『英名八犬士』攷

高 木  元 

 はじめに

鈍亭魯文の『英名八犬士』は、曲亭馬琴の長編読本『南総里見八犬伝』の抄録本であるが、嘗て全編を翻刻紹介したことがある▼1 。魯文は他にも2種の『八犬伝』抄録合巻『當世八犬傳』▼2『仮名読八犬伝』▼3 と、『八犬伝』を艶本化した『佐世身八開伝』▼4とを手掛けており、『八犬伝』を自家薬籠中のものとしていた。

本稿では『英名八犬士』における抄録という作業の実態について具体的に検証した上で、その後の調査で知り得た書誌情報や後印本の出板状況などに関して記しておきたい。なお、行文の便宜上、前述拙稿の解題部分を適宜改稿して使用したことをお断りしておく。

さて、魯文の著述活動は「和堂珍海」と名告って開始されたが、嘉永2年刊『名聞面赤本』において「魯文」の名弘めを行って以後、習作期であった嘉永安政期には「鈍亭」と称していた▼5。この『英名八犬士』は、鈍亭時代の魯文の手になった切附本▼6で、安政2年春から3年秋に至るまでに全8編が伊勢屋忠兵衛から上梓された。

そもそも切附本は「古人の糟粕を〓〓に口を粘する」(8編序)などというように先行作の抄録本であって、充分な校正を経て刊行されたものではなかった。抄録の際に生じたと思われる欠字や衍字などの単純なミスや、明らかな誤字なども散見する。しかし、切附本というジャンルの目的が、流布していた実録や小説等の早分かり廉価版であることから考えれば、大した問題ではなかったのであろう。

従来の文学史では、本作等の抄録本について、「糟粕を舐める」「洗濯物」などと卑下した魯文の口吻を文字通りに受け止め、非創造的で安易な仕事として切り捨ててきた。しかし、同時期には『国性爺合戦』『通俗三国志』『通俗漢楚軍談』などの長編作を続けて抄録している▼7。長編作の抄録切附本は鈍亭時代の魯文が積極的に方法化して成立したものとして、今少し具体的に検討した上で、文学史に位置付けてみる必要があるものと思われる。

 抄録という方法

さて、『英名八犬士』の抄録法として特徴的なのは、新たに書き換えるのではなく、可能な限り原作の本文を生かそうとしている点にある。文章を繋げるために最小限の書き込みは施しているものの、原文を切り貼りすることに拠って抄録本を作成しているのである▼8

まず、全体の丁数を圧縮するために、原文の冗長な箇所や、多くの修辞と説明的文辞とを削り、また原作の特徴の一つである考証部分や、様々な蘊蓄を傾けた章段は悉く削除されている。表記に関しても、原作に用いられている句読点は一切省かれ、かつ総振仮名であった原作に対して多くの振仮名を省いている。ただし、幾度も登場する人物名の振仮名を残しつつ、甚だ読み難い意訓宛字的な漢字には振仮名を施さない箇所が多いなど、行き届いた配慮がなされた仕事だとは考えられない。

口絵や挿絵も原本の図柄に准じてはいるが、魯文の画稿に基づいたものと思われ、一盛齋芳直(一部は一容齋直政)の手に拠って新たに描き直されている。また、画中に記された賛や書入れに「呂文」や魯文の別号「埜狐」などと見えていることから、これらも原本の挿絵を踏まえて新たに魯文が書き換えたことが知れる。

さて、ここで有名な「浜路口説き」の場面(第3輯巻之3第25回)を例示し、原本を切り貼りして抄録したその手捌きの実態を確認してみよう。以下、原本『南総里見八犬伝』▼9の本文テキストを掲出し、魯文が『英名八犬士』(2編)に抄録した部分をゴシック体にし、文脈を繋げるために魯文が補った部分を《 》で括ってみた。つまり、太ゴシック体の部分が『英名八犬士』本文を示している。

