魯文の滑稽本

高 木   元 

 はじめに

二十一世紀に入った現時点において、近世/近代という時代区分の不合理性は、もはや自明のことであると断言して差し支えないだろう。日本文学史は初等中等教育において、すべからく明治維新に拠って劃期すべきであるとされ、国語教育に於ける古文/現代文の区分も明治維新を指標とされ続けて来た。

慶応三一八六七年以前の文章は歴史的仮名遣いに、明治元年以後の文章は現代仮名遣いに統一しなければ、教科書にも載せられず大学入試にも出せないのである。教育的配慮と称して、歴史的には決して存在したことのない国語表記を仮構し、官製規範として現場で教え続けられて来た。中学高校で国語を教えた後に、長年に亙って大学で日本文学を教え、さらに職務として国語の入試問題作成を担当してきた者としては、甚しい違和感を禁じ得ないのである。

そこで〈日本十九世紀文学〉という概念的括りを仮設し、明治維新という政治権力機構の変化に拠って近世と近代とを劃期する日本文学史を相対化せんと考えて来た。その標的の一つは、皇国史観に基づき、尊皇思想に拠って擬制された神国たる大日本帝国を、近代的国民国家として形成するために策定された明治以来の国語政策にあった。

取り敢えず「日本人は近代になって初めて自我を発見した」等と言う発展史観的戯言たわごとは放擲して措くとして、いささか大時代な物言いだが「下部構造が上部構造を規定する」という命題に対して、反定立を措定する必要がある。すなわち文明開化に拠ってもたらされた経済諸関係の反映としてのみ近代文学を規定するのではなく、近代として一段低く位置付けられた近世文学の様式や文化が、如何に継承され享受されて来たのかを、具に検証しておく必要があるものと思われる。何故なら、現代日本を目を覆わんばかりに蝕んでいる社会の劣化=反動化の起点と成ったのが、他でもない明治期に形成された〈近代〉であったと思惟するからである。

十九世紀末以降、印刷メディアが製版から活版へと変化して行き、二十世紀に入ると次第に活字本の出版流通量が板本を凌駕し、やがて自然主義文学が登場する。この明治三十年頃が文学史的にもメディア史的にも合理的な区切りに成ると考える蓋然性は高い。しかし、当然のことではあるが、近世と近代とを劃期すべき年次を明治三十三一九〇〇年へと移動すれば済むという問題ではない。

斯様な問題を検証するに際して、十九世紀末を代表する戯作者である仮名垣魯文の遺した足跡は注目するに値する▼1。そこで、魯文の言説を可能な限り蒐集すべく、散佚した資料の発掘を続けて来た。具体的には、抄録に才能を発揮した売文業者としての魯文が、実録体小説や読本等の抄出を特徴とする切附本というジャンルの創成を担ったこと、習作期に慕々山人等の戯名で書いた艶本が多数存すること、他作者の著作に寄稿した序跋類が少なくないこと、浮世絵とりわけ揃物の填詞てんしが無視できない資料であること、遺された貼込帖に見出せる引札や報条が数多くあり、さらに端唄本等の音曲本をも遺していることを明らかにして来た▼2。他にも安政大地震等の取材記事ルポルタージユや新聞雑報ゴシツプ記事等が知られている。一方、戯作としては合巻や明治期草双紙等も多数書いているが、本稿では滑稽本というジャンルに主軸に据えて、ジャンルとしての様式性の継承と創造という観点から見ていきたい。

 近世の滑稽本

近世の出板物に共通する現象であるが、十九世紀に入って商業出板が隆盛を迎える中で出された大衆小説としての後期滑稽本は、十八世紀の前期滑稽本等に見られた高踏的戯作性を失うことになる。少し具体的に見ておこう。

『浮世道中膝栗毛』▼3(初編、享和二一八〇二年序)は大衆小説の標準的大きさである中本▼4で、文字題簽を備えた比較的質素な表紙であったが、綺麗な色摺りの袋に入れられていた。本文は一丁あたり八行で、弥次郎兵衛と北八の会話体に拠る掛け合いを基本として記述され、部分的に割書にしたト書きが挿入されている。板下は一九の自筆であったが、挿絵も一九に拠る自画が多く、巻を追う毎に画賛が増えている。

その内容は「五十三次の記行みちゆきに、無洒落ぶしやれ方言むだの二割増、重荷に僻言こぢつけ夷曲歌たはれうた(初編序)とある如く、「紀行文に下手な駄洒落と意味不明な言葉を牽強付会して狂歌を添えたもの」ということになろうか。同書「凡例」に「いさゝかその滑稽詞しやれことばを加え記す」「その可笑おかしみをもつぱらにす」「巻中に著す夷曲たはれうたは、排設こぢつけ地口ぢぐちもつぱららにす」等と記されているように、本文中に狂歌や狂詩が頻繁に出てくる。二人の失策や愚かな振る舞いを描き、時に尾籠な話柄に及ぶ滑稽おかしみを指向した戯作であるが、再刻され摺りを重ねるほど大流行し、一九自身が長編シリーズ化したのみならず多くの追随作を生み、遂には膝栗毛物という滑稽本の一定型と成った。

