『水滸後画伝』攷 − 草稿本をめぐって −

高 木  元 

    はじめに

『水滸後画伝』とは、『新編水滸画伝』と同様に曲亭馬琴が手掛けるはずであった読本の題名であった。しかし、何度か出板予告広告が出されながらも、遂に未刊に終わってしまったものと思われる。
ところが、この『水滸後画伝』の草稿本▼1と思しき写本が、昭和女子大学附属図書館蔵桜山文庫に存されていることを、深沢秋男氏よりの御教示に拠って知り得た。その写本には、馬琴の使っていた「著作堂」印に似せた印記まで備わり、口絵や挿絵の画稿はないものの、序や目録まで備えたものである。本稿は、この草稿本の紹介と分析を目的としたものである。

  一 『新編水滸画伝』から『水滸後画伝』へ

文化二年九月と同四年正月に出板された『新編水滸画伝』▼2は、本邦における『水滸伝』翻訳史上に於いて「冠山の訓点本を和文調によみくだしたもの」「漢文訓読のシッポを引きずった翻訳」▼3と評されている。馬琴の関わった初編について、『〈出像稗史〉外題鑑』▼4には「水滸傳の誤脱(ごだつ)を正し悉(こと%\)く画を加へ其(その)(おもむ)きをうつす」とある如く、『新編水滸画伝』は漢字片仮名表記で挿絵のない〈通俗本〉とは大きく趣を異にする〈江戸読本〉として企画出板された。葛飾北齋による口絵や挿絵を大量に添えた上で、丁寧な補訂を加えるという『画伝』の企画は、少なくとも初編に関しては評判が良かったものと思われる。

ところが、文化三年の秋、板元の角丸屋甚助は、彫刻料を前借りしていた米助が仕事を延引したと訴訟を起こした。その際、前借のことを知らずに鶴屋喜右衛門へ別の仕事の斡旋を頼んだ馬琴をも連訴したのである。怒った馬琴は、以後角丸屋とは絶交するのであるが、折しも角丸屋から出板準備中だった『そのゝゆき』(前編)の校合だけは榎本平吉の仲介で果たした。翌年、『新編水滸画伝』を角丸屋と合刻で出した前川弥兵衛が、『そのゝゆき』後編の執筆を依頼したが、馬琴は断乎拒否したのである。

『近世物之本江戸作者部類』▼5に拠れば、

この故に水滸画傳と園の雪は首尾整ざる書となり(中略)水滸画傳の板は、角丸屋甚助没して後、文政丁亥〔十年〕の秋、甚助が子某これを英平吉に賣りけり。その折、英平吉よしを曲亭に告て、嗣刻の為に編を續れんことを再三たび乞ひけれども、曲亭思ふよしやありけん固く辞(イロ)ひて需に應ぜず。平吉なほ已ことを得ず、貳編以下の譯文を高井蘭山に乞ひ綴らして第貳編五巻を刊行しけるに、當時は曲亭が傾城水滸傳、時好に称ひて年々大(イタ)く行れたる折なるに、画傳の譯文曲亭にあらざるを、看官飽ぬ心地すとて多く賣れざりけり。とかくする程に、英平吉は暴疾にて世を去りければ、その子大助、水滸画傳の板と蘭山が三編以下の稿本と前の北斉が三十六回までのさし画の写本と相共に、これを大坂の書賈河内屋茂兵衛に賣りけり。河茂、則刻を續て全本になすと也。

とあるが、この間のさらに詳しい事情を殿村篠齋宛書翰からうかがい知ることができる▼6

一、廿余年前之拙著『水滸画伝』大阪、久々うり物に出候よし、甚高料に付、うれかね候処、先頃、拙者懇意之書林英平吉買取候処、廿八丁ホド板紛失、依之、拙者所蔵の『画伝』かしくれ候様申候に付、則かし遺し候処、断りなシに、ヌキ/\に入用の処ヲとぢ放し、押かぶせぼりにほり立候故、彫刻早速出来候。然共、印本ヲほりかへし候へば、文字崩れ、よめかね候事故、けしからぬ物に成候処多く有之、それヲ校合してくれとて差越候。多用には候へども、三十年来書物かひ入候なじみの書林の事故、否とも申がたく、あらまし校正いたし候へ共、ほりちらし候事故、よめかね侯所は、やはり直り不申、曲りなりに此節製本、うり出し申候。二編・三編、引つゞき彫刻いたし度に付、著訳いたしくれ候様、頻りに被申入侯へども、少々存寄も有之に付、かたくことわり申候。通俗本ヲひらがなにかゝせ候とも、別人頼候ともいたし候様、申談じ置候が、いかゞいたし候哉、いまだにえ切り不申候。『画伝』も、久々にてよみ候処、背中に汗出候様なる事多く候。只今訳し候へば、あの様なる書ざまはいたすまじく候へども、中々訳文杯、古人の作ヲいヂりて居候ひま無之、其上、英は奸才抜群の人物、又『水滸』も、あのまゝ訳し候事、本意にあらず。并に訳文の事故、潤筆も新作同様にはとりがたく、そのくせ筆手間は同様之事と申うへに、新作よりほね折レ候故、此内存ヲ以、かたく断り候也。初編の製本、近々御地も廻り可申候へ共、先年御覧被成候物故、めづらしげなき御義と被存候。
文政十年十一月二十三日 篠齋宛

『水滸画伝』の板木を角丸屋から買った英平吉は、旧板を再刷りするに当たって不足していた板木の部分二十八丁を、馬琴に借りた板本を版下にして覆刻し馬琴に校合を依頼した。馬琴は校合には応じたものの、続編の執筆は断固として拒否するのであった。

一、『水滸画伝』著述之事、去冬あらまし得貴意候通り、板元并ニ画工へも意味合有之、其上『水滸伝』ハ勧懲之為、愚意ニ応じ不申もの故、堅くことわり、綴り遺し不申候。依之、板元英や、高井蘭山ニ訳文ヲたのミ画ハ北斎ニかゝせ、彫立候よしニ御座候。『けいせい水滸伝』より『通俗水滸伝』も引立られ候而、はやり出し候事故、出板候ハヾ、『画伝』も多くうれ可申候半哉と存候。但し蘭山ハ、相識ニハ無之候へ共、『三国妖婦伝』など著し候仁にて、下谷三絃堀ニ罷在候。漢文ハよみ候へ共、小説ものなどハ一向疎く、且戯作之才ハなき老人のよし、及承候。この人の訳文、いかゞ可有之哉、心もとなき事ニ候へ共、切落しの見物ハ、文之巧拙ニも拘り不申もの、多く御座候故、北斎の画ニてうれ候半と被存候。
文政十一年正月十七日 篠齋宛

英平吉が、続編の翻訳を高井蘭山に、挿絵を葛飾北斎に依頼したと聞いた馬琴は、高みの見物を決め込むが、自作の合巻『傾城水滸伝』の流行から、北斎の絵で売れるのではないかと予想する。

一、『水滸画伝』古板十冊、当二月中、再刷うり出し候処、正味十二匁ニて、高直と申評判のミ、本ハ思ひの外うれ不申候よしニ御座候。人気ハあじなものニて、『けいせい水滸伝』のひゞきニて『水滸伝』はやり出し、紙鳶の画、きせるの毛ぼり、その外芝居ニても、水滸伝云々といふ名題かんばんヲ、当春ハかけ申候へ共〈勘三郎座也、〉まことの『すいこ伝』の本ハ、却てうれしがり不申候。女子どもハ、唐人故おもしろくない、すぢも『けいせい水滸伝』とおなじやうじやから、『けいせい水滸伝』ヲ見る方がよいと申候よし。左候ハヾ、二編ヲ新刻いたし候ても、あまりはか%\敷ハあるまじく哉と被存候。
文政十一年三月二十日 篠齋宛

旧板『水滸画伝』初編の再刷りが高価で売れなかったことを聞いた馬琴は、『傾城水滸伝』の人気振りに触れつつ、『水滸画伝』二編は出しても売れないだろうと予想する。
さて、実際に出板された『水滸画伝』第二編を見た馬琴は、やはり執筆方針に対しての批判をせずにはいられない。

