『廿日余四拾両・盡用而二分狂言』−註釈及び解題−
高 木  元

 『廿日余(はつかあまりに)四拾両(しじうりやう)・盡用而二分狂言(つかひはたしてにぶきやうげん)』は、京傳門人大栄山人という署名に拠り、寛政三(一七九一)年に刊行された黄表紙で、後に読本作家の第一人者となった曲亭馬琴二十五歳の時の処女作である。
 早くから不完全ながらも翻刻があったせいか、わりに良く知られた作品である。ところが、処女作としての意義を除けば、作品自体の評価は決して高くなかった。確かに、ざっと一読しただけでは、何が何だか訳の分からない、とりとめのない黄表紙である。しかし、元来、黄表紙というジャンルのテキストは細かい註釈なしには理解できないのであるが、本作には影印による複製は備わっているものの、正確な本文の翻刻や註釈は、いまだ成されていないようである。そこで基礎研究として、まずは註釈を付けてみることにした。なお本テキストの持つ問題等に就いては最後の解題にまとめて記した。

【書誌】

○外題 『盡用而二分狂言(つかひはたしてにぶきやうげん)』。角書「廿日余(はつかあまりに)\四拾両(しじうりやう)(下巻の角書きは「四十両」となっている)
○編成 黄表紙、中本、上下二巻二冊、各五丁計十丁
○作者 京傳門人\大栄山人作
○画工 一陽齋豊國画
○刊年 寛政三年(題簽が右下に亥の絵を入れた寛政三年の泉市の意匠である)
○板元 和泉屋市兵衛板(題簽に「芝\神明まへ」「泉市」とある)
○柱刻 「みぶ」
○底本 東洋文庫岩崎文庫蔵(題簽の完備した保存の良い美本である)
○諸本 国立国会図書館、都立中央図書館蔵加賀文庫、大東急記念文庫、早稲田大学。『日本文学大辞典』(新潮社)にいう「天保十年歌川国芳の画にて再版」本は確認できなかった。
○翻刻 ・『大通世界』巻二(幸堂得知) 明治廿四年七月 春陽堂
    ・『黄表紙百種』(續帝國文庫) 明治丗四年七月 博文館
    ・『黄表紙名作集』 大正四年二月 一星社
    ・『黄表紙傑作集』(蘇武利三郎) 大正十五年六月 三星社
    ・『黄表紙集』(近代日本文学大系) 昭和二年六月 國民圖書株式会社
     『繪入黄表紙名作集』(関根黙庵) 年 月
などに所収されているが、多くは挿絵を欠き、本文を適当に継ぎ剥ぎし、地口を省略している等、底本としての使用に耐えられるものではない。

【凡例】
○黄表紙は絵組も重要な意味を持つので、表紙を含めて挿絵全部の図版を掲載した。
○翻字に際しては原文を尊重し、仮名遣いや濁点踊字等の表記には手を加えなかった。ただし、読み易くするために原文を復元できる範囲で、以下の諸点に変更を加えた。
○平仮名ばかりの原文に無理のない範囲で適宜漢字を当てた。その際、もとの平仮名をルビとして残した。また、原文に使われている漢字にルビが施されている場合は<>で括ってこれを示した。
○原文にはない句読点を適宜付した。
○脱字と思われる箇所は[ ]に入れて補った。
○必要に応じて翻字した本文の語句に番号を付け、後に註釈を施した。
 また、※以下にはその場面に関する簡潔な解説を付した。

本稿を成すにあたり、故向井信夫氏には役者似顔を中心にして全般にわたる御示教を賜りました。また、語句の出典等に就いては内田保廣氏、松田高行氏、広部俊也氏、鹿倉秀典氏、二川清氏、閻小妹氏の各氏から有益な御教示を得ました。とりわけ、松田氏にはテキスト全体にわたり多くの知見を与えて頂きました。ここに記して心より感謝致します。なお本稿は、高田衛先生の深川に関するテキストの紹介をせよという御下命に従い、浅学非才を顧みず、先学の業績や多くの方からの御教示にすがってまとめた叩き台です。多々ある不備不行届きに就いて、是非とも宜敷く御批正御教導下さいますよう御願い申し上げます。

【参考資料】
尾崎久彌「馬琴初期の黄表紙」(『江戸軟派雑稿』、大正十四年六月、春陽堂)
田中緑紅『壬生大念佛狂言』、和装本一冊、昭和二十九年四月、花発行所。(外包には昭和新訂、「謡曲に現れたる/民俗学上より観たる・壬生狂言考」とある。尚、壬生狂言に関する知見は大部分本書に負っている。)
古川 久「芭蕉と馬琴」(『世阿弥・芭蕉・馬琴』、昭和四十二年、福村出版)
鈴木重三『岩崎文庫貴重本叢刊(近世編)六巻 草双紙』、昭和四十九年、貴重本刊行会(影印複製と解題)
佐藤要人「江戸めくり加留多資料集・解説」(日本かるた館編、昭和五十年、近世風俗研究会)
水野 稔「馬琴の黄表紙」(「ビブリア」六十一、昭和五十年十月)
武藤元昭「馬琴初期黄表紙をめぐって」(「青山語文」六、昭和五十一年)
清田啓子「馬琴の初期黄表紙についての感想 −その〈書き入れ〉のこと−」(「駒沢短大国文」十二、昭和五十七年)

【本文】

〔表紙〕〈上巻〉は壬生の小猿が座頭を襲う場面を描く。
    〈下巻〉は荒獅子男之助を描く。

〔自序〕

▼1(おきな)の句(く)に、ものいへば唇(くちひる)(さむ)し秋(あき)の風(かせ)とハ實(まこと)にしかり。彼(か)▼2(ぼう)太郎も〓[病垂れ+音](おし)となつて父(ちゝ)の仇(あた)を報(むく)ひ、▼3庚申(かうしん)の猿(さる)も口をふさぎて災(わざわひ)の門(かど)を守(まも)り、▼4舌切雀(したきりすゝめ)も舌をきられて一生(いつしやう)をあやまたず。▼5壬生狂言(みぶきやうげん)の不言(ものいわぬ)も、則(すなハち)▼6(ほとけ)の方便(はうべん)とさとらバ、人(ひと)/\▼7だまりの天神様をいのり玉へかし

▼8京傳門人 大栄山人誌

▼1 芭蕉の句で、貞享年間に成ったといわれる。「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」の後に添えられる。
▼2 所謂『金比羅利生記』で、父の仇をねらう田宮坊太郎が、素性を敵に知られることを恐れ、唖と偽って育てられた話をさす。なお、寛政元年二月には江戸豊竹肥前掾座で『花上野誉の石碑』が上演されている。
▼3 青面金剛の三匹の使い猿は、見ざる・聞かざる・言わざるの三態を表し、その内言わざるは両手で口を覆っている。
▼4 舌切雀は本格昔話として広く流布し、赤本等にも題材を供して居た。馬琴は『燕石雑志』(文化七年・考証随筆)巻四で『宇治拾遺』や『捜神記』を引いてこの民譚の典拠を考証している。さらに、後年に書かれた読本には、このような民譚を一趣向として取り込むことも多かった。
▼5 京都壬生寺の大念仏会等に壬生土着の人々に拠って演じられる狂言。終始無言で演じ、囃子には金鼓・締太鼓・笛を用いる。円覚が大念仏の会衆に教理を知らせるために始めたと伝えられる。
▼6 「嘘も方便」と同様に、黙しているのも方便だという謂。
▼7 鉛で作った玩具の「なまりの天神」を、「黙りの天神」ともじったもの。
▼8 山東京山の『蛙鳴秘鈔』に「馬琴‥‥さるにても雅名つけて給はるべしとしきりに乞ひけるに、京伝、深川に住み給ふとならば、深川富ヶ丘八幡宮別当の山号を大栄といへば、文字もめでたければ、大栄山人とも名のり給へといふに、馬琴大いに喜び‥‥‥」(「鈴木牧之資料集」)とある。また、同書に「馬琴といふは自らつきし名なり。此名をつく時も京伝に相談してきはめたる名なり」とあるが「馬琴」という俳号は、京伝と逢う以前の天明三年の『東海藻』に見えているというから、俳号としての「馬琴」は自分で撰んだものと思われる。

