『南總里見八犬傳』第七回


南總里見八犬傳(なんさうさとみはつけんでん)巻之四
  東都 曲亭主人編次

 第七回(だいしちくわい) 景連(かげつら)奸計(かんけい)信時(のぶとき)を賣(う)る\孝吉(たかよし)節義(せつぎ)義実(よしさね)に辞(ぢ)

 杉倉(すぎくら)木曽介(きそのすけ)氏元(うぢもと)が使者(ししや)、蜑崎(あまさき)十郎(じうらう)輝武(てるたけ)、東條(とうでふ)よりはせ参(まゐ)りて、麻呂(まろの)信時(のぶとき)が首級(しゆきう)を進(まゐ)らせたりければ、義実(よしさね)は大床子(おほせうじ)のほとりに出(いで)て、件(くだん)の使者(ししや)をちかく召(めさ)せ、合戦(かつせん)の為体(ていたらく)を、みづから問(とは)せ給ひしかば、蜑崎(あまさき)十郎まうすやう、「兵粮(ひやうろう)(とも)しくまします事、氏元(うぢもと)(かね)てこゝろにかゝれば、百姓們(ひやくせうばら)を催促(さいそく)して、運送(うんそう)せばやと思ふ程(ほど)に、安西(あんさい)景連(かげつら)、麻呂(まろの)信時(のぶとき)、はや定包(さだかね)にかたらはれて、海陸(かいりく)の通路(つうろ)を塞(ふさ)ぎ、小荷駄(こにだ)を取(と)らんとわれを俟(まつ)。縡(こと)の難義(なんぎ)に及(およ)びしかば、氏元(うぢもと)ます/\憂悶(うれひもだへ)て、いたづらに日を過(すぐ)したり。しかるに景連(かげつら)、一夕(あるよ)(ひそか)に、家隷(いへのこ)某甲(なにがし)をもて、氏元(うぢもと)にいはするやう、『山下(やました)定包(さだかね)は、逆賊(ぎやくぞく)也。よしや蘇秦(そしん)張儀(ちやうぎ)をもて、百遍(もゝたび)千遍(ちたび)相譚(かたらふ)とも、承引(うけひく)べうは思はざりしに、信時(のぶとき)にそゝのかされて、渠(かれ)が為(ため)に途(みち)を塞(ふた)ぎ、良將(りやうせう)勇士(ゆうし)を苦(くるし)めしは、われながら浅猿(あさまし)、と後悔(こうくわい)(ほぞ)を噬(かむ)ものから、信時(のぶとき)只管(ひたすら)(やしり)を磨(とぎ)て、説(とけ)ども思ひかへさねば、是(これ)も亦(また)(くつ)を隔(へだて)て、癬(かゆき)を掻(か)くに異(こと)ならず。倩(つら/\)(こと)の情(ぜう)を量(はか)るに、信時(のぶとき)は匹夫(ひつふ)の勇士(ゆうし)、利(り)の為(ため)に義(ぎ)を忘(わす)れて、貪(むさぼ)れども飽(あく)ことなし。景連(かげつら)舊好(きうこう)を思ふ故(ゆゑ)に、一旦(いつたん)合體(がつたい)するといへども、もし誤(あやまち)を改(あらため)ずは、狂人(きやうしん)を追(お)ふ不狂人(ふきやうじん)、走(はし)るは共(とも)にひとしかるべし。所詮(しよせん)合體(がつたい)の念(おも)ひを翻(ひるかへ)し、まづ信時(のぶとき)を撃果(うちはた)して、兵粮(ひやうろう)運送(うんそう)の路(みち)を開(ひら)き、里見殿(さとみとの)に力(ちから)を戮(あは)して、賊首(ぞくしゆ)定包(さだかね)を討滅(うちほろぼ)し、大義(たいぎ)を舒(のべ)んと思ふのみ。曩(さき)にはたま/\來臨(らいりん)せられし、里見(さとみ)ぬしを要(えう)とゞめず。あるじ態(ぶり)の礼儀(いや)なかりしは、彼(かの)信時(のぶとき)が拒(こばめ)るゆゑなり。願(ねが)ふは和殿(わどの)(しろ)を出(いで)て、短兵急(たんへいきう)に攻(せめ)かゝれ。信時(のぶとき)は野猪(ゐのしゝ)武者(むしや)也。敵(てき)を見て思慮(しりよ)もなく、一陣(いちゞん)に進(すゝま)んず。そのとき景連(かげつら)後陣(ごぢん)より、さし挟(はさみ)てこれを撃(うた)ば、信時(のぶとき)を手取(てとり)にせん事(こと)、掌(たなそこ)を返(かへ)す如(ごと)けん。狐疑(こぎ)して大事(だいじ)を誤(あやまち)給ふな。をさ/\回答(いらへ)を俟(まつ)』といへり。
 しかれども氏元(うぢもと)は、敵(てき)の謀(はかりこと)にもや、と思ひしかば、佻々(かろ/\)しく従(したが)はず。使者(ししや)の往返(わうへん)(たび)かさなりて、偽(いつはり)ならず聞(きこ)えにければ、さは信時(のぶとき)を撃(うた)んとて、安西(あんさい)に諜(てふ)じ合(あは)せ、降(ふり)み降(ふら)ずみ五月雨(さみだれ)の、黒白(あやめ)もわかぬ暗夜(くらきよ)に、二百餘騎(よき)を引率(いんぞつ)し、枚(ばい)を銜(ふく)み、〓(くつわ)を鉗(つぐ)め、麻呂(まろの)信時(のぶとき)が屯(たむろ)せる、濱荻(はまをぎ)の柵(さく)の前後(せんご)より、犇々(ひし/\)と推(おし)よせて、鬨(とき)を咄(どつ)とつくり掛(かけ)、無二(むに)無三(むざん)に突(つい)て入(い)る。敵(てき)よすべしとはおもひかけなき、麻呂(まろ)の一陣(いちゞん)劇騒(あはてさわ)ぎて、繋(つなげ)る馬(うま)に鞭(むち)を當(あて)、弦(つる)なき弓(ゆみ)に箭(や)をとり添(そえ)、紊立(みだれたつ)たる癖(くせ)なれば、只(たゞ)活路(にげみち)を求(もとむ)るのみ、防戦(ふせぎたゝかは)んとするものなし。そのとき信時(のぶとき)(こゑ)を激(はげま)し、『憑(たのも)しげなきもの共(ども)かな。敵(てき)は正(まさ)しく小勢(こぜい)也。推包(おしつゝん)で撃(うち)とらずや。落(おと)されて前原(まへはら)なる、安西(あんさい)に笑(わらは)れな。撃(うて)よ進(すゝ)め』と烈(はげ)しく令(けぢ)して、真先(まつさき)に馬(うま)乗出(のりいだ)し、鎗(やり)りう/\とうち揮(ふり)て、逼入(こみい)る寄手(よせて)を突倒(つきたふ)す。その勢(いきほ)ひは正(まさ)に是(これ)、群(むらが)る羊(ひつじ)の中(うち)に入(い)る、猛虎(まうこ)の暴(ある)るゝに異(こと)ならず。士卒(しそつ)はこれに勵(はげま)され、將(はた)後陣(ごぢん)なる安西(あんさい)が、援來(たすけき)なんと思ひけん、逃(にげ)んとしたる踵(きびす)を旋(めぐ)らし、〓叫(おめきさけび)て戦(たゝか)へば、こゝろならずも躬方(みかた)の先陣(せんぢん)、外面(とのかた)へ追(おひ)かへされ、路(みち)のぬかりに足(あし)も得(え)たゝず、辷(すべ)り跌(つまつ)き引(ひき)かねたり。
