『南總里見八犬傳』第十五回


【外題】
里見八犬傳第二輯巻三

【本文】
南總里見八犬傳(なんさうさとみはつけんでん)第二輯(だいにしふ)巻之三
  東都 曲亭主人編次
 第(だい)十五回(くわい) 〔金蓮寺(きんれんじ)に番作(ばんさく)(あた)を撃(う)つ拈華庵(ねんげあん)に手束(たつか)(たびゝと)を留(とゞ)む〕

前巻(ぜんくわん)(すで)に説(とき)(をは)る。伏姫(ふせひめ)富山(とやま)へ入(い)りにし比(ころ)は、十六歳(さい)のときにして、長禄(ちやうろく)元年(ぐわんねん)の秋(あき)なるべし。又(また)金碗(かなまり)入道(にうどう)ヽ大(ちゆだい)(ばう)は、嘉吉(かきつ)元年(ぐわんねん)の秋(あき)、父(ちゝ)孝吉(たかよし)が自殺(じさつ)せしとき、既(すで)に五歳(さい)なりければ、長禄(ちやうろく)二年富山(とやま)にて、伏姫(ふせひめ)自殺(じさつ)の憂(うれひ)に係(かゝ)り、猛(にはか)に出家(しゆつけ)入道(にうどう)して、躬(み)を雲水(うんすい)に任(まか)しつゝ、斗薮(とそう)行脚(あんぎや)の首途(かどいで)せし。このとき廾二歳(さい)になりぬ。伏姫(ふせひめ)は年(とし)はつかに、十七にて身(み)まかりたまへは、ヽ大(ちゆだい)(ばう)はかの姫(ひめ)より、その年才(とし)五ッの兄(あに)なりけり。かくて長禄(ちやうろく)は三年(ねん)にして、寛正(くわんせう)にあらたまり、又(また)六年(ねん)にして、文正(ぶんせう)と改元(かいげん)せらる。さはれ元年(ぐわんねん)のみにして、又(また)應仁(おふにん)と改(あらた)めらる。これも僅(はづか)に二年にして、文明(めい)と改元(かいげん)ありけり。應仁(おふにん)の内乱(ないらん)治りて、戎馬(じうば)の蹄(ひつめ)、趾(あと)を掃(はら)ひ、名のみなりける華(はな)の洛(みやこ)は、舊(もと)の春(はる)(べ)に立(たち)かへり、稍(やゝ)長閑(のど)やかになりぬるも、この比(ころ)の事(こと)なれは、〔文明五年春三月、宗全(そうぜん)(やみ)て卒(みまか)れり。五月に至(いた)りて勝元(かつもと)も亦(また)(やみ)て卒(みまかり)にき。こゝにおいてその徒(と)の合戦(かつせん)、征(せい)せずして寝(やみ)にけり。是(これ)を應仁(おふにん)の兵乱(ひやうらん)といふ。〕この年號(ごう)のみ長久(とこしなへ)に、十八年まで続(つゞ)きけり。こゝに年序(ねんじよ)を僂(かゞなふ)れば、伏姫(ふせひめ)の事(こと)ありて、ヽ大(ちゆだい)が行脚(あんぎや)の啓行(かしまたち)せし、前巻(ぜんくわん)長禄(ちやうろく)二年より、今(いま)文明(ぶんめい)の季年(すゑ)に至(いたり)て、無慮(すべて)二十餘(よ)年に及(およ)べり。この間(あはひ)に犬塚(いぬづか)信乃(しの)が、未生(みせう)已前(いぜん)の事(こと)を述(のぶ)。この巻(まき)亦復(また/\)嘉吉(かきつ)に起(おこり)て、文明の比(ころ)に至(いた)れり。
 後土御門(ごつちみかど)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)、常徳院(じやうとくいん)足利(あしかゞ)義尚(よしひさ)(こう)、將軍(せうぐん)たりし、寛正(くわんせう)文明(ふんめい)の間(ころ)かとよ、武蔵國(むさしのくに)豊嶋郡(としまのこふり)、菅菰(すがも)大塚(おほつか)の郷界(さとはつれ)に、大塚(おほつか)番作(ばんさく)一戌(かずもり)といふ武(ぶ)士の浪(らう)人ありけり。そが父(ちゝ)匠作(せうさく)三戌(みつもり)は、鎌倉(かまくら)の管領(くわんれい)、足利(あしかゞ)持氏(もちうぢ)の近習(きんじゆ)たり。永享(ゑいきやう)十一年、持氏(もちうぢ)滅亡(めつぼう)のとき、匠作(せうさく)は精悍(かひ/\)しく、忠義(ちうぎ)の近臣(きんしん)と相謀(あいはか)りて、持氏(もちうぢ)のおん子(こ)、春王(しゆんわう)安王(やすわう)(りやう)公達(きんだち)を護(もり)(たてまつ)り、鎌倉(かまくら)を脱去(のがれさり)て、下野國(しもつけのくに)に赴(おもむ)き結城(ゆふきの)氏朝(うぢとも)に請待(せうだい)せられて、主従(しゆう/\)その城(しろ)に盾篭(たてこも)り、寄手(よせて)の大軍(たいぐん)を引(ひき)うけて、防戦(ばうせん)(とし)を重(かさ)ぬといへども、士卒(しそつ)の心(こゝろ)一致(いつち)して、撓(たゆ)む氣色(けしき)はなかりしに、嘉吉(かきつ)元年(ぐわんねん)四月十六日、巖木(いはきの)五郎(ごらう)が反忠(かへりちう)より、思ひかけなく攻破(せめやぶ)られて、大將(たいせう)氏朝(うぢとも)父子(ふし)はさらなり、躬方(みかた)の諸將(しよせう)、恩顧(おんこ)の士卒(しそつ)、面(おもて)もふらず衝(つい)て出(いで)、奮撃(ふんげき)突戦(とつせん)(とき)をうつして、ひとりも遺(のこ)らず討死(うちしに)し、両(りやう)公達(きんたち)は生拘(いけど)らる。