【解題】
ここに紹介する『英名八犬士』は鈍亭魯文の手になったもので、安政2〈1855〉年春の初編から安政3〈1856〉年秋の8編に至るまでの全8編が伊勢屋忠兵衛から上梓された。本書は切附本と呼ばれる中本型読本の末期に位置付けられるもので、合巻風の錦絵表紙を持ちながらも読本風の本文を備えている。本来は「一冊読切」「早わかり」という特徴を持っていた切附本であったが、魯文が『国姓爺一代記』や『南総里見八犬伝』『三国志』など長編の抄録を始めるに至って、1冊読切ではなく数編の続物が出されるようになったのである。
そもそも切附本は粗製濫造され読み捨てられていった類の出板物であり、その故に現存する資料が少ない。まして完本と呼べるものは極めて少なく、初板初摺と思しき本で表紙から最終丁まで完備している本は稀覯に属する。その意味から翻刻紹介しておく意義が存するものと思われる。
さて、内容に関しては抄録本であるが故に、特別に意味のある本文を提供しているわけではない。しかし、丁寧に本文を見ていくと、原作である曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』の行文を、表記を含めてかなり忠実に切り貼りしていて、新たに加えられた部分は皆無であると云っても良い程であることに気付く。量的に圧縮するために多くの修辞や説明的文辞を削り、また原作の特徴の一つである考証や蘊蓄を述べた章段は削除されている。ただ、原作に用いられている句読点は一切省かれ、かつ総振仮名であった原作に対して多くの振仮名を省いている。それも何度も登場する人物名には振仮名を残しつつ、甚だ読みにくい宛字的な漢字に振仮名を付さない箇所が多く、その意図するところが良く分らない。
口絵や挿絵に関しては、全図が新たに描き直されている。草双紙『かなよみ八犬伝』(国芳画)の図柄に準じたものも少なくないが、基本的には一盛齋芳直が担当し、表紙や口絵の一部は直政に拠って描かれている。その画中に記された賛や書入れに関しては、新たに魯文のものに書替えられている。
序文などで、即製であると標榜している通りに、充分な校正を経て刊行されたとは思えない。欠字や衍字などの単純なミスや、明らかな誤字なども散見する。しかし、本書のコンセプトから見れば大した問題ではなかったのであろう。何れにせよ、従来は魯文が卑下する通りの抄録本として等閑に付されてきたが、今少し〈抄録という方法〉を積極的に評価すべきだと思われる。なお、同様の方針によって抄録されたものに『〈校訂|略本〉八犬傳』(逍遙序、鴎村抄、明治44年9月、丁未出版社)がある。
今回、全8編を1度に紹介することは量的に無理があるので、初編と2編のみを紹介した。なお、初編は原作の肇輯第1回から20回まで、2編は原作2編第21回から26回までに相当する。
【書誌】
英名八犬士 初編
書型 錦絵風摺付表紙、中本1冊(48丁)
外題 「英名八犬士/初編/直政画」
見返 「英名八犬士初編」
序 「安政二乙卯新春發行/鈍亭のあるじ愚山人魯文記」
改印 「寅十二」「改」(安政元〈1854〉年12月)
内題 「英名八犬士初編/江戸 鈍亭魯文抄録」
板心 「八犬士」
画工 「直政」(外)、「一盛齋芳直」(口絵)
丁数 48丁
尾題 「英名八犬士初編終」
板元 「公羽堂 伊勢屋忠兵衛板」(48裏)
底本 架蔵本。欠損部は、国文学研究資料館蔵本・服部仁氏所蔵本を使用させていただいた。
備考 架蔵本は表紙欠、47丁裏以下破損。服部本は袋入本「英名八犬士 第一」(短冊題簽)、序口絵存、巻末「公羽堂 伊勢屋忠兵衛板」。館山市立博物館蔵本には袋が附されており「英名/八犬士/初編/上集/玄魚」とある。
なお、改題後修本として袋入本「曲亭馬琴著・里見八犬伝 一(〜八)」がある。不揃いではあるが架蔵本に3種ありそれぞれ表紙の色は相違するものの、序と口絵を削り、新に口絵一図(半丁)を加え、内題に「里見八犬伝/曲亭馬琴識」と入木、八編の後表紙見返に「日本橋區/馬喰町二丁目/壹番地/文江堂/木村文三郎」とある。
書型 錦絵風摺付表紙、中本1冊(47丁)
外題 「英名八犬士」
見返 「英名八犬士/芳直画/魯文録」
序 「安政二乙卯二月/鈍亭魯文漫記」
改印 「卯六」「改」(安政2〈1855〉年6月)
内題 「英名八犬士二編(ゑいめいはつけんしにへん)/鈍亭魯文抄録」
板心 「八犬士二編」
画工 「直政」(外・口絵)、「一盛齋芳直」(見返・挿絵)
丁数 47丁
尾題 「英名八犬士二編終」
板元 「神田枩下町 伊勢屋忠兵衛板」(47丁裏)
底本 架蔵本。
備考 架蔵の他一本には後表紙見返に「江戸人形町 品川屋久助梓」の広告一丁が存す。広告中に「英名八犬士 前後 八冊揃」と見えているところから、本書全八編完結後の後印本かと思われる(下図参照)。
諸本 【初板錦絵表紙本】国文学研究資料館・館山市立博物館・林・故松井(34のみ、1〜2丁欠品川屋久助板)・高木(初236)。
【初板袋入本】二松学舎・服部。
【改修袋入本(文江堂板)】国学院・向井・高木(3〜8、78、4)
一、基本的に底本の表記を忠実に翻刻した。濁点や振仮名、仮名遣いをはじめとして、異体字等も可能な限り原本通りとした。これは、原作との表記を比較する時の便宜のためである。
一、本文中の「ハ」に片仮名としての意識は無かったものと思われるが、助詞に限り「ハ」と記されたものは、そのまま「ハ」とした。
一、序文を除いて句読点は一切用いられていないが、句点に限り私意により「。」を付した。
一、大きな段落の区切りとして用いられている「○」の前で改行した。
一、丁移りは 」で示し、裏にのみ 」15 のごとく数字で丁付を示した。
一、明らかな欠字衍字などにも、私意による訂正を施さなかった。
一、底本には架蔵本を用い、欠損している初編の表紙・見返と四十八丁以下、および汚損破損等により図版原稿として使えない場合は、国文学研究資料館蔵本と服部仁氏所蔵本に拠って補った。
【袋・表紙】
【序・見返】
【口絵(序)】
一盛齋/芳直画[印]/犬川莊助/犬村大角/犬江親兵衛/犬山道節/犬塚信乃
犬飼現八/犬坂毛野/犬田小文吾/愚山人魯文記 里見義實朝臣/里見老臣杉倉氏元
子夏曰。小道といへとも。見るべき者あり。嗚呼談何そ。容易ならん。原本里見八犬傳ハ文化甲戌の春。曲亭翁の腹稿成て。書画剞〓の工を果し。世にあらはれし始より。看宦渇望せさるはなく。毎歳次編の出るを俟て。開巻とる手を遅とす。抑策子物語の長編是に及へるハなく。二十餘年の春秋經て。八犬英士三世の得失。彼延々の者といへとも。善悪邪正もらすことなく。團圓將に百六巻。既に九輯に局を結へり。言ても知るき事なから。新竒妙案。法則隱微。かくまで喝采物の本今昔前後に有へからす。實に稗家の佛菩薩神仙とや稱なん。當時机上に筆を採て。作者と自称の輩ハ翁の糟粕をねふる而巳かは。丸呑にして口をぬらす。僕ことき者多かり。こもまた身養世業の烏滸なる所為を。黄泉の翁ハ鼻をつまみて」おはさん。然ハあれとも原本の贏餘を慕ふ蝿頭微利。馬琴の驥尾につかまく欲すハ。善に組するなへての情體。菩提の道に入るに類等く釋迦旡二佛の諸経をひさき」1 て俗家を度する講談僧か。布施物を得て今日の。火宅の苦界を安んせると又是何そ異ならん雪梅芳譚假名讀草史後日の話數種抄」録皆悉く一體分身。王と痣とハなしと雖此抜象と異姓の兄弟。是宿因の致すところ善果の成れる所ならんと漫に筆を走つゝも叙言の遅々をふさくになん
安政二乙卯新春發行」2
【初編巻頭】
英名八犬士初編
抑里見又太郎義實が安房に起るのはじめを云はゞ父季基ともろともに結城のしろに盾こもり持氏朝臣のわすれがたみ春王安王にかしづきて京鎌倉の大軍をひきうけて篭城三年におよぶまで一度も不覚をとらざりしが了に太刀折れいきほひつきて落城の時にいたり父季基ハ陣歿なし義実ももろ共に死なんと覚悟を究めしかど父が最期の言語をまもり老黨杉倉木曽助氏元堀内蔵人貞行と主従わづか三人にて敵の囲みを〓ひらき三浦が崎に舩をもとめて安房をさしてぞ趣きける。安房の國瀧田の城主神餘長狹介光弘と聞へしハ安房半國を領しつゝいきほひ隣國にならびなく心驕りて色を好酒に耽り玉梓といふ淫婦を愛妾とし」3 家則乱れて良臣ハ退き佞臣山下柵左衛門定包といへる者主君の室妾玉梓と密通し終に主なる光弘を人手をかりてたばかり失ひ其儘國家を横領なし玉梓を嫡妻にして昼夜淫酒に耽りける。
○爰に同國平館の城主麻呂小五郎信時ハ館山の城主安西三郎景連と諜じ合せ山下定包を討ばやとて潜に館山の城に赴き景連に對面して軍議區々なる折から里見又太郎義実ハ主従三騎當城にたづね來り軍慮竒略を示すといへども麻呂安西ハ思慮薄く貪婪匹夫の勇将なれバ人を知るの才なく義実をして軍神を祭る供の鯉魚を釣もて來よかしと三日を限りにいひつくるにぞ義実たゞちに漁獵の用意して主従三人も知らぬ渕をたづねあされども鯉ハなし第三日と日数を經るをり最蓬げなる乞児來りて此國往古より鯉魚なしとおしゆるにぞ義実主従はじめて安西等が伎倆なることをさとり乞児が議論只ものならずとその來由をとひける」
〈二侠心を合て人喰馬の定包を討んと計る〉
〈神餘光弘侫臣山下定包か為に狩倉を催して道に奸計に非命に死す〉」4」
にこれハ神餘長挾介光弘か家隷に金碗八郎孝吉と呼れしものゝなれる果なるよし先主光弘在世の折侫人の讒にあひ浪々して諸國を巡り故主の安否を問はやと古郷にもとりうち聞に光弘ハ横死せられ國家ハ山下定包か為に横領せられしときくものから逆賊定包を狙討んと身に漆して乞児となり時を窺ひいたりしにはからす君に遇たてまつりしハ轍の鮒の水を得し歓是にますものなしと定包退治をすゝめしかハ義実ハ孝吉と諜合火の手をあけて里人をまねき集逆賊を打て先國主の舊恩に報わん事を説諭しこれらをのこらす味方となし手はしめに定包か股肱の老黨萎毛酷六かあつかりたる長挾郡東條に押寄さん/\に攻なやまし終に賊将酷六を撃とり東城をのつとりたり。かくて義実は法度を寛して民を安撫軍令を正して士卒を励しもつはら仁慈を施せしかハその徳風になひき従ひ招かされ」5ともまいるもの数百人に及ひけり。
○山下定包ハこゝろ驕りてかくともしらす玉梓と輦を共にし後園の花に戯れ酒池肉林に斗飲し日夜淫酒に耽りつゝ貪れとも飽ことなく費せとも尽るをしらす。かゝる所に義実は杉倉氏元に東條をまもらせその身ハ金碗孝吉と共に衆卒千騎あまりを引て滝田の城におしよせつゝ夜を日に続て攻る程に城兵いたく打負て城に籠りて出合す義実檄文を書写め数千羽の鳩の足に結著て放にそ軍民等これを見て里見氏に従らんと一决す。爰に定包か近臣なる岩熊鈍平妻立戸五郎の両人ハ此檄文を披閲て忽変心を生し主の定包をたはかり殺し一味の衆卒に下知をつたへ玉梓をはしめ女房等を生拘せ城を開て降参をなすにそ義実孝吉城に入て倉廩をひらき米穀財宝を百姓等に領與へ降人岩熊妻立の両人ハ定包か悪を佐州民を虐たる罪を攻頸を切て緑竹の串に貫きたり。」定包か妻なる玉梓ハ奸毒の淫婦にして夥たの忠臣を失ひ光弘の落命も玉梓傍に在て定包と竊に計りし賊婦なりとて孝吉外面に牽出して首を刎たりける。さる程に杉倉木曽介氏元か使者として蜑崎十郎輝武といふもの東條よりはせ参りて麻呂信時を撃とりし合戦の為体を巨細に聞えあけ氏元軍兵を纏めて東條へ帰陣せしに安西景連ハ麻呂か采地朝夷奈一郡みなおのか物とせり。さすれハ氏元労して功なしおん勢をさし向給はゝ先鋒をうけ給はりこの憤りを散すへしと孝吉貞行等に書簡を寄たり。金碗も堀内も景連を討給へと頻りに勧めしかと義実思ふよしあれハ景連と合戦せすかたみに音信を通しけるにそ是よりして安西ハ安房朝夷二郡を領し里見ハ長挾平郡の二郡を領し世ハ長閑やかになりしかハ杉倉氏元ハ東條より召かへされ君臣安堵の思ひをなし義実ハ功臣を召聚金碗孝吉にハ長挾半郡を裂与へて東條の城主とせん氏元」6貞行にハ所領おの/\五千貫を宛行んと手づから写めおかせ給ひし一通の感状をまづ孝吉に賜れバ推辞こと再三なれ共許し給わねハ已ことを得ず手に受て刀を晃りと引抜て彼感状を巻そへつゝ肚へぐさと突立れバ是ハとばかり主従三人打驚つゝゆへをとふに此恩賞を今更受てハ後なくなりし故主の枉死をわが幸ひとするに似て存命がたき一ッなりとことばをつくせば義実ハあまたゝび嘆息し後悔し給ふ事かぎりなし。かゝる折から上総國関村なる荘客に一作といへるもの孝吉旅寝の中に渠が娘濃萩とちぎりて産したる一子を連てたづねきたり。いまわのきはに孝吉と親子一世の對面にこれを黄泉の土産にして終にはかなく成りにけり。