※ 冒頭に据えられた芭蕉の警句から、坊太郎、庚申の猿、舌切り雀、壬生狂言と来て最後の「だまりの天神」という落ちまで、「黙り尽し」とでもいうべき連想に拠って書かれた序文である。趣向として用いた壬生狂言が黙劇(パントマイム)である事から、逆に発想されたものであろう。ここで提示された「口は災いの門」というモチーフは、「張果坊」という命名にも生かされ(後述)、結末では「一寸ンの舌をもつてハ五尺の身を失ふ戒め」と結ばれている。すなわち全体を教訓的に統一しようという意識が見て取れるのである。更に重要なのは、このモチーフが単に本作の趣向として使われただけでなく、馬琴の中に根強くあった考え方だと思われることで、後年『南総里見八犬伝』でも、「三歳に成っても話せない」伏姫と「一言の失ち」から娘を失う義実の親子として構想化さているのである。


〔一〕

(こゝ)▼1張果坊(てうくわぼう)馬琴(きん)といふ者(もの)あり。世ハ▼2(くわ)の杖(つえ)の折(お)れ易(やす)きを厭(いと)ひ、▼3(こがらし)の身ハ竹齋(ちくさい)に似(に)たる哉(かな)と、行脚(あんぎや)の志(こゝろさ)し頻(しき)りにして、▼4芭蕉庵(ばせをあん)の旧跡(きうせき)を慕(した)ひ、▼5深川の八幡(まん)へ参詣(さんけい)して、▼6(その)女桜も今ハ名(な)のみと、昔(むかし)を思(おも)ひて、其処此処(そここゝ)を眺(なが)め歩(ある)き、猶(なを)、誹(ママ)(<はいどう>)を祈(いの)らんと、拝殿(はいでん)▼7通夜(つや)しける。
不思議(ふしぎ)なるかな、其夜(そのよ)も既(すで)▼8丑三(うしみ)つと思(おぼ)しき頃(ころ)、拝殿(はいでん)▼9絵馬(ゑま)おのれと抜出(ぬけい)でける。其中(そのうち)にも▼10(ぬゑ)の絵馬(ゑま)(おも)ふやう、此儘(まゝ)にてそこいらをぶらつかハ、たちまち山師の手に渡(わた)りて、▼11両国(ごく)(あた)りのよしず張(ば)りに生恥(いきはぢ)を晒(さら)さんと、▼12御家(おいへ)の術(じゆつ)を行(おこな)ひ、顔(かほ)の猿(<さる>)と尾(<を>)の巳(<み>)を取(とつ)▼13壬生(みぶ)の小猿(ざる)といふ盗賊(とうぞく)と成(な)る。
おし鳥の絵馬(ゑま)も、人間(げん)の中(なか)へ鳥(とり)がでゝハ、▼14そりが合(あ)うまひと、過(すぎ)し頃(ころ)▼15菊之丞がせし鴛鴦(おしどり)の狂言(きやうげん)を思出(おもひだ)して、十六七の▼16満更(まんざら)でなき奴(やつ)と化(け)し、其他(そのほか)(みな)/\思(おも)ひ/\に抜出(ぬけい)でける。

▼1 張果は八仙の一人で画題にも採られている。此処で「張果坊」馬琴としているのは、以下の『太平広記』所引『続神仙伝』等の記事に拠ったものと思われる。時又、有道士葉法善亦多術。玄宗問曰「果何人耶」。答曰「臣知之、然臣言訖即死故不敢言。若陛下免冠跣足救臣、即得活」。玄宗許之。法善曰「此混沌初分、白蝙蝠精」。言訖七竅流血僵仆于地。玄宗遽詣果、所免冠跣足自稱其罪。果徐曰「此児多口過不謫之恐敗天地間事耳」。玄宗復哀請久之。果以水〓其面。法善即時復生。つまり、張果に関する秘密を、法善という口をきき過ぎる道士が漏らした結果、一旦は死ぬが、その後張果に助けられるという話である。馬琴の口のきき過ぎが本作のモチーフに成っていることと考え合わせたい。
▼2 芭蕉の句に「秋風に折て悲しき桑の杖」(『笈日記』下・悼松倉嵐蘭)がある。
▼3 芭蕉の発句「狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉」(『冬の日』)
▼4 本所六間堀にあった芭蕉の庵室跡。「古池や蛙とびこむ水のおと」と詠んだ池があったという。「江府には第一翁の旧跡あるべかりけるに、其跡さへしる人まれ也」(『続江戸砂子温故名跡志』巻之三、享保二十年刊)。「(万年)橋の北詰、松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今なほ存せりといふ」(『江戸名所図会』巻之七、天保七年刊)
▼5 富岡八幡宮のこと。「深川永代島にあり。別当は真言宗にして、大栄山金剛神院永代寺と号す。‥‥‥当社門前一の華表(とりゐ)より内三四町が間は、両側茶肆(ちやや)酒肉店(りようりや)軒を並べて、常に絃歌の声絶えず。ことに社頭には二軒茶屋と称する貨食屋(りようりや)などありて、遊客絶えず。」(『江戸名所図会』巻之七)
▼6 「永代寺林泉のうちにあり。正徳年間園女といひて、俳諧を好める婦女、これを植ゑたりといへり。歌仙桜とも名づく。今は枯れてわづかに存せり。その頃、三十六株ありしゆゑに、歌仙とは名づけたりしとなり。」(『江戸名所図会』巻之七)尚、毎年三月末に山開と称して林泉を開いて諸人に見物を許し、大いに群集したという。
▼7 神社寺院に参篭して、終夜祈願すること。以下の所謂「通夜物語」は伝統的な説話の形式であり、普通は夢告という形で神慮が明らかにされる。
▼8 真夜中、深夜二時半頃。
▼9 奉納された絵馬。挿絵では、右から順に荒獅子男之助、鴛鴦、鵺退治、座頭、曾我の十郎という具合に、芝居にちなんだ絵が描かれている。
▼10 想像上の怪獣で「頭は猿、躯は虎、尾は蛇の姿」といわれる。紫宸殿に夜な夜な出現する鵺を勅命を受けた頼政が郎党・猪早太と共に大鏑矢で射止める、という鵺退治の話は『平家物語』や『源平盛衰記』に見えており、謡曲や古浄瑠璃を経て歌舞伎にも仕組まれている。また、壬生狂言の演目にも入っている。
▼11 両国辺りに沢山あった見せ物の仮小屋のこと。「此の時壬生狂言は大いに流行りて、両国の見世物にも真似て是れもはやりし」(『増訂・武江年表』寛政二年の条)とある。
▼12 その家に伝わる他の人に真似の出来ない術のことだが、鵺は怪獣だから人間には使えない得意の術が使えるという程度の謂。
▼13 謡曲『熊坂』に「壬生の小猿」という盗賊が見えている。また、壬生狂言に猿の出る曲目が多かったということも無関係ではあるまい。
▼14 刀の反りが鞘に合わないことから、気が合わない。
▼15 三世瀬川菊之丞、安永四年中村座顔見世狂言『花相撲源氏張胆』の第二番目「四十八手恋所訳」阿蘇沼で鴛鴦の精を演じ大当りした。「河津に嵐三五郎、股野に中村仲蔵、たが袖瀬川菊之丞〔次にをし鳥の所作あり〕大々当り」(『歌舞伎年代記』巻六)
▼16 かなり容姿の優れた娘。以下、鴛鴦には三代目菊之丞の似顔で描かれる。

