『江戸読本の研究』第一章 江戸読本の形成

第二節 江戸読本の形成 −板元鶴屋喜右衛門の演出−
高 木  元

  一 文学史の記述

 ここでは文化初頭の江戸読本史を説く際に必ず触れられる京伝と馬琴の競作状況について、従来の文学史書の記述を検討してみよう。
 まず、藤岡作太郎『近代小説史』▼1には、

其作品の間に二者の競爭の現はれたるを見ざるべからず。即ち讀本にありては、京傳は既に得たる名聲を維持せんとし、馬琴は之を超えんとす。こゝに於て二人の間に競爭あり、其の作を見るに、彼は此より取り、此は彼を取り、而も互に一歩を進んとする哀情歴歴として現はる。

と記されている。文化初年に刊行された両者の読本に見られる趣向の模倣(相似)を根拠に、お互いの意識的な競争であると述べるのである▼2
 一方、鈴木暢幸『江戸時代小説史』▼3には、

當時の大家たる京傳を目標として、彼の地位に近づき、或はかれに優らんとして努力する様になつて來た。京傳も亦彼を一敵手として兩々並に競爭したかの如き觀がある。さればその趣向も自然相似た所もあり、又互に他の作の趣向を摸擬せる所もあつた。

と、一敵手という言葉を使っているが、ほぼ藤岡氏と同様の見解が示されている。
 ところが、重友毅氏は「京傳・馬琴の對立と江戸讀本の成型」▼4で、

共に讀本界の覇者を目指して進んで來た競爭意識が、機を得てこゝに爆發した……一擧にその勝敗を決したものは、實に『雙蝶記』一篇の失敗にあつた。

などと、過剰な感情移入を伴った大層修辞的な叙述によって、現象としての競争状況を、感情的な対立として解釈し、さらに勝敗の問題とするに至ったのである。さらに同氏は、『日本近世文學史』▼5でも、

この勝負が、結局はかれの敗退に終るであろうことが豫感せられるに及んで、その苦惱はいよいよ深まってゆくのであって、この素質の問題と精神的な負い目とが、ついにかれをしてこの領域での大成を見ることなく終らしめるのである。

と、町人と武士という出自に関する潜在意識にまで踏み込んで述べているのである。
 これら重友氏の京伝馬琴対立論は、江戸読本の形成史を語る時の暗黙の前提になってしまった嫌いがあり、以後文学史の通説として大部分の文学史書が、京伝と馬琴の対立抗争によって江戸読本が成立し、馬琴が勝って京伝が負けたかのごとく記述しているのである▼6
 たとえば、前田愛『日本の近世文学』▼7には次のようにある。

かつて師弟関係にあった京伝と馬琴ははげしい競り合いを演ずることになる。……『南総里見八犬伝』は、馬琴の勝利と京伝の敗北を決定的に印象づけるのである。

 表現としては、あるいは「演ずる」などというのが一番ふさわしいのかもしれない。それにしても<勝利>とか<敗北>という修辞には馴染めない。文学史の記述に過剰な感情移入や修辞は不必要だと思うからである。まして、それが事実誤認に基づいた脚色だとしたら、なおさら看過するわけにはいかないのである。

  二 鶴屋喜右衛門の演出

 ここで、前節で取り上げた資料の続きを見てみよう。
 書物問屋であり地本問屋でもあった通油町八右衛門店、僊鶴堂鶴屋喜右衛門は、蔦屋重三郎と共にいわば江戸読本流行の火付役とも仕掛人ともいえる書肆である。その読本出板は文化五年までしか見られないが、『忠臣水滸傳』以降の京伝作の半数以上を出板し、また馬琴の初期作も手掛けている。

  忠臣水滸傳前編      京伝 重政 寛政十一年十一月
  忠臣水滸傳後編      京伝 重政 享和元年十一月
 *復讐安積沼        京伝 重政 享和三年十一月
 *優曇華物語        京伝 武清 文化元年十二月
 *復讐奇談・稚枝鳩     馬琴 豊国 文化二年正月
 *櫻姫全傳曙草紙      京伝 豊国 文化二年十二月
 *源家勲績・四天王剿盗異録 馬琴 豊国 文化三年正月
 *善知安方忠義傳前編    京伝 豊国 文化三年十二月
 *墨田川梅柳新書      馬琴 北斎 文化四年正月
  梅之與四兵衛物語梅花氷裂 京伝 豊国 文化四年二月
  松浦佐用媛石魂録     馬琴 豊廣 文化五年正月
 *頼豪阿闍梨恠鼠傳     馬琴 北斎 文化五年正月

