資料紹介

『英名八犬士』(四) −解題と翻刻−

高 木  元 

前号に引き続き『南総里見八犬伝』の魯文による抄録本『英名八犬士』の七編を紹介する。

この本は最初は袋入本として出されたようで、錦絵風摺付表紙本はやや後からの出板のようであることは、既に述べた。さて、もう1種類の「曲亭馬琴著」と改竄後印された袋入本であるが、手許に欠けていた初編2編を山本和明氏のご厚意で拝見させていただけたので、以下簡単に紹介しておきたい。

書型 中本8編8冊
表紙 松葉色無地表紙に亀甲繋ぎに紋の浮出模様
外題 「曲亭馬琴著\里見八犬伝 一(〜八)
見返 「 曲亭馬琴著\里見八犬伝 全八冊\木村文三郎」
序文里見八犬傳さとみはつけんでんじよ

房総ほうさう太守たいしゆ安房守あはのかみ義実よしさねハ二ヶこくぬしたりと云へどもその因縁ゐんえんつたなくして業報かうほういまた不尽つきす愛女あひじよ伏姫ふせひめは人がいせうながら鬼畜きちくともなはれ冨山のおく觀音經くわんをんげうを力となし如是によぜ畜生ちくせうほつ菩提心ぼたいしんこれ里見さとみ八勇はちゆう士みなに散乱さんらんひらくそハいにしへ曲亭きよくていおう妙著みやうさくにしてみなよの人のところいま大巻たいくわん八冊はつさつつゞよみやすからんを大全だいぜんるのみ」 (初編一ノ三オ、新刻。年記序者名なし)

内題里見八犬傳さとみはつけんでん(〜八)編 曲亭馬琴[乾坤一艸亭]
刊記 「 日本橋區馬喰町二丁目壹番地\文江堂\木村文三郎」(8編後ろ表紙見返)
備考 なお、架蔵本の他の1本(7、8巻のみの端本)は同本であるが、表紙が青磁色である。

この本は、各編巻頭に付されていた序文と口絵(3丁程)を削り、そこに新たに序文(1編)と口絵(2編「 里見さとみはち犬士けんしうち犬江いぬゑ親兵衛しんべいまさし」、3編「 犬川いぬかは荘助さうすけ義任よしたう」、4篇「 犬村いぬむら大角だいかく礼儀まさのり」、5編「 犬坂いぬさか毛野けの胤智たねとも」、6編「 犬山いぬやま道節どうせつ忠與たゞとも」、7編「 犬塚いぬつか信乃しの戌孝もりたか 犬飼いぬかひ現八げんはち信道のぶみち」、8編「 犬田いぬた小文吾こぶんご悌順やすより」)を加え、題名を「里見八犬伝」と改題した上で、角書や内題下に「曲亭馬琴著」と入木し、明治に入ってから木村文三郎に拠って出された改竄本である。なお、7編については改題後印された際に、3〜4丁、11〜12丁、15〜20丁、27〜30丁、37〜38丁、49丁が改刻されている。

本文は基本的に原本の切り貼りに拠っているのであるが、6編迄に比べると大幅に省略が多くなり、それだけ繋ぎの部分に魯文の手になる文が挿入されている。表記の変更や振仮名の省略は以前も見られたが、訓みの難しい熟語に振仮名が施されていない反面、漢語を平仮名で表記するため却て意味が取りにくくなるなど、読み手に対する配慮は余り見られない気がする。

なお、この第7編は原本『南総里見八犬伝』の第6輯56回から第9輯第103回の中途までに相当するのであるが、前編までに比べると回数から見てもかなり抄録を急いでいる様子が見て取れる。尤も、原本の9輯だけでも全体の量からいえば半分あるわけで、それを8編だけで終わらせているのではあるが……。

【書誌】

英名八犬士 七編
書型 錦絵風摺付表紙、中本1冊
外題英名八犬えいめいはつけん士\第七編」
見返 「英名八犬士第七編」
序  「于時安政四丁巳春\花笠文京誌[印]
改印 [改][巳二]安政4年2月
内題英名八犬士ゑいめいはつけんし第七輯たいしちしう一帙/江戸 鈍亭魯文鈔録」
板心 「八犬士七編」
画工 「一燕齋芳鳥女画」
丁数 49丁
尾題英名八犬士ゑいめいはつけんし第七編たいしちへん
板元 「東都神田松下町三丁目 公羽堂 伊勢屋久助上梓」
底本 架蔵本・国文学研究資料館本
諸本 【初板袋入本】二松学舎・服部仁(6、7欠)
【改修錦絵表紙本】国文学研究資料館(ナ4−680)・館山市立博物館・江差町教育委員会(4、8欠)・林・高木(1、2、3、6存)
【改題改修袋入本】国学院・向井・山本和明・高木(3〜8、7〜8、4)
【改題再改修袋入本】国会

【凡例】

一、基本的に底本の表記を忠実に翻刻した。濁点や振仮名、仮名遣いをはじめとして、異体字等も可能な限り原本通りとした。これは、原作との表記を比較する時の便宜のためである。
一、本文中の「ハ」に片仮名としての意識は無かったものと思われるが、助詞に限り「ハ」と記されたものは、そのまま「ハ」とした。
一、序文を除いて句読点は一切用いられていないが、句点に限り私意により「。」を付した。
一、大きな段落の区切りとして用いられている「○」の前で改行した。
一、丁移りは 」で示し、裏にのみ 」15 のごとく数字で丁付を示した。
一、明らかな衍字には〔 〕を付し、また脱字などを補正した時は〔 〕で示した。
一、底本には架蔵本を用いたが、架蔵本が欠損している部分の図版に限り、国文学研究資料館蔵本に拠って補った。
一、なお、図版の二次利用に関しては国文学研究資料館に利用申請を必要とする。


【七編表紙】
表紙

【見返・序】

見返・序

英名八犬士\第七編

およそ小説せうせつめづるもの。馬琴ばきん不識しらざるハなく。よく馬琴ばきんをしるものに八犬士はつけんし不言いはざるハなし。それ八犬士はつけんし小説せうせつたるや。駒谷くこく山人さんじん合類がうるい節用せつよう役名やくめういだせり。そのかみ犬士けんしさかんなることまたしるべし。しかれども犬士けんしの名を見る事ほか所見しよけんなし。馬琴ばきんひとりはやく見つけて。許多あまた小説せうせつ抄猟わたり苦心くしんして一家いつか大狂言だいけうげんれり。馬琴ばきん卓見たくけんおもふべし。數種すじゆ小説せうせつなれる中に。まづ八犬傳はつけんでんだい一とす。おうせいすこぶ博聞はくぶん強記きやうきにして。殊更ことさらじゆながく。八十有余ゆうよさいたもてる事。幸福かうふく此上このうへやあるべき。魯文ろぶん頃日このごろ八犬士はつけんし鈔録せうろく數日すじつならざれども。すで結局けつきよくちかしとけり。この根氣こんきをもておうが年まで出せいなせバ。しん作者さくしやとなること請合うけあいなり。あゝ浦山うらやましきかな。
  于時安政四丁巳春

花笠文京誌[印]
[改][巳二]


【口絵第一図】1

口絵第一図
河鯉かはごひ權佐ごんのすけ守如もりゆき坐撃師ゐあひし物四郎ものしらうじつ犬坂いぬさか毛野けの胤智たねとも毒婦どくふ舩虫ふなむし
おぼろけのかりの筆かはをみなへし あたをもつくす花のひゝき  蟹麿

【口絵第二図】2

口絵第二図
蟇田ひきた權頭ごんのかみ素藤もとふぢ犬江いぬえ親兵衛しんびやうゑまさし八百比丘尼はつひやくびくに妙椿みやうちん
きえぬへき露のしら玉神も手に とりてもていぬえにハふりしな  岩の屋蟹麿
しら波のよるべの磯にかひハあれと みるめあやうきあまのおこなひ  曲亭馬琴