※ 挿絵には拝殿で居眠りをする「馬琴」が描かれるが、その恰好は俳諧師のものである。又、冒頭部にも芭蕉を慕い俳道を祈る「馬琴」の様子が描かれている。ここで、この黄表紙の作者が「京伝門人・大栄山人」であるという点と、作中人物としての「馬琴」が描かれているいう点に留意するならば、謂わば自己を客体化する視点から書かれているといえよう。ならば、俳諧師である「馬琴」とは、作者自身の自己認識を反映した設定であると考えられるのである。  さて、馬琴が若い日に俳諧に手を染めたことは今更説くまでもないが、馬琴の芭蕉観や俳諧に就いては古川久氏「芭蕉と馬琴」(『世阿弥・芭蕉・馬琴』)が要を得ている。此時点に於ては俳諧に心を入れていたのであり、友達交際も俳諧関係が多かったようである。

〔二〕

絵馬(ゑま)ハおのが様(さま)/\抜出(ぬけい)でけれども、元(もと)が絵(ゑ)の抜(ぬけ)出しなれば、もの言(いわ)ず。側(そば)▼1黒子(くろご)を着(き)たるもの付添(つきそ)ひ居(ゐ)て、それ/\に訳(わけ)を言(い)ふ。此者(もの)何処(いづく)より来(き)たりしや、まづ今の分(ぶん)でハわからず。
(さて)、鴛鴦(おしどり)の絵馬(ゑま)ハ、▼2とうでも性(しゃう)が水鳥(とり)(ゆへ)、水辺(すいへん)でなければ住付(すみつ)かれず、▼3洲崎(すさき)へ来(きた)り。汐(しほ)を汲(く)んで暮(く)らせしが、十郎の絵馬(ゑま)ハ、ちつと▼4(はつ)てみんと此所へ来(き)ていちやつく。
黒子(くろご)を着(き)た者(もの)(いわ)く、「▼5須磨(すま)の浦辺(うらべ)で汐汲(しほく)むよりも、▼6汐汲(しほく)み三年(ねん)(かき)八年」などゝ鴛鴦(おしどり)が洒落(しやれ)ますれバ、十郎が「そんな地口(ぢぐち)▼7桶取(おけと)り/\」などゝ、また洒落(しやれ)ます。
▼8わたしやおし鳥よいわいな。そうじやそしや/\そしや/\どうしやうノウ」
▼9磯端(いそはた)の出会(であひ)にハ、羽織(はおり)千鳥(ちどり)も無駄(むだ)があるめへ。▼10ホンニ千鳥(ちとり)で成人(せいじん)したよふに。コウ洒落(しやれ)るでもあるめへ」

▼1 歌舞伎の舞台で役者の演技を手伝う黒装束の者をいう。実際に姿が見えても、居ないことにする約束事になっている。
▼2 どうしたって。何と言っても。
▼3 深川八幡の東に位置する佳景の地で、洲崎弁才天があった。「武江年表」明和二年の条に塩焼きの記述がある。
▼4 口説いて物にしようと狙って見張ること。
▼5 長唄「鷺娘」に「須磨の浦邊で鹽汲むよりも。君の心は取りにくいさりとは實に誠と思はんせ」とある。いわゆる「松風村雨」の汐汲の見立なので「須磨の浦辺」と成っており、十郎が行平に、鴛鴦が松風に擬せられている。
▼6 「汐汲み」の音から「桃栗」ともじった「桃栗三年柿八年」の地口。
▼7 汐を汲む「桶」に即して、そんな地口は措いとけ(止めとけ)程度の謂。尚「桶取」は壬生狂言の演目中でも有名な物の一つ。
▼8 俗謡を踏まえたものと思われる。延享五年「小唄秀歌集」(未見)
▼9 「曾我狂言」で十郎が対面の場で着ることに成っている千鳥模様の羽織も、今この海辺での出会いには相応しいだろうという謂。
▼10 「千鳥」を「一人」のもじりと見ると「一人で成人した」となる。何を踏まえた表現かは未詳。

※ 註に記した様に、この場面は汐汲みを見立てた挿絵に成っており、十郎には初代八百蔵の似顔が用いられている(帯に三升模様が見える)。特に、本作は歌舞伎への依存が強く、筋の運びや挿絵の構図、書き入れ(地口)まで芝居趣味で貫かれている。ただし、壬生狂言を趣向化したので面を用いた黙劇としなければならない。そこで、絵馬から抜け出した登場人物等が面を付け口をきけないことにし、台詞はプロンプターとしての黒子に言わせると言う仕掛にしたのである。少々理屈っぽいが、なかなか旨い具合に仕組まれている。また、深川の名所でもある洲崎という水辺の場所の設定も無理がない。

〔三〕

座頭(さとう)の絵馬(ゑま)ハ、二人連(ふたりつ)れにて、京都をこゝろさし上りけるが▼1六郷(ろくごう)の渡(わた)しを渡(わた)る時(とき)、壬生(みふ)の小猿(さる)、かねて此所に待伏(まちぶ)せして、懐中(くわいちう)の金を▼2せしめじるにせん、とつけ来(き)たる。
「此同行ハもふ来(き)そふなものだ。こふ言つてハとふか、▼3(はつ)名代の客(きやく)が言(い)ゝそふな台詞(せりふ)だ」
▼4座頭/\の千次郎でもあるめへ。」
黒子(くろご)それ/\につけ声色(ごハいろ)する。
小猿(ざる)▼5定九郎と八平次のひやわいと言(い)ふ身にて脅(おど)す。
「人の事をめくらと言(い)つても、御前(おめへ)も金にハ目(め)があるまひ」
▼6定九郎恋路(こいじ)の濡衣(ぬれごろも)、なんと此地口は与(よ)八平。」
▼7アヽこれハ金でハござりませぬ。昼食(ちうじき)の握(にぎ)り飯(めし)に、娘(むすめ)がくれた▼8反魂丹(はんぐんたん)。金(かね)と思(おも)ふは御前(おまへ)▼9安本丹(あんぽんたん)さ」

▼1 多摩川下流の六郷川にあった東海道品川宿と川崎宿との間の渡し場。
▼2 種々の物を煮込んだ汁。ここでは、わが物にするという意味の「せしめる」の洒落
▼3 初会の遊女に他の客があるため代理の新造を相方とした客が待っている時に言いそうな台詞だ。
▼4 児童遊戯歌「芋むしころ/\‥‥‥あとの/\千次郎」の地口(「嬉遊笑覧」)
▼5 定九郎は『忠臣蔵』に登場する強盗で、八平次は『恋女房染分手綱』に登場して座頭の慶政を殺す。ここでは、壬生の小猿が歌舞伎で有名な二人の強盗の中間という振舞いでという程の意味。
▼6 未詳。
▼7 以下は『仮名手本忠臣蔵』五段目の「イヱ/\この財布は後の在所で草履買ふとて端銭を出しましたが、後に残るは昼食の握飯、霍乱せんやうにと娘が呉れた和中散反魂丹でござります」のもじり。
▼8 癪や食傷等に特効のある丸薬。
▼9 あほ太郎を薬名に似せた洒落。阿呆。馬鹿。

