はじめに
現在、書物として流通しているモノは、なぜ商品価値を持ち得ているのか。
出版文化史における技術(テクノロジー)の進歩は、写本・板本・活版本・電子本というメディアの進化を促し、経済的文化的システムの内部で、より早く大量に同一テキストを生産するという方向で進化を遂げてきた。さらに、印刷製本術の合理化と流通販売網の整備は、テキストにおける作者の位置の後退化を余儀なくした。つまり、書物というモノは、その商品価値を増加させる方向で変化を遂げてきたのであった。
さて、書物の持つ物理的形態はさまざまであるが、きわめて単純化してしまえば文字列や画像が記された紙を綴じ合せたモノに過ぎない。だから、書物の商品価値を支えているのは、記された文字列や画像に何らかの情報が存するであろうという幻想の共有にほかならない。しかし、その書物の価格は、編集印刷製本広告費などの原価とその発行部数の関係から設定されるのであるから、売れそうな書物は安く、余り売れそうにない書物は高くなる。当然その内包する情報の価値と価格とは無関係である。さらに、私家版を除けば、原則的に売れる見込みのある書物しか出版されることはない。作者が書きたいものを書きたいように出せた時代など存在しなかったのである。また、肝心なのは、出版業は流通手段を得てはじめて商売になるということである。つまり、印刷業と流通業のはざまに位置し、インクの乗った紙に商品価値を付与するのが本づくりという仕事なのである。
いうまでもなく、近世文芸の顕著な特質は出板流通機構(システム)の上に成立したことにある。これは、写本においてすら板本ではないという意味を持ってしまった、ということでもある。したがって〈商品〉としての書物が大量に生産され消費されるようになった十九世紀以降、その出板流通機構を無視した文学研究は成立し得ない、といっても過言ではなかろう。
そこで、本稿では江戸読本を中心にして、書物が生成され流通するシステムの内部における作者の位置について考えてみたい。
商品としての書物
出板とは、さまざまな職能を持った複数の人間の分業によって成立する経済的リスクの高い投機的な事業である。その企画の成否が多分に流行に左右されるという宿命を帯びているだけでなく、多額の先行投資が必要であった。出板の総元締(プロデューサー)である板元は、資金の確保のみならず、優れた企画を用意し、魅力ある作者と評判の高い画工を揃え、確かな技術に支えられた筆耕や彫師を確保しておかなければならなかった。そのうえ、資金繰りのために決して立ち止まることの許されない出板という事業にとって、新たな企画や優秀な人材の確保は死活問題だったはずである。このような状況の中で、流通業者であった貸本屋が流行の行方を見きわめつつ、江戸読本という新しいジャンルを開拓し出板し始めたのは画期的なできごとであった▼1。
この江戸読本は、それまでの出板物のなかでは異例なほど美しい装幀が施された。草双紙の装幀がますます美麗になっていくのと並行して、その装幀やレイアウトなどにも細かい神経が払われようになった。商品としての書物が、文字列が記された本文だけでなく、表紙の色や意匠をはじめとする装幀や造本にまで、行き届いた心配りを要求したからである。いいかえれば、書物の持っている商品としての要素が以前に増して大きくなったと考えられるのである。
とりわけ江戸の地本類は、新春という限られた時期に集中して何種類も出されたから、草双紙などではとくに錦絵風摺付表紙の絵柄など、書物の外見が売れ行きを左右したに違いない。つまり、書物という商品は本文さえ読めればよいというものではなく、目で見て楽しみ、手で弄びつつ愛玩するものになってきた。その結果、書物自体に手工業的な工芸品ともいえる側面が備わったのである。
十九世紀初頭、江戸読本や合巻など新たなジャンルが登場し市場が活性化している時には、中本型読本に見られるように様々な試みが行われて様式が安定することはない。ところが、それぞれのジャンルにふさわしい造本様式が定まると、今度は差別化をはかるために内容の変化と連動して新たな装幀や造本の工夫が始まる。このように、体裁と内容が相互に影響しあってジャンルが変遷していったのは、書物が商品として作られたために発生した現象であり、決して文学的要請ではなかったはずである▼2。
