『高尾舩字文』−解題と翻刻−
高 木 元
【解題】
本作は馬琴読本の処女作である。比較的早くから言及されることが多く、振鷺亭の『いろは酔故伝』とともに、江戸読本における水滸伝翻案ものの流れを形成した作品として位置付けられてきた。ところが、播本真一「『高尾船字文』と『焚椒録』覚書」(「近世文芸研究と評論」第17号、1979年11月)は、『水滸伝』のみならず、『焚椒録』という遼の雑史を利用して萩の方をめぐる話を作ったことを検証し、丹羽謙治「馬琴読本における『水滸伝』の受容の一齣」(「讀本研究」第5輯上套、渓水社、1991年)では、未刊に終った後編『水滸累談子』が、累が淵伝説を伊達騒動の世界に取り込んだ『伊達競阿国劇場』と『水滸伝』の武松復讐譚とを撮合する構想であったことを指摘し、さらにその構想が『新累解脱物語』へと結実した様子を追っている。また、徐恵芳「『高尾船字文』考―『水滸伝』利用の様相について―」(水野稔編『近世文学論叢』、明治書院、1994年)は、『水滸伝』全般の利用を丁寧に検証しつつも、明らかな『通俗忠義水滸伝』の利用の跡を発見している。演劇の伊達騒動ものについては、石橋詩世「『高尾船字文』に関する一考察―伊達騒動高尾物の検討と書名の意味―」(「大妻国文」第25号、1994年)が詳しく、『けいせい睦玉川』をはじめとする高尾物を集めたという寓意を外題「千字文」に読んでいる。
このような近年の研究によって、本作の性格が次第に明確にされてきているが、相変らず習作であるという観点から離れられないようである。馬琴はみずから、売れなかったことと上方で受け入れられなかったこととを『作者部類』に記しており、さらに中本型読本というジャンルであったことに対しても、その意義を重視していないようである。しかし、天保に成って再板されていることを見ても、再度馬琴の言及から自由になった視点で読み直してみる必要があるものと思われる。
【書誌】
【凡例】
表 紙
【翻刻】
高尾舩字文
凡例 [印]
此書や。戲房ハ唐土の稗説に做ひ。戲廂ハ日本の演史を引く。故に文中通俗めいたる有。院本めいたるあり。どうめいたるあり。孔明たる謀有て。くるり/\と廻ること。機関の糸の如く。花子が唇に似たり 主意ハ楽天が詩文章のごとく。媼婆さまにも解易をもてし。聊珍〓韓退之が。人威のむつかしきを」求めず。爰を以て念者の長口序に。数紙を費ん事を厭ひ。今機を替て序を不書。廼墨斗の禿筆を採て。板木の桜に書付て曰。天正本を空しうすること勿れ。時に凡例なきにしもあらず。
寛政捌丙辰年孟春書於雜貨店帳合之暇
曲亭馬琴 [印][印]」1
高尾千字文第一冊
○洪氏過て實方の廟を開く
附リ 夫ハ小説の水滸傳
是ハ戲文の先代萩
其發端ハ霊魂雀
○宮戸川に雷絹川に遇ふ
附リ 夫ハ九紋龍史進
是ハ絹川谷藏傳
其王進ハ角觝師」
絹川谷藏
生國關東縞満身都黒鳶
竊観正札貴男一疋絹川\長喜画」2
高尾千字文第一冊
ころハ應永十二年。足利将軍義満公。諸國へ巡察使を立給ひ。一國の政務を正し給ふにより。巡察使山名洪氏ハ。奥州へ下りける。洪氏松嶋の瑞岩寺至リ。雄嶋が磯雲居禅師の岩屈。そのほか名所古跡を一見す。此瑞岩寺ハ。七堂伽藍の大寺にて。仏法相應の霊地なり。洪氏此瑞岩寺へ一宿しけるに。其夜もすでに更わたる頃。方丈の西にあたりて。人の叫ぶ声きこへけれバ。ひろ氏これをあやしみ。夜あけて住寺に。その謂を」尋けるに。住寺しばらく考へ。上使のあやしみ給ふも尤なり。これハ実方の霊魂なり。むかし二條の院に仕へし中将実方ハ。むつの國の任に遷され。ひたすら都をしたひ給ひしに。その一チ念悪魔となり。當國に障化をなすゆへ。當山に廟を立て。その霊魂をまつり候とこたへけれハ。洪氏から/\と打笑ひ。我レ聞ク藤中将実方ハ。小一条大将濟時の子にして。世にかくれなき哥人なり。まして実方の墳ハ當國笠嶋にあり。何ぞ笠嶋に廟ハたてずして。此瑞岩寺にまつるといふもいふかしゝ。いざ我レ一ツ見すべしと座を立けれバ。住寺も洪氏の先に立て」3 あん内す。ひろ氏実方の墓を見るに。大なる石を以て雀を刻みその雀の上に一ツの石碑を立て。中将実方の墳としるしたり。石のすゞめハ土に埋れ。頭わづかに出けるが。雀の觜に数十連の珠数をかけたり。住寺洪氏に語リけるは。昔中将実方卿。行成卿と口論のあやまりによつて。當國に左遷有リ。実方帝をふかく恨み奉り。我あづまの土と成ルとも。一念かならず當國にとゞまつて。奥州の大守たらん人に害をなすべしと憤り。終にむなしくなり給ふ。又実方在世の時。つね%\此寺に参禅あつて。ひたすら帰洛をねがはれしが。我死しなバ雀となりて」も。一トたびハ都へのぼり。たいはん所の飯を喰ばやとのたまひしが。果してその一チ念當國にとゞまり。怪異のことおほかりしゆへ。わが祖雲居禅師。この寺に廟を立て。その霊をなだめ給ふ。しかれども深更におよんでハ。折ふし人の叫ぶこへ聞え申なりと語けれバ。洪氏あざ笑ひ。一犬虚を吼て百犬実を吼る。われ今こゝろみに。その憤を發て。実方の尸を一ツ見せんと云けるを。住寺急におしとゞめ。もし此塚をひらく時ハ。忽ち當國に災をまねくべし。わが禅師より数代の住職。十念加持の珠数をもつて。雀の觜をつなぐ事。まつたく実方の霊魂を封じこめ給ふ謂なり。洪氏」4 これを聞て大に怒り。いわれぬ賣僧が人威しかな。もしわが一言に叛くものあらバ。都へ上り言上し。やがてうき目を見すべしと罵けれバ。住寺も上使の権威におそれ口を閉て扣へゐる。洪氏住寺が迷惑するを見て。いよ/\圖にのり。おほくの人夫に下知してかの石塔を引たほし傍にとりのけ。石の雀を堀出さんとするにその重さ磐石のごとく。数十人の人足も。動しかねて見へしかハ。洪氏いよ/\人夫を増し。勢ひかゝつて堀けれバ。終に石のすゞめを堀出しけるに。その下に二枚の石蓋あり。蓋の上に文字あり遭洪而開と彫付たり。洪氏これを見て大によろこび。禅師仏眼を以てはや百」年以前。わが此塚をひらくことを知り給へり。人々此蓋の文字をみよ。洪にあふて開と有リ。わか名乗ハ洪氏。洪に遇ふとハ則われ也。勇めや人々と下知して。終に石ぶたをはねのけけれバ。下ハ千尋の洞坑なり。只闇くしてその深さをしらす。洪氏人夫に松明を燈させ。洞の中へこみ入らんとせし所に。俄に数千本の竹を。一度に破るがことき音聞えて。洞の中より白氣立のぼり。数十羽の雀飛び上りけれバ。洪氏住寺ハいふにおよはず大勢の人足共。此体を見て大におとろきおし合へし合。洞の邊リをはしり出て。首をめぐらしてうしろを見れバ。数十羽のすゞめ忽ち化して六尺あまりの白練となり」 練の中央に十八といふ二字。あり/\とみへけるが。東西に吹なびきいづくともなく消うせける。これ全く足利頼兼の時にいたりて。奥州に稀代の珍事。おこるべき瑞なり。洪氏ハ色青ざめ。呆はてゝゐたりしが。われ今當國の勤役すむうへハ。早々都へのぼるへしと。そこ/\に瑞岩寺を發足し。都へこそハ帰りける
宮戸川に雷きぬ川にあふ
應永十五年。足利義満逝去し給ひ。それより四拾八年後。足利八代の将軍義政公ハ。義満公の御孫にして。御心風雅にまし/\。ことさら茶をこのみ。金閣銀閣二ケ所の高楼をしつらひ。東山に住し」給ふにより。世の人ひかし山どのと称じ奉る。義政の御舎弟。左馬介頼兼公ハ。奥州の大守として。關東の官領と定め給ふ。こゝに前将軍義満御妾腹の御子。典膳鬼貫ハ。よし政より兼の叔父なれ共。別腹なり。頼兼いまだ年わかにましませバ。此鬼つらをさしそへて。奥州へ下し給ふ。鬼つら其身。臣下の列に入るといへども。まさしく頼兼の叔父なるによつて。何とぞ頼兼をなきものにして。奥州を押領せんと工みける。爰に一人のしれものあり。勇ハ樊會張飛をあざむき。智ハ孫〓孔明に勝れたりしかれども其こゝろざし賢人に似たる侫人にて。表にハ忠心をあらはし。裏にハ國」
家をくつがへさんとはかる。此人ハこれ頼兼の執権仁木左衛門直則といふもの也。諺にも同気相もとめ。凹き所へ水たまるたとへのごとく。鬼貫いつしか此仁木と心を合せ。隙もあらバ頼兼を罪におとし。奥州を横領せんとたくみける。その頃将軍よし政公。茶の湯をのみ給ふにより。世上専らちやのゆはやり。かの鬼つら仁木ハ。茶の湯にことよせ。折/\出會して悪事を相談す。ある日鬼貫が使。仁木がやしきを門ちがへして。組下の侍雷鶴之介が方へ持行しに。折ふし鶴之介は他出して。下女その手紙をとりつぎ。留主のよし答へて。使を帰しける。しばらく有ツて鶴之介立帰り。その手紙を」見て大におどろき。これハ典膳鬼貫とのより。執権仁木どのへ来たる手紙也。殊に密用と有れバ。定て國政の用事ならん。我々がとり扱ふべき書状にあらず。いそぎ仁木とのへ届んと。袴引かけ立出んとする所に。仁木はやくも此事をきゝ。雷が方へ使を以て。用事あれバ早々参るべしと云つかはしける。雷とるものも取リあへず。其使と共に仁木がやしきへいたり。委細のわけをいわんとする所に。仁木雷をはつたとねめ付。おのれいやしき身分を以て。政務にあづかる。大切の書状をうばひとつたるハ。定て企叛の志ならん。いそぎ雷をからめ。〓問すべしと下知すれバ。雷平伏して云けるハ。それがし外様」7
賤官の侍なりと申せども。いかでか國の掟をしらざらん。鬼貫の使あやまつて。それがしか方へ持参いたし。その節それがし留主なれバ。此事を存ぜず。只今此義を申上んと立出る所に。急の御使にあづかり。首尾前後仕リ。何ともおそれ入候と。かの手紙をさし出せバ。仁木いよ/\怒て。おのれ手紙をうばひたる事を。それがしに悟られ。事を両端にさしはさみたる。その云訳くらひ/\。おのれが親鳴神三平ハ。いやしき角力とりなりしを。さいわひ當家へめし出され。その方今ハ諸侍の列にも加はり。少しばかりの鎗棒眷頭など覚へしとて。一家中の若さふらひへ師範なといたす事。」甚以て片腹いたし。ことの善悪わかる迄。かたくいましめて〓問すべし。はやく鶴之助をからめよと呼はれバ。仁木が組下の侍ども。仁木をなだめて云けるハ。鶴之介大切の用状を請取置しハ。その罪かろからずと申せ共。元より彼が留主のうちのことなれバ。毛頭存ざるにうたがひなし。まづ此度ハひらにゆるし給へかしと。詞を盡して諫めけれバ。仁木もおのれが心に一チ物有。殊に悪事密談の手紙なれバ。もし此事よりあらはれなバ。蟻の塔より堤崩るゝならんと。少し顔をやはらけ。その方只今いましめて〓問すべき奴なれども。組下のいさめに免じ。今日ハゆるし遣す。かさねてゆる/\吟味すべしと」8
