかりしりがたく候へばたゞ家(いへ)にはおはし給はざるよしを申せしに両人(りやうにん)の御方(おんかた)なに事にや私語(さゝやき)あひてふたゝびせわしく走皈(はせかへ)り給ひしがしばらくありて又(また)はじめの人(ひと)にもあらぬが走来(はせきた)り此度(このたび)は御(ご)主人(しゆしん)の行(ゆく)さきをきびしく尋(たづね)とひ由良之進(ゆらのしん)どのをもたづね候故(ゆゑ)左衞門(さゑもん)どのは今宵(こよひ)由良之進(ゆらのしん)を具(ぐ)して立(たち)いで候が下(しも)ざまのそれがしなればよくもしりはべらずといらへ候にかの両人(りやうにん)かしは木(ぎ)(ぎみ)にとはんとて案内(あんない)もなく打(うち)とほりしが.かしは木(ぎ)(ぎみ)がいたくなやみ居(ゐ)玉ふを見てしいてとひも仕(つかまつ)らず扨(さて)こそ/\といひつゝ打驚(うちおどろき)たるさまに見え候よし侍女(こしもと)(しゆ)の申候。かの両人(りやうにん)は其侭(そのまゝ)(かへ)られ候と事(こと)こまやかに告(つげ)たりしを左衞門聞(きゝ)て心中(しんちう)にあやしみつゝひとまに入(いり)て狩裳束(かりしやうぞく)を常(つね)の服(ふく)にかえて由良之進(ゆらのしん)にかしは木(ぎ)が事(こと)を心(こゝろ)せよと命(めい)じ朝飯(あさはん)をしたゝめをはり主人(しゆじん)が火急(くわきう)の用(よう)といひ彼僕(しもべ)が物語(ものがたり)をきゝて其(その)縁故(ゆゑ)をさとしがたく昨夜(さくや)の宵(よひ)よりいへにあらざるのみならず氏王(うぢわう)殿(どの)の疵(きづ)をうけたりし事は他聞(たもん)をいとひてもらしもせざりしかば左衞門(さゑもん)のしるべうもあらず。
(かの)鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)によりておのが身(み)にあづかる事(こと)とはつゆ知(しら)ずとやあらんかくやあらんと人(ひと)のうへのみおぼつかなく例(れい)の如(ごと)く主人(しゆじん)秋季(あきとし)の舘(やかた)へいたりけるに秋季(あきとし)(たゞち)に左衞門(さゑもん)を召出(めしいだ)し證據(せうこ)の為(ため)にとてとゞめおきし彼(かの)鳩丸(はとまる)をとりいだし.はるか下(さが)りて平伏(へいふく)なせし山中(やまなか)左エ門(さゑもん)が前(まへ)になげやり汝(なんぢ)(その)短刀(たんとう)におぼえありやといふ詞(ことば)のいといら立(だち)ければ山中(やまなか)左衞門(さゑもん)まづ不審(いぶかし)くて短刀(たんとう)をとりあげ見るにおぼえのある鳩丸(はとまる)なれば打驚(うちおどろき)よく/\見るに鮮々(なま/\)しき血(ち)の刄(やいば)を染(そめ)たるを見てます/\驚(おどろ)きこは何(なに)ゆゑに候ぞとたづねけるに秋季(あきとし)脇息(きやうそく)おしのけて肱(ひぢ)を張(はり)つゝ山中(やまなか)を礑(はた)と睚眦(ぬめつけ)(なに)ゆゑとは横道者(わうだうもの)。昨夜(さくや)地蔵坂(ぢぞうざか)の辺(ほとり)にて何者(なにもの)ともしれず其(その)短刀(たんとう)を飛(とば)せて氏王丸(うぢわうまる)が櫻狩(さくらがり)のかへるさなりし輿(のりもの)へ打付(うちつけ)肩尖(かたさき)へ手疵(てきづ)をおはせたり。其(その)一刀(いつとう)は前(さき)の日(ひ)(なんぢ)へ与(あた)へし鳩丸(はとまる)なれば汝(なんぢ)が所為(しよゐ)ならんと申すものおほし。言譯(いひわけ)ありや返答(へんとう)せよいかに/\と気(き)をいらちて宣(のたまへ)ば山中(やまなか)左衞門(さゑもん)おそれ入(いつ)て平服(へいふく)なし御諚(ごぢやう)には候へども譜代(ふだい)重恩(ぢうおん)の御主人(ごしゆじん)へ對(たい)したてまつり.さる大悪(たいあく)をおこなひ候心底(しんてい)のものに候はざる事はと.半(なかば)いはして秋季(あきとし)(かしら)うちふり.いな/\人心(じんしん)ははかりがたし。昨夜(さくや)の騒動(そうどう)他聞(たもん)をいとひてあながちにかくしおきたりといへども長臣(ちやうしん)の身(み)としてきゝもおよばざる事はよもあらじ。しかるに昨夜(さくや)(そば)づかひの侍(さふらひ)どもをつかはしてめしたりしに両度(りやうど)の使(つかひ)をむなしうなして家(いへ)にあらざりしは汝(なんぢ)が心中(しんちう)に一物(いちもつ)あるゆゑとこそしられつれ.さておくべきかは覚悟(かくご)せよと宣(のたまひ)つゝつと立(たち)て御佩刀(おんはかせ)に手(て)をかけ給ひければ最前(さいぜん)より障子(しやうじ)のかげに窺(うかゞひ)(ゐ)給ひたる花(はな)の方(かた)あはたゞしくはせいで給ひ秋季(あきとし)をおしとゞめ.御手討(おんてうち)と見えしはさることながらかれを御手(おんて)にかけさせ給ひては氏王丸(うぢわうまる)に庇(きづ)つけしものは誰(たれ)とも分明(ふんみやう)ならず。稚児(わこ)とはなさぬなかのわらはが伴(ともな)ひいでし途中(とちう)にてさる事ありしを事(こと)不分明(ふふんみやう)になしすてゝはいかにもうしろめだく候へば左衞門(さゑもん)を御糾明(ごきうめい)ありて氏王丸(うぢわうまる)に疵(きづ)しものをめしとらへ給はんこそねがはしくはべるなれと理(ことはり)ある詞(ことば)に秋季(あきとし)(うち)点頭(うなづき)てもとの席(せき)にをられ猶(なほ)山中(やまなか)にむかひ汝(なんぢ)(いま)なにとかいひつるが言譯(いひわけ)あらば申せと宣(のたま)へば左衞門(さゑもん)わづかに頭(かしら)をあげて短刀(たんたう)を前(まへ)におき此(この)鳩丸(はとまる)を以て氏王(うじわう)(ぎみ)へ疵(きづ)しゆゑにやつがれを御(おん)うたがひ給ふは理(ことわり)ながら申上る仔細(しさい)一とほり聞(きこ)えわけ給はるべし。君(きみ)にもしろしめさせ候ごとく當年(たうねん)五歳(ごさい)になりに〔ぬ〕男(せがれ)三之助此(この)短刀(たんとう)を見候て程(ほど)よきおのれが指料(さしりやう)とこゝろえしきりに請(こひ)候ゆゑに子(こ)に甘(あま)きは親(おや)のならひにて御賜(おんたまもの)とはぞんじながらかれに與(あた)へて他出(たしゆつ)のはれにかならず帶(たい)させ候ひしにやつがれも昨日(さくじつ)花園(はなぞの)の花見(はなみ)にまかりつるが北(きた)の方(かた)若君(わかぎみ)もかのちへ御遊(あそ)び給ひたるを見うけ奉りて妻子(さいし)を具(ぐ)して君(きみ)とおなじ所(ところ)にをり候はんは失礼(しつれい)と存(ぞん)じ花(はな)ぞのを立さり志賀(しが)の山間(やまあひ)にいたりて花(はな)を賞(しやうじ)て時(とき)をうつし黄昏(たそかれ)ちかくなるまゝに皈路(きろ)におもむき候はんと.思ひたちしをりしも向(むかふ)の山上(さんしやう)より大G(おほわし)おとし来(きた)りて男(せがれ)三之助をかい掴(つかみ)雲井(くもゐ)はるかに飛(とび)さりて行方(ゆくへ)(しら)ずなり候。此日(このひ)も鳩丸(はとまる)はかれが帶(たい)しをり候まゝにてG(わし)にとられ候へば一定(いちぢやう)(こし)より抜(ぬけ)はなれて落(おち)たるを人のひろひとりて氏王(うじわう)(ぎみ)へ此(この)短刀(たんとう)をもつて疵(きづ)つけ候ことかとおぼえ候。たとへやつがれ氏王(うぢわう)(ぎみ)を害(がい)したてまつらんといたせしにもせよ君(きみ)よりたまはりたる此(この)短刀(たんとう)をもて打(うち)かけ候はんやうもはべらす。昨夜(さくや)(よひ)のほどより家来(けらい)を具(ぐ)して志賀(しが)の山中(さんちう)へわけのぼり男(せがれ)の讎(あた)なる鷲(わし)を射(ゐ)とめ候べしと夜(よ)さら山中(さんちう)をへめぐり今朝(こんちやう)(いへ)に皈(かへり)候ゆゑに御(おん)めしにも応(おう)せず。氏王(うじわう)(ぎみ)の事は聞(きゝ)も候はず.さる仔細(しさい)に候へばおのれが所為(しわざ)にあらざることは暁(さと)しわけさせ給はるべしと事の仔細(しさい)をありていにいひのべたりしに秋季(あきとし)これをきかれて左衞門(さゑもん)を打(うち)見やり一子(いつし)を鷲(わし)にとらるゝほどの虚気者(うつけもの)よもや大事(だいじ)は為出(しいだ)すまじ。今(いま)申条(でう)(ことはり)あるに似(に)たればまづ今日(こんにち)はゆるしつかはすべし。明日(みやうにち)より日数(ひかづ)三日のあいだに氏王(うじわう)に庇(きづ)つけたる曲者(くせもの)をからめ捕(とり)て引来(ひきく)べし.さなきに於(おい)ては汝(なんぢ)が罪(つみ)の逃(のが)れかたきは自暁(みづからさと)し辨(わきまふ)べし.とく/\立とのたまひつゝ席(せき)を蹴(け)たてゝ奥殿(おくでん)へ入給ひければ花(はな)の方(かた)もあとにしたがひて席(せき)を立(たゝ)れけり.
かくて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)はかの鳩丸(はとまる)を僉議(せんぎ)の為(ため)に請(こひ)うけて家(いへ)に皈(かへ)り由良之進(ゆらのしん)をめして事(こと)のやうすを申きかせ家(いへ)の浮沈(ふちん)にかゝはるべき一大事(いちだいじ)なれば昼夜(ちうや)をいはずさま%\になして曲者(くせもの)を僉議(せんぎ)なせしにかの梶之助(かぢのすけ)が所為(しわざ)とは誰(たれ)しるものもなかりければ曲者(くせもの)をたづねいだすべうもあらずむなしく二日(ふつか)の日(ひ)をすごし第(だい)三ン日の日(ひ)もはや西(にし)にかたふきければ左衞門(さゑもん)はこゝろも心(こゝろ)ならず五ッの年(とし)までそだてあげたる三之助は鷲(わし)にとられ妻(つま)の柏木(かしはぎ)は悩(なやみ)に打臥(うちふし)曲者(くせもの)は捕得(とらへえ)ずとりかさねたる身(み)の困果(いんぐわ)明日(あす)はいかなる憂目(うきめ)や見んと今日(けふ)の日蔭(ひかげ)におのが身(み)もつれて消(きえ)ゆく思ひなり。左衞門(さゑもん)一間(ひとま)に閉篭(とぢこもり)叉手(うでぐみ)して思ふやうそれと心(こゝろ)づく方(かた)は残(のこ)る所(ところ)もなく僉議(せんぎ)しつれどもかの曲者(くせもの)のしれざるは我(わが)運命(うんめい)の盡(つく)べきときのいたれるならん。猶(なほ)よくこれを勘校(かんがふ)るに鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)(わし)に抓(つかま)れたる三之助が腰(こし)より劔挺(さやばしり)氏王(うじわう)どのゝ輿(のりもの)のうへに落(おち)くだりて疵(きづ)をうけ給ひたる事(こと)もやある.そのほどもはかりがたし.とまれかくまれ我君(わがきみ)より賜(たま)はりて我家(わがいへ)にある劍(つるぎ)をもて御主人(ごしゆじん)の若君(わかぎみ)へ疵(きづ)をおはせたれば御命(おんいのち)にはつゝがなしと聞(きゝ)つれども曲者(くせもの)のいでざるにおきては其(その)(つみ)の逃(のが)るべき謂(いはれ)なし。加之(しかのみ)ならず短気(たんき)火性(くはせい)の我君(わがきみ)なればいかなる

挿絵
【挿絵第八図 山中左エ門誣告(ふこく)の罪(つみ)を得て自殺(じさつ)す】

(はぢ)をうけて命(いのち)をめされんもはかりがたし.たゞ此(この)うへはこれまでの命(いのち)と諦(あきら)め君(きみ)より乞請(こひうけ)(きた)りし鳩丸(はとまる)の短刀(たんとう)にて腹切(はらきる)がせめてもの申譯(わけ)なり.と獨(ひとり)思案(しあん)の胸(むね)を居(すえ)(すで)に其(その)(こゝろ)支度(がまえ)しつれどもことし十二の娘(むすめ)小君(こきみ)が母(はゝ)の悩(なや)みを苦(く)になして悲涕(しく/\)(なく)を見るにつけ妻(つま)の事(こと)をも思ひやり我(わが)なきのちはさぞかしと輪廻(りんゑ)に絆(つな)ぐ身(み)のほだし心(こゝろ)も弱(よは)り気(き)も折(くじ)けしばし涙(なみだ)に哽咽(むせび)けるがかくては最期(さいご)もおぼつかなく家(いへ)にありては妨(さまたげ)おほし菩提寺(ほだいじ)にいたりてこそと彼(かの)鳩丸(はとまる)をものにつゝみて懐中(くわいちう)なしかしは木(ぎ)小君(こきみ)をはじめとし由良之進(ゆらのしん)へも心(こゝろ)の裏(うち)の暇乞(いとまごひ)をなし事(こと)にかこつけて家(いへ)を立出(たちいで)菩提寺(ぼだいじ)さしていそぎけり.かゝるとき左衞門(さゑもん)が心中(しんちう)いかに悲(かな)しかりけん思ひはかるべし。
○そも/\山中(やまなか)左衞門(さゑもん)が菩提所(ぼだいしよ)は花裳山(くわしやうざん)国字寺(こくじじ)と号(がう)する禅院(ぜんいん)にして左衞門(さゑもん)が家(いへ)を去(さる)事一里(いちり)あまりを隔(へだ〔て〕)てたる花渓(はなだに)といふ所(ところ)にあり。時(とき)の住寺(ちうじ)佛月(ぶつげつ)禅師(ぜんじ)はその齢(よはひ)八旬(じゆん)に近(ちか)く道徳(だうとく)の聞(きこ)へいみじくして種々(しゆ%\)の竒特(きどく)を見せ給ふゆゑに人(ひと)(みな)活佛(いきぼとけ)と稱(しやうじ)皈依(きゑ)のものもおほしとなん。左衞門(さゑもん)は此(この)禅師(ぜんじ)とは壇越(だんおつ)の好(よしみ)あるのみならず和歌(わか)の道(みち)をもつてまじはりもふかゝりけるほどに佛月(ぶつげつ)禅師(ぜんじ)に對面(たいめん)なして事の仔細(しさい)を物(もの)がたり自殺(じさつ)と覚悟(かくご)したる事(こと)をも聞(きか)せければ禅師(ぜんじ)(なみだ)をながしとかくの詞(ことば)もまじへずしばし思案(しあん)の体(てい)なりしがをりから本堂(ほんどう)には壇越(だんおつ)の男女(なんによ)(おひ)たるも若(わか)きも打交(うちまじ)りて百万遍(ひやくまんべん)の念仏(ねんぶつ)を行(おこな)ひをれり。褝家(ぜんけ)には聞(きゝ)もおよばざる事(こと)をさすも此(この)禅師(ぜんじ)の見識(けんしき)なるべし。禅師(ぜんじ)は百万遍(ひやくまんべん)のねぶつ唱(とな)ふるこゑのいとかしましきをきゝて左衞門(さゑもん)にむかひ此所(このところ)は事(こと)を談(だん)ずるによろしからず。まづこなたへとおくまりたる小院(こざしき)にいたり何事(なにごと)にやあらんしばらく譯(と)き暁(さと)し給ひ事(こと)をはりてのち再(ふたゝび)左衞門(さゑもん)を伴(ともな)ひて本堂(ほんどう)にいたり彼(かの)百万遍(ひやくまんべん)の檀越(だんおつ)に打(うち)むかひこれにをらるゝは山中(やまなか)左衞門(さゑもん)とよびて當國(たうごく)松江(まつえ)の庄(しやう)松江(まつえ)の判官(はんぐわん)秋季(あきとし)どのゝ長臣(ちやうしん)なり.さる人(ひと)ありとは聞(きゝ)もおよび給ひつらん。武士道(ぶしだう)のたちがたき事(こと)ありとて當寺(たうじ)にきたりて貧道(わが)引導(いんだう)をうけ自殺(じさつ)し給はんとの願(ねがひ)なるを.さま%\にとゞめしかども承引(せういん)なければせんすべなし.おの/\かゝづらひ給ふ事にはあらざれども貧道(わが)たのみなれば此人(このひと)のために其所(そのところ)にて百万遍(ひやくまんべん)を唱(とな)え菩提(ぼだい)のよすがともなして給はれかしといひければ壇越(だんおつ)の人々(ひと%\)(め)と目(め)を見あはし興(きやう)さめがほに見えけるが禅師(ぜんじ)の餘義(よぎ)なきたのみなればせんかたなげに承引(うけひき)ぬ。されども腹切(はらきる)を見んはうへなくいまはしき事なれば一人(ひとり)(たち)二人(ふたり)(たち)(いとま)も乞(こは)ずして逃皈(にげかへ)るものぞおほかりける.しかせしはさもこそと思はるゝなり.
さて山中(やまなか)左衞門(さゑもん)は仏月(ぶつげつ)禅師(せんじ)の引導(いんだう)をうけをはりけるにをりから庭前(ていぜん)の櫻(さくら)の枝(えだ)に鶯(うぐひす)の鳴(なき)ければ辞世(じせい)とおぼしく
  かゝ(斯)るとき(時)たかね(高音)にき(来)なくうぐひすのちか(誓)ひうれしきのり(法)の一ふし
と打〓(うちぎん)じつゝ猶(なほ)たんざくにしるし髻(もとゞり)ふつとおしきりて.短册(たんざく)にとりそえこれは妻(つま)へ遺物(かたみ)にとらせ給はれかしと禅師(せんじ)に託(たく)し腹切(はらきり)の所(ところ)におしなほりければ百万遍(べん)の人々左衞門(さゑもん)を中央(なか)になして達(めぐり)に居並(ゐなら)び念珠(ねんじゆ)の大なるを引環(ひきめぐら)しければ仏月(ぶつげつ)禅師(せんじ)高座(かうざ)にありて鉦(かね)(うち)ならし念仏(ねぶつ)を唱(とな)え給ふにつれて皆(みな)同音(どうおん)にとなえけり。左衞門(さゑもん)は徐(しづか)にはだをおしぬぎ片袖(かたそで)を引断(ひきちぎ)りてかの鳩丸(はとまる)をかい繰包(くるみ)南旡(なむ)あみだぶつともろともに腹(はら)へぐつさと突立(つきたつ)れば鮮血(せんけつ)さつと激(ほどばし)りて畳(たゝみ)を朱(あけ)にそめながし鬢髪(ひんはつ)みだれて苦痛(くつう)の体(てい)此世(このよ)からなる修羅道(しゆらだう)をせめてはたすくる〓急念仏(せめねぶつ)(みな)(め)を閉(とぢ)て幾(いく)同音(どうをん)ことにせわしく唱(とな)ゆれば是(これ)を冥途(めいど)の案内(しるべ)とし鮮血(ちしほ)したゝる短刀(たんとう)を持(もつ)(て)にまた手をもちそえて吭(ふゑ)のくさりを掻切(かききり)つ。前(まへ)に合破(かつは)と倒(たふ)れ臥(ふ)し此(この)山寺(やまでら)の入相(いりあひ)に消(きえ)てはかなくなりにけり。

  第五回 顛狂(てんきやう)

(こゝ)に又(また)山中(やまなか)左衞門(さゑもん)が妻(つま)の栢木(かしはき)は彼(かの)(ひ)(いへ)に皈(かへ)りて后(のち)(やまひ)の床(とこ)に打臥(うちふし)て一切(つや/\)(もの)も食(すゝま)ずたゞ三之助がことをのみ歎(なげ)きかなしみをれば鳩丸(はとまる)の事(こと)につきて左衞門(さゑもん)が身(み)に疑(うたがひ)かゝりたる事はいたわりの障(さわり)ともなるべしとて語(かたり)もきかせざりけるゆゑに此日(このひ)も左衞門(さゑもん)は只(たゞ)所用(しよよう)ありて家(いへ)にあらざるとのみこゝろえ自殺(じさつ)せしとはゆめにだにしらず。とにかく心(こゝろ)をものにうつして三之助が事(こと)をわすれんと小君(こきみ)に琴(こと)をひかせ婢女(こしもと)に頭痛(づつう)をもませて居(い)たりしに由良之進(ゆらのしん)あはたゞしく走来(はせきた)りて栢木(かしはぎ)に對(むか)ひ.かの短刀(たんとう)の事(こと)にて疑(うたがひ)かゝりし事をはじめとし今(いま)また仏月(ぶつげつ)禅師(ぜんじ)より使僧(しそう)をもて左衞門(さへもん)が自殺(じさつ)の事(こと)をしらせ辞丗(じせい)のたんざく外(ほか)に二品(ふたしな)をおくりこされたる事(こと)を語(かた)り涙(なみだ)ながらにつゝみをひらきかのたんざくと左衞門(さへもん)が髻(もとどり)(および)自殺(じさつ)の短刀(たんとう)をとりいだして栢木(かしはぎ)がまへにおきければ栢木(かしはぎ)はあまりの事にえも泣(なか)ずたんざくに髻(もとどり)をとりそえてひと目(め)見しよりむね迫(せまり)(こへ)をはなつて哽咽(むせ)かへりうつぶしに倒(たふ)れ伏(ふ)しきえいるばかりに見えければ由良之進(ゆらのしん)はせよりてたすけおこし背(せ)を撫(さす)りつゝ介抱(かいほう)の甲斐(かひ)なき主人(しゆじん)の身果(みのはて)とともになみだを洒(そゝ)ぎけり。小君(こきみ)も顔(かほ)にそでをあてしやくりあげつゝ泣居(なきい)たる。栢木(かしはぎ)は由良之進(ゆらのしん)を推除(おしのけ)て.つと身(み)をおこし
○おゝめでたい/\花(はな)がさいたは/\花(はな)はみよしの志賀(しが)の里(さと)こちの殿(との)が御馬(むんま)にめして三之助(さんのすけ)を輿(こし)にのせてそれ/\/\あれ/\/\と顛狂(こゝろみだれ)していなれば由良之進(ゆらのしん)(うち)おどろき小君(こきみ)はかなしくとりすがり.のふ情(なさけ)なき母(はゝ)うへや心(こゝろ)をたしかになし給へ。のふ/\と泣叫(なきさけ)べば栢木(かしはき)は見もやらず繰(くゝ)り枕(まくら)をいだきあげ.ねんねこせいの子(こ)もりうた我子(わかこ)を愛(あい)す如(ごとく)にてみどりの髪(かみ)の青柳(あをやぎ)も心(こゝろ)とともにふりみだしさらに正氣(しやうき)はなかりけり。
由良之進(ゆらのしん)かのたんざくを手(て)にとりあげなみだをはらひあまたゝびよみくだして心(こゝろ)にうなづき泣居(なきい)し小君(こきみ)にうちむかひ.やよ孃君(じやうぎみ)〔俗にいふおじやうさま〕御(おん)父上(ちゝうへ)の御(ご)辞丗(じせい)を聞(きかせ)給へ

かるときかね(高根)(来)なくぐひすのかひうれしきのり(法)の一ふし

かくあそばしたる御水ぐきを見るにかたきうちの五文字(ごもじ)を折句(をりく)にあそばしたんざくかゝん例(れい)をもらして此字(このじ)を墨(すみ)つぎにあそばせしは氏王(うじわう)(ぎみ)に疵(きづ)つけし曲者(くせもの)を僉議(せんぎ)しいだし旡実(むじつ)の罪(つみ)におん腹(はら)めしたるかたきうちくれよと人にしらさぬたんざくの御遺言(ごゆいげん)おんはらめしたる鳩丸(はとまる)を禅師(ぜんし)かたよりおくられしは夫(それ)と悟(さと)りしはからひならん。泣(ない)ておはする所(ところ)にあらず。心(こゝろ)を男々(をゝ)しくもち給へ。たとへ敵(かたき)は鬼神(おにかみ)なりとも御(おん)助太刀(すけだち)つかまつり御本望(ごほんもう)をとげさせん。孃君(じやうぎみ)いかにと勇(いさま)すれば小君(こきみ)もたんざくを手(て)にとりあげむねんのなみだに哽咽(むせび)つゝ由良之進(ゆらのしん)うれしきぞや女(をんな)ながらも山(やま)中の〓子(そふりやう)(むすめ)もしや敵(かたき)にいであはゞ真(まつ)如此(このごとく)とかの鳩丸(はとまる)を採(とる)よりはやく片邊(かたへ)の琴(こと)をぱつしときれば糸(いと)は左右(さゆう)へ柱(ぢ)は飛(とび)ちり雁(かり)の群居(むれゐ)る川面(かはづら)へ箭(や)を放(はなち)たる如(ごと)くなり。由良之進(ゆらのしん)(うち)よろこびこは遖(あつぱれ)の御手(おて)のうち知音(ちいん)の琴(こと)にひきかえて讎(あた)を復(ふく)する鉛(なまり)の琴(こと)(いさま)しや/\。僕(やつがれ)はこれより国字寺(こくじじ)へ立越(たちこえ)御主人(ごしゆじん)の御(おん)死骸(なきから)を葬(はうふ)る用意(ようい)つかまつり御舘(おんやかた)へも事(こと)の仔細(しさい)を聞(きこ)えあげん。御いたはしきは栢木(かしはぎ)(ぎみ)よく/\介抱(かいほう)なし給へと立上(たちあがら)んと

挿絵
【挿絵第九図 山中(やまなか)左衞門(さゑもん)の妻(つま)栢 木(かしはぎ)さま%\の怪(くわい)を見る】

なしたるをりから案内(あんない)もなく組子(くみこ)の大勢(おほぜい)(せき)を蹴(け)たてゝいり来(きた)り.ヤァ/\由良之進(ゆらのしん)うけたまはれ。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)自殺(じさつ)の次第(しだい)國字寺(こくじじ)より聞(きこへ)あげしに秋季(あきとし)(こう)きこしめし左衞門(さゑもん)自殺(じさつ)なしたるこそ氏王丸(うじわうまる)へ疵(きづ)つけしにきはまりつれ。かれが妻子(さいし)をめしとりて其罪(そのつみ)をたゞさんとおんいかりはげしきを花(はな)の方(かた)のお情(なさけ)にて妻子(さいし)の命(いのち)はゆるされしが家(いへ)は没収(もつしゆ)栢木(かしはき)小君(こきみ)由良之進(ゆらのしん)は領所(りやうしよ)の堺(さかい)より追放(おひはな)ち當国(とうごく)の徘徊(はいくわい)はゆるし給はざるとの嚴命(げんめい)なり.とく/\此家(このや)を立(たち)さるべし。否(いなま)ば搦(からめ)て将(ゐ)てゆかん。返答(へんとう)いかにと罵(のゝしれ)ば由良之進(ゆらのしん)はおもひもよらず打(うち)おどろきしが立張股(たちはだかり)し組子(くみこ)にむかひて平伏(へいふく)なし.やかたの嚴命(けんめい)いかでか違背(いはい)つかまつらん。さりながらしばしの間(あいだ)と.いふをうちけす組子(くみこ)の首長(かしら).いゝや片時(へんし)も有餘(ゆうよ)はかなはぬ。早(はや)く此家(このや)をあけわたせと虎威(こい)にほこれる權柄(けんへい)には返(かへ)す詞(ことば)もあらざりければ栢木(かしはぎ)にかくと告(つげ)て立のく用意(ようい)をすゝむれば心乱(こゝろみだ)れし栢木(かしはぎ)も年来(としごろ)(すま)ひし我家(わがいへ)を立(たち)さる事(こと)のかなしきや.わらはをいづくへつれゆくぞゆるしてくれよ由良之進(ゆらのしん)堪忍(かんにん)せよと声(こゑ)を立(たて)つゝ身(み)をふるはせて泣(なき)たりしは目(め)もあてられぬありさまなり。由良之進(ゆらのしん)やう/\にすかしなぐさめ小君(こきみ)もろとも婢女(こしもと)(ら)に倡引(いざなは)せおのれは左衞門(さゑもん)が遺物(かたみ)のしな%\を懐中(くわいちう)なし主人(しゆじん)の用金(ようきん)はしちかく納置(おさめおき)し百両(りやう)を竊(ひそか)に取(とり)て袖(そで)にいれ寝耳(ねみゝ)へ水仕(みづし)の女子(おなご)までひきつれて立(たち)いでければ組子(くみこ)の面々(めん/\)(あと)につきて領地(りやうち)の堺(さかい)にいたり三人を追放(おひはなち)てもとの道(みち)へ立皈(たちかへ)りぬ。
さて由良之進(ゆらのしん)召仕(めしつかひ)の男女(なんによ)に對(むかひ)(なんぢ)(ら)は此所(このところ)より御暇(おんいとま)給はるべし。ひとまづ御家(おんいへ)に立皈(たちかへ)り今(いま)の組子(くみこ)の内(うち)首長(かしら)たる両人(りやうにん)へ愁訟(しゆうそ)なし汝(なんぢ)(ら)が貯(たくはへ)の品(しな)を乞請(こひうけ)て心(こゝろ)まかせに立(たち)のくべしといひをしえければ年来(としごろ)召仕(めしつかひ)たる者(もの)どもは何国(いづく)までも御供(おんとも)しはべらんと涙(なみだ)をそえていひつれども由良之進(ゆらのしん)これを許(ゆる)さずみなこと%\く追皈(おひかへ)し主従(しゆう%\)(わづか)三人にて何方(いづく)へや身(み)をよせんと繋(つなが)ぬ舟(ふね)のおもひにて忙然(ぼうぜん)としてたゝずみぬ。
由良之進(ゆらのしん)が家弟(をとゝ)に簑作(みのさく)といふ者(もの)(あれ)どもゆゑありて浪人(らうにん)となり逢坂(あふさか)の関(せき)のほとりに住(すま)ひすれば當國(とうごく)の徘徊(はいくわい)をとゞめられし身(み)にては立寄(たちよる)べうもあらず。山中(やまなか)が親族(しんぞく)どもは秋季(あきとし)の怒(いかり)に觸(ふれ)ん事(こと)をおそれて寄(よせ)もつけざればたのむべき蔭(かげ)もなく由良之進(ゆらのしん)がすこしの相識(しるべ)をたよりとし津(つ)の國(くに)へと志(こゝろざ)し風魔(こゝろみだれ)し栢木(かしはぎ)をいたわり歳(とし)はもゆかざる小君(こきみ)をたすけて二里(り)あまり〓(たど)り来(きた)り。地獄(ぢごく)ざかといふ切所(せつしよ)にぞさしかゝりける。時(とき)ははや二更(にかう)の頃(ころ)とおぼしく遠寺(えんじ)の鐘声(せうせい)(かすか)にひゞき涙(なみだ)いとはでとよみたる朧月(おぼろづき)さへ曇(くも)りがちにして行路(ゆくみち)もおぼつかなく渓(たに)の水音(みづおと)(まつ)(ふく)(かぜ)(こずゑ)をつたふ猿(ましら)のこゑそのわびしきこといへばさらなり。さすがに心剛(こゝろがう)なる由良之進(ゆらのしん)なればものに屈(くつ)せず両人(りやうにん)を倡引(いざなひ)て地獄坂(ぢごくざか)も半(なかば)越来(こえき)しをりしも路(みち)の傍(かたはら)なる茂林(もりん)のうちより七八人の山賊(やまだち)(ども)あらはれいで路(みち)の真中(まなか)に立塞(たちふさが)り前(さき)にすゝみし賊(ぞく)由良之進(ゆらのしん)を睚眦(ねめつけ)(なんぢ)がふところの重(おも)げに見ゆるは必定(ひつぢやう)路金(ろきん)の貯(たくはへ)あらん。命(いのち)(おしく)は置(おい)てゆけと足弱(あしよわ)(づれ)と見あなどる詞(ことば)を聞(きい)て由良之進(ゆらのしん)奴等(きやつら)に先(せん)をとられじと返答(へんとう)もなく抜打(ぬきうち)にぱつしと斬(きつ)たる手練(しゆれん)の早業(はやわざ)(さき)にすゝみし山賊(さんぞく)が首(くび)(ちう)にうちおとし轉々々(ころ/\/\)と下(くだ)り坂(さか).まろびゆきしを栢木(かしはぎ)が目(め)ばやく見つけてはしりつき生首(なまくび)を拾(ひろ)ひとり懐(いだき)かゝえて莞々(にこ/\)(わら)ひ.三之助よう戻(もど)りしぞ父上(ちゝうへ)もまちかねておはせしに.なぜ目(め)をあかぬ。目(め)をあきや.や.と月(つき)にすかして打(うち)おどろき礑(はた)と地上(ちしやう)へ投捨(なげすて)てのうおそろしやと泣叫(なきさけぶ)。乱心(みだれごゝろ)の我母(わがはゝ)をいたわる小君(こきみ)がかなしさつらさ身(み)のおき所(どころ)もなかりけり。由良之進(ゆらのしん)は猶(なほ)(ぞく)どもにわたりあひ勇(ゆう)を振(ふるふ)て戰(たゝかふ)にぞ小君(こきみ)は母(はゝ)の手(て)をとりてもと来(き)し道(みち)へ立(たち)もどり松(まつ)の木蔭(こかげ)に身(み)をかくし母(はゝ)をすかして言(ものいは)さずしばしはこゝにぞしのびをる。
「さて小君(こきみ)(ら)が忍(しの)びたる所(ところ)より道(みち)をへだてし向(むかふ)の方(かた)に這入(はひいる)ばかりに造(つくり)たる菰(こも)ばりの假屋(こや)のありつるがとしのほど四十(よそじ)あまりの女(をんな)非人(ひにん)假屋(こや)の出(で)ぐちにもうけたる垂(たれ)むしろを推撥(おしかゝ)げ面(つら)ばかりさしいだして光眼(ひかるまなこ)をむきいだし栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)が佇立(たゝずみ)をるを打(うち)見やりて莞尓(につこ)とわらひ心(こゝろ)のうちに点頭(うなづき)つゝ居(ゐ)ながら小石(こいし)を探(さぐ)りとり打(うち)ならすべき布(ぬの)の緒(を)も腐断(くちちぎれ)たる古(ふる)やしろの鰐口(わにぐち)を目(め)がけ〓(ねら)ひ違(たが)はず打(うち)つけしにこれやかねての相図(あいづ)ならん四五人の女(をんな)非人(ひにん)ども假屋(こや)のうしろの小徑(こみち)より.つと走(はせ)いでしを手揮(てまねき)してちかくよらせ耳(みゝ)につけて耳語(さゝやき)ければ此者(このもの)ども打(うち)うなづき栢木(かしはぎ)小君(こきみ)がかくれ居(ゐ)たる後(うしろ)の方(かた)へしのびより詞(ことば)もかけず手(て)どりあしどりものだにいはさぬ猿轡(さるぐつは)うちかつぎてぞ率(ゐ)てゆきける。
(こゝ)に又(また)由良之進(ゆらのしん)はかの賊(ぞく)どもを追(おひ)ちらし栢木(かしはぎ)小君(こきみ)がをらざるを見て大(おほい)に周意(あはて)二人(ふたり)が名(な)をかはる/\よばゝりつゝこゝやかしこをたづぬれども呼(よぶ)に答(こたふ)は〓〓(こだま)のみ更(さら)に行方(ゆくへ)のしれざれば心(こゝろ)せわしく胸(むね)をどり二人(ふたり)が身(み)のうへおぼつかなくをりから月(つき)も暗(くらく)なりてものゝあやめもわかたざればなほたづぬべき便(たより)もなくもしや打(うち)もらしつる山賊(さんそく)どもに勾引(かとひ)(ゆか)れ給ひしやらん。または怜悧(かしこき)小君(こきみ)どの里(さと)あるかたへおちつるか。便(たより)におぼす僕(やつがれ)にしばしなりとも別(わか)れてはさぞかしわびしくあるべきに賊(ぞく)が跡(あと)を追(おふ)べきか里(さと)あるかたへ走(はしら)んやとやせんかくやとたゆたひて西(にし)へ走(はしり)(ひがし)へはせ心迷(こゝろまよひ)しをりしもあれ最前(さいぜん)の女(をんな)非人(ひにん)假屋(こや)のうちより立出(たちいで)つゝ由良之進(ゆらのしん)を呼(よび)とゞめやよ旅人(たびゞと)の殿(との)二人(ふたり)(づれ)のお女中(ぢよちう)をたづね迷(まよ)ひ給ふにや。それはさきほど此(この)辻堂(つぢどう)を左(ひだり)へ過(よぎり)て走(はせ)給ひしが一定(いちぢやう)(さと)へとこゝろざし今(いま)ごろは四五町(てう)あまりも走(はせ)ゆき給ひつらん。

