『江戸読本の研究』第三章 江戸読本の世界

第二節 『松浦佐用媛石魂録』の諸板本
高 木  元

 馬琴読本における書誌研究の重要性を説かれたのは鈴木重三氏である。氏は多くの板本にあたりながら、現在では稀覯となった多くの初板本の形態を紹介し、さらに馬琴が本文の校合だけでなく挿絵にまで細かい神経を遣っていたことを実証した▼1
 『松浦佐用媛石魂録』(以下『石魂録』)には、ほかの馬琴読本と同様に、初版初印本の口絵や挿絵が入った校訂の確かな信頼すべき翻刻は備わっていない。そこで『石魂録』の諸板研究を試みた▼2
 『石魂録』前編三巻三冊は文化五年に、後編七巻七冊は文政十一年に刊行された。前編刊行後二十年を経て後編が刊行されるという、馬琴読本にあっては特異な成立をした作品である。
 まず前編の初板本については鈴木重三氏が行き届いた報告をしているので、これに基づいて記しておくことにしたい。なお前編の初板本は鈴木氏のほかに、中村幸彦氏も同板を所蔵で、こちらは国文学研究資料館の紙焼写真で見ることができた。また都立中央図書館加賀文庫(8286)には文化五年初板発行時の自筆校合本(前編のみ合一冊)がある。

前編

冊数 三巻三冊。
表紙 鴬茶に業平格子風の浮出模様。題簽は表紙中央で木目模様の枠内に書名「松浦佐用媛石魂録 上(中下)」。
見返 紗綾型枠内に銅器の意匠、これを囲むように上部に「松浦佐用媛石〓録」、右に「曲亭主人著」「戊辰發兌\出像小説」、左に「歌川豊廣畫」「仙鶴堂\雙鶴堂梓」とある。壷の中に「壽光」「比〓毛美都波流巳加我弥乃鳥梅麻傳母」「前編三冊」、上部欄外には「瀬川采女復讎奇談」とある。
柱刻 「大和言葉▼3巻之上(中下)」。
口絵 二図(七ウ、八オ)は薄墨を用いて背景が潰されているが、八オの長城野兵太の着物には艶墨が施されている。また、八オに付された「文化丁卯仲夏提月曲亭主人再識」は後印本では削除されてしまう。
内題 「松浦佐用媛石魂録前(編)(中下)巻」(象嵌)
挿絵 中巻第一図(三ウ四オ)では、御簾の中にいる侍女等を薄墨で入れ御簾越しの風情を出している。同巻第五図(十八ウ十九オ)では、瀬川采女の乗る馬と水平線上の雲と月を薄墨で入れ、上部をボカシている。下巻第一図(四ウ五オ)の龍神洞の異人の乗る雲が薄墨で入れられ上に行くほど薄くなっている。異人の背の鱗や龍燈松の石碑にも薄墨が入っている。同巻第三図(十四ウ十五オ)の雪景色は薄墨で立体感が添えられ、盥に映る牛淵九郎の顔も薄墨で表現されている。第四図(十七ウ十八オ)の雪景色。同巻第五図(二十二ウ二十三オ)では薄墨が雪景色に用いられ、博多倍太郎と牛淵九郎の着物に艶墨を用いる。さらに、匡郭を大きくはみ出して描かれた昇天する龍の図で、周囲の雲に用いられた板ボカシと薄墨も効果的である。
刊記
  編述    著作堂藁案 [曲亭]
  出像    一柳斎筆  [豊廣]
    傭書 石原駒知道
    剞〓 小泉新八郎
  右石魂録後編来冬無遅滞出版其餘新編録于下
   俊寛僧都嶋物語  曲亭主人著 来載出版
   伊達與作驛馬新語 曲亭主人  同  前
  〇雙鶴堂發販書目   揚屋町鶴屋金助版
   梅ノ由兵衛物/語梅花氷裂 山東京傳著 全三冊
   敵討天橋立      十偏舎一九著  全五冊
   松浦佐用媛石魂録 曲亭馬琴著  前編三冊後編三冊
  江戸書肆 雙鶴堂
             通油町 鶴屋喜右衛門
  文化五載戊辰正月吉日發販
             新吉原 鶴屋金助梓