しかし、天保の改革を経て人情本などが様式として定型化してくると、今度は今までとは逆に、既存の様式性の持つ枠組みの中での本づくりが行われるようになっていく。特定の作者名や板元名という固有名詞によりかかったブランド商法による安易な出板が大半を占めるようになるのである。
書物というテキスト
近世文芸が様式性を強く保持していたことは周知の通りである。大本半紙本中本という書物のサイズや仮名漢字片仮名という表記の使い分けは、その内容を反映し、かつ規定もしていた。ところが、江戸読本においては、板型はもちろんのこと、行数や字詰めというレイアウト、匡郭の有無、句読点の有無、基本的には総傍訓であった漢字の左側にわざわざ意味を付したり、本文の中途で二行細字の割注を入れたり、時には頭注を付け加えたりもした。また、序文の部分だけが院本風の板面を持っていたり、道行きの部分だけに浄瑠璃本書体が用いられたりする例も見られる▼3。一方、繍像や挿絵もその魅力の一端を担っていたが、本文を囲う匡郭の上部数丁にわたって陰火が飛んでいく絵が描き添えられたり、本文の一部に挿絵が入り込んだり、場合によっては本文の上から朱摺りで絵が加えられたりもする。このように、江戸読本は視覚的享受を期待して、文字と絵とが融合された板面(テキスト)を持っているのである。それゆえ、ピクチャレスクに関する議論が江戸小説におよぶ場合▼4、対象化されるのは本文の文字列だけではなく、タイプフェイスや本文のレイアウトなど板面全体なのである。
ただし、これら板面(テキスト)に刻まれた情報は原本につかなければ得られない。活字翻刻本は当然のこと▼5、たとえ影印本であっても、色摺りの部分がわからなくなったり、落書と印字との識別が不能になったりする。つまり、写本板本活版本というメディアの変換に伴って、必ず何らかの情報が欠落し、かつ別の情報が付け加えられるのである。極端な場合には、写本である作者の稿本と完成した板本との間でも同様の事態は発生している。さらに、同じ板から摺られた板本でも、その摺りの前後によって情報量の相違は生じるのである。すなわち、最善の板面(テキスト)は初板初印の原本以外からは得られないのである。
ただし、板本の書誌諸本研究が初板初印本捜索のために存在するわけではない。メディアの転換期における書物をめぐる諸相を明らかにし、享受史の側から文学史を見る場合には、むしろ後印本や活字翻刻本による情報が不可欠だからである。
書物の作者
ところで、近世文学研究においても作者の位置は過大に評価され過ぎてきたと思われる。それは、先験的に何らかの価値が付与されたものとしての〈文学〉を研究対象にし、あるいは文学的価値なるものの発見と顕彰とが自己目的化されているからにほかならない▼6。しかし、だからこそ、文学を〈作品〉か〈テキスト〉かという次元で問題にして、作者の位置を相対化せんとしたテキスト論の問題提起に意味があったのである。
あえて挑発的なものいいをすれば、研究の対象が文学であるかどうかが問題なのではない。過去に書物というモノが生産され読まれたという文化現象をどう把握するかが問題なのである。だからこそ、先験的に何らかの価値を纏ってしまった文学作品としてではなく、書物というモノ自体をテキストとして位置付け、巨大な流通機構の一部門にすぎない本文の書き手としての作者と書物との関係を、出板という場に還元したいのである。
たとえば、ある作品の作者の特定、その作業自体は重要な研究課題ではあるが、それが作品の価値を左右するのであるならば見当違いもはなはだしい。作者とは実体ではなく機能だからである▼7。むろん、作品の背後に作品を全面的に支配している特権的な作者像を見る必要がないというのは、今日では常識的な作品研究の立場であろう。さらに、作品を当代に還元して実体反映論的に読むという作品研究法においても、その当代そのものが仮想化された幻想に過ぎないということも自明であろう。