一、又一ツ、申試ミ度事御座候。高井蘭山あらはし候『水滸画伝』第二編、旧冬出板、当早春借りよせ候て、致一覧候。貴兄ハ未被成御覧候よし。如貴命、画ハさすがに北斎ニ候へバ、不相替よろしく候。乍去、作者より画稿を出さず、画工の意に任せ、かゝせ候と見えて、とかく画工のらくニ画れ候様にいたし候間、初編にハ劣り候様に被存候。著述ハ手みじかに綴り候故、通俗本同様之処多く、一向に骨の折れぬものニ御座候。あの通りニ候ハヾ、百回早速満尾可致候。只『水滸伝』のすぢのミ、書つらね候までに御座候。唐山にてハ李卓吾本の姿、よく似たるものニ候。をしき事かな、あたら『水滸伝』を略文にせしことよと存候事ニ御座候。且簡端に、作者訳文の大意を述候処に、字音ハ『韻鏡』に本づき、仮名ハ古仮名によるよしニて、酒食をシユシイ、蓑笠をサリウとするよしなど、ことわりおかれ候。尤なる事ニは候へども、それは物ニもよるべき事ニて、迷惑の惑も音コクにて、ワクの音ハなきを、古人久しくわくとよミ来たり候。されバとて、メイコクとかなつけ候てハ、婦幼にハ何のことやらわかりがたく候。且仮名ハ、古仮名をもてするよしなれど、いゐひのかなづかひすら、多く錯乱いたし候が見え候。故あるかな、彼人の著述、是迄あたり作なし。人情をバよく解さぬ人歟と存候。只これのミならで、『水滸伝』に見え候事の或問をのせられたる条に、宋の徽宗・欽宗の時、秦檜といふ悪宰相ありて云々、朱子・程子も宋人也云々と書れ候。徽宗・欽宗の時にハ、蔡京・童貫等が政を乱りしよしハ、『水滸伝』ニも見えたり。これが『水滸伝』の趣向の出る所なるに、何どて秦檜とハ書れしにや。秦檜の政を執りて、多く善人を害せしハ、南渡の後高宗の時にあり。徽宗の時ハ、秦檜ハ微官にて、なか/\政事ニ口出しするものにハあらず。金国へとらハれて、とし経て迯て本国へ(を)帰てより、そろ/\立身して宰相になりし事、通俗本でもよむほどのものハ、しりたる事ニ候。しかるを、蔡京・童貫が事をいハずして、秦檜と書れしハ、暗記の失か老耄故か、これら、就中きのどくニ存候事ニ御座候。且亦、『水滸伝』を、今の草ぞうし合巻やうの物同様といハれしも、あまりすまし過たる事ニて、中々『水滸伝』の作者の深意ハ、夢にも思ハぬやうに被存候。ケ様の心もちにて『水滸伝』を訳し候へバ、ほねを折らぬもその故ありと、返す%\も嘆息ニたへず。わづかに壱の巻ばかりよみて、大てい様子しれ候間、画ばかり熟覧して、早速返し候也。いかで、一わたりハ御覧あれかしと奉存候。但し世評にも、口絵なき故さみしく、且一冊ニさし画三丁づゝなるも、画伝といふにたがひてすけなしと申もの、多く有之候。なれども、百八人の像ハ、半丁ニ二三人ヅヽ、別ニ一巻といたし、これハはなしても売り候よしニて、只今彫刻最中と及承候。この出像の巻ハ、さすがに北斎筆なれバ評判よろしく、屹度売れ可申候〔と〕存候。出板之節見候て、いよ/\よく出来候ハヾ、その所斗求置可申存候事ニ御座候。
文政十二年二月十一日 篠齋宛

北斎の絵が少なくて活かされていないことから始まり、本文も通俗本の抄録に過ぎず、更には「作詞や訳文の大意」で示された方針に対して批判を加えている。また、時代錯誤の表記方針を難じて、蘭山の読本作者としての資質に疑義を呈している。自分から断った仕事であるにも関わらず、基本的な方針や工夫のなさに対する批判をせずにはいられなかったのであろう。
さて、その後『水滸画伝』の板木は河内屋茂兵衛に移り、ここから事態は新たな展開を示すことになった。

一、先年、英平吉ほりかけ候『水滸画伝』の板株ハ、大坂河内や茂兵衛買取候よし、此度初て聞知り申候。右蘭山作ハ、百回迄稿本出来、北斎画も三十五冊め迄出来居候而、右板ニ添、かひ取候間、ほり立、当節河茂方ニて、又十冊うり出し候よしニ御座候。乍去、英平吉うり出し候節、二編の評判宜しからず候間、丁子屋ニてハ引受不申、断候ニ付、河茂甚こまり候よし申候。右ニ付、『水滸略伝』と申ものヲ被頼候。是ハ、柳川画キ候『水滸伝』百八人の像、略画のやうニ画キ候もの、先年狂歌連ニて出来いたし候。右板を、丁子やかひ取候よりの思ひ付ニ御座候。なれ共、『水滸伝』ハ株物ニ付、丁平のミにてハ出板いたしかね候間、河茂と合刻ニいたし、右百八人の像を口画ニいたし度旨申候。この略伝ハ、少々著し可申心も有之、且附録ニ「水滸伝略評」を加へ、五六冊ニ書とり可申候旨、約束いたし候。稿本出来次第、来年彫刻いたし度旨、両板元申居候。此附録の「水滸伝の評」ハ、後世へ遺し度心も御座候間、手透次第、来年より創し可申存候事に御座候。
一、『水滸画伝』新刻、評判あしく候間、手入をいたしくれ候様、河茂より被頼候得ども、是ハかたく断り申候。そのかハりに、『水滸後画伝』といふものを稿し遺し可申候旨、申聞置候。是ハ、『水滸後伝』を通俗ニいたし、『後伝』のわろき処ハ書直し、『画伝』のごとく画入ニいたし候つもりニ御座候。『画伝』、終り迄出来の上、命あらバつゞり遺し候つもりニ御座候。なほ久しき事ニ可有之候へ共、先御聆ニ入置候のミニ御座候。これらの趣、桂窓子江御面会の節、御噂可被成下候。
天保三年六月二十一日 篠齋宛

まず、河茂の江戸での相板元であった丁子屋平兵衛が、売れ行きのよくない『水滸画伝』続編の刊行に難色を示したため、新たに『水滸略伝』という百八人の好漢を口絵にした本の企画が生まれ、馬琴に打診が来た。馬琴は附録に「水滸略伝評」を加えた形での次年執筆を了承する。
また、評判の芳しくない『水滸画伝』二編以降の添削を拒否した馬琴は、『水滸後伝』を〈画伝〉化した『水滸後画伝』という新企画を提案する。ところが、思いがけない障害が発生する。

一、尾州名古やにて、『水滸後伝』ヲ、真片カナに通俗にいたし、此書彫刻いたし候よし、大阪河茂・塩長聞出し、かれ是むづかしく申、名古や書林へかけ合、さし留可申与争ひ最中のよし。右に付、『水滸後画伝』も、『八犬伝』の間にさし入れ、つゞり遺し候はゞ、先五冊斗、来冬迄にうり出し申度候よし、并に『水滸略伝』も、来冬出板いたし度よし、丁平ねがひ出候。来年は、よほど精出し不申候ては、出来かね可申候得ども、先づうけ合置申候也。
天保四年十二月十二日 篠齋・桂窓宛

どうやら、名古屋の書林が持っている企画と抵触するらしいということで、板元としては『八犬伝』が完結する前に、取り急ぎ『水滸後画伝』最初の五冊を『水滸略伝』と併せて来冬までには出したいという。馬琴は承知した。

天保四年刊の『南総里見八犬伝』八輯下帙巻末に『水滸畧傳』「曲亭主人著、柳川重信画本集六巻/来癸巳冬十二月發販」と共に次のような予告広告が出ている▼7

水滸後画傳  曲亭主人譯文   出像 柳川重信画 第一輯五巻 近刻

この書(しよ)は。明(みん)の鴈宕(がんたう)山樵(さんせう)が。水滸(すいこ)後傳(こうでん)四十回(くわい)を。國字(こくじ)に譯(やく)し通俗(つうぞく)して。加(くはう)るに繍像(さしゑ)を以(もつて)す。且(かつ)後傳(こうでん)の趣向(しゆこう)の立(たて)ざま。宜(よろし)からぬもある回(だん)は。翁(おきな)をさ/\筆削(ひつさく)して。全美(ぜんび)の一書(いつしよ)になさんと也。然(さ)れば後傳(こうでん)に見(あらは)したる。前傳(ぜんでん)殘剰(ざんじやう)の好漢(こうかん)三十二人(にん)あり。そは公孫勝(こうそんせう)。呼延灼(こゑんしやく)。関勝(くわんせう)。朱仝(しゆどう)。李俊(りしゆん)。李応(りおう)。戴宗(たいそう)。燕青(ゑんせい)。孫立(そんりう)。孫新(そんしん)。阮小七(げんしようしち)。柴進(さいしん)。朱武(しゆぶ)。黄信(くわうしん)。樊瑞(はんずい)。樂和(がくくわ)。童威(どうゐ)。童猛(どうまう)。宋清(さうせい)。斐宣(はいせん)。穆春(ぼくしゆん)。蒋敬(しやうけい)。蕭讓(しやう%\)。金大堅(きんだいけん)。安道全(あんどうぜん)。蔡慶(さいけい)。杜興(とこう)。楊林(やうりん)。鄒淵(すうゑん)。凌振(りやうしん)。皇甫端(くわうほたん)。顧大嫂(こだいそう)。是(これ)也。この内中(うち)前傳(ぜんでん)(だい)百二十回(くわい)に。その死(し)をいふもの七人(にん)あり。そは呼延灼(こゑんしやく)也。関勝(くわんせう)也。阮小七(げんしようしち)也。柴進(さいしん)也。戴宗(たいそう)也。李応(りおう)也。杜興(とこう)也。就中(なかんつく)戴宗(たいそう)は。その霊(りやう)徽宗帝(きそうてい)の夢(ゆめ)に見(み)えて。郷導(みちしるべ)をせし事さへあるに。又(また)後傳(こうでん)に載(のせ)たるは。皆(みな)(かの)作者(さくしや)の誤(あやまり)也。これらの錯誤(さくご)は作更(つくりかえ)て。前傳(ぜんでん)に死(し)したるものを、又(また)後傳(こうでん)に出(いだ)すことなく。更(さら)に亦(また)批語(ひご)をもてして。彼(かの)拙劣(せつれつ)を補(おぎなは)れん。譯(やく)しざまさへ世(よ)にある所(ところ)の。通俗本(つうぞくほん)と同(おな)じからねば。唐山態(からくにぶり)に疎(うと)かるべき。姫御(ひめご)(たち)にも筋(すぢ)よくわかりて。尓(しか)もその文(ぶん)鄙俚(ひり)ならず。伏稟(ふしてまう)す賜顧(しこ)の君子(くんし)。先(まづ)この書名(しよめい)を認(したゝめ)て。開板(かいはん)の日(ひ)を俟(まち)給へかし。
        江戸     丁子屋平兵衞
印行書肆    大坂     河内屋長兵衞
        大坂     河内屋茂兵衞