 當下(そのとき)杉倉(すきくら)氏元(うぢもと)は、眼(まなこ)を〓(いから)し、声(こゑ)をふり立(たて)、『一旦(いつたん)(やぶ)りし一二の柵(さく)を、追(おひ)かへさるゝことやはある。名(な)を惜(をし)み、恥(はぢ)をしるものは、われに続(つゞ)け』といひあへず、白旆(さいはい)(とつ)て腰(こし)に挿(さし)、鐙(あぶみ)を鳴(な)らし、馬(うま)を進(すゝ)めて、烏夜(やみ)に晃(きらめ)く長刀(なぎなた)を、水車(みづくるま)の如(ごと)く揮廻(ふりまは)して、信時(のぶとき)に撃(うつ)て懸(かゝ)れば、〓(かゞり)の火光(ひかり)に佶(きつ)と見て、『汝(な)は氏元(うぢもと)(か)、よき敵(てき)也。其処(そこ)な退(のき)そ』と呼(よ)びかけて、鎗(やり)を捻(ひねつ)て〓(はた)と突(つけ)ば、發石(はつし)と受(うけ)てはねかへし、引(ひけ)ばつけ入(い)り、すゝめば開(ひら)き、一上(いちじやう)一下(いちげ)と手(て)を盡(つく)す。大將(たいせう)かくのごとくなれば、躬方(みかた)も敵(てき)も遊兵(ゆうへい)なく、相助(あいたすく)るに暇(いとま)なければ、氏元(うぢもと)と信時(のぶとき)は、人(ひと)を雜(まじへ)ず戦(たゝか)ふ程(ほど)に、信時(のぶとき)焦燥(いらつ)て突出(つきいだ)す、鎗(やり)の尖頭(ほさき)を氏元(うぢもと)は、左手(ゆんで)へ丁(ちやう)と拂除(はらひのけ)、おつと〓(おめい)て、向上(みあぐ)る所(ところ)を、長刀(なぎなた)の柄(ゑ)を拿延(とりのべ)て、内兜(うちかぶと)へ突入(つきい)れて、むかふざまに衝落(つきおと)せば、さしもの信時(のぶとき)灸所(きうしよ)の痛手(いたて)に、得堪(えたへ)ず鎗(やり)を手(て)にもちながら、馬(うま)より〓(だう)と滾落(まろびおつ)る、音(おと)に臣等(わくら)は見かへりて、飛(とぶ)がごとくに走(はせ)よせて、その頸(くび)(とつ)て候」と言葉(ことば)せわしく聞(きこ)えあぐれは、義実(よしさね)つく/\とうち聞(きゝ)て、「氏元(うぢもと)がその夜(よ)の軍功(ぐんこう)、賞(せう)するに堪(たへ)たれども、計畧(はかりこと)(たら)ざりけり。景連(かげつら)(にはか)に心裏(うら)(かへ)りて、信時(のぶとき)を撃(うた)する事、その故(ゆゑ)なくはあるべからず。夫(それ)両雄(りやうゆう)は竝立(ならびたゝ)ず、信時(のぶとき)景連(かげつら)相與(あひとも)に、われを撃(うつ)とも早(とみ)に捷(かた)ずは必(かならず)(へん)を生(せう)ずべし。然(さ)るを氏元(うぢもと)ゆくりなく、安西(あんさい)にそゝのかされて、信時(のぶとき)を撃(うち)とりしは、躬方(みかた)の為(ため)に利(り)はなくて、景連(かげつら)が為(ため)になりなん。彼(かの)安西(あんさい)は何(なに)とかしつる」と問(とは)せ給へば、蜑崎(あまさき)十郎、「さン侯。景連(かげつら)は、その夜(よ)さり躬方(みかた)の為(ため)に、征箭(そや)一條(ひとすぢ)も射出(いいだ)さず、いつの程(ほど)にか前原(まへはら)なる、柵(さく)を退(しぞ)きて候」と答(こたへ)まうせば、義実(よしさね)は、扇(あふぎ)をもつて膝(ひざ)を鼓(うち)、「しかれば既(すで)に景連(かげつら)が、奸計(かんけい)は著(あらは)れたり。わが滝田(たきた)を攻(せめ)しとき、勝敗(せうはい)(はかり)かたしといへども、定包(さだかね)は天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)も憎(にくま)せ給ひて、人(ひと)のゆるさぬ逆賊(ぎやくぞく)なり。一旦(いつたん)その利(り)あるに似(に)たるも、始終(しじう)(まつた)からじとは、景連(かげつら)は思ひけん。定包(さだかね)(つひ)に滅亡(めつぼう)し、義実(よしさね)その地(ち)を有(たもつ)に及(およ)びて、信時(のぶとき)は安西(あんさい)が翼(たすけ)になるべきものならず。只(たゞ)(おほ)ばやりに勇(いさ)めるのみ。與(とも)に無謀(むぼう)の軍(いくさ)をせば、脆(もろ)く負(まけ)なんことをおそれて、陽(うへ)には義実(よしさね)と合體(がつたい)して、氏元(うぢもと)に信時(のぶとき)を撃(うた)せ、景連(かげつら)はその虚(きよ)に乗(じやう)じて、平舘(ひらたて)を攻落(せめおと)し、朝夷郡(あさひなこふり)を合(あは)せ領(れう)して、牛角(ごかく)の勢(いきほ)ひを張(は)らんとす。鼓(うち)し扇(あふぎ)は外(はづ)るゝとも、わが推量(すいりやう)は違(たが)はじ」とその脾肝(はいかん)を指(さ)すごとく、いと精細(つばらか)に宣(のたま)ふ折(をり)、氏元(うぢもと)が再度(さいど)の注進(ちうしん)、某乙(なにがし)をとこはせ参(まゐ)りつ。「信時(のぶとき)(すで)に撃(うた)れしかば、残兵(ざんへい)(しきり)に紊(みだ)れ騒(さわ)ぎて、逃(にぐ)るを直(ひた)と追捨(おひすて)て、氏元(うぢもと)は軍兵(ぐんびやう)を、纏(まと)めて軈(やが)て東條(とうでふ)へ、帰陣(きぢん)して候ひしに、豈(あに)おもはんや景連(かげつら)は、はや前原(まへはら)を退(しりぞ)きて、平舘(ひらたて)の城(しろ)を乗取(のつと)り、麻呂(まろ)が采地(れうぶん)朝夷(あさひな)一郡(いちぐん)、みなおのが物(もの)とせり。