『江戸読本の研究』第四章 江戸読本の周辺

第四節 岡山鳥著編述書目年表稿 −化政期出板界における〈雑家〉−
高 木  元 

化政期における出板界をめぐる状況を考えるに際して、少しばかり興味ある人物がいる。内職として筆耕をしつつ、いくつかの作品をも執筆した嶋岡権六である。本稿ではこの人物の出板界における仕事の軌跡を追うことによって、職業作家でもなく、かといって入銀本を出すような素人作家でもない〈雑家〉、すなわち文化人とでも呼ぶべき人々が活躍した化政期の出板という場について考えてみたい。
 嶋岡権六について、正確な生歿年をはじめとする具体的な伝記事項は、残念ながらほとんどわかっていない。馬琴の『作者部類▼1』には、

岡 山鳥
近藤淡州の家臣嶋岡權六の戲號也。文化年間讀本の筆工を旨として五六六と稱し又節亭琴驢と號せしを文化の季の比より岡山鳥と改めたり。琴驢と稱せし比鈴菜物語といふ中本二巻を綴り曲亭に筆削を請ひ且曲亭の吸引によりて柏屋半藏か刊行したり。その後今の名に改めても一二種中本の作ありと聞にき。文政中退糧して濱町なる官醫 石坂氏の耳房を借りてありしか舊主に帰参して又佐柄木町の屋敷に在り。戯作は素より多からす。筆工も今は内職にせさるなるへし。

と見えている。嶋岡権六は島五六六、節亭琴驢、岡山鳥等と名乗って筆耕や戯作を手掛けた下級武士であり、馬琴とも交流があったのである。また、『戯作者小伝▼2』には、

名長盈、字は哲甫、号を竹の戸、又丹前舎といひ、通称を島岡芳右衛門旧名権六といふ、神田四軒町近藤君に仕ふ、一度浪人して駒込大番町に住し、大衛の卒と也、再又旧主に帰参す、初め曲亭翁の門に入、節亭琴驢といへり、狂歌を嗜み、また書をよくして傭書するもの多し、古人式亭と交り深くして、門弟のごとし

と記されている。狂歌は当代文化人の教養であったから当然として、馬琴に入門後、式亭三馬と親しく交わり門弟のようであったとある。さらに山崎麓「日本小説作家人名辭書▼3」の「岡山鳥」の項には、

岡長盈、字は哲甫、通称權六、後芳右衛門と改む。神田五軒町の旗本近藤某に仕へ神田小川町に住む。丹前舎、竹之戸、節亭琴驢、岡三鳥▼4、山鳥、五六五六等の號がある。始め馬琴の門に入り、節亭琴驢と號し、讀本の著があり、突然文化七年式亭三馬の門に入り、岡山鳥と號す。文政十一年歿。「驛路春鈴菜物語」(文化五年)、「女釣話」(文政二年)等の作者。

とある。この記述には誤りが多く、「五六六」が「五六五六」、「岡釣話」が「女釣話」などとなっているが、ここで問題にすべきは文政11〈1828〉年という歿年である。

訂正改版名人忌辰録▼5』には「近藤金之丞臣文政十一年没す」とあり、『狂歌人名辞書▼6』にも「文政政十一年歿す」とある。これらの記述には根拠が示されていないのであるが、『馬琴日記▼7』を見るに、文政11年2月22日の条に、

一 嶋岡権六来ル。白扇二本持参。当月廿七日、浮世小路百川ニて、書画会いたし候ニよつて也。右同人、去年九月より、駒込御書院組やしきへ転宅。養子和田鋭之助同居のよし也。

とあり、同月27日(宗伯代筆)には、

一 七時出宅、宗伯出懸、目出度屋江立寄、明日祝儀来客入用之焼物肴・吸物肴等、注文頼置。夫より嶋岡山鳥書画会、日本橋百川江出席、帰路(以下略)

と、書画会が催されたことが判明する。おそらく、さまざまな書画会にも顔を出し多くの人たちとの交流があったものと思われる。同年3月10日には

一 今朝、嶋岡権六使札。書画会之節、致出席候謝礼也。近所ニ而摘候由、よめな被恵、宗伯、返翰遣之。

と挨拶を寄越して心を配っている。さらに、翌文政12年10月24日の条に、

一 昼後、嶋岡権六来ル。予、対面。去秋中、当番衆供ニて大坂へ罷越、当四月中帰府、九月に至り、故主近藤讃岐守殿へ帰参いたし、哲甫と改名のよし、被告之。雑談後、帰去。

とある。これらの記述は、『瀧沢家訪問往来人名簿▼8』に見られる、

一 神田橋通り近藤淡路守殿ニて ひつこう書 島岡権六
一 神田橋外近藤淡路守様ニて  筆耕書   島 権六
 戊子二月廿二日會ふれニ而来ル
一 駒込追分の先御書院組やしきニて 嶌岡権六養子
 和田鋭之助
 但 権六同居
 己戌九月帰参のよし同十月廿四日来ル
一 神田橋通小川町近藤讃岐守殿内 権六事 嶋岡哲輔

という記録にも符合しており、一応信頼してよい記事だと思われる。つまり、文政12年10月の時点ではまだ生きていたことになる。さらに、後述する『書畫薈粋初編』など天保期の人名録類にもその名が記されており、おそらく歿年は天保頃までは下ることになると思われる。

また、「突然文化七年式亭三馬の門に入り、岡山鳥と號す」という部分も問題がある。実際には文化6〈1809〉年から「岡山鳥」という号の使用が認められ、それも筆耕としての号として使用しているのである。

水谷不倒は『選擇古書解題▼9』「驛路春鈴菜物語」の項で、序跋文の行文を分析して「馬琴との間に、感情の融和を缺くものがあつたに相違ない」とする。さらに、『江戸時代戯曲小説通志▼10』の「岡三鳥」の項には「文化七年馬琴の門を去り。更に式亭三馬に就いて。岡山鳥と改號したりしかば。馬琴大に怒りしといふ」とあるが、根拠のない風説に過ぎない。馬琴と三馬との仲が悪かったという前提が、馬琴と岡山鳥との問題に予断を与えたものと思われる。事実、馬琴の門を去ったという文化七年以後も馬琴読本の筆耕を続けている。一般に、板本を出板する過程では、作者と筆耕は稿本を介して頻繁に行き来するものである。また、いま見てきたように、文政期に至って馬琴宅を訪問して直接面会しているのであるから、馬琴との関係が悪くなったとは考え難いのである。

さて、本稿では伝記的詮索はひとまず措き、残された業績としての出板物を通して出板界との関わりをたどっていくことにしたい。以下、関連資料を発行年順に挙げ、見出しに立てた題名(内題)の上に[筆]耕、[作]者、[賛]詠、[校]正、[広]告、[序]文、という具合に関わり方を示した。また、直接の業績ではないが関連する記述が見られる資料には[参]考と付けた。

 文化3寅丙〈1806〉

[作]繪本復讐放下僧
読本、半紙本3巻4冊、節亭山人著、蘆渓画、維時文化三歳丙寅仲秋良辰兌行、東叡山下谷広小路・伏見屋卯兵衞板。見返し「画本復讐放家僧談、節亭主人著、畫工蘆溪」。序「報仇奇談放下僧序、文化丙寅六月、位田因幹併書▼11」。

実は、本作の作者「節亭山人」が節亭琴驢である確証は、いまのところ何1つない。『京摂津戯作者考▼12』には具体的な記述はないが「節亭山人」の項目がたてられ、漆山天童『近世人名辞典▼13』には「節亭山人 関西の戯作者」とあり「節亭琴驢」と別に立項している。

一方、水谷不倒『草雙紙と讀本の研究▼14』の岡山鳥の項目では本作を挙げていないが、『選擇古書解題』の方では、内題下に「東都 節亭山人」とあることから、江戸の人に相違ないので節亭琴驢の外には考えられず、とすれば処女作になるとの判断を下している。