○かくて里見義実ハ上総國椎津の城主萬里谷入道静蓮が息女五十子といへるを娶りつゝ一女一男を産し給ふ。その第一ハ嘉吉二年夏の季に生れ給ふ時三伏の時節を表して伏姫とぞ名けらる。第二ハその次の年挙給ひつ二郎太郎とぞ称せらる。しかるに伏姫ハ三歳になり給ひし」
〈里見義實金碗八郎と計りて神餘が為に義兵を起し滝田城の定包を攻討〉」7」
頃むづかりて日夜うち嗄給ふのみなれバ父母心ぐるしくおぼして醫療を尽しか持祈祷し給へども絶て験ハなかりけれバ安房郡なる洲崎明神の窟の中に安措せる役行者の石像ハ霊験今も著明と聞へしかバおん母五十子ハ伏姫の為みづから彼処に参らしなバいかで奇特のなからずやハと潜やかに姫上を洲嵜へ遣し給ひけり。浩処に年の齢八十あまりの翁一人飄然として出來り伏姫を相して曰此子ハ霊の祟あり禳ふにかたきことハあらねどその禍ハ禍ならず皈らバ義実夫婦に告へし。これまいらせん護身にせよと仁義礼智忠信孝悌の八字を彫なしたる水晶の数珠一連をとり出し伏姫の衣領にかけつゝ形ハ見えずなりにけり。従者等ハ滝田にかへり件の趣を聞えあげて数珠を見せ奉るに全く行者の冥助ならんと伏姫のゑりに被させ給ひけり。
○かくて伏姫十二才に成給ひしころ同國長挾郡富山の麓の荘客の門なる犬子を只ひとつ産けるを狼來りて彼母犬を啖仆し去りぬ。雛狗」8ハ食遺されて恙なかりしかバ不便の物と孚めども此荘客単身なりけれバ昼ハ田畑の稼して宿所にあらず。しかるに一疋の狸來りて乳を吸わせ孚みけるに犬ハはや大きうなりてよくあるきひとり食へバ狸ハ遂に來ずなりぬ。義実ハ此ことを聞しめしてその犬こそ逸物ならめと召よして八房と名け給ひ畜たりける。伏姫二八の秋八月のころ安西景連が采地種物みのらず。そが老黨蕪戸訥平を使者として米穀五千俵貸給へと里見家に乞しかバさつそく五千俵安西にぞ贈り給ふ。かくてその明の年義実の采地なる平郡長挾ハ荒作にして景連が采地のみ豊作なれどさきに借たる米を返さず。滝田ハ上下困窮して難渋に及びけり。こゝに又金碗八郎孝吉の一子ハ大介孝徳と名のり今年廿歳になりぬ。生育まゝに父が志を受嗣て忠義すぐれし壮佼なれバ安西に借たる米を債りて窮民を救わんと主君に申入しかバ義実つら/\聞給ひて大助に功を立させその勸賞に重く用ひんと思ひ」
〈金碗孝吉義を泰山に比して自ら刄に伏す/旅に病て夢ハ枯野をかけまはる/はせを〉」」9」
給ふ最中なれハたゝちに此義をゆるし給ふにそ金碗大介孝徳ハ従者を将て景連が舘に赴き老黨蕪戸訥平に對面し采地五穀登らず難義に及べるよし主命を述五千俵の米をぞ乞ひぬ。訥平景連とはかり大介を五六日逗畄させしのびやかに出陣の用意をなすを大介曉りて大ひに驚き形をやつし姿を変主従一人二人づゝ城中を紛れ出滝田を投て走る程に訥平ハ軍兵を将て追蒐來つ撃てとらんとひしめくにぞ大介ハ鎗引提従者等を左右に従へ多勢の中へ突て入り面もふらず戦ふたり。半時あまりの血戦に敵ハ三十余騎撃れ躬方ハ七人命を隕して大介ひとりになりしかどなほ一歩も退かす訥平に組んとて走り遶れど敵は目にあまる大勢なり。遂に人馬に隔られほゐ遂べうもあらさりけり。
○却て安西景連ハ義実の使者なりける金碗大介を欺き畄て忍びしのびに軍兵を部しつ俄に里見の両城へ推寄たり。里見の両城ハ民荒年の役に労れて催促に従はず。しかれ」10ども恩義の為に命を輕んし寄手を屑ともせざる勇士猛卒なきにあらねハおさ/\防戦ふものからはや兵粮に竭たるにぞ食せさる事七日に及へり。義実いたくこれを患ひて士卒を救ふよしもがなとなほ肺肝を摧給へと輙く敵を退る謀を得給はず。此折手飼の八房ハ庭前にまいりつゝ主を見て尾を振けれバ義実ハ右手をもて頭を拊汝十年の恩を知るや。もしその恩を知ることあらバ寄手の陣へしのび入て敵将安西景連を啖殺さバわか城中の士卒の必死を救ふに至らん。よくせんやとほゝ笑つゝ問ひ給へハ八房ハ主の皃うち見上てよくその心を得たるがことし。義実ハ戯れに問給ふこと又しは/\。汝勉て縡成るときハ伏姫か女壻にせんと宣すれバ八房ハ前足を屈て拝するごとく啼聲悲しく聞えけれバ義実ハ興盡てよしなき戯言慢なりしとひとりこちて軈奥にぞ入り給ふ。されバ義実ハ篭城も今宵かぎりと覚悟しつゝ妻子老黨をほとり近く召聚へおん盃を賜りつ。死を究主従か十日の」
〈戯言を信じて八房敵将安西の首級をくわへ來る〉」11」
月の入汐に撃て出んと軍令す。折から手飼の八房ハ敵将安西景連の首級をくわへて縁端に來りしかバ士卒ハゆへを知るよしなけれど人ハ及バぬ軍功にひたすら犬を羨みけり。義実ハ嗟嘆してみな/\に打むかひさきに園に出て犬に戯言いひたりし物語り給ひつゝ只管賞嘆し給へハ氏元等ハ駭然として舌を巻ぬ。されバ寄手の大将亡ひにけれハ敵陣俄に乱れ騒ぐを義実下知して三百余騎を二てにわかちて打て出寄手の陣へ突て入る勢ひ日來に百倍して當るべうもあらされバ敵陣ます/\辟易して逃亡るもの半に過す。みな降参をしたりしかバ山の如く積貯へたる兵粮を城中へとり入れ久しく餓たる兵卒等に白粥一碗つゝ給はり彼兵粮の半を散し城外なる民に賜ふてをさ/\飢渇を救給へハ轍魚の水を獲たる如し。かゝりし程に四郡一ヶ國義実管領し給へハ威徳朝日の昇ることく徳沢ハ時雨の潤すごとく奸民ハ走去り善人ハ時を得たり。此時持氏の末子成氏朝臣鎌倉へ立かへりて此時滝田へ書を贈りて國平均の」12功業を称賛し室町将軍へ聞えあけて義実を安房の國主にまうしなし剰治部少輔になされけり。かく歓の続くものから義実ハとにかく心にかゝるハ金碗大介か事なり。われゆくりなく冨貴を受るも彼が親の資によれりと深く大助か存亡を索給へと往方ハ絶てしれさりけり。さる程に義実ハ老黨士卒の勲功を正し勸賞を行はせ給ふ。はしめに八房の犬をもて第一の功と定め美食珎味をあたふれ共見もかへらす。ほかに乞もとむるもの有かことし。ヶ様の事たひかさなれハ義実ハ犬の心を推量りて忽地愛を失ひて端近くハ出給はす。八房ハ哮狂ひて果ハ〓を引断離て禁る人を啖ひ倒し縁煩より跳登りて伏姫のおはします後堂へはしり入裳の上へ〓と臥すを咄嗟とはかり見かへり給へハ則八房の犬なりけれハ姫ハおとろきおそれ給ひて頻に人を呼せ給へハ専女小扈従女の童はしり來て追やらんとすれハ八房ハ眼を〓らし牙を見はしうなれる形勢凄しけれハ侍女們ハ逡巡せぬものもなし。」浩処に義実ハ縡はやしらせ給ひけん短鎗引提て來給ひつ。囓もかゝらん形勢に怒りに堪す鎗とり直して突殺んとし給へハ伏姫ハ父にすかり家尊君ハ景連を討滅して士卒の餓を救ん為八房を壻かねに許し給ふにあらすや。渠か大功をなすに及ひて約を変し山海の珎味を賜ひ事足なんとせらるゝこともし人ならハ朽おしく恨しく思ひ奉らん。皆前つ世の業報と思ひ决めつ。國の為子を生なから畜生道へ侶せても政道に偽りのなきよしを民にしらし恩愛の義を断てわか身の暇給はれかしとさめ/\とうちなき給へハ義実ハ聞毎に嘆息して返しかたきは口の過現禍の門に臥犬ハ我身の仇なりきとこゝにつら/\來しかたを思へハ伏姫か幼稚かりし時翁か相せし伏姫の伏の字ハ人にして犬に従ふ名詮自性斯まて祟る悪霊ハ定包か妻玉梓ならん。さハ此犬ハ母うせて狸か育しものときく。狸の異名を玉面とよひなせハ和訓の唱ハたまつらなり。」13これたまづさと訓読近し。狸といふ字は里に従ひ犬に従ふよしあれハ里見の犬になる祥なりと畜狎し寵愛せしこそ悔しけれと慚愧後悔し給へバ姫ハなみだをおしぬぐひ一旦鬼畜に伴れ偽りなきを示すとも人と生れてまざ/\と畜生にハ穢さるべき。御心やすく思召せといひかけて俯給へバ母上五十子も來給ひてこの顛末をきゝ給ひて潜然と泣給ふ。伏姫ハ幼稚き時竒翁がとらせたる水晶の念珠の玉の文字ハかはりて異なる文字になり侍りしと義実に見せ給へバ仁義礼智忠信孝悌の文字ハ消て顕れたるハ如是畜生發菩提心の八字なり。これにて因果の道理をさとり姫を八房にあたへ給へバ伏姫ハかの数珠をゑりにかけ料紙一具と法華經一部をたづさへ給ひなきゐる母君女達になごりハつきじと八房にともなわれつゝ出給ふ。義実も五十子も路次の程心もとなしと蜑崎十郎輝武に壮士夥属させ給ひて竊につかわし給ひけり。八房ハ城をはなるゝと姫を」
〈因果應報の道理を悟つて伏姫八房に伴はる〉」14」
背中へのせまいらせ府中のかたへ走る事飛鳥よりもなほはやかり。輝武ハ馬に鞭うちいかでゆくへを失はじと終夜走りつゝその曉に富山の奥にわけ入ほどに山路に馬を乗倒してわれと夥兵と僅に二人息吻あへずよぢ登り遥に彼方を向上れバ伏姫ハ経を背負八房が背に尻をかけはや谷川をうちわたしなほ山ふかく入給ふ。輝武は一條の早川に禁られおん往方を見究ず。こゝよりかへることやある瀬踏をせんとをりたちてわたしもあへず推倒され石に頭をうち碎れ骸もとゞめず成にけり。夥兵ハそゞろに舌を掉ひて瀧田の城へかへりきつ。ことの趣まうしけれバ義実聞召て再て人を遣し給はず。國中へ絢しらして彼山へ入ものあらバ必死刑に行はんとて嚴重に掟させ又輝武か枉死を悼おほしてその子ともを召出し形のごとくそ扶せ給ふ。
○不題金碗大介孝徳は敵はや瀧田を囲むをしらす。僅に暁りて走還る途に訥平」15等に追とめられ多勢を敵手に血戦し従者等ハ撃れたれ共わか身ひとつハ虎口を脱れて滝田へかへるに両城ハ安西か大軍充満て城に入ることかなはす。今ハ悔ともその甲斐なし。蕪戸か陣へかけ入て戦死せんと早る心をやゝ思ひかへして鎌倉へ赴き日ならす管領の御所へ参著し急を告おさ/\救ひを乞まいらせとも義実の書翰なけれハうたかひ給ふて事整はす。すこ/\安房へ立かへれハ景連ハはや滅ひて一國既に平均せり。いよ/\帰参の便ハなし。腹も切れす時節を俟て勸解奉らんと舊里なれハ上総なる関村へ赴き先年身まかりたる外祖一作か親族なる百姓の家に身を寓せ一年あまりをる程に伏姫の事灰に聞えて八房の犬に伴れ富山の奥へ入給ひしより安危存亡定かならすと聞えしかハわれ彼山にわけ登り八房の犬を殺して姫君を滝田へかへし奉らハゆるされんこと疑ひなしと竊に安房へ立かへりて准備の鳥銃引」提つゝ富山の奥にわけ入て靄ふかき谷川の向ひに人ハをるかとおほしすはやと騒く胸を鎮めて水際についゐてつく/\と聞ハ女子の経よむ声いとも幽に聞えけり。
○扨も里見治部大輔義実のおん息女伏姫ハ親の為國の為に信を民に失はせしと身を捨て八房の犬に伴れ富山の奥に入つゝもこの夜ハ月下に読經してもし此畜生婬心を挾みてわか身に近つくことあらハ主を欺くの罪渠にあり。刺殺さんと思ひ〓て護身刀を引著て読經しておはします。その氣色をや知たりけん。八房ハ近くも得よらす只惚々と姫の顔を臥て見つゝまもりつめて明しくらしつ。その旦八房ハとく起て谷におり木果を采て姫君にそまいらする。恁地すること一日も懈らす百日あまり經る程に八房ハいつとなく読經の声に耳を傾け心を澄せるものゝことく復姫うへを眷らす。伏姫思ひ給ふやう今この犬か慾を忘れて読經の声を聴を楽み如々入帰の友となる事皆御經」16の威力によれりといよ/\読經怠り給はず。その年ハ暮て明年の春の頃有一日伏姫ハ硯の水を掬給ふ止にうつるわか影を見給へバその骸ハ人にして頭ハ正しく犬也けり。思ひかけねバはしり退つ又立よりて見給ふにその影われに異なることなし。こハ心の惑ひなりけんと思ひかへして仏の名号を唱つゝこの日ハ經文を書写し給ふに心地例ならず。この頃よりして月水を見ることなし。月日累るまゝに腹脹て堪がたし。こハ脹満などいふものにやあらんとく死ねかしとひとりこちつゝ身を起し仏に手向る菊の花手折んとてそ進み給ふ。浩処に一個の蒭童手に一管の笛をとり黒牛に尻をかけ流水をわたし伏姫と問答おはりてかの童の凡ならざるを知り給へバ姫ハ我身の病症を問せ給へバかの童ハ既に懐妊なりと答ふ。伏姫ハ聞あへず吾儕に良人はなきそかし。何によりて有身るへきことかと笑給へバ童子ハうちみてなてうおん身に夫なからん。既に親より許されたる八房」
〈役行者義實か夢中に現じて伏姫の安否を告給ふ〉」17」
ハ何ものぞと詰れバ姫ハ貌を改め云々の故ありてよに淺ましく家犬と共に深山に月日ハ送れどおん経の擁護によりて幸ひに身を穢されず渠も亦おん経を聴ことをのみ歡へり。わが身ハ清し潔し聞もうとまし穢しとうち涙ぐみ給ふになん。童子ハかゝとうち笑ひ夫物類相感の玄妙なるハ凡智をもて測るべからず。おん身ハ真に犯され給はず。八房も今ハ欲なし。しかれ共おん身渠に許してこの山に伴れ渠も又おん身を獲てこゝろにおのが妻とおもへり。かれハおん身を愛るゆへにその經をきくことを歓びおん身ハかれが帰依する所われに等しきをもて憐み給ふ。この情既に相感ず。相倚ことなしといふともなぞ身おもくならざるべき。われつら/\相するに胎内なるハ八子ならん。しかハあれとも感ずるところ実ならす。虚々相偶て生ゆへにその子全く體作らすこゝに生れて後に生れん。これ宿因の致す所善果の成る処なり。八房が前身」18ハその性ひかめる婦人なり。おん父よし実朝臣を怨ることあるをもて寃魂一雙の犬となりておん身親子を辱しむ。八房おん身を犯すことなく法華経読誦の功徳によりてやうやくに夙怨を散し共に菩提心を發すか為に今この八子を遺せり。もし後々所々へ生んにその子おの/\智勇に秀里見を佐け威を八州にかゞやかさバみな是おん身が賜なり。誰かその母を拙しとせん。是則善果なり。おん身が懐胎六ヶ月この月にしてその子生れん。その産るゝ時はからすして親と夫にあひ給はん。はやまからんといひかけて牛牽かへし山川を渉すと見へしか霧立籠て往方もしらすなりにけり。伏姫ハ神童に説諭されても疑ひはれす。只悲しきハ畜生のその気を受て八の子を身に宿しなハいかにせん。たとひ臥房を共にせすともそれいひとくるよしなし。身おもくなりしを親同胞に見られんよりハ身をしつめ姿をこそやかくしなん。せめてハ父母に一筆の命毛」