さるほど信乃しの臥房ふしど しかど、あくるをまてばいもねられず、 《ひとりつく%\久後ゆくすゑを思ふおりからものからひとつを、たれはとめねど父母ちゝはゝの、墳墓ふんほいま遠離とほざかる、さと名残なごりのいとをしき。こゝろはおなじ真砂路まさごぢの、 濱路はまぢ臥房ふしど脱出ぬけいでて、 つきうらみをいふよしも、納戸なんどいびき二親ふたおやの、目覚めざめほどにとこゝろのみ、せかれてあはぬかたにさへ、なほはゞかりせきの、おとたてさせじとしきゐむ、ひざふるへてさだめなき、浮世うきよと思へばあぢきなく、かなしく、つらく、うらめしき、をとこまくらちかづけは、信乃しのひとありと見て、かたなひきよせ、岸破がばおきたそや、ととへおともせず。原来さては癖者くせものござんなれ。わが寐息ねいきうかゞふて、さしころさんため」とうたがへばいよゝ由断ゆだんせず、行燈あんどん火光ひぐちさしけて、熟視つら/\みれば濱路はまぢなり。はしなくはすゝまで、 かや後方あとべふししづみたゞなきしてたりける。信乃しの濱路はまぢてけれバうちさわむねをしづめてこゑたてねど哽咽むせかへる、なみだよそをしのぶすりみだくるしとかこつめり。強敵ごうてきにはおそれざる、壮客ますらをながらうちさはぐ、むねしづめてかやいで釣緒つりをときつゝ臥簟ふしどかたよせ、「濱路はまぢそもじ何等なんら所要しよえうありて 更闌こうたけたるにふしもせで、 こゝへハまよ給ひし》、 瓜田くわでんにはくついれず、李下りかかんむりたゞさずといふ、ことわざあるをしらずや」 とがむれはうらめしげになみだはらふて かうべあげ「なにしにつるとよそ/\しくいはるゝまであぢきなきたとへ妹〓いもせのみでも糾纏よりいとの、化結あだむすびなるなかなれば、しかのたまふも無理むりならねど、一旦いつたん おや くちづから、 ゆる 給ひし 夫婦めうとにあらずや。日來ひころハとあれかくもあれ今宵こよひかぎりのわかれぞとつげしらせ給ふともおんはぢにハなるまじきに いでてゆくまでしらずがほに、 たゞこと捨言葉すてことばかけ給はぬハなさけなし。こゝろつよしとゑんずれバ信乃しのおもハず歎息たんそくひと木石ぼくせきにあらざれば、有繋さすがぜうをしりつゝも、嫌忌けんきうちおくゆゑに、 《それおもはぬにハあらねどもはゞかることのあるゆへにくちひらきてつぐるによしなし。おんまことよく》 われ 》 り。 わがこゝろをもそなたハしらん胸中きやうちうをはおんしるらん。 許我こがはつかに十六三四日みかよかには往還ゆきゝすなるに、 《滸我こがへゆくともとふからずかへる日をまち給へとすかせバ濱路はまぢハ目をぬぐひのたまふハいつわりなり。一たびこゝり給はゞいかでかかへり給ふべき。 籠鳥かごのとり雲井くもゐしたふは、そのともをおもへばなり。丈夫ますらを故郷こけうるは、そのろくをおもへばならん。さてもわがかのふたがたは、愛敬あいけう憎悪ぞうおさだめなく、おん鬱悒いぶせくおもひ給へば、大約およそ此度こだみ起行たびたちも、いだるもの、かへるをねがはず。いでてゆくひととゞまるをよしとせず。かゝれば一たびこゝをさりて、いづれのにかかへり給はん。 今宵こよひかぎりのわかれにこそ。もとわらはにハ四人よたりのおやあり》 がおやにははしらあり。そはおんもしり給はん。しかれとも現在げんざいの、二親ふたおやこれをつげ給はず。ほのかつたきゝはべれは、 まことおや煉馬ねりま家臣かしん胞兄弟はらからもありとハけど》 ばかりきこえて、 その 姓名せいめいさだかならず。 《らですごせしに》 さればとて、養育やういく恩義おんぎいまさらに、あだには思ひはべらねど、うみおんまたたかかり。いかでまことおやのうへ、しらまくすれど女子をなご甲斐かひなさ、ひとつぐべき事ならねば、ひとつにものを思ふなる、目睡まどろまあけがたの、ゆめにもがなと願言ねぎごとに、いのらぬかみはあらずかし。かう思ひつゝ年月としつきを、おくるはいともくるしきに、 《風聞うはさきけ去年こぞなつ四月うつきおもひがけなく 豊嶋としま 煉馬ねりま 両家りやうけ 滅亡めつぼう一族いちぞく郎黨らうどう》 そが家隷いへのこ老黨ろうだうも、みな のこりなくみなうたしにあるからハわらはが》 き、と風聞ふうぶんおほかたならざれは、さではわが おや兄弟きやうだい同胞はらから かならず》、 こそは のがれ給はしとおもへバいとゞかなしさのやるかたもなきなげきしてかはかそでかたしぐれ、おやにはつゝうき苦労くろうせめておんにうちあかさバおや同胞はらからをもらん》 その陣歿うちしにあとをしも、とはんよすがはよそになし。にあるかぎつれまとふ、良人つまにはなにかくすべき。しげ人目ひとめせきに、とりのそらのあれかし、と思ふものからをりもなき、をりやゝ ちかつけバ は、はやく 継母はゝごつけられてあはてまどひて退しりぞきしハ去歳こぞ七月ふつきのころなりき。これよりのち いさゝかはせかれて なかたえ》 たれども、したゆくみづのかよひは、 かはらぬ心のまことのみ。あさゆふ なに おん うへ、 つゝが もあらずいだし、冨栄とみさかえさせ給はせ、 《なかれといのらぬ日とてハなきものを心つよきもかぎりあり。 