高畠藍泉の時代
高 木  元 

 「明治最初の文壇小説家は高畠藍泉だ」と、高らかに宣言したのは柳田泉であった(「高畠藍泉伝」、『續隨筆明治文學』所収、昭和十三年、春秋社。初出「明治文化研究」第一輯、昭和九年二月)。為永春水、万亭応賀、条野採菊、仮名垣魯文等の所謂幕末遺老とは一線を劃していて、作家として物を書き始めたのは明治以降であり、明治十年以後の明治文壇の代表的作家は高畠藍泉を措いて他にはないという主張である。しかし、以後長きに渉って藍泉に関する研究は進捗しなかった。唯一、興津要が幕末開化期に着目した精力的な仕事の中で「三世種彦(高畠藍泉)研究」(『転換期の文学』所収、昭和三十五年、早稲田大学出版部)を著し、藍泉の作『巷説児手柏(かうせつこのてがしは)』と『蝶鳥紫山裙模様(てふとりつくぎのすそもやう)』とが、解説付きで一般向きに公刊(明治文学全集2『明治開化期文学集(二)』所収、筑摩書房、昭和四十二年)されたに過ぎなかった。ところが、近年に至って、佐々木亨による「明治の草双紙−京阪活版小説を中心に」(「近世文藝」六十六、一九九七年七月)、「藍泉と大阪−作家への道」(「徳島文理大学文学論叢」十九、二〇〇二年三月)や「高畠藍泉の作風形成−「梅柳新話」を巡って」(「国文学研究」一三六、二〇〇二年三月)など一連の研究が進められつつある。

 さて、高畠藍泉の伝記に関しては、古くは『新聞記者奇行傳』(細島晴之編、明治十四年)▼1や「三世柳亭種彦翁」(「東京絵入新聞」明治十八年十一月二十三日)に見えている。石川嚴はこれらを引いて「寫實主義以前の小説」(『日本文学講座』第十一巻「三、柳亭種彦(高畠藍泉)と其一派」、新潮社、昭和二年十月)で以下のように記している。

柳亭種彦(三世)−通稱高畠藍泉、名は政、幼名瓶三郎、又轉々堂主人、足薪翁などとも、號した。天保九年淺草七軒町組屋敷に生る。新聞記者奇行傳初編(明治十四年版)に據れば−幕府の小吏にして、演劇を好み、花柳に沈醉し、所謂務め嫌ひにして遊蕩怠惰いふべからず。故に同僚親戚に疎まるれど、君更に意とせず、慶應の初め畫工と成て力食せんと實弟に家を繼がしめ、壯年にして隱遁す。君は畫を松前の藩士高橋波藍に學び、藍泉は則ち畫名なり。戊辰の役佐幕の士東北に脱して官軍に抗戰せんと欲すれども銃器に乏し、時に君憤然と起て名を政(たゞす)と改め、陸軍奉行松平太郎君と謀り、單身四方に馳て御用達なる者を説諭し、巨萬の金額を募集するに、毫も暴言剛強の氣を顯はさず、却て渠をして落涙せしめ、銃砲を凾館へ廻漕せしが、諸道の脱兵潰るゝと聞て大に落膽し、再び畫工と成て諸方を遊歴す。明治五年日々新聞創立の際日報社に入て編輯に從事し、又繪入新聞を起しゝが、社論の合はざるより、去て各社に聘され、同十三年再び日報社に歸す。君近頃近世古物を愛すの癖あるを以て、假名垣魯文翁戲れに元祿古器の精なりといへり−因に轉々堂の号は氏が轉々として住居を轉じたことからの戲號であつたとのことである。享年四十八歳、明治十八年十一月十八日病歿すと。本人は當然三代種彦といふべきをいつも二世と稱へてゐたなどはどういふ量見でゐたのか不審。

この石川嚴の「不審」について、鈴木行三は、明治十五年一月二十九日に日本橋呉服町の待合柳屋に於いて「柳亭嗣号披露会」が催された時の「告條」を紹介しつつ、次のように説いている(「高畠藍泉の事―(二代目兼三代目柳亭種彦)」、「愛書趣味」十五、昭和三年三月)

