書肆・貸本屋の役割
高 木  元

  はじめに

書物を指示する名称は、典籍・書籍・書物・図書・冊子など少なからず存在する。また、その形態で分ければ、大本・半紙本・中本・小本・横本・巻子本などがあり、その内容で分類すれば、儒書・仏書・神書・史書・医書・歌書・軍書・好色本・草子などと細分化できる。一方同様に書物を扱う店を指示する呼称も多く、書林・書肆・書房・書鋪・物の本屋・書籍所・書物屋・浄瑠璃本屋・謡本屋・草紙屋・絵双紙屋・草紙問屋・地本問屋などという具合に、板元と流通業者とが明確に区別されずに使われてきた。このほか本屋に関連する業種としては、板木屋・表紙屋・糶本屋・古本屋・せどり・行商本屋・貸本屋などもある。これら書物と本屋とをめぐる物の呼称が著しく多いのは、区別して認識する必要があるほど、本を取り巻く文化的環境が多様化し成熟していたことを示すものと思われる。

さて、近世初頭の活字印刷技術の伝来によって古活字本がうまれ、さらに絵入本に適した整版本が主流になり、書物が容易に大量生産できるようになった。近世文学の顕著な特質として挙げなければならないのは、このような出板をめぐる著しい技術革新が起きた環境の中で、書かれ、そして読まれたということである。厳密にいえば、不特定多数に販売するための出板と、限られた範囲に配布するための印刷とを区別して考慮する必要があるかもしれない。技術的には同等であっても複製する目的と数量とが異なるからである。

  板本と写本

印刷術の普及と同時に、写本も必然的に板本ではないという意味を負ってしまったといえる。板本と写本とではテキストに触れた読者の数が大幅に違うと推測できるが、問題を単に流布数や読者数の多寡にのみ還元することはできない。内容の如何にかかわらず板本として刊行されたテキストと写本として書かれたテキストとでは、基本的に異なった性格を備えたものとして見なければならないからである。両者の根本的な差異は、商品価値があると判断されるテキストのみが板本として刊行される機会を得たという点に存する。つまり、不特定多数の読者に向かって開かれた存在である板本と、個人的な手控えか、もしくは特定の狭い対象に向けられた写本とでは、書き手の意識はまったく異なるものであり、同時に読み手の側でも違いは明確に意識されたはずである。ただし、写本は内容的に刊行出来なかったものの場合もあり、少しく位相の異なる問題も介在するが、基本的には誰でもどこでも作成可能であった。なお、近世木活字本などは私的な印刷の範疇で捉えられていたようで写本に準じて位置付られており、板木が残り何時でも増刷が可能な板本のみが出板として別の扱いを受けていた。

近世以降のテキストを研究対象とする時に、これらメディアの相違については、より明確に意識されてしかるべきであろう。テキストとしての書物の本質を一商品として捉え、書物自体のありようをメディアの特性に規定されたものとして把握することが要求されるからである。つまり、書物に商品価値が備わって初めて流通するテキストとしての作品が文学史上に出現したわけであり、同時に、それこそがメディアの本質的機能として近世文学が拠って立つ根本的な基盤だといえる。そして、斯様な認識をすることによって、従来の作者に偏重した議論を相対化し、作者や読者とテキストとの位置を計測し直すことが可能になるはずである。

  書肆と貸本屋

ところで、現在では一般的に出版社・取次業者・小売店という具合に、製造業と流通業と小売業が別の組織に拠って分業的に担われている。そのために、書物自体を制作する書肆と、出来した書物を仕入れて読者へ提供する小売貸本業というように、書肆と貸本屋とは異なった機能を有する組織として理解されるのが普通である。

このことは近世期に於いても同様であったらしく、有名な記述であるが、京伝読本『雙蝶記』(永壽堂板、文化10年)の序文の「板元はんもと親里おやざとなり。よんでくださる御方様おんかたさま壻君むこぎみなり。貸本屋かしほんやさまはお媒人なかうどなり。(中略)貸本屋かしほんや様方さまがたのお媒人口なかうどぐち(中略)ちからとたのみたてまつるお媒人なかうど貸本屋かしほんやさまのいひなしによるところなり。然 則しかるときは 板元はんもと親里おやざとの喜びおほく。」などとあるのを見ても、板元と貸本屋は区別されているかのようである。

