『南總里見八犬傳』第二十五回


【外題】
里見八犬傳 第三輯 巻三

【本文】
南總里見八犬傳(なんさうさとみはつけんでん)第三輯(だいさんしふ)巻之三
東都 曲亭主人編次

 第(だい)廿五回(くわい) 〔情(ぜう)を含(ふくみ)て濱路(はまぢ)憂苦(ゆうく)を訟(うつた)ふ奸(かん)を告(つげ)て額藏(がくざう)主家(しゆうか)に還(かへ)る〕

 再説(ふたゝびとく)蟇六(ひきろく)は、水(みづ)に溺(おぼ)れしやうにして、飽(あく)まで信乃(しの)に介抱(かいほう)させ、且(しばらく)して眼(まなこ)を開(ひら)き、手(て)を抗(あげ)(あし)を動(うごか)しつ、やうやくわれにかへりし如(ごと)く、扶起(たすけおこ)されて自脈(じみやく)を診(と)り、「かくてはわれは再(ふたゝ)び生(いき)たり。危(あやう)かりし」と傍(かたへ)なる、柱(はしら)に携(すがり)て立(たち)あがれは、信乃(しの)はその本復(ほんふく)の速(すみやか)なるを歡(よろこ)びて、倶(とも)に河辺(かはべ)の小屋(こいへ)を出(いづ)れば、土(ど)太郎は左母二郎(さもじらう)を、乗(の)せつゝ舩(ふね)をこなたへよせたり。當下(そのとき)信乃(しの)は遽(いそがは)しく、わが単衣(ひとへきぬ)を被(き)て、刀(かたな)を腰(こし)にする程(ほど)に、左母二郎(さもじらう)は蟇(ひき)六が、手(て)を携(たづさへ)て舩(ふね)に乗(の)せ、その恙(つゝが)なきを祝(しく)するに、或(ある)は水中(すいちう)の動作(どうさ)を問(とひ)、或(ある)はその苦惱(くなう)を告(つげ)て、果(はて)は笑声(ゑみごゑ)(たか)くなるまで、興(きやう)して岸(きし)を離(はな)るゝものから、前愆(さきのけが)に懲(こり)たりとて、再(ふたゝ)び網(あみ)をおろすことなく、軈(やが)て前面(むかひ)に著(つけ)させて、獲(えもの)の雜魚(ざこ)を魚畚(びく)に移(うつ)させ、なほ餘(あま)れるをば、篠(さゝ)の枝(えだ)に貫(つらぬ)きなどして、これを蒼竹(あをたけ)の真申(まなか)に括提(くゝりさげ)、信乃(しの)と左母二郎(さもじらう)と、その本末(もとすゑ)を相携(たづさひ)たり。蟇(ひき)六は、件(くだん)の二人(ふたり)を先(さき)に拉(たゝ)して、腰巾著(こしきんちやく)を掻撈(かゝぐり)つゝ、夛少(たせう)はしらず土(ど)太郎に、紙捻(かみひねり)して取(とら)するは、今宵(こよひ)の辛苦銭(ほねをりちん)なるべし。この土(ど)太郎は、河舩(かはふね)の傭〓(とびのり)などして、生活(なりはひ)にすなれど、一処(いつしよ)不住(ふぢう)の癖者(くせもの)なれば、豫(かね)て蟇(ひき)六に相譚(かたらは)れて、信乃(しの)を亡(うしな)はんとしつる也。かくてこなたの両人(りやうにん)は、一町(ひとまち)あまり先(さき)に拉(たち)たる、信乃(しの)(ら)がかたを折々(をり/\)見つゝ、何事(なにごと)やらん密語(さゝやく)めり。又(また)(さき)なる両人(りやうにん)は、遥(はるか)に後方(あとべ)を見かへりて、ねりも得(え)ゆかず待(まつ)ほどに、蟇(ひき)六軈(やが)て走(はし)り來(き)つ、うち連拉(つれたち)て家路(いへぢ)にいそぐに、十七日の月(つき)は出(いで)たり。戦(そよ)ぐ青田(あをた)に風渡(かぜわた)る、夜行(よみち)は殊(こと)に凉(すゞ)しくて、うち相譚(かたらひ)つゝゆく程(ほど)に、蟇(ひき)六は信乃(しの)(ら)にいふやう、「今宵(こよひ)の怪我(けが)は生涯(せうがい)に、復(また)あるまじき不覚(ふかく)なりき。亀篠(かめさゝ)(ら)にしられなば、いつまでもいひ出(いで)て、漁獵(すなどり)を禁(とゞむ)るならん。努(ゆめ)(ひ)すべし秘(ひ)すべし」と真(まこと)しやかに口(くち)を鉗(つぐ)めつ。既(すで)にして庚申塚(かうしんつか)のほとり近(ちか)くなる程(ほど)に、一袱(ひとふろしき)の物(もの)を背負(せおふ)て、前面(むかひ)より來(く)るものありけり。引提(ひさげ)たる挑灯(ちやうちん)は、紛(まが)ふべくもあらぬ、背介(せすけ)にこそ、と見てければ、蟇(ひき)六はやく呼(よび)かけて、「などてやかくは遅(おそ)かりし」と問(とへ)ば背介(せすけ)は小腰(こゝし)を折(かゞ)め、「割籠(わりご)の准備(てあて)せざりし故(ゆゑ)に、思はず時(とき)を移(うつ)したり」といはせもあへず眼(まなこ)を〓(いか)らし、「噫(あな)(おぞ)や、白物(しれもの)(ども)、わが出(いづ)るとき炊妾(みづしめ)に、云云(しか/\)といひたるに、例(れい)の籠耳(かごみゝ)(ぬか)せしな。今(いま)にしてもて來(く)るとも、何(なに)にかせん」と陽腹(そらはら)たちて、皆(みな)共侶(もろとも)に里(さと)に還(かへ)れば、亥時(ゐのとき)は過(すぎ)たるなるべし。左母二郎(さもじらう)は蟇(ひき)六を、そが門邉(かどべ)まで送(おく)りつゝ、夜(よ)の深(ふけ)たればとて、裡面(うち)には入(い)らず、信乃(しの)にも叮嚀(ねんころ)に別(わかれ)を告(つげ)、翌(あす)の啓行(かしまたち)を祝(しく)しつゝ、おのが宿所(しゆくしよ)へかへり去(さり)ぬ。
 かくて蟇(ひき)六は、奴婢(ぬひ)(いち)両人(りやうにん)呼起(よびおこ)させて、獲(えもの)の雜魚(ざこ)を肴(さかな)とす。烹(に)もし焼(やき)もする程(ほど)に、亀篠(かめさゝ)が盪(あたゝむ)る、酒(さけ)もよき比(ころ)なりしかば、件(くだん)の奴婢(ぬひ)を就寝(やすませ)て、夫婦(ふうふ)は信乃(しの)を納戸(なんど)に招(まね)くに、許我(こが)までの従者(ともひと)には、額藏(がくざう)を遣(つかは)せばとて、はや臥(ふし)たるを呼(よび)よせて、饗応(もてなし)(ぶり)に酌(しやく)を執(と)らせ、此彼(これかれ)四人(よたり)團坐(まとゐ)して、畄別(りうべつ)の盃(さかつき)を遶(めぐ)らしけり。既(すで)に酣(たけなは)なる比(ころ)に、蟇(ひき)六は亀篠(かめさゝ)して、百匁(ひやくめ)あまりの銀(かね)とり出(いだ)させ、路費(ろよう)にとて信乃(しの)に逓与(わたし)つ。その真(まめ)やかなる、よろづ年来(としころ)には似(に)るべくもあらず。さて路次(ろぢ)の事、許我(こが)へ参(まゐ)りての事などをうち相譚(かたら)ふにぞ、夏(なつ)の夜(よ)の短(みじか)くて、はや丑三(うしみつ)になりぬべし。「霎時(しばし)也とも目睡(まどろま)では、翌(あす)の道中(どうちう)(たへ)がたからん。とく/\睡(ねぶ)り給へ」といふ、亀篠(かめさゝ)が言(こと)の葉(は)を立(たち)しほに、信乃(しの)額藏(がくざう)は告別(いとまごひ)して、おのれ/\が臥房(ふしど)に入(い)りぬ。このとき奴婢(ぬひ)はいきたなくて、皆(みな)熟睡(うまゐ)せざるもなく、濱路(はまぢ)さへ痞(つかえ)(おこ)りぬとて、甲夜(よひ)より子舎(こざしき)に臥(ふし)たり。