※ この場面は「盲人川渡り」として壬生狂言の演目にもあったものであるが、能狂言の『丼礑』から取られたものであるという。座頭は似顔に成っていないようだが、壬生の小猿は四代目幸四郎らしい(向井信夫氏の御教示)。挿絵中の扇子等に見える「大念佛」の文字は、壬生狂言が大念仏狂言と呼ばれることにちなむ。大念仏会から発生したものだからである。一方、座頭殺しから『染分手綱』の八平次を出し、更に定九郎を出したことから『忠臣蔵』の世界に転回して、地口として与市兵衛の台詞のもじりが使われている。残念ながら、▼6の地口は意味が良く分からない。あるいは、千次郎や与八平は楽屋落ちかもしれない。

〔四〕

壬生(みぶ)の小猿(ざる)ハまんまと金を奪取(うばひと)り、二人リの座頭(ざとう)を川中(なか)へぶち込(こ)み、立帰(たちかへ)らんとせしが、座頭(ざとう)が持(も)つて来(き)たる吸筒(すいつゝ)を見付(みつ)け、先(ま)つ息付(いきつ)きに一杯(はい)(もち)ゐんと、河原(かハら)に一人(ひとり)大杯(さかづき)を傾(かたむ)け、したゝかあをつて、たわいなく寝入(ねい)る。
▼1五斗兵衛(ごとひやうへ)と言(い)ふ身(ミ)で眠(ねむ)る。
此所とんと▼2(おく)山が名残(なごり)の如(ごと)く大でき/\
馬琴(ばきん)ハ、最早(もはや)▼3(かん)平か▼4(いつ)平が出(で)そふなものだ、と目(め)も離(はな)さずまもりいたりしが、暫(しばら)くあつて何処(いずく)ともなく、▼5どんと鉄砲(てつほう)の音(おと)がせし故(ゆへ)、さてハ勘(かん)平がではなるべしと思(おも)ひの外、▼6いの字の紋(もん)(つ)いたる長上下の侍(さむらい)立出(い)でけれバ、いの字(じ)の紋(もん)なれバ泉(いづみの)三郎だろうと見(み)ていれば、▼7猪早太(いのはやた)忠澄(たゞすミ)、鵺(ぬゑ)をとり逃(にが)せし故(ゆへ)、撃(う)ち止(と)めんと出(い)でけるが、鵺(ぬゑ)ハ人に化(ば)けたる故(ゆへ)、もし人違(ちが)ひてハ悪(わる)いと▼8空鉄砲(からでつぽう)で様子(ようす)を見(み)る。
▼9鳩鉄砲(はとてつほう)より眠(ねむ)る事(こと)あり又(また)(たぬき)ならずや」
黒子(くろご)(つ)け声色(ごわいろ)▼10訥子(とつし)ハきつからう

▼1 『義経腰越状』に登場する人物。酔って寝ている振りをしていると空鉄砲に驚かされて目を覚ます振りをするという「鉄砲の段」が踏まえられて居る。
▼2 奥山は初代浅尾為十郎の俳名。本作の出される前年、寛政二年の秋、市村座の名残狂言『義経腰越状』で五斗兵衛を演じて居る。「三段目五斗兵衛・為十郎。泉の三郎忠衡・宗十郎。…………この狂言浅尾為十郎名残にて、三番叟の段、鉄砲の段、古今の大評判大当なり。」(『歌舞伎年代記』寛政二年)とある。
▼3 『忠臣蔵』の登場人物で、五段目で猪と間違えて定九郎を鉄砲の二つ玉で撃つ。
▼4 『恋女房染分手綱』の登場人物で、伊達与作の下僕。
▼5 鉄砲の音を媒介にして『忠臣蔵』と『義経腰越状』とを連続させている。
▼6 沢村宗十郎の紋。泉の三郎は『義経腰越状』の登場人物で、三段目で寝ている振りをしている五斗兵衛を空鉄砲を撃って試す。挿絵中の面は宗十郎の似顔で描かれている。
▼7 『平家物語』等に見える鵺退治の話に於て、頼政の郎党として出てくる。また、謡曲「鵺」や壬生狂言「鵺退治」にも登場している。
▼8 『腰越状』に於ける泉の三郎になぞらえている。
▼9 「友遠方より来る事あり、亦楽しからずや」(『論語』学而)の地口。
▼10 沢村宗十郎の俳名。「きつかろう」は「すごいだろう」程度の謂。

※ 此処では、本作が出される前年の当り狂言『義経腰越状』を全面的に踏まえている。「鉄砲の場」の〈泉の三郎〉と〈五斗兵衛〉とを、そのまま〈猪の早太〉と〈壬生の小猿〉とに重ね合わせたのである。更に、前からの関連でいえば『忠臣蔵』の二つ玉鉄砲が、連想の軸と成っているのである。後の馬琴のあり方から考えると、これほどまでに芝居に依拠した書き様に驚かされる。尾崎久彌氏は「馬琴初期の芝居好」(『近世庶民文学論考』、昭和二十五年)で、馬琴の〈旧悪〉として享和四年の黄表紙『松株木三階奇談』等を引いて詳説されているが、その濃厚な芝居趣味は処女作に於ても同様であった。ただ、既に安定していた黄表紙というジャンルの持つ書式(型)の範囲内ではあるが、芝居とテキストの筋の重ね合わせ方や、場面転換の連想の運び方に馬琴らしさが出ていると考えられる。

〔五〕

小猿(ざる)ハ空鉄砲(からでつほう)の音(おと)に目(め)を覚(さま)し、酒(さけ)の酔(ゑひ)も醒(さ)め果(は)てければ、そう/\に其処(そのところ)を立退(の)きける。猪(い)の早(はや)太ハ、小猿(ざる)が跡(あと)を慕(した)ひ来(き)たる途中(とちう)の事故(ゆへ)▼1苧環(おだまき)も無(な)けれハ、鼻紙(はながミ)を出(だ)して紙縒(こより)をより/\慕(した)ひ来(く)る。
「付(つ)け声色(こわいろ)▼2黒子(くろご)な役(やく)だ」
「サァ鵺(ぬゑ)と名乗(なの)れ。跡(あと)をつけるが▼3観世縒(かんじんより)だ」
「跡(あと)をつけられて▼4苧環(おだまき)があるものか。わゐらに名乗(なの)▼5(なハ)無い/\」

▼1 『妹背山婦女庭訓』四段目「道行 恋のをだまき」で、お三輪が男の裾に苧環の糸を縫いつけて跡を辿った話を踏まえているが、路次なので苧環を持っていないということ。
▼2 声色は黒子の(苦労な)役目だという地口。
▼3 観世縒は紙ごよりを綯い合わせたもの。此所では肝心だという意味の洒落。
▼4 苧環は御溜(おたまり)の地口。御溜は必ず下に否定を伴って「たまるものか」という謂。
▼5 「縄」に「名は」を掛け、名乗る名前は無いという意味。

※ 此処で上巻の終り。絵柄も見開きではなく、五丁の裏だけで一図をなしている。追跡をする場面なので『妹背山』にこじつけているが、苧環の代わりに観世縒りを出したのは、駄洒落でまとめるためである。