〈富山のおくに伏姫神童に會して初めて腹に物あるを知る〉〈福竹や根ごと引きぬく男の子 野狐庵〉」19」
のこし奉らんと舊の洞にぞ入給ふ。八房木果の食を勸るやうすなれども伏姫ハ疎ましく絶て言葉もかけ給はず硯に墨を摺流しわがうへ権者の示現までいと哀れにぞ写給ふて冥土の旅の首途にハ称名の外あるへからすと襟にかけたる数珠取て推揉んとし給ふに数とりの珠に顕れたる如是畜生發菩提心の八の文字ハ跡もなくいつの程にか仁義礼智忠信孝悌となりかはりていと鮮に読れたり。かゝる奇特を見る物からなほ疑ひを解よしもなく末期の読經声高く既に読果給ふにぞ八房ハ衝と身を起して伏姫を見かへりつゝ水際を指てゆく程に前面の岸に鳥銃の筒音高く響して忽地飛來る二ッ玉に八房ハ吭を打れて煙の中に〓と仆し。あまれる丸に伏姫も右の乳の下打破られて苦と一声叫ひもあへす經巻を手に拿ながら横さまに轉輾ひ給ひぬ。時なるかな去歳よりして川よりあなたハ靄ふかく絶て晴間もなかりしに今鳥銃の音とゝもに拭ふが如く晴わ」20たり年なほわかき一個の〓人前面の岸に立あらはれ流るゝ水を佶と見て既に淺瀬を知りたりけん。やがて岸より走りくだりて拿たる鳥銃肩にうち掛こなたを指てわたし來つ。且鳥銃を揮揚て打倒したる八房をなほ撃こと五六十。復甦べうもあらざれバいで姫上をと石室のほとりまで進みよりと見れハ又伏姫も打倒されて気息なし。これハと駭き抱き起し奉り周章き薬を取出て口中に沃ぎ入喚活奉れども全身氷りて救ふべうも見え給はねハ壮佼バ嘆息しわがなす所悉岩齬ひ思ふ忠義ハ不忠となりて又万倍の罪を醸せり。心ばかりの申わきにハ肚かき切て姫上の冥土のおん倶仕らんと腰刀を抜出し手拭に巻そへて刀尖を脇腹へ突立んとする程に誰とハしらず松柏の林が下に弦音高く射出す獵箭に壮佼が右手の臂射削たり。これハとはかり思はずも拿たる刄をうち落され驚きながら見かへれバ樹間隱れに声高く金碗大介早まるな且等と呼とめて里」見治部大輔義実朝臣弓箭携へ出給へバ後方に続く従者なく堀内蔵人貞行のみ主の左邊に引そふたり。義実患ふる気色にて落たる数珠を鞆に掛け遺書を見給ふに一句一段こと%\く嗟嘆せずといふことなく大介に伏姫と八房をうち殺せし仔細を問ふに去年安西に謀られて道に追補と血戦し城に入ること竟に協はず。鎌倉へ推参して援兵を乞ふといへども縡とゝのはず手を空しくして安房へかへれバ景連ハはや滅びて一國君がおん手に属ぬ。時節を俟て功を立帰参を願ひ奉らんまでの隠れ宅にとて旧里なれバ上総の関村に赴き祖父一作に由縁ある荘客某甲が家に身をよせ深く潜びて候ひしに姫上の事灰に聞へて慥にこれを告る者あり。こハ偏に主君の瑕瑾と竊に富山にわけのぼり犬を殺して姫上を救ひとり奉らバ帰参のつるとしのび來て神仏に祈念して目をひらけバ今迄も黒白をわかぬ川霧ハ拭ふが如く晴わたる前面はるかに」21ながむれバ石室のほとりに見えさせ給ふハ姫上なり。思ひしよりハ瀬ハ淺し。既にわたさんとする程に八房ハこなたを見てはや走り來つ。這奴よせつけてはあしかりなんと拿たる鳥銃取なほし火蓋を切れバ愆たず犬ハ水際に仆れたり。又姫上もあまれる丸に傷られておなし枕にふし給ふ。切て冥土のおん倶せんと覚期の折から思ひかけなくわが君に禁られ奉り死ざるも天罰ならん。法度を犯しして姫うへを害ひしハこれ八逆の罪人なり。君がまに/\刑罰を希ふ外候はず。堀内ぬし索かけ給へと背ざまに手をめぐらしてついゐたり。義実嗟嘆大かたならず。且して宣ふやう大介刑罰〓れがたしといへども伏姫が死ハ天命なり。渠もし汝に撃れずバこの川の水屑とならん。蔵人その遺書を読聞せよとおほせに首尾まで高やかに読ほどに孝徳ます/\慚愧して伏姫の賢才義烈にいよ/\麁忽を悔嘆」
〈金碗大助八房を討んとして過て伏姫をうつ〉〈のそ/\案山子もひやうとはなしけり 梶葉〉」22」
きぬ。義実再びのたまうやうわれのみならで蔵人さへ神の示現をかうむりて只二人この山に登るものから伏姫も八房も矢庭に撃れて仆れたり。その癖者ハ日ごろより心に懸りし金碗大介。自殺の覚期ハ野心もて姫をころせしものならずと思ひにけれバ呼止たり。この禍の胎る所因果の道理をさとりなすにわれ定包を討しときその妻玉梓を赦さんとせし時大介か父八郎孝吉われを諫て頭を刎たり。その霊主従に祟をなすかと心づきしハ孝吉が自殺のとき女の姿わが眼にさへぎりにき。うらみはこゝに〓たらず八房の犬と生かはり親子に物をおもはせつ。伏姫ハ又八郎が子に撃れたり。皆是因果の係るところひとり義実か愆より起れりと叮嚀に諭し給ひわれこの数珠をみるに如是畜生云々の一句ハさらにはじめにかへりて仁義八行を示すものから霊験ハ失へからず。ことさら姫ハ淺痍なり。縦命数」23つくるとも祈らバ利益なきことあらん。鞆に懸たる数珠とりあけて額におし當只顧祈念する程に伏姫忽地息ふきかへし只潜然と泣給ひその父なくてあやしくも宿れる胤をひらかずハおのが惑ひも人々の疑ひも又いつか解へきこれ見給へと臂ちかなる護身刀を引抜て腹へぐさと突立て真一文字に掻切給へハあやしむべし痍口より一朶の白気閃き出襟にかけさせ給ひたる彼水晶の数珠をつゝみて虚空に昇ると見へし数珠ハ忽地弗と断離れてその一百ハ連ねしまゝに地上へ戞と落とゞまり空に残れる八の珠ハ粲然として光明をはなち八方に散失て跡ハ東の山の端に夕月のみぞさし昇る。當是数年の後八犬士出現して遂に里見の家に集合萌牙をこゝにひらくなるべし。そが中に大介ハ再び腹を切んとするを義実ハ声をかけ伏姫ハ甦生したれバ罪一等を宥るとも掟を破りて山に入おのがまに/\腹切る事」やある。觀念せよと進みより孝徳が髻弗と截捨給ひ親八郎ハ大功あれども賞を獲す。汝も忠あれどもその罪に陥るに及びてハ主尚救ふによしなきことわが子にまして哀傷の涙ハこゝに禁めがたし。汝ハ又主親の為命をたもち高僧智識の名を揚よ。諭し給へバ孝徳ハ辱涙に哽びつゝ漸に頭を擡今より日本廻國して姫の菩提君の武運を祈まつらん。姫上の落命も某が祝髪も皆八房の犬ゆへなれバ犬といふ字を二ッにさき我名の一字をそかまゝにヽ大と法名仕らんと申上れバ義実朝臣遖いしくも申たり。今さら思へハ八房の二字ハ則一尸八方に至るの義なり。加旃伏姫が自殺の今果に痍口より一道の白気たな引仁義八行の文字顕れたる百八の珠閃き昇り文字き珠は地に堕てその餘の八ハ光明をはなち八方へ散乱して遂に跡なくなりし事其所以なくハあるべからず。後々に至りなハ思ひ合する事もやあらん。」24廻國首途の餞別にハこの数珠にますものあらじと賜ひけれハ孝徳ハ手に受て再三たびうち戴きこハ有かたき君の賜もの今より諸國編歴して八の珠の落たる所を索ねもとめはしめの如く繋ぎとめん。これ今生のおん別そと思ひ切て申ける。かゝるところへ滝田より女轎を釣臺に括著谷川をわたしきつ。奥方五十子御前の御臨終を注進なすにそ主従泪にくれつゝも義実ハおんむかひの従者をしたがへつゝ滝田へ帰館あらせられ金碗大介孝徳ハ圓頂黒衣に容をかへヽ大坊と法号して且く山に畄りて伏姫の遺し給ふ法華経を読誦すること一日一夜終に事はて笈を背負ひ錫杖を衝鳴らし行衛もしらず成にけり。
○話分両齣こゝに武蔵國豊嶋郡菅菰大塚の郷界に大塚番作一戍といふ武士の浪人ありけり。そが父匠作三戍ハ鎌倉管領持氏の近習たり。永享」
〈仁義禮智忠信孝悌の八ッの霊玉八方に散て八犬士出現の基をひらく〉」25」
十一年持氏滅亡のとき主君のおん子春王安王両公達を護奉り脱去下野國に赴き結城氏朝に請待せられてその城に盾篭り寄手の大軍を引受て防戦年を重ね嘉吉元年四月十三日岩木五郎が反忠より躬方遺らず討死し両公達ハ生拘る。この時大塚匠作ハ一子番作を招ぎよせわれハ孺君の御先途を見とゞけんに汝ハ武蔵の大塚なるわが荘園に往て老母と姉龜篠に赴を告て母に仕へて孝を尽せ。是主君重代のおん佩刀村雨と名づける実に源家の重宝なれバ今汝に預るかし。孺君ふたゝび世に出給ひなバ一番にはせまゐりて宝刀を返しまいらせもし又撃れ給ひなハこれ将君父のかたみなり。努々疎畧にすべからずと説示し錦の嚢に納たりし村雨の宝刀をわか子にわたしけり。番作二八の少年なれともその心さま逞しく猶思ふよしやありけん。これをしかと」26受収ておやことも%\辛じて城中を脱れ去散%\にこそなりにけれ。かくて匠作ハ敵陣に紛れ入縡の為体を伺ふに春王安王のおん兄第長尾因幡介が手に生拘られ牢輿に乗たてまつりて京都へそ上せける。大塚匠作ハ従卒になり濟し陰ながら両君のおん供し奉り道中にて竊とりまいらせんと豫てはかりし事なから絶てその隙なかりけり。浩処に京都将軍より御使ありて両公達を路次にて誅しまゐらせおん首級をのぼせよと仰下されたり。長尾等ハ承り美濃路なる樽井の道場金蓮寺にて長尾老黨蛎崎小二郎錦織頓二二人の太刀とり両公達のおん頭顱をうち奉れハ匠作ハあなやとばかり警固の武士を踏踰て矢來の内に躍入り當の敵と太刀どり錦織頓二を〓仆せバ蛎崎小二郎大きに驚き矢庭に匠作をうちとる。折から匠作が一子番作ハ雑兵に姿をかへ矢來の」内に躍り入両公達のおん首級と匠作が首とりあげ頭髻を口に楚と銜えて片手なくりに腰刀ぬく手も見せず蛎崎を乾竹割に〓伏てからくもこゝを脱れ去夜長嶽の麓に出て山寺にいたりて三頭を深く〓めてこの道場にやとりをもとめ庵主の悪僧蚊牛をころしてはからずも云結の井丹三直秀が娘手束が危を救ひこゝを立去番作が手痍養生のためにとてうちつれたちて筑摩の温泉におもむきけり。
○こゝにまた武蔵なる大塚の郷に母もろとも潜居たりける大塚匠作が女児龜篠ハ前妻の子にて番作にハ異母の姉なれどこゝろねじけて親同胞の篭城を想やる気色もなく継母の万苦を一点ばかりも念とせで同郷なる弥々山蟇六といふ破落戸とふかく契りてしばしもほとりを離れじと思ふ心ハ日にまして父が篭城母の劬労を幸ひにすなれと壻を」27招るべき折にあらねバとさまかうざま思ふ程に父匠作ハ樽井にて討死し第番作ハ往方しれず継母ハ病著次第に重りて卒にはかなく成しかハ龜篠ハ情願のごとく蟇六と夫婦になりて一両年を送る程に嘉吉三年の比かとよ前管領持氏朝臣の季のおん子永寿王信濃に脱れておはせしを管領憲忠の老臣長尾昌賢東國の諸将と謀り遂に鎌倉へ迎とりて八州の連帥と仰き奉りて左兵衛督成氏とぞまうしける。されバ結城にて討死せしものゝ子孫を召出させ給ふよし聞えしかバ彼弥々山蟇六ハ時を得たりと歓びつゝ俄頃に大塚氏を冒して鎌倉へ参上し美濃の樽井にて討死せし大塚匠作が女壻なるよしを訴へけれバ僅に村長を命せられ帯刀を許されて八町四反の荘園を宛行れ彼地の陣代大石兵衛尉が下知を承て勤むべき旨を仰らる。是よりして蟇六ハ瓦廂に衡門いか」
〈悪僧蚊牛井之直秀が娘手束をおとして戀情をいどむ〉」28」
めしく造り建て奴婢七八人召使ひ荘客們を譴債り豊けき人になりにけり。不題大塚番作ハさきに手束を伴ひて信濃の筑摩に赴きつ。こゝにて湯治する程に手足の痍ハ〓たれども膕の筋や縮りけん。是より行歩自在ならず。なをも温泉にとゝまりてはや三年にぞなりぬ。世間陜き身をかへり見て大塚氏の大の字に一点を加へつゝ犬塚番作と名告るをりから成氏朝臣鎌倉の武将と仰ぎ戦死の家臣を召と聞て番作夫婦ふかくよろこび縦行歩ハ不自由なりとも武蔵へ赴き母と姉とに對面して直にかまくらへ推参し両公達のおん像見村雨のおん佩刀を成氏朝臣に献りわが進退を君に任せん。然ハとて夫婦起行の准備して大塚におもむき近きほとりの白屋に立より母と姉の安否を問ふにそ龜篠が淫奔女壻蟇六が行状ヶ様々々の由緒をまうして荘園を給はり村長になりたりと叮嚀に」29誨しかバ番作はうち驚き姉龜篠か為体蟇六が人となりさへつばらに問尽し蟇六許ハ赴かず故老の里人等を音つれてわが上を落もなく告しらせ志気を説示して親の墳墓を護らん為この地に住ひせんといふ。里の老ハ番作が薄命をあはれみて愉くうけ引つ。彼此人を召集合て件の事をしらするに衆皆聞て憤に得堪ず蟇六が面あてに番作ぬしを村中が養ふてまいらせんとみな/\夫婦を款待ける。かくて件の里人等ハ番作が為に蟇六が前面のふるくもあらぬ空房ありこれ究竟と購ひ求て彼処へ移し些の田園を購ひてこれを番作田と唱へつゝ夫婦が衣食の料にせり。かゝりしかバ番作ハ里人等が好意にて富むにハあらねど貧しきに苦まず苗字ハ姉夫に奪れたれバなほ犬塚と唱つゝ里の総角等に手蹟の師範して親たるものゝ恩に報ひ手束は里の女の子等に衣を」縫ふわざを教えしかバ里人等ハ歓びて物を贈るも多かりけり。