ねめちらして。おくの一ト間へ入リけれバ。雷ハ仁木に耻しめられ。しほ/\とわが家へ帰り。母にゐさい語リけれバ。雷が母云けるハ。今の世に仁木とのに可愛からるゝものハ。功なくして立身出世し。又少しにても悪まるゝものハ。罪なくして殺さるゝ。その方つね%\柔劔術を覚得て。何とて知らざるや。兵法の奥の手にも。迯るを一とするといへバ。われらおや子此所を迯出て。いづくへなり共落行べし。雷これを聞て。母の詞理の當然なり。今鎌倉の細川勝元どのハ。當家の御縁者と云ひ。殊に仁義あつき人とうけ給はれバ。勝元とのをたのみ参らせ。身の安穏をはかるべしと。其夜ひそかに旅の用意をとりとゝのへ。」扨夜もあけれバ。下女をおこして。我ら親子宿願あれば。塩竈明神へ参詣す。かへりおそくハ迎に参るべしと云すて。住なれしわか家を跡に見なしつゝ。鎌倉へと落て行。道より母をバ旅駕にのせ。雷駕に引そふて道を急ぎける程に。日数經て武蔵なる。千住村へ着ける。此時はや七ツ下リにて。塒もとむるむら烏。われも馴はぬ旅烏。かあひとなくハ戀ならで。反哺の孝におや鳥の。旅の労をなぐさめて。茶やが床几にやすらひしが。雷心に思ふやう。けふもまだ七ツ下り。千住にとまるハ甚はやし。殊に仁木が追人かゝらんもはかりかたし。せめて今二三里行べしと。ひた」9
すら道を急きつゝ。程なく淺草川へ来りしころ。日ハとつふりと暮にけり。此邊ハみな商人家にて。泊リもとむる宿もなく。いかゞせんとためらひしが。金龍山のあなたに一ツの瓦屋あり。障子に岡田やとしるして。灯火のかげ戸のすき間をもりけれバ。雷此岡田やにおとづれ。行くらしたる旅のものなり。何とぞこよひ一夜明させ給へと云けれバ。内より丁稚出てこゝハ旅籠やにあらず。此並木をまつすぐに廿町程行給へバ。おほくのはたごやあり。そこへ行て泊り給へと。つこどなく答へける。雷慇懃に腰をかゝめ。それがし一人にて候はゞ。廿町ハ扨置。五里も十里も参るべきが。一人の老母をたづさへ。道闇して」方角をしらず。たとへ蔵の隅。みせの土間なりとも苦しからず。せひに一宿させ給へと。涙くみて云けれバ。うちより年のころ六十ばかりなる。此家のあるじとおぼしき人立出。老人ハ相見互のことなるに。さのみ氣づかはしきこともあるまじ。泊参らせよと云けれバ。雷大によろこび。母をともなひ内に入。旅のつかれをなぐさめける。此家のあるじハ岡田や与兵衛とて。情ふかき男にて。雷親子に湯をつかはせ。夜食を出しもてなしけれバ。雷も感涙をながし。誠や旅ハ道づれ。世ハなさけ。われ/\おや子。かく御世話になる事も。一河一樹の縁ならめ。扨はたごせんハ何程にやと云けれバ」10
主与兵衛かぶりをふり。イヤ/\はたごせんにハ及び申さず。定めて旅のつかれもあるべきに。はやく休み給へといひけるにぞ。雷親子なを/\感心し。主にあつく礼をのべ。一ト間に入てやすみける。扨夜も明けれ共。雷いまだ起ざりけれバ。あるじ与兵衛屏風の外より。旅人衆もはや夜ハあけたり。起給はんやと云けれバ。雷この声を聞て。急に屏風の外へはしり出。某ハとくに起候へども。老母此ほどの旅つかれにや。夜中より積氣おこり。今以てさしこみ難儀いたし候。与兵衛これを聞て。旅泊の老病さぞ御心遣ひならん。先ツこれを用ひ給へと。はな紙袋より」金丹圓をとり出しこれをあたへ。さつそく医者を呼び。薬をのませ。扨雷おや子に云けるハ。かく御宿申事も。前世の因縁ふかきゆへならん。情ハ人の爲ならずとうけ給はり候へバ。母御の病氣快方まで。ゆる/\と滞留して。心置なく養生あれと。世にたのもしく云ひけれバ。雷感涙をとゞめかね。それがし元ハ頼兼公外様の侍にて。世に有しそのむかしハ。武士のまねこともいたしたるものなれ共。傍輩の讒言により。住なれし奥州を立出。今鎌倉のしるへの方へ。おもむかんと存ぜし所。思はずも母の病氣。かゝる御世話にあづかる事。いつの世にかハ報し申さんと。くれ/\礼を述にける。扨五六日過けれバ。母の病氣漸く」11
全快し。雷もはや一両日のうちに出立すべしと思ひ。汚れたる脚半を濯がんと思ひ。うら口の河岸端へ出けるに。一人のわかき男。としのころ十八九と見へけるが。骸の色ハ墨よりも黒く。腕に朱をさして倶利迦羅龍を刺したるが。大勢の舩頭を集め。相撲を取リて居たりけるに。彼わかき男に勝もの一人もなし。雷ハうしろに立て見物してありけるが。元よりこのむ道なれバ。思はず聲をかけて。此角力よくとれども。四十八手の法に叶はずと云けるを。彼わかき男。これを聞て大にはらを立。宮戸川ひろしといへ共。われにおよぶもの一人もなし。おのれ何ものなれバ人をやすくして。わが慰の邪广をひろぐ。爰へ出て」我と取れ。忽腰の牒番を踏はなし。矢大臣門の坐行にしてくれんものと罵〔り〕ける。此聲を聞て。あるじ与兵衛おくより走出。谷蔵客人に不礼するなと呵り付。雷にむかつて云けるハ。このものハそれがしが二男にて。谷蔵と申ものなり。此もの生質ての剛氣ものにて商人の業を嫌ひ。柔劔術を好み。又若きものをあつめ角力をとり。兎角荒きことをのみ好む。それがし元トハ下総國岡田郡羽生村の百性にて。田地も相應に有れば。惣領与右衛門に田畑のことをまかせ置。それかしハ二男谷蔵をつれて。此淺草に穀物やを出して渡世といたし。家名の岡田やと申も。」12
岡田郡の縁をとり。又忰谷蔵を。世の人絹川の谷蔵と呼做し候。これも羽生村絹川堤の生れなるゆへ。かくハ申なり。扨客人角力をよくとり給はゝ。旅泊のなぐさみ。谷蔵に一ト手おしへ給へかしと云けれバ。雷ほゝ笑み。それがし親どもハ角力に名たかく。鳴神と呼ばれしもの也。某親鳴神にハおよばずといへども。槍棒眷頭居合角力。十八般の武藝。いさゝか暁し居り候。われら親子。此度ふしぎの御世話になりし上ハ。聊の御恩報じに。御子息谷蔵とのに指南申べし。与兵衛大によろこび。谷蔵はやく雷どのを師匠とたのみ申べし。谷蔵是を聞て大にはらを立。親父名もなき風来ものを引ずり込み。わが師匠などゝ」ハ。胸のわるいせんさく也。我是までやわら。劔術。すまふにいたる迄五六人の師匠をとり。今ハ一人も手にあふものなし。さるによつてわが町内に。近年狡猾の来る事なきハ。此谷蔵があるゆへならずや。雷とやら。我レと一番勝負をこゝろみ。我レあのものに負たらハ。なる程師匠とたのむべし。左なくてハ師匠とすることおもひもよらずと。けんもほろゝに云はなせバ。あるじ与兵衛。しからバ迚の事に。忰と一番取給へ。彼たとへ投ころさるゝ共。みづから好む所。いさゝかおうらみ申まじはやとく/\と云けれバ。雷是を聞て。勝負ハ時のはなれもの。無用捨ハゆるし給へと。帯くる/\と引ほどき。衣もの取て片邊に投やり。土俵の中へ」13
ゆるぎ出る。側に扣へし舩頭ども。おいらも相撲の片こぶし。絹川兄の手ハからぬ。雷でも鉄槌でも。とらぬ先からお臍が茶。若ひ衆がてんか。合点と。互に似たり四人の。茶舩の舩頭たちさはぎ。土俵の中へかけ上る。まづ一番ハ茶舩の与吉。ヤツとたつたる舩のあし。向ふのよつをとり楫やさし込棹の両腕を。ねぢ上られて。アイタゝゝ。水も溜らず素轉倒。土俵を游て迯込ンだり。跡も似たりの甚九郎。ヱイと押出す艫拍子に。ちからの有たけおしおくり。投付られてヲゝ板子。これでハゆかぬと猪牙ぶねの。三人かゝる三丁だち。乗て来るのをふみ倒し。又引ふねの引投に。汗のみちしほ。氣の引汐。はらり/\と投たるハ。」さそくのはや手に舩積の。上荷をはねるごとくにて。みなちり/\に迯うせたり。手なみハ見へたと。谷蔵が。ヱイと組付く蛙がけ。雷どこいとうけとめて。すぐに投なバ投べきを。雷心に思ひけるハ。今谷蔵をむごく投ては。親与兵衛が不興となり。世話になりたる甲斐もなし。あらたてずに投んものと。くるり/\引はづし。沈んで来るを横にうけ。さし込腕を引まはし。五六度労かし。透間を見すまし鶴之介。ヱイと一聲谷蔵が。褌をとつてねぢかへせハ。さすがの谷蔵雷に。不意をうたれて仰のけに。土俵の中へ大の字なり。谷蔵やう/\起上リ。それがし眼ありながら。かゝる豪傑を存せず。不礼のだんハまつひら御免下さる」14
べし。何とぞわが家に滞留あつて。槍棒やわら角力手。一々御指南下さるべしと。両手をつゐて申けれバ。雷も谷蔵が砂うちはらひ。土俵の上の不礼ゆるし給へと挨拶す。あるじ与兵衛大によろこび。酒さかなとり出し師弟の約をなしにける。これより鶴之介ハ。半年ばかり岡田やに滞留し。十八般の武藝。秘密を残さず。谷蔵に傳授しけれバ。谷蔵おや子大によろこび。あつく敬ひもてなしける。扨その年も師走ちかきころより。親与兵衛不斗風の心地と打伏せしが。次第に老病おもり。終に空しくなりけれバ。谷蔵が歎き。家内の愁傷。いわんかたなし。かくても有べきことならねバ。なく/\野辺のおくりをいとなみ。北〓一扁の煙とこそは」なしにける。雷つく/\おもひけるハ。我レはじめ。鎌倉の勝元とのをたのみ参らせんと思ひしに。与兵衛親子が深切の情に引かれ。思はぬ月日を過したり。今あるじ与兵衛むなしくなり。谷蔵いまだとしわかなれば。家内のおもわくもあしかるべし。とかく一ツ刻もはやく鎌くらへ立へしと。谷蔵にかくと告けれバ。谷蔵かたく止めて。今思はず父与兵衛におくれ又師匠にまて別れなバ。一日の日もおくりかね申べし。それがしも春ハそう/\。羽生村の兄与右衛門に對面いたさんと存れバ。ひらに春まて止リ給へと。詞を盡して止めけれバ。雷も谷蔵が志に引かれぜひなく暫く止リけり。
高尾舩字文第一冊終」15終
高尾舩字文第二冊
○一曲の琴柱雁の玉章を通はす
附リ 夫ハ教頭林冲が妻
是ハ御臺萩の方
其災難ハ六尺の練
○女之助過て白乕の間に入る
附リ 夫ハ禁軍豹子頭
是ハ井筒女之助
其高休ハ執権職 」
仁木左衛門直則
髭の筆にハ密書もかくべく。牙の鑿にハ國家を穿ん。夜の天井に早馬を欺き棚の塗膳に猫脚を齧る。そのなく声ハちうか不忠か憎むべししゞういわ見銀山\長喜畫」1
高尾舩字文第二冊