これは馬琴が書いた文章であるが▼8、『水滸伝』の続編として、既に死んでしまった七人を排除したり、矛盾する部分は正し、挿絵を沢山入れて、片仮名漢字ばかりの通俗本が苦手な読者にも読み易くする等という執筆方針を述べた予告広告である。
ところが、天保四年から続けられていた予告は、天保七年を最後に以降は見られなくなる。一体如何なる経緯があったのかは不明であるが、どうやら『水滸略伝』も『水滸後画伝』も、その企画は実現しないままで終わってしまったようである。

  二 馬琴の『水滸後伝』評

『水滸後伝』は、八巻四十回、陳作(古宋遺民著・雁宕山樵評)、中国白話小説『水滸伝』の後日譚であるが、方臘征伐を終わって全国に散った梁山泊の生き残り三十二人が集まり、羅暹(シャム)に渡り李俊を国王とする国を建てるというもの。「倭国(日本)」との交戦場面もあり、三種ある『水滸伝』後日譚の中では秀作との評判が高かった。我国への渡来は元禄期に遡る▼9が、馬琴が初めて『水滸後傳』を閲したのは、享和二年の上方旅行の途中であった。この事情は『壬戌羇旅漫録』(巻之上・廿八「繪巻物 附水滸後傳目録」)▼10に見えている。

又名古屋廣小路秤座(はかりざ)守隨の藏書に水滸後傳十巻あり。主人をしみて人に見せず。予柳下亭に就てその目録をうつしたり。

○水滸後傳 〈古宋遺民雁宕山樵編輯 金陵〓客野雲主人評定〉
第一回 阮統制(小七ナリ)梁山ニ感旧ス 張幹弁湖泊ニ尋ヌ(レ)災ヲ
第二回 毛孔目横ニ呑ム(二)海貨 顧大嫂直ニ斬ル(二)豪家ヲ(一)
第三回 病尉遅間住遭(レ)殃 欒廷玉失テ(レ)機ヲ入(レ)夥ニ
第四回 鬼瞼兒寄テ(レ)書ヲ羅ル(レ)禍ニ 趙玉蛾衒色シテ招ク(レ)奸ヲ
第五回 老管營蹇シテ遭(二)横死ニ(一) 撲天〓冤被ル(二)拘囚セ(一)
第六回 飲馬川ニ李應重テ興ル 虎峪寨ニ魔王闘ス(レ)法ヲ
第七回 李良嗣條陳ト賜フ(レ)姓ヲ 鐵吽子避テ(レ)難ヲ更フ(レ)名ヲ
第八回 萬柳庄ニ玉貌招ク(レ)殃ヲ 寶帶橋ニ節孀遇フ(レ)故ニ
第九回 混江龍賞テ(レ)雪ヲ受ク(二)祥符ヲ(一) 巴山蛇截テ(レ)湖ヲ徴ス(二)重税ヲ(一)
第十回 墨吏賠錢シテ受ク辱ヲ 豪紳歛賄シテ傾ク家ヲ
(中略)
第四十回 荐シテ(レ)故ヲ歡テ(レ)燈ヲ同ク宴樂ス 賦シ(レ)詩演フ(レ)戲ヲ大團圓
以上四十回目録畢
巻中ノ人物 (中略) 以上四十七人

この書倉卒(そうそつ)にしてこれをよめり。故にその目録を抄出して後勘に備ふ。水滸後傳もと二本あり。共に今世にまれなり。

大坂の國瑞(こくずゐ)の話に。予崎陽(ながさき)にありし日。水滸後傳を得たり。そのころは小説にこゝろなかりければ。價廿目ばかりにかへて人にやりぬ。今おもへばをしむに堪たりといへり。大阪逗留中。書肆に水滸後傳のことをきくに。その名をだにしらぬ書肆多し。江戸にてもたへてこの書をみることなし。

水滸後傳二本あり。一本は四才子傳の評をせし天花翁の作なりといふ。予いまだこれを見ず。

馬琴按ずるに。寛永年間。山田仁左衛門といふもの。暹羅(シヤムロ)國に渡りて登用せられ。大國あまた領せしことあり。その事。智原五郎八が暹羅記事にくわし。しかれば水滸後傳の作者。粗(ほゞ)山田仁左衛門が事を傳へ聞て。李俊がことに撮合せしにや。

仁左衛門が暹羅國より奉納の繪馬。駿府の浅間の社にありしが。近属(ちかころ)本社回禄の時。かの繪馬も焼たり。其冩し神職の家にありといふ。

再按ずるに、山田仁左衛門が事は。唐山(もろこし)にて水滸後傳の作ありしより少し後なり。かの書に撮合せしにはあらざるなり。余が考別記にあり。今亦贅(ぜい)せず。

追書 伊勢松坂の友人殿村佐五平、近ころ京師にて水滸後傳を購得たりといふ。享和中予尾張名古屋の客舎にて、一閲せしかども、倉卒の際にして多く忘れたり。よりて借覧せまほしきよしをいひつかはしければ、うけひて郵附し庚寅〔文政十三年〕三月廿一日右の書全四十回十冊嶋屋よりとゞけ来る。佐五平は篠齋と号す、松坂の豪富にて、本居宣長の門人、和歌を嗜み又和漢の稗史を好む。百十里外に在て書を貸す友は多く得がたし。

書翰にも「『後伝』も廿四五年前、旅宿ニて甚せわしく被閲いたし候へバ、多く忘れ申候。」(文政十年三月二日篠齋宛)とある様に、単に目録を抜き書きしただけではなく、一通りは読んでいたようである。すなわち、文化五年刊『椿説弓張月』続編以下の琉球国に於ける物語の典拠として『水滸後伝』が上げられ、「弓張月著作の際は、馬琴は水滸後伝をまだ所持しておらず、かねて抄録しておいた回目をたよりとして、記憶をさぐって、これを取り入れたものであることが推定される。」▼11とある通りである。

その後、やっと『水滸後伝』を手に入れたのが文政十三年七月であったことは、天保二年四月に篠齋に借覧した本を返却するに際して書いた詳細な批評『水滸後伝批評半間窓談』▼12の序に見えている。