いや、いまだに常識や自明のことではないのかもしれない。作品の価値とは作者の意図した主題や思想を当代に返して正しく読み取るところから発見されるものであり、それこそが第一義的な研究目的であるという立場が、作家の伝記研究や思想史研究の意義を保証しているとすれば、安易に作品を作者の実生活の水準に引きずり下ろしてこと足れりとする伝記研究や、さもなくば文学作品としてのテキストを突き抜けて二度と作品に帰って来ることのない思想史研究が姿を消さないのも不思議ではない。
これらは、文学研究とは究極的には人間研究であるという古き良き時代の呪縛に捕われているせいであろう。なぜあらかじめ価値の定まった作品や、定評のある作家研究に意義を見い出して立論を急ぐのか。まして、近世の文学作品に確立した自我を持つ一個性としての作家の苦悩や心情の発露を見出し、その近代性を云々してこと足れりとする発展史観的な立場などは論外である。逆に、禁欲的に典拠操作等の小説作法を作家個人に還元して個性を論じる立場も少なくないが、相互テキスト性の発見を短絡的に方法に帰納するのはいかがであろうか。
少なくても板本に限定すれば、その本文から無条件に作者の思想を読み取れるとは考えられない。しかし、だからといって「作者の死」▼8を宣言しても、その文字列を記した者は確乎として存在したわけだし、時空を超えてその文字列を読む者はテキストの出口としての作者を求めずにはいられない。つまり、読者はテキストの起源としての作者を仮想化し、その中心へと向かう求心的な読みの根拠への希求を持つものなのである▼9。この普遍的といってもよい読書の姿勢は、書くこととの間に不可分な相互関係性を持っている。おそらく、テキストというものが宿命的に持つ多義性、ないしは多声的(ポリフォニック)な構造に起因するのであろうが、書くことと読むことの位相差は存外に少ない。
つまり、ものが書かれ読まれる場において、テキストは常に何らかの他者を要請していると考えられるのである。もちろん場合によっては自己の内部に他者を仮想化することもありうる。換言すれば、すべてのテキストは何らかのコミュニケーションの産物であり、他者の存在においてテキストは書かれ読まれるのである。
以下、出板機構という作品生産の場におけるコミュニケーションについて、出板予告を見ていきたい。
出板予告
江戸読本の板元である貸本屋は、刊行した書物の巻末に蔵板目録とともに近刻予告を掲載することがあった。曲亭馬琴の『新編水滸画傳』(文化四年、角丸屋甚助板)の巻十の巻末廿七丁に次のようにある。
魁蕾標注・園雪(そのゝゆき) 園部頼胤と薄雪姫の竒〓をつまひらかにしるす
前編五冊来春出版 後編五冊来冬出版
繪本東嫩錦(ゑほんあつまふたはのにしき) 全五冊
昔男井筒巻(むかしおとこゐつゝのまき) 馬琴作玉山画 全五冊
繪本璧落穂(えほんたまのおちぼ) 小枝繁著
袈裟御前貞操記(けさごせんていさうき) 山東京傳作葛飾北齋画 前編三冊後編二冊
○曲亭主人著述目録 近刻披露凡八部 繍梓の書肆一ニあらず
真間手姑名楓諺歌(まゝのてこなもみぢのわざうた)
袈裟御前七帖法語(けさごぜんしちでうほふご)
金澤文庫照手碑(かなざはぶんこてるてのいしぶみ)
姿ノ姫心ノ鬼・百合稚栄枯物語(ゆりわかゑいこものがたり)
女郎花頼風傳・本朝金石縁(ほんちやうきんせきえん)
宋素郷異聞録・漢和撫子草紙(からやまとなでしこさうし)
頼豪阿闍梨怪鼠傳(らいがうあじやりくわいそでん)
雲絶間請雨紀聞(くものたえまあまごひきぶん)
この広告のうち『そのゝゆき』前編は予告通り翌年刊行されたが、後編が出なかったのは確実で、馬琴の『近世物之本江戸作者部類』▼10に後編の執筆を拒否した顛末を詳細に記している。
小枝繁の作である『繪本東嫩錦』は文化二年に松茂堂との相板で、『繪本璧落穂』は前編が文化三年、後編も同五年に刊行されている。
「馬琴作玉山画」という『昔男井筒巻』は刊行が確認できないが、おそらく出ていないと思われる。当然のことであるが、現存本を網羅的に調査しても〈未刊であること〉の実証は不可能である。ただし『割印帖』などの出板記録に記載が見られないので、出ていない蓋然性が高い。なお、この予告は後印本になると「馬琴作玉山画」の部分が削られてしまう。馬琴の読本挿絵を上方の絵師が描いた例はなかったものと思われる。