扨其としもくれてはやくも二月のすへになりしかバ。雷鶴之介ハ旅の調度とりとゝのへ谷蔵にわかれを告鎌倉さしてのぼりける。谷蔵今ハとゞむるに詞なく。路金十両とり出し雷におくり主管利介といふものに品川までおくらせける程なく品川の駅にいたりけれハ雷一軒の酒屋に立より。利介に酒をふるまひ又谷蔵が方へ一通の礼状をしたゝめ。これを利介に渡しけれバ利介手紙をうけとり浅草へ帰らんとせしに。さいぜん雷にふるまはれたる酒の」酔大にのぼり。只ひよろ/\と足の踏ところも定めす。道のかたはらに倒れて打ふしける。爰に谷蔵が方へつね/\穀物をつけて来る馬圍山八といふものあり。此時用事あつて芝邊へ行ける道にてかの利介酔たほれて居たりしかバ。山八ハ徳意場の伴頭利介がかく倒れて居るを見て。立よりて引起さんとせしはづみに利介がふところより一通の手紙おちたり。山八ハ無筆にて文字ハろくにしらされども。谷蔵が名と鶴之介の字をよみゑしかバ山八大によろこび。我此ころハ工面あしく小半酒ものむことならす。扨よき金の鶴之介にありつきたり此雷ハ奥州を出奔したる曲ものにて。」2 今仁木左衛門人相書をもつて詮議する時節なれバ。此手紙をもつて代官所へ訴人し。褒美の金をせしめんと。ひそかに手紙を奪ひ取。代官所へいそぎ行く。扨利介ハやう/\酒の酔さめて。かの手紙をさがすに。かいくれみへず。いかゞせんと案じくらしけるが。手紙を落したりといはゞ呵られもせん。只口上の礼をのべて。手紙の事をハいはざるにしくハなしと思案をきはめ。飛がごとくに立かへり。雷おや子か口上の礼をのべ。手紙の事ハそしらぬ顔にて居たりける。その夜もすでに夜はん過キ。所の知縣大木戸志津馬。馬方山八を先に立て。大勢の捕人を引連。谷蔵が門トの戸を破よくだけ」よと〓きけれバ。谷蔵ハ往来の生酔が酔興とこゝろへ。これを呵らんと何心なく戸を明れバ。とつたとかゝる一はん手。谷蔵ひらりと身をかはしコレ何ゆへの御手ごめと。いはせもはてず大木戸志津馬。おのれ横道もの。雷鶴之介をかくまひ置く事訴人有てよくしつたり。たとへいかほどあらがふとも。證〓の手紙あるうへハ。ぢんじやうに雷をわたすべしといふ内に。馬圍山八おとり出。さいぜん利介が酔たほれたる懐より拾ひとつたる此手紙。ナント慥な證〓であろふと呼はれハ谷蔵ハちつともさはがず。しらぬ手紙もせうことあれバぜひもなし。サア家さがしして御覧あれと落つきがほ。イヤそいつ思ひの外なる大膽もの。」3 谷蔵ともに搦めとれ。かしこまると捕人の大ぜいとつた/\とつめよせる。谷蔵短氣の若ものなれバ。傍に有合ふ天秤棒を手はやくとつて薙立れバ。さすがの大勢たまりかねむら/\ばつと迯ちつたり。此隙に谷蔵ハ主管利介をふみ倒しおのれにつくひ奴。大切の手紙を落しかゝる大事を引出す不忠もの。今打ころす奴なれども子飼よりつとめたるなじみたけ命ばかりハ助るぞと。天秤棒をとり直し背骨も折よとぶちのめし。貯へ置し金財布を首にかけ立出んとするその所へ。又引かへす捕人の大ぜい谷蔵をやるなヱゝ〈ト此所筆のぶんまはしにて|ぶたいかわると見るべし〉 ○左馬之介頼兼公の」御臺所萩の方と申せしハ細川勝元の息女にて。二八のうへも二ツ三ツ。その顔ハ西施も耻その貞節ハ不塩も及はす。殊に敷嶋の道にたつし鳥の跡ながく傳へて。ふでの道いやしからす。誠に玉に金を添たるごとき御よそほひ。頼兼公御夫婦中むつましく。鴛鴦の衾水ももらさす比翼の枕紙を隔てす。こや一對の内裏雛ころハ弥生のはしめにて。梢の花もやゝほころひ霞の衣いと引てくれはもしらぬ永き日の御つれ/\を慰んと。御庭に幔幕うち。詠にあかぬ春氣色つゝぢ。若草。てふ。柳。おほくの女中附そひて儲の席に入給ひ荻の方のたまひけるハ。けにや水に住蛙。花に鳴く鶯哥よまぬものもなしけふの慰」4 たれ/\も。此庭の花に題し。みそ一トもしを詠つらねよと。仰にみな/\短冊の。案しに心つく%\し。筆の小首をかたふくる。奥家老信夫藤馬申けるハ。拙者哥と申てハいたこぶしも不調法。たま/\の御氣はらしに。御氣つまりのおなぐさみ。わつさりと氣をかへて。御前さまの琴の一曲。かの蔡〓が緒をたちて。音色をさとる御発明。女中たちサア/\と。己が好む道へ引く。琴の唱哥も又一興と。雲井の曲へゆく鳫の。琴柱あはせて萩の方。琴のしらべもすみ渡る。梢の花に蝶ねむり。梁の塵を落す。妙手の音いろに聞居る折から。さつと吹来る〓風。コハ何事と藤馬をはじめ。おほくの女中立さはぎ。萩の方をかこひまいらせ。眼をくばるその折から。」ふしぎや吹来る風につれ。六尺あまりの白練空中より舞さがり。萩の方の御肩に落かゝり風ハ程なくしつまりぬ。人々稀有の思ひをなし。かの白練をとりあげ見れバ。十八といふ二字を書たり。藤馬是を見て壽をのへて申けるハ。天帝御臺所の御貞節をあはれみ。足利万代不易の吉瑞を下し給ふ。その故ハ此絹の長サ六尺有。六ハ則むつにして。むつの國にかたどり。十八公のときはぎ。千とせ栄ふる天のしらせ。うたがひなしと申上れバ。御臺をはじめおほくの女中。げにも賢き藤馬が判断。此上もなきめでたきためし。頼兼公に申上んと。かの白練を局沖の井に持たせ給ひ。儲の席を立給へバ。おほくの女中かしづきまいらせ。舘へ」5 帰り給ひける。扨も典膳鬼つらハ。ある日仁木左衛門をまねき。我レ頼兼を放埓堕弱の道に誘ひ。それを落度におしこめんと思へ共。頼かねとしに似合ぬ偏屈もの。其上御臺萩の方貞女にして。内外のこと一点の過りなけれバ。施へき謀なしと。困りはてたるけしきにて語りけれバ。仁木左衛門冷笑〔ひ〕諺にも女さかしくて牛賣りそこなふとやら。萩の方の賢女おそるゝに足ず。某一ツの謀をもつて。頼かね御夫婦の中を引裂。萩の方に不義の悪名をつけ。先ツ萩の方をぶつしめ。頼兼閨さひしきひとり寝のつれ/\に付ケ込み。放埓ものになさんことそれかしが掌にあり。此義とくより心つきしゆへ奥付の侍ィ渡會銀兵衛。局沖の井に謀を申ふくめ」置しうへハ。遠からずして謀成就いたすべし。その謀ハコレかやう/\と耳に口。鬼貫手を打て大によろこび。奇妙/\隨何が智。陸賈が機も。御邊が謀にハ及ばす。一ツ刻もはやく行ひ給へと云けれバ。仁木謀ハ蜜なるをよしとす。壁に耳。かならず口外御無用と。人喰馬に合詞。しめし合て立帰る。夫レより四五日過て。奥用人渡會銀兵衛。御臺萩の方の御前に出て申けるハ。此程頼兼公衣川の下舘に。あらたに御殿を立給ひ。これを衣川の山荘と名づけ。御普請すでに出来す。是によつて古今の能書をあつめ。山荘の額。又ハ腰障子にはり給はんとなり。御臺所萩の方ハ。古今に稀なる能書にましますうへ。詩哥の道に」6 たつし給へハ。此短冊にみづから御筆を染られとの仰也とて。短冊にさしそへ下書詠哥をさし出せバ。萩の方かたく御辞退あり。かゝる晴かましき古今の能書をあつめ給ふ山荘に。みづからごとき拙き筆に汚さんこと。思ひもよらず。この事に於てハ。幾たびも御辞退申べしとありけれバ銀兵衛うけ給はり。御謙退の御詞さる事にハ候へ共。むかし定家卿ハ舅大臣のもとめにまかせ。百首の古哥を書きつらね。小倉の山荘におくられし例もあり。是レ上たる人の詞にもとらぬ志なり。今御臺御辞退ある時ハ却て殿の御心にもとり。夫トをうやまふ礼義を闕給ふ同前なりと。詞を盡して申けれバ。萩の方今ハ辞するに詞なく。しからバいかやうの」哥を書て参らせんと問給へハ。銀兵衛かの下書をとり出し。この哥ハ貫之躬恒が哥にして。いづれも家の集に載たるところ。この二首を認め給へとの御事なりと。まことしやかに申上れバ。流石哥学に通じ給ひし萩の方も。いつわりとハ心付給はず。短冊にその哥を書しるし銀兵衛に渡し給へハ。銀兵衛是をうけとり早速頼兼公の御覧に入申さんと。御前を立ていそぎ行く。爰に井筒女之介といふものあり。元ハ細川勝元の小性にて。その志忠義ふかく年十六になるころまで。奥女中に立まじはり。奥小性をつとめしゆへ。男子にして女子の勤をなすにより。人々女之介と呼做はせり。萩の方御輿入の砌勝元より」7 附人となつて奥州へ来り。頼兼の近習をつとめけるが。ある日出入の道具や来リ。某ふしぎの品を買とりぬ。何か宮家の御染筆と申候が。まことよろしきものなるや。我々が眼にハ及ばず。女之介様の御目きゝをねがひたく。態々持参いたしたりと。二枚の短冊をとり出し。女之介に見せけれバ。女之介是を見るに。その名ハ誰とも定めがたけれども。その筆法いはん方なし。女之介これを見て。いづれ近来の人の手跡ならんが。いまだかゝる能書をみず我レ是を買遣すべし。價ハ何ほどなるぞや。道具やこれを聞て。もしよろしきものならバ。大金にも成べけれども。常に御用の茶器などさし上ることゆへ。欲心をはなれて」十両ならバ賣申べし。女之介ハその心風雅にして。哥の道をこのみけるゆへ。此時災の来るへき節にや。しきりに此短冊を買とらんと思ひ。その方が申十両とハあまりに高直なり。五両にまけなバ。手を打て直に金を渡すべし。道具や頭を掻て申けるハ。百両になるものかハしらねども。急に金子入用のこと候へハ。七両までにまけ申べしと云けれバ女之介かの短冊を七両に買とり。天によろこび地に歓ひ。此妙筆さつそく極を取て。家の宝になさんものと。ひたすら彼短冊を打詠誉そやしてそ居たりける
女之介あやまつて白虎の間に入る
その翌日女之介が方へ奥使の侍ィ来りて云けるハ。局沖の井どの」8
申さるゝ。女之介どのにハめづらしき短冊を所持いたされしよし。萩の方の御聞にたつし。御覧ありたきとのこと也いそぎ短冊を持参いたされ。御鈴の間まで参らるべしと述けれハ。女之介不審はれず。我短冊を買とりしハ。きのふのことなるに何ものか申て萩の方の。御聞にハたつしたるとやとうたがひなから。かの短冊をふところにして。使と共に御鈴の間にいたり。沖の井にかくと案内したりけれバ。沖の井立出て。萩の方ハ。只今殿頼かね公と御奥に御座あれバ苦しからず。いざこなたへと案内して。奥ふかくつれゆき。しばらく此所に待給へとて出行しが。しばらく有て又沖の井立出。今日頼かね公まれに御奥に」入らせられたる事なれバ。くるしからず。女之介を御前へめしつれよとの御事也。イサこなたへと先に立。なを奥の間へ伴ひしが。しばらく此所に待給へ。おつつけお目見へあるべしとて。沖の井ハから紙の外へ出にけり。此時仁木左衛門ハ頼兼の御前に出。平伏して申けるハ。ねかはくハ我君。それがしに御暇給はるへしと申ス頼兼これを聞しめし。汝ハ狂乱せしか。その方ハこれ國の執権。何罪有ていとま遣すへき道理なしとのたまへハ。仁木はら/\と涙をながし。君の御仁心に引かれ。愚臣が寸忠を申上んと存すれハ。却て肝侫のそしり有り。又これを云ざる時ハ。國家の大事とならんいふもをし。いわぬもつらき」9
暇のねがひハ。兼てかくごの命ハすてもの。左衛門が心の内御賢察下されよと。思ひこんたるその顔色。頼兼ふしんはれ給はず。その方國家の一大事あらバ。よろしくとり扱ふへき身を以て此ことをつゝみ。いとまをくれよ。命を捨んとハ子細あらんと問給へハ。仁木胸をうつて大息つき。かく御不審をかうふる上ハ。今ハ何をかつゝみ申さんと。近習の人々を遠さけ。近くよつて囁けるハ。某國家の大事と申事。よの義にあらずあさましや萩の方。いかなる天魔の見入にや。此ころ井筒女之介を御寵愛あり。ひそかに御奥に召れ淫楽にふけり給ふと女中のとりさた。賢女のきこへまします」御臺所。まつたく談者の虚談ならんと。心をつけて伺ふ所に。人の申に少しも違はす。日々玉章のとりやり或ハ哥を詠じ。詩を賦し。誰はゞからぬさよ衣。おもきが上の御身にも。かく道ならぬ不義いたづら。もし此事世上に露顕する時ハ。御家の耻辱。國家の大乱。お為を申もわか主人。罪を正すもわが主人事両端に迫りたる左衛門が心のうち。御賢察下さるべしと。涙と共に語るにぞ頼兼公も呆れはて。黙然としておはせしが。いまだ御心に疑ひ晴ず。萩の方ハ世に賢き女なりと。一家中もこれを称じ。我に對して一点の。あやまちなしと思ひしが。何とやらいぶかし。事實否を」10
