草双紙・読本の雅俗
  −黄鳥墳説話の諸相−
高 木  元 

     一

 鶯という鳥は不思議な鳥である。万葉の時代から「我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐひす鳴くも散らまく惜しみ」(『万葉集』八四六、巻五「梅花の歌三十二首」中の薩摩目高氏海人。)などと詠まれ、古代から長い時を通じて人々が親近感を持ち続けた鳥の一種であった。この鶯には「春鳥」「春告鳥」などという異名が備わっていることから了解できるように(『和漢三才図会』の鶯の項には「正二月に至て鳴くを春起と曰ふ。二三月に至て鳴を止む。春去と曰ふ。茶を採るの候なり。呼て報春鳥と為す。」とある。)、梅花と併せて早春という季節の到来を告げる存在でもあった。さらに「歌詠鳥」とも呼ばれ、その美しい鳴き声を愛されて飼育されるようになり、「鶯(鳴)合」と呼ばれる鳴声の優劣を競う遊戯が流行した。「ホーホケキョ」という鳴声から法華経が連想されて「経読鳥」などという異称も与えられ、同時に「鶯の谷渡り」という言葉もその声に由来したものであった。「法華経」の他にも三光(月日星)を啼くなどという見方もあり、これらは鳥の囀りを人間が勝手に解釈した結果に過ぎないのではあるが、「聴き耳」型の話とは違って、鳥類の発する音声に意味を見出すのに特殊な能力を必要としていない点に注意が惹かれる。
 一方、美しい体色は色名としても定着し、鶯色・鶯茶などという呼び方を生むことになる。このほか「鶯」の名にちなんだ名称には、狂言(鶯)、茶道具(鶯)、衣(鶯)があり、これに加えて「鶯」という語を含んだ語彙となると神楽(鶯神楽)、香(鶯香・鶯串)、餅(鶯餅)、菓子(鶯羹・鶯巻)、化粧法(鶯眉・鶯糠)、衣装(鶯袖・鶯衣)、玩具(鶯独楽)、植物(鶯葛・鶯菜・鶯茸)、製本技法(鶯綴)、建築技法(鶯垣・鶯張)などがあり、地名(鶯谷・鶯関)にまで及んでいる。
 ところで中世の紀行『海道記』や『古今集』の注釈書などに(『古今和歌集序聞書三流抄』、『古今和歌集大江広貞注』、『三国伝記』、謡曲『富士山』などに同じ鶯姫系列の説話が見られる。)、『竹取物語』の主人公「赫奕姫」が実は鶯の卵から産まれた「鶯姫」であったとする鶯姫説話が見られる。すなわち、地上に現れた天女が昇天するという羽衣説話を背景に保有する「かぐや姫」の本生を、鳥類と見做していたのである。この天人を鳥としてイメージする発想は、伝承的な想像力から見ても無理がないことである。また、鳥類が死者のいる異界と現世との霊的交通媒体になるとの信仰は古くから知られている。しかし、鳥類における鶯という鳥の特殊性は、死者の伝言を啼き声によって伝えるという要素に存すると思われる。たとえば『雑和集』に見えている次の説話が好例である(『雑和集』上巻、十七「鶯の読歌の事」、三巻三冊、寛永十八年刊)

日本紀云、高謙(かうけん)天皇の御時大和国高間(たかま)寺に一人の僧あり。最愛(さいあい)の児をもちたりけるが彼(かの)児俄に他界(たかい)す。是を悲嘆(ひたん)する事限(かきり)なし。然りといへども月日隔(へたゝ)りけるほどに、其嘆(なけき)も漸(やうやく)うすくなりぬ。年頃へて後、或年の春、庭前(ていせん)に開(ひらき)たる梅花に鶯飛(とび)来り、木傳(つたふ)て鳴(なく)。其声(こゑ)を聞(きく)に「初陽(しよやう)毎朝(まいてう)(らい)(ふ)相還(さうげん)本栖(ほんそう)」と啼(なく)。あやしとおもふて書きて見れば「はつ春のあしたごとにはきたれども、あはでぞかへるもとのすみかに」といふうたなり。これによりて、彼(かの)(そう)(くだん)の児(ちご)(しやう)を替(かへ)て鶯(うぐひす)となれりといふ事を知て、今更(さら)に哀傷(あいしやう)のなみだをながして、種々(しゆ/\)にこれをとぶらふと云(いひ)あへり。此うた万葉に鶯の歌と入れり。