 さて次に、文政十一年刊の後編と、その時に後印刊行された前編について見ていきたい。
 『国書総目録』には欠本があるものを含めて所在が確認できる本が十本ある。その中で全本揃っている八本と、管見に入った二本の計十本を挙げる。

A 三康図書館本(国書五−八一)      *残念ながらやや痛んでいる。
B 静嘉堂文庫本(一〇−甲−四一)     *保存状態のよい美本だが改装されている。
C 岩瀬文庫本(一二−八四−二三)     *保存状態のよい美本。文政十三年刊前編五冊本を取り合せ。
D 早稲田大学図書館本(特ヘ一三−七〇八) *美本だが全十巻を三冊に合冊してある。
E 学習院大学国文学研究室本(九一三−六六一)*落丁あり筆写して補ってある。
F 天理図書館本(九一三・六五−七五)   *金子和正氏等によって紹介された▼4本。
G 静嘉堂文庫本(一〇−甲−四〇)     *Bとは別本、改装されている。
H 国会図書館本(一二二−一五−四〇)   *落丁が多い粗本。
I 東京大学総合図書館本(E二四−五七)
J 大阪府立中之島図書館本(二五五・六−三八)

 このうち初板本グループはABCDの四本である。EFは表紙口絵の板木を彫り直した後印本、GHIJはさらに後の摺りだと思われる。次に前編、後編上帙、後編下帙▼5の順に初板本(ABC)を中心にした書誌を記す。

前編(三巻三冊)

冊数 Dは三巻一冊、CEFHIJは三巻五冊、Gは三巻三冊(改装本、原体裁不明)
表紙 斧琴菊を散らす。地の色と各部の色相は各本により少しずつ違っている。題簽は左肩、蝶模様白抜の飾枠中に「松浦佐用媛石魂録 初集巻之上(中下)」とあり、「初」「上(中下)」は墨書(A)
 HIJは同様の題簽に「初」「一(−五)」が墨書。
 Cは灰色無地表紙、題簽は左肩、子持枠「松浦佐用媛石魂録前輯一(−五)」とあり、「一(−五)」は墨書。
 Dは黄色無地表紙、題簽左肩、子持枠灰色無地に「松浦佐用媛石魂録 一」とある。
 EFは縹色地に松の枝葉が描かれており、右上から左下に向けて斜めに薄墨を用いて縞模様が施されている。題簽左肩、子持枠「松浦佐用媛石魂録初集一(−五)」とあり、「初」「一(−五)」は墨書。
 BGは二藍無地表紙に改装されている。題簽なし。
見返 文化五年刊の初印本の見返しを流用、ただし書肆名「仙鶴堂雙鶴堂梓」を象嵌して「千翁軒梓」と直してある(AB)
 GHIJは黄色地に菊模様白抜の飾枠。右に「曲亭主人著」、中央に「松浦佐用媛石\〓録」、左に「渓齋英泉画 文渓堂」とあるが、前編の画工は「豊廣」であるから、後編の見返しを流用したものと思われる。なお、Jは板元の箇所が「宝玉堂」となっている。
 CDEFは見返しなし。
柱刻 すべて「大和言葉 巻之上(中下)」。
口絵 EF以外に薄墨の使用は認められない。
 EFでは口絵の板木が彫り直された形跡がある。また、口絵の部分だけ厚手の上質紙が用いられ、枠衣装小道具等に薄墨が施されている。さらに背景には濃淡二色の薄墨を用いるという、大層手の込んだ改変が加えられている。
内題 「松浦佐用媛石魂録前(編)(中下)巻」(象嵌)
挿絵 文化五年刊の初印本に見られた薄墨の使用は見られない。
刊記 文化五年の刊記を持つものは一本もない。
 CDには別本に使われたものが利用されている。
 Cは、文政十三庚寅年仲夏発兌
 書房    大阪心斎橋筋博労町 河内屋長兵衞
              同 所河内屋茂兵衞
    江戸小傳馬町三丁目 文渓堂丁子屋平兵衛
 Dは、東都書林 小伝馬町三丁目中程 文渓堂 丁子屋平兵衛梓
 CD以外のものには後編下帙のものが付されている▼6