高畠藍泉は俗名を瓶三郎と云つた。幕府士で、名人忌辰録にはお坊主衆とある。生れたのは淺草七軒町の、組屋敷であつた。畫を四條派の畫家高橋波藍に學び、師の名の一字を貰つて藍泉と云つたのである。引越しが好きで無暗に越して歩くので、自分で轉々堂鈍々など云ふ戲號を附けた位である。後初代柳亭種彦の娘から種彦の印を讓られて二代目種彦となつた。これより先き笠亭仙果が自分勝手に二代種彦と稱してゐたので、初代の門人等は憤慨して仙果の二代種彦を認めず、藍泉を援けて二代目を相續させては見たが、仙果の二代目種彦の方が世間に通つてしまつたので藍泉も初めは二代目種彦と云つては居たものゝ、結局二代目は仙果に取られたやうな形になつて自分でも終に諦めて三代目種彦と稱するに至つたのである。つまり藍泉は二代を繼いで何時の間にか三代目になつてしまつたのである。

二代種彦襲名の時の告條は次の如くである▼2

   鴉あふぎの讃に
 あだし野の事はおしやるな初がらす    故種彦
  土器賣の屠蘇も穗に出         故了阿
 霞行く空よりたこの糸はきて       故千春
  のませの幕に何所までも張る      故種員
 名を嗣だ相撲にはづむ里の月       現梅彦
  不手際なれど菊小袖たる       嗣子種彦

〓紫の二世かけて稀なる小説家の號を繼はおこがましき
限りなれど舊友のすゝめにより柳亭翁にゆづりうけ故人
が俳諧の表にをり端をつけてとしごろののぞみたれりと

  くゝるさへうれしきものを柳かな

 明治十五年一月             足薪翁

             轉々堂改 柳亭種彦[印]

此の種彦襲名の時に譲られた印は、藍泉の歿後右田寅彦が持つて居たのであるが、今はどうなつて居るか分らぬ。

 なお、明治五年頃から使っていた「轉々堂」という堂号の由来については異説も伝えられており、柳田泉は「藍泉が平生至つて子供好きなところから子供のデンデン太鼓の音(テンテンドンドン)になぞらへたもので、(金子益三氏談話)、現に新聞の投書や錦繪類の書入れ文句などに轉々堂鈍々と署名したのが幾らも見える。」と記している(前掲「高畠藍泉伝」)

 また、野崎左文が「明治初期に於ける戲作者」(『私の見た明治文壇』、春陽堂、昭和二年五月)で、

三世(せい)柳亭(りうてい)種彦(たねひこ)(し)は初代(しよだい)種彦(たねひこ)に私淑(ししゆく)して居(ゐ)た人(ひと)だけに『源氏(げんじ)物語(ものがたり)』は熟讀(じゆくどく)し、又(また)(みづか)ら元祿(げんろく)時代(じだい)の研究家(けんきうか)を以(もつ)て任(にん)じて居(ゐ)たので、西鶴(さいかく)ものゝ元祿(げんろく)文學(ぶんがく)にも通曉(つうげう)し、別(べつ)に一事(じ)は畫家(ぐわか)を以(もつ)て世渡(よわた)りをして居(ゐ)た人(ひと)ゆゑ繪畫(くわいぐわ)(るゐ)の鑑定(かんてい)に長(ちやう)じ、明治(めいじ)十四五年(ねん)(ごろ)は當時(たうじ)の好事家(かうずか)たる岸田(きしだ)吟香(ぎんかう)、關根(せきね)只誠(しせい)、柏木(かしはぎ)探古(たんこ)、假名垣(かながき)魯文(ろぶん)、竹内(たけうち)(きう)一、大久保(おほくぼ)紫香(しかう)、五姓田(ごせた)芳柳(はうりう)(とう)の諸氏(しよし)と共(とも)に探古(たんこ)小集(せうしふ)と名(な)づけて持寄品(もちよりひん)の品評會(ひんぴやうくわい)を催(もよほ)して居(を)られた事(こと)もあつた。