すて給ふが伯母御をばご義理ぎりわらはが思ふ百分一おん身にまことましまさバ 如此しか々々/\ゆゑありて、かへりさだめかたし、 しのびていで共侶もろともにとのたまはするともつまなり妻なりたれが密夫みそかを 不義ふぎとてそしるべき。 いと強面つれなし、と思ふほどはなれかたきは女子をなこまことわかたもとにふりすてられて、 あくがれてなんよりおん身やいばにかけてよと》 たべ。百年もゝとせのち冥土よみぢにてまちはべらん」とかき口説くどく、 いともせつなるうらみのかず/\ 泣音なくねはゞか千行せんこうの、なみだそでたゝへたり。 信乃ハそのこゑよそにやもれ心くるしくて》 といへばえに、岩井いはゐみづをむすびかけし、えにしをこゝにとくよしなければ、愀然しうぜんとして 《おもふものから嗟嘆さたんしつ こまぬきたるひざき、 「やよ濱路はまぢおん身がうらみハひとつとしてことはりなけれど》 らずといふよしなけれど、いかにせん、わがこのたび起行たびたちは、伯母をば夫婦ふうふ指揮さしづによれり。まこと吾〓わなみ遠離とほさけて、おんむことらためなり。もとよりわれはおんために、をとこにしてをとこにあらず。そはいひかたき二親ふたおやの、底意そこゐすいし給へるならん。るをいまさらぜうひかれて、おん誘引出さそひいだしなば、たれ淫奔いたつらといはざるべき。とゞまりかたきをとゞまり給ふは、便是すなはちこれわがため也。さりかたきをいでてゆくも、またこれおんためならずや。 たとひしばらわかるゝともかたみに心変らずバついにハひとつに寄時あらん。親達おやたちの目覚ぬ間に、疾々とく/\臥房にかへり給へ。 われまたこゝろかけんには、おんおやをたづねかむがへ、存亡ありなしをしる便著たつきもいでん。とくゆき給へ」とさとしても、たちもあがらずかうべり、「ぬれさきこそつゆをもいとへ。二親ふたおやのいざとくて、こゝへつるをとがめ給はゞ、わらはもまうす事はべり。たゞ共侶もろともに、とのたまはする、おんいらへきゝはべらでは、いきしきゐいでじ。ころしてたべ」と衝詰つきつめし、かよはき女子をなこたましひも、こゝにすはりてうごかねば、信乃しのはほと/\こうはてて、しのびながらのこゑはげまし、「さりとてはまたきゝわきなし。いのちあらばときもあらん。しするがひとまことかは。たま/\伯母をば伯母夫をばむこの、ゆるしをたる 出世しゆつせ首途かどでさまたげせバ わが つまあらず 過世すくせあたいひはなされてたしなむれば、 濱路ハよゝと泣沈み「こゝろのねがひをとげんとすれバおんあたになるよしを諭し給ふにすべもなし。 とにもかくにもあぢきなき、わがひとつのゆゑならば、思ひたえとゞまはべらん。 さらバ道中どうちうつゝがなく をりからはげしきまけせず、 許我こがまいりてをもあげ家をおこ給ひなバ》 て、冬籠ふゆこもり北山きたやま下風おろしくころは、 かぜ便たよりにしらせてたべ。 筑波つくばやまのこなたには、つゝがもなくてきみます、と思ふのみにてはべりてん。 いまよりよはたまの緒のたえなバ 〔挿絵〕 菅家\なけバこそわかれをしめとりの音のきこえぬさきの暁もかな〕 是をこの世のわかれたのむハまだ見ぬ冥土よみぢのみ。二世のちぎりハかならずよ。御こゝろ変らせ給ふな」と はかなき事を木綿襷ゆふたすきかけてぞちぎ願言ねきごとは、 怜悧さとしく》え ても恍惚おぼこなる未通女をとめこゝろの哀れなり。信乃もさすがにうち芝折しをれなぐさめかねて点頭うなつくのみ。 またいふよしもなかりけり。 折からつぐる八こゑとり信乃しのハ心をおくの間なる二親ふたおやめざまし給はなん。とく/\といそがしたてれハ濱路はまぢハやうやくたちあがりあけきつはめなん腐鶏くだかけ未明まだきなきせなやりつゝそれはこひせしくさまくら、これたびゆく妹〓いもせのわかれ、とりなかずはあけじ。あけずはひとさめじ。うらめしのとりや。よに逢坂あふさかのあふはあらで、ゆるさぬせきはわがうへに、在明ありあけつき果敢はかなき」と口実くちすさみつゝ いでんとすれバ外面とのかたしはぶきして障子せうじをほと/\とうちたゝとりうたふて候にいまださめ給はずやと呼起よびおここゑ額藏がくざうなり。信乃しのよばれて いそがはしく、 いらへをすれバ 額藏がくざうは、 庖〓くりやのかたに退しりぞきけり。とくこのひまにとれバ るゝ、 濱路はまぢまぶた泣腫なきはら くらきかたより見かへれど、 なみだながらにいでてゆく。》 にかす挾山形さやまがた紙張こばりかべをよせて、おのが臥房ふしどなきにゆく。げにかなしきは死別しにわかれより、生別いきわかれにますものなし。
あゝまれなるかも、この未通女をとめ。いまだ鴛鴦ゑんおふふすまかさねず、連理れんりまくらならへずして、そのぜう百年もゝとせ夫婦ふうふましたり。しかるに信乃しのぜうひかれて、そのこゝろうごかさず、よくそのぜうしたがふて、男女なんによべつあるおもむきたり。それ色界しきかい迷津めいしんは、けん不肖ふせう無差別むしやべつ也。江湖がうこ許夛きよた少年せうねんはい、一たびこのきしのぞみて、おぼれざることあるものすくなし。るをいまこの義夫ぎふ節婦せつふあり。濱路はまぢ恋慕れんぼは、たのしみていんせんとにあらず。信乃しの嗟嘆さたんは、かなしみやぶらず。濱路はまぢぜうはなほべし、信乃しのごときはいよ/\まれ也。