しかし、本作を節亭琴驢の処女作とするには、男色模様を含む敵討という内容も含めて、何か釈然としないものがある。明確な根拠を示せないのがもどかしいのであるが、画工である蘆渓(浅山蘆國)は上方の絵師であり、文化末年以降、栗杖亭鬼卵や浜松歌国や文亭箕山など、上方作者による上方出来の読本は手掛けているものの、この時期の江戸出来の読本には筆を執っていない。また、板元の伏見屋卯兵衛も、この時期の江戸読本には見慣れぬ板元である。もし伏見屋宇兵衛と同一人物であれば、安永8年に「天狗通」を出した大坂の本屋と関係があるかもしれない。また、内題や内題下署名、刊記の刊年や住所が象嵌されたものであるように見えるのも気になる。

本の体裁からいえば、半紙本でありながら、匡郭はやや小さく天地に子持罫を用い、「画(絵)本」を標榜している。目録の形式が実録小説風であり、序文に色摺りを用いている。これらの特徴は上方出来を想起させる上、江戸読本のカタログでもある『出像稗史外題鑑』にも登載されていない。そして後の節亭琴驢の発言はもちろんのこと、同時代の記録類でも作者について触れられた形跡はない。以上のことから、節亭琴驢の作品であると認定するには躊躇せざるを得ないのである。

ただし、序文には「奇談放下僧乃節亭主人之所撰也。……余舁節亭主人善矣。聞此書刻成、書為序」とあり、本書の成立が文化3年で「節亭主人」なる人物の作として出板されたことは動かないと思われる。

これ以上推測を重ねても仕方ないが、本作が節亭琴驢の作品であるかどうかについては、疑いの余地があることを指摘しておきたい。

 文化4卯丁〈1807〉

[筆]新累解脱物語
読本、半紙本5巻5冊、馬琴作、北斎画、筆耕島五六六、〓人(京師)井上治兵衛・(大阪)市田治郎兵衛、文化四年丁卯春王月發兌、鶴屋喜右衛門・菱屋孫兵衛・〓屋安兵衛・河内屋太助(文金堂板▼15)

江戸読本の中で、筆耕として名前が見えるのは本作が最初である。板本の制作過程における板下書き(筆耕)は、稿本の成稿後直ちに行なわれたはずであるから、実際に出来した時期より半年以上前に書かれたと考えてよいだろう。ただし、必ずしも出来した順番通りに仕事が行なわれたともいえないが、ここでは刊行順に挙げることにする。

本書では〓人と共に刊記に名前を並べて貰えず、巻之5最終丁の隅に「島五六六」と署名している。島岡「権六」の「ごむろく」という音をあてた号であろう。板元が上方の文金堂であるから〓人は京阪の人を使っているものの、筆耕には江戸の岡山鳥を使っている。あるいは馬琴の意向が反映したものであろうか。

 文化5辰戊〈1808〉

[筆]巷談坡〓庵
中本型読本、中本3巻3冊、馬琴作、豊広画、筆耕嶋五六六謄冩、剞〓綉像朝倉卯八刀・筆耕三猿刀、文化五戊辰年正月吉日発販、村田次郎兵衛・上総屋忠助梓▼16

本作は挿絵の中に詞書がある、やや草双紙寄りの中本型読本であるが、序の年記「文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ」(文化3年7月7日)には稿了していたと推測でき、何らかの事情で出板が遅延したものであろう▼17。しかし、実際に稿本が清書され板下ができた時期は、早ければ文化3年7月、遅くとも文化4年の前半であったものと思われる。

なお、「嶋五六六」という号は江戸読本に限れば、これまでの2作にしか見えないので、文化4年以前に使われた号だと考えられる。

[筆]頼豪阿闍梨恠鼠傳前編
読本、半紙本5巻5冊、馬琴作、北斎画、節亭琴驢筆、桜木松五郎刀、文化第五載戊辰正月吉日発販、仙鶴堂鶴屋喜右衛門。
文化4年中に書かれたと思われる本作以後は「節亭琴驢」という号を使ったようだ。なお、後編は鈴木武筍が筆を執っている。

[筆]復讐竒語雙名傳前篇
読本、半紙本5巻5冊、藁窓主人作、馬琴校合、小石軒一指画、(刊年なし)、蔦屋重三郎・中村屋善蔵(瑶池堂板)。序「文化三年秋八月編同五年初冬発兌・蒿窗主人」。
無名作者の作品を馬琴が校合したもの。馬琴の序文「文化第肆彊圉單閼陽月下浣」(文化4年10月下旬)の末に「門人 節亭琴驢書」とあるが、本文は別人の手になる。後編は未見、おそらく未刊で終わったものと思われる。

[作]復讐快事驛路春鈴菜物語前編
中本型読本、2巻2冊、節亭琴驢作・曲亭馬琴補綴・魁蕾清友校正、歌川豊広・俵屋宗理画、翰墨鈴木武旬、剞〓田龍二、文化五年歳次戊辰正月吉日発販、角丸屋甚助・和泉屋平吉・柏屋半蔵▼18
節亭琴驢の処女作とされている中本型読本。後編は未見、おそらく出ていないと思われる。かなり馬琴の手が入っているようで、馬琴「補綴」とあり序文も書いている。

[校]由利稚野居鷹
読本、5巻5冊、萬亭叟馬作、北斎画、校正節亭琴驢、傭書石原駒知道、刻工高橋待人、文化戊辰正月吉日、須原屋市兵衛・榎本惣右衛門・榎本平吉(木蘭堂板)
本作は、『墨田川梅柳新書』や『新編水滸画傳』の巻末に見える広告「〇曲亭主人著述目録」(近刻披露)に、「姿ノ姫心の鬼百合稚栄枯物語」として予告されていた本であると思われる。「校正」というのが具体的に何を意味するのか、いま一つ明確にできないが、少なくとも出来した本には馬琴の名前が見えず、校正として琴驢の名が入れられている点は見過し難い。さらに、『名目集▼19』には蒙古退治の一条が当時の夷賊のことに差し障りがあった旨が記されている。改めに引っ掛り、冒頭部を書き替えて出板されたいわく付の本なのである▼20

[参]雲絶間雨夜月
読本、半紙本5巻6冊、馬琴作、豊広画、〓人朝倉伊八、文化御年戊辰正月吉日発販、和泉屋平吉・和泉屋幸右衞門・北嶋長四郎・柏屋清兵衞・柏屋忠七・柏屋半蔵(柏榮堂板)
本作には筆耕名の記載がないが、琴驢の手ではないようだ。ただ、巻之5巻末(27丁裏)に「俊寛僧都嶋物語 全六冊」以下「浮世猪之介暁傘 全三冊」までの六作品を挙げ、「右曲亭子來載新著編の題目今聞る所を以録之 門人琴驢」と見えている。次の28丁表の「〇柏榮堂藏版目次」には、その最初に「驛路春鈴菜物語 節亭琴驢子著 曲亭主人補綴 前編二冊」を挙げている。
「鈴菜物語」と同じ板元から出された本で、文化4年の時点では馬琴が「門人」として見做していたことがわかる。

 文化6巳己〈1809〉

[筆]報怨珎話とかえり花
読本、半紙本5巻5冊、良々軒器水作、北岱画、筆者岡山鳥、剞〓渡辺喜平二、文化六年己巳年春正月吉日令開板也、竹川藤兵衛・伊勢屋治右衛門(咬菜堂板)
 巻末広告「〇庚午春新鐫(咬菜堂)」には、
  渡守矢口話説岡山鳥作 全五冊
  鵜飼石妙字賦岡山鳥作 全三冊
  玉手箱錦浦嶋岡山鳥作 全三冊
という三点の予告広告が出るが、いずれも未見。おそらく未刊に終ったものと思われる。

[筆]忠兵衛梅川赤縄奇縁傳古乃花双紙
読本、半紙本3巻4冊、〓〓陳人作、北岱画、傭筆岡山鳥、剞〓宮田六左衛門、文化六己巳年孟春発行、竹川藤兵衛・住吉屋政五郎。伊勢屋治右衛門(咬菜堂板)
右の「とかえり花」と同じ板元であるから、文化5年の間に伊勢治の仕事を2本したことになる。