【本文】

英名八犬士ゑいめいはつけんし第七編たいしちしう一帙

江戸 鈍亭魯文鈔録 
         ○

再説ふゝびとく犬田小文吾ハはからずも馬加まくはり大記だいき抑畄よくりうせられ心ならずもつぎの年の三月やよひ中旬なかばいたりける頃當家このや老僕しもべ品七しなしちといへるものには掃除そうじに來りけるが小文吾と江湖よのなか物語ものがたりせしことはしに大記が旧悪きうあくひとくだりなる千葉家ちばけ忠臣ちうしん粟原あひばらおほと胤度たねのり讒訴ざんそして同藩どうはん篭山こみやま逸東太いつとうだ縁連よりつらうたせし事をとはがたりにしたりしかバ小文吾ひそか歎息たんそくす。此ころ常武つねたけいへ鎌倉かまくらより旦開野あさけのといへる女田楽でんがくたり居けるを大記だいきとゞおきてある日小文吾こぶんこ後堂をくざしきせう酒莚しゆゑんをまうけさかづきをゝめかの旦開野あさけのきやうをそへさせさま%\に饗應もてなし〓曲ふきよくはてのち大記ハ小文吾を對牛樓たいぎうらう上にいざなひおのが味方みかたになさん」3 としけるを小文吾にはぢしめられ心中大いにいかるいへどもたはむれ言にいゝなして其まゝに別れける。こゝ往時いんじ寛正ぐわんせう六年冬十一月常武つねたけ奸計かんけい讒訴ざんそおとしいれられて籠山こみやま逸東太いつとうだ縁連よりつらうたれたる千葉家ちばけの一ぞく老黨らうどう粟原あひばらおほど胤度たねのり遺腹児のこしだねに犬坂毛野けの胤智たねともといふ少年あり。こハ胤度たねのりてかけ調布たづくりといへる女首おほと惨死ざんしの後ちと由縁ゆかりを心あてに相模州さがみのくに足柄郡あしがらこほり犬坂といふ山里に在てくだんの毛野をうめり。されども千葉家の聞えをはゞかり女の子にして養育やういくし世のたづきとぼしまゝ調布たづくりハ女田楽になりてみすきをし毛野をも其道にいら旦開野あさけのよびなししがはゝ調布たづくりやまひに臥その枕辺にあさ毛野を近づけおや素性すじやう如此々々しか%\つげ馬加まくはり籠山こみやま両個ふたりあだの事までも聞へ知らしついに身まかりけれバ毛野ハかなしくくちおしくいかでかあだむくはんものと田楽でんがくわざにかこつけて日夜武術ふじゆつに心をゆだね三年に及てやゝとくし」ちかごろ此地に來りしが天ぢよむなしからずして求ずも仇人かたき常武つねたけまねきにおう石濱いしはま城中じやうちうにある事廿日あまり今宵こよひ酒宴しゆゑん折こそよけれと心待してありける程に常武つねたけおや主従しゆう%\彼此おちこち醉臥ゑひふしたれバ一刀ひさげてしのびより常武が枕辺まくらべにつゝ立名乗なのりかけて呼覚よびさまおきんとおどろ常武つねたけが首をたまらず打落し嫡子ちやくし鞍弥吾くらやご其余の者をも残りなくころし尽し對牛樓たいぎうらうかたへかべ仇人かたきの血をもて報讐あだうちの事のよしを五十餘言よげん書誌しるし常武か首引さけ小文吾がこもりたる一間に来り如此々々しか%\のゆへを告人つてに聞犬田が行状ぎやうでう世にまれなる勇士ならんを捨ころしにすべくもあらねバ相ともなふて走り去らんといきつぎあへず説示ときしめせバ小文吾ハ聞事に感嘆かんたんのがれ出るみちを問ふ。毛野ハ首級しゆきうこしにつけいさかう来給へと先に立小門の笠木に飛つきて外面とのかたへをり立つゝたやすとさしをねぢきり捨門とびらを開て」4 小文吾諸共もろとも馬加まくはりが屋敷を出しろひがしの土手の上より用意の釣索かきなはを取出し其はしをこなたの松に結畄むすびとめて片はしなはの先に付たる鋼丸たま前面むかひなげるにやなぎみきへくる/\とからみ付にぞさらバ向へわたさんと小文吾をたやす背負せをいて件のなはあしふみかけほりなんなくわたこゑあしばやに墨田すみだ河原かはらおもむく折しも城中にはかさはかしく人数をあつむ太鼓たいこの音いともはげしく聞へしかバ両人これを聞つゝも早く向へわたさんとするにふねそうもなかりけるに夜ハはかなくも明はなれてはるかに聞ゆる人馬の足音あしおと毛野けの小文吾ハこれを見て心いらだつおりしもあれ千住の方よりしば舩のわづかきしをはなれつゝこぎきたれるを天のたすけまねけどもこぎよせざれバ毛野ハいかりて丘より舩へ飛入つゝおどろく舩人足下に踏居ふみすへ漕戻こぎもどさんとせどもよりも早き出水のいきほひ思ふにも似す推流をしながされて川下とほくなりまさるを小文吾」

挿絵第一図【挿絵】

胤智たねともあだ人の首級しゆきう引提ひきさげて犬田に報讐ふくしう來由らいゆぐ〉」5
うち見て諸肌もろはだぬぎ水中へおどり入抜手ぬきでを切ておよげどもながはげしく波たかけれバつい追着をいつくことを得ず。いとも難義なんぎに及びし折から太平駄舩一そう千住の方よりこぎ來れバ小文吾ハからくして件の舩に乗移のりうつれバ舩子共ハおどろさはうたんとするを身をかはし艪櫂ろかいうばふて舩子を打ひしがんとしつるときわが名をよびとゞむるものあり。これべつ人ならずかねて相識る犬江屋の依助よりすけなりけれバかいなげ捨て危急きゝうつげ毛野がのりたる柴舩の跡をおはするに往方ゆきがたしらずなりしかバ今ハはやせんすべなく依助等とともに舩を市川につき犬江屋の門辺かどべになづき案内あないにつれて内に入に妙真大八もおらざれバふかく心にいぶかりて座につくに依助ハひざをすゝめかの悪者わるものかぢ九郎か事大八のしん兵衛が神かくしになりたるわけ妙真文五兵衛ハ安房あわに至りしのち犬江屋の跡式を依助にゆづりたる事」6 且文吾兵衛か安房あはにて病死せしよしをおちもなく説示ときしめせバ小文吾ひたんのなみだにくれおのが上をもつばらに告扨菩提所ほたいしよおもむきつゝ父文吾兵衛が為にこゝにも石塔せきとうたてべき事と二親の追善ついぜん讀經どきやうを念頃に頼み聞へ次の日よりこもり七日々々/\の佛事をとむらひけるにはやくも五十日の中陰ちういんはてけれバ依助夫婦ふうふ告別つげまどひ往方ゆくへも定めず出行けり。
○爰に又犬飼現八信道のぶみち去歳こぞの七月七日の急難きうなん荒芽山あらめやまてきを防ぎやうやく追兵おつて殺退きりしりぞけて辛くして信濃路しなのぢさして行ども/\道節どうせつたへてあはずやうやくに思ひたへて下総におもむ行徳ぎやうとくちやくし案内知たる古那屋こなやの門に入らんとするに人影ハあらず。あたりの人にたづぬるに文吾兵衛ハ安房にいたりしとてつばらならず。市川なる犬江屋の事を問にこれもおなじく安房あはおもむき家にハ畄守居のみなりと聞て現八望を失ひ〔まづ〕武蔵むさし

挿絵二図【挿絵】

釣索つりなはわたりて毛野けの小文吾こぶんごとも石濱いしはまの城中をのがる〉」7
まで退しりぞきて又ともかくもすべけれとその夜の出舩に便り求めて荏土えどおもむ信濃路しなのぢさして日にあゆみ夜に宿り花の洛に着つゝも旅宿りよしゆくを定めて犬士等をたづねめぐるに年立て春を旅宿りよしゆくに迎へけり。斯て現八ハ京都きやうとに居て武藝ぶげいを人にをしへつゝこゝろともなく三年を過し又四犬士にたづねあはんと扨門人の甲乙たれかれにハ舊里ふるさとなる親族しんそくよりにはかに招かるゝ一義ありて東國あづまへ帰るといゝなしてとみ行装たびよそほひをとゝのへ別を告て京都を立出日を下野州しもつけのくに真壁郡まかべごほりあし苧の里に着けれバとある茶店に休息やすらひぬるに一てう鳥銃てつほうと六七ばりの半弓を並べ掛たれバあるじの老人おきなにゆへを問バ荅るやう。こゝより五六里へだゝりて庚申かうしん山といへるハ妖怪えうくわい変化へんげ常に往く人の命をとる事あり。このゆへに白昼といふとも獨行ひとりたび路案内みちしるべの者をやとふて身のまもりにせらるゝなり。やつがれハ元獵師かりびとにて足緒あしをもづ平といへる者なるが」8 年老たれバかせぎせず。をさ/\旅人りよにんにやとはれてかのみち案内あんないを仕つり。そのをり用心ようじんにもてるのみ。又丸竹の半弓ハ武藝ぶげい〔たの〕む一人歩の賣物にこしらへおけり。そも/\赤岩あかいは庚申山かうしんざんハ此里より行事ゆくこと十町あまりにしてつまさき上りの山路やまぢなり。すてにして登ること二十町とうげいたり又下ること十町なり。みち苦辛くしんハいふべくもあらず。斯て又登りゆくこと大約おほよそ三里あまりにして第一の石門せきもんに到る。土俗とぞくこれを胎内竇たいないくゞりとよびなしたり。是よりおくへハ人みなおそれてたえてゆく者なかりしに近ごろ赤岩村あかいはむら郷士がうし赤岩あかいは一角いつかく武遠たけとほといへる武藝ぶげいの達人このをくいんを見きはめんと門人等に語らふに門人衆皆みな/\呆れはてことばひとしくいさむるやうかの山中にハ数百歳すひやくさい山猫やまねこあり。そのたけき事とらの如くもし山中に入る者あらバ忽地たちまち引裂ひきさきくらふといへり。此事思ひとゝまり給へといふをも聞かず一角ハそのつぎの日の未明まだきより同心の高弟かうてい四人ととも庚申山かうしんやまだい二の石橋いしばしほとりまでいたりけるに門人等一角に打向ひ人のかよはぬこの山に過半くわはん入給ふたれバ是よりとく/\かへらせ給へと迭代かたみかはりとゞむれども一角ハいつかなきかず門人等をこゝにまたくたんはしわたはてて見る間にえずなりにけり。かくまつ事二時あまりにしてかたむけども一角ハかへりず。こハ平事たゝごとにあらじとて門人等商量だんかうしつゝ赤岩なる宿所しゆくしよかへり一角が後妻のちぞひ窓井まどゐつげそのつぎあさにはかに里人五六十人を駈催かりもよふし門人等先に立て庚申山かうしんざんによぢのぼりかの石橋いしばしほとりまで來つれどもおそれてわたる者ハなく又商量だんかうに時を移せバ斯てはけふも事はてあす又人数を倍加ましくはふたゝび來りてわたらんと又いたづらに引かへし胎内竇たいないくゞりを出んとせし時忽地たちまち後辺あとへに人ありてよびかくるを見かへれば是すなはち一角なり。皆々よろこ引返ひきかへつゝがなきを祝しつゝ縁故ことのもとをたづぬれバ一角微笑ほゝゑみいへるやう。われきのふおくいんをおがみ果てたどる/\もかへる」9 をりから思はず足を踏辷ふみすべらし渓底たにそこへまろび落たり。然れども幸ひにつゝがなく藤蔓ふちかづら手繰たぐりつきからくしてよぢのぼる事半日あまり。やうやく爰にかへり來しと一五一十いちふしゞう説示ときしめせバ皆々聞て駭嘆がいたんし其高運かううん相賀あいがして且いたはる事大方ならず。されども一角ハ氣力きりよく日ころにことなることなくもろ人をみちより帰し門人従者ずさて宿所にかへり来にけれバつまのよろこびいへばさらなり。先さいうましたる嫡子ちやくし角太郎ハ天性孝心そなはりけん。今つゝがなくかへりぬる親のたもとにまつはりて問慰とひなぐさむるもいと可愛かあいし。この一條ひとくだりハ十七年の昔になりぬ。赤岩ぬしハ彼山をこともなけにいはれしかどかゝりし後もかのふもとにて折々人の亡る事今に至りてかはらねバ登山するものありとハ聞えず。かくて赤岩の宿所にハ後妻かうさいまと井その十一月より有身みごもりて次の年八月のころ又男子をうまれしかバ牙二郎と名つけたり。一角ぬしいかなる故にや二男の生れし」