狗骨(いぬほね)をりて、鷹(たか)に捉(とら)せし、氏元(うぢもと)は労(ろう)して功(こう)なし。おん勢(せい)をさし向(むけ)給はゞ、先鋒(せんぢん)を奉(うけ給は)りて、朝夷(あさひな)一郡(いちぐん)いへばさらなり、景連(かげつら)が根城(ねしろ)を屠(ほふ)りて、この憤(いきどほり)を散(はら)すべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉(たかよし)貞行(さだゆき)(ら)に書簡(しよかん)を寄(よ)せたり。金碗(かなまり)も堀内(ほりうち)も、こゝに至(いた)りてその君(きみ)の、聰察(そうさつ)叡智(ゑいち)に感伏(かんふく)し、「はやく景連(かげつら)を討(うち)給へ」と頻(しき)りに勧(すゝ)め奉(たてまつ)れは、義実(よしさね)(かうべ)をうち掉(ふり)て、「否(いな)安西(あんさい)は討(うつ)べからず。われ定包(さだかね)を滅(ほろぼ)せしは、ひとり栄利(ゑのり)を思ふにあらず、民(たみ)の塗炭(とたん)を救(すくは)ん為(ため)也。さは衆人(もろひと)のちからによりて、長挟(ながさ)平郡(へぐり)の主(ぬし)となる、こよなき己(おの)が幸(さいはひ)ならずや。景連(かげつら)梟雄(けうゆう)たりといふ共、定包(さだかね)が類(たぐひ)にあらず。その底意(そこゐ)はとまれかくまれ、志(こゝろさし)をわれに寄(よ)せ、木曽介(きそのすけ)氏元(うぢもと)が、信時(のぶとき)を撃(うつ)に及(およ)びて、渠(かれ)いちはやく平舘(ひらたて)なる、城(しろ)を抜(ぬき)しを娟(ねた)しとて、軍(いくさ)を起(おこ)し、地(ち)を争(あらそ)ひ、蛮觸(ばんしよく)の境(さかひ)に迷(まよ)ひて、人(ひと)を殺(ころ)し民(たみ)を損(そこな)ふ、そはわがせざる所(ところ)也。景連(かげつら)奸計(かんけい)(おこなは)れて、平舘(ひらたて)を取(と)るといへども、なほ〓(あきた)らで攻來(せめく)るならば、一時(いちじ)に雌雄(しゆう)を决(けつ)すべし。さもなくは境(さかひ)を戌(まも)りて、こゝより手出(てだ)しすべからず。僉(みな)この旨(むね)をこゝろ得(え)よ」と叮嚀(ねんころ)に喩(さと)し給へば、孝吉(たかよし)貞行(さだゆき)は、さらにもいはず、左右(さゆう)に侍(はべ)る近習輩(きんじゆのともがら)、蜑崎(あまさき)(ら)もろ共(とも)に、感佩(かんはい)せざるものもなく「いにしへの聖賢(せいけん)も、此(この)うへやあるべき」と只顧(ひたすら)稱賛(せうさん)したりける。
 かくて義実(よしさね)は、手(て)づから氏元(うぢもと)に書(しよ)を給はりて、渠(かれ)を賞(ほめ)、渠(かれ)を喩(さと)して、安西(あんさい)を討(うつ)ことを禁(とゞ)め、「人(ひと)の物(もの)を取(と)らんとて、わが手許(たなもと)を忘(わす)るゝな。鄙語(ことわざ)にいふ、飽(あく)ことしらぬ、鷹(たか)は爪(つめ)の裂(さく)るかし。篭城(ろうぜう)の外(ほか)、他事(あだしこと)、あるべからず」と警(いましめ)て、蜑崎(あまさき)十郎等(ら)を還(かへ)し給ひつ。
 とかくする程(ほど)に、夏寒(なつさむ)かりし、卯花(うのはな)(くだち)(はれ)わたり、風(かぜ)まちわぶる六月(みなつき)の、土用(どよう)なかばになりにけり。この時(とき)安西(あんさい)景連(かげつら)は、蕪戸(かぶと)訥平(とつへい)といふ老黨(ろうだう)に、両三種(りやうさんしゆ)の土産(とさん)を齎(もたら)し、瀧田(たきた)の城(しろ)へ遣(つかは)して、定包(さだかね)(とみ)に滅亡(めつぼう)して、義実(よしさね)こゝに基(もとい)を開(ひらけ)る、祝(ことぶき)を述(のべ)、好(よしみ)を通(つう)じ、「曩(さき)に鳳眉(おもて)を接(あは)せしより、景慕(けいぼ)のおもひ遂(つひ)に得(え)(たえ)ず、只(たゞ)(はづ)らくは信時(のぶとき)に、席(せき)を犯(おか)されて意外(いぐわい)の不礼(ぶれい)、さこそは晋(しん)の文公(ぶんこう)が、曹(そう)を過(よぎ)りし憾(うらみ)に似(に)つらめ。しかれどもその事なくは、誰(たれ)か君(きみ)を激(はげま)して、この大業(たいぎやう)を興(おこ)すに至(いた)らん。實(まこと)を推(おせ)ば初(はじめ)より、大(おほ)かたならず君(きみ)を思ふ、景連(かげつら)が寸志(すんし)にて、假(かり)に強顔(つれなく)もてなしたり。かゝる故(ゆゑ)に愚意(ぐゐ)を告(つげ)て、君(きみ)が為(ため)に信時(のぶとき)を、除(のぞき)にければ、陽報(ようほう)あり。不思議(ふしぎ)に附驥(ふき)の功(こう)なりて、平舘(ひらたて)の城(しろ)を獲(え)たり。一國(いつこく)四郡(しぐん)を二ッにわかちて、犯(おか)すことなく扶翼(たすけ)て、児孫(うまご)のすゑまで傳(つた)へなば、楽(たの)しかるべき事ならずや。些少(させう)の野品(やひん)、その義(ぎ)に足(た)らねど、乗馬(じやうめ)三疋(さんひき)、白布(しらぬの)百反(ひやくたん)、迺(すなはち)これを進(まゐ)らする。只(たゞ)いつまでも交(まじはり)の、変(かは)らじ、と祈(いの)るのみ。収(おさめ)給はゞ幸(さいはひ)ならん」と慇懃(いんぎん)にいはせしかば、堀内(ほりうち)貞行(さだゆき)とり次(つぎ)て、「使者(ししや)の口状(こうでう)云云(しか/\)」と、義実(よしざね)に告(つげ)まうせば、義実(よしさね)(うたが)ふ氣色(けしき)なく、軈(やが)て貞行(さだゆき)孝吉(たかよし)して、蕪戸(かぶと)訥平(とつへい)を饗應(けうおう)させ、「われその使者(ししや)に對面(たいめん)せん。