このとき大塚(おほつか)匠作(せうさく)は、今茲(ことし)十六歳(さい)なりける、一子(いつし)番作(ばんさく)一戌(かずもり)を招(まね)きよせて、息(いき)つきあへずいひけるやう、「よるとし波(なみ)の老(おい)が身(み)に、生死(いきしに)の海(うみ)は思ひかけず、百年(もゝとせ)千歳(ちとせ)の後(のち)までもと、護冊(もりかしづ)きし両(りやう)公達(きんだち)、御(ご)(うん)(つたな)くまし/\て、防戦(ばうせん)(つひ)に合期(がつこ)せず、諸將(しよせう)(うた)れて城〓(しろ)(おちい)り、君(きみ)(はづかし)められ給ふになん。臣(しん)たるものゝ死(し)すべき時(とき)なり。さりとて汝(なんぢ)は游悴(へやずみ)なり。まだ仕(つかへ)ざる身(み)にしあれば、こゝにて狗死(いぬしに)すべきにあらず。曩(さき)に鎌倉(かまくら)を落(おち)しとき、汝(なんぢ)が母(はゝ)と姉(あね)亀篠(かめざゝ)は、はつかなる由縁(ゆかり)を求(もとめ)て、武蔵國(むさしのくに)豊嶋(としま)なる、大塚(おほつか)に潜(しのば)せおきつ、彼処(かしこ)は汝(なんぢ)もしれるごとく、わが先祖(せんぞ)の生國(せうこく)にて、則(すなはち)苗字(めうじ)の荘園(せうゑん)なれども、今(いま)にしては名(な)のみにて、すべて他人(たにん)の有(もの)となれば、誰(たれ)か渠等(かれら)を養(やしな)ふべき。これも亦(また)不便(ふびん)の事也。汝(なんぢ)は命(いのち)ながらへて、大塚(おほつか)の郷(さと)に赴(おもむ)き、父(ちゝ)が最期(さいご)のやうをも告(つげ)て、母(はゝ)に仕(つかへ)て孝(こう)を盡(つく)せ。然(さり)とてわれも狗死(いぬしに)はせず、孺君(わかきみ)とらはれ給ふといふとも、柳営(りうゑい)の御(ご)親族(しんぞく)、有繋(さすが)に金枝(きんし)玉葉(ぎよくえう)なれば、左右(さう)なくおん命(いのち)には及(およ)ぶべからず。われも一方(いつはう)を殺脱(きりぬけ)て、竊(ひそか)におん跟(あと)を慕(した)ひまゐらせ、折(をり)よくは両(りやう)公達(きんたち)を、偸(ぬすみ)とり奉(たてまつ)らん。さはれ大廈(たいか)の傾(かたむ)くとき、一木(いちぼく)をもて〓(さゝえ)がたし。縡(こと)(な)らずは討死(うちしに)して、黄泉(よみぢ)のおん倶(とも)すべき也。是(これ)はこれ、主君(しゆくん)重代(じうたい)のおん佩刀(はかせ)、村雨(むらさめ)と名(な)つけらる。このおん佩刀(はかせ)のうへに就(つき)て、さま/\の竒特(きどく)(おほ)かる中(なか)に、殺氣(さつき)を含(ふくみ)て抜(ぬき)はなせば、刀(かたな)の中心(なかご)に露(つゆ)(したゝ)る。况(まし)てや人(ひと)を〓(き)るときは、霤(したゝり)ます/\流(なが)すがごとく、鮮血(ちしほ)を洗(あら)ふて刃(やいば)を染(そめ)ず。譬(たとひ)ばかの村雨(むらさめ)の葉(は)すゑを洗(あら)ふに異(こと)ならずとて、村雨(むらさめ)と名(な)づけらる。実(じつ)に源家(げんけ)の重宝(ちやうほう)なれは、先君(せんくん)〔持氏(もちうぢ)をいふ〕いとはやくより、春王(しゆんわう)(ぎみ)に譲(ゆづ)らせ給ひて、護身刀(まもりかたな)にせられたり。孺君(わかぎみ)とらはれ給へども、今(いま)おん佩刀(はかせ)はわが手(て)にあり。われもし本意(ほゐ)を得(え)(とげ)ずして、主従(しゆう%\)(いのち)を其処(そこ)に隕(おと)さば、このおん佩刀(はかせ)も敵(てき)にとられん。さではいよ/\遺恨(いこん)なるべし。よりて汝(なんぢ)に預(あづく)るかし。孺君(わかぎみ)必死(ひつし)を脱(まぬか)れ給ひて、ふたゝび世(よ)にも發迹(なりいで)給はゞ、一番(いちばん)にはせ参(まゐ)りて、宝刀(みたち)を返(かへ)しまゐらせよ。もし又(また)(うた)れ給ひなば、これ將(はた)君父(くんふ)の像見(かたみ)也。これを主君(しゆくん)と見たてまつりて、おん菩提(ぼだい)を弔(とひ)(たてまつ)れ。努々(ゆめ/\)疎畧(そりやく)すべからず。こゝろ得(え)たりや」と説示(ときしめ)し、錦(にしき)の嚢(ふくろ)に納(いれ)たる侭(まゝ)、腰(こし)に帶(おび)たる村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)をわが子(こ)に逓與(わたし)けり。番作(ばんさく)二八の少年(せうねん)なれども、その心(こゝろ)ざま逞(たくま)しく、人(ひと)なみ/\にたちまされば、猶(なほ)思ふよしやありけん、一言(いちごん)半句(はんく)も悖(さから)はず、恭(うや/\)しく跪(ひざまづ)きて件(くだん)の宝刀(みたち)を受收(うけおさ)め、「御(み)こゝろ安(やす)かれ御(ご)教訓(きやうくん)、有(あり)がたきまでに忝(かたじけな)く、すべて服膺(ふくよう)(つかまつ)りぬ。小禄(せうろく)たりともわが父(ちゝ)は、鎌倉(かまくら)殿(との)〔持氏(もちうぢ)をいふ〕の家臣(かしん)たり。某(それがし)(まこと)に不肖(ふせう)なれども、君父(くんふ)の必死(ひつし)を外(よそ)に見て、脱(のが)るゝを歡(よろこば)んや。