一方、文化期に入ると式亭三馬『諢話浮世風呂おどけはなしうきよふろ』全四編文化六一八〇九〜十年)が出た。これも中本であるが、大変に凝った色摺りの摺付表紙で、銭湯の板張外壁を摸した意匠に下げ札や貼紙が散りばめられ、外題は出入口の障子を描いた中に「浮世風呂初編\男湯」とある。見返には「往古風呂屋之圖」を描き、序として「浮世風呂大意」と題する戯文を弄し、口絵には男湯の脱衣場から洗場と柘榴口とを見渡す構図で二階への階段も描かれ、次の口絵には番台が描かれている。

本文は一丁あたり八行で、風呂屋に集う人々の会話を主体にして記述されるが、「白圏しろきにごり」を打って田舎訛りを示す等、振仮名つけがなや表記に工夫が見られる。部分的に割書にしたト書きが挿入されているが、さらに▲や●で区切った割書に拠り場面の状況説明が施されている。

各編に北川美丸と歌川国直とが描く口絵を備えるが、挿絵自体は多くない。また挿絵中の文字は、描かれた人物の台詞や三馬の製する「江戸の水」の広告等であるが、狂歌が画賛として添えらたものもある。

特徴的なのは本文中に絵文字風に画が入れられている点である。また、風呂屋という固定した舞台設定の故に各場面を季節や時間帯で区切っており、時計の意匠の画像を見出として用いている。しかし、三編の自跋では長唄「五大力」の詞章を織り込んだ戯文を載せる等、基本的には臨場感を伴った音声を表記に拠って再現して読ませる点に、滑稽味を尽くしたものと言えよう。

『柳髪新話浮世床』全二編文化十一八一三〜十一年)も、店舗を舞台として固定する点に於いて基本的には同様の構想を持つが、店の主人として「鬢五郎」と言う人物を設定した。また、歌川国直画の口絵を備えるものの、挿絵が無い点に独自性が見られる。口絵末に「式亭正舗」の広告を載せる等、自家製品の広告も忘れていない。後に、瀧亭鯉丈編で溪齋英泉画の三編が出ている。

斯くして後期滑稽本の様式は、一九の『膝栗毛』と三馬の『浮世風呂』と『浮世床』とに代表されることと成る。

ちなみに、「滑稽本」というジャンルの呼称は当時は用いらず、単に「中本」と称されていた。ただし〈滑稽〉は近世戯作の本質的な性質を言い得た一つの用語である。

野崎左文の記した魯文の評伝『仮名反古』(明治廿七年十二月脱稿\明治廿八年二月刊)には

魯文ハ心ひそかに京傳、三馬のふであとを慕ひ我も亦社會しやくわいの有樣を其裏面りめんより寫して人情のすゐを穿ち滑稽こつけいの中に自から諷諫ふうかんの意を寓せしものを作らんと心掛こゝろがけしが[…]

と記されているが、魯文自身が鈍亭時代から「談笑諷諫滑稽道場」(切附本『平井権八一代記』序、嘉永七一八五四年)等と滑稽を標榜していたことが知られている。特に一九の膝栗毛を耽読していたという。

ところで魯文については「時代や社会と対決し、人間像をえがくということもなく、したがって諷刺や寓意までつきぬけた新文学とはなりえなかった」▼5と評価され、「創作の才にめぐまれず、他からえた材料をアレンジするという、末期戯作の典型作家」▼6である等とされて来た。出世作と成った『滑稽冨士詣』に就いても「低俗醜悪なくすぐりによつて末期滑稽本の頽廃ぶりを如実にしめしており、そのかぎりにおいては文学的価値のひくいことはいうまでもない」▼7等と酷評されてきた。

幕末開化期戯作を研究対象とし、多くの業績を遺された先駆的な研究者が、敢えて斯様な評価を書き記さなければ成らなかった半世紀以前の近代文学至上主義的な研究状況は理解できる。だがしかし、今や文学研究の目的は、文学的価値の発見や一作家個人の顕彰等では断じてない。出版文化史的な視座からの、文学享受の社会史的な現象の記録とその位置付けとを目指し、再現可能で普遍的な学問を志向しているのである。たとえ深い思考に基づく独創的な読みであったとしても、それには客観的に追認可能な手続きが要求されているのである。

 滑稽冨士詣

魯文が安政期まで使用してきた「鈍亭」を改め、「假名垣」という戯号を使い始めるのは、万延元一八六〇年に刊行された著作からである▼8。実質的な戯作者・假名垣魯文としての本格的名披露目は、この年に出された滑稽本『滑稽冨士詣』(全十編各上下二巻、万延元一八六〇文久元一八六一年序、一猛齋芳虎画、芙蓉堂板▼9であるとされている。