明の雁宕山樵が水滸後傳は、はじめおのれこの書あることをしらず。享和二年の夏のころ京浪速に遊歴せし日、尾張名護屋の旅亭にて、ある人の藏弃したるをゆくりもなく閲しにき。いとめづらしく思ひしかば、回目をのみ抄録して、もて遺志に備へたり。かくて浪速に赴きて、ある日馬田老人と〈医生名は昌調長崎の人なり〉ものかたらひし言のついでに、この書の事に及びしに、馬田老人のいひけるやうは、水滸後傳に二本あり、その一本は天花翁の作也、やつがり故郷に在りし時、二本ながら見き。とて誇れり。よりて京なにはなる書肆をおちなくあさりしに、その書名だも知れるは稀にて、ふたゝび見るによしなかりけり。是より二十餘年を經て、文政十年の春にやありけん、吾友伊勢松坂なるさゝの屋ぬし〈殿村氏号篠齋〉、浪速にたびねしたる折、かの雁宕山樵か水滸後傳を購得てけり。いたくふりたる本なりければ、印字に磨滅少からず、且破裂して全からざる巻々もありけるを、京の儒生山脇翁の藏弃に善本ありと聞えしかば、医師秋嵒ぬしを介として借得て校讐補写せしめ、ひとひら毎にうらをうたせて、ふるき唐紙の脆きを修復し、さらに製本せられしかば、遂に全書になりしとぞ。さゝの屋ぬし被閲の後、いくばくもなく郵附して、解に見よとておこされたり。実に好みをおなじうすなる交遊の情義をおもへば、渇していづみにあへるに似たるわかよろこび知りぬべし。とかくする程に、いぬる己丑〔文政十二年〕のとし、水滸後傳舶來しつ。去年〔文政十三年〕む月のなかばに至りて、こゝにも芝なる尚古堂にその書ありと聞えしかば、とく購得ばやとて、人もて求めにつかはせしに、みな賣果てなしといひしを、浪速の書肆よりよびとらして、ふみ月なかばに購得たれば、價もいたくのぼりにけり。やがて繙きて閲せしに、その書は清の乾隆のとし〈三十五年〉蔡昊といふものゝ再評飜刻しつるにて、誤写謬刻多くあり、無下の惡本なりけれども、幸ひにしてさゝの屋ぬしのかされし原本あるをもて、校訂せまく思ふものから、例の著述にいと〔ま〕なくて、得はたさゞりけるを、ことし〔天保二年〕弥生の下旬より、しばらく著書の筆をとゞめて、夜も日も校訂点裁しつゝ、卯月六日に校し果にき。かくて件の原本をぬしに返さんと欲するに、かりそめながら三とせを經たりむくひにすべきものゝなければ、いさゝか愚評をしるしつけてしめして笑ひを取れるのみ。かの馬田氏の見きといひつる天花翁の水滸後傳は、いかなるよしをつゞりけん。こし來人にたづねしかとも、そを藏弃せし人のありとしも聞えねば、なほ夢にたも見るによしなし。天花翁は稗史の作あり。なれども、させる佳作はあらす。そが著せし後傳の、から國にも今ありやなしや、問まくほしきものにぞ有ける。
天保二年辛卯の夏四月七日 著作堂主人燈下識

この「水滸後傳に二本あり」というのは、篠齋から借用した万暦三十六年印行の明板(陳本・八巻本)と、馬琴が入手した乾隆三十五年の清板(蔡昊本・十巻本)とである。しかし、陳本にも原刻本と、「宋遺民原序」・雁宕山樵「水滸後伝序」・「論略」の有無が相違する二種の後刻本とが存する。一方、蔡本は序文として「評刻水滸後伝叙」「読法」を載せ、評を削り、さらに本文にも大きな異同が存する▼13。蔡本の改修に関して鳥居氏は「その多くは叙述にかかわることで、筋そのものには変改を加えてはいない。」▼14とされるが、馬琴は、篠齋から借りた陳本に拠って、入手した蔡本に詳細に朱筆で校異を書き込んでいる▼15。その「読法」末尾に

著作堂主人云、原本八巻、〈蔡昊釐為十巻〉明萬歴戊申秋杪、雁宕山樵自序、并古宋遺民偽序有之、蔡昊重刻時、削去舊序二編、而附載自己序文、是故使原本開〓歳月、泯滅不傳、此可憾也。

と朱筆で書かれていることから、基本的な陳本と蔡本との異同、テキストとして原刻本が優れていることは、精確に押さえていたということになる。
その上で、陳本にしかない雁宕山樵「水滸後伝序」「宋遺民原序」「目録」「論略」第一回冒頭の「詩」各回末に附された四十回分の「評」のある丁を、『明板水滸後伝序評』と題して抜き書きした写本を作っている▼16。巻末に

水滸後傳ハ新舊二本之有リ。舊本ハ則明ノ萬暦三十六年ニ印行スル所、新本ハ則客歳来舶齎ス所、清ノ乾隆三十五年、秣稜ノ蔡昊カ重訂ノ飜刻スト云フ。這ノ二本ヲ併テ閲スルニ、序ト之總評與同カラズ。其文モ亦異同有リ焉。舊本ハ今于世ニ〓也。因テ而伊勢松阪ノ人殿村篠齋ノ蔵本ヲ借抄シテ、以比校ニ備フ焉
文政十三年庚寅冬月小雪前二日著作堂主人燈下識

   天保二年五月再校閲是書之日於訓點以為銷夏之料是月二十七日方卒業 著作堂又識


とあり、校異を書き込んだ本と併せれば、陳本の様子が分かるようにしたのである。

ここで馬琴の校異の書き入れ具合を見ておこう。まず、「水滸後伝巻首」の「読法」四の上部に「著作堂主人云、是等評論、未知彼百八人有初善中悪後忠之三等者也。吾曽有所考、以文多今不亦贅。」とあり、基本的な『水滸伝』の隠微を「読法」の著者(金陵〓客野雲主人)が発明していないことを指摘する。これは一貫した馬琴の姿勢であり、この立場から『水滸後伝』を批評している。

本文には句点を○で附しながら、多く見られる漢字の異同に関しては「(ヒ)(眼)」「(従)衆」「(ヒ)(釋)」などの様に訂正し、時に上部余白に「由字原本作止此它以原本校訂」「鹵漢原本作粗漢此它有異同」などと逐一記している。少し長きにわたる行文の相違に関しては、スペースの問題で全文を写すことは出来ないため「此段與原本有異同」等と頭書、中には少し具体的に「此段原本阮小七不帯了両個伴當獨遊獨酌且其文不同者多有宜参考」などと記している箇所もある。また、白話語彙についても所々で「量酒的 (シヤクトリ)」「伴當(トモタチ)」「(カイゾク)衝塘(フネヌスビト)」と字義や訓みを書き込むが、時に「鯨魚常以鰯為食何啖〓之有。唐山文人疎鹵海錯事胡慮々々」(三巻三十八ウ)の如く批評に及ぶ書き込みもある。総じて非常に丁寧に校異を取っており、本文に対して細かい神経が払われていることが分かる。

このような緻密な校訂作業を終えて直ぐに書かれたのが、前述した『水滸後伝批評半間窓談』である。その執筆の様子を天保二年四月の日記から抄出すると、「水滸後伝の評、今日稿を起ス。借書のむくひとして、殿村佐五平へ可遣為也。」(七日)、「水滸後伝の評、終日稿之。」(八日)、以下連日に執筆に及び、「水滸後伝評の内、八丁稿之。こゝに至て、五十五丁全稿也。但、書おろしのみにて、いまだ点裁・句読・校訂に不及。」(十七日)、「水滸後伝評、自校点裁、四十一丁め迄、校之。」(十八日)、「水滸後伝評、今夕満尾。点裁等、みな悉稿し畢。」(十九日)、「水滸後伝評、今日、宗伯に被閲せしめ、誤脱を訂さしむ。未果。」(廿一日)、「水滸後伝評書入、再考分増入。終日也。」(廿二日)、「水滸後伝評再考。」(廿三日)、「今朝より、いせ松坂との村佐五平へ遣し候長文書状、書之。畢て水滸後伝返却分十冊、この外同書国字評一冊・八犬伝にしきゑ三枚、右一包にいたし、外にかし遣し候拍案驚奇、一封にいたし、右二包ニ荷づくりの内、及薄暮。」(廿五日)、「いせ松坂殿村佐五平へ(中略)並便にて、右同人へ遣ス。賃銀此方払也。」(廿六日)。とあり、二十六日付篠齋宛書翰で

『後伝』の評も、今般御蔵書返上の御礼ニ、御めにかけんと思ひ起し候。一時発起のいきほひにて出来申候。左なくては、急務ならぬ品故、中々出来不申候。尤、急案に候間、思ひたがへし事も可有之哉、難斗被存候。

という通り、かなりの精力を費やして執筆したことがうかがえる。

さて、この馬琴の水滸後伝評の眼目は「後傳は、又是一書と見るこそよけれ、こを前傳と兄弟に、なさまくすとも得べからず。用心各異なれば也」(評七)という一点に凝縮されていると見るのは僻眼であろうか。「初善中悪後忠」の「後忠」が後伝に反映していない点が難点だというのである。細かくは趣向の反復が多い点や人物の配置が不適当であるなど、ほとんど難評と呼んでも良い程のものである。また、蔡本の加えた改変と評に対する論難にも多くの筆を費やしている。基本的には、自分が後伝を作るならばこうはしないという観点で書かれたものであると思われる。

ここまで、馬琴と『水滸後伝』をめぐる関係について述べてきたが、以下、『水滸後画伝』の写本について見ていこう。

  三 『水滸後画伝』草稿本

まず最初に書誌について記述しておくことにする。

所 蔵 昭和女子大学附属図書館桜山文庫(桜九一三・五・七九)

体 裁 半紙本七冊、袋綴(紙縒に拠る仮綴)

表 紙 共紙表紙(二・三・四冊目▼17は表紙無)、外題「水滸画傳抄出」(一)、「新編水滸後画傳巻之四」(五)、「新編水滸後画傳第五(六)回七回」(七)