鶯の特殊性を具体的に示した代表的なものといえよう。
 一方昔話の一モチーフである「見るなの禁」は、宿の主である美女に投宿を許された若者が奥座敷を見るなという約束を破ったために女は鶯に変じて飛び去ってしまう。ところが気が付いてみると若者は野原で寝ていたという話しである。また「瓜子姫」の一変形として、瓜から産まれた瓜子姫がアマノジャクに誘拐され捕われてしまうが、鶯が啼き声で爺婆に瓜子姫の危急を告げるという話が報告されている。これら昔話に登場する鶯は、いずれも美女の化身であるということになっている。
 このような鶯をめぐる一連の伝承には、いくつかの共通するイメージが備わっていることに気付く。それは鶯が他界した美女の霊魂を運ぶ媒体としての機能を果たし、かつ啼き声がそのメッセージを現世にもたらす点である。

     二

 鶯をめぐる伝承の記憶として「鶯塚」と呼ばれる遺跡が各地に残されている。 おそらく一番有名なのは「鶯塚古墳」であろう。奈良市春日野町若草山山頂にある前方後円墳のことで、東大寺の僧康訓が享保十八年に建てた「清少納言が『枕草子』にうぐひすの陵と記しているのはこの古墳である」と書かれた碑が後円上部にあり、中腹には「鶯の滝」があるという。
 一方、橋の伝承を題材とした歌が多く残されている長柄村の「鶯塚」も知られていた。『摂津名所図会』巻三に、

長柄村田圃(てんほ)の中にあり。冢上(ちよしやう)に古梅(こはい)あり、花英(はなふさ)六形(きやう)なりとそ。土人云元朝(くわんてう)此梅に鶯(うくひす)来て鳴初(なきそむ)るといふ。此冢(つか)について説々(せつ/\)多し。後人(こうしん)符會(ふくわい)の論(ろん)をなす。采(とる)に足(た)らず。按するに上古高貴(こうき)の荒塚(あれつか)なるべし。此類所々にあり(『摂津名所図会』寛政八〜十年刊、「名所図会叢刊3」、一九八四年、新典社、所収。なお、鶯塚と呼ばれる塚は群馬県高崎市などにも存する。)

とある。「採るに足りない」と断ぜられたこの塚の由来譚を載せているのが『蘆分船』巻六である。

○此所を。鶯塚と名(な)つけたる事。むかし。此邊(ほとり)に冨(とめ)る人一子(ひとりご)を愛(あい)せり。此子鶯を飼(かい)て置(おく)こと年(とし)久しくなりぬ。しかるに。此子例(れい)ならぬ身となり常(つね)なき。風(かぜ)にさそはれ。此世を。はやうして。はかなくなりぬ。父母(かぞいろ)かなしみに絶入(たえいり)。若(わかき)を先(さき)にたて。つれなく残(のこ)りけり。うき世(よ)のほどをうらみ。ある時(とき)。彼(かの)(はゝ)鶯に向(むかい)て物いひけるは。なれは誰(たれ)をよすがとし。今(いま)よりのちは。此家(いゑ)にいるきそとあれは。実(げに)鳥類(てうるい)とはいへとも。此言葉(ことは)をや。きゝしりにけんこゑのかきり出(いだ)して。其儘(そのまゝ)(し)にけるとなり。則其鶯を埋(うつ)みし所なれはとて。于(いまに)鶯塚とていひけり(『蘆分船』延宝三年刊、「近世文学資料類従 古板地誌編十八」、一九七六年、勉誠社、所収。)

という具合に「富める人」が登場し、背景としてすでに長柄長者譚(長柄人柱伝承)が形成されていたことを想像させる話となっている。
 また『前太平記』の世界から満仲頼光が源氏繁栄の基を開いたことを題材とする浄瑠璃『芽源氏鴬塚(つのげんじうぐいすづか)(『芽源氏鴬塚(つのげんじうぐいすづか)』、時代物 五段、浅田一鳥等作、宝暦九年三月、大坂豊竹座初演。『浄瑠璃作品要説』〈六〉、国立劇場芸能調査室、参照。)も鶯塚の由来譚になっている。第三の切「与一兵衛住家の段」で、清少納言と行成と初音(佐理の娘)の三角関係を描くのだが、初音は恋に身を焦し「六角の花びらを持つ梅の木の下に自分の死骸を埋めて鶯塚と呼んで欲しい」と言い残して自害するという場面が描かれている。これも、長柄の鶯塚には花英六形の梅の木が生えているという伝承を前提として書かれた由来譚である。
 このほか、寛政五年の読本『四方義草』巻四「占部孫太鶯塚を築話」にも鶯塚の由来を琴爪を埋めた跡とする情話が見られる(横山邦治「長柄長者黄鳥墳」(『日本古典文学大辞典』四、一九八四年、岩波書店)。水谷不倒『選擇古書解題』)
 一般に、塚をめぐる伝承は由来譚という形で様々に重層した展開を見せるが、鶯塚の場合も長柄という土地にまつわる伝承と関連しつつ変容を遂げたのである。