挿絵
【挿絵第十図 春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)山賊(さんぞく)と戰(たゝかふ)(づ)

とくあの道(みち)をいそぎ給へ。女子(をなご)ふたりで夜(よる)の道(みち)(あゝ)おいたはしやはやくおひつき給へかしといと信々(まめ/\)しくいひければ由良之進(ゆらのしん)これを聞(きゝ)(あざむ)かるゝとはつゆしらずこはよくこそしらせつれ。やうやくに安堵(あんど)せり。情(なさけ)の詞(ことば)うれしきぞと.市足(いちあし)いだしてはせゆきぬ。女(をんな)非人(ひにん)は跡(あと)見送(みおくり)(あゝ)虚気(うつけ)な漢(わろ)じやと令笑(あざわら)ひしづかに小哥(こうた)をうたひつゝ栢木(かしはぎ)小君(こきみ)をつれ去(ゆき)しかの小徑(こみち)へぞ立(たち)さりける。
○跡(あと)へ走(はせ)くる一人(ひとり)の旅人(りよじん)最前(さいぜん)の戦(たゝかひ)に由良之進(ゆらのしん)がおとしたる財布(さいふ)の紐(ひも)を足(あし)にかけ立(たち)とゞまりて拾(ひろ)ひとり毬灯(ちやうちん)にてらし見てこりや見おぼえのある金(かね)財布(さいふ)百両(りやう)(あまり)の此(この)大金(たいきん)すりや此道(このみち)にたがはじと拾(ひろひ)し財布(さいふ)を懐中(くわいちう)なし足(あし)をはやめてはしりゆきぬ。此(この)旅人(りよじん)善人(ぜんにん)なるか悪人(あくにん)なるか次(つき)の巻(まき)に載記(のせしるし)たるを見てしろしめせかし。

  第六回 鳴琴(めいきん)

栢木(かしはぎ)小君(こきみ)を勾引(かどひ)たる女(をんな)非人(ひにん)は名(な)を鬼芝(おにしば)とよびて地獄坂(ぢごくざか)の谷陰(たにかげ)に住居(すまゐ)して多(おほく)の女(をんな)非人(ひにん)を集(あつめ)て其(その)首長(かしら)となり昼(ひる)は手下(てした)の女(をんな)どもを四方(しほう)にいだして此丘尼(びくに)順禮(じゆんれい)辻神子(つぢみこ)辻太夫(つぢたいふ)のたぐひに打扮(いでたゝ)せて錢(ぜに)を乞(こは)せ一日(いちにち)の食(しよく)雜用(さうよう)(その)(あたひ)をさだめて貪取(むさぼりとり)一銭(いつせん)にても不足(ふそく)あるときはいたくむちうつ事(こと)地獄(ぢごく)の鬼(おに)の餓鬼(がき)を責(せむ)るが如(ごと)くなれば阿芝(おしば)といふ名(な)もおのづから鬼芝(おにしば)とぞ呼(よび)なしける。地獄坂(ぢごくざか)の谷(たに)かげこそ鬼芝(おにしば)が住居(すまゐ)にはいと似(に)やはしけれ。
○去程(さるほど)に鬼芝(おにしば)はかの假屋(こや)をいでゝ谷陰(たにかげ)の住家(すみか)に皈(かへ)り出歯(でば)の葱(ねぶか)と異名(いみやう)せし五十余(いそじあま)りの女(をんな)非人(ひにん)をよびよせ栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)が事(こと)をたづねけるにねぶかゞはからひにて空屋(あきや)のうちに縛(くゝ)しおきつるときゝてうち点頭(うなづき)(かけ)火鉢(ひばち)に陶器(とくり)の酒(さけ)を煖(あたゝめ)ながら今日(けふ)の命(いのち)をつなぎたる雜用(ぞうよう)(せん)を改(あらため)見て.誰(たれ)も/\能(よく)(せい)が出(で)るかして一銭(いつせん)も不足(ふそく)がない。此(この)鬼芝(おにしば)も毎日々々(まいにち/\)坂中(さかなか)の假屋(こや)に出(で)て往来(ゆきゝ)の人(ひと)に銭乞(ぜにこひ)ながら懐中(くわいちう)行李(にもつ)に目(め)をとゞめ山賊(さんぞく)どもが犬(いぬ)となるも畢竟(ひつきやう)はもの奪(うばひ)たる分口(わけくち)が慾(ほし)さゆゑ何(なに)になりても安(やす)くは居(ゐら)れぬ世(よ)のたつき明日(あす)もまた精(せい)(だ)して銭(ぜに)を乞(こ)へ.サァ/\みないてやすめ/\とゆるしをうけて女(をんな)ども囲炉裏(いろり)の四囲(めぐり)により集(あつま)り今日(けふ)物乞(ものこひ)し身(み)の上(うへ)(ばなし)古木(ふるき)を焚(たき)て缺茶鐺(かけちやがま)(に)る茶(ちや)も花香(はなが)はなかりけり。心悲(あ〔は〕れむ)べし栢木(かしはぎ)(こ)きみは出歯(でば)の葱(ねぶか)に引(ひか)れつゝ鬼芝(おにしば)が面前(めんぜん)に居(すえ)られければ小君(こきみ)はかなしさやるせなく如何(いか)なる者(もの)の住家(すみか)ぞと怖々(こは/\)あたりを顧(かへりみ)れば壁(かべ)くづれ地板(ねだ)(くち)て何(なに)となき臭気(しうき)(はな)を襲(おそ)ひ囲炉裏(いろり)のはたに居並(ゐならび)たる女原(をんなばら)を見れば老(おひ)たるもあり若(わか)きもありておほくは襤褸(つゞれ)を身(み)にまとひ髪(かみ)はおどろをいたゞきて面(おもて)(あか)づき蝨(しらみ/シラムシ)をひろひて前歯(まへば)に噛(かむ)もあり.笊籬(ざる/イガキ)のうちに半(なかば)見えたる米(こめ)を探(さぐ)りて銭(ぜに)を撰(え)りいだすもあり.瘡(かさ)の膿汁(うみしる)を拭(ぬぐ)ひをるかたはらにて缺腕(かけわん)に稗飯(ひえめし)たかくもりて打食(うちくふ)もあり.梅干(うめぼし)(おけ)

挿絵
【挿絵第十一図 山中(やまなか)左エ門(さゑもん)の妻(つま)(こ)を失(うしなひ)て狂人(きちがい)となる。娘(むすめ)小君(こきみ)千辛(せんしん)万苦(ばんく)して孝(かう)をつくす】

うちへ痰(たん)を吐(はき)たるを薯蕷汁(とろゝじる)とまちがへ奮(ばひ)とりてかい啜(すゝ)るもありて惣(さなが)ら乞食(こつじき)の住家(すみか)なれば小君(こきみ)はたゞ胸(むね)のみをどりて詞(ことば)をも出さゞりけり。
鬼芝(おにしば)小君(こきみ)にむかひ汝(なんぢ)がかたはらにをるは汝(なんぢ)が面(つら)に似(に)かよひたればさだめし母(はゝ)にてありつらんがかゝる所(ところ)にて居眠(ゐねふ)りする体(てい)(き)ちがひとこそしられつれ。親子(おやこ)ともに此所(このところ)に捕(とらは)れしうへは井(ゐ)に陥(おち)たる蟇(ひきがいる)も同前(どうぜん)なればとてもかくても逃(にげ)いづることはかなひがたし。今日(けふ)より我(わが)乞食(こつじき)の群(むれ)に加(くはゝ)り明日(あす)より街(ちまた)にいでゝ銭(ぜに)を乞(こひ)雜用(ぞうよう)の銭(ぜに)をつくのひて長(ながら)く此所(このところ)にとゞまるべし.もし又(また)それに隨(したがは)ずは地獄坂(ぢごくざか)の鬼芝(おにしば)が餓鬼(がき)(せめ)にせめつけて辛(から)き憂(うき)めにあはすぞと茶碗(ちやわん)の酒(さけ)を飲(のみ)ながらさもにくさげに云(いひ)ければ小君(こきみ)は悲(かなし)さ怖(おそろし)さおに芝(しば)に打對(うちむかひ)いかに御身(おんみ)が云(いふ)(ごと)くこれなるは妾(わらは)が母上(はゝうへ)なり。ゆゑありて狂気(きやうき)となり父上(ちゝうへ)も非命(ひめい)に死(し)し剰(あまつさへ)(いへ)をも失(うしなひ)て都(みやこ)のしるべを心(こゝろ)ざし道(みち)を急(いそぐ)(もの)なれば慈悲(じひ)とも情(なさけ)とも思ひとりて何(なに)とぞゆるしてかへし給へと泣(なき)ながら云ければ鬼芝(おにしば)は小君(こきみ)が泣(なく)を見てかたほに打笑(うちえみ)じひの情(なさけ)のとは日来(ひごろ)わしらがつかふ詞(ことば)と云(いふ)を聞て栢木(かしはぎ)が「なに鷲(わし)が掴(つかむ).ヲゝ掴(つかむ)とも/\眼(まなこ)の光(ひかり)にゆだんすな。小君(こきみ)をつれて逃行(にげゆか)んこちへ/\と手(て)をとりてはせいださんとなしけるを出歯(でば)のねぶかゞ立塞(たちふさが)り栢木(かしはぎ)を突倒(つきたふ)しあだかしましい風魔(きちがひ)(をんな)こいつは大(おほ)きな〓(かつぎ)ものいつその事に一思ひと喉(のんど)に両手(りやうて)をかけゝれば小君(こきみ)はあはてゝとりすがりこれのうゆるしてくださんせと子(こ)どもの軟弱(かよわき)(ちから)にて推停(をしとゞめ)んとなしけるにちよこざいすなと踏倒(ふみたふ)し已(すで)にあやうき命(いのち)の際(きは)鬼芝(おにしば)ねぶかに声(こえ)をかけ「やれまて出歯(でば)よまだはやいは。氣短(きみじか)に事(こと)をすな。其(その)(き)ちがひめに口(くち)たゝかせては〓(かしま〔し〕)しからん。猿轡(さるぐつわ)に三寸(さんずん)(なは)其所(そこ)の楹(はしら)に縛(くゝし)ておけとさしづにまかせぐる/\まき荒木(あらき)(ばしら)の後手(うしろで)は目(め)もあてられぬ形勢(ありさま)なり。小君(こきみ)はいとゞかなしくて母(はゝ)うへのふと立よれば突(つき)のけられて浪々々(よろ/\/\)。また起上(おきあが)れば蹴倒(けたふ)され.ヱヽくちおしい旡念(むねん)じやと長袂(ながきたもと)をかほにあて哽咽(むせかへり)てぞ泣臥(なきふし)ける。
鬼芝(おにしば)ねぶかと顔(かほ)見あはし.年(とし)にも似(に)ざる胆心(きもこゝろ)のある小女郎(こめらう)かな。怜悧(かしこき)やつは物(もの)の道理(だうり)も暁(さと)させやすし。汝(なんぢ)(わが)いふ事をよく聞(きゝ)をれ。最前(さいぜん)もいふ如(ごと)く此所(このところ)へ捕(とらは)れては辞(いや)でも唯々(おゝ)でもわがおもふ如(ごと)くになして追(おひ)つかはでおくべきかは。乞食(こつじき)の群(むれ)に加(くはゝ)りて此(この)ところにとゞまりをらば母(はゝ)の命(いのち)もつゝがなく縄目(なはめ)は今(いま)にもゆるしてとらす。辞(いや)か唯々(おゝ)か返詞(へんじ)せいと又(また)(かたむく)る茶碗(ちやはん)の酒(さけ)むかしは色香(いろか)もありつらんとおもふ目(め)もとも打凹(うちくぼ)み頬(ほふ)さきこけて鼻(はな)(とが)り色艶(いろつや)うせし顔色(がんしよく)は枝(えだ)にふりある櫻樹(さくらぎ)の立枯(たちがれ)したるごとくなり。出歯(でば)のねぶかは鬼芝(おにしば)に打(うち)(むか)ひ見れば面(かほ)もうつくしく歳(とし)のほども十二三袖乞(そでごひ)さするは惜(をし)きしろもの。人買(ひとかひ)にうりわたさばといふを打(うち)けす鬼芝(おにしば)が「それをおのしに習(なら)はふか。あの氣(き)ちがひめを人質(ひとじち)とし此(この)小女児(こびつちよ)を街(ちまた)におひだし袖乞(そでごひ)さすれば人買(ひとかひ)の目(め)にとまり先(さき)から来(きた)りて買(かは)んといへば百両(りやう)のものならば二十両(りやう)や三十両(りやう)の足(あし)がつきて高直(たかね)になるは必定(ひつぢやう)ならん。もし又(また)きやつが親族(しんぞく)ども此(この)両人(りやうにん)をとりもどさんといはんには乞食(こつじき)(むれ)の足洗(あしあらひ)(ぜに)いづれの道(みち)にも金(かね)の蔓(つる)じや。斯(かう)こま/\しく心(こゝろ)づけねば多(おほく)のたばねがなるべきかといはれてねぶかはかしらを掻(かき)たくみのふかきをかんじけり。
小君(こきみ)はやう/\顔(かほ)をあげ.とてものがれぬわれ/\二人(ふたり)おん身(み)らが群(むれ)にいりいかなる事(こと)をもすべきほどに母(はゝ)うへのあの縄目(なはめ)(なに)とぞゆるしてくだされと哭泣(なみだ)ながらにいひければ鬼芝(おにしば)は打(うち)うなづき.唯々(おゝ)そうなくてはかなはぬ事。三日乞丐(こつがい)の身(み)となれば三年(さんねん)(その)(たのしみ)をわすれずといふ世(よ)の諺(ことわざ)もあれば乞食(こじき)の飯(めし)も喰(くふ)て見よ。我群(わがむれ)にて銭乞(ぜにこふ)にもさま%\の為方(しかた)あれども藝(げい)をなして銭(ぜに)を乞(こ)ふものは

挿絵
【挿絵第十二図 柏木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)丐嫗(こじきかゝ)の手(て)に捕(とらへ)られて辛苦(しんく)にあふ】

三〓(みさし)や四〓(よさし)とりあぐるは苦(く)にならぬ。賎(いや)しからぬ汝(なんぢ)が人品(ひとがら)(さだめ)て覚(おぼえ)し藝(けい)があらふ。鼓(つゞみ)うつか舞(まひ)まふかたゞしは琴(こと)か川字線(さみせん)かそれいへと問(と)ひかけられ乞食(こつじき)非人(ひにん)となりさがるはいかなる前丗(ぜんせ)の因果(いんぐわ)ぞとまたむせかへる悌泣(すゝりなき)。葱(ねぶか)にまけぬ髯〓(けむし)の男勝(をかつ)家鴨(あひる)のやうにあゆみいで.これ小女児(こびつちよ)苦痛目(いたいめ)にあはぬうち藝(げい)があらばはやういへいはぬとかうじやがこたえたかと腿(もゝ)をふつゝり摘(つめ)られて顔(かほ)(あか)らめて痛(いたみ)をしのび「もうゆるしてくだされませ。藝(げい)といふていひたつる程(ほど)のことはなけれども母人(はゝびと)にをしえられし筑紫琴(つくしごと)と諸禮(しよれい)の折(をり)形花(かたはな)むすびふつゝかながらといひさしてまたもなみだにくれければ鬼芝(おにしば)はうちわらひ諸禮(しよれい)折形(をりかた)(はな)むすびは銭(ぜに)もらふ用(よう)にはたゝぬは。まだしも琴(こと)をおぼえしは其身(そのみ)の幸(さいは)ひ前(さき)の月(つき)痘瘡(もがさ)で死(しん)だ小草(こぐさ)が遺物(かたみ)の破琴(やぶれごと)義甲(つめ)もきやつには合(あふ)であろとりいだして弾(ひか)せて見よ。その藝(げい)のよしあしで銭貰(ぜにもら)はする所為(すべ)が違(ちが)ふとさしづに葱(ねぶか)がこゝろえて破(やぶ)れ襖(ふすま)の納戸(なんど)よりとりいだしたる古琴(ふるごと)に柱匣(ぢばこ)と琴甲(つめ)をとりそえて小君(こきみ)が前(まへ)にさしつくれば囲炉裏(ゐろり)のほとりの女(をんな)ども興(きやう)ある事(こと)に思ひつゝ小君(こきみ)がめぐりに居(ゐ)(なら)びて謗(そしり)つ笑(わら)ひつ鴬(うぐひす)を烏(からす)がなぶるごとくなり。小君(こきみ)はなんとせんかたもなみだを拭(ぬぐ)ひて引寄(ひきよす)る片脚(かたあし)(もげ)たる趁跛(ちんば)琴柱(ことぢ)(ばこ)を脚(あし)に挟助(かいもの)し胸(むね)も逆柱(さかぢ)にせりつめし声(こゑ)を哀(あはれ)にふりたてゝ

(八かけまへかずならぬ (十かけむかふ身にはたゞ (きんかけむかふ思ひもなくてあれかし (六かけむかふ人なみ/\の うすころも (十より八まで九十袖のなみだぞ (七半かけ七ひかずむかふよりかなしき

といとたえにかきならせば栢木(かしはぎ)は身(み)を惆動(もがき)つゝ猿轡(さるぐつは)を振解(ふりほどき).あなくるしやたえがたや腕(かいな)も断(ちぎ)るゝばかりぞやと強(つよく)(くゝ)せし荒縄(あらなは)に腕(うで)(くび)を摺(すり)やぶりながるゝ鮮血(ちしほ)(したゝ)りて簀子(すのこ)を朱(あけ)に染(そめ)なせり.小君(こきみ)は見るよりむせかへりのぞみにまかせしうへからは母(はゝ)うへの縛(いましめ)をどふぞゆるして給はれといへども鬼芝(おにしば)(かしら)をふり.いな/\気(き)のちがふたるやつなれば容易(たやすく)縄目(なはめ)はゆるしがたし。哭面(ほえづら)せずと琴(こと)をひけ弾(ひか)ぬと母(はゝ)に痛(いたい)めさすぞと睚眦(ねめ)つけられてこゑふるはし

(十かけむかふあごかれて (十かけむかふおもひねのまくらにかはす (八かけむかふおもかげ
(左二ツのちの左より引れんそれかとてかたらんと (四二ッ九思へばゆめは (七半かけ/むかふより七引ず八さめけり

栢木(かしはぎ)は涙(なみだ)をふるひあなくるしや/\.もふよきほどにゆるしてたべ。小(こ)きみ詫(わび)してたもらぬかと母(はゝ)は縄目(なはめ)に身(み)を惆動(もがき)(こ)は琴(こと)の緒(を)に責(せめ)られて涙(なみだ)に湿(しめ)る爪音(つまおと)もいとゞあはれにきこえける。

(とかけまへしら雪の (七引ず三二ッ八みゆきの (十より八まで三二ッ/八二ッのちの八よりつもるとしは (引れんふるとも (十かけあらまじや
(九十ともろ五十八ともに (かいて左二ッねみだれかみの (七かけむかふ/七引ず 九かほはせ

鬼芝(おにしば)は声(こゑ)をかけ.もふよいやめにせい。軒(のき)に立(たち)て物乞(ものこふ)にはやくにたゝぬ筑紫琴(つくしこと)明日(あす)から石山寺(いしやまでら)の境内(けいだい)にて草席(むしろ)の上(うへ)に面(かほ)を晒(さら)し琴(こと)をひきて銭(ぜに)(もら)へ。母(はゝ)と汝(なんぢ)と二人前(ふたりまへ)の喰(しよく)雜用(ぞうよう)四〓(よさし)の銭(ぜに)を虧(かく)しをると懲(こらし)めの小刀(こがたな)(はり)(から)き憂目(うきめ)にあはするぞ。これ髯〓(けむし)よ気(き)ちがひめが縄(なは)をとき薮蔭(やぶかけ)の空家(あきや)へ追入(おひいれ)(と)ざしを嚴(きび)しくかためておけ.小児女(こびつちよ)が琴(こと)の手(て)なみ手(て)が韜(しなひ)てよかんめり。こゝへ来(きた)りて腰(こし)をうてといはれて小君(こきみ)は又(また)(びつく)り胸(むね)を冷(ひや)して立(たち)かぬるを来(き)をらぬかと叱(しか)られて.怖(お)づ/\側(そば)によりそへば惡臭(あしきか)のする織布(あらたへ)に肥(こへ)たる臀(し り)の細帯(ほそおび)は似気(にげ)なく艶(えん)なる鹿(か)の子(こ)(ゆひ)乞食(こじき/カタイ)の腰(こし)をうつくしく貴(あて)なる小君(こきみ)が打(うつ)思ひ旡慚(むざん)にも又(また)怛々然(いたまし)かりけり。
鷲談傳竒桃花流水巻之二終


鷲談傳竒桃花流水(わしのだんでんきとうくわりうすい)巻之三

江戸 山東京山編次 

  第七回 乞銭

(そも/\)近江國(あふみのくに)石山寺(いしやまでら)は。天平(てんへい)勝宝(しやうほう)六年の草創(そう/\)にして。本尊(ほんぞん)二臂(ひ)如意輪(によいりん)観音(くわんおん)は。長(みたけ)(わづか)に六寸。聖徳(しやうとく)太子(たいし)の御作(おんさく)なり。聖武(しやうむ)の朝(てう)にいたりて。僧正(そうじやう)良辧(りやうべん)丈六(じやうろく)の如意輪(によいりん)をつくりて。太子(たいし)の御作(おんさく)を腹内(たいない)におさめ給ふ。今(いま)の本尊(ほんぞん)これなり。凡(およそ)一千(いつせん)(ゆう)餘年(よねん)の霊場(れいぢやう)なれば。都鄙(とひ)遠近(えんきん)の参詣(さんけい)日毎(ひこと)に群(ぐん)をなし。絡々(らく/\)繹々(ゑき/\)としてしばらくもたゆることなし。
(ころ)しも弥生(やよひ)のすへなれば。山内(さんない)の花(はな)ども散(ちる)あり開(ひら)くありて。ことさらに熱閙(にぎは)しく。さま%\の商人(あきびと)は更(さら)なりいろ/\の物乞(ものこひ)あるがなかに。色(いろ)よく咲(さき)し藤架(ふぢだな)の下(もと)に筵(むしろ)をしき筑紫琴(つくしごと)をかきならして。もの乞(こふ)(むすめ)あり。そのありさまいかにとなれば。髪(かみ)は京様(みやこふう)に結(ゆい)なして。花(はな)の元結(もとゆひ)をかけ。蘆花(すゝき)のかんざしをいたゞき。花田(はなだ)の絹(きぬ)に紅葉(もみぢ)の流(なが)るゝさまを。色入(いろいり)に染(そめ)いだしたる振袖(ふりそで)に。鹿子(かのこ)綸子(りんず)の紫(ゆかり)の色(いろ)も。すこしうつろひたる帯(おび)を結(むす)びたれ。泣(なき)はらしたりと見ゆる目(め)もとも。結句(けつく)はうるはしき。これすなはち山中(やまなか)左衞門(さゑもん)が娘(むすめ)の小君(こきみ)なりけり。例(れい)のたえなるつま音(おと)といひ。貴(あて)やかなるすがたを見て。この藤架(ふぢだな)の四邊(めぐり)(ところ)せきまでにつどひあつまり。押(おし)(こり)(たち)て聞(きく)もあり。傍(かたはら)の憩所(いこひじよ)に腰(こし)かけて聞(きゝ)をるもありて。人々(ひと%\)(ぜに)を投与(なげあた)ふれば。琴(こと)をひきながら頭(かしら)をたれて礼(れい)をなすさま。いかにもあはれげなれば。情(なさけ)も冨家(ふか)の女房(にようぼう)たちは露銀(つゆぎん)の涙(なみだ)をおとし。慈悲(じひ)も有徳(うとく)の翁(おきな)らは繋銭(つなきぜに)の耳(みゝ)をかたふけければ。小君(こきみ)は日毎(ひごと)におほくの銭(ぜに)をえて。定(さだめ)の食(しよく)雑用(ぞうよう)を缺(かゝさ)ず〓(つくの)ひ母(はゝ)には口(くち)にかなふものをもとめてすゝめ。猶(なほ)あまりたる銭(ぜに)は鬼芝(おにしば)へ与(あた)へければ。如法(によほう)貪慾(とんよく)の鬼芝(おにしば)なれば。いつもゑかほをつくりて。拳(こぶし)をあてらるゝ事(こと)もなく。思ひしよりはなか/\に心(こゝろ)こそやすくはあれ。
日毎(ひごと)に顔(かほ)を晒(さら)して。もの乞(こひ)するは。其身(そのみ)ばかりか親(おや)までの耽辱(ちじよく)なれば。身(み)をきらるゝやうにかなしくは思へども。一銭(いつせん)の貯(たくはへ)もなく立(たち)よるべき蔭(かげ)だになければ。よしや母(はゝ)をつれて立(たち)のくとも。乞食(こつじき)するより外(ほか)に思案(しあん)なく。かくてあらば。由良之進(ゆらのしん)がたづね来(く)ることもやあるらんと。それをはかなき便(よすが)にて月(つき)ごろをすごしけり。小君(こきみ)が心(こゝろ)のうちいかばかりわびしかりけん。おもひはかるべし。
山中(やまなか)左衞門(ざゑもん)が親(した)しかりしものどもゝ。栢木(かしはぎ)小君(こきみ)らは非人(ひにん)とまでになりさがりしなんど。知(しり)をるものもありつれども。罪(つみ)をおかせしものゝ妻子(つまこ)なりとて。すくひたすくる人(ひと)もなく。当國(たうごく)の徘徊(はいくわい)はとゞめられし

挿絵
【挿絵第十三図 山中(やまなか)左エ門(さゑもん)の娘(むすめ)小君(こきみ)(ちゝ)にわかれ家(いへ)を失(うしな)ひ冷落(れいらく)して路上(ろしやう)に琴(こと)を弾(たん)じもつて母(はゝ)をやしなふ】

