『南總里見八犬傳』第五回


南總里見八犬傳(なんさうさとみはつけんでん)巻之三

 第五回(だいごくわい) 良將(りやうせう)(はかりごと)を退(しりぞけ)て衆兵(しゆへい)(じん)を知(し)る\霊鴿(いへはと)(しよ)を傳(つたへ)て逆賊(ぎやくぞく)(かうべ)を贈(おく)

 山下(やました)柵左衞門(さくざゑもんの)(ぜう)定包(さだかね)は、麻呂(まろ)安西(あんさい)へ遣(つかは)したる、その使者(ししや)瀧田(たきた)へ立(たち)かへりて、「彼輩(かのともがら)は忽卒(あからさま)に、帰降(きごう)のよしをいはざれども、いたく怕害(おそれ)て候ひし。遠(とほ)からずしてもろともに、みづから詣來(まうき)て罪(つみ)を勸觧(わび)、麾下(きか)に属(しよく)せんこと疑(うたが)ひなし。その為体(ていたらく)は箇様(かやう)(/\)々、如何(しか)(/\)々に候ひき」となきことまでもある如(ごと)く、辞(ことば)を飾(かざ)り、首尾(しゆび)精細(つばらか)に、飽(あく)まで媚(こび)て告(つげ)しかば、定包(さだかね)ます/\こゝろ傲(おご)り、夜(よ)をもて日(ひ)に続(つぐ)遊興(ゆうきやう)に、士卒(しそつ)の怨(うらみ)をかへりみず、或(ある)は玉梓(たまつさ)と輦(てくるま)を共(とも)にして、後園(おくには)の花(はな)に戯(たはふ)れ、或(ある)は夥(あまた)の美女(びぢよ)を聚(つどへ)て、高楼(たかどの)に月(つき)を翫(もてあそ)び、きのふは酒池(しゆち)に牛飲(ぎういん)し、けふは肉林(にくりん)に飽餐(ほうさん)す。一人(いちにん)かくの如(ごと)くなれば、老黨(ろうどう)も又(また)淫酒(いんしゆ)に耽(ふけ)りて、貪(むさぼ)れども飽(あく)ことなく、費(ついや)せども盡(つく)るをしらず、王莽(わうまう)が宇内(くにのうち)を制(せい)する日(ひ)、禄山(ろくさん)が唐祚(たうのまつり)を傾(かたむく)るとき、天日(てんじつ)(わたくし)に照(て)らすに似(に)たれど、逆臣(ぎやくしん)はながく命(めい)をうけず、定包(さだかね)が滅(ほろび)んこと、必(かならず)(ひさ)しからじとて、こゝろあるは目(め)を側(そはだて)、爪弾(つまはぢき)をするもの夛(おほ)かりけり。
 浩処(かゝるところ)に、城外(ぜうくわい)城中(ぜうちう)〓劇(ものさわがし)く、「敵軍(てきぐん)(ま)ちかく寄(よせ)たり」とて、罵(のゝし)ること大(おほ)かたならず。定包(さだかね)は後堂(おくざしき)に、酒宴(さかもり)してゐたりしが、これを聞(きゝ)て些(すこし)も騒(さわ)がず、「そは何(なに)ほどの事(こと)やはある。憖(なまじい)に虎(とら)の髯(ひげ)を引(ひ)く、安西(あんさい)麻呂(まろ)(ら)にあらざりせば、民(たみ)を劫(おびやか)して物(もの)を奪(うば)ふ、山賊(さんぞく)(ら)にぞあらんずらん。そが為体(ていたらく)を見て來(こ)よ」とて、やがて斥候(ものみ)を遣(つかは)しければ、且(しばらく)して立(たち)かへり、「敵(てき)は安西(あんさい)麻呂(まろ)(ら)にあらず、又(また)山賊(さんぞく)にも候はず。誰(たれ)とはしらず千騎(せんき)あまり、整々(せい/\)として稲麻(とうま)のごとく、陣列(ぢんれつ)隊伍(たいご)(ほう)に稱(かな)ひて、中軍(ちうぐん)には一トながれの、白籏(しらはた)を推立(おしたて)たるが、尋常(よのつね)の敵(てき)にはあらず、こゝを去(さ)ること二十餘町(よちやう)、霎時(しばし)人馬(にんば)の足(あし)を休(やすめ)て、推蒐(おしかけ)んず光景(ありさま)也。侮(あなど)りがたく候」と吻(いきつ)きあへず報知(つげ)しかば、定包(さだかね)(きゝ)て眉(まゆ)を顰(ひそ)め、「白(しろ)きは源家(げんじ)の服色(きぬのいろ)なり。安房(あは)上総(かづさ)にして白籏(しらはた)を、用(もちふ)るものありとはおぼえず。是(これ)も又(また)(ひと)を惑(まどは)す、敵(てき)の謀(はかりごと)にぞあらんずらん。そはとまれかくもあれ、敵(てき)はかならず長途(ちやうど)に疲労(つかれ)て、この暁(あかつき)に寄(よせ)んとすらん。逸(いつ)をもて労(ろう)を撃(うた)ば、勝(かた)ずといふことあるべきやは。とく追(お)ひ拂(はら)へ」と令(げぢ)を傳(つた)へて、岩熊鈍平(いわくらどんへい)、錆塚幾内(さびつかいくない)といふ、腹心(ふくしん)の老黨(ろうだう)に、五百の軍兵(ぐんびやう)を授(さづけ)しかば、両人(りやうにん)欣然(きんぜん)と命(めい)を受(うけ)、遽(いそがは)しく衆兵(しゆへい)を率(ひきい)て、前門(おもてもん)より馬(うま)乗出(のりいだ)し、勇(いさみ)にいさみて馳去(はせさり)けり。
 さても岩熊(いわくま)錆塚(さびつか)は、万夫無当(ばんふぶたう)の力士(りきし)にて、武藝(ぶげい)も衆(ひと)にましたるに、こゝろざま奸佞(かんねい)なれば、なす事(こと)(ごと)に定包(さだかね)が意(ゐ)に稱(かな)はずといふことなく、一二(いちに)の老黨(ろうだう)と重用(ちやうよう)せられて、よろづ傍若無人(ぼうしやくぶじん)なれども、人僉(ひとみな)(き)を屈(のみ)、恨(うらみ)を隱(かく)して、下風(かふう▼シタテ)に属(つか)ざるものなかりき。
 かゝれば山下(やました)定包(さだかね)は、日來(ひごろ)より、彼(かの)両人(りやうにん)を、憑(たのも)しく思ひつゝ、この日(ひ)も討手(うつて)の大將(たいせう)に、擇出(えらみいだ)して遣(つかは)したれば、「今(いま)はや寄手(よせて)の奴原(やつばら)を、蹴散(けちら)さんこと疑(うたが)ひなし。さのみ騒(さわ)ぐことかは」とて、只(たゞ)兵等(つわものら)に四門(しもん)を護(まも)らせ、わが身(み)は又(また)(おく)に入(い)りて、婢(をんな)ばらを召(よび)つどへ、歌舞(かぶ)艶曲(えんきよく)に興(きやう)を催(もよほ)し、酒宴(しゆえん)(たけなは)なりし比(ころ)、正廳(おもて)のかたさわがしく、「よからず/\」と叫(さけ)びしかば、定包(さだかね)は管絃(いとたけ)の、手(て)をとゞめさせ、耳(みゝ)を側(そはだて)、「異(こと)なるものゝ声(こは)ざまかな、男童(をのわらは)ども見て來(こ)よ」といふに左右(さゆう)に侍(はべ)りたる、両個(ふたり)の小扈従(こゞせう)もろともに、立(たち)あがらん、とする程(ほど)もあらせず、思ひがけなく庭門(にはくち)より、嚮(さき)に討手(うつて)に向(むけ)られたる、軍兵(ぐんびやう)(ら)五六十人、数个所(すかしよ)に深痍(ふかで)を負(おふ)たりける大將(たいせう)岩熊鈍平(いわくまどんへい)を、楯(たて)のうへに括(くゝ)り乗(の)せ、舁(かき)つゝやがて孫廂(まごひさし)の、ほとりまで推参(すいさん)して、異口同音(ゐくどうおん)に「御注進(ごちうしん)、々々々(ごちうしん)」と喚(よばゝ)りつ、手負(ておひ)を撲地(はた)と扛(かき)おろして、二帶(ふたかは)に立(たち)わかれ、阿容(おめ)(/\)々として蹲踞(かしこま)る。仂武者(はむしや)なれども二个所(にかしよ)三个所(さんかしよ)、痍(て)を負(おは)ざるもなかりしかば、玉梓(たまつさ)は劇惑(あはてまど)ひて、婢(をんな)ばらに扶(たすけ)られ、屏風(びやうぶ)の背(うしろ)に隱(かく)れけり。現(げに)(こと)の為体(ていたらく)、敗軍(はいぐん)と見てしかば、定包(さだかね)は呆果(あきれはて)て、「これは什麼(そも)何事(なにこと)ぞ」と問(とは)れて先(さき)にすゝみたる、老軍(ふるつわもの)(ら)(かうべ)を掻(か)き、「申上るも面(おも)ぶせなる。大將(たいせう)の軍配(ぐんばい)に、躬方(みかた)の進退(しんたい)一致(いつち)せず。敵(てき)は聞(きゝ)しにいやませる、勇將(ゆうせう)なり猛卒(もうそつ)なり、しかも大軍(たいぐん)なりしかば、撃(うて)ども射(い)れども物(もの)ともせず、一陣(いちじん)に進(すゝめ)る猛將(もうせう)、〓(くさり)の上(うへ)に大荒目(おほあらめ)の鎧(よろひ)を重(かさね)て、長(ながさ)一丈(いちじやう)あまりなる、鎗(やり)りう/\とうち揮(ふり)つゝ、馬(うま)の平頸(ひらくび)に引添(ひきそえ)て、眼(まなこ)を〓(みは)り、大音(だいおん)(あげ)、『群賊(ぐんぞく)天罰(てんばつ)(まぬか)れず。