○さる程に蟇六龜篠ハ死せりと思ひし番作か廃人にハなりたれども妻さへ将て還り來つ。里人等に尊仰れてわが家の向ひへ卜居せし為体に妬き事限りなし。しかのみならず百歩の間に住居しながら渠一トたびも姉を訪はず。今ハとて腹にすえかね人をして番作が無礼をとがめもしこれをしも知らずといはゞわが村に措がたし他郷へ立去給へとぞいはせける。番作冷笑ひ某寔不肖なれども父とゝもに篭城して戦場に死ざりしは君父の先途を見ん為なりき。されバこそ樽井にて父の仇を撃とめ君父の首級を隠しまいらせ女房手束に名告あふて筑摩の御湯に手痍を保養しこゝに來りてしゞうをきくに姉の不孝淫奔ハ人のよくしる処なり。姉夫何等の功ありて重職をうけ給はり大禄を賜りけん。某父の遺命」30によりて春王君のおん佩刀村雨丸の一腰を預り奉りてこゝにあり。かくても當所を追んとならバ是非の及ばざる処なり。鎌倉へ訴へ奉りて公裁に任べしとぞ答へける。使の人立かへりて云云と告しかバ龜篠蟇六は無念腹を絞れども毛を吹疵を求んかと思ひかへしてこのゝちハ音もせず面を合對ことハあれどもものいふ事ハなかりけり。犬塚番作は女房手束を娶てより十四五年が間に男子三人まで産せたれども一人として生育ものなし。これのみ遺憾といふ夫の述懐慰めかねて女房手束は夫に告て瀧の川なる弁才天へ朝とく起て日参し三年か間懈らず。時に長禄三年九月廿日あまりの事なるに手束ハ時をあやまちて明殘る月影を東しらみにけりと思ひて宿所を出て滝の川なる岩屋殿に参詣し立かへる田の畔に背ハ黒く腹ハ白き狗の子の尾をふりて手束にまつはり慕ひ」
〈番作惡僧を殺してはからず言号の妻に會す 呂文〉」31」
來て離るべうもあらざれバ将てかへらんとひとりごち抱とらんとする折から南の方に紫の雲たな引て嬋娟たる一個の山媛黒白まだらの老犬に尻うちかけ左手に数顆の珠を拿て右手に手束を招きつゝ一ッの珠を投与へ給ふになん手束はおそる/\手をさし伸て件の珠を受んとせしに珠ハ手股を漏て輾々と雛狗のほとりに落しかバ其首彼首と索てもあることなし。あな訝しとばかりそなたの天をうち仰げバ霊雲忽地迹なくなりて神女も共に見え給はず。平事にあらずと思へハふたゝび雛狗を抱きあげていそしく宿所に還りつゝ件の縡の赴を夫番作につげけれバ念願成就の祥なれバその狗を畜育給へと諭されてたのもしきこといふべうもあらず。かくて手束ハいく程もなく身おもくなりて寛正元年秋七月戊戌の日に及びていと平らかに男児を産けり。この児ハこれ名」32にしおふ八犬士の一人にして犬塚信乃と呼れしなり。
○却説犬塚番作ハ年來の志願稍遂て男子既に出生し児の名を何とかよばんと女房に譚へバ世に子育なき後にて侍れバこの子が十五にならん頃まで女子にして孚バ恙あらじとその名を信乃となづけつゝ三四才の頃におよびて髫髪をおくほどにもなれバ衣裳を女服にせざるもなく櫛〓頭をさゝせけれバしらざるものハ女の子とそ思ひけり。されバ蟇六龜篠ハ此 為体 を見聞ことに妬き事限なし。龜篠四十にあまるまで子ともひとりもなかりしかバ夫婦頻に商量して只管養女を索るに煉馬の家臣某甲といふものゝ女児今茲僅に二ッになるあり。親の忌四十二の二ッ子なれハ生涯不通の約束にて錢七貫文をもたらし養女に遣すへしといへり。蟇六夫婦ハ媒酌をして錢もろともにもらひうけつゝ生育随に掌の玉と愛つゝ世に威徳ある壻な」
〈番作が異母の姉亀篠母の老病を幸ひに破落戸蟇六と密通をほしいまゝにす〉」33」
らてハえこそ招らしと誇りけり。案下其生再説犬塚番作か一子信乃ハはや九才になりしかバ骨逞しく膂力あり。尓るに信乃か生るゝ頃母親か滝の川より将て來つる狗の子ハ大きくなりて背ハ黒く腹と四足ハ白くして馬に所云〓なれバその名をやかて四白とも又与四郎とも喚ふ程によく信乃に狎したひぬ。されバ母の手束は秋のころより心地例ならす病の床に臥しより鍼灸薬餌の験なく十日あまりを經る程に細やかに遺言しつ享年爰に四十三才睡るが如く生気絶たり。番作か嘆きハさら也。信乃ハ地に伏天にあくがれ声を得たゝす泣けるがかくてあるべき事ならねバかたのことくそ葬送けり。
○應仁ハ二年にして文明と改元して信乃十一才に及ひ行歩不自由なる父につかへ孝心大かたならざりける。されバ番作か犬与四郎ハこの年十二になりしかバ里に稀なる老犬なれとも歯並毛の沢衰へす気力ます」34/\健なれバ一村の群犬これが為に威服せられて絶て頭を出し得ず。蟇六ハまた牝猫を畜て雉子毛なれバ紀二郎と名づけつゝます/\寵愛する程に如月のころ牝戀盛る友猫のよび声に浮されて屋根より屋棟を傳ひあるきて群猫と挑みつゝいたく噬れて堪ざりけん。屋棟より下へ撲と落時に番作が犬与四郎ハはしり來て左の耳を引銜一揮ふれバ紀二郎ハ耳根より啖断られ命限りと逃走れバ与四郎ハなほ脱さじと追蒐たり。蟇六が小厮等ハあなたよりこれを見て与四郎が跡を慕ひて追ゆくに紀二郎ハ途窮りて与四郎が為に嚼殺さる。犬ははやくも途を横ぎり何地とハなく失にけり。小厮等ハ縡の趣を主なる蟇六につげしかハ且怒且罵りて同郷の荘官糠助といへるものに小者額蔵といへるをさしそへつゝ番作が宿所に赴き彼畜生を牽り來れ犬を殺して紀二が怨を」
〈信乃飼犬與四郎とともに成長す〉」35」
雪めんとかしこへぞ趣かせ番作にかくといはせけれバ犬塚ハうちわらひわが犬足下の宅地に赴き座席に至ることあらバ打殺さるとも怨なし。猫の死を貲ふ為にハ与四郎ハわたしがたし。たち帰りて傳へ給へと返答に小厮等ハ糠助もろとも帰り來つ。番作が返答を告しかバ蟇六夫婦ハいかれどもせんすべなくかの犬をひきいだして有無をもいはせずうち殺さんとしのび/\に謀りけり。番作が一子信乃ハ思ふやうわが犬果して殺されなバ父うへさぞな怒り給はん。与四郎も殺されずわが伯母夫婦の恨みも散て無異におさまる謀なからずやハと糠助ハ老実なるものなれバかれ許赴て機蜜を説示しかの与四郎犬を誘ひ立て糠助もろとも蟇六が門に将てゆきつ。謀りしごとく声をふり立云々と罵責て杖を採て与四郎を〓とうつ。犬ハ驚き途を失ひ蟇六が宅地を遶りて背戸より裡面へ走り入り」36左手なる子舎へ、身を跳らして飛込たり。すはやと小者等ハ手配して是首よ彼首と散動声外かたへ聞へしかバ糠助ハ〓惑ひて毛を吹疵を求たり。もし虚々と爰におらバ忽地不虞の危殃あらんとて逃給へと云もあへず跡をも見ずして逃亡けり。信乃は悔どもせんすべなく今ハ救ふによしなしと宿所にかへり已ことを得ず云々と父に告しかバ番作ハ嘆息しわが姉夫婦ハこゝろ僻めり。汝謀りて犬を打とも渠豈それにて憤りを解ものならんや。与四郎が死ハ不便なれとも惜て詮なし。猶風聞を聴さためよと言葉もいまだ訖らず件の犬ハ血に塗れ起つ轉つ庭門より跟々と走りかへりてそがまゝ撲地と臥しかバ信乃ハかけよりいたはれバ番作ハ信乃に云つけ薬を痍に揮かけて心を竭していたはれとも又生べくハ見えざりけり。
○去程に蟇六ハ憎しと思ふ与四郎かはからず背戸より」
〈番作村雨の宝刀を我子に豫りて遺訓す 呂文〉」37」
走り入て子舎へ登りしかバやがて小厮に門戸を鎖せ主従すへて五六人准備の竹鎗挾み刺畄んとしつれ共件の犬ハ板屏の下突破りて外面へ出しかバ猶迯さじと追蒐しが多く深痍を負せしかバ必ず途にて斃れなんと誇貌にのゝしり小厮等を労ひつゝそのまゝに奥へ退き龜篠と談合なしこの勢ひを脱ずして番作に帰伏させ彼村雨の一腰もわが手に入れんと糠助をうちまねくにそ糠助ハおそる/\蟇六が宿所へゆきけり。亀篠ハ貌ハ改め汝ハいかなれバ稚蒙を副て番作が〓犬を宅地へ追入れ人を食せんと謀りしぞ。加旃彼犬ハ子舎へ走り入り管領家より給はりし御教書を踏裂たり。犬ハ数ヶ所の疵を負せたれと追入れたるそなたと信乃ハ罪科脱れかたし。怨ずれバ糠助ハ駭き怕れて吾儕ばかり救ひ給へと心細げに口説けり。龜篠ハわざと嘆息し」38そなたも信乃もその罪を脱れんとなすならハ番作か秘蔵せる村雨の一腰を鎌倉へ献り件の罪科を勸解奉らバそなたのうへに恙なく番作親子も赦されなん。それ将第か我を折て蟇六とのに手を卑ずバ誰か又この願望を鎌倉へ申上べき。かくまで思ふわらはか誠を僻心に疑ひて自滅をとらバせんすべなし。そなたも覚期し給へかし。これらの事を告んとてかくハ竊に招ぎしと真しやかに説示せバ糠助魂われにかへりてやつがれ舌の根のあらん限り犬塚ぬしの心を和らげ縡よくとゝのへ候ひなん。善ハいそけと外面へ身を横にして出しかバ次の間に竊聞せる蟇六ハ杉戸を開きて夫婦目と目を注しつゝ莞尓と笑て思ふまして首尾よしといふ声に目やさましけん臺子のあなたに茶を挽かけて睡臥たる額蔵が又挽いだす臼の音に驚さるゝあるじ夫婦ハ納戸のかたへ隱れ」けり。さる程に糠助ハ慌忙きそかまゝに犬塚が宿所に赴き件の縡のはじめより龜篠がいひつる事をおちもなくあるじに告なに事も子を見かへりてこの一議にハ折給へとことばを尽して勸れども番作騒ぐ気色なくよく考て返答せん。日ぐれて再ひ來給へといふに糠助やうやくに身をおこしつゝかへり去。あとにハ信乃かすりよりてよしなや犬を救んとてかゝる難義に及ぶこと皆是吾儕が所為なりと悔て詮なきことながら御教書の事実ならバ吾身ひとつをともかくも罪なはれんこと覚期ハすれどおん行歩も不自由なるわが父に翌より誰か仕ふへきと鼻うちかめバ番作ハやをれ信乃悲むへからず。御教書の事ハ寓言なり。こハ蟇六が姉に誨へて糠助を賺しつゝ宝刀を掠畧ん為の伎倆なり。抑年來蟇六か宝刀に望を被ることわれそのこゝろを猜したり。渠」39わか父の遺跡と称して荘官にはなりたれともわれもし件の太刀をもて家督を争はゞ難義に及ん。これ一ッ。成氏朝臣没落のゝち此地ハ既に鎌倉なる両管領の處分によれり。渠管領敵方家臣の遺跡なれハ新に微忠を顕さすハ荘園永く保ちかたけん。よりて村雨の一刀を鎌倉へ進上し公私の鬼胎を祓除きて心を安くせん為也。われ既に姉の為に荘園を争はす。いかて一口の太刀をおしまん。しかハあれとも件の宝刀ハ幼君のおん像見亡父の遺命重けれハこの身と共に滅ふ共姉夫にハ賜かたし。汝人となるのちに件の宝刀を成氏朝臣に献らせて身を立させんと思ひにけれハ年あまた賊を禦きて秘おきつ。今宵汝にゆつるへしとうつはりに釣し大竹の筒をひきおろし中より取出す錦の嚢。紐解つゝも抜放すハこれ村雨の宝刀なり。番作ハ刄をやをら〓に納め信乃」
〈番作遠きおもんはかり刃に死す〉」40」
この宝刀の奇特をしるや。殺気を含みて抜放せバ刀尖より露したゝり刄に〓れハその水ます/\濆りて拳に隨ひ散落す。よりて村雨と名つけらる。これを汝にとらせんにそのさまにてハ相応しからす。髻を短くし今より犬塚信乃戌孝と名告れかし。又御教書の事わか姉の詐欺にもあれ糠助に汝か事を懇切にいひ來されしこそ幸ひなれ。親か痩腹かき切て汝を姉に托んず。これぞ則わか遠謀村雨の太刀も奪れす。今より姉の手を借りて汝を人と成んのみ。今番作か自殺を聞かハ里人いよ/\長を憎みて集合てその非を訴ふることもやあらんと汝を家に養ひとり実意を示して里人等か憤りを解なるへし。又この宝刀ハ姉夫婦かいかはかり賺すとも素より親の遺命あり。此ことのみハ承引かたしと固く阻みて常住坐臥に其盗難を禦げかし。このおん佩刀ハ君父の像見二君に仕へぬ番作か最期にこれ」41を借奉りて奇特を見せんと村雨を抜放さんとする程に信乃〓て拳にすがり刄をとらんと喘逼れども小腕に及ぬ必死の勢ひわが子を楚と推伏て背に尻をうちかけつゝ推袒きて刄を引抜き右の袂を巻そへて腹へ突たて引遶し咽喉を劈き俯に仆るゝ親と身を起す信乃も半身韓紅そがまゝ父の亡骸に抱き著つゝよゝと泣。浩処に糠助ハ番作が回答聞んとて入來るまゝにあるじが自殺駭きおそれて舌をまき縡の趣長につけんとふためきて飛がごとくに走去けり。信乃ハ心をとり直し御遺言をそむくにはあらねと心よからぬ伯母夫婦に養れん事望しからす。もしはかられて村雨の御刀を奪ひとられなバ申とくへきことばはあらじ。此上ハ父上とゝもにし出の山踰て母御にあひ侍らん。嗚呼尓なりとひとりこち村雨の太刀とりあくる折からに檐下に臥たる与四郎犬は深痍の苦痛堪すや有けん」長吠するに信乃ハ見かへり阿々与四郎ハまだ死ずや。いてや苦痛を助け得させん。如是畜生發菩提心と念じつゝ閃かす刄の下に犬の頭ハ撲地と落濆る鮮血とともに立のほる物こそあれ左手を伸して受畄れバ是なん一顆の白玉なり。月の光によく見れバ玉の中にひとつの文字あり。方是孝の字なり。竒なるかな妙なりけり。つら/\思ひあはすれバ母の説話に聞知りぬこれ二ッなき重宝にぞあらん。たとへハこれを得たりとも宝に惑ひて死を止まらんや。いざ父上に追付んずと父の死骸に推並び諸膚を推袒つと見れバわが左の腕に大きやかなる痣いで來て形状牡丹の花に似たり。後にけりと刄を引抜腹を切らんとする程に忽地庭のこかけよりやをれ信乃まち給へとよびかけて糠助と蟇六龜篠の三人ひとしく走り入前左右より抱止め稚心に似げ」42なき短慮死るに及はず待ねかしとさま/\に諫るにぞ信乃ハ心に伯母夫婦か憑しき言葉ハ底に一物のあるとハしれど聞わきてやうやく死るを止りけり。かくて蟇六龜篠等ハ小厮等に指揮して番作か亡骸をとり斂めて蟇六ハ宿所にかへりつ。亀篠糠助ハとゝまりて棺に通夜して信乃を慰め次の日なき人を菩提所へ送る程に里人等是を悼みて追慕せずといふことなくこの日棺を送る者すへて三百余人也。さても蟇六亀ざゝハ番作か自殺を聞てみづからその家に赴き信乃が自殺を禁めし事ハ豫て番作か謀りしにたかはず。御教書の事ハ詐欺なるに犬塚親子自殺せバ里人等憤りてことの破れになりもやせん。信乃をだに養はゝ里人等が疑念も解へくわが身に恙なかるへしと夫婦猛に商量して真実にもてなすものから信乃ハいよ/\心决して父の先見明智を感しさてハ自殺を止りき。それハさておき葬のこと果しかバ龜篠ハ又蟇六と商量して信乃を召とらんといひしがせめて亡親の中陰果て後にこそ仰せに」