後編上〓帙(四巻四冊)
冊数 Dは四巻一冊、EFHIJは四巻五冊(巻之四を二分冊)、Gは四巻四冊(改装、原体裁は不明)
表紙 前編と同じ。ただしCは前後編の取り合せ本で、後編はAHIJと同じ表紙になっている。
見返 龍の意匠をあしらった薄墨の枠中右側に「曲亭主人著」「文政戊子孟陽\惣本發販之記」とあり、中央に「松浦佐用媛石\魂録後集上帙」、左側に「渓斎英泉畫 千翁軒梓[岡田]」とある。文字はすべて篆書体(ABC)
 GHIJでは、菊模様の白抜枠に「曲亭主人著」「松浦佐用媛石魂録」「渓斎英泉画 文渓堂」とある。ただしJは「文渓堂」のところが「宝玉堂」となっている。
 DEFは見返しなし。
柱刻 十本すべて同じ「石魂録後集巻之一(−四)千翁軒蔵」。なお、巻之二の廿四廿五丁はABCDが「廾四、廾五」と、ほかの丁付と同じ字体になっているが、E以下では「廿四、二十五」と字体が変わっている▼7
口絵 第一図(三ウ)では炎に包まれた胡子和の周囲、糸萩の着物、浦二郎の袴等に薄墨が施されている。第二図(四オ)では返蝮の着物に紗綾型の模様が薄墨で施され、輪栗の帯には艶墨が用いられ、さらに背景が薄墨でつぶされている。第三図(四ウ)弥四郎、倍太郎の着物の一部と枠に薄墨が、語黙斎の着物の一部に艶墨が施されている。第四図(五オ)手枕、簑七の着物の一部に艶墨、背景に艶墨と薄墨が使用されている。第五図(五ウ)経高等三人の着物の一部と傘の柄の部分に艶墨が使用されている。第六図(六オ)歌二郎、澳進の着物に薄墨が施され、背景全体に薄墨が使われているが、昇天する龍の下は「ぼかし摺り」になっている(ABCD)
 EFでは、全図の人物の着物に薄墨が使用されている。第二図の返蝮の着物も模様がなくなり薄墨で潰されている。また同図で「輪栗」の振仮名が「一と くり」となっており、口絵と薄墨の板木が彫り直されたものと思われる。
なお、G以下においては薄墨艶墨が一切省かれている。
 ところで、E以下では第三図第四図がなくなっている。さらにA〜Dでは六ウに「再識」があったが、E以下では口絵の第七図として「肥前松浦潟頭巾摩望夫石之図」が入れられている▼8。ただしGIJでは白紙のままになっている。
内題 「松浦佐用媛石魂録後集巻之一(―四)
挿絵 巻之二第二図(廿二ウ廿三オ)「動の磯に二兇吉次を撃」では、全面に薄墨をかけ左上から右下へ向けて稲妻が白く抜かれ、さらに全面に細かい雨足が抜かれている。巻之三第一図(八ウ九オ)「勇を奮て旡名氏二兇を撃」でも全面に薄墨がかけられ、雨足だけが白く抜かれている。同第二図(十六ウ十七オ)も夢の場面にふさわしく背景に薄墨が入っている(ABCD)。E以下では薄墨の使用は認められない。とくに巻之三第一図では右半丁だけに墨で雨足が摺られているが、左半丁にはこれがなく、はなはだ体裁の悪い図となっている。
刊記 刊記前の広告に「松浦佐用媛石魂録後集\五の巻 六の巻 七の巻\右三巻近日引つゞき売出申候。後集すべての大趣向はこの巻々に宥之候。不相替御求メ御覧可被成下候」「松浦佐用媛石魂録前集\右同作三巻\此度多くすり出し後集と同時に売弘メ申候。前集を見給ハざれば後集わかりかたかるべし」とあり、ほかに「近世説美少年録」の予告、薬の広告等がある(ABCDEF)
文政十一年戊子春正月吉日發行
    大坂心齋橋筋博労町 河内屋茂兵衛
    江戸小伝馬町三町目 丁子屋平兵衛
    同  横山町二町目 大坂屋半蔵梓
 G以下では書肆の住所と名前に象嵌されている。
    大坂本町通心斎橋東 河内屋真七
    江戸 伝馬町二町目 丁子屋平兵衛
    同  横山町二町目 大坂屋半蔵梓