     三

 土地や固有名詞の読みかたの類似によって様々な伝承と結びついて変化して行く説話も、ある時点で筋が固定化されると以後はその型を保持するようになるようだ。鶯塚説話の場合も、いわば芝居の〈世界〉のように定まった説話的枠組を持つに至るのである。おそらく、その契機と成ったテキストが栗杖亭鬼卵作『長柄長者・絵本黄鳥墳』(『長柄長者・絵本黄鳥墳』、半紙本六巻六冊、栗杖亭鬼卵作、石田玉山画、文化八年正月刊、河内屋嘉七板、三都八書肆の合板。)という上方出来の読本である(目録を見ると「発端」「九重(こゝのへ)死(し)を以(もつ)て節(せつ)を顕(あらは)す話(こと)」「河内(かはち)の佐々木(さゝき)源太(げんだ)左衛門(ざゑもん)か由緒(ゆいしよ) 並(ならびに) 東(あづま)へ趣(おもむ)く話(こと)」「佐々木(さゝき)源太左衛門具足櫃(ぐそくびつを)取替(とりかへ)る話(こと)」「河内(かはち)の佐々木源太左衛門横死(わうし)の話(こと)」という具合で、実録体小説の様式に似た上方出来の読本に見られる常套的な目録のスタイルである。)
 便宜上、梗概を記しておく。

加賀と河内とに佐々木源太左衛門という同姓同名の武士がいて、はからずも大井川の側に同宿し、具足櫃の取違えから遺恨を生じ、河内の源太左衛門が殺害される。遺児である源之助は佐々木家を横領した叔父に追放され乞食となって敵の詮索をする。ある日、長柄長者の娘である梅枝の愛育していた鶯を助けたことから懸想され長者の婿になるが、長者の後妻に毒殺されそうになって遁れる。ところが梅枝も後妻と結託した悪僧の大仁坊に殺害されて、さらに長者までも大仁坊に殺されてしまう。梅枝の霊は鶯に宿って源之助の危急を助け、遂には父の仇を報ずる。また長者の養子と忠臣等も大仁坊を討ち、両家はめでたく栄える。

このように、二つの敵討を果たすまでの浮沈安危の様子を描いた敵討物の枠組を持ち、題名通り黄鳥塚の由来譚にもなっている。
 発端は遊郭での放蕩零落譚と遊女をめぐる三角関係に始り、佐々木家の御家騒動では系図と旭丸の宝刀という小道具が使われ、長柄長者の過去の因果として水難を予言する宝山比丘という超越的存在が設定され、源之助が流浪する途中大牡丹で有名な遠州の京丸(『東海道名所記』巻四には「京丸 秋葉山の北にあり。山家にして一村の名也。民居は僅に五軒。許其長を源左衛門尉といふ。家に重代の金巾子の冠、緋縅の鎧、錦ノ直垂を所持す。古證文舊記一紙もなし。土人云むかし京家の公達の輩逆乱に襲れ此山中に隠れし其苗孫也と云傳ふ。」などとあり、また『遠江古迹図会』巻四に「京丸牡丹の説」「一 この京丸と云ふ在所は秋葉山より八里余山奥、周知郡京丸村と云ふ。牡丹の大木一本有る由、往古よりの云ひ伝へなり。俗説に丈数十間、花三尺廻り有る由云へども妄説なり。惣との木、大木にはなれども花大にはなり難し。」とある。柳田国男『地名の研究』「地名考説 五四 京丸考」では、牡丹の話が妄説であることを指摘した上で、思違いをしつつも馬琴の紀行や読本に言及している。)という人外境における纐纈城説話(別名「脂取」ともいい、人を捕まえて太らせた上で縛ってつるし、その脂や血を絞り取るという話。『宇治拾遺物語』第十三の十「慈覚大師纐纈城に入る事」などに見えている。)を挿入し、没落した長者の荒屋敷における怪異、水魚石という奇石等々、多くの趣向を盛込んだ読本らしさに溢れた佳作である。
 出板をめぐる事情も明確で、上方では文化八年初春に売出され、その後四月末には江戸でも売出されている(『享保以後・大阪出版書籍目録』に「長柄長者・黄鳥墳 六冊 作者 栗杖亭鬼卵(遠州日坂) 板元 河内屋嘉七(傳馬町) 出願 文化七年三月」とあり、『外題作者画工書肆名目集』の文化八年の項に「長柄長者・絵本黄鳥塚 六冊 栗杖亭作 石田玉山画 角丸屋甚助 未二月七日改東より廻状同四月廿六日/上本廿七日売出し」とある。また『享保以後江戸出版書目』の〈(文化八年)同年四月廿六日不時廻し割印〉の項にも「文化八年未正月「長柄長者黄鳥墳 全六冊」同百三十弐丁 栗杖鬼卵著 石田玉山画 売出し 大坂 角丸屋甚助」と見えている。)。評判が良くて長い間読み継がれたようで、後印本が多く残存しているのみならず、明治になってからも多くの活字翻刻本が出ている。管見の範囲でも、