糺すへしとのたまふ所へ。局沖の井立出て。我君ハ御心直にして。人もわれもみな正直とのみ思し召せど。世の中の人心。ふち瀬とかはるハ常のならひ。もし此事うろんに思し召ならバ。幸今女之助。御奥の白乕の間にて。萩の方と何やらさゝやき。何か文やら短冊やら。女之介に渡し給ひし。御入リ有て御覧あれと。誠しやかに申にぞ。頼兼公の賢者の鏡も。侫人の雲に覆はれ。いかりの顔色おもてにあらはれ。憎き不義の四足とも。イデやうすを見届んと。御座を蹴立て立給へバ。仁木沖の井御跡に付したがひ。御奥の間へいそぎ行。女之介ハ沖の井がおとづれを。二タ時ばかり待けれども。更に沙汰も」なかりけれバ。心にうたがひ。首をのはじて。奥の方をのぞき見れバ。御簾ふかく垂れて。白乕の間といふ額あり。女之介大におどろき。此白乕の間ハ萩の方の御寝所(お ね ま)にて。平人の入るべき所にあらず。われあやまつて引入られたるこそ一大事也と。急に坐を立んとする所に。後のから紙さつとひらき。殿の御入と呼はれバ。女之介ハツト仰天ふりかへれバ。うしろにすつくと頼兼公。仁木沖の井付添申シ。スハ曲ものよと呼はれバ。手ン々にかけ来る奥女中。薙刀かひこみとり巻たり。仁木左衛門こゑあららげ。不義不忠の人非人。沖の井ソレと声かけれハ。局沖の井かけよつて。」11
女之介がふところより。引出したる二枚のたんさく。頼兼公へさし上れバ。頼兼取てこれを見給ひ。いかれる顔色血をそゝぎ。御はかせに手かけ給ひ。すでに御手討と見へけれバ。仁木あはてておしとゞめ。我君の御憤りハさる事なれども。もし此所にて御手討になし給はゝ。却て渠がさいわひならん。獄屋へ入れ置糾明させ。手引一味の吟味をとげ。その根を断て葉を枯さん。とかく拙者に御任せあるべしと。用意のとり縄取出し。不義の逆賊うごくなと。女之介を取ておさへ。高手小手にいましめける。女之介ハ始終平伏して。そのゆへをしらざれバ。一言半句の問答にも及ばす。口を閉てゐたりしが。不義の逆賊といふ」を聞。仁木に向て申けるハ。某身にとつて不義不忠のおぼへなし。何ゆへ縄をかけられしぞと。いわせもはてずはつたとにらみ。おのれ大膽もの。御臺所萩の方と密通し。御寝所へ通ひ。既に萩の方の直筆のたんざくを給ひしハ。慥なるせうこ。コレその哥に「ふかゝれと思ふ心をつゝ井筒くみかねてなを袖ハぬれける。又「思ひ侘頼む心を忍ふ山覚て落ぬと人の告ずハ。とあるからハ。哥の内に頼兼の二字と。井筒の文字をよみ入しハ。わが君をそしる詞。これたしかなるせうこなりと云けれバ。女之介はじめてかれらが謀に落たると後悔し。その訳を云ひらかんとする時。より兼公御坐を立て。」12
奥の一間へ入リ給へハ。仁木ハ井筒を引立て。獄屋へこそハおくりける。かのたんざくを賣し道具やも。仁木が一味の者にして。かくはかりしとぞしられけり。扨も御臺所萩の方ハ。東御殿の楼に哥書を見ておはせしが。〓錦あはたゞしくかけ来り。今御奥白乕の間に。一大事出来りぬ。御近習井筒女之介とやらん。御臺所御直筆の短冊を。懐中し。白乕の間にいたりしゆへ。御家老仁木殿是をあやしみ。その短冊の内に。頼兼と井筒のもじをこめたる上。御臺所の御直筆と云ひ。萩の方と不義せしにうたかひなしと。女之介ハ不義の相手に極り。殿の御手討になりし共云ひ。又獄やへ引かれし共申也と」大息ついて申けれバ。御臺ハ覚への短冊に。扨ハ悪人共の謀におとされしと。御涙せきあへず。みづからいやしくも細川勝元の娘と生れ。官領頼兼の妻となり何不足有て。不義いたづらをなすべきや。此事申訳せんハ安けれども。その女之介とやら御手討になりしうへハ。死人に口なき片言にて。わが云訳ハよも立ツまじ。さるにてもあぢきなき世の中や。身に覚へなき不義におち。汚名を千とせの後にのこし。耻を父上母上に傳へ参らすかなしやと。ひたんの涙にくれ給ふかゝる所へ局沖の井立出。只今殿の御使として。渡會銀兵衛一振の短刀を持参いたし。御次の間に扣へ候と申上れ」13
バ。萩の方殿の御使猜したり。おつ付あはん待たせよと邊の人を遠ざけ給ひ。心も細き筆の軸。今消て行命毛ハ。まがらぬ墨もまがる世に。硯の水のあはれとも。神ならぬ身の行すへをこま/\と書したゝめ。〓にしきを呼給ひ。そちハ此としころ目をかけてめしつかひ心たてもしりぬれバ今大事を申付る。いかにもして此舘をしのび出鎌くらへ立越此文を父勝元へさし上よはやく/\とのたまへハ。錦ハさすが萩の方のおもき仰にせんかたも。なく/\立て出て行御臺ハ跡を打なかめヤレうれしやと吐息つき。襠の御衣めしかへて死出の用意の白小袖。口に唱名目になみだ。六尺あまりの白練を。」長押に結び首にかけなむ西方みだ如来。此世ハ讒者の呵責にくるしみ汚名を陸奥のちまたにのこすとも。未来ハ極楽上品の。蓮にみちびき給へやと。終に縊れて死し給ふ。御身の果そあはれなる時に御年十八才。是全く實方の。霊魂當家へたゝりをなし。かの白練に十八と書たりしも。御臺の御とし十八才。其白練にて縊れ給ふ。因縁誠におそろし
高尾舩字文第二冊畢」14畢
高尾船字文第三冊
○岩手山に谷蔵狼をうつ
附リ 夫レハ武松が景陽岡
是ハ奥州南部越
其勇力ハ山鳥譬
○花街の放生會に頼兼了鬟を放す
附リ 夫レハ梁山金沙灘
是ハ陸奥満又川
其悟舩ハ御注進
○荒獅子逆に大榎を抜く
附リ 夫レハ魯達が五臺山
是ハ鶴若の追鳥狩
其忠臣ハ黒龍狆 」
荒獅子男之助重宗
却テ喜フ騒人第一ト稱フ。今ニ至テ百花王ト喚做ス。
獅子口に 華も阿叫の 牡丹かな」1
高尾舩字文第三冊
絹川谷蔵ハ。おもはずも馬方山八が訴人にて。住馴し宮戸川のすまゐなりがたく。羽生村の兄与右衛門が方へ落行かんとせし所に。はや下総の方にハ追手の人数みち/\て。進むこと叶はず。是非なく道を引かへし。出羽の最上にハいさゝかのしるべ有れバ。これに便リ身をよせんと。奥州さして下リける。谷蔵此程の長旅に路銀もやがて盡んとす。斯てハ叶ふまじと。夜を日に継で急ぎけるほどに。奥州岩手の里にかゝりける。南部道を遙に見やり。小黒崎鳴子の湯を出れバ。是より出羽の」國なれバ。谷蔵やう/\心おち付。まづ酒をのみて旅のつかれをもなぐさめんと。岩手の里の酒やに立より。床几に腰をかけゝれバ。早くも酒さかなを携へ出る。谷蔵やがて五六合の酒をのみ。酔に乗してかの酒やをはしり出。道二三町行ける所に。酒やの亭主ヲヽイ/\と聲かけて。おひかけ来れバ。谷蔵立とまり。我レ酒代ハはらひしに何ゆへ追かくるぞや。亭主これを聞て。旅人ハいまだ知リ給ふまじ。此岩手山にハ近頃一ツの白狼出て。多くの旅人をくらひけるゆへ。日中と申せども此山を越る事まれ也。これによつて當所の知縣より。数十貫文の賞錢を出して。狩人に命じ給ひ。かの狼を狩らせ給へ共。此狼ハその大サ牛の」2 ことく。白斑毛の狼なれバ。中/\猟人等が手にのらず。されバこそ代官所より。此山を越る旅人に。巳午未の三時外ハゆるし給はず。いますでに七ツ下リにて申の刻過也。旅人ひらにこれより引かへして。今宵ハ我見世に一宿し給ひ。明日道つれを待合セて。山を越給へと云けれバ。谷蔵あざ笑ひ。此老爺あぢな威をいふて旅人をとゞめ。錢儲をせんとするぞや。人ハ狼を恐れんが。我レハ狼を恐れず。豈聞ずや。虎狼より漏るかこわしとハ。旅寝の野宿の雨露に打るゝ。我身の上の譬也と云けれバ。亭主大にはらを立。それがしハ一ツ扁の慈悲心を以て告申に。旅人かへつてそれがしを人おどしとし給はゞ。心まかせに行」給へと云捨。おのれが見世へ帰りける。谷蔵ハ足にまかせ。道十二三丁行けるに。山の上り口の〓の皮を削。何やらん書付て有リ。近く寄て是をみるに則。近頃岩手山に狼出て。多くの旅人を害す。昨今山を越ん旅人。巳午未の三時。二三十人の道伴を待て。此山を過るべし。その外の時刻に。一両人にて越ることを許さずと書付たり。谷蔵あざ笑ひ。かの酒やかやうの謀をもふけ。旅人をとめ。錢もうけをせんとはかるこそ憎けれと。猶五六町登りける。此時はや日ハ暮て。月山の端をてらす瀑布纎々と流れ。松風颯々と吹て。何とやらん物凄し。谷蔵思ひけるハ。不案内の夜道せんより。此所より」3 引かへし。かの酒やにとまらんと思ひしが。又酒やの亭主に笑はれん事を耻て。道をいそひで又五六町登りけるに。色よき山鳥隈笹の陰より飛出。しきりに羽ばたきをして飛ぶ事ならず。谷蔵これを見て。此鳥昼程猟人に羽を打たれ。塒をさがすと覚へたり。いで/\手とりにせんと。かの山鳥を追かけけれバ。山鳥四五間とんで又しきりに羽を打ツ。かやうにする事五六度に及び。已に捕へんとする時。かの鳥高く羽をうつて。はるかに飛うせける。谷蔵あたりをみれバ。いつしか道をふみちかへ。山に入る事五六丁なり。谷蔵大に心あはて。道をもとめて出んとする所に。山風さつと吹おろし。一疋の狼かけ出たり。その形ハ牛よりも大きく。」日輪の眼。〓月の牙。爪を蹴立。谷蔵をはつたとにらんで駈たりけり。谷蔵これを見るよりも。荷物に付たる六尺棒を。手ばやくとつてさしかざし。松の大木を楯に取て。かの狼に立向ふ。狼ハしきりに吼て谷蔵を駈たりける。谷蔵ハかねて雷に習ひ得し武藝の達人。ことに酒の酔十分にのぼりて。力日ごろに十倍せしかハ。ひらりとかはして狼のうしろにたつ。狼ハ谷蔵を駈そんじ。ふたゝび駈るを引はつし。かくのごとくする事五六度也。凡狼人をとるに。わづか一二度が内に駈て是を喰ふ。今武藝にすぐれたる谷蔵に。五六度が程駈はづされ。狼是に氣を奪れ。勢ひ大に労れけり。しかれ共年ぶる狼なれバ。猶々吼て」4 駈立る。谷蔵透を見すまし。棒をふり上。力にまかせて打けるが。狼も眼はやく。谷蔵が棒のひらめくを見るよりも。早く四足をかはしけれバ。谷蔵が棒。いたづらに松の木へ打こんで棒ハ。中より折れにける。谷蔵いらつて棒なげ捨。かの狼にむづと組み。上になり下になり。しばしが間いどみしが。眷頭角力にことなれたる谷蔵なれバ。終に狼の首をおさへてはたらかせず。狼ハ頻リにあがき迯れん/\としたりけれバ。狼の前足にて暫時に一ツの穴をほり出したり。谷蔵暗に是をよろこび。狼の口を穴の内へおしあて。左の手にて狼の首をしつかとおさへ。右の拳をふり上。狼の眉間を望んで。つゞけさまに十五六くらはしける。誠に谷蔵一身の」ちからを右のこぶしに入れ。平生ならひ覚し。やはらの手を出し。かく大力に打れたることなれバ。さすかの狼眼くらみ。終に息ハ絶にける。