 當時(そのとき)(ひき)六は、神宮河(かにはかは)にて熟計(うまくはかり)て、信乃(しの)を水中(すいちう)に誑引(おびき)(い)れたる、その事(こと)の趣(おもむき)を、亀篠(かめさゝ)に密語(さゝやけ)ば、亀篠(かめさゝ)(みゝ)を傾(かたふけ)て、笑(ゑみ)つゝ聞(き)くこと半〓(はんとき)ばかり、応(いらへ)はえせで点頭(うなつく)(かげ)は、圓行燈(まるあんどん)の望(もち)の月(つき)、跳(おど)る兎(うさぎ)に彷彿(さもに)たり。かく耳語(さゝやき)つゝ蟇(ひき)六は、乾(かはけ)る唇(くちびる)(なめ)(ぬら)し、「われ復(また)(ふね)に乗(の)りしとき、左母二郎(さもじらう)が目(め)を注(くは)せて、既(すで)にその意(ゐ)をしらせしかば、渠(かれ)は必定(ひつじやう)(かの)宝刀(みたち)を、搨替(すりかえ)たるに疑(うたが)ひなし。翌(あす)といはんも待(まち)わびしきに、一見(いつけん)せん」と燈燭(ともしび)を、やをらほとりへ引(ひき)よせて、〓緩(こひくちゆる)べて抜放(ぬきはなつ)に、夜目(よめ)なれば焼刃(やきば)の色(いろ)、定(さだ)かにはわかねども、現(げに)鋭刀(きれもの)とおぼしきに、〓(さや)の内(うち)より水(みづ)(したゝ)りて、席薦(たゝみ)の上(うへ)に置(お)く露(つゆ)を、蟇(ひき)六は疑(うたが)ひて、撈(さぐ)り見つ、〓(かぎ)て見つ、「竒(き)なるかなこの刀(かたな)、抜放(ぬきはなつ)ときは水氣(すいき)あり。殺氣(さつき)を含(ふくみ)てうち振(ふ)れば、降(ふり)そゝぐ雨(あめ)に異(こと)ならず。この竒特(きどく)あるにより、村雨丸(むらさめまる)と名(な)つけられし、と年来(としころ)(き)けども、見るは今(いま)。吁(あな)たふとし、吁(あな)めでたし。竒(き)也々々(/\)」と賞嘆(せうたん)し、その霤(したゝり)をいく遍(たび)(か)、指(ゆび)に染(そめ)つゝ額(ひたひ)に塗(ぬ)りたる、夫(をとこ)を見まねに亀篠(かめさゝ)も、物体(もつたい)なや、と指頭(ゆびさき)もて、拭(ぬぐ)ふて戴(いたゞ)く一(ひと)滴水(しづく)は、是(これ)神宮(かには)の河水(かはみづ)也。彼(かの)左母二郎(さもじらう)も奸智(かんち)に長(たけ)たり。おのが刃(やいば)と件(くだん)の宝刀(みたち)と、三方(みところ)(がえ)にしつるとき、後(のち)に必(かならず)ず蟇(ひき)六が抜放(ぬきはなち)(み)んことを慮(はか)りて、そが〓(さや)に少許(ちとばかり)、河水(かはみづ)を沃(そゝ)ぎ入(い)れて、おのが刃(やいば)を納替(いれかえ)たり。こは村雨(むらさめ)の刀尖(きつさき)より、水氣(すいき)(したゝ)るといへば也。とはしらずして蟇(ひき)六は、天(てん)に歡(よろこ)び地(ち)に喜(よろこ)び、刃(やいば)を納(おさめ)てうち戴(いたゞ)き、「三十年來(ねんらい)懸念(けねん)せし、村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)わが手(て)に入(い)りぬ。諸願(しよぐわん)成就(せうじゆ)」と唱(となふ)れば、亀篠(かめさゝ)もうち念(ねん)じ、「かくまでにおもふ事、思ふが隨(まゝ)になるものかな。嘉酒(よろこびさけ)に今(いま)一度(いちど)、過(すぐ)し給へ」と勸(すゝむ)れは、蟇(ひき)六は盃(さかづき)とり揚(あ)げ、「今宵(こよひ)は大事(だいじ)とこゝろして、まだ酔(えふ)までに喫(のま)ざりき。額藏(がくざう)には彼(かの)密事(みつじ)を、説示(ときしめ)し給へりや」と問(とへ)ば亀篠(かめさゝ)(おとがひ)さしよせ、「そこらにぬかりあらずかし。甲夜(よひ)に信乃(しの)(ら)がをらぬ間(ま)に、彼奴(かやつ)を竊(ひそか)に招(まねき)よせ、如此(しか)々々(/\)と説示(ときしめ)し、箇様(かやう)々々(/\)にこしらへたれば、そを真(ま)に承(うけ)て一議(いちぎ)に及(およ)ばず、こゝろ得果(えはて)て立侍(たちはべ)りき。信乃(しの)が敵手(あひて)に不足(ふそく)なりとも、騙(だます)に術(て)なしと俗(よ)にはいふ。よろづに運(うん)の向(むく)ときなれは、大(おほ)かたは事(こと)(なり)なん。よしや額藏(がくざう)が手(て)に乗(の)らで、反撃(かへりうち)になればとて、はやその宝刀(みたち)を畧奪(まきあげ)たれば、こなたに損(そん)はなきぞとよ。さはおぼさすや」と潜(ひそ)めき告(つぐ)。蟇(ひき)六聞(きゝ)て、「寔(まこと)に然(さ)なり。宝刀(みたち)をば畧(と)る、信乃(しの)をば出(いだ)す。そがうへに亦(また)結果(おしかたつく)るは、堕胎(あとはら)(やま)ぬ為(ため)なれども、為損(しそん)じたりとて害(がい)にはならず。額藏(がくざう)は殺(ころ)されて、信乃(しの)には恙(つゝが)あらずとも、亦(また)(たゞ)われを疑(うたが)ふて、訟(うつたふ)ることありとも、年来(としころ)信乃(しの)と額藏(がくざう)が、睦(むつまし)からぬは人(ひと)(みな)しらん。よりて額藏(がくざう)は、私(わたくし)の怨(うらみ)により、信乃(しの)を害(がい)せんとせしならん。われは故(もと)よりしらずといはん。かゝれば陳(ちん)ずるに辞(ことば)あり。これは是(これ)萬一(まんいち)の、活路(にげみち)を造(つく)るのみ。思ひ過(すぐ)すがごとくならんや。遠(とほ)からずして額藏(がくざう)が吉左右(きつさう)を聞(きか)んのみ。旨々(うまし/\)」とうち鳴(な)らす、舌(した)を吐(はき)つゝ口(くち)に手(て)を、當飲(あてのみ)は現(げに)(ぬすひと)上戸(ぜうこ)。「おん身(み)もすぐせ」とさす盃(さかつき)を、直(すぐ)に受(うけ)ても横道(よこぢ)ゆく、夫婦(ふうふ)蠏盤(かには)の欺詐(たばかり)は、齟齬(くひちがへ)るをしら焼(やき)の、肴(さかな)(あら)して暴食(なぶりく)ひ、果(はて)は茶碗(ちやわん)になみ/\と、篩(つが)せ篩(つが)れて一喫(ひとのみ)に、あほり著(つけ)たる物(もの)わかれ、拳(こぶし)を巻(まき)て息(いき)を吹(ふ)き、引(ひき)ちらしたる盃盤(はいばん)を、とりも納(おさ)めず、共侶(もろとも)に、臥房(ふしど)に入(い)れば程(ほど)もなく、鼾(いびき)の声(こゑ)ぞ高(たか)かりけり。
