『高尾舩字文』−解題と翻刻−

高 木  元

【解題】

本作は馬琴読本の処女作である。比較的早くから言及されることが多く、振鷺亭の『いろは酔故伝』とともに、江戸読本における水滸伝翻案ものの流れを形成した作品として位置付けられてきた。ところが、播本真一「『高尾船字文』と『焚椒録』覚書」(「近世文芸研究と評論」第17号、1979年11月)は、『水滸伝』のみならず、『焚椒録』という遼の雑史を利用して萩の方をめぐる話を作ったことを検証し、丹羽謙治「馬琴読本における『水滸伝』の受容の一齣」(「讀本研究」第5輯上套、渓水社、1991年)では、未刊に終った後編『水滸累談子』が、累が淵伝説を伊達騒動の世界に取り込んだ『伊達競阿国劇場』と『水滸伝』の武松復讐譚とを撮合する構想であったことを指摘し、さらにその構想が『新累解脱物語』へと結実した様子を追っている。また、徐恵芳「『高尾船字文』考―『水滸伝』利用の様相について―(水野稔編『近世文学論叢』、明治書院、1994年)は、『水滸伝』全般の利用を丁寧に検証しつつも、明らかな『通俗忠義水滸伝』の利用の跡を発見している。演劇の伊達騒動ものについては、石橋詩世「『高尾船字文』に関する一考察―伊達騒動高尾物の検討と書名の意味―(「大妻国文」第25号、1994年)が詳しく、『けいせい睦玉川』をはじめとする高尾物を集めたという寓意を外題「千字文」に読んでいる。

このような近年の研究によって、本作の性格が次第に明確にされてきているが、相変らず習作であるという観点から離れられないようである。馬琴はみずから、売れなかったことと上方で受け入れられなかったこととを『作者部類』に記しており、さらに中本型読本というジャンルであったことに対しても、その意義を重視していないようである。しかし、天保に成って再板されていることを見ても、再度馬琴の言及から自由になった視点で読み直してみる必要があるものと思われる。

【書誌】

【凡例】

表紙

     表 紙

【翻刻】

高尾舩字文たかをせんじもん

 凡例はんれい [印]

此書このしよや。戲房がくや唐土から稗説ものがたりならひ。戲廂ぶたいハ日本の演史ぎだゆうを引く。かるがゆへ文中ぶんちう通俗つうぞくめいたる有。院本しばゐめいたるあり。どうめいたるあり。孔明こうめいたるはかりこと有て。くるり/\とまはること。機関からくりいとごとく。花子まめぞうくちびるたり 主意しゆゐ楽天らくてん詩文章しぶんせうのごとく。媼婆おんばさまにもげしやすきをもてし。いさゝか珍〓ちんぶん韓退之かんたいしが。人威ひとおどしのむつかしきを」もとめず。こゝもつ念者ねんしや長口序ながこうじよに。数紙すしついやさん事をいとひ。今機かへじよ不書かゝずすなはち墨斗やたて禿筆きれふでとつて。板木はんぎさくら書付かきつけいわくてん正本しやうほんむなしうすることなかれ。とき凡例はんれいなきにしもあらず。

寛政捌丙辰年孟春書於雜貨店帳合之暇

曲亭馬琴 [印][印]1

序1

序2

高尾千字文第一冊

洪氏ひろうぢあやまつ實方さねかたびやうひら
  附リ それ小説たうほん水滸傳すいこでん
     これ戲文しばゐ先代萩せんだいはぎ
 その發端ほつたん霊魂雀れいこんのすゞめ

宮戸川みやとかはいかづち絹川きぬがは
  附リ 夫ハ九紋きうもん龍史進りうししん
     是ハ絹川きぬがは谷藏傳たにぞうがでん
 その王進わうしん角觝師すまふのしせう

口絵1

絹川谷藏きぬがはたにぞう
生國關東縞しやうこくくわんとうしま満身都黒鳶まんしんすべてくろとび
竊観正札貴ひそかにしやうふだのたつときをみれバ男一疋絹川おとこいつひきのきぬがは\長喜画」2

高尾千字文第一冊

曲亭馬琴著 
  洪氏ひろうぢあやまつて実方さねかたひやうをひらく

ころハ應永をうゑい十二年。足利あしかゞ将軍しやうぐん義満よしみつこう諸國しよこく巡察使じゆんさつしを立給ひ。一國の政務せいむたゞし給ふにより。巡察使じゆんさつし山名やまな洪氏ハ。奥州へ下りける。洪氏松嶋まつしま瑞岩寺ずいがんじにいたリ。雄嶋をじまいそ雲居うんこ禅師ぜんじ岩屈がんくつ。そのほか名所めいしよ古跡こせきを一見す。此瑞岩寺ハ。七堂伽藍がらんの大寺にて。仏法ぶつほう相應さうをう霊地れいちなり。洪氏ひろうち此瑞岩寺へ一宿しけるに。其夜もすでにふけわたるころ方丈ほうじやうの西にあたりて。人のさけこへきこへけれバ。ひろ氏これをあやしみ。夜あけて住寺ぢうじに。そのいはれを」尋けるに。住寺しばらくかんがへ。上使のあやしみ給ふも尤なり。これハ実方さねかた霊魂れいこんなり。むかし二條の院につかへし中将ちうしやう実方ハ。むつの國のにんうつされ。ひたすら都をしたひ給ひしに。その一チ念悪魔あくまとなり。當國に障化せうげをなすゆへ。當山にびやうを立て。その霊魂れいこんをまつり候とこたへけれハ。洪氏から/\と打笑ひ。我レ聞クとうの中将実方ハ。小一条大将濟時すみときの子にして。世にかくれなきうた人なり。まして実方のつかハ當國笠嶋にあり。何ぞ笠嶋かさしまびやうハたてずして。此瑞岩寺ずいがんじにまつるといふもいふかしゝ。いざ我レ一ツけんすべしと座を立けれバ。住寺も洪氏の先に立て」3 あん内す。ひろ氏実方さねかたつかを見るに。大なる石を以てすゞめきざみそのすゞめの上に一ツの石碑せきひを立て。中将実方のつかとしるしたり。石のすゞめハ土にうづまれ。かしらわづかに出けるが。雀のくちばしれん珠数じゆずをかけたり。住寺洪氏に語リけるは。むかし中将実方卿。行成卿ゆきなりけう口論こうろんのあやまりによつて。當國に左遷させん有リ。実方みかどをふかくうらみ奉り。我あづまの土と成ルとも。一念かならず當國にとゞまつて。奥州をうしう大守たいしゆたらん人にがいをなすべしといきどをり。ついにむなしくなり給ふ。又実方在世ざいせの時。つね%\此寺に参禅さんぜんあつて。ひたすら帰洛きらくをねがはれしが。我死しなバ雀となりて」も。一トたびハ都へのぼり。たいはん所のいゝくはばやとのたまひしが。はたしてその一チ念當國にとゞまり。怪異くわいいのことおほかりしゆへ。わが雲居禅師うんこぜんし。この寺にひやうを立て。そのれいをなだめ給ふ。しかれども深更しんかうにおよんでハ。折ふし人のさけぶこへ聞え申なりと語けれバ。洪氏ひろうぢあざわらひ。一犬いつけんきよほへて百犬じつほゆる。われ今こゝろみに。そのつかあばひて。実方のかばねを一ツけんせんと云けるを。住寺急におしとゞめ。もし此つかをひらく時ハ。たちま當國たうごくわざはひをまねくべし。わが禅師ぜんじより数代すだい住職ちうしよく。十念加持の珠数じゆずをもつて。すゞめはしをつなぐ事。まつたく実方の霊魂れいこんふふじこめ給ふいはれなり。洪氏」4 これを聞て大にいかり。いわれぬ賣僧まいすが人威しかな。もしわが一言ごんそむくものあらバ。都へ上り言上し。やがてうき目を見すべしとのゝしりけれバ。住寺も上使の権威けんいにおそれ口をとぢひかへゐる。洪氏住寺が迷惑めいわくするを見て。いよ/\にのり。おほくのにん夫に下知してかの石塔せきたうを引たほしかたはらにとりのけ。石のすゞめほり出さんとするにそのおも磐石ばんじやくのごとく。数十人のにん足も。うごかしかねて見へしかハ。洪氏いよ/\人夫をし。いきほひかゝつて堀けれバ。終に石のすゞめをほり出しけるに。その下に二まい石蓋いしふたあり。ふたの上に文字あり遭洪而開こうにあつてひらく彫付ほりつけたり。洪氏これを見て大によろこび。禅師ぜんじ仏眼ぶつがんを以てはや百」年以前。わが此つかをひらくことを知り給へり。人々此蓋の文字をみよ。洪にあふて開と有リ。わか名乗なのり洪氏ひろうぢこうふとハすなはちわれ也。いさめや人々と下知して。終に石ぶたをはねのけけれバ。下ハ千尋ちひろ洞坑ほらあななり。只くらくしてそのふかさをしらす。洪氏人夫に松明たいまつともさせ。ほらの中へこみ入らんとせし所に。にはかに数千本のたけを。一度にるがこときおと聞えて。洞の中より白氣はくき立のぼり。数十羽の雀び上りけれバ。洪氏住寺ハいふにおよはず大勢の人足にんそく共。此ていを見て大におとろきおし合へし合。ほらの邊リをはしり出て。くびをめぐらしてうしろを見れバ。十羽のすゞめたちまち化して六尺あまりの白練しらきぬとなり」 練の中おうに十八といふ二字。あり/\とみへけるが。東西とうざいに吹なびきいづくともなくきへうせける。これまつた足利あしかゝより兼の時にいたりて。奥州に稀代きたいちん事。おこるべきしるしなり。洪氏ハ色青ざめ。あきれはてゝゐたりしが。われ今當國の勤役きんやくすむうへハ。早々都へのぼるへしと。そこ/\に瑞岩寺を發足ほつそくし。都へこそハ帰りける