谷蔵狼のうごかぬを見定め。かの折たる棒をひろひとり。猶つゝけさま二三十くらはしけれハ。いよ/\狼ハ死きりぬ。谷蔵荷物をゆはへし細引をとり出し。狼の四足をゆはへ。引上んとしたりしが。その重さ磐石のごとくにて。かき上ることならず。谷蔵が力にてかつがれぬにハあらざれ共。先程より狼とたゝかひ。力大につかれけれバ。終に狼を打捨。麓を望んで下リけるに。薄のしげみより五六疋の狼欠出たり。谷蔵大におどろき。我レ今一疋の白狼をころし。力すでにつかれたるに。又々五六疋の狼にあふこと。わが命」5 爰におはるならんと。よく/\眼を定めて是を見れバ。此狼人のごとく立てありく。間ちかくなつてこれをみるに。五六人の猟人。狼の皮をかぶりこの麓にかくれゐて。かの白狼をねらふなり。猟人共谷蔵が山を越へて来たりしをふしんに思ひ。委細の訳を聞といへ共。更に誠とせす。谷蔵やがて猟人ともを伴て。狼をころしたる所へ来り。死したる狼を見せけれバ。猟人共肝をひやし。誠に是ハ人間業にあらず。かゝる狼をこぶしを以て打ころし給ふ勇力。いにしへの朝比奈篠塚もおよはずとて。早速代官所へ注進したりけれバ。代官奇異の思ひをなし。やがて谷蔵をよびよせけれバ。所の庄屋谷蔵を駕にのせ。駕の先にかの狼を。五六人」の人夫に荷はせ。代官所へ伴ひける。此ことをつたへきゝ。近在の百性。道のかたはらに立て。見物する事うんかのごとし。此事官領よりかね公の御耳にたつし。かゝる万夫不當の勇士あるこそ國のほまれなりとて谷蔵をめしかゝへ給ひ。近習格にぞなし給ふ。されバ谷蔵が勇力近國にかくれなく。又不時の立身を。うらやまぬものもなし
花街の放生會に頼かね小三板を放す
利足官領頼かね公。いともかしこき大将も。侫者の朱に染られて。山里の柳巷かよひ。高尾といへる娼妓に馴そめ給ひ。日毎に通ひ給ふといへ共。高尾ハ玉田十三郎といふ間夫ありて互にふかく云かはし。」6 天にあらバ比翼薦地にあらハ連理の枕。たがひに死なふ。死ませふと。誓を立し中垣を。頼兼の関に隔られ。思はぬ人に遠ざかり。高尾ハ明くれ。玉田がことのみ物思ひ。毎日病にかこつけて。頼兼の御心に任せねバ。思ひつのるハ恋路のならひ。侫人共がすゝめにより。さらバ高尾が身請せんと。花街に稀なる金の山。まづ高尾にハ鷹の羽の惣縫。紫の襠着せ。鷹を表する品定。三浦の〓鬟三十人。同じ出立のかきいろに。竹をぬふたる對の帯。大門の入口に放生會の籏を立。雀に做ふ禿の身請。逸物の高尾手にすへて。くるわ出るみちのくの。金花さく大々盡。扨かの禿のおや共ハ。わが子の身うけとしらせに」より。大門口につめよせて。芋賣の親子の奇縁。花うりかゝが荒神の。松にまつたる名のり合ィ。子を捨るうきよの藪も。雀を放す漂客の。御かげで子共をひらふたと。ひとり/\に請とつて。帰るよろこび。行く歓び。暫しハ爰に川竹の。竹にもまれし子雀も。流れを出る蜃の。のりうりばゞか舌切雀。おやどハどこだと戯〔れ〕て。舌打をして連て行。前代未聞のほう生會。くるはの籠を放し鳥。取らぬ鷹尾ハ氣のそれ鷹。上見ぬ鷲の頼兼に。つれてくるはを立出る。かねて用意の御ふねに。高尾もろとものせまいらせ。衣川のやかたへと。いそげバ潮も満又。川の岸の汀のあなたより。怪舩一艘こき来り。御注進と呼」7 はれバ。御供に立たる新参の。絹川谷蔵舳先に立出。氣づかはしや姉葉松兵衛。何事なるぞと尋れバ。扨も此ほど頼かね公の御放埓。昼夜をわかたぬ遊里の淫楽。此虚にのつて叔父鬼つら。仁木左衛門と心を合せ。東山へ注進す。ヶ條の第一。罪なき御臺萩の方を不義におとし。害し申せし御とがめ。又ハ忠義の士を遠ざけ。遊君高尾を身うけなし。紂王武烈の悪逆と都へはや馬。早飛脚。國家の大事と義政公。仰もおもき厳命により。山名細川の両大老。當舘へ下着あり國の老臣家中の諸士。表門にハ高てうちん。又うら門にハ人馬の出入。御帰舘の事思ひもよらず。暫くことのしつまるまで。いづ方へなりと御舟をよせ」られ。執権渡部外記宗雪を御たのみ。時節をうかゝひ給へかしと。云すてゝ引かへす。頼かね公はじめ参らせ。絹川以下の人々も。只呆たる斗なり。谷蔵申けるハ。事火急におよびしうへハ。悔むともかへりがたし。執権渡部外記宗雪ハ。忠義ふかき侍とうけ給はれバ。暫く御座舩を芝川の沖に移し。時節を待て御帰舘を催すべし。又高尾どの御同舩の事ハ。世の聞へ憚リあれバ。御召かへの舩にうつし。其舩を高尾丸と名付。此満又にとゞめ置。舩中の御氣はらし。折々此所へかよひ給はゞ。御たのしみも莫大ならんと。申上れバ頼かね公。我若氣のあやまりにて。侫人ばらが陥穴におち入ツて。國有れども帰りがたく。家あれ共帰りがたし。君ハ舟」8 なり臣は水なり。舟はたゞよふ頼かねを。絹川の水濟へよや。今こそおもひあたりしぞや。かの西海にたゞよひし。平家の末もかくやらんと。八嶋のうたひを口すさむ。げに官領のふところ子。御身の果ぞあはれなる。谷蔵さつそくめしかへの。高尾丸に高尾をうつしのせ。頼かね公に申上けるハ。幸ひ高尾の母ハ。此近邊に住居いたすよし。ほのかにうけ給はりおよべハ。今日よりかの老母を高尾丸の舩中によびむかへ。高尾どのに付置。君ハ芝川の沖へ御舟をとゞめ。渡辺外記が方へ御使を立られ。ひたすら御帰舘の儀を。御たのみ仰つかはされ然るべしと申にぞ。頼かね公聞たまひ。谷蔵よきにはからふべし。君となり。臣となり。敵となり。味方」となる。うき世ハしゆらのちまたぞや。{トよりかね|うたひ }けふのしゆらのかたきハ誰そ。何能登のかみのりつねとや。あらもの/\し手なみはしりぬ。うたひもしゆらのかたき同士。たか尾を爰に沖の方。御舩をはやめ行給ふ。
荒獅子逆さまに大榎をぬく
扨も官領よりかね公。御身持放埓にまし/\。ことに此ほど御行衛さだかならねバ。御妾腹のわか君鶴わか丸。當年八歳になり給ふを。御家督と定め奉り。是ぞ二代の官領職。ころハ八月末つかた。渡會銀兵衛がすゝめにより。此ほど御氣はらしと。信夫」
のやかたの追鳥かり。此御殿ハ土地ひろく。山も有り川もあり。十町の築山。一里の原。薄尾花ハ風にうなづき。萩も野きくもうなだれて。君をうやまふその風情。鶴わか丸鷹を手にすへ給ひ。〓や鶉やひへ鳥の。獲物を竹にくゝし付ケ。御きげんなゝめならざりけり。折ふし鶴若御ひさうの鷹それて。榎の木の梢にかゝりけれバ。御近習の諸士立さはぎ。梯子よ棹よとあせれども。五六丈の大ゑの木。およばぬ月にゑんかうの。梢をにらむばかりなり。近習かしら荒獅子男之介。諸士を追のけて申けるハ。扨々役に足らさる若との原。イデ/\其木を根こぎにして。鷹をとらへ申べしと。大小とつて後にたばさみ。」両のはだおしぬひで。朱よりもあかき骸をあらはし。一かゝへ有る大榎根もとにしつかと両手をかけ。ヱイとふみ込ムちから足。一ト振リふるとみへけるが。さすがの大木根よりぬけ。根もとにほらをなしにける。御側の人々是を見て。扨も稀有の大力やと。しばしハ鳴りも止ざりけり。男之助やがてかのゑの木を横にため。梢にからみし翦鷹を。何の苦もなくとらへしかバ。鶴わか御きげんうるはしく。ソレ/\銀兵衛。男之助にほうびとらせよとの給へハ。渡會銀兵衛偏提の吸筒携へ出。是ハこれ寿老酒とて。命をのぶる希代の名酒。今日若君にさし上んとぞんじ。持参いたしたれど。荒獅子とのゝ只今の働き。御ほうびに下さるゝ。ありがたく」10
頂戴あれと。大盃をさし出せバ。荒獅子盃をとつておしいたゞき。則盃を下に置て申けるハ。有がたき幼君のたまもの。しかし幼君を守り奉る男之介。御酒ハ御免下さるべし。銀兵衛是を見て。たとへ幼君の補佐たりとも。わづか一盃の酒に酔給ふ。荒獅子とのにあらず。せつかく幼君より下さるゝ御ほうび。ひらに一盃頂戴あれと。いへ共荒獅子かぶりをふり。酒の義ハいく重にも御ゆるしに預るべしと辞退すれハ。鶴若君。男之介酒たへよと。おもき仰にぜひなくも。なみ/\うける盃を。おしいたゞひてのみほせバ。姆の政岡これをみて。手に汗にぎるばかり也。ふし義なるかな男之介。俄に」手足癡麻。口中より涎をながし。はたらくものハ眼ばかり。政岡おどろき幼君を。抱参らするそのおりから。俄に北風はげしく吹き。薄の中より火おこりて。幼君の御座ちかく燔来れバ。銀兵衛わざと驚轉し。是ハ下部がたばこの火。枯芝にもえ付たりと。覚へたり。イサ火を消さん若とのばら。我につゝひて参られよと一ツさんにかけ出せバ。跡に引そひ若侍。火をしづめんと追々に。御前を立て走リ行。時に悪風さかんにして。幼君の御坐まぢかく。炎を吹立もへ来れハ。政岡ハ鶴若を抱きまいらせ。涙をはら/\とながして申けるハ。悪人ばらの謀におとされ。頼に思ふ男之介ハ。蒙汗」11
薬の毒にあたり。手足しひれて死人のごとく。殊に猛火四方にちれバ。迯出る道もなし。扨世の中ハあぢきなや。五十四郡の御あるじ関八州の官領も御運つたなくまし/\て。悪人ばらの手におちて。ほのほの中にはて給ふか。御父頼兼公ハ。高尾といへるけいせいゆへ。御身をあやめ。其わか君ハ鷹がりにて。御身をはたし給ふ事。それも高。是も鷹いかなる前世のむくひぞやと。又さめ/\となげきける。爰に鶴わか丸つねにやしなひ飼給ふ。黒龍といふ狆ありしが。いづくよりか来りけん。一さんにかけ来たり。流るゝ清水を身にあみて。幼君の御そばなる。草のうへにそゝぎかけ。又立かへつて身をひたし。荒獅子が顔へ水をそゝぎ。かけてハかへり。帰り」てはかけ。かくのごとくする事五六十度。政岡ふしぎの思ひをなし。かの狆がやうすを見る所に。後にハ狆の身もつかれ。七八十度かけ帰り。おのれと狆の精きれて。草むらに倒れ死にけり。此時荒獅子やう/\と蒙汗薬の毒気醒め。むつくと起てあたりをみれハ。猛火さかんにもへ来る。荒獅子/\のいかりをなし。幼君を左リにいだき。右の手に刀をぬき。炎をにらんて立たりしハ。これぞゆるかぬ日本武。生不動ともいつゝべし。勇士の怒リにおそれしにや。暫時のうちに風かはり。火ハあとへ/\ともへしさり。一すじの道をひらきしかバ。政岡荒獅子ふしぎに乕口の」12
難をのがれ幼君をかしづき奉り。舘へこそハ立かへる。誠に荒獅子が抜たる刀ハ。幼君の御守リ刀にして。源家重代の名剱。雲霧と名付。平家の火徳を切なびけし宝剱なり。ことさら黒龍の狆が忠死。荒獅子が勇力。政岡が義心。かゝる天の助有幼君。生さきさかへ給はん事うたがひなしと。忠臣ひそかによろこびけり。鶴わか君ハかの狆が忠死をあはれみ。人間の礼をもつて。あつく葬り給ひけり。
高尾舩字文第三冊畢」(白)」13
高尾舩字文第四冊
○頼兼怒て高尾を殺す
附リ 夫レハ山東宋公明
是ハ関東官領職
其閨中ハ密書禍
○龍勢乕の尾花火を戦はす
夫レハ絹川が黒旋風
是ハ宗重が白浪裡