挿絵第三図【挿絵】

ふねふて小文吾こぶんご舊故きうこ邂逅かいこうす。[玉][亭]/市川の宿やどより助小文吾を管持もてなす〉」10

ころよりして前さいばらなる角太郎をいとにくみぬ。この時赤岩に程近き犬むら郷士がうし犬村蟹守かもり儀清のりきよといへるハ一角の前妻の兄なるが角太郎をあはれみ我女児むすめにめあはせんと六歳の時よりこひとりて文学武げいまなばせしに年十五六に至りては文武の奥義をきはめたり。その後角太郎のひたい髪をそりとらし元服げんぶくの義を執行とりおこな養父やうふいみなの一字をさづけて犬村角太郎まさ儀と名告せ女児雛ぎぬこん礼させ親ハさらなり里人等さへよきにひ夫婦といゝあへり。儀清の妻ハその次の年風のこゝちとうちふせしがついにむなしくなりにけり。儀清もそのふゆよりやむ事二年あまりにしてこれも黄泉よみぢひととなりぬ。これよりさきに赤岩にて後ぞいまど井ハ二郎か三ッ四ッになりける時 一日あるひ頓死とんしをしたりける。これより一角は舩虫ふなむしといふてかけをもとめていたく心にかなひけん。いく程もなくほん妻にし」11 のぼしぬ。此舩虫が遺財ゐざいうははん為にしも良人おつとにすゝめて角太郎夫婦のものを呼とり両うけを一ッに合。こゝに雛衣ひなぎぬハ今年の夏より身おもくなりし。舩虫ハなんくせつけて角太郎に休書さりでうかゝせ雛衣を媒人なかうどもとに遣しぬ。其後角太郎をも遂に勘當なしゝかバその身のまゝおい出され世をあぢきなく思ひにけん。赤岩と犬村のあはひなるあざな返璧たまかへしとかべる地方ところくさいほりをむすびてをり。さばれかたちハ半ぞくにてその行ひハ法師も不及しかず彼処かしこより來ていふものあり。いといたましき事ならずやとしたりがほして説誇ときほこれバ現八聞て嗟嘆さたんたへず彼弓かいとりて茶店さてん老人おきなわかれをつげおぼつかなくも麓路ふもとぢあしまかしていそぎけり。却説かくて現八ハ不知ふち案内のを上りつ下りつゆく程に思ひがけなくいと大きなるせき門のほとりに來にけり。この時現八ハ心つきこハさきにもつ平が説示ときしめせし庚申山にありといふたいくゞりたりけりとおどろき」

挿絵第四図【挿絵】

網苧あしを茶店さてんげんもづ平がふるき物語ものかたりく〉」12

あきれて忙然ぼうぜんたりしがかく山ふかまよひ入れバ今さら麓まで至らんことたやすきにあらざれバ今宵ハまづこのやまいはやあかして里へ下るべしと弓箭を引つけ坐をしめてなほ〔ふく〕る夜をまもりてをれバ丑三にやと思ふ頃ひがしのかたより火のひかりこなたをさして近づくまゝに現八あやしみよく見るに異形ゐぎやう妖怪えうくわい主従しゆう/\三箇木魂こだまの馬を〔うた〕せつゝたいくゝりのかたに來にけり。さきに火の光りと見へたるハばけものゝ大將とおぼしき馬上の變化の両がん〔ひか〕れるなり。現八さは色なく大の上によぢのぼり程よき枝に足ふみ畄め弓に箭つがふてひきかため矢声もたけはなつ箭に件の馬なる妖怪ハ左の眼をのぶかにられて馬よりだうおちしかばしたがふ両箇の妖ものハ手負の手をとり肩にかけ馬をひきつゝにげ〔うせ〕けり。現八ハ樹よりをり地方ところかへ様子やうすを見んと胎内竇を西のかたへゆきぬけてひたすらによぢ登り十三間なる細谷橋を自若じやくとして渡り果またよぢのほりゆく程に岩むろの中に人」13 あれバ現八ハ妖怪ならんと弓ひき固め身がまへするにこハ素より妖怪ならず。赤岩一角武とほ寃恨ゑんこんにして前に射たる妖怪ハ幾百歳をる野猫の化たるなり。今年より十七年前一角武遠この深山の奥の院を見んと第二の石橋に高弟従ひとを残し置其身一とり岩窟のほとりまで登るをり件の野猫が為にかみ殺され又山猫ハ一角がすがたに変じ窓井をおかして牙二郎をうまし精気をへらして命を〔た〕ちいん婦舩虫をほん妻とし角太郎をにくみひそかに殺さんと欲せども角太郎ハ身にそなはる瑞〔ぎ〕よくあれバつゝがなし。斯て後角太郎が妻雛衣ハ密夫の子を身ごもりぬといひ立られ妹〓いもせの中をさかれし上に角太郎さへおひ出されしもと末を現八につぶさにかたりねがふハ和殿わかを助けて怨かたきをうたし給へかしとさめ%\として頼むにぞ現八聞て胸ふたが洪歎こうたんやるかたなかりける。その時一角の寃魂ハ一くさ短刀の〔たち〕とわがどくとをとり出し證拠せうこの為にわたすにぞ現八これを請とりて一角か寃魂に立別れその暁がたに山を下り返璧たまかへしさしてゆく程にその日巳の頃ほひに角太郎が庵に來にけれバ内のやうすをかいまみれバ主人角太郎まさ儀は無言の行に観念の眼をとちて餘念なけれバ現八ハしのびかねしばの戸けわしくうちたゝきいくたびとなく名のれとも内にハたへいらへせざれバ折戸のこなたに立ずみて行の果るを待わびけり。かゝる処に前面より角太郎が妻雛衣なるべし。年なほわかき女房の身のさまいやしからざるが庵の外にあゆみより〔敲〕けどさらにいらへなけれバつれなき人と怨言うらみこち。垣にすがりて泣沈なきしづみ疑れたる身ごもりのその言訳いゝわけハ死してせんと思ひさだめてかへり行を現八始じうを立聞たれバもし雛衣が渕川へ身をなげる事もやと跡より走り〔つか〕んとする時角太郎の行終り身をおこしつゝ現八がゆかんとするを呼畄め」14 折戸おりどを開て内にせう初對面しよたいめの口終りその来由を問程に現八ハ彼みつ事をはじめより明白に告ず四方山の物語ものかたりして扨犬塚犬川犬山犬田犬江等の異姓ゐせいの兄弟六人の上をしもかたり出思ふに和殿も感得かんとくすい玉をもちたまはずや。その玉にハおのづから礼のあらはれたるものならずやと問れて角太郎駭嘆かいたんし某実にさるすい玉を年来秘蔵ひそうしたりしが一日つま雛衣ひなきぬ腹痛ふくつう苦しく百やくしるしなきまゝにかの玉をひたしつゝ水をのませんとしたる折けい舩虫ふなむしその玉をかいとらんとせし程に雛衣慌忙あはてふためきてあやまつて水もろ共にくだんの玉をのみてけり。斯て後雛衣ひなぎぬはらしだいにふくだみ有身みごもりたるものに似たり。其やう父の病中ひやう より妻とまくらならべし事なきに雛衣が懐胎くわいたいこゝろえかたしといひし言葉ことばえだいで來てさらハみつ夫のたねならんといふものあれバうちも置れず。不便なからも離別りべつして媒人なかうとあづけ置たり。さりながら某ハむこやう子」

挿絵第五図【挿絵】

いさめこばんで一かく庚申かうしんだい二の石橋いしばしわたる〉」15

にして雛衣ひなきぬやう父母の女児むすめなり。ちとあやまりありとても去るべきつまにあらず。もとよりそのさが貞順ていじゆんにて外心のなき事ハ某これをるといへども離別りべつしてかへせしハ深き情由わけあることぞかしとかたをりから外面に女轎子のりものてうと又一挺の辻竹輿かご折戸をりと口に扛卸かきおろせバ先にたてたる轎子のりものの戸を開せて出るものハ赤岩一角かつま舩虫なり。奴僕しもべおとなこゑと倶に角太郎けん八を紙門ふすまのあなたへさけしめて出向ふはし舩虫ふなむしハ相ともなへる媒人なかうど氷六等共侶もろともに後方に立せし辻輿かごいほりにはかき入させ先に立つゝうちのぼればかく太郎ハ舩虫に礼をのべ父の安否あんひを問けれバ舩虫ふなむし微笑ほゝゑみて否持病ハおこり給はねど昨宵よんべ初心の弟子てしたち巻藁まきわらさしをしへ給ひしその折にそのあやまちて大人の左のを大くやぶられ給ひにきと告るにおどろく角太郎きづ淺深やうすを問ひなどする中媒なかうどの氷六ハすゝみ出いぬる頃よりあづかりたる」16 雛衣どのけふ柴榑し〔ば〕くれ橋より身をなけんとせられしをはるかに見つゝ走りつきとゞめんとすれともとゝまらす。其折赤岩のおん母御前日出の社へまうて給ふかへるさに其処を通らせ給ひしかハ加勢にたのみまゐらせてやうやくいさめこしらへて扨〔おさま〕りを商量〔だん〕かふせしにかう/\せはやとのたまふをちからに同道いたしたりといへバ舩虫語を續て雛衣を角太郎に再縁させんと他事もなくさと表皮うはへ空情あたなさけかく太郎ハ有旡うむの答にかうへたれていらへなけれハ氷六そはよりすゝさとすにぞかくも計らせ給へといふに舩虫よろこひて氷六にこゝろ得さし雛衣を竹輿かごより出し休書さりてうもとして舩虫もろとも家路をさしてかへりけり。されハ又舩虫かこの地へ流浪し赤岩一角の後妻となりたる來れきをたづぬるに去々歳おとゝしの秋の頃かれハ武蔵の阿佐谷あさかや村に在し時夫並四郎ハ小文吾に〓仆きりたふされ其身ハ千葉の家臣畑上語路ころ五郎に搦捕からめとられて石濱の」