(み)なれども。乞食(こつじき)となりては余所(よそ)(め)に見なして。そのとがめもなく。夏(なつ)をむかへ秋(あき)をおくりて。冬(ふゆ)のすゑにぞいたりにける。此(この)ごろは歳(とし)もやゝおし迫(せま)りければ。街(ちまた)の踏音(くつをと)せわしくひゞきて。往来(ゆきかふ)(ひと)も用(よう)ありげに走(はせ)さり。空(そら)さへ時雨(しぐれ)がちなれば。石山(いしやま)(まうで)の人足(ひとあし)も。木(こ)の葉(は)とともに散(ちり)ゆきて。山内(さんない)すべて物(もの)さみしければ。小君(こきみ)は朝(あさ)まだきに起(おき)いでゝさとにくだり。こゝかしこの軒(のき)に立(たち)て袖乞(そでごひ)をなし。昼(ひる)より例(れい)の所(ところ)にいでゝ。寒風(かんふう)に膚(はだへ)を吹(ふか)れ。琴(こと)をかきならす手(て)の亀手(こゞゆる)を。たえしのびつゝ。こゑのかぎりふりたてゝ。謡(うた)へども。かの藤架(ふぢだな)の藤波(ふぢなみ)も。よるとたのめし人足(ひとあし)は稀(まれ)にして。降来(ふりく)るものは木(こ)の葉(は)のみ。暮(くれ)やすき冬(ふゆ)の日(ひ)なれば。とかくする間(ま)に。日(ひ)もはや西(にし)へ入相(いりあひ)の鐘(かね)ひゞきければ。蒔(まき)ちらせし銭(ぜに)を落葉(おちば)とともにかきあつめ。朝(あさ)のほど袖(そで)ごひしたる銭(ぜに)と。あはせつれども。今日(けふ)の命(いのち)を繋(つな)ぐべき数(かづ)に足(たら)ず。鬼芝(おにしば)にこれをつかはさば。いかなる憂目(うきめ)にやあふべき。とかなしくもおそろしかりしが。如法(によほふ)孝行(かう/\)の小君(こきみ)なれば。其身(そのみ)の打擲(うちたゝか)るゝを覚悟(かくご)にて。母(はゝ)に餓(うゑ)をしのがせんと。御寺(みてら)の門前(もんぜん)に出(いで)て。餅賣(もちうる)(かど)に腰(こし)をかゞめ。人並(ひとなみ)の價(あたへ)をいだしながら。乞食(こつじき)のかなしさには詞(ことば)をひくゝいひければ。主(あるじ)の女房(にようぼう)小君(こきみ)を見て。いと不便(ふひん)に思ひ。價(あたへ)をかへしてのぞみの如(こと)くとらせよといひければ。店(みせ)の小ものも情(なさけ)あるものにて。餅(もち)あまたをとらせければ。小君(こきみ)はうれしく。御家(おいへ)さまありがたふござりますと。いかにも乞児(かたゐ)めきたる詞(ことば)を出(いだ)して禮(れい)をのべ。地獄坂(ぢごくざか)へと急(いそ)ぐほどに。日(ひ)もいりはてゝ雪(ゆき)さへふりいだしつるが。竹笠(たけがさ)だにもたざれば。袖(そで)うち払(はら)ひつゝ跣(すあし)になりて。闇(くら)き道(みち)を心(こゝろ)ぼそくたどる/\。かの荒屋(あれいへ)に皈(かへ)りつき。干破戸(ひわれど)の隙間(すきま)より内(うち)のやうすをさし覗(のぞけ)ば。囲炉裏(ゐろり)に榾火(ほだひ)をたきて。おほくの女(をんな)非人(ひにん)ども腹(はら)かきいだしてあたりをり。
鬼芝(おにしば)は例(れい)の陶器(とくり)(ざけ)を飲(のみ)をれり。小君(こきみ)は戸尻(とじり)(わづか)にあけて枯〓(こそろ)といり。水桶(みづおけ)のもとに足(あし)そゝぎて居(ゐ)たりしに。かの葱(ねぶか)榾火(ほだひ)の火(ひ)かげに透(すか)し見て。「誰(たれ)にかある小君(きみ)ならずや。いかにしてか遅(おそ)かりしぞ。鬼芝(おにしば)どのゝ下待(したまち)て居(を)らるゝに。とくかしこへゆけといふ。其詞(そのことば)の片端(かたはし)を鬼芝(おにしば)(みゝ)ばやに聞(きゝ)つけ。小君(こきみ)が皈(かへ)りしとや爰(こゝ)へ来(こ)よと呼(よび)つけられ。おづ/\渠(かれ)が面前(まへ)にいで。懐中(ふところ)より繋(つなぎ)たる銭(ぜに)をとりいだし。今日(けふ)は空(そら)も時雨(しぐれ)候故(ゆゑ)に人足(ひとあし)もすくなく。半〓(はんさし)あまり不足(ふそく)にははべれども。今日(けふ)の不足(ふそく)は明日(あす)こそ償(つくのひ)はべるべけれ。まづ是(これ)を取納(とりおさめ)給はるべし。といひてさしいだしければ。鬼芝(おにしば)(これ)を聞(きゝ)て眼(まなこ)を大(おほ)きくなし。汝(なんぢ)此程(このほど)は乞児(かたゐ)の業(わざ)も馴顔(なれがほ)になりて。朝(あさ)のほどは人(ひと)の門(かど)に立(たち)(ほどこし)の手(て)のうちを〓(かせ)ぎ。晝(ひる)はかしこにありて物乞(ものこ)へば。僅(わづか)に四〓(よさし)の銭(ぜに)を懐(ふところ)にせざる事(こと)はよもあらじ。跛(あしなへ)の阿卞和(おべくは)。盲(めしひ)のお杖(つゑ)さへ。定(さだめ)の食料(しよくりやう)は一銭(いつせん)も缺(かく)(こと)なし。思ふに汝(なんぢ)は物乞(ものこひ)さきにて餅(もち)(くだもの)を買(か)ひ喰(くら)ひ。旡用(むよう)の銭(ぜに)を費(つひや)すゆゑに。肝要(かんえう)の食料(しよくりやう)には足(たら)ざるとおぼえたり。餓鬼(がき)の口先(くちさき)にて此(この)鬼芝(おにしば)を掠(かすめ)んとするこそ心憎(こゝろにく)けれ。打(うた)ずは腹(はら)のすゑやうなしと。襟首(ゑりくび)(つか)んで引倒(ひきたふ)し。飲乾(のみほし)たる酒壜(とくり)をもつて。續(つゞけ)(うち)にうちすえければ。酒壜(とくり)はくだけて飛散(とびちり)つゝ。額(ひたい)に疵(きづ)をうけゝれば。小君(こきみ)はかなしきこゑをあげ。これのうゆるしてくだされと。身(み)を縮(ちゞめ)て逃(にげ)んとするを。如法(によほふ)非道(ひだう)の鬼芝(おにしば)なれば。耳(みゝ)にもいれず。髻(もとゞり)を手(て)にからみ。宙(ちう)にひきたて打(うた)んと拳(こぶし)をあげけるに。小君(こきみ)が袂(たもと)より債(もらひ)たる餅(もち)ども。打(うち)こぼれければ。鬼芝(おにしば)これを見てます/\いかり。偖(さて)こそ/\といひつゝ猶(なほ)つよく責(せめ)つけゝり。女(をんな)ばらは側杖(そばつゑ)をおそれて。立(たち)よるものもなかりしが。此(この)(もち)を見てたまりえず。ばひちらがひて拾(ひろ)ひとりしに。跛(あしなへ)のお卞和(べくわ)も這(は)いだして拾(ひろ)ひければ盲(めしひ)のお杖(つゑ)も缺(かけ)酒壜(とくり)に探(さぐ)りあて。餅(もち)とこゝろえ一口(ひとくち)にかぶりつき。打驚(うちおどろき)たる顔(かほ)の。いと可咲(おかし)ければ。葱(ねぶか)と彼(かの)黒塚(くろつか)が見て。鉄漿(はぐろめ)のとゞろ兀(はげ)たる廣(ひろ)くちあきて。くはつ/\と笑(わら)ひけり。
鬼芝(おにしば)はやう/\小君(こきみ)をゆるして突(つき)はなち「けふはまづゆるしつかはすべきが。明日(あす)より一銭(いつせん)にても不足(ふそく)あらば。かの氣(き)ちがひめをほし殺(ころ)し。一人前(いちにんまへ)の銭(ぜに)をへらし。心(こゝろ)やすくしてとらすべし。此(この)小女郎(こめろう)にかゝづらひて酒(さけ)のゑひをさましたり。いざ火桶(ひおけ)(かゝ)へて眠(ねふら)んと。破(やぶれ)ふすまを引(ひき)たてゝ。ひとまのうちへ入(いり)にけり。小君(こきみ)は袖(そで)を顔(かほ)にあて。ひらみ臥(ふし)てゐたりしが。葱(ねぶか)黒塚(くろつか)を始(はじめ)として。臥戸(ふしど)/\へ立(たち)さりければ。跡(あと)に小君(こきみ)は唯(たゞ)一人(ひとり)。やう/\と顔(かほ)をあげ。松江(まつえ)の判官(はんぐわん)秋季(あきとし)(こう)の長臣(ちやうしん)。山中(やまなか)左衞門(さゑもん)の冢子(そうりやう)(むすめ)。いかに零落(れいらく)しつればとて。乞食(こつじき)非人(ひにん)に打擲(うちたゝか)れ。面(おもて)に疵(きづ)までうけたること。犬猫(いぬねこ)に斉(ひと)しきぞや「ヱヽくちをしや旡念(むねん)やと。袖(そで)を喰裂(くひさき)(み)をもだへ。すゝりあげたる血(ち)の涙(なみだ)。ことはりせめて〓惻(いぢら)し。折(をり)から二更(かう)の鐘(かね)ひゞき。栖(ねぐら)をかゆる厂(かり)のこゑ。窓(まど)の障子(しやうじ)にさら/\と。降(ふり)かゝりたる夜(よる)の雪(ゆき)。筧(かけひ)の水もむせかへり。いとゝ哀(あはれ)をそえにけり。
小君(こきみ)はひとり打(うち)点頭(うなづき)。抜足(ぬきあし)しつゝ。鬼芝(おにしば)が臥戸(ふしど)のふすまにしのびより。耳(みゝ)をつけて寝息(ねいき)をうかゞひ。ふすまをわづかにおしあけて。母(はゝ)を入おく空屋(あきや)の鑰子(かぎ)を盗取(ぬすみとり)て。又(また)抜足(ぬきあし)しつゝ。背戸(せど)の口(くち)を徐々(しづか)にあけ。こそりと出(いで)て戸(と)を引(ひき)たて。盗(ぬすみ)し鑰(かぎ)を口(くち)に咥(くは)え。裾(すそ)鶴脛(つるはぎ)に引(ひき)あげつゝ。雪(ゆき)ふみわけて空屋(あきや)にはせより。鬼芝(おにしば)が干殺(ほしころ)すといひし一言(いちごん)おそろしく。今夜(こよひ)(はゝ)をたすけいだし。何方(いづく)へなりとも落行(おちゆか)んと。鑰(かぎ)をあはせて鎖(じやう)をあけ。戸(と)の端(はし)に手(て)をかけて。明(あけ)んとせしにさらに明(あか)ず。諸手(もろて)をかけてもあかざれば。なほさま%\になしけれども。釘(くぎ)をもてかためしごとく。指(ゆび)の入(い)る程(ほど)もあかざれば。こはいかなる事にかと。頭(かしら)かたげて不審(いぶかし)みしが。歳(とし)に似(に)あはぬ發明(はつめい)なれば。さては今夜(こよひ)の雪(ゆき)にて。戸(と)の氷(こほ)りつきしに疑(うたがひ)なし。と心付(こゝろづき)はしつれども。洒(そゝ)ぐべき湯茶(ゆちや)もなく。打毀(うちこぼた)ばかしこへひゞきて。渠(かれ)(ら)が眠(ねふ)りを覚(さま)し。捕(とら)へられんは必定(ひつじやう)なり。こはいかにせん残念(ざんねん)やと。軒(のき)の氷柱(つらゝ)も劍(つるぎ)の山(やま)。涙(なみだ)も氷(こほり)の地獄坂(ぢこくざか)。こゝにて母(はゝ)を殺(ころ)すかと。こゑをしのびて哽咽(むせかへり)。雪(ゆき)のうちに臥轉(ふしまろ)び。しばし涙(なみだ)にくれけるが。空屋(あきや)のうちの靜(しづか)さに。母の身のうへおぼつかなく。家(いへ)の后(うしろ)へ立(たち)まはり。小(ちいさ)き窗(まど)に顔(かほ)をよせ。雪(ゆき)の明(あか)りにすかし見れば。こはいたましや栢木(かしはぎ)は。髪(かみ)はおどろをいたゞきて。古薦(ふるこも)を敷物(しきもの)とし。小君(こきみ)が力(ちから)に辛苦(しんく)して。繿(つゞ)りあげたる。小蒲團(こぶとん)を身に覆(おほ)ひ。弓(ゆみ)のごとく身をかゞめ。塵芥(ちりあくた)のうちに打臥(うちふし)たるは。旡慙(むざん)といふもおろかなり。小君(こきみ)は一目(ひとめ)見るよりも。むねせまりて哽咽(むせかへり)。母(はゝ)さまのふと云(いは)んとせしが。こゝろづきて口を覆(おほ)ひ。心乱(こゝろみだれ)し母(はゝ)さまの。いつもの声音(こはね)をたて玉ひ。かの鬼(おに)めに聞(きか)れなば。わが身(み)ばかりか。母さまをも。辛(から)き憂目(うきめ)にあはすべし。鑰(かぎ)は袂(たもと)にありながら。明(あけ)られぬ戸(と)の雪(ゆき)の関(せき)。親(おや)に言(ものいふ)ことさへも。ならぬはいかなる因果(いんくわ)ぞやと。袖(そで)をかさねて顔(かほ)にあて。しやくりあげて泣(なき)けるが。さるにても飢(うゑ)やし玉ふらんと。袂(たもと)に残(のこ)りし一ッの餅(もち)を。手(て)に探(さぐ)りつゝ。猶(なほ)すかし見れば。栢木(かしはぎ)が枕(まくら)もとの缺椀(かけわん)に。握(にぎ)り飯(いひ)のあるを見て。うれしや飢(うゑ)はし玉はじ。さりながら身動(みうごき)もし玉はぬは。もしや今夜(こよひ)の大雪(おほゆき)に。凍死(こゝえじに)にうせ玉ひしやと。こゝろ迷(まよ)ひておぼつかなく。特見(とみ)交見(かうみ)さし覗(のぞ)く。襟(ゑり)に吹(ふき)こむ夜(よる)の雪(ゆき)。ともに消(きえ)入る思ひなり。子(こ)の心(こゝろ)(おや)に通(つう)じけん。栢木(かしはぎ)は眠(ねふ)りをさまし。いとはかなきこゑをいだし「吁(あゝ)(さむ)き夜(よ)かなまばらなる簀子(すのこ)より。風(かぜ)もたまらず吹(ふき)あげて。身(み)うちを斬(き)るゝごとくなり。此(この)(さむ)さに小君(こきみ)はいかにしつるやらん。今日(けふ)は一度(いちど)もたづね来(こ)ずと。亂心(らんしん)してもさすがは恩愛(おんあい)。子(こ)を思ふこゝろのうち。思ひやられてあはれなり。旡恙(つゝがな)き母(はゝ)を見て。小君(こきみ)は飛立(とびたつ)うれしさに。思はずしらず「ヤヽ母さま/\と呼(よび)かけければ。栢木(かしはぎ)はこれをきゝて首(かしら)をあげ。窗(まど)の方(かた)を揉(ため)つ眇(すがめ)つ打見やれば。小君(こきみ)は猶(なほ)もこゑをかけ「母さまわしじや。小君(こきみ)じやわいのといひければ。栢木(かしはぎ)はうれしげに身を起(おこ)し。窗(まど)の下(した)に膝行(ゐざり)よりて。壁(かべ)を力(ちから)にのびあがり「唯々(おゝ)小君かなぜ夜深(よぶか)には来(きた)りしぞ。といふ顔(かほ)ばせも詞(ことば)つきも。常(つね)の人(ひと)のごとくたしかなれば。ます/\うれしく「母さまきゝ玉へ。最前(さいぜん)しか%\の事(こと)にて。憂目(うきめ)にあひしが。渠(かれ)が一言(いちごん)御命(おんいのち)もおぼつかなく思ひ。今夜(こよひ)(はゝ)さまとともに。此所(このところ)を逃去(にげさら)んと思ひしに。板戸(いたと)を氷(こほり)に綴(とぢ)られて。いかにともせんすべなし。今夜(こよひ)はむなしくすごすとも。明日(あす)の夜(よ)はかならず思ひを果(はた)すべし。と涙(なみだ)ながら云(いひ)きかせければ。亂心(みだれごゝろ)の栢木(かしはぎ)も。身をはかなしと思ひてや。痩(やせ)たる顔(かほ)に涙(なみだ)をながしつゝ。うち点頭(うなづき)ければ。小君(こきみ)はやう/\なみだを拭(ぬぐひ)。こゝに佇立(たゝずみ)て時(とき)をうつすとも。母(はゝ)さまの介抱(かいはう)もならず。閑入(ひまいり)して見つけられんは。思ひたちし事の妨(さまたげ)ともなるべし。と母にいとまをつげてわかれさり。戸口(とぐち)へもとのごとく錠(じやう)をさし。目(め)じるしある所(ところ)の雪(ゆき)を掻分(かきわけ)て。盗(ぬすみ)し鑰(かぎ)を埋(うづめ)おき。雪(ゆき)の足跡(あしあと)を打(うち)けしつゝ後(うしろ)へ歩行(あゆみ)て。背戸(せど)の口(くち)に立(たち)とまり。雪(ゆき)に咽(のんど)を潤(うるを)して。一息(ひといき)(ほつ)とつくをりしも。とたんとひゞく。雪(ゆき)(をれ)(だけ)。思はず胸(むね)を冷(ひや)しけり。

  第(だい)八回(くわひ) 神護(じんご)

かくて次(つき)の朝(あした)は。雪(ゆき)も晴(はれ)ければ。小君(こきみ)(さ)り気(げ)なくもてなして。例(れい)のごとく立(たち)いでければ。鬼芝(おにしば)(ねぶか)を招(まねき)ていふやう。我(われ)昨日(さくや)かの小女郎(こめらう)が欲迷言(よまいごと)を聞(きゝ)しに。渠(かれ)は当國(たうごく)松江(まつえ)の判官(はんぐはん)秋季(あきとし)殿(どの)の。御内(みうち)の者(もの)の娘(むすめ)なるよし。此月(このつき)ごろ祟(たゝり)のなかりしは。我々(われ/\)が幸(さいわひ)なり。此(この)のち長(なが)くとゞめおかば。事(こと)の破(やぶ)れとなるべきもはかりがたし。気(き)ちがひめは縊(くび)り殺(ころ)し。小児女(こびつちよ)めは遠国(えんごく)へ賣渡(うりわたさ)んと思ふなり。汝(なんぢ)よろしくはからへといひければ。葱(ねぶか)こゝろえて。頓(やが)て人買(ひとかひ)のもとへはせ行(ゆき)けるが。時(とき)をうつして立皈(たちかへ)り。鬼芝(おにしば)を片方(かたへ)に招(まね)き。我等(われら)人買(ひとかひ)のもとにいたり。渠(かれ)を伴(ともな)ひて石山寺(いしやまでら)にいたり。竊(ひそか)

挿絵
【挿絵第十四図 惡婦(あくふ)(おに)しば猪(ゐ)の牙(きば)にかけられて命(いのち)をおとす】

小君(こきみ)を見せ。琴(こと)の手際(てぎは)をも聞(きか)せて。身(み)の代(しろ)を七十両(りやう)にきはめ。金(かね)を才覚(さいかく)して明日(あす)(く)るやうに。たしかに約束(やくそく)して皈(かへ)り来(きた)り候と。手柄(てがら)(かほ)にいひければ。鬼芝(おにしば)ば打(うち)ゑみつゝ。いしし/\と譽(ほめ)そやし。黒塚(くろづか)にも斯(かく)と告(つげ)。三人ひとまに座(ざ)をつらね。こゝろ祝(いは)ひの酒壜(とくり)(ざけ)。缺(かけ)茶碗(ちやわん)をぞめぐらしける。
○こゝにまた。小君(こきみ)は此夜(このよ)(いへ)に皈(かへ)り。鬼芝(おにしば)(ら)が寝謐(ねしづま)りたるをうかゞひて。落(おち)支度(じたく)をなし。背戸(せど)に出(いで)て。埋(うづみ)おきし鑰(かぎ)をもつて。鎖(とざ)しをあけ。母人(はゝびと)(こゑ)を立(たて)玉ふなと。手(て)をとりて忙(いそが)せつゝ。外(と)の方(かた)へいでけるをりしも。鬼芝(おにしば)(ねぶか)黒塚(くろづか)(ら)は。栢木(かしはぎ)を殺(ころ)さんとこゝに来(きた)り。二人(ふたり)が体(てい)を月明(つきあか)りにすかし見て。打(うち)おどろき。鬼芝(おにしば)(ねぶか)にこゑかけゝれば。こゝろえたりと飛(とび)かゝり。小君(こきみ)が襟首(ゑりくび)かい掴(つか)んで。后(うしろ)さまに引倒(ひきたふ)せば。鬼芝(おにしば)は足(あし)を飛(とば)せて。栢木(かしはぎ)を蹴据(けすへ)けるが。病疲(やみつかれ)たる痩足(やせあし)なれば。立上(たちあが)る事も叶(かなは)ず。掌(て)を合(あはせ)て泣叫(なきさけ)び。ゆるし玉へ/\と。身をふるはせて怖(おそ)るゝは。目(め)も當(あて)れぬ形勢(ありさま)なり鬼芝(おにしば)はせゝらわらひ「やい小君(こきみ)。何(いつ)の間(ま)にやら。盗出(ぬすみいだ)せし空屋(あきや)のかぎ。此(この)慈悲(じひ)(ぶか)い鬼芝(おにしば)が。目(め)を掠(かすめ)たる其罰(そのはち)で。見つけられしは百年目(ひやくねんめ)。穀潰(ごくつぶし)の顛狂(きちがひ)めは我(わが)引導(いんだう)でころすも慈悲(じひ)。親(おや)の顔(かほ)も今(いま)が見をさめ。よく見ておけと睚(ねめ)つくれば。小君(こきみ)は葱(ねぶか)に竦(すく)められ。身動(みうごき)さへもならざれば。いとも哀(あはれ)に声(こゑ)をあげ「母(はゝ)さまはしりてのとほりの物狂(ものぐる)ひ。爰(こゝ)を逃(にげ)んといたせしは。みなわたくしがたくみ事(ごと)。母(はゝ)さまのお命(いのち)はお助(たすけ)なされて。其(その)かはりには。此(この)小君(こきみ)を斬(きる)なりと突(つく)なりと。お心まかせになされませ。慈悲(じひ)じや情(なさけ)じや。お家様(いへさま)。これのふ/\と泣声(なきこゑ)にて。涙(なみだ)をそゝいでいひければ。鬼芝(おにしば)は栢木(かしはぎ)が。胸(むね)を足下(そくか)に踏(ふみ)つけて。用意(ようい)に持(もち)し棒尖(ぼうさき)にて。小君(こきみ)が優(やさし)き頬(ほゝ)さきを軽(かろ)く突(つき)「此(この)(うつく)しい面(つら)つきに。生(うま)れおつたが其身(そのみ)の幸(さいはひ)。死(しに)たくても死(しな)せはせぬ。賣駄(ばいた)に賣(うつ)て勤(つとめ)奉公(ぼうこう)。足手絢(あしてまとひ)の。氣(き)ちがひめは。打殺(うちころし)て犬(いぬ)の腹(はら)。母(はゝ)は幽霊(ゆうれい)。子(こ)は傾城(けいせい)。こりやよい狂言(きやうげん)の趣向(しゆかう)であらふ。どりや幽霊(ゆうれい)にしてやらう。今(いま)が最期(さいご)じや堪念(かんねん)せよと。栢木(かしはぎ)を踏墾(ふみひし)ぎ。猪(しゝ)(おひ)(ぼう)を振挙(ふりあげ)て。眉間(みけん)を目當(めあて)の拝(をがみ)うち。あはやと見ゆる折(をり)しもあれ一疋(いつひき)の猪(しゝ)。垣(かき)をこえて飛(とび)きたり。向所(むかふところ)をきらひもせず。空屋(あきや)の壁(かべ)を突破(つきやぶ)り。鬼芝(おにしば)が棒(ぼう)を振(ふり)あげたるを見て。怒(いかり)をなして飛(とび)かゝるを。身(み)をかはせてどつしと打(うて)ば。猪(しゝ)はます/\怒(いか)りをなし。牙(きば)をならし毛(け)を逆立(さかだて)。躍(おど)り舉(あが)ると見えたりしが。鬼芝(おにしば)を牙(きば)にかけ。一丈(いちじやう)(あま)り〓(はね)あげしに。血煙(ちけふ)りは雨(あめ)の如(ごと)く。降(ふつ)て湧(わい)たる手負(ておひ)(じゝ)。獸(けもの)のために殺(ころ)されしは。惡(あく)の報(むくい)としられたり。猪(しゝ)は猶(なほ)もたけりくるひ。逃(にげ)ゆく葱(ねぶか)黒塚(くろづか)をも。追(おひ)まはして。懸殺(かけころ)し。面屋(おもや)のうちに駈入(かけいり)て。こゝかしこ奮迅(あれ)まはりければ。女(をんな)非人(ひにん)ども周章(あはて)(まよ)ひ。蛛(くも)の子(こ)を散(ちらす)が如(ごと)く。足(あし)を空(そら)に逃散(にげちり)ぬ。猪(しゝ)は面屋(おもや)を走(はせ)いだし。何方(いづく)ともなく駈(はせ)さりけり。
(この)(しゝ)小君(こきみ)が目(め)には。背(せ)のうへに摩利支(まりし)(てん)の尊像(そんぞう)。朧気(おぼろけ)に見えさせ給ひければ。さては此(この)地獄坂(ぢごくざか)の古社(ふるやしろ)に立(たゝ)せ給ふ。摩利支(まりし)尊天(そんてん)。われ/\が急難(きうなん)をすくはせ給ひたるに疑(うたがひ)なし。と奇異(きゐ)の思ひをなし。随喜(ずいき)の泣(なみだ)を洒(そゝぎ)つゝ。御社(みやしろ)の方(かた)にむかひて。遥拝(ようはい)せり。
鬼芝(おにしば)(ねぶか)黒塚(くろづか)(ら)は。或(あるひ)は脇腹(わきばら)あるひは鳩尾(むなさか)を。突破(つきやぶ)られ。朱(あけ)に染(そま)りて死果(しゝはて)しは。こゝろよきありさまなり。思ふに渠等(かれら)としごろ御社(みやしろ)のほとりに住(すみ)て。さま%\の惡行(あくぎやう)をなし。神前(しんぜん)に懸(かけ)たる鍔口(わにくち)を。おのれらが惡事(あくじ)の相図(あいづ)に用(もちひ)(きた)りしなんど。旡慙(むざん)の所行(しよぎやう)なれば。今(いま)(か)く神罰(しんばつ)を下(くた)し給ひしも。猶(なほ)(おそ)しといふべし。
さて小君(こきみ)ははじめて夢(ゆめ)のさめたるごとく。斯(かく)冷落(れいらく)はしつれども。神(かみ)の冥助(みやうぢよ)に危(あやう)き命(いのち)をたすかりしは。未(いまた)武運(ぶうん)につきざるとおぼえたり。と心凉(こゝろすゞし)くなりて。栢木(かしはぎ)をたすけおこし。此閑(このひま)に落行(おちゆか)んと。最前(さいぜん)(しゝ)の破(やぶ)りたる垣(かき)をこえしに。此所(このところ)に一(ひと)すじの渓(たに)川ありて。僅(わづか)なる川幅(かははゞ)なれども。昨日(きのふ)の雪解(ゆきどけ)に。水(み〔づ〕)かさまさりて。渡(わた)るべうもあらず。いかにせんと思ひしが。驀地(たちまち)こゝろづき。今日(けふ)鬼芝(おにしば)が指圖(さしづ)にて。持皈(もちかへ)りたる例(れい)の琴(こと)を。とりきたりて。渓川(たにがは)へ掛(かけ)わたし。物狂(ものぐる)ひの栢木(かしはぎ)を。「たすけて歩(あゆむ)(あやう)さは。胸(むね)もをどりて。轟(とゞろき)の橋(はし)を難(なん)なくわたりこえ。消(きえ)のこりたる雪(ゆき)を蹈(ふみ)。月(つき)の光(ひかり)に玉(たま)ぼこの。道(みち)をもとめて落行(おちゆき)ぬ。

