『南總里見八犬傳』第二十三回


【外題】 里見八犬傳 第三輯 巻二
【本文】
南總里見八犬傳(なんさうさとみはつけんでん)第三輯(だいさんしふ)巻之二
東都 曲亭主人編次
 第(だい)廿三回(くわい) 〔犬塚(いぬつか)(ぎ)遺託(ゐたく▼サイゴノタノミ)を諾(うけひ)く 網乾(あぼし)(そゞろに)歌曲(かきよく)を賣(う)る〕

 犬塚(いぬつか)信乃(しの)戌孝(もりたか)は、伯母夫(をばむこ)大塚(おほつか)(ひき)六が家(いへ)に移居(うつりすまひ)しより、嫌忌(けんき)の中(うち)に日(ひ)を弥(わた)り、年(とし)を送(おく)れば、里人(さとひと)などには、親(した)しくも物(もの)いはず。只(たゞ)(かの)百姓(ひやくせう)糠助(ぬかすけ)のみ、舊(ふるき)馴染(なじみ)、と伯母(をば)も許(ゆる)して、信乃(しの)が故(ゆゑ)に疑(うたが)はず。その性(さが)愚直(ぐちよく)なればなり。現(げに)この老人(おきな)は、信乃(しの)が為(ため)に、言葉(ことば)(かたき)になるものならねど、愚(おろか)なる隨(まゝ)(いつは)らず、よろづに實意(まごゝろ)あるものなれば、信乃(しの)はその木訥(ぼくとつ)の、仁(じん)にちかきを愛(あい)しつゝ、その門邊(かどべ)を過(よぎ)る日(ひ)は、立(たち)ながら安否(あんひ)を問(と)ひ、初(はじめ)にかはらず交参(まじらひ)けり。
 かゝりし程(ほど)に、糠助(ぬかすけ)が女房(にようばう)は、去歳(こぞ)の秋(あき)(み)まかりつ。長(なが)き病著(いたつき)なりけるに、究(きはめ)て寒家(まづしきくらし)にあなれば、果(はて)は藥価(くすりのしろ)(つゞ)かず。このとき信乃(しの)は糠助(ぬかすけ)に、圓金(こばん)一両(いちりやう)を贈與(おくりあたへ)て、藥料(やくりやう)の資(たすけ)にしたり。しかれども、蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)(ら)はこれをしらず。されば信乃(しの)が今(いま)にして、これらの貯禄(たくはへ)あるよしは、父(ちゝ)番作(ばんさく)が遺(のこ)せる也。番作(ばんさく)(まづし)かりしかど、身(み)まかりし後(のち)に見れば、鎧櫃(よろひびつ)の底(そこ)に、圓金(こばん)十両(りやう)あり。「この金(かね)三ッが一ッもて、わが葬(ほうむり)の事(こと)に充(みて)よ。その他(た)は竊(ひそか)に腰(こし)に纏(つけ)て、身(み)の為(ため)(また)(とも)の為(ため)に、肝要(かんえう)の事あらば、用(もち)ひよ」と書遺(かきのこ)したり。亦(また)(これ)(のち)の後(のち)までを、慮(おもひはか)りし親(おや)の恩(おん)、戴(いたゞ)く金(かね)も湯(ゆ)と沸(わか)ん。涙(なみだ)と共(とも)に袖(そで)に藏(かく)して、亀篠(かめさゝ)(ら)にはこれを告(つげ)ず。「貯禄(たくはへ)ありや」と問(とは)れしとき、その金(かね)三両(りやう)を出(いだ)して、棺槨(くわんくわく)墓碑(ぼひ)の料(りやう)としつ。又(また)(ちゝ)の三十五日を弔(と)ひける宵(よ)に、復(また)一両(いちりやう)を伯母(をば)に逓與(わたし)て、法筵(はうえん)酒食(しゆしよく)の料(りやう)とせり。蟇(ひき)六も亀篠(かめさゝ)も、これらの金(かね)には我(が)を折(をり)て、「なほ有(あ)りや」と問(とひ)しとき、「是(これ)のみ也」と答(こたへ)しかは、さならん、と思ひつゝ、その後(のち)は問(とは)ざりけり。
 かくてこの七八年(ねん)、伯母(をば)夫婦(ふうふ)と同居(どうきよ)すなれば、彼(かの)番作(ばんさく)(た)は名(な)のみにて、わが為(ため)にはえならず。われには舊衣(ふるき)をのみ被(き)せて、不自由(ふじゆう)ならずといふ事なけれど、美味(びみ)美服(びふく)を樂(ねが)はざれは、親(おや)の遺財(いざい)を減(へ)らすことなし。しかれども彼(かの)糠助(ぬかすけ)は、わが犬(いぬ)、与四郎(よしらう)が事(こと)に就(つき)て、憂(うれひ)を倶(とも)にせし日(ひ)もありけり。その艱難(かんなん)を救(すく)はずは、我(われ)(たゞ)(かれ)に負(そむ)く也、とこゝろひとつに思(おも)ひとりて、竊(ひそか)に金(かね)を贈(おくり)りしかは、糠助(ぬかすけ)夫婦(ふうふ)は、感涙(かんるい)を禁(とゞ)めあへず、只管(ひたすら)信乃(しの)を伏拝(ふしおが)みて、その信義(しんぎ)を賞嘆(せうたん)し、薬剤(くすり)を求(もとめ)て用(もち)ひしかども、定業(じやうごう)なればにや、その妻(つま)はなくなりにき。