[作]かたきうち岸柳縞手染色揚
合巻、中本4巻1冊、岡山鳥作、歌川国貞画、野代柳湖刀、柱「いろあげ」、文化六己巳春(序)、西村源六(文刻堂刊▼21)
本作は合巻の初作である。自序に、

ある人予が草庵にきたつて雅談のあまりいふていわく、足下ハ人のつくりなせる物の本を謄寫することひさし、一へんのしよをあむこといかにととふ、予こたへていふ、そのこゝろざしはなきにしもあらずといへども、さえみじかうしてぜんをすゝめあくをこらすのゐをのべがたし、客のいわくしからは一日の戲場をもつてこれをつゞらば児女子にさとしやすからんといふゆへに、客の意にまかするのみ
山鳥欽白

とある。筆耕をしながら作品を書きたいと思っていたところへ、ある人(板元)から執筆を促された。それも芝居に見立てて書けという注文だと書いているが、おそらく山鳥自身の着想だったものと推測される。出来した本を見ると、登場人物のほぼ全員に役者似顔を用いている。式亭三馬『金神長五郎忠孝話』(文化6年、文刻堂)巻末広告に「これハ三芝居惣役者似顔しやううつし也▼22」とあるように、歌舞伎趣味が濃厚だった合巻に、さらに徹底した役者似顔利用を促した契機になった作品である。これ以後、文刻堂との関係が強まったようだ。

 文化7午庚〈1810〉

[筆]夢想兵衛胡蝶物語
読本、半紙本5巻5冊、馬琴作、豊広画、執筆序跋岡山鳥・本文鈴木武筍、文化七年庚午春正月吉日発販、西宮彌兵衛・大和屋源次郎・三河屋〓兵衛(螢雪堂板)。自序「文化六年己巳六月」。
筆耕は序跋のみ。同年12月刊後編の筆耕は鈴木武筍。

[序]當世七癖上戸
滑稽本、半紙本3巻3冊、三馬作、国貞画、文化七庚午孟春(岡山鳥序)、西村源六・西宮弥兵衛・西宮平兵衛。副外題簽「雅名新水鳥記▼23」。
どこにも書いてないが、本書の筆耕は山鳥だと思われる。序文を引いておこう。

食前の酒は醉をすゝめ。酒後の茶は醉を醒せり。食前酒後の時をえらばず。克酒を飲で。克茶を吐くものは誰曽。當時石町の親玉なり。其酒を飲に至ては。地黄坊も盃を廢べく。其茶を吐に及では。賣茶翁も爐を投べく。著はす所の新水鳥記。一たび巻を被く則は。おのづから熟柿臭く。閲者醉て泥の如し。されば酒好の西平。茶好の西源。酒を飲み茶を吐くを喜で。竟には上梓する事とはなりぬ。予も左の利方なれば。醉心地にまかり出て。さらば躍で見しらさんか。醉ては思案にあたまから。浴るばかりの大醉客。舌より回らぬ亳を採て。猩々盃のよろ/\と。書なぐりたる醉筆は。鸚鵡盃の口まねながらも。順の盃お順を構はず。吁酒にして茶なるかな。茶で茶にあらぬ酒なるかな。とくだらぬ管を巻舌も。御亭主役の序の一盃たのみもせぬにお助まうす事しッかり。
   文化七庚午孟春
神田丹前の好男子    
岡 山 鳥 叙  
[岡][山鳥]

この頃、三馬との交際が深くなっていたことがわかる。
なお、本書の東京国立博物館所蔵本の中冊見返しに、岡山鳥の口上が記されている▼24

是より上の巻の末にうつればしだいに酔のまはるにしたがひ亭主は怒て女房を罵り女房は泣て亭主を恥しむ。客は笑てとりさへるといへども酢の蒟蒻の論は肴とともにつきづ隣の亭主の利屈上戸が利屈づくめに云ひふせるの段に至つて式亭先生の滑稽其穿実に奇なり。読者頤をはづせばきくもの腹をかゝえて笑ふ。必ず封を切て末の巻を見給ふべしとまうす。
岡 山鳥 謹言

あくまでも、三馬の引き立て役に徹しているが、雇われ仕事の筆耕以上に本造りに関わっていることがわかる。
なお、巻末に附された「物の本くさ/\の目録」(この年の西源板には同じ広告存)には、三馬の2作の次に、「爲朝實記上弦筑紫勲 全五冊 西刻堂作」「伊勢え七度熊野え三度愛宕山鬼灯由来五冊 岡山鳥作」とあり、さらに京伝と京山の作を挙げた上で、「右彫刻間に合ひ不申當年取急候而午の初秋より早々賣出し申候」とある。『上弦筑紫勲』は前編5冊が岡山鳥作として刊行されるが、『愛宕山鬼灯由来』は未刊か。

[作] ふとり女聟八人新曲調糸竹
合巻、中本2巻1冊、山鳥作、国房画、柱「いとたけ」、午のとし新はん西村源六。
本作は現在所在不明で未見。ただし、今中宏「大江戸文庫」7(江戸藝術社、1959年)に写真図版入で翻刻されており、出板されたことが確認でき、大方の様子はうかがい知れる。また、冊数は『七癖上戸』に付された「庚午歳新刻稗史己巳年競魁發兌」に「全二冊合一冊」とある。

[作]菅原流梅花形
合巻、中本5巻1冊、山鳥作、国貞画、彫工萩原浪次郎、柱「はながた」、文化七庚午の春(自序)、西村源六。外題「新板天神記」。▼25
『七癖上戸』広告には「大文字のひとつまつちらし書の児さくら」と角書があり、「惣役者似かほ正うつし」「全五冊合一冊」とある。これもまた、徹底した役者似顔の利用を試みた作品である。

[作]一魚〓大當利仇討鯨百尋
合巻、中本3巻1冊、山鳥作、国房画、柱「くじら」、むまのはる、丸文。見返題の角書の前に「那智御利生」。外題「熊野浦の鯨舟は一之森の茶屋娘艶容娘嶋多」。▼26
本作では明確に役者似顔と判断できる登場人物は見当らない。ただ、表紙に鐶菊の紋を大きくあしらっている。源之助と特別の関係があったのであろうか。
なお、同じ丸文から文化7年に出されたと思われる山東京山の合巻『誂染劇模様』に付された広告には「くまの浦鯨舟ハ一の森茶や娘艶容一對男」とある。

[広]鷲談傳奇桃花流水
読本、半紙本5巻5冊、京山作、豊広画、筆耕橋本徳瓶、文化七年庚午歳正月発兌、前川弥兵衛・丸山佐兵衛。
架蔵の初板初印と思しき本作巻2の見返しに『催原樂奇談』の予告広告がある。

絵入      小枝 繁先生作 全部六冊
  催原樂奇談
読本      蹄齋北馬先生画  近日賣出
〓〓先生著す処の小説ハ恋女房染分手綱といへる院本にもとづき丹波少将俊寛僧都がことをまじへ團介といへる悪焜山神の祟にて馬と化畜生道に落るといへども多々の仇をなす與作重井が若盛ハ花盛の遊山に奇縁を結逸平が忠義ハ左内が得實と日を同ふす財宝をつかむ爪の長ハ鷲塚兄弟が悪行也。小満染絹が婬邪の甚しきあれバ景政法師の道徳あつて火車にさらわる亡者を助け終に成仏なさしむれバ山神再び現て團介が妖馬を本に帰せしむ善悪二道に染分る心の駒に手綱ゆるすなと唄ふも読も催原楽の鼻綱を取し三橘が人間一生五十三次の戒とせし作物語也
雄飛閣の主人にかわつて   
岡 山鳥述

『催馬樂奇談』は筆耕を担当していたので、紹介を書くのも容易だったに相違ない。この広告の板下も山鳥の手だと思われ、板元にとっては重宝な存在であった。

[筆]昔語質屋庫
読本、半紙本5巻5冊、馬琴作、春亭画、執筆嶋岡節亭・鈴木武筍、〓人(京都)井上治兵衛・(大坂)山崎庄九郎・市田治郎兵衛、文化七年庚午冬十一月吉日発販、西村屋與八・河内屋太助(文金堂板)