長編の滑稽本としては異例なことに、全十編が二年の間に矢継ぎ早に出板された。第十編冒頭「作者日本坊還俗げんぞくのお目見得かた%\へん満尾まんび告條こうでう」に

東西とうざい/\お邪广じやまさまながら。この半丁へ一寸ちよつと御披露ごひろう奉申上升。したがひましてたう冨士詣ふじまうで作者さくしや滑稽物こつけいものはつたびに御ざりますれバ。見物けんぶつさまがたの御きげんいかゞと心配しんぱいつかまつり升たるところ。初編しよへんよりうちつゞき。ことのほか御意ぎよいにかなひ。大うれ大はんじやう仕升たるだん板元はんもとハ申におよばず。諸工しよこういち どう大慶たいけい仕極しごくにぞんじ奉ります[…]

と見えるように、人気を得て売れたようである。

この『滑稽冨士詣』は、「……詣」と言う題名からも知れるように、膝栗毛物の流れを継承した道行小説ロードノベルである。序文「冨士山開闢起原概畧」に書かれている通り、一種の際物でもあった。

万延元年は庚申の「御縁年」に当り、一回の登頂で三十三回分の御利益があるとされた。特に女人の富士八合目迄の登山が許され、特にこの年は登山者が多かった。それ故、通過し滞在する土地の名物や店舗が点描されるのみならず、富士講に於ける御師の活動の様子や、九編には当年七月中旬の英国イギリスのミンストル(大臣)主従の冨士登山の様子が描かれている。その上、箱根七湯や大山を経た帰路に多くの丁数が費やされており、中でも新港横浜に関する風俗描写が新奇であった▼10

時事報道という要素を備えていたことが売れ行きの良かった一因かも知れない。六編の序文に拠れば、万延元年五月二十五日から実際に箱根路に赴き、権現の霊山に詣で箱根七湯、道了宮を経て大山に詣で横浜新港等を巡ったという。六編以下は、一九に倣って実地踏査を踏まえて執筆したわけである。この、『滑稽冨士詣』の成功は魯文の職業作家としての位置を慥なものにしたと思われる。

実際に出板された当初の早印『滑稽冨士詣』▼11は、実に手間暇を費やして美麗に仕立てられている▼12。色摺りが施された美麗な袋に入れられた中本で、短冊型文字題簽を持ち、やはり色摺りの見返を備え、序文から始まり、薄墨の重摺りを施した口絵を備え、本文は平仮名の多い仮名漢字交じりに拠る会話体が多く用いられている。%その挿絵中には草双紙風の平仮名を主体とした書込が見られる。ただし、本文は一丁十五行と平仮名の多い細字が用いられており、細字二行の割書は見られない。この板面は、合巻に時折見受ける文字だけの丁を彷彿とさせ▼13、文化期の滑稽本に見られる半丁八行ほどで、仮名漢字混りの板面から受ける印象とは大きく異なる。

挿絵は二丁毎に一図ほどの割合で、嘗ての滑稽本に比べて甚だしく多数の挿絵が入れられている。その挿絵中には草双紙風の平仮名のみに拠る本文や書き込みが多く▼14、『道中膝栗毛』等で場面を切分け転換する機能を果たしていた狂歌は、特に前半部では本文中には見られず挿絵の余白に入れられている。つまり、滑稽本の様式を保持した板式を備えてはいるが、挿絵と挿絵中の文字が多く、造本全体からは草双紙に近い印象を受けるのである。

この文化期の滑稽本とは微妙に異なった造本様式は、道中物の草双紙である『日光道中膝栗毛』安政四一八五七、『〈身延|参詣〉甲州道中膝栗毛』(安政四)、『〈両國|八景〉荏土久里戯』(芳盛画、糸庄板)▼15等を出してきた延長上に位置する魯文の工夫であろうとも考えられる▼16

ただし、滑稽本様式の方が本としての格は上であり、出板には高額の先行投資が必要であった。

前述した道中物を含めて魯文の草双紙や切附本を数多く出してきた糸庄(新庄堂)は、安政三年に地本草紙問屋に加入したばかりでもあり、少々荷が重かったはずである。つまり、資金の手当てについて実質的な板元▼17との合意がなければ、短期間に斯様なまでに美麗な滑稽本十編を出板することは不可能だったものと推測できる。

一方、本書には特定の主人公が設定されていないが、これも特徴の一つとして挙げられる。興津要氏は「こまかいコントの集積という形式を工夫したのは魯文の才智のゆえであり稱讃に價する〈趣向立〉であったけれども、そのコントの一つ一つをしさいに檢討する時、これもまた初期の魯文の作品に多くみられていたような、他から材料を仰いでのつぎはぎ細工であったことは否定できない」と具体例を列挙され、最終的には「文學的低級さを痛感せずにはいられない」と結論づけられた▼18。これに対して、佐々木亨氏は前掲論文にて、詳細な分析を通じて楽屋落ち的要素を抽出し「初編から仲間内の様々な実体験を暴露し続けた」点を明らかにした上で、「悪摺の流行を誘引した一作という位置付けも可能であろう。たとえ先行作の流用であっても、趣向の点で普遍的な笑いや穿ちを確保していたので、悪摺の要素と相俟って広範な支持を得て魯文の名前を高めた」とされている。首肯できる見解である。