と記しているのも興味深い。

 さて、明治初年の戯作界の様相はひどいものであった。例えば、石川嚴『明治初期戯作年表』(従吾所好社、昭和二年十一月)や、山口武美『明治前期戯作本書目』(日本書誌学大系10、青裳堂書店、昭和五十五年二月)に就けば、明治十年までに出版された戯作が甚だ少ないことが一目瞭然である。この出版部数の激減の原因は、幕府瓦解以降続いた政治的混乱の影響が大きかったことは勿論であるが、「新聞」と云う新たなメディアが広まり、同時に整版から活版へというメディアの急激な変化が起こった点をも見逃すことは出来ない。一方、前田愛が「明治初期戯作出版の動向−近世出版機構の解体」(前田愛著作集第二巻『近代読者の成立』、筑摩書房、一九八九年五月。初出は昭和三十八〜九年)で明らかにしたように、従来の出版流通機構が大きく様変わりしたことも重要な問題である。

 このような激動の時代にあって、藍泉は試行錯誤しつつ新たなメディアの中で生きる道を探していたため、その遺した仕事は甚だ多岐に亙っている。明治初年は画技によって口を糊すために外国輸出用の扇面や団扇絵を描いたり、書画会を開いたというが、これらの画業は余り残っていないかもしれない。また、明治五年に『東京日々新聞』の記者となってからは、新聞投書家としても名を馳せ、同時に錦絵類の書入れや新聞錦絵を盛んに執筆していたようだが、全貌は明らかになっていない。明治八年には『平仮名絵入新聞』を創刊し編輯長となる、翌九年には『読売新聞』へ移り、『小学雑誌』創刊。さらに十年には『読売新聞』を退社し、独力で先見性に富んだ夕刊紙『東京毎夕新聞』を創刊するも経営がうまく行かず数ヶ月で藍泉の手をはなれ、翌十一年に下阪、『大阪新聞』に入社。七月には帰京し『東京曙新聞』に入社する。この頃から『芳譚雑誌』へ寄稿を始めるようになった。明治十三年八月に『読売新聞』に再入社し印刷長となる。十五年に柳亭種彦を嗣ぎ、『東京絵入新聞』『歌舞伎新報』などの諸紙に寄稿したり、新聞連載小説を単行本として刊行するようになる。これら多くの仕事に関する網羅的な著画編述作品目録の編纂が竢たれるが、取り敢えず管見に入ったものを幾らか年代順に例示してみよう。

 単行本としては、前田夏繁との共著『松廼落葉(一名 東台戦記)(東京 協力社、明治七年五月序)が早い。後に、「戊辰(ぼしん)の役(えき)方公(はうこう)を誤(あやまつ)て上野山内(うえのさんない)に屯集(とんしう)し。王師(わうし)に抗(かう)して斃(たほ)れたる。彰義隊(しようぎたい)(ら)が七回(ひちくわい)の忌日(きにち)(いとな)む本年(ほんねん)五月。清水堂(きよミづだう)の施餓鬼(せがき)に納(いれ)る有志(いうし)の輩(はい)が資金(しきん)に換(か)え。伝聞(ききつたへ)たる其時(そのとき)の軍談(いくさばなし)をかき輯(あつ)め。松(まつ)の落葉(おちば)と題(だい)したる。拙(つたな)き著述(ちよじゆつ)も亡魂(なきたま)を弔慰(なぐさ)む端(はし)となりもせバ。追善供養(ついぜんくやう)と思(おも)ふも鈍(おぞ)まし。東台戦記の記者/高畠藍泉識」(「東京日々新聞」六八九号、明治七年十月)と記している。

 翌、明治八年に出たのが、本書に収めた『怪化百物語』(東京 井上定保、明治八年五月)で、単独での最初の著作である。この年には、『近世報国百人一首』(東京 政栄堂、明治八年序)や『雅俗一新要文』(東京 武田伝右衛門、明治八年十一月、明治十九年一月再印)などの往来物を出しているが、此方は随分と重印されて流布したようである。