〈與四郎を殺して信乃霊玉を得る〉」43」
従ひ奉らめと是も理りなれバ糠助を朝な夕なに音信させ小者額蔵を薪水の労を佐けよと分付て信乃がかたへぞつかはしける。信乃ハ是さへ伯母夫婦がわが本心を探らんとての間監にやとおもひしかバ苟にも心を放さず日來額蔵が言行に心をつくるによろず温順にして村落の小廝に似すいと老実に仕へしかバ是より多くハ疑はす。有日額蔵ハ信乃が浴みする背後に立遶りて徐に垢を掻んとて信乃が腕の痣を見て和君にも此痣ある歟吾儕にも又似たることあり。是見給へとおし袒ぎて背を示すに現身柱のほとりより右の胛の下へかけて信乃が痣に似たる痣あり。吾儕の痣ハ胎内よりありとがり和君も尓るやと問に信乃ハ只笑て答ず。浴し果てその衣を揮ひしかバ忽地袂の間より一顆の白玉まろび落るを額蔵ハつく%\見て不審やわなみにも此玉ありと膚なる護身ぶくろより一顆の玉をとり出せハ信乃も又訝りて是を掌に受つゝ見るにわが玉と一点異なることなし。但その文字同じからで義」44の字鮮に読れたり。こゝに至りてはしめて感悟し恭しくその玉を額蔵に返していふやう吾年幼く才足ざれバ足下を認らず疑ひき。此玉の等しきハ必宿因の致所一朝の縁にハあらし。先わが玉の由來を説べしと神女影向のはじめより与四郎犬が〓口より再ひ玉を獲たる終まで猛に痣のいできしこと、父が先見遺訓の趣些も蔽ず説示せバ額蔵ハ落涙を禁あへず。且して貌を改め世に薄命なる者われのみならぬ。和君がうへを聞バ後たのもしき心地せり。抑吾儕ハ伊豆の國北條の荘官たりし犬川衛二則任が一子乳名荘之助と呼れしもの也。その頃鎌倉の成氏朝臣許我へつぼませ給ひしかバ前の将軍義教公の第四男政知公を伊豆の北條へ下させ給ひ諸國の賞罰を掌せらる。政知朝臣民を憐の心なく不時の課やくいと多かり。わが父荘官たるをもて旧例を援てしば/\宥免を乞しかバ御所のおん怒り酷しく誅せらるべしと聞へしかバ父ハます/\うち歎きて一通の書を遺しつゝ母にもしらさで自害せり。荘園家財」
〈二童玉を合して異姓の兄弟なるを知り義を結びて越方を物語る/芳直画〉」45」
ハ没官せられ妻子を追放せられしかバ母ハなく/\吾儕が手を掖て彼此に身を置かね安房の里見の家臣蜑崎輝武といふものハ母の従第でありしかバ母ハかしこを心あてに此里まて來る程に路費を賊に掠とられ宿借べうもあらざれハ已ことを得ず村長の宿所に赴きその夜の宿りを乞ふといへどもしらるゝごとき長夫婦うけ引べうもあらざれバ切て一夜を柴小屋の裡になりとも明させ給へとかき口説にも許されす小廝して追出させ門さへ杜て見かへらず。日ハはや暮て雪ハふり進退其所に究りて母ハ持病さし重り果なく滅てなき人の員に入しかバ空しき骸にとり著て泣さけびつゝ天を明せバ長ハ其為体をはじめてしり吾儕を裡面へ呼び入れて本貫を問ひ母か亡骸を棄るがごとく埋させ其日吾儕を召出し一生涯奉公にして小厮にせられて五年を送りにき。しかれども志農業を願ふことなく身を立家を興さんと奉公の片手業夜の深るまで手習し撃剣拳法を試みつゝ教なうしてとやらかうやら大刀すぢを」46暁得たりといちぶの顛末ものかたれバ信乃ハ聞つゝ吾儕ハ孤となりつは殿も又同胞なし。今より義を結て兄第とならんといふにぞ額蔵ハ大きに歡ひ固より願ふ所也と天に向ひて誓ひし水をもて酒に擬へ汲かはしてその約を固し額蔵いへるハわが乳名は荘の助なり。いまだ実名をつけられす。思ふにおんみハ孝をもて一郷に聞へあり。且其実名ハ戌孝ならずや。これによりてか彼白玉に孝のじあるも寔にきなり。又わが玉にハきのしあり。父ハ犬川衛二則任といへり。よりてわれハ乳名をかたどりて犬川荘助義任と名のるべし。しかれどもこれらのよしを人に告べきことにハあらず。只われとおん身とのみ欲する所義によりて名を汚さじと思ふハいかにと問れてしのハうちうなづき人めばかりハ額蔵と呼びもせん呼れ給へといへバ莞尓と笑てそハ勿論の事ぞかし。われ既に聞ることあり。その故ハヶ様/\と糠助が亀さゝに賺されてかへりし時蟇六が云つる事その為体を詳に告その時吾儕ハたいすの間に陽睡してとみな聞つ」
〈額藏が昔語り犬川衛二が妻一子を連て蟇六が軒に宿りを乞ふ/雪の日や犬の足跡梅の花 よみ人しらず〉」47」
寔におんみの先考ハ人をしるの先見卓し。おしむべし/\と頻りに嗟嘆したりしかバ信乃も共に嘆息し吾儕ハ父の遺命にしたがひ宝刀をえて腹黒き伯母の家に同居せバおん身が資によらずして宝刀を奪れざることかたし。示さるゝことの趣その心をえて候と恭しく諾ひしかバ額蔵且く沈吟じわれ又おんみと共に久しく爰に在んこと後々の為にいとわろし。翌ハ病に假托て一トたび母やへかへりなん。御身も中陰果るを待す凡三十五日にして早く伯母御に身をよせ給へ。既に義を結びてハおんみか父ハわが父なり。けふより心もに服て報恩謝徳の信を竭さん。何でふ女々しく花を手向經を誦のみ孝とせんやと奨しつゝ共に番作が霊牌を拝しいたむつましくかたらひけり。畢竟後の説話甚麼そやそハ二編目に抜粋を看給へかし。
【表紙】
英名八犬士(ゑいめいはつけんし)〔二編〕
【見返・序】
英名八犬士 芳直画 魯文録
【序】
夫天狗とハ何の物ぞ。種類沢にして和漢一ならず。和名に安麻通止菟袮とよび。佛家にハ魔羅波旬と称へり。又星なりとし夜刄飛天。山の神。あるハ山魅寃鬼なりとす。物子が天狗の説。諦忍が天狗名義考。風來が天狗の辨の如き。その文戯言洒落に過て事実を撈るに足らずとハ。既に夲傳の作者もいへり。里俗の謂天狗とハ。佛説の譬論と同じく。放漫誇れる者をさして。天狗とハいゝしならん。余は先誓の佳作をさらつて。慢に愚名を記するの罪。尤天狗に類する業にて。點愚の所為といはるゝ後に。未高くもあらぬ鼻を。つまゝれなんと耻る而巳。 安政二乙卯二月
【口絵】
犬山道節忠知/直政画」1
犬川荘助義任/砕けてハまたまろかるや露の玉/戀岱野狐庵」
節婦濱路/蟇六妻亀篠/干網も屠蘇のふくろの形に似ていわふ鋺子の濱の初春/著作堂」2
陣代簸上宮六/荘官大塚蟇六/五月雨にまかり出たり蟇かへる/晋子」
【本文】
英名八犬士二編
斯て犬塚犬川の両童子ハかたみに志を告義を結びて猶行末を語らふ折荘客糠助なる者門辺よりをとなひ蟇六が方よりつけこしたるわらは男かゆへを問ふにぞ信乃ハ額蔵か心地わづらはしとてうち臥たりしよしをいふに糠助ハ聞あへす荘官の母屋へいゆきてよしを告餘の人を替らせんとあはたゝしけに出行ける。されハ又蟇六龜篠ハ信乃か為に小者額蔵を遣はしみづからも音つれたれど元より愛する心なけれハ植つけ時のいそがしさにその事ハうちわすれ久しく訪もせざりしにこの日糠助か來てしか/\と告しかバやがて夫にかたらへハ蟇六ハ舌をうちならし一人りの老僕とかはらすに額蔵ハはや帰り來にけり。」3氣色を見るに異なることなけれバ彼作病せしならんと夫婦等しくいきまけバ額蔵〓に手をおしあて犬塚どのにつけらるゝことはかりハ免し給へと侘にけり。夫婦ハ等しく額蔵をあるひハ吃りあるひハすかし信乃が様子をうち聞くに額蔵答ていへるやう只今も申せし如くたま/\物をいひかけて生應のみせられしかバ聞たる事ハ候はず。されとも今ハ伯母御の外によるべなき人なれバいかでかこなたをうらみ給はん。初にハ似ず慕しく思はるゝ事疑なし。只僕につれなきハ氣質のあはざるゆへならん。身にとりて憎まるゝ事とて覚候はすといふに蟇六うちうなづき額蔵を吃りこらし庖〓の方へ退かせぬ。跡に夫婦ハ談合するやう信乃ハこなたを疑ふて額蔵をつけたるハ隠しめつけならん歟とて心ゆるさぬ事もありなんとて背助といへる六十餘」
〈糠助信乃か家を訪ふて額藏が安否を問ふ〉」4」
の老僕つかはして信乃が虚実をさぐり見んと両三日經て龜篠は信乃が宿所へいたりつゝ事の様子を窺ふに信乃ハ背介を厭ふことなく背介も又まめやかに立ふるまはずといふ事なし。龜篠胸に物あれバ四方山の物語りに時を移しいとま乞してかへり來つ。夫蟇六に打むかひそのていたらくハしか%\なりと潜やかに告けれバ蟇六且く思案なし信乃が心ざま尋常の少年ならねバうかと肌へハ見せがたし。まづ額蔵を呼近づけ箇様々々にこしらへ給へとしのび/\に語らふ折額蔵ハ障子のあなたをよぎる程に龜篠ハ近つけて汝いか程信乃につれなくもてなさるゝとも馴近づきて聞ことあらバ竊に告よ。これより汝を遣はして亦背介とかわらせんといひつくれバ額蔵ハ小膝をさすり御心やすく思召れよとまめだちていらへをすれバ龜篠ハ立上りさらバわ」5なみが連ゆかんと額蔵を伴ひ信乃か宿所に趣むきて額蔵か機嫌にさかひしを勸解再ひ背介とかわらせんことをのぞみけれハ信乃ハ是かれ聞あへずうち驚きたるおもゝちにてこハ思ひがけもなき。わびらるゝよしあらんや。親の居まそかりし日より薪水のわざにハわれもなれたり。資の人あらでもと思ひおもはず疎々しくもてなしたる歟。かゝる事より御夫婦の御こゝろにかけられんハ是皆おのが罪にこそ。疎意あるべくも候はすといふに龜篠うち笑ひてしからんにハおちゐたり。中直りせし事なれバ額蔵を畄おきて背介をバ返したまへ。これに就ても亡人の五七日の忌日限りにおん身を母屋へ養ひとらバ後やすく侍りなん。いぬるハ否歟いかにぞやと問れて信乃ハ嘆息しともかくも計ひ給へ。仰にもとり候はじとこゝろよく諾ひしかバ龜篠ハ深く」
〈荘宦夫婦額藏に命じて信乃が意中をさくらしむ〉」6」
歡び額蔵を残し置背介を連て帰りゆく。額蔵ハ外の方をうちながめ片折戸をしかとたて元の所にむかひ居て荘宦夫婦にいはれし事又わがいひつる事の趣き竊に信乃に告るになん。信乃ハ進退究りぬといひかけて嘆息す。額蔵これを慰めて諫むれバ信乃ハ忽ち感悟して原是親の遺言なれハ吉凶ハ只運に任せん。軈て母屋に移りてハ膝を合して復心をかたらふことハ難かるべし。猶後々の事までも教あらハ示し給へといへバ額蔵頭をなで我才おん身に及ねども俗にいふ岡見八目なり。素より智嚢冨給へハ機に臨み変に應じて禍を避給へ。われ又 竊に盾となりて笑の中なる刄を防がん。ゆめ秘すべしとさゝやきつ示し合する思慮遠謀実に一双の賢童なり。
○さる程に番作が三十五日の對夜」7になりつ。蟇六ハ一村の荘客等を信乃か方へうちまねき饗應して扨いふやう番作が一子信乃いつまでか手放して置べきハ夲意ならねバ翌ハ母屋へ迎へとりて守育娘濱路をめあはして大塚氏の世嗣とすべし。就てハ各々の購ひて番作につけられし田畑ハ返し申さんか。又信乃に與ん歟と問バ皆々頭をもたげ親の物ハ子に讓る貴賤上下のけじめなし。件の田畠の主といふはこゝの息子の外になし。よきに計ひ給ひねといふに蟇六うち笑てしからバ信乃が成長なるまで沽券ハ某あづかるなり。又此家ハ床を拂ふて彼番作田の稲城とせん。各々承知せられよと信めかしておのが田へ引とハしるや水飲百姓顔見あはしていらへ兼れバ庖〓の方より龜篠ハ相槌撃んと進み入りて信乃がほとりに推並び口にまかしていひくろむれバ百姓等一同」に番作どのゝ御子息を壻かねにと宣はするを一郷の人大かた聞り。かくてハ何でふ疑ふべき。件の田畑ハ荘宦大人且く管領せられん事勿論に候と異口同音にいらへしかバ蟇六龜篠歡ぶ事大かたならず。斯て其夜初更のころ饗膳やうやく果しかバ皆々よろこびを述いとまを告て次第/\にかへりゆく。その明の朝信乃ハ亡父母の墓に香花を手向んとて菩提院へ赴きしに帰るをまたで蟇六夫婦ハ小者等を駈立て犬塚か家の調度をとり運ばせ竈下の物畳建具ハ大かた賣拂ひてはやく明夜にしたりけり。信乃ハかうともしらずして我宿近く帰り來る道のほとりにて額蔵に行あひて彼趣きをうち聞てあきれ果額蔵を先に立して我家の門に立ずみつゝ彼与四郎を埋めたる梅の樹のほとり」8を見ても只愛惜の袂露けし。いでや渠が為にしも〓都婆を建んとひとりこぢて短刀に著たる刀子を抜とり梅の幹をおし削りて墨斗の筆を抜出し如是畜生發菩提心南無阿弥陀佛としるし付て仏名を十遍ばかり唱へたり。扨あるべきにあらざれハそが儘伯母の宿所至れハ蟇六夫婦ハ信乃をいざなひ西おもてなる一間に赴きこゝをおん身が部屋にせんと他事もなけにそもてなしける。次の年の春弥生信乃ハ亡親の一周忌を迎へしかバ對夜にハ父母の冥福を祈りあけの朝額蔵を従へ寺へ詣て諸倶に回向に時を移し涙そいとゞ進みける。斯てその帰るさに宿所近くなるまゝに信乃ハわが舊宅をつく%\ながめこれすら涙の媒なるに去歳のその月与四郎が後の世の為に幹を削て如是畜生云云の經文を書つけたる梅の樹の殊更茂りつゝそのきすいえ文字は滅」