 しかるに今茲(ことし)七月(ふつき)の比(ころ)より、糠助(ぬかすけ)(また)時疫(ときのけ)にて、うち臥(ふ)せしより頭(まくら)(あが)らず。流行病(はやりやまひ)は傳染(うつる)を懼(おそ)れて、人(ひと)(おほ)かたはよりつかず。しかるも信乃(しの)はしのび/\に、糠助(ぬかすけ)が宿所(しゆくしよ)にいゆきて、湯液(くすり)を煎(せん)じ、食事(しよくじ)を勸(すゝ)め、又(また)わが暇(いとま)なき時(とき)は、額藏(がくざう)にこゝろ得(え)さして、竊(ひそか)にこれを遣(つかは)しつゝ、看(み)とらする日(ひ)もありけるに、今(いま)その病(やまひ)(あやう)し、と亀篠(かめさゝ)が告(つげ)しかば、信乃(しの)はとるもの取(とり)あへず、遽(いそがは)しくいゆきて見るに、邪熱(じやねつ)やうやく裏(り)に入(いり)て、とり乱(みだ)したる事はなけれど、その衰(おとろへ)は日(ひ)にましたり。
 さて枕方(まくらべ)に膝(ひざ)を進(すゝ)めて、「心地(こゝち)はいかに、糠助(ぬかすけ)阿爺(おぢ)、信乃(しの)が來(き)て候は」といふに臥(ふ)しつゝ熟視(つら/\み)て、起(おき)なほらんとするにかなはず、いと苦(くる)しげにうち咳(しはぶ)き、「犬塚(いぬつか)ぬし、よくぞ來(き)ませし。年來(としころ)(ひ)ごろ懇(ねんごろ)に、愛憐(あはれみ)(かけ)て給はりし、報(むく)ひも得(え)せず別(わかれ)になりぬ。某(それがし)今茲(ことし)は六十一歳(さい)、女房(にようばう)には後(おく)れたり。貯禄(たくはへ)もなく、氏族(うから)もなければ、後(うしろ)やすきに似(に)たれども、心(こゝろ)かゝりが只(たゞ)ひとつ」といひあへずさし塞(ふさ)ぐ、痞(つかえ)に息(いき)をとゞむれは、信乃(しの)は手(て)ばやく湯液(くすり)を煖(あたゝ)め、只管(ひたすら)に勸(すゝめ)しかは、糠助(ぬかすけ)咽喉(のんど)を潤(うるほ)して、「心(こゝろ)かゝりは、在(あり)としも、人(ひと)には告(つげ)ざる、わが子(こ)の事(こと)のみ。某(それがし)(もと)は安房國(あはのくに)、洲崎(すさき)のほとりの土民(どみん)なり。耕作(こうさく)と漁猟(すなとり)とに、ともかくもして世(よ)を渡(わた)るに、長禄(ちやうろく)三年(ねん)十月下旬(げじゆん)、先妻(せんさい)に男児(をのこゞ)出生(いでき)て、玄吉(げんきち)と名(な)つけたり。いと健(すくよか)に見えたるに、母(はゝ)は産後(さんご)の侭(まゝ)に肥立(ひたゝ)ず、乳(ち)に乏(とも)しかりければ、児(ちご)さへ脾疳(ひかん)の病(やまひ)つきて、母(はゝ)の看病(かんびやう)、その子(こ)の介抱(かいほう)、耕作(こうさく)網引(あびき)を外(よそ)にして、はや二(ふた)とせになりしかは、物(もの)(おほ)かたは售(うり)(つく)し、剰(あまつさへ)女房(にようばう)は、遂(つひ)にむなしくなりにけり。迹(あと)に残(のこ)るは借銭(しやくせん)と、この年(とし)(はつか)に二歳(にさい)の稚児(をさなこ)、わが身(み)ひとつには字(はぐゝ)みかたし。いかで養(やしな)ふ人(ひと)もがな、と庶幾(こひねが)へども貰乳(もらひち)もて、辛(から)く育(そだつ)る稚児(をさなこ)なれは、疫饒(やせさらば)ひて餓鬼(がき)の如(ごと)し。養育(やういく)(しろ)を贈(おく)らでは、貰(もらは)んといふ人(ひと)のなければ、せんすべ盡(つき)たる出來(でき)こゝろ、洲崎(すさき)の浦(うら)は霊地(れいち)とて、役行者(えんのぎやうじや)の〓(いはむろ)あれば、殺生(せつせう)禁断(きんだん)せられたり。この故(ゆゑ)に、介鱗(うろくず)其処(そこ)に集(あつま)りて、網代(あじろ)なき生洲(いけす)に似(に)たり。竊(ひそか)に網(あみ)を下(おろ)すならば、一夕(ひとよさ)にして数貫(すくわん)の銭(ぜに)を、獲(う)ること易(やす)し、と思(おも)ひしかは、偽(いつは)りて稚児(をさなこ)を、霎時(しばし)隣家(となり)に預(あづ)けつゝ、烏夜(やみ)に紛(まぎ)れて彼(かの)禁断(きんだん)(しよ)へ、舟(ふね)漕入(こぎい)れて曳鯛(ひくたひ)は、たびかさならねど人(ひと)にしられて、忽地(たちまち)に捕(とらへ)られ、國守(こくしゆ)の廰(ちやう)へ牽(ひか)れにけり。脱(のが)るべき路(みち)のなければ、柴漬(ふしつけ)の刑(つみ)に定(さだめ)られ、且(しばら)く獄舎(ひとや)に繋(つなが)れしに、折(をり)もよくその秋(あき)は、國守(こくしゆ)里見(さとみ)殿(との)の奥(おく)ざま五十子(いさらご)の上(うへ)、及(また)おん愛女(まなむすめ)伏姫(ふせひめ)うへの、三回忌(さんくわいき)に當(あた)らせ給へば、傾頃(にはか)に大赦(たいしや)を行(おこなは)れて、吾儕(わなみ)も死罪(しざい)を宥(なだめ)られ、軈(やが)て追放(ついほう)せらるゝ日(ひ)、迺(すなはち)(かみ)のおん慈悲(ぢひ)により、村長(むらおさ)に領(あづけ)られたる、小児(しやうに)玄吉(げんきち)を、返(かへ)し下(くだ)されたりければ、鄙言(ことわざ)にいふ難有(ありがた)迷惑(めいわく)、已(やむ)ことを得(え)ず稚児(をさなこ)を、負(おひ)つ、抱(いだき)つ安房(あは)を追(おは)れ、上總(かつさ)を過(よぎ)りて下總(しもふさ)なる、行徳(ぎやうとこ)まで來(き)つる途(みち)の艱難(かんなん)、乞食(こじき)(なれ)ねば親(おや)も子(こ)も、餓労(うへつか)れてせんすべしらず。