  第(だい)九回(くわい) 義樵(ぎせう)○〔此段(このだん)は三之助鷲(わし)にさらはれたる話(はなし)のつゞきなり〕

(これ)は偖(さて)おき三之助が行方(ゆくへ)いかにとなれば。松江(まつへ)秋季(あきとし)殿(どの)の居舘(きよくわん)より。東北(とうほく)三里(り)を隔(へたて)て伊吹(いふき)山の麓(ふもと)に。八彦(ひこ)(むら)といふ所(ところ)あり。こゝは今(いま)の谷居十(やゐと)(むら)なり。八彦(やひこ)は其(その)古名(こめい)なるを。いつの頃(ころ)よりか。伊吹山(いふきやま)の麓(ふもと)なるゆゑに。名産(めいさん)の艾(もぐさ)に因(ちなみ)て。灸村(やいとむら)とよびならはせしを。后(のち)に灸(やいと)の火(ひ)の字(じ)を忌(いみ)て。谷居十(やゐと)(むら)と書改(かきあらため)たるよし。宝暦(ほうれき)年間(ねんかん)の人。近江(あふみ)の医師(ゐし)。石川(いしかは)久庵(きうあん)が筆記(ひつき)に見えたり。文字(もじ)には。谷居(やゐ)の十村(とむら)とものすれども。僅(わつか)なる孤村(こむら)にして。前(まへ)には伊(い)吹の山(やま)(ちか)く聳(そび)へ。後(うしろ)に栢原(かしはばら)の驛(えき)(とほ)く隔(へだゝ)りて。いかにも幽僻(ゆうへき)の谷地(やち)なりとぞ。
此村(このむら)に名を柴朶六(しだろく)とよびて。歳(とし)は四十の老(おい)の坂(さか)に登(のぼ)り初(そめ)て。山樵(やまがつ)を丗(よ)の生活(たつき)とし。身代(しんだい)は細(ほそ)き梢(こずゑ)をつたふといへども。膽(きも)(ふと)くして力(ちから)あくまで強(つよ)く。容秀(かたちひい)でゝ心(こゝろ)(きよ)し。かりにも歪(ゆがみ)たる行(おこなひ)をなさず。腰(こし)に指(さす)礁斧(よき)の善事(よきこと)をのみ好(このみ)て身(み)に〓(まと)ふ繊布(あらたへ)の。あら/\しき舉動(ふるまひ)はせざりけり。妻(つま)を尾峯(をみね)といひて歳(とし)は三十(みそじ)に余(あま)れども。昔(むかし)の花(はな)の何所(どこ)やらに残(のこ)りて心(こゝろ)ばへさへいと優(やさ)し。
柴朶六(しだろく)は日毎(ひごと)に伊吹山(いぶきやま)にのぼりて薪(たきゞ)を採(とり)。尾峯(をみね)はいつも家(いへ)にありて手業(てわざ)に晒(さら)す挿艾(さしもぐさ)。さしもかそけきくらしなり。
(ころ)は弥生(やよひ)も半(なかば)すぎて。いつの日(ひ)にてありしやらん。柴朶六(しだろく)(れ〔い〕)のごとく伊吹山(いぶきやま)にのぼりて薪(たきゞ)を採(とり)けるが。日(ひ)も西山(にしやま)に傾(かたぶ)くを見て家路(いへぢ)に皈(かへ)らばやと思ひ。薪(たきゞ)を背負(せおひ)(み)支度(じたく)せしをりしも。何方(いづく)ともなく小児(せうに)の泣声(なくこゑ)いとかすかに聞(きこ)えければ。紫朶六(しだろく)(おほい)に怪(あやし)みながらもし猿(さる)の声(こゑ)かと。斧(おの)を杖(つゑ)に頭舉(かしらをあげ)。耳(みゝ)を澄(すま)してよく/\聞(きけ)ば。東(ひがし)の方(かた)にあたりて正(まさ)しく小児(しやうに)のこゑなり。柴朶六(しだろく)思ふやう。かゝる深山(しんざん)へ小児(しやうに)をつれて登来(のぼりく)る人(ひと)もあらじ。これは一定(いちぢやう)山賊(さんぞく)なんとが子(こ)どもを勾引(かどわかし)(きた)りて。此山(このやま)にかくれのぼりしに疑(うたが)ひなし。此奴(こやつ)(まつ)二ッになしてくれんずと。いまだ其(その)実否(じつふ)をも見とゞけざるに先(まづ)(いかり)をなしつゝ。負(おひ)たる薪(たきゞ)を片方(かたへ)に打捨(うちすて)。斧(をの)にかけたる革袋(かはぶくろ)の刀室(さや)をはづして打(うち)かたげ。根笹(ねざゝ)を推(おし)わけ嵒(いはほ)をつたひ。こゑを案内(しるべ)に尋(たづね)つきて。こゝかしこ見巡(みめぐれ)ども。更(さら)に人影(ひとかげ)も見えず。小児(しやうに)の声(こゑ)も止(やみ)ければ。こはいかにかと佇立(たゝずみ)しに。頭(かしら)の上(うへ)にて「きやッと泣(なき)いだせしこゑを聞(きゝ)て仰(あふ)ぎ見れば。大木(たいぼく)の楠(くすのき)の梢(こずゑ)に鷲(わし)の巣(す)ありて。巣(す)のうへにさしのぞきし枝(えだ)に親(おや)(わし)とおぼしく。五才(さい)ばかりの男子(なんし)をかい抓(つか)み。今(いま)にも喰(くら)ひ裂(さか)んとし。巣(す)の内(うち)の雛(こ)に見せて楽(たの)しむ体(さま)なり。柴朶六(しだろく)山賊(さんぞく)と思ひの外(ほか)。これを見て打(うち)おどろきしが。如法(によほう)慈悲(じひ)ある男(をとこ)なれば。なじかはもつて〓〓(ためらふ)べき。木(き)にのぼるは年(とし)ごろの業(わざ)なれば。斧(をの)を腰(こし)にさして猿(さる)の如(ごと)くに梢(こずゑ)をつたひ。鷲(わし)のうしろへまはりけるが。鷲(わし)は雛(こ)を愛(あい)するに心(こゝろ)をとられて。柴朶六(しだろく)が来(きた)るをしらざりければ。しすましたりと喜(よろこ)び。猶(なほ)も身(み)を屈(かゞ)めて覘(ねら)ひより。砺(とぎ)すましたる大斧(おほをの)を肱長(ひぢなが)にとりのべて。力(ちから)にまかせてぱつしと打(うち)しに。鷲(わし)の背中(せなか)を二ッになし。余(あま〔る〕)る力(ちから)に枝(えだ)までも。半寸(はす)にすつぱと斬落(きりおと)せり。柴朶六(しだろく)は心(こゝろ)周章(あはて)。小児(しやうに)の命(いのち)おぼつかなしと。忙(いそがは)しく木(き)を下(くだ)りて駈(かけ)より見れば。鷲(わし)は片足(かたあし)に枝(えだ)を掴(にぎり)。片足(かたあし)に小児(しやうに)を抓(つかみ)。朱(あけ)に染(そま)りて倒(たふれ)たり。小児(しやうに)は襟首(ゑりくび)を抓(つか)み墾(ひしが)れ。絶入(たえいり)てありければ。鷲(わし)の爪(つめ)を折〓(をりくぢ)きて小児(せうに)を懐(だき)とり。助(たすか)りもはやすると。傍(かたはら)に生茂(おひしげ)りたる蓬生(よもぎ)を採(と)り。揉絞(もみしぼり)たる青汁(あをしる)を口(くち)に嗽(そゝ)ぎいれければ。やがて息(いき)を吹(ふき)かへし。母(はゝ)さまのふと一声(ひとこゑ)も。最期(さいご)のきはと思はれて。歯(は)を〓(くひしば)りてくるしむ体(てい)。いともあはれのありさまなれば。鬼(おに)とも組(くむ)べき柴朶六(しだろく)も。涙(なみだ)さしぐみ。物悲(ものかな)しく。とやせんかくやと思へども。人里(ひとざと)(とほき)山中(さんちう)なれば。いかにともせんすべなく。膝(ひざ)にのせて顔(かほ)うちまもり。念仏(ねぶつ)(とのふ)るばかりなり。
(この)をりしも採薬(さいやく)の医師(ゐし)とおぼしく。両(りやう)三人打連(うちつれ)てこゝに来(きたり)ければ。柴朶六(しだろく)はいとうれしく。餓鬼(がき)が仏(ほとけ)を見つけたるごとく。袖(そで)にすがりて仔細(しさい)をかたり。気(き)つけの薬(くすり)をもとめければ。医師(ゐし)ども柴朶六(しだろく)が仁心(じんしん)を稱美(せうび)しつゝ。年老(としおひ)たる医師(ゐし)懐中(くわいちう)より藥(くすり)をいだしてあたへければ。一人(ひとり)は外料(ぐわいりやう)とおぼしく。腰(こし)にさげたる袋(ふくろ)の中(うち)より膏藥(かうやく)をとりいだして疵口(きづぐち)へつけなどし。三人の医者(ゐしや)さま%\に介抱(かいほう)しければ。断(きれ)かゝりたる玉(たま)の緒(を)を。やう/\につなぎとめぬ。柴朶六(しだろく)は大(おほき)に喜(よろこび)。詞(ことば)のかぎり礼(れい)をのぶれば。この醫師(ゐし)どもゝ採藥(さいやく)に深入(ふかいり)して皈路(きろ)を失(うしな)ひ。日(ひ)さへ暮(くれ)かゝりたれば。殊更(ことさら)難義(なんぎ)のをりから。柴朶六(しだろく)に逢(あひ)たりとて。ともに喜びけり。
さて柴朶六(しだろく)は小児(せうに)を懐(ふところ)にいれ。斧(をの)のさきに鷲(わし)を縛(くゝ)しつけて打(うち)かたげ。最前(さいぜん)の薪(たきゞ)はそのまゝに捨(すて)おき。医師(くすし)(ら)が案内(あない)して麓(ふもと)の方(かた)へぞいそぎける。年老(としおひ)の医師(ゐし)(みち)すがら柴朶六(しだろく)にいふやう。昔時(むかし)良辧(りやうべん)僧正(そうぜう)稚時(をさなきとき)(わし)にとられ。不思議(ふしぎ)に命(いのち)(たすか)りてのち。僧正(そうぜう)までにすゝみたる事(こと)。元亨釈書(げんこうしやくしよ)といふ書物(しよもつ)にあり。此(この)小児(せうに)もかゝる山中(さんちう)にて惡鳥(あくてう)の觜(はし)をのがれ。そのうへ我々(われ/\)はからず来(きた)りあはし。薬(くすり)を与(あた)へて命(いのち)を助(たすか)りたること。此(この)うへもなき運(うん)のつよき小児(しやうに)なり。猶(なほ)(また)(さいはひ)なる事(こと)には。此(この)(わし)の骨(ほね)。打身(うちみ)くじきに用(もち)ひて。甚(はなはだ)(こう)あるものなり。已(すで)に本艸(ほんざう)といふ書物(しよもつ)にも。〓〓(そうてう)の骨(ほね)折腸(せつちやう)断骨(だんこつ)を治(ぢ)する事(こと)を主(つかさど)るとあり。〓G(そうてう)とは則(すなはち)(わし)の事(こと)なり。家(いへ)に皈(かへら)ば鷲(わし)の骨(ほね)を黒焼(くろやき)にして。酒(さけ)にて呑(のま)せ給へ。かならずしるしあらんとをしえければ。柴朶(しだ)六ます/\喜(よろこ)びけり。老人(ろうじん)かさねて。同伴(つれ)の醫者(ゐしや)にむかひ。各々(おの/\)も聞(きゝ)給へ鷲(わし)に。〓鷲(きやうしう)。虎鷲(こしう)。狗鷲(くしう)。の別(べつ)(あり)樵者(せうしや)が此(この)(わし)は。本艸(ほんざう)に所謂(いはゆる)〓G(そうてう)なり。よく見(み)ておぼえ給へ。西域記(せいいきき)にも鷲(わし)の事を
挿絵
【挿絵第十五図】

のせ。太平廣記(たいへいかうき)などには鷲(わし)にとられたる故事(こじ)もあれども。かゝる山道(やまみち)の九折(つゞらをり)を歩行(あるき)ながらは語(かた)るもわづらはしく。聞(きく)もうるさからん。いらざる博覧(ものしり)自慢(じまん)に口(くち)をたゝきて。足(あし)もとに目(め)をつけず。躓(つまづい)て轉(ころば)んには。和黨(わとう)(たち)にわらはれんとものがたりしつゝ。柴朶六(しだろく)が後(あと)につきて麓(ふもと)にくだり。医師(ゐし)(ども)は爰(こゝ)にて別去(わかれさり)ぬ。
さて柴朶(しだ)六は家(いへ)に皈(かへ)り。しか%\のよし語(かた)りければ。妻(つま)の尾峯(をみね)も慈悲(じひ)(ふか)き女子(をなご)なれば。よき善行(ぜんぎやう)をし給ひたりとてうちよろこび。医師(ゐし)がをしへしごとく鷲(わし)の骨(ほね)を用(もち)ひければ。そのしるしありていたみもうすらぎ。此夜(このよ)小児(しやうに)は尾峯(をみね)が懐(ふところ)に眠(ねふ)りぬ。次(つぎ)の日(ひ)は頻(しきり)に父母(ふぼ)をしたひて泣(なき)わめくにぞ。その父母(ふぼ)の名(な)を問(とへ)どもつよく物(もの)におどろきたるゆゑにや。人事(じんじ)を忘(わすれ)てたしかにもいひ出(いだ)さず。責問(せめとは)んも病(やまひ)のさわりならんと打(うち)おきて。日夜(にちや)小児(しやうに)の事にのみかゝづらひて。其(その)四五日は活業(なりわひ)をも休(やす)みをれり。
かくて一日(あるひ)一人の商人(あきびと)(きた)りしだ六が鷲(わし)をとりたる事(こと)。此(この)谷地(やち)に来(きたり)て聞(きゝ)たりとて。鷲(わし)の尾(を)を。矢(や)の羽(は)に買(かは)んとのぞみけり。柴朶(しだ)六は此頃(このごろ)(ぜに)の貧(とぼ)しきをりなればよき幸(さいはひ)とし。價(あたひ)を定(さだめ)て賣(うり)わたしけるが。此(この)商人(あきびと)尾峯(をみね)が肌(はだ)つけに背負(せおひ)(ゐ)たるかの小児(せうに)を見て。打(うち)おどろき。此(この)(いと)殿(どの)は。当國(たうごく)松江庄(まつえのせう)。松江(まつえ)の判官(はんぐわん)秋季(あきとし)殿(どの)の御(こ)家来(けらい)。山中(やまなか)左衛門(さえもん)といふ人(ひと)の子息(しそく)なり。名(な)は三之助(すけ)どのとか聞(きゝ)おぼえぬ。鷲(わし)に抓(つかま)れたるを助(たす)けめされしと聞(きゝ)しは。此(この)(いと)殿(どの)にて候ひしや。さてもいたわしや。山中(やまなか)どのこそ。さぞかしたづねておはすらめ。早(はや)く親(おや)のもとへもどしたまへ。かならず褒美(ほうび)にありつき給はん。我等(われら)は松江(まつえ)の家中(かちう)へも。商(あきなひ)のためにいでいりすれば。山中(やまなか)殿(どの)も知(し)る人(ひと)なり。打(うち)すてゝは皈(かへ)りがたし。我等(われら)すぐに。此(この)和子(わこ)を伴(ともな)ひゆき。山中(やまなか)どのへ手(て)わたしして。褒美(ほうび)の事(こと)も取持(とりもつ)べし。これはいかにといひければ。柴朶六(しだろく)(おほい)に驚(おどろき)。偖(さて)は山中(やまなか)左衛門(さゑもん)どのゝ子息(しそく)にておはしけるか。我(われ)(さき)の年(とし)。秋季(あきとし)(こう)の領地(りやうち)にて。惡漢(わろもの)にいであひ。口論(こうろん)つのりて。二人を殺(ころ)せしに。山中(やまなか)どのゝはからひにて。人殺(ひとごろし)の罪(つみ)をのがれ。今日(けふ)まで命(いのち)ながらふも。かの人(ひと)の仁心(じんしん)ゆゑなり。かゝる恩人(おんじん)の子息(しそく)ともしらず。はからず一命(いちめい)を助(たす)け。大恩(だいおん)を報(むく)いたるこそ。うれしけれ。褒美(ほうび)などゝは思ひもよらじ。片時(へんし)もはやく和子(わこ)殿(どの)を連行(つれゆき)て。喜(よろこ)ばせ申さんと。三之助を背(せ)に負(おひ)。商人(あきびと)に隨(したがひ)て立出(たちいで)けるが。皈(かへ)りは夜(よ)にも入(いる)べしとふたゝび。家(いへ)に立(たち)もどり。身(み)の護(まも)りにとて。例(れい)の斧(をの)を腰(こし)にさし。忙(いそがは)しく出行(いでゆき)けり。

  第(たい)十回(くわい) 血戦(けつせん) ○〔此(この)だんは。山中(やまなか)左衛門(さゑもん)はらをきり。栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(いへ)を立(たち)のきしより。四五日のちの事(こと)をしるす〕

去程(さるほど)に柴朶六(しだろく)は。商人(あきびと)に隨(したがひ)て。一里(いちり)(あま)り来(きた)りけるに。商人(あきびと)柴朶(しだ)六にむかひ。我等(われら)かしこに見ゆる。八幡(はちまん)の社内(しやない)にすこしの所用(しよよう)あれば。和殿(わどの)は此松(このまつ)の下(もと)にしばらく待(まち)てたまはれよ。もはや一里(いちり)あまりも来(きたり)つれば。よき休所(やすみどころ)なるべしと柴朶(しだ)六をまたせおき。左(ひだり)の小徑(こみち)に入て足(あし)ばやにはせゆき。僅(わづか)に半丁(はんてう)ばかり隔(へだて)たる社(やしろ)の門(もん)の内(うち)に入(いり)ぬ。こゝは小高(こだか)き山(やま)の上(うへ)にて。木(き)ども立(たち)こめて。いと神(かみ)さびたる宮地(みやち)にて。守人(まもるひと)のありとも見えず。社(やしろ)の后(うしろ)なる大木(たいぼく)の椙(すぎ)のもとに。筵(むしろ)をしきて。七八人の若侍(わかさふらひ)ども。丈六(じやうろく)の膝(ひざ)をつらね。酒宴(しゆえん)をなしてをり。そのさまいと狼藉(らうぜき)たり。上座(かみざ)に丈六(あぐら)かきて居(ゐ)たる侍(さふらひ)(かの)商人(あきびと)が来(きた)るを見て。首尾(しゆび)はいかにととひければ。商人(あきびと)(この)(さふらひ)の面前(めんぜん)にひざまづき。御(ご)主人(しゆじん)の御(ご)推量(すいりやう)のごとく。わたくしへは渡(わた)し申さず候ゆゑ。かの者に三之助を伴(ともな)はせ。かしこの松(まつ)の下(もと)にまたせおき候ひぬ。たゞものならざる顔(かほ)つきに候へば。御(ご)油断(ゆだん)候なといひければ。若侍(わかさふらひ)うちわらひ。樵者(きこり)の分際(ぶんざい)にて何(なに)ほどの事をかしいださん。汝(なんぢ)はまづこゝにありて彼(かれ)はかしこにまたせおくべし。我(われ)(べつ)に謀(はかりこと)ありといひて。席(せき)に連(つらなり)たる侍(さふらひ)どもにむかひ。閉居(へいきよ)の身分(みぶん)たるそれがし。密(ひそか)に和黨(わとう)(たち)を招(まねき)て人家(じんか)はなれし。此所(このところ)へ會合(くわいがう)せしは。別事(べつじ)にあらず。前(さき)の日(ひ)地蔵坂(ぢぞうさか)において。氏王(うじわう)殿(どの)に疵(きづつけ)しは。此(この)星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)が所為(しよゐ)なりとは。ゆめにもしれるものなく。罪(つみ)を山中(やまなか)左衛門(さゑもん)に負(お)はせて。腹(はら)をきらせ。栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)。當國(たうごく)をはらはれて家(いへ)(ほろ)びたれば。和歌(わか)の席(せき)の恨(うら)みをはらして。心(こゝろ)(すゞ)しゝといへども。鷲(わし)にとられたる三之助。不思議(ふしぎ)の一命(いちめい)をたすかり。八彦村(やひこむら)の樵者(きこり)が家(いへ)にあるよし。ゆゑありてきゝいだしつるが。かの童(わつぱ)めを活(いけ)おきては。我(わが)朝夕(てうせき)の心障(こゝろざはり)なれば。僕(しもべ)牛平(うしへい)を如斯(かくのごとく)商人(あきびと)に打扮(いでたゝ)せ。しか%\の謀(はかりこと)にて樵者(きこり)に三之助を伴(ともな)はせ。今(いま)かしこの松(まつ)かげにまたせおきつるよし。我(わ)が手(て)をくだすはやすけれども。此度(このたび)北朝(ほくてう)の残将(ざんせう)松倉(まつくら)殿(どの)へ内通(ないつう)し。年頃(としごろ)(あだ)とする秋季(とし)どのを襲(おそ)はせ。莫太(ばくだい)の恩賞(おんしやう)にあづからんといふ。我(わが)密謀(みつぼう)に組(くみ)し給ふおの/\なれば。一味(いつみ)の手(て)はじめに。かの樵者(きこり)と三之助を斬殺(きりころ)し。後(のち)の災(わざはひ)となるべき。芽(め)(だ)しの草(くさ)を刈(かり)とりてたまはるべしと。一座(いちざ)を見まはしていひければ。惡黨(あくとう)ども一義(いちぎ)にもおよばず。心(こゝろ)やすしとうけひきければ。梶(かぢ)之助打(うち)(よろこ)び。しからばかやう/\にはからひ給へ。とをしへをうけて。七八人の悪黨(あくとう)ども。酔(ゑひ)ざましには。よきなぐさみなりとて。おの/\山(やま)をくだりけり。
さて柴朶六(しだろく)は。かゝる事(こと)のありともしらず。松(まつ)の根(ね)に腰(こし)かけて。三之助を膝(ひざ)にのせ。商人(あきびと)が皈(かへ)り来(きた)るを待(まち)(ゐ)たるに。七八人の若侍(わかさふらひ)小径(こみち)の方(かた)より来(きたり)けるが。柴朶六(しだろく)が松(まつ)の根(ね)に腰(こし)かけたるを見て。立(たち)とゞまり。汝(なんぢ)(なに)やつなれば。八幡宮(はちまんぐう)の神木(しんぼく)たる。此(この)(まつ)に腰(こし)かけしぞ。神木(しんぼく)に腰(こし)かけしは。神主(かんぬし)の我々(われ/\)が頭(かしら)のうへに腰(こし)かけしも同前(どうぜん)なり。此奴(こやつ)のがすな打(うつ)て取(とれ)と。抜連(ぬきつれ)て切(きつ)てかゝれば。柴朶六(しだろく)は事(こと)ともせず。松(まつ)を小楯(こだて)に身(み)をかため。こざかしき山賊(さんぞく)の昼鼠(ひるねづみ)。八幡(はちまん)の神木(しんぼく)は社内(しやない)の椙(すき)といふことを。しるまじと思ふにや。野良猫(のらねこ)の手並(てなみ)を見よと。三之助を
挿絵
【挿絵第十六図 樵夫(せうふ)柴朶六(しだろく)三之助をたすけて近江(あふみ)にいたり途中(とちう)にて難(なん)にあふ 酉斎 文章豈頼有團圓忠孝 神仙理別然安詩赫號書 萬本直教張許遍街傳 京山】

(ひだり)に抱(かゝ)へ。斧(をの)をまはして。片手(かたて)(うち)。先(さき)にすゝみし両人(りやうにん)を。左右(さゆう)へ薙(なぐ)よと見へけるが。四ッになりて倒(たふ)れけり。残(のこ)る奴原(やつばら)これを見て。四五人ひとしく力(ちから)を合(あは)せ。刀尖(きつさき)するどく立(たち)むかへば。柴朶六(しだろく)はこれを物(もの)ともせず。斧(をの)の柄(ゑ)を口(くち)に咥(くは)え。傍(かたはら)の石地蔵(いしぢぞう)を目(め)より高(たか)くさしあげて。一声(ひとこゑ)かけて打(うち)つけしに。仏(ほとけ)にうたれて三人まで。地獄(ぢごく)(おとし)の鼠(ねづみ)のごとく。目玉(めだま)飛出(とびで)て往生(わうじやう)せり。つゞく者(もの)のあらばこそ。舌(した)を吐(はい)て肝(きも)を消(け)し。こはかなはじと逃(にげ)ゆくを。又(また)追打(おひうち)の梨子割(なしわり)に。二ッにわかれて倒(たふ)れたり。
星合(ほしあひ)(かぢ)之助は。八幡(はちまん)の社頭(しやとう)にのぼり。此体(このてい)を望(のぞ)み見て。柴朶六(しだろく)が勇(ゆう)におそれて。二の手(て)にいづる心(こゝろ)もなく。頭(かしら)を掻(かき)て居(ゐ)たりけるが。心(こゝろ)さときものなれば。前(さき)の日(ひ)(この)神前(しんぜん)へ納(おさめ)おきたる。弓矢(ゆみや)の額(がく)にこゝろづき。重藤(しけどう)に鏑箭(かぶらや)とつて。矢頃(やごろ)を定(さだめ)。しだ六が抱(だ)き居(ゐ)たる三之助を。射(ゐ)をとさんと。満月(まんげつ)のごとくに引絞(ひきしぼ)り。つる音(をと)(たか)くはなちけるが。三之助が運(うん)やつよかりけん。覗(ねら)ひはづれてしだ六が。脇腹(わきはら)へぞ射付(ゐつけ)ける。再二(ふたゝび)の矢(や)をつがひけるが。奉納(ほうのう)の弓(ゆみ)なれば。弦上(つるきれ)てせんすべなく。猶(なほ)も様子(やうす)を望(のぞ)み見れば。農業(のうぎやう)に出(いで)たる百姓(ひやくしやう)(ばら)鋤鍬(すきくは)かたげてこゝかしこよりはせ集(あつま)り。すは山賊(やまだち)よ剛盗(ごうどう)よ。箭(や)はいづくより射(ゐ)かけしぞ。と口々(くち%\)によばゝりければ。梶(かぢ)之助便(びん)あしゝと。似(に)せ商人(あきびと)の牛平(うしへい)を従(したが)へ。何方(いづく)ともなく逃(にげ)うせけり。
百姓(ひやくしやう)ばらは柴朶(しだ)六がめぐりにあつまり。此人(このひと)を見れば大力(だいりき)のきこえたかく。此(この)あたりまでも顔(かほ)をしられたるしだ六なれば。うちおどろき。さま%\にいたわりけり。かゝる急所(きうしよ)の痛手(いたで)なれば。並々(なみ/\)のものならんには。即座(そくざ)にも死(し)すべきに。大力(だいりき)無双(ぶそう)の柴朶(しだ)六なれば。射付(ゐつけ)られたる白羽(しらは)の矢(や)の朱(あけ)になりしを壓折(へしをり)て地上(ちしやう)へなげうち。かゝる飛道具(とびだうぐ)にあらずんば。幾(いく)十人来(きた)りたりとも。闇々(やみ/\)痛手(いたで)は負(おふ)まじきに。残念(ざんねん)や口(くち)おしやと。拳(こぶし)をにぎり〓(はがみ)をなし。怒(いか)る眼(まなこ)に旡念(むねん)の涙(なみだ)。勇(ゆゝ)しくもまたあはれなり。
かくて百姓(ひやくしやう)ばらうちより深切(しんせつ)にいたわりつゝ。しだ六を山輿(やまかご)にのせ。三人して打(うち)かたげ。三之助を背(せ)に負(おひ)。時(とき)ははや日(ひ)も暮(くれ)ければ。松明(たいまつ)をふり照(てら)して。八彦村(やひこむら)にいたり。その家(いへ)におくりつけて立皈(たちかへ)りぬ。尾峯(をみね)は夫(をつと)が体(てい)を見て。梦(ゆめ)うつゝともわきまへずこは何(なに)ゆゑぞなさけなやと。手負(ておひ)の膝(ひざ)にすがりつき。こゑをあげてぞ歎(なげき)ける。柴朶(しだ)六くるしき息(いき)をつき。不審(ふしん)はもつとも我(われ)かく痛手(いたで)をおひたるは。かやう/\の事なりとものがたり。さつする所(ところ)かの商人(あきひと)。道(みち)にて我(われ)を殺(ころ)し。三之助殿(どの)を山中(やまなか)(うぢ)へつれゆき。其(その)(み)一人にて。褒美(ほうび)の金(かね)にありつかんたくみなるべし。同類(どうるい)のものあまた打(うち)とめしが。かの商人(あきびと)にいであはず。うちもらしつるこそ遺恨(いこん)なれ。僅(わづか)〓箭(さびや)の一すぢぐらいに。命(いのち)をうしなふしだ六にはあらざれども。脇腹(わきばら)を野深(のぶか)に射(ゐ)られ。疵口(きづぐち)に夜風(よかぜ)とほりて。五臓(ごそう)六腑(ふ)も悩乱(のうらん)すれば。とても助(たすかる)べき謂(いはれ)なし。此(この)和子(わこ)殿(どの)が命(いのち)をたすけ。此(この)和子(わこ)殿(どの)のために命(いのち)をすつること。これ全(まつた)く前世(ぜんせ)よりの因縁(いんゑん)なるべし。かならず恨(うらみ)と思ふなと。死(し)の一念(いちねん)を動(どうぜ)ざるは狂雲(きやううん)禪師(ぜんじ)の一偈(いつかつ)に。大勇(たいゆう)(ぜん)に道(みち)ありとは。かゝる人(ひと)をやいひけらし。尾峯(をみね)はとかくのいらへもせず。哽咽(むせかへり)てぞ泣入(なきいり)ける。
三之助は此程(このほど)より。思はず此家(このや)に日(ひ)をおくり。疵(きづ)も癒(いえ)て夫婦(ふうふ)にも馴親(なれした)しみ。ことに俐發(りはつ)の生(うま)れなれば。我(われ)ゆゑかくと思ふから。稚(をさな)き胸(むね)におきあまる。つらさかなしさとりまぜて。いともかなしき声(こゑ)をあげ。おぢさま死(しん)でくださるな。わしゆゑに殺(ころ)しては。侍(さふらひ)の道(みち)が立(たゝ)ぬ。此(この)やうな事父上(ちゝうへ)の聞召(きゝめさ)ば。わしを捨(すて)てはおかしやるまい。死(しん)だらきかぬいやじや/\と足(あし)ずりして泣(なき)ければ。柴朶六(しだろく)うれしく膝行(いざり)より。三之助がかしらをなで。唯々(をゝ/\)よういふてくださつた。栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)よりかんばしゝとは和(わ)どのゝ事。たのもしき今(いま)の一言(いちごん)。此(この)柴朶(しだ)六も種根(もとから)の山樵(やまがつ)にても候はず。播州(ばんしう)の國司(くにつかさ)曾根松(そねまつ)(け)に仕(つか)えて餝磨(しかま)の六郎と召(めさ)れたる士(ものゝふ)なりしが。ゆゑあつて
挿絵
【挿絵第十七図 石少 無情骨肉成呉越 有義天涯作至親 三義村中傳美譽 河西千載想奇人 京山】

浪々(らう/\)の身(み)となり。一生(いつしやう)山樵(やまがつ)にて朽果(くちはて)ん覚悟(かくご)なりしが。代々(だい/\)つたはる我(わが)力量(りきりやう)。血脉(けちみやく)の男子(なんし)もなく。我(わが)(だい)にいたりて絶果(たえはて)んと。これのみ心(こゝろ)にかゝりしが。和(わ)どのが今(いま)の一言(いちごん)といひ。惡鳥(あくちやう)の觜(はし)をのがれし洪運(かううん)の程(ほど)。末(すゑ)たのもしく思ひはべれば。漢(かん)の李達(りたつ)が虎血(こけつ)を啜(すゝ)りしためしにならひ。餝磨(しかま)代々(だい/\)の力量(りきりやう)を。我(われ)(いま)和殿(わどの)に授(さづく)べしと。銅作(あかゞねづくり)をとりいださせ。全身(ぜんしん)の力(ちから)を腕(うで)に入(いれ)。劍尖(きつさき)をもつて力瘤(ちからこぶ)を突破(つきやぶ)り。鮮血(ちしほ)を器(うつは)にうけさせて。三之助へぞ飲(のま)せける。
かゝるをりしも星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)がはからひにて。しだ六が跡(あと)を慕(したひ)て来(きたり)たる悪輩(あくはい)ども。垣(かき)のすきよりうかゞひをりしが。しだ六が腕(うで)を突(つき)やぶりしを見て。時分(じぶん)はよしと庭(には)に飛(とび)いり。三之助を目(め)がけつゝ。たゞ一打(ひとうち)と切付(きりつく)る。ふしぎなるかな三之助。こゝろえたりと身をかはせ。立蹴(たちげ)に礑(はつた)と〓(け)おとして。つゞいて庭(には)に飛(とび)くだり。年貢(ねんぐ)のためにつみおきたる。籾(もみ)の俵(たはら)のちから業(わざ)。悪輩(あくはい)どもをちかづけず。尾峯(をみね)がさしだすかの斧(をの)を。手(て)ばやく採(とつ)てふりまはし。真向(まつかう)梨子割(なしわり)車切(くるまぎり)。矢庭(やには)に四五人(にん)切倒(きりたふ)す。形(なり)に似(に)せざる力量(りきりやう)は。頼光(よりみつ)(こう)に仕(つか)えたる。かの金時(きんとき)が稚立(おさなだち)も。かくやとばかり勇(いさまし)き。しだ六は痛手(いたで)ながら。苦痛(くつう)をわすれて打(うち)よろこび。さてこそや我(わが)力量(りきりやう)をうけつぎ給ひけれ。かく大勢(おほぜい)を手(て)にかけ給ひし人殺(ひとごろ)しの罪(つみ)にかはり二ッには此(この)矢疵(やきづ)に命(いのち)をはらんも口(くち)おしければ。いさぎよく腹(はら)きらん。女房(にうぼう)さらばと詞(ことば)のした。銅(あかゞね)づくりをとりなほし。腹(はら)へぐつさと突(つき)たつれば。尾峯(をみね)はわつと哽咽(むせかへり)。三之助も泣(なき)いだし。おぢさま死(しん)でくださるな。おん身(み)ばかりがたよりじやと。虫(むし)がしらするひと言(こと)は。刃(やいば)に臥(ふし)たる爺親(てゝおや)の。草葉(くさば)のかげにてきくならば。さぞやかなしく思ふめり。しだ六は眼(まなこ)をとぢ。引(ひき)まはしたる刀尖(きつさき)に。さはるはたしかに矢(や)の根(ね)ならんと。〓(つかみ)いだし。これゆゑに
挿絵
【挿絵第十八図 三之助枝朶(しだ)六が生血(せいけつ)を呑(のん)で立地(たちどころ)に大力となる】

こそと口(くち)おしく。よく/\見れば〓(やじり)の莖(なかご)へ。象眼(ぞうかん)にて
挿絵

星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)照連(てるつら)所持
と彫入(えりいれ)あれば。柴朶六(しだろく)これを見て大(おほい)に怒(いか)り。さては我(われ)を遠矢(とほや)にかけしは。梶(かぢ)之助が所為(しわざ)なりしや。我(われ)播州(ばんしう)にありしとき。渠(かれ)はいやしき漁師(りやうし)のせがれ。武家(ぶけ)奉公(ぼうこう)を心(こゝろ)ざし。親(おや)を捨(すて)て逐電(ちくてん)なし近年(きんねん)松江(まつえ)殿(どの)に仕(つか)えて星合(ほしあひ)(かぢ)之助と各告(なのる)よし巷説(ちまたのうはさ)にきゝおよびぬ。渠(かれ)に恨(うらみ)をうけんこと。身(み)に覚(おぼえ)なしといへども。種根(しゆこん)のいやしきやつなれば。金(かね)に目(め)をかけかの商人(あきびと)に組(くみ)したるに疑(うたがひ)なし。漁師(りやうし)のせがれが拳(こぶし)にかゝり。命(いのち)を果(はた)す餝磨(しかま)の六郎。よく/\武運(ぶうん)につきはてしか。咳(えゝ)ざんねんや口おしやと。〓(やじり)を簀子(すのこ)にうちつけて。怒(いかれ)ば一(ひと)しほ激(ほとばし)る。鮮血(ちしほ)は瀧(たき)のごとくにて。又(また)も苦痛(くつう)に迫(せまり)けり。妻(つま)はやう/\涙(なみだ)をぬぐひ。女子(をなご)でこそあれ此(この)尾峯(をみね)。夫(をつと)の敵(かたき)の梶(かぢ)之助。やはか安穩(あんおん)でおくべきや。頓(やが〔て〕)て手向(たむけ)ん敵(かたき)の首(くび)。くさばのかげにてまち給へ。人は最期(さいご)の一念(いちねん)にて。苗宇(ちうう)に迷(まよ)ふと聞(きゝ)はべれば。恨(うらみ)を残(のこ)さず往生(わうぜう)あれ。南旡(なむ)あみだ仏(ぶつ)/\と夫(をつと)がよはる顔色(がんしよく)に。つれて唱(となふ)る六字(ろくじ)づめ。ともに消(きえ)たき風情(ふぜい)なり三之助はのびあがりしだ六が耳(みゝ)に口(くち)。こなたの敵(かたき)はわしがとる。強(つよ)ふなつた三之助。堪忍(かんにん)はしておかぬと。よばゝる声(こゑ)の奈落(ならく)(まで)。ひゞきて消(きえ)ゆく目(め)をひらき。莞尓(につこり)せしが此世(このよ)のわかれ。合破(がは)と倒(たふ)れておち入(いり)けり。
鷲談傳竒桃花流水巻之三終