後編下帙(三巻三冊)
冊数 Dは三巻一冊、EFHIJは三巻五冊(巻之六、七を分冊)、Gは三巻三冊。
表紙 上帙と同じ。
見返 飾り枠内右側に「松浦佐用媛石\魂録後集下帙」、左側に「曲亭主人著\渓斎英泉畫 千翁軒梓」と紺色で摺られており、下に落款めかして篆字で「戊子孟陽發販」とある。
 GHJは上帙と同じ文渓堂(宝玉堂)のものがある。
 EFIには見返しなし。
柱刻 十本すべて同一。「石魂録後集巻之五(−七)千翁軒蔵」。
口絵 第二図(序二オ)では狹手彦の下から両側に十三羽の小鳥が薄墨で入っている。
 EFでは上帙と同様に、板木が作り直されたものと思われ、ここでも口絵にだけ厚手の上質紙が用いられている。第一図では背景に薄墨が施され、第二図では小鳥はなくなり背景にたなびく煙の意匠で濃淡二色の薄墨が使用されている。
 G以下では、すべての重ね摺りが省かれている。
内題 「松浦佐用媛石魂録後集巻之五(―七)
挿絵 巻之五第一図(二ウ三オ)「秋布俊平謬て語黙斎夫婦と戦ふ」では、全面に薄墨をかけて暗闇を表現し、糸萩の持っている手燭から発する光が白く抜かれている。巻之七第一図(十ウ十一オ)「絃管合奏して笞をゆるくす」では、経高の座している段全体に艶墨で模様が入れられている(ABCD)
 E以下は、すべての重ね摺りが省かれている。
刊記 右半分に「松浦佐用媛石魂録前集\右同作三冊\此節多くすり出シ後集と同時に製本仕候。御覧下さるへく候」とあり、「近世説美少年録」の予告と薬の広告等がある。刊記は上帙と同一(ABCD)
 EFは上帙と違って丁子屋平兵衛の住所だけが「小伝馬町三町目→ 伝馬町二町目」と入木変更されている。
 G以下は上帙と同様な入木が施されている。

以上見てきた諸板の相違を表にすると次のようになる。

           A B C D E F G H I J
 冊 数       10 10 12a 3 15 15 10b 15 15 15
 表 紙       〇 × 〇 ◇c △d △d × 〇 〇 〇
 見 返       〇 〇 〇 ◇i × × △e △e × △e
 後編口絵の重摺り  〇 〇 〇 〇 △f △f × × × ×
 後編口絵第三、四図 〇 〇 〇 〇 × × × × × ×
 後編「再識」    〇 〇 〇 〇 △g △g × △g × ×
 後編挿絵の重摺り  〇 〇 〇 〇 × × × × × ×
 後、二の丁付変更  × × × × 〇 〇 〇 〇 〇 〇
 刊記の象嵌     × × × × △h △h 〇 〇 〇 〇

 注
   a 前編五冊後編七冊の取合本
   b 改装されている。本来は一五冊だったか
   c 別表紙d 別表紙
   e 文渓堂(宝玉堂)の見返しf 別の板木による重摺
   g 「再識」ではなく口絵h 文渓堂の所在だけ下帙で変更
   i 上帙あり、下帙なし

 初板本グループABCDのうち、ABCは基本的には同じ頃の摺りだと思われる。ただし、Bは表紙を欠いており、Cは前編を持たない。したがって、もっともよく刊行時の形態を残しているのはAである。
 また、Dは初印の形態を残しながらも三冊に合冊されており、見返しを持たない。しかし題簽は明らかに摺られたものであるから、初印に近い頃に出来したものと思われる。Dの前編の刊記は「文渓堂」だけであり、『田家茶話』の広告が見えることから、どんなに早くても文政十二年以降の刊行だろうと思われる▼9。文政十一年三月二十日篠斎宛書翰▼10に、