ところが、長友千代治『近世貸本屋の研究』(長友千代治『近世貸本屋の研究』東京堂出版、1982年。また、同『近世の読書』青裳堂書店、1987年 や、同『近世上方作家・書肆研究』東京堂出版、1994年 に集約された享受史的な観点からの仕事から得る示唆は甚だ多い)につけば、行商貸本屋の未分化で渾然とした業態が、多くの史料に拠りこと細かに明らかにされている。すなわち、近世期の本屋の多くは、新本の販売や古本や唐本の取次だけでなく、場合によっては貸本や古書の買い入れをも手掛けるのが一般的なのであった。

実際、貸本屋の中にも手広に商いをしている者は江戸読本や中本などの出板を手掛けている拙稿「江戸読本の形成」、『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』ぺりかん社、1995年)。このように、書肆と貸本屋との間で書物の出板と流通に関する機能が未分化である以上は、明確に区別してその役割を論じることができない。つまり、本屋達が扱った書物という商品には、貸本か売本かという確乎とした区別が存したわけではなかったのである。しかし、書肆も貸本屋も書物という商品の制作流通に係った業者であり、書物が読者の手に渡るまでの過程を担ったことは間違いない。個人の家では貸本で読む娯楽のための小説本などと、蔵書にして手許に置いた実用書類との間には明確な区別があったようだ。

  鶴喜と蔦重

江戸の地方版草子すなわち江戸地本の隆盛をその中心となって担ってきた老舗である鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)は、天明期以降急速に活躍の場を広げた新興の蔦屋重三郎(耕書堂)と共に、寛政改革以後、京伝と馬琴の黄表紙刊行を独占していった。ここでは、この鶴喜と蔦重の出板に注目して寛政期から化政期にかけての出板界の様相を見てみたい。

寛政改革の波を潜った寛政3年の春、馬琴は京伝の世話にて蔦重の手代となり、後に京伝名儀の黄表紙の代作をしたりするようになる。翌、寛政4年5月、鶴喜と蔦重の世話にて、京伝の煙草入店開店準備資金調達のための書画会が両国柳橋万八楼で開かれる。筆禍後、戯作の筆を執りたがらない京伝を、両書肆の専属作家として確保するためでもあった。さらに、寛政5年には27歳に成った馬琴が蔦重を辞し、元飯田町中坂の履物商伊勢屋の寡婦会田お百の入婿となり、黄表紙作家として執筆を開始することになる。かくして寛政7年以降は京伝より馬琴の黄表紙が出板数を上回るようになる。さらに、寛政9年夏に、馬琴は鶴喜と共に江ノ島弁天へ参詣している。この間の事情について『伊波伝毛乃記』(文政12年12月成、無名氏(馬琴)稿。『新燕石十種』中央公論社、1981年所収)に次のようにある。

寛政十、京伝・馬琴が両作の草冊子大く行わるるに及びて、書肆耕書堂鶴喜相謀り、初めて両作の潤筆を定め、件の両書肆の外他の板元の為に作することなからしむ。京伝・馬琴これを許すこと六七年、爾後ますます行われて、他の書肆等障りをいうもの多かりしかば、耕書・仙鶴の二書肆もこれを拒むことを得ず。広く著編を与え刻さすることになりたり

寛政の初めより蔦重が京伝に対して潤筆料を支払らっていたことは知られており、やや馬琴本位の書きぶりではあるが、この潤筆料が専属契約としての意味を持つものであったという内容は興味深い。実際に刊行された二人の新板黄表紙について調べてみると次のようになる(諏訪春雄「蔦屋重三郎の季節(中)」「文学」1981年12月 に蔦重に関する同趣旨の言及があるが、新たに黄表紙のみに限定して調査し直した)

  表1 京伝馬琴作黄表紙の板元
京伝馬琴
鶴喜蔦重他板鶴喜蔦重他板
寛政元
寛政二
寛政三
寛政四
寛政五
寛政六
寛政七
寛政八
寛政九
寛政十
寛政十一
寛政十二
享和元
享和二
享和三
文化元
文化二
文化三
文化四
文化五
文化六
文化七
文化八