  宮戸川にいかづちきぬ川にあふ

應永をうゑい十五年。足利義満みつ逝去せいきよし給ひ。それより四拾八年のち。足利八代の将軍よし政公ハ。義満公の御孫にして。御心風雅ふうがにまし/\。ことさら茶をこのみ。金かく銀閣二ケ所の高楼かうろうをしつらひ。東山にぢうし」給ふにより。世の人ひかし山どのとせうじ奉る。義政の御舎弟こしやてい左馬さまの介頼兼公ハ。奥州の大守たいしゆとして。くわん東の官領くわんれいと定め給ふ。こゝにせん将軍義満御妾腹せうふくの御子。典膳てんぜん鬼貫おにつらハ。よし政より兼の叔父おぢなれ共。別腹わきはらなり。頼兼いまだ年わかにましませバ。此鬼つらをさしそへて。奥州へ下し給ふ。鬼つら其身。臣下しんかれつに入るといへども。まさしく頼兼の叔父なるによつて。何とぞ頼兼をなきものにして。奥州をおう領せんとたくみける。爰に一人のしれものあり。勇ハ樊會はんくわい張飛てうひをあざむき。ちゑ孫〓そんひん孔明こうめいすぐれたりしかれども其こゝろざしけん人に似たる侫人ねいじんにて。おもてにハ忠心をあらはし。裏にハこく 家をくつがへさんとはかる。此人ハこれ頼兼の執権しつけん仁木につき左衛門直則なをのりといふもの也。ことはざにも同気とうきあいもとめ。くぼき所へ水たまるたとへのごとく。鬼貫おにつらいつしか此仁木と心を合せ。隙もあらバ頼兼をつみにおとし。奥州を横領わうれうせんとたくみける。その頃将軍よし政公。ちやをのみ給ふにより。世上もつはらちやのゆはやり。かの鬼つら仁木ハ。茶の湯にことよせ。折/\出會しゆつくはいして悪事あくじを相談す。ある日鬼貫が使つかい。仁木がやしきを門ちがへして。組下くみしたさふらひいかつちつる之介が方へもち行しに。折ふし鶴之介は他出たしゆつして。下女その手紙をとりつぎ。留主のよしこたへて。使つかいを帰しける。しばらく有ツて鶴之介立帰り。その手紙を」見て大におどろき。これハ典膳てんぜん鬼貫とのより。執権しつけん仁木どのへ来たる手紙也。殊に密用みつやうと有れバ。定て國政こくせいの用事ならん。我々がとりあつかふべき書状にあらず。いそぎ仁木とのへとゞけんと。はかま引かけ立出んとする所に。仁木はやくも此事をきゝ。いかつちが方へ使を以て。用事あれバ早々参るべしと云つかはしける。雷とるものも取リあへず。其使と共に仁木がやしきへいたり。委細いさいのわけをいわんとする所に。仁木雷をはつたとねめ付。おのれいやしき身分みぶんを以て。政務せいむにあづかる。大切の書状をうばひとつたるハ。定て企叛むほんこゝろざしならん。いそぎ雷をからめ。〓問がうもんすべしと下知けぢすれバ。雷平伏へいふくして云けるハ。それがし外様とざま7 賤官ひかんの侍なりと申せども。いかでか國のおきてをしらざらん。鬼貫の使あやまつて。それがしか方へ持参ぢさんいたし。その節それがし留主なれバ。此事を存ぜず。只今此義を申上んと立出る所に。きうの御使にあづかり。首尾しゆび前後ぜんご仕リ。何ともおそれ入候と。かの手紙をさし出せバ。仁木いよ/\いかつて。おのれ手紙をうばひたる事を。それがしにさとられ。事を両端りやうたんにさしはさみたる。その云訳いひわけくらひ/\。おのれがおや鳴神なるかみ三平ハ。いやしき角力すまふとりなりしを。さいわひ當家へめし出され。その方今ハ諸侍しよさふらひれつにもくわはり。少しばかりの鎗棒さうはう眷頭やはらなど覚へしとて。一家中の若さふらひへ師範はんなといたす事。」甚以て片腹かたはらいたし。ことの善悪わかる迄。かたくいましめて〓問がうもんすべし。はやく鶴之助をからめよと呼はれバ。仁木が組下くみしたの侍ども。仁木をなだめて云けるハ。鶴之介大切の用状を請取置しハ。そのつみかろからずと申せ共。元よりかれが留主のうちのことなれバ。毛頭もうとう存ざるにうたがひなし。まづ此度ハひらにゆるし給へかしと。詞をつくしていさめけれバ。仁木もおのれが心に一チ物有。殊に悪事密談みつだんの手紙なれバ。もし此事よりあらはれなバ。ありたうよりつゝみくづるゝならんと。少し顔をやはらけ。その方只今いましめて〓問がうもんすべきやつなれども。組下のいさめにめんじ。今日ハゆるしつかはす。かさねてゆる/\吟味きんみすべしと」8 ねめちらして。おくの一ト間へ入リけれバ。雷ハ仁木に耻しめられ。しほ/\とわが家へ帰り。母にゐさい語リけれバ。雷がはゝ云けるハ。今の世に仁木とのに可愛かあいからるゝものハ。こうなくして立身りつしん出世しゆつせし。又少しにてもにくまるゝものハ。つみなくしてころさるゝ。その方つね%\やはら劔術けんじゆつおぼへて。何とて知らざるや。兵法かほうをくの手にも。にぐるを一とするといへバ。われらおや子此所を迯出て。いづくへなり共落行おちゆくべし。雷これを聞て。母の詞當然たうぜんなり。今鎌倉かまくら細川ほそかは勝元かつもとどのハ。當家たうけ御縁者ごゑんじやと云ひ。ことに仁義あつき人とうけ給はれバ。勝元かつもととのをたのみ参らせ。身の安穏あんをんをはかるべしと。其夜ひそかにたび用意やういをとりとゝのへ。」扨夜もあけれバ。下女をおこして。我ら親子宿願しゆくぐわんあれば。塩竈しほかま明神めうじん参詣さんけいす。かへりおそくハむかひに参るべしと云すて。す なれしわか家を跡に見なしつゝ。鎌倉かまくらへと落て行。道より母をバ旅駕たびかごにのせ。雷かごに引そふて道を急ぎける程に。日かずて武蔵なる。千住村せんしゆむらつきける。此時はや七ツ下リにて。ねくらもとむるむらからす。われもならはぬ旅烏たひからす。かあひとなくハ戀ならで。反哺はんほかうにおや鳥の。たびつかれをなぐさめて。茶やが床几せうぎにやすらひしが。雷心に思ふやう。けふもまだなゝさがり。千住にとまるハ甚はやし。殊に仁木が追人おつてかゝらんもはかりかたし。せめて今二三里行べしと。ひた」9 すら道をいそきつゝ。程なく淺草川へ来りしころ。日ハとつふりと暮にけり。此邊ハみな商人家あきんどやにて。泊リもとむる宿もなく。いかゞせんとためらひしが。金龍山きんりうさんのあなたに一ツの瓦屋かはらやあり。障子せうじ岡田おかだやとしるして。灯火ともしびのかげ戸のすき間をもりけれバ。雷此岡田やにおとづれ。行くらしたるたびのものなり。何とぞこよひ一夜明させ給へと云けれバ。内より丁稚でつち出てこゝハ旅籠はたこやにあらず。此並木をまつすぐに廿町程行給へバ。おほくのはたごやあり。そこへ行てとまり給へと。つこどなくこたへける。雷慇懃いんきんこしをかゝめ。それがし一人にて候はゞ。廿町ハ扨置。五里も十里も参るべきが。一人の老母らうぼをたづさへ。みちくらくして」方角ほうがくをしらず。たとへくらすみ。みせの土間どまなりともくるしからず。せひに一宿いつしゆくさせ給へと。なみだくみて云けれバ。うちより年のころ六十ばかりなる。此家のあるじとおぼしき人立出。老人らうじん相見互あいみたかいのことなるに。さのみ氣づかはしきこともあるまじ。とめ参らせよと云けれバ。雷大によろこび。母をともなひ内に入。たびのつかれをなぐさめける。此家のあるじハ岡田や与兵衛とて。なさけふかき男にて。雷親子に湯をつかはせ。夜食を出しもてなしけれバ。雷も感涙かんるいをながし。誠や旅ハ道づれ。世ハなさけ。われ/\おや子。かく御世話になる事も。一じゆゑんならめ。扨はたごせんハ何程にやと云けれバ」10 あるじ与兵衛かぶりをふり。イヤ/\はたごせんにハ及び申さず。定めて旅のつかれもあるべきに。はやくやすみ給へといひけるにぞ。いかづち親子なを/\感心かんしんし。主にあつく礼をのべ。一ト間に入てやすみける。扨夜も明けれ共。雷いまだおきざりけれバ。あるじ与兵衛屏風びやうぶの外より。旅人衆もはや夜ハあけたり。起給はんやと云けれバ。雷この声を聞て。きうに屏風の外へはしり出。それがしハとくに起候へども。老母ろうぼ此ほどの旅つかれにや。夜中やちうより積氣しやくきおこり。今以てさしこみ難儀なんぎいたし候。与兵衛これを聞て。旅泊りよはく老病らうびやうさぞ御心遣ひならん。先ツこれを用ひ給へと。はな紙袋かみふくろより」金丹圓きんたんゑんをとり出しこれをあたへ。さつそく医者いしやび。薬をのませ。扨雷おや子に云けるハ。かく御宿やど申事も。前世ぜんぜ因縁いんゑんふかきゆへならん。なさけハ人の爲ならずとうけ給はり候へバ。母御の病氣びやうき快方くわいほうまで。ゆる/\と滞留とうりうして。心置なく養生やうじやうあれと。世にたのもしく云ひけれバ。雷感涙かんるいをとゞめかね。それがし元ハ頼兼公外様とさまの侍にて。世に有しそのむかしハ。武士のまねこともいたしたるものなれ共。傍輩ほうばい讒言ざんげんにより。住なれし奥州を立出。今鎌倉のしるへの方へ。おもむかんと存ぜし所。思はずも母の病氣。かゝる御世話にあづかる事。いつの世にかハほうし申さんと。くれ/\礼をのべにける。扨五六日すぎけれバ。母の病氣やうやく」11 全快せんくわいし。雷もはや一両日のうちに出立しゆつたつすべしと思ひ。よこれたる脚半きやはんすゝがんと思ひ。うら口の河岸かしはたへ出けるに。一人のわかき男。としのころ十八九と見へけるが。からだの色ハすみよりもくろく。うでしゆをさして倶利迦羅龍くりからりやういれずみしたるが。大勢の舩頭せんどうあつめ。相撲すまふを取リて居たりけるに。かのわかき男にかつもの一人もなし。雷ハうしろに立て見物してありけるが。元よりこのむ道なれバ。思はず聲をかけて。此角力よくとれども。四十八手のほうに叶はずと云けるを。かのわかき男。これを聞て大にはらを立。宮戸川ひろしといへ共。われにおよぶもの一人もなし。おのれ何ものなれバ人をやすくして。わがなくさみ邪广じやまをひろぐ。爰へ出て」我と取れ。たちまちこし牒番てうつかひふみはなし。矢大臣門やだいしんもん坐行いさりにしてくれんものとのゝしり〔り〕ける。此聲を聞て。あるじ与兵衛おくよりはし出。谷蔵客人きやくじんに不礼するなとしかり付。雷にむかつて云けるハ。このものハそれがしが二男にて。谷蔵と申ものなり。此もの生質うまれついての剛氣かうきものにて商人あきんどわざきらひ。やはら劔術けんじゆつこのみ。又若きものをあつめ角力をとり。兎角とかくあらきことをのみ好む。それがし元トハ下総國しもふさのくに岡田郡おかだこふり羽生村はにふむらの百性にて。田地も相應さうをうに有れば。惣領そうれう与右衛門に田畑はたのことをまかせ置。それかしハ二男谷蔵をつれて。此淺草に穀物こくものやを出して渡世といたし。家名いへなの岡田やと申も。」12 岡田郡のゑんをとり。又忰谷蔵を。世の人絹川きぬがはの谷蔵と呼做よひならはし候。これも羽生村はにふむら絹川堤きぬかはつゝみの生れなるゆへ。かくハ申なり。扨客人角力をよくとり給はゝ。旅泊りよはくのなぐさみ。谷蔵に一ト手おしへ給へかしと云けれバ。雷ほゝみ。それがし親どもハ角力すまふに名たかく。鳴神なるかみばれしもの也。某親鳴神にハおよばずといへども。やりぼう眷頭やわら居合いあい角力すまふ。十八はん武藝ぶげい。いさゝかさとし居り候。われら親子。此度ふしぎの御世話になりし上ハ。いさゝかの御おんほうじに。御子息谷蔵とのに指南しなん申べし。与兵衛大によろこび。谷蔵はやく雷どのを師匠しせうとたのみ申べし。谷蔵是を聞て大にはらを立。親父名もなき風来ふうらいものを引ずり込み。わが師匠しせうなどゝ」ハ。むねのわるいせんさく也。我是までやわら。劔術けんじゆつ。すまふにいたるまで五六人の師匠しせうをとり。今ハ一人も手にあふものなし。さるによつてわが町内てうないに。近年きんねん狡猾あばれものの来る事なきハ。此谷蔵があるゆへならずや。雷とやら。我レと一番勝負せうふをこゝろみ。我レあのものにまけたらハ。なる程師匠とたのむべし。左なくてハ師匠とすることおもひもよらずと。けんもほろゝに云はなせバ。あるじ与兵衛。しからバとてもの事に。忰と一番取給へ。かれたとへなげころさるゝ共。みづから好む所。いさゝかおうらみ申まじはやとく/\と云けれバ。雷是を聞て。勝負ハ時のはなれもの。無用捨むやうしやハゆるし給へと。おびくる/\と引ほどき。きるもの取て片邊かたへなげやり。土俵とひやうの中へ」13 ゆるぎ出る。そばひかへし舩頭ども。おいらも相撲すまふかたこぶし。絹川きぬかはあにいの手ハからぬ。雷でも鉄槌かなづちでも。とらぬ先からおへそちやわかしゆがてんか。合点がつてんと。たかいたり四人よつたりの。茶舩の舩頭たちさはぎ。土俵どひやうの中へかけ上る。まづ一番ハ茶舩の与吉。ヤツとたつたる舩のあし。向ふのよつをとりかぢやさし込さほ両腕りやううてを。ねぢ上られて。アイタゝゝ。水もたまらず素轉倒ずでんだう土俵どひやうおよひにげ込ンだり。跡もたりの甚九郎。ヱイとおし出す艫拍子ろひやうしに。ちからの有たけおしおくり。なげ付られてヲゝ板子いたご。これでハゆかぬと猪牙ちよきぶねの。三人かゝる三丁だち。のつるのをふみたほし。又引ふねの引なげに。あせのみちしほ。氣の引しほ。はらり/\と投たるハ。」さそくのはや手に舩積ふなつみの。上荷うはにをはねるごとくにて。みなちり/\ににけうせたり。手なみハ見へたと。谷蔵が。ヱイと組付くみつかはづがけ。雷どこいとうけとめて。すぐになげなバ投べきを。雷心に思ひけるハ。今谷蔵をむごく投ては。親与兵衛が不けうとなり。世話になりたる甲斐もなし。あらたてずになげんものと。くるり/\引はづし。しづんで来るをよこにうけ。さしこむうでを引まはし。五六度つからかし。透間すきまを見すまし鶴之介。ヱイと一聲谷蔵が。まはしをとつてねぢかへせハ。さすがの谷蔵雷に。不をうたれてあをのけに。土俵の中へ大のなり。谷蔵やう/\起上リ。それがしまなこありながら。かゝる豪傑がうけつを存せず。不礼のだんハまつひら御めん下さる」14 べし。何とぞわが家に滞留とうりうあつて。槍棒さうぼうやわら角力手すまふのて。一々御指南しなん下さるべしと。両手をつゐて申けれバ。雷も谷蔵が砂うちはらひ。土俵どひやうの上の不礼ゆるし給へと挨拶あいさつす。あるじ与兵衛大によろこび。酒さかなとり出し師弟していやくをなしにける。これより鶴之介ハ。半年ばかり岡田やに滞留とうりうし。十八ぱん武藝ぶげい秘密ひみつのこさず。谷蔵に傳授でんじゆしけれバ。谷蔵おや子大によろこび。あつくうやまひもてなしける。扨その年も師走しはすちかきころより。親与兵衛不斗ふと風の心地こゝち打伏うちふせしが。次第に老病ろうびやうおもり。ついむなしくなりけれバ。谷蔵がなげき。家内の愁傷しうしやう。いわんかたなし。かくても有べきことならねバ。なく/\野辺のべのおくりをいとなみ。北〓ほくほう一扁いつへんけふりとこそは」なしにける。雷つく/\おもひけるハ。我レはじめ。鎌倉の勝元かつもととのをたのみ参らせんと思ひしに。与兵衛親子が深切しんせつなさけに引かれ。思はぬ月日をすごしたり。今あるじ与兵衛むなしくなり。谷蔵いまだとしわかなれば。家内のおもわくもあしかるべし。とかく一ツこくもはやく鎌くらへたつへしと。谷蔵にかくとつげけれバ。谷蔵かたくめて。今思はず父与兵衛におくれ又師匠しせうにまてわかれなバ。一日の日もおくりかね申べし。それがしも春ハそう/\。羽生村はにふむらの兄与右衛門に對面たいめんいたさんと存れバ。ひらに春まてとゞまリ給へと。ことばつくして止めけれバ。雷も谷蔵がこゝろざしに引かれぜひなくしばらとゞまリけり。
高尾舩字文第一冊終」15終

高尾舩字文第二冊

一曲いつきよく琴柱ことちかり玉章たまづさかよはす
  附リ それ教頭きやうとう林冲りんちうつま
     これ御臺みだいはぎかた
 その災難さいなんハ六尺のきぬ

○女之助あやまつ白乕ひやつこに入る
  附リ 夫ハ禁軍きんぐん豹子頭ひやうしとう
     是ハ井筒いづゝ女之助
 其高休かうきう執権しつけんしよく 」

目次2

口絵2

仁木左衛門直則にきさへもんなをのり
ひけふでにハ密書みつしよもかくべく。きばのみにハ國家こくか穿うがたん。よる天井てんじやう早馬はやむまあざむたな塗膳ぬりせん猫脚ねこあしかぢる。そのなく声ハちうか不ちうにくむべししゞういわ見銀山きんざん\長喜畫」1