さはれ名(な)を惜(をし)み譏(そしり)を顧(かへり)み、父子(ふし)もろ共(とも)に死地(しち)に就(つき)なば、名聞(めうもん)に似(に)て、君父(くんふ)に益(ゑき)なし。存命(ながらへ)て母(はゝ)と姉(あね)を、養(やしな)へと宜(のたま)はする、おん慈(いつくし)みは某(それがし)が身ひとつに候はず、親子(おやこ)三人(みたり)がうへに係(かゝ)るを、なんでふ推辞(いなみ)(たてまつ)らん。とはいへ再會(さいくわい)(はかり)がたき、おん別(わか)れに候へば、某(それがし)おん先(さき)つかまつらん。せめては親子(おやこ)もろ共(とも)に、虎口(こゝう▼セメクチ)を脱(のが)れ給へかし。おん鎧(よろひ)の威毛(をどしけ)のいと花(はな)やかにて目(め)だつなる。雜兵(ざふひやう)の革(かは)具足(ぐそく)、袖(そで)觧捨(ときすて)てまゐらせん。是(これ)はや穿(めし)かえ給ひね」と慰(なぐさ)めてかひがひしく、落(おち)支度(したく)をいそがせは、父(ちゝ)はまだ乾(ひ)ぬ涙(なみだ)の目尻(まなしり)、拭(ぬぐ)ひもあへず莞尓(につこ)と笑(え)み、「番作(ばんさく)微妙(いみじく)いひつるかな。汝(なんぢ)只管(ひたすら)血氣(けつき)にはやりて、もろ共(とも)に死(しな)んとて、争(あらそ)ひやせん、辞(いろ)ひやせん、と思ふには似(に)すなか/\に、親(おや)(はづか)しき孝心(こうしん)なり。固(もと)より覚期(かくご)の事なれは、われも雜兵(ざふひやう)(ら)にたち雜(まじ)りて、一圓(ひとまど)虎口(こゝう)を脱(のが)れなん。しかはあれ共親(おや)と子(こ)が、もろ共(とも)に奔(はし)りなは、謀(はかりこと)なきに似(に)たり。汝(なんぢ)は先(さき)にはや落(おち)よ。われは又(また)後門(からめて)より、途引(みちひき)ちがへて走去(はせさり)なん。いそげや急(いそ)げ」と焦燥(いらたつ)(こゑ)も、矢叫(やさけび)の音(おと)に紛(まぎ)れつゝ、攻入(せめい)る敵軍(てきぐん)、必死(ひつし)の城兵(ぜうひやう)、撃(うた)るゝもあり、撃(うつ)もあり、名(な)もなき仂武者(はむしや)は足(あし)に信(まか)して、風(かぜ)に落葉(おちば)の閃(ひらめ)く如(ごと)く、塀(へい)を踰(こえ)、溝(ほり)を渉(わた)して、路(みち)なき途(みち)を求(もと)めつゝ、四零(ちり/\)八落(はら/\)に逃亡(にげうせ)たり。縡(こと)の紛(まぎ)れに大塚(おほつか)親子(おやこ)も、辛(からく)して城中(ぜうちう)を脱(のが)れ去(さり)、親(おや)は子(こ)を見かへれども、竟(つひ)にその影(かげ)だも見えず。子(こ)は又(また)(おや)を索(たづぬ)れども、あふよし絶(たえ)てなかりけり。
 抑(そも/\)この一條(ひとくだり)の物語(ものかたり)は、肇輯(ぢやうしふ)第一(だいいち)の巻端(くわんたん)に説出(ときいだ)したる、結城(ゆふき)合戦(かつせん)落城(らくぜう)のとき、里見(さとみ)季基(すゑもと)遺訓(いくん)して、嫡男(ちやくなん)義実(よしさね)を延(おと)せしと、是(これ)同日(どうじつ)の事(こと)にして、彼(かれ)は義(ぎ)に依(よ)る、智勇(ちゆう)の大將(たいせう)、此(これ)は誠忠(せいちう)譜第(ふだい)の近臣(きんしん)、官職(くわんしよく)(もと)よりその差(しな)あり、言(こと)(わたくし)に及(およ)ぶといへども、恩義(おんぎ)の為(ため)に身(み)を殺(ころ)し、その子(こ)のために訓(をしへ)をのこせし、こゝろは符節(ふせつ)を合(あは)する如(ごと)く、人(ひと)の親(おや)たる慈(いつくし)み、おのづからなる誠(まこと)なり。
 却説(かくて)大塚(おほつか)番作(ばんさく)は、父(ちゝ)の必死(ひつし)を外(よそ)に見て、存命(ながらふ)べくも思はねど、そを争(あらそは)んも火急(くわきう)の折(をり)なり、志(こゝろざし)を立(たて)んとて、父(ちゝ)の今果(いまは)に物(もの)を思はせ、よしなき所行(わざ)に時(とき)を移(うつ)して、親(おや)も子(こ)も虜(とりこ)とならは、後悔(こうくわい)其処(そこ)に立(たち)がたし。一旦(いつたん)その意(ゐ)に任(まか)するとも、又(また)せんすべのなからずやは、とそのときにはや思念(しあん)して、軈(やが)て城中(ぜうちう)を脱(のが)れ出(いで)、袖号(そでじるし)を掻擲(かなぐり)(すて)て、髪(かみ)ふり紊(みだ)して、面(つら)を隱(かく)し、敵兵(てきへい)にたち雜(まじ)りて、両(りやう)公達(きんたち)のおん所在(ありか)を、しのび/\に窺(うかゞ)ひけり。