表1から、二人の黄表紙は、寛政3年から文化3年にかけての15年間にわたって、蔦重と鶴喜とによってほぼ独占的に刊行されていることが裏付けられる。文化3年は寛政10年から数えれば8年間であり、馬琴のいう「六七年」とも符合する。つまり、鶴喜と蔦重は人気作家との専属契約という大衆小説出板の基本的な戦略を用いていたのである。ところが、文化4年以降の合巻時代に入ると途端に他の多くの板元からも出板されるようになり、蔦重と鶴喜は毎年ほぼ1作の刊行となる。黄表紙から合巻へという変遷と同時に起こった変化だとすれば甚だ興味深い現象である。そして、これはまさに馬琴が筆一本で生計を営もうと決意した時期にもあたり、あるいは本格的な職業作家の誕生をこの刹那に求めても良いかもしれない。

  馬琴の黄表紙

寛政8年以降、馬琴の黄表紙は鶴喜と蔦重の両書肆から堰を切ったように大量に上梓されることになる。寛政8年には読本の処女作である中本型読本『高尾舩字文』を蔦重より刊行しており、中国稗史小説『水滸伝』と我が国の演劇『忠臣蔵』の撮合という新奇な方法を読本に持ち込んだ。この寛政八年に馬琴は6作の黄表紙を世に送り出している。初代蔦重が歿した翌寛政9年の鶴喜板について見ると、京伝の黄表紙は『正月故事談』と『三歳図会稚講釈』の2作であるのに対し、馬琴の黄表紙は『加古川本蔵綱目』『押絵鳥癡漢高名』『大黒楹黄金柱礎』『安倍清兵衛一代八卦』『庭荘子珍物茶話』『无筆節用似字尽』の6作にのぼっている。

清田啓子氏は、これら寛政8、9年の馬琴作黄表紙に、顕著な中国小説の利用を跡を見出したのみならず、絵題簽の意匠にそれが反映されていることを指摘している(清田啓子「曲亭馬琴の寛政八九年における中国小説志向」『日中語文交渉史論叢』、桜楓社、1989年)。浜田義一郎編「黄表紙題簽一覧」(日本古典文学全集『黄表紙・洒落本・川柳集』小学館、1971年)に就けば、各板元は年毎にそれぞれ同じ意匠の絵題簽を用いているにもかかわらず、寛政8、9年の両板元は、敢えて二種類の絵題簽が使われていることが分かる。とりわけ、馬琴の嗜好が強く反映した中国小説風の、いわば正統的な黄表紙の作風から外れた作品だけに別意匠の題簽が用いられているというのである。この現象は馬琴以外の作家にも波及して断続的に続いていくことになるが、黄表紙の内容的な変化が体裁に及んだものとして理解できる。その主導権が板元側にあったのか馬琴側にあったのかは詳らかにできないが、いずれにしても合巻の登場する前夜における変化としては見過ごせない現象である。

また、この時期には傀儡子や玉亭主人などという馬琴以外の署名によって、正統的黄表紙からやや外れた演劇色の強い作品が出されている。さらに、鶴喜は寛政末年に噺本『戯聞塩梅余史』や滑稽本『戯子名所図会』を出し、蔦重は浄瑠璃『化競丑満鐘』や絵本『俳優卅二相』を出す。享和に入ると鶴喜は『画本武王軍談』など北尾重政画の一連の絵本物を出している。

このような出板状況からは、黄表紙に限らずに両板元に支えられた馬琴の執筆活動の様相が窺えるが、馬琴の場合は出板点数から見る限り蔦重よりも鶴喜との関係がより強かったものと思われる。寛政9年に歿した初代蔦重が多くの作家を育てたことは知られているが、2代目鶴喜も若い馬琴を見込んで出板の機会を与え続けることに拠って、黄表紙から始めて読本作家として一人前になるまで馬琴を育てたと見做すことも可能だと思われる。文化14年に2代目鶴喜が歿した後(今田洋三「鶴屋喜右衛門」の項『日本古典文学大辞典』岩波書店、1984年)、文政2年には鶴喜主人(3代目)約述『義経千本桜』の代作をしているし、大変に流行した長編合巻『傾城水滸伝』(文政8〜天保7年)も鶴喜から出している。