一方、京伝の『袈裟御前貞操記』も確認できない。京伝と北斎の組み合わせで出た読本はなかったし、前後編で五冊というのは奇妙、中本型読本でも予定していたのであろうか。しかし、この企画は、ほかの作者によって別の板元から出されているのである。それが、小枝繁作、北齋・雷洲画『文覺上人発心之記・橋供養』(文化十二年、平川館・耕文堂板)であることは、見返しに「 一名袈裟御前貞操記」とあることから明らかである。
以上、出板の確認できる作品はすべて葛飾北齋が挿絵を描いているが、これは衆星閣角丸屋甚助板の読本における顕著な特徴である。
さて、「曲亭主人著述目録」の近刻予告は同じ書肆からの発兌予定ではないと断わり書きがあるが、実際に刊行されたのは以下の三作であった。『頼豪阿闍梨怪鼠傳』は文化五年に仙鶴堂から、『雲絶間請雨紀聞』は『雲妙間雨夜月』という題名で文化五年に柏栄堂から、『漢和撫子草紙』は『皿皿郷談』という題名で文化十二年に木蘭堂から出されたものである。
『真間手姑名楓諺歌』は未刊のはず、『金澤文庫照手碑』は『墨田川梅柳新書』(文化四年、仙鶴堂板)巻六の巻末廿六丁裏廿七丁表にある次の広告に見えている『照手姫松月竒編』と同じものであろうか。
曲亭主人著編題目 仙鶴堂識
○戲子名所圖會 己未冬出 全三冊
○小説比翌文 癸亥冬出 全二冊
○復讐竒譚稚枝鳩 甲子冬出 全五冊
○四天王剿盗異録 乙丑冬出 全十冊
○墨田川梅柳新書 今年新版 全六冊
○巷談因果経 仝前 全五冊
頼豪阿闍梨恠鼠傳(らいごうあじやりくわいそでん) 来ル卯の十二月夲うり出し申候
○曲亭主人著述目録 近刻披露 總一十部
袈裟御前七帖法語(けさごぜんしちでうほふご)
真間手姑名楓諺歌(まゝのてこなもみぢのわざうた)
女郎花頼風傳・本朝金石縁(ほんちやうきんせきえん)
名歌徳四才子傳(めいかのとくしさいしでん)
宋素郷異聞録・漢和撫子草紙(からやまとなでしこさうし)
雲絶間請雨紀聞(くものたえまあまこひきぶん)
照手姫松月竒編(てるてのひめせうげつきへん)
姿ノ姫心ノ鬼・百合稚榮枯物語(ゆりわかゑいこものがたり)
松浦佐用媛石魂録(まつらさよひめせきこんろく)
由良湊貝津物語(ゆらのみなとかひつものがたり)
『金澤文庫照手碑』や『照手姫松月竒編』などは、あるいは小枝繁の『寒燈夜話・小栗外傳』(全三編、文化十〜十二年、文金堂・衆星閣板)へ繋がったのかも知れないが、馬琴作としては出ていない。
右の仙鶴堂の広告の中で衆星閣の目録と重複しないのは『名歌徳四才子傳』『松浦佐用媛石魂録』『由良湊貝津物語』の三作で、このうち刊行が確認できるのは『石魂録』だけである。ただ、興味深いのは『名歌徳四才子傳』である。『石魂録』の典拠として利用された中国小説『平山冷燕』は一名「四才子書」とも呼ばれ、四人の才子佳人による詩の贈答が大きなモチーフとなった作品である。『名歌徳四才子傳』という予告から、当初は『平山冷燕』の独立した翻案を計画していたことが知れるのである。
一方、『袈裟御前七帖法語』は、京伝作として予告されていた『袈裟御前貞操記』と同じ世界を扱う趣向であり、板元の衆星閣が二人の競作を仕掛けようとしていたのではないかと思われる。馬琴の『七帖法語』の方は、『美濃舊衣八丈竒談』(文化十年十一月、山青堂板)の巻末広告にも見え、
○近刻(きんこく)出像國字小説(ゑいりかなものがたり)全本(ぜんほん)五巻(くわん) 山青堂開版
義男(ぎだん)の名氏(めうじ)ハ渡辺橋(わたなべはし)の由来(ゆらい) 馬琴著
袈裟御前七條法語(けさごぜんしちでふほうご)
節婦(せつふ)の終焉(をはり)ハ鯉塚(こひづか)の縁起(えんぎ)
この題目(げだい)ハ往(さき)に披露(ひろう)せしが此度(こだみ)ふたゝび思ひおこして 戌乃冬の新板とすそも/\袈裟御前の事世の 人口(じんこう)に膾炙(くわいしや)すといへども別(べち)にその顛末(てんまつ)つばらかに 作(つく)り設(まう)くその事(こと)ハふりたれども趣向(しゆこう)ハあたらしみを第一とせり
こハ殊更(ことさら)ニ抜萃(ばつすい)の新趣向(しんしゆこう)ニ御座候来ル甲戌の冬(ふゆ)無間違賣出し可申候