 さる程(ほど)に、信乃(しの)は臥房(ふしど)に入(い)りしかど、暁(あく)るを待(まて)ばいもねられず、ひとりつく/\久後(ゆくすゑ)を、思ふ物(もの)から身(み)ひとつを、誰(たれ)はとめねど父母(ちゝはゝ)の、墳墓(ふんほ)に今(いま)ぞ遠離(とほざか)る、里(さと)の名残(なごり)のいと惜(をし)き。こゝろはおなじ真砂路(まさごぢ)の、濱路(はまぢ)は臥房(ふしど)を脱出(ぬけいで)て、竭(つき)ぬ恨(うらみ)をいふよしも、納戸(なんど)の鼾(いびき)は二親(ふたおや)の、目覚(めざめ)ぬ程(ほど)にと心(こゝろ)のみ、せかれて逢(あは)ぬかたにさへ、なほ憚(はゞかり)の関(せき)の戸(と)の、音(おと)たてさせじと閾(しきゐ)(ふ)む、膝(ひざ)は戦(ふる)へて定(さだ)めなき、浮世(うきよ)と思へば形(あぢき)なく、悲(かな)しく、つらく、恨(うらめ)しき、郎(をとこ)の枕(まくら)に近(ちか)づけは、信乃(しの)は來(く)る人(ひと)ありと見て、刀(かたな)を引(ひき)よせ、岸破(がば)と起(おき)、誰(たそ)や、と問(とへ)ば音(おと)もせず。原来(さては)癖者(くせもの)ござんなれ。わが寐息(ねいき)を窺(うかゞ)ふて、刺(さし)も殺(ころ)さん為(ため)に歟(か)」と疑(うたが)へばいよゝ由断(ゆだん)せず、行燈(あんどん)の火光(ひぐち)さし向(む)けて、熟視(つら/\み)れば濱路(はまぢ)なり。端(はし)なくは得(え)(すゝ)まで、〓(かや)の後方(あとべ)に伏沈(ふししづ)み、声(こゑ)は立(たて)ねど哽咽(むせかへ)る、涙(なみだ)に外(よそ)をしのぶ搨(すり)、紊(みだ)れ苦(くる)しと喞(かこつ)めり。強敵(ごうてき)には懽(おそ)れざる、壮客(ますらを)ながらうち騒(さは)ぐ、胸(むね)を鎮(しづ)めて〓(かや)を出(いで)、釣緒(つりを)を觧(とき)つゝ臥簟(ふしど)を片(かた)よせ、「濱路(はまぢ)は何等(なんら)の所要(しよえう)ありて、更闌(こうたけ)たるに臥(ふし)もせで、こゝへは迷(まよ)ひ來(き)給ひし、瓜田(くわでん)には沓(くつ)を容(いれ)ず、李下(りか)に冠(かんむり)を正(たゞ)さずといふ、諺(ことわざ)あるをしらずや」と咎(とがむ)れは恨(うらめ)しけに、涙(なみだ)を拂(はら)ふて頭(かうべ)を挙(あげ)、「何(なに)しに來(き)つる、と外々(よそ/\)しく、いはるゝまでに形(あぢき)なき、妹〓(いもせ)は名(な)のみ糾纏(よりいと)の、化結(あだむすび)なる中(なか)なれば、しか宣(のたま)ふも無理(むり)ならねど、一旦(いつたん)(おや)の口(くち)づから、許(ゆる)し給ひし夫婦(ふうふ)にあらずや。日来(ひごろ)はとまれかくもあれ、今宵(こよひ)(かぎ)りの別(わか)れぞ、と告(つげ)しらせ給ふとも、おん身(み)の恥(はぢ)にはなるまじきに、出(いで)てゆくまでしらず皃(がほ)に、只(たゞ)一卜言(こと)の捨言葉(すてことは)、かけ給はぬは情(なさけ)なし。心(こゝろ)つよし」と怨(ゑん)すれば、信乃(しの)は思はず歎息(たんそく)し、「人(ひと)木石(ぼくせき)にあらざれば、有繋(さすが)に情(ぜう)をしりつゝも、嫌忌(けんき)の中(うち)に身(み)を措(おく)(ゆゑ)に、口(くち)を開(ひら)きて告(つぐ)るによしなし。おん身(み)が誠(まこと)はわれしれり。わが胸中(きやうちう)をはおん身(み)しるらん。許我(こが)は僅(はつか)に十六里(り)、三四日(みかよか)には往還(ゆきゝ)すなるに、かへり來(く)る日(ひ)を俟(まち)給へ」と賺(すか)せは濱路(はまぢ)は目(め)を拭(ぬぐ)ひ、「左(さ)のたまふは偽(いつは)りなり。一トたびこゝを去(さ)り給はゞ、いかでかかへり來(き)給ふべき。籠鳥(かごのとり)の雲井(くもゐ)を慕(した)ふは、その友(とも)をおもへばなり。丈夫(ますらを)の故郷(こけう)を去(さ)るは、その禄(ろく)をおもへばならん。さてもわが彼(かの)(ふた)がたは、愛敬(あいけう)憎悪(ぞうお)(さだ)めなく、おん身(み)を鬱悒(いぶせ)くおもひ給へば、大約(およそ)此度(こだみ)の起行(たびたち)も、出(いだ)し遣(や)るもの、還(かへ)るを楽(ねが)はず。出(いで)てゆく人(ひと)、畄(とゞま)るをよしとせず。かゝれば一トたびこゝを去(さり)て、いづれの日(ひ)にか還(かへ)り給はん。今宵(こよひ)(かぎ)りの別(わか)れにこそ。わらはが親(おや)は四(よ)はしらあり。そはおん身(み)もしり給はん。しかれとも現在(げんざい)の、二親(ふたおや)これを告(つげ)給はず。灰(ほのか)に傳(つた)へ聞(きゝ)(はべ)れは、実(まこと)の親(おや)は煉馬(ねりま)の家臣(かしん)、胞兄弟(はらから)もあり、とばかり聞(きこ)えて、その姓名(せいめい)は定(さだ)かならず。さればとて、養育(やういく)の恩義(おんぎ)を今(いま)さらに、化(あだ)には思ひ侍(はべ)らねど、産(うみ)の恩(おん)も亦(また)(たか)かり。いかで実(まこと)の親(おや)のうへ、しらまくすれど女子(をなご)の甲斐(かひ)なさ、人(ひと)に告(つぐ)べき事ならねば、身(み)ひとつに物(もの)を思ふなる、目睡(まどろま)ぬ夜(よ)の明(あけ)がたの、夢(ゆめ)にもがなと願言(ねぎごと)に、祈(いの)らぬ神(かみ)はあらずかし。斯(かう)思ひつゝ年月(としつき)を、送(おく)るはいとも苦(くる)しきに、去歳(こぞ)の四月(うつき)は思ひかけなく、豊嶋(としま)煉馬(ねりま)の両家(りやうけ)滅亡(めつぼう)、そが家隷(いへのこ)老黨(ろうだう)も、皆(みな)(のこ)りなく撃(うた)れき、と風聞(ふうぶん)(おほ)かたならざれは、さではわが親(おや)同胞(はらから)も、得(え)こそは脱(のが)れ給はじ、と思へばいとゞ哀(かな)しさの、やるかたもなき嘆(なげ)きして、乾(かはか)ぬ袖(そで)の片(かた)しぐれ、親(おや)には包(つゝ)む憂(うき)苦労(くろう)、切(せめ)ておん身(み)にうちあかさば、親(おや)同胞(はらから)の名(な)をも知(し)らん。その陣歿(うちしに)の迹(あと)をしも、弔(とは)んよすがは外(よそ)になし。世(よ)にある限(かぎ)り連(つれ)まとふ、良人(つま)には何(なに)を隱(かく)すべき。繁(しげ)き人目(ひとめ)の関(せき)の戸(と)に、鶏(とり)のそら音(ね)のあれかし、と思ふものから折(をり)もなき、折(をり)を稍(やゝ)(え)て近(ちか)つけは、はやく母御(はゝご)に跟(つけ)られて、遽(あはて)(まど)ひて退(しりぞ)きしは、去歳(こぞ)の七月(ふつき)の比(ころ)なりき。これより後(のち)はいさゝ川(かは)、堰(せか)れて中(なか)は絶(たえ)たれども、下(した)ゆく水(みづ)のかよひ路(ぢ)は、かはらぬ心(こゝろ)の誠(まこと)のみ。朝(あさ)な夕(ゆふ)なにおん身(み)のうへ、恙(つゝが)もあらず世(よ)に出(いだ)し、冨栄(とみさかえ)させ給はせ、と祷(いの)らぬ日(ひ)とてはなきものを、心(こゝろ)つよきも限(かぎ)りあり。妻(め)を棄(すて)給ふが伯母御(をばご)へ義理(ぎり)(か)。わらはが思ふ百分一(ひやくぶいち)、おん身(み)に誠(まこと)ましまさば、如此(しか)々々(/\)の故(ゆゑ)ありて、かへり來(こ)ん日(ひ)は定(さだ)めかたし、潜(しの)びて出(いで)よ、共侶(もろとも)に、と宣(のたま)はするとも夫(つま)なり妻(め)なり、誰(たれ)か密夫(みそかを)とて譏(そし)るべき。いと強面(つれな)し、と思ふ程(ほど)、離(はな)れかたきは女子(をなこ)の誠(まこと)、分(わか)つ袂(たもと)にふり棄(すて)られて、あくがれて死(しな)んより、おん身(み)(やいば)にかけてたべ。百年(もゝとせ)の後(のち)を冥土(よみぢ)にて、俟(まち)(はべ)らん」とかき口説(くど)く、いとも切(せち)なる恨(うらみ)のかず/\、泣音(なくね)(はゞか)る千行(せんこう)の、涙(なみだ)は袖(そで)に湛(たゝへ)たり。