〔六〕

曾我(そが)の十郎ハ、鴛(おし)鳥と深(ふか)くかたらひ、昼(ひる)ハ人目(め)も多(おう)しと、地蔵堂(どう)の後(うしろ)に忍(しの)び居(ゐ)る。壬生(みぶ)の小猿(ざる)ハ小蔭(こかげ)より此様子(ようす)を見(み)て、鴛(おし)鳥を▼1ふつちめんと思(おも)ふ。此所も堂(どう)の後(うしろ)で黒子(くろご)の付(つ)け声色(ごはいろ)なり。
▼2殿御(とのご)/\と気(き)が知(し)れぬ。▼3しゃくじょな/\気(き)が知(し)れぬ、と地蔵尊(ぢぞうそん)も捨(す)て地口(ぢぐち)給ふ。」
「昼(ひる)ハ御顔(おかほ)も水鳥(みづとり)とハ、何(なん)▼4因果(ゐんぐは)地蔵尊(ぢぞうそん)、晩(ばん)にハ必(かなら)▼5流黐(ながしもち)にしなんすなへ」

▼1 モノにしよう。
▼2 『京鹿子娘道成寺』の文句である「殿御/\の気が知れぬ、悪性な/\気が知れぬ」の地口。
▼3 右の「悪性」は、地蔵の持っている「錫杖(しやくじょう)」の地口に換えられている。
▼4 「何の因果」から、当時浅草で信仰を集めていた「因果地蔵」に繋げた洒落。
▼5 流黐は、冬の夜に長い縄や板に黐を塗り付けて湖沼に流し鴨等の水鳥を捕獲すること。俳語として、水鳥に縁のある語である。また「流す」は「止めにする」の意。

※ 壬生狂言には地蔵の登場する演目が多い。これは壬生寺の本尊が「延命地蔵尊」であることと関係しているのであるが、餓鬼角力・安達が原・餓鬼責・大江山・紅葉狩などは、全て地蔵の救済譚となっている。また、『道成寺』の地口も、次の場面への伏線となっているのである。

〔七〕

小猿(ざる)ハ隙(ひま)を窺(うかゞ)ひ、鴛(おし)鳥を口説(くど)けとも、心に従(したが)はぬ故(ゆへ)、鴛(おし)鳥を縛(いまし)め猿轡(さるぐつは)を嵌(は)める。小猿(さる)が嵌(は)めたる轡(くつは)(ゆへ)、猿轡(さるぐつは)とハ言(い)ふなるべし。鴛(おし)鳥ハ縛(いまし)めを解(と)かんとすれども解(と)かれず。▼1信仰記(しんかうき)の雪姫(ゆきひめ)を思ひ出し、足(あし)にて鼠(ねずみ)を描(か)けバ、忽(たちま)ち四五匹(ひき)(あらは)れ縄(なは)を喰(く)い切(き)る。
▼2ぬしに恨(うら)みが数(かづ)/\こざる。初手(しよて)にわしが跳(は)ねた時(とき)、無性(むしやう)滅法(めつほう)と口説(くど)くなり。後(あと)の文を見(み)る時(とき)ハ、総別(そふべつ)(むし)が良(い)ゝと口説(くど)[く]」
▼3コウ縛(しば)られてハ、無性(むしやう)に踏(ふ)むより外(ほか)の事ハねへ」
▼4荒獅子男之助の絵馬(ゑま)ハ、▼5二番目(ばんめ)まで出ざりしが、鼠(ねずみ)の有様(ありさま)を見(み)て丁度(ちやうど)(よ)ひ出所と思ひ、二重(じう)舞台(ぶたひ)から、▼6さも強(つよ)そふに鼠(ねずみ)を怪(あや)しむ。
黒子(くろご)の人鼠(ねずみ)を使(つか)

▼1 『信長記』に世界を求めたもので、四段目金閣寺の場の、松永大膳に桜の木に縛られた雪姫が、散り来る桜の花を足で寄せ集めて鼠を描くと、本物の鼠と化して姫を縛めている縄を喰い切る、という部分を下敷として利用している。尚、安永四年五月の市村座『祇園祭礼信仰記』では、この雪姫を菊之丞がやっている。
▼2 『京鹿子娘道成寺』、「鐘に恨みは数々ござる。初夜の鐘を撞く時は、諸行無常と響くなり。後夜の鐘を撞く時は、是生滅法と響くなり。」の地口で、「ござる」が「小猿」となっている。尚、文意は良く通らないが、「初手にハネる」や「ムシが良い」等は〈めくりカルタ〉の用語である。
▼3 「しばる」「ふむ」も、めくりカルタ用語。
▼4 荒獅子男之助は、所謂伊達騒動物の『伽羅先代萩』の登場人物。此所は七段目で若君の宿直する所へ怪鼠が現れ、鉄扇で一撃を加えるという場面を踏まえている。
▼5 順序として第二番目に位置する狂言で、普通は世話物を上演した。この黄表紙の上冊を一番目、下冊を二番目と見立てている。
▼6 荒獅子男之助は団十郎によって市川流の荒事の大役とされていた。

※ この場面では鼠が二つの芝居を媒介する働きをしている。すなわち『信仰記』と『先代萩』の世界を重層化して利用しているのである。その際、荒獅子男之助が三代目団十郎の似顔で描かれており、雪姫に擬した鴛鴦の菊之丞と併せて好対照をなしている。また、猿轡の語源譚風の拙いこじつけも、理に勝った馬琴らしいものである。さらに、此所でも『道成寺』にちなむ地口が使われており、次の場面へ繋げている。  一方〈めくり〉カルタは寛政の改革で厳禁されて以後、表面上は文芸テキスト上からは消えてしまうというが、京伝が天明七年の黄表紙『寓骨牌(むだかるた)』でカルタ用語尽くしを趣向化している如く、賭博としてかなり流行っていたものと思われる。この場面では、上がり〈役〉の呼称ともなっている団十郎の登場が契機となって趣向化されたものと考えられる。同様に、仲蔵、海老蔵、惣十郎(宗十郎)などという役もあった。

〔八〕

(おし)鳥ハやう/\縛(いまし)めを解(と)き十郎を尋(たづ)ねしが、地蔵堂(ぢぞうどう)にも居(ゐ)ざりしかハ大きに驚(おどろ)き、其処(そこ)よ此処(こゝ)よと尋(だづ)ね歩(ある)き、此処(ところ)へ来(きた)る。
小猿(ざる)、猪(ゐ)の早太(はやた)▼1坊主(ほうず)の役廻(やくまは)りにて、鴛(おし)鳥を入(い)れじと支(さゝ)へしが、鴛(おし)鳥か携(たづさ)へし酒(さけ)に気(き)を奪(うは)われ、鴛(おし)鳥を内(うち)へ入(い)れる。
「此酒(さけ)を飲(の)みながら▼2紅葉(もみぢ)を見(み)る気(き)ハござんせんか。今洲崎(すさき)▼3大文屋(だいもんや)から持(もつ)て来(き)やした」
▼4酒に娘(むすめ)は品(しな)(よ)くとまる。」
「あの娘(むすめ)を内(うち)へ入(ゐ)れて酒(さけ)を飲(の)む気(き)は無阿弥陀(なむあみた)/\」
「あゝした所(ところ)ハ、▼5土橋(どばし)の小吉(きち)ときて居(ゐ)る」