いひあはさねど君(きみ)を思ふ、心(こゝろ)はおなじ父(ちゝ)匠作(せうさく)は、これも敵陣(てきぢん)に紛(まぎ)れ入(い)りて、縡(こと)の為体(ていたらく)を窺(うかゞ)ふに、春王(しゆんわう)安王(やすわう)のおん胞兄弟(はらから)は、管領(くわんれい)清方(きよかた)が従軍(じゆうぐん)、長尾(ながを)因幡介(いなばのすけ)が手(て)に生拘(いけと)られ、軍(いくさ)(さん)じて後(のち)に、鎌倉(かまくら)へと聞(きこ)えしかは、匠作(せうさく)は、猶(なほ)姿(すがた)を変(かえ)、容(かたち)を窶(やつ)して、先途(せんど)を見んとする程(ほど)に、五月十日あまりに及(およ)びて、清万(きよかた)(すなはち)、長尾(ながを)因幡介(いなばのすけ)を警固使(けいごし)とし、信濃介(しなのゝすけ)政康(まさやす)を副使(たすけ)とし、両(りやう)公達(きんたち)をあやしげなる、牢輿(ろうごし)に乗(のせ)たてまつりて、京都(きやうと)へぞ上(のぼ)せける。されば大塚(おほつか)匠作(せうさく)は、このときに又(また)政康(まさやす)が、従卒(じゆうそつ)になり済(すま)して、陰(かげ)ながら両君(りやうくん)のおん供(とも)し奉(たてまつ)り、ともかくもして道中(どうちう)にて、竊(ぬすみ)とりまゐらせん、と豫(かね)て謀(はか)りし事ながら、宗徒(むねと)の兵士(つはもの)二百餘(よ)(き)、四面(しめん)八方(はつほう)をうちかこみ、夜(よ)は通宵(よもすがら)本陣(ほんぢん)に、〓火(かゞりび)を焼明(たきあか)し、幾隊(いくむれ)の火長(ものかしら)、迭代(かたみかはり)に夜行(よまはり)して、露(つゆ)ばかりも由断(ゆだん)せざれば、匠作(せうさく)は思ふに似(に)ず、千々(ちゝ)に肺肝(こゝろ)を〓(くだ)くものから、絶(たえ)てその隙(ひま)なかりけり。
 さるほどに両(りやう)公達(きんだち)は、五宿(いつよさ)六宿(むよさ)と旅宿(たびね)をかさねて、おなじ月(つき)の十六日に、青野(あをの)が原(はら)を過(よぎ)り給ふ。浩処(かゝるところ)に、京都(きやうと)將軍(せうぐん)よりおん使(つかひ)あり。「両(りやう)公達(きんだち)を今(いま)さらに、都(みやこ)へは入(い)れたてまつるな。路次(ろぢ)にてはやく誅(ちう)しまゐらせ、おん首級(しるし)をのぼせよ」と佶(きと)(おふせ)(くだ)されたり。長尾(ながを)(ら)これを承(うけ給は)り、さらばとて美濃路(みのぢ)なる、樽井(たるゐ)の道場(どうしやう)金蓮寺(きんれんじ)に、おん輿(こし)を扛入(かきい)れさせ、その夜(よ)住持(ぢうぢ)を戒師(かいし)として、形(かたち)のごとくとり行(おこな)ひ、矢來(やらい)の四面(しめん)に〓火(かゝりひ)(たか)して、春王(しゆんわう)(きみ)安王(やすわう)(きみ)を、敷革(しきがは)の上(うへ)に推(おし)のぼして、最期(さいご)のよしを告(つげ)(たてまつ)り、嘆息(たんそく)しつゝ退(しりぞ)けば、住持(ぢうぢ)は念珠(ねんず)揉鳴(もみな)らし、間近(まちか)く進(すゝ)みて叮嚀(ねんごろ)に、十念(じうねん)を授(さづけ)奉る。春王(しゆんわう)(きみ)は大人(おとな)しく、安王(やすわう)(きみ)にうち對(むか)ひ、「囚(とらは)れとなりしその日(ひ)より、かゝるべしとはかねてぞしりぬ。思へば前月(せんげつ)結城(ゆふき)にて、氏朝(うぢとも)をはじめとして、われらが為(ため)に討死(うちじに)せし、いくその武士(ぶし)の初月(しよぐわつ)(き)に、周(めぐ)りあひつゝ同胞(はらから)が、その日(ひ)に死(し)ぬるはせめてもの、罪滅(つみほろぼ)しに侍(はべ)るかし。かならずな歎(なげ)き給ひそ」となぐさめ給へばうち点頭(うなつく)、「西方(さいほう)とやら浄土(じやうど)とやらんに、父上(ちゝうへ)母君(はゝきみ)まします、と人(ひと)が誨(をしえ)て候へば、死(し)してふたゝび亡親(なきおや)に、遭(あひ)(たてまつ)るものならば、何(なに)かは悲(かなし)み侍(はべ)るべき。さはれ冥土(めいど)の路(みち)しらず、是(これ)のみ心(こゝろ)ぼそく侍(はべ)り。後(おく)れ給ふな」「後(おく)れじ」と迭(かたみ)に諫(いさ)め激(はげま)されて、騒(さわ)ぎたる氣色(けしき)なく、さゝやかなる掌(て)をうち合(あは)し、はや目(め)を閉(とぢ)て俟(まち)給へば、長尾(ながを)が老黨(らうどう)牡蠣崎(かきさき)小二郎(こじらう)、錦織(にしごり)頓二(とんじ)、切鞆(きりつか)(かけ)たる刃(やいば)を引提(ひさげ)て、おん後方(あとべ)にぞたちよする。これを見、これを聞(きゝ)あへず、長尾(ながを)はさら也、政康(まさやす)(ら)、あな痛(いた)まし、とばかりに、鼻(はな)うちかめば、雜兵(ざふひやう)まで、鎧(よろひ)の袖(そで)を濡(ぬら)しけり。况(まして)や人(ひと)の後方(あとべ)にをりて、この為体(ていたらく)を見奉る、大塚(おほつか)匠作(せうさく)は声(こゑ)を呑(の)む、涙(なみだ)は泉(いづみ)の涌(わく)ごとく、胸(むね)(つぶ)れ腸断(はらわたちぎ)れ、某(それがし)こゝに候、と名告(なの)ればこそあれ、名告(のら)れぬ、主従(しゆう/\)三世(さんせ)の辞別(いとまごひ)、何(なに)といは木(き)を恨(うらむ)るのみ、又(また)せんすべもなきまゝに、憤然(ふんぜん)として思ふやう、三面(さんめん)六臂(ろつひ)あればとて、この期(ご)に及(およ)びて公達(きんだち)を、救(すく)ひ奉るべうもあらず。