高尾舩字文第二冊

曲亭馬琴著 
  一曲いつきよく琴柱ことぢかり玉章たまづさかよはす

扨其としもくれてはやくも二月のすへになりしかバ。いかつち鶴之介ハたび調度てうどとりとゝのへ谷蔵にわかれを告鎌倉さしてのぼりける。谷蔵今ハとゞむるに詞なく。路金ろきん十両とり出し雷におくり主管ばんとう利介といふものに品川までおくらせける程なく品川のしゆくにいたりけれハ雷一けんの酒屋に立より。利介に酒をふるまひ又谷蔵が方へ一つう礼状れいぢやうをしたゝめ。これを利介にわたしけれバ利介手紙をうけとり浅草あさくさへ帰らんとせしに。さいぜん雷にふるまはれたる酒の」ゑい大にのぼり。只ひよろ/\と足のふみところも定めす。道のかたはらにたほれて打ふしける。こゝに谷蔵が方へつね/\穀物こくものをつけて来る馬圍むまかた山八といふものあり。此時用事あつてしばへんへ行ける道にてかの利介よひたほれて居たりしかバ。山八ハ徳意場とくいば伴頭ばんとう利介がかく倒れて居るを見て。立よりて引おこさんとせしはづみに利介がふところより一通の手紙おちたり。山八ハ無筆むひつにて文字もじハろくにしらされども。谷蔵が名と鶴之介のをよみゑしかバ山八大によろこび。我此ころハ工面くめんあしく小半こなから酒ものむことならす。扨よき金の鶴之介にありつきたり此雷ハ奥州を出奔しゆつほんしたるくせものにて。」2 今仁木左衛門人相書にんさうかきをもつて詮議せんぎする時節なれバ。此手紙をもつて代官所だいくわんしよ訴人そにんし。褒美ほうびの金をせしめんと。ひそかに手紙をうばひ取。代官所へいそぎ行く。扨利介ハやう/\酒のゑひさめて。かの手紙をさがすに。かいくれみへず。いかゞせんとあんじくらしけるが。手紙を落したりといはゞしかられもせん。只口上の礼をのべて。手紙の事をハいはざるにしくハなしと思案しあんをきはめ。とぶがごとくに立かへり。雷おや子か口上の礼をのべ。手紙の事ハそしらぬ顔にて居たりける。その夜もすでにはん過キ。所の知縣だいくわん大木戸志津馬しづま。馬方山八を先に立て。大勢の捕人とりてを引つれ。谷蔵が門トの戸をわれよくだけ」よとたゝきけれバ。谷蔵ハ往来わうらい生酔なまゑひ酔興すいけうとこゝろへ。これをしからんと何心なく戸を明れバ。とつたとかゝる一はん手。谷蔵ひらりと身をかはしコレ何ゆへの御手ごめと。いはせもはてず大木戸志津馬しつま。おのれ横道わうだうもの。雷鶴之介をかくまひ置く事訴人そにん有てよくしつたり。たとへいかほどあらがふとも。證〓せうこの手紙あるうへハ。ぢんじやうに雷をわたすべしといふ内に。馬圍むまかた山八おとり出。さいぜん利介が酔たほれたるふところよりひろひとつたる此手紙。ナントたしか證〓せうこであろふとよばはれハ谷蔵ハちつともさはがず。しらぬ手紙もせうことあれバぜひもなし。サア家さがしして御覧あれと落つきがほ。イヤそいつ思ひの外なる大たんもの。」3 谷蔵ともにからめとれ。かしこまると捕人とりての大ぜいとつた/\とつめよせる。谷蔵短氣たんきの若ものなれバ。そばに有合ふ天秤棒てんびんほうを手はやくとつて薙立なぎたつれバ。さすがの大勢たまりかねむら/\ばつとにけちつたり。此ひまに谷蔵ハ主管利介をふみたをしおのれにつくひやつ。大切の手紙ををとしかゝる大事を引出す不忠もの。今打ころすやつなれども子飼こがいよりつとめたるなじみたけ命ばかりハたすくるぞと。天秤棒をとりなを背骨せほねおれよとぶちのめし。たくはへ置し金財布さいふくびにかけ立出んとするその所へ。又引かへす捕人とりての大ぜい谷蔵をやるなヱゝ〈ト此所筆のぶんまはしにて|ぶたいかわると見るべし〉左馬之介さまのすけ頼兼よりかねこうの」御臺所みたいところはぎかたと申せしハ細川ほそかは勝元かつもと息女そくしよにて。二八のうへも二ツ三ツ。そのかんばせ西施せいしはぢその貞節ていせつ不塩ぶへんも及はす。殊に敷嶋しきしまの道にたつし鳥のあとながくつたへて。ふでの道いやしからす。まことに玉に金をそへたるごとき御よそほひ。頼兼公御夫婦中むつましく。鴛鴦えんわうふすま水ももらさす比翼ひよくまくらかみへだてす。こや一つい内裏雛だいりひなころハ弥生やよいのはしめにて。こずへの花もやゝほころひかすみころもいと引てくれはもしらぬ永き日の御つれ/\をなぐさめんと。御庭に幔幕まんまくうち。ながめにあかぬ春氣色つゝぢ。若草。てふ。柳。おほくの女中附そひてもうけせきに入給ひ荻の方のたまひけるハ。けにや水に住蛙かはづ。花に鳴くうくひす哥よまぬものもなしけふの慰」4 たれ/\も。此庭の花にだいし。みそ一トもしをよみつらねよと。仰にみな/\短冊たんざくの。あんしに心つく%\し。筆の小首こくびをかたふくる。奥家老おくかろう信夫しのぶ藤馬とうま申けるハ。拙者せつしや哥と申てハいたこぶしも不調法てうほう。たま/\の御氣はらしに。御氣つまりのおなぐさみ。わつさりと氣をかへて。御前ごぜんさまのことの一きよく。かの蔡〓さいゑんをたちて。音色ねいろをさとる御発明はつめい。女中たちサア/\と。おのれこのむ道へ引く。こと唱哥せうがも又一けうと。雲井くもゐの曲へゆく鳫の。琴柱ことぢあはせて萩の方。ことのしらべもすみ渡る。こずへの花に蝶ねむり。うつばりちりおとす。妙手めうしゆいろに聞居る折から。さつと吹来る〓風はやてかぜ。コハ何事と藤馬をはじめ。おほくの女中立さはぎ。萩の方をかこひまいらせ。まなこをくばるその折から。」ふしぎや吹来る風につれ。六尺あまりの白練しらきぬ空中くうちうよりまひさがり。萩の方の御かたおちかゝり風ハ程なくしつまりぬ。人々稀有けうの思ひをなし。かの白練しらきぬをとりあげ見れバ。十八といふ二字にじかきたり。藤馬是を見てことぶきをのへて申けるハ。天帝てんてい御臺所みだいところの御貞節ていせつをあはれみ。足利あしかゞ万代はんだい不易ふゑき吉瑞きちずいを下し給ふ。そのゆへハ此きぬの長サ六尺有。六ハすなはちむつにして。むつの國にかたどり。十八公のときはぎ。千とせさかふる天のしらせ。うたがひなしと申上れバ。御臺みだいをはじめおほくの女中。げにもかしこき藤馬が判断はんだん。此上もなきめでたきためし。頼兼公に申上んと。かの白練しらきぬつほねおきの井に持たせ給ひ。もうけせきを立給へバ。おほくの女中かしづきまいらせ。やかたへ」5 帰り給ひける。扨も典膳てんぜん鬼つらハ。ある日仁木左衛門をまねき。我レ頼兼を放埓ほうらつ堕弱だじやくの道にいざなひ。それを落度おちどにおしこめんと思へ共。頼かねとしに似合にあは偏屈へんくつもの。其上御臺萩の方貞女ていじよにして。内外ないぐわいのこと一てんあやまりなけれバ。ほとこすへきはかりことなしと。こまりはてたるけしきにてかたりけれバ。仁木左衛門冷笑あざわらい〔ひ〕ことはさにも女さかしくてうしりそこなふとやら。萩の方の賢女けんじよおそるゝにたらず。某一ツのはかりことをもつて。頼かね御夫婦の中を引さき。萩の方に不義の悪名あくめうをつけ。先ツ萩の方をぶつしめ。頼兼ねやさひしきひとりのつれ/\に付ケ込み。放埓ほうらつものになさんことそれかしがたなこゝろにあり。此義とくより心つきしゆへ奥付おくつきの侍ィ渡會わたらへ銀兵衛。つぼねおきの井にはかりことを申ふくめ」置しうへハ。とをからずして謀成就じやうじゆいたすべし。その謀ハコレかやう/\と耳に口。鬼貫手を打て大によろこび。奇妙きめう/\隨何ずいか陸賈りくかも。御へんが謀にハ及ばす。一ツこくもはやく行ひ給へと云けれバ。仁木につき謀ハみつなるをよしとす。かべみゝ。かならず口外こうくはい御無用と。人くひ馬に合詞あいことば。しめし合て立帰る。夫レより四五日過て。奥用人おくやうにん渡會わたらへ銀兵衛。御臺萩の方の御前に出て申けるハ。此程頼兼公衣川ころもかは下舘しもやかたに。あらたに御殿こてんを立給ひ。これを衣川ころもがは山荘さんさうと名づけ。御普請ごふしんすでに出来す。是によつて古今こゝん能書のうしよをあつめ。山荘さんそうがく。又ハ腰障子こしせうじにはり給はんとなり。御臺所萩の方ハ。古今にまれなる能書のうしよにましますうへ。詩哥しいかの道に」6 たつし給へハ。此短冊たんざくにみづから御ふでそめられとのおほせ也とて。短冊にさしそへ下書げしよの詠哥うたをさし出せバ。萩の方かたく御辞退じたいあり。かゝるはれかましき古今こゝん能書のうじよをあつめ給ふ山荘に。みづからごときつたなふでけがさんこと。思ひもよらず。この事に於てハ。いくたびも御辞退じたい申べしとありけれバ銀兵衛うけ給はり。御謙退けんたいの御ことばさる事にハ候へ共。むかし定家ていかけうしうと大臣だいじんのもとめにまかせ。百首ひやくしゆ古哥こかを書きつらね。小倉おぐらの山荘におくられしためしもあり。是レ上たる人の詞にもとらぬこゝろざしなり。今御臺御辞退したいある時ハかへつ殿とのの御心にもとり。夫トをうやまふ礼義をかき給ふ同前どうぜんなりと。詞をつくして申けれバ。萩の方今ハするに詞なく。しからバいかやうの」哥を書て参らせんととひ給へハ。銀兵衛かの下書けしよをとり出し。この哥ハ貫之つらゆき躬恒みつねうたにして。いづれもいへしうのせたるところ。この二首をしたゝめ給へとの御事なりと。まことしやかに申上れバ。流石さすが哥学かがくつうじ給ひし萩の方も。いつわりとハ心付給はず。短冊たんざくにその哥を書しるし銀兵衛に渡し給へハ。銀兵衛是をうけとり早速さつそく頼兼公の御覧に入申さんと。御前ごぜんを立ていそぎ行く。こゝ井筒ゐつゝ女之介といふものあり。元ハ細川勝元の小性にて。そのこゝろさし忠義ちうぎふかく年十六になるころまで。奥女中に立まじはり。奥小性をつとめしゆへ。男子なんしにして女子によしつとめをなすにより。人々女之介と呼做よびならはせり。萩の方御輿入こしいれみぎり勝元より」7 附人つけひととなつて奥州へ来り。頼兼の近習をつとめけるが。ある日出入の道具だうぐや来リ。某ふしぎの品をかいとりぬ。何か宮家みやけの御染筆せんひつと申候が。まことよろしきものなるや。我々がにハ及ばず。女之介様の御目きゝをねがひたく。わざ々持参いたしたりと。二まい短冊たんさくをとり出し。女之介に見せけれバ。女之介是を見るに。その名ハたれとも定めがたけれども。その筆法ひつほういはん方なし。女之介これを見て。いづれ近来きんらいの人の手跡しゆせきならんが。いまだかゝる能書のうじよをみず我レ是を買遣かいつかはすべし。あたひハ何ほどなるぞや。道具やこれを聞て。もしよろしきものならバ。大金にも成べけれども。つねに御用の茶器ちやきなどさし上ることゆへ。欲心よくしんをはなれて」十両ならバうり申べし。女之介ハその心風雅ふうがにして。哥の道をこのみけるゆへ。此時災わざはひの来るへきしせつにや。しきりにこの短冊たんざくかいとらんと思ひ。その方が申十両とハあまりに高直かうぢきなり。五両にまけなバ。手を打てすぐに金を渡すべし。道具やかしらかひて申けるハ。百両になるものかハしらねども。きうに金子入用のこと候へハ。七両までにまけ申べしと云けれバ女之介かの短冊を七両にかいとり。天によろこび地によろこひ。此妙筆めうひつさつそくきはめを取て。いへたからになさんものと。ひたすらかの短冊たんさくうちなかめほめそやしてそ居たりける