白刃(はくじん)(かうべ)に臨(のぞ)むを暁(さと)らで、虎威(こゐ)を犯(おか)すは愚(おろか)なり。しらずや里見(さとみ)義実(よしざね)朝臣(あそん)、こゝに遊歴(ゆうれき)し給ひしを、州民(くにたみ)(おし)て主君(しゆくん)と仰(あほ)ぎ、逆(ぎやく)を撃(うち)(うらみ)に報(むく)ふ、そが事(こと)の手(て)はじめに、東條(とうでふ)の城(しろ)を降(くだ)して、萎毛酷六(しへたげこくろく)を誅戮(ちうりく)し、更(さら)に瀧田(たきた)の城(しろ)を抜(ぬ)き、賊主(ぞくしゆ)定包(さだかね)を誅(ちう)せんとて、孝吉(たかよし)先陣(せんぢん)をうけ給はり、おん郷導(みちしるべ)つかまつれり。來(きた)れるこの隊(て)の賊將(ぞくせう)を、錆塚(さびづか)岩熊(いはくま)と見るは僻目(ひがめ)か。きのふまでは古主(こしゆう)に仕(つかへ)て、共(とも)に神餘(じんよ)の禄(ろく)を給(たうべ)し、金碗(かなまり)八郎を忘(わす)れはせじ。われは彼(かの)古主(こしゆう)の為(ため)に、漢(かん)を佐(たすけ)て秦楚(しんそ)を討(うち)たる、張子房(ちやうしばう)が孤忠(こちう)に做(なら)ひて、里見(さとみ)の君(きみ)に扈従(こせう)しつ、義兵(ぎへい)を勸(すゝ)め奉(たてまつ)り、敢(あへて)(やいば)に〓(ちぬ)らずして、一城(いちぜう)を抜(ぬ)き二郡(にぐん)を畧(りやく)し、既(すで)にその巣(す)に近(ちか)つきたり。非(ひ)を悔(くひ)て兜(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、御方(みかた)に参(まゐ)るものは生(いき)ん。憖(なまじい)(ふせ)ぎ戦(たゝかは)ば、天(てん)に向(むかつ)て唾(つばきは)き、淵(ふち)に臨(のぞみ)て水(みづ)を打(うつ)(ごと)く、労(ろう)して功(こう)なきのみならず、その咎(とが)その身(み)に被(かゝ)りなん、いで試(こゝろ)みよ』と喚(よばゝ)りて、馬(うま)に拍(かくい)れ鎗(やり)(ひらめ)かして、縦横無礙(じゆうわうむげ)に撃靡(うちなび)け、はや一陣(いちゞん)を突崩(つきくづ)して、大將(たいせう)錆塚(さびつか)と鎗(やり)を合(あは)し、人(ひと)まぜもせず戦(たゝか)ひしが、孝吉(たかよし)大喝(たいかつ▼ドツト)一声(いつせい▼オメク)して、畿内(いくない)が鎗(やり)(まき)おとし、胸前(むなさき)(のぞみ)て丁(ちやう)と突(つく)、衝(つか)れて馬(うま)より〓(だう)と落(おつ)れば、雜兵(ざふひやう)(ら)(はせ)よりて、押(おさへ)て頸(くび)を取(とつ)てげり。
 錆塚(さびつか)(つひ)に撃(うた)れしかば、則(すなはち)こゝに侍(はべ)るなる、岩熊鈍平(いはくまどんへい)(おほ)きに怒(いか)りて、四尺六寸の太刀(たち)抜翳(ぬきかざ)し、金碗(かなまり)を撃(うた)んとて、真一文字(まいちもんじ)に馳(はせ)よすれば、二陣(にぢん)に進(すゝ)む里見(さとみ)の老黨(ろうだう)、堀内(ほりうち)蔵人(くらんど)貞行(さだゆき)と名告(なのり)つゝ、紺糸(こんいと)の甲(よろひ)に、鍬形(くわかた)(うつ)たる冑(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、連銭芦毛(れんぜんあしげ)の、太(ふと)く逞(たくまし)き馬(うま)にうち跨(のり)て、備前(びぜん)長刀(なぎなた)の〓(しのぎ)さがりに、菖蒲形(せうぶかた)なるを挟(わきはさ)み、『渠奴(しやつ)をば吾儕(わなみ)に撃(うた)し給へ』と金碗(かなまり)に会釋(ゑしやく)して、馬(うま)を躍(おど)らせ衝(つ)と出(いで)て、鈍平(どんへい)を遮留(さへぎりとゞ)め、丁々(ちやう/\)はつしと戦(たゝか)ふたる、刀尖(きつさき)より火(ひ)を散(ちら)し、一上一下(いちじよういちげ)手煉(しゆれん)の大刀風(たちかぜ)、劣(おと)らず勝(まさ)ず見え候ひしが、何(なに)とかしけん岩熊(いはくま)は、馬(うま)の平頸(ひらくび)〓裂(きりさか)れ、主(ぬし)もろ共(とも)に轉輾(ふしまろべ)ば、貞行(さだゆき)長刀(なぎなた)とり延(のべ)て、内兜(うちかぶと)を〓(はた)と突(つく)。あはや鈍平(どんへい)、撃(うた)れぬべく見えたる処(ところ)を、某等(それがしら)(かた)に引被(ひきかけ)、辛(からう)じて逃走(にげはし)れば、敵(てき)の大將(たいせう)里見(さとみ)義実(よしさね)、三才駒(さんさいこま)に雲珠鞍(うずくら)(おか)して、華(はな)やかに鎧(よろ)ふたる、威風(いふう)凛然(りんぜん)四下(あたり)を拂(はらふ)て、馬上(ばせう)ゆたけく麾(ざい)うち揮(ふ)り、かゝれ/\、と令(げぢ)に従(したが)ふ。勢(いきほひ)(うしほ)の涌(わく)ごとく、咄(とつ)と〓(おめい)て攻立(せめたつ)れば、躬方(みかた)はます/\辟易(へきゑき)して、兜(かぶと)を脱(ぬぎ)、弓(ゆみ)を伏(ふせ)、大(おほ)かたならず降参(こうさん)して、却(かへつて)こなたを射(い)る程(ほど)に、纔(はつか)に残(のこ)る六十餘騎(よき)、深痍(ふかて)浅痍(あさて)を負(おは)ぬもなく、やうやく必死(ひつし)を脱(まぬか)れて、逃(にげ)かへり候」と告(つぐ)れば鈍平(どんへい)(おも)なげに、ものいはんとはしつれども、小〓(こびん)の外(はづれ)を劈(つんさか)れ、背(そびら)を馬(うま)に敷(しか)れしかば、頭(かうべ)だも擡得(もたげえ)ず、日影(ひかげ)まつ間(ま)の冬(ふゆ)の蜂(はち)、痛手(いたで)にさすがはり撓(たゆ)み、かよふは〓(むし)の息(いき)ばかり、物(もの)の益(やく)には立(たゝ)ざりけり。
 定包(さだかね)は聞(きゝ)あへず、眉(まゆ)うち顰(ひそ)め、大息(おほいき)つき、「里見(さとみ)は結城(ゆふき)の方人(かたうど)也。彼(かの)(しろ)没落(もつらく)しつるとき、撃(うた)れにけり、と聞(きゝ)たるに、この処(ところ)へ漂泊(ひやうはく)して、大軍(たいぐん)を起(おこ)せし事、とにもかくにもこゝろ得(え)がたし。実(じつ)に東條(とうでふ)落城(らくぜう)して、酷六(こくろく)(うた)れたらんには、城兵(ぜうひやう)こゝへかへり参(まゐ)りて、告(つげ)ずといふことあるべからず。又(また)(かの)金碗(かなまり)孝吉(たかよし)は、神餘(じんよ)譜代(ふだい)近臣(きんしん)なれども、逐電(ちくてん)したる癖者(くせもの)也。身(み)の措(おく)ところなきまゝに、潜(しの)びかへりて彼此(をちこち)なる、愚民(ぐみん)を惑(まどは)し、野武士(のぶし)を集(あつ)め、さま%\なる流言(りうげん)して、英氣(ゑいき)を折(くぢ)く詭(いつはり)の計(はかりごと)にぞあらんずらん。しからば寄隊(よせて)の總大將(さうたいせう)は、真(まこと)の里見(さとみ)によもあらじ、とは思へども予(よ)が為(ため)に、腹心(ふくしん)股肱(こゝう)の勇臣(ゆうしん)たる、幾内(いくない)は墓(はか)なく撃(うた)れ、鈍平(どんへい)深痍(ふかて)を負(おひ)し事、時運(じうん)によるとはいひながら、侮(あなど)りがたき敵(てき)にぞある。いよゝ四門(しもん)を堅(かた)く守(まも)らせ、東條(とうでふ)へ人(ひと)を走(はし)らして、そが消息(せうそこ▼○アルカタチ)を問(とは)せんには、虚実(きよじつ)はやがてしるべき也」といふ言葉(ことば)いまだ訖(をは)らず、小扈従(ここせう)(ら)(はし)り來(き)て、東條(とうでふ)の落武者(おちむしや)(ら)、逃(にげ)かへりたるよしを告(つぐ)れば、定包(さだかね)(きゝ)て「是(これ)も亦(また)、虚説(きよせつ)にはあらざりけり。われその縡(こと)の趣(おもむき)を、みづから聞(きか)んず。物(もの)ともを、庭門(にはくち)より参(まゐ)らせよ。とく/\」といそがし立(たつ)れば、こゝろ得(え)(はて)て走去(はせさり)けり。