以上、多少長くなったが「浜路口説き」と呼ばれる章段の全体を見てきた。太ゴシック体の部分だけを読むと、新たに作られた『英名八犬士』の本文が辿れるが、その他の部分と併せて読んでみると削られた原文や、語順を入れ替えるなどの操作をしている部分などを確認することができる。実に凝った手捌きを用いていることが理解できるだろう。

一見、安易な手法だと受け取られる抄録作業も、実は左程容易なものではなかったのである。また、『八犬伝』原本を手許に置いて書写しながらでなければ紡ぎ出せない文章であることも理解できよう。それも、馬琴の語る蘊蓄や所謂草紙地の部分、さらには過剰な修飾などを削ぎ落とし、登場人物の行為にのみに着目した抄録であることが一目瞭然である。当然、この作業の前提としては全編を通読して筋と構成を把握していることが不可欠であるのみならず、その章段を精読すること無しにはなし得ない作業でもある。さらに、文章の繋ぎ方を丁寧に観察するに、削除しても文脈の通じる助詞を極力省き、さらに会話の中途から別の話者の台詞に繋げてしまうなど、実に巧みに工夫されているのである。

当時、読本は高価な本であり、貸本屋で借りて読むのが普通であった。手許に置いて作業するに際して、板元から融通を受けた可能性があるが、いずれにしても『八犬伝』全106冊を読破した上で書写しつつ抄録するためには、如何程の時間と労力とが必要であったことか。抄録した結果の分量に相応しい場面の取捨選択も不可欠であったはずである。