一 石魂録後集七巻の内、上帙四巻、四、五日已前ニうり出し申候。下帙ハ只今校合いたし居候間、来月中ニ者うり出し可申候。乍去、登せハいまだ極り不申候よし。左候ハヾ、御地江本廻り候者秋ニも及び可申候哉。本がらよほどきれいニ出来候へ共、すり本ニて登せ、仕立ハ上方ニていたし候間、江戸の本とハ仕立もちがひ可申候。

と見え、上方で別製本が作られていたことが知れる。しかし、Dがそれだという根拠は見出せない。

 ところで、文政十二年三月二十三日の日記▼11には、「大坂や半蔵ハ土蔵やけおち、石魂録板ハ持退候へ共、先ニて焼亡、丸やけニて、甚力を落し候様子のよし也」との伝聞が記述されている。この記述を信じれば、『石魂録』の板木はすべて焼失してしまったことになる。ところが、同年四月八日の条に「夕方、大坂や半蔵来ル。速にかり普請出来、売薬渡世はじめ候よし。石魂録板も焼不申よし、申之」とあり、このことは書誌的調査の上からも裏付けられる。
 また、後編上帙は「四五ヶ月やうやく二百」、後編下帙は「二三年かゝり四百積り。上方上セ二百」というほど、売行きがよくなかったらしい▼12。この一因が上帙三月十六日、下帙五月十七日という時宜を逸した発売時期▼13だったとしても、全編にわたる再刻を、発刊後わずか一年でするとは考えにくいのである。文政十二年五月十二日の篠斎宛書翰▼14によれば、

一 石魂録後集之事、……かねてハ、上帙、仲ヶ間うり直段十二匁位、と申事ニ承り居候処、引請人丁子や平兵衛大慾心にて、中ヶ間うり正味十五匁ニうり出し、少しも引不申候付、高イ/\と申評判のミニて、やうやく本弐百部捌候よし。下帙ハとぢわけ同様ニ候へども、これも同じわり合にて、拾壱匁弐分五厘のよしニ御座候。是迄拙作に、これほど高料の本ハ無之哉ニ覚申候。登せハ多分本がへニ成候間、上方ニて引請人却て下直ニうり渡し候哉、難斗候。此板元素人故、自分ニて売捌キ候事不叶、丁子やハ書林なれどもかし本問屋ニて、此もの引受、売捌キ候故、凡五、六わりの高利を得(候)ハねば引請不申候。此義かねて存居候故、先頃勘定いたし見候へバ、江戸売四百部、登せ弐百部、六百部うれ不申候でハ、板元之板代かへり不申候。七冊ニて、惣元入、七十金かゝり申候。依之、本ハ板元ニ壱部も無之、板元より丁子や江申遣し、本とりよせ、差越候事ニて、直段も板元自由ニ成り不申候。……種々の意味合御座候而、作者の自由ニも成りかね、板元の自由ニもなり不申候。御一笑可被下候。かやうの板元ヲ杜鵑本やと可申哉。自分ニてほり立ても、うることならず、人にうりてもらひ候故、利分ハ人に得られ、やう/\板ヲ自分の物ニいたし候が所得ニ御座候。それでもほりたがり候もの多し。畢竟板ヲ株ニせんと思ふ見込ニて、うり出し候節、損さへせねバよい、と申了簡ニ御座候。しかれども、四百部売捌申さねバ、急ニ元金かへり不申候。四百部ハ丁子や引請候へバ、二、三年かゝりてもぜひ売払可申候へども、此四百部不残出払ひ迄ハ板元ニて壱部もすり込候事ならぬとり極メニ御座候。

と値段の設定が高価であったことと、板元である大坂屋半蔵が、貸本屋である丁子屋平兵衛に販売を委託した契約の一端がうかがえ興味深い。しかし、初印本四百部が売切れた後には、後印本も年々摺り出されていたようである。『南總里見八犬傳』六輯巻之下巻▼15末の広告に、