  江戸読本

享和元年(1801)という年は、江戸読本の濫觴ともいうべき山東京伝の『忠臣水滸伝』の首尾が整い完結した年である。と同時に、19世紀が幕を開けた年でもあった。この『忠臣水滸伝』は中国白話小説『水滸伝』に日本の演劇『忠臣蔵』を撮合して成った新鮮かつ刺激的な新しい小説であった。これに引き続いて多くが出されることになる江戸読本と呼ばれるジャンルは、主として貸本屋が企画出板を担ったもので、出板文化史上見逃すことができない作品群である拙稿「江戸読本の新刊予告と〈作者〉−テキストフォーマット論覚書−、「日本文学」1994年10月)。そこで以下、19世紀における出板システムの成熟について、新たなジャンルとして流行した江戸読本の形成過程に注目して見ていきたい。

鶴喜は、由緒正しい固い本を扱う書物問屋でもあり、地本問屋をも兼ねていたが、蔦重と共にいわば江戸読本流行の火付役とも仕掛人ともいえる書肆である。いま、文化期の江戸読本カタログとでもいうべき一枚摺り『出像稗史外題鑑』(丁子屋平兵衛板、文化10年頃刊)に登載されている作品から、鶴喜の蔵板を抜き出して一覧にしてみる。

書名作者画工刊年相板元
忠臣水滸傳(前編)京伝 重政 寛政11年11月 蔦重
忠臣水滸傳(後編)京伝重政享和元年11月蔦重
復讐安積沼京伝重政享和3年11月
優曇華物語京伝武清文化元年12月
復讐奇談稚枝鳩馬琴豊国文化2年正月
櫻姫全傳曙草紙京伝豊國文化2年12月
源家勲績四天王剿盗異録馬琴豊国文化3年正月
善知安方忠義傳(前編)京伝豊國文化3年12月
墨田川梅柳新書馬琴北齋文化4年正月
梅之與四兵衛物語梅花氷裂 京伝豊國文化4年2月鶴金
松浦佐用媛石魂録馬琴豊廣文化5年正月鶴金
頼豪阿闍梨恠鼠傳馬琴北齋文化5年正月
頼豪阿闍梨怪鼠傳(後編)馬琴北齋文化5年10月

これを見れば、鶴喜の読本出板が文化5年までしか見られないことと、馬琴の初期作を手掛けたのみならず京伝読本の半数以上を出板していることがわかる。相板元があるものだけを下部に注記したが、寛政9年に代替わりした蔦重とは以前からの約束があったのであろうか『忠臣水滸傳』の一作のみ。一方、まだ地本問屋に加わっていない貸本屋であった鶴屋金助との相板が2作あるが、おそらくこれは元番頭の誼みによって書物問屋としての名儀を貸しただけで、実質的には鶴金の蔵板だったのではないかと思われる。この3作以外はいずれも鶴喜が単独で出板しているからである。その中でとくに注意が惹かれるのは、文化元年から4年にかけての刊行された読本の順序である。京伝の『優曇華物語』を文化元年12月に、馬琴の『稚枝鳩』を文化2年正月に出している。この2作は、共に文化2年春の新板という意識で出されたものである。以下同様に、文化3年新板として『曙草紙』と『剿盗異録』を、文化4年新板として『善知安方』と『梅柳新書』を出すのである。京伝の作品を12月に、馬琴の作品を正月にという具合に、両人の新板をぶつけて巧みに競作状況を作り出している様子がよくわかる。そもそも「12月」と云う刊年の記載は余り例を見ないものである上に、実際の売り出し時期と刊記の日付とが一致していた保証は何もないが、にもかかわらず、京伝と馬琴の新板をあえて同年同月刊と記していない点に、板元の作為が込められていたのである。

以上のことから、京伝と馬琴とによる競作状況は、江戸読本を流行させるために板元である鶴喜の意図的な演出によって作り出された営業戦略上のものであるといえよう。したがって、京伝と馬琴の読本の競作状況を二人の対立競争意識の反映としてのみ位置付け、過剰な修辞を施して説明してきた従来の文学史は訂正されるべきである。おそらく、従来の対立抗争説を敷衍した江戸読本の成立を説き続ける限り、京伝馬琴以外の読本作家たちとその作品、および江戸読本の刊行に関与した多くの貸本屋など、大きな枠組みとしての出板界の様子が覆い隠されてしまう危険がある。とくに京伝読本を評価する場合には、この対立抗争説という文学史の呪縛から自由になった勝ち負けとは別の新たな視座が必要になるはずである(大高洋司「読本研究の現況と提言 1様式と分類」(『讀本研究』第9輯、渓水社、1995年)が指摘するところの懸念、すなわち、作者が作品に対して払った努力や工夫という内容的側面が、板元の営業戦略という外側の事情を強調し過ぎることによってないがしろにされてはいけないという指摘については、まったく異存はない。無前提に作者の意図に還元する安易な読みや、過剰な修辞を用いて京伝馬琴のみを論じて事足りるとする江戸読本史を標的としたもの)