巻頭題 「水滸画傳四十一より四十五ニ至ル左ニ書抜ス」(一)、「水滸後画伝巻之一」(二)、「水滸後画伝巻之二」(三)、「新編水滸後画伝巻之三」(四)、「新編水滸後画伝巻之四」(五)、「新編水滸後画伝巻之五」(六)、「(なし)(七)

丁 数 百七十一丁(一)、十丁(二)、十四丁(三)、十三丁(四)、十三丁(五)、十六丁(六)、四十丁(七)。なお、七冊目の後に巻紙(十三・七糎×継紙十四枚)(九回下の草稿、二百九十二行)。この他に計三葉の草稿存(一・七)

丁 付 丁付なし(一)。以下ノド「一〜十」(二)、「二ノ一〜十四」(三)、「三ノ上一〜六・三ノ下一〜七」(四)、「四ノ上一〜六(表)・四ノ下一(裏)〜八」(五)、「五ノ上一〜七・五ノ中一」九丁目以下なし(六)。丁付なし(七)

行 詰 一丁十一行。一行三十〜三十六字内外(字高十八・七〜二十三糎)。ただし六冊目九丁以降は九〜十二行。七冊目も一部十三行の丁がある。

蔵書印 各冊表紙(乃至は一丁表)右下と最終丁裏左下(一・二・七)に方形(二・五糎角)朱印陽刻「著作堂」(両脇に陰刻で昇龍の意匠)。他に「昭和女子大学図書館」印が存。

識 語 一冊目見返に「瀧沢馬琴翁/称篁民東都ノ人名解字蓑吉号/著作堂蓑笠隱士曲亭主人ト云/編譯水滸後傳從一回七回至草稿スルモノ也/翁ノ自筆ニ依而幸イ求之/時嘉永五壬子年八月十五日/遊戯道人珎蔵[印][印]」とある。

七冊ある写本のうち、第一冊目『新編水滸画伝抄出』は百七十一丁にわたって、主として馬琴読本の本文や序跋類を抄録したものである。

少し細かく見ていくと、最初に『新編水滸画伝』の四十一〜四十五回、七十五回についての梗概を漢字片仮名混じりで記し、また六十六巻から九十回までを抜き書きしている。その後に、「水滸序」(新編水滸画伝の序)・「譯水滸辧」(馬琴の再識)・「新譯水滸画傳初編十巻目録」・「新編水滸画傳姓氏」・「新編水滸画傳初編十巻職役稱呼俗解」・「新編國字水滸画傳引首」、「水滸画傳十一回より以下高井蘭山の新訳する処也、緒言」が七十三丁にわたって書き抜かれている。次に、馬琴の『玄同放言』巻之三ノ下「詰金聖歎の条」が写され、以下は少しく乱丁になっていると思しいが、草稿である「譯水滸後傳説」を挟んで、蔡本の序である「評刻水滸後傳叙」、前述した馬琴の近刻予告「水滸後画傳」、そして『水滸画傳』十八・十九・廾ノ巻以下の梗概を記す。水滸伝に関連する記述は以上九十四丁まで。
続けて『通俗両国志』巻之一の梗概を記し、以下は馬琴の『近世説美少年録』の序跋の写しで「第三輯のはじめに櫟亭琴魚の批評を出せり」・「同書著作堂自序」・「美少年録第二輯總論螟蛉詞」・「美少年録第三輯ハ題名ヲ改メテ新局玉石童子訓ト云巻之上帙五冊目録一二回ヲ爰ニ記ス」・「新局玉石童子訓小序」・「本編第三集第三十回ニ云」・「新局玉石童子訓第四版附言」・「新局玉石童子訓第五版贅言」まで。
加えることに十丁ほど、上下二段に、「白話語句集」とも「唐話辞書」とでも云うべき、白話を含む漢語や句を列挙して和訓や字義が示されている。「僥倖(コボレサイワヒ) 下緒(サゲヲ)ニ〓(カラマ)る 〓(セガレ)」「案下某生復説(ソレハサテオキ) 微妙(イミジク) 正首(マメヤカ) 久後憑(スヱタノモ)しく」「了當〈センギヲヘタルト云コト〉 巾〓〈冠ノ下ノハチマキ〉 遮莫(サモアレバアレ)〈トモアレカクモアレ〉」という具合で、おそらく、馬琴読本等から書き抜いたものと思われる。続けて、種彦の『逢州執着譚』巻一、京伝の『雙蝶記』から一部分を書き抜く。
最後に、また序跋や広告類を写した丁が続き、『新局玉石童子訓』第六版小序・目録、『絵本通俗三國志』序、『松亭漫筆』自叙、『絵本三國志』五編「緒言」、『銃戰紀譚』序・附言、『〓髻蛇話説』序、『絵本通俗三國志』五編巻之三、『〓髻蛇物語』後編叙、『巨慶三笑』叙、『〈飜譯魁本〉畫本通俗両國志』・『早引人物故事』・『〈文政新版〉倭節用集悉改袋大成』(群玉堂近刻広告)、『絵本通俗三國志』八編序、『蛇物語』第三輯序言、『絵本通俗三國志』八編巻之五大尾、『新撰百物語』、『絵本倭比事』附録・跋、『直路の常世草』序、『〈假名手本〉蔵意抄』序、『真宗聴聞心得草』序文、『園の花』初編の序、『通俗續三國志』序、『浮世風呂』三編上・二編上・大意・前編巻上・二編自序・初編の跋、『富士見十三州輿地之全図』、『千社参』序・自序・初編上発端で終わっている。

かつて、明治期に多数出版された読本等の序跋を集めた本について報告したことがあるが▼18、馬琴読本の序跋類は、名文戯文の規範として見なされてきたのである。さらに、この第一冊目の大半が『水滸伝』に関する記述で占めていることから、何者かが、『新編水滸画伝』続編としての『水滸後画伝』を著述するための準備として作成したノートだと考えて差し支えないであろう。それも、かなり熱心な者の所為であると推察できる。

さて、第二冊目以下が『新編水滸後画傳』の草稿本であるが、第二冊が「第一回阮統制梁山感旧」、第三冊が「第二回上 毛孔目横呑海貨」「第二回下 顧大娉直斬豪家」、第四冊が「第三回上 病尉遅間住遭殃」「第三回下 藥廷玉失機入夥」、第五冊が「第四回上 鬼瞼児寄書懼禍」「第四回下 趙玉蛾衒色招奸」、第六冊が「第五回上 老管營蹇遭横死」「第五回下 撲天〓冤被拘囚」、第七冊が「第六回下 虎峪寨魔王闘法」「第七回上 李良嗣條陳賜姓」「第七回下 鉄吽子避難更名」「第八回上 万柳庄玉貌招殃」「第八回下 宝帯橋節孀遇盗」となっており、巻紙の状態で「第九回下 巴山蛇截湖徴重税」が残されている。現状では第六回上と第九回上が欠けている。
これとは別に、序文「譯水滸後傳説」があるが、(イ)第一冊に綴じ込まれているもの、(ロ)その一部の異文、(ハ)別に一葉の草稿、の三種が存す。内容的には大同小異なのであるが推敲の各段階を示すものと思われる。次に挙げたのは、漢字平仮名で記された(イ)を基にして、漢字片仮名表記の(ハ)にのみある部分を加えて翻字してみた。なお、原文にはない句読点を補った。

譯ス水滸後傳ヲ(セツ)