等閑(なほさり)ならず〓待(もてな)せよ」と叮嚀(ねんごろ)に仰(おふす)れば、貞行(さだゆき)孝吉(たかよし)(よろこ)ばず、「君(きみ)が賢(かしこ)き御(み)こゝろもて、などて彼(かの)老狸(ふるたぬき)に、欺(あざむか)れ給ひぬる。景連(かげつら)(じつ)に善(ぜん)に與(くみ)し、徳(とく)を慕(した)ふものならば、當國(たうこく)にはなき鯉(こひ)を求(もと)めて、殺(ころ)さんとは計(はから)ざるべし。今(いま)さらに虚々(そら/\)しき、壽(ことぶき)を述(のべ)、好(よしみ)を通(つう)じ、些(ちと)の物(もの)を贈(おく)りしは、その身(み)に牆(かき)をするもの也。なほその奸計(かんけい)しるべからず。使者(ししや)を〓待(もてなし)給ふことかは。御對面(ごたいめん)は物体(もつたい)なし」と竊(ひそか)に諫(いさめ)まうせしかば、義実(よしさね)莞尓(につこ)とうち笑(えみ)て、「景連(かげつら)は実情(じつじやう)もて、こゝに好(よしみ)を通(つう)ぜずとも、今(いま)(きく)ところ、見(み)るところは、憎(にく)むべきものにあらず。しかるにわれしうねくも、その舊悪(きうあく)を咎(とがめ)つゝ、交(まじはり)を結(むす)ばずは、これ只(たゞ)(かれ)に背(そむ)くなり。かくの如(ごと)くにして争(あらそ)はゞ、人(ひと)みなわれを不義(ふぎ)とせん。不義(ふぎ)にして捷(かつ)ことありとも、義実(よしさね)は願(ねがは)しからず、努々(ゆめ/\)(うたが)ふべからず」とかへす/\も説諭(ときさと)して、みづから使者(ししや)に對面(たいめん)し、訥平(とつへい)が還(かへ)るに及(およ)びて、共(とも)に金碗(かなまり)八郎を、安房郡(あはこふり)へ遣(つかは)して、圭壁(けいへき)の礼(れい)に答(こた)へ、形(かた)の如(ごと)く贈(おくり)ものして、いよゝます/\交(まじはり)を、破(やぶ)らじと誓(ちかは)し給へは、景連(かげつら)(おほ)きに歡(よろこ)びて、孝吉(たかよし)をおもく〓待(もてな)し、手(て)づから誓書(ちかひぶみ)を写(したゝ)めて、義実(よしさね)におくりけり。
 是(これ)よりして安西(あんさい)は、安房(あは)朝夷(あさひな)の二郡(にぐん)を領(れう)し、義実(よしさね)は神餘(じんよ)の舊領(きうれう)、長挟(ながさ)平郡(へぐり)の二郡(にぐん)を領(れう)して、犯(おか)すことなく、争(あらそ)ふことなく、世(よ)は長閑(のど)やかになりしかば、杉倉(すぎくら)木曽介(きそのすけ)氏元(うぢもと)は、東條(とうでふ)より召(めし)かへされて、はじめて安堵(あんど)の思ひをなし、君臣(くんしん)上下(じようげ)(えみ)かた向(まけ)て、楽(たの)しからずといふものなし。
 かゝりし程(ほど)に七月(ふみつき)の、星(ほし)まつる夜(よ)になりにければ、その夕(ゆふ)くれに義実(よしさね)は、端(はし)ちかう出(いで)まして、杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)、堀内(ほりうち)貞行(さだゆき)、金碗(かなまり)孝吉(たかよし)(ら)、功臣(こうしん)のみを召聚(めしつどへ)て、点茶(てんちや)の礼縡(れいこと)をはり、〔むかし里見(さとみ)の家例(かれい)には、点茶(てんちや)の礼(れい)といふことあり。この事『房総志料(ばうさうしれう)』にいへり〕來(こし)かたを譚(かたら)ひつ、かたらせて聞(きゝ)給ひつゝ、この功臣(こうしん)(ら)に宣(のたま)ふやう、「予(よ)が幸(さいはひ)に二郡(にぐん)を獲(え)てより、波風(なみかぜ)たゝずなるものから、とにかくに事(こと)(しげ)くて、祈(いの)りし神(かみ)に賽(かへりまう)さず。又(また)功臣(こうしん)(ら)に賞(せう)を行(おこな)はで、こゝにも介山(かいざん)を造(つく)るに似(に)たり。さても氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)は、先考(なきちゝぎみ▼○センコウ)の遺命(いめい)を受(うけ)て、わが艱難(かんなん)に従(したが)ひたる、その忠信(ちうしん)は今(いま)さらに、いふべうもあらざめれど、白箸河(しらはしかは)の上(ほとり)にて、金碗(かなまり)孝吉(たかよし)に遭(あは)ざりせば、いかにして功業(こうぎやう)を、この地(ち)に建(たつ)るよしあらん。又(また)鴿(いへはと)が書(しよ)を傳(つた)へずは、定包(さだかね)いかでか首(かうべ)をおくらん、彼(かれ)とこれとはわが為(ため)に、第一(だいゝち)の勲績(いさをし)也。さらずははじめ、安西(あんさい)(ら)が、奸計(かんけい)にあてられて、軍法(ぐんほう)をもて斬(きら)れん歟(か)、兵粮(ひやうらう)(つき)て餓(うへ)つかれ、敵(てき)の為(ため)に擒(とりこ)とならんか、この二ッに過(すぐ)べからず。時(とき)やうやく清涼(すゞやか)にて、根(ね)なし言(こと)の葉(は)(つゆ)むすぶ、詩(し)を賦(ふ)し、歌(うた)を詠(よま)ん為(ため)に、今宵(こよひ)は二星(じせい)のあふとかいへり。星(ほし)に君臣(くんしん)上下(じようげ)の差(しな)あり。人(ひと)の吉凶(きつけう)これに係(かゝ)る。われ既(すで)に天(てん)に誓(ちか)へり。當城(たうぜう)の八隅(やすみ)には、八幡宮(はちまんぐう)を建立(こんりう)して、秋毎(あきごと)に祀(まつり)(たてまつ)り、又(また)領内(れうない)に徇(ふれ)しらして、鳩(はと)を殺(ころ)すことを禁(とゞ)めん。