松浦佐用媛石魂録 全部十巻  曲亭主人著 一筆庵主人画

とあり、『八犬傳』八輯巻之十には、

松浦佐用媛石魂録 前編三冊後編七冊共に十巻\近ころ続刻うり出し置き候也。

とある。また、同九輯巻之六には、

松浦佐用媛石魂録 前後二編共に十冊\先年全部いたし年々摺り出し候

とある。さらに、同九輯巻之二十二の巻末「書林文渓堂蔵販目録」には、

松浦佐用媛石魂録 馬琴作 前後全本十二巻▼16

とある。蔵板が千翁軒から文渓堂に移動しているが、千翁軒が没する天保元年以前から文渓堂が販売を担当していたのは、次の文政十一年三月十一日の日記▼17

一 夕方、大坂屋半蔵来ル。丁子や平兵衛孫、半蔵之為には甥也。此節、疱瘡ニ而、平兵衛初孫と申、不案内ニて、家内取込居候故、石魂録上帙売出し延引之由、兼而平兵衛引請、売候約束故也。半蔵は素人ニ而、人頼ミ、扨々不自由之事也。

からもわかる。
 さて、この後印本の中でEFは特異な形態を持った本である。表紙の意匠を初印本と変えて新たに作り直し、口絵を巧妙に初印本に似せ、さらにこの改変は前編にまでおよび、濃淡二色の薄墨板を使用するといった大変に手の込んだものである▼18。この本の上帙と下帙の刊記に見られる文渓堂の所在場所の異同から、転宅時期の刊行かと思われる▼19
 さらにG以下の後印本になると一切の重ね摺りの手数が省かれた粗悪本となる。これらは口絵ではEFと同じ板木が用いられながらも、表紙は初印本と同じものが使われている。刊記の文渓堂の所在はすべて「伝馬町二町目」であり、河内屋茂兵衛の代わりに河内屋真七が入っている。
 ここまで、『石魂録』の諸板を見てきたが、明治大正期に活版で翻刻されたものがある。まず、単行本(一以外はボール表紙本)として次の五本がある。

 一、明治十六年六月  東京金玉出版社(和装九冊▼20)
 二、明治十八年十二月 青木忠雄
 三、明治十九年八月  自由閣
 四、明治二十五年十二月 銀花堂
 五、明治二十九年一月 木村倍造

 また、叢書に収められたものとして、次の六本がある。

 一、馬琴叢書    明治二十一年一月 東京堂
 二、曲亭馬琴翁叢書 明治二十二年   銀花堂
 三、馬琴翁叢書   明治二十四年   礫川出版
 四、曲亭馬琴翁叢書 明治二十五年   銀花堂
 五、袖珍名著文庫32 33 明治四十二年  冨山房
 六、絵本稗史小説一 大正六年     博文館

 これらの本は校訂が悪い上、挿絵等を欠いており底本としての使用には耐えられない。しかし、近代に入ってからも『石魂録』が読み続けられていたことを証するもので、近代における江戸読本の享受に関して無視できない資料である。