挿絵第六図【挿絵】

胎内竇たいないくゝりけん妖怪えうくわいる〉」17

城にひかるゝ折馬加まくはり大記かたすけによりてからみちより逐電ちくてんし當國に落畄り程へて一角か側室そはめになりついに後妻にとり立られ角太郎夫婦をにくさん言をのみ事として件の夫婦を追出しそかやう家相傳の田畑てんはた家財を畄めて返さす。又一角か二男なりける赤岩牙二郎ハその心さま直からす。殘忍ざんにん不善のくせ者なれハ同氣ハ相求める古語ふることに似て舩虫ハ牙二郎をのみ愛慈いつくし〔み〕へたつる心なかりけり。かゝりし程に舩虫ハ良人おつと失傷やきず平愈の爲日出詣のかへるさに氷六ひやう  に呼かけられはからずも舊〓もとのよめ雛衣が入水をとゝ忽地たちまち心にもくろみあれバいと正実まめやかなくさめて角太郎にときすゝついに夫婦を全うしたる肚裏はらのうちにハ計策はかりことの速に成れるを歡びやがて宿所に立帰り一角に様とおの伎倆たくみさゝやくにぞ一角ハ大ひによろこびしきりにほめやまさりけり。

○夫ハ扨置角太郎ハ人々のかへりゆくを見送り果て現八を呼出し」18雛衣を引あはすにげん八ハさきに舩虫をかいまみゑみの中にやいはかくせるおもゝちあれバあるじ夫婦に殃危わざはひあらん。某赤岩へおもむきてこと虚実きよじつさくるべしと角太郎かとゝむをきかでいほりを出てみちを急ぎ日もはや西にしつむころ赤岩のせうに來りけり。斯てけん八ハ坂のほとりに立在たゝずみうち面よりひ の出るをまつをり行装たひよそほいかめしき一箇いつこの武士従者ともびと五六人をて出來り。けん八か立すみたるをあやしけにかへりつやかて赤岩一角が家に入れバ若とうはやく出向へきやくの間へしやうじけり。抑此旅の武士を甚麼いかなるものそとたづぬるに是則別人ならす籠山こみやまいつ東太と〔うた〕縁連よりつら也。かれハ十七年前主命しゆうめいいつはり〓戸に近き松原にてあひ主従しゆう%\残害きりころおの宿意しゆくいはたすものからその折嵐山あらし  の尺八と小ざゝ落葉の両とう盗賊とうぞくうばひとられしものから縁連よりつらつみのかるゝよしなくそのより逐電ちくてんし赤岩一角がもとにたより弟子若黨わかとうにて在けるを一角が吹挙すいきよにより」 長尾かけ春に仕へけるがかげ春ハ去歳こその秋より上毛かうつけ白井の城にありて一日あるひ井をほりて一口の短刀たんとうを得たりしかハ一角の鑒定かんていを乞んと縁連よりつら使者ししやとして赤岩がりつかはしけり。斯て縁連よりつらしゆう命を述たつさへ來つる木天蓼またゝび丸の箱をさしよせひもときとき中より白気はくき立昇たちのほり一角がほとりになびきて消失きへうせたるを心付ずそがまゝふたをかいれバ中にハ袋のみにしてかのたん刀ハなかりけり。縁連よりつらおとろうれへつゝ身のつみのかるへき計策はかりことを問けるに一角しか%\となくさめてやかて酒えんもよふしける。其時縁連よりつら外面そともにたゝすむけん八か事を思ひ出ししか%\とつぐるにそ内弟子の月みの團吾だんご玉坂飛伴ひはん八黨はつとう東太〓足きつたりはつ太郎なんどいふ壮士わかものけん八を内にせう圓居まとゐの席へともなへばけん八ハ席末せきばつつらなりて今宵止宿ししゆくよろこひを述しかバ一角比ハ乙某なにがし丙某なにがし一箇ひとり々々/\に告しらすれバ衆皆みな/\齊一ひとしくひさを進め」19 不例ふしきの對面をしゆくしける。斯て時うつるまで酒宴して武藝ふけいほこはつ太郎東太共侶もろともけん八に太刀筋のをしへうけんとこふ程にけん八ハ推辞いなむによしなく稽古所におり立て先飛伴ひはん太をうち倒し續てかゝる東太團吾はつ太郎をいと目さましく打伏るにこらへかねたるこみ縁連よりつら真剱しんけんをもて立向ふを左へ拂ふて引組つゝとう揉伏ねちふせうこかさす。二郎見るに口おしく刀を引提ひさけけん八をうたんと進むを一角ハ制しとゝめて再び立せす。その間にけん八ハ縁連よりつら扶起たすけおこ引退ひきしりそけハ一角ハけん八か武術をほめ又盃をめぐらすにぞ物のかけなる舩虫ハ歎息たんそくしつゝ退きける。
却説かくて一角ハ五名こにんの弟子等をうち伏られしをねたみ怒れる気色なく又現八をもてなす程に夜ハやうやくに深初ふけそめたれハ盃盤はいばんを納めさしけん八か臥房ふしどまうけとくねふりにつき給へとすゝむにけん八席をくたち(〔り〕)別を告て案内につれ客のまおもむきて既に臥簟ふしとに入りつゝもはらうちに思ふ」

挿絵第七図【挿絵】

返璧たまかへししば現八けんはち雛衣ひなきぬ怨言ゑんげんたち聞す[呂][文]〉」20

やう一角われをもてなしたるその奸詐たばかり子細しさいそあらん。且かれが左のまなこまさしく我にられしをわれとハみとめえず見るになほよくはかりきやつ退治たいしし赤岩犬村親子おやこの爲にこの年來のむじつとかんと目睡もせて在けるを深ゆくまゝにねむけさせバなほねむらじと思ひつゝ何の程にか目睡まどろみけん。護身嚢まもりふくろの中なりける彼しんの字のすい玉のくだくる如きおとせしにおどろき覚てまなこひらけバしきりにむねのうちさはげハ心いよ/\安からず。そと身を起し縁頬ゑんがは障子せうし開るにあやしむべし外方に多く物を並べつまづかせんと操組からくみたりと思ふものから臥簟ふしどにかへりて両刀をこしおび縁頬ゑんがはのかたに出前栽ぜんさいに下り立バ麻索あさなは引渡わたしてありけれバ件のなはをうちこえつ。小門のとざし揉捨ねぢすてて又縁頬に立もどり障子引よせあまたの物を元の如くによせかけて木立のかげに身をひそましてうかゞへバうし三時のかねを合圖にしのび近づく八箇やたりくせ者出口々々をきりふさきて間の紙」21 戸を蹴放けはなちて閃かしたる短鎗てやり刄頭ほさきよぎの上よりぐさとさすに手こたへもせずぬしもなし。さてすいしてにげたるならん。とく追蒐おつかけよとのゝしりつ出んとするによせかけ置たる物につまづ捫擇もんちやくする事大かたならず。其時縁連よりつら舩虫ハけん八の逃亡にけうせしと聞てのぞみを失ふものから臥床ふしど手首たなくびさし入て夜着も蒲團ふとんぬくまりさめねバ必定ひつてうそこらにかくれてをらん。とくかり出せと下するに心得たりと走巡はせめぐるに庭にわたせし麻索あさなはに足をとられてふしまろべバけん八得たりとあらはれ出先なる一人くひおとし今一人を〓倒きりたふせバ牙二郎飛伴ひはん太東太團吾たんごはつ太郎ハ短鎗てやり得物えもの/\を引さげて現八をうたんときそふを爰にあらはれ彼處かしこかくれ一上一下と手を尽せバ飛伴ひばんはつ太郎ハ重痛おもてふてたふれけり。二郎東太たん吉等ハ未深瘡ふかでおはねどもすで方を多くうたれしきりに加勢を呼程に縁連よりつら弓にをつかひ弦音つるおと高くかけし」

挿絵第八図【挿絵】

舩虫ふなむし奸計かんけい犬村いぬむら閑居かんきよふ〉」22

かバ現八これを〓拂きりはらひなほ二郎いどみあらそひしだい/\に跡しさりして小門のほとりに近つきて左の手にて戸をあけながらうしろさまに走り出はやく其戸を引たてつゝ大きなる葛石かつらいし双手もろてをかけて引起し引戸へしかとよせかけなから刀血ちかたなぬくひてさやにおさめ返璧たまかへしさして走り來つ。角太郎かいほりに入ありし事どもしか%\と言語ことばせわしく告白らすれバ角太郎夫婦ふうふおとろかんじ先現八を戸棚とだなかく追來をひくる人をまつ程に赤岩牙二郎籠山こみやま縁連よりつら若黨わかとう下部しもべうしろに立し柴門しばのとせましと込入てとく盗人ぬすひとを出し給へといはせもはてず角太郎こハ心得ぬぬす人よばはり。出せといはるゝ覚はあらじといふにせきたつ縁連よりつら二郎さがしせんとおくすゝむをさハさせじと引もどいどあらそふ折からに何の程にかかきもてにけん。には二挺にてう轎子のりもの裡面うちより出る一角夫婦二郎をせいとめはや上坐かみくらつきしかバ角太郎夫婦ハおそうやまひ」23 縡問こととひかねてぞかしこ〔ま〕る。一角ハ縁連よりつらを赤岩にかへらしめ角太郎雛衣ひなきぬ等に日ごろに似げなき慈愛じあひ言葉ことば今日けふ勘當かんどうをゆるすなりといふに夫婦ふうふよろこびてひたすら親をもてなす程に一角ハ夫婦にむかひ事あらためて雛衣ひなきぬ胎内たいないにある子をとり出し父に得させよとありければ角太郎雛衣ひなぎぬハ只あきれたる斗りなり。舩虫ふなむしたづさへたるつほを夫婦があはひすへるに一角ハきつとしていへるやう。われ一昨おとついあやまつてまなこやぶられ醫師くすしを招きて見せけるにこの眼瘡かんそうにハ妙薬あり。百年土中にうつもれし木天蓼またゝひの細末と四ヶ月已上の胎内はらこもりなる子の生膽なまきもとその母の心のざうの血をとりてかの細末さいまつ煉合ねりあはしこれをふくせバ目の玉のふたゝいえ鮮明あさやかなりといはれにけれど二ッながらいともがたき薬剤やくさいなれハしばらく思ひ捨たるにきのふ不測ふしきにかの木天蓼わたゝびの百年あまり土の中にうづもれたるが手に入りぬ。親の為にハ命たも」 をしまじといふかう行にあまへて頼む薬種やくしゆ調達てうたつ推辞いなみハせじとかねてより思へバいとゞ不便ふびんにこそといひつゝぬぐそらなみたを見まねに船虫ふなむしはなうちかめば角太郎ハ嗟嘆さたんたへ推辞いなむを聞かぬ無頼ふらひの一角推辞いなま自殺じさつなしはてんとやいばぬかんとする程に角太郎がとゞむるをまたで舩虫牙二郎左右より携著すかりつきて刀をうばへバよははてたる角太郎か心をくみ雛衣ひなきぬたゝ伏沈ふししつたりしがついにハのかれぬ定業てうかうぞと覚期かくごきはめて舩虫がさし出したる木天蓼丸わたゝびまる刀尖きつさきふかの下へくさと衝立つきたて引めぐらせバとほどばしる鮮血ちしほと共にあらはれ出る一箇いつこ霊玉れいぎよくいきほひさながら鳥銃てつほう火蓋ひふたを切てはなせし如く前面むかひしたる一角が胸骨むなほねはたと打碎うちくだけバさけひもはてたふれける。こと不測ふしきに舩虫牙二郎おどろきながら見かへりて角太郎をあたとしつきりてかゝれバ角太郎ハ戒刀かいとうさやながらににきもち受流うけなかしうちはらとめても」24 〔き〕かぬ無法の大刀風ふせぐのみなる角太郎ハ右手のひぢを一寸ばかりかすり痍負でおひたる危急きゝうの折から戸棚の紙戸ふすまの間より打出す手裏釼しゆりけん二郎ハの下をつらぬかれ刃を捨てぞたふれける。程もあらせず現八ハ衾戸ふすまとはたと蹴放けはなちて棚よりだうと飛下り逃んとうろたふ舩虫がきゝ手をとつて引かつぎ向ふざまになげしかバ火盆のかどにあばらを打れ灰にまみれてたふれけり。角太郎ハこの為体ていたらくおどろき怒り親族の仇そこのきそと名のりかけて戒刀かいたう引抜ふりあぐる刃の下を現八ハ掻潜かいくゞとり畄めたる角太郎が二の腕より流るゝ鮮血ちしほを懐よりいだす髑髏どくろにしたゝる鮮血ちしほの吸込如くまみれ着たる親子おやこ明証めいしやう竒特きどくに勇む現八ハ思はず聲をふり立てはやり給ふな犬村ぬし。打たふされし一角ハ御辺の眞の親ならず。この髑髏とくろこそ真の亡父赤岩一角武遠たけとほぬしの白骨はくこつなるをしらざるや。告べき事多かるに怒りを」