又(また)金碗(かなまり)八郎孝吉(たかよし)には、長挟(ながさ)半郡(はんぐん)を裂與(さきあたへ)て、東條(とうでふ)の城主(ぜうしゆ)とせん。氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)には、所領(しよれう)おの/\五千貫(くわん)を宛行(あておこなは)ん。この旨(むね)こゝろ得(え)候へ」と正首(まめやか)に説示(ときしめ)して、手(て)づから写(したゝめ)おかせ給ひし、一通(いつゝう)の感状(かんでう)を、まづ孝吉(たかよし)に賜(たまは)れば、孝吉(たかよし)(み)たび戴(いたゞ)きて、その侭(まゝ)(かへ)し奉(たてまつ)り、席(せき)を避(さけ)てまうすやう、「相傳(さうでん)補佐(ほさ)の老臣(ろうしん)に、先(さき)だゝし給はする、恩賞(おんせう)再度(さいど)に及(およ)ばせ給ふを、推辞(いなみ)(たてまつ)るよし候はねど、某(それがし)は初(はじめ)より、名利(めうり)のふたつにこゝろなし。故主(こしゆう)の為(ため)に逆臣(ぎやくしん)を、誅(ちう)せんと思へるのみ。寔(まこと)に君(きみ)が威福(いふく)によりて、宿志(しゆくし)を果(はた)し候事、このうへの恩恵(めぐみ)なし」といへば義実(よしさね)うちほゝ笑(えみ)、「名聞(めうもん)栄利(ゑのり)にかゝつらはず、功成(こうなり)て身退(みしりぞ)く。現(げに)義士(ぎし)の志(こゝろざし)、如此(しか)あるべき事ながら、唐山(もろこし)の張良(ちやうりやう)は、故主(こしゆう)の為(ため)に秦楚(しんそ)を滅(ほろぼ)し、後(のち)(つひ)に封爵(ほうしやく)を、漢(かん)より受(うけ)て留侯(りうこう)に、封(ほう)ぜられたる例(ためし)あり。われは高祖(こうそ)の徳(とく)なけれども、和殿(わどの)はをさ/\張良(ちやうりやう)が孤忠(こちう)に似(に)たり。されば又(また)、功(こう)ある人(ひと)を賞(せう)せずは、誰(たれ)かその志(こゝろさし)を、忠孝(ちうこう)節義(せつぎ)に激(はげま)すべき。枉(まげ)て予(よ)が意(ゐ)に従(したが)ひてよ」と諭(さと)し給へば氏元(うぢもと)も、貞行(さだゆき)も亦(また)これを勸(すゝ)めて、彼(かの)
【挿絵】「一子(いつし)を遺(のこ)して孝吉(たかよし)大義(たいぎ)に死(し)す」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」
感状(かんでふ)をうちも措(おか)ず、逓与(わた)せば金碗(かなまり)八郎は、已(やむ)ことを得(え)ず手(て)に受(うけ)て、うち開(ひら)き読(よみ)くだち、「これ賜(たまは)らじ、と辞(ぢ)しまうせば、只管(ひたすら)に我意(がゐ)を立(たて)て、恩義(おんぎ)をしらざるものに似(に)たり。さりとて受(うけ)ては今(いま)さらに、故主(こしゆう)へ對(たい)して不忠(ふちう)なり。受(うけ)て受(うけ)ざる孝吉(たかよし)が、この世(よ)あの世(よ)の君(きみ)が為(ため)に、せんすべあり」といひあへず、刀(かたな)を晃(きら)りと引抜(ひきぬき)て、彼(かの)感状(かんでふ)を巻(まき)そえつゝ、肚(はら)へぐさと突立(つきたつ)れば、是(これ)はとばかり、主従(しゆうじゆう)三人(みたり)、ほとり近(ちか)く居(ゐ)よりつゝ、義実(よしさね)はその臂(ひぢ)を、やをら揚(あげ)て瘡口(きずぐち)を、とさまかうさまうち熟視(ながめ)、「尖刀(きつさき)ふかく入(い)りたれば、助(たすか)るべき痍(て)にあらず。さりながら、この侭(まゝ)にして縡絶(ことたえ)なば誰(たれ)か狂死(きやうし)といはざるべき。苦痛(くつう)を忍(しの)びて思ふよし、心(こゝろ)くまなくいひ遺(のこ)してよ」と宣(のたま)ふ声(こゑ)を聞(きゝ)とりてや、佶(きつ)と向上(みあげ)て息(いき)を吻(つ)き、「故主(こしゆう)の枉死(わうし)を聞(きゝ)しとき、この肚(はら)ははや切(き)るべかりしに、只(たゞ)定包(さだかね)を撃(うた)んず、と思ふばかりに存命(ながらへ)ても、身(み)ひとつにては事(こと)を得(え)(とげ)ず。かくは時(とき)あり縁(えん)ありて、君(きみ)に値遇(ちぐ)し奉(たてまつり)、犬馬(けんば)の労(ろう)を竭(つく)せしより、功(こう)に過(すぎ)たる恩賞(おんせう)を、今更(いまさら)に受(うけ)候ては、後(あと)なくなりし故主(こしゆう)の枉死(わうし)を、わが幸(さいはひ)とするに似(に)て、存命(ながらへ)かたきひとつなり。加以(これのみならず)落羽岡(おちばがおか)にて、定包(さだかね)ならんと思ひてや、國主(こくしゆ)を傷(そこな)ひ奉(たてまつ)りし、杣木(そまきの)朴平(ぼくへい)無垢三(むくざう)(ら)は、原(もと)(それがし)が家僕(かぼく)也。彼等(かれら)が武藝(ぶげい)は某(それがし)が、劍法(たちすぢ)を傳(つた)へしかば、しらぬ事とはいひながら、下司(げす)の兵法(ひやうほう)大疵(おほきず)の、基(もとい)を開(ひら)きし孝吉(たかよし)が、誤(あやまり)に似(に)て愉(こゝろよ)からず。存命(ながらへ)かたき二ッ也。彼(かの)漢朝(かんちやう)の張良(ちやうりやう)がこゝろはしらず候へ共、おなじくは田横(でんくわう)が、死(し)しての後(のち)も潔(いさぎよ)き、志(こゝろざし)こそ慕(したは)しけれ。君臣(くんしん)たま/\遊興(ゆうきやう)の、席(むしろ)を汚(けが)す非礼(ひれい)の罪(つみ)は、ゆるさせ給へ」と小膝(こひざ)を突(つき)、刃(やいば)をやがて右手(めて)のかたへ、引繞(ひきめぐら)さんとする程(ほど)に、「彼(あれ)(とゞ)めよ」と義実(よしさね)は、焦燥(いらち)給へば、貞行(さだゆき)氏元(うぢもと)、拳(こぶし)に携(すがり)て、「御諚(ごでう)也。