戯作者流の韜晦として抄録を卑下する言説を吐くことが多かった魯文であるが、先行テキストの抄録を目的とする切附本というジャンル創出を担い、その中心的な役割を果たしてきた。それ故に抄録家と称しても良いほどに長編小説を抄録する才に闌けていたものと思われる。前述の如く、長編の要約には相応の工夫と才能とが不可欠であったからである。

原作後半の大半を占める「対管領戦」や「親兵衛の上洛」に関しての記事一切と「回外剰筆」とは省かれており、前半部のように原文の切り貼りに拠る部分が大幅に減り、リライトに拠って抄録する部分が増えている。ただし、原作の筋や話柄の順番などが書き換えられている部分は見られないようであるが、熟語の表記や文辞には大幅に平易になる方向で手が加えられ、特に漢語の一部が仮名書きされていることが多い。

 また杜撰な書きぶりは相変わらずで、熟語の振仮名の一部が欠けていたり、所謂「魯魚章草の誤り」や脱字などが頻出する。だがしかし、此等の傾向は、冗長だと言われる原作後半部の戦闘場面等を端折り、何とか切附本八冊で全編を収める為の突貫作業の結果であったものと見做すのは僻目であろうか▼10

『英名八犬士』の諸板

さて、現存している『英名八犬士』の諸本調査に基づいて大雑把に諸板を整理すれば、安政期に出された袋入本(短冊型文字題簽を備える末期中本型読本)と切附本(錦絵風摺付表紙)、そして明治期に出された改竄後印袋入本の3系列に分類できる。

さらに細かく分類すれば、
  A 袋入本(伊勢屋忠兵衛板)
  B 切附本(伊勢屋忠兵衛板)
  C 切附本(品川屋久助板)

の三種類が存するが、完全に同板では無く一部を修訂した編もある。また、明治期に「曲亭馬琴著」『里見八犬伝』と改竄後印本された袋入本が存する。
  D『里見八犬伝』(文江堂・木村文三郎板)
  E『里見八犬伝』(明治十九年刊、湊屋・山本常次郎板)

以下、旧稿成稿後に得られた諸板に関する知見についてまとめて記し、詳しく触れられなかった2種の改竄本について紹介しておくことにする。

A本は初板早印と思しいが、管見に入った二松学舎大学本と服部仁本(67欠)の印面から受ける印象は早印本特有の切れ味の良さに欠ける。袋入本「英名八犬士 第一(〜八)」(外題簽)、初編見返「英名八犬士」、序、口絵存、初編巻末「公羽堂伊勢屋忠兵衛板」。

B本は、摺付表紙の切附本。管見に入ったのは、国文学研究資料館(ナ4/680)・館山市立博物館・江差町教育委員会(48欠)・林文二・架蔵(初236))▼11 。館山市博本の初編には袋が附されており「英名\八犬士\初編\上集\玄魚」とある。

袋入本『英名八犬士』と同じ伊勢屋忠兵衛から出された切附本である。出板の際に一部分の再刻が行われたようである。例えば、4編の一部の丁には若干の異同がある(挿絵「藁塚に犬田急難を緩す」12ウ13オの背景など)。改刻された理由を詳らかに出来ないでいるが、祝融の災いにでも遭ったのであろうか。

C本はB本を品川屋久助が求版した板か。管見に入ったのは、故松井静夫本(34)・架蔵(2)。B本と同じ切附本体裁で伊勢屋忠兵衛の刊記が残されていながらも、品川屋の奥目録が付されたものがある。一方、巻頭や刊記が削られている本も在ることから、当初は売捌きであった品川屋久助が、後に求版したものか。

D本は外題や内題を「里見八犬傳」と改題した上で、外題角書や内題下に「曲亭馬琴著」と入木し、草色表紙に亀甲繋文様空押を施し、巻頭に付されていた序文と口絵(3丁程)を削り、そこに新たに序文(1編)及び口絵(2〜8編)を入れた改竄後印本。管見に入ったのは、国学院大学本・故向井信夫(専修大学蔵)本・山本和明・山本和明(8欠)・架蔵(3.8、78、4)。なお、山本本(8欠)と架蔵本(4)とは外題「里見八犬傳」とあるも、表紙の色は錆青磁で空押文様は施されていない(架蔵本(4)の表紙は錆浅荵色に絹目模様空押)