 信乃(しの)はその声(こゑ)(よそ)にや洩(もれ)ん、心苦(こゝろくる)し、といへばえに、岩井(いはゐ)の水(みづ)をむすびかけし、縁(えに)しをこゝに釋(とく)よしなければ、愀然(しうぜん)として嗟嘆(さたん)しつ。叉(こまぬ)きたる手(て)を膝(ひざ)に措(お)き、「やよ濱路(はまぢ)、おん身(み)が恨(うらみ)はひとつとして、理(ことわ)りならずといふよしなけれど、いかにせん、わがこの度(たび)の起行(たびたち)は、伯母(をば)(ご)夫婦(ふうふ)の指揮(さしづ)によれり。実(まこと)は吾儕(わなみ)を遠離(とほさけ)て、おん身(み)に壻(むこ)を招(とら)ん為(ため)なり。素(もと)よりわれはおん身(み)の為(ため)に、夫(をとこ)にして夫(をとこ)にあらず。そはいひかたき二親(ふたおや)の、底意(そこゐ)を猜(すい)し給へるならん。然(さ)るを今(いま)さら情(ぜう)に攀(ひか)れて、おん身(み)を誘引出(さそひいだ)しなば、誰(たれ)か淫奔(いたつら)といはざるべき。畄(とゞま)りかたきを畄(とゞま)り給ふは、便是(すなはちこれ)わが為(ため)也。去(さり)かたきを出(いで)てゆくも、亦(また)(これ)おん身(み)が為(ため)ならずや。縦(たとひ)(しばら)く別(わか)るゝとも、迭(かたみ)にこゝろ変(かは)らずは、遂(つひ)に全聚(ひとつによ)るときあらん。親達(おやたち)の目覚(めさめ)ぬ間(ひま)に、とく/\臥房(ふしど)にかへり給へ。われ亦(また)(こゝろ)かけんには、おん身(み)が親(おや)をたづね考(かむが)へ、存亡(ありなし)をしる便著(たつき)もいで來(こ)ん。とく去(ゆき)給へ」と諭(さと)しても、立(たち)もあがらず頭(かうべ)を掉(ふ)り、「濡(ぬれ)ぬ前(さき)こそ露(つゆ)をも厭(いと)へ。二親(ふたおや)のいざとくて、こゝへ來(き)つるを咎(とが)め給はゞ、わらはもまうす事侍(はべ)り。只(たゞ)共侶(もろとも)に、と宜(のたま)はする、おん身(み)の応(いらへ)を聞(きゝ)(はべ)らでは、生(いき)て閾(しきゐ)の外(と)に出(いで)じ。殺(ころ)してたべ」と衝詰(つきつめ)し、かよはき女子(をなこ)の魂(たましひ)も、こゝに居(すは)りて動(うご)かねば、信乃(しの)はほと/\困(こう)じ果(はて)て、潜(しの)びながらの声(こゑ)を激(はげま)し、「さりとては亦(また)(きゝ)わきなし。命(いのち)あらば時(とき)もあらん。死(しす)るが人(ひと)の誠(まこと)かは。たま/\伯母(をば)と伯母夫(をばむこ)の、許(ゆる)しを得(え)たる出世(しゆつせ)の首途(かどいで)、妨(さまたげ)せばわが妻(つま)にあらず、過世(すくせ)の讐(あた)(か)」と窘(たしなむ)れば、濱路(はまぢ)はよゝと泣沈(なきしづ)み、「こゝろの願(ねが)ひを遂(とげ)んとすれば、おん身(み)の仇(あた)になるよしを、諭(さと)し給ふに術(すべ)
【挿絵】「菅家/なけはこそわかれを惜しめ鶏のねの聞えぬさとのあかつきもかな」「額藏」「はま路」「信乃」
なし。とにもかくにも形(あぢき)なき、わが身(み)ひとつの故(ゆゑ)ならば、思ひ絶(たえ)て畄(とゞま)り侍(はべ)らん。さらば道中(どうちう)(つゝが)なく、折(をり)から烈(はげ)しき日(ひ)まけせず、許我(こが)へ参(まゐ)りて名(な)をも揚(あげ)、家(いへ)を興(おこ)して、冬籠(ふゆこもり)、北山(きたやま)下風(おろし)(ふ)くころは、風(かぜ)の便(たより)にしらせてたべ。筑波(つくば)の山(やま)のこなたには、恙(つゝが)もなくて君(きみ)ます、と思ふのみにて侍(はべ)りてん。今(いま)より弱(よわ)る玉(たま)の緒(を)の、たえなばこれを、この世(よ)のわかれ、憑(たの)むはまだ見ぬ冥土(よみぢ)のみ。二世(にせ)の契(ちぎ)りは必(かならず)よ。御(み)こゝろ変(かは)らせ給ふな」と墓(はか)なき事を木綿襷(ゆふたすき)、掛(かけ)てぞ契(ちぎ)る願言(ねきごと)は、怜悧(さかしく)見えても恍惚子(をぼこ)なる、未通女(をとめ)こゝろの哀(あは)れなり。信乃(しの)も有繋(さすが)にうち芝折(しを)れ、慰(なぐさ)めかねて点頭(うなつく)のみ。又(また)いふよしもなかりけり。
 折(をり)から告(つぐ)る八声(やこゑ)の鶏(とり)に、信乃(しの)は心(こゝろ)をおくの間(ま)なる、「二親(ふたおや)めざまし給はなん。とく/\」といそがし立(たつ)れば濱路(はまぢ)はやうやく立(たち)あがり、「天(よ)も明(あけ)ば狐(きつ)に啖(はめ)なん腐鶏(くだかけ)の未明(まだき)に鳴(なき)て〓(せな)を遣(やり)つゝそれは恋(こひ)せし草(くさ)まくら、是(これ)は旅(たび)ゆく妹〓(いもせ)のわかれ、鶏(とり)も鳴(なか)ずは天(よ)も明(あけ)じ。暁(あけ)ずは人(ひと)の目(め)も覚(さめ)じ。恨(うらめ)しの鶏(とり)の音(ね)や。よに逢坂(あふさか)のあふ宵(よ)はあらで、ゆるさぬ関(せき)はわがうへに、在明(ありあけ)の月(つき)ぞ果敢(はか)なき」と口実(くちすさみ)つゝ出(いで)んとすれば、外面(とのかた)に咳(しはぶき)して、障子(せうじ)をほと/\とうち敲(たゝ)き、「鶏(とり)が謡(うた)ふて候に、いまだ覚(さめ)給はずや」と呼起(よびおこ)す声(こゑ)は額藏(がくざう)なり。信乃(しの)は呼(よば)れて遽(いそがは)しく、応(いらへ)をすれば額藏(がくざう)は、庖〓(くりや)のかたに退(しりぞ)きけり。疾(とく)この隙(ひま)に、と出(いだ)し遣(やら)るゝ、濱路(はまぢ)は瞼(まぶた)泣腫(なきはら)し、闇(くら)きかたより見かへれど、涙(なみだ)に霞(かす)む挾山形(さやまがた)、紙張(こばり)の壁(かべ)に身(み)をよせて、おのが臥房(ふしど)に泣(なき)にゆく。現(げに)(かな)しきは死別(しにわかれ)より、生別(いきわかれ)にますものなし。
 吁(あゝ)(まれ)なるかも、この未通女(をとめ)。いまだ鴛鴦(ゑんおふ)の衾(ふすま)を累(かさ)ねず、連理(れんり)の枕(まくら)を並(なら)へずして、その情(ぜう)百年(もゝとせ)の夫婦(ふうふ)に勝(まし)たり。尓(しか)るに信乃(しの)は情(ぜう)に引(ひか)れて、その心(こゝろ)を動(うごか)さず、よくその情(ぜう)に従(したが)ふて、男女(なんによ)(べつ)ある趣(おもむき)を得(え)たり。夫(それ)色界(しきかい)の迷津(めいしん)は、賢(けん)不肖(ふせう)無差別(むしやべつ)也。江湖(がうこ)許夛(きよた)の少年(せうねん)(はい)、一トたびこの岸(きし)に臨(のぞみ)て、溺(おぼれ)ざることあるもの少(すくな)し。然(さ)るを今(いま)この義夫(ぎふ)節婦(せつふ)あり。濱路(はまぢ)が恋慕(れんぼ)は、楽(たのし)みて淫(いん)せんとにあらず。信乃(しの)が嗟嘆(さたん)は、悲(かなしみ)て傷(やぶ)らず。濱路(はまぢ)が情(ぜう)はなほ得(う)べし、信乃(しの)が如(ごと)きはいよ/\稀(まれ)也。