役行者(えんのぎやうしや)の惜(をしま)せ給ふ、介鱗(うろくず)を漁(すなと)りし、冥罰(めうばつ)はなほかくても脱(のが)れず、途(みち)に仆(たふ)れて死恥(しにはぢ)を、曝(さらさ)んより親子(おやこ)共侶(もろとも)、身(み)を投(なぐ)るこそますらめ、と思决(おもひさだ)めて名(な)もしらぬ、橋(はし)の欄干(らんかん)に足(あし)を踏(ふみ)かけ、跳没(おどりいら)んとしつる折(をり)、武家(ぶけ)の飛脚(ひきやく)とおぼしき人(ひと)、件(くだん)の橋(はし)を渡(わた)りかゝりて、遽(いそがは)しく抱(いだ)き禁(とゞ)め、推引(おしひき)(すえ)て懇(ねんごろ)に、縁故(ことのもと)を問(とは)れしかは、懺悔(さんげ)の為(ため)に恥(はぢ)を忍(しの)びて、一五一十(いちぶしゞう)を告(つぐ)るになん。その人(ひと)、聞(きゝ)てふかく憐(あはれ)み、原来(さては)(なんぢ)は素(もと)よりの悪人(あくにん)にはあらざりけり。われは鎌倉殿(かまくらどの)〔足利(あしかゞ)成氏(なりうぢ)をいふ〕の御(み)(うち)にて、小禄(せうろく)卑職(ひしよく)のものなれども、聊(いさゝか)慈善(ぢぜん)の志願(しぐわん)あり。その故(ゆゑ)は、年(とし)(いま)四十(よそぢ)に餘(あま)るまで、子(こ)は挙(もち)ながら子育(こそだて)なし。されば年來(としころ)、夫婦(ふうふ)(こゝろ)をひとつにして、神仏(しんぶつ)を祈念(きねん)し奉(たてまつ)り、又(また)(み)に稱(かな)ふべき事は、人(ひと)の艱苦(かんく)を救(すくは)ん、と心(こゝろ)に誓(ちか)ふも久(ひさ)しくなりぬ。尓(しか)るに汝(なんぢ)は殊(こと)にして、一子(ひとりこ)をもてあまし、親子(おやこ)ほと/\死(しな)んとせり。人(ひと)さま%\の浮世(うきよ)也。然(さ)らばその子(こ)をわれに得(え)させよ。ともかくもして養(やしなは)ん、とよに憑(たのも)しくいはれしかは、その時(とき)の忝(かたじけな)さ、息絶(いきたはし)くてまはらぬ舌(した)には、説(とき)(つく)さずとも察(さつ)し給へ。地獄(ぢごく)で逢(あひ)し仏(ほとけ)(か)(かみ)(か)、と思へば更(さら)に一議(いちぎ)に及(およ)ばず。そがいふまゝに承引(うけひき)て、只(たゞ)感涙(かんるい)を推拭(おしぬぐ)へば、彼(かの)(ひと)かさねて、われは殿(との)のおん飛脚(ひきやく)にて、安房(あは)の里見(さとみ)へ赴(おもむ)きたる、かへさなれば私(わたくし)に、稚児(をさなこ)を携(たづさへ)かたし。このわたりには定宿(じやうやど)あり。家(いへ)あるじに相譚(かたらふ)て、且(しばら)くその子(こ)を預(あづ)け置(おき)、鎌倉(かまくら)へ立(たち)かへりて、妻(め)の女(をんな)にもよしを告(つげ)、日(ひ)ならずして迎(むかへ)とるべし。見るにその子(こ)は焦悴(やつれ)たれども、武蔵(むさし)なる神奈川(かながは)には、小児(せうに)五疳(ごかん)
【挿絵】「糠助(ぬかすけ)が懺悔(さんげ)物語(ものかたり)窮客(きうするたびゝと)稚児(をさなこ)を抱(いだ)きて身(み)を投(なげ)んとす」
の妙薬(めうやく)あり。これを用(もち)ひば効驗(こうげん)あらん。既(すで)に親子(おやこ)とならんには、われ等閑(なほざり)に字育(はぐゝま)んや。けふより後(うしろ)やすく思ふて、志(こゝろさ)すかたあらば、とく赴(おもむ)きね、と喩(さと)しつゝ、路費(ろよう)にせよとて、懐中(くわいちう)なる、方金(ぶばん)二顆(ふたつ)とり出(いだ)し、昼餉(ひるけ)の料(りやう)に歟(か)、腰(こし)に纏(つけ)たる、割籠(わりこ)と共(とも)に賜(たび)しかば、辞(ぢ)するによしなく受納(うけおさ)め、重々(かさね/\)の恩義(おんぎ)を謝(しや)して、玄吉(げんきち)を賺(すかし)こしらへ、逓与(わた)せばやをら抱(いだ)きとりて、舊(もと)(き)しかたへ立戻(たちもど)るを、つく/\と見送(みおく)りたる、歡(よろこば)しくも悲(かな)しくて、是(これ)なん親子(おやこ)一生涯(いつせうがい)の別(わかれ)なれども、養親(やしおや)の、名(な)をも得(え)(と)はず、われも名告(なの)らず。こゝにはじめて恩愛(おんあい)の、重荷(おもに)をばおろしても、竭(つき)ぬ名殘(なごり)は葛飾(かつしか)の、行徳(ぎやうとこ)(はま)より便舩(びんせん)して、江戸(えど)の津(わたり)に赴(おもむ)きつ、聊(いさゝか)相識(あひし)る人(ひと)あれは、この大塚(おほつか)に流(なが)れ來(き)て、農家(のうか)に奉公(ほうこう)する程(ほど)に、その冬(ふゆ)和君(わきみ)は生(うま)れ給へり。