初編見返に「曲亭馬琴著\里見八犬伝全八冊\木村文三郎」とあり、八編の後表紙見返に「日本橋區\馬喰町二丁目\壹番地\文江堂\木村文三郎」とあるように、明治期に入ってから、品川屋久助とも近しかった吉田屋文三郎の手に拠って出された改竄本である。

以下、明治期の改竄本に関して図版で紹介しておく。

【表紙】

 表紙

【見返】                    【序】

 序  見返

里見八犬傳さとみはつけんでんじよ
房総ほうさう太守たいしゆ安房守あはのかみ義実よしさねハ二ヶこくぬしたりと云へども、その因縁ゐんえんつたなくして業報かうほういまた不尽つきす愛女あひじよ伏姫ふせひめは人がいせうながら鬼畜きちくともなはれ、冨山のおく觀音經くわんをんげうを力となし、如是によぜ畜生ちくせうほつ菩提心ぼたいしんこれ里見さとみ八勇はちゆう士みなに散乱さんらんひらく。そハいにしへ曲亭きよくていおう妙著みやうさくにして、みなよの人のところいま大巻たいくわん八冊はつさつつゞり、よみやすからんを大全だいぜんるのみ。 (初編一ノ三オ、句読点を私意により補う。)

【口絵】

二編

 二編口絵

「仁 里見八犬士之内さとみはちけんしのうち犬江親兵衛仁いぬゑしんべいまさし

三編

 三編口絵

「義 里見八犬士之内さとみはちけんしのうち犬川荘助義義任いぬかはさうすけよしたう▼12

四篇

 四編口絵

「禮 里見八犬士之内さとみはちけんしのうち犬村大角礼儀いぬむらだいかくまさのり

五編

 五編口絵

「智 里見八犬士之内さとみはちけんしのうち犬坂毛野胤智いぬさかけのたねとも

六編

 六編口絵

「忠 里見八犬士さとみはちけんし之内\犬山道節忠與いぬやまどうせつたゞとも

七編

 七編口絵

里見八犬士之内さとみはちけんしのうち\ 孝 犬塚信戌孝いぬづかしのもりたか 信 犬飼現八信道いぬかひげんはちのぶみち

八編

 八編口絵

「悌 里見八犬士之内さとみはちけんしのうち犬田小文吾悌順いぬたこぶんごやすより

【刊記】

 刊記

E本はD本の後印本で、 国会図書館本(特40-597) の見返には「佐々木廉助編輯\里見八犬傳八冊\東都書誌 淺草壽町湊屋常次郎板」とある。初編内題下に「佐々木廉助編輯」と入木するも、2編以下の内題下署名「曲亭馬琴識[乾坤一草亭]」は文江堂板と同様。8編巻末の刊記は「明治十八年四月十一日御届\仝 十九年二月 日出版\編輯人 淺草壽町四拾三番地 佐々木廉助\出版人 淺草壽町四十三番地 山本常次郎」とあり、1丁表には「明治十九年二月十五日内務省□付」、刊記には「□價七拾五錢」と見える。

【見返】                   【刊記】

 見返  見返

なお、千葉県立図書館蔵本菜の花ライブラリー\千葉県デジタルアーカイブ\南総里見八犬伝関係資料\里見八犬伝一〜八はE本と同本であるが、刊記に相違がある。

【刊記】

刊記

そもそも魯文が先鞭を付けた切附本自体が粗製濫造され読み捨てられたジャンルではあったが、『英名八犬士』の諸本を調べていくうちに、再三にわたって板木に手を加えて再刻改竄後印が繰り返されてきたことが分かった。

袋入本『英名八犬士』が早く、切附本は一部を改刻した後印本であると思われる。その覆刻時には振仮名が省かれたり、板本の字が彫り毀されていたまま写されていたり、挿絵の細部が変わっており、忠実に複刻しようと注意深く作業されたものとは思えない。

特に、8編を改竄した袋入本『里見八犬伝』では、他編と同様に序文や口絵を省いたのみならず、本文冒頭1丁と2丁目の八文字を書き換え、原本の冒頭から5丁表の1行目の6文字迄を削除して強引に繋げている。