 九年は単行本は見られない。十年には『小説合作鉄道ばなし』第一号(大阪 前川源七郎、明治十年七月届)。これは京阪活版小説の早いものである(前掲、佐々木亨「明治の草双紙」)

 十一年になると、岩越重暢編・高畠藍泉校『掌中開明文章』(東京 舒芳閣、明治十一年二月)、『姓氏名乗歴史字引大全』(東京 万笈閣、明治十一年五月)の往来物についで、東京でも『小説合作鉄道ばなし』第一号(東京 文栄閣、明治十一年七月)が出る。

 十二年には、坂部広光訳述・高畠藍泉校正『童蒙喩言東西奇談』(東京 諏訪頼敏、明治十二年六月)、『画分姓名字引』(東京 当世堂、明治十二年七月)、『麓のはな』(東京 青山堂、明治十二年十一月、明治二十三年三月)と共に、『松之花娘庭訓』(具足屋、明治十二年)、『巷説児手柏』(東京 共隆社、明治十二年八月、二版・十九年二月)が出る。これは一冊十丁で二編四冊、木板摺付表紙で袋入り、序文と口絵の二丁は木板で色摺、本文は活版という形態を持つ明治期活版絵入の草双紙の先駆けと成ったとされるが、活版の草双紙が東京で成立する前段階として京阪活版小説の先行があり、藍泉によってこれが東京にもたらされた経過についての佐々木亨の指摘が備わる(前掲「明治の草双紙」)

 十三、四年には、椿椿山画・高畠藍泉編『琢華堂画譜』(東京 武田伝右衛門、明治十三年四月)、桃川燕林編・転々堂主人閲『賞集花之庭木戸』(東京 松延堂、明治十三年五月)、『梅柳春雨譚』(東京 愛善社、十三年十二月)、『崋椿靄隆近世四大家画譜』(東京 文永堂、明治十四年十一月)、弄月亭有人編・転々堂主人補『赤穂義士烈婦銘々伝』(東京 文永堂、明治十四年八月)などが出され、とりわけ画譜類が目に付く。

 十五年には、『姓氏名乗字引大全』(東京 玉養堂、明治十五年六月)、『絵本徳川略史』(東京 清水嘉兵衛、明治十五年九月)、『落花清風慶応水滸伝』(東京 愛善社、明治十五年、日吉堂、明治二十二年二月)、『赤穂節義録(忠誠義士銘々画伝)(東京 武田伝右衛門、明治十五〜七年)、『岡山紀聞筆之命毛』(東京 愛善社、明治十五年)

 十六年には、『楓時故郷廼錦木』(未見、明治十六年一月)、『三巴里之奇説(みつどもえさとのうわさ)(京都 駸々堂、明治十六年二月)、『昼夜帯加茂川染』(東京 松江堂、明治十六年九月)、『江戸花侠客の長兵衛』(京都 駸々堂、明治十六年二月)、柳亭種彦序『諸国盆踊唱歌』(東京 甫喜山景雄、明治十六年七月)、『柳亭叢書』(京都 駸々堂、明治十六年四月)、『正史実伝続いろは文庫』(大阪 片山正義、明治十六年六月、東京 天賜堂、十七年十二月、東京 文事堂、十九年四月)、岡田霞船編『住谷兄弟仇討実記』(金松堂、明治十六年八月)は藍泉が『芳譚雑誌』に連載していたもののダイジェストで完結後『蝶鳥筑波裾模様』となる(山崎金男「合巻式純明治の草双紙」、「東京新誌」第一巻三号、大正十五年十月)