かくて次(つぐ)の年(とし)、この家(いへ)の先住(せんぢう)なる、籾(もみ)七といふもの身(み)まかりて、後家(ごけ)に入夫(いりうと)を招(もとむ)るとて、ある人(ひと)に媒約(なかたち)せられ、その名迹(めうせき)を續(つぎ)たれども、一升(いつせう)(ふくべ)は何(いつ)でも一升(いつせう)、年中(ねんちう)未進(みしん)を債(はた)られて、水飲(みづのみ)あへぬ痩(やせ)百姓(ひやくせう)。人(ひと)には嗚呼(をこ)の白物(しれもの)、と貶(おと)しめられても腹(はら)たゝず。故郷(こけう)で醸(かも)せし禍(わざはひ)は、貧(ひん)の盗(ぬすみ)の咎(とが)なれば、心(こゝろ)を切(せめ)て貪(むさぼ)らず、只(たゞ)正直(せうぢき)を宗(むね)として、朝(あさ)な/\に手(て)を合(あは)せ、小角(せうかく)さまへ罪障(ざいせう)を、勸觧(わび)(たてまつ)るも十八年(ねん)。その毎月(つきごと)の會日(ゑにち)には、塩鰯(しほいはし)でも箸(はし)にはかけず其(その)精進(せうしん)も年(とし)(あまた)、送(おく)るは誰(たが)(ため)、玄吉(げんきち)は、恙(つゝが)なく生育(おひたて)かし。人(ひと)なみなみの人になれ、と願(ねが)ふものから去歳(こぞ)(み)まかりし、妻(つま)にも告(つげ)ざるわが子(こ)のうへを、今(いま)臨終(しにきは)に口走(くちはし)り、和君(わきみ)に告(つぐ)るは凡庸(よのつね)ならぬ、信義(しんぎ)を豫(かね)てしればなり。かくいへばとて、風(かぜ)を追(お)ひ、影(かげ)を捕(とる)よりなほ果敢(はか)なき、わが子(こ)のうへをしるにもあらねど、鎌倉(かまくら)の前(さきの)管領家(くわんれいけ)〔持氏(もちうぢ)成氏(なりうぢ)をさしてしかいふ〕は、番作(ばんさく)ぬしの主筋(しゆうすぢ)ならずや。されば亦(また)成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)は、両(りやう)管領(くわんれい)、山内(やまのうち)顕定(あきさだ)ぬし、扇谷(あふきがやつ)定正(さだまさ)ぬしと不和(ふわ)にして、鎌倉(かまくら)のおん住(すま)ひかなはせ給はず、許我(こが)の城(しろ)に移(うつ)らせ玉ひ、其処(そこ)をも追(おは)れて近(ちか)ころは、千葉(ちは)の城(しろ)にまします、と世(よ)の風聞(ふうぶん)に傳(つた)へ聞(きけ)り。しからばわが子(こ)玄吉(げんきち)も、その養親(やしおや)も役(やく)に従(したが)ひ、下總(しもふさ)千葉(ちば)にあらんずらん。和君(わきみ)もし許我(こが)殿(との)〔成氏(なりうぢ)をいふ〕へ、参(まゐ)り玉ふ事ありて、その便宜(びんぎ)をもて玄吉(げんきち)を、識(し)ることあらばこれらのよしを、潜(しのび)やかに傳(つた)へてたべ。わが子(こ)は実(まこと)の親(おや)あるよしを、しらでをらば是非(ぜひ)もなし。灰(ほのか)に傳(つた)へ聞(き)く事あらば、些(すこし)は心(こゝろ)にかゝるべし。よしや目今(たゞいま)環會(めぐりあふ)とも、親子(おやこ)(かたみ)に面忘(おもわす)れして、名告(なのる)よすがはあらざめれど、渠(かれ)は生(うま)れながらにして、右(みぎ)の頬尖(ほゝさき)に痣(あざ)ありて、形(かたち)牡丹(ぼたん)の花(はな)に似(に)たり。又(また)(かれ)が生(うま)れたる七夜(しちや)には、祝(ことほ)ぎの為(ため)、わが釣(つり)せし、鯛(たひ)を包丁(ほうちやう)したりしに、魚(うを)の腹(はら)に玉(たま)ありて、文字(もんじ)のごときもの見えたり。取(とり)て産婦(さんふ)に讀(よま)せしに、これまこととか訓(よ)む信(しん)の字(じ)に似(に)たるやう也といへり。よりて渠(かれ)が臍帶(ほそのを)もろ共(とも)、護身嚢(まもりふくろ)に納(おさ)めつゝ、長禄(ちやうろく)三年(ねん)、十月廿日誕生(たんせう)す。安房(あは)の住民(ぢうみん)、糠助(ぬかすけ)が一子(いつし)、玄吉(げんきち)が初毛(うぶけ)臍帶(ほそのを)、並(ならび)に感得(かんとく)秘藏(ひさう)の玉(たま)、と母(はゝ)が手(て)づから写(しる)しつけたる、國字(ひらかな)にして釘(くぎ)の折(をれ)の、曲(まが)りなりにも讀(よ)めつべし。渠(かれ)物情(ものこゝろ)を知(し)る比(ころ)まで、失(うしな)はずは今(いま)なほあらん。これらを證据(せうこ)にし給ひてよ。紛(まぎ)れあるべくもあらずかし。さても益(やく)なき事にこそ、傍痛(かたはらいた)く思はれけめ。今朝(けさ)までは舌(した)(こは)りて、これ程(ほど)には物(もの)いはれざりしに、今(いま)和君(わきみ)が面(おもて)を見て、心地(こゝち)清々(すが/\)しく覚(おぼゆ)るも、燈(ともしひ)(まさ)に滅(きえ)んとして、光(ひかり)を倍(ます)の類(たぐひ)なるべし。末遥(すゑはるか)なる弱冠(わかうど)にをはすれば、勉(つとめ)て發跡(なりいで)給へかし」といひつゝ頻(しきり)に落涙(らくるい)す。