▼1 謡曲や河東節の『道成寺』では、鐘供養をする場は女人禁制で、坊主がそこを警護している。
▼2 紅葉狩をしているところに鬼神が美女に化けて酒をすすめる、という『今昔物語』等に見えている戸隠山の鬼女伝説を利用している。これを脚色した謡曲に「紅葉狩」があり、さらに壬生狂言の演目にも成っている。ただし、安永二年の江戸中村座顔見世狂言『御ひいき勧進帳』三立目の所作にて、行平が維茂の見得で居眠り、松風が鬼女の面で紅葉狩という趣向があった。つまり、最初の汐汲みの場で、十郎に行平、鴛鴦に松風のイメージを負わせた馬琴の発案には、先行する例があったのである。
▼3 花咲一男氏に拠れば、『称覚譚(ねざめものがたり)』に「深川洲崎に塩焼場始て開発、其塩ハ出来不申。其所に大文屋という料理屋建、殊之外時行(はやる)」とあるいう(「描かれた深川」、『深川文化史の研究』下)
▼4 『妹背山婦女庭訓』四段目、馬子唄「竹にさ、雀はナァ、品よくとまるナ‥‥」の地口。
▼5 深川の土橋には遊楼が沢山あった。馬琴の編んだ『俳諧古文庫』にも兄羅文の「土橋の賦」を収め、此地の繁栄振りがうかがえる。一方、「小吉」という名は、京伝の『古契三娼』(天明七年)に「土はしのげいしやじやァ。春吉。小吉。三喜蔵。‥‥‥」と見えているので、当時有名な芸者であったと思われる。

※ この場面は『道成寺』を踏まえただけでなく、『紅葉狩』を付会している。この連想の契機は注▼2 で述べた通り、行平松風と維茂鬼女を併せた趣向であったと思われる。挿絵中央に見られる衝立であるが、あるいは斯様な演出が実際にあったのであろう。地口に「洲崎の大文屋」と「土橋の小吉」という具体的な固有名詞が使われている点に興味が惹かれる。共に地元深川で知られていたもののようである。

 それにしても、小猿を追いかけていた筈の猪の早太が、何時の間にか小猿と一緒に居るのも不可解ではある。が、この荒唐無稽さを許容するのが、また黄表紙というジャンルの特徴でもあった。つまり、俳諧の連歌と同様に、次々に連想によって飛躍する場面の展開に面白みが存するからである。


〔九〕

(おし)鳥ハ酒(さけ)を以(もつ)て二人(ふたり)を謀(たばか)り、難(なん)なく内(うち)へ入(はい)りしが、とふか▼1道成寺の様(やう)なれば、舞(まひ)を舞(ま)はずハ眠(ねむ)るまい。と▼2羯鼓(かつこ)を打(う)つて舞(ま)ひけれバ、小猿(ざる)も少(すこ)しほろ酔(よ)ひ機嫌(きげん)、共(とも)に立(た)つて舞(ま)ひ遊(あそ)ぶ。小猿(ざる)▼3焙烙(ほうろく)を羯鼓(かつこ)に擬(なぞら)へ舞(ま)ひけるが、つひ叩(たゝ)き割(わ)る。此(これ)を世(よ)に猿知恵(さるぢへ)とハ申なり。
▼4「不思議(ふしぎ)や。今迄(まで)ありつる女、とり/\化生(けしやう)の姿(すがた)を現(あらは)し」▼5「龍頭(りうづ)に手を懸(か)け、飛(と)ぶよと見(み)へしが」小猿(ざる)も共(とも)に鐘(かね)を担(かつ)いで失(う)せにけり。
▼6(おや)の頭(あたま)に松三本(ほん)▼7暮染(くれそ)めて鐘(かね)や響(ひゞ)くらん」
▼8焙烙(ほうろく)もん/\飴(あめ)ハ評判(ひやうはん)で買(か)ハつしやひ」
▼9(ほん)も正月、紅葉狩(もみぢがり)と道成寺と一(いつ)所に来(き)た様(よふ)だ」
「こつちハ▼10玄関(げんくはん)に客(きやく)を改(あらた)め病用(<びやうよう>)をかくとかやといふ身だ。薮医者(やぶゐしや)じやァねへが。」
「黒子(くろご)やつぱり付声色(つけこはいろ)。」
「いよ/\有難(ありがて)へ/\。▼11焙烙(ほうろく)山椒(さんしよ)(く)ハしよ、紅葉(もみぢ)の下で酒飲(さけの)ましよ。」

▼1 謡曲や河東節の『道成寺』で、鐘供養の場を拝みたいと尋ねてきた白拍子は、舞いを見せることによって中に入れて貰う。
▼2 雅楽の楽器で、木製の筒の両端に革を張った鼓。『京鹿子娘道成寺』等の所作事では首に掛けて打ちながら踊る。
▼3 素焼の平たい土鍋。挿絵では大念佛と書いて首から下げている。能狂言の『鍋八撥』を踏まえたもので、これは、焙烙売りが羯鼓屋に負けまいと胸に焙烙を括り付け、転がる拍子に胸を地に付けて粉々に割ってしまうというもの。これは、壬生狂言の代表的な演目の一つである『焙烙割』の原拠とも成っている。壬生寺では奉納された厄除焙烙を大念仏の期間に割り開運を祈祷しているという。
▼4 謡曲『紅葉狩』「不思議や今までありつる女。/\。とり/\化生の姿をあらはし。」の文句取り。
▼5 謡曲『道成寺』「龍頭に手をかけ飛ぶと見えし、引き被きてぞ失せにける。」の文句取り。
▼6 誓詞。親の頭に松の三本生えることがあっても、しかじかの事はしないという。
▼7 「花の外には松ばかり/\、暮れそめて鐘や響くらん/\」(『道成寺』)
▼8 「焙烙もん」は「十六文」のもじりか。飴売の口上を踏まえているようだが、恐らく、小猿の所作に似た飴売りが居たものと思われる。念仏飴が近いようであるが具体的な典拠は未詳。尚、馬琴は『燕石雑志』で飴売について考証しており、『廿三番狂歌合』でも飴売の唄を引いている。
▼9 盆と正月が一緒に来たように、『紅葉狩』の世界と『道成寺』の世界が混ざっているという謂。
▼10 「林間に酒を暖めて紅葉を焚く」(白居易、謡曲『紅葉狩』に引く)の地口。「病用」は診察や投薬等の仕事。
▼11 文句は地方によって多少異なるが、「蝙蝠来い、山椒くりょ。柳の下で水飲ましょ」という、蝙蝠が飛ぶのを見て歌う童謡を踏まえたもので、ここでは「蝙蝠来い」を「焙烙」に、「柳」を「紅葉」に、「水」を「酒」に変えている。芝全交の黄表紙『拝寿仁王参』(寛政元年刊)でも使われている(松田氏の御教示)

※『道成寺』と『紅葉狩』とが合わされた場面は、所作事から『焙烙割』へと展開し、さらにその身振り格好から飴売りへと連想が続いていく。この場面から鴛鴦と小猿が本性を現す場面への展開に蓋然性が認められない嫌いはあるが、場面毎の見立てに主眼を置いた黄表紙として見るべきであろう。