  中本型読本

中本型読本とは、読本と草双紙の中間に位置し、草双紙風読本ともいうべきジャンルである。馬琴は『近世物之本江戸作者部類』(木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』八木書店、1988年)という江戸文壇史の中で、「文化年間細本銭なる書賈の作者に乞ふてよみ本を中本にしたるもあれとそは小霎時シハシの程にして皆半紙本になりたる也」と書いている。つまり、中本型読本は出板に際して先行投資が不可避な板元にとって経済的負担が軽い本であり、同時に様々の新しい試みをしてみる場としては最適であった。とくに寛政より文化の初頭にかけての江戸文壇は、新しいジャンルの模索期であり、作者も書肆もより売れるものを編み出す必要に迫られた。このような状況の下、江戸読本の様式をめぐる試行錯誤は、とりわけこの中本型読本というジャンルを通じて試みられたのである。

ところで、『画入読本外題作者画工書肆名目集』(松本隆信「画入読本外題作者画工書肆名目集」慶応義塾大学国文学研究会編「国文学論叢一輯西鶴---研究と資料---」至文堂、1957年)に付載されている「貸本屋世利本渡世の者ニ而手広にいたし候者名前」の中で、とくに「書物屋外ニ而上方直荷物引請候者」(『類集撰要』文化五年辰二月の条に「御當地仲ヶ間外之者より、上方下リ荷物引受申間敷一札取置候然處、此度、いつまて草四冊、七福七難圖會五冊、浦青梅二冊、同後編二冊、仲間外新右衛門町上総屋忠助方へ上方より荷物積送、不沙汰ニ致商賣候。去冬、一札まて差出置、右躰之儀有之候而は、自然禁忌之品も賣捌候様相成、取締不宜奉存候」と見える)として名が挙げられている上総屋忠助(慶賀堂)は、次にあげる江戸読本の板元となっている。

〈復讐|玄話〉浪花烏梅中本一九作文化2年
〈富士|淺間〉三國一夜物語半紙本 馬琴作文化3年
坂東竒聞濡衣雙紙半紙本芍藥亭長根作 文化3年
小説東都紫半紙本中川昌房作文化4年
〈風声|夜話〉翁丸物語中本一九作文化4年
敵討猫魔屋敷中本振鷺亭作文化5年
〈孝子|美談〉白鷺塚中本一九作文化5年
函嶺復讐談中本感和亭鬼武作文化5年
巷談坡〓庵中本馬琴作文化5年
〈觀音利生|孤舘記傳〉敵討枕石夜話中本馬琴作文化5年
〈復讐|奇談〉尼城錦半紙本吉満作文化5年

文化3年3月の大火で蔵板していた板木を一旦は焼失してしまったのであるが、書物問屋に対抗つつ新興零細板元ともいうべき貸本屋の雄として、二流作者や上方作者と提携して果敢に読本を出した様子が窺える。その際、中本型読本を核にしつつ、古板の求板や滑稽本などがその出板の中心であったことは、文化5年刊の読本巻末に付された「戊辰藏板目録」を見れば一目瞭然である。

一方、文化5年6月に地本問屋に加入した鶴屋金助は、文化6年頃にまとめて数点の中本型読本を求板し、序跋類や挿絵の薄墨板を省いて合巻風に仕立て直して改題改修本を出板している。このような改変は、制度上は書物問屋しか出板することができない読本(中本型読本)を、地本問屋が出すために行なった偽装工作ではないかと考えられる。この種の改題改修本は、馬琴の『苅萱後傳玉櫛笥』をはじめとして鬼武の中本型読本3作など全部で6種類ほど確認できる。おそらく中本型読本の読者層が次第に拡大し、合巻の読者にまで及んだということであろう。同時に女性読者の獲得を意図した板元の販売戦略だともいい得るのである。