つまり、冒頭の口絵「悌 犬田小文吾悌順」を新刻しているのは他編と同様であるが、丁付が「一ノ三四」となっていることから3ウ.4ウの本文まで削ってしまったことが分かる。如何なる改竄かと調べてみると、本来の4ウに相当する口絵の裏の本文冒頭に「里見八犬傳さとみはつけんでん八編 曲亭馬琴識[乾坤一草亭]」と入木した上で、

當下そのときヽ大ちゆたい席上せきせうをつら/\とうち見巡みめぐらし人々ひと%\ふかくないぶかりぞわれハ年来としころゆへありて仁義じんぎ礼智れいち忠信ちうしん孝悌こうてい八顆やつたまもとめため諸国しよこく行脚あんぎやするほど今茲ことし鎌倉かまくらにて竹馬ちくばとも蜑嵜あまさき照文てるぶん君命くんめいうけたてまつ賢良けんりやう武勇ぶゆう浪人らうにんをしのび/\にもとむるに環會めぐりあひをりからこの行徳ぎやうとく云云しか/\力士りきしありと風聞ふうぶんほのかきこ たれハ十一郎としめあは諸共もろとも修驗者すげんじやへん先達せんだつ職得しよくくとく争訟あらそひかこつけ犬田いぬた山林やまはやし相撲すまひ勝負せうぶこゝろみしにたゞ房八ふさはち小文吾こぶんご藝術げいじゆついさゝかつぎなるのみしかれとも二個ふたりなからその行状ぎやうでう見究みきはめのちにこそと遊山ゆさん假托かこつけ共侶もろとも其夜そのよ其處そこ逗留とうりうしけると由来ゆらい細々こま/\物語ものがたりける。かへつとく

という原本第37回の文章を例に拠って切り貼りして抄録し、5丁の1行目の冒頭「冨山にて親兵衛ハ」までを書き換えて「義実の辺に参りぬかづきつゝ稟すやう……」に繋げているのである。

本来は義実が伏姫神霊に冥助を祈祷するために冨山に登った際に親兵衛に出会う場面であるから、古那屋の段の話柄を持って来たのでは文意が通らないのである。原作の抄録方法は魯文のものと同様であるが、明治期に「曲亭馬琴著」とした改竄本を出すに際して、魯文自身が関与していたとは考えにくい。恐らくは、書肆の賢しらであろう。

いずれにしても、斯様に安直杜撰な改刻改竄が続けられたことで、数多の『英名八犬士』改め『里見八犬伝』というテキストが明治に入っても改刻後印されて流布し、大勢の読者に読まれていたのである。あるいは、この本を原作であると信じて読んだ読者も少なくなかったかも知れない。

〔注〕

▼1 「人文研究」34、36〜39号(千葉大学文学部、2005、2007〜2010)。なお、増補改訂を施して公開している 初2編34編56編7編8編

▼2 合巻、2巻2冊、安政3年、鈍亭魯文填詞・一枩齋芳宗画、新庄堂刊。序文末に「安政三辰夏\一昼夜急案」とある。名場面を繋ぐ形式に拠ってわずか10丁で終わらせ、世界一短い『八犬伝』となっている。拙稿「 當世八犬傳 ―解題と翻刻 ―(「人文研究」第40号、千葉大学文学部、2011年3月所収)

▼3 『八犬伝』を草双紙化して長い間刊行が続いた抄録合巻『仮名読八犬伝』の28〜31編(慶応元〜明治元年、芳幾画、広岡屋幸助板)を担当している。

▼4 切附本仕立ての艶本(3巻3冊、安政3年刊)。艶本は著名なテキストを換骨奪胎したものが多く、この『八犬伝』のパロディも、実に魯文の戯作センスが横溢していて良くできたテキストである。

▼5 万延元年に「仮名垣」を使用し始め、同年刊の『滑稽富士詣』で成功をおさめた後、本格的に戯作者仮名垣魯文として認知されることになる。

▼6 切附本とは中本型読本の末期に位置付けられ、合巻風の錦絵表紙を持ちながらも読本風の本文を備えたもの。安政期以降に粗製濫造され読み捨てられた類の出板物であり、それ故に完本と呼べる資料は極めて少なく、初板初摺と思しき本で表紙から最終丁まで完備している本は稀覯に属する。本来は「一冊読切」「早わかり」という特徴を持っていた切附本であったが、魯文が『国姓爺一代記』や『三国志』など長編の抄録を始めるに至って、一冊読切ではなく数編の続物が出されるようになった。拙稿「末期の中本型読本―所謂〈切附本〉について ―(『江戸読本の研究―十九世紀小説様式攷―』、ぺりかん社、1995年)参照。