(サキ)に岡嶋冠山老人、水滸前傳を譯文(ヤクモン)して、世(ヨ)に行(ヲコナ)はるゝこと既(スデ)に久(ヒサ)し。然(シカ)れども、其書(シヨ)片假名(カタカナ)をもて記(キ)せるがゆゑに、猶(ナヲ)童蒙(ドウモウ)のために通(ツウ)じ難(ガタ)き処あり。是以(コヽヲモテ)、滝沢(タキサハ)蓑笠(サリツ)(ワウ)、書肆(シヨシ)〓甲(ソレガシ)の需(モトメ)に應(アフ)じ、新(アラ)たに華本(クハホン)を編譯(ヘンヤク)して、肇(ハジメ)て綉像(ヱイリ)讀本(ヨミホン)となし、此(コレ)を水滸画傳と目(ナヅク)。初編(シヨヘン)十巻梓行(シコウ)せるより、水滸の名(ナ)、世(ヨ)に振(フル)ひて、普(アマネ)く人(ヒト)の知ることゝはなりぬ。惜(ヲシム)らくは、譯(ヤク)する処、僅(ワヅカ)十回に過(スギ)ずして、故(ユヘ)ありて筆(フデ)を閣(サシヲケ)り。其後(ソノヽチ)書肆(シヨシ)〓甲(ソレガシ)、彼(カノ)刻版(コクハン)を購(アガナ)ひ得(ヱ)て、高井蘭山老人に請(コフ)て、其(ソノ)編譯(ヘンヤク)を需(モトム)。老人、就(スナハチ)これを諾(ダク)して、十一回以下を譯(ヤク)し、編(ヘン)を嗣(ツグ)こと積年(セキネン)にして、遂(ツイ)に百回本全備(ゼンビ)することを得(ヱ)たり。是(コヽ)に於(ヲイ)て、看官(ミルヒト)遺憾(イカン)なきに似(ニ)たれど、尚(ナヲ)(ソノ)後傳(コウデン)四十回あり。此(コレ)雁宕(ガントウ)山樵(サンシヤウ)の編(アム)(トコロ)にして、其(ソノ)舶来(ハクライ)(マレ)なるゆえか、世に譯本(ヤクホン)(アル)ことなし。蓑笠翁(サリツワウ)(サキ)に、翻訳(ホンヤク)を唱(トナヘ)しかども、前傳(ゼンデン)いまだ満尾(マンビ)せざれば、終(ツヒ)に果(ハタ)さずして没故(ボツコ)せられき。余(ヨ)、近曽(チカゴロ)(アル)書店(シヨテン)におひて、図(ハカラ)ず是書(コノシヨ)を購(アガナヒ)(ヱ)しが、作意(サクイ)の卓然(タクゼン)たる、敢(アヘ)て前傳に劣(ヲトラ)ず、かゝる奇書(キシヨ)に譯本(ヤクホン)なきは、尤(イト)(ヲシ)むべきにあらずや。因(ヨリ)て、これを翻訳して、前版(ゼンハン)画傳(グハデン)に嗣(ツガ)んとす。余(ヨ)が固陋(コラウ)浅学(センガク)を顧(カヘリミ)ず、その可否(カヒ)を斟(クミ)、刪補(サンホ)を加(クハヘ)て、漸(ヤウヤク)にして、十余回を譯(ヤク)し畢(ヲハリ)、書肆(シヨシ)(ソレガシ)に授(サヅク)ることゝはなりぬ。

一 此書、画傳ノ例ニ傚ヒテ、俗ノ耳ニ觧(トキ)ヤスキヲ宗(ムネ)トス。ユヘニ支那人(カラビト)ノ口調(クテウ)ヲ離レテ、己(ヲノ)ガマヽニ綴リタレバ、其ノ文、極メテ鄙俚(ヒリ)ニシテ、且拙キコト甚ダシ。コレ余ガ才ノ蹇澁(ケンシフ)ナル、亦如何(イカン)トモスベカラズ。然レドモ、原文(ゲンブン)ノ美(ビ)ヲ失(ウシナワ)ンコトヲ恐レテ、恣(ホシヒマヽ)ニ文字ヲ易(カヘ)ズ。但見(タンケン)ノ如キハ、其マヽニ訳セリ。且ツ、多ク本文ノ熟字ヲ存シテ、コレニ傍国字(ツケガナ)ヲ施シタレバ、字義ト假名トハ大ヒニ違(タガヘル)モアラン。コレ止コトヲ得ザレバ也。其ノ解(ゲ)シガタキ語(コトバ)ニ至テハ、推量ヲモテ訳(トク)ガユヘニ、訛謬(アヤマリ)最モ多(オホ)カルベシ。伏シテ識者(シキシヤ)ノ點竄(テンザン)ヲ待ツ耳(ノミ)

一 水滸傳ハ古今ノ傑作(ケツサク)ニシテ稗史中ノ冠盖(クワンカイ)タリト云ドモ、編者世ヲ憤リテ作ルガユヘカ、始終不平ヲ以テ主意トセリ。其ノ結局ニ至リテ、宋江盧俊義鴆死ニ遇(アフ)ガ如キ、讀ム人ヲシテ憤リヲ含マシム。コヽヲ以テ、後傳ノ作者前傳ニ残リタル三十二人ノ豪傑ヲ集メ、重ネテ〓染ヲ加ヘ、別ニ一大事業ヲ興(オコ)サシメテ、以テ前傳ノ冤(ウラミ)ヲ雪(スヽ)ガントス。コノユヘニ一モ不平ニ渉ルハナク、佞奸兇暴ノ徒ミナ亡ビテ、豪傑善良ノ人ノ栄ヘヲ享(ウク)レバ、看ル人ヲシテ大ニ快活ナラシム。コレ後傳一部ノ主意也。

一 後傳ニ載ル所ノ豪傑三十二人ノ外、王進扈成樂廷玉并ニ鄲哥唐牛児ノ如キ前傳ニ下落(ヲハリ)ヲ記サザルモノハ皆ナ収羅シテ漏スコトナシ。前傳ノ不満コヽニ至テ満足セリ。

一 蔡元放(サイゲンホウ)が批評(ヒヘウ)を見るに、後傳をもて前傳に勝(マサ)れりとして、多く前傳中(チウ)の缺陥(ケツカン)する処を挙(アゲ)たり。余(ヨ)(ヲモフ)に後傳の作意最(モツトモ)(タク)みなりといへども、是を前傳に連(ツラネ)(ヨム)に、間(まヽ)〓合(フンガフ)せざる処あり。原来(モトヨリ)これ假空(ツクリ)小説(モノガタリ)なるゆへ、敢て言(イフ)に足(タラ)ずといへども彼(カノ)残剰(イキノコレル)豪傑(ガウケツ)(ラ)が事には、前傳に結局(ケツキヨク)する処と来歴(ライレキ)(ハナハ)だ牴牾(タガヘル)ものあり。是等(コレラ)は看官(ミルヒト)をして特(コト)に疑惑(ギワク)を発(ヲコ)さしむるに似(ニ)たれど、蔡氏(サイシ)の批評(ヒヘウ)も、更此ことを言(イハ)ざるは怪(アヤシ)むべきにあらずや。爾(シカ)るときは作者別(ベツ)に據(ヨルトコロ)ありて、如此(カクノゴトク)なるか未(イマ)だ管見(クハンケン)に及(ヲヨバ)ざるのみ。遮莫、余が今(イマ)(ヤク)する処は前版(ゼンハン)画傳(グハデン)標的(メアテ)として彼(カノ)脉絡(スヂミチ)に貫通(クハンツウ)せしめ、疑(ウタガ)はしきを去(サリ)、違(タガ)へるを改(アラタ)め、讀(ヨム)にめやすからんことを要(ヨウ)とせり。故(ユヱ)に少(スコ)しく原本(ゲンホン)の旨(ムネ)と異(コト)なる処もあるべし。斯(カク)ては譯文(ヤクモン)の意(イ)を失(ウシナ)ふに似たれど、実に已(ヤム)ことを得(ヱ)ざればなり。

一 前傳石碣魔ヲ出スヲ以テ一部ノ趣向ヲ起スガユヘニ、後傳亦石碣村ノ阮小七ヲ以テ一部ノ開手トセリ。而シテ阮小七ハ七十三ニシテ死セルヨシヲ前傳ニ記シタレドモ、コレ只老後ノ死ヲ云(イヘ)ルナレバ、後傳ニ再ビ出ルトモ礙(サヽワリ)ナシ。彼ノ柴進戴宗ノ如キ、前傳ニ於テ明カニ其ノ死ヲ説(トク)モノ後傳ニ復出テハ、讀モノ不都合(フツガフ)ナルヲ笑(ワラ)ハン。然レドモ有用ノ人物除キ去ルトキハ、趣向ヲナサズ。ユヘニイサヽカ私意(シイ)ヲ加ヘテ前傳ニ死ヲ云ヘドモ、実ハ死セザル趣キヲ断(コトハリ)テ、モテ見ル人ノ異議ヲ免ル。

一 訳文の字義(ジギ)傍訓(ホウクン)の如(ゴト)き、前傳の例(レイ)に傚(ナラ)ふものは、道を云(イフ)、聴を聞(キク)、看を見(ミル)、那裡を彼所(カシコ)、甚を何(ナニ)と書(シヨ)するの類(ルイ)なり。枚挙(カゾヘアグル)に遑(イトマ)あらず。又(マタ)、御身(ヲンミ)、御辺(ゴヘン)、對面(タイメン)、伴(トモナフ)、申(マウス)、侍(ハベル)、候(サブラフ)、思食(ヲボシメス)の類数多(アマタ)あり。皆(ミナ)これ和俗(ワゾク)に通用(ツウヨウ)して目馴(メナレ)たる字體(ジタイ)なれば、混交(トリマジヘ)てこれを書せり。附國字(ツケカナ)は字(ジ)の注(チウ)なり。文辞(ブンジ)の緩急(クハンキウ)に依て施(ホドコ)すゆえに、字義(ジギ)の音訓(ヲンクン)に拘(カヽハ)らざるあり。これ訳本(ヤクホン)の恒例(ガウレイ)なり。