挿絵第九図【挿絵】

ゆうふるつけん八よく衆兇しゆきやうとりひし[文][魚]〉」25

おさめて聞れよと突放されて角太郎ハ思ひがけなき竒特を見つ勢ひ折けて折しくひざかい刀の柄おし立てその故きかんと詰よすれハ現八ハ歎息たんそくして角太郎に打向ひ一昨おとゝひ網苧あしおの茶店にてもす平が問すかたりを聞し事より庚申山にふみ迷ひて胎内くゞりの辺にて猫に類せるばけ物の左の眼を射たりし後岩むろの中にて一角の亡魂なきたまにあひ彼山猫か事しか/\と告角太郎に對面してかれたすけてわか仇なるにせ一角等を退治して給へとて證処せうこの二種をわたせし事且ハ里見殿に因縁ある八犬士の起る由來霊玉れいぎよく感得の事異性ゐせいの兄弟なる事までおちもなく語説ものかたり證処の二種ふたしなさしよすれば角太郎ハがく然とはしめて夢の覚たる如くおどろき耻てむねうちなで懐舊くわいきう悲歎ひたんたへざりけり。

○かくて犬村角太郎ハ数行すかうの涙をやうやくおさめて後悔慚愧ざんぎやるかたなく現八か厚意を謝し」26 つま雛衣ひなきぬをよびいけてしか%\のよし聞ゆるに雛衣ひなきぬわづかに目をひらきよろこはしやとばかりにてそがまゝいきたへにけり。かねしたる角太郎ハ愀然しうねんとして立かねたりしを現八ハはげまして雛衣ひなぎぬ亡骸なきからかたよせんとする程に二郎忽地たちまちいき出て身をおこしつゝ手裏釼しゆりけんかいつかみげん八のぞんてなげかへすをつかもて丁とうけ畄たり。二郎いかりてよろめきながらあい手をえらまずうたんとすゝむを角太郎がひらめかす刀に細首ほそくび打落おとせバむくろハふしたるにせ一角にうちかさなりてぞたふれける。 物のひゞき恩愛おんあ のその気や自然しぜんつうじけん。せしと見えたるにせ一角忽地たちまちうめくこゑを出し双手もろてはつて身をおこせバすで年老ふるねこのすがたをあらはす竒怪きくわひ相貌さうぼうきばらしつめを張四下あたりをにらんでつくいき狭霧さぎりとなりて朦朧もうろうたり。角太郎ハ妖怪えうくわいの本たいを見てちつとさわがず血刀ちがたなさけ間近まぢかくよせしばらすきうかゝへバ後方あとべに引」

挿絵第十図【挿絵】

はらつんさき雛衣ひなきぬあだたふ[玉][光]〉」27

そへ現八ももし手に餘らバたすけんとてひとしく心を配りつゝよせるを寄じと山ねこ鳥の如く蜚遶とびめぐるをしきりに勇む角太郎ハ是首に追詰おひつめ彼首に攻つけうち閃かす刃にひるまぬ妖怪えうくわいます/\たけり狂ふてまどかう子に爪うちかけのがれ去らんとする処を、丁とうつたる角太郎が手煉しゆれんの刀尖あやまたず。さしもたけける山猫ハ腰のつがひ〓放きりはなされまろぶを得たりとのひかゝつてのんどのあたりをいくたびとなく斬貫きりつらぬけバやうやく息ハたへにける。すでにして角太郎ハ父のかた見のたん刀もてとゞめをせバ竒なるかな彼礼の字のれい玉ハきず口よりあらはれ出しをを押ぬぐひうちいたゞき現八に見せしかバ現八も又よろこぶ折からこみ山逸東太縁連よりつらハさいぜんかゝるさわぎのまぎれに息吹いきふきかへしにけ亡たる舩虫をいましめてひき立來つゝ其身もこし刀をしりぞけてうや/\しくぬかをつき二犬士に身のを打わびこともと末ハさいぜん」28 よりも立聞したるに此舩虫ふなむしにけ走るを矢庭にとらへていましめたり。某主君よりあづかり來つるたん刀ハにせ一角がぬすみ取さやくだきて薬にせしとか。されどさいはいにして短刀ハあるなれバ此舩虫共侶にたまはらバ白井の城へ引もてかへりてまうしわきのたねにしつべし。某おもひたらずして両君子に強面つれなくあたりしつみハ万死に當れどもゆるさせ給はゞ大おんなりとかなしみ告る佞弁ねいべん邪計じやけいにくしと思へどのゝしりせめず。乞まゝにその義をゆるして村人等をよびつどへんとする程に月みの團吾八とう東太ハ異類ゐるいのくひをたづさへて入來り。是ハ山ねこ眷属けんそくなるまみてんなり。山猫に相したがふて塾生うちでしすがたへんじ飛伴太はつ太郎と呼れたるが昨宵よんべかひぬしの大刀風にきり立られ深を負てにげんとしけるを某等刺殺さしころして首をとりたりと俺們われ/\も又人りんならず。かう申山のふもとなる土地の神と山の神也。神通しんつうねこに及ねハ心ならずもかり使つかはれて團吾東太」 とよはれし也。さらば/\とわかれを告かう申山の方に飛去けり。かさね%\の竒怪事くわゐ〔じ〕に角太郎とげん八ハくだんの首を引寄し見るにまみてんよの常ならず只是のみにあらすして牙二郎が首も又さながらねこに似たりけり。斯ていつ東太縁連よりつらは二犬士にわかれを告木天蓼わたゝび丸のたん刀を乞うけ舩虫をわがのり物にうち乗し白井をさして走去はせさりけり。さる程に犬村かく太郎ハ里人をつどへて妖怪えうくわい親子の亡骸なきからやき捨させ雛衣ひなきぬが亡骸と父武遠たけとう白骨はつこつを香華院にあつくほうむ石塔せきとうつくり立七七のふつおこたる事なく犬かいけん八ハ其間赤岩に逗畄とうりうして自餘しよの犬士等が事一五一十を日ごとに物かたりしてなくさめけれバかく太郎ハ聞く毎に感激かんげきしいよゝ五犬士のしたはしくいみはてて後けんともに諸國を遊暦ゆうれきして環會めぐりあはんと思ひけり。かゝりし程に中浣もはてけれバ角太郎ハその田はたくらを賣わたし二百金を香華院ほたいしよ布施ふせして祠堂料しどうりやうとし媒人なこう〔ど〕氷六をはじめ」29 赤岩犬村の民のまづしきに二百金を施行せきやうし村長里人氷六を招きて畄別りうべつ酒食しゆしよくをすゝめ犬村大角だいかく礼儀と名を改めてげん共侶もろともに吉日をゑらみ首途かとでをなしまづ鎌倉かまくらへ出んとて信濃路しなのしより上毛かうつけ武蔵をうちめぐ相模さがみの州鎌倉に旅寐たびねしていかでか五犬士に環會めぐりあはんと日々にちまたに遊びくらしぬ。
○夫ハ扨置こもり〔こみ〕いつ東太縁連よりつらからく二犬士のうらみを免れ搦捕からめとりたる舩虫を行轎たびのりものにうちのして白井を投ていそぐ程に信州しんしう沓掛くつかけしゆくに宿を求ける夜に枕辺につなぎたる舩虫ハ逸東太か息をかんがへ辛くしていましめのなは〔を〕切て彼木天蓼わたゝびたん刀と三十金の用をうばひ何方ともなくにげ去けり。その明の旦縁連よりつらハ目覚て後におどろさはたつねさがせどかげさへ見えねば所詮しよせん白井へハかへりがたしとむねやまして思案するに計較もくろみやうやく定りけれバやがて五十子の城におもむ扇谷あふぎがやつ定正さだまさに仕へける。さらハ毒婦どくふ舩虫ハ金と短刀たんとう

挿絵第十一図【挿絵】

〈妖邪を斬て禮儀亡父の怨を雪む [文][魚]〉」30

をぬすみとりその夜りよ宿を逃亡にげうせ越後州ゑちごのくにおもむき又強盗がうだうの妻になりてさま%\のあく事をせしが此時犬田犬川の二犬士ともに越後にめぐりあひ舩虫ふなむしが夫の強盗がうだう童子〓子がうし酒顛二しゆてんじはしめ小〓〓ぬすひとみなごろしにせしをり又舩虫はおば内といへる手下のぞくからくも其処をにけ去武蔵へのがれて司馬しばはまに程近き谷山に小屋こいへを求め媼内と夫婦ふうふになりて又大あく事をはたらきけるがついに二人ながら犬士等の為に牛劈うしざきにせられける。こハこれのちのはなしなり。