とてもかくても冥土(めいど)の旅宿(たびね)、今(いま)さらいそぐ事かは」と辭(ことば)を竭(つく)せば、義実(よしさね)は、数回(あまたゝび)嘆息(たんそく)し、「われ孝吉(たかよし)が志(こゝろさし)を、しらざるにあらねども、斯(かう)なるべしとまでは思はず。憖(なまじい)に恩賞(おんせう)の、沙汰(さた)してその死(し)を促(うなが)せし、わが生涯(せうがい)の誤(あやまち)也。やをれ八郎黄泉(よみぢ)へかへる汝(な)が首途(かどいで)に、義実(よしさね)餞別(うまのはなむけ)せん。木曽介(きそのすけ)、彼(かの)(おきな)を、とく/\召(めせ)」と仰(おふす)れは、氏元(うぢもと)は阿(あ)と應(いらへ)つゝ、縁頬(えんかわ)に立出(たちいで)て、「上総(かづさ)の一作(いつさく)、はやまゐれ」と声高(こゑたか)やかに呼立(よびたつ)れば、「承(うけ給は)りつ」といふ声(こゑ)も、鼻(はな)につまりて、目(め)は涙(なみだ)、六十(むそぢ)あまりの荘客(ひやくせう)が、前(さき)より其処(そこ)にあら栲(たへ)の、脚半(きやはん)甲掛(こうかけ)(すそ)はし折(をり)て、右手(めて)に菅笠(すげがさ)、左手(ゆんで)には、五才(いつゝ)ばかりの男児(をのこゞ)の、手(て)を掖(ひき)、腰(こし)を屈(かゞ)めつゝ、樹立(こたち)(ひま)なき後園(おくには)の、折戸(をりど)の蔭(かげ)を立出(たちいづ)れは、「こゝへ/\」と氏元(うぢもと)が、招(まね)くまに/\縁頬(えんかわ)に、手(て)をかけて伸(のび)あがり「やよ八郎どの、孝吉(たかよし)ぬし。上総(かづさ)より参(まゐ)りたり。一作(いつさく)で候ぞ。女児(むすめ)濃萩(こはぎ)に産(うま)せ給ひし、その子(こ)はこれで候ぞ。やうやく尋來(たづねき)つる日(ひ)に、肚切(はらきり)給ふは何事(なにごと)ぞ。物(もの)いふことはならずや」と恨(うらむ)も泣(なく)もはゞかりの、関(せき)ならなくに貴人(あてびと)の、席(せき)とて影護(うしろめたげ)なる。孝吉(たかよし)は一作(いつさく)と名告(なの)るを聞(きゝ)て目(め)をひらき、うち見たるのみ物(もの)いはず。
 當下(そのとき)杉杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)は、孝吉(たかよし)にうち對(むか)ひ、「八郎(はちらう)(あれ)を見給へりや。某(それがし)(やかた)へ参(まゐ)る折(をり)、件(くだん)の老人(ろうじん)、路次(ろぢ)に在立(たゞずみ)、『金碗(かなまり)(うぢ)の第(やしき)は何処(いづこ)』とわが従者(ともびと)に問(とひ)しかば、有繋(さすが)にこれを聞捨(きゝすて)かたくて、その來歴(らいれき)を尋(たづぬ)れば、箇様(かやう)(/\)々、と稚児(をさなご)の事さへ告(つぐ)るにうちも措(おか)れず、『孝吉(たかよし)はけふ宿所(しゆくしよ)にあらず、あはんとならばわが後(しり)に、跟(つき)てまゐれ』とそが侭(まゝ)に、君所(みたち)へこれを伴(ともな)ひて、且(まづ)(こと)の趣(おもむき)を、蔵人(くらんど)に告(つげ)しらせ、殿(との)へも申上しかば、そは興(きやう)あることになん。八郎がかくし子(こ)ならば、末憑(すゑたのも)しきものとおぼし、われみづから引(ひき)あはさんず。その程(ほど)までは金碗(かなまり)に、しられな、と宣(のたま)ひき。これによりて一作(いつさく)は、稚児(をさなこ)もろとも後園(おくには)なる、諸折戸(もろをりと)の蔭(かげ)に潜(しのば)せ、殿(との)の仰(おふせ)を待(まち)たりしに、豈(あに)おもはんや、その事を、まだいはなくに和殿(わどの)は自殺(じさつ)、外(よそ)ながら見る老人(ろうじん)の、心(こゝろ)のうちはいかならん。せめて今般(いまは)に親(おや)と子(こ)の、名告(なのり)をさせん、と思召(おぼしめす)、これ將(はた)殿(との)の賜(たまもの)也。喃(なう)八郎(はちらう)」と呼活(よびいく)れば、孝吉(たかよし)はやゝ頭(かうべ)を擡(もたげ)、「この期(ご)に及(およ)びて、親子(おやこ)の名告(なのり)、それも詮(せん)なき事になん。某(それがし)主君(しゆくん)を諫(いさめ)かねて、瀧田(たきた)を立去(たちさ)り候折(をり)、上総國(かつさのくに)天羽郡(あまはのこふり)、関村(せきむら)なる荘客(ひやくせう)に、一作(いつさく)といふものは、則(すなはち)(くだん)の老人(ろうじん)也。父(ちゝ)が時(とき)には使(つかは)れたる、私卒(わかたう)で候へば、某(それがし)(しばら)く彼(かの)(おきな)が、宿所(しゆくしよ)に足(あし)を駐(とゞ)めたる、旅宿(たびね)の中(うち)に渠(かれ)が女児(むすめ)、濃萩(こはぎ)が許(もと)にわけ濡(ぬ)れて、結(むす)ぶは夢(ゆめ)か、露(つゆ)の間(ま)を、千(ち)とせの秋(あき)と契(ちぎ)りつゝ、枕(まくら)の数(かず)もかさなれば、平(たゞ)ならぬ身(み)となりけり、と婦(をんな)が告(つぐ)るにこゝろ驚(おどろ)き、現(げに)色情(しきぜう)は意外(ゐぐわい)の悪事(あくじ)、と世話(せわ)にもいふはわがうへなり。往方(ゆくへ)(さだ)めぬ旅(たび)の空(そら)、こゝ久恋(きうれん)の家(いへ)ならねば、締(むすび)も果(はて)ぬ妹(いも)と〓(せ)の、浮名(うきな)を立(たて)て誠(まこと)ある、人(ひと)の女児(むすめ)に瑕疵(きずつけ)ては、今(いま)さら親(おや)が許(ゆる)すとも、絶(たえ)て合(あは)する面(おもて)はなし、浅(あさ)ましき所行(わざ)してけり。