〈信乃与四郎が為に〓都婆を建る〉」9」
て青梅子夥生にけり。主従ハすゝみよりてつく/\とうちなかめたるに此梅その枝毎に八ッづゝ生ぬ。世にいふ八ッ房の梅ならんと信乃ハ手にとりうち見て き竒なる哉。こハ八ッ房のみにハあらず。ひとつハ仁ひとつハ義この他禮智忠信孝悌の文字あり。その実毎に一字づゝ顕然として読れたり。爰に至りて両賢童こハ/\いかにとばかりになほ疑ひはとけざりけり。しばらくして額蔵ハ肌の守のふくろなる秘蔵の玉を取出しこれ見玉へかし。梅の実と此玉とそのかたち相似たり。その文字も異ならず。こハ故あるべき事なれともさとりがたく候といふに実にもと我も又守りぶくろを秘をきし玉をとう出てあわせ見るにそのおほきさも文字も等し。誠に然なり。因歟果歟。玉といひ梅といひ符節をあはせてます/\竒なり。試みに推ときハこの玉原ハ八顆ありて仁義八行の」10文字を具足したるにや。しからバ殘れる六ッの玉世になしといふべからず。かならずしも因縁あらバ後に思ひあはせんのみ。ゆめ秘すべしとさゝやきあふてその梅の子を紙に捻りて玉もろともに嚢に納め荒たる庭を走り出やがて宿所にかへりけり。
○扨も犬塚蟇六ハ信乃を迎へとりてより女房龜篠もろ倶にいと愛々しくもてなす物から只外聞を飾るのみ。心に刄を磨事多かり。そをいかにぞと尋れバ蟇六既に里人等を欺きて番作田を横領したれども未村雨の太刀を得とらず。これを手に入れて後彼少年をおしかたづけん。さるときハ宝刀によりて我身いよ/\なり出べく又濱路にハよき壻とりて我身ます/\老樂なるべし。しかハあれども信乃尋常の童ならぬにはやりて事を仕損ぜハ毛を吹て疵を求めん。只まめやかにもてなして由断さするにます事なしと腹の内に深念しつ龜篠にのみ」
〈梅樹八房を生じて実毎に八行の文字を顕す〉」11」
機密を告て斯謀るにぞありける。かゝれバ信乃が危きこと大かたならねど親の先見遺訓あり。加るに才器勇悍稀有の少年なりけれハ其情をよく知りて片時も心を放さず村雨の宝刀ハ平常腰に離さず守る事等閑ならねバ偸児の隙あることなし。主客の勢ひかくの如くにして一トとせあまり送りつゝ奸智に長たる蟇六なれどもなまじひに手をかけて見咎められなバ年ごろ日ごろ心尽しも泡と消て我上ならんとあやぶむ程にぬすむ心の稍懈りてことし又思ふやう村雨の太刀手に入るとも信乃が安穩てこゝにをらバ夫を管領家へまいらするに由なし。よしや彼宝刀今わが物にならすとも主も物も爰にあり。遠く謀れバ長く利あり。短慮ハ功をなし難しと様やくに思ひかへしつゝ龜篠にも其心を得させてしばらく盗むの手をおさめ只をり/\額蔵に信乃が意中をさぐ」12らするにこれ將便りを得たるにもあらざれバ亦額蔵ハ件の事をあるじ夫婦に問るゝ毎に陽にハ信乃の譏れども害なるべき事をバいはずその問れし事を答へしよしを竊に告ざる事なけれバ信乃はます/\由断せずこれも陽にハ伯母を慕ひて小者にひとしく使れけり。かくて春と明秋と暮れ流るゝ月日に委みなけれバ文明も早九年になりつ。此年信乃ハ十八才濱路ハ二ッ劣りにて二八の春を迎へける。この夫にしてこの婦あらんハ寔に天縁なるべしとて里人これを誉ざるものなく荘宦夫婦を見る毎にその婚姻を催促す。蟇六夫婦ハ兼ていひつる事あれバこの返答に迷惑して害心爰に再發し竊に信乃をおしかたづけんと心急ぎのせらるれども十一二歳の時だにも謀りかたき才子なるに今ハはや丈夫になりて身長五尺八九寸膂力も定て強かるべし。」二葉にして摘ざれバ竟に斧を用ゆるとぞいふなる。早くうしなふべかりしに悔しき事をしてけりと臍を噬どもその甲斐なく案事煩ひたりける折隣郷忽地騒動して不慮の合戦起りにけり。縁故を尋るに爰に武藏國豊嶋郡豊嶋の領主小嶋勘解由左衞門の尉平信盛といふ武士ありけり。その弟煉馬平左衞門倍盛ハ則煉馬の舘にあり。この餘平塚圓塚の一族蔓延して栄めでたき舊家なり。信盛兄第その初めハ両管領に従ひしに聊怨るよしありて遂に胡越の思ひをなせり。しかるに此頃管領山内家の老臣長尾判官景春越後上野兩國を伐靡て既に自立の志あり。よりて豊嶋をかたらふに信盛立地に一味同意していよ/\管領に従がはず。さる程に山内扇谷の両管領しのび/\に軍議を凝らし敵の威微なるうちに先はや豊嶋を」13討んとて文明九年四月十二日巨田持資植杉刑部千葉自胤等を大将として軍勢凡一千餘騎不意に池袋まで推寄たり。豊嶋方ハ思ひ設けぬ事なれバしはしハ防き戦へども撃るゝ者數をしらず。剰信盛倍盛も乱軍の中に撃れにけり。これによりて世間しばらく静ならす。菅菰大塚の里までも人の心穩ならねバ蟇六龜篠等ハ幸の事におもひてかくてハ子どもの婚姻も今年ハ整ひ難かるべし。明年波風おさまらバ必濱路を妻はして信乃に村長を讓んとて里人等にも此よしを告且一界を逃れけり。されハ又蟇六が養女濱路ハ八九歳のころよりして二親の口づから信乃ハ夫よ汝ハ婦よといひ囃したる言葉の露を実ことゝ受てなま心つきしより世に耻はしく歡はしくそれとはなしにその人に物いはるゝも樂しくて心に入て仕へたり。しかるに彼二親ハ養ひ娘といふよしを告も」
〈濱路信乃によらんとして龜篠に隔らるゝ/一盛齋芳直画圖〉」14」
しらせす只生の子のことくすなれど竊に告る者ありて実の親は煉馬の家臣某乙といふものにて同胞もあるよしを灰に聞なつかし涙に袖の露かはく隙もなかりしがことし煉馬家滅亡し一族従類大かたならず討れたりと聞えしかバ濱路ハ哀しさやるかたなくつく%\と思ふやう心の憂やるかたなけれどかたらふべき人ハあらず。わなみの為にハ犬塚ぬしのみまた婚姻ハせざれども幼なきより二親の許し給ひし夫にこそ。よにたのもしき人と見つれバ身の憂事をあからさまに告てその智を借らんにハ実の親の姓名もその存亡もしよしありてその陣歿の迹をしもわが為に弔給ふ事なからずやはと尋思しつ。しのび/\に人なき折を窺ふにある日信乃ハ部屋に籠りて独机に臂を倚かけ訓閲集を読てをり。濱路ハ竊に歡ひてつまだてほとりにいゆきてもの」15いはんとする程にあはたゞしく來るものあり。濱路あなや走り出たるこれ彼の足音に信乃ハはしめて見かへれバ後に來つるハ龜篠なり。その時信乃ハ机を掻遣り立むかへんとしつれども龜篠からかみをあけたる儘にうちにハ入らず走りかくるゝ濱路が背をいぶかしげに見送りつ。やよ信乃よ和殿も兼て知る如く糠助阿爺が長きいたつききのふけふハいと危く薬も咽喉にとほらずとあたりの人に今聞つ。むかしハ和殿が家に隣りて親しくまじらひたるものなれバ息の内に今一トたび見まほしといふとなん。訪んと思はゞ疾ゆきねといふに信乃ハうち驚きそハ苦々しき事に侍り。往に安否を問しときさまでにハ見へざりしが齢六十に餘れる人の時疫なれバ心もとなし。とく往てかへり候はんといらへてやがて刀を引提起を見かけて龜篠ハ納戸の方へ赴き」けり。
○斯て信乃ハ糠助家に赴き枕方に膝を進めて心地ハいかにと問ふ程に糠助ハいと苦しけにうち咳き犬塚ぬしよくそ來ませし。年來あはれみをかけ給はりし報ひも得せず別になりぬ。某ことし六十一歳女房にハ後れたり。たくわへもなく氏族なけれハうしろやすきに似たれども心かかりハ在としも人にハ告さるわか子の事のみ。某原ハ安房國洲崎のほとりの土民なり。長禄三年十月下旬先妻に男児出生て玄吉となづけたり。いと健かに見えたるに母ハ産後の儘肥立ず乳に乏しかりけれハ児さへ脾疳の病つきて母の看病その子の介抱耕作網引を外にしてはや二とせになりしかバ物大かたハ賣つくし剰女房ハ終にむなしく成にけり。迹に残るハ借銭とこの年僅に二歳の稚児我身一ッに字みかたし。いかで養ふ人もがなとこひ」16ねかへとも貰ひ乳もて辛く育つる稚児なれハ痩さらはひ餓鬼の如く養育銭を贈らでハ貰んといふ人のなけれハせんすへつきたる出來ここの洲嵜の浦は霊地とて役行者の〓あれハ殺生禁断せられたり。この故に介鱗其処にあつまりて網代なき生洲に似たり。竊に網を下すならハ一夕にして数貫の銭を獲ること易しと思ひしかハ偽りて稚児をしはし隣家に豫けつ闇に紛れて彼禁断所へ舩漕入れしに人に知られて忽地に捕られ國守の廰へひかれにけり。脱るへき路のなけれハしはらく獄舎につなかれしに折もよく其秋ハ國守里見殿の奥さま五十子の上またおん愛女伏姫うへの三回忌に當らせ給へバ傾に大赦を行れてわなみも死罪をなだめられやがて追放せらるゝなり。側守のおん慈悲により村長に領られたる小児玄」
〈糠助病床にいにしへを語りて信乃に一子をたのむ〉」17」
吉を返し下されたりけれハこれを背負安房を追れ上總をよきりて下總なる行徳まて來つるに親も子も餓労れ所詮途に仆れて死耻を曝さんより親子諸倶身を投るこそますらめとおもひさため名も知らぬ橋欄干に足を踏かけおとりいらんとしつる折武家の飛脚とおほしき人件の橋を渡りかゝりていそかはしく抱きとゝめ懇に縁故を問れしかハ懺悔の為に耻を忍ひて一部始終を告しかハその人聞て深く憐み扨ハ汝ハ素よりの悪人にハあらさりけり。われハ鎌倉の成氏朝臣の御内にて小禄卑職のものなれとも聊慈善の志願あり。その故ハ年今四十に餘るまて子ハ持なから子育なし。されハ年來夫婦心をひとつにして神仏を祈念し奉り又身に稱ふへき事ハ艱苦を救はんと心に誓ふも久しくなりぬ。しかるに汝ハ殊にして」ひとりの子をもてあまし親子ほと/\死んとせり。人さま%\の浮世なり。されバその子をわれに得させよ。ともかくもして養はんとよにたのもしくいはれしかバその時のかたじけなさ地獄で逢し仏歟神歟と思へバ更に一議に及ばず。そがいふまゝに承引て只感涙を推拭へハ彼人かさねて我ハ殿のおん飛脚に安房の里見へ赴きたるかへさなれバ私に幼子を携へがたし。このわたりにハ定宿あれバ且くその子を預け置鎌倉へ立かへりて妻にも告日ならず迎へとるべし。汝ハけふより後やすく思ふて志すかたあらハとく赴きねと喩しつゝ路費にせよとて懐中なる方金二ッとり出し賜しかバ辞するによしなく受納め重々の恩儀を謝して玄吉を賺こしらへわたせバやをら抱きとりてもと來しかたへ立戻るをつくづくと見送りたる。歡しくも悲しくて是なん親子一生涯の別れなれ」18
〈糠助がさん悔話一子を捨て一子をたすく〉」19」
ども養親の名をも得問はずわれも名のらず。爰にはじめて恩愛の重荷をバおろしても竭ぬ名殘ハ葛飾の行徳濱より便舩していさゝか相識る人あれハこの大塚に流れ來て農家に奉公する程に次の年この家の先住なる籾七といふ者身まかりて後家に入夫をもとむるとてある人に媒約せられその名跡を續たるなり。さるにても玄吉か事のみおもひ出て恙なく生育かし人なみ/\の人になれと願ふものから去年身まかりし妻にも告ざるわが子の上を今臨終に口走り和君に告るハ凡庸ならぬ信義を豫てしれバなり。且鎌倉の前管領家ハ番作ぬしの主筋ならずや。されば又成氏朝臣ハ両管領山内顕定ぬし扇谷定正ぬしと不和にして鎌倉のおん住ひかなはせ給はゞ許我の城に移らせ玉ひ其処をも追れて近ころハ千葉の城にましますと」20世の風聞に傳へ聞り。しからバわが子玄吉もその養親も役に従ひ下總千葉にあらんすらん。和君もし許我殿へ参り給ふ事ありてその便宜をもて玄吉を識る事あらバこれらのよしを潜やかに傳へてたべ。わが子ハ実の親のあるよしをしらでをらばバ是非もなし。灰に傳へ聞事あらバ些ハ心にかゝるべし。よしや只今めぐり會とも親子迭に面忘れして名告よすがハあらさめれど渠ハ生れながらにして右の〓尖に痣ありて形牡丹の花に似たり。又渠が生れたる七夜にハ祝きの為わが釣せし鯛を包丁したりしに魚の腹に玉ありて文字のごときもの見えたり。取て産婦に讀せしにこれまことゝか訓む信の字に似たるやうなりといへり。よりて渠が臍帯もろともに護身嚢に納めつゝ長禄三年十月廿日延生安房の住民糠助が一子玄吉が初毛臍帶並に」
〈糠助鯛を包丁して名玉を得る〉」21」