○爰に又犬坂毛野胤智たねともハ父のあた馬加まくはり大記常武つねたけうつて小文吾と倶に石濱いしはま城中じやう  のがれ出墨田すみだ川にて犬田にわか舊里ふるさとなる犬坂村におもむきて三年ばかり身をしのび夫よりかたき縁連よりつら撃果うちはたさんとて信濃路しなのぢ流落さすらひ犬田犬川二犬士にめぐりあふて初て異姓ゐせい兄弟けうたいたる事を知りけれど未縁連よりつらをうたざれば二犬士にかき置して再會さいくわひ何処いづこともなく出去けり。こゝに犬村大かく31 ハ犬かいけん八と共侶に自の犬士をたづねんと鎌倉に旅寐たびねせしかど些の便りも得ざりしかバたびより旅に月日を送り二年を武蔵むさしなる千住河原にて犬塚犬山に再會さいくはい北のがう氷垣ひかき殘三夏行なつゆきハ道節が故主ねり馬の一ぞく豊嶋としまの信盛のぶもりに仕へたる者なりけれバ四犬士此家に帯畄たいりうして道節どうせつ怨敵おんてきたる扇谷あふぎがやつ定正をうちとらんと五十子のしろうかゞひけり。さる程に犬坂毛野ハ犬田犬川の二犬士にわかれて父のあだ縁連よりつらをうたんとて武蔵むさし州豊嶋郡湯島ゆしまなる天天神のけい内にてほう下家もの四郎とへん名し坐撃ゐあひぬきくすり歯磨はみかきうりすがたをやつし居ける折から扇谷定正の内室蟹目前ハ湯島ゆしまの神社へ詣來まうでき給ひしに日比より寵愛てうあい深き手がひの小さるほだしひもや緩みけん。銀杏いてうこずへはしり登りよべどもさらに下らねバ蟹目かなめ前ハ奥つきの老黨河鯉かはこひ権佐ごんのすけ守如もりゆきに命てこれをとらゆる便直てだてあると問給へども丈のみきに足をかけ

挿絵第十二図【挿絵】

〈舩虫謀て縲絏を脱る[文][魚]〉」32

へき處なし。其時毛野のもの四郎ハ彼老じゆ鈎索かぎなは投掛なげかけすみやかに登りゆきてさるをとらへて地上に下り守如もりゆきにわたすにぞ蟹目前主従ハその神速すみやかを感じけるが権佐ごんのすけ守如ハ彼もの四郎をさいぜんより凡人ならずと見てけれバ蟹目前かなめのまえが下向の後其身ハ此處にとゝまりて機密きみつを告て一大事をたのみける。其訳ハ主君定正さたまさ侫臣ねいじん縁連を用ひ彼がいふにまかせて小田原の北條氏と和睦わぼくして長尾景春かげはるとの和睦を破り上野かうつけ越後ゑちごをとりかへさんとし給ふより彼縁連よりつら使節しせつとし相州におもむかしめ給ふになん是みな縁連が奸計かんけいにて當家と長尾家ながをけと和睦せバおのか舊悪きうあくあらはれんと思へバ主くんを斯ハすゝめしなり。和殿いかでか今よひより便宜びんぎの處に伏かくれて那縁連よりつらをゑらみうちに撃果うちはたし給へかしと金十両と種子島たねかしまの小づゝを送り頼むにぞ物四郎は儀なくうへなひ其身の本名素性すせうをあかし彼縁連ハおやの仇なり。」33ごろ何所いづこにありとしも面貌おもかけたにもみしらねハ心を苦しめ身をやつしあふを限りと思ひしに天うんこゝに循環しゆんくわんして求めすあだをうつに至るハ神明仏陀ぶつだ冥助めうぢよなり。よろこばしやと勇立いさみ  守如もりゆきしきりにかん悦し猶も商量だんかうなしつゝもやかて別れて立去りける。此折犬山道節どうせつ穂北ほきたがう諸犬しよけん共侶もろとも身をしのひつゝ其身ハ日々五十子いさらご城中じやうちうをうかゞひけるが此日はからす爰に來かゝり守如ものゆき毛野が密議みつぎを立聞ひとりうなづき帰りける。

于時ときに文明ぶんめい十五年癸卯みつのとうの春正月むつき二十一日の黎明いなのめに犬坂毛野胤智たねともハ多年の宿望しゆくもう時至り父胤度たねのりあだなりけるこみ逸東太いつとうだ縁連よりつら主君しゆくん定正さたまさときすゝめてかの小田原なる北条ほうでうみつ議の使つかいをうけ給はり副使ふくしと共に伴當ともびとしたが五十子いさらご城内じやうないより今朝首途かどでしてすゞの森まて來にける時をまちうけて立あらはれて名のりかけたづさへたる鳥銃てつぽうもて先にすゝみし縁連よりつらか馬の」 胸頭むなさか打たふして若黨四人を殺伏きりふせたる。そのひまに縁連よりつら短鎗てやりを引さげ足場をはかりて田みちの方へ引退しりぞけバ犬坂ハとぶが如くにおい付てうたんとすゝむ勇士の太刀たち縁連よりつら問答もんだういとまもなくやりひねつわたりあふ一上一下修煉しゆれん突戦とつせん縁連よりつらはやくたゞむきみだ淺痍あさで四五ヶしよおひながらこゝ先途せんどたゝかふたり。かゝりし程に縁連よりつらか後うまあゆませたる副使ふくしの二の手竈門かまど既済やすなり鰐崎わにさき悪四郎等ハ追々にはせつけて縁連よりつらたすけんとほりすれどゆくてハせまき水田のくろにて一騎いつき打なる進退かけひき不便ふべん安危あんきこゝはかりかねさうなくハすゝみ得ず。いかにすへきとたゆたいみれハ無慙むざん縁連よりつらハはや下やりになるまでにしば/\野に撃悩うちなやまされてすであやふ光景ありさまなれハ鰐崎わにさきあく四郎猛虎たけとらハ見るにたえす馬乗放のりはなやりわきばさみて水田のくろを足にまかしてはしりゆく。こゝ縁連よりつらが三のてなる越杉こすぎ駱三らくぞう仁田にた晋吾しんごハ馬をとばして來にけれハ既済やすなりも又馬をよせ多勢をたのみ東西とうさいより」34 二手ふたてわかれて駈行かけゆき〔し〕をりおもひがけなき藁塚わらづかかげより一度いちど突出つきたす鎗に越杉こすぎ竈門かまどうま太腹ふとはらぐさとさゝれて両個ふたり武士ぶしくろ仰反のけぞりたり。そのとき東西とうさいかけわら蹴倒けたふ犬田いぬた小文吾こぶんご犬川いぬかは荘介せうすけあらはいで犬坂いぬさか後見うしろみなりとよばはりて矢庭やには多勢たぜい打取とりつ。小文吾ハ竈門かまど荘助ハ越杉こすぎ殺伏きりふせけり。そがなか仁田山にたやま晋吾しんごハ馬にむちうちにげたりける。これよりさき縁連よりつら毛野けの太刀たちかぜはげしさに切立きりたてらるをりからにせま田中たなか畔路くろぢより鰐崎わにさき猛虎たけとら走來はせきたれハ縁連是にちからをてしきりにおめきひらめかすやり透間すきまハなけれども毛野ハちかづく猛虎を後目うしろめかけつゝ縁連よりつらが鎗のひるまき〓落きりおとかたなぬかんとするところ一聲ひとこゑたけるやいば電光いなづま縁連ハひだり肩先かたさききられて尻居しりゐたふれけり。ほどもあらせず猛虎ハほうばいのあだのがさじと突出つきだす鎗を受流うけなか十合とたちあまりそ戦ふたりしがこれもついうたれけり。このおり縁連よりつらわれにかへりかたなぬいたちあがり又いぬ

挿絵第十三図【挿絵】

湯島ゆしま社頭しやとう才子さいしくすりる〉」35

さかうつてかゝるを毛野けのすき〔か〕さずをかはし抜打ぬきうち縁連よりつらかうべ地上ちじやうへ打おとつゞひちかづくてきもなけれバ亡父ぼうふはひをとりいだし縁連か首を手向たむれしづ/\合掌がつしやうするところに犬田犬川走來はせきたるにぞ毛野ハいそがはしくおこ二犬士にけんしにうちむか什麼そもいかにしてそれかしかけふの仇打あだうちられけん。さきに和君わくんたすけあれどもふにいとまのなかりしがつい縁連よりつら猛虎たけとらかく殺果うちはたして候なりといふに二犬士うなづきてこの犬山いぬやま犬塚づかはかりしなれどそハあしこなる茂林もりかげに退しりぞき意衷ゐちうつぐべしとく/\きませとさきたち打連うちつれだちすゞ茂林もりおもむ〔赴〕きけり。これよりさき五十子いさらご城内じようないにハ縁連よりつら副使ふくし伴當ともびと漸々しだい/\にげかへり中途ちうと異変いへんうつたふるに扇谷あふぎがやつ定正さだまさくだんのよしをうちきゝ勃然ぼつねんとしていかりたへわれみづから追蒐おひかけ彼奴かのやつ搦捕からめとり誅戮ちゆうりくせん。兵毎ものどもはやくうまひけとものかた縁頬ゑ〔ん〕がはちか牽居ひきすへたるうまひらりとうちのりてはや打出うちいでんとせしほど河鯉かはこひごんの36 すけ守如もりゆきいま奥殿おくでんより走來はせきた廣庭ひろにははしくだ定正さだまさうま〓面くつわつら推駐おしとゞめことばせわしくいさむれども定正さだまさちつときかのゝしりながら忽地たちまちあぶみあげはたるにあはれむべし守如もりゆきむねられてだうとふす。定正これをもかへらず兵毎ものどもつゞ〔け〕けとむちらし西にし城門きどよりはしらすれバしたが士卒しそつ二三百にんみなをくれじといそきけり。