鷲談傳竒(わしのだんでんき)桃花流水(とうくわりうすい)巻之四

江戸 山東京山 編次 

  第(だい)十一回(くわい) 幽栖(ゆうせい)

生死(せうし)涅槃(ねはん)猶如(ゆによ)昨梦(さくむ)と説(とき)給へるも。あはれにこそおぼゆれ。きのふ過(すぎ)にしあとはけふの夢(ゆめ)なり。今日(けふ)の事(こと)も又(また)明日(あす)の夢(ゆめ)にして金烏(きんう)の翅(つばさ)。玉兎(ぎよくと)の足夢(あしゆめ)より夢(ゆめ)に歩行(あゆま)するは。人(ひと)としてとゞまりがたき旅寝(たびね)ぞかし。
去程(さるほど)に尾峯(をみね)は柴朶六(しだろく)を野外(やぐわい)の煙(けふり)となし。事(こと)はてゝ後(のち)(ひそか)に三之助(すけ)をともなひ。松江(まつえ)の庄(せう)にいたりて。山中(やまなか)が家(いへ)をたづねけるに。左衛門(さゑもん)は國字寺(こくじじ)にて自殺(じさつ)なし。栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)(いへ)を追(おは)れて其(その)行方(ゆくへ)をしるものなく。梶之助(かぢのすけ)は三之助(すけ)を打(うち)もらして心安(こゝろやす)からざるのみならず。秋季(あきとし)を愚將(ぐしやう)とあなどり。松倉家(まつくらけ)へ内通(ないつう)の密謀(みつぼう)一味(いちみ)のうちに反忠(かへりちう)のものありて。已(すで)に捕(とら)へらるべきを。とくさとりしり。かの牛平(うしへい)を伴(ともな)ひて行方(ゆくへ)しれず逐電(ちくてん)なせしときゝて操(みさほ)の胸(むね)にはりつめし弓(ゆみ)もをれてせんすべなく。再(ふたゝび)三之助(すけ)をともなひて八彦村(やひこむら)へ立皈(たちかへ)りけるが。かれこれにて村(むら)をもさはがせければ。おのづから人(ひと)の思はくも疎(うと)くなりて。ちからとたのむべき人(ひと)もなく。朝夕(あさゆふ)の心細(こゝろぼそ)さいはんかたなし。かくては夫(をつと)の敵(かたき)をたづぬべきたよりもあしゝと。わづかなる家財(かざい)を代(しろ)なしてこれを路金(ろぎん)となし。夫(をつと)が形見(かたみ)の銅作(あかゞねづくり)と最期(さいご)の恨(うらみ)の鏃(やのね)とを所持(しよぢ)なして。住(すみ)なれし八彦村(やひこむら)を立(たち)のき。梶之助(かぢのすけ)と栢木(かしはぎ)(ら)が行方(ゆくへ)を尋(たづね)んと。まづ都(みやこ)へいで。爰(こゝ)彼所(かしこ)を経廻(へめぐ)りけるが。其(その)おとづれをもきかざれば。ひとまづ尾峯(をみね)がふるさとなる。三河國(みかはのくに)宮路山(みやぢやま)のほとりへ来(きた)りて。かりの住家(すみか)をもとめ。所(ところ)がらの活業(なりはひ)。白苧(しろう)染苧(そめう)をつくりて。世(よ)のたつきとなし。糸(いと)よりほそきけふりをたてゝ。三之助(すけ)をば養子(やしなひご)のやうにいひなし。そのとしもいつかくれて。くる春(はる)をもいとわびしくぞむかへける。
三之助(すけ)は年(とし)一ッかさねて殊(こと)にかしこくなり。形(かたち)も力(ちから)につれて大(おほ〔き〕)きやかに。余所(よそ)(ほか)の子(こ)どもに比(くらぶ)れば。十一二才(さい)ばかりに見えけり。生質(うまれつき)(すなほ)にして尾峯(をみね)を誠(まこと)の母(はゝ)のごとくに親(した)しみ。つゆばかりもその教(をしへ)にそむくことなく。梢(こずゑ)に登(のぼり)て菓(くだもの)を探(さぐ)り。流(ながれ)にのぞんで魚(うを)を驚(おどろか)すたぐひの遊(. あそ)びをなさず。おのづから志(こゝろざし)(たか)く。さながらよしある士(ものゝふ)の胤(たね)とは。人品(ひとがら)と行(おこなひ)とにてもしられけり。
尾峯(をみね)が糸(いと)の手業(てわざ)もはか%\しからねば此(この)あたりより程(ほど)ちかき。かの紫匂(むらさきにほ)ふとよみし。藤川(ふぢかは)の駅(ゑき)にいでゝ。旅人(たびゞと)の行李(にもつ)をもち。其賃(そのちん)をとりて。尾峯(をみね)が世(よ)わたりのたすけとしけるが。大力(だいりき)旡双(ぶそう)の童(わらは)なれば。およそ馬(うま)とひとしき重荷(おもに)をもちて。貸銭(ちんせん)をうる事(こと)(ひと)よりおほく。旅人(たびゝと)(ら)も幼(いとけな)き童(わらは)の重(おも)き行李(にもつ)をもつをおもしろがり。三之助が来(きた)るをまちて。ものを
挿絵
【挿絵第十九図】

もたせければ。此(この)藤川(ふちかは)の驛(ゑき)をかせぐ物持(ものもち)ども。いつも手(て)を空(むなし)くして頭(かしら)を掻(かき)けるがとても腕(うで)に勝(かつ)事あたはず。竊(ひそか)に心をいらちけるとぞ。
さて一日(あるひ)三之助(すけ)は例(れい)の如(こと)く海道(かいたう)にいでゝ家(いへ)にあらず。尾峯(をみね)が手業(てわざ)の糸車(いとくるま)。いとしき夫(をつと)にわかれてより。花(はな)のすがたも其侭(そのまゝ)に。とりつくろはぬ山櫻(やまさくら)。鄙(ひな)には惜(をし)きすがたなり。
(とき)しも〓雨(にはかあめ)ふりいだしければ。尾峯(をみね)は周章(あはて)て門邊(かとへ)に立(たち)いで。干(ほし)ておきたる。染苧(そめう)をとりいれんとしつるをりしも。當所(とうしよ)の縣守(あかたもり)が下司(したつかさ)横嶋(よこしま)(あく)五郎といふ若侍(わかさぶらひ)。雨具(あまぐ)の用意(ようい)もなく。一人の従者(づさ)をしたがへ此所(このところ)を通(とほ)りけるが。尾峯(をみね)が容色(ようしよく)を見て。色(いろ)ごのみの目(め)をおどろかし。從者(づさ)に對(むか)ひ。われは此家(このいへ)をかりて待(まつ)べき程(ほど)に。汝(なんぢ)は宿所(しゆくしよ)にかへりて雨具(あまく)を持参(ちさん)せよと。命(めい)じもたせ来(きた)りし。吸筒(さゝへ)分盒(わりご)の一包(ひとつゝみ)をたづさへ。尾峯(をみね)が跡(あと)につきて内(うち)にいり。しか%\のよしをいひければ。尾峯(をみね)は惡(あく)五郎を紋花筵(はなござ)の上(うへ)にをらしめ。うや/\しくてをつき。おもきおんかたの雨(あま)やどりなればこそ。かゝるいぶせき所(ところ)をもいとひ給はず。御入(いり)も候ひけれ。ごらんのごとき貧(まづし)きくらし。せめてお茶(ちや)をと立(たゝ)んとせしを。惡(あく)五郎おしとゞめ。いや/\それにはおよび申さぬ。けふは大屋(おほや)(がは)の鮎(あゆ)とりに行(ゆか)んとせしが。雨(あま)もよひのそらあひ故(ゆゑ)。途中(とちう)よりのかへりあし。幸(さいはひ)なる吸筒(さゝへ)分盒(わりご)。こゝにてひらき申さんと。酒樽(とくり)ながらにかんをつけ。尾峯(をみね)が酌(しやく)にて数盃(すはい)をかたむけ。あだめく詞(ことば)をまじへつゝ。酒(さけ)は不得手(ふえて)の尾峯(をみね)へも。旡理(むり)に飲(のま)する惡(あく)五郎。花盗人(はなぬすびと)としられけり。尾峯(をみね)はそれとさとれども。縣守(あがたもり)の下司(したづかさ)なれば。柳(やなぎ)に風(かぜ)の吹(ふき)しだい。ことやはらかにもてなしけり。悪(あく)五郎其図(そのづ)にのり。不良(ふりやう)の門(もん)に入(いら)んとするを。尾峯(をみね)は操(みさほ)をやぶられじと。顔(かほ)に紅葉(もみぢ)を散(ちら)し髪(がみ)。程々(ほど%\)あやうきをりしもあれ。三之助立皈(たちかへ)り。此体(このてい)を見て大(おほき)に怒(いか)り。悪(あく)五郎が襟首(ゑりくび)(つかん)で引倒(ひきたふし)。拳(こぶし)をあげて連打(つゞけうち)。散々(さん%\)に打(うち)けれども。三之助が力(ちから)におそれ。ゆるせ/\と呼(よばゝ)りながら。傍(かたはら)に落散(おちちつ)たる。尾峯(をみね)が櫛(くし)を手(て)ばやく拾(ひろ)ひ。〓(こけ)つ轉(まろび)つ逃(にげ)さりけり。
○これは偖(さて)おき爰(こゝ)に又(また)。都(みやこ)の人(ひと)にて名(な)を山科屋(やましなや)弥四六(やしろく)といふもの。所用(しよよう)ありて三州(さんしう)にくだり。藤川(ふぢかは)の驛亭(ゑきてい)に泊(とま)りけるが。里人(さとびと)あまた東(ひがし)をさしてはせ行(ゆき)ければ。何事(なにごと)にやあらんと宿(やど)の主(あるじ)にたづねしに。主(あるじ)(いはく)これは世(よ)にあはれなる物語(ものがたり)にて候。當所(たうしよ)の宮地(みやぢ)(やま)は昔(むかし)持統(ぢとう)天皇(てんわう)幸行(みゆき)ならせ給ひて頓宮(かりみや)ありしところなれば。昔(むかし)より殺生(せつしやう)禁断(きんだん)の所(ところ)なるに。此(この)ほど彼山(かのやま)の麓(ふもと)に住(すむ)寡婦(やもめ)尾峯(をみね)といふもの。宮地(みやち)(やま)にのぼりて宿鳥(ねとり)をとり。山中(さんちう)へとりおとしたる。頭櫛(さしぐし)を證拠(せうこ)として搦捕(からめとら)れ。今日(こんにち)(くれ)六の鐘(かね)を相圖(あひづ)に大屋(おほや)(がは)へ沈(しづめ)にかけらるゝよし。夫(それ)を見んとて里人(さとびと)(ら)の。かくはせゆき申す也。金子(きんす)百両(りやう)をいだして罪(つみ)を購(あがなへ)ば命(いのち)たすかる事。これもむかしよりのさだめなり。かの女(をんな)に娘(むすめ)もあらば。かゝる時(とき)は身(み)をうりても。母(はゝ)の命(いのち)を助(たすく)べきに。養子(やうし)の三之助(すけ)と申すは力(ちから)こそ強(つよ)けれ。歳端(としは)のゆかぬ小童(こわつぱ)なれば。金(かね)の才覚(さいかく)は思ひもよらず。血(ち)の涙(なみだ)にてをるとのうはさと語(かた)るうちに。主(あるじ)の女房(にようぼ)が傍(かたはら)より。主(あるじ)にむかひ。彼(かの)尾峯(をみね)とやらんは下司(したづかさ)の悪五郎(あくごらう)が心(こゝろ)にしたがはざりしゆゑ。渠(かれ)其座(そのざ)にて尾峯(をみね)が落(おと)せし櫛(くし)を盗(ぬす)み。戀(こひ)を叶(かな)えぬ遺恨(いこん)じやと。聞(きけ)ばきくほどむごたらしうござりますと。はなすを聞(きい)て弥四六(やしろく)(あるじ)に対(むかひ)。さても/\いたはしき女(をんな)が身(み)のうへ。金(かね)で助(たすか)る命(いのち)ならば百両(ひやくりやう)の金子(きんす)は我等(われら)合力(かうりよく)いたすべし。御身(おんみ)よろしくはからひ給へ。かならずしも戲(たはふれ)ごとにあらず。実(じつ)に一命(いちめい)を助(たすけ)たく思へば。時刻(じこく)をうつさずはからひ給へといそがせければ。主(あるじ)夫婦(ふうふ)も大(おほい)によろこび。村長(むらおさ)へしか%\のよしきこえつぎ。主(あるじ)(むら)おさ弥(や)四六其余(そのよ)役々(やく/\)の里人(さとびと)(ら)。大屋(おほや)(がは)にはせつけ。弥(や)四六は尾峯(をみね)が親族(しんぞく)なりといひたて。金子(きんす)百両をいだして罪(つみ)をあがなひければ。罪人(つみんど)けいごの武士(ぶし)ども事(こと)の由(よし)を人(ひと)はせて縣守(あがたもり)へきこえあげけるに。古法(こほう)なればくるしからずとさし圖(づ)にまかせ。金(かね)をおさめて尾峯(をみね)が縄目(なはめ)をゆるし。村長(むらおさ)へ渡(わたし)ければ尾峯(をみね)はゆめのさめたるごとく。三之助(すけ)もかくときゝて此所(このところ)へかけつけ。ともに喜(よろこ)ぶこと。いへば更(さら)なり。
かくて尾峯(をみね)は三之助をともなひ。村長(むらおさ)(あるじ)(ら)にしたがひて旅亭(りよてい)にいたり。此(この)人々(ひと%\)に礼(れい)をのべ。殊更(ことさら)(や)四六には詞(ことば)のかぎりいひつくし。大恩(だいおん)を謝(しや)しければ。弥(や)四六尾峯(をみね)に對(むかひ)。命(いのち)の親(おや)といはれては却(かへつ)て迷惑(めいわく)。合力(かうりよく)した百両(ひやくりやう)は三之助(すけ)が身(み)の代(しろ)(きん)。とばかりいふては合点(がてん)が行(ゆく)まい。もと我(わが)活業(なりはひ)は見せ物(もの)(し)なるが。此(この)たび矢矧(やはぎ)の橋(はし)のほとりなる〔橋長(はしのなが)さ二百八間(けん)東海道(とうかいだう)第一の長橋(ちやうきやう)なり〕佛光寺(ぶつくわうじ)に〔此てらいまははいす〕来(きたる)四月はじめより弥陀(みだ)如来(によらい)開帳(かいてう)ありときゝ。其(その)(にぎはひ)に乗(じやう)じて利(り)を得(えん)と都(みやこ)より縁竿(くもまひ)刀玉(かたなだま)なんどするものを引具(ひきぐ)して彼地(かのち)に来(きた)り。仏光寺(ぶつくわうじ)の辺(ほとり)にかり住(ずま)居して。開帳(かいてう)のはじまるをまつ内(うち)に。此(この)驛中(ゑきちう)に三之助(すけ)といふ大力(だいりき)の童(わらんべ)あるよし噂(うはさ)に聞(きゝ)。此度(このたび)の見(み)せものゝ数(かづ)にくはへて太夫(たいふ)となし。浪華(なには)(くだ)りといひなして力業(ちからわざ)をさせ。多(おほ)くの金(かね)にありつかんと。此(この)旅亭(りよてい)に泊(とま)り。聞(きゝ)およびし三之助(すけ)が家(いへ)をたづね。給金(きうきん)の高(たか)をきはめ抱(かゝへ)(ゆか)んと思ひしに。はからざる和主(わぬし)の難儀(なんぎ)。三之助(すけ)が母(はゝ)と聞(きゝ)て。おしげもなき百両(ひやくりやう)は。三之助(すけ)が身(み)の代(しろ)なり。開帳(かいてう)の日数(ひかづ)六十日をかぎりて。我(わが)(め)づもり七十両(りやう)とは思へども。百両(ひやくりやう)の身(み)の代(しろ)は。開帳(かいてう)の日(ひ)のべが當(あて)。斯(かう)したわけの金(かね)なれば。礼(れい)をうけては殊(こと)の外(ほか)迷惑(めいわく)すると。こまやかにものがたれば。傍(かたはら)にきゝ居(ゐ)たる宿(やど)の主(あるじ)。さもこそあるらめあまり見事なしかたであつたとうちわらひぬ〔斯(かく)て后(のち)(かの)(あく)玉郎は尾峯(をみね)がこと縣守(あがたもり)にもれきこえて此地(このち)を逃(にげ)のきけるとぞ〕
挿絵
【挿絵第二十図 三之助民家(みんか)に養(やしなは)れて義母(ぎぼ)に孝(こう)をつくす圖(づ)


  第(だい)十二回(くわい) 〓金(かねをひらふ)

(こゝ)に又(また)春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)は。彼(かの)地獄坂(ぢごくざか)にて栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)を見うしなひけるが。近江(あふみ)一國(いつこく)は秋季(あきとし)より徘徊(はいくわい)をとゞめられし身(み)なれば。久(ひさ)しく足(あし)をとゞめがたく。栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)も此國(このくに)には居(ゐ)給ふまじ。かならず都(みやこ)の方(かた)へ登(のぼり)給ひしならんと。其(その)あとをしたひてたづねのぼりけるが。更(さら)に音信(おとづれ)をも聞(きか)ず。とかくする間(ま)におのれがたくはへの路金(ろぎん)をもつかひ盡(つく)して。せんかたなく慰(なぐさみ)におぼえたる尺八(しやくはち)を吹(ふい)て旅(たび)虚旡僧(こむそう)に身(み)を打扮(やつ)し。人(ひと)の門(かど)に立(たち)て銭(ぜに)を乞(こひ)。これを路銀(ろぎん)として。中國(ちうごく)を歴巡(へめぐ)り。主人(しゆじん)のゆくへと敵(かたき)の在家(ありか)を尋(たづね)つゝ。旅中(りよちう)に歳(とし)をこえてむなしき春(はる)をむかへ。猶(なほ)東國(とうごく)をたづねばやと東海道(とうかいだう)をくだりて。尾張(をはりの)國宮(くにみや)の駅(ゑき)にいたりぬ。
年来(としごろ)(きゝ)およびたる熱田(あつた)の神垣(かみがき)もあたりちかければ。行(ゆき)て拝(をが)みたてまつれり。そも/\當社(たうしや)は人皇(にんわう)十二代の帝(みかど)。景行(けいかう)天皇(てんわう)の御時(おんとき)より御(ご)鎮座(ちんざ)まし/\て。東海(とうかい)東山(とうざん)両道(りやうだう)第一(たいいち)の霊社(れいしや)なれば。信心(しん%\)(きも)にめいじ。遠(とほ)からずして主人(しゆじん)にめぐりあひ。讎(あた)を復(ふく)して世(よ)にいづる時(とき)にあはしめ給へと。社頭(しやとう)にぬかづきてしばらく祈念(きねん)しけり。
(とき)ははや黄昏(たそがれ)のころなれば。今宵(こよひ)の梦(ゆめ)をむすばんと。寝覚(ねざめ)の里(さと)にいたりけるが。〔美濃(みの)に同名(どうめい)の地(ち)あり〕路(みち)の傍(かたはら)に物(もの)あるを見て拾(ひろ〔ひ〕)つるに。およそ百両(ひやくりやう)あまりの金(かね)を服紗(ふくさ)に包(つゝみ)たるなり。由良之進(ゆらのしん)(おほい)に驚(おどろ)き。何(なに)ものゝおとしけるか。包(つゝみ)の内(うち)にしるしやあると。傍(かたはら)なる古社(ふるやしろ)に腰(こし)うちかけて。其(その)(つゝみ)をひらき見るに。黒染(くろぞめ)の片袖(かたそで)と。財布(さいふ)に入(いれ)たる百両(ひやくりやう)の封金(ふうきん)(あり)けり。熟々(よく/\)(み)れば此(この)包金(つゝみがね)は。去年(きよねん)地獄坂(ぢごくざか)にて山賊(さんぞく)にいであひ。追散(おひちらし)たる時(とき)(とり)おとしつる金(かね)にして。封(ふう)じめに山中(やまなか)の家(いへ)の縫印(つきていん)を印(おし)たれば。紛(まぎる)べうもあらず。財布(さいふ)も猶(なほ)其時(そのとき)の侭(まゝ)なり。又(また)(つゝみ)し服紗(ふくさ)の端(はし)に白裂(しろききれ)を縫付(ぬひつけ)。是(これ)に星合(ほしあひ)(うぢ)と記(しる)したり。由良之進(ゆらのしん)(さら)に其(その)(ゆゑ)を暁(さと)しがたく。包(つゝみ)を膝(ひざ)にのせて腕(うで)を組(くみ)(かしら)を左右(さゆう)へ傾(かたふけ)て。しばらく思案(しあん)しつゝ心中(しんちう)におもへらく。我(わが)おとしたるときかの山賊(さんぞく)。此金(このかね)をひろひとらば。賊(ぞく)の身(み)として今迄(いまゝで)(たくは)えもつべき謂(いはれ)なし。包(つゝ)みし服紗(ふくさ)の端(はし)に星合(ほしあひ)(うぢ)としるしたるは。彼(かの)星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)が家(いへ)の品(しな)なるべし。過(すぎ)つるころ都(みやこ)にありて。彼(かれ)が巷説(うはさ)を聞(きゝ)しに。秋季(あきとし)(こう)に對(たい)して邪惡(じやあく)の行(おこなひ)をはかり。事(こと)あらはれて逐電(ちくてん)しつるよし。此事(このこと)を聞(きゝ)て『氏王(うちわう)(ぎみ)に疵(きづゝけ)しは。もし彼(かれ)が所為(しはざ)にはあらざるやらん。』と梶之助(かぢのすけ)にもめぐりあひたく思ひて。かく月(つき)ごろをすごしたるに。今(いま)(この)服紗(ふくさ)に包(つゝみ)たる金(かね)。再(ふたゝび)我手(わがて)に皈(かへり)たるは。熱田(あつた)明神(みやうじん)忠義(ちうぎ)に辛勤(しんきん)する志(こゝろざし)を感応(かんおう)まし/\て。授(さづけ)給ひたるにうたがひなしと。猶(なほ)遥拝(ようはい)しつゝ梶(かぢ)之助(すけ)(この)(かね)を拾(ひろ)ひ。再(ふたゝび)(こゝ)におとしたるならん。大金(たいきん)なれば必定(ひつぢやう)(たづ〔ね〕)ね来(きた)るべし。渠(かれ)を捕(とら)へて可為(すべき)やうこそあれと。百両(りやう)は懐中(くわいちう)にをさめ。石(いし)をかはりとして元(もと)の所(ところ)に捨(すて)おき。社(やしろ)の内(うち)に身(み)をかくしつゝ。替竹(かえだけ)と見せたる一腰(ひとこし)を膝(ひざ)によせ。餌(ゑ)をおきて獣(けもの)をとるごとく。今(いま)や来(きた)ると待(まち)(ゐ)たり。
(かく)てやゝ時移(ときうつ)りて日(ひ)は暮(くれ)けれども。いまだ人影(ひとかげ)も見えざれば。今宵(こよひ)は此社(この〔や〕しろ)にあかさばやと思ひさだめて心(こゝろ)を寛(ゆるやか)になし。猶(なほ)まつほどに。向(むかふ)の方(かた)より爰(こゝ)へ来(きた)る人(ひと)かげ見えければ。目(め)をとゞめて見(み)(ゐ)たるに。やがて近(ちか)くなりたるを。月(つき)かげにすかし見れば。深編笠(ふかあみがさ)に面(つら)をかくし。黒(くろ)き小袖(こそで)に朱刀室(しゆざや)の両刀(りやうとう)を帶(たいし)。さながら浪人(らうにん)と見えたる者(もの)。金(かね)のほとりにいたり。篇笠(あみがさ)のうちより爰(こゝ)彼所(かしこ)(うかゞ)ひ見る体(てい)。身(み)の丈(たけ)(かた)のかゝり。見(み)おぼえある梶之助(かぢのすけ)に疑(うたがひ)なし。さてこそとうれしけれ。用意(ようい)の一腰(ひとこし)うしろにかくし。此方(こなた)も天蓋(てんがい)に面(おもて)をかくして。彼(かれ)が背后(うしろ)にしのびよる。とはしらずして。かのつゝみを拾(ひろ)ひとり。おしいたゞきて懐(ふところ)にをさめ。立(たち)さらんとなしけるを。由良之進(ゆらのしん)(ことば)もまじへず。鐺(こじり)をしかと捕(とら)へて后(うしろ)のかたへ引(ひき)もどす。胆(きも)ふときやつと見えて。おどろきたる気色(けしき)もなく。篇笠(あみがさ)(とつ)て片方(かたへ)に打(うち)すて。刀(かたな)の柄(つか)に手(て)をかくる。由良之進(ゆらのしん)(これ)を見て。とつたる鐺(こじり)を突放(つきはな)ち。飛(とび)〓〓(しさり)つゝ。天蓋(てんがい)をかなぐり捨(すて)て。双方(さうはう)ぱつしと切(きり)むすぶ。刀(かたな)と刀(かたな)の十文字(じふもんじ)。月(つき)の光(ひかり)に刃(やいば)のあひだ。互(たがひ)に顔(かほ)を見交(みかわせ)て。「ャァ兄(あに)じや人(ひと)。由良之進(ゆらのしん)どの「さいふは弟(をとゝ)の簑作(みのさく)なるか。こはそもいかにと両人(りやうにん)が。寝覚(ねざめ)の里(さと)の夢(ゆめ)かとばかり。知果(あきれ)て詞(ことば)もつがざりけり。
さて両人(りやうにん)は刀(かたな)を刀室(さや)にをさめ。由良之進(ゆらのしん)(うち)よろこびて。簑作(みのさく)にむかひ。絶(たえ)て逢(あは)ざる兄弟(きやうだい)の。かゝる所(ところ)にしてはからず落合(おちあひ)たるは。そもいかなるゆゑならん。問(とふ)べき事(こと)(かたる)べきこと一夕(いつせき)の談(だん)にあらずといへども。先(まづ)かしこの社(やしろ)に来(きた)れといひて。両人(りやうにん)社内(しやない)に對座(むかひざ)し。由良之進(ゆらのしん)(さき)に詞(ことば)をいだして曰(いはく)。我(わが)身上(みのうへ)の事(こと)どもは次(つぎ)に語(かた)るべし。さしあたりて聞(きか)まほしきは。星合(ほしあひ)(うぢ)としるしたる服紗(ふくさ)に。我(わが)(おと)したる百両(ひやくりやう)を包(つゝ)み。あやしき片袖(かたそで)を添(そえ)たるを。汝(なんぢ)が所持(しよぢ)なすは最(いと)不審(いぶかし)き事(こと)なり。必定(ひつぢやう)仔細(しさい)あらん。いかなるゆゑぞと問(とひ)ければ。簑作(みのさく)が曰(いはく)。此(この)一義(いちぎ)につきては甚(はなはだ)入組(いりくみ)たる物語(ものがたり)の候。よく心(こゝろ)して聞(きゝ)給へ。御身(おんみ)もしり給ふ如(ごと)く。我(われ)播州(ばんしう)の國司(くにづかさ)。曽根松(そねまつ)(け)の家臣(かしん)。箕取(みとり)(うぢ)の養子(ようし)となり。両親(りやうしん)の死后(しご)にいたりて。餝磨(しかま)六郎が妹(いもと)深雪(みゆき)をむかへて妻(つま)となし。深雪(みゆき)が妹(いもと)(かさゝぎ)をも我(わが)(かた)へ引取(ひきとり)て養(やしな)ひおき候。しかるに餝磨(しかま)六郎ゆゑあつて主人(しゆじん)より暇(いとま)給はり。それがしも六郎がことに與(あづか)りたりとておなじく浪々(らう/\)の身(み)となり。暇(いとま)給はりしことにつきて。それがし六郎と
挿絵
【挿絵第二十一図 此(この)(ゑ)の謂(いわれ)こゝにいわず本文(ほんもん)を讀(よみ)てしるべし】