 且(しばらく)して東條(とうでふ)なる、酷六(こくろく)に従(したが)ふて、落(おち)つゝ辛(から)く脱(まぬか)れたる、雜兵(ざふひやう)(ら)三四人(ン)、十王頭(じうわうかしら)の肱當(こて)臑當(すねあて)、腹巻(はらまき)ばかりいかめしけれど、餓鬼(がき)のごとく疲労(つかれ)(はて)て、膝(ひざ)に手(て)を掛(か)け引(ひ)く足(あし)の、一歩(いつほ)は高(たか)く、一歩(いつほ)は低(ひき)く、庭門(にはくち)よりよろめき入(い)るを、定包(さだかね)(ちか)く召(よび)よせて、「やをれ物(もの)ども、東條(とうでふ)を攻(せめ)られなば、落城(らくぜう)せざる先(さき)にこそ、注進(ちうしん)は得(え)せずして、敵(てき)はやこなたへ寄(よ)せたる後(のち)に、阿容(おめ)(/\)々として参(まゐ)ること、六日の菖蒲(あやめ)、十日の菊(きく)、その詮(せん)(たえ)てあるべきやは。かへす%\も越度(をちど)なれ」と睨著(にらまへつく)れば、おそる/\、四人(よたり)斉一(ひとしく)まうすやう、「怒(いか)らせ給ふをなか/\に、理(わり)なしとは思ひ奉(たてまつ)らねど、縡(こと)(たゞ)呼吸(こきう)の間(あはひ)に起(おこ)りて、落城(らくぜう)して候へば、告(つげ)(たてまつ)る隙(ひま)候はず。その故(ゆゑ)は如此(しか)(/\)々なり。箇様(かやう)(/\)々に候」と小湊(こみなと)なる村長(むらおさ)(ら)が、金碗(かなまり)八郎を縛來(いましめき)て、深夜(よぶか)に城戸(きど)を開(ひらか)せたる、計策(はかりこと)の為体(ていたらく)。透(すき)もあらせず敵(てき)の大軍(たいぐん)、どよ/\と迫入(こみい)りて、矢庭(やには)に城(しろ)を落(おと)せし事。萎毛酪六(しへたげこくろく)は妻子(やから)を將(い)て、笆(かき)の内(うち)より落(おち)ゆく処(ところ)を、金碗(かなまり)八郎に追蒐(おひかけ)られて、妻子(やから)は谷(たに)へ滾落(まろびおち)、皮骨(ひこつ)(くだ)けて死(し)せし事。萎毛(しへたげ)は金碗(かなまり)に、撃(うた)れたる縡(こと)の趣(おもむき)、委細(つばらか)に演訖(のべをは)り、「某等(それがしら)この事(こと)を、片時(へんじ)もはやく告(つげ)(たてまつ)らん、と思はざるに候はねど、城兵(ぜうひやう)過半(くわはん)降参(こうさん)して、敵(てき)はます/\勢付(せいつき)ぬ。街道(かいどう)を走(はし)るときは、追撃(おひうた)れんこと疑(うたが)ひなし、と思へば徑(こみち)に遶(めぐ)り入(い)り、山越(やまこえ)をして候へば、敵(てき)より後(のち)に來(き)つるとて、おん咎(とがめ)を蒙(かうむ)ること、是非(ぜひ)に及(およば)ず候」と勸觧(わぶ)れば定包(さだかね)(は)を切(くひしば)り、「原來(さては)金碗(かなまり)八郎が、結城(ゆふき)の落人(おちうど)を引入(ひきい)れて、縡(こと)みな彼奴(かやつ)が計(はか)りし也。いでやみづから馬(うま)乗出(のりいだ)して、まづ金碗(かなまり)(め)を生拘(いけと)らずは、熱(たゝ)しき腸(はら)を冷(いる)よしあらんや。とく出陣(しゆつじん)の准備(ようゐ)をせよ」と跳揚(おどりあがつ)て敦圉(いきまけ)ば、老軍(ふるつはもの)(ら)はよしなや、と呟(つぶや)きあへず東條(とうでふ)の落武者(おちむしや)に目(め)を注(くは)して、痍負(ておひ)岩熊鈍平(いはくまどんへい)を擡起(もたげおこ)し、僉(みな)もろ共(とも)に退出(まかで)しを、定包(さだかね)はなほしらずして、勢猛(いきほひたけ)く罵(のゝし)りつゝ、と見れば四邊(あたり)に人(ひと)をらず、いふがひなければ、つく/\と、思ひかへせば憖(なまじい)に、撃(うつ)て出(いで)んは究(きわ)めて危(あやう)し。要(えう)こそあれ、とひとり点頭(うなつき)、老黨(ろうだう)近習(きんじゆ)を召(よび)よして、篭城(ろうぜう)の准備(ようゐ)是彼(これかれ)とおちもなく説示(ときしめ)し、「義実(よしさね)大軍(たいぐん)なりといふとも、原是(もとこれ)烏合(うがふ)の集(あつま)り勢(ぜい)。けふより十日を俟(また)ずして、兵粮(ひやうらう)(つき)て退(しりぞ)きなん。そのとき急(きう)に追撃(おひうた)ば、金碗(かなまり)(ら)はいふもさらなり、大將(たいせう)義実(よしさね)を擒(とりこ)にせんこと、袋(ふくろ)の物(もの)を取(と)るより易(ゆす)けん。しかはあれど、麻呂(まろ)安西(あんさい)(ら)、義実(よしさね)に一致(いつち)して、もろ共(とも)に寄(よ)せ來(きた)らば、こはゆゝしき大事(だいじ)なり、顧(おも)ふに麻呂(まろ)小五郎(こゞらう)は、匹夫(ひつふ)の勇士(ゆうし)(はか)るに足(た)らず。こゝろ憎(にく)きは安西(あんさい)のみ。思慮(しりよ)あるよしを豫(かね)て聞(きけ)り。さりともわれ今(いま)(り)をもて誘引(いざなひ)、箇様(かやう)(/\)々にこしらへて、東條(とうでふ)をとり復(かへ)さば、義実(よしさね)一旦(いつたん)逃走(にげはし)るとも、何処(いづこ)へか還(かへ)るべき。進退(しんたい)そこに究(きわま)りて、雑人們(ざうにんばら)が手(て)にこそ死(しな)め、敵(てき)この処(ところ)へよせざる間(はし)に、件(くだん)の使者(ししや)を出(いだ)し遣(やり)なん。誰(たれ)か今(いま)(よ)が為(ため)に、館山(たてやま)平館(ひらたて)へ使(つかひ)すべき」と思ひ入(い)りて問(とひ)しかば、妻立(つまたて)戸五郎(とごらう)と呼(よば)るゝもの、声(こゑ)に應(おふ)じて進(すゝ)み出(いで)、「願(ねが)ふは某(それがし)うけ給はらん」といへば定包(さたがね)(おほ)きに歡(よろこ)び、「汝(なんぢ)は幾内(いくない)鈍平(どんへい)(ら)に劣(おと)らず、予(よ)がこゝろをしれるもの也。ゆかんと乞(こ)ふを許(ゆる)さゞらんや。館山(たてやま)平館(ひらたて)へはせ行(ゆき)て、景連(かげつら)(ら)にいふべきは、定包(さだかね)古主(こしゆう)の遺蹟(いせき)を収(おさめ)て、新(あらた)に二郡(にぐん)を領(れう)せしに、結城(ゆふき)の落人(おちうど)里見(さとみ)義実(よしさね)、當國(たうこく)へ漂泊(ひやうはく)して、愚民(ぐみん)を惑(まどは)し、野武者(のぶし)を集(あつ)め、不意(ふゐ)に起(おこつ)て東條(とうでふ)の城(しろ)を乗取(のつと)り、勢(いきほ)ひに乗(まか)しつゝ、既(すで)に滝田(たきた)へ推(おし)よせたり。兎(うさぎ)(に)られて狐(きつね)(うれ)ふ。これその禍(わざはひ)(とほ)からず、等類(とうるい)に及(およ)べばなり。定包(さだかね)不肖(ふせう)に候へども、正(まさ)しく神餘(じんよ)の遺領(いれう)を受(うく)れば、舊好(きうこう)はその家(いへ)にあり。両君(りやうくん)いかでか隣郡(りんぐん)の兵役(ひやうやく)を救(すくは)ずして、共(とも)に弊(ついえ)を受(うけ)給はんや。速(すみやか)に出陣(しゆつぢん)して、東條(とうでふ)を攻(せめ)おとし、敵(てき)の後(うしろ)を襲(おそ)ひ給はゞ、義実(よしさね)三面六臂(さんめんりつひ)なりとも、三方(さんほう)に敵(てき)を受(うけ)て、防戦(ぼうせん)かなふべうもあらず、鏖(みなごろし)にせられん事、絶(たえ)て疑(うたが)ひなきもの也。義実(よしさね)(たやす)く誅伏(ちうぶく)せば、是(これ)両君(りやうくん)の賜(たまもの)なり。定包(さだかね)は平郡(へぐり)一郡(いちぐん)滝田(たきた)一城(いちぜう)にて事足(ことたり)なん。誰(たれ)にもましませ東條(とうでふ)を、攻(せめ)おとし給ふ人(ひと)に、長挟郡(ながさこふり)を進(まゐ)らせん、と叮嚀(ねんごろ)に演(のべ)よかし」といへば戸五郎(とごらう)(おもて)を瞻(みあ)げ、「御諚(ごでふ)では候へども、よしや里見(さとみ)は滅(ほろ)ぶとも、長挟郡(ながさこふり)を人(ひと)に取(と)らせて、みづから所領(しよれう)を削(けづり)給はゞ、外(よそ)の援(たすけ)を憑(たの)むもよしなし。賢慮(けんりよ)をめぐらし給はずは、御後悔(ごゝうくわい)もや候はん」と老黨(ろうだう)もろ共諫(いさむ)れば、定包(さだかね)(きゝ)あへずうち微笑(ほゝえ)み、「汝等(なんぢら)もしか思ふ歟(か)。こは予(よ)が計畧(はかりごと)になん。鷸蚌(いつぼう)(ぢ)して漁者(ぎよしや)に獲(え)らる長挟(ながさ)一郡(いちぐん)を餌(ゑば)にして、安西(あんさい)麻呂(まろ)(ら)に東條(とうでふ)をとり復(かへ)させ、更(さら)に里見(さとみ)をうち滅(ほろぼ)さば、景連(かげつら)信時(のぶとき)(り)に迷(まよひ)て、確執(くわくしつ)に及(およ)ぶべし。件(くだん)の両將(りやうせう)彼地(かのち)を争(あらそ)ひ、合戦(かつせん)しば/\なるときは、一方(いつほう)は傷(きずつけ)られ、一方(いつほう)は必(かならず)(うた)れん。われは則(すなはち)その虚(きよ)に乗(の)りて、安房(あは)朝夷(あさひな)の二郡(にぐん)を取(と)らん。當國(たうごく)こゝに平均(へいきん)し、居(ゐ)ながらにして四郡(しぐん)を握(にぎ)らば、愉(こゝろよ)きことならずや」と誇皃(ほこりが)に説喩(ときさと)せば、戸五郎(とごらう)只管(ひたすら)感佩(かんはい)して、定包(さだかね)が書簡(しよかん)を乞(こひ)とり、身軽(みかろ)く鎧(よろふ)て駿馬(しゆんめ)に鞭(むち)うち、舘山(たてやま)を投(さし)て馳去(はせさり)けり。