  女之介あやまつて白虎ひやくこに入る

その翌日よくしつ女之介が方へ奥使おくつかいの侍ィ来りて云けるハ。つほねおきの井どの」8 申さるゝ。女之介どのにハめづらしき短冊たんざく所持しよぢいたされしよし。萩の方の御きゝにたつし。御らんありたきとのこと也いそぎ短冊を持参ぢさんいたされ。御すゞの間まで参らるべしとのべけれハ。女之介不しんはれず。我短冊を買とりしハ。きのふのことなるに何ものか申て萩の方の。御きゝにハたつしたるとやとうたがひなから。かの短冊をふところにして。使と共に御すゞの間にいたり。沖の井にかくと案内あんないしたりけれバ。沖の井立出て。萩の方ハ。只今殿との頼かね公と御奥に御座あれバくるしからず。いざこなたへと案内あないして。奥ふかくつれゆき。しばらく此所に待給へとて出行しが。しばらく有て又沖の井立出。今日頼かね公まれに御奥に」入らせられたる事なれバ。くるしからず。女之介を御前へめしつれよとの御事也。イサこなたへと先に立。なを奥の間へともなひしが。しばらく此所に待給へ。おつつけお目見へあるべしとて。沖の井ハから紙の外へ出にけり。此時仁木左衛門ハ頼兼の御前に出。平伏へいふくして申けるハ。ねかはくハ我君わがきみ。それがしに御いとま給はるへしと申ス頼兼これをきこしめし。なんぢ狂乱きやうらんせしか。その方ハこれ國の執権しつけん。何とが有ていとま遣すへき道理だうりなしとのたまへハ。仁木はら/\となみだをながし。君の御仁心に引かれ。愚臣ぐしん寸忠すんちうを申上んと存すれハ。かへり肝侫かんねいのそしり有り。又これをいはざる時ハ。國家こくかの大事とならんいふもをし。いわぬもつらき」9 いとまのねがひハ。兼てかくごのいのちハすてもの。左衛門が心の内御賢察けんさつ下されよと。思ひこんたるその顔色がんしよく。頼兼ふしんはれ給はず。その方國家こくかの一大事あらバ。よろしくとりあつかふへき身を以て此ことをつゝみ。いとまをくれよ。命をすてんとハ子細しさいあらんととひ給へハ。仁木胸をうつて大いきつき。かく御不しんをかうふる上ハ。今ハ何をかつゝみ申さんと。近習きんじゆの人々をとをさけ。ちかくよつてさゝやきけるハ。某國家の大事と申事。よの義にあらずあさましや萩の方。いかなる天魔てんまの見入にや。此ころ井筒ゐづゝ女之介を御寵愛てうあいあり。ひそかに御奥にめさ淫楽いんらくにふけり給ふと女中のとりさた。賢女けんじよのきこへまします」御臺所みたいところ。まつたくたん者の虚談きよだんならんと。心をつけてうかゞふ所に。人の申にすこしもたがはす。日々玉章たまづさのとりやりあるひハ哥をゑいじ。詩をし。たれはゞからぬさよころも。おもきが上の御身にも。かく道ならぬ不義いたづら。もし此事世上に露顕ろけんする時ハ。御家の耻辱ちぢよく國家こつか大乱たいらん。お為を申もわか主人しゆじんつみたゞすもわが主人事両端りやうたんせまりたる左衛門が心のうち。御賢察けんさつ下さるべしと。なみだと共に語るにぞ頼兼公もあきれはて。黙然もくねんとしておはせしが。いまだ御心にうたがはれず。萩の方ハ世にかしこき女なりと。一家中かちうもこれをせうじ。我にたいして一てんの。あやまちなしと思ひしが。何とやらいぶかし。事實否ことのじつふを」10 たゞすへしとのたまふ所へ。つぼね沖の井立出て。我君ハ御心すぐにして。人もわれもみな正直しやうぢきとのみ思し召せど。世の中の人心。ふちとかはるハつねのならひ。もし此事うろんに思し召ならバ。さいわひ今女之助。御奥の白乕ひやくこの間にて。萩の方と何やらさゝやき。何か文やら短冊やら。女之介に渡し給ひし。御入リ有て御らんあれと。まことしやかに申にぞ。頼兼公の賢者けんじやかゞみも。侫人ねいじんくもおほはれ。いかりの顔色がんしよくおもてにあらはれ。につくき不義の四足しそくとも。イデやうすを見とゞけんと。御座を蹴立けたてて立給へバ。仁木沖の井御跡に付したがひ。御奥の間へいそぎ行。女之介ハ沖の井がおとづれを。二タ時ばかり待けれども。さら沙汰さたも」なかりけれバ。心にうたがひ。くびをのはじて。奥の方をのぞき見れバ。御簾ぎよれんふかくれて。白乕びやつこの間といふがくあり。女之介大におどろき。此白乕ひやくこの間ハ萩の方の御寝所こしんしよ (お ね ま)にて。平人へいにんの入るべき所にあらず。われあやまつて引入られたるこそ一大事也と。きうを立んとする所に。うしろのから紙さつとひらき。殿とのの御入とよばはれバ。女之介ハツト仰天きやうてんふりかへれバ。うしろにすつくと頼兼公。仁木沖の井付添そひ申シ。スハくせものよとよばはれバ。手ン々にかけ来る奥女中。薙刀なぎなたかひこみとりまひたり。仁木左衛門こゑあららげ。不義不忠の人非人にんひにん。沖の井ソレと声かけれハ。局沖の井かけよつて。」11 女之介がふところより。引出したる二まいのたんさく。頼兼公へさし上れバ。頼兼取てこれを見給ひ。いかれる顔色がんしよくをそゝぎ。御はかせに手かけ給ひ。すでに御手討てうちと見へけれバ。仁木あはてておしとゞめ。我君の御いきどをりハさる事なれども。もし此所にて御手うちになし給はゝ。かへつかれがさいわひならん。ごく屋へ入れ置糾明きうめいさせ。手引一吟味ぎんみをとげ。そのたつからさん。とかく拙者せつしやに御まかせあるべしと。用意やういのとりなは取出し。不義の逆賊ぎやくぞくうごくなと。女之介を取ておさへ。高手小手にいましめける。女之介ハ始終しじう平伏へいふくして。そのゆへをしらざれバ。一ごん半句はんく問答もんどうにも及ばす。口をとぢてゐたりしが。不義の逆賊ぎやくぞくといふ」をきく。仁木にむかつて申けるハ。某身にとつて不義不忠のおぼへなし。何ゆへなわをかけられしぞと。いわせもはてずはつたとにらみ。おのれ大たんもの。御臺所萩の方と密通みつつうし。御寝所しんしよかよひ。すでに萩の方の直筆ぢきひつのたんざくを給ひしハ。たしかなるせうこ。コレその哥に「ふかゝれと思ふ心をつゝくみかねてなを袖ハぬれける。又「思ひわひむ心を忍ふ山覚て落ぬと人のつげずハ。とあるからハ。哥の内に頼兼の二字と。井筒の文字もじをよみ入しハ。わが君をそしることば。これたしかなるせうこなりと云けれバ。女之介はじめてかれらがはかりことに落たると後悔こうくわいし。そのわけを云ひらかんとする時。より兼公御坐を立て。」12 奥の一間へ入リ給へハ。仁木ハ井筒を引立て。ごく屋へこそハおくりける。かのたんざくをうりし道具やも。仁木が一味の者にして。かくはかりしとぞしられけり。扨も御臺所萩の方ハ。東御殿ひがしごてんたかとの哥書かしよを見ておはせしが。こしもとにしきあはたゞしくかけ来り。今御奥白乕ひやつこの間に。一大事出来りぬ。御近習井筒女之介とやらん。御臺所御直筆の短冊を。懐中くわいちうし。白乕の間にいたりしゆへ。御家老かろう仁木殿是をあやしみ。その短冊の内に。頼兼と井筒のもじをこめたる上。御臺所の御直筆と云ひ。萩の方と不義せしにうたかひなしと。女之介ハ不義の相手にきはまり。殿とのの御手討になりし共云ひ。又獄やへ引かれし共申也と」大いきついて申けれバ。御臺ハおぼへの短冊に。扨ハ悪人あくにん共の謀におとされしと。御涙せきあへず。みづからいやしくも細川勝元の娘と生れ。官領くわんれい頼兼の妻となり何不足有て。不義いたづらをなすべきや。此事申わけせんハ安けれども。その女之介とやら御手討になりしうへハ。死人しにんに口なき片言かたことにて。わが云訳ハよも立ツまじ。さるにてもあぢきなき世の中や。身に覚へなき不義におち。汚名をめいを千とせののちにのこし。はぢを父上母上につたへ参らすかなしやと。ひたんの涙にくれ給ふかゝる所へつぼね沖の井立出。只今殿とのの御使として。渡會わたらゑ銀兵衛一ふり短刀たんたう持参じさんいたし。御次の間にひかへ候と申上れ」13 バ。萩の方殿の御使すいしたり。おつ付あはん待たせよとあたりの人をとをざけ給ひ。心も細き筆のぢく。今きえ行命毛いのちけハ。まがらぬすみもまがる世に。すゞりの水のあはれとも。神ならぬ身の行すへをこま/\と書したゝめ。こしもとにしきを呼給ひ。そちハ此としころ目をかけてめしつかひ心たてもしりぬれバ今大事を申付る。いかにもして此やかたをしのび出かまくらへ立こへ此文を父勝元へさし上よはやく/\とのたまへハ。錦ハさすが萩の方のおもき仰にせんかたも。なく/\立て出て行御臺ハ跡を打なかめヤレうれしやと吐息といきつき。うちかけの御めしかへての用意の白小そで。口に唱名せうめう目になみだ。六尺あまりの白きぬを。」長押なげしむすび首にかけなむ西方さいほうみだ如来。此世ハ讒者ざんしや呵責かしやくにくるしみ汚名をめいのちまたにのこすとも。未来みらい極楽ごくらく上品ぼんの。はちすにみちびき給へやと。ついくひれて死し給ふ。御身のはてそあはれなる時に御年十八才。是まつた實方さねかたの。霊魂れいこん當家へたゝりをなし。かの白練に十八と書たりしも。御臺の御とし十八才。其白練にて縊れ給ふ。因縁ゐんえんまことにおそろし
高尾舩字文第二冊畢」14畢

高尾船字文第三冊

岩手山いわでやまに谷蔵おゝかみをうつ
   附リ 夫レハ武松ぶしやう景陽岡けいやうこう
      これ奥州おうしう南部越なんぶごへ
 その勇力ゆうりき山鳥譬やまとりのたとへ

花街くるは放生會はうじやうゑ頼兼よりかね了鬟かふろはな
   附リ 夫レハ梁山りやうざん金沙灘きんしやだん
      是ハ陸奥みちのく満又川みつまたかは
 其悟舩はやふね御注進ごちうしん

荒獅子あらししさかさま大榎おほゑのき
   附リ 夫レハ魯達ろだつ五臺山ごだいさん
      是ハ鶴若つるわか追鳥狩おひとりかり
 其忠臣ちうしん黒龍狆こくりゆうのちん 」

目次3

口絵3

荒獅子あらしし男之助おとこのすけ重宗しげむね
却テ喜フ騒人第一ト稱フ。今ニ至テ百花王ト喚做ス。
口に はな阿叫あうん牡丹ぼたんかな」1

高尾舩字文第三冊

曲亭馬琴著 
  岩手山いわでやまにきぬ川おほかみをうつ

絹川きぬがは谷蔵ハ。おもはずも馬方山八が訴人そにんにて。住馴すみなれし宮戸川のすまゐなりがたく。羽生村はにふむらの兄与右衛門が方へ落行おちゆかんとせし所に。はや下総しもふさの方にハ追手おつて人数にんじゆみち/\て。すゝむこと叶はず。なくみちを引かへし。出羽では最上もかみにハいさゝかのしるべ有れバ。これに便リ身をよせんと。奥州さして下リける。谷蔵此程の長旅ながたび路銀ろきんもやがてつきんとす。かくてハ叶ふまじと。夜を日についいそぎけるほどに。奥州岩手の里にかゝりける。南部なんぶみちはるかに見やり。小黒崎おくろさき鳴子なるこの湯を出れバ。是よりの」くになれバ。谷蔵やう/\心おち付。まづ酒をのみてたびのつかれをもなぐさめんと。岩手いわでの里の酒やに立より。床几しやうぎこしをかけゝれバ。早くも酒さかなをたづさへ出る。谷蔵やがて五六合の酒をのみ。ゑいせうしてかの酒やをはしり出。道二三町行ける所に。酒やの亭主ていしゆヲヽイ/\とこへかけて。おひかけ来れバ。谷蔵立とまり。我レ酒代ハはらひしに何ゆへ追かくるぞや。亭主これを聞て。たび人ハいまだ知リ給ふまじ。此岩手山にハ近頃ちかころ一ツの白狼しろけおゝかみ出て。多くの旅人をくらひけるゆへ。日中と申せども此山をこゆる事まれ也。これによつて當所の知縣ぢとうより。十貫文の賞錢ほうびせんを出して。狩人かりうどめいじ給ひ。かの狼をらせ給へ共。此狼ハその大サ牛の」2 ことく。白斑毛しろまだらげの狼なれバ。中/\猟人かりうと等が手にのらず。されバこそ代官だいくわん所より。此山をこゆる旅人に。巳午未みむまひつじの三時外ハゆるし給はず。いますでに七ツ下リにてさるこく過也。旅人ひらにこれより引かへして。今宵こよひハ我見世に一宿しゆくし給ひ。明日道つれをまち合セて。山を越給へと云けれバ。谷蔵あざわらひ。此老爺おやぢあぢなおとしをいふて旅人をとゞめ。錢儲せにもうけをせんとするぞや。人ハ狼をおそれんが。我レハ狼を恐れず。あにきかずや。とら狼よりるかこわしとハ。旅寝たひねの野宿の雨露あめつゆに打るゝ。我身の上のたとへ也と云けれバ。亭主ていしゆ大にはらを立。それがしハ一ツへん心を以てつげ申に。旅人かへつてそれがしを人おどしとし給はゞ。心まかせに行」給へと云すて。おのれが見世へ帰りける。谷蔵ハ足にまかせ。道十二三丁行けるに。山の上り口のすぎの皮をけつり。何やらんかき付て有リ。ちかよつて是をみるにすなはち近頃ちかころ岩手山に狼出て。多くの旅人をがいす。昨今さくこん山をこへん旅人。巳午未みむまひつしの三時。二三十人の道伴みちつれを待て。此山をよきるべし。その外の時刻じこくに。一両人にて越ることをゆるさずと書付たり。谷蔵あざ笑ひ。かの酒やかやうのはかりことをもふけ。旅人をとめ。錢もうけをせんとはかるこそにくけれと。猶五六町のぼりける。此時はや日ハくれて。月山のをてらす纎々さん/\なかれ。松風颯々さつと吹て。何とやらん物凄ものすごし。谷蔵思ひけるハ。不案内あんないの夜道せんより。此所より」3 引かへし。かの酒やにとまらんと思ひしが。又酒やの亭主にわらはれん事をはぢて。道をいそひで又五六町のぼりけるに。いろよき山鳥隈笹くまさゝかげより飛出。しきりにばたきをしてぶ事ならず。谷蔵これを見て。此鳥ひるかり人に羽を打たれ。ねくらをさがすと覚へたり。いで/\手とりにせんと。かの山鳥を追かけけれバ。山鳥四五間とんで又しきりに羽を打ツ。かやうにする事五六度に及び。すでとらへんとする時。かの鳥高く羽をうつて。はるかに飛うせける。谷蔵あたりをみれバ。いつしか道をふみちかへ。山に入る事五六丁なり。谷蔵大に心あはて。道をもとめて出んとする所に。山風さつと吹おろし。一ひきの狼かけ出たり。そのかたちハ牛よりも大きく。」日輪にちりんまなこ〓月みかづききばつめ蹴立けたて。谷蔵をはつたとにらんでかけたりけり。谷蔵これを見るよりも。荷物にもつに付たる六尺棒ろくしやくぼうを。手ばやくとつてさしかざし。松の大木たいほくだてに取て。かの狼に立向ふ。狼ハしきりにたけつて谷蔵を駈たりける。谷蔵ハかねて雷に習ひ得し武藝ふげ達人たつじん。ことに酒のゑひ十分にのぼりて。力日ごろに十ばいせしかハ。ひらりとかはして狼のうしろにたつ。狼ハ谷蔵をかけそんじ。ふたゝび駈るを引はつし。かくのごとくする事五六度也。をよそ狼人をとるに。わづか一二度が内にかけて是をくらふ。今武藝ぶげいにすぐれたる谷蔵に。五六度が程駈はづされ。狼是に氣をうははれ。いきほひ大につかれけり。しかれ共年ぶる狼なれバ。猶々たけつて」4 駈立る。谷蔵すきを見すまし。ぼうをふり上。ちからにまかせて打けるが。狼もまなこはやく。谷蔵が棒のひらめくを見るよりも。早く四足しそくをかはしけれバ。谷蔵が棒。いたづらに松の木へ打こんで棒ハ。中より折れにける。谷蔵いらつて棒なげすて。かの狼にむづとみ。上になり下になり。しばしが間いどみしが。眷頭やわら角力すまふにことなれたる谷蔵なれバ。ついに狼の首をおさへてはたらかせず。狼ハしきリにあがきのがれん/\としたりけれバ。狼の前足まへあしにて暫時ざんじに一ツのあなをほり出したり。谷蔵ひそかに是をよろこび。狼の口を穴の内へおしあて。左の手にて狼の首をしつかとおさへ。右のこぶしをふり上。狼の眉間みけんのぞんで。つゞけさまに十五六くらはしける。まことに谷蔵一身いつしんの」ちからを右のこぶしに入れ。平生へいぜいならひ覚し。やはらの手を出し。かく大力だいりきに打れたることなれバ。さすかの狼眼くらみ。ついいきたへにける。谷蔵狼のうごかぬを見定め。かの折たる棒をひろひとり。猶つゝけさま二三十くらはしけれハ。いよ/\狼ハ死きりぬ。谷蔵荷物にもつをゆはへし細引ほそひきをとり出し。狼の四そくをゆはへ。引上んとしたりしが。そのおも磐石ばんじやくのごとくにて。かき上ることならず。谷蔵が力にてかつがれぬにハあらざれ共。先程より狼とたゝかひ。力大につかれけれバ。終に狼を打捨。ふもとを望んで下リけるに。すゝきのしげみより五六疋の狼かけ出たり。谷蔵大におどろき。我レ今一疋の白狼をころし。力すでにつかれたるに。又々五六疋の狼にあふこと。わが命」5 爰におはるならんと。よく/\まなこを定めて是を見れバ。此狼人のごとく立てありく。間ちかくなつてこれをみるに。五六人のかり人。狼のかはをかぶりこのふもとにかくれゐて。かの白狼をねらふなり。猟人共谷蔵が山をへて来たりしをふしんに思ひ。委細いさいわけきくといへ共。さらに誠とせす。谷蔵やがて猟人ともをつれて。狼をころしたる所へ来り。死したる狼を見せけれバ。猟人共きもをひやし。誠に是ハ人間わざにあらず。かゝる狼をこぶしを以て打ころし給ふ勇力ゆうりき。いにしへの朝比奈あさひな篠塚しのづかもおよはずとて。早速さつそく代官だいくわん所へ注進ちうしんしたりけれバ。代官の思ひをなし。やがて谷蔵をよびよせけれバ。所のせう屋谷蔵をかごにのせ。駕の先にかの狼を。五六人」の人夫にんぶになはせ。代官たいくわん所へともなひける。此ことをつたへきゝ。近在きんざいの百性。道のかたはらに立て。見物けんぶつする事うんかのごとし。此事官領くわんれいよりかね公の御みゝにたつし。かゝる万夫ばんふたう勇士ゆうしあるこそくにのほまれなりとて谷蔵をめしかゝへ給ひ。近習きんじゆかくにぞなし給ふ。されバ谷蔵が勇力ゆうりき近國きんごくにかくれなく。又不の立身を。うらやまぬものもなし