一 官職(クハンシヨク)、衣服(イフク)、器械(キカイ)の類は、前傳の首巻(ハジメ)に簑笠翁の注釋(チウシヤク)あれば、別(ベツ)に贅(ゼイ)せず。但(タヾシ)、本傳兵器(ヘイキ)の中(ウチ)に銅〓(ドウクハ)、鐡骨朶(テツコツダ)の二種(ニシユ)あり。こは前傳に出(イデ)ざる処の物(モノ)也。銅〓(ドウクハ)はあかゞねの熊手(クマデ)、鐡骨朶(テツコツダ)はくろがねの槌(ツチ)なり。共(トモ)に其(ソノ)(カタチ)は武備志(ブビシ)に見へたり。いまだ和訓(ワクン)のなきものなれば、強(シヒ)てつち、くまで 等(トウ)の傍訓(ツケガナ)を施(ホドコ)せるなり。

行文中「滝沢蓑笠翁」とある部分は、(ハ)では「曲亭馬琴翁」と成っている。また「蔡元放が批評」以下も(ハ)では、「曲亭翁モ謂ルが如ク、既ニ関勝呼延灼柴進戴宗ノ類已ニ前傳ニ其ノ死ヲ云フモノ後傳ニ復出テ然ル所以ヲ載コトナシ」と、馬琴の言説を踏まえた上で書かれている等、多少表現は異なるのであるが、趣旨に大きな相違はみられない。何れにしても馬琴本人が書いたものでないことは明らかである。

また、『新編水滸画伝』が完結したのは天保末年以降と思われ、序文が本文の成立後に書かれたとすれば、本文の成立は早くても天保末年以降ということになろう。しかし、第一冊目に抄録されている『銃戦紀談』は文久三年刊であるから、現在の状態で綴られたのは文久三年以降ということになると思われる。

さて、次に本文「第一回」の冒頭を、原文通りに句読点を用いずに挙げてみる。

水滸後画傳巻之一

 第一回 阮統制梁山感旧

却説(こゝに)昔日(そのかみ)梁山泊(れうさんはく)水軍(すいぐん)の頭領(とうれう)たりし濶閻羅(くわつゑんら)阮小七(げんしやうしち)は両個(ふたり)〈阮小二阮小五〉 の兄弟(あにたち)と 倶(とも)に宋公明に従(したが)ひて那(かの)方臘(ほうろう)を征伐(せいばつ)しけるが那兄弟(あにたち)はみな戦場に討死し其身は就(すなはち)宋公明とおなじく京(みやこ)に回(かへ)りて后(のち)勲功(くんこう)の賞(せう)として盖天軍(かいてんぐん)といふ所の都統制(ととうせい)の官職(くはんしよく)を授(さづか)りしが其地(そのち)(もと)より蛮荒徼域(かたいなか)にして人民(たみみな)梗化(おろか)なるゆへ法度(はつと)に遵(したが)はず阮(げん)小七(しやうしち)(また)粗鹵漢子(てあらきおのこ)にて政体(まつりごと)をしらざるにより任(にん)に到(いた)ること両月(ふたつき)ばかりといへども唯(たゞ)(さけ)を吃(のみ)て頑要(たのしむ)のみ那裡(いかん)ぞ理事(おさめかた)の煩(わづら)はしきに耐(たゆ)べき這時(このとき)朝廷(てうてい)には王禀(わうひん)趙譚(てうたん)(ら)の侫人(ねいじん)蔡京(さいけい)の面前(めんぜん)にありて阮小七を讒(ざん)し他(かれ)野心(あくしん)を改(あらた)めず恐(おそ)らくは謀反(むほん)の情(こゝろ)あらんといひなしければ蔡京(さいけい)(すなはち)聖上(みかど)に奏(そう)して終(つひ)に其(その)官職(くはんしよく)を削除(けづりさり)ぬ阮小七は原来(もとより)豪爽的人(ごうそうのおのこ)なれば更(さら)にこれを意(こゝろ)とせず母親(はゝおや)と同じく仍旧(もと)の石碣村(せきかつそん)に到(いた)りて昔日(そのかみ)住居(すまひ)しつる所在(あと)に十来間(じつけんばかり)の草房(くさのや)を蓋造(いとなみ)両三(にさん)(ざう)の小〓舩(りやうせん)を尋了(もとめ)て邨中(ひとむら)幾個(いくばく)の漁戸(りやうし)を収拾(したがへ)伴當(こかた)となし旧(もと)のごとく湖中(こちう)に打魚(すなどり)して母(はゝ)を養(やしな)ひ衣食(いしよく)豊腴(ゆたか)にぞくらしける一日(あるひ)四月(うづき)の天氣(そら)晴光(よくはれて)瀲〓(うらゝか)なりしかば両個(ふたり)の伴當(こぶん)を帯了(ともなひ)一甕(ひとかめ)の邨醪(にごりさけ)に幾味(くさ%\)の魚鮮蔬菜(さかな)を提(たづさへ)て湖水(こすい)の辺(ほとり)りに到(いた)りある柳樹下(やなぎのきのもと)に安座して甕(かめ)をひらき魚菜(さかな)を置(おき)ならべ一面(かた/\)には酒(さけ)を吃(のみ)一面(かた/\)には景(けしき)を看(み)て一連(つゞけさま)十余(じうよ)大碗(たいわん)を傾了(かたふけおは)り湖水の風光(ふうこう)をなかめて驀然(たちまち)に旧事(むかしのこと)を想起(おもひいだ)して心中(こゝろのうち)懊悩覚(おぼ)へず連声(しきりに)嘆氣(たんそく)しければ伴當(こぶん)(ら)これをいぶかりて問ける

叙文で蔡本の批評に触れていたことからも分かるが、この翻訳の底本は蔡本、すなわち馬琴が粗本だと断じた後刻本である。馬琴が原刻本との校異を取った書入れ本を見ると、「粗鹵漢子」の部分の上欄余白に「鹵漢、原本作粗漢、此它有異同」とあり、また「両個(ふたり)の伴當(こぶん)を帯了(ともなひ)」とある部分では、「此段、原本、阮小七不帯了両個伴當、獨遊獨酌耳、其文不同者多有、宜参考」とあり、その上、本文に「伴當(トモダチ)」と左振仮名を書き込んでいる。
つまり、本草稿は、既にこの時期には失明していた馬琴の手であろうはずもなく、また馬琴が敢えて再刻本を底本に使う必然性は皆無であるから、この翻訳に馬琴が関わっていなかったことは自明であろう。
では、識語の「嘉永五年」という年記と「遊戯道人」なる人物の「馬琴自筆」という記述は何を意味するのであろうか。各冊に捺された「著作堂」印は『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』に用いられているものに良く似ているが、どうやら、馬琴自筆本として偽装されたと考えるのが自然のようだ。ただし、馬琴の言説を引用している翻訳者自身が偽装したとは考えられない。
しかし、偽装問題はともかくとして、本資料が『水滸後伝』の本邦初訳であることは動かないのであるから、その点での意義は高く評価しなくてはならないだろう。それも職業作家ではない何者かが『新編水滸画伝』の顰みに倣って、読本の文体を真似するために多くの書き抜きや語彙ノートを作成した上での営為であり、近世期における読本読者の中には斯様な人材も存在したと云うことが確認できる有用な資料である。紙幅の都合で、訳文の検討や全文の翻刻は此処ではできないが、機会を待つこととしたい。

  四 『水滸後伝』の近代

最後に、明治期以降の『水滸後伝』について触れておこう▼19。『通俗水滸後傳』第一〜八(十八回まで、松村操訳編、明治十五年十月〜十八年三月、兎屋誠版)が最初の口語体による翻訳であるが、残念ながら半ばで中断している。訳者の松村操は、明治初期の多くの出版物に関わっていたが、『伊賀越仇討の実説』(松屋、明治十六年八月)や、『実事譚』四十編(兎屋誠、明治十四〜十五年)などの実録と共に、『水滸伝講義』巻一(明治十六年六月)を出しており、中国小説の翻訳も手掛けていた。
『水滸後傳』(森泰二郎槐南訳、明治二十六年三月〜二十八年九月、庚寅新誌社)は、最初の完訳本である。森槐南には『古詩平仄論』(宝書閣、明治十六年三月)や『詩学初楷』(岩渓晋編・森槐南閲、新進堂、明治二十九年六月)などの著作がある。残念ながら、双方とも底本は蔡本であるようで、篠齋の所持していた陳本がいかに稀覯本であったか知れよう。
一方、陳本に基づく翻訳としては、東洋文庫『水滸後伝』1〜3(鳥居久靖、平凡社、一九六六年)が備わる。一方、やや一般向けの中国講談後シリーズとして、『水滸後伝』(寺尾善雄、秀英書房、一九七八年、一九九四年新版)がある。