感得秘藏の玉と母が手づから写しつけたる國字にして釘のおれの曲りなりにも讀つべし。渠物情を知るころまで失はずバ今なほあらん。これらを證拠にし給ひてよ。紛れあるべくもあらずかし。又和君とても末遥なる弱冠でおはすれバ勉て發跡給へかしといひつゝ頻に落涙す。信乃ハ彼玄吉が痣の事玉の事わが身に思ひ合せつゝ大かたならず感嘆しそのいふよしをしかと諾ひなほさま%\にいたはり慰めたりけれハ糠助ハ掌をうち合して拝むのみ。哀情胸に塞がりてや復いふこともなかりけり。かくてはや黄昏になりにけれバ信乃ハ行燈に灯を点しふたゝび湯剤を勸などしつ。別を告て宿所にかへりその夜額藏にのみ糠助が遺言のよしを物語り玄吉が痣の事玉の事を告にけれバ額藏聞て驚嘆しこれ必吾黨の」22人ならん事疑ひなし。この身が儘になるならバ今にも其所へ赴きて見まほしくこそ候へど密話あへず立別れ詰の朝とく起て糠助を訪んとせしにその近隣の荘客詣來て糠助ハこの暁に身まかりたるよしを告にけれバ信乃は殊更にこれを悼みてしば/\蟇六に説勸めて永樂銭七百文貸與へてその夜道場へ棺を送らせ日子歴て其家を賣時件の七百文を返し納させ残れる銭と最褊なる田圃は彼道場へ寄進して糠助夫婦そが代々の香花の料にしたりけり。
○爰に亦管領家の浪人に網乾左母二郎といふ壮佼ありけり。近き比まで扇谷定正に仕へて扈従たり。便佞利口の者なれハ一トたひハ寵用せられて人を〓こと多かり。よりて傍輩に強訴せられ忽地にその非義あらはれ軈て追放せられけり。そが父母ハ往に世をさりいまだ妻子もあらされハ遠縁」のものをよるべに大塚の郷に流浪ひ來つ。糠助か舊宅を購ひ得て形の如く膝を容たり。されバこの左母二郎ハ今茲二十五歳にして色白く眉秀鄙にハ稀なる美男なり。そが上に草書拙からず。しかのみならず遊藝ハ歌舞艶曲習ひうかめずといふことなし。犬塚番作身まかりし後里に手跡の師匠なけれバ左母二郎ハ毎日に手習子を集めて生活とし又女の子にハ歌舞今様を誨るに浮たる技を好むもの都も鄙も多なれバ手迹にまして遊藝の弟子日々に聚來つ。打囃し舞ふほどに是首の少女彼首の孀婦と仇なる名さへ立もあれど龜篠ハわかき時より漫に好む技なれば左母二郎が事としいへバをさ/\夫に執成により渠を憤るものありといへとも蟇六ハ聞かぬふりして遂に網乾を追ざりけり。かくてその年の終りに城主」23大石兵衞尉が陣代簸上蛇太夫といふもの身まかりつ。次の年五月の頃蛇太夫が長男簸上宮六亡父の職禄を賜りて新陣代となりけれバその属役軍木五倍二卒川菴八等とともにあまたの若黨奴隷を將て彼此を巡檢しその夜ハ荘宦蟇六許止宿してけり。蟇六ハ豫てより饗膳の手あてして媚賄賂ずといふことなく勸盃すべて礼に過たり。折しも庚申なりけれバ龜篠ハ夫にすゝめて歌曲の遊樂を催すに娘濱路にハ花美やかなる羅衣被せてわりなくそのむしろに侍らせ酌をとらせ又筑紫琴をかなでさせ左母二郎にハ例の艶曲をうたわせおさ/\興をそえにけり。かくて鶏鳴暁を告る程に稍盃盤をとり納め蟇六ハ宮六等に早飯をすゝめ宿酒いまだ醒ざれば」
〈左母二郎荘官が家に立入て濱路をいどむ〉」24」
各々よくも食はずなほ彼此を巡らんとて三人齊一立出れば蟇六ハいそかはしく村はづれまで送りけり。是より先に龜篠ハ日待月待の折に觸て左母二郎を招きつゝ艶曲を聽く程に左母二郎ハいつしか濱路を看て思ひをこがし人目の関をしのび/\に言葉の露を結びかけて淫がはしき色を見せ或ハ鳥の跡を媒妁にて筆に物をぞいはせたる。いかなることを書たりけん。濱路ハ手にだに觸れずしていといたう罵辱しめ後にハ網乾が來る毎にさけて再び面を對へず。されバ此少女ハその心ざま親に似ず行ひよろずに貞くて信乃にハ親の口づから豫て許せしよしあれどもそれすらいまだ婚姻をとり結ばざる夫なれバ迭に親しく物いはず。况て浮たる風流士に名を立らるゝ事あらバ女子の耻辱この」25うへあらしと深く念じてこれらの人を引入たる母親を心づきなしと思ひけり。濱路ハかくのごとくなれとも母龜篠がこゝろは異なり。龜篠日來思ふやう件の網乾左母二郎ハ鎌倉武士の浪人とかきこえていと愛たき美男なり。渠がいふよしを聞くに鎌くらにありし日ハ食禄五百貫を宛行はれしかも近習の首に処れハ殿のおん寵大かたならず。出頭第一なるをもて傍輩深くそねみて頻に讒言したるにより身の暇を賜りしかど原是殿のおん志にハあらす。かゝれバ近きにめし返さるべき御内意あり。この里の僑居ハしばしが程にあらんといへり。この人今ハやつ/\しくともその言のことくならバ遠からずして帰参せん。管領家の出頭人を吾女壻に招ん事その時にハ及がたし。今より情をかけんにハ後の」栄利となる事あるべし。親の心子ハしらで鈍や濱路がひたすらに信乃を良人と思ひとりてや婚姻を待わびしげなる。さきにハちらと見つけし事あり。網乾か濱路に意ありとも後々の害にハならず。濱路が信乃に情を寓てハ久後さへにたのもしからず。かゝれば濱路に信乃か事を思ひ絶する囮にハ網乾にますものあらしと思ひて世の嘲をも里人等が憤りをも見かへらす。折に觸れ事に托てしば/\網乾を招きしかバ左母二郎ハ懲ずまに且その親にとりいりていかでか濱路を手に入れんと思ふ心の色見えて常に荘官の家に出入へつらふ事の大かたならねバ蟇六夫婦ハひたすらにその佞眉らるゝを歡びて二なきものにぞ思ひける。
○斯て陣代簸上宮六ハさきに蟇六が女児濱路を見そめてより」26恋々の慾火禁めがたくさめても寐ても忘られず媒妁もがなと思ふ氣色の顕はれけれバ属役軍木五倍二傍に人なきをり荘官が娘を某媒妁仕らん。蟇六も歡びて承引べし。尊意如何にとさゝやけバ宮六大ひに歡ひこの義を軍木にたのみつ。次の日種々のおくり物を七八人の奴隷に舁して五倍二を媒妁とし私に蟇六か宿所につかはしけり。さる程に五倍二ハ蟇六が許に赴きてやかてあるじに對面し簸上宮六が濱路を懇望の事の赴き婚縁の一議を述て只管に説すゝむるに蟇六とみにいらへせず。且我妻にかたらふてともかくも仕らんといひかけて退きしが待事半時あまりにしてやうやくにいで來つ。信乃が上を云々とかたりつゝ彼者を遠さけておん承を仕らめといはせもあへず五倍二ハ陣代の虎感をもてさま/\と」
〈五倍二宮六か爲に濱路を媒妁す/よし直画〉」27」
威しけれバ蟇六忽地顔色蒼見て歯ふるひしつゝ承諾しぬれハ五倍二ハ面をやはらげ陣代よりもたらしたる目録をわたすになん蟇六ハ胸うちさはげと辞するによしなく受書をしたゝめて五倍二にわたしけれバ軍木ハいそぎ立帰りぬ。この様子を額藏のみいつ処にかをりけん疾うかじひて立去けり。さる程にその夜さりあるじ夫婦ハ臥房に入て宮六が婚縁の事をさゝやき信乃を亡ふべき計策を商量す。その時龜篠いへるやうかくまで愛たき事あるべしとハしらずして彼網乾左母二郎か濱路を見る目にてその情あるよしをバ知りつ。こゝらに稀なる美男なれバ濱路も終にハ信乃が事を思ひわすれて彼人と情由あれかしといたづらをおしゆるにハあらねとも些の情を被ておかバ彼人帰参せん時にそれ程の利益ハあらんとおもひしハそら」28だのめにて今ハ渠さへ障のその一ッになることもやあらん。男態ハよくもあれ召かへさるゝや返されずや固より不定の痩浪人いきほひをさ/\城主に等しき陣代殿とはひとつにハしがたし。悔しき事をしてけりと舌うちならせバ蟇六ハ起直りて手をこまぬき嘆息し荘客們か口かしましさに濱路を信乃に妻せんといゝつる事もわが一生のあやまり也。只速に信乃を亡ひ後やすくするこそよけれ。われ妙計を生じたり。思ふに信乃ハ頗る思慮あり。うまく渠を計ん事苦肉にあらざれバ施しがたし。抑前の管領成氏朝臣ハ番作信乃等が主筋なれバこれによらバ計りつへし。ことし成氏朝臣両管領とおん和睦の議整ひ許我へ帰城し給ひしと世の風声に隱れなし。われ今これらの事によりて信乃を云云と欺きて神宮川へさそひ出さん。おん身ハ翌竊」
〈亀篠夫を謀りて網乾をすかす/筆跡指南〉」29」
に左母二郎が宿所にいゆきて箇様々々にこしらへ給へ。この謀合期せハ彼村雨の宝刀をとるべし。件の宝刀わが手に入らハ又額藏にしか/\と説示し途にて信乃を亡せん。首尾わが計る如くなりて濱路を陣代へ嫁らす時左母二郎に口説あるべし。渠もし狂ひて妨する事あらんにハ簸上殿に訴へてからめ捕するもいと易し。只むづかしきハ信乃が事なり。必暁られ給ふなと迭に耳を取かはしかたらひ果れハ夏の夜のあけがた近くなるまゝに夫婦のものハ慾につかれてぬるとハなしに目睡けり。されバ龜篠ハ次の日里の不動堂へ詣ると偽りて竊左母二郎が宿所に赴き對面し龜篠聲を低していといひかたき事なれともおん身が濱路と情由ある事わらはは兼てしるものからわかきどちハあるまじき事にハ侍らす。見捨てだに給はらすハ壻かね」30にとまで思へどもいかにせん。濱路と信乃が幼き時しか%\の事ありて夫婦にせんといひ号し言葉ハ今さら反故に得ならず。荘宦殿もこゝろにハおん身を愛して信乃かなくバむこにせん。家をも嗣せん。信乃ハ妻の〓ながら箇様々々のうらみある番作が子にしあれバ我為になるものにハあらず。いかで彼奴を遠ざけておん身をむこにとかねてよりいはれしことの空しからでしか%\に計りなバ信乃ハ他郷へ赴くべし。就てハ渠が稚き時壻引出とて取らせたる荘宦殿の秘藏の一トふり世にたぐひなき名劍をとりかへさんと思へどもあからさまに求めてハ返すべくもあらずかし。よりてしか%\に計りなん。おん身またしか%\はからひて荘宦どのゝさしれうもて信乃が件の一卜刀をすりかへてたびてんや。事なる時ハこよなき幸ひおん身の為にも侍ら」
〈額藏密に信乃と會して濱路が婚姻の事を告る〉」31」
ずやそら言実事とりまじへ辞巧みにこしらゆれば左母二郎ハつくつくとはぢたる面色にてさつそくにその蜜事に一味せしかバ亀篠ハます/\よろこび更に額をうち合せてその日のあいづ事の首尾これハしか%\彼ハまた箇様々々とおちもなくさゝやきつうなづきつ思はず時を移せしかバ龜篠いそがはしく別れを告て走り出やがて宿所へかへりつゝ竊に事の趣きを蟇六に告しかバ蟇六深く歡びて含咲して居たりける。
○斯て蟇六夫婦ハそのゆふくれに信乃を一ト間へ招きよせ云けるやう。和殿も濱路もひとゝなれば疾妻せんと思へども去歳ハ世間静ならで思ひながらに延引せり。しかるに今茲ハ許我の御所成氏朝臣両管領御和議とゝのひたるよしを聞けり。依て和殿ハ祖父の時よりの主筋」32なれハこたびの和議を幸ひに彼村雨の一振を許我殿へたづさへゆき祖父と父との忠死を訴へ大塚の家を起さん事今此時にます事なし。和殿か許我におもむきて足を止むるならバ濱路もおくり遣はすべし。若止まらで立かへらバ和殿に家とくをゆつるべしと夫婦右より左より辞を工みにさま/\に誠しやかにすゝむるにそ信乃ハきのふ五倍二がたのみの品%\持來りしを額藏が立聞して一部始終を疾告たれハ扨ハ我を追出して濱路を宮六に嫁らすべき心底なりとハ知りながら村雨の宝刀を許我殿へさしあくるハ亡父の遺言なれバすこしもいなます夫婦が言に従ふにそ一人りの者は深く歡びしからハ旅のして日柄もよけれバ出立ハハ明后日と定め給へ。従者背介か額藏を遣すべしといはれて信乃ハかたじけなしと」
〈苦肉の計蟇六神宮川に没す〉」33」
夫婦に一礼のべつゝもその身の子舎に退ぞけバ折もよく額藏が庭の草木に水打かけ居たりかバ信乃ハ邉りへ呼近づけ蟇六夫婦にいはれし事また我思ふむねを語るにぞ額藏ハうちうなづき寔に推量し給ふごとくおん身を許我へ出しやり後やすく彼婚姻を整へん為なるべし。只痛ましきハ濱路どのなりトいわれて信乃ハ嘆息し人木石にあらされとも少女一人りにひかされて得がたき時を失はんやといへバ額藏さにこそといらへてやがて別れけり。
○斯てその次の日ハ信乃が旅立の用意大かた整ひしかバ龜篠ハ信乃をすゝめて瀧の川の弁才天へ参詣に出しやりぬ。信乃ハ日ごろ祈念なす物から一議に不及弁才天へ参詣しいそぎ我家へ帰らんとする道にてはからず蟇六左母二郎を伴ひ背介に網をかつがせ」34てこなたへ來るに行あひぬ。信乃ハその故を問ふ程に蟇六うち笑て翌の肴を獲んと思ひ網乾生を誘引て來つるなり。和殿も所要果たらん。いざもろともにと先に立ハ左母二郎もひたすら勸めいさなひけり。便是蟇六が奸計にてかく根づよくハ巧しなり。信乃は今さら推辞によしなく困じながらに打つれ立神宮川原へ赴きけり。蟇六ハ兼て知る家にて舩を借り楫取土太郎とかいふ者を雇て舩にのらんとする折割籠偏提をわすれたりとて背介を取に走帰しぬ。蟇六ハ信乃左母二郎と供に件の舩にのりうつり河中へこき出す。その時蟇六ハしゆはん一ッに腰簑を著しきりに網を打おろせバ元來手なれわさなるゆへ獲物あまたにしていと興あり。蟇六かねて巧しなれバ又打おろす網と」共に川へざんぶと落入て溺るゝ体に見するにぞ皆々驚くそが中に信乃ハ手ばやく衣をぬぎ捨浪をひらいて飛入つゝくるしむふりする蟇六を救ひあげんと手をとれバ蟇六もまた信乃が手をしかととらへて深水へ引て只管に推沈めんとする程に土太郎も又飛入りてうへにハ蟇六を救ふがごとく底意ハ信乃を水中に亡なはんとしつれとも信乃ハ水煉にたけたれハあしてにまつまる土太郎を一反あまり蹴流して蟇六をこわきに掻込頭挙て見かへるに舩ハ遥に推流されたれハむかひの岸におよきつき蟇六を抱きおろせば土太郎もまたおよぎ來て信乃共侶に蟇六をさま%\介抱するうちに土太郎ハ流るゝ舩をおひとめんと走りゆく。