  花街くるわ放生會ほうじやうゑに頼かね小三板かふろはな

利足あしかゞ・ママ官領くはんれい頼かね公。いともかしこき大将も。侫者ねいしやあけそめられて。山里やまさと柳巷くるわかよひ。高尾たかをといへる娼妓けいせいなれそめ給ひ。日毎ひごとに通ひ給ふといへ共。高尾ハ玉田たまた十三郎といふ間夫まぶありてたがひにふかく云かはし。」6 てんにあらバ比翼ひよくこさ地にあらハ連理れんりまくら。たがひになふ。しにませふと。ちかひたて中垣なかがきを。頼兼のせきへだてられ。思はぬ人にとおざかり。高尾ハ明くれ。玉田がことのみ物思ひ。毎日まいにちやまひにかこつけて。頼兼の御心にまかせねバ。思ひつのるハ恋路こひぢのならひ。侫人ねいじん共がすゝめにより。さらバ高尾が身請みうけせんと。花街くるはまれなるこがねの山。まづ高尾にハたか惣縫そうぬいむらさきうちかけ着せ。たかひやうする品定しなさだめ。三浦の〓鬟かふろ三十人。同じ出立のかきいろに。竹をぬふたるついおび。大門の入口に放生會ほうしやうゑはたを立。すゞめなら禿かふろ身請みうけ逸物いちもつの高尾手にすへて。くるわ出るみちのくの。こがね花さく大々盡だい/\じん。扨かの禿のおや共ハ。わが子の身うけとしらせに」より。大門口につめよせて。芋賣いもうりの親子の奇縁きゑん。花うりかゝが荒神くわうじんの。松にまつたる名のり合ィ。子をすてるうきよのやぶも。すゞめはな漂客だいじんの。御かげで子共をひらふたと。ひとり/\に請とつて。かへるよろこび。行くよろこび。しばしハ爰に川竹の。竹にもまれし子雀も。ながれれを出るはまぐりの。のりうりばゞか舌切雀したきりすゞめ。おやどハどこだとたはふれ〔れ〕て。舌打をしてつれて行。前代せんたい未聞みもんのほう生會。くるはのかごはなし鳥。取らぬたか尾ハ氣のそれたか。上見ぬわしの頼兼に。つれてくるはを立出る。かねて用意の御ふねに。高尾もろとものせまいらせ。衣川のやかたへと。いそげバしほ満又みつまたの。川のきしみぎはのあなたより。怪舩はやふねそうこき来り。御注進ちうしんよば7 はれバ。御供に立たる新参しんざんの。絹川谷蔵舳先へさきに立出。氣づかはしや姉葉あねは松兵衛。何事なるぞと尋れバ。扨も此ほど頼かね公の御放埓ほうらつ昼夜ちうやをわかたぬ遊里ゆうり淫楽いんらく。此きよにのつて叔父おぢ鬼つら。仁木左衛門と心を合せ。東山へ注進ちうしんす。ヶかでうの第一。つみなき御臺萩の方を不義におとし。がいし申せし御とがめ。又ハ忠義ちうぎとをざけ。遊君ゆうくん高尾を身うけなし。紂王ちうわう武烈ぶれつ悪逆あくぎやくみやこへはや馬。早飛脚ひきやく國家こくかの大事と義政まさ公。おゝせもおもき厳命げんめいにより。山名細川の両大老。當やかたへ下着あり國の老臣家中かちう諸士しよし表門おもてもんにハ高てうちん。又うら門にハ人馬の出入。御帰舘きくわんの事思ひもよらず。しばらくことのしつまるまで。いづ方へなりと御舟をよせ」られ。執権しつけん渡部わたなへ外記げき宗雪むねゆきを御たのみ。時節をうかゝひ給へかしと。云すてゝ引かへす。頼かね公はじめ参らせ。絹川以下の人々も。只あきれたる斗なり。谷蔵申けるハ。事火急くわきうにおよびしうへハ。くやむともかへりがたし。執権渡部外記宗雪ハ。忠義ふかき侍とうけ給はれバ。しばらく御座舩をしば川のおきうつし。時節を待て御帰舘をもようすべし。又高尾どの御同舩の事ハ。世の聞へはゞかリあれバ。御召かへの舩にうつし。其舩を高尾丸と名付。此満又みつまたにとゞめ置。舩中せんちうの御氣はらし。折々此所へかよひ給はゞ。御たのしみも莫大ばくたいならんと。申上れバ頼かね公。我若氣わかきのあやまりにて。侫人ねいじんばらが陥穴おとしあなにおち入ツて。國有れども帰りがたく。家あれ共 いりがたし。君ハ舟」8 なりしんは水なり。舟はたゞよふ頼かねを。絹川の水すくへよや。今こそおもひあたりしぞや。かの西海にたゞよひし。平家の末もかくやらんと。八嶋のうたひを口すさむ。げに官領くわんれいのふところ子。御身のはてぞあはれなる。谷蔵さつそくめしかへの。高尾丸に高尾をうつしのせ。頼かね公に申上けるハ。さいわひ高尾の母ハ。此近邊きんへん住居ぢうきよいたすよし。ほのかにうけ給はりおよべハ。今日よりかの老母らうぼを高尾丸の舩中によびむかへ。高尾どのに付置。君ハ芝川のおきへ御舟をとゞめ。渡辺外記が方へ御使を立られ。ひたすら御帰舘きくわんの儀を。御たのみ仰つかはされ然るべしと申にぞ。頼かね公聞たまひ。谷蔵よきにはからふべし。君となり。しんとなり。敵となり。味方みかた」となる。うき世ハしゆらのちまたぞや。{トよりかね|うたひ  }けふのしゆらのかたきハそ。何能登のかみのりつねとや。あらもの/\し手なみはしりぬ。うたひもしゆらのかたき同士とし。たか尾を爰に沖の方。御舩をはやめ行給ふ。

  荒獅子あらしゝさかさまに大ゑのきをぬく

扨も官領くわんれいよりかね公。御身持放埓ほうらつにまし/\。ことに此ほど御行衛さだかならねバ。御妾腹せうふくのわか君つるわか丸。當年八歳になり給ふを。御家督かとくと定め奉り。是ぞ二代の官領くわんれいしよく。ころハ八月末つかた。渡會銀兵衛がすゝめにより。此ほど御氣はらしと。信夫しのぶ のやかたの追鳥おひとりかり。此御殿てん土地とちひろく。山も有り川もあり。十町の築山つきやま。一里の原。すゝき尾花ハ風にうなづき。はぎも野きくもうなだれて。君をうやまふその風情ふぜいつるわか丸たかを手にすへ給ひ。むくうづらやひへ鳥の。獲物ゑものを竹にくゝし付ケ。御きげんなゝめならざりけり。折ふし鶴若御ひさうのたかそれて。の木のこずへにかゝりけれバ。御近習きんじゆの諸士立さはぎ。梯子はしこさほよとあせれども。五六丈の大ゑの木。およばぬ月にゑんかうの。こずへをにらむばかりなり。近習きんじゆかしら荒獅子男之介。諸士しよしおひのけて申けるハ。扨々やくらさるわかとの原。イデ/\其木をこぎにして。たかをとらへ申べしと。大小とつてうしろにたばさみ。」両のはだおしぬひで。しゆよりもあかきからだをあらはし。一かゝへ有る大榎ゑのきもとにしつかと両手をかけ。ヱイとふみ込ムちから足。一トリふるとみへけるが。さすがの大木根よりぬけ。根もとにほらをなしにける。御側の人々是を見て。扨も稀有けうの大力やと。しばしハりもやまざりけり。男之助やがてかのゑの木をよこにため。こずへにからみし翦鷹それたかを。何のもなくとらへしかバ。鶴わか御きげんうるはしく。ソレ/\銀兵衛。男之助にほうびとらせよとの給へハ。渡會銀兵衛偏提さゝへ吸筒すいつゝたづさへ出。是ハこれ寿老酒じゆろうしゆとて。命をのぶる希代きたい名酒めいしゆ。今日若君にさし上んとぞんじ。持参ぢさんいたしたれど。荒獅子とのゝ只今のはたらき。御ほうびに下さるゝ。ありがたく」10 頂戴てうたいあれと。大盃をさし出せバ。荒獅子盃をとつておしいたゞき。すなはち盃を下に置て申けるハ。有がたき幼君やうくんのたまもの。しかし幼君をり奉る男之介。御酒ハ御免下さるべし。銀兵衛是を見て。たとへ幼君の補佐ほさたりとも。わづか一盃はいの酒に酔給ふ。荒獅子とのにあらず。せつかく幼君より下さるゝ御ほうび。ひらに一盃頂戴ていだいあれと。いへ共荒獅子かぶりをふり。酒の義ハいくにも御ゆるしに預るべしと辞退じたいすれハ。鶴若君。男之介あつか たへよと。おもき仰にぜひなくも。なみ/\うける盃を。おしいたゞひてのみほせバ。めのと政岡まさおかこれをみて。手にあせにぎるばかり也。ふし義なるかな男之介。俄に」手足癡麻なへしびれ。口中よりよだれをながし。はたらくものハまなこばかり。政岡おどろき幼君を。だき参らするそのおりから。にわかに北風はげしくき。すゝきの中より火おこりて。幼君の御座ちかくやけ来れバ。銀兵衛わざと驚轉ぎやうてんし。是ハ下部しもべがたばこの火。枯芝かれしばにもえ付たりと。覚へたり。イサ火をさん若とのばら。我につゝひて参られよと一ツさんにかけ出せバ。あとに引そひ若侍。火をしづめんと追々に。御前を立て走リ行。時に悪風あくふうさかんにして。幼君の御坐まぢかく。ほのほを吹立もへ来れハ。政岡ハ鶴若をいだきまいらせ。涙をはら/\とながして申けるハ。悪人ばらのはかりことにおとされ。たのみに思ふ男之介ハ。蒙汗しびれ11 くすりどくにあたり。手足しひれて死人のごとく。こと猛火もうくは四方にちれバ。にげ出る道もなし。さても世の中ハあぢきなや。五十四ぐんの御あるじくわん八州の官領くわんれいも御うんつたなくまし/\て。悪人ばらの手におちて。ほのほの中にはて給ふか。御父頼兼公ハ。高尾といへるけいせいゆへ。御身をあやめ。其わか君ハたかがりにて。御身をはたし給ふ事。それも高。是もたかいかなる前世さきせのむくひぞやと。又さめ/\となげきける。爰に鶴わか丸つねにやしなひかい給ふ。黒龍こくりやうといふちんありしが。いづくよりか来りけん。一さんにかけ来たり。ながるゝ清水しみつを身にあみて。幼君の御そばなる。草のうへにそゝぎかけ。又立かへつて身をひたし。荒獅子が顔へ水をそゝぎ。かけてハかへり。帰り」てはかけ。かくのごとくする事五六十度。政岡ふしぎの思ひをなし。かの狆がやうすを見る所に。後にハちんの身もつかれ。七八十度かけ帰り。おのれと狆のせいきれて。草むらにたほれ死にけり。此時荒獅子やう/\と蒙汗薬しびれくすり毒気どくきめ。むつくとおきてあたりをみれハ。猛火もうくわさかんにもへ来る。荒獅子/\のいかりをなし。幼君を左リにいだき。右の手に刀をぬき。ほのほをにらんて立たりしハ。これぞゆるかぬ日本武やまとたけいきとうともいつゝべし。勇士ゆうしいかリにおそれしにや。暫時ざんしのうちに風かはり。火ハあとへ/\ともへしさり。一すじの道をひらきしかバ。政岡荒獅子ふしぎに乕口こゝうの」12 なんをのがれ幼君をかしづき奉り。やかたへこそハ立かへる。誠に荒獅子がぬいたる刀ハ。幼君の御守リ刀にして。源家重代の名剱めいけん。雲きりと名付。平家の火徳くわとくを切なびけし宝剱ほうけんなり。ことさら黒龍こくりやうの狆が忠死。荒獅子が勇力。政岡が義心。かゝる天のたすけ有幼君。おいさきさかへ給はん事うたがひなしと。忠臣ひそかによろこびけり。鶴わか君ハかの狆が忠死をあはれみ。人間にんけんの礼をもつて。あつくほうむり給ひけり。
高尾舩字文第三冊畢」(白)」13