其水練ハ忠義源 」
足利頼兼
千回鏡ヲ覧テ千回ノ涙 一度欄ニ〓テ一度愁
娼妓高尾
化野や人の心の鬼の名を かくして笑る姫百合の花」1
高尾舩字文第四冊
かくて頼かね公ハ柴川の沖に御舩をおろし。渡辺外記が方へ御帰舘の事をたのみ遣し給ふ。外記ハ忠義の侍なれバ。何卒折をうかゞひ。頼かねを迎へ奉らんと。折々密書を以て。御心をなくさめける。扨も三浦の高尾ハ。頼かねにうけ出され。満又の舩中に有といへども。心ハ玉田十三郎をしたひ。頼かねを嫌ひ奉り。その情甚た疎かりしかバ。よりかね公も。後にハ高尾がそぶりを猜し給ひ。此ほどハ一ト月あまりも通ひ給はず。高尾が母ハ。もみぢ婆と渾名をとりし溌女にて。元トハ藝子の」ながれなれハ巧言を以て頼かねをすかし。おのれら親子か口をぬらさんと思ひ。折/\高尾をすゝめ頼かねをむかへなぐさめける。頃ハ六月半はニて。頼兼公柴川の沖に。ひとりやかたの事のみあんじわづらひ居給ひしが。忽ち怪舩一艘こぎ来り。渡部が蜜書をさし上けれバ。頼かね封おし切リ。是を見んとし給ふ所へ。高尾が母。小ふねにのつて満又より。柴川の御座舩へまいりけれバ。頼かね急にその密書を。ふところへかくし給ふもみちはゞ頼かねの御前へ出て申けるハ殿さまにハ此ほどいかなる御たのしみ出来て。かく満又へハかよひ給はざるや娘高尾ハ只殿の御事のみ。恋したひ奉り。明くれ物あんしに。此ほどハ食も」2 すゝます。もし四五日もかよひ給はずハ。娘ハ病死にや死申さん。かく迄娘が慕ひ奉る。恩愛の情を思し召ものならハ。只今より此小ふねに召され。満又へ御入有て。高尾が心をもなぐさめ。又一ツにハ殿の御欝気をもはらし給へかしと。詞をつくして申けれバ。頼かね公聞しめされ。われ此ほどハ何とやらん氣ぶんむづかしく。心おもしろからねバ。汝が方へも通はず。近日心よくハ早々行べきに。まづ今日ハかへるべし。楓婆から/\と打笑殿の御気分あしきこそさいわひなれ。此御坐舩の御気つまり。御心労のみあれバこそ。かく御気色もわるからめ。満又の浦ハ舩人の出入多く。網打舟。貝とる子供。夜ハ涼の舟もよひ。所かはれハ柴川の。」沖にまさつた御なくさみ。ぜひ御入とすゝめ申せバ。谷蔵も此間より。もしや頼かねの御病氣も出やせんと。心をくるしめる時節なれバ。何かな御氣はらしをさせ申さんと思ひ。高尾の母。かくまで申上る事なれば。格別の御なぐさみハなくとも。今宵ハ満又へ御通ひあれかしと申にぞ。人の氣にさからひ給はぬ寛仁の大将。其方共かく迄詞をつくすうへハ。心にハすゝまねとも。しばしが内なりとも行べしと。すぐにかの小舩に召され。絹川を御供にて。満又川へ行給ふ。御舩すでに満又に着けれバ。かの高尾丸にうつし参らせ。谷蔵ハ次の間に入ツてやすみける。もみち婆こゑを高め。高尾ハいづくにぞや。そちが恋人の来リ給ふに。はやく」3 あひ申せと呼はりけり。此時高尾ハ。舟の二階にひとりうつ/\と。十三郎が事を思ひつゞけてゐたりしが。今母の恋人の来り給ひしと云しを聞。もし十三郎の来りしにやと。あはたゞしく二階を下り。はしこの中段より下を見れバ。頼かね公母とならんで坐し給ふ。高尾是を見て。あはたゞしく又二階へかけ上り。夜着引かつぎふしにける。楓ばゝ又呼はりけるハ。そちが恋人の来り給ふに。何とてはやく出迎へ申さぬぞや。高尾是を聞て。二階のうへより。わが身けふハ心あしけれバ迎へ申さず。その人定て足の有べけれバ。二階へ上り給ふ事のならぬ事ハあるまじとこたへける。頼かね公此一言を聞。心に怒り給へとも。いやしき」流れの身。かゝる雑言ハつねの事ならんと。聞かぬふりしておはします。もみぢばゝから/\と打わらひ。娘高尾此ほど殿の御通ひなきを恨み。かゝる詞を申ならん。まづ二階へ御上リ遊ばせと。頼かねの御手をとり。二階へともなひ奉る。頼かねハ心すまぬ御顔にて。床はしらによりそひ。沖の方を詠め給へハ。高尾ハ頼かねをうしろにして。夜着にもたれ。ためいきをつく斗なり。もみぢばゝ此体を見て。酒なくてハ情を引く事有まじと。兼て用意の酒さかなを携へ出。盃をとつてより兼にすゝめ申。頼かねハこれ関東の官領。白はぶたへの上人物なれバ。この盃を辞退し給ふ事もなく。盃をとつてほし給へハ。婆又高尾に」4 すゝめける。高尾心に思ひけるハ我レハ何とぞ。十三郎どのに添ふとこそ思ひしに。此すかぬ男にうけ出されたるこそうらめしけれ。たとへいかやうになる迚も。今宵頼かねと。一ツにハ寝まじきものをと。盃をかつちりうけてさし出せバ。婆又より兼にすゝめ申ス。頼かね又一盃ほし給へバ。婆々又高尾にさす。高尾ハいかにもして。頼かねを酔伏させ。こよひハ心よくひとり寝んと思ひ。少し顔色をやはらげ。盃に半ぶんほどうけて頼かねにさす。かやうにする事。六七度に及ひけれバ。頼かね心にすまぬ酒をのみ。大に酔ひ給ひけるけしきなれバ。もみぢ婆々盃をおさめ。高尾に向て云けるハ。高尾いつまで殿を」恨み奉るぞや。此ほど殿の御通ひなきを。はら立るハ尤なれ共。もはや御入あるうへハ。きげんを直し。殿の御心をもなぐさめ申せよ。扨も思ふ中の恋いさかひと。譬のふしもおかしやと。琴碁盤哥書など枕元に直し置。こよひハ久しふりの御かよひぢ。御きげんよくかたらひ給へと。楓ばゝハ下屋へ下り。絹川にも酒をすゝめ。おのれが閨にやすみける。高尾ハそのまゝ夜着にもたれてふしけれバ。頼かね此やうすを御覧じ。高尾が寝入たる内。帰らんと思ひ給ひしが。かの楓ばゝ。頼かねの帰り給はん事をおそれ。二階口の戸に錠をおろして置けれバ。頼兼公下へ下り給ふ事叶はず。此時酒の」5 酔いよ/\のぼりて。席にたへかね給へハ。いたはしや頼かね公。双六盤を枕にし給ひ。御かいまきもめし給はず。そのまゝそこに御寝なる。高尾ハひそかに此体を見て。舌を出してあざわらひける。その夜もすでにふけわたり。頼かね公寝かへりをし給ふはづみにかの渡辺が密書。ふところよりあらはれ出たり。高尾ハさいせんよりね入らずして居たりしが。頼かねの懐中より。何か手紙のおちたるを見付。長き煙管をのばしてかきよせ。ひらひて是を見るに。仁木鬼貫が悪逆。いち/\に書しるし其うへ鬼貫山名宗全としたしみあれバ。東山へ讒言し。鬼貫に官領職を授んとはかる。是に」よつて御帰舘の事。しばらく時節を待給へと書たりける。高尾そのわけハくわしくしらね共。十三郎とそふべき手がゝり共ならんと。是を取て懐中し。もとのことくに伏しにける。はや七ツの鐘も聞へ。頼かねやう/\酒の酔さめて。起上り給ひ。ふところをさがし給ふに。かの密書なし。頼かね大にあはて給ひ。あたりを尋給へ共。かいくれ見へず。ぜひなく高尾をゆりおこしての給ひけるハ。いかに高尾。その方わが懐中に有し手紙ハしらざりしやと問給へハ。高尾ハはじめて目の覚たる体にもてなし。偽て云けるハ。いつの世。いつの時に。われらに文をおくり給ひしぞさやうにやさしき人ならバよけれ共。世の中にハ情を」6 しらぬ不男も多きものをとこたへける.いやとよわが懐中に有し手紙也.その方におくりし玉つさにあらす.高尾是を聞て.忽ち玉のごとき顔を赤め.〓のごとき眉を上.花のごとき唇をひるかへし.声を高めて云けるハ.わか身いやしき流の身ハなしたれ共.人のものを盗し事ハなきに.何とて盗人とハのたまひけるそや.頼かね公.はや高尾か密書をかくしたる事を悟給ひ.心の内にハいかり給へ共.ことはをやわらけ.我あやまつて.その方を疎んじたる事.今さら後悔す.以来いかやうののそみにても叶へつかはさんにその手紙を我にかへせよ.高尾ハ.頼かねのしきりに手紙をもとめ給ふをみて.是ハ何さま」大切の品と見へたり.よきものをとりけると.心によろこび.なるほと手紙ハ.わが身のふところにあり.しかれ共一ツのねかひを叶へずハ.かへし参らする事なるまじ.頼かね何か扨.一ツハ扨置.千万のねかひなり共叶へつかはさん.はやく手紙をかへせ.高尾是を聞て打笑ひ.わが身くるはにありし時玉田十三郎といふ人にふかく云かはせしが.今より後.わか身を十三様ンにそはせそのうへわか身と.十三さんの衣食何にてもことのかけさるやうに扶持し給はゝ.此手紙を返し申さん.頼かねのたまひけるハ.これいたつてやすきねがひ也.その方を今日より玉田とやらが妻となし.生涯心まかせに扶持をつかはすへしまつ早く」7 その手紙をかへせ高尾あざわらひ。かく我をだまして。手紙を取んとし給へ共。わが身多くの客になれて。さやうの偽ハつねのことなり。何しに誠と思ふべきや。十三さんと夫婦になりし後。此手紙を返し申さん。頼かねの給ひけるハ。我ハこれ奥州の大守。関八州の官領さやうの偽をいふ下賤にあらず。ひらに手紙をかへしあたへよ。高尾是を聞て。いかやうにの給ふとも。十三さんにそはぬうちハ。此手紙をかへす事ハ叶ふまじと。手紙をひしと抱てふしければ。頼かねハ密書をとらんと。高尾が懐中へ手を入給へバ。高尾ハ密書を渡さじと。たがひに押つおし合ふはづみ。御刀かけ倒れて。頼かねの」御はかせ鞘はしりて。五六寸ぬけ出たり高尾ハ是を見てわつと叫び。人殺しよと呼はりけり。頼かねハ今高尾が。人ころしと叫ふ声を聞て。忽ち高尾を殺さんと思ふ一念発り。終に左リの手に。高尾が長きみどりの黒髪をくる/\と巻。右の手に刀を抜もち。怒の顔色血を〔を〕そゝぎ。おのれ憎き傀儡め。恋なれハこそ頼かねも。宵よりの悪口雑言。聞かぬふりしてゆるせしぞや。さほど玉田に添たくハナゼうけ出されて夫婦にならぬ。大事の蜜書を奪ひし女。あく迄我につらかりし。報ひのほどを思ひしらせんと。氷のごとき刃を抜もち。玉のやうなる高尾が胸元。ふねの横まど」8 おしひらき。欄干におしあてゝ。只一ト刀に切給へバ。むねより上ハ頼かねの御手にのこり。腰ハふち瀬のみくづとなり。流れながるゝ流の果。むざんなりける次第也。此物音に打おどろき。絹川谷蔵。もみぢばゝ。二階の上へかけ上れバ。頼かねハ血にそみし。御はかせを手に提給ひ。谷蔵におし拭はせ。楓ばゝにのたまひけるハ。其方が娘高尾。我に對して不礼せしゆへ手討にす。願ひあらバ申べしとのたまへバ。ばゝハ両眼になみだをうかめ。娘高尾不所存にて。殿の御心にさからひ。御手討になりしハ。まだしも娘がさいわひ。御うらみ申心ハなけれど。世にかなしきハ。わたくしが身の上。一生かゝらふ世話せふと。末をたのみしむすめに」おくれ。翌をもしらぬ老の身の。たつきハ何といたさんと。悲嘆のなみだせきあへず。頼かねも不便のことに思しめし。そちが身の上氣遣ひすな我やかたへ帰りなバ。その方に扶持をつかはし。生涯やすくくらさせん。まづ高尾が弔ひ料。絹川よきにはからへと。悠々として立出給へバ。母ハなみだに頼かねの。情をおがむ西の空。ひかしのそらも明はなれ。明なバいつか人も見ん。いそふれ絹川。おかへりと。元トの小ふねに召給ひ。柴川へ帰り給ひける。