  読者層

従来説かれてきた程には読本と草双紙の読者層は異なっていなかったものと思われる。例えば、次に挙げるような読本の広告が草双紙に見られるのである。

○曲亭新作しんさくよみ本外題げだいうた
 「為朝とも頼豪らいごう わんなる神に三かつ 小夜姫さよひめ 於染おそめ 薄雪うすゆき
 「敵討かたきうち坡堤庵つゝみのいほ石枕まくらさつさつこれは中ぼん
 「児手柏このてがしは 身代名号みがはりみやうごう 小鍋なべ歌舞伎かぶき伝介 おつま八郎兵衛
 「敵討かたきうちしら鳥のせきも自作なり 鈴菜すゞなに 甚三は門人の作

これは、文化5年刊の馬琴合巻『敵討身代利名号』の挿絵余白に記されているものである。出てきた順に作品名を復元すると『椿説弓張月』『頼豪阿闍梨恠鼠傳』『椀久松山柳巷話説』『雲妙間雨夜月』『三七全伝南柯夢』『松浦佐用媛石魂録』『秋の七草』『園の雪』で、これらは半紙本の江戸読本。次の『巷談坡堤庵』『敵討枕石夜話』は中本型読本。三番目の『敵討児手柏』『敵討身代利名号』『小鍋丸手石入舩』『歌舞伎伝介忠義説話』『敵討賽八丈』『敵討白鳥関』は合巻。最後の『駅路春鈴菜物語』(節亭琴驢)は中本型読本で『善悪邪正甚三之紅絹』(川関亭琴川)は合巻である。

本作『敵討身代利名号』には自筆稿本が残存しており、この歌自体は該当箇所に見当たらない。が、前編の挿絵余白にある「馬きんさくのよみ本ゆみはり月(以下略、7作品を列挙)御ひやうばん/\」は稿本の通り彫られている。刊本には見られないが、稿本末丁には「ことしも馬きんがさくのよみ本がいろ/\でましたとさ。ちとおなぐさみに御らうじませ」とも見える。これらは、馬琴自身が草双紙読者に対して読本の宣伝をすべく稿本に書き込んでいるわけであるから、当然読者層が重なっていることが前提になっていたものと思われる。

  実用書

ここまでは所謂文学書の出板に関して見てきたが、鶴屋喜右衛門の手掛けた出板物全体から見れば、文学書は一部分に過ぎなかったという点も見過ごすべきではないだろう。ここに鶴喜の出板物一覧を提示するだけの用意はないが、たとえば『國盡女文章』(寛政12年)という往来物は馬琴の手によるものである。これは、馬琴自身が「寛政十一年己未書賈鶴屋喜右衛門の需に應じて國盡女文章一巻 〈中間形本也本文は作者の自筆を刻す頭書并に鼇頭の画は北尾重政の筆なり〉を綴る童蒙の讀誦に便りすべき俗書なり作者の本意にあらずといへとも巳ことを得すこの撰あり 〈下に録する花鳥文素もこのたくひ也〉(『近世物之本江戸作者部類』)と述べているものである。『國盡女文章』の自序で、

民間みんかん街頭がいとう児女子じじょしはいたづらに 大御國おほみくによねをくらひて。其國の名をだにしらですぐさんこと口をしきことならすや。よて此ころいほりに来りてものなら児女じぢよの為に。俗文ぞくぶん一篇いつへんをつゝりて。もて國々の名をおぼへ安からしむ。文意雅ならず。しかもつたなしといへどもとつ熟視じゆくしせば。いさゝか蒙学もうがく便たよりあらんか。(後略) 古人こじんあり。すなはちしようとすべし。

人 生 宇 宙 間じんせいうちうのあいた   志 願 當 何 如しぐわんまさにいかん
不 行 萬 里 路ばんりのみちをゆかずんば  即 讀 萬 巻 書すなはちまんぐわんのしよをよめ
隱士 瀧澤氏撰

と往来物の序文にしては不相応に堅苦しく気取っているが、文中にあるように手習いの師匠をしていた時に執筆したものである。
 また、おそらく馬琴が書いたものであると思われるが、巻末に次のような板元の口上が見えている。

此書は飯臺はんだいたき澤先生童もう女子しよしにはやく國の名をしらしめんが為に\本てう六拾六こくの名をあつめて一篇の文章としその社童に授て讀しめつるを此度請得て刊本として普く世に行ひ畢ぬ
書肆 僊鶴堂主人謹誌[印]