殉腹(おひはら)(き)らんは易(やす)けれども、せめて當座(たうざ)の讐敵(あたかたき)、長尾(ながを)を撃(うち)てわれ死(しな)ん。いな/\彼処(かしこ)は間遠(まとほ)也。もししそんじてはその詮(せん)なし。よし/\牡蠣崎(かきさき)錦織(にしごり)なり共(とも)、主君(しゆくん)を害(がい)する怨(うらみ)はおなじ。這奴(しやつ)(ら)なりとも討果(うちはた)して、いでや黄泉(よみぢ)のおん郷導(みちしるべ)、仕らんと、肚裏(はらのうち)に、尋思(しあん)の臍(ほぞ)を固(かた)めつゝ、刀(かたな)の〓釘(めくぎ)舐湿(くひしめ)して、西(にし)へ遶(めぐ)り、東(ひがし)に居(ゐ)なほり、やゝ近(ちか)つかんとする程(ほど)に、二人(ふたり)の大刀(たち)とり矢声(やこゑ)をかけて、晃(きらめ)かす刃(やいば)の光(ひかり)に、憐(あはれ)
【挿絵】「怨(うらみ)を報(むく)ひて番作(ばんさく)君父(くんふ)の首級(くび)をかくす」「大塚番作」「にしごり頓二」「牡蛎崎小二郎」
べし、両(りやう)公達(きんたち)の、御頭顱(みぐし)は〓(はた)と地(ち)に落(おち)たり。匠作(せうさく)吐嗟(あはや)、と囲繞(ゐにう)せし、警固(けいご)の武士(ぶし)を〓踰(ふみこえ)て、矢來(やらい)の内(うち)に跳入(おどりい)り、「両(りやう)公達(きんたち)のおん傅(かしつき)、大塚(おほつか)匠作(せうさく)こゝにあり。怨(うらみ)の刃(やいば)(うけ)よや」と怒(いかり)の大音(だいおん)、名告(なのり)かけて、二尺九寸の大(おほ)業物(わざもの)、拭手(ぬくて)(するど)く錦織(にしごり)頓二(とんじ)が肩尖(かたさき)より乳(ち)の下(した)まで、ばらりずんと〓仆(きりたふ)せば、牡蠣崎(かきさき)小二郎(こじらう)(おほ)きに驚(おどろ)き、原來(さては)癖者(くせもの)(のが)さじと、拿(もつ)たる血刀(ちかたな)(ひらめか)し、遽(いそがは)しくふりかへる、匠作(せうさく)が右(みぎ)の腕(たゞむき)、水(みづ)も溜(たま)らず〓落(きりおと)し、弱(よは)るところを畳(たゝみ)かけて、細頸(ほそくび)發石(はつし)とうち落(おと)せば、陣笠(ぢんかさ)(き)たる一個(ひとり)の雜兵(ざふひやう)、群立(むらたち)さわぐ兵士(つはもの)を、推(おし)わけ掻(かき)わけ、飛(と)ぶが如(ごと)くに、矢來(やらい)の内(うち)へ進(すゝみ)入りて、両(りやう)公達(きんたち)のおん首級(しるし)を、左手(ゆんて)に髻(もとゞり)(つかみ)よせ、匠作(せうさく)が首(くび)さへとりあげ、頭髻(たぶさ)を口(くち)に楚(しつか)と銜(くは)えて、片手(かたて)なぐりに腰刀(こしかたな)、ぬく手(て)も見せず牡蠣崎(かきさき)を、乾竹割(からたけわり)に〓伏(きりふせ)たり。
 思ひかけなき事なれば、二百餘人(よにん)の兵士(つはもの)(ら)、あれよあれよ、と散動(どよめ)くのみ。近(ちか)きは呆(あき)れてせんすべしらず、遠(とほ)きは前(まへ)なる人(ひと)に堰(せか)れて、左右(さう)なくは進(すゝ)み得(え)ず。その隙(ひま)に件(くだん)のをのこは、陣笠(ぢんがさ)(て)ばやに掻遺(かいやり)(すて)、「持氏(もちうぢ)朝臣(あそん)恩顧(おんこ)の近臣(きんしん)、大塚(おほつか)匠作(せうさく)三戌(みつもり)が一子(いつし)、番作(ばんさく)一戌(かずもり)十六歳(さい)、親(おや)の教訓(きやうくん)固辞(いなみ)かたくて、戦場(せんじやう)を脱(のが)れ去(さ)り、父(ちゝ)にはしらせず、われも亦(また)君父(くんふ)の先途(せんど)を見(み)(はて)ん為(ため)に、この処(ところ)まで來(き)ぬるかひに、親(おや)の仇人(かたき)はうちとつたり。われと思はんものあらは、搦(からめ)よやッ」と喚(よばゝ)れは、因幡介(いなばのすけ)(きつ)と見て、「原來(さては)結城(ゆふき)の残黨(ざんたう)が、早晩(いつしか)(まぎ)れ入(いり)たるぞ。遮莫(さもあらばあれ)(はたち)にも、えたらぬ童(わらは)が分際(ぶんざい)で、何(なに)ほどの事やはする。彼(あれ)生拘(いけと)れ」と下知(けぢ)すれば、「承(うけ給は)る」と夥(あまた)の士卒(しそつ)、手(て)とりにせん、と矢來(やらい)の内(うち)、込入(こみい)らんとする処(ところ)を、真額(まつかう)梨割(なしわり)車切(くるまきり)、秘術(ひじゆつ)を竭(つく)す手煉(しゆれん)の大刀風(たちかぜ)、譬(たとひ)ば草(くさ)の偃(のへふ)す如(ごと)く、又(また)秋葉(しうえう)の散(ち)るごとく、その刀尖(きつさき)に向(むか)ふもの、深痍(ふかて)を負(おは)ぬはなかりけり。故(ゆゑ)あるかな番作(ばんさく)が、刀(かたな)は名(な)におふ村雨(むらさめ)なれば、刃(やいば)の竒特(きどく)(あやまた)ず、うち振(ふ)るたびに刀尖(きつさき)より、涌出(わきいづ)る水(みづ)、挟霧(さぎり)のごとく、四角(しかく)八方(はつほう)にふりかゝれば、焼(たき)つゞけたる蕉火(たいまつ)〓火(かゝりび)、これが為(ため)にうち滅(け)され、時(とき)しも皐月(さつき)の天(そら)なれば、昼(ひる)の雨雲(あまくも)いやかさなりて、十六日の月(つき)見えず、如法(によほう)暗夜(あんや)となりしかは、長尾(ながを)が士卒(しそつ)は同士(どし)(うち)して、痍(て)を被(おふ)ものます/\夛(おほ)かり。番作(ばんさく)はこの光景(ありさま)に、天(てん)の祐(たすけ)といよ/\氣(き)を得(え)て、撃靡(うちなびか)し、殺開(きりひら)き、矢來(やらい)の外(そと)へ衝(つ)と出(いで)て、夛勢(たせい)の中(なか)へ割(わつ)て入り、透(すき)を窺(うかゞ)ひ墓原(はかはら)なる、薮(やぶ)を潜(くゞ)り、溝(ほり)を飛(とび)こえ、往方(ゆくへ)もしれずなりにけり。