 十七年に、『貞操節義明治名婦百首』(東京 錦栄堂、明治十七年一月)、『蝶鳥筑波裾模様』(東京 愛善社、明治十七年四月)、『貞操美談卯月之花』(東京 森仙吉、明治十七年四月)、『御伽話手遊八景(おとぎばなしおもちやはつけい)(東京 愛善社、明治十七年六月)、『怪談深閨屏(かいだんしんけいびよう)(東京 鶴声社、明治十七年六月、東京 礫川出版、明治二十三年十一月)、『春色黄金花』(東京 共隆社、明治十七年九月、十九年十月)、槙廼舎繁山編・柳亭種彦閲『朝顔垣残秋月』(東京 共隆社、明治十七年十月、大阪 駸々堂、明治二十一年二月、東京 隆港堂、明治二十二年六月)、槙廼舎雅山編・柳亭種彦閲『復讐浮木亀山』(東京 共隆社、明治十七年十月、十八年八月、十九年五月、東京 隆港堂、二十四年四月)、『花兄誉片腕(はなのあにほまれのかたうで)(東京 共隆社、明治十七年十二月、十九年十月)

 十八年には、柳亭種彦著・高畠藍泉訂・柳川重信画・尾形月耕縮図『綟手摺昔木偶』(東京 共隆社、明治十八年二月、東京 隆港堂、 明治二十二年六月)、『名器の茶入名妓の古跡女夫髷操競』(東京 共隆社、明治十八年三月)、『黒白染分〓』(東京 共隆社、明治十八年四月、十九年十一月、東京 隆港堂、明治二十二年六月)、 『貞烈美談小夜時雨』(東京 共隆社、明治十八年十二月)

 以下、『対模様荻の尾花』(東京 翠松堂、明治十九年九月)、柳条亭花彦著・柳亭種彦校正『雨夜語宇都谷峠』(東京 伊藤倉三、明治二十一年)

 やや煩雑に成ってしまったが、明治十六年以降は小説や正本写が主要な刊行物となり、往来物などは見られなくなる。同時に、「校訂」「閲」として名を連ねた単行本が目に付くようになることが分かると思う。また、時に板元を変えて再印三印されるものが増えてくるのも大きな特徴だと思われる。何れにしても、不完全ながら斯様に列挙してみると、作家としての活動の変化を明らかにすることができよう。

 だが、留意すべき点がある。それは、新聞等に連載された小説類が単行本化される際に何が行われていたかという問題である。すでに佐々木亨の周到な調査分析が備わるが、連載を単行本化するに際して大きな改編が行われ、かなりのリライトが施されているからである。従来の研究では単行本が連載をほぼそのまま流用しているという前提で語られてきたが、流用可能な書式に整えられたのは、「実は明治十五年刊の『岡山紀聞筆之命毛』からなのである」(佐々木亨「高畠藍泉の作風形成」)。また、初出である『芳譚雑誌』に連載されたものを単行本化する時に「使用済みの挿絵板木を合巻の寸法に合わせて左右を切り落とし、転用していることに注意したい」(前田愛「明治初期戯作出版の動向」)と、連載を単行本化する際の経済効率についての指摘も備わる。『芳譚雑誌』の版元である愛善社では明治十三年十二月以降は自社出版を開始することになるが、それは下阪を契機に作家として経営的な視点をも持ち得た藍泉が、内容と書式という双方の観点からの吟味工夫をした結果であり、その点に新メディアに対する先見性を持った小説家・柳亭種彦として再評価すべきだという佐々木亨の指摘は重要である(前掲「藍泉と大阪」)

 ここで、刊行されたものではないが藍泉旧蔵の『戯作六家撰』について紹介しておきたい。該書については、精衛子(一号のみ)、成蹊隠士(居士)「楽雅記 其一〜六」(「典籍の研究」第一〜六号、大正十四年七月〜昭和二年八月)に一部分の引用と共に紹介されており、次のような記載が見られる。「故高畠藍泉の藏せし寫本、洛東子編の戲作者(略)傳に、藍泉の附記せしもの」(其一)、「藍泉の舊藏本は戲作者小傳戲作六家撰とあり、戲作者略傳とは明治廿二年刊行の増補浮世繪類考附戲作者略伝並に肖像といふ表題に依りしなり」(其二)、「拙藏藍泉舊蔵の戲作六家撰」(其六)等々。