と、板元を山青堂に改めて今度は具体的な内容まで予告しているが、その刊行は確認できない。京伝の方も後に小枝繁に譲られ雄飛閣板となったので、残念ながら衆星閣が企てた袈裟御前ものによる二人の競作は実現しなかった。
『女郎花頼風傳・本朝金石縁』については徳田武氏の論文が備わり、中国小説『金石縁全傳』の翻案作として予定されていたが実際には刊行されず、『阿旬殿兵衛實實記』(文化五年十一月、木蘭堂板)に利用されていること、そして小枝繁が『春宵竒譚・繪本璧落穂』(文化三・五年、衆星閣板)で典拠として用いていることが明らかにされている▼11。この予告がそのまま『實々記』に横滑りしたものとは考えにくいが、同じ板元から馬琴の企画を利用した小枝繁の『璧落穂』が出ているのは、いかなる経緯によったものか興味が惹かれる。
最後に『姿ノ姫心ノ鬼・百合稚栄枯物語』であるが、これは萬亭叟馬作・北齋画『由利稚野居鷹(ゆりわかのずへのたか)』(文化五年、木蘭堂)として刊行されたものと思われる。醉月庵主人とも名乗る人物の作で、刊行に際して蒙古退治の一条が改めに引っ掛かり差し留られた問題作である▼12。
ここまで見てきた衆星閣と仙鶴堂とは、ともに江戸読本の形成期に中心的な役割を担った板元である。現存する稿本などを見る限りは、これらの広告も馬琴自身が記したものと思われるが、実際の企画の実現には板元の意向やさまざまな事情が介在したものと思われる。出板予告が必ずしもその板元から馬琴作として出たものばかりではなく、別の板元やほかの作者に譲られたものも見られるからである。このことは、馬琴が書きたいものを書きたいように書いていたわけではなく、出板機構の制約を受けながら執筆していたことを具体的に証するものである。
企画の流通
『俊寛僧都嶋物語』(文化五年十月、柏榮堂板)の巻八の巻末廿八丁表にも予告が載る▼13。
一名緑林入斧(いちみやうりよくりんにつふ)
俊寛嶋物語後編(しゆんかんしまものがたりこうへん)
麻生松稚(あさふのまつわか)勧懲蓬譚(くわんちやうほうだん)
徳壽丸(とくじゆまろ)叡山(えいさん)に登(のぼ)りて法眼(ほうげん)俊玄(しゆんげん)と号(ごう)する迄(まで)の ものかたり蟻王(ありわう)が終始(しうし)松(まつ)かげの硯(すゝり)足摺(あしすり)大明神(だいみやうじん) の縁故(えんこ)麻生松稚(あさふのまつわか)退治(たいぢ)の顛末(てんまつ)義経(よしつね)洛(みやこ)没(お) 落(ち)以後(いご)の事(こと)に係(かゝ)る 近刻
曲亭主人(きよくていのぬし)新著稗史(しんちよのさうし)目次(もくじ) 左(さ)の三編(さんへん)ハいまだ他方(たほう)に同趣向(どうしゆこう)あるを聞(きか)ずよりてまづ題目(だいもく)を標榜(ひやうばう)してちかきに梓行(しんこう)す
新海人藻屑物語(しんあまのもくずものかたり) 慶養(けいよう)禅林(ぜんりん)のあまのもくず物(もの)かたりを翻案(ほんあん)してし義男(ぎだん)勇士(ゆうし)の栄辱(ゑいちよく)を述(のぶ)
里見八犬士異傳(さとみはつけんしいでん) 犬山(いぬやま)犬塚(いぬづか)犬飼(いぬかひ)犬江(いぬえ)犬村(いぬむら)犬川(いぬかは)犬坂(いぬさか)犬(いぬ)田(た)等(ら)が智勇(ちゆう)物語(ものがたり) 并(ならびに)七馬士傳(しちばしでん)嗣出(ししゆつ)
尼子九牛一毛傳(あまこきうぎういちもうでん) 尼子家(あまこけ)の勇士(ゆうし)牛尾(うしを)牛田(うした)牛岡(うしおか)牛川(うしかは)牛井(うしゐ)牛屎(うしくそ)牛畑(うしはた)牛飼(うしかひ)牛糠(うしぬか)等(とう)九人の一代(いちだい)話説(はなし)