 現(げに)由断(ゆだん)大敵(たいてき)にて、事(こと)に熟(なれ)たる長尾(ながを)なれ共、名劔(めいけん)の竒特(きどく)により、〓火(かゝりひ)さへに滅(けさ)れしかは、癖者(くせもの)を得(え)(からめ)ず、剰(あまさへ)春王(しゆんわう)安王(やすわう)のおん首級(しるし)を奪(うば)ひとられ、面目(めんぼく)を失(うしな)ふものから、さてあるべきにあらざれば、京都(きやうと)へ使者(ししや)をまゐらせて、且(まづ)室町(むろまち)將軍(せうぐん)へ、縡(こと)の趣(おもむき)を訴(うつたへ)(たてまつ)り、その夜(よ)より、八方(はつほう)へ部(てわけ)して、日毎(ひごと)に番作(ばんさく)が往方(ゆくへ)を索求(たづねもとむ)れども、それぞとしるべきよすがもなく、徒(いたつら)に日(ひ)を送(おく)るほどに、京都(きやうと)へまゐらせたる使者(ししや)かへり來(き)て、御教書(みぎやうしよ)也とてとり出(いだ)すを、因幡介(いなばのすけ)(うや/\)しく受(うけ)とりて、みなもろ共(とも)に拝見(はいけん)す。其(その)(りやく)に、「春王(しゆんわう)安王(やすわう)が首級(しるし)を奪(うば)ひとられし事、大(おほ)かたならぬ越度(をちど)なれども、既(すで)に誅果(ちうしはて)たれば、盗(ぬすみ)しものに益(ゑき)あるまじく、國家(こくか)の為(ため)に害(がい)あらず。よりて長尾(ながを)因幡介(いなばのすけ)が今度(こだみ)の軍功(ぐんこう)に換(かえ)思食(おぼしめし)、その罪(つみ)を宥(なだめ)らる。鎌倉(かまくら)へ罷(まかり)(くだり)て、清方(きよかた)に告(つげ)しらせ、残黨(ざんたう)穿鑿(せんさく)すべき者(もの)(なり)。仍(よつて)執達(しつたつ)如件(くだんのごとし)。嘉吉(かきつ)元年(ぐわんねん)五月十八日。斯波(しば)義淳(よしあつ)(ら)(うけ給は)る」と読(よみ)あへず、長尾(ながを)主従(しゆう/\)微笑(みせう)して、はじめて安堵(あんど)の思ひをなし、軈(やが)て両(りやう)公達(きんたち)のおん躯(むくろ)をとり斂(おさ)め、撃(うた)れたる士卒(しそつ)の亡骸(なきから)さへ、金蓮寺(きんれんじ)に葬(ほうむり)(はて)て、次(つぐ)の日(ひ)樽井(たるゐ)を發足(ほつそく)し、鎌倉(かまくら)を投(さし)て還(かへ)りけり。長尾(ながを)(ら)が事(こと)、この下(しも)に話(はなし)なし。
 案下某生再説(それはさておき)、大塚(おほつか)番作(ばんさく)は、必死(ひつし)の覚期(かくご)も忠孝(ちうこう)の誠(まこと)を護(まも)らせ給ふなる、神明(しんめい)佛陀(ぶつだ)の冥助(めうぢよ)によりけん、からく一條(ひとすぢ)の血路(みち)を開(ひら)きて、金蓮寺(きんれんじ)を脱(のが)れ去(さり)、東(ひがし)を望(さし)て終夜(よもすがら)、名(な)をだもしらぬ山路(やまぢ)にわけ入り、樵夫(きこり)のかよふ細道(ほそみち)を、たどる/\天(よ)を明(あか)しつ、次(つぐ)の日(ひ)も猶(なほ)(いこ)はで、只管(ひたすら)に走(はし)る程(ほど)に、十七日の黄昏(たそがれ)には、吉蘇(きそ)の御坂(みさか)のこなたなる、夜長嶽(よながたけ)の麓(ふもと)に出(いで)たり。この行程(みちのり)を数(かぞ)ふれば、樽井(たるゐ)より廾餘里(より)、三十里(り)に庶(ちか)かるべし。こゝまで追人(おつて)はかゝらじ、と思へは忽地(たちまち)心放(こゝろゆる)みて、手足(てあし)の疼痛(いたみ)(はなはだ)し。こゝにわが身(み)を見かへれば、浅痍(あさで)なれども五六个所(かしよ)、鮮血(ちしほ)は衣(きぬ)を浸(ひた)すが如(ごと)し。加以(これのみならず)昨夜(よんべ)より、飲(のま)ず食(くら)はで走(はし)りにければ、心神(しん/\)(とも)にいたく疲労(つか)れて、一歩(いつほ)も運(はこば)しがたきものから、志(こゝろざし)を激(はげま)して、道次(みちのほとり)に立(たち)も息(いこ)はず、君父(くんふ)の元(かうべ)を隱(かく)さんとて、苦痛(くつう)を忍(しの)びて彼此(をちこち)と、便宜(びんぎ)の墓所(むしよ)を求(もとむ)るに、この処(ところ)は里(さと)(とほ)き、山(やま)ふところにして雲(くも)(ちか)く、峯(みね)は翠(みどり)に水(みづ)(しろ)かり。向上(みあぐ)れば青壁(せいへき)、刀(かたな)して削(けづ)れるごとく、直下(みおろ)せは碧潭(へきたん)、鑿(のみ)もて穿(うがて)るに似(に)たり。