▼7 『父漢土母和朝 國姓爺一代記』初〜3編、安政2〜万延2、錦耕堂。『拔翠三國誌』初〜6輯、安政3〜7、新庄堂。『摘要漢楚軍談』前〜後輯、安政4、新庄堂。『釋迦御一代記』初〜5輯、安政4〜6、糸屋福次郎・新庄堂。拙稿「鈍亭時代の魯文 ―切附本をめぐって ―(「社会文化科学研究」第11号、千葉大学大学院社会文化科学研究科、2005年9月)参照。

▼8 同様の方針によって抄録されたものに『校訂略本八犬傳』(逍遙序、鴎村抄、明治44年9月、丁未出版社)があるが、柴田光彦「桜井鴎村の八犬伝校略」(『讀本研究』7輯上套、1993)に詳細な紹介が備わる。

▼9 馬琴手沢本であった国会図書館蔵の早印本に拠る。

▼10 『英名八犬士』初編は、原本肇輯第1回から20回まで、2編は原本2編第21回から26回まで、3編は原本第3輯27回から第4輯33回半ばまで、4編は原本第4輯33回の続きから37回の半ばまで、第5編は原本第4輯37回半ばから第5輯47回半ばまで、6編は原本第5輯47回半ばから第6輯56回の半ばまで、第7編は原本第6輯56回半ばから第9輯第103回の半ばまで、第8編は原本第9輯103回半ばから第9輯第180回までに相当する。

▼11 架蔵本については立命館大学アートリサーチセンターの「ARC所蔵・寄託品古典籍データベース」で全冊の画像が公開されている。所蔵者「 tgen」。本稿に関する資料の請求番号は「TKG-030〜TKG-043」。

▼12 成稿後に服部仁氏より本図が国芳の錦絵「里見八犬伝\犬川荘介」(嘉永2.3年、三河屋鉄五郎板、服部氏蔵)、『八犬伝の世界』(千葉市立美術館、2008)図版No.158に相似している旨、他の口絵にも粉本が存する可能性があるので調べてみてはという御教示を得た。
博捜する時間的余裕はなかったが、千葉市美の図録を見たところ、4編の犬村大角礼儀は、国芳「曲亭翁精著八犬士随一(犬村大角礼儀)(天保7.9年、西村与八板、服部氏蔵)図版No.140に酷似していた。また、6編の犬山道節忠與は、国芳「木曾街道六十九次の内(三蕨犬山道節)」(嘉永5年、井筒屋板、服部氏蔵)図版No.90に似ている。7編の芳流閣に関しては幾つか似ている図柄があるが、屋上の犬塚信乃と階下から見上げる十手を銜えた犬山道節と云う点では、国芳「本朝水滸傳剛勇八百人一個(里見八犬子の内 犬山道節忠與)」と「同(犬飼現八信道)(天保2年、加賀吉、服部氏蔵)図版No.137-1、図版No.137-2が似ている。しかし、国貞「(芳流閣)犬塚信乃/犬飼現八」(天保7、山本屋平吉板、服部氏蔵)図版No.199及び雁首挿げ替えされた天保9年板図版No.200は、棟の端に鬼瓦を描いており、より近いか。
八犬伝の錦絵は、歌舞伎の舞台演出に影響を受けた物が多いようであるが、安政期に成ると既に画題化されているようで、稿者に粉本を確定するだけの力量はない。この改竄改刻本に新刻された口絵に関しては、魯文も関与していないと思われる上に画工も明記されていないので等閑に付していたが、服部氏の仰せの通り、誰かが独自に描いたとは考えにくく、何か粉本に拠って描かれたものであろうことは想像に難くない。

【付記】本稿に関わる研究では、多くの個人蔵の資料を使わせていただいた。長期間に渉って御所蔵の資料を貸与して下さった山本和明氏に感謝致します。また、長い間御蔵書を拝借させて頂いたのみならず、口絵の粉本に関して教示を賜った服部仁氏にも心より感謝申し上げます。


#「『英名八犬士』攷」
#「東海近世」第25号 (2017年12月31日)
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