 いにしへ賢者(けんしや)の言(こと)の葉(は)に、「鳥(とり)の將(まさ)に死(しな)んとするとき、その鳴(なく)ことかなしく、人(ひと)の將(まさ)に死(しな)んとするとき、そのいふこと善(よし)」といへり。糠助(ぬかすけ)が今般(いまは)の辞(ことば)も、生平(つね)には大(いた)く立(たち)まさりて、あはれ賢(かしこ)く聞(きこ)えたり。信乃(しの)は彼(かの)玄吉(げんきち)が、痣(あざ)の事玉(たま)の事、わが身(み)に思ひあはせつゝ、大(おほ)かたならず感嘆(かんたん)し、「噫(あ)、阿爺(おぢ)よ、こゝろ得(え)たり。けふはじめてしるおん身(み)が素生(すせう)、誤(あやまち)て改(あらた)めたる、年來(としころ)の深信(しん/\)精進(せじみ)、人(ひと)(およば)ざる事になん。加旃(しかのみならず)子息(しそく)のうへに、われと暗合(あんがう)する事あり。過世(すくせ)の契(ちぎ)りと覚(おぼゆ)れば、まだ見ぬ兄(いろね)のこゝちぞする。折(をり)を得(え)ば、下總(しもふさ)へ赴(おもむ)きて、その宿所(しゆくしよ)を索(たづね)んに、養父(やうふ)の姓名(せいめい)をしらずといふとも、證据(せうこ)くさ/\分明(ふんめう)なれば、環會(めぐりあは)ざることはあらじ。これらのことを念(ねん)とせで、しば/\湯剤(くすり)を用(もち)ひ給へ。夜(よ)も來(き)て看病(かんびやう)せまほしけれど、親類(しんるい)に竒宿(きしゆく)すなれば、思ふに任(まか)せぬ事夛(おほ)かり。さばれ一トたび諾(うけひ)たる、辞(ことば)は金石(きんせき)変改(へんかい)なし。こゝろやすく思ひ給へ」と応(いらへ)つゝなほさま/\に、勦(いたは)り慰(なぐさ)めたりけれは、糠助(ぬかすけ)は掌(たなそこ)を、うち合(あは)して拝(おが)むのみ。哀情(あいぜう)(むね)に塞(ふたが)りてや、復(また)いふ事もなかりけり。
 かくてはや、黄昏(たそがれ)になりにければ、信乃(しの)は行燈(あんどん)に火(ひ)を点(とも)し、再(ふたゝ)び湯剤(くすり)を勸(すゝ)めなどしつ。別(わかれ)を告(つげ)て宿所(しゆくしよ)に還(かへ)り、その夜(よ)額藏(がくざう)にのみ、糠助(ぬかすけ)が遺言(ゆいげん)のよしを物(もの)かたり、玄吉(げんきち)が痣(あざ)の事、玉(たま)の事を告(つげ)にけれは、額藏(がくざう)(きゝ)て驚嘆(きやうたん)し、「これ必(かならず)吾黨(わがたう)の人(ひと)ならん事疑(うたが)ひなし。この身(み)が隨(まゝ)になるならば、今(いま)にも其処(そこ)へ赴(おもむ)きて、見まほしくこそ候へ」と密語(さゝやき)あへず立別(たちわか)れ、詰朝(あけのあさ)とく起(おき)て、糠助(ぬかすけ)を訪(とは)んとせしに、その近隣(きんりん)の荘客(ひやくせう)詣來(まうき)て、糠助(ぬかすけ)はこの暁(あかつき)に、身(み)まかりたるよしを告(つげ)にけれは、信乃(しの)は殊(こと)さらに、これを悼(いた)みて、しば/\蟇(ひき)六に説勸(ときすゝ)め、永樂銭(ゑいらくせん)七百文貸與(かしあたへ)て、その夜(よ)、道場(どうじやう)へ棺(ひつぎ)を送(おく)らせ、日子(ひがら)(へ)て、その家(いへ)を售(うる)ときに、件(くだん)の七百文を返(かへ)し納(いれ)させ、残(のこ)れる銭(ぜに)と、最褊(いさゝか)なる田圃(たはた)は、彼(かの)道場(どうしやう)へ寄進(きしん)して、糠助(ぬかすけ)夫婦(ふうふ)、そが代々(だい/\)の、香花(かふげ)の料(りやう)にしたりけり。この事荘官(せうくわん)(ひき)六が計(はから)ひて、その隣人(りんじん)に指揮(さしづ)したれど、実(まこと)は信乃(しの)が蟇(ひき)六に、説勸(ときすゝ)めたるよしを、誰(たれ)いふとはなく僉(みな)(し)りて、「この人(ひと)荘官(せうくわん)たらんには、慈善(ぢぜん)にして下(しも)を伸育(のだつ)る、われらが為(ため)の父母(ふぼ)なるべし。とく代(かは)り給へかし」といはざるものはなかりけり。