 間話休題(あだしことはさておきつ)、この暁天(あかつき)、額藏(がくざう)は、いちはやく起出(おきいで)て、火(ひ)を打(たき)、水(みづ)を汲(くみ)、炊(かし)き了(をは)りて、信乃(しの)に飯(いひ)を勸(すゝ)め、己(おのれ)もたうべて共侶(もろとも)に、行装(たびよそほひ)する程(ほど)に、奴婢(ぬひ)(ら)も大(おほ)かたは起(おき)たり。かくて信乃(しの)額藏(がくざう)は、支度(したく)(かた)の如(ごと)く整(とゝのへ)て、あるじ夫婦(ふうふ)が覚(さむ)るをまつに、明六(あけむつ)の鐘(かね)は聞(きこ)ゆれども、夫婦(ふうふ)は宿酒(しゆくしゆ)(さめ)ずやありけん、いまだ臥房(ふしど)を出(いで)ざりけり。信乃(しの)はこの朝涼(あさすゞ)にと、心(こゝろ)いそぎのせらるれど、一言(いちごん)半句(はんく)も辞(ぢ)せずして、出(いで)てゆかんはさすがにて、そが臥房(ふしど)に立(たち)よりつ、「おん目(め)を覚(さま)し給へりや。只今(たゞいま)發足(ほつそく)(つかまつ)れば、おん暇乞(いとまこひ)をまうす也。信乃(しの)にて候。覚(さめ)給へりや」と声高(こゑたか)やかに呼覚(よびさま)せば、蟇(ひき)六は夢(ゆめ)ごゝろに、「ゆきね/\」と応(いらへ)にけり。信乃(しの)は再(ふたゝ)び声(こゑ)をふり立(たて)て、「伯母(をは)(ご)はいまだ覚(さめ)給はずや。信乃(しの)が發足(ほつそく)の暇乞(いとまこひ)に、まゐり候は」と呼立(よびたつ)れば、亀篠(かめさゝ)寝惚(ねぼれ)し声(こは)ざまにて、「ゆきね/\」と応(いらへ)けり。信乃(しの)は応(いらへ)を聞果(きゝはて)て、外面(とのかた)に退(しりぞ)くに、濱路(はまぢ)は有繋(さすが)に泣顔(なきかほ)を、人(ひと)に見られんことのをしくて、立(たち)も得(え)(いで)ず、細(ほそ)やかに、障子(せうじ)を開(あけ)て目送(みおく)りつ、辞(ことば)は絶(たえ)て酸鼻(なみだく)む、妻(つま)に別(わか)るゝ旅衣(たびころも)、今(いま)たち初(そむ)る信乃(しの)額藏(がくざう)を、送(おく)る奴婢(ぬひ)(ら)は惚忙(あはたゝ)しく、背介(せすけ)もろ共(とも)(かど)に出(いで)て、衆皆(みな/\)名残(なごり)を惜(をしみ)あへず、祝(しく)して霎時(しばし)散動(どよめ)き鳬(けり)
 さる程(ほど)に蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)は、昨(きのふ)夜深(よぶか)に熟醉(いたくえひ)て、寝(ねふり)に就(つき)し事なれば、朝日(あさひ)(たか)く昇(のぼ)る比(ころ)、やうやくに起出(おきいで)つ、信乃(しの)は、と問(と)へば、「云云(しか/\)にて、明六(あけむつ)の鐘(かね)もろ共(とも)に、啓行(かしまたち)し給ひき」と奴婢(ぬひ)(ら)が告(つぐ)るに呆果(あきれはて)て、夫婦(ふうふ)(め)と目(め)をあはしつゝ、ぬかりにけり、と思へども、愧(はづ)る色(いろ)なく舌(した)うち鳴(なら)し、「さあらんには汝等(なんぢら)は、などてわれには告(つげ)ざりし。信乃(しの)も亦(また)不敬(ふけい)也。苟且(かりそめ)ながら起行(たびだち)に、告別(いともこひ)せぬことやはある」と高声(たかごゑ)(あは)して敦圉(いきまけ)ば、「否(いな)彼人(かのひと)は臥房(ふしど)に立(たち)より、云云(しか/\)と告(つげ)給ひしに、ゆきね/\、と応(いらへ)給ひき。原來(さては)寐言(ねごと)でをはせし歟(か)」と一人(ひとり)がいへば堪(たへ)かねて、衆皆(みな/\)(どつ)と笑(わら)ふになん、夫婦(ふうふ)はいよゝ腹立(はらたて)て、「此奴(こやつ)(ら)(なに)がおもしろき。とにかく信乃(しの)が事としいへば、取持(とりもち)(がほ)こそこゝろ得(え)ね。そこら三遍(さんへん)掃出(はきいだ)し、門(かど)へ塩花(しほはな)(ふ)らずや」と囓著(かみつく)(ごと)き坂東(ばんどう)(なまり)、哮立(たけりたつ)れば青嵐(あをあらし)、鳴子(なるこ)の音(おと)に群雀(むらすゞめ)、驚(おどろ)くが如(ごと)、僉(みな)(さけ)たり。そが中(なか)に濱路(はまぢ)のみ、この日(ひ)も病(やみ)て臥房(ふしど)を出(いで)ず、心持(こゝち)(し)ぬべくおぼゆるとて、箸(はし)とることもなかりしかば、二親(ふたおや)はしかすがに、養老(かゝり)女児(むすめ)を死(しな)しては、まざ/\見ゆる宝(たから)の山(やま)、出世(しゆつせ)の梯(かけはし)中絶(なかたえ)ん。「鍼(はり)よ薬餌(くすり)」と諜々(てう/\)しく、われから女児(むすめ)に使(つかは)るゝ、愛(あい)にはあらで勢(いきほひ)と、利(り)に就(つく)までのゑせ祈祷(きとう)、親(おや)の慾(よく)こそ無慙(むざん)なれ。
 時(とき)に文明(ぶんめい)十年(ねん)、六月(みなつき)十八日の朝(あさ)まだきに、犬塚(いぬつか)信乃(しの)は、年来(としころ)の、志願(しぐわん)やうやく時(とき)(いた)り、額藏(がくざう)を將(い)て下総(しもふさ)なる、許我(こが)の御所(ごしよ)へ赴(おもむか)んとす。この年(とし)、信乃(しの)は十九歳(さい)、額藏(がくざう)は廿歳(はたち)なるべし。抑(そも/\)この両雄(りやうゆう)は、既(すで)に同盟(どうめい)合體(がつたい)して、義(ぎ)を結(むす)び誓(ちかひ)を立(たて)、艱難(かんなん)(とも)に相救(あひすく)ひ、苦樂(くらく)を等(ひとし)くせんとのみ、こゝろは信義(しんぎ)の郷(さと)にあり、身(み)は亦(また)汚吏(おり)の家(いへ)に在(あ)れば、人目(ひとめ)ばかりは睦(むつま)しからず。額藏(がくざう)は信乃(しの)を譏(そし)り、信乃(しの)は額藏(がくざう)を、屑(ものゝかす)ともせず。この故(ゆゑ)に、奸智(かんち)に長(たけ)たる蟇(ひき)六も、狐疑(こぎ)(おほ)き亀篠(かめさゝ)も、すべて額藏(がくざう)を疑(うたが)はず、密議(みつぎ)の席(せき)にも侍(はべ)らせて、此度(こだみ)信乃(しの)が許我(こが)へゆく、従者(ともびと)にとて遣(つかは)せしも、なほ謀(はか)る事あればなり。かゝれば信乃(しの)は額藏(がくざう)が資(たすけ)によりて害(がい)を脱(まぬか)れ、無異(ぶゐ)に夥(あまた)の年(とし)を送(おく)れり。この事行(おこな)ひ易(やす)きに似(に)て、甚(はなはだ)(かた)かり。假染(かりそめ)の所行(わざ)だにも、心(こゝろ)にあらぬ作(つく)り事(ごと)は、色(いろ)に出(いで)、辞(ことば)に洩(もれ)て、遂(つひ)にあらはるゝものなるに、嫌忌(けんき)の中(うち)に八九年(はつくねん)、それとは人(ひと)に暁(さと)られざりけん。智術(ちじゆつ)の致(いた)す所(ところ)なれども、その信(しん)その義(ぎ)を神明(しんめい)(かんが)み、天(てん)の祐(たすく)るにあらざりせば、いかでか、けふにあふことあらん。されば額藏(がくざう)は、この年来(としころ)、竊(ひそか)に信乃(しの)が藏書(ざうしよ)を借(かり)て、經籍(けいせき)、史傳(しでん)、兵書(ひやうしよ)の類(たぐひ)を、あるときは懐(ふところ)にし、又(また)あるときは、草籠(くさかご)の底(そこ)に藏(おさ)めて、草野(のら)に出(いで)、山林(はやし)に入(い)るにも、傍(かたへ)に人(ひと)のなき折(をり)は、讀諳(よみそらん)ぜずといふことなし。