高尾舩字文第四冊

頼兼よりかねいかつ高尾たかをころ
   附リ 夫レハ山東さんとうそう公明こうめい
      是ハ関東くわんとう官領くわんれいしよく
 その閨中けいちう密書禍みつしよのわざはひ

龍勢りうせいとら花火はなひたゝかはす
    夫レハ絹川きぬかはこく旋風せんふう
    是ハ宗重むねしげ白浪裡はくらうり
 その水練すいれん忠義源ちうぎのみなもと 」

目次4

口絵4

足利頼兼あしかゞよりかね
千回鏡ヲ覧テ千回ノ涙 一度欄ニ〓テ一度愁

娼妓ゆうじよ高尾たかを
化野あだしのや人のこゝろおにを かくしてゑめ姫百合ひめゆりの花」1

高尾舩字文第四冊

曲亭馬琴著 
  頼兼いかツて高尾を殺す

かくて頼かね公ハしば川のをきに御舩をおろし。渡辺わたなべ外記げきが方へ御帰舘ごきくわんの事をたのみつかはし給ふ。外記ハ忠義の侍なれバ。何卒なにとぞ折をうかゞひ。頼かねをむかへ奉らんと。折々密書みつしよを以て。御心をなくさめける。扨も三浦の高尾ハ。頼かねにうけ出され。みつ又の舩中せんちうに有といへども。心ハ玉田十三郎をしたひ。頼かねをきらひ奉り。そのじやう甚た疎かりしかバ。よりかね公も。後にハ高尾がそぶりをすいし給ひ。此ほどハ一ト月あまりも通ひ給はず。高尾が母ハ。もみぢばゝ渾名あだなをとりし溌女すつはめにて。元トハ藝子げいこの」ながれなれハ巧言こうけんを以て頼かねをすかし。おのれら親子か口をぬらさんと思ひ。折/\高尾をすゝめ頼かねをむかへなぐさめける。頃ハ六月半はニて。頼兼公柴川しばかはおきに。ひとりやかたの事のみあんじわづらひ居給ひしが。たちま怪舩はやふねそうこぎ来り。渡部が蜜書みつしよをさし上けれバ。頼かねふうおし切リ。是を見んとし給ふ所へ。高尾が母。小ふねにのつて満又みつまたより。柴川の御座舩へまいりけれバ。頼かねきうにその密書みつしよを。ふところへかくし給ふもみちはゞ頼かねの御前へ出て申けるハ殿さまにハ此ほどいかなる御たのしみ出来て。かくみつ又へハかよひ給はざるや娘高尾ハ只殿の御事のみ。恋したひ奉り。明くれ物あんしに。此ほどハ食も」2 すゝます。もし四五日もかよひ給はずハ。娘ハ病死やみしににやしに申さん。かく迄娘がしたひ奉る。恩愛おんあいなさけを思し召ものならハ。只今より此小ふねに召され。満又みつまたへ御入有て。高尾が心をもなぐさめ。又一ツにハ殿の御欝気うつきをもはらし給へかしと。詞をつくして申けれバ。頼かね公聞しめされ。われ此ほどハ何とやらん氣ぶんむづかしく。心おもしろからねバ。汝が方へも通はず。近日心よくハ早々行べきに。まづ今日ハかへるべし。楓婆もみぢばゝから/\と打笑うちわらひ殿の御気分きぶんあしきこそさいわひなれ。此御坐舩の御気つまり。御心労しんろうのみあれバこそ。かく御気色きしよくもわるからめ。満又の浦ハ舩人の出入おほく。網打あみうつふねかいとる子供。夜ハすゞみの舟もよひ。所かはれハ柴川の。」沖にまさつた御なくさみ。ぜひ御入とすゝめ申せバ。谷蔵も此間より。もしや頼かねの御病氣も出やせんと。心をくるしめる時節じせつなれバ。何かな御氣はらしをさせ申さんと思ひ。高尾の母。かくまで申上る事なれば。格別かくべつの御なぐさみハなくとも。今宵こよひハ満又へ御通ひあれかしと申にぞ。人の氣にさからひ給はぬ寛仁くわんじんの大将。其方共かく迄ことはをつくすうへハ。心にハすゝまねとも。しばしが内なりとも行べしと。すぐにかの小舩に召され。絹川を御供にて。満又川へ行給ふ。御舩すでに満又に着けれバ。かの高尾丸にうつし参らせ。谷蔵ハ次の間に入ツてやすみける。もみちばゝこゑを高め。高尾ハいづくにぞや。そちが恋人の来リ給ふに。はやく」3 あひ申せとよははりけり。此時高尾ハ。舟の二かいにひとりうつ/\と。十三郎が事を思ひつゞけてゐたりしが。今母の恋人の来り給ひしと云しを聞。もし十三郎の来りしにやと。あはたゞしく二階を下り。はしこの中段より下を見れバ。頼かね公母とならんで坐し給ふ。高尾是を見て。あはたゞしく又二階へかけ上り。夜着よぎ引かつぎふしにける。楓ばゝ又呼はりけるハ。そちが恋人の来り給ふに。何とてはやく出迎むかへ申さぬぞや。高尾是を聞て。二階のうへより。わが身けふハ心あしけれバ迎へ申さず。その人定さためて足の有べけれバ。二階へ上り給ふ事のならぬ事ハあるまじとこたへける。頼かね公此一言を聞。心にいかり給へとも。いやしき」流れの身。かゝる雑言ぞうごんハつねの事ならんと。聞かぬふりしておはします。もみぢばゝから/\と打わらひ。娘高尾此ほど殿の御通ひなきをうらみ。かゝる詞を申ならん。まづ二階へ御上リ遊ばせと。頼かねの御手をとり。二階へともなひ奉る。頼かねハ心すまぬ御顔にて。床はしらによりそひ。沖の方を詠め給へハ。高尾ハ頼かねをうしろにして。夜着にもたれ。ためいきをつく斗なり。もみぢばゝ此ていを見て。酒なくてハしやうを引く事有まじと。兼て用意の酒さかなをたづさへ出。盃をとつてより兼にすゝめ申。頼かねハこれ関東の官領くわんれい。白はぶたへの上人物じんぶつなれバ。この盃を辞退じたいし給ふ事もなく。盃をとつてほし給へハ。ばゝ又高尾に」4 すゝめける。高尾心に思ひけるハ我レハ何とぞ。十三郎どのにそはふとこそ思ひしに。此すかぬ男にうけ出されたるこそうらめしけれ。たとへいかやうになるとても。今宵こよひ頼かねと。一ツにハまじきものをと。盃をかつちりうけてさし出せバ。婆又より兼にすゝめ申ス。頼かね又一盃ほし給へバ。婆々又高尾にさす。高尾ハいかにもして。頼かねを酔伏ゑひふさせ。こよひハ心よくひとり寝んと思ひ。少し顔色がんしよくをやはらげ。盃に半ぶんほどうけて頼かねにさす。かやうにする事。六七度に及ひけれバ。頼かね心にすまぬ酒をのみ。大に酔ひ給ひけるけしきなれバ。もみぢ婆々ばゝ盃をおさめ。高尾に向て云けるハ。高尾いつまで殿とのを」うらみ奉るぞや。此ほど殿の御通ひなきを。はら立るハ尤なれ共。もはや御入あるうへハ。きげんを直し。殿の御心をもなぐさめ申せよ。扨も思ふ中の恋いさかひと。たとへのふしもおかしやと。こと碁盤ごばん哥書かしよなど枕元になをし置。こよひハ久しふりの御かよひぢ。御きげんよくかたらひ給へと。楓ばゝハ下屋へ下り。絹川にも酒をすゝめ。おのれがねやにやすみける。高尾ハそのまゝ夜着よぎにもたれてふしけれバ。頼かね此やうすを御覧じ。高尾が寝入たる内。かへらんと思ひ給ひしが。かの楓ばゝ。頼かねの帰り給はん事をおそれ。二階口の戸にじやうをおろして置けれバ。頼兼公下へ下り給ふ事かなはず。此時酒の」5 酔いよ/\のぼりて。せきにたへかね給へハ。いたはしや頼かね公。双六盤すごろくばんを枕にし給ひ。御かいまきもめし給はず。そのまゝそこに御寝ぎよしんなる。高尾ハひそかに此体を見て。舌を出してあざわらひける。その夜もすでにふけわたり。頼かね公かへりをし給ふはづみにかの渡辺が密書みつしよ。ふところよりあらはれ出たり。高尾ハさいせんよりね入らずして居たりしが。頼かねの懐中くわいちうより。何か手紙のおちたるを見付。長き煙管きせるをのばしてかきよせ。ひらひて是を見るに。仁木鬼貫が悪逆あくきやく。いち/\にかきしるし其うへ鬼貫山名宗全そうせんとしたしみあれバ。東山へ讒言ざんげんし。鬼貫に官領職くわんれいしよくさづけんとはかる。是に」よつて御帰舘きくわんの事。しばらく時節を待給へと書たりける。高尾そのわけハくわしくしらね共。十三郎とそふべき手がゝり共ならんと。是を取て懐中くわいちうし。もとのことくにしにける。はや七ツのかねも聞へ。頼かねやう/\酒の酔さめて。おき上り給ひ。ふところをさがし給ふに。かの密書みつしよなし。頼かね大にあはて給ひ。あたりを尋給へ共。かいくれ見へず。ぜひなく高尾をゆりおこしての給ひけるハ。いかに高尾。その方わが懐中に有し手紙ハしらざりしやととい給へハ。高尾ハはじめて目の覚たる体にもてなし。いつはりて云けるハ。いつの世。いつの時に。われらに文をおくり給ひしぞさやうにやさしき人ならバよけれ共。世の中にハ情を」6 しらぬ不男も多きものをとこたへける.いやとよわが懐中に有し手紙也.その方におくりし玉つさにあらす.高尾是を聞て.忽ち玉のごとき顔を赤め.〓のごとき眉を上.花のごとき唇をひるかへし.声を高めて云けるハ.わか身いやしき流の身ハなしたれ共.人のものを盗し事ハなきに.何とて盗人とハのたまひけるそや.頼かね公.はや高尾か密書をかくしたる事を悟給ひ.心の内にハいかり給へ共.ことはをやわらけ.我あやまつて.その方を疎んじたる事.今さら後悔す.以来いかやうののそみにても叶へつかはさんにその手紙を我にかへせよ.高尾ハ.頼かねのしきりに手紙をもとめ給ふをみて.是ハ何さま」大切の品と見へたり.よきものをとりけると.心によろこび.なるほと手紙ハ.わが身のふところにあり.しかれ共一ツのねかひを叶へずハ.かへし参らする事なるまじ.頼かね何か扨.一ツハ扨置.千万のねかひなり共叶へつかはさん.はやく手紙をかへせ.高尾是を聞て打笑ひ.わが身くるはにありし時玉田十三郎といふ人にふかく云かはせしが.今より後.わか身を十三様ンにそはせそのうへわか身と.十三さんの衣食何にてもことのかけさるやうに扶持し給はゝ.此手紙を返し申さん.頼かねのたまひけるハ.これいたつてやすきねがひ也.その方を今日より玉田とやらが妻となし.生涯心まかせに扶持をつかはすへしまつ早く」7 その手紙をかへせ高尾あざわらひ。かく我をだまして。手紙を取んとし給へ共。わが身おほくのきやくになれて。さやうのいつわりハつねのことなり。何しにまことと思ふべきや。十三さんと夫婦になりしのち。此手紙を返し申さん。頼かねの給ひけるハ。我ハこれ奥州の大守たいしゆくわん八州の官領くわんれいさやうのいつはりをいふ下賤げせんにあらず。ひらに手紙をかへしあたへよ。高尾是を聞て。いかやうにの給ふとも。十三さんにそはぬうちハ。此手紙をかへす事ハ叶ふまじと。手紙をひしといだひてふしければ。頼かねハ密書みつしよをとらんと。高尾が懐中へ手を入給へバ。高尾ハ密書を渡さじと。たがひにお つおし合ふはづみ。御かたなかけたをれて。頼かねの」御はかせさやはしりて。五六寸ぬけ出たり高尾ハ是を見てわつとさけび。人殺ひところしよと呼はりけり。頼かねハ今高尾が。人ころしと叫ふ声を聞て。たちまち高尾を殺さんと思ふ一ねんおこり。ついに左リの手に。高尾が長きみどりの黒髪くろかみをくる/\とまき。右の手に刀をぬきもち。いかり顔色がんしよくを〔を〕そゝぎ。おのれにく傀儡くゞつめ。恋なれハこそ頼かねも。よひよりの悪口あくこう雑言ぞうこん。聞かぬふりしてゆるせしぞや。さほど玉田に添たくハナゼうけ出されて夫婦にならぬ。大事の蜜書をうばひし女。あく迄我につらかりし。むくひのほどを思ひしらせんと。こほりのごときやいばを抜もち。玉のやうなる高尾が胸元むなもと。ふねのよこまど」8 おしひらき。欄干らんかんにおしあてゝ。只一ト刀に切給へバ。むねより上ハ頼かねの御手にのこり。こしハふちのみくづとなり。流れながるゝ流のはて。むざんなりける次第也。此物音ものおとに打おどろき。絹川谷蔵。もみぢばゝ。二かいの上へかけ上れバ。頼かねハ血にそみし。御はかせを手に提給ひ。谷蔵におしぬぐはせ。楓ばゝにのたまひけるハ。其方が娘高尾。我にたいして不礼せしゆへ手討にす。ねがひあらバ申べしとのたまへバ。ばゝハ両眼りやうがんになみだをうかめ。娘高尾不所存しよぞんにて。殿の御心にさからひ。御手討になりしハ。まだしも娘がさいわひ。御うらみ申心ハなけれど。世にかなしきハ。わたくしが身の上。一生かゝらふ世話せふと。末をたのみしむすめに」おくれ。あすをもしらぬ老の身の。たつきハ何といたさんと。悲嘆ひたんのなみだせきあへず。頼かねも不便ふびんのことに思しめし。そちが身の上氣つかひすな我やかたへ帰りなバ。その方に扶持ふちをつかはし。生涯しやうがいやすくくらさせん。まづ高尾がとむられう。絹川よきにはからへと。悠々ゆう/\として立出給へバ。母ハなみだに頼かねの。情をおがむ西のそら。ひかしのそらも明はなれ。明なバいつか人も見ん。いそふれ絹川。おかへりと。元トの小ふねに召給ひ。柴川へ帰り給ひける。