 不題(こゝにまた)、管領家(くわんれいけ)の退糧人(らうにん)に、網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)といふ壮佼(わかうど)ありけり。近(ちか)き比(ころ)まで、扇谷(あふぎがやつ)修理(しゆりの)大夫(たいふ)定正(さだまさ)に仕(つかへ)て扈従(こせう)たり。便佞(べんねい)利口(りこう)のものなれば、一トたびは寵用(ちやうよう)せられて、人(ひと)を〓(そこな)ふこと夛(おほ)かり。よりて、傍輩(ほうばい)に強訴(ごうそ)せられて、忽地(たちまち)にその非義(ひぎ)發覚(あらは)れ、軈(やが)て追放(ついほう)せられけり。そが父母(ちゝはゝ)は往(さき)に世(よ)を逝(さ)り、いまだ妻子(やから)もあらざれば、遠縁(とほえん)のものをよるべに、大塚(おほつか)の郷(さと)に流浪(さそら)ひ來(き)つ、糠助(ぬかすけ)が舊宅(きうたく)を購(あがなひ)(もとめ)て、形(かた)のごとく膝(ひざ)を容(いれ)たり。さればこの左母二郎(さもじらう)は、今茲(ことし)二十五歳(さい)にして、面色(いろ)(しろ)く、眉目(まゆ)(ひいで)て、鄙(ひな)には稀(まれ)なる美男(びなん)なり。手迹(しゆせき)は大師様(だいしやう)と見えて、草書(はしりかき)(つたな)からず。加旃(しかのみならず)、遊藝(ゆうげい)は、今様(いまやう)の艶曲(ざれうた)、細腰鼓(こつゞみ)、一節切(ひとよきり)なンど、習(なら)ひうかめずといふことなし。犬塚(いぬつか)番作(ばんさく)(み)まかりし後(のち)、里(さと)に手跡(しゆせき)の師匠(しせう)なければ、左母二郎(さもじらう)は、毎日(ひごと)に、手習子(てらこ)を集(あつめ)て生活(なりはひ)とし、又女(め)の子(こ)には、歌舞(かぶ)今様(いまやう)を誨(をしゆ)るに、浮(うき)たる技(わざ)を好(この)むもの、都(みやこ)も鄙(ひな)も夛(さは)なれば、手迹(しゆせき)にまして遊藝(ゆうげい)の、弟子(をしえご)日々(ひゞ)に聚來(つどひき)つ、打囃(うちはや)し舞(ま)ふ程(ほど)に、是首(ここ)の少女(をとめ)、彼首(かしこ)の孀婦(やもめ)と、仇(あだ)なる名(な)さへ立(たつ)もあれど、亀篠(かめさゝ)はわかき時(とき)より、漫(そゞろ)に好(この)む技(わざ)なれば、左母二郎(さもじらう)が事としいへば、をさ/\夫(をつと)に執成(とりなす)により、渠(かれ)を憤(いきどほ)るものありといへども、蟇(ひき)六は聞(き)かぬ態(ふり)して、遂(つひ)に網乾(あぼし)を追(おは)ざりけり。
 かくてその年(とし)の終(をは)りに、城主(ぜうしゆ)大石(おほいし)兵衞尉(ひやうゑのぜう)が陣代(ぢんだい)、簸上(ひかみ)蛇太夫(じやだいふ)といふもの身(み)まかりつ。次(つぐ)の年(とし)五月(さつき)の比(ころ)、蛇太夫(じやだいふ)が長男(ちやうなん)、簸上(ひかみ)宮六(きうろく)、亡父(ぼうふ)の職禄(しよくろく)を賜(たまは)りて、新(しん)陣代(ぢんだい)になりにけれは、その属役(したつかさ)軍木(ぬるて)五倍二(ごばいじ)、卒川(いさかは)菴八(いほはち)(ら)と共(とも)に、夥(あまた)の若黨(わかたう)奴隷(しもべ)を將(い)て、彼此(をちこち)を巡檢(じゆんけん)し、その夜(よ)は、荘官(せうくわん)蟇六(ひきろく)(がり)止宿(ししゆく)してけり。蟇(ひき)六は豫(かね)てより、饗膳(けうぜん)の准備(てあて)して、佞媚(こび)賄賂(まいない)ずといふことなく、勸盃(けんはい)すべて礼(れい)に過(すぎ)たり。折(をり)しも庚申(こうしん)なりければ、亀篠(かめさゝ)は夫(をつと)に勸(すゝ)めて、網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)を招(まねき)よせ、庚申守(こうしんまち)に假托(かこつけ)て、歌曲(かきよく)の遊樂(あそび)を催(もよほ)すに、女児(むすめ)自慢(じまん)の癖(くせ)なれば、濱路(はまぢ)には殊更(ことさら)に、花手(はで)やかなる羅衣(うすきぬ)(き)せて、わりなくその席(むしろ)に侍(はべ)らせ、或(ある)は酌(しやく)を執(と)らせ、又(また)筑紫(つくし)(こと)を奏(かなて)させ、左母二郎(さもじらう)には、例(れい)の艶曲(ざれうた)を謌(うたは)せつゝ、をさ/\興(きやう)をそえにけり。濱路(はまぢ)はかゝる席(むしろ)に侍(はべ)りて、見もせぬ人々(ひと/\)に、馴々(なれ/\)しく物(もの)をいひかけられ、〓(あまさへ)網乾(あぼし)と臂(ひぢ)を連(つら)ねて、おのが拙(つたな)き絃(いと)のしらべを、賓客(まれびと)(たち)に聽(きか)せん事、信乃(しの)が思はんことのをしくて、心裏(うら)(はづか)しき限(かぎ)りなれとも、親(おや)には爭(あらそ)ふべくもあらず。困(こう)じて纔(はつか)に一曲(いつきよく)を奏(かな)つるに、陣代(ぢんだい)簸上(ひかみ)宮六(きうろく)(ら)は、醉顔(すいがん)(とろ)けて燈燭(ともしび)と、光(ひかり)をあらそへども愧(はぢ)ず。眼(まなこ)を細(ほそ)くして、濱路(はまぢ)をかへり見、声(こゑ)を太(ふと)くして、その節奏(しらべ)を誉(ほめ)(きやう)じ、扇(あふぎ)を短(みじか)くとりて、節(ふし)を拍(はや)し、鼻下(はなのした)を長(なが)くして、涎(よだれ)の流(なが)るゝを覚(おぼ)えず。