 唯(たゞ)文事(ぶんじ)のみならず、木(き)を伐(き)るときは斧(おの)をもて、大刀(たち)すぢを試(こゝろ)み、草(くさ)を刈(かる)ときは鎌(かま)をもて、長刀(なぎなた)の技(て)を試(こゝろ)み、或(ある)は案山子(かゝし)の弓(ゆみ)をもて、射藝(しやげい)を自得(じとく)し、或(ある)は牧(まき)の新駒(あらこま)にうち跨(のり)て、自然(しぜん)に騎馬(きば)を習得(ならひえ)たり。しかれども人(ひと)これをしらず、但(たゞ)その膂力(ちから)ある事は、隱(かく)すべくもあらざれは、蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)(ら)は、僅(はつか)にこれをのみしれり。よりて此度(こだみ)中途(ちうと)にて、よく信乃(しの)を刺(さゝ)ん事、額藏(がくざう)ならでは叶(かな)はじとて、その腹心(ふくしん)を告(つげ)たるなるべし。しかれども額藏(がくざう)は、いまだこの條(くだり)の主命(しゆうめい)を、信乃(しの)に密語(さゝやく)に遑(いとま)なかりき。
 かくて両雄(りやうゆう)は先(さき)に立(たち)、後(あと)になりて、里(さと)を出(いで)(はな)れんとしつるとき、額藏(がくざう)がいふやう、「わが母(はゝ)の墳塋(はかところ)は、このほとりなる畔(くろ)にあり、日(ひ)を累(かさぬ)る旅(たび)ならずとも、参(まゐ)りて告(つげ)んと思ふ也。立(たち)より給はずや」と誘引(いざな)へば、信乃(しの)(きゝ)て、「寔(まこと)に然(さ)なり。某(それがし)は、きのふ菩提院(ぼだいいん)へ参詣(さんけい)し、親(おや)の墓(はか)には別(わかれ)を告(つげ)しが、とにかくに事(こと)の多(おほ)くて、おん身(み)が母御(はゝご)の墓(はか)を漏(もら)せり。既(すで)に義(ぎ)を結(むす)びては、おん身(み)が親(おや)はわが親(おや)也。いかでかは詣(まうで)ざるべき。さは」とて両人(りやうにん)連拉(つれたち)て、黎明(いなのめ)(がらす)のわたる比(ころ)、田(た)の畔(くろ)を右(みぎ)のかた、三町(ちやう)あまり進(すゝ)み入(い)れば、注連(しりくめなは)引繞(ひきめぐら)したる、一株(ひとかぶ)の榎樹(えのき)あり。このほとり則(すなはち)額藏(がくざう)が母(はゝ)の墓(はか)也。當時(そのかみ)(たび)にて身(み)まかりしに、蟇(ひき)六これを哀(あはれ)とせず、棄(すつ)るが如(ごと)くこの田(た)の畔(くろ)へ、〓(うづめ)させたりければ墓石(ぼせき)なンどは建(たつ)べくもあらず。かくて額藏(がくざう)は、年(とし)(とを)(ばかり)の時(とき)よりして、竊(ひそか)にこれを歎(なげ)く物(もの)から、墓碑(ぼひ)を建(たつ)るの資料(たすけ)なければ、竟(つひ)に一計(ひとつのはかりごと)を設(まうけ)つゝ、形(かた)の如(ごと)く用意(ようゐ)して、有一夕(あるよ)(ひそか)に、件(くだん)の榎(えのき)へ攀登(よぢのぼ)り、一條(ひとすぢ)の注連(しりくめなは)を、その梢(こすゑ)にぞ掛(かけ)たりける。次(つぐ)の日(ひ)、その田(た)を耕(たがや)すもの、これを見て驚(おどろ)き怪(あやし)み、彼(あち)に告(つげ)、此(こち)に報(つぐ)るに、驚嘆(きやうたん)せざるものもなく、「こは全(まつた)く、この樹(き)に霊(りやう)のある故(ゆゑ)(か)。さらずは樹下(このもと)なる土饅頭(どまんぢう)、亡者(もうじや)が祠堂(しだう)を乞(こ)へるならん。かゝる竒特(きとく)あるを見て、うち捨(すて)おかば祟(たゝり)あるべし。とせよかくせよ」と罵(のゝしり)つゝ、田主(たぬし)はさらなり、近隣(きんりん)の荘客(ひやくせう)(ばら)、各(おの/\)(ちと)の銭(ぜに)を出(いだ)して、彼(かの)土饅頭(どまんぢう)の頂(いたゞき)に、細小(さゝやか)なる禿倉(ほこら)を建立(こんりう)し、又(また)毎年(としごと)の春秋(はるあき)には、注連(しりくめなは)を新(あらた)にして、その榎(えのき)さへ伐(き)ることなし。そを彼此(をちこち)に傳聞(つたへきゝ)て、詣(まうづ)る人(ひと)(おほ)かれば、誰(たれ)いふとはなく、「この神(かみ)は、婦人(ふじん)の諸病(しよびやう)を〓(いや)し給ふ」と正(まさ)しげに語(かた)りつぎて、祷(いの)るに果(はた)して利益(りやく)あり。よりてこの墳(つか)を、行婦塚(たびめつか)と唱(となへ)たり。さるからに、残忍(ざんにん)無慙(むざん)の蟇(ひき)六なれ共、
【挿絵】「童子(どうじ)の孝感(かうかん)旅魂(りよこん)〓食(びやうしよく)す」
衆人(もろひと)渇仰(がつこう)の応報(おうほう)におそれ惑(まど)ひつ、祟(たゝり)あらせじとや思ひけん。はじめ禿倉(ほこら)を建(たつ)るとき、銭(ぜに)を出(いだ)したる荘客(ひやくせう)(ばら)に、米(こめ)一俵(いつひやう)(つゝ)とらせけり。寔(まこと)に額藏(がくざう)が計(はか)る所(ところ)、一点(つゆばかり)も違(たが)はずして、母(はゝ)の墳塋(はかところ)を喪(うしなは)ざるのみならず、遂(つひ)に田中(たなか)に〓食(びやうしよく)す。亡魂(ぼうこん)の歡(よろこ)びさへに、推量(おしはか)られて感(かん)ふかゝり。是(これ)はこれ三尺(さんざく)の、童子(どうじ)の智慧(ちゑ)に成(な)るものから、亦(また)孝感(こうかん)のおのづから、しからしむる所(ところ)なるべし。抑(そも/\)この一(いつ)竒異(きゐ)は、信乃(しの)が八房(やつふさ)の梅(うめ)と、同日(どうじつ)の談(ものかたり)にして、事(こと)はその前年(ぜんねん)にあり。さるを今(いま)、はじめてこゝに説出(ときいだ)せるは、是(これ)より後(のち)の物語(ものかたり)、夛(おほ)く額藏(がくざう)が事に及(およ)べばなり。
 題了間話再説(すぎにしことはときをはりつ)。信乃(しの)は行婦(たびめ)の墳(つか)の事、豫(かね)て聞(き)けども今(いま)さらに、母(はゝ)の薄命(はくめい)、その子(こ)の孝感(こうかん)、われは不及(しかず)と思ふになん、額藏(がくざう)を先(さき)に立(たて)て、共侶(もろとも)に額(ぬか)をつき、祈念(きねん)の中(うち)に懐舊(くわいきう)の、涙(なみだ)を禁(とゞ)めかねたりける。かくてあるべきにあらざれば、両人(りやうにん)齊一(ひとしく)(み)を起(おこ)し、思ひ絶(たえ)てぞたつ鳥(とり)の、巣鴨(すかも)を左邊(ゆんで)に見かへれど、跡(あと)は濁(にご)さぬ石神井(しやくしゐ)の、流(ながれ)に添(そ)ふて西个原(にしがはら)、田畑(たはた)を過(すぐ)る夏(なつ)の雨(あめ)に、追(おは)れて簑輪(みのわ)の笠(かさ)やどり、石濱村(いしはまむら)に舟(ふね)まちて、稍(やゝ)うち渡(わた)る墨田河(すみたかは)、その樹下(このもと)の涼(すゞ)しさに、霎時(しばし)とてこそ柳嶋(やなぎしま)、こゝ下総(しもふさ)と人(ひと)はいへど、なほ遥(はるか)なる許我(こが)の里(さと)、今宵(こよひ)の宿(やど)りへいそぎけり。