[筆]常夏草紙
読本、半紙本5巻5冊、馬琴作、春亭画、執筆嶋岡節亭、繍像朝倉伊八、刊字木村嘉兵衛、文化七年庚午冬十二月令日発行、松本平介・榎本〓右衛門・榎本平吉梓。

 文化8未辛〈1811〉

[筆]馬夫與作乳人重井催馬樂奇談
読本、5巻6冊、小枝繁作、北馬画、岡山鳥筆、文化八辛未歳孟春発行、西宮弥兵衛・伊勢屋忠右衛門・田辺屋太兵衛梓。
刊記に「催馬楽奇談全部六巻不顧拙筆清書之畢\神田丹前住 岡山鳥」とあり、口絵末にも瑞馬の書いたという扇面を模写して説明を加えている。本作の場合も、単なる筆耕というよりは、いま少し本造りに関与した様子である。

[筆]燕石雑志
随筆、大本5巻6冊、馬琴作、嶋岡長盈[節亭]筆、文化八年辛未正月発行、(江戸)和泉屋平吉・(大坂)今津屋辰三郎・河内屋喜兵衛・河内屋吉兵衛・河内屋太助(文金堂板)
刊記に「燕石雑志五巻不顧拙筆清書之畢\神田 嶋岡長盈[節][亭]」とある。

[筆]十五番武者合竹馬の〓
絵本、半紙本3巻3冊、馬琴作、北馬画、執筆嶋岡節亭做書、剞〓氏朝倉伊八、文化八年辛未冬月令日発販、鶴屋金助・柏屋半蔵・柏屋忠七(柏悦堂板▼27)

[作]今朝御前操之松枝
合巻、中本5巻1冊、岡山鳥作、国貞画、柱「松が枝」、文化八辛未春新板(広告)、西村源六▼28

表紙に源之助の似顔を大きく描く。巻末広告には「夫ハながらのはし柱是ハわたなべ橋くやう」という角書が添えられ、「全五冊合一冊」「のこらず役者にがほ画仕候」とある▼29。これまた、徹底した役者似顔を利用したものである。

また、「新板歌川目附繪、さいしき摺一枚でんじゆ書そえ、惣役者にがほ正うつし、歌川豊国画、岡山鳥戯作」とあるが未見。

次に挙げられた「しんはんかハつた江戸めいしよ・よし原双六、一枚大形、ことしこそまちがひなくうりいだし申候、同作、歌川国満画」というのは、文化6年『巌柳嶋手染色揚』見返しに「しんぱんのひろめ 江戸名所・よし原雙六、岡山鳥作、歌川國満画。此双六は日本橋より吉原まで道すがらの名所名物ならびに両国橋より舟道むかふじま本所めいしよめぐりちかみちとまハり道ありてしんぱんかハりし大すご六初春のよきおなぐさミ也」と広告されたもので、文化7年『七癖上戸』にも「日本橋より新吉原まで道すがらの名物向島辺名所旧跡を出し舟でもかごでもお好次第新板かハつた大双六なり」と見え、同年『新曲調糸竹』では最終丁に「この春は面白い吉原双六と似顔の珍しい目付絵が出るから、女の子は別してそんなことをして内で遊ばしやれよ」と書き込んでいた。これも未見。実際に出たかどうか不明。

「宿昔話説近江源氏湖月照、全6冊合1巻、紀の十子戯作、歌川国貞画」これは、次項参照。「同(繪本)為朝實録、鎮西八郎一代のものがたり繪本也、當未秋よりうりいだし申候、岡山鳥作、歌川国房画、全五冊」は『為朝勇傳上絃筑紫勲』として出された本であろう。

[作]近江源氏湖月照
合巻、中本6巻2冊、紀の十子作、国貞画、武しゆん書、板木師田中仲次郎・西村佐吉、柱「(あふみミ)けんじ」、文化八年、西村源六▼30
本作は役者名義合巻の先鞭を付けた作品である。岡山鳥の名前で、源氏物語の巻名尽くしの序文を書いているが、このような形で実作者名を出しているのである。この役者名義合巻を代作者によって出すという工夫は、おそらく山鳥のものだと思われるが、以後多くの追従作を生み出すことになる。なお、本作には役者似顔を用いていないようである。

[参]滝口左衛門横 笛 姫咲替花之二番目
合巻、中本6巻2冊、京伝作、国貞画、筆耕石原知道、柱「咲かえて」、文化八年辛未春、岩戸屋板。
21丁裏挿画中の衝立に「岡三鳥書」と見える。

[参]腹之内戯作種本
合巻、中本3巻1冊、三馬作、美丸画、鶴屋板。
挿画中13丁裏14丁表に、三馬・徳亭三孝・益亭三友と共に岡山鳥が登場する。

山鳥「げいしやといふものハ三みせんをひくはずの役だからやすまずにひいたり/\さらバそこらでをどりをおめにかけようかヱヘン/\」
三馬「まだしもたのみとするなまゑひハ神田丹前のいろ男だ」

[序]忠婦美談薄衣草紙
読本、半紙本5巻5冊、津川亭作、(北岱画)、執筆鈴木武筍、文化八辛未初秋・西村源六。
次のような序文を書いている(句読点を補った)

薄きぬ草帋序[筆三昧]
一日、文刻堂をとふに、かたはらに書みあり。おのれうちみておもひけらく、およそくすしのやまひをおさむるに、木の実草の根よりはしめて、あるハけかれたる、あるハきたなきものをさへ、なにくれとたくはへおきて、其をり/\にあたりて用ふといへり。近頃世に行なはるゝ書もまたしかり。さるは、からやまとの正きよりはしめて、あるハことわさ、あるハさとひことなとをさへ、なにやかやと、とりましへて、そのほと/\につきてつくりなせり。かれハやむ人のためになし、これハ見る人の為になす。そのわさハことなれと、そのいさをハひとしといふべし。されハ此物が〔た〕りハ、ふるくよりあなるを、ゑのさまつたなく、詞のしなおくれて、いまの世人の心には、うちあはぬ所のみおほかれハ、たえて手にたにとることなきを、津川亭のあるし是をみて、詞をいまやうのすかたにあらため、絵をとき、世のよそほひにうつして、すてに梓にのぼせんとす。これそ、いはゆるやれ敗たるつゝみ鼓のたくひならんか
文化の八とせといふとしのみなつきとをかいつかの日    
神田丹前の岡山鳥しるす[神田丹前][節亭]

これも板元西源との関係で書いたものと思われるが、津川亭との関係は未詳。

 文化9申壬〈1812〉

[筆]三七全傳第 二 編占夢南柯後記
読本、半紙本5巻5冊、馬琴作、北斎画、做書嶋岡節亭・鈴木武筍、剞〓朝倉伊八・木村嘉兵衛、文化九年壬申春正月良節発販大吉利市、松本平介・榎本惣右衛門・榎本平吉(木蘭堂板)

[筆]青砥藤綱摸稜案
読本、半紙本5巻5冊、馬琴作、北斎画、浄書石原知道・岡節亭・鈴木武筍、〓人櫻木藤吉、文化九年壬申春正月吉日発販、鶴屋金助・平林荘五郎梓。
後編には石原知道と岡節亭の名は見えない。
前年の文化8年中に、馬琴の読本2作の筆耕をしたことがわかるが、いずれも1人で1作の全部を担当したわけではない。

 文化10酉癸〈1813〉

[序]柳髪新話浮世床(初編)
滑稽本、中本3巻3冊、三馬作、国直画、文化十年癸酉孟春発売、鶴屋金助・柏屋清兵衛。ただし、自序は文化八年辛未皐月十日。
蓬左文庫尾崎久弥コレクション蔵の初編上冊には、岡山鳥による次の序文が付されている▼31