目(め)に視(み)る佳景(かけい)なきにあらねど、物(もの)思ふ身(み)は心(こゝろ)もとまらず。颯々(さつ/\)たる松風(まつかぜ)は、追來(おひく)る敵(てき)の声(こゑ)かと疑(うたが)ひ、喃々(なん/\)たる鳥語(とりのね)は、憂(うき)を慰(なぐさ)む友(とも)としならず。とかくする程(ほど)に山路(やまぢ)より、山道(やまぢ)にけふもくらしつゝ十七日の月(つき)の影(かげ)、山(やま)の端(は)に升(のぼ)る比(ころ)、樹垣(いけがき)ふかく締遶(ゆひめぐら)したる、白屋(くさのや)のほとりに來(き)にけり。庭門(にはぐち)の諸(もろ)折戸(をりと)は、半扉(かたとびら)朽失(くちう)せて、荒(あれ)たきまゝの孤館(ひとつや)なり。今宵(こよひ)はこゝに足(あし)を休(やす)めて、一碗(いちわん)の粮(かて)をも乞(こは)め、と思へば庭(には)に進(すゝ)み入(い)りて、月(つき)を燭(あかし)に、と見かう見れば、こゝなん一宇(いちう)の田舎(ゐなか)道場(でら)にて、持佛堂(ぢぶつだう)とおぼしき檐(のき)に、檜(ひのき)の輪板(まるいた)を額(がく)にして、拈華庵(ねんげあん)の三字(さんじ)を掛(かけ)たり。それすら漏雨(もるあめ)に磨滅(まめつ)して、幽(かすか)にぞ読(よま)れたる。其処(そこ)よりこなたは墓所(むしよ)にして、石卵塔(せきらんたふ)あまたあり。番作(ばんさく)つく/\思ふやう、君父(くんふ)の頭顱(みぐし)を〓(うづめ)んに、こは究竟(くつきやう)の処(ところ)なれども、明々地(いさゝめ)に由(よし)を告(つげ)なば、おそれてかならずうけ引(ひく)べからず。菴主(あんしゆ)にはしらせずして、葬(ほふむ)り果(はて)て後(のち)にこそ、宿(やどり)を乞(こは)め、と深念(しあん)して、足(あし)を翹(つまだて)、潜(しの)びやかに、あちこちをさし覗(のぞ)けば、持佛堂(ぢぶつだう)の簀子(すのこ)の下(した)に、一挺(いつてう)の〓(すき)さへあり。よき物(もの)(え)つ、と引出(ひきいだ)し、肩(かた)にうち掛(かけ)つゝ墓所(むしよ)に赴(おもむ)き、さて何処(いづこ)にか葬(ほうむら)ん、と左邊(ゆんで)右邊(めて)を見かへれば、新葬(あらほとけ)とおぼしくて、石(いし)を居(すえ)ざる一座(いちざ)の塚(つか)あり。このほとりの壌(つち)やわらかにて、掘發(ほりおこ)すに便(たより)よければ、この新葬(あらほとけ)と推並(おしなら)べて、思ふまゝに穴(あな)を掘(ほ)り、三頭(みつのかうべ)を深(ふか)く〓(うづ)めて、舊(もと)の如(ごと)くに壌(つち)を〓(おほ)ひ、跪(ひざまつ)きて合掌(がつせう)し、念(ねん)じ果(はて)て身(み)を起(おこ)し、〓(すき)さへ簀子(すのこ)のしたへ返(かへ)すに、裡面(うち)には人(ひと)のありやなしや、誰(たそ)と咎(とがむ)る声(こゑ)もせず。かくて庖〓(くりや)の方(かた)に立(たち)より、ほと/\と戸(と)を敲(たゝ)きて、「喃(なふ)この菴主(あんしゆ)に物(もの)申さん。これは山路(やまぢ)に日(ひ)をくらして、餓(うへ)つかれたる行人(たびゝと)なり。素(もと)より慈善(ぢぜん)をあるじとし給ふ、道場(どうしやう)とこそ見奉れ。今宵(こよひ)をあかさせ給ひね」といひかけて戸(と)を推開(おしひら)けば、菴主(あんしゆ)とおぼしきものはをらで、思ひがけなき一個(ひとり)の女子(をなこ)、その年(とし)は可二八(にはちばかり)、鄙(ひな)にはあれど臈闌(らうたけ)て、露(つゆ)を含(ふくめ)る野(の)の花(はな)の、匂(にほひ)こぼるゝ風情(ふぜい)にて、独(ひとり)孤燈(ことう)にさし對(むか)ひ、人(ひと)まちわびたるおもゝちなるが、今(いま)番作(ばんさく)が呼門(おとなひ)あへず、戸(と)を推開(おしあけ)て進(すゝ)み入(い)る、その為体(ていたらく)の異(こと)なるに、駭(おどろ)きおそれて應答(いらへ)はえせず。こなたも呆(あき)れてうち目戌(まも)れば、女子(おなこ)はいとゞ堪(たへ)ずやありけん、衝(つ)と立(たち)て納戸(なんど)のかたへ、避(さけ)んとするを番作(ばんさく)は、遽(いそがは)しく喚(よび)とゞめ、「女中(ぢよちう)さのみな駭(おどろ)き給ひそ。われは山客(やまだち)夜盗(よとう)にあらず。きのふ如此(しか)(%\)々のところにて、親(おや)の仇人(かたき)を撃果(うちはた)し、更(さら)に仇人(かたき)の援刀(すけたち)を、殺脱(きりぬけ)て來(き)つるもの也。さればきのふの侭(まゝ)にして、餓労(うへつか)れてゆくことかなはず。一碗(いちわん)の飯(いひ)を恵(めぐ)みて、宿(やどり)を許(ゆる)し給はらは、是(これ)再生(さいせい)の洪恩(こうおん)なり。吾(われ)つゆばかりも野心(やしん)なし。