〔十〕

(ゐ)の早(はや)太、大きに驚(おどろ)き鐘(かね)を引上(ひきあ)ぐれば、鴛(おし)鳥ハ鳥の姿(すかた)と成(な)り、小猿(さる)は鵺(ぬへ)の姿(かたち)を現(あら)ハし、▼1(たが)ひに争(あらそ)ひ挑(いと)んで立たりけり。
「可愛(かは)い男を娑婆(しやは)に置(お)き、▼2紅葉(もみぢ)の障(さわ)りと成(な)つたわひな。」
▼3(ぬへ)が股野(またの)か、下が股野(またの)か」
(い)の早太(はやた)ハ、気(き)の早太(はやた)にてありしが、やう/\気(き)を長(なが)くして、たふ/\鵺(ぬへ)を見顕(みあらは)す。
馬琴(ばきん)ハ、▼4(じつ)に絵馬(ゑま)の抜出(ぬけいで)たるかと怪(あや)し見(み)て居(い)たるが、皆(みな)/\、最早(もはや)(ば)けを顕(あらわ)さんと、面(めん)を解(と)けば、此(こ)れハだうだ、皆(みな)馬琴(ばきん)が友達(ともだち)にて、常(つね)/\馬琴(ばきん)が口のきゝ過(す)ぎるを憎(にく)み、今宵(こよひ)(さけ)に酔(ゑ)ひたるを幸(さいわ)ひ、壬生狂言(みぶきやうげん)の道具を借(か)りて、だまくらかせし趣向(しゆかう)なり。口をきいてハそれと知(し)れる故(ゆへ)、付声色(つけごはいろ)にて知(し)らせる。爰(こゝ)へ出(い)でざれども、二人の座頭(ざとう)も喰(くわ)せ者(もの)なり。
馬琴(きん)が声(こへ)を聞知(きゝし)らぬ故(ゆへ)、黒子(くろご)を着(き)て付声色(つけごはいろ)せしハ、すなはち作者大栄山人▼5厚皮面人(あつかわのつらんど)ゝ言(い)ふ者(もの)なり。
「そんなら一杯(いつはい)かゝれたか。それにしても筋(すじ)の分(わ)からぬ狂言(きやうげん)だ。」

▼1 道成寺では鐘を上げると大蛇が出てくるのだが、此所では『四十八手恋所訳』鴛鴦の段の最後で、夫を殺された鴛鴦の雌の精が股野と争う場面を踏まえている。
▼2 紅葉は黄泉路の地口。鴛鴦の口吻と考えられるが富元節正本類には見当らない。
▼3 「鵺」は「上」のもじり。鴛鴦と争う鵺を股野と見立てているのである。唐来三和『去程扨其後』にも同趣向が見えている。
 同時に、『平家物語』や『源平盛衰記』などに描かれ、浄瑠璃『石橋山鎧襲』にも仕組まれた、真田与市と俣野五郎との石橋山の暗闇での組打ちの場面の面影を移しているとも考えられる。
▼4 本当に、現実にという謂。
▼5 無遠慮でずうずうしいという意味の「面の皮が厚い」をもじった命名。

※ 雲型の枠に拠り区切られた右側で、一応狂言の結末が描かれている。この場が「鴛鴦の段」の所作事を踏まえている事を知らないと、鵺(股野)と鴛鴦が争う理由が全く分からない。一方、猪の早太の方は小猿が鵺である事を見届けて一件落着である。ところが、鴛鴦や小猿が鳥や鵺であっただけではなく、実は「馬琴」の友達が演じていたのであった。挿絵中、面を取ったところが描かれているが、友達等の顔も楽屋落ち的に本人の似顔になっているかもしれない。ただ、「作者」である大栄山人も黒子として顔が出ているのをどう理解したものか迷うが。

〔十一〕

馬琴(ばきん)ハ友達(ともだち)に謀(たばか)られ、つく/\ものを考(かんが)ふるに、何の筋(すじ)も分(わ)からぬ仮初(かりぞめ)狂言(きやうげん)とハ言(い)ひながらの、十郎と鴛(おし)鳥との恋路(ぢ)、小猿(さる)が座頭(さとう)の金(かね)を奪(うば)ひ、▼1(おし)鳥の横恋慕(よこれんぼ)、猪(い)の早太(はやた)が気(き)の長(なが)さ、荒(あら)獅子が勇気(ゆうき)、鼠(ねづみ)の縄(なは)を喰切(くひき)り、焙烙(ほうろく)の割(わ)れ易(やす)きも、皆(みな)勧善懲悪(くわんぜんてうあく)▼2膳椀蝶足(ぜんわんてうあし)の戒(いまし)め、思(おも)へバ無言(むごん)の狂言(きやうげん)も、▼3口ハ災(わざは)ひの門と言(い)ふ喩(たと)への通(とを)り、▼4一寸ンの舌(した)を以(もつ)てハ五尺の身を失(うしな)ふ戒(いまし)め。アヽそふじや、一生(いつしやう)無用(むやう)の舌(した)を動(うご)かすまじ。此(こ)れもやつはり▼5八幡宮(まんくう)の御告(つげ)なりと、いよ/\俳諧の風流を弄(もてあそ)びける。
「俺(おれ)が口(くち)を喋(しやべ)るとて、友達(だち)の悪洒落(あくじやれ)ハ、俺(おれ)が為(ため)にハ▼6老子無言の教(おし)ゑに等(ひと)し。」
「鴛(おし)鳥も唖(をし)と言(い)へば、もの言(い)わず。小猿(ざる)も言(い)わ猿(ざる)あれば無言(むごん)なり。面白(おもしろ)し/\。」

▼1 本来なら「鴛鴦への横恋慕」というべきところ。
▼2 勧善懲悪の地口。御膳の足が蝶の羽を広げたように成っているもの。
▼3 言葉を慎まぬために禍を招くことが多いという諺。「禍従口生」(『釈氏要覧』)
▼4 ▼3同様の諺。「一寸の舌に五尺の身を損ず」(『世話尽』)
▼5 通夜をした富岡八幡宮のこと。
▼6 『老子』に「無為の事に処り、不言の教えを行う」(二)とか、「不言の教え、無為の益は、天下之れに及ぶこと希なり」(四三)等とある。

※ 最終丁は、豊国の筆に拠る机に向かった馬琴の肖像であるが、恐らく此図もさほど現実離れしたものでは無かったものと考えられる。結んだ口元が愉快である。その半面、徹頭徹尾合理化しないと気が済まないのか、と思わせるほどの饒舌振りはどうであろう。馬琴らしい強牽付会と言ってしまえば身も蓋もないが、理屈臭さは否めない。


【解題】

 この黄表紙の舞台である富岡八幡宮のある深川は、馬琴の生まれ故郷であったと同時に、青春時代の大半を過した馴染みの深い土地でもあった。そこで、少し生い立ちについて触れておくことにしよう。
 馬琴こと瀧澤興邦は、明和四年(一七六七)に、父興義が用人として仕えていた深川海辺橋近くの旗本松平鍋五郎邸で三男坊として生まれた。七、八歳の頃には兄と共に深川八幡一の鳥居の程近くに住む小芝長雄に師事し手習いをする。九歳の時に父の死に遇い、主君の嫡孫八十五郎に仕えるが、十四歳の時に出奔し界隈を転々とする。天明三年には長兄と共に戸田家に仕えるが長続きせず、翌年戸田家を去り市中を浮浪する。天明五年には母をも亡くし、仲兄と共に水谷信濃守に仕えた。天明六年三月には小笠原上総介、天明七年三月には有馬備後守にと、奉公先を転々とするが、遂に天明八年五月に辞し、渡り奉公を断念して浪人となった。この間に越谷竹庵吾山の月並の俳席に入って俳諧を学び、天明七年には『俳諧古文庫』を編む。放埓が祟って一時は癬瘡に悩まされ、治療がてら官医山本宗英の塾にも入る。寛政二年の秋に、戯作を志して銀座の山東京伝宅を訪問、その才気を認められ出入りを許されてからは門人同様となったのである。
 本作を執筆したのはちょうどこの頃で、馬琴は深川仲町の裏家に独居していた。この寛政二年の春に、僑居先の目と鼻の先である大栄山金剛院永代寺で、京都大仏内の弁財天の開帳があり、境内で催された壬生狂言が江戸中の大評判になった。本作は、この時の壬生狂言に趣向を求めたものである。つまり、題名の「二分狂言」とは「壬生狂言」のもじりで、この「二分」の連想から、近松の『冥土の飛脚』新口村、「奈良の旅籠家三輪の茶屋、五日三日夜をあかし廿日餘に四十両、遣い果たして‥‥‥」というように題名に修飾が施されたのであった。
 ところで、壬生狂言について、山崎美成は『三養雑記』に次のように記している。