[神田丹前]
唐の剃頭店。 我朝の髪結床。けし坊主も来れは。若衆も来り。通人あり。野暮あり。其場のことをよくうがちて。水がみにすきあげたるハ。本町の親方なり。小髷をこのむ勇も承知し。いてふにかたき。番州もぐつとゑらうけなるべし。あゝ。よくも人情を解したるもの哉と。おのれ刺出しの身分ながらも。序すことしかり。
丹前堂 岡山鳥[印]

正確な執筆および出板年次は確定できないが、3編(文政6〈1823〉年)下巻巻末にも付されている。しかし柱には「序」とあり、やはり文化8〜9年のあいだに書かれたものと思われる。なお、2編巻之下の冒頭に、「昨日酒楽和尚とあの男とわたしと三個で岡山鳥が庵を訪らつたのさ山鳥大の酒客で頗るおもしろき男さネ」とある。

[作]爲朝勇傳上弦筑紫勲(前集)
合巻、半紙本5巻1冊、岡山鳥作、歌川国房画、文化十年癸酉春、岩戸屋板。
管見に入った国会本は半紙本1冊であったが、本来は中本だったかもしれない。見返しには「前集全五冊」とあり、巻末25丁裏にも「これより後へん五冊おひ/\出板」とあるが、後編は管見に入っていない。
見返し「文化十年癸酉春新刻 榮林堂梓」の部分は入木だと思われ、前述の文化7、8年の文刻堂(西源)板の本に付された広告にも見えているので、後にそれを岩戸屋が求板したものか。いまのところ文刻堂板の有無は未詳であるが、『七くせ上戸』(文化7年、文刻堂板)の広告では本作を「西刻堂作」としているから、当初は板元名義の合巻を岡山鳥の代作で出す企画があったようだ。

 文化11戌甲〈1814〉

[作]四季日待春廿三夜待
滑稽本、中本3巻3冊、岡山鳥作、国貞・国繁画、名古屋治平刀、文化十一甲戌春発行、西村屋與八・丁子屋平兵衛・柏屋半蔵▼32
筆耕名の記載はないが岡山鳥自身であることが序文から知れる。その序文は、「素より繁多。活業の片手間に。やつて見たいがわるい癖」と、自分から板元に草稿を持ち込んで出板を交渉する趣向で、「画工の催促。主人を労せず。〓人のどふだ/\に。番州をも。走らせまい。不残此方で歩行ます。まだ其うへに筆耕は。もちだします」と売り込み、本屋は「すんならやつて見ませう」と返事をするというもの。多少の誇張もあると思われるが、序の年記が「文化九年正月」となっているのに、実際の出来が二年遅れた事情もうかがえそうである。
ところが、下巻末27丁裏に国貞描く岡山鳥の像を載せた上に、「板元消息之縮圖」を掲げる。

先日は御出被下候処早々之仕合恐入候。然は兼て御噂御座候古物を内より見出し候。此本為持さし上候。是は落丁も有之虫ばみも有之候間何卒御補ひ可被下候。作者の名も相見へ不申候之間御名前にて板行可仕候。御校合被下候様奉願候。余程/\古きものとは相見へ申候。書余は得貴顔可申上候。頓首
  正月吉日
柏栄堂
岡山鳥様

これには、手許の作者名の記載がない古書を岡山鳥の名前で板行したいから校合して欲しい、という板元の依頼が記されている。
本作が出来するまでの実際の経緯はわからないが、少なくとも岡山鳥は毎年継続して本を出し続けられるだけの売れっ子ではなかった。反面、板元にとっても重宝な存在であったことは間違いない。
本来、本作は士農工商を四季に配し、春の廿三夜待の後には夏の庚申待、秋の甲子待、冬の己巳待と続ける構想であった。続編は管見に入っていないが、刊記に見える「廿三夜餘 興士至而舞楼」が『廿三夜續 編如月稲荷祭』として十年後に出されている。

[序]花標因縁車
読本、半紙本5巻5冊、萬壽亭正二作、勝川春亭画、文化十一甲戌年春正月、伏見屋半三郎、西村源六、播磨屋十郎兵衛、海部屋九兵衛、山田屋嘉右衛門。
これも文刻堂板の読本であるが、次のような序文を書いている。

序[筆三昧]>
ある日文刻堂を訪ふに老翁は獨茶を煎し喫しなからこの草稿を閲てしめしていはく是ハこれ萬壽亭の編述なり尋常の復讐の譚にあらて愚なる者を賢にし曲れる者を直くすかゝる文はいまた世にまれなり親しく見給へとあるをおのれ眼しゐの佳記のそきに是を見れは実に毫のあやこそ玉章地蔵の玉をつらね言葉ハ 金 子 の小金彦三にして花をさかす想ふに正二大人姓ハ〓田一に葛葉山人とあれハ人をして譱に化さしむること通力自在なるへしと答ふるを翁ははやくもふんてをとりてかいつくるまゝに因縁車の紀を引いたすことゝハなりぬ
 文化十癸酉五月文刻堂において
神田丹前基生        
江戸岡山鳥識[山鳥][節亭]

[筆]骨董集上編前帙
随筆、大本2巻2冊、山東京伝作、文化十一年甲戌冬十二月発行、鹽屋長兵衛・鶴屋喜右衛門▼33
刊記に「傭書 上巻・嶋岡長盈\中巻・橋本徳瓶」とある。

[参]人心覗機関
滑稽本、中本2巻2冊、式亭三馬作、国直画、丁子屋平兵衛板。「昨日も聴給へ山鳥子とふたりで枯野見に往つたけれどおらァ堤から別れて帰つたナントきつくなつたらう」

[参]浮世夢助魂胆枕
合巻、中本2巻2冊、式亭三馬作、国直画、鶴屋金助板。「採菊園みちとせさんがむかふのふね二見えるハヱ岡山鳥さんがとつちりものでアレ/\」
「いやこれはどうも/\京の四條がいゝのなんのとうそのかは此兩國につゞく物かアレ/\むかふの舟には山鳥が居る」(13ウ14オ)

 文化12亥乙〈1815〉

[筆]骨董集上編下帙
随筆、大本2巻2冊、山東京伝作、文化十二年乙亥冬十二月発行、鹽屋長兵衛・鶴屋喜右衛門。
刊記に「傭書 嶋岡長盈\同 凡例目六下之巻末自廿四紙至卅六紙藍庭林信」とある。

 文政2卯己〈1819〉

[作]水中魚論岡釣話
滑稽本、中本1巻1冊、岡山鳥作、錦亭鳴虫画、文政二年正月吉日、鶴屋喜右衛門・堺屋国蔵梓▼34
自序は文政元〈1818〉年戌寅夏5月。巻末広告に「岡釣話二編」「楊弓一面大當利 三冊 岡山鳥作」「廿三夜餘 興如月稲荷祭 三冊  岡山鳥作歌川国貞画」とある。岡釣話の続編は本作末に内容の予告が出ているが、管見には入っていない。あとの二作は順次出来される。

 文政3辰庚〈1820〉

[作]進上 坂東三津五郎丈 江戸狂歌連
狂歌摺物、文政3年9月に上阪する三津五郎に進上した餞別狂歌、四方真顔より三馬まで123人が名を連ねている。「文政三年庚辰十月中浣刻成贈秀佳▼35」。岡丹前亭山鳥
摺物も雄々しきていの催しはおむかしうかの大和たましひ

 文政4巳辛〈1821〉

[作]ぬしにひかれて善光寺参詣
滑稽本、中本2巻2冊、岡山鳥作、歌川貞房、文政四年巳孟春発行、鶴屋金助・堺屋国蔵。
文政3年夏に回向院にて善光寺の出開帳が開かれている。序末に「文政三年庚辰冬十一月信濃國駒嶽の麓に旅寝し硯の氷をうち砕て」とある。また、巻末広告に「如月稲荷祭」と「廿三夜餘 興上巳雛祭」「(驛路春鈴菜譚)後編」とが近刻として予告されている。

[序]假名手本團扇張替
合巻、中本3巻2冊、礫川南嶺作、勝川春亭画、岡嶌山人序、文政四年、伊藤屋與兵衛板。[印]