『俊寛僧都嶋物語』後編と『新海人藻屑物語』は未完のままで終わったと思われる。『里見八犬士異傳』は、『八犬傳』の出板予告としては早いものであるが、『阿旬殿兵衛實實記』(文化六年九月、木蘭堂板)巻十の十四丁裏に「里見八犬(さとみはつけん)出身竒傳(しゆつしんきでん)・犬櫻咲分草紙(いぬさくらさきわけさうし) 曲亭馬琴翁著 来ル午ノ年新版」▼14とあり、後に「小説快事八犬傳(しようせつくわいじはつけんでん) 北齋画 近刻」(『青砥藤綱摸稜案後集』、文化九年十二月、平林堂板)となっている。構想段階で題名や板元が流動して揺れていた様子がうかがえる。『尼子九牛一毛傳』であるが、これは『八犬傳』『七馬傳』と同様に馬琴の思い付きであったのを、後年為永春水等に譲ったことが知られている▼15。この予告の最初に「左の三編ハいまだ他方に同趣向あるを聞ずよりてまづ題目を標榜してちかきに梓行す」とあるように、予告広告というものは、類板を牽制し優先権(プライオリティ)を確保するためになされるものであり、かつ販売促進のためでもあった▼16。だから、予告広告を出して〈縄張〉された企画に抵触するような出板をする場合には、その意向を打診するのが礼儀であったようだ▼17。
『雲妙間雨夜月』(文化五年、柏榮堂板)巻五の巻末廿七丁裏には次のようにある。
俊寛僧都嶋物語(しゆんくわんそうづしまものがたり) 全六冊
一侠(いつきやう)両貞(りやうてい)・糸桜赤縄奇編(いとさくらせきじやうきへん) 全五冊
梅川忠兵衛大和紀行(うめかはちうべゑやまときこう) 全六冊
お染久松昔物語・あきの草市(くさいち) 全五冊
長右衛門おはん全傳・桂花秋波晤録(かつらのはなしうはごろく) 全五冊
浮世猪之介暁傘(うきよゐのすけあかつきかさ) 全三冊
右曲亭子(みぎきよくていし)来載(らいさい)新著編(しんちよへん)の題目(だいもく)今(いま)聞(きけ)る所(ところ)を以録之(もつてこれをろくす) 門人琴驢
また、同年刊の『三七全傳南柯夢』(文化五年、木蘭堂板)巻六の巻末三十六丁
表にも琴驢の名前で予告が出る。
俊寛僧都嶋物語(しゆんくわんそふづしまものかたり) 全六冊
阿染久松傳秋七草(おそめひさまつでんあきのなゝくさ) 全五冊
桂華秋波新語(かつらのはなしうはしんご) おはん長右衛門が物かたり也
瀧口横笛想夫憐(たきくちよこふえさうふれん) さがのゝ巻を宗とす
梅川忠兵衛大和紀行(うめかはちうべゑやまときこう) 二ノ口むらの巻を宗とす
糸桜赤縄奇編(いとさくらせきじやうきへん) おふさ小糸がものかたり也
右曲亭先生近日著編ノ題目以今所聞録十之二三 門人琴驢
出ていないのは、『梅川忠兵衛大和紀行』『桂花秋波晤録』『浮世猪之介暁傘』『瀧口横笛想夫憐』である。ほかの作は少し題名が変えられたものはあるものの、具体的な形になっている。
ここで気が付くのは、これら文化五年に出た本に付された予告の多くが、世話浄瑠璃に基づく作品であること。江戸読本の出板点数上でピーク迎えるのがこの年であったが、『八犬傳』が出はじめる文化末年を境として、短編読切の江戸読本は次第に長編へと変化していくことになる。この文化年間に出た短編読切の読本は、この時期に基本的な企画が立てられたものと考えて差し支えない。複数の板元との間で様々な企画の交流をしつつ出板していったのである。
『皿皿郷談』(文化十二年、木蘭堂板)巻末の付された目次には少々問題がある。
○著作堂(ちよさくどう)編述(へんじゆつ)出像(ゑいり)國字小説(かなものがたり)目次(もくろく) 書肆 木蘭堂蔵版
三七全傳南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ) 前北齋画 全六巻
占夢南柯後記(ゆめあはせなんかこうき) 同画 前後八巻
旬殿實々記(しゆんでんじつ/\き) 豊廣画 前後十巻
常 夏 草 紙(とこなつさうし) 春亭画 全五巻
絲櫻春喋竒縁(いとさくらしゆんてふきえん) 豊清画 前後八巻
皿 皿 郷 談(べいべいけうだん) 前北齋画 分巻(とぢわけ)六冊
朝夷巡嶋記(あさひなしまめぐりのき) 近刻 初編五巻
朝比奈勇力鑑(あさひなゆうりきかゞみ) 北壷游著 古版六巻
文化十一年 江戸四日市 松本平助
歳次甲戌 江戸
春[木蘭堂] 深川森下町長慶寺前 榎本〓右衛門
正月上浣 書肆
發兌之記 同 所 木蘭堂 榎本平吉梓
これは天理図書館蔵自筆校合本に付された刊記である。実際に刊行されたものと見比べると、校合本で朱線によって削除が指示されている『朝夷巡嶋記』と『朝比奈勇力鑑』の項は刊本では空欄になっており、刊年の部分も「文化十二年歳次乙亥」と朱筆で訂正された通りに直されている。本書は自序末に「文化十年冬十月」と見えることから、何らかの事情があって刊行が一年遅延し、同じ年に『朝夷巡嶋記』が大坂の文金堂からに出ることに変更されたために、木蘭堂蔵板目次から削除されたものと思われる。また、校合本の一巻八丁裏にある『朝夷巡嶋記』の予告広告も一部が朱線で削除が指示されている。