などがあり、これらの大半が新たに活字を組直した異版であり、本文を抄出したものもある。
 また好評だった読本が歌舞伎に脚色されることは、既に珍しいことではなくなっていたが、鶯塚も文化九年大阪竹田芝居で奈河九二助・同十八助・井筒一斉らによって脚色上演されたのをはじめとして(足立良男「昔語黄鳥墳」、『演劇百科大事典』)、文化十年九月五日には京都亀屋座で『長柄長者黄鳥墳』が上演されている。また、天保三年五月の江戸河原崎座で五代目の沢村宗十郎による『昔語(むかしがたり)黄鳥墳』、二世瀬川如皐作『昔語(むかしがたり)黄鳥墳』(『日本戯曲全集』十九巻)が好評を博してからは、沢村家の家芸として天保八年九月の森田座『増補黄鳥塚』、嘉永四年五月の河原崎座『鴬墳長柄故(ふるごと)』、明治十四年正月の市村座『新賀初音鴬(あらたをがすはつねのうぐいす)』などが上演された。大正二年四月の帝国劇場でも『鴬塚』が上演されているという。歌謡『うぐいすづか』も残っている。

     四

 読本『絵本黄鳥墳』によって定着したかに思われる鶯塚の世界は、以降の諸ジャンルに次々と影響作を生み出すことに成ったのである。
 合巻『鴬塚梅赤本』初〜二編(嘉永三年、[衣笠][吉村]、松亭金水作、一壽齋国政画、浄書金交)、三編(嘉永四年、[渡辺][衣笠]、金水作、国政画)、四編(嘉永四年、金水作、一耀齋芳玉画)、五編([衣笠][村田]、金水作、芳玉画)、六編(明治十四年、泉竜亭是正作、一猛齋芳虎画)。架蔵本は『鶯塚梅の魁』全六編十二巻、袋入り、栗園堂板(袋)、芳藤(袋と見返)、「御届明治十四年一月廿四日、本所外手町廿二番地 編輯人 羽田富次郎、本所横綱町一丁目十四番地 出板人 児玉弥吉」(六編巻末)とあり、六編が出された時に揃えて出板された後印改題本かと思われる。
 この本は、「仮名読み黄鳥墳」とでも呼ぶべき草双紙で、三編の序に「換骨奪胎(くわんこつだつたい)は古今(こゝん)の作者(さくしや)が平生(つね)に東西(もの)する所為(わざ)ながら、遠(とほ)く及(およ)ばぬ猿(さる)の毛(け)の三本(さんぼん)たらぬ筆(ふで)なれば、そのまゝ見(み)する場(ば)も多(おほ)かり」とあるように、原作の「宝山比丘」に当たる人物を「一白道人」としているほかは、人名はもちろん人物配置や事件なども基本的に読本に準拠している。六編で作者が代わっても問題なく続けられたのも原作があったからに違いない。さらに、その六編は五編の刊行から遠く三十年近く経ってからであったことも驚くべきことではある。
 合巻『邯鄲諸国物語』摂津の巻(『邯鄲諸国物語』攝津の巻、嘉永四年〜安政三年、柳亭仙果、歌川豊国・歌川貞秀、山本平吉板)も読本に拠るものである。攝津の巻初帙序に、