▼1. 鈴木重三「馬琴読本諸版書誌ノート」(『絵本と浮世絵』、美術出版社、一九七九年)
▼2. 調査整理の方法については、板坂則子「南総里見八犬伝の諸板本 上下」(「近世文芸」二十九・三十一号、日本近世文学会、一九七八年六月・一九七九年九月)を参考にした。
▼3. 柱題が「大和言葉」となっているが、『名目集』に「唐蓬大和言葉\松浦佐用媛石魂録ト改ム」とあるように、当初の計画ではなく後から題名が変えられたのである。それも板木が彫られた後の変更であることは、柱題がもとのままであるのに内題尾題に象嵌跡が認められることから明確である。<唐蓬>が<菊>の異名であることから、菊法度による規制だと思われる。
▼4. 金子和正ほか「天理図書館蔵馬琴資料目録(三)(「ビブリア」六十一号、天理図書館、一九七五年十月)
▼5. 後編上帙巻之四末尾に、次のような「石魂録後集七巻を釐て上下二帙となす附言」がある。
今茲夏月。予大恙あり。醫藥幸ひに効を奏めて。八月七日に病床を出たり。いまだ本復せざりしかども。勉て稿を起せしもの。この編七巻即是也。只直急にいそぎしかバ。書画の両工速に。その事を了るものから。〓人いまだ刀を竟ず。よりて且四巻を釐て。早春これを發販し。遺る三巻もうち續きて。程なく出すべしといふ。千翁軒の性急なるも。時の便宜によるものなれバ。遂にその意に任したり。しかれども。這後集ハ。第十八回り末。伊萬里の段より。五六七の三巻に至りて。看官やうやく佳境に入るべし。さるを七巻とりも揃へ傳。二度に観するハ夲意なけれども。世の賣藥にも半包。小包などいふものあり。大魚の觧賣。豆腐の半挺。皆是便宜の所行なれバ。千翁軒の量簡も。大かたハそこらなるべし。さて又この書の前集に。玉嶋清縄等亡滅せて。人寡なる後集なれバ。只秋布と俊平と。 主従二人の道ゆきぶりを。三巻あまりに綴做せしが。後の〓儲になれる也。かゝれバ五六七の三巻ハ。譬バ傀儡棚なる。三四の切と歟いはまほしき。下帙も程なく發兌のよしを。江湖の君子に報んとて。戲房の意味を識すのみ。
▼6. このほか、早稲田大学図書館本(ヘ13-3240)の初集(三巻五冊)の刊記は「大坂書林 本町通心斎橋東ヘ入 河内屋真七板」とある。この一本は後編上帙(四巻)を欠いている。また、天理図書館本(913.65-(2)75)は前編(五冊)だけであるが、「大阪博労町心斎橋通角 伊丹屋善兵衛版」と、文栄堂のものが付けられている。
▼7. E以下ではA〜Dに比べて全体的に文字が太めになり、細部を見ると異なった板であることがわかる。本文に異同はないので被彫りを施したものか。
▼8. EFには薄墨一色で入っており、枠がややずれている。Hには墨一色で入っている。「再識」と「漢文序」は内容的に重複した記事を多く持ってはいるが、なぜこのような改変が行なわれたのであろうか。また、口絵の第三図第四図がE以下でなくなっているのは、板木が作り直された時に省かれたものか。
▼9. 『田家茶話』は一名『奇説著聞集』、大蔵永常作の読本、文政十二年刊。
▼10. 天理図書館善本叢書『馬琴書翰集』(八木書店)
▼11. 『馬琴日記』二巻(中央公論社、一九七三年)。三月廿一日に焼死者二千八百人余、類焼三十七万軒という明和以来の大火があり、板元等の類焼に関する情報を記している。
▼12. 浜田啓介「馬琴をめぐる書肆・作者・読者の問題」(『近世小説・営為と様式に関する私見』、京都大学学術出版会、一九九三年)
▼13. 植谷元ほか「馬琴年譜稿」(「ビブリア」三十七・三十八号、天理図書館、一九六七、八年)。日記三月一六日、五月一二日、五月二一日翰。
▼14. 木村三四吾編校『京大本馬琴書簡集篠斎宛』(私家版、一九八三年)
▼15. 東京都立大学国文学研究室本による。都立大本は諸板の取り合わせ本で、肇輯のみは初板本、六輯以下は文渓堂板だと思われ、一応百六冊揃っている。なお、六輯の初板は文政十年刊だが、文渓堂板は天保十四年以降の刊行と思われる。
▼16. 「十二巻」は「十二冊」の誤りであろうか。『増補稗史外題鑑』(天保九年)には「松浦佐用媛石魂録 前後全本十二冊 曲亭主人作\瀬川采女才女於菊が伝を翻案しておもしろきしゆかう多し」(二十二ウ)とある。あるいは、前編三巻五冊、後編七巻七冊の取り合わせ本のことか。
▼17. 『馬琴日記』一巻(中央公論社、一九七三年)
▼18. 『南總里見八犬傳』の文渓堂板における改変とよく似ていると思われる。
▼19. 板坂氏は前掲論文で「天保十四年位の事であろうか」とする。
▼20. G以下の後印本の翻刻で、後編口絵第三、四図を欠いている。


# 『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−(ぺりかん社、1995)所収
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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