と百遍(もゝたび)(くひ)、千遍(ちたび)(くへ)ども、後悔(こうくわい)其処(そこ)に立(たゝ)ざれは、しのび/\に濃萩(こはぎ)には、堕胎(だたい)せよと勸(すゝむ)るのみ。別(べち)に思念(しあん)はなまよみの、甲斐(かひ)なき怠状(たいでふ)一通(いつゝう)を一作(いつさく)に遺(のこ)しつゝ、さて関村(せきむら)を走(はし)り去(さ)り、彼此(をちこち)に流浪(さそらひ)て、五年(いつとせ)といふこの夏(なつ)この日(ひ)、故主(こしゆう)の枉死(わうし)を傳聞(つたへきゝ)て、定包(さだかね)を撃(うた)んとて、竊(ひそか)に還(かへ)る舊里(ふるさと)の、途(みち)の便著(びんき)にあなれども、一作(いつさく)(がり)(おと)つれず。濃萩(こはぎ)が事はいかにぞ、と毫(ふで)にも問(と)はで過(すぐ)したり。しかるにその子(こ)は恙(つゝが)なく、産(うま)せて年来(としころ)養育(よういく)の、誠(まこと)を見れはいとゞなほ、面目(めんぼく)なくこそ候へ」といふ声(こゑ)もはや片息(かたいき)なる。現(げに)(ことわ)りと一作(いつさく)は、慰(なぐさめ)かねて鼻(はな)うちかみ、「有繋(さすが)に悍(たけ)き武夫(ものゝふ)も、恋(こひ)には脆(もろ)き人情(ひとこゝろ)、况(まい)ておん身(み)は妻(つま)もなく、子(こ)もなき旅宿(たびね)の徒然(つれ/\)を、慰(なぐさめ)まうせし女児(むすめ)濃萩(こはぎ)は、淫奔(いたつら)に似(に)て淫奔(いたづら)ならず。いへばさら也氏素姓(うぢすせう)、おのが故主(こしゆう)の胤(たね)を宿(やど)せし、彼奴(かやつ)は天晴(あはれ)果報(くわほう)もの、佳(よき)(むこ)がね、とこゝろでは、婆々(ばゝ)もろ共(とも)に歡(よろこ)びつ。しれどもしらぬおもゝちを、何(なん)とか猜(すい)し給ひけん、和君(わぎみ)は出(いで)てかへり給はず。往方(ゆくへ)を索(たづね)わびつゝも、女児(むすめ)は程(ほど)なく臨月(りんげつ)に、産(うみ)おとせしは男児(をのこゞ)也。あな愛(めで)たし、と祝(ことほ)ぐ間(ひま)なく、濃萩(こはぎ)は積(つも)る物(もの)思ひに、肥立(ひだゝ)て竟(つひ)に十万億土(おくど)、逝(ゆき)てかへらぬ人(ひと)となる。その初七日(しよなぬか)を二七夜(ふたしちや)、寔(まこと)に目面(めつら)を爬(つか)み米(こめ)、手(て)の内(うち)(だ)しつ、乳(ち)を貰(もら)ひつ、生死(せうし)ふたつに三界(さんかい)流轉(るてん)、患苦(くわんく)は訛(だみ)たる言(こと)の葉(は)に、演竭(のべつく)さるゝことならず。さはれ赤子(あかこ)は健(すくよか)也。主(しゆう)と女児(むすめ)が形見(かたみ)ぞ、と見れば可愛(かわゆ)く、いと惜(をし)く、昼(ひる)は終日(ひねもす)(ふところ)に、夜(よ)は通宵(よもすがら)爺々(ぢゞ)婆々(ばゞ)が、迭代(かたみかはり)に添臥(そひぶし)て、やうやく立(たて)ば、跂(はへ)よといそがし、笑(わら)へば、物(もの)をとくいへ、とこゝろばかりは引伸(ひきのば)す、綿繰馬(わたくりうま)に索手綱(なわたつな)、孫(まご)に牽(ひか)れて二番草(にばんくさ)、とり後(おく)れたる痩田(やせた)の案山子(かかし)、おなじことして日(ひ)を送(おく)り、年(とし)をかさねて四(よつ)といふ、去歳(こぞ)の秋(あき)より婆々(ばゞ)が病著(いたつき)、片手(かたて)所為(わざ)なる看病(かんびやう)は、届(とゞか)ぬ棚(たな)の薬鍋(くすりなべ)、嗄児(なくこ)に絆(ほだ)へて熬著(いりつく)までに、煎(せん)じ詰(つめ)たるその年(とし)の、大晦日(おほつごもり)には婆々(ばゞ)が往生(わうぜう)。片腕(かたうで)もがれし木偶(にんぎやう)と、稚児(をさなこ)とわれ只(たゞ)三人(みたり)、棺(ひつぎ)を守(もり)てあら玉の、年(とし)を迎(むかふ)る門松(かどまつ)は、冥土(めいど)の旅(たび)の一里塚(いちりづか)、禅僧(せんそう)(がほ)に悟(さとつ)て見ても、暁(さとり)かたきは凡夫心(ぼんぶしん)。六十八の今茲(ことし)こそ、一生涯(いつせうがい)の憂苦(ゆうく)患難(かんなん)。ひとつに聚(よせ)てもまだ足(た)らぬ、再三(ふたゝひみ)たびの大厄難(だいやくなん)。孫(まこ)にも愧(はぢ)ず泣(なく)(おい)が身(み)は、春(はる)の外山(とやま)に笑(わらは)れても、涙(なみだ)の垂氷(たるひ)凍觧(いてとけ)て、佛(ほとけ)へ手折(たを)る背門(せど)の梅(うめ)、莟(つぼみ)も恰好(ちやうど)五ッ子(こ)が、無心(むしん)で真似(まね)る念仏(ねんぶつ)に、欠伸(あくび)の雜(まじ)る宵迷(よひまど)ひ。短夜(みじかよ)なれや春過(はるすぎ)て、卯月(うつき)の下浣(すゑ)より上総(かつさ)のうらまで、隣國(りんこく)の事、和君(わきみ)が事、合戦(かつせん)のやう隱(かく)れなし。われ一トたびは驚(おどろ)きしが、是(これ)より心(こゝろ)に勇(いさみ)あり。いゆきて訪(とは)ん、と思ひしかど、歩行(ほこう)不便(ふべん)の老人(ろうじん)が、稚児(をさなご)(おふ)て戦場(たゝかひのには)にゆかんはいと危(あやう)し。時(とき)を俟(また)ん、と思ひかへして、討(うち)おさめたるよしを、聞(きゝ)ぞ定(さだめ)てけふこゝへ、來(く)る甲斐(かひ)なけれ今般(いまは)の對面(たいめん)。過世(すくせ)の業報(ごうほう)想像(おもひや)る、一作(いつさく)が悲(かなし)みは、物(もの)の屑(かす)にも候はず。この子(こ)が人(ひと)と成(な)る後(のち)に二親(ふたおや)ながら皃(かほ)しらぬ、遺憾(のこりをしさ)はいかならん。喃(なう)加多三(かたみ)、あれこそおん身(み)が〓々(てゝご)なれ。