疑(うたが)ひを釋(とき)給へかし」といひ諭(さと)しつゝ腰刀(こしかたな)を、右手(めて)に取(とり)て後方(あとべ)に推遣(おしや)り、簀子(すのこ)の上(うへ)に進登(すゝみのぼ)れは、件(くだん)の女子(をなこ)はおそる/\、行燈(あんどん)の灯口(ひぐち)さし向(むけ)て、番作(ばんさく)が形容(ありさま)をつく/\と見て歎息(たんそく)し、「尚(まだ)年少(としわか)き方(かた)ざまの、讐(あた)を撃(うち)給ふなる、途(みち)の難義(なんぎ)を救(すく)ひあへず、只(たゞ)一碗(いちわん)の糧(かて)を惜(をしみ)て、強顔(つれなく)款待(もてなす)べうはあらねど、こゝはわらはが宿所(しゆくしよ)に侍(はべ)らず。見給ふごとく道場(どうしやう)なり。固(もと)より田舎(ゐなか)の事(こと)なれは、菴主(あんしゆ)の外(ほか)に戌(も)る人(ひと)なし。嚮(さき)にわらはは亡親(なきおや)の、墓参(はかまい)りして侍(はべ)りしを、菴主(あんしゆ)の法師(ほうし)に喚(よび)とめられ、よくこそ來(き)つれ、かゝる事(こと)にて、貧道(われ)は大井(おほゐ)の郷(さと)までゆく也。黄昏(たそがれ)にはかへり來(き)なん。しばしが程(ほど)ぞ、留守(るす)してよ、といはるゝに固辞(いなみ)がたくて、趾(あと)あづかりて悔(くや)しくも、今(いま)か/\、と俟(まつ)ほどに、日(ひ)ははや暮(くれ)てしかすがに、捨(すて)てかへるに還(かへ)られず、せんすべもなく侍(はべ)るかし。かゝれば飯(いひ)はありながら、わらはがこゝろに任(まか)せがたし」といふを番作(ばんさく)(きゝ)あへず、「いはるゝところ理(ことわ)りなれども、菴主(あんしゆ)の還(かへ)るをまたんとて、轍鮒(てつふ)の窮(きう)を救(すく)はれずは、われはや枯魚(こぎよ)の市(いち)に售(うら)れん。人(ひと)を救(すく)ふは出家(しゆつけ)の本願(ほんぐわん)、菴主(あんしゆ)に断(ことわ)り給はずとも、何(なに)かはさまで咎(とがめ)らるべき。もしかへり來(き)てうち腹(はら)たち、物吝(ものをし)みしておん身(み)を叱(しか)らば、某(それがし)よろしくいひ釋(とく)べし。枉(まげ)て餓渇(きかつ)を救(すく)ひ給へ」と乞求(こひもとむ)るに、推辞(いなみ)かたく、山(やま)折敷(をしき)に麻布帛(あさふきん)うち掛(かけ)たる、菴主(あんしゆ)の碗(わん)をそがまゝに、番作(ばんさく)がほとりにすえて、山檜(やまひのき)に藤箍(かつらたが)せし、飯櫃(いひひつ)を引(ひき)よせて、堆高(うつたか)く盛(もり)ていだす、乾菜(ほしな)まじりの麁麥(あらむぎ)も、時(とき)にとりては美味(びみ)珍膳(ちんぜん)、皿(さら)に塩盈(しほみつ)(たま)味噌(みそ)は、わが口(くち)(ぬら)すはしやすめ、櫃(ひつ)の粮食(かてめし)(つく)るまで、愉(こゝろよ)く食(しよく)し畢(をは)りて、歡(よろこば)しきよしを述(のべ)、膳(ぜん)おし遣(や)れば、をうな子(こ)は、とり納(おさ)めて、「やよ客人(たびゝと)、餓渇(きかつ)は救(すく)ひまゐらせたり。菴(いほり)の留守(るす)にわかきどちが、もろ共(とも)に今宵(こよひ)を暁(あか)さば、人(ひと)の疑(うたが)ひをいかにせん。とく/\出(いで)てゆき給へ」と強面(つれなく)いふを耳(みゝ)にもかけず、袖(そで)まきあげて臂(ひぢ)さし伸(のべ)、「これ見給へかくの如(ごと)く、數个所(すかしよ)の金瘡(なまきず)あるものが、ひとつ臥房(ふしど)に寝(ね)たればとて、何事(なにこと)をかせらるべき。その疑(うたが)ひは人(ひと)にぞよらん。枉(まげ)て一宿(ひとよさ)(あか)さし給へ。餓(うへ)たる腹(はら)を繕(つくろ)ひては、今(いま)一トしほに疲労(つかれ)を覚(おぼえ)て、一歩(ひとあし)もゆきがたし。夏(なつ)の夜(よ)なれば短(みじか)くて、初夜(しよや)すぎたれは程(ほど)もなく、菴主(あんしゆ)は還(かへ)り給ひなん。枉(まげ)て一宿(ひとよさ)(あか)さし給へ」と他事(たじ)なくいはれて是(これ)さへに、推辞(いなみ)かねつゝ歎息(たんそく)し、「さても便(びん)なき所為(わざ)ながら、わらはとてあるじならねば、此(この)うへはともかくも、おん身(み)がこゝろに任(まか)し給へ。しかはあれども山寺(やまてら)なれば、客殿(きやくでん)といふものもなし。枕(まくら)(み)つけて本尊(ほんぞん)の御(み)まへに今宵(こよひ)を暁(あか)し給へ。山里(やまざと)のとり得(え)には、蚤(のみ)(か)は絶(たえ)てをらぬかし」といふに番作(ばんさく)うちほゝ笑(え)み、「理(わり)なく宿(やど)を乞得(こひえ)たる、歡(よろこば)しさはなか/\に、短(みじか)き言葉(ことば)に盡(つく)しかたし。誠(まこと)に女中(ぢよちう)の賜(たま)もの也。ゆるし給へ」といひかけて、やうやくに立(たち)あがれば、女子(をなこ)は軈(やが)て指燭(しそく)して、「これもてゆきね」とさし出(いだ)すを、忝(かたじけな)し、と右手(めて)にとり、左手(ゆんで)に隔亮(からかみ)(おし)ひらきて、持佛堂(ぢふつだう)へぞ寝(ね)にゆきぬ。


# 『南総里見八犬伝』第十五回 2004-09-19
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