 資金力のある書物問屋の貫禄か、書名の上に*を付けて示したように、単独で出板したものが多いのが特徴である。
 とくに注意すべきは、文化元年から四年にかけての刊行順序で、京伝の『優曇華物語』を文化元年十二月に、馬琴の『稚枝鳩』を文化二年正月に出している。この二作は、共に文化二年春の新板という意識で出されたもので、以下同様に、文化三年の新板として『曙草紙』と『剿盗異録』を、文化四年の新板として『善知安方』と『梅柳新書』を出すのである。京伝作にやや敬意を表して十二月に、馬琴作を正月にという具合に、両人の新板をぶつけて巧みに競作状況を作り出している様子がよくわかる。
 実際の売り出し時期と刊記の日付とが、若干ずれていたであろうことは容易に想像できるのだが、二大作家の新板をあえて同年同月としていない点に、板元の作為が存すると考えられる。
 すなわち、京伝と馬琴とによる競作状況は、江戸読本を流行させるために板元である鶴屋喜右衛門が意図的に演出(プロデュース)したものと考えるべきなのではないだろうか。だとすれば、この競作状況を、ただちに京伝と馬琴との対立競争意識の反映として説明してきた従来の文学史には、いささか問題がある。
 おそらく、この説を敷衍した江戸読本の成立を説き続ける限り、京伝馬琴以外の読本作家たちとその作品、および読本の刊行をめぐる板元の演出など、大きな枠組としての出板界の様子が覆い隠されてしまう危険がある。とくに京伝読本を評価する場合には、この対立抗争説という文学史の呪縛から自由な、そして勝ち負けとは別の新たな視座が必要になるはずである▼8

  三 京伝馬琴不和説の検討

 ところで、藤村作『國文學史總説』▼9を見ると、

(馬琴は)黄表紙を去つて讀本を出し、京傳を凌駕して一流の讀本作者となつた。而して後には京傳の女らしい嫉視や、馬琴の傲岸な利己的な不人情のため不和になつたのであつて、京傳が歿した時にはその葬式にも參列しなかつた。

と、根拠のない人物像の憶断から性急な不和説を立てているが、競作状況を説明する際に用いられたこの京伝馬琴不和説は、だいぶ歪められたものなのではなかろうか。
 そもそも、この説は馬琴の記した京伝の伝『伊波伝毛之記』(写本)や文壇史『作者部類』(写本)と、京伝の弟京山の『蜘蛛の糸巻』(写本)や『蛙鳴秘抄』(写本)などに記された両者の誹謗中傷が紹介されるに至って形成されたのである。馬琴の側の発言はあっても、京伝本人の記述がないことにも注意すべきである。そして、これらはすべて写本として伝存されてきたもので、本来ならば秘匿され他見の及ばない私的な雑記であったはずである。もっとも、だからこそ本音が綴られているともいえるが、さらに裏返せば事実でないことを書いておくことも可能であったはずである。
 従来の研究史において、馬琴の私生活がうかがえる日記や家記書翰類の資料紹介が先行したせいで、馬琴の人物像が固定化されたのかもしれないが、いずれにせよ近代になってから作られた逸話に過ぎず、残されたテキストの読解に際しての先入観としては無用な情報であろう。
 有名な逸話であった北斎馬琴の絶交説が、鈴木重三氏の「馬琴読本の挿絵と画家」▼10によって否定された前例もあり、馬琴と京山の記したまことしやかな逸話などもたしてどこまで信じてよいものであろうか。

  四 京伝馬琴の口上書

 さて、ここに二人の関係を知る上で有効な史料がある。これは文化中期の江戸読本に関しても、大変に重要な意味を持ったものである。
 新たな出板統制の一環として、文化四年九月に四人の絵入読本改掛肝煎名主(和田・斉藤・佐久間・村松)が任命され、直接検閲制度が確立したことはすでに述べた。その名主たちは仕事始めとして、当時の人気作者山東京伝を参考人として呼び「著述の仕方」を尋ね、草紙読本類吟味の内意を聞かせている。この内意の問題点は「近来別して剛悪の趣意を専一に作り設け、殺伐不祥の絵組のみを取合わせ候類」という一点であった▼11。その後、文化四年十一月二十八日付で、京伝と馬琴の連名により、名主の一人和田源七宛に口上書を提出している▼12