 さる程(ほど)に信乃(しの)額藏(がくざう)は、この日(ひ)、十三四里(より)の路(みち)を走(はし)りて、栗橋(くりはし)の驛(うまやぢ)に宿(やど)とりつ。この処(ところ)より許我(こが)の里(さと)へ、その途(みち)四里(より)には足(たら)ざりけり。もし荘官(せうくわん)が人(ひと)をして、跟(つけ)さすることもや、と豫(かね)て思へば途(みち)すがら、聊(いさゝか)も雜談(ざうだん)せず。しかれどもこゝに來(く)るまで、疑(うたがは)しきこともなく、幸(さいはひ)にして相宿(あひやど)の、旅客(たびゝと)もなかりしかば、両人(りやうにん)(こゝろ)を安(やす)くして、絶(たえ)て久(ひさ)しき閑談(かんだん)に、共(とも)に長途(ちやうど)の疲労(つかれ)をおぼえず。當下(そのとき)信乃(しの)は、額藏(がくざう)に、神宮河(かにはかは)の事(こと)の趣(おもむき)、蟇(ひき)六が為体(ていたらく)、土(ど)太郎が事さへに、おちもなく告(つげ)しかば、額藏(がくざう)(きゝ)て、小頸(こくび)を傾(かたむ)け、「そは入水(じゆすい)に假托(かこつけ)て、和君(わきみ)を亡(うしなは)んとて謀(はか)れるならん、危(あやう)かりし」と驚嘆(きやうたん)す。信乃(しの)(また)(しばら)く尋思(しあん)しつ、「害心(がいしん)かくのごとくなるに、又(また)何等(なにら)の故(ゆゑ)ありて、彼(かの)(ひと)年來(としころ)懸念(けねん)せし、宝刀(みたち)の事を思ひ絶(たえ)て、われをば許我(こが)へ遣(や)るやらん。こは只(たゞ)濱路(はまぢ)を宮六(きうろく)に、遣嫁(よめら)せん為(ため)のみ歟(か)。はじめに許我(こが)へ参(まゐ)れといひしは、わが心(こゝろ)を放(ゆる)させて、神宮河(かにはかは)にて害(がい)せん為(ため)(か)。その謀(はかりこと)(な)らざる故(ゆゑ)に、われは虎穴(こけつ)を脱(まぬか)れたり」といへば額藏(がくざう)(かうべ)をうち掉(ふ)り、「否(いな)それのみにあらずかし。神宮河(かにはかは)の漁猟(すなどり)も、勸(すゝ)めて許我(こが)へ起行(たびたゝ)せしも、孰(いづれ)まれ和君(わきみ)を殺(ころ)して、その宝刀(みたち)を奪(うば)ふべく、所領(しよれう)の田園(たはた)を還(かへ)さゞるべく、簸上(ひかみ)を壻(むこ)にせん為(ため)也。そをいかにしてしるやといふに、昨夕(よんべ)甲夜(よひ)の留守(るす)の間(ま)に、伯母(をば)(きみ)が潜(しのび)やかに、某(それがし)を閑室(かんしつ)に招(まね)きよせ、額藏(がくざう)よ。此度(こだみ)(なんぢ)を従者(ずさ)にして、信乃(しの)と共(とも)に遣(つかは)すよしは、一大事(いちだいじ)を委(ゆだね)ん為(ため)也。いといひかたき事ながら、信乃(しの)は吾儕(わなみ)の〓(おひ)にしあれど、おもへば過世(すくせ)の讐敵(かたき)にこそ。渠(かれ)は親(おや)の横死(わうし)を恨(うら)みて、わが良人(つま)を仇(あた)とし〓(ねら)ひ、折(をり)よくは寝首(ねくび)を掻(かゝ)ん、とこゝろに刃(やいば)を磨(とぐ)こと久(ひさ)し。そをしれるものは吾儕(わなみ)のみ。然(され)ばとて、見定(みさだ)めたる事なくて、血(ち)で血(ち)を洗(あら)ふは一家(いつけ)の恥辱(ちゞよく)、と思ひかへして楯(たて)になり、けふまで無異(ぶい)に過(すぐ)せしが、渠(かれ)(いま)許我(こが)へ赴(おもむ)きて、事(こと)(な)らずはかへり來(こ)ん。然(さ)らばいよ/\わが良人(つま)を、怨(うらみ)て害心(がいしん)日來(ひごろ)にますべし。〓(おひ)を不便(ふびん)にせざるにあらねど、所天(をつと)には換(かえ)かたし。よりて汝(なんぢ)を憑(たの)む也。途(みち)にして由断(ゆだん)を窺(うかゞ)ひ、只(たゞ)一卜刀(かたな)に刺殺(さしころ)せよ。死骸(しがい)をば手(て)はやく埋(うづ)めて、渠(かれ)が両刀(ふたこし)を奪(うば)ひとり、竊(ひそか)にもて來(き)て吾儕(わなみ)に見せよ。些(ちと)の路費(ろよう)もあるべければ、それは汝(なんぢ)が得(とく)にせよ。これらの密事(みつじ)を果(はた)してよくせば、あるじの翁(おきな)に勸(すゝ)めまうして、汝(なんぢ)を壻(むこ)にすべう思ふに、等閑(なほざり)になこゝろ得(え)そ。汝(なんぢ)は幼稚(いとけなき)ときより、使(つか)ひ熟(なれ)たる小廝(こもの)なれば、いとも不便(ふびん)に思ふかし。吾儕(わなみ)いかなる悪報(あくほう)にて、人(ひと)の伯母(をば)にはなりたるぞや。〓(おひ)を殺(ころ)すは所天(をつと)の為(ため)也。汝(なんぢ)は主(しゆう)の為(ため)なれば、忠義(ちうぎ)の二字(にぢ)を忘(わす)るゝな。はじめは背介(せすけ)を遣(つかは)さん、といひつるは中(なか)わろき、信乃(しの)に疑(うたがは)せじとの為(ため)也。汝(なんぢ)が外(ほか)にこの一大事(いちだいじ)を、任(まか)するものはあらずかし。よくせよかし。と口説(くどき)つ泣(なき)つ、甘言(あまきことば)に利(り)を示(しめ)し、こしらへられて、浅(あさ)まし、と思へど氣色(けしき)にあらはさず、うけ給はり候ひぬ。犬塚(いぬつか)殿(との)には遺恨(いこん)あり。年来(としごろ)の鬱憤(うつふん)を、散(はら)さんことはこの時(とき)なり、事(こと)(な)らば娘(ぢやう)さまを、賜(たまはら)んとまで宣(のたま)はする、仰(おふせ)に偽(いつは)りなきならば、命(いのち)も絶(たえ)て惜(をし)からず。遖(あはれ)為課(しおほ)せ候はん。と真(まこと)しやかに諾(うけ)ひしかば、伯母(をば)御前(ごぜ)(よろこ)び大(おほ)かたならず。しからんには、汝(なんぢ)が折々(をり/\)(こし)に帶(おぶ)る、刃(やいば)は切味(きれあぢ)(こゝろ)もとなし。此(これ)は是(これ)、わが父(ちゝ)匠作(せうさく)大人(ぬし)、護身刀(まもりかたな)にせよかしとて、わらはに賜(たび)たる短刀(たんたう)なり。桐一文字(きりいちもんじ)と唱(とな)へたる、鋭刀(きれもの)なればその徳(とく)あらん。これを汝(なんぢ)に貸(かす)べきぞ。信乃(しの)にはよしを告(つげ)ざれは、認(みし)りて疑(うたが)ふことはあらじ。人(ひと)の來(こ)ぬ間(ま)に、これもて立(たち)ね、といひかけて遽(いそがは)しく、刀(かたな)の嚢(ふくろ)の紐(ひも)ときて、この短刀(たんたう)を授(さづけ)られたり。