 さる程(ほど)に里見(さとみ)の大軍(たいぐん)、詰旦(あけのあさ)未明(まだき)より、瀧田(たきた)の城(しろ)をとり巻(まき)て、息(いき)も吻(つか)せず攻(せむ)れども、要害(えうがい)(もと)より堅固(けんご)なる、神餘(じんよ)数代(すだい)の名城(めいぜう)なれば、一朝(いつちやう)にして落(おつ)べうもあらず、昼夜(ちうや)をわかず攻(せむ)ること、既(すで)に三日に及(およ)べども、城兵(ぜうひやう)は撃(うつ)て出(いで)ず、寄手(よせて)もさすがに疲労(つか)れしかば、只(たゞ)遠攻(とほせめ)にぞしたりける。浩処(かゝるところ)に武者(むしや)一騎(いつき)、暮(くれ)かゝる日(ひ)ともろともに、西(にし)の城戸(きど)より入(い)らんとて、溝端(ほりばた)さして馬(うま)をよすれば、堀内(ほりうち)貞行(さだゆき)(きつ)と見て、「渠奴(しやつ)は必定(ひつぢやう)(しろ)より出(いで)て、麻呂(まろ)安西(あんさい)に援(たすけ)を乞(こ)ひ、今(いま)(たち)かへるとおぼえたり。彼(あれ)生拘(いけど)れ」と喚(よばゝ)れば、早雄(はやりを)の若武者(わかむしや)(ら)、うけ給はると應(いらへ)あへず、犇々(ひし/\)と追蒐(おつかけ)たり。城中(ぜうちう)よりもこれを見て、妻立(つまたて)を撃(うた)すなとて、西城戸(にしのきど)を推開(おしひらけ)ば、戸五郎(とごらう)は衝(つ)と馬(うま)を入(い)れて、そが侭(まゝ)(はし)を引(ひき)しかば、寄手(よせて)は狩場(かりは)の偸立(ぬきたち)(とり)を、追失(おひうしな)ひしこゝちしつ、つけ入(い)る事もかなはねば、いたく焦燥(いらち)てひらおしに、攻破(せめやぶら)んと鬩(ひしめけ)ば、義実(よしさね)これを召(よび)かへさせて、貞行(さだゆき)(ら)に宣(のたま)ふやう、「怒(いかり)に乗(まか)して事(こと)をなせば、後悔(こうくわい)せずといふことなし。件(くだん)の武者(むしや)を生拘(いけと)りて、縁由(ことのよし)を鞠問(きくもん)し、さてそが首(かうべ)を刎(はね)たりとも、安西(あんさい)麻呂(まろ)(ら)相譚(かたらは)れて、わが後(うしろ)を襲(おそは)んには、城(しろ)はいよ/\落(おつ)べからず。諸方(しよほう)の攻口(せめくち)合期(がつこ)して、後(うしろ)に備(そなへ)、前(まへ)を撃(うち)、常山(じやうさん)長蛇(ちやうじや)の勢(いきおひ)を、張(は)るには絶(たえ)てますことあらじ」と叮嚀(ねんごろ)に説諭(ときさと)し、「麻呂(まろ)安西(あんさい)(ら)を禦(ふせ)げ」とて、軈(やが)て五百の軍兵(ぐんひやう)を引(ひき)わけて、堀内(ほりうち)貞行(さだゆき)を後陣(ごぢん)に備(そなへ)させ、更(さら)に東條(とうでふ)へ人(ひと)を遣(つかは)して、杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)に云々(しか/\)のよしを告(つげ)、篭城(ろうぜう)由断(ゆだん)すべからずとて、よくそのこゝろを得(え)させ給ひつ、金碗(かなまり)孝吉(たかよし)もろともに、義実(よしさね)みづから〓(しろ)を遶(めぐ)りて、短兵急(たんへいきう)に攻(せめ)給ふ。
 かゝりし程(ほど)に定包(さだかね)は、妻立(つまたて)戸五郎(とごらう)が恙(つゝが)なく還(かへ)れるよしを聞(きゝ)しかば、遽(いそがは)しく召入(よびい)れて、その消息(せうそこ)を尋(たづね)れば、戸五郎(とごらう)(なが)るゝ汗(あせ)推拭(おしぬぐ)ひ、「さン候景連(かげつら)信時(のぶとき)、一議(いちぎ)に及(およ)はず、領諾(れうだく)して候ひき。又(また)(かの)里見(さとみ)主従(しゆう/\)は、その

【挿絵】「瀧田(たきた)の城(しろ)(せめ)に貞行(さだゆき)(ら)妻立(つまたて)戸五郎(とごらう)を追(お)ふ」「金まり八郎」「里見よしさね」「堀内貞行」「妻立戸五郎」

はじめ舘山(たてやま)なる、安西(あんさい)に身(み)を寄(よせ)たりしを、大(おほ)かたならず威(おど)されて、逃吠(にげぼえ)したる白徒(しれもの)也。いかにして日(ひ)ならずも、大軍(たいぐん)を起(おこ)しけん、こゝろ得(え)かたき事也とて、景連(かげつら)も信時(のぶとき)も、娟(ねた)しと思ひ候へば、東條(とうでふ)を攻(せめ)んこと、疑(うたが)ひなく候」と報知(つぐ)れは定包(さだかね)ます/\歡(よろこ)び、戸五郎(とごらう)を労(ねぎら)ひて、物(もの)(あまた)(かつげ)させ、「ます/\寄手(よせて)を禦(ふせげ)」とて、をさ/\舘山(たてやま)平舘(ひらたて)より、援來(たすけき)つるを俟(まち)てをり。
 かくて日來(ひごろ)(ふ)る隨(まゝ)に、寄手(よせて)は既(すで)に兵粮(ひやうろう)(つき)て、三日の貯禄(たくはへ)なくなりしかば、貞行(さだゆき)孝吉(たかよし)これを患(うれ)ひて、義実(よしさね)にまうすやう、「既(すで)に出陣(しゆつぢん)まし/\て、七八日を經(へ)たれ共、いまだ東條(とうでふ)より兵粮(ひやうろう)をまゐらせず。思ふに杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)は、老功(ろうこう)の兵(つわもの)なれども、彼処(かしこ)も新(あらた)に獲(え)たる城(しろ)也。民(たみ)催促(さいそく)に従(したが)はで、物(もの)とゝのはずや候はん。時(とき)は今(いま)麦秋(むぎあき)にて、彼(あれ)(みそなは)せ、遠山畑(とほやまはた)なる、麦(むぎ)はや熟(じゆく)して候かし。刈(かり)とらせ候ばや」といへば、義実(よしさね)(かうべ)を揮(ふ)り、「否(いな)わが瀧田(たきた)を攻(せむ)る事(こと)は、民(たみ)の塗炭(とたん)を救(すくは)ん為(ため)也。然(さ)るを今(いま)その農(のう)を奪(うば)ひ、その生麦(なまむぎ)を掠(かすめ)とりて、兵粮(ひやうろう)となすときは、人(ひと)を食(くら)ふて身(み)を肥(こや)す、虎狼(とらおほかみ)に等(ひと)しからずや。加以(これのみならず)長挟(ながさ)の農民(のうみん)、催促(さいそく)に従(したが)はで、彼処(かしこ)に兵粮(ひやうろう)とゝのはずは、是(これ)わが徳(とく)の至(いた)らぬところ、速(すみやか)に退陣(たいぢん)して、徳(とく)を脩(おさ)め民(たみ)を撫(なで)、時(とき)を待(まち)て瀧田(たきた)を攻(せめ)ん。さはあらずや」と宣(のたま)へば、貞行(さだゆき)霎時(しばらく)(かうべ)を傾(かたふ)け、「仁心(じんしん)ふかくましませば、おん身(み)を責(せめ)てかくまでに、民(たみ)を憐(あはれ)み給ふこそ、よに有(あり)かたき事(こと)に候へ。さはれ今(いま)このまゝに、こゝを退(しりぞ)き給はんには、かならず城(しろ)より撃(うつ)て出(いで)、難義(なんぎ)に及(およ)び候はん。