長短(ちやうたん)細大(さいだい)、我(われ)を忘(わす)れて、〓然(がや/\)と笑(わら)ひたのしみ、「真(まこと)、今宵(こよひ)の管待(もてなし)は、美酒(びしゆ)もいまだ美(び)を盡(つく)さず、膳部(ぜんぶ)もいまだ善(ぜん)を盡(つく)さず、唯(たゞ)令弱(むすめご)の一曲(いつきよく)のみ、玄(げん)の又(また)(げん)。玄賓(げんひん)僧都(そうづ)も、聽聞(ちやうもん)せば堕落(だらく)せん。妙(めう)の又(また)(めう)。妙音(めうおん)天女(てんぢよ)も、合奏(がつそう)せば撥(ばち)を投(なげ)ん。吁(あら)(あり)がたの音樂(おんがく)や。おもしろの今(いま)の音樂(おんがく)や」と訛声(だみこゑ)(あは)して謡(うた)ふになん。濱路(はまぢ)は慚(はぢ)て、且(かつ)(はら)たゝしさに、其処(そこ)に得(え)(たへ)ず散動(どよみ)に紛(まぎ)れて、滅(けぬ)るが如(ごと)く退(しりぞ)きける。
 されば亦(また)左母二郎(さもじらう)は、管領家(くわんれいけ)の退糧人(らうにん)なれども、宮六(きうろく)(ら)は鎌倉(かまくら)へ、在番(ざいばん)せしものならざれは、迭(かたみ)にこれを識(し)ることなし。網乾(あぼし)はその性(さが)浮薄(ふはく)也。かゝる遊興(ゆうきやう)の席(むしろ)を累(かさね)し、嗚呼(をこ)の浪子(わざをぎ)なりければ、虚辯(きよべん)をさ/\媚(こび)を呈(てい)して、盃(さかづき)を勸(すゝむ)るに趣(おもむき)あり。又(また)をり/\、秀句(しうく)を吐(は)きて笑(わら)ひを催(もよほ)し、宮六(きうろく)(ら)を稱(せう)して殿(との)といひ、檀那(だんな)と唱(とな)へ、蟇(ひき)六を大人(たいじん)と稱(せう)し、亀篠(かめさゝ)を奥方(おくかた)とし、給事(きうじ)の奴婢(ぬひ)を姉様(あねざま)と喚(よ)び、下男(げなん)をすべて先生(せんせい)といふ。稱呼(せうこ)繽紜(ひんうん)徳操(とくさう)なき、是(これ)輕薄児(けいはくじ)の習俗(ならひ)なり。すべてかうやうの席(むしろ)には、声色(せいしよく)を嗜(たしま)ざる、老実者(まめやかびと)は愚(ぐ)なるが如(ごと)し。彼(かの)紂王(ちうわう)が、比干(ひかん)をもて、不肖(ふせう)とし、又(また)〓忽(しゆくこつ)が、混沌(こんとん)を、不具(かたは)と思ひし、これと同(おな)じ。かゝれば信乃(しの)はこの夜(よ)さり、ひとり子舎(へや)に引籠(ひきこもり)て、燈下(とうか)に兵書(ひやうしよ)を繙(ひもと)くのみ。その席(むしろ)に入(い)らねども、蟇(ひき)六も亦(また)これを問(と)はず。故(もと)より思ふよしあれば、陣代(ぢんだい)には信乃(しの)が事を、一句(いつく)も披露(ひろう)せざりけり。かくて鶏鳴(けいめい)(あかつき)を告(つぐ)る程(ほど)に、稍(やゝ)盃盤(はいばん)をとり納(おさ)め、蟇(ひき)六は、宮六(きうろく)(ら)に、忝(かたじけな)しと敬(いやま)ひ謝(しや)して、更(さら)に早飯(あさいひ)を勸(すゝむ)るに、宿酒(しゆくしゆ)いまだ醒(さめ)ざれば、各(おの/\)よくも食(くら)
【挿絵】「艶曲(ゑんきよく)を催(もよほ)して蟇六(ひきろく)權家(けんか)を管待(もてな)す」「ひき六」「あぼし左母二郎」「いさ川庵八」「ひかみ宮六」「亀さゝ」「ぬるて五倍二」「はまぢ」
はず、なほ彼此(をちこち)を巡(めぐ)らんとて、三人(ン)齊一(ひとしく)立出(たちいづ)れは、蟇(ひき)六は遽(いそがは)しく、その従者(ともひと)にうち雜(まじ)りて、村(むら)盡処(はつれ)まで送(おく)りけり。
 是(これ)より先(さき)に亀篠(かめさゝ)は、日待(ひまち)月待(つきまち)の折(をり)に觸(ふ)れて、網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)を招(まね)きつゝ、艶曲(ざれうた)を聽(き)く程(ほど)に、左母二郎(さもじらう)は早晩(いつしか)に、濱路(はまぢ)を看(み)て思(おも)ひを焦(こが)し、人目(ひとめ)の関(せき)をしのび/\に、言葉(ことば)の露(つゆ)を結(むす)びかけて、淫(みだり)かはしき色(いろ)を見せ、或(ある)は亦(また)、鳥(とり)の跡(あと)を媒妁(なかたち)にて、筆(ふで)に物(もの)をぞいはせたる。いかなる事を書(かき)たりけん、濱路(はまぢ)は手(て)にだに觸(ふ)れずして、いといたう罵辱(のりはづか)しめ、後(のち)には網乾(あぼし)が來(く)る毎(ごと)に、避(さけ)て再(ふたゝ)び面(おもて)を對(むか)へず。現(げに)(ひと)の性(さが)ばかり、習(なら)ひにもよらざりけり。さればこの少女(をとめ)は、その心(こゝろ)ざま親(おや)に似(に)ず、行(おこな)ひよろづに貞(たゞし)くて、信乃(しの)には親(おや)の口(くち)づから、豫(かね)て許(ゆる)せしよしあれども、それすらいまだ婚姻(こんいん)を、とり結(むすば)ざる夫(をとこ)なれば、迭(かたみ)に親(したし)く物(もの)いはず。