なお、本書には求板改題改刻後印本『滑稽道中膝車こつけいだうちうひざぐるま明治十六一八八三年、萬笈閣 椀屋喜兵衛板)が存する。序文「滑稽道中膝車初編自叙」の末尾に

于時ときに明治めいぢ十五年十月初旬東京とうけい京橋区きやうばしく本材木ほんざいもくちやうだいばう佛骨庵ぶつこつあんちう南窓なんそうつくへ塵埃ちんあいふかところじよれい猫々めう/\道人どうじん
假名垣魯文痴叟[印] 

とあるように、魯文自身が書き直して再刻し、また、見返や口絵に描かれた人物の髪型も散切頭に描き直されている。

 〈牛屋|雑談〉安愚樂鍋あぐらなべ

明治に入り、近代文学史の最初に記述される魯文の滑稽本は、一九の膝栗毛物の流れを正統的に汲んだ『〈萬國|航海〉西せいよう道中だうちう膝栗毛ひざくりげ』全十五編(明治三〜六)▼19と、三馬の『浮世風呂』等の方法を継承した『〈牛屋|雑談〉安愚樂鍋あぐらなべ』全三編(明治三〜五)とである。この他にも『〈河童|相傳〉胡瓜遣きうりづかひ(明治五、萬笈閣)等が存するが、此処では、魯文の作品としては最も人口に膾炙していると思われる『安愚楽鍋』について見ていきたい。

一般に『安愚楽鍋』は、文明開化の新しい風俗としての牛鍋屋を舞台として集う人々を写実的に描いた滑稽本として理解されており、幾度か翻刻や注釈が出されて来たが、表紙から見返、序、口絵、挿絵、奥付まで総ての図版を掲載しているものはない▼20。つまり、本文の文字列以外に対する注意が払われて来なかったことを意味する。結果的に造本について言及されることも滅多に無かった▼21

『安愚楽鍋』は中本の絵入板本であり、近世の滑稽本を様式的に継承した版式で造本された書物である。ならば、近世板本を読むのと同様に、見返、口絵、挿絵等の画や其処に書き込まれている文字、序題下の印記「大吉利市」や、序跋の署名の下に捺されている印記「〈善|悪〉」等も重要な本文の一部として読むべき対象にすべきである▼22

今、注目すべきは初編の口絵第二図である。此処は見開きに牛店「日の出」の入口と道路に面している調理場と思しき店内の様子が描かれ、恰も香ばしい焼肉の香りが漂って来そうである。また、店先を大きな馬車(幌に「IOVIEVV」?)と、散切頭で洋傘を差した下駄履きの二本差や、マントを羽織った髷を結った男等の通行人が行き交う様や、店の軒下に下げられた「牛乳 ミルク\乾酪 チース\乳油 バタ\乳の粉 パヲタル\御蔵前元祖\日の出」と書かれた暖簾、道路に突き出す様に付けられた「牛の煉藥 氷湖道人[…]\黒牡[…]\賣弘[…]」という看板等が描かれている。また、入れられた画賛は「世をうしと たれかいふへき これやこの いい薬ある 時にあひつゝ\有竹諾」と読める。

『浮世風呂』や『浮世床』でも、口絵に舞台と成る店先の様子が描かれていたが、これも継承された様式の一つと考えることも出来よう。いずれにしても単なる町の風景としてではなく、其処に書き込まれている固有名詞に注目する必要がある。

まず看板の文字は一部隠れているが「牛の煉藥 黒牡丹」と推読できるように書かれており、この薬は魯文が売っていたことで有名な滋養強壮剤の名前である。そして、この看板はこの店がその薬の「賣弘所」であることを示している。

戯作者達が生活のために売薬をして来た伝統は、京伝の「読書丸」や馬琴の「神女湯」等が有名であるが、三馬の「江戸の水」という化粧水等も含めて、それぞれ盛んに自作中に自らが扱う商品の宣伝を取り込んでいた。それも単に余白に広告を入れるのみならず、登場人物に薬の効能を喋らせたり、時には役者似顔で描かれた人物に宣伝文句を喋らせたりもする。魯文の「黒牡丹」も自作中で良く宣伝しているが、此処では「賣弘所」という看板を描くことにより、描かれた特定の牛店「御蔵前元祖\日の出」の宣伝にも成っていることに注意したい▼23

この点に留意して見ていくと、弐編の口絵第一図はランプの下がった店内を一惠齋芳幾が描いたものであるが、鍋の下の焜炉に「日の出」と書かれている▼24。また、「故\香以山人 生葱や たれをきかせる あぐら鍋」とある挿絵(弐編十五丁裏)に描かれた焜炉にも二面に「日の出」と書かれている。要するに、舞台になっている牛店は「御蔵前」にあった「元祖\日の出」なのであった。

何故、特定の牛店が舞台に成っているのか。前掲の『仮名反古』には

又翁ハ引札ちらしの文を草するに巧みにして料理屋れうりやの開業、商家の賣出うりだし等多く翁の筆をわづらはし一時ハ魯文の名にあらざれバ引札の價値かちなきが如き有樣なりき、編者好んで翁の引札文を集め今家に藏するもの既に一千餘枚の多きに及べり去れバ翁が戯作者けさくしやとなりしより以来本年まで草せし所の引札ハ殆ど一萬に達せしならん亦盛んなりと謂ふべし