主人(しゆじん)夫婦(ふうふ)の謀(はか)る所(ところ)、かくのごとくなるときは、和君(わぎみ)を出(いだ)し遣(や)るにはあらず、偏(ひとへ)に亡(うしなは)んとするにあり。この桐一文字(きりいちもんじ)は和君(わきみ)の祖父(おほぢ)、匠作(せうさく)ぬしの像見(かたみ)にこそ。これ見給へ」とさしよすれば、信乃(しの)は左右(さゆう)の手(て)に受(うけ)て、つく/\と見て額藏(がくざう)がほとりに置(おき)て嘆息(たんそく)し、「祖父(おほぢ)は忠義(ちうぎ)の武士(ぶし)とぞ聞(き)く。その女児(むすめ)にしてわが伯母(をば)は、などてかくまで腹(はら)きたなき。二親(ふたおや)のなき後(のち)は、叔伯母(をぢをば)にまして憑(たのも)しきものはなしとぞ人(ひと)はいふ。わが身(み)はこれと表裏(うらうへ)なり。仇(あた)の家(いへ)に身(み)を置(おく)とも、かくまでしうねく謀(はか)られんや。さるをけふまで恙(つゝが)なきは、皆(みな)(これ)おん身(み)の賜(たまもの)なり。わが父(ちゝ)末期(まつご)の教訓(きやうくん)に、わが姉(あね)夫婦(ふうふ)(やうやく)に、志(こゝろざし)を改(あらた)めて、実(まこと)に汝(なんぢ)を憐(あはれ)まば、汝(なんぢ)も亦(また)誠心(まこゝろ)もて、仕(つか)へて養育(やういく)の恩義(おんぎ)に報(むく)へよ。又(また)その害心(がいしん)(やま)ずして、遂(つひ)に禦(ふせ)ぐに術(すべ)なくは、宝刀(みたち)を抱(いだ)きてはやく去(さ)れ。五年(ねん)七年(ねん)(やしな)はるゝとも、汝(なんぢ)は大塚(おほつか)(うぢ)の嫡孫(ちやくそん)たり。蟇(ひき)六が職禄(しよくろく)は、汝(なんぢ)が祖父(おほぢ)の賜(たまもの)也。その禄(ろく)によりて、人(ひと)となるとも、伯母夫(をばむこ)の恩(おん)にはあらず。縦(たとひ)(むく)はで去(さ)ればとて、それを不義(ふぎ)とはいふべからず。これらの理義(りぎ)を思ふべし、といはれし事の今(いま)に符合(ふがう)す。先見(せんけん)かくまで灼然(いやちこ)なる、大人(うし)は凡夫(ぼんぶ)にあらざりけり。九年(ねん)の同居(どうきよ)に衣食(いしよく)(ともし)く、所持(しよぢ)の田園(でんはた)を横領(わうれう)せられて、わが身(み)に帶(おび)たる物(もの)のなければ、彼(かの)(ひと)の禄(ろく)を食(はめ)るにあらず。今(いま)にしてこれらの事は、身(み)退(しりぞ)くに潔(いさぎよ)し。且(かつ)この宝刀(みたち)、幸(さいはひ)に、護(もり)て失(うしな)ふに至(いた)らねば、何(なに)をか歎(なげ)き、誰(たれ)をか恨(うらま)ん。天運(てんうん)こゝに循環(じゆんくわん)して、青雲(せいうん)の志(こゝろざし)を、得(え)つべき時節(じせつ)到来(とうらい)せり。冀(こひねがはく)は犬川(いぬかは)ぬし。共(とも)に許我(こが)へ参(まゐ)り給へ。おん身(み)とわれと力(ちから)を勠(あは)して、彼(かの)(きみ)を佐(たすけ)なば、両(りやう)管領(くわんれう)も計(はか)るに足(た)らず。豈(あに)しからずや」と額(ひたひ)を合(あは)して、しのび/\に説勸(ときすゝむ)れば、額藏(がくざう)(きゝ)て沈吟(うちあん)し、「和君(わきみ)のうへは勿論(もちろん)也。某(それがし)はおなじからず。曩(さき)にわが母(はゝ)の終焉(しうゑん)に、荘官(せうくわん)の残忍(ざんにん)なりし、尤(もつとも)(うら)むべしといへ共、當時(そのかみ)(それがし)黄童(わらはべ)なれば、勢(いきほ)ひいかにもせんすべなく、軈(やが)てその家(いへ)の小廝(こもの)にせられて、遂(つひ)に今日(こんにち)に到(いた)れり。しかれども一碗(いちわん)の糧(かて)、一領(いちれう)の衣(きぬ)の外(ほか)に、定(さだ)めたる給銀(きうぎん)なければ、その恩義(おんぎ)は薄(うす)かるべし。よしや恩義(おんぎ)は高(たか)からずとも、その家(いへ)の糧(かて)をもて、人(ひと)となりては主従(しゆう/\)なり。非義(ひぎ)非道(ひどう)には與(くみ)せねども、主(しゆう)の密事(みつじ)を承引(うけひき)ながら、洩(もら)して和君(わきみ)と共(とも)に走(はし)らは、われも亦(また)不義(ふぎ)の奴(やつこ)なり。かくては大丈夫(だいぢやうぶ)とすべからず。和君(わきみ)は許我(こが)へ赴(おもむ)き給へ。某(それがし)はこの暁(あかつき)に、袂(たもと)を分(わか)ちて大塚(おほつか)へかへらん。如此(しか)するときは、両件(ふたくだり)の利(り)あり。某(それがし)非道(ひどう)の主人(しゆじん)に負(そむ)かず、又(また)濱路(はまぢ)とのゝ心操(こゝろばへ)、昨夕(よんべ)思はず竊聞(たちきゝ)して、感(かん)しおもふ所(ところ)也。怜悧(さかし)といふとも婦人(ふじん)の情(ぜう)、逼(せま)らば不慮(ふりよ)の愆(あやまち)あらん。某(それがし)(ひそか)に、これを資(たすけ)て、為(ため)に謀(はか)らん。如此(しか)するときは和君(わきみ)がうへに、節婦(せつふ)を棄(すつ)るの悪評(あくひやう)なからん。斯(かう)(はか)りに謨(はかり)て後(のち)、某(それがし)明々地(あからさま)に身(み)の暇(いとま)を賜(たまは)り、主家(しゆうか)を辞(ぢ)して許我(こが)に参(まゐ)らは、今(いま)共侶(もろとも)に走(はし)るに勝(まさ)れり。亦(また)(よか)らずや」と密語(さゝやけ)ば、信乃(しの)は頻(しきり)に感佩(かんはい)し、「説得(ときえ)て理(り)あり。然(さり)ながら、おん身(み)はわれを撃(うた)ずして、還(かへ)らば必(かならず)(わざはひ)あらん」と〓(あやぶ)めば、莞尓(につこ)と笑(ゑ)み、「これらの事は心(こゝろ)やすかれ。某(それがし)は、手足(てあし)に少許(ちとばかり)の傷(きずつ)けて、浅痍(あさて)を負(おへ)る如(ごと)くに見せ、立(たち)かへりていふべきは、犬塚(いぬつか)殿(との)を撃(うた)んとせしに、敢(あへ)なくも殺立(きりたて)られて、撃得(うちえ)ざるのみならず、斯(かう)(て)を負(お)ひぬ、と欺(あざむ)かば、あるじ夫婦(ふうふ)もすべなからん。只(たゞ)(それがし)に任(まか)せ給へ」と他事(たじ)もなく説示(ときしめ)せば、信乃(しの)はます/\感謝(かんしや)に堪(たへ)ず、「よしや偽瘡(にせきず)なればとて、おん身(み)に傷(きずつけ)させん事、心(こゝろ)くるしき限(かぎ)りなれども、推辞(いなま)ば婦人(ふじん)の仁(じん)とせられん。教(をしえ)に悖(もとり)候はじ」といふに額藏(がくざう)(よろこ)びつゝ、密談(みつだん)(すで)に果(はて)しかば、おの/\衣(きぬ)を引被(ひきかつ)ぎて、霎時(しばし)(ねふり)に就(つき)にけり。


# 『南総里見八犬伝』第二十五回 2004-10-15
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