京師の壬生の地蔵堂にて毎年三月に念佛躍あり。鰐口を打て拍子をとりその拍子にあはせて無言にていろ/\の所作あり。世に壬生狂言といへり。華洛細見圖に壬生にて念佛躍とて躍の先にかならず猿の綱わたりをすといへり。京師の名所をしるしたる繪本に壬生の念佛踊には大かた猿の綱わたりをゑがけり。その躍に祢宜山伏、紅葉狩、餓鬼相撲、座頭の川渡、桶取などくさ/\あり。その桶取の躍を小哥に作りて寛政のはじめ京攝の間にてもはらはやりたりといふ。(以下略)

この記事を信じれば、上方での流行と軌を一にして江戸でもはやったものと思われる。この時期に、壬生狂言流行を当て込んだ黄表紙として、次の諸作が知られている。

  ・『壬生狂言唖口舌』華の坊、寛政二年八月
  ・『壬生踊戯作面目』慈悲成、寛政三年
  ・『壬生狂言唐本寝言・直讀見臺萩』芝全交、寛政三年
  ・『壬生里聲色・名代振袖』内新好、寛政三年
  ・『浮世操九面十面』芝全交、寛政四年

 当代の流行を追う際物は、いつの時代も大衆的な娯楽の種である。ニュースを趣向化する方法と呼んでもよいだろう。すなわち、馬琴はその処女作において、黄表紙作りの一つの常套法を選んだ訳である。おりしも寛政の改革という時代の波をくぐる一方で、黄表紙自体も変質しつつある時期であったが、時事風刺や穿ち、時世相に即した滑稽諧謔という点に黄表紙というジャンルの持つ特色があるとするならば、そういった意味では、このテキストに黄表紙らしさは稀薄である。しかし、見逃せないのは、首尾を整える全体の枠組があるにもかかわらず、筋の展開に関する配慮を欠いている点である。むしろ、見開きの場面毎の独立した見立てや趣向の付会に、読者の関心を吸引しようとしているようである。この展開の仕方は、言語遊戯性に支えられた俳諧の付合いにおける連想法に似ていると思われるが、これも黄表紙の一つの型といってもよいだろう。俳諧に心を寄せていた馬琴は、これら二つの方法を併せることによって、初めて黄表紙というジャンルのテキストを書くことができたのであった。
 さて、この黄表紙において、多くの芝居に関する趣向が取り合わせられていることは、注釈に一瞥を加えただけでも容易に理解できる。役者似顔の使用は当然作者の指定であろうし、役者達の役柄が逆に作中人物の振舞いを規定しているという側面も否定できないはずである。つまり、本作を執筆するには、いつ誰の演じた何という役が当たったか等という評判を含めて、かなり具体的な知識と情報を手にしなければならなかったと考えられるのである。鵺(壬生の小猿)を狂言廻しとして、時にやや強引な付会をしたりもするが、それでも個々の場面が複数の芝居の重層化によって、それなりに工夫されて作られているのである。かなりの「芝居好き」振りを示したものと考えてよいと思われる。
 一方、テキスト全体を首尾一貫させようと持ち込んだモチーフとして「口のきき過ぎ」がある。俳諧の風流に励むことの対極に設定されているのが面白いが、単に壬生狂言を趣向化するために「おれが口をしゃべる」としたのではあるまい。「張果坊馬琴」という命名も、おそらく註に示した説話を下敷にしたものと思われ、だとすれば自分自身に対する認識を反映したものとも想像できるのである。従来の翻刻では「彫窩坊」という字を当てて解釈されたものがあるが、いかがなものであろうか。また、この設定は草双紙作者達がよくやったように、自身を戯画化しているのとは少し位相が違っていると思われる。なぜなら、無名の作者である大栄山人が「馬琴」と同一人物であることは、読者が未知のはずだからである。しかし、おそらく話は逆で、作者は自分が「馬琴」であることを知っている読者しか想定していなかったのではあるまいか。つまり「馬琴」という登場人物が出てくる必然性が何一つ保証されていないし、深川に実在した店や人の固有名詞を出している点なども、限られた読者しか分からなかったものと思われる。この点が、この黄表紙の持つとりとめのない瞹昧さの理由であろう。
 いずれにしても、ここで注意しておきたいのは、「口は禍の門」というモチーフが単に本作の趣向として使われただけでなく、馬琴の中に長い間根強くあった考え方だと思われることで、ずっと後年の『南総里見八犬伝』でも、「三才に成っても話せない」伏姫と「一言の失ち」から娘を失う義実の親子として構想されているのである。また、同様に長く引き継がれる登場人物として「猪の早太」は気になる存在である。というのも、馬琴が家記『吾佛乃記』で自身の祖先である興吉(真中氏)の先祖として「猪隼太」を措定しているからである。やはり『八犬伝』でも犬塚信乃の母方の先祖として使われているし、『朝夷巡島記』でも「間中隼人」が見えているのである。
 ところで、「勧善懲悪」という言葉が処女作である本作に出てくることから、馬琴の面目躍如としてやや強調して紹介されてきたが、水野稔氏が説かれるように、寛政の改革運動の御題目として、時代背景のなせしわざという見解が穏当であろう。
 最後に板元について触れておきたい。本作を出板した和泉屋市兵衛(泉市)は、奇妙なことに寛政三年以前に黄表紙を出していることが確認できないのである。唯一、『草双紙年代記』が天明三年刊とされているが、これは序に拠るもので実際の刊行年を保証するものではない。となると、寛政三年刊として確認できたのは、本作以外では次の四作である。

  ・『御存高麗屋傳』 桜川慈悲成作 豊国画
  ・『眞頬皃老之仇波』芝全交門人芝深交作 豊国画
  ・『京鹿子娘泥鯲汁』芝全交作 豊国画
  ・『至無我人鼻心神』竹塚東子(京伝)作 政美画

これをどう理解すればよいのであろうか。京伝が馬琴を泉市に紹介したと考えるのが自然であるが、馬琴の処女作のみならず、東子の作を京伝の名で出したりもしている。一方、全交の方も門人名の作が出されている。つまり、地本問屋に加盟して草双紙の出板を始めたのが寛政三年であり、まずは気楽に使える新人の作を手掛けたということなのであろうか。芝という二流の地にありながら、次第に大きく成長して行った板元であるので、興味深いものがある。後考を俟ちたい。
なお、寛政九年の『東海道名所図会』巻六に店先の様子が描かれている。


# 『廿日余四拾両・盡用而二分狂言』−註釈及び解題−(『'89江戸文学年誌』1989/05 ぺりかん社)
# 2002-03-13 増補改訂
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