龍勢乕の尾龍火をたゝかわす
扨も光陰射る矢のごとく。早くも高尾が初七日になりしかバ。楓婆」9
ハ柴川の御舩に参り。扨も娘高尾あへなくなり。程なく今日ハ初七日にあたり候。おそれ多きことながら。かりそめながら御寝間のお伽にも侍り。露のお情もうけし高尾なれバ。あはれ今日此小舟にめされ。満又へ御入有らバ。万僧の供養にまさりて。官領の御高恩を亡魂もよろこひ申べし。いやしきものゝ志をすて給はずハ。御ふねをうつし給へかしと。詞をつくして申けれバ。頼かねも。かく娘を殺されて。いさゝか恨むけしきなき。老女が義心をかんじ給ひ。かの小ふねにめされ。絹川を御供にて。満又の高尾丸に入給へハ。かねてまふけの酒肴いろ/\もてなし奉り。もみぢ婆盃をとつて申けるハ。娘高尾が不所存」にて。御心にそむきしハ。自業自得。天魔の障化と申べし。去リながら高尾世に有りて。君の御寵愛もかはらずハ。官領のおもひ人と。多くの人にかしづかれ。百年の後。追善供養も。万巻の誦經に耳を轟すべきに。高尾ハあへなき命をおとし。君ハ舩中に御漂泊。定めなき世のならひ。此舩の高尾丸も。名のみに残る娘が記念。今宵手向の香花と。おもへバ思ふ沖の花火。御なぐさみに御覧あれと。舩べりの障子おしひらけバ。実海上にみちのくの。満又川の夕げしき。いろ/\花火燈りける。千里をはしる乕の尾有れバ。雨雲おこす龍勢あり。水のともへの」10
眉間尺。手車。手ぼたん。夕がほの。やともほたるの水に火ハ。十二因縁それならで。十二てうちんなき玉の。玉火も果ハ鳥部野の。けふりと斗立つゞく。手向の花火はなやかに。人々興に入給ふ。時にふしぎや沖の方。はつと消たる花火の相圖。たちまち聞ゆる貝鐘太鼓。絹川舳先にツヽ立上り。アラおびたゝしき寄手の勢。御舟を目がけとり巻くと覚へたり。イテ一ふせきと身こしらへ。頼かねはるかに沖の方を御覧あり。かく武運に盡たる頼かねが。最期の思ひ出はな/\しく討死せん。察する所高尾が母。娘が仇を報ぜんと。鬼貫仁木へ手引なし。我を引込むはかりこと。」絹川ソレとのたまへバ。谷蔵すかさずとびかゝつて。楓婆がゑり首つかみ。川へざんぶと投込めハ。折もよし楓婆。そばに繋し小舟の中へ。まつさかさまになげ込れ。怪我の高名是幸と。艫をおし立て迯て行く。次第に近よる寄手の舟。御舩目かけ詰よせる。され共剛気の絹川におそれしにや。只遠矢にぞ射たりける。頼かね公ハ雨あられとふりくる矢を。刀をぬひてはらひのけ/\。こゝをせんどゝふせぎ給へバ。谷蔵ハ左リに板子の楯を持。右の手に棹をさし。御舩をおしけれども。名におふ高尾の大舩なれバ。進退自由ならずして。心をあせる汀の方。釣する海士の小舩有。」11
谷蔵よろこび。大音聲にて呼はりけるハ。のう/\そのふねに便舩せん。こと急なれバやうすを語るにいとまなし。事鎮まらハ褒美ハのぞみにまかせんと。声をはかりに呼はれども。釣人ハ見向もせず。釣に餘念もなかりけり。谷蔵大にはらを立。是ほどに呼立るに。おのれハ唖か聾か。よし/\此うへハ仕やうありと。矢をふせきてハ舩を押。かの釣ふねに近よる事。其間わづか七八間になりし時。谷蔵武藝の手練を出し。足を一そくに縮め。身をおどらせ。はるか隔る釣ぶねへ。真一文字にとび込だり。かの釣人大に怒り。おのれ人の夜釣する邪广ひろぐ。水のませんと打てかゝれば。」谷蔵ハものをもいはず。かの釣人にむんずと組む。渠もしれもの引はづし。別れてハ組み。くんでハ別れ。後にハ互に組合ながら。水中へざんぶと落。猶水中にていどみ合ふ。谷蔵ハ。その色墨よりも黒く。かの釣人ハ。その色朱よりも赤し。両人の勇士水中にたゝかふ事。海上の〓崘人。珊瑚樹を取らんとするにことならず。或ハかくれ。或ハあらはれ。彼水牛のちからに押せバ。此彪乕の水を渡る勢ひあり。いづれもおとらぬ。勇士と勇士。勝負もはてず見へにける。水に映する敵の松明。頼かねはるかに御覧あり。ヤア/\谷蔵はやまるな。今水中に戦ふものハ。男之介にハあらざるやと。声かけ給へバ釣人ハ。」12
谷蔵をふりはなし。御舩のへりに游付。頭をさげて申けるハ。もみぢばゝか訴人によつて。鬼貫仁木の逆臣。君を討奉らんとのそうだん。聞とひとしく。某彼等先へ廻り釣人に身をやつし。其様子を伺ふ所に。あれなる新参の谷蔵とやら。いまだ其面を存ぜず。敵か味方か。心底はかりがたく。思はぬ同士討。しかし遖若もの。末たのもしゝと申所へ。谷蔵も游付。某眼有なから。荒獅子どのゝ豪傑を存ぜず。只今の不礼ゆるし給へと申ける。荒獅子申けるハ。某かくてあるからハ。もはや氣遣ひ少もなし。かの悪人のもみぢばゝも。某とくに是をいましめ。舩底に打込置たり。某こゝにふみとゞまり。寄手のやつはらみなころしにいたさんに。」谷蔵ハ此小ふねに頼かね公をのせ奉り。金花山の水塞にいたられよ。かの金花山ハ山高くして。前に蒼々たる海をひかへ。海陸のかけ引自由なり。殊に足利忠義の士義をむすひ誓をたて。悪人ばらを打ころさんと。専ら君の御行衛を尋るよし承る。といふ内に。間近くすゝむ敵の先手。荒獅子獅子のいかりをなし。数百斤の大碇を。かろ/\とふり廻し。寄手の大勢薙たをし。みな水中へ打込ンだり。此ひまに谷蔵ハ。頼かね公を小舟にうつし奉り。艫をおし立て漕出す。板子の下よりもみぢ姿。そろり/\と這出る。谷蔵手はやく引つかみ。川へ打込水煙。闇をかきわけいそぎ行。
高尾舩字文第四冊畢」13終
高尾舩字文第五冊
○闍奢待の下駄蒙汗薬を解く
附リ 夫レハ孟州張青が舗
是ハ浮世渡平が栖
其口論ハ暖簾〓
○信夫舘に仁木鼠を走らす
附リ 夫レハ雲龍公孫勝
是ハ仁木毒鼠の術
其板縁ハ勇士〓
○都鳥の一軸勝元を説く
附リ 夫レハ宋朝赦免状
是ハ一味連判帳
其太平ハ政岡功 」
〓娘政岡
直なる御代の國につかへて。忠臣烈女のふしをたがへず。稚き此君の傍にはべりて孟宗王氏のむかしに耻ず。その枝ハ杖となして老をもたすくべく。そのみハ簾となつて色をもかくすべしいづれの藪の竹の子なるぞ賢なる哉やアヽこの竹婦人」1
高尾舩字文第五冊
頼兼ハ虎口の難を遁れ給ひ。今日橋の辺迄落延給ふ。此所ハ東海の街道なり。既に長橋にいたり給ふ頃。夜ハほの/\と明にけり。爰に一軒の酒屋やうやく戸を明て。湯豆腐の下を焚つけてゐたりしかバ。絹川ハ頼かね公。宵よりの御つかれ。ことに手足の汚れたるをも濯がせ申さんと。此居酒やに立より。頼かね公を床几に直し奉れバ。小厮出て。客人酒ハ何ほどつぎ申べきや。ゆとうふも今出来たてなりといふ。谷蔵是を聞て。ィャ/\われ/\ハ酒をのむ客にあらず。」只盥に湯をくみ。又ゆとうふの湯あつくハ。茶わんへくみて。はやく出せと云けれバ。小厮面をふくらかし。此あぶら虫。酒ハかはずして。ゆをかわかさんとするやとて。既に銅壺の湯をくみて。出さんとする所へ。此家のあるじと見へ。頭ハ糸鬢に剃さげ。刷毛ハ黒豆のごとくちいさく。髭ハ頬へかゝりて青く。身の丈六尺ばかりなるが。大縞の浴衣を着。腰に真田の帯を結び。肌に紺ちりめんの褌をして。半ゆかたの脇よりあらはし。其としハ三十五六ばかりなるが。手に一本のやうじを持て。見世の正面に立出。此体をみて云けるハ。我カ見世ハ湯屋にあらず。客人酒ハかわずして。湯をもとめ給ふや。谷蔵これ」2 を聞て。我レ湯を所望するといへ共。其價をはらはんに。何とてかく吟味するぞや。かの男から/\打わらひ。わが店にていまだ湯を賣たる例なし。これ今日の朝ハ。一年の元日也。商人ハみなその見徳をいわふて。朝ゑびすの福をいのる。しかるに商賣の酒ハかはずして。湯をもらはんとするハ。忌々しきことにあらずや。頼かね聞し召。あるじの申所尤なり。酒をも買遣すべきに。まづ湯を持参れとて。やがて盥の湯にて。手足の穢たるを洗ひ給ひ。又かの湯とうふのさゆをのみて。咽をうるほし。しばし労れを休め給ふ。扨小廝ハ。酒五合にとうふ二皿たづさへ出。頼かね絹川が前にさし置けり。」頼かねハ是五十四ぐんの太守。なんぞ居酒やの酒をのみ。湯とうふをめし上らんやあるじ此体を見て。我店の酒ハ一ツ本ン生にして。歴々といへども是を称給ふ。客人はやく一盞をくみ給へ。頼かね公彼等に身のうへを。悟られん事を恐れ給ひ。盃を取ていたづらに口へあてゝ。のむまねをし給ひ。かの盃を絹川へさして。その方夜前の労をもなぐさめ。一盞くむべしとのたまひけれバ。谷蔵も夜前の働にて。口中ことの外乾けれバ。頼かね公の御意を幸ひ。ひたすら五六合呑ほしける。此時かのあるじ暗によろこび。此ものわが謀におち入て。蒙汗薬の入たる酒を呑たれハ。おつつけ倒るゝこと明らか也。頼かねハのみしや。」3 のまざるや。しかとハ知れざれども。頼かねハ花奢風流の艶男なれハ打ころす共安かるべしと思ひ。忽ち手を打て。おすまふはやく倒よと云ける時。谷蔵口中より涎をながし。全身〓痿て。床几よりころび落て倒れけれバ。かの男はやくもとんでおり。頼かねの肩をおさへて罵りけるハ。我レなんぢらを此所にて待事久し。今我に三ツの福徳あり。われ今なんぢ両人を打ころし。その身の皮をはぐべし。是一ツの福也。又玉田が為に高尾が仇をむくふ時ハ。玉田か方より賞銭をもらふべし。これ二ツの福也。汝が首を仁木鬼つらへさし上なバ我忽ち立身して。極上々の侍となるべし。是三ツの福也。いま此」三ツの福徳ある頼兼なれバ。我此所にてころす也。頼かね公ハいかにもして迯れんと思し召。その方ハ是何ものなるぞ。我に對して仇もなく恨もなし。其方福徳をねがはゞ。われ志を得てやかたへ帰るの後。おもくとり上てめし仕ふべし。かの男から/\と打笑ひ。汝官領の宿なしにして。我をとり上る事のなるべきや。我レを是誰とかおもふ。閻魔大王の子ぶん。五道冥官の令子。浮世戸平といふ豪傑ものなり。汝いかやうにあがく共。嚢裡の鼠羅中の鳥。にげ出る所なし。観念せよと打てかゝる。頼かね是を見給ひ。おのれ下郎の分として。推参なりと切付給へハ。剛気の戸平ことともせず。うしろへくゝり」4 前へ出。しばしが間いどみしが。頼かねハ夜前おほくの追手を防ぎ。御身すでにつかれ。ことに九重の楼門に。人となり給ふ御身なれバ。何ぞ剛気の戸平におよび給はんや。しかれともさそくの手者にてましませば。付ケ入/\たゝかひ給ふ。戸平いらつて大に吼リ。右のこぶしをつよくふり上ケ。頼かねの御刀を。何の苦もなく打おとす。頼かね公急に表の廣みへ出て。猶たゝかはんとし給ふ所を。戸平ゆとうふの下にもへ立たる。焚さしの真木をもつて。頼かね公をさん%\にうつ。其火既に頼かねの御衣服にちりかゝり。すでにあやふく見へ給へハ。頼かね御さしそへをぬき給ふひまもなく。履なれ給ひし下駄を以て。もえさしの真木を」請とめ給へハ。はやくもその火。その下駄にもえ付くとひとしく。異香頻にくんじ。四方ふん/\と匂ひける。ふしぎなるかな此香気。谷蔵が鼻の中へ入るとひとしく。蒙汁薬の毒氣忽ちさめて。手足自由に働きけれバ。此体を見て。大におどろき。浮世戸平に飛でかゝる。戸平谷蔵が働くを見て。大にあわて。頼かねをすてゝ谷蔵に向はんとする所を。頼かね落たる刀をとつて。戸平が胴はらをゑぐり給へバ。さすがの戸平も息たへたり。此戸平ハ古今のわるものにて。かく酒の中へ蒙汗薬を入てハ旅人にのませ。衣服金銀を剥とり。又やゝもすれハ喧〓仕出し。多くの人をあやめしとかや。今頼かね」5 此家に来り給ふを見て。是をころさんとはかり。終にころされけるとなり。頼かねのはき給ひし下駄ハ。蘭奢待といふ名木にて。よし政公是を柴舩と名付ケ。秘蔵ありしが。此伽羅を頼かねに譲り給ふ。頼かね御身もち放埓なるにより。侫人ともすゝめ奉りて。一足の下駄に刻み。晋の文公が足下の履にひとしく。常にはきなれ給ひしとなり。薬物の毒を解すこと。その品多しといへとも。とりわけ沈香ハ人氣を利し。酒毒をさますの名薬なれハ。らんじやたいの匂ひ谷蔵が鼻へ入て。しびれ薬の毒氣さめたるもことはり也。此時酒やの小ものも此そうどうにおそれ。いづくへか行けん。さいぜんより」かげもかたちも見へず。誰有て頼兼を。さゝへ申ものもなけれバ。頼かねハふしぎに。ふたゝびあやふき難をのがれ。金花山へと落給ふ。