とらまへよ/\と。藝伎をおいしハ。由良之助どのゝ御醉興。とらまへて児に。よませんとするハ。南嶺子の新作。勧善懲悪は。素よりにて。こゝをしきつて。こふやつて。水門物置侍部屋。七役或ハ十二役。又ハ幕なし大仕掛も。ちよッくら。ちよつと。筆にあやなして。馬喰街の先生に。たのミのしるしの聟ひきで。御所望もふすハ。此品と先板元におさまれバ。千秋萬歳ちはこの玉。春まちかねて。ことしよりほしがるところハ。山々とゑん喜をことほく。このほんの序ともふすのも。おこがましい御免候へたハい/\。
  文政四年辛巳のはる
神田丹前 岡 嶌山人誌[山鳥]

 文政6未癸〈1823〉

[筆]神田明神御祭典
番付、中本1巻1冊(15丁)、歌川国丸画、岡山鳥書、文政六未年九月十五日、森屋治兵衞。

 文政7申甲〈1824〉

[作]揚弓一面大当利
滑稽本、中本3巻3冊、岡山鳥作、英泉画、濱山考浄書、文政七甲申歳孟春発行、鶴屋金助・伊勢屋忠右衛門。
巻末広告に「小野小町照々法師・天道一梼二道 岡山鳥作 中本三冊 酉年新板」とあるが、おそらく未刊に終ったものと思われる。
また、『的中新話』なる改竄改題本がある。岡山鳥作、英泉・貞舛画、天保三〈1832〉壬辰年発行、(大阪)河内屋直助。序文「壬辰の初春 萬器堂主人」と貞舛画の口絵(南里亭其楽の賛あり)とを新刻し、内題尾題に象嵌して「的中新話」としている。広告に「天竺得兵衛虚 實 譚本朝春秋外傳 六冊 近刻」とある。

[作]梅 川忠兵衛咲匂心梅川
合巻、中本2巻1冊、一九校、国丸画、申孟春、江崎屋吉兵衛。
本作は『むめ川忠兵衛戀初旅』(2巻1冊、一九作、国丸画、文化乙亥年、森治板)の改竄本である。序文も本文も概ね同一であるが、絵組みや役者似顔をまったく替えて彫り直している。なお、巻末江崎屋の広告に挙げられた本作に「岡山鳥作」と見えているが、本文中に記載はない。
序文で『和漢三才図会』「 魃 」の項を図と一緒に引用しているが、『戀初旅』では作中にも図を示していたにもかかわらず、『咲匂心梅川』の方では「〇この神ほんもんのうちたゝりをなすことたひ/\あれどもこと/\くづをあらはさず」と一切描かれていない。前年夏の諸国大干魃の影響か。

[作]乗懸合羽雫仇討
合巻、中本2巻1冊、国丸画、申孟春、江崎屋吉兵衛板。
本作も『旅眼石伊賀越日記』(2巻1冊、一九作、美丸画、文化11〈1814〉年、森治板)の改竄本である。序文はまったく別のものに替え、口絵を省き、絵組みや似顔も別のものにしている。本文はほとんど同一であるが、一部挿絵の意味が不明の部分がある。
なお、『咲匂心梅川』と同一の巻末広告が付されており、そこに「岡山鳥作」とある。

[作]毛谷村孝行次第(けやむらかう/\のしたい)
合巻、中本2巻2冊、国丸画、申孟春、江崎屋吉兵衛板。
本作もまた『毛谷村孝行男』(合巻、中本2巻1冊、一九校、美丸画、文化11〈1814〉年、森治板)の改竄本。
本作にも作者名の記載はないが、巻末十丁裏の余白に「水晶散\御はみがき\右岡山鳥せいす」とある。また、『咲匂心梅川』と同一の江崎屋の広告が付されており、そこに「岡山鳥作」とある。この広告中に「白井権八紫の腰帯 全二冊 同作同画」とあるが、これだけが管見に入っていない。
これら江崎屋板の3作は、いずれも10年前の一九作で、それも2冊物の丸取りである。造りも粗雑で絵との不整合もはなはだしく、かなり安直な出板ではある。3作の画工である国丸の名が最終丁に出ていることから、国丸が江崎屋の企画に噛んでいる可能性がある。それにしても、このような作の〈作者〉として(あるいは序文ぐらいは書いたのかもしれないが)、岡山鳥が使われているのが興味深い。

[作]廿三夜續 編如月稲荷祭
滑稽本、中本3巻3冊、岡山鳥作、英泉画、傭書濱山考、文政七甲申歳、西村屋與八・鶴屋金助・丁子屋平兵衛・堺屋国蔵▼36
筆耕名は記されていないが山鳥自身と思われる。
自序には「此後編廿三夜を著述せしは。文化十一戌の春。わんと遅きも程あるべし」と書いている。序末には「文政七甲申二月初午おいなりさまの神酒の酔中葛飾の別業竹門に筆を採る」とあり「神田豈山人[山鳥]」と署名している。
絵の後、本文の前に次の様な「口上」がある。

  口上
東西/\高うハ厶リ升れと是より口上のもつて申上ます段まつひら御めん願ひ奉ります前編廿三夜の儀御子様がたの思召に相叶ひ候段いか斗ありがたき仕合にぞんじ奉ります後編如月初午此たび出板につきまして相替らす御ひゐき御一覧の程奉希ますもちろん廿三夜をはじめこの初午にいたるまで素より推量の著作に厶リ升れハこれぞともふす鑿穿もこれなくやんやと申滑稽も厶リ升せんことに前編とおくるゝこと十とせがあひだ世の中ハ三日見ぬ間の桜にて時代違ひに假名ちがひ流行ちがひの間違だらけ扨また次の後編ハ上巳雛祭三冊もの是へこそ續てさし出します只今より御評判のほど〓に/\あつかましく希ひ奉ります

下巻末に追加2巻の梗概が記され、巻末広告にも「廿三夜餘 興如月稲荷祭 追加 三冊嗣出」とある。各内題と柱心の巻名「上(中下)」に象嵌の跡が認められることから、稿本が長過ぎたために分割されたと思われる。この追加(2〜3巻)は未見。
作中、「京山がみせの初音丸」「梅幸が製する白梅香▼37のかほのくすり。白芙蓉のおしろい」「三馬がところの江戸の水」「山鳥が製する。金のへヘッてゐる。水晶散の歯磨」などが話題にされ、挿絵中の衝立には「北越牧之筆」と見える。

 文政10亥丁〈1827〉

[作]江戸遊覧花暦
地誌、大本4巻3冊、岡山鳥著編、雪旦画、文政十年丁亥孟春新彫、守不足齋蔵板。外題、見返題、目録題などは『江戸名所花暦』となっている▼38
それぞれの季節にふさわしい花鳥風月の名所を紹介した実用書で、おそらく岡山鳥の著作中一番多く流布している本だと思われる。未刊に終わったものと思われるが、初板本の巻末には「花暦次編・花暦註譚」なる近刻予告が出ており、自序では『西湖志』『雍州府志』と比べ、本文中でも「山鳥按ずるに」などと考証を加えている部分も見られる。ただならぬ自負と意気込みが感じ取れる一作である。
後印本には、少なくても「天保八年丁酉春正月発行、須原屋茂兵衛・須原屋伊八」の刊記を持ち、序を付け替えた千鐘房・青黎閣板の大本3冊と、これを求板し「明治廿六年十二月廿六日印刷発行」との刊記を加えた博文館板の半紙本4冊がある。さらに近代になってから出た翻刻本も数種類に及ぶ。

 天保3辰壬〈1832〉

[賛]書畫薈粹初編
書画、3巻3冊、畑銀鶏編、天保三年▼39

戯作  名長盈 字哲甫 号竹之戸又号丹前舎 世人呼曰岡山鳥 駒込大番町 嶋岡芳右衛門
江戸ノ人戯作ヲ以世ニナリヌ又俳諧哥ヲ詠テ其名高シ性滑稽ニ長シ酒ヲコノンデ磊落也
  こつそりとあやめをひけハあしもとへ
           打よするのも池のしら波