『水滸後伝』に関する先行研究として、依田学海「椿説弓張月細評」(「帝国文学」三十九、明治三十二年)と、麻生磯次「馬琴の讀本に及せる支那文學の影響」(『江戸文学と支那文学』、三省堂、一九四六年)、後藤丹治『椿説弓張月』(岩波書店、一九六二年)があり、『水滸後伝』が『椿説弓張月』に利用されていることを述べている。
中国文学研究には目が行き届いていないが、石見卓也「『水滸後伝』について−「宋遺民原序」と本文−」(中国言語文化研究論集『北方人』十、北九州中国言語文化研究会、二〇〇二年)が備わる。

なお、浅井音吉氏が一九七七年十一月の日本近世文学会第三十三回大会にて「『水滸後画伝』について」という発表を行われたという記録が残っている。何人かの学会の古老に内容についてお訊ねしたのであるが、遂にその内容を知ることができなかった。ご存知の方がいらっしゃれば是非とも御教示頂きたい。



▼1 この資料を草稿とするのは、稿本であるならば、見返はもちろん、口絵や挿絵の画稿を備えた完成した本の形式を取っているはずだからである。

▼2『新編水滸画傳』九編九十一冊(初編十一冊、二〜九編各上下二帙十冊)、初編は曲亭馬琴作、葛飾北齋画で、〈初帙〉五巻六冊、文化二年九月刊、〈後帙〉五巻五冊、文化四年正月刊、前川弥兵衛・角丸屋甚助板。二編以下は高井蘭山録。二編は、文政十一年刊、英平吉板、三編〜六編は、天保四年〜六年刊、河内屋茂兵衛板。七編以下は刊年未詳で画工も葛飾戴斗とある。

▼3 高島俊男『水滸伝と日本人』(大修館書店、一九九一)。この名著も『水滸伝の世界』と同様に文庫化されると良いと思う。

▼4 文化十年頃、貸本屋であった丁子屋平兵衛が出した一枚両面摺の「江戸読本型録(カタログ)」とでも呼ぶべき摺物。『為永春水編増補外題鑑』(和泉書院)に附載されている。なお、引用に際して漢字を充て原文を振仮名に残した。

▼5「曲亭主人」(木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』、八木書店、一九八八)。引用に際して適宜句読点と濁点を加えた。また、以下引用文中の〔 〕は、高木が補った部分を示す。

▼6 以下、馬琴書翰の引用は『馬琴書翰集成』第一〜六巻(柴田光彦・神田正行編、八木書店、二〇〇二〜四年)に拠る。時系列に編纂し直された馬琴書翰からは実に多くの示唆を受ける拙評「文学の末芸」、『図書新聞』二六一六号参照

▼7 この広告は、天保四年から七年に掛けて以下の通り出されている。

『開巻驚奇侠客傳』第二輯(天保四年刊)巻末に「水滸後畫傳 第一輯 この書は水滸後傳四十回を翻譯通俗して加るにさし画を以し且原本作者のあやまりを正しその宜しからざる所を筆削して全美の一書とすよのつねの通俗本と同じからず亦是一大奇書といふべし 近刻」
『開巻驚奇侠客傳』第三輯(天保五年刊)巻末に「水滸後畫傳 第壹輯 水滸後傳四十回を飜譯通俗して原本の趣向宜しからざる処を筆削すよのつねの通俗本と同じからず 近刻」
『里見八犬伝』九輯上帙(天保六年刊)巻末に「水滸後画傳 第一集 五冊 水滸後傳を通俗譯文して多くさし画を加ふ尤興あり」
『開巻驚奇侠客傳』第四輯(天保六年刊)巻末に「水滸後畫傳第一集 毎集五巻 二世柳川重信画 第一集近日刊行/この一書は明の雁宕山樵が水滸後傳四十回を翻譯通俗す且原傳の趣向宜しからざる処をば筆削翻案して全美の冊子になさんと也されば加るにさし画をもてしてその趣を盡さしむよのつねなる通俗本と同シからざれば婦幼にもよくわかりて尤興あるべきもの也」
『里見八犬伝』九輯中帙(天保七年刊)巻末には「水滸後畫傳 第一集 水滸後傳四十回を譯文筆削して謬れるを補ひ拙きを作り更め/且さし画を多く加う通俗本と同じからず尤興ある冊子なり○五冊未刻」

とある。

▼8『日記』の天保三年六月廿日に「水滸略伝・水滸後画伝もくろく明細書、半丁稿之。」とあり、同年七月二日「丁子や平兵衛たのみ、水滸略伝・水滸後画伝のもくろく、過日、丸一丁に書直し候得ども、丁子やより、其後便り無之候間、今朝、なつを以、筆耕金兵衛方へ遣之。」、同年同月五日「水滸略伝・同後画伝近刻もくろく写本わたし遣候。此分は八犬伝八輯・侠客伝へつけ出し、大坂河茂へは別に板下かゝせ遣し、彼方にてほらせ可然旨、予自身、丁平手代に申聞、右写本わたし遣す。」と見えることから、何時もの通りに、明らかに馬琴が書いた広告文である。 なお、日記を見ていくと、予告広告のことを「近刻目録(もくろく)」と呼んでおり、巻末の広告を「奥目録(おくもくろく)」と称している。所謂「縄張り」と云う、他の板元に対する牽制的な意味合いの強い近刊予告であった。

▼9 大庭脩『〈江戸時代における〉唐船持渡書の研究』(関西大学東西学術研究所、一九六七年)の『商舶載来書目』に「元禄十六癸未年/一 水滸後伝 一部八本」とある。

▼10『壬戌羇旅漫録』整版本。半紙本三巻三冊「明治十六年三月八日版權免許/同十八年五月出版/[定價金九十五銭](朱印)/同年五月二十日製本改御届/著者 故人曲亭馬琴/校訂兼出板人 東京府平民 渥美正幹 四ッ谷區四谷尾張町八番地/著者相續人 同府平民 瀧澤 次 麹町區飯田町二丁目三拾貳番地/製本所發賣人 書肆畏三堂 須原鐵二 日本橋區西河岸町拾二番地」

▼11 後藤丹治「解説」、日本古典文学大系『椿説弓張月』、岩波書店、一九五八年)

▼12『水滸後伝批評半間窓談』(〈早稲田大学蔵〉資料影印叢書『馬琴評答集』(5)、早稲田大学出版部、一九九一年所収)。なお、鵜月洋校訂『半間窓談』(「国文学研究」六、早稲田大学国文学会、一九五三年)をも参照した。

▼13『水滸後伝』の諸板研究に関しては、鳥居久靖「『水滸後伝』覚え書き」(「天理大学学報」四十八、一九六六年)及び東洋文庫『水滸後伝』(平凡社、一九六六年)の「解説」で整理されており、大塚秀高『増補中国通俗小説書目』(汲古書院、一九八七年)を踏まえて、石見卓也「『水滸後伝』の版本について」(「北九州中国言語文化研究論集」十一、北九州中国言語文化研究会、二〇〇三年)が備わる。

▼14 前出、鳥居久靖「『水滸後伝』覚え書き」

▼15『水滸後伝』(請求番号九二三・イ五一・一〜一〇)、馬琴朱書校合書入本。一巻末「是書為筆耕〓人謬是故不可得而讀者多有因以殿村安守所藏原本先校讐第一巻纔施雌黄了如餘巻異日得間亦當校訂焉。時文政十三年陽月之吉 著作堂主人燈下識」、二巻末「天保二年春三月二十三日」、三巻末「辛卯春三月念五」、四巻末「辛卯春三月念七」、五巻末「辛卯春三月二十八日」、六巻末「辛卯春三月小尽」、七巻末「辛卯夏肆月初二日」、八巻末「辛卯夏肆月初三日」、九巻末「辛卯夏肆月初夏五日」、十巻末「辛卯夏四月六日卒業」とあり、文政十三年十月に一巻を、残り九巻を天保二年一月から四月六日まで掛かって校合したことが分かる。

▼16『明板水滸後伝序評』(〈早稲田大学蔵〉資料影印叢書『馬琴評答集』(5)、早稲田大学出版部、一九九一年)所収。

▼17 以下( )内の数字は何冊目かを表す。

▼18 拙稿「近世後期小説受容史試論−明治期の序文集妙文集をめぐって−」(国文学研究資料館編『明治の出版文化』、二〇〇二年三月、臨川書店)所収。

▼19 明治期の二書については、既に鳥居氏が前掲「『水滸後伝』覚え書」で詳細に紹介されている。

【付記】
本稿は、深沢秋男氏のお勧めにより執筆の機会が得られたものです。深沢氏は平成四年十月二十九日に昭和女子大学の日本文学研究会にて「昭和女子大(桜山文庫)蔵 新資料『水滸後画傳』について」と題して発表されています。この際に用いられた行き届いた発表資料をはじめ、多くの調査考証メモなどの関係資料を惜しみなく提供してくださいました。それのみならず、資料閲覧に際しても多大な便宜を図っていただきました。本稿は、すべて深沢氏のご調査に先導されたものであり、ここに記して、多大な学恩に心より感謝申し上げます。


#『読本研究新集』第五輯(2004年10月25日、翰林書房)所収。
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