○左母二郎は蟇六と諜し合せしことなれバ舩の流るゝをさひはひに河下へ赴き」35つゝ蜜に信乃が副刀の〓釘を抜とり又蟇六がさしぞへのめくぎを外し此彼と中を入かへ鞘に納んとする程に怪しむべし信乃か刀の中刄より水氣忽然と立沖れバ左母二郎大ひに驚きこれなん村雨の宝刀なるべし。これをわが故主扇谷殿へたてまつらバ即帰参のよすがならん。宝の山に入ながら他人の物にやはすべきとひとりごちまた忙しくおのが刀のめくぎを外して蟇六が〓に納めまた信乃が刄を取てわが刀の〓に納めまた蟇六が刄をもて信乃が副刀のさやに納るにいづれも長短等しきにより〓乎として恰好し。浩所に土太郎ハ流るゝ舩を追かけ來つ。もとのほとりに漕戻しそがまゝ舩を繋き畄れバ左母二郎ハ陸に登りて蟇六が安否を問ひぬ。信乃ハその中衣服を身につけ二刀をたばさめバ蟇六ハ獲の」
〈蟇六左母二郎にはかられて村雨の偽刀を得たり〉」36」
雜魚を魚畚に移させなほ餘れるをバ篠の枝に貫きなどしてこれを蒼竹の中にくゝり信乃左母二郎の二人りにもたせ蟇六ハ土太郎に何やら密話紙にひねりし金をにきらせ打連立て帰りけり。その夜蟇六夫婦ハ信乃を納戸に招くに許我まての従者にハ額藏を遣せはとて臥たるを呼よせてこれ彼四人うち團坐畄別の盃を遶らしけり。既に酣なる比に蟇六ハ百匁あまりの金とり出させ路費にとてあたへおのれ/\が臥房に入りぬ。その時蟇六ハ神宮河にてうまく計て信乃を水中へおびき入れたるその事の趣を龜篠に密語すりかへたる彼宝刀を一見せんと燈燭をほとりへ引よせ抜放に〓の内より水滴りてたゝみの上に置露を蟇六ハ竒なりと賞し刄を納てうち」37戴き夫婦共侶に打よろこひやがて臥房に入りにける。さる程に信乃ハ臥房に入りてひとりつく%\久後を思ふ折から濱路は臥房を脱出て〓の後方に伏しづみ只泣伏して居たりける。信乃ハ濱路と見てけれバうち騒ぐ胸をしづめてそもじハ何等の所要ありてこゝへハ迷ひ來給ひしぞと咎れバ恨めしげに涙を拂ふてなにしに來つるとよそ/\しくいはるゝ迄に形なきたとへ妹〓ハ名のみでも親の許せし夫婦にあらすや。日來ハともあれかくもあれ今宵限りの別れぞと告しらせ給ふともおん身の耻にハなるまじきに只一と言の捨言葉もかけ給はぬハ情なし心つよしと怨ずれバ信乃ハ思はず歎息しそれ思はぬにハあらねども憚ることの有ゆへに口を開きて告るによしなし。おん身が」誠ハよく知れバ我心をもそなたハしらん。許我へゆくとも遠からず帰り來る日を俟給へ。と賺せバ濱路ハ目をぬぐひ左のたまふハ偽りなり。一トたび爰を去り給はゞいかでかかへり來給ふべき。今宵かぎりの別れにこそ。元わらはにハ四人りの親あり。実の親は煉馬の家臣胞兄第もありとハ聞けどその名も知らで過せしに風聞を聴バ去歳の夏思ひがけなく煉馬の滅亡一族郎黨殘りなく皆撃れしにあるからハわらはが親と兄第もかならず脱れ給はしと思へバいとゞ哀しさのやるかたもなき嘆きしてせめておん身にうちあかさバ親同胞の名をも知らんと稍近づけバ継母に跟られあはて迷ひて退きしハ去歳の七月のころなりき。是より後ハ中絶てかはらぬ心の誠のみ。朝夕おん身の恙なかれといのらぬ」38日とてハなきものを心つよきも限りあり。わらはか思ふ百分一おん身に誠ましまさバ潜びて出よ共侶にと宣はつるとも夫なり妻なり。たれが不義とて譏るべき。あくかれて死なんよりおん身の刄にかけてよといとも切なる恨のかず/\信乃ハその声外にや洩んと心くるしくておもふものから嗟嘆しつ。やよ濱路おん身か恨ハひとつとして理りなけれどたとひ且く別るゝとも迭に心変らずバ遂にハひとつに寄時あらん。親達の目覚ぬ間に疾々臥房にかへり給へ。出世の首途さまたげせバ妻にハあらずといひ放されて濱路ハよゝと泣沈みこゝろの願ひを遂んとすれバおん身の仇になるよしを諭し給ふに術もなしさらバ道中恙なく許我へ参りて名をも揚家をも興し給ひなバ風の便りにしらせてたべ。今より弱る玉の緒のたえなバ」
〈なせばこそわかれを惜しめ鶏の音の聞えぬさきの曉もかな 菅家〉」39」
是をこの世のわかれ憑むハまた見ぬ冥土のみ。二世の契りハ必らすよ。御こゝろ変らせ給ふなと怜悧見へても恍惚なる未通女こゝろの哀れなり。信乃もさすかにうち芝折慰めかねて点頭のみ。折から告る八声の鶏に信乃ハ心をおくの間なる二親めざまし給はなん。とく/\といそがし立れハ濱路ハやうやく立あがり出んとすれバ外面に咳して障子をほと/\とうち敲き鶏が謡ふて候にいまだ覚給はずやと呼起す声ハ額藏なり。信乃ハ呼れて應をすれバ庖〓のかたに退きけり。疾この隙にと出し遣れバ濱路ハ瞼泣腫しなみたながらに出てゆく。斯て信乃額藏ハ既にしたくもとゝのへバ疾立出んと思へとも蟇六夫婦ハ宿醉醒すいまた臥房を出さりけれハ千方もなく臥房に立より暇乞をつけるにそ夫婦寐惚し声さまにて」40ゆきね/\と應を聞果外面に退きて家内の者にも夫/\にいとま乞してゆく夫を濱路ハさすが泣顔を人に見られんことのおしくて障子細目におしあけて蔭見ゆるまで見送りけり。時に文明十年六月十八日の朝まだきに犬塚信乃ハ年來の志願やゝ時到り額藏を將て下総なる許我の御所へ赴かんとす。さる程に信乃額藏ハこの日十三四里の路を走りて栗橋の驛に宿とりつ。幸ひに相宿の旅客ともなかりしかバその時信乃ハ額藏神宮川の為体おちもなく告しかバ額藏聞て驚嘆す。信乃また且く尋思しつ害心かくの如くなるに彼人年來懸念せし宝刀の事を思ひ絶て我をバ許我へ遣るやらんといふかしめバ額藏うち聞いへるやう昨夕伯母御前歡び大かたならず。しからんにハ汝が帯る刄ハ切味心もとなし。」こハわが父匠作大人守り刀にせよかしと賜りたる桐一文字と喟へたる短刀これを汝に貸べきにこれもて立ねと授けられたり。主人夫婦の謀るところかくの如くなる時ハ和君を亡はんとするにあり。此桐一文字ハ和君の祖父匠作ぬしの像見にこそ。これ見給へとさしよすれバ信乃ハ左右の手に受てつく%\と見て額藏がほとりに置て嘆息し祖父ハ忠義の武士ときくにいかなれハわか伯母ハかくまで腹きたなき。二親の亡後ハ叔伯母にまして憑しきものハなしと人ハいふにわか身ハ是と表裏なり。仇の家に身を置ともかくまでしらねく謀られんや。さるをけふまで恙なきハ皆是おん身の賜なり。我父末期の教訓も今此時におもひ出られる。先見かくまで灼然なる大人ハ凡夫にあらざりけり。九年同居に衣食乏しく所持の田園」41横領せられてわか身に帶たるもののなけれバ彼人の禄を食るにあらす。今にしてこれ等の事ハ身退くに潔よく且この宝刀幸に護て失ふ至らねバ何か歎き誰をか恨まん。天運こゝに循環して青運の志を得つべき時節到來せり。冀ハ犬川ぬし共に許我へ参り給へといわれて額藏沈吟し某黄童のうちよりその家の小廝にせられて遂に今日に至れり。しかれども一碗の糧一領の衣の外定めたる給銀なけれハその恩義ハ高からすといへともその家の糧をもて人となりてハ主従なり。非義非道に與せねども主の密事を承引ながら洩して和君と共に走らハわれも又不義の奴なり。和君ハ許我へ赴き給へ。某ハこの暁に袂を分ちて大塚へかへりて後あからさまに身の暇を賜り主家を辞して許我に」
〈二犬士許我の旅中に栗橋の驛に一宿す〉」42」
まいらんと密語バ信乃ハ頻りに感佩し然ながらおん身ハわれを撃ずして還らば必禍あらんとあやぶめハ莞尓と笑みこれらの事ハ心安かれ。某ハ手足に少許の傷つけて立かへりいふべきハ犬塚殿をうたんとせしに敢なくも殺立られてうち得さるのみならず斯痍を負ひぬと欺かバあるじ夫婦もすべなからん。只某に任せ給へと他事もなく説示せバ信乃ハます/\感謝に堪す。教にもとり候はじといふ。額藏歡びつゝ密談既に果しかバその夜ハ霎時寐りに就ばや曉がたの鯨音に驚されて両人ひとしく起出つ。支度形の如く整へていそしく旅宿を出しかど有撃別の惜けれバかたみにおくりおくらんと仰慕辞讓に思はずも東の天しらみにけれハ今ハ送るよしなくて迭に心緒を述あへず竟に東西に別れにけり。」43それハ扨蟇六龜篠等ハ既に信乃を出し遣りてなかばハ心を安くしつ途にして額藏が大かたハ結果けん。もし為損じて返り撃にせらるゝとも彼刀ハ贋物なれバ許我殿へ参るとも何事をか仕いたさん。麁忽の罪科脱れかたくて縛り首を刎られん。只便なきハ濱路か病著なり。聘礼物を受てよりいまだ幾日も歴ざれとも軍木ぬしが密書もて日毎に催促せらるゝにすでに信乃がをらずなりてハ遅として許さるへきにあらず。とかくに濱路を慰め賺して疾嫁らするにますことなしと竊に商量する折からまた五倍二が使札來れり。蟇六ハあはたゞしく封皮をくぢきてこれを見るにきのふにかわらぬ縁女の催促婚姻遅滞のよしをせめたる怒氣文面にあらはれたれバさらに十二」分の鬼胎を抱きて袴引かけ使と共に軍木が宿所へ赴きけり。
○かくて蟇六ハ汗にほこりをまみらして背門口より立かへり龜篠よろこべ上首尾なり。軍木殿のいはるゝにハ簸上殿の性急ゆへよしや濱路ハ病気にもせよ疾迎とりて看病せんとハいへいまだこの婚姻願状を主君へたてまつらねバ晴なる婚姻ハはゞかりあり。幸ひ明日ハ黄道吉日なれバ壻入を相兼てわれ荘官の宿所に赴き竊に新婦人をむかへとるべし。よろず質素にし給へといわれしゆへ物入の少きを幸ひに承引て退出たり。尓るに濱路がゆかじといはゞ禍一家に及ぶべし。且彼処へいゆきてこしらへて見給へといへバ龜篠うち点頭わらはが賺して事成らすバおん身又云云に威し給へと耳語つゝ濱路が」44臥房へ赴きけり。さる程に濱路ハ信乃が事のみ思ひ臥房に籠居たる所へ龜篠ハ進みより信乃が事を思ひきらせんとてさま%\に賺しこしらへ虎狼より恐しき偽夫に操を立病煩ふて二親に苦労を被るを貞女といはんや。こゝの道理を弁へて疾思ひ絶給へかし。彼畜生にハ百倍見あぐる美男子に遣らせん。おん身にハまだ告ざりし。その壻がねハ別人ならず。いぬる月お宿せし陣代簸上宮六ぬし。その日おん身に懸相して相應からぬ舅を厭はず枉ておん身を娵らんとて媒妁をもていはせ給ひき。〓にハ昔人氣質にて再三辞退し給へども今ハ脱るゝ道もなし。婚姻ハ近きにあらん。その病著をおこたりて二親心を休め給へかしと辞巧にこしらゆれバ濱路ハ忽地あきれ果堪ずやよゝと泣沈みやうやくに頭を」
〈自殺を示して蟇六濱路を賺す/呂文/歌川芳直画〉」45」
もたげ一旦結びし縁あれバわらはか為に夫といふハ犬塚ぬしの外になし。いまだ婚姻せすといふとも夫婦ならずと誰かハいわん。犬塚ぬしが離別状を手づからわたし給はでハ親の仰に従ひがたし。許させ給へと理を推していとも怜悧いひときし雄々しき言葉に龜篠ハ腹うち立て呟くのみ。せんすべなけに見へしかバ外面に竊聞したる蟇六ハ進み入りて南無阿弥陀佛と唱へもあへず刄を抜て皺腹へ突立んとしたりしかハ龜篠ハ吐嗟と叫びて肘にすがり禁むれバ濱路も共にとりすがるをいなかへりやよ濱路親を殺すも殺さぬもおん身が心ひとつにあらん。禁るはかりが孝行歟。鈍しやと叱られて玉なす涙をふりはらひよしや貞女といはるゝとも又唯不孝の子とならバいづれ人たる道ハ缺なん。仰に従ひ侍るべしといへバ龜篠点頭て賢きものそ聞給へ信乃」46が事ハ思ひ絶て簸上殿へとうけ引侍り。刄を納め給へかしといふに蟇六拳をゆるべ龜篠に目を注して刄を納め披きし袵をあはすれハ浮雲ことやと龜篠は夫のほとりを立はなれて泣しつみたる濱路が背を掻〓つ。又湯剤を勸て二親とも%\迭代りに通宵看病をしたりしかバ死んと思ひ定めたる濱路ハ絶て便りを得ずうち護られて夜を暁せバはや十九日になりにけり。されバ今宵ハ壻殿の詣給ふと奴婢が蔭言いひ誇らすを濱路ハはやく洩聞てこハ浅ましや今宵のをわらはにハ猶二親の隱し給ふハ出し抜てその婚姻の盃をとり結ばせん為なるべし。とてもかくても存命て仇し夫に伴なはれじとかねて思へハなか/\にうちも騒がすけふハ稍快き面色してみだれし〓を掻拊て臥房の内に結び直す髪も此世に別れの櫛の歯を挽く如き家内の」奔走この黄昏におくりつかはす濱路が調度のとりしらべに主従暇なき物から龜篠ハ折/\に濱路か臥房に立よりて其安否を問慰めみづから結髪せしを見て心の中竊に歡び扨ハ今宵のむこ入をまだしらせねども洩聞て渠こゝろまちするかやあらん。はじめの辞に似げなきハ寔に少女ごゝろぞかし。かくてハいよ/\後やすしとおもへハ夫にさゝやくにぞ蟇六も又歡びつゝ軈て臥房にいゆきて見るに我子ながらに見あけたり。三國一の壻入をしられたりともその期まで告ずもあらんと深念しつ。又外の方へ走り去彼ハそれせよ〓ハこれせよと罵りつ又焦だちつ人梯かけてせめつかふ眼口に暇なかりけり。