 天保4巳癸〈1833〉

[賛]江の島まうで浜のさゞなみ
地誌、半紙本1巻1冊、平亭銀鶏撰、文晁他画、天保四年刊。
挿絵の賛に「江のしまのゑにもおよはぬ開帳へゑにかくやうなつれはひめ貝 岡山鳥」とある▼40

 天保6未乙〈1835〉

[参]銀鶏一睡南柯乃夢
随筆、半紙本2巻2冊、平亭散人作、貞広画、天保六年刊。
口絵の「連月廿五日於平亭書画會諸先生入來之圖」に「山鳥先醒」として描かれている。

 嘉永2酉己〈1849〉

[参]歌城歌集
歌集、大本4冊 嘉永二年篠崎小竹序、嘉永五年春二月、(大阪)河内屋新二郎・(江戸)岡田屋嘉七刊▼41

     岡三鳥か家にて海邊春夕
泉郎の子のめかるわさもか夕なきにあくまて春のうらなれてみむ(巻一30オ)
  夕顔
     岡三鳥か家にておなしこゝろを
賎かやのあはらまかきをことさらにつくろひたてゝゆふかほの花(巻二10オ)
     岡三鳥か家にて雪中早梅を
春たゝは鴬きてやまとふらむ雪なかくしそうめの花かき
さしてこむ鳥もまたゐす降雪のかくれかさきるうめのはつ花(巻三13ウ14オ)

[賛]木石餘譚
読本、半紙本6巻6冊、閲訂曲亭馬琴、編述〓画圖齋藤桂屋、校合〓浄書伊藤丹丘、嘉永六年丑春発兌、(東武)丁子屋平兵衛・(浪華)秋田屋市兵衛・(同)河内屋茂兵衛・(皇都)山城屋佐兵衛(文政堂板)。外題見返題角書「楠家外傳」、「弘化元年冬十二月立春前五日」馬琴序。
本書は第1輯のみで未完であるが、馬琴は「稗説虎之巻」という批評を書いている▼42
口絵の賛に、

夏くれハしける若葉のかけそひて
    みとりに見ゆるしら川の瀧
 右賛 片岡義明   節亭(口ノ3ウ)

明かたの雰のたえ間の月かけに
    ほの見えそむる遠の山里
 右賛 深垣重量   節亭(口ノ6オ)

もみちはに立ましれとも山松は
    色にそまらぬものにさりける
 右賛 宇佐美正俊   節亭(口ノ6オ)

と見えるが、この「節亭」は岡山鳥ではないだろうか。

未詳

[序]絵本子供あそび
疱瘡絵本、中本1冊(8丁)、岡山鳥序、春扇画。
狂歌入の絵本である。花咲一男編著『疱瘡絵本集』(太平文庫3、1981年、太平書屋)にも序文と1図が影印で紹介されている。

[印]
伊豆の下田と急でおせば。波のあなたに疱瘡なく。波より是方に疱瘡あり。なくてもわるし。あればとて。重きハ嫌ふ世のならひ。軽きハ誰も聞がたの。その耳づくに。起上り小法師。昨夜も乾たが。また乾た。翌は早からおひんなれ。真赤な。鯛の魚さんて。赤小豆飯も。酒湯の悦ひ。堅固で仕てとる豆太鼓。さゝらり三八。さつはりと。あとのつかぬが。紅画の奇特。童さん御覧童さん御覧。疱瘡が軽るい疱瘡が軽るい。と欽白
夜伽の眼覚し紅紙燭を照して       
神田丹前 岡山鳥識[山鳥]

刊年は記されていないが、文化末年頃であろうか。

[筆]信濃國繪圖
地図、1枚摺、98×210糎、長谷川雪堤画、岡山鳥書、川澄維保刀。信濃国の全図で「禁賣買」とある▼43

以上見てきた嶋岡権六の業績は、もちろんまだ完璧なものではないが、ほぼ輪郭を把握できるだけの情報は提示できたと思われる。では、これらの仕事から嶋岡権六を一体どのように位置付けるべきであろうか。

彼の存在を知った当初は、筆耕から作者になり上がった戯作者のあり様が、いかにも化政期らしいと漠然と考えていた。筆耕をしつつ出板界の様子を知り、草稿の筆写という作業を通じて著述の修業ができたからである。そこで、ジャンルという様式性を認識しさえすれば、作品をなすことは容易だと思ったのである。確かに、そのような側面は存在したようで、嶋岡権六以外にも筆耕から作者になった者に、橋本徳瓶(千代春道)、晋米斎玉粒、曲山人、松亭金水、宝田千町などがいた。しかし、これらの人々とは行き方が少し違ったようだ。

嶋岡権六は基本的に武士であった。内職としての筆耕を始めたのであり、本職としての作家を目指していたものとは考えられないのである。そもそも、職業作家として飯を喰っていけたのは、ごく限られた人気作家だけであることは、出板界に首を突っ込めばすぐにわかったことであろう。むしろ、業界に顔を繋いで自作を出せる機会を待つ気楽な遊び人としての位置を望んだのである。

『江戸現存名家一覧』や『當時現在廣益諸家人名録』などを見ると、嶋岡権六は「岡山鳥」として、畑銀鶏らと共に〈雑家〉に分類されている。〈書家〉でも〈画家〉でも〈儒者〉でもなく、まさに〈雑家〉なのである。この〈雑家〉というのは、マルチタレントという程度の意味で使われていた用語と考えてよいだろう。そして、出板メディアこそが彼らの才能を発揮できる唯一の場であった。しかし、出板は商売であるから採算を度外視できるはずがない。そこで発揮されたのが〈雑家〉としての多才ぶりなのであった。

嶋岡権六の場合は、自分で板下を作製できるのみならず、書画会を催すほどであるから、おそらく人脈的にも広い付き合いがあったはずである。これらを駆使して板元に利害を説きつつ自作を梓に上せたに違いない。一方、板元の側にとっても彼の存在価値は小さくなかったはずである。合巻における徹底した役者似顔の使用を工夫して一世を風靡したり、自ら代作者となり役者名義合巻という新規な企画を生み出して成功させたり、出板事業を活性化させるのに不可欠なブレーンだったからである。そのせいか、柏栄堂や文刻堂そして堺屋など交渉のあった板元は限られていたようだ。

嶋岡権六は、岡山鳥として著名な傑作を残したわけではなかった。だから文学史がその名を記憶しなくても、それはそれで仕方のないことかもしれない。だがしかし、かつては知的遊戯だった〈戯作〉が出板資本に取り込まれ、商品としての本の生産と出板事業の拡張に取り組んだ化政期という時代だからこそ、岡山鳥としても生きられる場が存在したのである。もはや戯作者にはなれない彼は、〈雑家〉として受け入れられ、そして己の多才ぶりを発揮しつつ生きいきと仕事ができたのである。その結果残されたじつに多岐にわたる仕事は、やはり出板という文脈を抜きにしては見えないものであろう。逆にいえば彼のような人間が存在できた出板という場が、化政期を端的に象徴しているともいえる。近代化への歩みを急速に早める幕末期に突入する寸前の幸せな時代だったのかもしれない。