とある。そこで彼方此方の「引札報条貼込帖」を調べた結果、次の三点を見出し得た。

其一

牡丹ぼたん紅葉もみぢちらしにゑがきし、柴刈しはかりぢい山鯨やまくじらハ、むかしばなし古臭ふるくさしとしよくあたらしき西洋せいやう風味ふうみかの洗沢せんたくかはり、調理ちうりひらけし牛肉きうにく功能こうのうおほきハ汗棟充かんとうじう、うしと今更いまさらこひしく、貴賤きせんこぞつて賞味しようみ別品べつぴん四季しきをきらはぬ養生やうじやうぐひも、取分とりわけふゆにくとんじんおぎな気力きりよくす、しるし見世みせおん目印めじるしふとしくたて高旗たかはたを、目的めあて賣出うりだ當日たうじつより、あひかはらすの來駕らいが主人あるじかはりてねがものハ。

うし練藥ねりやく黒牡丹こくぼたん製主せいしゆ  假名垣魯文述  

  ○牛 肉 鍋 〈御壱人前|三百七十弐銅〉 ○同玉子やき 銀五匁
  ○同すき焼 〈同|七百文〉 ○同茶碗蒸  同五匁
   赤牛味噌漬   同甘露煮  〈御好|次第〉
   藥品 〈○白牛らく○白牛乳|○粉名メリキ○きうたん〉○たけり

來ル九月五日より三日の間賣出シ麁景呈上

浅草御藏前片町  牛肉賣捌所   日の出惣吉 

其二

〈淺草|元祖〉牛肉賣捌所ぎうにくうりさばきどころ   壹斤 價金二朱ヨリ

   賣出うりだし御披露ごひろう

およそ牛肉ぎうにく功能こうのうあるや。近来きんらい西洋せいよう窮理家きうりかの。食料しよくれう經驗けいけんのみならず。すで張華ちやうくわ博物誌はくぶつしにも。歴然れきぜんとしてそのことあり。かの紀元きげん千七百九十六年。英國えいこくヘルケレイのに。おほ野飼のがいして。もつぱ人身じんしん補藥ほやくとせしより。各国かくこく蒼生たみこれもちひて。壮健さうけんなることするに物なし。目今もくこん文明ぶんめい開化かいくわすゝみ。われひとともこのにくを。たしむ御代みよ徳澤とくたくに。うるほみせ繁昌はんじやうから。御れいがてら一斤いつきんより。小賣こうりいた精肉せいにくの。あたへれん元直もとねかぎり。四辺あたり故障さはりにかけかまはす。お口にあま安賣やすうりハ。あきなひめうり意地いぢはりまづ外々ほか/\めしあがり。くらべておためしあれかしと。両肌りやうはだ主人あるじかは

れい牛食うしくひ 假名垣魯文述[印] 

 牛肉鍋〈御壱人前|三百五十銅〉  同すきなべ〈同|六百銅〉
 肉入玉子焼茶わんむし〈是迄より一倍|下直奉差上候〉
 牛肉岩石團子〈風味至てやはらかにて御老人|子供衆にも御口に叶てよろし〉
 うしのねりやく 黒牡丹  脾胃ひゐをおぎなひ氣力きりよくをまし 〈たんせきの根をきる事妙なり|曲もの入 價金一朱より〉

閏十月\十八日より\五日の間賣出し\麁景差上仕候

淺草御蔵前片町 日の出惣吉[精調|無類] 

其三

  流行りうかう牛肉きうにく 吉例きちれいの賣出うりだ 十月〈九日|十日〉より

傳染病でんせんびやうのリンテルホストに、かくまでひらけし牛肉きうにく景氣けいきおとせし、まがつみたゞ新聞しんぶん風説ふうせつのみにて、家畜かちくやみうはさかず。いさゝかさはれることなきハ、開化かいくわます/\すゝむの祥瑞しやうずい肉食にくしよくばやりハ國益こくえきの、ひとなべにも十人十種といろ、タレむすもすきやきまで、あぶらのり活計なりはひめうり。煮出にだすすソツフの骨折ほねをりを見せの看板かんばん黒牡丹こくぼたん正味しやうみ調進てうしんさしあげ申せバ、相變あひかはらずのにうしやを、みせ一杯いつばいきげん。こゝろよきまゝしてモーウス

牛屋うしや雜談さうたん安愚樂鍋あくらなべ著述ちよじゆつのいとま〉 假名垣魯文記[印] 

牛肉 なまうり|壱斤ニ付〉 〈銀五匁五分より|金弐朱|金三朱〉 牛肉鍋 〈御壱人前|三百銅〉
同すきなべ 〈同|六百文〉
同甘露煮 〈同|金一朱より〉
しやも鍋 〈同|四百銅〉