一家(いつけ)の縁(えん)を断(きり)候。かの鵲(かさゝぎ)は『女(をんな)の身(み)なり』とて。姉(あね)にしたがひて某(それがし)が家(いへ)にありて。逢坂(あふさか)の関(せき)のほとりに三人わびしくくらし候が。鵲(かさゝぎ)(あね)とはかりて我(われ)には『侍女(じちよ)の奉公(ほうこう)する』と偽(いつは)り。彼(かの)星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)が妾(てかけ)となり候。しかるに一夜(あるよ)梶之助(かぢのすけ)が僕(しもべ)牛平(うしへい)といふもの。周章(あはたゞし)く来(きた)りていふやう。『鵲(かさゝぎ)どの織平(をりへい)といふものと密通(みつつう)なし。今宵(こよひ)ことあらはれて。御(ご)主人(しゆじん)梶之助(かぢのすけ)どの両人(りやうにん)を手討(てうち)にいたされたり。不義(ふぎ)の證拠(しやうこ)はこれなり』とて。鵲(かさゝぎ)が自筆(じひつ)にて。織平(をりへい)が方(かた)へつかはしたる。夫婦(ふうふ)の誓紙(せいし)を見せ。『手討(てうち)の死體(しがい)を引(ひき)とるべし』とあるに。いかにともせんすべなく。その夜(よ)梶之助(かぢのすけ)が家(いへ)にいたらんと。地蔵(ぢぞう)ざかへさしかゝりしに。をりしも宵闇(よひやみ)の暗(くら)まぎれ。あやしき曲者(くせもの)に行逢(ゆきあひ)。山賊(さんぞく)と思ひつれば。はからず『捕(とらへ)ん』と思ふ心(こゝろ)になり。立(たち)まはるひまに渠(かれ)が切(きり)こむ刀(かたな)。石地蔵(いしぢぞう)をきりて火花(ひばな)ぱつと飛散(とびちり)。其(その)ひかりにて曲者(くせもの)が面(つら)をちらりと見て。猶(なほ)(とらへ)んとして片袖(かたそで)を引断(ひきちぎ)り。曲者(くせもの)は逃(にげ)さり候。かくて梶(かぢ)之助が家(いへ)にいたり。其(その)(よ)(はじめ)て梶(かち)之助に對面(たいめん)せしに。以前(いぜん)の曲者(くせもの)に似(にた)りつれば。鵲(かさゝぎ)を手討(てうち)にせしといふも。いと怪(あや)しけれども。掲焉(たしかなる)證拠(せうこ)あれば。争(あらそふ)べき処(ところ)なく。葬(はうふり)の事(こと)彼是(かれこれ)にて。四五日は心忙(こゝろいそがは)しく打過(うちすぎ)。一日(あるひ)巷説(ちまたのうはさ)を聞(きけ)ば。『地藏坂(ぢぞうざか)にてしか%\の事(こと)ありて。山中(やまなか)どのに疑(うたが)ひかゝり。一家(いつけ)の滅亡(めつぼう)おぼつかなし』と聞(きゝ)て大(おほい)におどろき。引断(ひきちぎり)たる片袖(かたそで)の袂(たもと)のうちにありつる此(この)服紗(ふくさ)に。星合(ほしあひ)(うぢ)としるしたるのみならず。〔此(この)服紗(ふくさ)は梶(かぢ)之助短刀(たんとう)(つゝみ)て地蔵坂(ぢぞうざか)へ持行(もちゆき)しふくさなり〕我(わが)曲者(くせもの)にいであひたる夜(よ)と。氏王(うじわう)(ぎみ)の疵(きづ)を得(え)給ひたる夜(よ)と同夜(どうよ)同刻(どうこく)なれば。疵(きづつけ)しものは梶(かぢ)之助に一定(いちぢやう)せり。さるゆゑに『服紗(ふくさ)を證拠(せうこ)となして。山中(やまなか)どのを助(たすけ)ん』と。其日(そのひ)(たゞち)に山中(やまなか)どのゝ家(いへ)にいたりしに。家(いへ)は空家(あきや)となりて人影(ひとかげ)も見えず。山中(やまなか)どのは國字寺(こくじじ)にて自殺(じさつ)と聞(きゝ)。御身(おんみ)の跡(あと)をしたひて走行(はせゆき)。地獄坂(ぢごくざか)にて此(この)百両(ひやくりやう)をひろひ。財布(さいふ)に目(め)おぼえあれば『扨(さて)は都(みやこ)の方(かた)へ落(おち)給ひしならん』とこゝろえ。かの地(ち)にいたりて四五日が程(ほど)。こゝかしこたづねもとめけれども。音信(おとづれ)をも聞(きか)ざれば。空(むな)しく家(いへ)に皈(かへ)り。斯(かく)年月(としつき)を過(すご)し。今月(こんけつ)(それ)の日(ひ)(かさゝぎ)が一周忌(いつしうき)の仏事(ぶつじ)をいとなみしに。其夜(そのよ)の夢(ゆめ)に鵲(かさゝぎ)(つげ)て曰(いはく)。『我(われ)(かぢ)之助が為(ため)に謀(はか)られて。不義(ふぎ)の惡名(あくみやう)をうけ。非命(ひめい)の刃(やいば)にかゝり。怨魂(えんこん)宙宇(ちうう)にさまよひて。浄土(しやうど)の往生(わうぜう)を遂(とげ)がたし。尾張國(をはりのくに)熱田(あつた)明神(みやうじん)に参詣(さんけい)あらば。我(わが)(うらみ)をはらすべき便(たよ)りを得(え)給はん』と告(つげ)候。ゆゑに。『讎(あた)を復(ふくし)て修羅道(しゆらだう)の恨(うらみ)をはらさせばや』と。今日(こんにち)此地(このち)に来(きた)り。明神(みやうじん)へ詣(まうで)しかへるさ。此包(このつゝみ)を取落(とりおと)し。はからず兄上(あにうへ)にめぐりあひしは。最(いと)不思議(ふしぎ)なる事(こと)どもなりと。事(こと)(こまやか)に物語(ものがたり)ければ。由良之進(ゆらのしん)は主人(しゆじん)の讎(あだ)明白(めいはく)に知(し)れて。喜(よろこぶ)(こと)かぎりなく。山中(やまなか)左衛門(さゑもん)自殺(じさつ)のことを初(はじめ)とし。今日(こんにち)にいたるまでの事(こと)を。詳(つまびらか)に語(かた)りきかせ。此(この)(よ)兄弟(きやうだい)(この)辻堂(つぢどう)に夜(よ)を明(あか)し。鵲(かさゝぎ)が夢中(むちう)の告(つげ)もあれば。由良之進(ゆらのしん)が志(こゝろざ)せしかたを尋(たづね)んと。兄弟(きやうだい)打連(うちつれ)て。東(あづま)の方(かた)へぞ下(くだ)りにける〔○みの作百両の金(かね)の包(つゝみ)をこゝへもちきたりしは一ッにはかたきのせうこ二ッには兄にもあはんかとの心なるべし〕

  第(だい)十三回(くわい) 熱閙(にぎはひ)

そも/\矢矧川(やはぎがは)は。水源(すいげん)岐蘇(きそ)の山渓(さんけい)より落(おち)て末(すゑ)を鷲塚川(わしづかがは)と云(いふ)。西尾(にしを)に到(いたり)て二流(りう)となり。海(うみ)に入(いる)。三河(みかは)(さん)大河(だいが)の一(いち)なり。架(わた)す橋(はし)を矢矧(やはぎ)の橋(はし)といふ。其(その)(な)(なが)くつたはりて。殊(こと)に名高(なたか)き長橋(ちやうきやう)なり。深草(ふかくさ)の元政(げんせい)が。矢矧(ゆはぎ)の橋(はし)に書(かき)つけて見んと咏(よみ)しも。腰(こし)の矢立(やたて)のすさみなるべし。
去程(さるほど)に由良之進(ゆらのしん)簑作(みのさく)(ら)は。こゝに来(きた)りて橋(はし)のほとりの茶店(さてん)に憩(いこ)ひ。その光景(ありさま)を見るに。此頃(このころ)矢矧(やはぎ)にちかき仏光(ぶつくわう)寺へ。都(みやこ)(なにがし)の御寺(みてら)より。釋迦(しやか)如来(によらい)遷座(せんざ)まし/\て。開帳(かいてう)ありければ。参詣(さんけい)の諸人(しよにん)(ぐん)をなして。橋上(きやうしやう)の往来(ゆきゝ)絡繹(らくゑき)たり。利(り)を射(ゐ)る商人(あきびと)どもは。開帳(かいてう)の熱閙(にぎはひ)を的(まと)にかけて。あたり狭(せま)しと店(みせ)をひらき。新製(しんせい)の餅(もち)に案(あん)じの味(あち)をやり。工風(くふう)の手遊(てあそ)びに小児(せうに)の目(め)をよろこばしむ。菓(くだもの)を売(うる)ものあり。飴(あめ)(ひさく)ものあり。軍書(ぐんしよ)(よみ)説經(せつきやう)かたり。去程(さるほど)に哀(あはれ)なるは。親(おや)の因果(いんくわ)が子(こ)に報(むくい)たりといふ片輪(かたわ)(もの)。丹波(たんばの)(くに)より生捕(いけどつ)たりといふ鳥獸(とりけだもの)。怪(あや)しと奇(あや)しき物(もの)を見する所(ところ)あり。楊弓(やうきう)の射場(ゐば)には光陰(くわういん)の矢(や)をはなち。藥(くすり)を販(ひさく)には隙(ひま)ゆく獨樂(こま)をまはす。かゝる類(たぐひ)すべて人(ひと)の心(こゝろ)を慰(なぐさめ)て足(あし)をとゞむるもの。所(ところ)せきまでに連(つらな〔り〕)りて。笛(ふゑ)を吹音(ふくおと)。鼓(つゞみ)うつひゞき。糸(いと)のしらべ。唱歌(せうが)のこゑ。其(その)熱閙(にぎは)しきこといへばさらなり。猶(なほ)此地(このち)の光景(ありさま)をこまやかにものせんには。風来(ふうらい)山人(さんじん)が『根(ね)なし草(ぐさ)』とかいへる草紙(さうし)の筆糟(ふでかす)なりといひもやせん。こゝにもらしぬ。
さて由良之進(ゆらのしん)簑作(みのさく)(ら)は茶店(さでん)を立いで。かゝる駢閧(にぎはひ)の地(ち)なれば。もしやたづぬる人にめぐりあふこともやあると。こゝかしこうかゞひあるき。よきをりなれば開帳(かいてう)をも拝(おがま)んと。橋(はし)をわたりて仏光寺(ふつくわうじ)の門前(もんぜん)にいたりけるに。此(この)大路(おほぢ)のうちに薦(こも)すだれをもて假屋(かりや)をかまへ。紙(かみ)もてはれる扁額(がく)に童(わらべ)の力業(ちからわざ)する体(さま)を彩色(さいしき)の圖(づ)に作(つく)りて。入口(いりくち)に掲(かゝ)げ。片方(かたへ)には浪華(なには)くだり童(わらべ)の力持(ちからもち)と。柿色(かきいろ)の地(ぢ)に白(しろ)く染(そめ)いだしたる〓(のぼり)を建(たて)。笛鼓(ふゑつゞみ)の音(おと)いとおもしろくひゞかせぬれば。此(この)假屋(かりや)のまへはことさら人(ひと)の山(やま)をなしぬ。由良之進(ゆらのしん)簑作(みのさく)にむかひ。かゝる大力(だいりき)の童(わらべ)を武士(ぶし)の子(こ)にせば。一方(いつほう)の用(よう)にも立(たつ)べきを。路傍(ろほう)に立(たち)て人(ひと)の目(め)を慰(なぐさむ)るは。いとをしむべき事に
挿絵
【挿絵第二十二図 山中が忠臣(ちうしん)由良之進(ゆらのしん)虚旡僧(こむそう)に扮(やつ)して柏木(かしはぎ)小君(こきみ)をたづぬる図(づ)

あらずやといへば。簑作(みのさく)は人(ひと)に隔(へだて)られていらへもならず。おしこりたる群集(くんじゆ)をわけつゝ。両人(りやうにん)うちつれて寺(てら)にまうで。開帳(かいてう)を拝(をがみ)て再(ふたゝび)此所(このところ)にいたり。世(よ)のかたりぐさなれば。童(わつぱ)の力業(ちからわざ)を見物(けんぶつ)せばやと。假屋(かりや)のうちに入(いり)て見るに。正面(しやうめん)の舞臺(ぶたい)にはうちはやしするもの膝(ひざ)をつらね。見物(けんふつ)の群集(くなじゆ)は假屋(かりや)のうちに充満(じうまん)せり。由良之進(ゆらのしん)(ら)は諸人(しよにん)の后(しりへ)に立(たち)て見(み)(ゐ)たりしに。わたり二尺(にしやく)あまりもあるらんと見ゆる鐘(つりがね)を。四五人の男(をとこ)どもして。いかにも重(おも)げに荷(にな)ひいだし。舞臺(ぶたい)の正(せう)めんにすへおきてしりぞきければ。上下(かみしも)の上(かみ)ばかりつけたる男(をとこ)。手(て)にあふぎを持(もち)て立(たち)いで。此(この)(つりかね)を大力(だいりき)の童(わらは)が持(もつ)(こと)を。さま%\の手品(てじな)しておもしろくいひをはり。さてのち童(わらべ)が立(たち)いでたる体(さま)を見るに。粉紅(もゝいろ)繻子(じゆす)の長(なが)上下(がみしも)に。むらさき縮緬(ちりめん)の振抽(ふりそで)を着(ちやく)し。歳(とし)はいまだ十歳(さい)ばかりと見へて。いかにも愛(あいら)しく見えければ。見物(けんぶつ)の群集(くんじゆ)口々(くち/\)に讃(ほめ)つゝ。こちおしあちおし。ひしめきあひてこれを見る。童(わらべ)は諸人(しよにん)に禮(れい)をなし。鐘(つりがね)を肩(かた)にのせて舞臺(ぶたい)をめぐりけるが。此(この)たびは鐘(つりがね)のうへに二八あまりの舞姫(まひびめ)をたゝせ。糸竹(いとたけ)のしらべにあはせて舞(まひ)をまはせ。あふぎをひらきてゆるやかにつかふさま。古今(こゝん)に稀(まれ)なる大力(だいりき)なれば。諸人(しよにん)一同(いちどう)。讃(ほむ)る声(こゑ)。しばらく鳴(なり)はやまざりけり。
由良之進(ゆらのしん)は此(この)(わらべ)の三之助(すけ)に似(に)たるを見て。心中(しんちう)(おほい)にあやしみけるが。かたはらに立(たち)たる医師(くすし)。同伴(つれ)の士(さふらひ)に對(むか)ひ。我(われ)あふみに遊學(ゆふかく)のをりから。伊吹山(いぶきやま)へ採藥(さいやく)にのぼり。鷲(わし)にとられし小児(せうに)に藥(くすり)をあたへて。命(いのち)を助(たすけ)たることありしが。此(この)(わらべ)を見(み)るに。其(その)をりの小児(せうに)によく似(に)たりといふ。由良之進(ゆらのしん)(これ)を聞(きゝ)。さては三之助君(ぎみ)にうたがひなし。不思議(ふしぎ)の一命(いちめい)をたすかり給ふのみならず。いかにしてかかゝる大力(だいりき)にはなり給ひたると。且(かつ)よろこび
挿絵
【挿絵第二十三図 三之助養親(やしなひおや)のために身(み)をうりて力業(ちからわざ)を諸人(しよにん)に見する】

(かつ)あやしみ。簑作(みのさく)とともに諸人(しよにん)をおしわけ。詞(ことば)をかはさんとなしけるが。まてしばしかゝる諸人(しよにん)の中(なか)にては。巷説(こうせつ)に流布(るふ)なして。御(ご)主人(しゆじん)の耻辱(ちぢよく)なりと。とびたつ胸(むね)をおししづめ。假屋(かりや)を立(たち)いで。前(まへ)に立(たち)て人(ひと)をまねく男(をとこ)に三之助(すけ)が住所(ぢうしよ)をたづねけるに。彼(かの)山科屋(やましなや)弥四六(やしろく)が旅宿(りよしゆく)を教(をしへ)られて。其(その)(いへ)にいたり。弥四六(やしろく)に對面(たいめん)して。事(こと)の子細(しさい)をたづねければ。弥四六(やしろく)尾峯(をみね)が難義(なんぎ)をすくひ。百両(ひやくりやう)の身(み)の代(しろ)にて。三之助(すけ)を抱(かゝへ)たることをかたりければ。由良之進(ゆらのしん)(おほい)におどろき。弥(や)四六にむかひ。元来(ぐわんらい)三之助(すけ)どのは近江(あふみ)の國(くに)にてよしある御方(おんかた)の子息(しそく)なるが。前(さき)の年(とし)(わし)にさらはれ。御(おん)行方(ゆくへ)しれず。必定(ひつぢやう)悪鳥(あくちやう)の餌食(えじき)になり給ひしとは思へども。金鷲(こんじゆ)童子(どうじ)の故事(ふること)を。はかなきよすがにたのみて。もし命(いのち)たすかりて。世(よ)におはす事もやあると。家来(けらい)の我々(われ/\)かくすがたをやつして。諸國(しよこく)を歴巡(へめぐ)り。御(おん)行方(ゆくへ)をたづねしに。はからず此所(このところ)にてめぐりあひしは。主従(しゆう%\)の幸(さいはひ)なり。身(み)の代金(しろきん)を償(つくの)はゞ。異義(いぎ)もあるまじ。たゞ今(いま)三之助(すけ)どのをわたしくれられよと。懐中(くわいちう)より彼(かの)百両(ひやくりやう)をとりいだして。弥四六(やしろく)が前(まへ)におきければ。弥(や)四六眉(まゆ)を皺(しは)め。命(おほせ)さることには候へども。三之助(すけ)をかしこにいだしてより。僅(わづか)の日数(ひかつ)に候へば。かの假屋(かりや)をつくりたる。諸色(しよしき)に費(つひやし)たる金(かね)。三之助(すけ)が力業(ちからわざ)のために得(え)たる銭(ぜに)をもつてつくのひがたければ。元金(もとがね)百両(りやう)のほかに金(きん)二十両(りやう)をそえ給はゞ。いかにも三之助(すけ)を渡(わた)し申べし。夫(それ)も三之助をもかゝへたる證文(しるしぶみ)に。彼(かの)尾峯(をみね)を三之助(すけ)が母(はゝ)と記(しる)しつれば。尾峯(をみね)が一応(いちおう)の詞(ことば)を聞(きか)ざれば。各方(おの/\がた)へはわたしがたしと。利口(りかう)(げ)にいひければ。簑作(みのさく)これを聞(きゝ)て。怒(いかり)の詞(ことば)をいださんとしたるを。由良之進(ゆらのしん)。目(め)をもつてこれを制(せい)し。弥(や)四六に打(うち)むかひ。和主(わぬし)が申所(ところ)いかにも道理(だうり)なれば。尾峯(をみね)とやらんが家(いへ)にいたり。渠(かれ)を伴(ともな)ひ来(きた)りて。再(ふたゝび)説話(せつわ)すべしと百両(りやう)を懐(ふところ)におさめ。弥(や)四六に尾峯(をみね)が住所(ぢうしよ)を問(と)ひ。其地(そのち)をさしてぞいそぎける。

  第(だい)十四回(くわい) 義漢(ぎかん)

(こゝ)に又(また)かの尾峯(をみね)は。あやうき一命(いちめい)をたすかりたりといへども。三之助(すけ)に別(わか)れてより心(こゝろ)わびしく。かの惡(あく)五郎が事(こと)に懲(こり)て。宵(よひ)より門(かど)を鎖(とざ)し。燈火(ともしび)ほそくたてたるもとに。夜方(よなべ)仕事(しごと)の苧(を)を捻(ひね)りて居(ゐ)たりしに。門口(かどぐち)をほと/\と敲(たゝ)き。尾峯(をみね)どのおはするや。對面(たいめん)申たしといふ。そのこゑの聞(きゝ)なれざれば。心(こゝろ)にいぶかりつゝ。何人(なにびと)にておはするやとたづねければ。我々(われ/\)は三之助(すけ)どのゝ事につきて来(きた)りたり。仔細(しさい)は對面(たいめん)のうへにてかたるべしといふ。尾峯(おみね)(この)(ことば)を聞(きゝ)。こは弥(や)四六どのゝつかひならんと。口(くち)に咥(くは)へたれたる苧(を)を方燈(あんとう)にうちかけ。〓(ひで)を燈(とも)して庭(には)にくだり。門(かど)の戸(と)をひらきつゝ〓(ひで)のひかりにて照(てら)し見(み)るに。一人は虚旡僧(こむそう)一人は士(さふらひ)なれば。心中(しんちう)に怪(あやしみ)ながら三之助(すけ)がことといひしに。心(こゝろ)をゆるしてまづこなたへとて内(うち)にいれぬ。
さて両人(りやうにん)にむかひ。わらはに何(なに)の用(よう)ありて。いづくよりきたらせたまひけるやとたづねければ答(こたへ)ていふ。それがしは近江國(あふみのくに)松江(まつえ)の家臣(かしん)。山中(やまなか)左衛門(さゑもん)と申ものゝ家来(けらい)。春瀬(はるせ)由良之進(ゆらのしん)と申者(もの)に候と聞(きい)て尾峯(をみね)(おゝい)に喜(よろこ)び。さては由良之進(ゆらのしん)どのにておはしけるか。左衛門(さゑもん)(ぎみ)の旡慚(むざん)の御(ご)最期(さいご)(おん)(いへ)(ほろ)びて御(ご)浪々(らう/\)の虚旡僧(こむそう)すがた。さぞかしわびしくおぼすらんと。何事(なにごと)もよくしりたる詞(ことば)を聞(きゝ)て。由良之進(ゆらのしん)簑作(みのさく)(ら)(おゝい)におどろき。その子細(しさい)をたづねければ。柴朶(しだ)六が三之助を助(たす)けたることをはじめとし自殺(じさつ)の始末(しまつ)。三之助が大力(だいりき)になりたること敵(かたき)(かぢ)之助および。かしは木(き)小君(こきみ)らをたづねんと都(みやこ)にのぼりたること。此地(このち)へうつり住(すみ)て悪(あく)五郎がために旡実(むじつ)の罪(つみ)におとされ。三之助が身(み)の代金(しろきん)のためにあやうき一命(いちめい)を助(たすか)りたること。涙(なみだ)をそえてものがたりければ。由良之進(ゆらのしん)簑作(みのさく)ら柴朶(しだ)六が義心(ぎしん)を感(かん)じ尾峯(をみね)が貞操(みさほ)を讃(ほめ)。由良之進(ゆらのしん)も身(み)のうへの始末(しまつ)くわしくかたり。さてのち三之助をとりもどすべきことの話(はなし)にうつり由良之進(ゆらのしん)尾峯(をみね)にむかひ。百両(りやう)の金子(きんす)は所持(しよぢ)すれども。外(ほか)に二十両(りやう)の金子(きんす)は。かく浪々(らう/\)の身(み)のうへにては。心やすくとゝのひがたし。おんみ何(なに)とぞ弥(や)四六に對談(たいだん)なして。元金(もとがね)百両(りやう)にて三之助君(ぎみ)をとりもどすやうにはからひ給はれかしとたのみければ。尾峯(をみね)がいふ。今(いま)ものがたりたるごとく畢竟(ひつきやう)はかの弥(や)四六ゆゑに。あやうき命(いのち)をたすかりつれば。わらはがためには恩(おん)ある人なり。その恩(おん)をも報(むく)はず。此度(このたび)の一義(いちぎ)についていくばくの金(かね)を費(ついや)させんは。わらはがしのびざる所(ところ)なり。渠(かれ)が所望(しよまう)の廾両(りやう)は。わらはが償(つくの)ひ申べし。とはいへ斯(かゝ)るまづしきくらしなれば。黄金(こがね)の貯(たくはへ)ははべらねども。代(しろ)なすべき一品(ひとしな)ありとて。古(ふる)き櫃(ひつ)のうちより銅作(あかゞねづく)りの太刀(たち)をとりいだし。是(これ)は妾(わらは)が夫(をつと)柴朶六(しだろく)どのゝ重代(ぢうだい)にして。自殺(じさつ)したるも此(この)(つるぎ)。最期(さいご)のきはの遺物(かたみ)なれども。義理(ぎり)に沈(しづ)むる金(かね)の質(しち)。世(よ)にきこえたる梵字丸(ぼんじまる)。二十両(りやう)は心(こゝろ)やすしと。袱子(ふろしき)にかいくるみ。袖(そで)に抱(かゝ)えて立(たゝ)んとするを。簑作(みのさく)しばしとおしとゞめ。梵字丸(ぼんじまる)とは聞(きゝ)およびたる業物(わざもの)。一見(いつけん)(し)たしと。太刀(たち)を乞取(こひとり)。方燈(あんどう)のもとに膝行(いざり)よりて。太刀(たち)の拵(こしらへ)(つるぎ)の作(つく)り。一目(ひとめ)見るよりうちおどろき。抜(ぬき)たる太刀(たち)を刀室(さや)におさめてをみねにかへし。其(その)太刀(たち)は餝磨(しかま)六郎が家(いへ)重代(ぢうだい)。是(これ)を所持(しよぢ)めさるからは。御身(おんみ)は六郎が縁(ゆかり)の御(お)人にてはあらざるやと。いへば尾峯(をみね)は涙(なみだ)さしぐみつゝ。夫(をつと)の耻辱(ちぢよく)なれば其(その)本名(ほんみやう)はあらはさゞりしが。かく知(しり)めすうへはせんすべなし。たゞ今(いま)御ものがたりいたしたる。柴朶(しだ)六と申は則(すなはち)餝磨(しかま)六郎どのゝなれの果(はて)にて候なり。簑作(みのさく)(いはく)しからば御身(おんみ)は六郎どの浪々(らう/\)の身となりし后(のち)。渠(かれ)に嫁(か)し給ひつらん。それがしも曽根松(そねまつ)(け)の浪人(らうにん)にて。六郎どのゝ妹(いもと)深雪(みゆき)を妻(つま)にもちて。近(ちか)しき一家(いつけ)の中(なか)なりしが。ゆゑあつて縁(ゑん)をきり。互(たがひ)に面會(めんくわい)せざること十餘年(よねん)。その住所(ぢうしよ)さへしらざれば。御身(おんみ)を六郎どのゝ妻(つま)とはしるべうもあらず。絶(たえ)て久(ひさ)しき一家(いつけ)の親(よしみ)も。此(この)太刀(たち)(ゆゑ)に名告(なのり)あひ。六郎どのゝ義心(ぎしん)に耻入(はぢいり)。我(わが)(あやまち)をあらためて。再(ふたゝび)むすばん一家(いつか)の親(よしみ)。以来(いらい)は縁者(ゑんじや)と思はるべしと。三人のものよろこぶことかぎりなし。
さて簑作(みのさく)尾峯(をみね)にむかひ。かく縁者(えんじや)となるからはおん身(み)が親里(おやざと)をも聞(きか)まほしゝ。語(かた)り給へといひければ。尾峯(をみね)がいふ。おきかせ申もはづかしながら。父(ちゝ)はいやしき百姓(ひやくせう)畠作(はたさく)と申もの。母(はゝ)の名(な)を田結(たゆひ)とよびて。則(すなはち)此地(このち)の者(もの)なりしが。美濃國(みのゝくに)にうつり。妾(わらは)十一十二の二歳(ふたとせ)に双親(ふたおや)ともに死別(しにわか)れ。人買(ひとかひ)に謀(たばから)れて。野上(のがみ)のさとの〔関(せき)が原(はら)と垂井(たるゐ)との間(あいだ)に有むかしは駅(ゑき)なり古哥(こか)(おほ)し〕一夜(いちや)(づま)。おほくの客(きやく)をむかふるうち。大力(だいりき)旡双(ぶさう)の六郎どのも。思案(しあん)の外(ほか)の道(みち)に迷(まよ)ひ水(みづ)もらさじと契(ちぎり)しに。阿曽比(あそび)に買(かは)れし年季(ねんき)も果(はて)て。六郎どのへ嫁(か)し候と涙(なみだ)(もろ)なる袖(そで)の露(つゆ)。おちものこさず語(かた)りけり。簑作(みのさく)これを聞(きゝ)て不便(ふびん)におもひ。たのみすくなき御身(おんみ)のうへ。さぞこそわびしくおぼすらめ。それがし縁者(ゑんじや)となるうへは。行(ゆく)すゑ力(ちから)となり申さん。心(こゝろ)やすく思はるべしと。信(まめ)やかにいひければ。尾峯(をみね)はうれしく。かの梵字丸(ぼんじまる)を再(ふたゝび)袱子(ふろしき)にかいくるむ。由良之進(ゆらのしん)これを見て歎息(たんそく)なし。旡念(むねん)の最期(さいご)の遺物(かたみ)といひ。家(いへ)重代(ちうだい)の此(この)(つるぎ)。金(かね)ゆゑ人手(ひとで)にわたすこと。草葉(くさば)のかげの六郎どのへ。我々(われ/\)(かほ)の向(むけ)やうなし。 「簑作(みのさく)曰。「いはゞ些(わづか)の二十両(りやう)尾峯(をみね)(いわく)。「貧(ひん)ほどつらきものはあらじ。はて自由(まゝ)ならぬ浮世(うきよ)なりと三人ひとしく歎息(たんそく)のをりから。庭(には)の隅(すみ)のかたより。「其(その)(かね)わしが借(かし)ませうと。立(たち)いづる若者(わかもの)あり。思ひがけなきことなれば。三人これはと打(うち)おどろき。知呆(あきれ)て詞(ことば)もまじへざれば。若(わか)ものは面高(つらだか)にのしあがり。三人と膝(ひざ)をつらねて尾峯(をみね)にむかひ。おん身(み)われを見知(しり)つらんと。いふかほを。火影(ほかげ)にすかし。おどろく胸(むね)をおししづめ。汝(なんぢ)は横嶋(よこしま)(あく)五郎。わらはを旡実(むじつ)の罪(つみ)におとし。事(こと)あらはれて逐電(ちくてん)なし。再(ふたゝび)此家(このや)へしのびしは「惡(あく)五郎曰(いはく)。讎(あち)を報(むく)ひに来(き)つるかと。うたがふは理(ことわり)なり。聞(きく)にしのびぬ二十両(りやう)。持(もち)あはせつればかし申さんと。懐中(くわいちう)より金(かね)とりだし。尾峯(をみね)が前(まへ)になげあたへ。質(しち)にとるは此(この)重代(ちうたい)と。梵字丸(ぼんじまる)を奪取(ばひとり)て。両肌(りやうはだ)(ぬぐ)よと見えけるが。腹(はら)へぐつさと突立(つきたて)たり。人々(ひと/\)これはと打(うち)(おどろき)(たち)かゝるを製(せい)しつゝ。くるしげなる息(いき)をつき。我(われ)かく自殺(じさつ)つかまつる事(こと)。さぞかし不審(ふしん)におぼすらん。ひととほり聞(きい)てたべ。今夜(こよひ)此家(このや)にしのび入尾峯(をみね)どのを縛(くゝ)しあげ。何方(いづく)へなりともつれゆきて。壓状(おうぜう)ずくめに口説(くどき)おとし。戀暮(れんぼ)の胸(むね)をはらさんと。最前(さいぜん)こゝへきたりしに。戸口をかためて入(いり)がたく。いかゞはせんと思ふうち。おの/\がたの影(かげ)を見て木立(こだち)の茂(しげ)みに身(み)をかくし。戸口(とぐち)を明(あけ)しはさいはひと。跡(あと)についたる闇(くら)まぎれ。簀子(すのこ)の下(した)に這(はひ)かゞみ。仔細(しさい)のこらず聞(きゝ)つるが。尾峯(をみね)どのゝ身(み)のうへばなし。肝(きも)にこたえて此(この)腹切(はらきり)。是(これ)見て暁(さとし)給はれと。首(くび)にかけたる守袋(まもりぶくろ)。尾峯(をみね)にわたせばかいとつて。手(て)ばやくひらくそのうちに三重(みへ)四重(よへ)かさねし紙包(かみづゝみ)。応永(おうゑい)二年乙亥(きのとのい)の五月五日暁(あかつき)の誕生(たんぜう)。畠作(はたさく)次男(じなん)。善太(ぜんた)臍帯(へそのを)。と記(しる)したるは紛(まぎ)れもなきわらはが弟(をとゝ)二ッのとしに生別(いきわかれ)「悪(あく)五郎曰(いはく)。笠縫(かさぬひ)の里(さと)の某(なにがし)に。〔美濃(みの)の国(くに)赤坂(あかさか)の宿(しゆく)の南北(なんぼく)にあり契沖(けいちう)は三河(みかは)にありともいへり〕親(おや)しらずの養子(ようし)となりしに。身持(みもち)あしくて追(おひ)いだされ。縣守(あがたもり)の下司(したつかさ)も。我身(わがみ)にあまる出丗(しゆつせ)なるに。其(その)(ほと)をもわきまへず。虎(とら)の威(い)をかる非義(ぎ)非道(ひだう)。姉(あね)ともしらず今宵(こよひ)しも。猿轡(さるぐつわ)まで用意(ようい)せしは。畜生(ちくせう)(だう)へ誘引(さそひ)ゆく。我身(わがみ)の因果(いんぐわ)日来(ひごろ)の悪行(あくきよう)。今夜(こよひ)(はじめ)て善人(ぜんにん)となりたるは。簀子(すのこ)の下(した)にて聞(きゝ)(ゐ)しに忠義(ちうぎ)と義心(ぎしん)と貞節(ていせつ)と。おの/\がたのものがたり。六根(ろくこん)五臓(ごぞう)へしみわたり。年来(としごろ)の惡(あく)五郎も元(もと)の善太(ぜんた)に立(たち)かへり姉上(あねうへ)への申譯(わけ)。餝磨(しかま)(け)の重代(ぢうだい)にて。かく自殺(じさつ)(つかまつ)れば。六郎どのゝ手討(てうち)も同前(どうせん)。梵字丸(ほんじまる)の功徳(くどく)にて。極樂(ごくらく)國土(こくど)へ往生(わうしやう)なし。父上(ちゝうへ)母上(はゝうへ)に對面(たいめん)して。でかした善太(ぜんた)ういやつじやと。讃(ほめ)られたうござりますと。鬢髪(びんぱつ)(みだれ)て色變(いろへん)じ。おとす涙(なみだ)は村雨(むらさめ)の。軒(のき)の滴(しづく)に類(たぐ)ひけり。
(あね)は弟(をとゝ)にとりすがり。のう善太(せんた)にてありけるか。些(わづか)二人の姉(あね)(をとゝ)。年来(としごろ)のこひしさは。なか/\ことばにつきがたし。戀慕(れんぼ)の闇(やみ)に迷(まよひ)しは。御身(おんみ)ばかりの因果(いんぐわ)じやない。わらはもおなし因果(いんぐわ)ぞや。御身(おんみ)が産(うみ)の母(はゝ)さまは。七日もたゝず。血暈(けつうん)といふ病(やまひ)にて。旡常(むじやう)の風(かぜ)のいたわしさ。其時(そのとき)わしは十一才(さい)。啼入(なきいる)そなたをだきかゝえ。こゝかしこにて貰(もら)ひ乳汁(ぢゝ)。わしが小(ちい)さな懐(ふところ)で。夜中(よなか)に啼(なか)るゝかなしさつらさ。摺糊(すりこ)では啼(なき)やまず。隣(となり)の子持(こもち)がきゝかねて。のませてくるゝ痩乳(やせぢゝ)も。男(をとこ)の子(こ)にはのみたらず。そのたび/\に母(はゝ)さまの。嘸(さぞ)やまよはせ給はんと。血(ち)の涙(なみだ)を流(なが)せしぞや。二ッのとしまで手(て)しほにかけ。やう/\はだに負(おは)るゝころ。生別(いきわか)れの親(おや)しらず。弟(をとゝ)としらず姉(あね)としらず。敵(かたき)同士(どうし)も因果(いんぐわ)づく。今(いま)(あふ)て今(いま)(わか)るゝ。わしがこゝろを推寮(すいりやう)せよと。哽咽(むせかへり)たるいぢらしさ。余所(よそ)に見る目(め)もあはれなり。
(あく)五郎。二人にむかひ。姉(あね)のことをたのみければ。由良之進(ゆらのしん)(なみだ)をはらひ。煩悩(ぼんのう)(そく)菩提(ぼだい)と釈(とき)給へば。后(のち)の丗(よ)こそたのもしけれ。尾峯(をみね)どのゝ身のうへは。我々(われ/\)よきにいたはるべし。心(こゝろ)おきなく往生(わうぜう)あれと。聞(きい)て手負(ておひ)がよろこぶかほ「嗟乎(あゝ)うれしやかたじけなや。コレあねうへ死(しぬ)る命(いのち)を全(まつた)うして。助太刀(すけだち)とは思ひしが。此(この)人々(ひと%\)のあるゆゑに。自殺(じさつ)と覚悟(かくご)しつるなりと。次第(しだい)によはるふるひ声(ごゑ)。簑作(みのさく)もなみだをぬぐひ。善(ぜん)にも強(つよ)き悪(あく)五郎どのゝ此(この)最期(さいご)。つらなる縁者(えんじや)の我々(われ/\)両人(りやうにん)。世(よ)にあらせたく思へども。助(たすけ)がたき深手(ふかで)なれば。いかんともせんすべなし。たゞ此(この)うへはいさぎよく。見事に腹(はら)を召(めさ)れよと。(はげま)す詞(ことば)に気(き)をひきたて。姉(あね)うへさらば。人々(ひと%\)さらば。さらば/\と引(ひき)まはす。其(その)刀尖(きつさき)をとりなほし。吭(のんとぶへ)に突立(つきたて)て。磨上(みがきあげ)たる玉(たま)の緒(を)も。きれてはかなくなりにけり。
○作者(さくしや)(いはく)。山中(やまなか)左エ門(さゑもん)。餝磨(しかま)六郎。横嶌(よこしま)(あく)五郎。三人終(をはり)を同(おな)じうせるは。自(みづから)編筆(へんひつ)の拙(つたなき)をしれども。前(さき)に發兌(はつだ)の期(き)あり。后(しりへ)に書肆(しよし)の催促(さいそく)あり。〓(たび)をへだてゝ凍瘡(しもやけ)を掻(かき)ながら。今日(けふ)は何(いづれ)の日(ひ)ぞと問(と)ふ山妻(さんさい)(わらつ)て答(こたえ)て曰(いはく)。文化(ぶんくわ)(み)のとし十二月十日。せんかたなく稿(こう)を脱(だつ)せり。
鷲談傳竒桃花流水四之巻終