▼1 木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、1988年)
▼2 『燕石十種』二巻(中央公論社、1979年)
▼3 『日本小説年表附總目録』(近代日本文学大系25、国民図書、1929年)。本書は『訂改日本小説書目年表』(ゆまに書房、1977年)として再版。
▼4 「山鳥」の表記は時として「三鳥」と混同して用いられることがある。しかし、本姓「嶋岡」の「嶋(嶌)」を偏と旁とに分解し、その上に「岡」を持ってきたのが「岡山鳥」という戯号の由来であると考えられるから、本人が使っていたのは「山鳥」だけのはずである。ところが、同時代でも表記が揺れている。とくに式亭三馬の門弟であった「古今亭三鳥」の「三(山)鳥」とは、まったくの別人であるので注意を要する。
▼5 関根只誠編、関根正直訂『訂正改版名人忌辰録』、六合館、1925年。
▼6 狩野快庵編『狂歌人名辞書』、文行堂・廣田書店、1928年。再版は臨川書店、1977年。
▼7 木村三四吾・柴田光彦ほか編『馬琴日記』、中央公論社、1973年。
▼8 柴田光彦「翻刻滝沢家訪問往来人名簿(上・下・索引)(「近世文芸研究と評論」33・34・37号、研究と評論の会、1987〜1989年)
▼9 水谷不倒『選擇古書解題』(『水谷不倒著作集』7巻、中央公論社、1974年)
▼10 雙木園主人編『江戸時代戯曲小説通志』(弘文社、1927年)
▼11 国会図書館本・京都大学附属図書館本・早稲田大学図書館本はいずれも同体裁。広島大学本は未見。
▼12 『京摂津戯作者考』(『続燕石十種』1巻、中央公論社、1980年)
▼13 漆山天童『近世人名辞典』(日本書誌学大系36、青裳堂書店、1984年)
▼14 水谷不倒『草雙紙と讀本の研究』(『水谷不倒著作集』2巻、中央公論社、1973年)
▼15 大高洋司編『曲亭馬琴作 新累解脱物語』(和泉書院、1985年)による。本影印は、現存する最善本と思われる関西大学本を底本にしたものである。
▼16 天理図書館本による。拙稿「巷談坡堤庵―解題と翻刻―(「愛知県立大学文学部論集国文学科編」41号、1992年)、林美一「未刊江戸文学」14、17号(未刊江戸文学刊行会、1955、1959年)に翻刻が載る。
▼17 本書第二章第三節参照。
▼18 服部仁氏の翻刻が備わる。上下2冊を「同朋国文」21号(1988年)、「同朋大学論叢」59号(1989年)に分けて掲載。
▼19 「画入読本外題作者画工書肆名目集」(「国文学論叢1輯 西鶴―研究と資料―」、慶応義塾大学国文学研究会、1957年)
▼20 佐藤悟「読本の検閲―名主改と名目集―(「読本研究」6輯上套、渓水社、1992年)
▼21 九州大学文学部所蔵本による。国文学研究資料館にマイクロフィルムが所蔵されている。九大本は原表紙を欠くが、管見に入った一本は中本一冊は錦絵風摺付表紙で、外題「巌柳嶋」、幸四郎と路考の似顔を描く。
▼22 使用されている役者似顔は次の通り。なお、以下に挙げる3作の役者似顔の考証は、故向井信夫氏の教示による。
官次郎(高島岸流)=五代目松本幸四郎、月元武者輔=三代目坂東三津五郎、荒志郡次兵衛=初代市川男女蔵、天竺徳兵衛=三代目中村歌右衛門、吉田女児阿天流=五代目岩井半四郎、吉田奴隷与五郎=初代澤村源之助、高島奴隷与九郎=初代尾上榮三郎、飾磨殿の妾萩の方=初代瀬川仙女、飾磨柴丸=四代目市川高麗蔵、吉田民右衛門=三代目坂東彦三郎、吉田妹女児阿雪=四代目瀬川菊之丞、吉田妻女阿くら=二代目小佐川常世、吉田民之介=七代目市川團十郎、飾磨家近臣=二代目関三十郎、与九郎姉おゆり=初代尾上松助。
▼23 京都大学附属図書館所蔵の大惣本による。
▼24 棚橋正博『式亭三馬集』(叢書江戸文庫20、国書刊行会、1992年)解題で指摘している。棚橋氏はこれを「封切紙」とする。
▼25 慶應義塾大学三田情報センター所蔵本による。使われている主な役者似顔は次の通り。
松尾麻呂=五代目松本幸四郎、梅王麻呂=初代市川男女蔵、佐久羅麻呂=五代目岩井半四郎、時平=初代中嶋三甫右衛門、荒藤太経景=四代目市川八百蔵、原三妻外浪=三代目瀬川菊之丞、松尾妻千世=四代目瀬川菊之丞、道明寺住職木公=初代尾上松助、猛部原三定胤=三代目坂東三津五郎、菅原道真=三代目坂東彦三郎、須久根太郎=二代目尾上松助、判官代照国=初代澤村源之助、かく尼=二代目荻野伊三郎、八重=三代目市川田之介、白太夫=初代浅尾工左衛門、黒太夫=二代目小佐川常世、稲たつた=三代目市川団之介。
▼26 向井信夫氏所蔵本による。
▼27 東京国立博物館所蔵本は3巻合1冊の初印本。東京大学総合図書館にも外題欠ながら1本を蔵す。林美一「江戸春秋」20に影印翻刻が備わる。その解題によれば天保9年改題後印本『英雄奇人傳』があるという。
▼28 大阪府立中之島図書館所蔵本による。国会本は半紙本仕立の上紙摺。
▼29 役者似顔は次の通り。
袈裟御前=五代目岩井半四郎、遠藤武者盛遠=五代目松本幸四郎、渡辺左衛門尉渉=三代目坂東三津五郎、縞原傾城由谷太夫=四代目瀬川菊之丞、朝皃咲兵衛=成田屋宗兵衛、加奈屋管家東禄=初代市川市蔵、祇園火燈文悪=三代目中村歌右衛門、守唯蔵人=七代目市川団十郎、巻水新兵衛=初代澤村源之助、伎者絞の阿花=二代目沢村田之介、材木問屋鹿子勘兵衛=二代目尾上松、助衣川=三代目市川団之助。
▼30 佐藤悟『役者合巻集』(叢書江戸文庫24、国書刊行会、1990年)に影印翻刻されている。「近江源氏雨夜の金竜」という改題後印本がある。
▼31 本田康雄『浮世床・四十八癖』(新潮日本古典集成52、新潮社、1982年)に注釈付で翻刻されているが、この序文は掲載されていない。
▼32 『名家短編傑作集』(続帝国文庫、博文館、明治36〈1903〉年)
▼33 『日本随筆大成』1期15巻(吉川弘文館、1976年)
▼34 『珍本全集』下巻(帝国文庫、博文館、明治28〈1895〉年)
▼35 土田衛「〔受贈図書紹介〕『進上 坂東三津五郎丈 江戸狂歌連』」(「女子大文学国文篇」41号、大阪女子大学、1990年)
▼36 鈴木俊幸氏の所蔵本による。また、鈴木圭一氏所蔵本は巻中を欠く後印本(釜谷又兵衛板)で、外題は「滑稽二十三夜後編」となっている。
▼37 この白梅香であるが、文政七年『大星物語いろは歌二ッ巴』(志満山人作、森治板)巻末広告に「調合所は岡山鳥賣弘所ハふきや町柳屋幸助取次所は所々に御座候」とある。
▼38 今井金吾『江戸名所花暦』(生活の古典双書8、八坂書房、1973年)解題によれば、岡山鳥の自序を載せる初印本は見返しが黄色地に桜や紅葉を散らし「岡山鳥著編・江戸名所花暦春夏秋冬四冊・長谷川雪旦画」とある内閣文庫本などで、同じ刊記を持つ本でも見返しが白地で「丁亥初秋新彫發兌」とある本は、やや後印で自序を欠くという。なお、右の改訂新装版『江戸名所花暦』(八坂書房、1994年)が出ている。
▼39 『近世人名録集成』(勉誠社、1976年)による。
▼40 『團扇張替』と併せて、鈴木俊幸氏の教示による。
▼41 引用は、刈谷市立図書館村上文庫本による。なお、岡山鳥との関係については、山本和明「「幽篁庵」の周辺―伝笑・祐之・京山―(「国文学研究ノート」26号、神戸大学「研究ノート」の会、1991年9月)が指摘している。
▼42 服部仁「馬琴晩年の読本観―『稗説虎之巻』を通して『木石余譚』を見る―(「国語国文学会誌」25号、1982年)。後藤丹治「木石余譚考證―日本精神を謳歌せる讀本史上の一作品―(「日本文化」16、1939年)
▼43 慶應義塾大学三田情報センター蔵(240-193-1)。鈴木圭一氏の教示による。


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