今宵(こよひ)(かゝりひ)の数(かず)をまして、はや攻(せめ)かゝるごとく思はせ、真夜中(まよなか)(すぎ)て後陣(ごぢん)より、軍兵(ぐんびやう)を退(しりぞか)せ、樹立(こたち)(ひま)なき処々(ところ/\)に、伏兵(ふせゞい)を殘(のこ)し置(おき)、君(きみ)中軍(ちうぐん)にをはしまし、某(それがし)殿(しんがり)つかまつらば、縦(たとひ)(しろ)より追携(おひすがり)て、啖留(くひとめ)んとすればとて、なでふ事歟(か)候べき」といふを孝吉(たかよし)(きゝ)あへず、「杉倉(すぎくら)(うぢ)の計策(はかりごと)、可(か)ならざるにあらざれども、さでは只(たゞ)(み)を衞(まも)り、敵(てき)を禦(ふせ)ぐの外(ほか)なきのみ。もし愚按(ぐあん)によるときは、三四百の壮士(ますらを)(ら)に、計畧(はかりこと)を説授(ときさづ)け、麻呂(まろ)安西(あんさい)(ら)が籏(はた)をもたし、或(ある)は指物(さしもの)笠印(かさしるし)まで、皆(みな)その模様(もやう)に打扮(いでたゝ)して、黄昏(たそがれ)(すぐ)る比及(ころおひ)に、我(わが)本陣(ほんぢん)の西北(いぬゐ)を過(よぎ)りて、城(しろ)に入(いら)まくするときに、こなたより犇々(ひし/\)と、遮留(さへぎりとゞめ)て追(お)ひつかへしつ、同士撃(どしうち)をしたらんには、城中(ぜうちう)よりこれを見て、すは舘山(たてやま)平舘(ひらたて)より、援(たすけ)の兵(つわもの)(きた)れるぞ、彼(あれ)(うた)すな、と城戸(きと)(おし)ひらきて、かの援兵(ゑんへい)に力(ちから)を戮(あは)し、城(しろ)へ入(い)れんとせでやは止(やま)ん。そのとき件(くだん)の軍兵(ぐんびやう)を、先(さき)に立(たゝ)して我(わが)三軍(さんぐん)、思ひの隨(まゝ)につけ入(い)られば、一挙(いつきよ)して城(しろ)を落(おと)さん。斯(かう)ではいかゞ候べき」といと正首(まめやか)に謀(はかり)まうせば、義実(よしさね)つく/\とうち聞(きゝ)て、「貞行(さだゆき)が策(はかりこと)は、危(あやう)からざれども我(われ)に益(ゑき)なく、孝吉(たかよし)が策(はかりこと)は、巧(たくみ)なれども、甚(はなはた)(あやう)し。おもふにいにしへの聖王(せいわう)賢將(けんせう)、仁義(じんぎ)の軍(いくさ)を起(おこ)すものから、詭(いつは)りをもて捷(かつ)ことをはからず。唐山(もろこし)(しん)の文公(ぶんこう)は、詭計(たばかり)を用(もちひ)ずして、五伯(ごは)の一(いち)と稱(せう)せられ、よく周室(しうしつ)を佐(たすけ)たり。孫呉(そんご)が兵法(へいほう)、詭道(いつはりのみち)を旨(むね)とす。こは戦國(せんこく)の習俗(ならひ)也。策(はかりこと)よしといふとも、詭(いつはり)をもて敵(てき)を滅(ほろぼ)し、その土地(とち)をたもつときは、何(なに)をもて民(たみ)を教(をしえ)ん。汝達(なんたち)の策(はかりこと)、従(したが)ひかたきはこの故(ゆゑ)なり。定包(さだかね)富饒(ふによう)の地(ち)を有(たも)ち、要害(えうがい)の城(しろ)に篭(こも)り、且(かつ)三年(さんねん)の糧(かて)ありとも、防禦(ぼうぎよ)の術(てだて)尋常(よのつね)なれば、落(おと)しがたしといふにもあらねど、一時(いちじ)に城(しろ)を乗取(のりと)らば、罪(つみ)なき民(たみ)を夛(おほ)く殺(ころ)さん。曩(さき)にしば/\いひつるごとく、定包(さだかね)に従(したが)ふもの、皆(みな)兇悪(けうあく)の人(ひと)のみならんや。権(けん)に壓(おさ)れ、威(い)におそれ、一旦(いつたん)(しろ)に篭(こも)るとも、その楽(たのしみ)を共(とも)にせず。竟(つひ)に憂(うれひ)を共(とも)にして、命(いのち)を其処(そこ)に隕(おと)しなば、いと痛(いたま)しき事(こと)になん。秦(しん)の降卒(ごうそつ)八万人(ン)を坑(あな)にせし、項羽(こうう)が兇暴(けうばう)いへばさら也。秦(しん)の蒙恬(もうてん)、漢(かん)の霍光(くわくくわう)がごとき、智勇(ちゆう)の將(せう)は竟(つひ)に後(のち)なし。人(ひと)を殺(ころ)すの夛(おほ)き故(ゆゑ)也。願(ねが)ふ所(ところ)は定包(さだかね)のみ。只(たゞ)(かれ)一人(ひとり)を誅(ちう)せば足(た)りなん。この餘(よ)のうへは謨(はか)るに堪(たへ)ず」と叮嚀(ねんころ)に説諭(ときさと)し給へば、貞行(さだゆき)も孝吉(たかよし)も、只(たゞ)(あ)とばかり感伏(かんふく)して、又(また)いふよしもなかりけり。しばらくして件(くだん)の両人(りやうにん)、思はずも嘆息(たんそく)し、「賢慮(けんりよ)凡智(ぼんち)の外(ほか)に出(いで)て、昔(むかし)の聖王(せいわう)賢將(けんせう)も、このうへや候べき。しかはあれど、時既(ときすで)に澆季(ぎやうき)に及(およ)びて、利(り)に聚(つど)ふもの甚(はなはだ)(おほ)く、徳(とく)によるもの究(きわめ)て寡(すくな)し、君(きみ)が兼愛(けんあい)(あさ)からで、敵(てき)(ぜう)に篭(こも)れる民(たみ)まで、助(たすけ)まほしく思召(おぼしめせ)ども、勢(いきほ)ひ両(ふたつ)ながら全(まつた)からず。兵粮(ひやうろう)(すで)に竭(つき)ながら、詭(いつはり)の計(はかりこと)もて、城(しろ)を乗取(のりとる)ことを要(えう)せず、又(また)詭計(たばかり)て、退(しりぞ)くことを肯(うけがひ)給はず。徒(いたづら)に日(ひ)を送(おく)り給はゞ、凡(およそ)躬方(みかた)の千餘人(せんよにん)、饑渇(きかつ)に得堪(えたへ)ず、離(はな)れ叛(そむか)ん。さるときは又(また)(たれ)と共(とも)に、大事(だいじ)を興(おこ)し給ふべき。宋襄(そうじやう)の仁(じん)、微生(びせい)が信(まこと)は、日來(こびろ)(わらは)せ給ふならずや。猶且(なほかつ)賢慮(けんりよ)をめぐらし給はゞ、しかるべからん」とまうすにぞ、義実(よしさね)莞尓(につこ)とうち笑(え)みて、「兵粮(ひやうろう)(とも)しくなりぬるよしは、予(よ)も又(また)これを患(うれひ)ざらんや。物(もの)を思へば空(そら)のみ歟(か)、彼此(をちこち)となく瞻望(ながむ)れは、東南(たつみ)のかたなる豆畑(まめはた)に、鴿(いへはと)(あまた)求食(あさる)あり。彼(かれ)何処(いづこ)より聚(つど)ふと見れば、瀧田(たきた)の城(しろ)より旦(あした)に來(き)て、夕(ゆふべ)になれば還(かへ)るかし。鳩(はと)は源家(げんけ)の氏(うぢ)の神(かみ)、八幡宮(はちまんぐう)の使者(ししや)とぞいふなる。これによりて不意(ゆくりなく)、些(ちと)の術(てだて)を獲(え)たりしかば、則(すなはち)(かみ)に祈(いの)りつゝ、壮佼(わかうど)どもにこゝろ得(え)さして、竊(ひそか)に罹(あみ)して件(くだん)の鳩(はと)、五六十を捕(とらへ)たり。かくて数通(すつう)の檄文(げきぶん)を書写(かきしたゝ)め、件(くだん)の鳩(はと)の足(あし)に結(むす)びて、放(はな)さばかならず城(しろ)へ還(かへ)らん。さるときは人(ひと)(あやし)みて、鳩(はと)をとらへてその書(しよ)を見つべし。よしや捕(とらふ)ることなく共、結目(むすびめ)(とけ)て落(おつ)るもあらん。城中(ぜうちう)にあるとあるもの、この檄文(げきふん)を披閲(ひらきみ)て、逆(ぎやく)を去(さり)、順(じゆん)に帰(き)す、こゝろ起(おこ)らば変(へん)を生(せう)じて、城(しろ)は攻(せめ)ずも必(かならす)(やぶ)れん。縡(こと)もし成(な)らば國(くに)の仇(あた)、賊主(ぞくしゆ)定包(さだかね)をのみ誅(ちう)して、民(たみ)の望(のぞみ)を果(はた)すべし。城兵(ぜうひやう)(かね)て定包(さだかね)に、従(したが)ふこゝろなきものも、こなたへ参(まゐ)らばなか/\に、誅(せう)せられん、と〓(あやぶ)みて、仇(あた)の為(ため)に城(しろ)を守(まも)る歟(か)。是(これ)も又(また)不便(ふびん)なり。誠(まこと)に小児(しように)の智(ち)にひとしく、果敢(はか)なき謀(はかりこと)に似(に)たれども、曩(さき)に此方(こなた)へ寄(よ)するとき、待崎(まつさき)のほとりなる、白籏(しらはた)の神(かみ)に祈(いの)れば、山鳩(やまはと)の祥瑞(せうずい)あり。