  龍勢りうせいとら龍火はなびをたゝかわす

扨も光陰くわういんのごとく。早くも高尾が初七日になりしかバ。楓婆もみちばゝ9 ハ柴川の御舩に参り。扨も娘高尾あへなくなり。程なく今日ハ初七日にあたり候。おそれ多きことながら。かりそめながら御寝間ねまのおとぎにもはべり。つゆのお情もうけし高尾なれバ。あはれ今日此小舟にめされ。満又へ御入有らバ。万僧まんぞう供養くようにまさりて。官領くわんれいの御高恩かうおん亡魂なきたまもよろこひ申べし。いやしきものゝこゝろざしをすて給はずハ。御ふねをうつし給へかしと。詞をつくして申けれバ。頼かねも。かく娘を殺されて。いさゝかうらむけしきなき。老女らうじよ義心ぎしんをかんじ給ひ。かの小ふねにめされ。絹川を御供にて。満又の高尾丸に入給へハ。かねてまふけの酒さかないろ/\もてなし奉り。もみぢ婆盃をとつて申けるハ。娘高尾が不所存」にて。御心にそむきしハ。自業じがう自得とく天魔てんま障化せうげと申べし。去リながら高尾世に有りて。君の御寵愛てうあいもかはらずハ。官領くわんれいのおもひ人と。多くの人にかしづかれ。百年の後。追善ついぜん供養くようも。万巻まんくわん誦經じゆきやうみゝとゞろかすべきに。高尾ハあへなき命をおとし。君ハ舩中せんちうに御漂泊へうはく。定めなき世のならひ。此舩の高尾丸も。名のみに残る娘が記念かたみ今宵こよひの手向たむけ香花かうはなと。おもへバ思ふおきの花火。御なぐさみに御覧あれと。舩べりの障子せうじおしひらけバ。げに海上かいしやうにみちのくの。満又川の夕げしき。いろ/\花火ともりける。千里をはしるとらの尾有れバ。雨雲あまくもおこす龍勢りうせいあり。水のともへの」10 眉間尺みけんじやく手車てくるま。手ぼたん。夕がほの。やともほたるの水に火ハ。十二因縁いんゑんそれならで。十二てうちんなき玉の。玉火もはてハ鳥部野の。けふりと斗立つゞく。手向の花火はなやかに。人々けうに入給ふ。時にふしぎやおきの方。はつときへたる花火の相圖あいづ。たちまち聞ゆる貝鐘かいかね太鼓たいこ。絹川先にツヽ立上り。アラおびたゝしきよせ手のせい。御舟を目がけとり巻くと覚へたり。イテ一ふせきと身こしらへ。頼かねはるかに沖の方を御覧あり。かく武運ぶうんつきたる頼かねが。最期さいごの思ひ出はな/\しく討死せん。さつする所高尾が母。娘があたほうぜんと。鬼貫仁木へ手引なし。我を引込むはかりこと。」絹川ソレとのたまへバ。谷蔵すかさずとびかゝつて。楓婆がゑり首つかみ。川へざんぶとなげ込めハ。折もよし楓婆。そばにつなぎし小舟の中へ。まつさかさまになげ込れ。怪我けが高名かうめうさいはいと。をおし立てにげて行く。次第に近よる寄手の舟。御舩目かけつめよせる。され共剛気がうきの絹川におそれしにや。只遠矢とをやにぞたりける。頼かね公ハ雨あられとふりくる矢を。刀をぬひてはらひのけ/\。こゝをせんどゝふせぎ給へバ。谷蔵ハ左リに板子のたてを持。右の手にさほをさし。御舩をおしけれども。名におふ高尾の大舩たいせんなれバ。進退しんたい自由じゆうならずして。心をあせるみぎはの方。つりする海士あまの小舩有。」11 谷蔵よろこび。大音聲おんじやうにて呼はりけるハ。のう/\そのふねに便舩びんぜんせん。こときうなれバやうすを語るにいとまなし。事しづまらハ褒美ほうびハのぞみにまかせんと。声をはかりに呼はれども。釣人ハ見向もせず。釣に餘念よねんもなかりけり。谷蔵大にはらを立。是ほどに呼立るに。おのれハおしつんぼうか。よし/\此うへハ仕やうありと。矢をふせきてハ舩をおし。かの釣ふねに近よる事。其間わづか七八間になりし時。谷蔵武藝ぶけい手練しゆれんを出し。足を一そくにちゞめ。身をおどらせ。はるかへだてつりぶねへ。文字もんじにとび込だり。かの釣人大にいかり。おのれ人の夜釣する邪广じやまひろぐ。水のませんと打てかゝれば。」谷蔵ハものをもいはず。かの釣人にむんずとむ。きやつもしれもの引はづし。わかれてハみ。くんでハ別れ。後にハたがいに組合ながら。水中すいちうへざんぶとをち。猶水中にていどみ合ふ。谷蔵ハ。そのいろ墨よりも黒く。かの釣人ハ。その色しゆよりも赤し。両人の勇士ゆうし水中にたゝかふ事。海上の〓崘人くろんぼう珊瑚樹さんごじゆを取らんとするにことならず。或ハかくれ。或ハあらはれ。かれ水牛すいきうのちからにせバ。これ彪乕ひやうこの水を渡るいきほひあり。いづれもおとらぬ。勇士と勇士。勝負もはてず見へにける。水にゑいするてき松明たいまつ。頼かねはるかに御覧あり。ヤア/\谷蔵はやまるな。今水中すいちうたゝかふものハ。男之介にハあらざるやと。こへかけ給へバ釣人ハ。」12 谷蔵をふりはなし。御舩のへりにおよぎ付。かしらをさげて申けるハ。もみぢばゝか訴人そにんによつて。鬼貫仁木の逆臣ぎやくしん。君を討奉らんとのそうだん。聞とひとしく。某彼等かれら先へ廻り釣人に身をやつし。其様子をうかゞふ所に。あれなる新参しんさんの谷蔵とやら。いまだ其おもてを存ぜず。敵か味方か。心底しんていはかりがたく。思はぬ同士どしうち。しかしあつはれの若もの。末たのもしゝと申所へ。谷蔵もおよぎ付。それかしまなこ有なから。荒獅子あらし どのゝ豪傑かうけつを存ぜず。只今の不礼ゆるし給へと申ける。荒獅子申けるハ。某かくてあるからハ。もはや氣つかひ少もなし。かの悪人のもみぢばゝも。某とくに是をいましめ。舩そこに打込置たり。某こゝにふみとゞまり。寄手のやつはらみなころしにいたさんに。」谷蔵ハ此小ふねに頼かね公をのせ奉り。金花山きんくわさん水塞すいさいにいたられよ。かの金花山ハ山高くして。前に蒼々さう/\たる海をひかへ。海陸かいりくのかけ引自由じゆうなり。こと足利あしかゝ忠義ちうぎ義をむすひちかひをたて。悪人ばらを打ころさんと。もつはら君の御行衛を尋るよし承る。といふ内に。間近まちかくすゝむ敵の先手。荒獅子獅子のいかりをなし。数百斤すうひやくきんの大いかりを。かろ/\とふり廻し。寄手の大勢なぎたをし。みな水中へ打込ンだり。此ひまに谷蔵ハ。頼かね公を小舟にうつし奉り。をおし立てこぎ出す。板子の下よりもみぢ姿。そろり/\とはい出る。谷蔵手はやく引つかみ。川へ打込水煙けふりやみをかきわけいそぎ行。
高尾舩字文第四冊畢」13終

高尾舩字文第五冊

闍奢待らんじやたい下駄げた蒙汗薬しびれくすり
   附リ 夫レハ孟州もうじう張青ちやうせいみせ
      是ハ浮世うきよ渡平とへいすみか
 その口論こうろん暖簾〓のれんのさかばやし

信夫舘しのぶのやかた仁木につきねづみはしらす
   附リ 夫レハ雲龍うんりやう公孫勝こうそんせう
      是ハ仁木につきが毒鼠どくそじゆつ
 其いたゑん勇士〓ゆうしのわな

都鳥みやことり一軸いちぢく勝元かつもと
   附リ 夫レハ宋朝そうてうの赦免状しやめんじやう
      是ハ一味いちみの連判帳れんばんちやう
 其太平たいへい政岡功まさおかゞいさほし 」

目次5

口絵5

〓娘めのと政岡まさをか
すぐなる御代みよくににつかへて。忠臣ちうしん烈女れつじよのふしをたがへず。おさな此君このきみそばにはべりて孟宗もうそう王氏わうじのむかしにはぢず。その枝ハつへとなしておいをもたすくべく。そのみハみすとなつていろをもかくすべしいづれのやぶたけなるぞけんなる哉やアヽこのちく婦人ふじん1

高尾舩字文第五冊

曲亭馬琴著 
  闍奢待らんしやたい下駄げた蒙汗薬しひれくすりとく

頼兼ハ虎口ここうなんのがれ給ひ。今日橋けふはしへん迄落延おちのび給ふ。此所ハ東海とうかい街道かいだうなり。すで長橋ながはしにいたり給ふ頃。夜ハほの/\と明にけり。爰に一軒けんの酒屋やうやく戸をあけて。湯豆腐ゆとうふの下をたきつけてゐたりしかバ。絹川ハ頼かね公。よひよりの御つかれ。ことに手足のよごれたるをもすゝがせ申さんと。此居酒やに立より。頼かね公を床几せうぎに直し奉れバ。小厮こもの出て。客人きやくじん酒ハ何ほどつぎ申べきや。ゆとうふも今出来たてなりといふ。谷蔵是を聞て。ィャ/\われ/\ハ酒をのむ客にあらず。」只たらひをくみ。又ゆとうふの湯あつくハ。ちやわんへくみて。はやく出せと云けれバ。小厮こもの面をふくらかし。此あぶら虫。酒ハかはずして。ゆをかわかさんとするやとて。すで銅壺どうこの湯をくみて。出さんとする所へ。此家のあるじと見へ。かしら糸鬢いとびんそりさげ。刷毛はけハ黒豆のごとくちいさく。ひげほうへかゝりて青く。身のたけ六尺ばかりなるが。大しま浴衣ゆかたこし真田さなだおびむすび。はだこんちりめんのふんどしをして。なかばゆかたのわきよりあらはし。其としハ三十五六ばかりなるが。手に一本のやうじを持て。見世の正面しやうめんに立出。此体ていをみて云けるハ。我カ見世ハ湯屋にあらず。客人きやくしん酒ハかわずして。湯をもとめ給ふや。谷蔵これ」2 を聞て。我レ湯を所望しよもうするといへ共。其あたひをはらはんに。何とてかく吟味ぎんみするぞや。かの男から/\打わらひ。わがみせにていまだ湯をうりたるためしなし。これ今日のあさハ。一年の元日也。商人ハみなそのけん徳をいわふて。朝ゑびすのふくをいのる。しかるに商賣しやうばいの酒ハかはずして。湯をもらはんとするハ。いま々しきことにあらずや。頼かねきこし召。あるじの申所尤なり。酒をも買遣すべきに。まづ湯を持参もちまいれとて。やがてたらひの湯にて。手足のけがれたるをあらひ給ひ。又かの湯とうふのさゆをのみて。のどをうるほし。しばし労れを休め給ふ。扨小廝こものハ。酒五合にとうふ二皿さらたづさへ出。頼かね絹川が前にさし置けり。」頼かねハ是五十四ぐんの太守たいしゆ。なんぞ居酒やの酒をのみ。湯とうふをめし上らんやあるじ此ていを見て。我店の酒ハ一ツ本ンにして。歴々れき/\といへども是をほめ給ふ。客人はやく一盞いつさんをくみ給へ。頼かね公彼等かれらに身のうへを。さとられん事を恐れ給ひ。盃を取ていたづらに口へあてゝ。のむまねをし給ひ。かの盃を絹川へさして。その方夜前やぜんつかれをもなぐさめ。一さんくむべしとのたまひけれバ。谷蔵も夜前のはたらきにて。口中ことの外かはきけれバ。頼かね公の御意をさいわひ。ひたすら五六合のみほしける。此時かのあるじひそかによろこび。此ものわがはかりことにおち入て。蒙汗薬しびれくすりの入たる酒を呑たれハ。おつつけたをるゝこと明らか也。頼かねハのみしや。」3 のまざるや。しかとハ知れざれども。頼かねハ花奢くわしや風流ふうりうやさ男なれハ打ころす共安かるべしと思ひ。たちまち手を打て。おすまふはやくたをれよと云ける時。谷蔵口中よりよたれをながし。全身せんしん〓痿なへしひれて。床几せうぎよりころび落て倒れけれバ。かの男はやくもとんでおり。頼かねのかたをおさへてのゝしりけるハ。我レなんぢらを此所にてまつ事久し。今我に三ツの福徳ふくとくあり。われ今なんぢ両人を打ころし。その身のかはをはぐべし。是一ツの福也。又玉田がために高尾があたをむくふ時ハ。玉田か方より賞銭ほうひをもらふべし。これ二ツの福也。汝が首を仁木鬼つらへさし上なバ我たちま立身りつしんして。極上々の侍となるべし。是三ツの福也。いま此」三ツの福徳ふくとくある頼兼なれバ。我此所にてころす也。頼かね公ハいかにもしてのがれんと思し召。その方ハ是何ものなるぞ。我にたいしてあたもなくうらみもなし。其方福徳をねがはゞ。われこゝろざしを得てやかたへ帰るののち。おもくとり上てめしつかふべし。かの男から/\と打笑ひ。なんぢ官領くわんれいの宿なしにして。我をとり上る事のなるべきや。我を是たれとかおもふ。閻魔ゑんま大王の子ぶん。五道こたう冥官めうくわん令子むすこ浮世うきよ戸平といふ豪傑かうけつものなり。汝いかやうにあがく共。嚢裡ふくろのうちねつみ羅中あみのなかの鳥。にげ出る所なし。観念くわんねんせよと打てかゝる。頼かね是を見給ひ。おのれ下郎の分として。推参すいさんなりと切付給へハ。剛気がうきの戸平ことともせず。うしろへくゝり」4 前へ出。しばしが間いどみしが。頼かねハ夜前おほくの追手おつてふせぎ。御身すでにつかれ。ことに九重の楼門ろうもんに。人となり給ふ御身なれバ。何ぞ剛気かうきの戸平におよび給はんや。しかれともさそくの手者てしやにてましませば。付ケ入/\たゝかひ給ふ。戸平いらつて大にたけリ。右のこぶしをつよくふり上ケ。頼かねの御刀を。何のもなく打おとす。頼かね公きうおもてひろみへ出て。猶たゝかはんとし給ふ所を。戸平ゆとうふの下にもへ立たる。たきさしの真木まきをもつて。頼かね公をさん%\にうつ。其火すでに頼かねの御衣服いふくにちりかゝり。すでにあやふく見へ給へハ。頼かね御さしそへをぬき給ふひまもなく。はきなれ給ひし下駄を以て。もえさしの真木を」うけとめ給へハ。はやくもその火。その下駄にもえ付くとひとしく。異香いかうしきりにくんじ。四方ふん/\とにほひける。ふしぎなるかな此香気かうき。谷蔵がはなの中へ入るとひとしく。蒙汁しびれ薬の毒氣どくきたちまちさめて。手足自由じゆうはたらきけれバ。此体を見て。大におどろき。浮世戸平に飛でかゝる。戸平谷蔵が働くを見て。大にあわて。頼かねをすてゝ谷蔵に向はんとする所を。頼かねおちたる刀をとつて。戸平がとうはらをゑぐり給へバ。さすがの戸平もいきたへたり。此戸平ハ古今こゝんのわるものにて。かく酒の中へ蒙汗薬を入てハ旅人にのませ。衣服いふく金銀きん%\はぎとり。又やゝもすれハ喧〓けんくは仕出し。多くの人をあやめしとかや。今頼かね」5 此家に来り給ふを見て。是をころさんとはかり。終にころされけるとなり。頼かねのはき給ひし下駄ハ。蘭奢待らんしやたいといふ名木めいかうにて。よしまさ公是を柴舩しばふねと名付ケ。秘蔵ひさうありしが。此伽羅きやらを頼かねにゆづり給ふ。頼かね御身もち放埓ほうらつなるにより。侫人ねいじんともすゝめ奉りて。一足の下駄にきざみ。しん文公ふんこう足下そつかくつにひとしく。常にはきなれ給ひしとなり。薬物やくぶつどくすこと。その品多しといへとも。とりわけ沈香ぢんかう人氣じんきし。酒毒しゆどくをさますの名薬めうやくなれハ。らんじやたいの匂ひ谷蔵が鼻へ入て。しびれ薬の毒氣どくきさめたるもことはり也。此時酒やの小ものも此そうどうにおそれ。いづくへか行けん。さいぜんより」かげもかたちも見へず。たれ有て頼兼を。さゝへ申ものもなけれバ。頼かねハふしぎに。ふたゝびあやふきなんをのがれ。金花山きんくわさんへと落給ふ。