鷲談傳竒(わしのだんでんき)桃花流水(とうくわりうすい)巻之五

江戸 山東京山 編次 

  第十五回 没水(みづにぼつす)

(こゝ)にまた栢木(かしはぎ)小君(こきみ)(ら)は。地獄坂(ぢごくざか)にて危(あやう)き難(なん)をのがれ。からうじて逃去(にげさり)けるが。何國(いづく)をあてと。志(こゝろざ)すかたもなければ。或(あるひは)深山(みやま)の峨々(かゞ)たるに行(ゆき)なやみては。嵒(いはほ)を枕(まくら)として木実(このみ)に飢(うゑ)をしのぎ。あるひは荒磯(あらいそ)の凛々(りん/\)たるに打臥(うちふし)ては。浪(なみ)の音(をと)に夜(よ)を明(あか)し。骸(かたち)は〓〓(しやうすい)と衰(おとろへ)て見るにかげもなく。流落(りうらく)のすがたいとあはれなり。
(こ)を思ふ夜(よる)の鶴(つる)。叢(くさむら)の雉子(きゞす)はさもこそあるらめ。目(め)をよろこばしむる花(はな)の朝(あした)。心(こゝろ)をたのしましむる月(つき)の夕(ゆふべ)も。一日(いちにち)の粮(かて)(とぼ)しければ思ひを慰(なぐさむ)るかたもなく。半日(はんじつ)の命(いのち)さへおぼつかなくて。乾(かは)くひまなき血(ち)の涙(なみだ)。木葉(このは)(ごろも)も紅葉(もみぢ)して。丗(よ)に山姥(やまうば)といふものも。かくやとこそは思はるれ。樵路(しやうろ)にかよふ花(はな)の陰(かげ)。月(つき)もろともに山(やま)を出(いで)て。やすむ重荷(おもに)の旅人(たひゞと)に。一銭(いつせん)の情(なさけ)をうけ。五百機(いほばた)たつる窗(まど)に立(たち)ては。枝(えだ)の鴬(うぐひす)はうしやを乞(こひ)。小君(こきみ)が馴(なれ)し乞児(かたゐ)の業(わざ)の。今(いま)さら用(よう)に立(たち)たるぞうらめしき。栢木(かしはぎ)は例(れい)の狂女(きやうぢよ)なれば。我子(わがこ)をかへせ夫(をつと)をもどせと。往来(ゆきゝ)の人(ひと)を追(おひ)めぐれば。そりやこそ狂女(きやうぢよ)がきたりつれと。里(さと)の童(わらべ)がつどひ来(き)て。近(ちかく)よりては突倒(つきたふ)し。遠(とほ)く逃(のき)ては石(いし)を投(なげ)つけ。手(て)を打(うち)てわらはるゝ。小君(こきみ)が心(こゝろ)はいかならん。狂(くる)ひ/\てこゝかしこ。呻吟(さまよひ)ありき。三河國(みかはのくに)逢屋川(あふやがは)のほとりにいたれり。狂女(きやうぢよ)(こゝろ)のおちつきたるをりにやあらん。
  みどり子(こ)に。逢屋(あふや)の川(かは)と聞(きゝ)つれど。なほも行(ゆく)衛はしら波(なみ)の音(をと)
をりしも雨(あめ)ふりいだしぬれば。路(みち)の傍(かたはら)なる木蔭(こかげ)に立(たち)て。雨(あめ)のはれ間(ま)をまちけるが。往来(ゆきゝ)の人(ひと)も爰(こゝ)にはせ入(いり)て雨(あめ)をしのぎけり。
人々(ひと%\)晴間(はれま)をまちわびて。さま%\の話(はなし)をするを聞(きけ)ば。旅(たび)の男(をとこ)。連(つれ)に對(むかひ)。此(この)(あめ)がながくふらば。天竜川(てんりうがは)が覺束(おぼつか)ないといへば。連(つれ)の男(をとこ)打笑(うちわらひ)。今(いま)ふりだした雨(あめ)に。一泊(ひとゝま)りも先(さき)の川留(かはどめ)を案(あん)じやるは。余(あま)りうちこした了簡(りやうけん)。そのやうな氣(き)でありながら。親父(おやぢ)が疝気(せんき)(もち)じやに。なぜ橙(だい/\)を植(うえ)やらぬ。といふはしたしきなかの友達(ともだち)なるべし。田舎(いなか)婆々(はゞ)が獨言(ひとりごと)に。背戸(せど)へ古綿(ふるわた)をほしておいたに。あの心(こゝろ)つかずめが取入(とりい)れはしをるまいとは。おほかた嫁(よめ)の事(こと)ならん。
ひとりの旅僧(たびそう)かたはらに立(たち)たる男(をとこ)にむかひ。行脚(あんぎや)の序(ついで)なれば。當所(とうしよ)に名高(なたか)き燕子花(かきつばた)の名所(めいしよ)をたづねんと思ひ候が。何方(いづかた)にて候ぞとたづねけるに。此(この)(をとこ)は此(この)ほとりのものとおぼしく。懐中(くわいちう)に一二冊(さつ)の本(ほん)をさし入(いれ)。人品(ひとがら)もいやしからず見えて。さながら物(もの)ごのみのやうに見ゆ。されば旅僧(たびそう)が彼(かの)名所(めいしよ)を問(とへ)るならん。男(をとこ)(こたえ)て曰(いはく)。八橋(やつはし)の古跡(こせき)は池鯉鮒(ちりう)より八町ばかり東(ひがし)の方(かた)。牛田(うしだ)(むら)といふ所(ところ)の松原(まつばら)に石標(せきひやう/ミチシルベ)あり。是(これ)より左(ひだり)へ入(い)る事(こと)七町ばかり。そこに一堆(いつてい)の丘山(おかやま)あり。其側(そのかたはら)の凹(くぼか)なる。池(いけ)の形(かたち)の芝生(しばふ)をさして。燕子花(かきつばた)のありし所(ところ)と申候。其(その)(きた)の方(かた)に遇妻川(あひづまがは)といふ流(ながれ)ありて。今(いま)は土橋(とばし)を架(わた)せり昔(むかし)は八橋(やつはし)をわたせし流(ながれ)なりと。口碑(こうひ)につたえ候。かの丘山(おかやま)に業平(なりひら)(づか)あり。これは後人(こうじん)の彼(かの)(もの)がたりによりて建(たて)しものならんと。細(こまやか)にをしえければ。旅僧(たびそう)うちよろこびて。礼(れい)をのべ又(また)(いはく)。かの古跡(こせき)のほとりなる。旡量寺(むりやうじ)とか申に。伊勢(いせ)物語(ものがたり)の古画(こぐわ)の繪巻物(ゑまきもの)ありと聞(きゝ)候が。いかに見給ひしやとたづぬ。男(をとこ)(こたえ)て曰(いはく)。去物(さるもの)ありしやらん。今(いま)はありともきゝ候はず。伊勢(いせ)物語(ものがたり)を丗(よ)に業平(なりひら)の作(さく)ともいひ。又(また)寛平(くわんへい)の官女(くわんぢよ)伊勢(いせ)が作(さく)とも申。又(また)諾冊(きみ)の尊(みこと)のみとのまくばひより。男女(なんによ)物語(ものがたり)といふを。伊勢(いせ)の二字(じ)に畧訓(りやくくん)して。しか名(な)づけしといふ説(せつ)もあれども。清輔(きよすけ)が袋草紙(ふくろざうし)には。業平(なりひら)の作(さく)に一決(いつけつ)せり。されどもかの物(もの)がたりにかける。仁和(にんわ)の御門(みかど)芹川(せりかは)の行幸(みゆき)は。業平(なりひら)没後(もつご)の事(こと)なれば。敢(あへ)て在民(ざいし)の筆(ふで)ともいひがたし。業平(なりひら)は元慶(げんけい)四年に薨(こう)じ給ひ。大和國(やまとのくに)在原(ありはら)(でら)に葬(はうふる)と世(よ)に申せども。河海抄(かかいせう)には。吉野(よしの)(がは)にて昇仙(しやうせん)せしやうにかきなし候と。物(もの)しりがほの問(とは)ず語(がたり)を。旅僧(たびそう)(にく)がりて。業平(なりひら)が仙人(せんにん)になられんには。ちと男(をとこ)ぶりが好(よ)すぎ候はんと打(うち)わらへば。物(もの)しり男(をとこ)も薄(うす)わらひして口(くち)を閉(とぢ)ぬ。
(まつ)が根(ね)に腰(こし)かけたる赤(あか)親父(おやぢ)は。馬長(ばしやく)とおぼしく。池鯉鮒(ちりう)の馬市(うまいち)の話(はなし)するが。いと声高(こはだか)なり。其(その)かたはらに稚児(をさなご)を伴(ともな)ひたる女(をんな)。菓(くだもの)の荷(にな)ひ賣(うり)する男(をとこ)にむかひ。いかに江南(えなみ)の渡橘(ときち)どの。柳下(やなぎした)の惠太(けいた)は矢矧(やはぎ)の開帳(かいちやう)へ行(ゆき)て飴(あめ)を賣(うる)に。よく賣(う)れて多(おほ)くの利(り)を得(う)ると聞(きゝ)ぬ。和(わ)どのも行(ゆき)て菓(くだもの)をうり給へといふ。菓売(くだものうり)が曰(いはく)。我(われ)も一日かしこへゆきて賣(うり)つるが。いかにも参詣(さんけい)はおほけれども。思ふがごとくには賣(うれ)もせず。草臥(くたびれ)もうけの銭少(ぜにずくな)なり。しかしさま%\の見(み)せ物(もの)芝居(しばゐ)ありて。慰(なぐさみ)に行(ゆか)んにはたのしみならん此度(このたび)開帳(かいちやう)にて銭(ぜに)まうけしたるは。童(わらべ)の力持(ちからもち)なり。女(をんな)(いはく)(その)(こ)は藤川(ふぢかは)の宿(しゆく)にて物持(ものもち)したる。鷲(わし)にとられて命(いのち)(たすか)りたりといふ評判(ひやうばん)の児(こ)なりと聞(きゝ)しが。夫(それ)にやといふ。菓(くだもの)うりいかにもかの三之助(すけ)なり。都(みやこ)より下(くだ)りたる。弥(や)四六といふもの。大金(おほがね)にて三之助(すけ)をかゝえ。見せものにいだしたるよし。都(みやこ)の人(ひと)は除才(ぢよさい)がないと。話(はなし)するを栢木(かしはぎ)は。かくと聞(きく)より。つとはせよりて菓(くだもの)うりにむかひ。鷲(わし)にとられし三之助(すけ)とは。戀(こひ)しゆかしき愛(いと)し児(こ)なり。かへせもどせと狂(くる)ひいふ。
人々(ひと%\)はこれを見て。こは氣(き)ちがひよとおどろけば。小君(こきみ)は母(はゝ)をおしとゞめ。いかにもこれは物狂(ものぐるひ)にて候なれば。旡礼(ぶれい)はゆるし給はるべし。今(いま)(のたま)ひし三之助とは。此(この)かたにこゝろあたりの候。其(その)住里(すむさと)はいづくにて候と。腰(こし)をかゞめてたづねければ。菓売(くだものうり)がいはく。此(この)乞児(かたゐ)(をんな)め。人(ひと)をば大(おほき)に魂消(たまげ)させたり。小女(こびつちよ)がしほらしさに。たづぬることはをしゆべし。三之助(すけ)が親(おや)は藤川(ふぢかは)のほとりなる。宮路(みやぢ)(やま)の麓(ふもと)と聞(きゝ)しに用事(ようじ)あらばかしこへたづね行(ゆけ)といふ。猶(なほ)くはしく聞(きか)まほしけれども。栢木(かしはぎ)に蹴(け)ちらされたる菓(くだもの)を。拾(ひろ)ひあつむるがきのどくさに。強(しひ)て問(とは)れもせず。うれしさに胸騒(むなさは)ぎて晴間(はれま)をもまたず母(はゝ)の手(て)をとりて。木蔭(こかげ)を立(たち)いでけるが。藤川(ふぢかは)の宿(しゆく)は東(あづま)の方(かた)と聞(きゝ)つれば。雨(あめ)にぬれつゝいそぎけり。
小君(こきみ)は道(みち)すがら。栢木(かしはき)にしか%\のよし聞(きか)せければ。狂(くるひ)たる心(こゝろ)にも。我子(わがこ)にあはすると聞(きゝ)てよろこぶことかぎりなく。

挿絵
【挿絵第二十四図 柏木(かしはぎ)三之助が往方(ゆくへ)を尋(たづね)えて路(みち)をいそぎ過(あやまち)て渓川(たにかは)へおつるところ】

(なほ)(みち)をいそぎて。一ッの橋(はし)あるところにいたりぬ。あやうき橋(はし)を渡(わた)る陸人(かちびと)とよみし大屋(おほや)(がは)の橋(はし)なるべし。爰(こゝ)を過(すぎ)て川涯(かはぎし)をゆきけるが。雨(あめ)はます/\ふりて道(みち)あしく。日(ひ)さへくれかゝりぬれば。狂女(きやうぢよ)の足(あし)もとはことにさだかならず。縫(ぬひ)いだしたる竹(たけ)の根(ね)に。〓跌(つまづき)て。よこさまに打倒(うちたふ)れ。泥(どろ)にすべりて真逆(まつさかさま)。大屋(おほや)(がは)へぞおちいりぬ。小君(こきみ)はかなしき声(こゑ)をあげ。母(はゝ)さまのふとよぶ甲斐(かひ)も。浪(なみ)にゆられて沈(しづ)みつ浮(うき)つ。ゆくへもしれずながれけり。小君(こきみ)はわつとこゑをたて。〓泥(どろ)の中(なか)へうち臥(ふし)て。絶入(たえいる)ばかりに見えけるが。やう/\と涙(なみだ)をぬぐひ。世(よ)には河伯(かはのかみ)もおはすと聞(きゝ)はべるに。いかなればかゝる憂目(うきめ)にはあはせ給ひけるぞ。月(つき)ごろ地獄坂(ぢごくざか)にとらはれ居(ゐ)て。鬼芝(おにしば)に責懲(せめはた)られ。さま%\慙忍(むごき)(め)にあひたるを。命(いのち)にかけてしのびつるは。母(はゝ)さまを助(たすけ)いだし。由良之進(ゆらのしん)にめぐりあひて。父上(ちゝうへ)の敵(かたき)を打(うち)。修羅(しゆら)の思ひをはらさせんと。思ひつめたる一念(いちねん)を神(かみ)もあはれとおぼしてや。摩利支天(まりしてん)の御蔭(おんかげ)にて。危(あやうき)(いのち)(たすか)りて。爰(こゝ)かしこさまよひありき。今日(けふ)はからずも三之助(すけ)が。生(いき)て此丗(このよ)にありしと聞(きゝ)。母(はゝ)さまのうれしみ給ひしは。今(いま)(め)の先(さき)にあるやうなり。月(つき)ごろの血(ち)の涙(なみだ)も。今日(けふ)のうれしき涙(なみだ)にて。洒(そゝが)んと思ひつるに。此川(このかは)のもくづとなり。死顔(しにがほ)さへも見られぬとは。よく/\薄(うす)き親子(おやこ)の縁(えん)。いかなる前世(ぜんせ)の惡業(あくごう)ぞや。今(いま)(おも)ひあはすれば。いつになき母人(はゝびと)の口(くち)ずさみ。「みどり子(こ)にあふやの川ときゝつれど。なほも行衞(ゆくへ)は白浪(しらなみ)の音(をと)とのたまひしは。此(この)白浪(しらなみ)ときえ給ふ。前表(ぜんびやう)にてありけるか。是(これ)がいまはの形見(かたみ)ぞと。泥(どろ)に印(いん)せし足跡(あしあと)に。額(ひたい)をつけて哭(なき)しづみ。むせかへりたる不便(ふびん)さは詞(ことば)にはいひがたし。
小君(こきみ)はやう/\涙(なみだ)をはらひ。暇令(たとひ)三之助(すけ)が在家(ありか)をば聞(きゝ)つるとも。物狂(ものぐるひ)の母人(はゝびと)を。淵川(ふちかは)へおとせしと。人(ひと)に顔(かほ)があはさるべきか。今(いま)まで迷(まよ)ひありきしごとく。死出(しで)の山(やま)。三途(さんづ)の川(かは)も母人(はゝびと)ともろともに。おなじ闇路(やみぢ)をともなはゞ。なか/\うれしくあるべしと。母(はゝ)の落(おち)たるところより南旡(なむ)あみだぶつと唱(となへ)つゝ。瀬枕(せまくら)たかき川中(かはなか)へ。身(み)を飛(とば)せんとなしつるをりしも。思ひがけなき後(うしろ)より。やれまち給へと声(こゑ)かけて。帶(おび)を此丗(このよ)の力草(ちからぐさ)。ちりかゝりたる撫子(なでしこ)の。露(つゆ)の命(いのち)をつなぎとめけり。

  第十六回 竒遇(きぐう)

(これ)はさておき爰(こゝ)に又(また)。由良之進(ゆらのしん)簑作(みのさく)(ら)は。百両(りやう)にかの二十両をくはへて三之助(すけ)をとりもどし。よろこぶことかぎりなく。今夜(こよひ)は善太(ぜんた)が〔惡(あく)五郎が事〕初(しよ)七日の待夜(たいや)なれば。里人(さとびと)をあつめて心(こゝろ)ばかりの仏事(ぶつじ)をいとなみ。事(こと)はてゝみな/\立皈(たちかへ)りければ。みの作(さく)由良之進(ゆらのしん)に對(むか)ひ。三之助君(ぎみ)はとたづねければ。由良之進(ゆらのしん)薄笑(うすわら)ひし。大力(だいりき)になられてから。心(こゝろ)までが大勇(たいゆう)に。里人(さとひと)(ら)がうちよりて。飲食(のみくひ)する騒(さわが)しさも。空耳(そらみゝ)に聞(きゝ)なして。納戸(なんど)のうちにて大(だい)の字(じ)なり。うちかけしものまでも。踏脱(ふみぬぎ)給ひし寝相(ねざう)のわろさ。小気味(こきみ)のよい肥太(ふとり)やう。丗(よ)になき人(ひと)と思ひしに。かく健(すこやか)な姿容(すがた)を見るも。柴朶六(しだろく)どのゝ情(なさけ)。ふたつには今夜(こよひ)の仏(ほとけ)善太(ぜんた)が義心(ぎしん)の金(かね)ゆゑなり。これにつけても御(お)二人(ふたり)は。いづくの浦(うら)におはすやらん。地獄坂(ぢごくざか)にて御(お)(わか)れ申。今(いま)におゆくへしれざるは。生死(せうじ)のほどもおぼつかなしと。涙(なみだ)さしぐむ兄(あに)の顔(かほ)。簑作(みのさく)(そば)から気(き)を励(はげま)し。今(いま)さらいふてかへらぬ繰言(くりこと)。初(しよ)七日の仏事(ぶつし)もをはりつれば。僕(やつかれ)ひとまづ故郷(こきやう)へ皈(かへ)り。路金(ろぎん)の用意(ようい)つかまつり。再(ふたゝび)東國(とうごく)へくだり。敵(かたき)の在家(ありか)(おん)二方(ふたかた)のゆくへ。草(くさ)をわけてもたづぬべし。夫(それ)はそれにいたせ。尾峯(をみね)どのゝ墓参(はかまゐ)り。黄昏(たそがれ)にはもどらるゝといはれしに。かへりのおそきはいぶかしゝと。かい立(たつ)て簑作(みのさく)が。燈火(ともしび)うつす方燈(あんどう)の。かげごと言(いひ)つるをりからに。戸口(とぐち)を明(あけ)て皈(かへ)り来(き)し。尾峯(をみね)があとよりひとりの小女(せうぢよ)。二人(ふたり)は見るよりうちおどろき。思ひかけざる小君(こきみ)さま。こは夢(ゆめ)なるか寤(うつゝ)かと。とりすがりたる顔(かほ)を見て。「ャァ御身(おんみ)は由良之進(ゆらのしん)。一人(ひとり)は弟(をとゝ)の簑作(みのさく)なるか。こはそもいかにと主従(しゆう%\)が。つきぬ縁(えにし)にめぐりあふ。そのうれしさやいかならん。三之助(すけ)にもあはせければ。兄弟(きやうだい)(て)に手(て)をとりかはし。なくよりほかのことぞなき。
尾峯(をみね)はこれを見て膝(ひざ)をうち。さてはおんものがたりに聞(きゝ)およびたる。小君(こきみ)ぎみにておはしけるか。それともしらず善太(ぜんた)が墓(はか)まゐりのかへるさ。あやうき御命(おんいのち)を助(たす)けたりと。しか%\のよし物語(ものがた)れば。由良之進(ゆらのしん)みの作(さく)(ら)。大(おほき)に喜び。姉君(あねぎみ)は尾峯(をみね)どの。弟君(をとゝぎみ)は柴朶(しだ)六どの。二ッの命(いのち)をたすけられしは。よく/\ふかき縁(えにし)ならんと。小君(こきみ)を中(なか)に左右(さゆう)より。母(はゝ)の事(こと)をたづねければ。小君(こきみ)は何(なに)と返答(へんとう)も。さしつまりたる鳩尾(むなさか)へ刃(やいば)を刺(さゝ)るゝ思ひにて。気(き)をとりつめて悶絶(もんぜつ)なし。うんとのつけにそりかへり。顔(かほ)の色(いろ)もかはりければ。人々(ひと%\)周章(あはて)て懐(だき)おこし。由良之進(ゆらのしん)が腰(こし)さげに。貯(たくは)へ持(もち)し気付(きつけ)さへ。歯(は)を関(くひつめ)てとほらざれば。尾峯(をみね)は厨(くりや)にはせゆきて。木〓(ひしやく)の水(みづ)を口(くち)に含(ふく)み。面上(めんせう)へ吹(ふき)かけて。三人ひとしく声(こゑ)をあげ。小君(こきみ)さま/\/\。心(こゝろ)をたしかにすえ給へ。小君(こきみ)さまい。のふ/\と。呼声(よぶこゑ)あたりへ聞(きこ)えければ。小君(こきみ)をよぶはたれ人(びと)ぞと。明(あけ)ておきたる門口(かどぐち)より。つとはせ入(いり)しすがたを見れば。水(みづ)に濡(ぬれ)たるあやしの女(をんな)。よく/\見れば栢木(かしはぎ)なれば。二人は夢(ゆめ)に夢(ゆめ)見しごとく。こは栢木(かしはぎ)(ぎみ)にておはしけるかと手(て)をとりて座(ざ)につくれば。三之助はかけよりて。母(はゝ)さまなつかしうござりますと。いふ顔(かほ)一目(ひとめ)みだれがみ。乱(みだ)れ心(ごゝろ)の栢木(かしはぎ)も「唯々(おゝ)三之助か。とばかりにて。横(よこ)にかゝえて膝(ひざ)にのせ。親子(おやこ)二人がいだきあひ。声(こゑ)をとゝのへてぞ哭(なか)れける。かゝる閑(ひま)に尾峯(をみね)は小君(こきみ)をよび活(いか)し。さま%\にいたわりければ。やう/\に正氣(せうき)となり。旡恙(つゝがなき)(はゝ)を見て。かぎりなく喜(よろこ)びぬ。
かゝるをりしも四五人(にん)の男(をとこ)ども。たしかにこゝなり/\と。庭(には)のうちにこみいりて。明松(たいまつ)てらして物(もの)をたづぬる体(さま)なれば。由良之進(ゆらのしん)(おほい)にあやしみ。何(なに)ごとなるぞと問(とひ)つるに。いぶかり給ふはことわりなり。我々(われ/\)は網瀬村(あみせむら)の漁師(りやうし)なるが。この日(ひ)ぐれ大屋(おほや)(がは)にて水(みづ)におちたる女(をんな)をたすけ。所(ところ)はいづくとたづぬれども。気(き)ちがひと見えていふこともさだかならず。いづくの人(ひと)ともしれざれば。村長(むらおさ)どのへつれゆかんと。かしこの道(みち)をとほりしに。足(あし)をそらに駈(はせ)いだし。雨(あめ)はふる闇(くら)さはくらし。かいくれゆくへのしれざれば。女(をんな)と見ゆる足跡(あしあと)をしたひて爰(こゝ)へ来(き)ましたと。いへば側(そば)から一人(ひとり)の男(をとこ)。あれ/\かしこに気(き)ちがひ女。さては此家(このや)にゆかりあるもの。「由良之進(ゆらのしん)いはるゝごとくかのお方(かた)は。其(それがし)が御(ご)主人(しゆしん)今日(けふ)途中(とちう)にて雨(あめ)にあひ。泥(どろ)に滑(すべ)りて入水(じゆすい)のよし。不思議(ふしぎ)の命(いのち)を助(たすか)りしも。おの/\方(がた)の御情(おんなさけ)。ゆる/\おれいも申たし。まづ/\こなたへ入(いり)給へと。いへば漁師(りやうし)が口々(くち%\)に此潮(このしほ)さきに閑(ひま)どつて。居(を)られふや役介(やつかい)(もの)をわたすうへは。礼(れい)はかさねてうけませう。皆(みな)のしゆござれと打(うち)つれて。危(あやう)き命(いのち)たすけしを恩(おん)とも思はぬ漁師(りやうし)ども。心(こゝろ)は水(みづ)のごとくなり。
栢木(かしはぎ)やう/\に顔(かほ)をあげ。三之助(すけ)を膝(ひざ)よりおろして傍(そば)にをらしめ。由良之進(ゆらのしん)に打(うち)(むか)ひ。妾(わらは)三之助(すけ)に別(わかれ)てより。悲歎(ひたん)に迫(せまり)おのづから心乱(こゝろみだる)べきやと思ひつるに。夫(をつと)左衛門(さゑもん)どのゝ自殺(じさつ)ときゝしよりのちは。すべて寤(うつゝ)のごとくなりしに。三之助(すけ)にめぐりあひて。はじめて夢(ゆめ)のさめたるにひとしく。再(ふたゝび)本心(ほんしん)に立(たち)かへれり。三之助(すけ)をはじめ
挿絵
【挿絵第二十五図 柏木(かしはぎ)三之助親子(しんし)再会(さいくはひ)の図(づ)

(なんぢ)(ら)此家(このいへ)にあること。さだめてふかきゆゑあらん。語(かた)りきかせよと言語(ことば)たゞしくいひければ。人々(ひとくー)此体(このてい)を見て。そのよろこびいふもさらなり。主従(しゆう%\)四人みの作(さく)尾峯(をみね)。さま%\の難(なん)をのがれ。おの/\あやうき一命(いちめい)をたすかりて。六人一家(いつけ)に集(あつま)ること。類(たぐ)ひまれなる竒遇(きぐう)なり。