却説かくて扇谷あふぎがやつ定正ハ士卒しそつしたがはたをすゝめもみにもんでいそぎつゝすゞ茂林もりへんちかづくほど樹柆こだちうちてきありてあらはいづ軍勢ぐんぜいなか二人ふた大將たいしやうあり。威風ゐふうつい両聲もろごゑたかたれるものハ扇谷あふきがやつ管領くわんれい定正さだまさか。先年せんねん池袋いけふくろたゝかひになんぢため滅亡めつぼうせられし煉馬ねりま倍盛ますもり舊臣きうしんなる犬山いぬやまどう〔節〕忠與たゞともがけふ復讐あだうち第一陣だいいちぢんハこれ異姓ゐせい義兄弟ぎきやうだい犬飼いぬかひ現八げんはち犬村いぬむら大角だいかくこゝまちしをざるや。すゝみて勝負せうぶけつせよと大路おゝぢせましとたちたりける。定正さだまさこれを打聞うちきゝ原來さてこの狼籍らうぜきものかの犬坂いぬざか毛野けのとやらん。たゞ三人さんにんのみならず豊嶋としま

挿絵第十四図【挿絵】

鈴森すゞのもりひたまち毛野けの縁連よりつら[玉][舎]〉」37

煉馬ねりま殘黨ざんとうまたかのむれりけるぞや。推捕おつとりこめてうちたれと下知げちしたが先鋒さきて軍兵ぐんびやうどつとおめいてうたんとす。其時そのとき現八げんぱち大角だいかくやりをひねつて近付ちかづくてきをまたたくひま突伏つきふせたる。勇將ゆうせうした弱卒じやくそつなけれバその雜兵ぞうひやう三十許名きよにんゆうをふるふてたゝかひけり。尓程さるほど定正さだまさ後陣ごぢんのかたにてきをこさきにすゝみし一個ひとり大將たいせう天地てんちひゞこゑするどくやをれ定正たしかにきけこれ先亡せんぼう煉馬ねりま老臣らうしん犬山道策とうさく嫡男ちやくなんなる犬山道節どうせつこゝにあり。多年たねん蟄懐ちつくわいけふにいたれり。やいばうけよとのゝしつて隊勢てぜいをすゝめ攻立せめたつれバ定正が軍びやう前後ぜんごてき引受ひきうけうたるゝものかずしらず。大将定正ハからうじてわづか一方いつほう殺披きりひら士卒しそつ八九にん相従あいしたが品革しなかはかたはしる程に道節ハたゞ一騎いつきうまとばして追蒐おつかけつ。ごろちかくなるまゝゆみ彎固ひきかためてひやうる。修煉しゆれんたがはす定正のかぶとはちを射摧きたる。ひゞきにしのびのハちぎれ〓ハ地上ちじやうおちたりける。定正あなやとむねつぶ鞍局くらつぼかうべを」38 ふし其首そこともわかず逃走にげはしるを道節なほもおふたりける。かゝれとも定正ハわつかまぬかれてたかなは手までおちて來つ。後方あとべはるかに見かへれバしたが近習きんじゆハ道にうたれてたゞ二個ふたり近臣きんしんのみ死さることを得たれどもしよ痛痍いたておふたれは定正はじめて守如もりゆきいさめきかぬを後悔かうくわいしとく五十子いさらごしろにかへり寄來よせくてきふせがんと又八九町はしりつゝと見れハ五十子いさらごしろかた黒烟くろいけむりそらこか兵火ひやうくわすでさかり也。主従しう/\是に又おどろあきれて馬をとゞめたり。 浩処かゝるところけん八大角猛卒もうそつ余人よにん相倶あいぐしてちか道をへていでつ。定正主従しう/\をうたんとす。定正今ハのがるべくもあらざれバ近臣きんしん二人ふたりたゝか路傍みちのへおか馳陟はせのぼはららんとかくこの折から忽然こつぜんとして一手の軍兵ぐんひやうおかうしろより走出はせいでたりと見れハ其勢三十餘人よにんいぶかしきハたゝ一挺いつてう轎子のりもの雑兵ぞうひやうにかゝしたるそが先に小はたもたして河鯉かはごひ権佐こんのすけ守如もりゆきといふ大文字もんじしるしけり。定正よろこひ馬乗下のりくたし守如すくへと」よばはりて多勢たせいの中へ馳入はせいりけり。かゝりし程に道節ハ定正の近習きんじゆ等を一人ももらさすうちはたしかつい落したる定正さだまさかふとひやうに持しつゝなほもらさじとおふたりける。又犬坂毛野胤智たねともハさきに荘介そうすけ小文吾共侶もろともにもりのかげ退しりそきてはからす助太刀すけたちせられたる縁由ことよしはしめてきくに昨日きのふ湯島ゆしま社頭しやとうにて守如と密談みつだんを道節に立聞たちきゝせられふしきにたすけを得たる事及道節そのをりをもて君父くんふあたたる定正さだまさをうたんとほりする。けふの隊配てくばり又犬村大角礼度まさのり同因果どういんぐわ犬士けんしたる事すべおちなくしることを得て感嘆かんたんほかなかりしにすゞのもりの東方あなたに當りてときこへきこえしかバさてハ犬山のはかりしごとく定正の出陣しつちんせしとおぼえたり。さらバ力をあはせんとて三人連立つれたち來り(きた〔り〕)けるに味方みかたたゝか勝利せうりを得て道節等ハにくるをおふて其処におらず。又道節ハ定正をたすけつはものあるよしをけん八大角がつぐるをきゝていこんにたへすなほおひかけんとしたりしを現八大角ともにいさ」39 めてとゞむる折から荘介小文吾毛野けのも來りていさむる程に道節やうやくにとゞまりけれバ犬飼犬村ハ毛野けの初對面しよたいめん口儀かうぎのべしかバ毛野けのも礼をかへす折から忽地たちまち敵のそなへの中よりとしなほわかき一人ひとりの武者へだての川の向上ほとり立出たちいでいかに犬坂犬山の両氏にものまうさん斯いふハ河鯉かはこひ守如もりゆき一子ひとりこ佐太郎孝嗣たかつくとよばるゝものなり。ねがはくハ出給へとこへたかやかによばゝれバ道節どうせつ毛野ハ立出て名告なのりをしつゝ對面たいめんす。其とき孝嗣たかつぐ二犬士にけんしにうちむかひ我父守如もりゆき忠信ちうしんたにことなれバさきに内室ないしつ蟹目前かなめのまへ内命ないめいをうけ當家の佞臣ねいじん縁連よりつららをのそかため昨日きのふ湯島ゆしま社頭しやとうにて犬坂氏をかたらひ君の為にとどくをのそきしハよろこはしき事なれども君ハたゝ縁連よりつら寵任てうにんまよさめ給はす猛に出馬しつば准備よういあり。父守如これをいさめあふみにかけられそのきづおも今猶いまなほふし轎子のりものにあり。斯て我君出馬しつばのち敗軍はいぐん雑兵ざふひやうのかれかへりてこと恁々しか%\

挿絵第十五図【挿絵】

やつ山に道節どうせつ定正さだまさかぶと一箭ひとやる〉」40

つげしかハとく加勢をまゐらせんと准備よういにとりも乱せし折犬山氏等の義兄弟犬塚信乃しの戌孝もりたかとか聞えたる勇士の為にはかられて五十子いさらごの城を火攻やきうちせられしかバ士そつハ落うせ往方ゆくへをしらず。かゝる折から我父それがしを呼ちかづけ我はじめあやまつねり馬のざん黨なる犬さか機密きみつをもらしゝかバ我君の一大に及びついに城さへぬかれたり。かゝれば我忠信ハ不忠になりぬ。なんぢ戦場せんじやうはしりゆき我君をすくひ奉れと其たれどおや棄死すてころしにせんハさすがにて斯轎子のりものたすけのせこゝに來りて思ふか如く君の必死ひつしを救ひまいらせ死をきはめありけるか犬坂氏ハ犬山氏の軍議をらで初戦西のこと顛末もとすへ聞えしかバいと訝しく此一義に及ぶのみといはれてかんずる毛野よりも道節せつハうちうなづききのふ湯島の社頭しやとうにて彼密だんを立ぎゝして其仇討の  きを義兄弟等に告しらせ犬田犬川を助太刀させ犬坂が事五十子の城内へ聞へなハ加」41 勢を出す。そのきようかゝひ城を抜き仇を討んと軍議を定め隊配てくばりなしゝに仕合よく定正さだまさみづか出馬しゆつはしたれバ斯の仕義に及びたり。かゝれバ犬坂氏は我軍りやくを知るよしなし。定正のがれてあらずなりしに和郎等親子をうたんハようなし。とく/\主のあとしたふて其さす方へゆきねかしといふにぞ毛野も前にすゝみ某もとより犬山に内つうせざりし趣を既に會得えとくせられし上ハ守如もりゆき大人うしに對面して我意中をも報申んに病くわ不便なるべけれど此義をゆるし給はずやと事なくいはれて孝嗣たかつぐハ轎子の戸ををし開くに無ざんや守如ハはら掻切かきゝつしゝ居たれバ毛野道節ハ共にあきれてことば霎時しばしなかりけり。其時孝嗣なみだをぬぐひなう犬坂ぬし親の自殺じさつのみならすかな目前もこの事よりやいばに伏て果給ひき。てきながらも理義にさかしき諸犬士と刄をましえん事素より願ふ所なれバ思ひのまゝに戦死せば親の遺くんにかなひなん。とく/\雌雄しゆうけつしねとことば雄々をゝしく死をいそぐ忠と孝義」

挿絵第十六図【挿絵】

のりものして守如もりゆきしゆうすく[文][魚]〉」42

いさきよき。毛野けの道節ハ孝嗣たかつくかいと健気けなけなるを感るものからまことにあたら壮士わかものを今うちはたして何かハせんと此場を見のかし別れけり。

○爰に犬塚いぬつか信乃しのと犬山か軍議くんきを助ててき武具ものゝく標幟さしものうはひとり味方に著せて五十子の城中へまきれ入火攻にして城を抜倉庫そうこを開て米錢を民に施す處に犬山犬川犬田犬飼犬村の五犬士ハ隊兵てのものしたかへ當城に來り犬塚か軍功を感激かんけきし有し事とも如此しか%\々と話説ものかたり又犬坂毛野ハ守如か知己の義を思ふの故に辞して當城へ來さりし事箇様々々とときしめし其且道節ハさきに射て落したる定正のかふとと打取たる首級を高なはて梟首きゆうしゆして五十子の城を捨諸犬士と共侶もろともに爰処より舩に打乗て穂北ほきたをさしてそ走らせける。