曲亭馬琴著
朝夷巡嶋記(あさひなしまめぐりのき) 全十五巻
初編五巻近日刊行
この書(しよ)ハ朝比奈勇力鑑(あさひなゆうりきかゞみ)といふ繪入(ゑいり)よみ本を本株(もとかぶ) として更(さら)に新奇(しんき)の趣向(しゆこう)を立(た)ッ神出鬼没(しんしゆつきぼつ)一トたび巻(まき)を 披(ひら)くときハ手(て)をはなちがたかるべし来ル甲戌の冬遅滞(ちたい)なく賣出(うりだ)し申候書肆 木蘭堂平吉
朱筆で削除が指示されているのは、右の「全十五巻」の部分と、木蘭堂の口上である。板元が変わったのであるから当然の措置ではあるが、注目すべきは、典拠として『朝比奈勇力鑑』を明かしていた部分を隠蔽してしまったことである。のみならず『巡嶋記』初編の序文では「ふるき草紙(さうし)に勇力鑑(ゆうりきかゞみ)とかいふものありとか聞(きゝ)しが。無下(むげ)に見どころなきものなれバ。露(つゆ)ばかりもこれを取(と)らず。只(たゞ)わが意匠(ゐせう)に作為(さくゐ)したれバ。みな憶度(そらだめ)もて綴(つゞ)るのみ。絶(たえ)て一巻(ひとまき)も引書(いんしよ)を求(もと)めず」と素知らぬふりを決め込んでいるから、典拠を秘匿する方針に転換したようである。
石川秀巳氏は、草双紙において画題とも呼べるほどに定型化した朝夷像と『巡嶋記』との関係を明らかにしたが▼18、この『朝比奈勇力鑑』なる書は延享二年の黒本ではない。削除された広告に「北壷游著」の「古版六巻」とあり、また、おそらく馬琴が書いたであろう木蘭堂の口上に「この書ハ朝比奈勇力鑑といふ繪入よみ本を本株として更に新奇の趣向を立た」とあるから、書目類には該当書名が見当たらないけれども、北壷游の『湘中八勇傳』(明和五年、崇文堂板)の改題本であろうと思われる。中村幸彦氏が『水滸傳』翻案の最初のものとして紹介しつつ『巡島記』における摂取利用を明らかしたように▼19、この『湘中八勇傳』は紛れもなく『巡嶋記』の粉本だったからである。
一方、おもしろいことに当初『巡嶋記』の板元になるはずであった木蘭堂は、粉本である『朝比奈勇力鑑』を再板して『巡嶋記』と一緒に出し、その違いを読ませようという企画を持っていたらしい。それが目次に並べられていた理由だと考えられるからである。しかし、板元が移り、馬琴が典拠秘匿の方針へ変更したため、この企画は残念ながら実現しなかったのである。この間の事情を詳らかにできないのが残念であるが、板元と作者の微妙な関係が読み取れる具体例の一つであろう。
京伝の未刊本
京伝に目を転じてみよう。『忠臣水滸傳後編』(享和元年十一月、仙鶴堂・耕書堂板)の巻五巻末跋三丁表裏に、やはり未刊で終わったとおもわれる『月窓新語』『近松傳竒國姓爺西湖柳』『國字小説怪談新書』『遼東豕』の広告が出ている。それぞれ短い紹介が付されているが、中国の小説や戯曲の翻案を考えていたようである。『櫻姫全傳曙草子』(文化二年十二月、仙鶴堂板)の巻末には『繪本五説経』が「来ル丙寅年刻」とあり、『浮牡丹全傳』(文化六年、鳳来堂板)の巻末には後帙の予告とともに『女豫讓襤褸物語(をんなよじやうつゞれものがたり)』前編が、『雙蝶記』(文化十年九月、永壽堂板)には、随筆『雑劇考古録』と『五色の狂言』『大晦日かけ取物語』『實方雀物語』が簡単な内容紹介とともに記され、さらに絵草紙合巻として『琴声美人傳』『五絃集半面美人』が載る。以上挙げたのは、京伝の作としては実現しなかったと思われるものばかりである。
京伝の『昔語稲妻表紙』(文化三年、伊賀勘板)の巻末「奥ノ二」丁▼20の表には、稲妻表紙後編の近刻予告、および朱子読書丸と小児無病丸との広告があり、裏には次のようにある。
醒醒齋山東翁著書嗣出目録 所刻之書肆各有別
○日高川清姫傳竒 六冊 ○愛護若白猿傳竒 五冊
○相州江之嶋・兒淵来由記 六冊 ○梅之与四兵衞物語 三冊