 紹介されている本は、現在、関西大学図書館に所蔵されているもので(N8-281-2)、写本、大本一冊、墨付六十三丁、一丁表下部に[柳亭]朱方印が捺されている。この印は明治十五年の襲名以降に捺されたものと思われるが、書写年代を特定し得るものではない。「安政三年活東子序」本を底本として写した上で、朱筆で校訂が施してある。ここで全てを紹介する余裕はないが、各段末等に「藍泉曰」として次のような付記が加えてある。

藍泉曰戯作者ト称スルモノ皆狂歌師ヨリ出テ京伝以前ノ黄表紙 菎蒻本ノ作者ハ潤筆ヲ得ル事ナク遇偶書林ノ大利ヲ得ル事アレバ 当リ振舞トシテ馳走セシノミ成シガ京伝ノ作ノ世ニ行ナハレシヨリ反物 ナド贈ル事ナリテ菎蒻本娼妓絹フルヒ仕懸文庫ニ於テ初メテ 金ヲ得シヨリ作料ト云フモノハ定マリタリ此等ノ戯作ハ遊蕩 ノ導キヲスル者ノ如クナルヲ以テ一時手鎖ノ刑ヲ受シ事アリト此京 伝翁ガ伝ハ曲亭ノ筆記いはでもの記ニ委シ

玉ノ井后ニ百合ト称シ追テ発狂ス

藍泉曰三馬ハ蔵書保存に心を用ひ古き物は裏をうち 自叙などかきて購求せし年月などをも記し式亭の 印を捺たる物世に多く見え予も其一二を蔵す同人が 家伝の江戸の水といふ顔の薬は今日の真水の如き物にて 大いに流行せり先生常に大酒暴飲なるが為に短命 なりしともいへり

松山青樹 ハ小伝馬丁 ノ人ニテ馬琴 ガ縁談ノ 時ノ仮親ナリ 右半年 ヲ経テ是 モ絶交ス

藍泉曰友人梅彦氏の話に種彦先生は坂東秀佳を甚しく 贔屓されしかど生涯知己とならず総て役者の紋の手拭釵 等をも家族に用ひさせざりしは旗下の士の法を守りて其 謹厚をおもふべし

藍泉曰焉馬は団十郎贔屓にて五世白猿没後は観劇 の念を断しといふ其住宅の襖は年々顔見世狂言の 暫の素袍を其役者より貰ひ受て張たるなりと

藍泉曰翁は元禄の頃吉良義英の臣小林親八郎が末葉 にして吉良家滅後親八郎が娘親戚に寄て他家へ嫁し一 女子を産む其女某御鏡師中島氏へ嫁したるなり元禄の復讐 は北齋が祖母八九歳の時の事なりとぞ

藍泉曰世俗槙町豊国と称すは此倉橋氏の事なり

 手彩色を加えた肖像と相俟って、藍泉の伝える江戸戯作者の情報も珍しく、資料として有用なものだと思われる。なお、「楽雅記」其三以下では、従来余り知られていなかったと思しき「柳亭家集」が紹介され、「藍泉自筆唐紙の原稿紙十數葉に種彦の狂歌發句等を輯録せしものあり種彦の狂歌發句等集録せしもの戲作者略傳其他流布の書籍には見當らず或は藍泉が輯録の上出版せんとし其儘になりしと思はる」(其三)として翻刻が掲載されているが、こちらの所在は未詳である。

 最後に『怪化百物語』について触れておこう。

 題名の「怪化」が「開化」の捩りであることは容易に理解できるが、同想の題を持つものとして池田喜多治『怪化娘出世指南』(弄花亭、明治十四年六月)がある。題名の付け方からして、本作が中本もの(滑稽本)として構想されたことは間違いない。石川嚴『明治初期戯作年表』では、仮名垣魯文『万国航海西洋道中膝栗毛』(万笈堂、明治三年九月)、同『牛店雑談安愚楽鍋』(誠之堂、明治四年卯月)と同じ系列に位置する「新旧小説」という分類になっている。その明治五年の項に、魯文『西洋器会』の予告広告(『新聞雑誌』三十七号、明治五年三月)が引かれている。