御蔵前\片町東例\御ぞんじ  日の出 

〈両日|麁景呈上仕候〉

其二は「閏十月」と見えるので明治三一八七〇年に出されたものと思われる。其三の署名の上には、わざわざ「牛屋雜談安愚樂鍋\著述のいとま」と記されている。この時期、魯文は料理屋など夥しい引札を書いているが、「黒牡丹」の賣弘所であった牛店「日の出」との関係が、報条の発注者中の一軒でしかなかったとは考えられない。翌四年から『安愚楽鍋』が出されることと併せて考えると、『安愚楽鍋』は「日の出」との提携企画タイアツプであった可能性が高い。想像を逞しくすれば、初編だけが廿六丁の一冊物であり、見返は無く、扉に墨一色により暖簾風の意匠で「かな垣魯文著\〈牛店|雜談〉安愚楽鍋初編\一名 奴論健」とあり、弐編の口絵には施されている色摺りも初編には見られない。あるいは、景物本試験パイロツト板)として出されたものか。滑稽本の広告との親和性は高かったが、此処まで舞台と密着した企画は見られなかったと思われる。

さて、本文を見ると各話本文の冒頭▲の下に、割書で様々な階層職種の登場人物の年格好や着衣持ち物などについて記述しているが、挿絵にも見合った風体で牛鍋の前に座して飲食する姿が描かれている。人物形象を着衣や持ち物で描く方法は、特に新奇なものではない。また、本文は話し言葉で記述されているのであるが、掛け合いの会話ではなく酔客の独白体が大部分である。酔人の独言という設定も三馬の『無而七癖なくてなゝくせ酩酊氣質なまえひかたぎ(文化三年)や『〈例之|酒癖〉弌盃綺言いつぱいきげん(文化十年)等見られたものである。

『安愚楽鍋』は、人の癖気質かたぎに注目し、特定の場所に集う酔人の独白により誇張して記述するという三馬の滑稽本の行き方を継承したものである。片や『西洋道中膝栗毛』で一九の栗毛物を継承したわけであるが、双方共に、時代の変化にともなう生活環境の変化とそれに対応せんとする人々を描いた点が特徴である。

『西洋道中膝栗毛』第六編下で、挿話的に『安愚楽鍋』の第一章「書生の酔話」の全編を掲げて予告をしているが、実際に出た『安愚楽鍋』には「書生の酔話」は載っていない。ただ、三編巻末に ○だいへんひきつゞいて出板しゆつぱん この次輯じしう西洋せいよう栗毛くりげの六編にてろう當世たうせい流行りうかうのざんぎりあたま洋学ようがく書生しよせいだい穿うがその塾中ぢくちう実地じつちわたりたる滑稽こつけい恢諧くわいがい御評判ご やうばん/\ とある。これを見ると、『安愚楽鍋』の企画は『西洋道中』と平行して進行していたものと判断し得る。

 書式の継承

魯文が長編合巻の嗣作を多数手掛けていたことは知られている。例えば『〈頑夫小平治|妬婦於岩〉雨夜鐘四谷雜談あまよのかねよつやざふだん(初編〜十一編、嘉永五一八五二年〜慶応元一八六五年、柳下亭種員・河竹其水作、国輝・国貞・芳虎画、錦昇堂)の七編〜十一編万延二一八六一年〜慶応元年)を担当した。『弓張月春廼榮』(初編〜二十四編、嘉永四一八五一年〜慶応三一八六七年、楽亭西馬作、国輝・国光・芳虎画、錦昇堂)の二十一編〜二十四編(文久元〜慶応三年)は「西馬遺稿\仮名垣魯文校合」となっている。『假名讀八犬傳』(初編〜三十一編、嘉永元一八四八年〜慶応三一八六七年、為永春水・曲亭琴童・仮名垣魯文・国芳、芳幾画、文溪堂・菊壽堂)の二十八編〜三十一編慶応元一八六五年〜明治元一八六八年)。元治元年の火事で二十七編までの板木の一部が焼けてしまい、元治元一八六四年に文溪堂から求板した菊壽堂広岡屋幸助が焼け板の再刻をし、魯文と芳虎とに二十八編以降の継続を依頼したもの。三十二編以降は未見。既に魯文は『南総里見八犬伝』を何度も抄録して来た。『金花七變化きんかしちへんげ(初編〜三十一編、安政七一八六〇年〜明治三一八七〇年、鶴亭秀賀・仮名垣魯文作、国直画、金松堂)の二十八〜三十一編(明治三)を担当。三十一編では蒸気船や写真機を出しているが、三十二編以下未見。

これらの嗣作は板元からの依頼で引き受けた仕事であるが、基本的には既に〈世界〉の定まっている話の続きか、既成作の抄出であり、魯文にとっては容易に做し得る仕事であった。

十九世紀になり書物が生成され流通する制度が整備された結果、書物に於ける作者の位置が相対的に後退した。かつて、江戸読本の予告広告を検討することを通じて、出板企画が複数の板元や作者間で流通していたことを明らかにしたが、その余勢を駆って「書式さえ用意されてしまえば、テキストは誰にでも生成可能になる」と述べたことがある▼25。つまり、作品の内容を決定する所謂〈世界〉と書物のジャンルに規定される〈書式〉とが定まっていれば、テキストを紡ぎ出すのは容易であるということである。ならば、未完作の続編等は、板元が売れ行きを見込めれば、極めて安易に執筆を依頼し出板可能なのであった。そして、其処には斯様な企画に格好な作者としての魯文が居たのである。