  第十七回 窺栖

星合(ほしあひ)梶之助(かぢのすけ)照連(てるつら)は。某(なにがし)の判官(はんぐわん)に内通(ないつう)なし。主家(しゆか)を亡(ほろぼ)して莫大(ばくたい)の恩賞(おんしやう)を得(え)。其(その)(いきほひ)に乗(じやう)じて再(ふたゝび)大望(たいまう)を企(くはだて)んとはかりしに。煌々(くわう/\)たる天鏡(てんきやう)に照(てら)されて。悪事(あくじ)(たちまち)にあらはれ。近江國(あふみくに)を逐電(ちくてん)なせしが。秋季(あきとし)どのより都(みやこ)へ訴(うつた)へ。人形(ひとがた)をもつてせんぎ嚴(きび)しければ。こゝかしこへ身(み)をかくして。三河國(みかはのくに)(なにがし)の郡(こほり)。岩巻(いはまき)(やま)に住(すみ)。山賊(さんぞく)の魁首(かしら)となりて在(あり)ふるほどに。爰(こゝ)より尾峯(をみね)が所(ところ)へは僅(わづか)に七八里ばかりを隔(へだて)つれば。手下(てした)のものども由良之進(ゆらのしん)(ら)が事(こと)を聞(きゝ)いだし。しか%\のよし告(つげ)ければ。梶(かぢ)之助かの牛平(うしへい)をちかくめしよせ。由良之進(ゆらのしん)(ら)(われ)を敵(かたき)とつけねらふよし。手下(てした)の奴等(やつら)がしらせつれば。打捨(うちすて)ておきがたし。明日(あす)の夜(よ)手下(てした)を引具(ひきぐ)して。渠等(かれら)が住家(すみか)へおしよせ。鏖(みなごろし)にせんと思へば。汝(なんぢ)今夜(こよひ)彼所(かしこ)へ行(ゆき)。竊(ひそか)に其(その)地理(ちり)をうかゞひ来(きた)るべし。外(ほか)に一ッの所用(しよよう)あり。形(かたち)を馬長(ばしやく)に打扮(いでたち)て。一人の小賊(せうぞく)をしたがへ。知立(ちりう)の馬市(むまいち)に至(いたり)て。我(わが)乗料(のりりやう)の駿足(じゆんそく)をもとめ。馬(むま)は小賊(せうぞく)にひかせて先(さき)へ皈(かへ)し。汝(なんぢ)は夜(よ)に入(いり)てかしこへしのぶべしとて金子(きんす)をわたしければ。牛平(うしへい)(めい)をうけて座(ざ)を立(たち)つるに。梶(かぢ)之助再(ふたゝび)牛平(うしへい)をよびとゞめ。今宵(こよひ)の事(こと)は我身(わがみ)にあづかる一義(いちぎ)なれば。例(れい)の酒(さけ)に仕損(しそん)じすな。木鼠(きねづみ)の六。小猿(こざる)の八等(ら)は。間謀(しのび)に名(な)を得(え)しものどもなれども。由良之進(ゆらのしん)(ら)が面(おもて)を見しらざれば用(もち)ひがたし。汝(なんぢ)(とり)の巣(す)をよく嗅(かぎ)きたれと命(めい)じければ。牛平(うしへい)こゝろえて小賊(せうぞく)を隨(したが)へ山(やま)をくだりてまづ知立(ちりう)へぞいそぎける。
(さて)(ゆく)ほどに。二里(り)あまり来(きた)りて一ッの村(むら)にいたり。酒店(しゆてん)の前(まへ)を過(よぎり)けるが。一人の客(かく)床机(しやうぎ)に腰(こし)をかけ茶碗(ちやわん)に酒(さけ)を浪々(なみ/\)とうけ。ごぼ/\と飲(のむ)を見て。酒好(さけずき)の牛平(うしへい)(くち)に咥(つ)をひき。しり目(め)にかけて通(とほ)りつるが。立(たち)とゞまりて小賊(せうぞく)にむかひ。これよりゆくさきは二里(り)あまりの廣野(ひろの)にて。憇(いこふ)べき茶店(さてん)もなければ。此所(このところ)にて一杯(いつぱい)を喫(きつ)すべしと。うちつれて酒店(しゆてん)に入(いり)。馬(うま)を買(かふ)べき大金(たいきん)をもちたれば。おのづから心驕(こゝろおご)りて。美酒(よきさけ)佳〓(よきさかな)を命(めい)じ。両人(りやうにん)うちむかひて。献(さい)つ酬(おさへ)つしたゝかに飲(のみ)ければ。大(おほい)に沈酔(ちんすい)なし。足(あし)もとも浪々(よろ/\)として酒店(しゆてん)を立(たち)いで。かの廣野(ひろの)にさしかゝりけるが。一(ひと)すぢの徑(こみち)も三すぢ四すぢに見えて。足(あし)の蹈所(ふむところ)もさだかならず。両人(りやうにん)芝生(しばふ)に倒(たふ)れ臥(ふ)し。高〓(たかいびき)して寐入(ねいり)けり。
かくてやゝときうつり。日(ひ)まつたく暮(くれ)て夜風(よかぜ)に酔(ゑひ)を吹(ふき)さまされ。かの小賊(せうぞく)突然(とつぜん)と身(み)をおこし四邊(あたり)を見て大(おほい)におどろき。牛平(うしへい)を呼(よび)おこしければ。牛平(うしへい)も打(うち)おどろき。小賊(せうぞく)にむかひ。かく時(とき)をうつして夜(よ)にも入(いり)ぬれば。馬市(うまいち)もをはりつらん。馬(うま)を率(ひか)ずして山(やま)にかへらば。魁首(おかしら)が例(れい)の榜笞(しもと)を喰(くら)ふべし。我(われ)最前(さいぜん)かの酒店(さかや)が馬房(うまや)に肥馬(よきうま)をつなぎたるを見ておきたり。汝(なんぢ)かしこにしのびいり。馬(むま)を盗(ぬす)みてひきかへり。知立(ちりう)にて買(かひ)たりといつわるべし。榜(しもと)を喰(くらは)ざるのみならず。馬(むま)の價(あたひ)の此金(このかね)は。我(われ)と汝(なんぢ)と馬(むま)の脊(せ)わりに分(わか)つべしと甘(うま)き話(はなし)に乗(のり)がきて。駈(かけ)いだしたる膝栗毛(ひざくりげ)。酒店(さかや)をさしていそぎけり。
牛平(うしへい)は小流(こながれ)の水(みつ)を掬(きく)して醉(ゑひ)ざめの渇(かつ)を医(ゐ)し。裾(すそ)鶴脛(つるはぎ)にかゝげ。路(みち)をいそぐほどに。初更(しよこう)のころ尾峯(をみね)が家(いへ)にいたり透垣(すきがき)を潜(くゞり)て戸口(とぐち)のもとにしのびより。戸(と)の隙間(すきま)より覗(のぞき)見るに。由良之進(ゆらのしん)燈火(ともしび)のもとに坐(ざ)し。ほかに人影(ひとかげ)も見えざれば。牛平(うしへい)思ふやう。我(われ)由良之進を打(うち)とり奴(きやつ)が首(くび)を魁首(かしら)に見せ。褒美(ほうび)にあづかり。間謀(しのび)の名人(めいじん)なりと讃(ほめ)られし。木鼠(きねづみ)小猿(こざる)(ら)が鼻(はな)をひしぐべしと。腰(こし)の刀(かたな)を抜放(ぬきはなち)て後手(うしろで)にかくしもち。戸口(とぐち)あらゝかに打敲(うちたゝ)き。村長(むらをさ)よりの急用(きうよう)なり。此品(このしな)をうけとり給へ。はやく/\とよばゝりければ。由良之進(ゆらのしん)思へらく。鎖(とざし)たる柴門(さいもん)をこそ敲(たゝく)べけれ。戸口(とぐち)をはげしくうちたゝくはいぶかしき舉動(ふるまひ)なり。此(この)ほど岩巻山(いはまきやま)に強盗(がうどう)ありて。悪行(あくぎやう)をなすと聞(きゝ)ぬ。油断(ゆだん)すべきにあらずと。まづ答(こた〔へ〕)て「今(いま)に明(あけ)申さんまち給へといひつゝ。業物(わざもの)の刀尖(きつさき)に簑(みの)をつらぬき。戸(と)ぐちをあけてさしいだせば。まちまうけたる拝打(をがみうち)。簑(みの)をばつさりきりおとしぬ。扨(さて)こそ曲者(くせもの)ごさんなれと。外(と)の方(かた)にをどりいで。又(また)きりつくるを月(つき)かげに。心得(こゝろえ)たりと身(み)をかはせ。弱腰(よわごし)(はた)と蹴倒(けたふ)しつゝ。起(おこ)しもたてずおさへつけ。曲者(くせもの)を生捕(いけどり)たり。みの作(さく)(きた)れとよばゝりければ。納戸(なんど)のうちより走(はし)り出(いで)。縄(なわ)を/\と呼声(よぶこゑ)に。物(もの)かけ竿(ざほ)に古(ふる)びたる。縄(なは)を手(て)ばやくかいとつて。かしこにはせつけ高手(たかて)小手(こて)にぞいましめける。
(さて)曲者(くせもの)を庭(には)に引(ひき)すゑ。〓(ひで)を燈(とも)して曲者(くせもの)が面(つら)を見れば。豈(あに)はからんや梶(かぢ)之助が草履(じやうり)つかみの牛平(うしへい)なれば。手(て)を打(うつ)て大(おほい)に喜(よろこ)び。栢木(かしはぎ)。三之助小君(こきみ)(ら)も納戸(なんど)より立(たち)いでゝ打(うち)(おどろき)ぬ。由良之進(ゆらのしん)牛平(うしへい)にむかひ。汝(なんぢ)(こゝ)に来(きた)りて虎(とら)の髯(ひげ)を捻(ひねる)は一定(いちぢやう)(かぢ)之助が犬(いぬ)なるべし。在体(ありてい)に白状(はくじやう)せば。一命(いちめい)は助(たす)くべし。もし白状(はくじやう)せざるにおひては。汝(なんぢ)をもつて梶(かぢ)之助に準(なぞら)へ栢木(かしはぎ)どの。尾峯(をみね)ぬしは夫(つま)の讎(あだ)。姉上(あねうへ)(をと)どのゝためには親(おや)の敵(かたき)。簑作(みのさく)は妹(いもと)の恨(うらみ)。我(われ)はもとより主人(しゆじん)の讎敵(しうてき)。一太刀(ひとたち)づゝなぶり斬(ぎり)に呵嘖(さいなみ)。身(み)を賽目(さいのめ)に刻(きざむ)べし。白状(はくじやう)せんや身(み)を刻(きざま)れんや。とく/\返答(へんとう)(つかまつ)れと。氷(こほり)の如(ごと)き業物(わざもの)を面前(めんぜん)にさしつくれば。牛平(うしへい)これを見て。面(つら)を顰(しかめ)(み)を縮(ちゞ)め「吁(あゝ)申ます/\。命(いのち)(をし)ければこそ慾(よく)もすれ。何事(なにごと)も命(いのち)が物種(ものだね)。梶(かぢ)どのゝ悪事(あくじ)の次第(しだい)。のこらずおきかせ申すべしと。鵲(かさゝぎ)を手討(てうち)にせし事(こと)。地藏坂(ぢぞうざか)の悪計(あくけい)。柴朶(しだ)六を遠矢(とほや)にかけし事(こと)ども。落(おち)ものこさず語(かた)りけり。由良之進(ゆらのしん)(なほ)(かぢ)之助が栖家(すみか)をたづね。岩巻(いわまき)(やま)の案内(あんない)をくわしくきゝて。牛平(うしへい)をば空房(あきや)のうちに繋(つな)ぎおきぬ。これはいかにとなればもし梶(かぢ)之助をとりにがさば。牛平(うしへい)をもつて證人(せうにん)となし。近江(あふみ)にかへりて左衛門(さゑもん)が旡実(むじつ)の罪(つみ)に自殺(じさつ)せしを秋季(あきとし)どのへ聞(きこ)え上(あけ)主家(しゆか)を起(おこ)さん心(こゝろ)となん。並々(なみ/\)の者(もの)ならんには。一時(いちじ)の怒(いかり)に乗(じやう)じて。牛平(うしへい)が首(かうべ)を刎(はね)べきに。由良之進(ゆらのしん)は実(じつ)に思慮(しりよ)ふかき忠臣(ちうしん)なり。
かくて簑作(みのさく)と計(はか)りて。岩巻(いわまき)(やま)に打入(うちいら)んと思へども。あまたの手下(てした)ありと聞(きゝ)て。素脱(すはだ)にてはおぼつかなく。牛平(うしへい)が所持(しよぢ)なしたる金子(きんす)あれども。私(わたくし)に用(もち)うべきにあらずと。渠(かれ)に借(かり)うけ。此金(このかね)を以(もつ)て鎖(くさり)帷子(かたびら)〓〓楯(こてすねあて)の類(たぐひ)。十分(しふぶん)に調(とゝの)ひければ。次(つぎ)の夜(よ)由良之進(ゆらのしん)みの作(さく)(ら)三之助にしたがひて。おの/\堅固(けんご)に身(み)をかため。岩巻(いわまき)(やま)の麓(ふもと)にいたりしに。時(とき)すでに三更(さんかう)の頃(ころ)なりけり。牛平(うしへい)が告(つぐ)るによりて。かねてもうけし謀(はかり)ごとなれば。ふもとに酒店(しゆてん)をひらきて梶之助(かぢのすけ)が目代(めじろ)となり。旅人(りよじん)(ら)が荷物(にもつ)懐中(くわいちう)を窺者(うかゞふもの)の家(いへ)に放火(はうくわ)しければ。案(あん)に違(たが)はず山上(さんしやう)の賊(ぞく)ども。火(ひ)をすくはんと大勢(おほぜい)(やま)をくだりけり。
由良之進(ゆらのしん)(ら)は賊(ぞく)どもを十分(じふぶん)に偽引(をびき)いだし。放火(はうくは)の光(ひかり)に路(みち)をもとめて。かねて聞(きゝ)たる間道(かんだう)より〓(よぢのぼ)り。三之助先(さき)にすゝみて。大斧(おほまさかり)をもつて柵門(さくもん)を打(うち)やぶり。名(な)のりかけ/\。叫呼(おめきさけん)で斬(きつ)ていれば。小賊(せうぞく)(ども)不意(ふい)をうたれて狼狽(らうばい)なし。太刀(たち)よ矛(ほこ)よと騒(さは)ぐ中(なか)へ。かねて用意(ようい)の投(なげ)明松(だいまつ)をなげちらし。光(ひか)りのしたより三人が。從横(じゆうわう)旡尽(むじん)にきつてまはれば。討(うた)るゝ者(もの)(かづ)をしらず。三之助は幼年(ようねん)なれども餝磨(しかま)六郎が武勇(ぶゆう)をうけつぎたれば。膽氣(たんき)(はげ)しくはせまはり。大斧(おほまさかり)を電光(いなづま)のごとくひらめかして。四角(しかく)八面(はちめん)に切散(きりちら)す。

挿絵
【挿絵第二十六図 山中(やまなか)三之助復讎(ふくしゆう)(の)(づ)

(かの)木鼠(きねづみ)の六郎。小猿(こざる)の八郎等(ら)は。梶(かぢ)之助が股肱(ここう)とたのむ賊(ぞく)(ども)なれば。名(な)のりをあげてはせむかひ。小童(こわつぱ)めを逃(のが)すなと。二人ひとしく斬(きり)つくる。こゝろえたりと身(み)をかはせば。力(ちから)あまつて前(まへ)の方(かた)。よろめく襟首(ゑりくび)かい掴(つかん)で。三間(げん)ばかり投(なげ)わたせば。岩角(いわかど)に頭(かしら)を打(うち)つけ。朱(あけ)になりてのたれ臥(ふ)す。三之助から/\と打笑(うちわらひ)。小猿(こざる)が面(つら)は真赤(まつかい)な。木鼠(きねづみ)ものがすまじと。腰(こし)を取(とつ)て引倒(ひきたふし)。うんとひと声(こゑ)(ふみ)ひしがれ。眼玉(めだま)飛出(とびで)し形勢(ありさま)は。地獄(ぢごく)おとしのごとくにて。木鼠(きねづみ)の八郎には。似(に)あはしかりける最期(さいご)なり。
小賊(せうぞく)どもこれを見て。扨(さて)も竒異(きい)なる童(わつぱ)かな。人間(にんげん)(わざ)にはよもあらじ。小(こ)天狗(てんぐ)の化身(けしん)ならん。とても敵對(てきたい)かなふまじと。頭(かしら)をかゝえて逃散(にげちり)けり。三人は猶(なほ)奥深(おくふか)く馳入(はせいり)。梶(かぢ)之助をたづねけるが。行方(ゆくへ)(さら)にしれざれば。さては逃(にげ)さりけるならん。かくまでこゝろをくだきしに。こは残念(ざんねん)や口(くち)おしやと。三人顔(かほ)を見あはせて。旡念(むねん)の涙(なみだ)はら/\/\。かゝる油断(ゆだん)を見すまして。天井(てんじやう)より飛(とび)くだり。詞(ことば)もまじへず斬(きつ)てかゝる。由良之進(ゆらのしん)こゑをかけ「ャァ汝(なんぢ)は星合(ほしあひ)(かぢ)之助。身(み)の悪事(あくし)はおぼえあらん。糸(いと)どのぬかり給ふなと。詞(ことば)の下(した)より三之助。唯々(おゝ)合点(がつてん)じや太刀(たち)をひけ。手捕(てどり)にせんと勇立(いさみたち)。斧(をの)をからりと投捨(なげすて)て。鶴(つる)にとびつく〓(はやぶさ)の。はやくも〓(また)をかい潜(くゞ)り。帶(おび)を掴(つかん)でふりまはし。庭(には)の大地(だいぢ)へ投(なげ)すへたり。おこしも立(たて)ず左右(さゆう)より。忠臣(ちうしん)義心(ぎしん)の両人(りやうにん)が。襟首(ゑりくび)(おさへ)てはたらかせず。高手(たかて)小手(こて)にぞいましめける。実(げに)こゝちよき形勢(ありさま)なり。此時(このとき)いづくともなく鵲(かさゝぎ)一羽(いちは)(とび)きたり。梶(かぢ)之助が頭(かしら)の上(うへ)を舞(まひ)めぐり。月下(げつか)にこゝちよき音(ね)をはつし。身(み)より光(ひかり)をはなちて。西方(さいほう)へとびさりけり。おもふにこれはかの鵲(かさゝぎ)が怨魂(えんこん)(とり)と化(け)して爰(こゝ)にきたり。恨(うらみ)をはらして浄土(じやうど)の往生(わうぜう)をとげけるなるべし。かくて三人は薄手(うすで)もおはず。年来(としごろ)の本望(ほんまう)をたつし。よろこぶことかぎりなく。簑作(みのさく)一疋(いつぴき)の馬(うま)をひききたりて。三之助を
挿絵
【挿絵第二十七図「其二圖」 當場扮作丑生姿惡貌 美心相見知天地従来 如雜劇丗營一齣介 無私醒々斎主人題 [山][東]】

のらしめ。梶(かぢ)之助を引立(ひきたて)三之助が大斧(おほまさかり)をうちかたげて。馬(むま)の左(ひだり)にしたがへば由良之進(ゆらのしん)は木鼠(きねづみ)小猿(こざる)(ら)が首(くび)を刀尖(きつさき)につらぬきて。右(みぎ)の方(かた)に付添(つきそひ)けり。三之助は二人の英雄(えいゆう)を馬(むま)の左右(さゆう)にしたがへ。手綱(たづな)かいくりつゝ麓(ふもと)をさしてうたせけるは。遖(あつぱれ)勇々(ゆゝ)しき武者(むしや)ぶりなり。

  第十八回 迎福(ふくをむかふ)

去程(さるほど)に人々(ひと%\)は。尾峯(をみね)が家(いへ)に皈着(かへりつき)ける。時(とき)ははや夜(よ)も明(あけ)ぬれば。由良之進(ゆらのしん)(こと)の仔細(しさい)を一通(いつつう)の書面(しよめん)に記(しる)し。縣令(あがたもり)の官邸(くわんてい)にいたり呈(てい)しければ。縣守(あがたもり)みづからいでゝ由良之進(ゆらのしん)に對面(たいめん)し忠義(ちうぎ)の程(ほど)を賞讃(せうさん)なし。両人(りやうにん)の生捕(いけどり)を本國(ほんごく)へ引(ひき)給ふにつき警固(けいご)の人夫(にんぶ)を借(かせ)との御(ご)所望(しよもう)いと安事(やすきこと)に候。士卒(しそつ)はいかほども貸(かし)申さん。心(こゝろ)おきなく召具(めしぐ)し給へ。かの賊(ぞく)どもは発足(ほつそく)のみぎりまでは。邸中(ていちう)の獄屋(ごくや)に繋(つなぎ)おき申さんと。いとねんごろにいひければ。由良之進(ゆらのしん)(れい)をのべ。詞(ことば)にまかせて梶(かぢ)之助牛平(うしへい)を獄(ごく)にくだしおき。心(こゝろ)しづかに旅(たび)よそほひをとゝのへ。尾峯(をみね)をも伴(ともな)ひて。すべて六人のものすでに発足(ほつそく)の日限(にちげん)にいたりぬれば。縣守(あがたもり)より二人の賊(ぞく)(ども)を囚車(しうしや)にのせ。あまたの武士(ぶし)をしたがへて。これを護(まも)らせ。旭(あさひ)とともに村中(そんちう)を発(はつ)しければ。近郷(きんがう)の諸人(しよにん)(つど)ひきたりて。肩(かた)を並(なら)べ袖(そで)をつらね押凝(おしこり)(たち)て見物(けんぶつ)す。
かくて日(ひ)あらずして近江(あふみ)にいたり。由良之進(ゆらのしん)が願書(ぐわんしよ)に縣守(あがたもり)よりの添文(そえぶみ)を加(くは)へて。松江(まつえ)の舘(やかた)に呈(てい)しければ。秋季(あきとし)殿(どの)二通(につう)の書(しよ)を披見(ひけん)あられて。且(かつ)(よろこ)び且(かつ)おどろき。時(とき)をうつさず六人の者(もの)をめしいだして。再(ふたたび)(こと)の仔細(しさい)をたづねられければ。由良之進(ゆらのしん)(かぢ)之助が片袖(かたそで)。ならびに苗字(みやうじ)を記(しるし)たる服紗(ふくさ)。柴朶(しだ)六を射殺(いころし)たる姓名(せいめい)を〓(えり)つけし矢(や)の根(ね)(とう)をさしいだし。左衛門(さゑもん)が旡実(むじつ)の罪(つみ)を言訳(いひとき)ければ。牛平(うしへい)が白状(はくじやう)といひ。掲焉(けちゑん)の證拠(せうこ)あれば。事(こと)明白(めいはく)にわかち。縣守(あがたもり)へは謝礼(しやれい)の返書(へんしよ)に使者(ししや)をそえ。警固(けいご)の武士(ぶし)どもをば重(おも)く賞(せう)じて皈國(きこく)せしめけり。
(さて)主從(しゆう%\)の願(ねがひ)にまかせ。領所(りやうしよ)の廣場(ひろば)に一町四面(しめん)の柵欄(やらい)をゆはせ。警固(けいご)の武士(ぶし)甲乙(こうおつ)を守(まも)り。三之助をはじめ。栢木(かしはぎ)小君(こきみ)を合手(あひて)とし。由良之進(ゆらのしん)簑作(みのさく)を助太刀(すけだち)とさだめ。梶(かぢ)之助を獄舎(ごくしや)より引(ひき)いだして。復讐(ふくしう)の勝負(せうぶ)を行(おこな〔は〕)せけるに。三之助梶(かぢ)之助にわたり合(あひ)。二太刀(ふたたち)。三太刀(みたち)うちあひしが。何(なん)の苦(く)もなく提首(さげくび)にして立上(たちあが)りければ。見物(けんぶつ)の諸人(しよにん)したり/\と讃(ほむる)こゑ。しばらく鳴(なり)はやまざりけり。
秋季(あきとし)どの大(おほい)によろこび。此日(このひ)牛平(うしへい)をも刑戮(けいりく)せしめ。次(つぎ)の日(ひ)六人の者(もの)に礼服(れいふく)をつけさせて。改(あらため)て對面(たいめん)なし。三之助には本領(ほんりやう)安堵(あんど)のうへおほくの加恩(かおん)を給はり。由良之進(ゆらのしん)をば直参(ぢきさん)に召(めし)いだし給はんとありけるに。固辞(かたくじ)しければ。もとのごとく山中(やまなか)が長臣(ちやうしん)として。別(べつ)に秋季(あきとし)殿(どの)より食禄(しよくろく)を給はり。由良之進(ゆらのしん)が代(かはり)なりとて。弟(おとゝ)簑作(みのさく)を直参(ぢきさん)となし玉ひぬ。のちに由良之進(ゆらのしん)が願(ねがひ)にて。餝麓(しかま)の苗字(みやうじ)を名告(なのら)せ。六郎が家(いへ)をつがせけるとぞ。小君(こきみ)はことさら至孝(しいこう)なりとて。黄金(わうごん)百枚(まい)に化粧田(けせうでん)五十町(ちやう)を給はる。栢木(かしはぎ)尾峯(をみね)(ら)をも褒美(ほうび)し給ひ。左エ門(さゑもん)が廢舘(はいくわん)に修理(しゆり)をくはえて返(かへ)し給ひければ。三之助等(ら)もとのごとく移住(うつりすみ)。賀客(かかく)門前(もんぜん)に市(いち)をなして。美名(びめい)を遠名(えんめい)に輝(かゝやか)せり。
かくてのちかの國字寺(こくじじ)に於(おい)て。左エ門(さゑもん)および柴朶(しだ)六鵲(かさゝぎ)(ら)が追福(ついふく)をいとなみけるが。此日(このひ)栢木(かしはぎ)尾峯(をみね)仏前(ぶつぜん)に於(おい)て剃髪(ていはつ)し。仏月(ぶつげつ)禅師(ぜんじ)の徒弟(とてい)となり。栢木(かしはぎ)を栢樹尼(はくじゆに)とよび。尾峯(をみね)を峯月(ほうげつ)と名(な)づけ。勝地(せうち)に庵(いほり)をむすびて行(おこな)ひすましけり。峯月尼(ほうげつに)は後年(こうねん)故郷(こきやう)に皈(かへり)てか。矢矧川(やはぎがは)のほとりに移(うつ)り住(すみ)。九十余(よ)(さい)にして正覚(せうがく)の終(をはり)をとれり。西(にし)矢矧(やはぎ)(ひがし)の山手(やまて)に墓(はか)あり。丗(よ)にこれを美婦塚(よいによぼうづか)といふ。峯月尼(ほうげつに)が尾峯(をみね)といひし時(とき)(すみ)たる。宮路(みやぢ)(やま)のふもとを。山中(やまなか)三之助が出丗(しゆつせ)の地(ち)なりとて。後人(こうじん)
挿絵
【挿絵第二十八図 山中(やまなか)一家(いつか)(ふたゝび)松江(まつえ)(け)へ皈参(きさん)の圖(づ) 千祥萬禎】

山中里(やまなかのさと)とよびならはせり。尭(ぎやう)孝師(こうし)の『富士(ふじ)日記(につき)』にも。〔富士(ふじ)日記(につき)は永亨(ゑいかう)四年足利(あしかゞ)義教(よしのり)(こう)の命(めい)によりて作(つく)れり〕
  旅衣(たびころも)たつきなしともおもほへず 民(たみ)も賑(にぎは)ふ山中(やまなか)の里(さと)
されば悪人(あくにん)(ほろ)びて善人(ぜんにん)(さか)へ。山中(やまなか)一家(いつが)の者(もの)目出度(めでたき)(はる)をむかへけり。これ則(すなはち)忠肝(ちうかん)孝胸(こうきやう)の明徳(めいとく)。天理(てんり)の昭影(しやうえい)たるに相(あひ)てらして。かゝる幸(さいはひ)の時(とき)にはあひけるならん。詞(ことば)いやしく書(かき)ざまつたなきものがたり書(ぶみ)といへども。竹馬(ちくば)に鞭(むち)をあぐる童(わらん)べ。花間(くわかん)に草(くさ)を摘(つむ)小女(をとめ)(ら)。春雨(はるさめ)のつれ%\。秋(あき)の夜長(よなが)のなぐさめに。一度(ひとたび)(まき)を繙(ひもとき)て。丗教(せいきやう)のはしくれともならば。作者(さくしや)の幸(さいはひ)もつとも甚(はなはだ)しからん。
鷲談傳竒桃花流水巻之五 大尾

巻末・跋

此書(このしよ)。はじめの一巻(くわん)は。文化五年辰の春三月初六(しよろく)に筆(ふで)を起(おこ)して。事(こと)のひま/\に記(しる)しつれば。五月中の五日に。稿(こう)を脱(だつ)せり。残(のこ)る四まきは。今年(ことし)巳の冬十月末(すゑ)の八日より筆(ふで)をとりて。十二月九日に編(へん)しをはれり。かゝるせわしきすさみなれば。一編(へん)の趣味(しゆみ)商量(しやうりやう)するに遑(いとま)あらず。窗前(そうぜん)に陰(いん)を惜(おし)みて。燈下(たうか)に夜(よ)を更(ふか)し。庭(には)の松風(まつかぜ)さつ/\とつゞり侍(はべ)れば。おもひあまりて言葉(ことば)たらざる処(ところ)もいとおほかりなん。冬の日の短(みじか)き才(さい)をもて作(つく)り著(あらはし)たる書(ふみ)の。春の日の永(なが)くつたはるもの。一二部(ぶ)はありもやする。そはなか/\の耻(はぢ)なるべしと。筆(ふで)のついでに。ものし侍(はべ)りぬ。
山東京山識 [京][山]

跋

京山先醒(せんせい)は。京伝先醒(せんせい)の令弟(れいてい/ヲトウト)なり。彫蟲(てうちう/インホリ)詩画(しぐは)の技(ぎ/ワザ)を挟(さしはさん)で。文場(ぶんじやう)に遊(あそ)ぶ事(こと)。茲(こゝ)に歳(とし)あり。近来(きんらい)螢窗(けいそう)の暇(いとま)。稗史(はいし)を編(へん)して。筆(ふで)を湖上(こしやう)の流(ながれ)に洒(そゝ)ぐ。本(ほん/コノ)(へん)填詞(てんし/サク)の如(ごとき)は。耳目(じもく)玩好(くわんこう)の書(しよ)に屬(しよく)するといへども。竊(ひそか)に。打悪(だあく)釣善(てうぜん)の詞(ことば)を交(まじへ)つれば。児曹(ぢそう/コドモシユ)の觀(くわん)に具(ぐ)するとも。實(じつ)に妨(さまたげ)なしといわん。先醒(せんせい)。姓(せい)は岩瀬(いわせ)。名は。凌寒(りやうかん)。字(あざなは)鐡梅(てつばい)。一字(いつのあざなは)京山。山東と稱(しやう)するものは。戯編(けへん)の假姓(かせい)のみ。その堂(だう)を鐡筆(てつひつ)といひ。その居(きよ)を方半(ほうはん)とよぶ。其家(そのいへ)は江戸日本橋第(だい)四街(けい)(ひがし)へ折(せつ/マガル)する小巷(せうこう/ヨコチヤウ)にあり。

詩事 天山老人識 [天山]


刊記

江戸 山東京山填詞
   歌川豊廣畫圖
筆耕 橋本徳瓶
剞〓 七人敢不贅
小櫻姫風月竒觀(こさくらひめふうけつきくわん) 山東京山編次 歌川國貞画圖 前編全四冊出版
名画縁雪姫物語(めいぐはえんゆきひめものがたり) 山東京山編次 全部六冊近刻 近刻

北越雪中図會(ほくゑつせつちうづゑ) 全五冊 山東京山著并藏版
此書は作者雪中に北越にありて作れり雪中熊をとる図説雪中に生ずる竒虫異花ノるい雪中ちゞみをさらす図説雪車(ソリ)〓〓(カンジキ)雪帽の図るいかの地雪のふりはじめよりゆきのとくるまでの事さま%\の竒談をしるせり

白水先生口授 近刻 産婦(さんふ)やしなひ草(ぐさ) 全二冊 山東京山述并藏版
此書は産婦の身もち食物のさし合ものにつまづきころびたる時腹(はら)のもみやう産ぜん産ごのこゝろえくわいたいのうちより男女をしる傳子をもうくる方すべて産婦にかゝはりたる事をしるせり産婦ある家にはなくて叶はぬ書なり

京傳商物報條 きれ地并にかみたばこ入當年は別てめづらしき新がた風流なる雅品あまた仕入仕候相かはらず御もとめ可被下候 讀書丸(とくしよくわん)〔一トツヽミ壱匁五分〕第一きこんのくすりものおぼえをよくす心腎のきよそんを補ふ老若男女つねに身をつかはずかへつて心を労する人用てよし 極製きおう丸 大極上々の薬品を用ひのりをいれずしてくまのゐにて丸ず功のうかくべつなり ○京傳京山自画賛あふぎはりまぜるいたんざく
京山篆刻 水晶印一字十匁銅印一字五匁ろう石一字〔白字五分朱ゝ七分〕
古てい近てい好にまかす値をさだめてもとめやすからしむ
赤穂名産 花鹽(はなしほ) 折づめ箱いり御進物向しな%\梅さくらの形そのほかさま%\のかたちにつくりて見てもうるはしき雅品なり 江戸京橋鈴木町 山名屋武七

刊記

文化七年庚午歳正月 發兌
江戸書肆 前川弥兵衛 丸山佐兵衛 仝梓
[筆硯萬福大吉日利] 筆硯萬福大吉日利


# 『鷲談傳竒桃下流水』(『山東京山伝奇小説集』 国書刊行会 2003/01)所収
# Copyright (C) 2003 TAKAGI, Gen
# この文書を、フリーソフトウェア財団発行の GNUフリー文書利用許諾契約書ヴァー
# ジョン1.3(もしくはそれ以降)が定める条件の下で複製、頒布、あるいは改変する
# ことを許可する。変更不可部分、及び、表・裏表紙テキストは指定しない。この利
# 用許諾契約書の複製物は「GNU フリー文書利用許諾契約書」という章に含まれる。
#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
# Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU
# Free Documentation License, Version 1.3 or any later version by the Free Software Foundation;
# A copy of the license is included in the section entitled "GNU Free Documentation License".

Lists Page