‥‥‥此(この)津國(つのくに)の譚話(ものがたり)は、文化年中遠江(とほたふみ)なる鬼卵(きらん)(をう)の新案(しんあん)にて、鶯塚(うぐひすづか)とてもて榮(はや)し、演戯(わさをき)にも其儘(そのまゝ)(もち)ゐし、世界(せかい)を假用(かよう)したるなり。‥‥‥中(なか)にも長者(ちやうじや)へ乞食(こじき)の聟入(むこいり)、長裃(ながかみしも)で竹杖(たけのつゑ)、此(この)一節(ひとふし)を省(はぶ)く則(ときは)、黄〓墳(うぐひすづか)は名(な)のみになり‥‥‥去春(いにしはる)金水先生(ぬし)にも等類(とうるゐ)の作(さく)あれば、又(また)も乞食(こじき)の聟入(むこいり)かと、古(ふる)いは承知(しようち)‥‥‥はて珍(めづら)しくもなき物(もの)から、初對面(しよたいめん)の人物(じんぶつ)よりは昔(むかし)ながらの讀本(よみほん)にて、お熟染(なじみ)のある源之助(げんのすけ)、梅枝(むめがえ)、幾代(いくよ)、櫻木(さくらぎ)に、當年(ことし)も彫(ゑり)て編數(へんすう)も、長者(ちやうじや)が甥の十三郎(じふさ)が傳(でん)、是(これ)も追々(おい/\)(もら)さず書入(かきいれ)、引續(ひきつゞき)て販出(うりだし)まうせば、お氣(き)も長栖(ながら)に御覧(ごらん)じまして、橋柱(はしばしら)のはし/\まで、御評判(ごひやうばん)々々々(%\)

とあるが、こちらは主として世界を借りただけで、筋は大きく改変されて甚だ複雑になっている。しかし、残念ながら未完のままで終っている。
 一方人情本『鴬塚千代廼初音』(『鴬塚千代廼初音』全四編十二巻、松亭金水(一二編)・山々亭有人(三四編)、一猛齋芳虎画、安政三年・明治二年、文栄堂)も、同様に読本に拠ったもの。初編序に、

(こゝ)に黄〓塚(うぐひすづか)の物語(ものがたり)は、鬼卵(きらん)(ぬし)が綴(つゞ)る處(ところ)、四方(よも)の看官(かんくわん)その作意(さくい)を、奇(き)なりとして措(おく)ことなし。これに因(よ)つて書肆(しよし)のいはく、これを今様(いまやう)の風(ふり)に換(かへ)て、幼稚児(おさなご)たちにも讀(よみ)(やす)きを、旨(むね)と編(つゞ)らばまた一榮(ひとはえ)、春雨(はるさめ)ならで屋(をく)を潤(うるほ)し、よろこび鳥(とり)の聲(こゑ)を聞(きか)んと、促(うなが)されて辭(いな)みも敢(あへ)ず、筆(ふで)は採(とれ)ども藪鶯(やぶうぐひす)の、片言(かたこと)(まじ)り‥‥‥

というように、筋も展開もほぼ読本通りで、文体は会話を主体とし、書翰文を使うなどして人情本に相応しく改変してある。この作品も一二編で中断して十年後に有人が続けているが、元にするテキストが備わっていたからであると同時に、人情本というジャンルの文体や様式が備わっていたから可能になったのである。
 さて、最後に講談の速記体小説に触れたい(読本が講談の種に使われていることは拙稿「意味としての体裁」、『江戸読本の研究』、一九九五年、ぺりかん社、で既に紹介したことがある。)。この種の講談本は明治中期以降に大量に出版されたものであるが、近年、三代目旭堂小南陵『明治期大阪の演芸速記本基礎研究』(一九九四年、たる出版)、吉沢英明『講談明治期速記本集覧』(一九九五年、私家版)が備わり、基礎研究は大きく進捗した。これらの資料に拠れば、『(佐々木源之助・諏訪道仙)鶯塚の仇討』(邑井一講演 加藤由太郎速記 求光閣 明治三十五年八月再版、菊・二二二頁 明治四十三年一月 十版、序は明治三十年十月)や、「鶯塚の仇討」(桃流舎至高口演 求光閣 明治三十四年一月)が見出せ、また刊否は未詳であるが「駸々堂発行書目(神田伯龍口演・丸山平次郎速記)」には「講談鶯塚/同後編長柄長者」が掲載されている。
 手許にあるのは『鶯塚(うぐひすづか)復讐(ふくしう)美談(びだん)(錦城齋貞玉口演/今村次郎速記、菊版、序四頁、本文二一九頁、広告二頁)という本である(刊記は「明治三十年十一月十九日印刷/明治三十年十一月廿二日發行」「版權所有」「講演者/淺草區福富町二十九番地/柴田 貢」「發行者/淺草區南元町二十四番地/三輪逸次郎」「印刷者/神田区須田町二十番地/山田仙藏」「發行所/淺草區藏前通南元町/いろは書房」とある。明治四十二年八月(十版)の序は呑鯨主人のものに換えられているという。)。序文に、