今又(いまゝた)こゝに鴿(いへはと)の祐(たすけ)あらばと祈(いの)るのみ。成(なる)ならざるは神(かみ)にまかして、如此(しか)して見よ」と仰(おふせ)れば、貞行(さだゆき)孝吉(たかよし)ます/\甘(かん)じて、「微妙(いみじく)(はか)らせ給ひにけり。今(いま)定包(さだかね)が罪(つみ)を数(かぞ)へて、城中(ぜうちう)へ示(しめ)さんには、これにますべき術(てだて)はなし。軍民(ぐんみん)一トたびその書(しよ)を閲(けみ)せば、憤發(ふんはつ)して乱(らん)を生(せう)じ、賊首(ぞくしゆ)の頭(かうべ)を献(たてまつ)らん。速(すみやか)に行(おこな)ひ給へ」と辞(ことば)齊一(ひとしく)(いらへ)まうしつ。金碗(かなまり)孝吉(たかよし)(うけ給は)りて、草案(したかき)を綴(つゞ)る程(ほど)に、はしり書(かき)する士卒(しそつ)を聚合(つどへ)て、数(す)十通(つう)を写(うつ)させ給ふに、立地(たちところ)に写(うつ)し畢(をは)りしかば、その日(ひ)はいまだ暮(くれ)ざりけり。かくて義実(よしさね)主従(しゆう/\)は、香(かふ)を焼(たき)、神酒(みき)を沃(そゝ)ぎて、白籏(しらはた)の祠(やしろ)を遥拝(ようはい)し、豫(かね)て捕(とらへ)おかせ給ひし、数(す)十羽(は)の鳩(はと)の足(あし)に、彼(かの)檄文(げきぶん)を結著(むすびつけ)て、そがまゝに放(はなち)給へば、案(あん)に違(たがは)ず翩々(ひら/\)と、飛揚(とびあが)りつゝうちつれ立(たち)て、みな城中(ぜうちう)へかへりけり。堅(かた)くも結(むす)ばぬ状(でふ)なれば、鳩(はと)は城中(ぜうちう)へ入(い)るとやがて、おのづから結目(むすびめ)のとけざるはなかりしに、殊更(ことさら)不思議(ふしぎ)なりけるは、此度(こだみ)軍役(ぐんやく)に驅入(かりいれ)られし、平郡(へぐり)の荘客們(ひやくせうばら)が小屋(こや)のほとりへ、処(ところ)も違(たが)へず落(おと)せしかば、こは什麼(そも)(なに)ぞと疑惑(うたかひまどひ)て、衆皆(みな/\)(て)に手(て)に拾(ひら)ひとりて、遽(いそがは)しく推開(おしひら)けは、

流水不附于高(りうすいはたかきにつかず)。良民不従乎逆(りやうみんはぎやくにしたがはず)。若夫佐桀討堯(もしそれけつをたすけてげうをうてば)。猶水而附高也(なほみづにしてたかきにつくがごとし)。謂之悖於天(これをてんにもとるといふ)。雖欲久。勢不可得(ひさしからんとほつすといへどもいきほひうべからず)。抑賊主定包者(そも/\ぞくしゆさだかねは)。奸詐以仆主(かんそもつてしゆうをたふし)。蠧毒以虐民(とゞくもつてたみをしへたぐ)。雖云王莽禄山(わうもうろくさんといふといへども)。又何加焉(またなんぞくはえん)。恭以吾(うや/\しくおもんみればわが) 主源朝臣(しゆみなもとのあそん)。南渡日。未幾(なんとのひいまだいくばくもあらず)。見推于衆而討逆(しゆうにおされてぎやくをうち)。抜民於塗炭中(たみをとたんのうちにぬく)。徳如成湯(とくせいとうのごとく)。澤似周武(たくしうぶににたり)。於是乎(こゝにおいてか)。取東條(とうでふをとり)。畧二郡(にぐんをりやくし)。將破其巣也(まさにそのすをやぶらんとす)。可憐汝衆人(あはれむべしなんぢしゆうじん)。隕命於賊巣(めいをぞくさうにおとさんことを)。因以喩示于此(よつてもつてこゝにゆじす)。奚不速歸順(なんぞすみやかにじゆんにきせざる)。奚不功以償罪(なんぞこうもつてつみをあがなはざる)。區々取惑(くくとしてまどひをとらは)。雖悔曁焉哉(くゆといへどもおよばんや)。天鑒不誤(てんかんあやまたず)。王事無〓(わうじもろいことなし)。恭奉 台命以喩示(うや/\しくたいめいをうけ給はつてもつてゆじす)
嘉吉(かきつ)元年(ぐわんねん)辛酉(かのとのとり)夏五月(のなつさつき)
         金碗八郎(かなまりはちらう)孝吉(たかよし)(ら)(うけ給はる)
とぞ書(かい)たりける。軍民(ぐんみん)(ら)これを見て、僉(みな)(よろこ)びていへりけるは、「彼(かの)御曹司(おんざうし)は仁君(じんくん)なり。曽(かつて)(やいば)に〓(ちぬ)らずして、東條(とうでふ)の城(しろ)を落(おと)し、今又(いまゝた)こゝに吾們(われ/\)を、憐(あはれ)み給ふことかくの如(ごと)し。御名(みな)をば聞(きゝ)つ、慕(したは)しく、思ひ奉(たてまつ)らざるにあらねども、うたてや城(しろ)に駈入(かりいれ)られて、十重(とへ)廾重(はたへ)に囲(かこま)れては、参(まゐ)るべきよしもなく、塀(へい)を踰(こえ)、城溝(ほり)を越(こえ)、彼処(かしこ)へ参(まゐ)り得(え)たりとも、今(いま)さら赦(ゆる)させ給はじ、と思ひし故(ゆゑ)に黙止(もだし)たり。所詮(しよせん)寄手(よせて)に内應(ないつう)せんとて、隙(ひま)を窺(うかゞ)ひ日(ひ)を過(すぐ)さば、縡(こと)(つひ)に發覚(あらはれ)て、彼処(かしこ)へは得(え)(まゐ)らず、鏖(みなころし)にせられなん。速(すみやか)に思ひ起(おこ)して、本城(ほんぜう)へ火(ひ)を放(はなち)、煙(けふり)を揚(あげ)て寄手(よせて)を誘引(いざなひ)、縡(こと)の紛(まぎ)れに乱(みだ)れ入(い)りて、人啖馬(ひとくひうま)を撃殺(うちころ)し、そが素頭(すかうべ)を見参(げんざん)の牽出物(ひきでもの)に進(まゐ)らせなば、一ッには年来(としころ)の冤(うらみ)を其処(そこ)に返(かへ)すべく、一ッには里見(さとみ)の君(きみ)の御感(ぎよかん)も八(や)しほにまさせ給はん。さは」とて竊(ひそか)に聚合(つどひ)つゝ、衆議(しゆぎ)はや一决(いちけち)する物(もの)から、或(あるひ)は又(また)(あやぶ)みて、「第一(だいゝち)の出頭人(きりもの)なる、錆塚(さびつか)幾内(いくない)は討死(うちしに)したれど、彼(かの)岩熊(いはくま)鈍平(どんへい)は、手痍(てきず)、大(おほ)かた平愈(へいゆ)して、二(に)の城戸(きど)を護(まも)るなる。先君(せんくん)〔神餘(しんよ)光弘(みつひろ)〕世(よ)さかりなりしとき、渠(かれ)は馬奴(うまかひ)なるものなれども、こゝろ悍(たけ)く、膂力(ちから)(つよ)かり。定包(さだかね)二郡(にぐん)を押領(おふれう)せし後(のち)、漸々(しだい/\)に重用(ちやうよう)せられて、民(たみ)の膏(あぶら)を絞(しぼり)とる、奸智(かんち)は主(しゆう)に異(こと)ならず。又(また)(かの)妻立(つまたて)戸五郎(とごらう)は、総角(あげまき)の比(ころ)よりして、定包(さだかね)に使(つかは)れて、隨一(ずいゝち)の近習(きんじゆ)たり。武術(ぶじゆつ)才藝(さいげい)(ひと)に勝(すぐ)れて、今(いま)なほ主(しゆう)のほとりを去(さ)らず。まづこの二人(ふたり)を撃(うち)とらずは、本城(ほんぜう)に乱(みだ)れ入(い)るとも、彼等(かれら)は固(もと)よりその黨夛(たうおほ)かり、忽地(たちまち)遮留(さへぎりとゞめ)られて、ほゐ遂(とげ)かたき事ありなん。この議(ぎ)はいかに」と密議(さゝやけ)ば、皆(みな)有理(もつとも)と應(いらへ)つゝ、「さらば件(くだん)の両人(りやうにん)を撃(うち)とめて、その翼(たすけ)を除(のぞ)き去(さり)、思ひの隨(まゝ)なる働(はたら)きせよ」とて、その部(てわけ)をぞしたりける。