この口上の脇には瀧澤氏撰の近刊予告として『四季女用文』『江戸名物往来』『風流消息帖』の3作が掲出されているが、恐らく未刊に終ったものと思われる。しかし、馬琴は往来物や用文章として『國盡女文章』以外にも『雅俗要文』や『実語教絵抄』『女筆花鳥文章』などを書いている。
 また、振鷺亭貞居『證註實語教童子教』(文化3年序)や高井蘭山『兒讀源平古状揃講釋』(文政5年序)などをはじめとして、往来物というジャンルの本は再三にわたって摺りを重ねていたベストセラーであった。このほかにも十返舎一九や式亭三馬、山東京山の関わった本もある。つまり、当時の戯作者たちは往来物に序文を寄せたり、実用書の編撰を手掛けたりしていたのであった。これらは板元からの要請に応じたものであったかもしれないが、草双紙や読本のみならず、実用書類も残された仕事として無視するわけにはいかないであろう。なぜなら、彼等が書いた作品を板元が出板するためには、これらの手堅く長期間にわたって売れ続ける定番商品としての実用書の出板が不可欠だったからである(蔦重が如何に堅実な商売人であったかということについては、鈴木俊幸「江戸の版元・蔦重の出版細見」「蔦屋重三郎の仕事」「別冊太陽」平凡社、1995年 が詳しい)

  おわりに

本屋が商品としての書物を広く売るためには、その本を欲するであろう読者に存在を告知し、必要とあればその手に渡るような販路を確保しなければならなかった。したがって、出板業とは古今東西を問わずに、書物の企画制作のみならず流通販売に対する充分な配慮を抜きにしては考えられない業種なのである。たとえば、天保期以降に出された長編続き物の読本や人情本は、定期的に得意先を巡回していた貸本屋が順次続編と取り替えていく継本というシステムに支えられて出されたものである(前田愛「出版社と読者」『前田愛著作集 第二巻 近代読者の成立』筑摩書房、1989年)。明治期に見られる予約会員制出板なども同様な営業上の安定を考慮した工夫であった。近世期における出板研究にも、このような販売流通という側面を押さえる必要があり、近年、上方と江戸の書肆間における物々交換である本替ほんがえという決済法の実態の解明などが進められつつある(佐藤悟「本替あるいは交易と相板元」『讀本研究』第九輯 渓水社、1995年)

十九世紀における重要な問題としては、天保の改革時に行われた株仲間解散がある(前田愛「天保改革における作者と書肆」『前田愛著作集 第二巻 近代読者の成立』筑摩書房、1989年)。解体された書物問屋や地本問屋は嘉永に至って再興されるものの、この時期に発生した新旧問屋の交代の要因を、単に政治的な圧力のみに帰することはできないはずである。化政期に比べて停滞しつつあった天保期以降の出板界にも、巧くいかなかった作者の世代交代や、社会不安と不況などに対応しきれなかった出板機構など、再編を促さざるを得なかった必然的な要因があったものと考えても良いと思われる。

さらに、明治維新を経た近代初期の状況については、いまだ充分な調査研究が備わっているとはいえない。とりわけ、全国に展開した売捌き書店網の様相や、地方出版の実態などを明らかにしていく必要があろう。また、明治15年頃を境界に木版から活版へというメディアの転換が進行するが、そこで一体何が起こったのかという問題についても、前田愛が提示した(前田愛「明治初期戯作出版の動向 近世出版機構の解体」『前田愛著作集 第二巻 近代読者の成立』筑摩書房、1989年)以上の見取り図を我々は持っていない。活字メディアの勃興と新聞の続き物の流行の中で、得意先を巡回する貸本屋は廃れ、店を構えて保証金を取って貸し出す居付きの貸本屋がはやったのである。

以上概観してきた書物をめぐる制作と流通の変化は、わが文学史に一体何をもたらしたのであろうか。19世紀出板史研究の課題としては、作家の個性にのみ焦点を定めた文学研究や、一板元にのみ注目した出板研究など、書物を提供する側に偏った従来の見方のみならず、このメディア転換期に生じた享受相の変化を調査分析することにある。換言すれば、出板の孕む基本的な原理は須らく営利事業である点に求められ、その意味では現代の状況に限りなく近いともいえる。そして、具体的な出板研究には、あらゆる問題が広告流通の局面に凝縮してあらわれる点を押さえ、文化史的な視座と方法とが要求されるのだと思われる。


# 岩波講座「日本文学史」第十巻 一九世紀の文学 (岩波書店、1996)所収
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