攝州(せつしう)長柄(ながら)の里(さと)に鶯(うぐひす)の塚(つか)と稱(せう)する古墳(こふん)あり、其(そ)の塚(つか)の由來(ゆらい)を問(と)へば、此(こ)の里(さと)に昔(むかし)(す)みける長者(てうじや)の娘(むすめ)が手飼(てがい)の黄鳥(うぐひす)、深(ふか)く主(しゆう)の恩(おん)を思(おも)ひ、能(よ)く吉凶(きつきやう)善惡(ぜんあく)を知(し)らしめけるが、不幸(ふこう)にして其(そ)の主(あるじ)の梅(うめ)ヶ枝(え)惡僧(あくさう)の手(て)に掛(かゝ)りて酷(むご)き最期(さいご)を遂(と)げけり、然(しか)るに梅(うめ)ヶ枝(え)が靈(れい)(こ)の黄鳥(うぐひす)に移(うつ)りて、其(そ)の夫(をつと)を陰(ひそか)に護(まも)り、夫(をっと)の目的(もくてき)を果(はた)し家(いへ)を起(をこ)すの日(ひ)に鶯(うぐひす)は其(そ)の命(めい)(をは)れり、依(よ)りて之(これ)を梅(うめ)ヶ枝(え)が墓前(ぼぜん)に埋(うづ)めて、一の碑(しるし)を建(た)たるを鶯(うぐひす)(つか)と人(ひと)(よび)なすとなん云(い)へり、禽(とり)にして已(すで)に斯(かく)の如(ごと)くなるに、人(ひと)の頭(かしら)に立(たて)る武士(さむらひ)の身(み)にて、加賀(かが)の佐々木(さゝき)源太左衛門(げんたざゑもん)、河内(かはち)の佐々木(さゝき)源吾(げんご)」等(とう)いへる惡漢(あくかん)あり、又(また)苟且(かりそめ)にも法衣(はふゐ)を纏(まと)ひながら大仁坊(だいにんばう)の如(ごと)き惡(あく)(さう)あり、是(こ)れ皆(みな)編中(へんちう)の敵役(かたきやく)として讀者(どくしや)を怒(いか)らし、主人公(しゆじんこう)としては源之助ありて又(また)讀者(どくしや)を羨(うら)やましむる奇々(きゝ)快々(かい/\)の復讐(ふくしう)美談(びだん)、蓋(けだ)し鶯(うぐひす)の塚(つか)に因(よ)りて茲(こゝ)に現(あら)はれ、喜怒哀楽(きどあいらく)(たゞ)一編(へん)の小冊子(せうさつし)の中(うち)に溢(あふ)る、見(み)るべし/\

とあるように、原話に拠って全十五席に分けて口語体によって書かれている。途中では、前述の『雑和集』の説話や、民譚「猿神退治」等、かなり自在に挿話を入れており、平板な粗筋紹介には終わっていない。
 以上、急いで影響作を見てきたが、長い伝承を踏まえた鶯塚の説話が、江戸の読本において一つの世界を形成し、それが近代に至るまで実に様々なジャンルとして展開してきたことが分かった。すなわち、ジャンルや時代区分の垣根は、個々の文芸の展開上ではさほど重要な意味を持っていないのであった。


#「國文学」1999年2月号(學燈社)〈特集・ジャンルを横断する近世文学の新局面〉所収
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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