  信夫しのぶのやかたに仁木鼠をはしらす

渡辺わたなへ外記げき宗雪むねゆきハ。忠義あつき侍にて。ことさら國の老臣なれバ。鶴若つるわか補佐ほさし奉り。何とぞ頼兼を帰舘きくわんさせ申さんと。昼夜ちうや心をくるしめけるが。はからずも心痛しんつうのやまひおこり。老病らうびやうすでにあやふく見へしかバ。娘政岡まさおかを近くよび。声をひそめて申けるハ。國家こくか安危あんき今此時なり。鶴わかいまだおさなくまし/\。ねい人かたはらにみち/\て。三代惣恩そうおん主君しゆくんがいし奉らんとはかる。叔父おぢ鬼貫後見こうけんとして。」6 もつはらよこしま非道ひたうをおこなふ。我病死びやうしすると聞かバ。かれら時を得て。すで企叛むほんの色をあらはすべし。女ながらもその方に。今一大事を申聞かす。近く参れとそばへよびよせ。まづ第一は。明日より昼夜ちうや。鶴わかの御そばをはなれず守護しゆごすべし。第二ハ。いかやうの事有て。鬼つら仁木幼君ようくんないがしろにし奉る共。いさゝかいかりをあらはすべからず。第三ハ。すべての事荒獅子と相談さうだんして行ふべし。男之介ハ忠義ふかき勇士なれバ。侫人ねいしんむざと手をおろす事ハ叶ふまじ。我今その方に。此かけ物をあづけ置く。此かけものハ都鳥みやことりと名付ケ。わが忠心をこめたる一ぢくなり。君にとつてハ忠義のたまもの。」親にとつてハ。末期まつこ記念かたみ。もし事せまりせまつて。荒獅子その方の了簡れうけんにも及はず。幼君の御身危あやふく見へるものならバ。その時此一ぢくをたづさへて。細川勝元かつもとどのゝ一覧らんに入るべし。おのづから悪人ほろび。國安全あんぜんなるべしと。とこかたはらよりかのかけものをとり出して。政岡にあたへけれバ。政岡とつておしいたゞき。開て是をみるに。その絵に。外記つる若を右にいだき。左リの手にて地をゆびさし。天をながめてゐるなり。政岡その心をさとらず。父にふて云けるハ。此かけものゝ絵ハ。父うへ若きみをいたき給ふ所の絵なり。此かけものにて。何故悪人ほろひ。國太平に」7 なり候ぞや。外記打うなづき。その方女の事也。今問ふにおよはず。事きうなるにのぞんで。勝元どのゝ一覧に入レよ。外に子細しさいなしと云すて。行年六十三才にして。ついにむなしくなりにけり。アヽ忠義の士おしむべし。政岡父のわかれをかなしみ。ひたんのなみだせきあへず。ついに父の詞を守りて。是より昼夜ちうや。鶴わかの御そばをはなれず。万事ばんじ心を用てかしづきける。外記が云ひしにちがひなく。國のろう臣死しけれバ。侫人こゝろざしを得て。幼君ようくんをあなどり。のちにハ鶴若を信夫しのぶ下舘しもやかたへうつしまいらせ。かしづき申人もなし。此御殿ごてんハちかころ大破たいはして。御殿のかはらくだけて。雨天井てんじやうにつたひ。雨戸あまどさんおちて。」月後椽こうゑんをてらす。幼君にかしづき申ものとてハ。荒獅子政岡只二人なり。それさへ男之介ハ此ほど病氣ひやうき披露ひろうして。二三日出仕しゆつしせず。此以前侫人ばら。度々毒薬とくやくを御ぜんに入て。鶴若にすゝめがいし奉らんとたくみしが。さいわひ荒獅子政岡。はやくこれをさとつて。つる若にすゝめず。此ほどかくあれたる御殿にすみ給ひ。誰出仕しゆつしするものなけれバ。なまなかに悪人に一がいをのがれて。政岡少しハ心をやすめける。此一両日ハ霖雨ながあめふりつゞきて。ものさびしくことに男之介出仕せされバ。鶴わか雨のつれ%\にせまり給ひ。政岡ハたすきかけて米をかしき。これを鶴若にすゝめ参らす。つる」8 わか膳にむかひ給へハ。わづかにしるかうの物のみなり。鶴若つく%\是を御覧じて。いかに政岡此鶴わかハ。たれが子なるぞやと問給へバ。政岡はやその御心をさとり。まづ眼中がんちうなみだをふくんで申けるハ。君ハこれ五十四ぐんの御あるじ。くわん八州はつしう官領くわんれい足利あしかゞ左馬介さまのすけ頼かね公の。公達きんだちにてまし/\候。鶴わかのたまひけるハ。いやとよ政岡。そちがいふ事いつはりならん。我関東くわんとう官領くわんれい。頼かね公の嫡男ちやくなんならバ。万人の家来をもめし仕ふべきに。身にそふものハ只二人。下女げしよに政岡。下部しもべに荒獅子。政岡米をかしひて。我にあたへ。荒獅子くつを取て。我にはかす。我レ一僕いちぼく一婢いつびの身上にて。何ンそ五十四郡のあるじと」いわんとのたまへバ。政岡思はずこゑを上。しばしなみだにくれけるが。君ハ御発明はつめいにわたらせ給へども。ことのやうすをしり給はず。今國中に悪人はびこり。君をがいし奉らんとはかるもの。うんかのことし。ことに叔父おぢ鬼貫どのに。奥州過半くわはん横領わうれうせられ。身をすてゝ。忠義にかへるものとてハ男之介と此政岡只二人リ。さりながら。天運てんうん循還じゆんくわんして悪人ほろび。ふたゝび御代みよに出給はゝ。其時こそ百万の御大将。誰はゞからぬ官領職くわんれいしよく。さるにても父外記の。のこし置たる都鳥のかけ。どうも心がとけませぬと。又かけものをとり出し。鶴わか丸もろともに。筆の心をなぞ/\に。とけぬ思ひの小首かたふけ。」9 あんじ入たるその折から。いつの間にかハ来りけん。その色まだらの大ねづみ足音あしおともなくかけ来り。かのかけものを引くわへ。いづくともなくはしり行。政岡はつと打おどろき。大切のかけもの。うばはれてハかなはじと。跡につゞひておつかくれど。ねづみハかげもかたちもみへず。政岡ハ狂気きやうきのごとく。そこよこゝよとたづぬる所に。ゑんの下に人音ひとおとして。はつた/\とつかみ合ふ。政岡ます/\打おどろき。鶴わか君をうしろにかこひ。薙刀なきなたかひこみ立上れバ。ゑんの下にハ猶人音ト。ヱイヤ/\とつかみ合ふ。ほどなく荒獅子大わらは。かのかけものを引つかみ。たゝみはね上欠かけ上リ。大息いきついて申けるハ。それかしかくあらんとぞんぜし」ゆへ。此四五日病氣ひやうきといつはり。昼夜此御殿のゑんの下にかくれ居て。やうすをうかゞふ所に。今宵こよいはからず。ねこにひとしき大鼠。都鳥のかけ地をくわへかけ来る。やり過して引くめバ。鼠にあらぬしのびのくせもの。生捕いけとらんといどみしが。ゑんいたかしらつかへ。もしやかけものをやぶる事もあらんとかばひし故。曲者くせものハとりにがせしと。大あせになつて物がたれバ。政岡これを聞て。わが父外記。若君の御大事。こときうなる時にのぞんで。此かけものを。勝元とのへ持参せよと。かねての遺言ゆいごん。今すでに事急なり。我ハこれよりかまくらへ立こへ勝元どのへうつたへんと云けれバ。男之介これを聞て。よく」10 も心付かれしものかな。それがしかくて有からハ。幼君の御身の上。少しにても氣遣ひなし。一刻もはやく勝元どのへ持参あれとすゝむれバ。政岡ハかひ%\しく。こしおびとつてすそかい上。父のゆづリの一腰ひとこしたばさみ。かのかけ物を懐中くわいちうし。つるわか君にいとま乞。わかハ政岡はなさしと。とゞめ給ふをやう/\と。すかしなだめてもろ共に。なみだの袖をほし月夜。かまくら山へいそぎ行。

  都鳥みやこどりの一ぢく勝元に

細川修理亮しゆりのすけ勝元。國家の棟梁とうりやうそのにあたり。身ハ鎌くらにありながら。都の政務せいむをかねてより。政岡がうつたへに。工夫くふうをこらす」閑居かんきよ。勝元かのかけものを打ながめ。ひとりうなづひて云けるハ。忠臣ちうしん渡辺外記宗雪むねゆきが。死期しごにのこせし此かけものハ。諸葛しよかつ武侯ぶこう五丈原こじやうげんの。遺書ゆいしよにひとし。まづ都鳥と名付ケしハ。古哥こかの心。我思ふ人の頼かねを。帰舘きくはんさせたき願ひならん。扨かけ物の絵に。右の手に鶴若をいたき。左の手に地をゆびさし。天をあふひで立たるハ。五十四郡の山川ハ。つるわかのたまものといへ共。ひとり侫人ねんじんのさまたげ有をうらみたる忠臣ちうしん。是もよし。扨是を以て。悪人をほろぼすべき。手かゝりとハ何ゆへぞと。工夫くふうほうつえ小半時。さすがの勝元あぐみはて。けふもくれ。あすもたち。工夫する事五六日。ある日勝元」11 かのかけものをとり出し。思案しあんにあぐむおしまづき。ひぢはづれつくへたふし。墨硯ぼくけん筆紙ひつし狼藉らうせきして。都鳥のかけものへ。ころびかゝる水滴みついれの。水ハこぼれてかけものゝ。表具ひやうぐも共にぬれにける。勝元おどろき。かけものを。らさじと引上れバ。こぼれし水に濡紙ぬれかみの。表具ひやうぐのうらにすき通り。あらはれ出し数行すぎやう文字もし。勝元扨ハとかけものゝ。うらの表具ひやうぐを引へがせバ。中より出る数通すつう蜜書みつしよ。勝元とり上て打ながめ。まことや忠臣外記が心をこめし此一ぢく。人の見ん事をおそれ。此かけものゝ中にはりこみし密書みつしよこそ。鬼貫仁木が國をみだす一チ味連判れんばん。外記かねて。かの連判牒てうをうばひとるといへ共。忠心のさふらひすくなくして。奸侫かんねいきやくしんいきほひ〔ひ〕つよきをはかり。此連判帳を我手にわたし。善悪をたゞしくれよとの忠臣。今此連判帳有るうへハ。これにのせたる名前をもつて。侫人ばらを退治たいぢせんこと。わが胸中きやうちうにあり。井筒いつゝ参れと呼ぶ声に。立出る井筒女之介両手をついて申けるハ。それがし仁木が奸計かんけいにおとされ。すでに死罪しざいに極りしを。渡辺外記が一言ンにより。あやふき命たすかり。當家へ引わたされしその日より。何とぞ一ツのこうを立。萩の方の無実むじつの悪名を。すゝぎ奉らんと存ぜし所。はからずも連ばん帳手に入からハ。すぐさま奥州へおしかけ。仁木はじめ悪人ばらの。首打すてんとかけ出スを」12 勝元しはしとおしとゞめ若気の短慮たんりよ無用/\我きく金花山の義士。頼かねを守護しゆごし。すでに軍勢くんせいをあつむるよし。今すてに善悪あらはれ。連判帳出るうへハ。干戈かんくわをうこかし。民をくるしむるにおよはす。汝ハ是より金花山へ立こへ頼かねはしめ忠義のものへ申聞かせよ。我ハ是よりひかし山へ立こへ。此おもむきこん上し。事の落着らくぢやくこゝろみんといさみ立たる細川の。ながれもふかき智仁勇ちじんゆう。是ぞまことのみちのくに。のこす忠義の水滸傳すいこてん。その名ハ末代千代萩の花の五色ごしきの五冊もの。とり合セたる一作いつさくハ。是見物の目を取てはなしのたねと。なさハなしてん
高尾舩字文第五冊大尾」

是より末〓こしもとにしき行末ゆくすへいかづち雀之介がらく着谷蔵かさねをころす段并ニ悪人あくにん退治たいぢ國家こつか太平たいへいのおわりまですべて水滸傳すいこでん趣意しゆいもとつき。艸稿したかき満尾まんひすといへども。巻数くわんすうおほくして。閲者みんひとわづらはしからん事をはかり。しはらく後篇こうへんにゆつりてこゝにもらす猶後篇出るの日前後を看合みあはてそのあちはひ給ふへし。

船字文せんじもん後篇こうへん水滸累談子すいこかさねだんす 中本五冊/曲亭馬琴作 近刻

江戸通油町  蔦屋重三郎 版」13了

刊記

# 「説林」第43号(愛知県立大学国文学会、1995年)所収
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#                      高木 元  tgen@fumikura.net
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