顔(かほ)見おぼえよ」と指(ゆびさ)せば、稚児(をさなこ)は伸(のび)あがり、「〓(とゝ)さま喃(なう)」と声立(こゑたて)て、呼(よば)るゝ親(おや)は見るばかり。物(もの)いひたげに動(うごか)せし、脣(くちびる)の色(いろ)(かは)りつゝ、はや臨終(りんじう)と見えしかば、義実(よしさね)は稚児(をさなこ)を、ほとりちかく召(めし)よして、と見かう見つゝ、「面影(おもかげ)は、父(ちゝ)八郎によく肖(に)たり。その名(な)は何(なに)と呼(よば)るゝぞ」と問(とは)せ給へば、一作(いつさく)は、膝(ひざ)推屈(おしかゞめ)てうち向上(みあげ)、「楚(しか)と定(さだめ)し名(な)は候はず。故主(こしゆう)と女児(むすめ)が形見(かたみ)なれば、加多三(かたみ)(/\)々々と喚做(よびな)せり」と申上れば、「さぞあらん。この子(こ)を我(われ)に得(え)させかし。父(ちゝ)孝吉(たかよし)は予(よ)を輔(たすけ)し、大(おほい)なる功(いさをし)あり。これをその子(こ)の名(な)に著(あらは)して、金碗(かなまり)大輔(だいすけ)孝徳(たかのり)、と名告(なのり)て父(ちゝ)が忠義(ちうぎ)を承嗣(うけつ)げ。人(ひと)と成(なり)なは形(かた)のごとく、長挟(ながさ)半郡(はんぐん)を裂與(さきあたへ)て、東條(とうでふ)の城主(ぜうしゆ)とせん。一作(いつさく)は外戚(ぐわいせき)也。もろ共(とも)に留(とゞま)りて、大輔(だいすけ)が後見(うしろみ)せよ。當坐(たうざ)の勸賞(けんせう)五百貫(くわん)、この稚児(をさなこ)に取(とら)するかし。これを冥土(めいど)の苞苴(つと)にして、佛果(ぶつくわ)を得(え)よや八郎」と呼(よ)び激(はげま)されて孝吉(たかよし)は、鮮血(ちしほ)に塗(まみ)るゝ左手(ゆんて)を抗(あげ)、主君(しゆくん)を拝(おが)み奉(たてまつ)り、きりゝ/\と引遶(ひきまは)す、刃(やいば)の蹟(あと)に大腸(みのわた)の、出(いづ)るをやがて爬(つかみ)そえ、「人々(ひと/\)介錯(かいしやく)たのむぞ」といふを末期(まつご)の一句(いつく)にて、項(うなぢ)を伸(のば)せど勝(たへ)かねし、苦痛(くつう)させじ、と義実(よしさね)は、おん佩刀(はかせ)を引抜(ひきぬき)て、みづから背(うしろ)に立(たち)給へば、哀(あはれ)果敢(はか)なし八郎が、首(かうべ)は前(まへ)におちてけり。覚期(かくご)はしても堪(たへ)かねし、一作(いつさく)は声(こゑ)を惜(をしま)ず、泣(なき)つゝ老(おい)の諄言(くりこと)を、うけつ答(こたへ)つ、氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)、いと正首(まめやか)に慰(なぐさむ)れば、穉児(をさなこ)は只(たゞ)おろ/\と、酸鼻(なみだくむ)のみ情由(わけ)しらず、縡断(こときれ)たりし親(おや)の顔(かほ)を、さし覗(のぞ)くも亦(また)(あは)れ也。
 されば金碗(かなまり)八郎が死果(しにはつ)るとき星墮(ほしおち)て、七日の月(つき)は西(にし)に入(い)り、陰々(いん/\)として心火(しんくわ)(ひらめ)き、女子(をなご)の像(かたち)、影(かげ)のごとく、大輔(だいすけ)が身(み)にそふて、かき消(け)す如(ごと)くなりにけり。これを見るもの義実(よしさね)のみ、その餘(よ)はすべてしらざりき。かくて義実(よしさね)は、氏元(うぢもと)貞行(さだゆき)を近(ちか)く召(めし)よせ、孝吉(たかよし)が送葬(のべおくり)、大輔(たいすけ)を養育(よういく)の、事(こと)叮嚀(ねんごろ)に命(めい)じ給ひつ、軈(やが)て後堂(おく)にぞ入(い)り給ひぬ。時(とき)に漏刻(ろうこく)(たか)く音(おと)して、夜(よ)ははや亥中(ゐなか)になりにけり。

作者(さくしや)(いはく)。この段(だん)七月(ふづき)の初旬(はじめ)なれども、出像(さしゑ)は冬(ふゆ)の衣裳(いせう)に似(に)たり。現(げに)羅衣(うすきぬ)は画(ゑが)くとも、彩(いろ)なくては定(さだ)かならぬもの也。これらは画者(ぐわしや)の好(このみ)にまかして、敢(あへて)時節(じせつ)に拘(かゝは)らず。かゝる事間(まゝ)(おほ)かり。閲者(けみするひと)ふかく咎(とがめ)給ふな。
(また)いふ。こゝの出像(さしゑ)には、氏元(うぢもと)をのみ出(いだ)して、貞行(さだゆき)を省(はぶ)きつ。大(おほ)かたならぬものどもなれども、こゝにはさせる事なければ、剞〓氏(きけつし)を助(たす)けし也。
又いふ、巻端(くわんたん)第一回(だいゝつくわい)、結城(ゆふき)合戦(かつせん)の條(くだり)より、こゝに至(いた)て僅(はつか)に四个月(しかつき)、嘉吉(かきつ)元年(ぐわんねん)四月(うつき)に起(おこ)りて、おなじ年(とし)の七月(ふつき)に終(をは)る。僂(かゞなふ)れはその間(あはひ)、八十餘日(よにち)のことになん。第八回(だいはちくわい)に至(いたり)ては、年月(ねんげつ)(はるか)に程(ほど)(ふ)りて、十六七年(ねん)の事(こと)に及(およ)べり。その間(あはひ)には伏姫(ふせひめ)の、成長(ひとゝなる)ををさ/\いふのみ。させる物語(ものかたり)なき処(ところ)は、皆(みな)省略(ことそぎ)て、くた/\しくいはず。これらも例(れい)の事ながら、精麁(せいそ)(たがひ)に趣(おもむき)を異(こと)にすなれば、柱(ことぢ)に膠(にかは)するに似(に)たれど、次序(ついで)を誤(あやまつ)こともやとて、よくも見ざらん人(ひと)の為(ため)に、かゝるよしさへみづから注(ちう)しつ。


# 『南総里見八犬伝』第七回  2004-09-02
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