此小説は故曲亭馬琴が質屋の庫といへる讀本の顰に倣ひ、横濱の押廩に「欧羅巴」諸洲の器械衣類異形の物集りて人語を發し、各國躬の上を語り、國體事情を演ずるをもて綴ると雖も、確実枢要を注意し、童蒙をして開化進歩せしむる方今風の滑稽稗史なり。看客發兌の期を待て笑覧を希ふ。

 この本はおそらく未刊に終わったようであるが、田島象二『書林之庫』(明治九年)も構想自体の枠組として『昔語質屋庫』が用いられている(佐々木亨「『書林之庫』と『昔語質屋庫』」、「近世文芸 研究と評論」三十号、一九八六年)。本書では構想の軸として用いているわけではないが、忘れ物に持主の霊がついて問わず語りをするという趣向には、やはり『昔語質屋庫』の面影が残されており、趣きの近似は指摘し得ると思われる。

 一方、本間久雄は『明治文学史』上巻(東京堂、昭和二十五年九月)で、

本書は魯文の「安愚楽鍋」と共に開化物として、記念すべき佳作である。開化の世となり、窮理の學問が進むにつけて妖怪のたぐいが影潜めてしまい、「小説者流(げさくしやりゆう)の手稿に都合も惡く」なつたが、しかし又、飜つて「人間中の化物の穴をさぐる稗官(さくしや)の得意」と考えて、この作をものしたと序文に斷つているとおり、種々の階級の人間を拉して来て、その言行の矛盾を指摘し、諷刺している。魯文の「安愚樂鍋」ほど寫實的でない代りに、より多く風刺的であり、しかもその間に、おのずからその時代のすがたを彷彿たらしめている。

と記している。石川嚴は「序に少し長いが『書生の化物』の一節を參考に擧げて見やう。但し從來誰も言はなかつた珍本である」として、「書生の化物」全文を紹介している(前掲「寫實主義以前の小説」)。また、『明治文化全集』第八巻(日本評論社、昭和三年)に所収する本書の翻刻の校訂解題を担当し、「明治初年の生半可な時代相が能く現はれてゐて、風俗資料としても面白く、注意すべき作品の一つである」と述べている。

 さて、本作は内容や文体のみならず、造本や目次の体裁まで『安愚楽鍋』に似ているのである。たとえば、最初に登場人物の風俗衣装について割書にしてこと細かく説明があるという形式も同様である。この書式と文体は、人情本等に見られる叙述に近似しているが、風躰やファッションに人物形象を象徴させる機能を持つもので、明治初期の分化した身分階級や職種等を活写するのに有効な機能を果たしているといえよう。同時に、開化物の流れを汲んでいることから、多くの実在した店や人名が書き込まれている。その大半が同時代資料によって裏付けられることからも、風俗小説としての資料的な価値も保有しているといえよう。

 また、跋文に見える「友人井上氏」が、国会本にある「出版人/井上定保」であることは間違いないと思われるのであるが、刊記に見える「和泉屋市兵衞・藤岡屋慶次郎・森屋治兵衞・山口屋藤兵衞・大黒屋平吉」のいずれの本姓も「井上」ではなく、かつまた住所も「東京府管下書物問屋姓名記」(『戊辰以来新刻書目便覧』、明治七年四月)と符合する者が見つからなかった。後考を俟ちたい。

【後補注】

▼1『新聞記者竒行傳』初編(中本一冊、隅田了古編輯、鮮齋永濯畫圖、肖像詩歌載録、墨々書屋梓)、「明治十三年十二月十六日御届、同十四年一月二日出板、畫工 小梅村三百三拾五番地 鮮齋永濯/編輯兼出板人 京橋區疊町拾七番地 細島晴三」