 その次(つぎ)の日(ひ)妻立(つまたて)戸五郎(とごらう)は、彼(かの)檄文(げきぶん)を拾(ひら)ひとりて、読(よみ)も訖(をは)らずうち驚(おどろ)き、慌忙(あはてふため)き二(に)の城戸(きど)なる、岩熊(いはくま)鈍平(どんへい)が本処(ほんしよ)へ赴(おもむ)き、「箇様(かやう)(/\)々の事こそあれ。速(すみやか)に聞(きこ)えあげて、荘客們(ひやくせうばら)を搦捕(からめとり)、その禍(わざはひ)を未發(みはつ)に避(さけ)ずは、ゆゝしき大事(だいじ)に及(およ)ぶべし。これ見給へ」と懐(ふところ)より、一通(いつつう)をとり出(いだ)し、推(おし)ひらきて閣(さしおけ)ば、鈍平(どんへい)はよくも見ず、「われも亦(また)これとおなじき檄文(げきぶん)を拾(ひら)ひ得(え)て、驚(おどろ)き思ふ所(ところ)也。迺(すなはち)こゝに」と、とう出(で)つゝ合(あは)して見るにその文言(もんごん)、一点(つゆ)(たが)ふことなかりしかば、戸五郎(とごらう)思はず大息(おほいき)つき、「寄手(よせて)の間諜(かんてふ)事成(ことなり)て、躬方(みかた)に野心(やしん)のものあらば、この城(しろ)ながく保(たもち)がたし。こは忽(ゆるかせ)にすべうもあらず。誘(いざ)給へ、もろ共(とも)に、告(つげ)(たてまつ)らん」といひあへず、立(たゝ)んとする袂(たもと)を引(ひき)とめ、「妻立(つまたて)(うぢ)(しばら)く俟(まちね)。こゝろ得(え)さする事あり」と理(わり)なく禁(とゞめ)て、傍(かたへ)に推居(おしすえ)、四下(あたり)を見るに人(ひと)はなけれど、喙(ついば)む小鳥(ことり)に異(こと)ならず、しば/\左右(さゆう)を見かへりて、扇(あふぎ)を口(くち)に推當(おしあて)て、耳邊(みゝのほとり)に頤(おとがひ)さし著(つけ)、「われこの密書(みつしよ)を得(え)たりしより、彼此(をちこち)にこゝろを著(つく)るに、只管(ひたすら)寄手(よせて)を渇望(かつぼう)し、この城(しろ)を献(たてまつ)らん、と思はざるものは、只(たゞ)、斯(かう)いふわれと和殿(わどの)のみ。さるにより、われと和殿(わどの)を撃(うち)とりて、衆人(もろびと)(こと)を起(おこ)さんとて、衆議(しゆき)はや一决(いつけつ)したりとぞ、嚮(さき)にある人(ひと)密語(さゝやき)ぬ。大廈(たいか)の覆(くつがへ)らんとするときに、一木(いちぼく)いかでかこれを〓(さゝへ)ん。憖(なまじい)に義(ぎ)を立(たてゝ)て、雜人(ざふにん)ばらの手(て)に死(し)なば、いと朽(くち)をしき事ならずや。速(すみやか)に思ひ决(さだ)めて、定包(さだかね)を刺殺(さしころ)し、城中(ぜうちう)の民(たみ)もろ共(とも)に、里見(さとみ)ぬしに降参(こうさん)せば、衆人(もろひと)の怨(うらみ)を釋(とき)て、死(し)を脱(まぬか)るゝのみならず、勸賞(けんせう)思ひのまゝにして、栄(さかえ)を子孫(しそん)に傳(つたへ)なん。和殿(わどの)の胸中(きやうちう)いかにぞや」と問(とは)れて戸(と)五郎呆果(あきれはて)、「こは何事(なにごと)ぞ物(もの)にや狂(くる)ふ。和殿(わどの)が神餘(じんよ)に仕(つかへ)しときは、僅(はつか)に馬(うま)の口取(くちとり)なりしを、吾君(わがきみ)おもく用(もち)ひ給ひて、光弘(みつひろ)ぬしの老黨(ろうたう)たりし、錆塚(さびつか)萎毛(しへたげ)もろ共(とも)に、大事(だいじ)を任(まか)し給ふならずや。吾儕(わなみ)は國主(こくしゆ)〔定(さだ)(かね)〕の私卒(わかたう)たり。神餘(じんよ)が老黨(ろうだう)でをはせしときより、不便(ふびん)のものにせさせ給ひき恩(おん)を擔(になふ)て恩(おん)をおもはず、これに報(むく)ふに仇(あた)をもてせば、何(なに)によりてか人(ひと)といはれん。命(いのち)を惜(をし)むは勇(ゆう)もなく、主(しゆう)に叛(そむ)かば大逆(だいぎやく)なり。今(いま)一言(いちごん)かへして見よ、その席(せき)を去(さら)せじ」と敦圉(いきまき)ながら小膝(こひざ)突立(つきたて)、刀(かたな)の鞆(つか)に手(て)をかくれば、些(ちつと)も騒(さわが)ず冷笑(あざわら)ひ、「忠義(ちうぎ)も主(しゆう)によるものぞ。嗚呼(をこ)なることをいふものかな。今(いま)定包(さだかね)を誅(ちう)するは、故主(こしゆう)の仇(あた)を報(むく)ふ也。そを弑逆(しいぎやく)といふべからず。しらずや定包(さだかね)ふかく謀(はか)りて、豫(かね)て己(おのれ)を恨(うら)むといふ、朴平(ぼくへい)旡垢三(むくざう)(ら)が手(て)を借(かり)て、主君(しゆくん)を撃(うた)せし縡(こと)の趣(おもむき)、口外(こうぐわい)するは今(いま)はじめて。しかもその日(ひ)は朝曇(あさぐも)り、夏(なつ)なほ寒(さむ)き落羽(おちば)が岡(おか)、鷹(たか)に追(おは)るゝ鳥(とり)ならで、光弘(みつひろ)の乗(のり)給ひし、〓毛(ひばりげ)の馬(うま)(たふ)れしとき、定包(さだかね)はわが白馬(しろうま)を、軈(やが)て主君(しゆくん)に献(たてまつ)り、おん乗替(のりかえ)を俟(また)んとて、その身(み)は其処(そこ)より引(ひき)さがりき。斯(かく)てぞ朴平(ぼくへい)無垢三(むくざう)は、彼(かの)白馬(しろうま)を遥(はるか)に視(み)て、定包(さだかね)(き)つ、と思ひしかば、矢比(やころ)(ちか)くなるまゝに、よつ引(ひき)(ひやう)と發(はな)つ箭(や)に、光弘(みつひろ)朝臣(あそん)は胸(むね)を射(い)さして、馬(うま)より〓(だう)と落(おち)給ふ。その前(さき)の日(ひ)に定包(さだかね)は、吾儕(わなみ)を竊(ひそか)に招(まね)きよせ、如此(しか)(/\)々の密謀(みつぼう)あり。汝(なんぢ)われに荷擔(かたらは)れて、翌(あす)狩倉(かりくら)の朝立(あさたち)に、國主(こくしゆ)の乗馬(じやうめ)に毒(どく)を餌(か)へ。事(こと)(な)るときは重(おも)く用(もち)ひん。こは只(たゞ)當座(たうざ)の賞錢(ほうび)とて、物夥(ものあまた)とらせたり。よにあるまじき事と思へど、彼(かれ)は老臣(ろうしん)、われは奴隷(しもべ)、勢(いきほ)ひ敵(てき)すべうもあらず。否(いな)といはゞ殺(ころ)されなん。命(いのち)に換(かゆ)るものなし、と一議(いちぎ)に及(およば)ず承引(うけひき)て、その日(ひ)(うま)をば斃(たふ)したり。
 かゝれば二郡(にぐん)両城(りやうぜう)は、われ定包(さだかね)にとらせし也。この徳(とく)この誼(ぎ)に報(むくは)んとて、今(いま)老黨(ろうだう)の後(しり)にをらせ、よしや大事(だいじ)を任(まか)するとも、絶(たえ)て恩(おん)とはいふべからず。これらの事をしるものは、萎毛(しへたげ)錆塚(さびづか)両人(りやうにん)なれ共、渠等(かれら)は泉下(せんか)の人(ひと)とぞなりぬ。今(いま)では和殿(わどの)のみなるべし。加旃(しかのみならず)妻立(つまたて)(うぢ)、和殿(わとの)は月(つき)ごろ日来(ひころ)より、夫人(おくかた)に懸想(けさう)して、曁(およば)ぬ恋(こひ)に物(もの)を思ふ、とわれ豫(かね)てより猜(すい)したり。しからばはやく思ひかへして、人啖馬(ひとくひうま)を撃(うつ)ときは、賞(せう)にかえても玉梓(たまつさ)を、妻(つま)にせんこと易(やす)かりなん。かくても吾儕(わなみ)に與(くみ)せずや」と飽(あく)まで説(とか)れて戸(と)五郎は、動(うご)く心(こゝろ)ともろ共に、叉(こまぬ)きたる手(て)を釈(とき)て、忽地(たちまち)小膝(こひざ)を〓(はた)と鼓(うち)、「いはるゝ所(ところ)(まこと)にしかなり。逆賊(ぎやくぞく)に従(したが)ひし、身(み)の汚穢(けがれ)を洗(あらは)んには、小理(せうり)を捐(すて)て大義(たいぎ)を伸(のぶ)る、和殿(わどの)の議(ぎ)にこそ従(したが)ふべけれ、速(すみやか)にし給へ」と大(おほ)かたならず諾(うけ)ひしかば、鈍平(どんへい)(おほ)きに歡(よろこ)びて、「しからばとせん、斯(かう)せん」とて、迭(かたみ)に耳(みゝ)をとりかはし、遽(いそがは)しげに相譚(かたらひ)けり。
 このとき山下(やました)定包(さだかね)は、宿酒(しゆくしゆ▼○フツカエヒ)いまだ醒(さめ)ずとて、後堂(おくざしき)を出(いで)ざれ共、女(め)の童(わらは)のみ左右(さゆう)に果(はべ)らせ、翠簾(みす)を半(なかば)捲揚(まきあげ)たる、もたれ柱(はしら)に身(み)を倚(よせ)て、慰(なぐさめ)かねし徒然(つれ/\)に、尺八(さくはち)の笛吹(ふえふき)すさみ、更(さら)に余念(よねん)はなかりけり。