安政期に読切抄録本である切附本という〈書式〉を定型化して量産した魯文であったが、近世から継承されて来た〈書式〉である滑稽本が用意されていたからこそ、其処に新しい西欧文化を趣向として盛り込んだ魯文らしい滑稽本が出せたのである。しかし、その魯文の目前では、新たなメディア=新聞が〈続き物〉という相応しい書式を待っていたのであった。


▼1. 魯文は「三条ノ教則」を解説した『三則教の棲道』を執筆したが、無思想に時の権力に迎合したと見做されて来ただけで、国家神道の導入に拠る日本の近代化の一端を担った戯作者たちの実体や機能に関しては、佐々木亨「戯作者の転身―仮名垣魯文の場合―」(『明治戯作の研究』、早稲田大学出版部、二〇〇九)に纏まった考察があるのみである。
▼2. 高木元「鈍亭時代の魯文―切附本をめぐって―(「社会文化科学研究」十一、千葉大学大学院社会文化科学研究科、二〇〇五年九月)、同「魯文の売文業(「国文学研究資料館紀要」三四、二〇〇八)、同「魯文の艶本(「国文学研究資料館紀要」三五、二〇〇九)、同「魯文の〈填詞〉(「大妻国文」四七、大妻女子大学国文学会、二〇一六)等。
▼3. 一般的には『東海道中膝栗毛』と呼び倣わされているが、本稿では原則的に書名は初編の内題に拠った。
▼4. 厳密には大きめの中本と少し小さな中本が存在し、やや大きめの中本仕立ての方が早印であることが多いようだ。
▼5. 興津要「近世末期の戯作界」(『転換期の文学―江戸から東京へ―』、早稲田大学出版部、一九六〇)
▼6. 興津要「滑稽本について」(文化講座シリーズ四、大東急記念文庫、一九六一)
▼7. 興津要「解題」(『滑稽富士詣』上、古典文庫、一九六一)
▼8. 安政七年(三月一八日改元、万延元年)に刊行された假名垣魯文の『報讐信太森』(前後二帙、未五改、国周画)、『平良門蝦蟇物語』(全一帙、未八改、芳幾画)、『俵藤太龍宮蜃話』(全一帙、未八改、芳幾画)、『忠勇景清全伝』(全一帙、未十改、芳幾画)、『傀儡太平記』(全一帙、未十改、芳幾画)、『氷神月横櫛』(前一帙、申五改、國周画、後帙未見)の六作は、切附本全盛のこの時期にあって特異な袋入本であった。藍白地に布目風空摺りを施し下に小さく竹をあしらった同一意匠の表紙を持ち、すべて錦森堂・森屋治兵衛板。一丁当たり八行と、滑稽本を思わせる比較的大きな字が用いられている。また、口絵には濃淡の薄墨や艶墨や空摺り等が効果的に用いられた美しい中本型読本で、値段も高かったものと思われる。執筆時から、板元の思惑を反映した魯文の心中には何か期するものがあったはずである。
▼9. 原本には、初編〜七編は芙蓉堂板、八編以降と後印本は恵比壽屋庄七板と記されている。ただし、佐々木亨氏は「『滑稽富士詣』論序説―滑稽本としての占める位置を中心に―」(「近世文芸研究と評論」七七、近世文芸研究と評論の会、二〇〇九)において、実際の稿了の期日や挿絵中の記述等を分析考証した上で、初編から七編までの「芙蓉堂」はダミーで実在せず、実質的な板元は恵比寿屋(錦昇堂)で、パトロンであった細木香以あたりを銀主とする出板物であったとされている。
▼10. 中村正明氏も「解題」(『膝栗毛文芸集成』二九巻、ゆまに書房、二〇一四)で、「実際に読んでみても分かるのだが、富士参詣の様子は三・四編のわずか二編分描かれるばかりで、後は江戸と富士山との行き来が綴られている。殊に江戸へ戻る五編以降は、箱根の温泉めぐりや大山参り、横浜の異人見物等を盛り込み、大層賑やかな作品に仕立てられている。」と指摘されている。
▼11. 国立国会図書館本(京乙-75)は七編までだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」公開でされている。なお、別本(W99-15)は十編までの揃い。
▼12. 造本上の特異性については、佐々木亨氏も前記論考で詳しく検討され「造本における意欲的な試みにも着目すべき」とされている。
▼13. 新たな様式の開拓に意欲的であった式亭三馬は「絵入かなばかりのよみ本、まがひ合巻」(『式亭雑記』)として、『両禿対仇討』文化五一八〇八年)と『侠客金神長五郎忠孝話説』文化六一八〇九年)と『昔唄花街始』(文化六年)の三作を鶴屋金助から出している。一丁あたり二十行ほどで本文だけの頁が多い。『昔唄花街始』の跋文には「読本は上菓子にて草双紙は駄菓子なり」と記されており、その折衷様式を意図したものであろう。また、曲亭馬琴の『殺生石後日恠談』全五編(文政七〜天保四年)や笠亭仙果の『稚源氏東国初旅』全五編(弘化四〜嘉永五年)も、合巻と中本型読本の折衷様式で出されている。これらが切附本の板面、さらには明治期草双紙へと繋がることについては、高木元「末期の中本型読本―いわゆる〈切附本〉について―(『江戸読本の研究』、ぺりかん社、一九九五)参照。