○爰に又房総二州の守里見義実朝臣あそんいぬ長録〔禄〕二年の秋伏姫富山に自殺の折大かたならぬ竒瑞きすいあり。且金碗かなまり入道丶大ちゆたい坊ハ其折八方へ飛去たる八箇の」43 明玉の往方をたつねんとてし去又賢を招き士をもとめん為に蜑崎あまさきてる文をそのさす方へ遣せしに稍久しくおとつれもなきこの比より義実ぬしハ隱遁いんとんじやう願あり。是より後御そう子義成に家督を譲り伏姫の一周忌に義実遁世とんせいの宿志を果し給ひ瀧田の城内に別舘を造らし其首〔そ こ〕に閑居の折からハ突然とつねん居士こしと自称して敢て政事を見かへり給はす。然ハ山下麿まろ安西か亡ひてより上総の武士等悉く義実の威風に靡きて其掌握せうあくによらさるハなし。然れとも邊境にハ折々野心のものありしを義成箕裘きゝうつき安房郡稲村に在城して房総の賞罸をつかさとるに及ひいよゝます/\徳をおさめ給ひしかバ上総ハさら也下総まで既に半國服従ふくしうして地を廣る事甚多かり。かゝりし程に年を歴て文明十年秋七月初旬はじめつかたに蜑崎照文か犬江親兵衛の祖母妙真と犬田小文吾の父文吾兵衛をともなふて下総よりかへり來にけれハ丶大ちゆた〔い〕坊か」 おとつれも知られ又かの仁義八行はつかうの玉の往方ゆくゑも知るよしあり。此頃上総のくに夷〓郡いしみのこふり舘山の城主に蟇田ひきた権頭こんのかみ素藤もとふち喚做よひなすものあり。そのさか佞姦ねいかん邪智しやちにして酒色にふけ奢侈おこりを極め朝皃夕皃といへる両個ふたりの美女を側室そはめとし酒宴快楽けらくに財用のつひへをいとはすかくてもなほあくことなけれハ艶曲ゑんきよく歌舞かぶに妙なる少女おとめを京鎌倉にもとめ左右に侍らし酒席のきやうをそ添にける。さる程に文明十四年の夏の頃素藤かめておもふ朝皃夕皃の両個ふたり側室そはめともに時のけおかされてかはる%\に死亡けれハ素藤ハ左右の手に持る真璧またまくだきし如く心もだえむねこがれ哀慕あいぼおもひやるかたなくたれこめてのみありけるか其頃若狭の八百比丘尼とよひなしたる一個ひとりの老たる女僧あまありけり。うち見ハ四十あまりなれど人その年齢よはひを問ハ八百餘歳といふ也。年來山ごもりして在けるが衆生済度さいどの為諸國を編歴して此地に來れりとて貴賤渇仰かつか〔う〕44 せざるハなく雨をこひはれを祈るに感おう灼然いやちこなるのみならず十ねんうくる時ハ死びやう立地に本ぶくすといへり。そが中にひとしほしきハ人の妻まれ良人おつとまれして年をたりとも哀慕あいぼの念ひ切にして一たひ見まくほりする者よしを比丘尼びくにに乞ときハ其亡魂たまけむりの中にあらはして見するよしを素藤聞て心に悦びくたんの比丘尼を城内へまねきよせて對面し過去し側室そばめ等を見まほしけれバ其じゆつをほどこし給へと乞程に八百比丘尼妙椿めうちんは一に及ばすうべなひて今よひ丑三時候ごろにこそ那美女たちを見せまゐらせんといふに素藤打よろこびすでに其夜のふけゆくまゝに妙椿と倶に准備やういの一間にをしむれバ妙椿ハ机案つくゑむかひ香一裹 とつゝみとり出し口に咒文じゆもんとなへつゝかうくゆらすれハあやしむべし烟のうち忽然こつぜんあらはれ出る美人あり。其容色かたち側室等に百ばいすぐれて見へけれバ素藤もとふぢたましうかれ心とろけて狂ふがことく」

挿絵第十六図【挿絵】

〈毒尼夜る返魂香を焼て逆將に婬を勸む〉」45

いだき止んとせし程にかたちきえてなかりけり。しばらくして素藤もとふぢハ妙椿に打對ひ彼美人の來由らいゆを問に妙椿ハほゝ笑てくだんの美女ハ安の國司里見義成よしなりそく濱路はまぢ姫が面影おもかげなりとこたへにければ素藤もとふぢハ是より妙椿めうちんを城内にとゞめ濱路姫をめとらんと同國長柄ながらえ夲のじやう主なる千代丸圖書介づしよのすけ豊俊とよとしを頼みて安房あわいたらせ里見家に言入けれど事とゝのはねば大ひにいら立妙椿とはかりて野心をさしはさみその次の年義成よしなり嫡子ちやく 太郎御曹司ぞうし義通が殿臺とのゝだいの辺なる諏訪すはの社へ参詣さんけいある折伏勢をもてとりこにし近臣多く討取うちとりぬ。此事安房に聞へしかハ義成おや子ハ安からぬ事に思ひぐん臣をつどへて軍議ぐんきをこらし義成よしなり自ら三千餘騎を引率いんぞつし上総くにに出てうありて頓に舘山の城にをしもみにもんで攻立れば其時前門の城やくらの上に武者四五人立あらはこゑ高やかに呼はるやう抑我主君權頭ごんのかみ46義通よしみち孺子わくこ生拘いけとりしハ害さんとてのわざならず。息女そくちよ濱路姫はまぢひめ當城とうじやうにおくりさバ義通よしみちかへすへし。まよひて不の字をいはれなばいま面前もくせんに義通ほふりていさゝかうき目を見せん。回答いらへおそくハ親子しんし別路わかれちよく見給ひねといたわしくも義通よしみちきみをいましめてさるぐつわをはませしを城やくらはしら〓着しばりつけたんびら引ぬき刃尖きつさき胸前むなさき推着おしつけつゝいらへおそしとせめたりける。され寄隊よせて諸軍しよぐん兵ハ乗入のりいらんとせしいきほひを今此一挙いつきよくちかれてこふしにぎをくひしばり城やくら疾視にらんたつたりける。義成よしなりこれをみそなはしていかり得堪えたへず声ふりたてその義ならハ短兵急たんへいきう攻破せめやぶりてはらをいやさん。なまじひに義通よしみち叛賊はんそくの手にうしなはれんより遠箭とふやかけてとらん。すゝめ/\と諸卒しよそつをはげまし弓とり直してをつかひ弯絞ひきしぼらんとし給ふを眤近ちつきん諸侍しよさむらひおどろあは推禁をしとゞめさま%\にいさめ申せバ一(ひと)まつ此処このところ退しりそきけり。〓程さるほどに義」

挿絵第十七図【挿絵】

逆將きやくしやう公子こうしとりことして寄隊よせて非禮ひれい婚姻こんいんもとむ〉」47

なり近臣きんしんいさめられ心ならすもかこみとか新戸にひとじん退き給ふてひたすら軍議ぐんぎをこらすところ瀧田たつたより老侯らうかう義実よしさね朝臣あそんのおん使として蜑崎あまさき十一郎照文てるふみがまゐりたりときこえしかハ義なりハ諸臣と共にこれをむかへて来命の趣をきゝ給へバ照文てるぶみうや/\しくおん使のよしを告て美酒十乾魚ひをたはらもたらしつきたゝかひの光景ありさまをも承りかへれとある。おん使にまゐりたりといふに義成恩をしや〔昨〕今城攻のおもむき敵の挙動ふるまひ味方の進退かけひき義通よしみち光景ありさまさへ首尾はじめをはりまでいとつまびらか觧示ときしめせバ照文駭嘆がいたんしてやかて御所を退しりぞきけり。却説かくて里見義成主ハ次の日二千諸軍兵しよぐんへい隊部てくばりして未明まだきよりたて山の城へせめ寄給ひしかど遠巻とほまきにして攻もうたず城を去こと二丁あまり究竟くつきやうの地方をえらみて夜ハかゞり火をたきつゞけ用心におこたらずおさ/\武赫焚かゞやかしよく敵城てきじやう咽吭のどくびとりしばりて沖對ちうたい堅陣けんぢんこまやかなるものから」48 たて山の城内にも戦粟ひやうらう箭種やたね火藥たまぐすりにともしき事なかりしかバくつせずいざよせ手の奴們やつばらにねむりをさまさせくれんずと士卒しそつに下知して打出んとするいきほひしめしある時ハ又義通よしみち君を成やぐら吊登つりのぼしせめさいなむに大おんなる士卒そつえらみのゝしらすること初の如く寄手をしきりに招く光景ありさまに里見の士卒ハいかり得堪えたへせめかゝらんとひしめくを義成なりきびしくとゞめさせてもし軍令ぐんれいそむく者ハ首をはねんとふれられしかバはやる勇士ゆうし猛卒もうそつむねしづめて止りけり。爰にたき田の老侯らうこう義実よしざね朝臣あそんハさきに照文てるぶみ新戸にひど陣所ぢんしよへ遣してかしこの勝敗かちまけを聞せ給ひしにはじめ逆將ぎやくしやう素藤もとふぢが義みち君を城樓にのぼせめさいなみつゝ寄隊に向ひ非礼ひれい婚姻こんいんをもとめし事義成よしなり火速くわそくあだを攻す遠巻とうまきにして便宜びんぎの折をまたんとのたまひし事のおもむきすべて分明なりしかバいさゝかなぐさめ給ふものからそれより三十きよ日をて二月下旬になるまでに方にあるよしハ聞」 えず義通よしみちぎみ存亡いきしにを知るよしとてもなかりしかバつら/\思ひ給ふやうかゝをりかの犬士們がらバ幇助たすけになりぬべし。北に止宿ししゆくと聞えしを徴迎よびむかへんはさすがにて當家たうけ武徳ぶとくおとろへたる歟と思ハれもせバはづかしからん。とやせんかくやとむねをなやまし伏姫ふせひめきみの神たま冥助めうぢよいのりておはしけり。
英名八犬士ゑいめいはつけんし第七編たいしちへん

鈍亭魯文鈔録[文]  一燕齋芳鳥女画[印]
東都神田松下町三丁目 公羽堂 伊勢屋久助上梓

巻末


#「人文研究」第38号(千葉大学文学部、2009年3月)所収
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