 浩処(かゝるところ)に岩熊(いはくま)鈍平(どんへい)は、妻立(つまたて)(と)五郎を先(さき)に立(たゝ)して、「事(こと)あり/\」と叫(さけ)びつゝ、間毎(まごと)の障子(せうじ)開放(あけはな)ち、主(しゆう)のほとりへ來(く)る程(ほど)に、こゝろを得(え)たる夥兵(くみこ)(す)十人(ン)、身輕(みかろ)く鎧(よろ)ふて、器械(うちもの)引提(ひきさげ)、些(すこし)(おく)れて次(つぎ)の房(ま)なる、いろ/\の花鳥(くわちやう)(ゑが)きたる、腰障子(こしせうじ)の陰(かげ)に躱(かく)れて、おの/\奥(おく)を闕窺(かいまみ)をり。定包(さだかね)は鈍平(どんへい)(ら)が、忙(あはたゝ)しく來(く)るを見て、尺八(さくはち)の音(ね)をとゞめ、「こは何事(なにこと)ぞ」と問(とは)せもあへず、両人(りやうにん)斉一(ひとしく)(こゑ)をふり立(たて)、「積悪(せきあく)の家(いへ)餘殃(よわう)あり。城中(ぜうちう)の民(たみ)みな叛(そむ)きて、寄手(よせて)を引入(ひきい)れ候へば、落城(らくぜう)(きびす)を旋(めぐら)すべからず。おん腹(はら)をめされ候へ。吾儕(われ/\)介錯(かいしやく)(つかまつ)らん」といひも訖(をは)らず、先(さき)に進(すゝ)みし戸(と)五郎は、刀(かたな)を晃(きら)りと引抜(ひきぬき)て、跳掛(おどりかゝつ)て〓著(きりつく)るを、「推参(すいさん)すな」と尺八(さくはち)の笛(ふえ)もて丁(ちやう)と受留(うけとゞむ)れば、笛(ふえ)は中(なか)よりはすに〓(き)られて、頭(さき)は遥(はるか)に飛散(とびちつ)たり。戸(と)五郎は思はずも、一(いち)の大刀(たち)を撃損(うちそん)じ、主(しゆう)と思へば心憶(こゝろおく)して、武者(むしや)(ぶるひ)して進(すゝ)み得(え)ず。定包(さだかね)(いか)れる眼尻(まなしり)引立(ひきたて)、「原來(さては)汝等(なんぢら)謀叛(むほん)を企(くはだて)、予(よ)を撃(うた)んとて來(き)つるよな。嗚乎(をこ)がましや」と敦圉(いきまき)たかく、立(たゝ)んとすれば戸(と)五郎鈍平(どんへい)、透間(すきま)もなく撃(うつ)(やいば)の下(した)を、くゞり脱(ぬけ)、受(うけ)ながし、切口(きりくち)(とが)れる尺八(さくはち)を、手鎗(てやり)の穂頭(ほさき)と閃(ひらめか)せども、身(み)に寸鉄(すんてつ)を帯(おび)ざれば、飛(とび)しさつて打(うつ)笛竹(ふえたけ)の、銑〓(しゆりけん)に戸(と)五郎は、右(みぎ)の腕(かひな)をうち脱(ぬか)れ、忽地(たちまち)「苦(あつ)」と叫(さけ)びあへず、刃(やいば)を撲地(はた)と落(おと)しつゝ、尻居(しりゐ)に〓(だう)と倒(たふ)れしかば、定包(さだかね)(え)たり、と走掛(はしりかゝつ)て、件(くだん)の刃(やいば)を取(とら)んとすれば、後(うしろ)に閃(ひらめ)く鈍平(どんへい)が、刀尖(きつさき)さがりに撃(うつ)大刀(たち)に、〓(かたさき)より七九兪(しちくのあたり)を、したゝかに〓著(きりつけ)られて、刃(やいば)を奪(うば)ふに暇(いとま)なく、又(また)(うち)かくる鈍平(どんへい)が刀(かたな)の鍔元(つばもと)うち落(おと)し、そが侭(まゝ)に引組(ひきくん)て、上(うへ)になり下(した)になり、且(しばら)く挑(いど)み争(あらそ)ふものから、定包(さだかね)は深痍(ふかで)を負(おひ)ぬ。勢(いきほ)ひ既(すで)に衰(おとろ)へて、竟(つひ)に膝下(しつか)

【挿絵】「鈍平(どんへい)戸五郎(とごらう)便室(こざしき)に定包(さだかね)を撃(うつ)」「岩熊どん平」「妻立戸五郎」「山下定かね」

組布(くみしか)れ、頻(しき)りに人(ひと)を呼立(よびたつ)れば、鈍平(どんへい)は頸(くび)をかゝん、と腰(こし)を撈(さぐ)れば中刀(わきさし)さへ、振落(ふりおと)して後方(あとべ)にあり。いかにせまし、と心劇(こゝろあはて)て、思はず見かへる雌手(めて)の方(かた)に、倒(たふ)れし妻立(つまたて)(と)五郎が、打(うち)かけられたる笛竹(ふえたけ)を、これ究竟(くつけう)と抜(ぬき)とりつ、反(はね)かへさんとする定包(さだかね)が吭(のんど)をぐさとつらぬきぬ。戸(と)五郎は竹(たけ)を抜(ぬか)れて、忽地(たちまち)に人氣(ひとけ)つき、岸破(かば)と起(おき)つゝこれを見て、落(おと)せし刃(やいば)を拾(ひらひ)とりて、岩熊(いはくま)に逓与(わた)せしかば、鈍平(どんへい)は定包(さだかね)が、頸(くび)かき切(きり)てぞ立(たち)あがる。
 されば夥(あまた)の兵士(つわもの)は、鈍平(どんへい)(ら)に荷擔(かたらは)れて、次(つぎ)の間(ま)まで來(き)にけれど、なほその勝負(せうぶ)を測(はかり)かねて、佻々(かろ/\)しくこれを扶(たす)けず。既(すで)にして定包(さだかね)が撃(うた)るゝを見て遽(いそがは)しく、障子(せうじ)紙門(ふすま)をうち敲(たゝ)きて、鬨(とき)の声(こゑ)をぞ揚(あげ)たりける。
 さる程(ほど)に主(しゆう)の左右(さゆう)に侍(はべ)りたる、女(め)の童等(わらはら)はおそれ迷(まど)ひて、庭門(にはくち)より走(はし)り去(さり)、これ彼(かれ)に告(つげ)にければ、縡果(ことはつ)る比(ころ)近臣(きんしん)(ら)、遠侍(とほさむらひ)より來(きつ)るもあれど、彼(かの)兵士(つわもの)(ら)に抑留(よくりう)せられ、夛(おほ)くはこのとき撃(うた)れにけり。况(まい)て物(もの)の数(かず)ならぬ、女房(にようぼう)(ら)は只(たゞ)泣叫(なきさけ)ぶを、鈍平(どんへい)(げぢ)して玉梓(たまつさ)もろ共(とも)、一人(ひとり)も漏(もら)さず生拘(いけど)らせ、おの/\金銀(きん%\)財宝(ざいほう)を、思ひのまゝに掠奪(かすめとり)て、正廳(おもて)のかたへ走去(はせさり)ぬ。現(げに)(てん)の人(ひと)を罰(ばつ)する、時(とき)ありて軽重(けいじう)(あやまつ)ことなし。定包(さだかね)奸智(かんち)を逞(たくましう)して、主(しゆう)を傷賊(そこな)ひ、所領(しよれう)を奪(うば)ひ、浮雲(ふうん)の富(とみ)をなすといへ共、百日を出(いで)ずして、又(また)その家臣(かしん)に殺(ころ)されたり。加以(これのみならす)、そが首(かうべ)を取(とら)るゝとき、件(くだん)の岩熊(いはくま)鈍平(どんへい)(ら)は、はからずも刃(やいば)を用(もて)せず、切口(きりくち)(とが)りし笛竹(ふえたけ)は、是(これ)竹鎗(たけやり)の刑(けい)に似(に)たり。又(また)(かの)妻立(つまたて)戸五郎(とごらう)は、定包(さだかね)が恩顧(おんこ)のもの也。其(そ)も笛竹(ふえたけ)の銑〓(しゆりけん)に、撃(うた)れて一旦(いつたん)息絶(いきたえ)しは、悪人(あくにん)なりとも主(しゆう)を撃(う)つ、冥罰(めうばつ)ならん、おそるべし。就中(なかについて)鈍平(どんへい)は、その罪(つみ)(たぐへ)んものもあらず。神餘(じんよ)が馬奴(うまかひ)たりしとき、逆謀(ぎやくぼう)としりつゝも、定包(さだかね)が為(ため)に、主(しゆう)の乗馬(じやうめ)を毒殺(どくさつ)し、又(また)定包(さだかね)に仕(つかへ)ては、ます/\その悪(あく)を佐(たすけ)て、刻剥(こくはく)をさ/\民(たみ)を苦(くるし)め、悪報(あくほう)その身(み)に係(つく)るに及(およ)びて、脱(まぬか)れんとて又(また)(しゆう)を撃(う)つ。縦(たとひ)善人(ぜんにん)に與(くみ)すといふとも、かくのごとくにして後(のち)(さかへ)んや。
 むかし後漢(ごかん)の光武帝(くわうぶてい)は、子密(しみつ)をもて不義侯(ふぎこう)とせり。夫(それ)不義(ふぎ)にして、封爵(ほうしやく)を受(うけ)んより、不義(ふぎ)ならずして、匹夫(ひつふ)に終(をは)るこそよけれ。作者(さくしや)間常(つね/\)、歴史(れきし)軍記(ぐんき)を読(よ)む毎(ごと)に、かゝる條(くだり)に至(いたり)ては、一(いち)大息(だいそく)をせざることなし。よりて今(いま)(また)自注(じちう)を附(ふ)して、もて童蒙(わらはべ)に示(しめ)すのみ。山下(やました)定包(さだかね)が事(こと)は、軍書(ぐんしよ)舊記(きうき)に傳(でん)あり、詳(つまびらか)ならずといへども、主(しゆう)の神餘(じんよ)を害(そこな)ひし、癖者(くせもの)なるよしはたがはず。今(いま)なほ彼処(かしこ)に古蹟(こせき)あり。くだ/\しければよくも記(しる)さず。又(また)後々(のち/\)の巻(まき)にていはなん。


# 『南総里見八犬伝』第五回 2004-08-31
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