「高畠藍泉(たかばたけらんせん)/重陽山寺やとりて/拳のせて心祝ひや膳の上/居所 京橋區弥左エ門町壱番地/名は政 号轉々堂主人足薪翁/京橋區銀座壱町目 讀賣新聞日就社印刷長」(19オ)
肖像
「幕府(ばくふ)の小吏(せうり)にして幼名(えうみやう)瓶三郎(かめさぶらう)と称(しよう)し演劇(えんげき)を好(この)み花柳(くわりう)に沈酔(ちんすゐ)し所謂(いはゆる)(つと)め嫌(ぎら)ひにして遊蕩(いうたう)怠惰(たいだ)いふべからず故(ゆゑ)に同僚(どうれう)親戚(しんせき)に疎(うと)まるれど君(きみ)(さら)に意(い)とせず慶應(けいおう)の初(はじ)め画工(ぐわこう)と成(なつ)て力食(りきしよく)せんと実弟(じつてい)に家(いへ)を継(つが)しめ壮年(さうねん)にして隠遁(いんとん)す君(きみ)は画(ぐわ)を松前(まつまへ)藩士(はんし)高橋(たかはし)波藍(はらん)に學(まな)び藍泉(らんせん)は則(すなは)ち画名(ぐわめい)なり戊辰(ぼしん)の役(えき)佐幕(さばく)の士(し)東北(とうほく)に脱(だつ)して官軍(くわんぐん)に抗戰(かうせん)せんと欲(ほつ)すれども銃器(ぢうき)に乏(とぼ)し時(とき)に君(きみ)憤然(ふんぜん)と起(たつ)て名(な)を政(たゞす)と改(あらた)め陸軍(りくぐん)奉行(ぶぎやう)松平(まつだいら)太郎(たらう)(くん)と謀(はか)り單身(たんしん)四方(しはう)に馳(はせ)て御用達(ごようたし)なる者(もの)を説諭(せつゆ)し巨萬(きよまん)の金額(きんがく)を募集(ぼしふ)するに毫(がう)も暴言(ぼうげん)剛気(がうきやう)の氣(き)を顯(あら)はさず却(かへつ)て渠(かれ)をして落涙(らくるい)せしめ銃砲(ぢうはう)を函舘(はこだて)へ廻漕(くわいさう)せしが諸道(しよだう)の脱兵(だつぺい)(つぶ)るゝと聞(きゝ)て大(おほい)に落膽(らくたん)し再(ふたゝ)び画工(ぐわこう)と成(なつ)て諸方(しよはう)を游歴(いうれき)す明治五年日々新聞(にち/\しんぶん)創立(さうりつ)の際(とき)日報社(につはうしや)に入(いつ)て編輯(へんしふ)に從事(じふじ)し又(また)繪入新聞(ゑいりしんぷん)を起(おこし)しが社論(しやろく)の合(あは)ざるより去(さつ)て各社(かくしや)に聘(へい)され同十三年再(ふた)び日就社(につしうしや)に帰(き)す君(きみ)近頃(ちかごろ)近世(きんせい)古物(こふつ)を愛(あい)すの癖(へき)あるを以(もつ)て假名垣(かながき)魯翁(ろをう)(たはぶ)れに元禄(げんろく)古器(こき)の精(せい)なりといへり」(19ウ)

▼2『黙阿弥の手紙・日記・報条など』(河竹繁俊編、一九六六年、演劇出版社)に「嗣号祝宴案内状」として、別の図版が紹介されている(口絵六二頁)、翻刻も備わる(二九四頁)が私意により一部改めた。

「壬午一月廾九日午後より同号の/ちなみあれば日本橋区/呉服はしまへ待合/柳屋において/嗣號祝会/相ひらき候間/賑々しく/尊来を乞ふ」 轉々堂主人改/ 柳亭種彦
「補助/假名垣魯文 為永春水/佐藤榮中 其角堂永機/渡邊守勝 廣岡幸助/平木平々 人見淇堂/幸堂得知 前田夏繁/河竹新七 四方梅彦」 京橋彌左衛門町一番地/ 通称 高畠藍泉/拝


【付言】本文の注釈と解説執筆に際して、沖義裕、佐藤悟、山本卓、宮脇真理子、の各氏には多大な学恩を忝くしました。記して深く感謝致します。


# 「高畠藍泉の時代」
# 新日本古典文学大系《明治編》1『開化風俗誌集』所収
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#  2005-09-22 「後補注」を付した。
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