     内々以書付申上候覚
一 私共廿年來草紙讀本類著述仕來候ニ付少々宛之作料所得も御座候而傍生活ニも相成候ニ付是迄毎年板元之書林共より被相頼候得は新作仕遣し申候然処今般御四ヶ所様右讀本類禁忌御改之蒙 仰候ニ付京傳被召呼著述仕方御内意被仰聞難有奉存候。依之私共両人平生心得罷在候後御内々達御聞置申度左ニ口上書を以申上候。
一 草紙讀本類之義ニ付先年町御觸有之候後堅相守猶又其時々之流行風聞等之儀ハ決而書著し不申第一ニ勧善ン懲悪を正敷仕善人孝子忠臣之傳をおもに綴り成丈童蒙婦女子之心得ニも可相成儀を作り設可申旨心掛罷在候。尤前廣ニ著述仕候本類板元江相渡し程經候而書林行事共より伺ニ差出候砌不斗著述後之流行風聞ニ合候義有之此義ハ不用(本ノマヽ)ニ而暗合仕候故不及申候得共是以心付候分は早速相改メ申候併猶以心付不申義も可有之旨毎度恐入奉存候事。
一 禁忌御附札之趣第一ニ相守縦板下認候而も其板元江精々申請写本不及申入木直しニ至迄職人を私共宅江相招差圖仕候而急度為改申候尤賣得ニ迷ひ私共申候儀を相用不申板元御座候得共相断翌年より著述之藁本相渡不申様ニ申談置候事。
一 私共両人は年來相互ニ申合不行届所は無腹蔵申談候。此義先年京傳蒙 御咎候ニ付當人ハ不及申馬琴義も同様相慎ミ罷在候得共外作者共ハ行届不申も有之候哉近來別而剛悪之趣意を専一ニ作設ヶ殺伐不祥之繪組而已を取合候類有之。右は先々賣捌方も格別宜由及承私共成丈ヶ右躰之書入繪組相省キ候而著述仕候本類は却而賣方不宜由ニも御座候間無拠少々宛右躰之繪組等差加江候儀ニ御座候。然共勧善懲悪之趣意は取失ひ不申様心懸ヶ申候。然処先日京傳被召呼御内意之趣近來草紙讀本之作風兔角剛悪殺伐不祥之繪組等多候而不宜候間私共両人申合せ右作風變候様ニ仕可然旨被仰聞御尤ニ奉存候乍併前書申上候通繪組書入等剛悪不祥之類多草紙讀本ハおのつから賣捌も宜敷候ニ付著述仕候者共一同右之風義を似せ候事ニ御座候間私共両人而已相慎候而も中々右躰之作風變候義は有之間敷奉存候。依之何卒渡世仕候作者共并画師共被召呼向後草帋讀本類右格別剛悪之儀甚敷不祥之儀格別殺伐之儀道ニ外れ候天災火難之繪組等堅相慎ミ書著不申様一統江被仰渡被下度奉存候。左様無之候而私共両人御内意之趣を以諷諫仕候而も執用申間敷奉存候。右一統江被仰渡候ハヽ私共并渡世ニ仕候作者画師共寄合仕來秋より出板之作風殺伐不祥之儀成丈相省キ候様ニ申談一同相慎候様ニ可仕候右一同ニ相慎ム様ニ相成候ハヽ乍憚私共両人平生之心掛ニも相應仕剛悪殺伐不祥之繪組等差加不申候而も外の並々賣捌可申旨難有奉存候。依之内々口上書を以申上候。以上。
 文化四卯年十一月廿八日

京傳事 京 屋 傳 蔵 
馬琴事 瀧澤 清右衛門 
和田源七様         

    右書面差出候由尤印形ハ無之候

 まさに「幕府権力への迎合を余儀なくされた作者の創作態度をよく物語っている」▼13のである。しかし、速断はできないものの、これを境にして作風が一転したとも思えない。気が付く変化といえば、京伝がしばらく読本を書かなかったことと、鶴屋喜右衛門が読本から手を引いたことである。
 この文化四年の十一月頃には文化五年の新板が出来しつつあり、京伝には執筆中の読本はなかったようだが、馬琴は『頼豪阿闍梨恠鼠傳』前編の跋文などを書いている。また、すでに馬琴の作品数が京伝を上回っている時期でもある。
 このような背景において、京伝と馬琴が連名で口上書を提出した点が大層興味深いのである。どこから見ても、競争意識をむき出しにして対立抗争している二人の姿はうかがえない。むしろ、最初に呼び出された京伝が馬琴に相談を持ちかけて、公儀に対してそれなりの共同戦線を張ったと考えたい。つまり寛政の改革で痛い思いをした京伝が危機感を持ち、馬琴と共に迎合的な創作態度を表明しておいたのであろう。
 さて、文中「絵組み書き入れ等、剛悪不祥の類多き草紙読本は、自ずから売り捌きも宜敷く候に付き、著述仕り候者共、一同右の風義を似せ候事に御座候間、私共両人のみ相慎み候ても、なかなか右躰の作風変じ候義はこれ有る間敷く存じ奉り候」とあるが、これは単なるいい逃れではなかった。現代の写真週刊誌でも似たようなものだが、買う人がいて売れるものについては、商売である以上、現場の製作担当者にはどうしようもないということを率直に述べたに過ぎないのである。それに、二人の作品には大勢の作者たちに対する影響力があったかもしれないが、二人に出板界全体をまとめて動かすだけの政治力があったとは考えられない。
 ところで馬琴の本音は、