信夫のやかたに仁木鼠をはしらす
渡辺外記宗雪ハ。忠義あつき侍にて。ことさら國の老臣なれバ。鶴若を補佐し奉り。何とぞ頼兼を帰舘させ申さんと。昼夜心をくるしめけるが。はからずも心痛のやまひおこり。老病すでにあやふく見へしかバ。娘政岡を近くよび。声をひそめて申けるハ。國家の安危今此時なり。鶴わかいまだ幼くまし/\。侫人かたはらにみち/\て。三代惣恩の主君を害し奉らんとはかる。叔父鬼貫後見として。」6 もつはら邪非道をおこなふ。我病死すると聞かバ。かれら時を得て。既に企叛の色をあらはすべし。女ながらもその方に。今一大事を申聞かす。近く参れと側へよびよせ。まづ第一は。明日より昼夜。鶴わかの御そばをはなれず守護すべし。第二ハ。いかやうの事有て。鬼つら仁木幼君を蔑にし奉る共。いさゝか怒をあらはすべからず。第三ハ。すべての事荒獅子と相談して行ふべし。男之介ハ忠義ふかき勇士なれバ。侫人むざと手をおろす事ハ叶ふまじ。我今その方に。此かけ物をあづけ置く。此かけものハ都鳥と名付ケ。わが忠心をこめたる一軸なり。君にとつてハ忠義のたまもの。」親にとつてハ。末期記念。もし事迫りせまつて。荒獅子その方の了簡にも及はず。幼君の御身危く見へるものならバ。その時此一軸をたづさへて。細川勝元どのゝ一覧に入るべし。おのづから悪人ほろび。國安全なるべしと。床の傍よりかのかけものをとり出して。政岡にあたへけれバ。政岡とつておしいたゞき。開て是をみるに。その絵に。外記つる若を右にいだき。左リの手にて地をゆびさし。天をながめてゐる圖なり。政岡その心を悟らず。父に問ふて云けるハ。此かけものゝ絵ハ。父うへ若きみを抱き給ふ所の絵なり。此かけものにて。何故悪人亡ひ。國太平に」7 なり候ぞや。外記打うなづき。その方女の事也。今問ふにおよはず。事急なるにのぞんで。勝元どのゝ一覧に入レよ。外に子細なしと云すて。行年六十三才にして。終にむなしくなりにけり。アヽ忠義の士おしむべし。政岡父の別れをかなしみ。ひたんのなみだせきあへず。終に父の詞を守りて。是より昼夜。鶴わかの御そばをはなれず。万事心を用てかしづきける。外記が云ひしにちがひなく。國の老臣死しけれバ。侫人こゝろざしを得て。幼君をあなどり。後にハ鶴若を信夫の下舘へうつしまいらせ。かしづき申人もなし。此御殿ハちかころ大破して。御殿の瓦くだけて。雨天井につたひ。雨戸の棧おちて。」月後椽をてらす。幼君にかしづき申ものとてハ。荒獅子政岡只二人なり。夫さへ男之介ハ此ほど病氣と披露して。二三日出仕せず。此以前侫人ばら。度々毒薬を御膳に入て。鶴若に勧害し奉らんと工みしが。さいわひ荒獅子政岡。はやくこれをさとつて。つる若にすゝめず。此ほどかく荒たる御殿に住給ひ。誰出仕するものなけれバ。なまなかに悪人に一害をのがれて。政岡少しハ心をやすめける。此一両日ハ霖雨ふりつゞきて。物淋しくことに男之介出仕せされバ。鶴わか雨のつれ%\にせまり給ひ。政岡ハ襷かけて米をかしき。これを鶴若にすゝめ参らす。つる」8 わか膳にむかひ給へハ。わづかに汁と香の物のみなり。鶴若つく%\是を御覧じて。いかに政岡此鶴わかハ。誰が子なるぞやと問給へバ。政岡はやその御心をさとり。まづ眼中に涙をふくんで申けるハ。君ハこれ五十四ぐんの御あるじ。関八州の官領。足利左馬介頼かね公の。公達にてまし/\候。鶴わかのたまひけるハ。いやとよ政岡。そちがいふ事偽ならん。我関東の官領。頼かね公の嫡男ならバ。数万人の家来をもめし仕ふべきに。身にそふものハ只二人。下女に政岡。下部に荒獅子。政岡米を爨て。我にあたへ。荒獅子履を取て。我にはかす。我レ一僕一婢の身上にて。何ンそ五十四郡の主と」いわんとのたまへバ。政岡思はずこゑを上。しばしなみだにくれけるが。君ハ御発明にわたらせ給へども。ことのやうすをしり給はず。今國中に悪人はびこり。君を害し奉らんとはかるもの。うんかのことし。ことに叔父鬼貫どのに。奥州過半横領せられ。身をすてゝ。忠義に換るものとてハ男之介と此政岡只二人リ。さりながら。天運循還して悪人ほろび。ふたゝび御代に出給はゝ。其時こそ百万騎の御大将。誰はゞからぬ官領職。さるにても父外記の。遺し置たる都鳥のかけ地。どうも心がとけませぬと。又かけものをとり出し。鶴わか丸もろともに。筆の心をなぞ/\に。解ぬ思ひの小首かたふけ。」9 案じ入たるその折から。いつの間にかハ来りけん。その色まだらの大鼠。足音もなくかけ来り。かのかけものを引くわへ。いづくともなく走り行。政岡はつと打おどろき。大切のかけもの。奪はれてハ叶はじと。跡につゞひて追かくれど。鼠ハかげもかたちもみへず。政岡ハ狂気のごとく。そこよこゝよと尋る所に。椽の下に人音して。はつた/\とつかみ合ふ。政岡ます/\打おどろき。鶴わか君をうしろにかこひ。薙刀かひこみ立上れバ。ゑんの下にハ猶人音ト。ヱイヤ/\とつかみ合ふ。ほどなく荒獅子大わらは。かのかけものを引つかみ。畳はね上欠上リ。大息ついて申けるハ。それかしかくあらんとぞんぜし」ゆへ。此四五日病氣といつはり。昼夜此御殿のゑんの下にかくれ居て。やうすをうかゞふ所に。今宵はからず。猫にひとしき大鼠。都鳥のかけ地をくわへかけ来る。やり過して引くめバ。鼠にあらぬしのびの曲もの。生捕んといどみしが。椽の板に頭つかへ。もしやかけものを破る事もあらんとかばひし故。曲者ハとりにがせしと。大汗になつて物がたれバ。政岡これを聞て。わが父外記。若君の御大事。こと急なる時にのぞんで。此かけものを。勝元とのへ持参せよと。兼ての遺言。今すでに事急なり。我ハこれより鎌くらへ立こへ勝元どのへ訴んと云けれバ。男之介これを聞て。よく」10 も心付かれしものかな。それがしかくて有からハ。幼君の御身の上。少しにても氣遣ひなし。一刻もはやく勝元どのへ持参あれとすゝむれバ。政岡ハかひ%\しく。腰おびとつて裾かい上。父の譲リの一腰たばさみ。かのかけ物を懐中し。つるわか君にいとま乞。若ハ政岡放さしと。とゞめ給ふをやう/\と。すかしなだめてもろ共に。なみだの袖をほし月夜。かまくら山へいそぎ行。
都鳥の一軸勝元に説く
細川修理亮勝元。國家の棟梁その器にあたり。身ハ鎌くらにありながら。都の政務をかねてより。政岡が訴へに。工夫をこらす」閑居の間。勝元かのかけものを打ながめ。ひとりうなづひて云けるハ。忠臣渡辺外記宗雪が。死期にのこせし此かけものハ。諸葛武侯が五丈原の。遺書にひとし。まづ都鳥と名付ケしハ。古哥の心。我思ふ人の頼かねを。帰舘させたき願ひならん。扨かけ物の絵に。右の手に鶴若をいたき。左の手に地をゆびさし。天を仰で立たるハ。五十四郡の山川ハ。つるわかのたまものといへ共。ひとり侫人のさまたげ有をうらみたる忠臣。是もよし。扨是を以て。悪人を亡すべき。手かゝりとハ何ゆへぞと。工夫の頬つえ小半時。さすがの勝元あぐみはて。けふもくれ。翌もたち。工夫する事五六日。ある日勝元」11
かのかけものをとり出し。思案にあぐむ牀。ひぢはづれ机を倒し。墨硯筆紙狼藉して。都鳥のかけものへ。ころびかゝる水滴の。水ハこぼれてかけものゝ。表具も共に濡にける。勝元おどろき。かけものを。濡らさじと引上れバ。こぼれし水に濡紙の。表具のうらに透通り。あらはれ出し数行の文字。勝元扨ハとかけものゝ。うらの表具を引へがせバ。中より出る数通の蜜書。勝元とり上て打詠め。誠や忠臣外記が心をこめし此一軸。人の見ん事を恐れ。此かけものゝ中にはりこみし密書こそ。鬼貫仁木が國を乱す一チ味連判。外記かねて。かの連判牒をうばひとるといへ共。忠心の士すくなくして。奸侫の逆」臣勢〔ひ〕つよきをはかり。此連判帳を我手にわたし。善悪を糺しくれよとの忠臣。今此連判帳有るうへハ。これに載たる名前をもつて。侫人ばらを退治せんこと。わが胸中にあり。井筒参れと呼ぶ声に。立出る井筒女之介両手をついて申けるハ。それがし仁木が奸計におとされ。すでに死罪に極りしを。渡辺外記が一言ンにより。あやふき命たすかり。當家へ引わたされしその日より。何とぞ一ツの功を立。萩の方の無実の悪名を。すゝぎ奉らんと存ぜし所。はからずも連ばん帳手に入からハ。すぐさま奥州へおしかけ。仁木はじめ悪人ばらの。首打すてんとかけ出スを」12
勝元しはしとおしとゞめ若気の短慮無用/\我きく金花山の義士。頼かねを守護し。すでに軍勢をあつむるよし。今すてに善悪あらはれ。連判帳出るうへハ。干戈をうこかし。民をくるしむるにおよはす。汝ハ是より金花山へ立こへ頼かねはしめ忠義のものへ申聞かせよ。我ハ是よりひかし山へ立越。此おもむき言上し。事の落着こゝろみんといさみ立たる細川の。流れもふかき智仁勇。是ぞまことのみちのくに。のこす忠義の水滸傳。その名ハ末代千代萩の花の五色の五冊もの。とり合セたる一作ハ。是見物の目を取てはなしのたねと。なさハなしてん
高尾舩字文第五冊大尾」
是より末〓錦か行末。雷雀之介が落着谷蔵累をころす段并ニ悪人退治。國家太平のおわりまですべて水滸傳の趣意に擬き。艸稿満尾すといへども。巻数多くして。閲者の煩はしからん事をはかり。しはらく後篇にゆつりて爰にもらす猶後篇出るの日前後を看合てその意を味ひ給ふへし。
船字文/後篇・水滸累談子 中本五冊/曲亭馬琴作 近刻