○丹波與作関小万・復讐録 五冊 ○松風村雨事跡考 五冊
○孝婦傳襤褸錦 三冊 ○奥州安達原異聞 六冊
○小野小町榮枯録 五冊 ○猫又屋敷怪異編 五冊
○袈裟御前貞操記 六冊 ○實方雀物語 五冊
○山吹山巴ヶ淵・旭物語 五冊 ○天竺徳兵衞・犬神物語 五冊
この中で、京伝の作として確認できるのは『梅之与四兵衞物語梅花氷裂』(文化四年二月、鶴喜・鶴金板)前編三冊▼21のみで、後編は出ずに終わったものと思われる。
『袈裟御前貞操記』がここでは「六冊」となっているものの、小枝繁の『文覺上人発心之記・橋供養』となっていることは前述した。さらに、右に挙げられた書名のうち、『愛護若白猿傳竒』は中本型読本『愛護復讐・神〓傳』(前編二巻後編三巻、〓〓陳人作、北岱画、文化五〜六年、雄飛閣・平川館板)となり、『丹波與作関小万・復讐録』は『馬夫與作乳人重井・催馬樂奇談』(五巻六冊、小枝繁作、北馬画、文化八年、雄飛閣板)となったのではないかと思われ、それぞれ板元は異なるものの、すべて小枝繁の手になったものである。
いまここで詳しく検証している余裕はないが、そのほか『松風村雨事跡考』は『秋月竒翫・松風村雨物語』(二編十巻十冊、文東陳人著、国直・英泉画、文化十二・文政八年、〓板)、『奥州安達原異聞』は『繪本復讎・安達原』(六巻六冊、文亭箕山著、蓼華画、文化四年、今津屋辰三郎板)、『猫又屋敷怪異編』は『敵討猫魔屋敷』(中一巻一冊、振鷺亭作、北馬画、文化五年、慶賀堂板)に関係したと思われる。
ここまで見てきたことから、京伝作として予告された読本の大半は、別の板元から京伝以外の作者の手によって出されていることがわかる。ならば、この予告は誰が書いたのであろうか。京伝自身の腹案でなかったとは断定できないが、馬琴の場合と違って板元の意向が強く反映していたものと思われる。
なお、京伝馬琴以外の作者の場合や、草双紙との趣向のやりとりを視野に入れる余裕がなくなってしまったが、予告広告から取り出せる基本的な場の問題には一瞥を加えることができたと思われる。
読本の書式
ところで、予告広告に題名だけ示された作品を、なぜ別の作者が書けたのであろうか。それは江戸読本というジャンルの書式(フォーマット)が定まったからにほかならない。草双紙における書式について水野稔氏は「男女の見染めと契り、強悪人の横恋慕から殺害、宝物の紛失、悪人の惨虐の累加、孝子の受難、密通と悪計、怨念と執念と怪異、亡霊の告げと冥助、敵の遊蕩、討手の辛苦、仇討本望の成就、紛失の宝物出現、家中の陰謀の暴露、誅罰、肉親の不測の邂逅、婚姻と大団円」▼22と指摘しているが、江戸読本の場合も同様である。もちろん、演劇の分担執筆を可能にしている〈世界〉に依拠している部分も大きく、それを含めた書式と考えてよい。
本来、書式(フォーマット)とは先験的に存在するものではなく、常に流通(コミュニケーション)の場面においてテキストとともに生成されるはずのものである。これこそ、テキストが何らかの他者を必要とする由縁なのである。つまり、基本的に書式を持たないテキストは存在しえないのである。ところが逆に書式さえ用意されてしまえば、テキストは誰にでも生成可能になるのである。
江戸読本にとっての書式とは、まずもってその体裁と造本様式であり、中国白話小説や敵討御家騒動巷談等の典拠(プレテキスト)群や、〈世界〉と〈趣向〉の文法であり、そして独特の表記法による文体でもあった。京伝や馬琴以外の作家たちが企画を継承して執筆できたのは、この書式が備わっていたからであった。
したがって、江戸読本というジャンルを構成しているのは、じつはその形式的体裁にほかならなかったのであり、決して内容ではなかった。多くの読者たちが読んだのは、たとえば勧懲などという主題ではなくて、その書式(フォーマット)そのものだったからである。
流通(コミュニケーション)が書物(メディア)の持つ機能であるとすれば、商品価値こそがメディアとして機能している書物の実態である。すなわち、書物がメディアたりうるとすれば、それは商品価値を持つからにほかならない。ならば、作者が出板流通機構という構造をみずからのうちに抱え込んだ時、はじめて商品としての書物が書かれることなったのである。