板本ンの作者ハ、書をつゝるのミにあらず、かく申せハ自負に似てはつかしく候へ共、作者の用心ハ、第一に売れる事を考、又板元の元入何程かゝる、何百部うれねハ板代がかへらぬと申事、前序より胸勘定して、その年の紙の相場迄よく/\こゝろ得ねハ、板元のためにも身のためにもなり不申候。これをハしらず只作るものは素人作者也。とかくその時々の人気をはかり、雅俗の気に入り候様に軍配いたし候事也。余人ハしらず、野生ハ年来如此こころ得罷在候▼14

というものである。つまり、板元は読者の要求を満たさなければ商売にならず、文化三年以降筆一本で生計を立てていた馬琴の利害も、また板元と一致していたのである。それゆえ、こうした実情を率直に口上書に認めたのであり、この行為を迎合的と呼んでも誤りではないが、ちょっと酷な気もする。
 以上述べてきたことから、文化期の江戸読本形成期における京伝馬琴の競作状況は、板元である鶴屋喜右衛門が江戸読本の流行を煽るために、作意的に演出した結果として生じたものと考えたい。もちろん馬琴の側には京伝に対する対抗意識が内包されていたという側面も否定できないし、またそれをテキストに読むことも可能だと思われるが▼15、ただ江戸読本の出板に関する諸般の条件を、作者が勝手気ままに采配できたわけではないという点だけは押さえておくべきである。
 京伝も馬琴も書きたい作品を好きなように出板できたわけではない。彼らはさまざまな制約のなかで、いかに書きたい作品を出板できるかという努力をしてきたのである。なぜなら本の刊行に関わるすべての経済的リスクを負うのは板元であって、決して作者ではないことを彼らは充分に承知していたからである。
 このように、文壇の覇者としての勝ち負けの問題や、結果的に売れたか売れなかったかという問題から江戸読本を解放して、初めて京伝馬琴以外の多くの作者たちを視野に入れた新たな江戸読本の形成史の記述が可能になるはずである。


▼1 藤岡作太郎『近代小説史』(大倉書店、一九一七年)、五七四頁。
▼2 大高洋司氏は「『優曇華物語』と『月氷奇縁』―江戸読本形成期における京伝、馬琴―」(「読本研究」初輯、渓水社、一九八七年)や、同「『優曇華物語』と『曙草紙』の間―京伝と馬琴―」(「読本研究」二輯上套、渓水社、一九八八年)など近年発表した一連の論考で、両者の作品に使われた趣向の類似という内部徴証を探る方法によって、両者の関係を問い直している。
▼3 鈴木暢幸『江戸時代小説史』(教育研究会、一九三二年)、四三九頁。
▼4 重友毅「京傳・馬琴の對立と江戸讀本の成型」(重友毅著作集五巻『近世文学論集』、文理書院、一九七二年、初出は一九三五年)
▼5 重友毅『日本近世文学史』(岩波全書119、岩波書店、一九五〇年)、一四〇頁。
▼6 麻生磯次『江戸小説概論』(山田書院、一九五六年)は、京伝馬琴の関係についても、読本史についても対立抗争説から自由であった。
▼7 前田愛『日本の近世文学』(新日本出版社、一九八三年)、二三二頁。
▼8 武藤元昭「京伝と馬琴―初期読本界の動向―」(研究叢書一号「外国文化の輸入と言語」、青山学院大学総合研究所人文学系研究センター、一九九二年)は、これらの問題点を整理している。
▼9 藤村作『國文學史總説』(角川文庫、一九五一年)、一九八頁。
▼10 鈴木重三「馬琴読本の挿絵と画家」(『絵本と浮世絵―江戸出版文化の考察―』、美術出版社、一九七九年、初出は一九五九年)
▼11 高田衛「江戸小説・幻想と怪奇の構造」(ゴシック叢書『城と眩暈』、国書刊行会、一九八二年)
▼12 『類集撰要』所収。
▼13 今田洋三「化政文化と出版」(NHKブックス299『江戸の本屋さん―近世文化史の側面―』、日本放送出版協会、一九七七年)、一四二頁。また、同「江戸の出版資本」(『江戸町人の研究』三巻、吉川弘文館、一九七四年)や、同「江戸出版業の展開とその特質」(「出版研究」三号、一九七二年)にも言及がある。
▼14 文政元年二月三十日牧之宛書簡(『鈴木牧之全集』、中央公論社、一九八三年、初出は一九六一年)、二〇一頁。
▼15 石井洋美「馬琴と京伝―『四天王剿盗異録』の位置―」(「岡山大学国語研究」四号、一九九〇年)も、文化二年以降の馬琴側に激しい対抗意識を見ている。



# 『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』(ぺりかん社、1995)所収
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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