▼14. 王学鵬氏は「『滑稽冨士詣』における挿絵の役割―初編から三編まで」(「徳島文理大学文学論叢」二九、二〇一二)で、挿絵中の書き込みについて、言葉遊び・音曲に由来・芝居に由来・楽屋落ちに由来・風俗に関係という分類を施し、他の挿絵中の情報と共に注釈的な分析している。
▼15. 国文研本の表紙には改印と思しき二印[改][壬巳五]があるが、安政期は一印時代であり不審。また「巳」歳が正しいとすれば安政四年と思われ、とすれば「壬」は「丁」の誤刻か。巻末(24ウ25オ)で、弥二(菊亭文里)きた八(全亭愚文)が、板元の見世先に架けられた「成田道中膝栗毛 全一冊」「大山道中膝栗毛 完」「甲州道中膝栗毛 完」「日光道中膝栗毛 完」「両國雜談江戸栗毛 完」の看板の下で、当年新板はすべて読切合巻一冊であるという売弘め口上を述べている。
▼16. 興津要「仮名垣魯文研究」(『転換期の文学―江戸から東京へ―』、早稲田大学出版部、一九六〇)では、「のちの滑稽本作者魯文をおもわせる滑稽草双紙があったことは一応注目にあたいしよう」として、この三作に加えて『八王子三太郎婆ァ』を挙げている。ただし、膝栗毛物という文脈であって、造本様式に関しての言及はない。
▼17. 芙蓉堂について『〈改訂|増補〉近世書林板元總覽』(青裳堂書店、一九九八)に「高須惣七 芙蓉堂 江戸芝神明前」と見えるが活動時期は寛政期のようだ。また嘉永再興期の「地本草紙問屋名前帳」(日本版画美術全集別巻『日本版画便覧』、講談社、一九六二)や、旧幕引継書目録「諸問屋名前帳 細目」(湖北社、一九七八)には見出せない。なお、具体的な出板との関係は不明ながら、五編挿絵(廿一オ)に「江戸馬喰町\関東講\菊屋幸三郎」と見えている。
▼18. 興津要「「滑稽冨士詣」をめぐって」(「学術研究」三、早稲田大学教育学部、一九五五)
▼19. 魯文が書いたのは十一編迄、十二編以降は総生寛に引き継がれた。
▼20. ただし、一般向きの翻刻ではないが複製本として、秀選 名著複刻全集 近代文学館『〈牛屋|雑談〉安愚楽鍋』(全五冊、ほるぷ、一九八五)がある。また、この複製本より以前に、国立国語研究所資料集9『牛店雑談・安愚楽鍋 用語索引』(秀英出版、一九七四)が出ているが、これにはモノクロながら全冊の影印が附されていた。
▼21. 大量に生産され流通したであろう『安愚楽鍋』の諸本は、基本的に同一板木を用いた摺りのようである。書誌学的な調査が等閑に付されてきた中で、谷川惠一氏の「調査報告」(「原典資料の調査を基礎とした仮名垣魯文の著述活動に関する総合的研究」平成一六〜一九年度科研費研究成果報告書)所収が一番詳しく、板元に疑問があること等が報告されている。
▼22. 同様の趣旨は「日文協大会 シンポジウム〈書物とリテラシー〉」(国学院大学、二〇一二年一二月二日)に於いて「書物テキストのリテラシー」と題して発表し、その後、高木元「書物のリテラシー―板本は読めているか―(「日本文学」六二巻四号、二〇一三年四月)でも言及した。以下の行文上、少しく重複する部分があるが、詳しい注釈等に関してはこの旧稿を参照して頂きたい。
▼23. 初編の挿絵(十二丁表)に「後朝きぬ%\かへやなぎなれもまた うしろがみをやかぜにひかるる\黒牡丹主人讃」とあり、また二編下の挿絵(十丁表)に「杖つきの 乃の字もわかで かきのぞき めくらさくりに ふみも見るかな\黒牡丹主人」とある。三編上の挿絵(廿五丁裏)にも店内の壁に「〈ねり|薬〉黒牡丹\一刻金一朱」という看板が描かれている。
▼24. 横にある衝立に「よきに煮よ あしきに煮なよ なへて世の人の こゝろハ自在鍋なり」とある。松平定信の狂歌「よきに似よ あしきに似なよ なべて世の 人の心は 自在鉤なり」(「鍋尻訓歌」)を擬えたもの。
▼25. 高木元「江戸読本の新刊予告と〈作者〉―テキストフォーマット論覚書―(「日本文学」四三巻十号、一九九四年十月号)

(たかぎ・げん/大妻女子大学)


#「魯文の滑稽本」
#「日本文学」第65巻第10号(日本文学協会、2016年10月号)所収
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