况(まい)て浮(うき)たる風流士(みやびを)に、名(な)を立(たて)らるゝ事あらば、女子(をなこ)の恥辱(ちぢよく)このうへあらじ、とふかく念(ねん)じてこれらの人(ひと)を、引入(ひきい)れたる母親(はゝおや)を、心(こゝろ)つきなしと思ひけり。さるにより、簸上(ひかみ)宮六(きうろく)(ら)が止宿(ししゆく)せし夜(よ)、二親(おや)がわりなくも、濱路(はまぢ)を給仕(きうじ)に侍(はべ)らして、左母二郎(さもじらう)共侶(もろとも)に、琴(こと)よ曲子(こうた)と晴(はれ)がましく、酒宴(しゆえん)の興(きやう)をそえさせたる、いと朽(くち)をしく思ふものから、人(ひと)の諫(いさめ)を用(もち)ひざる、親(おや)の氣質(きしつ)に推辞(いなみ)かたくて、こよなき羞(はぢ)也、と歎(なげ)きつゝ、稍(やゝ)一曲(いつきよく)を奏(かなで)し也。濱路(はまぢ)はかくのごとくなれども、母(はゝ)亀篠(かめさゝ)がこゝろは異(こと)なり。亀篠(かめさゝ)日來(ひごろ)思ふやう、件(くだん)の網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)は、鎌倉(かまくら)武士(ぶし)の浪人(らうにん)とか聞(きこ)えて、いと愛(めで)たき美男(びなん)なり。渠(かれ)がいふよしを聞(き)くに、鎌倉(かまくら)にありし日(ひ)は、食禄(しよくろく)五百貫(くわん)を宛行(あておこなは)れ、しかも近習(きんじゆ)の首(かみ)に処(を)れば、殿(との)のおん寵(おぼえ)大かたならず。出頭(しゆつとう)第一(だいいち)なるをもて、傍輩(はうばい)ふかく娟(そね)みて黨(たう)を樹(たて)、頻(しきり)に讒言(ざんげん)したるにより、身(み)の暇(いとま)を賜(たまは)りしかども、原(もと)(これ)殿(との)のおん志(こゝろさし)にはあらず。かゝれは近(ちか)きに、召返(めしかへ)さるべき御(ご)内意(ないゐ)あり。この里(さと)の僑居(わびすまひ)は、霎時(しばし)が程(ほど)にあらんといへり。この人(ひと)(いま)は窶々(やつ/\)しくとも、その言(こと)のごとくならば、遠(とほ)からずして帰参(きさん)せん。管領家(くわんれいけ)の出頭人(きりもの)を、吾(わが)女壻(むこ)に招(とら)ん事、その時(とき)には及(およ)びかたし。今(いま)より情(なさけ)を被(かけ)んには、後(のち)の栄利(ゑのり)となることあるべし。親(おや)の心(こゝろ)を子(こ)はしらで、鈍(おぞ)や濱路(はまぢ)が只管(ひたすら)に、信乃(しの)を良人(をつと)と思ひとりてや、婚姻(こんいん)を待(まち)わびしげなる。曩(さき)にはちらと見つけし事あり。可惜(あたら)女児(むすめ)を可愛(かあい)(け)のなき、甥(おひ)に一卜口(くち)態進(ふるまふ)ては、田蛭(たひる)に噬入(くひいれ)らるゝが如(ごと)く引放(ひきはな)すとき血(ち)で血(ち)を洗(あら)ふ、後々(のち/\)までも痛(いた)みにならん。此(これ)に由(より)て彼(かれ)を推(お)せば、網乾(あぼし)が濱路(はまぢ)に意(こゝろ)ありとも、後々(のち/\)の害(がい)にはならず。濱路(はまぢ)が信(し)乃に情(せう)を寓(よせ)ては、久後(ゆくすゑ)さへに憑(たのも)しからず。又利(り)を捨(すて)て、男(をとこ)を取(と)るとも、左母二郎は美男(びなん)なり。手迹(しゆせき)(めで)たく遊藝(ゆうげい)さへ、何(なに)(くら)からず、音曲(うたこゑ)(めう)也。これ粹中(すいちう)の粹(すい)なるもの、信乃(しの)と同日(どうじつ)の論(ろん)にはあらず。大年(よきとし)したる吾儕(わなみ)でも、良人(をつと)がなくは思案(しあん)も狂(くるは)ん。かゝれば濱路(はまぢ)に信乃(しの)が事を、思ひ絶(きら)する囮(をとり)には、網乾(あぼし)にますものあらじ、とおもひて、世(よ)の嘲(あざけ)をも、里人(さとひと)(ら)が憤(いきどほ)りをも見かへらず。折(をり)に觸(ふ)れ、事(こと)に托(よせ)て、しば/\網乾(あぼし)を招(まね)きしかば、左母二郎(さもじらう)は懲(こり)ずまに、且(まづ)その親(おや)に副馴(とりいり)て、いかで濱路(はまぢ)を手(て)に入(い)れん、と思ふこゝろの色(いろ)見えて、要緊(えうきん)の事ある日(ひ)にも、亀篠(かめさゝ)に招(まねか)るれば、使(つかひ)とゝもにゆかざる事なく、途(みち)に蟇(ひき)六に逢(あ)ふ時(とき)は、雨中(うちう)といへども木〓(ぼくり)を脱(はづ)し、斗米(とべい)の為(ため)にあらずして、折(かゞむ)る腰(こし)の低(ひく)ければ、荘官(せうくわん)夫婦(ふうふ)は只顧(ひたすら)に、その佞眉(こび)らるゝを歡(よろこ)びて、貮(に)なきものにぞ思ひける。


# 『南総里見八犬伝』第二十三回 2004-10-05
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