一 〈書物〉を繞る情勢
文学に限らず日本の古典遺産の大半は〈書物〉という形態で現在まで残存している。ところが由々しきことに、わずか100年前の書物ですら真ッ当に読める(扱える)人材が減少しつつある。経済(仍ち大企業と投資家との利益)のみが最優先される昨今、人員削減と併行して若年層の非正規雇用者が加速度的に急増しつつあり、世代交代を考慮した合理的な雇用が保証されないために、結果としてありとあらゆる(伝統的)技術や知識を継承するシステムは破壊され盡くした。最早、マニュアル化不可能な職人技や職能は継承不能の時代を迎えた。これは「美しい国日本」の伝統破壊であり、既に回復不能の危機に瀕している。図書館の専門職である司書ですら、今年度からの養成課程改変で加えられた科目は「情報云々」「サービス云々」という科目ばかりで、〈書物〉とりわけ和本に関する基礎的な知識を学ぶ機会は皆無である(従前から「書誌学」は必修ではなかった)。
良きにつけ悪しきにつけ、書誌文献学は国文学や国史学の一部で細々と担われて来た文系基礎学であるが、現代の大学に於いて、此等の知見を披瀝しうる人材と教授し得る環境とが急速に失われつつある。僅か150年前(幕末期)の「變體假名」が用いられた板本の時代は疎か、高々100年前(明治末大正初期)に「舊漢字舊假名遣ひ」で書き記された活字本ですら、大多数の人にとっては価値も中味も分からない反古同然となり、此儘では〈書物〉として遺された様々な〈知〉を継承し、次世代に伝達することが出来なくなってしまう。中野三敏氏が、一次資料を扱うための〈和本リテラシー〉の普及を提唱しているのは、斯様な現状に対する深刻な危機感からに他ならない。
一方で初等教育に於ける(文字通りの)リテラシー教育の場に在っても問題にすべき点は多い。何故「わ行」の「ゐ(ヰ)」と「ゑ(ヱ)」とを教えないのであろうか。中学国語の古典の時間になって初めて「ゐ」と「ゑ」が出てくるのは極めて不自然ではないか。仮名漢字変換(ローマ字の場合 wi/wyi 乃至 we/wye)を使う場合にも困るはずである。
さらに文学史を明治維新で劃期して「古典/現代文」と濫妨に区分した上で、江戸時代迄は歴史的假名遣ひ、明治以降は現代仮名遣い等という使い分けも、飽くまでも便宜的なものであって、絶対的ではないはずである。現に明治初期までの仮名遣いには規範など無いに等しく、自在な表記が用いられているし、そもそも現代仮名遣いは、未だ130年に充たないほど最近の規範でしかない。須く政治史に準じてなされる時代区分には無理があるのは当然である。日本文学史に関しては整版から活版へというメディア変遷を踏まえて〈19世紀〉という区分が相応しいという主張を続けている所以である。
所謂「舊漢字」や「異躰字」に関しても同様で、書けなくとも良いが渡れる(同字である判断して読める)ようにすべきである。有無をいわさずに常用漢字に置き換えるのではなく、素晴らしい日本語の書記法である振仮名(振漢字)を敷衍的換言として活用すれば済む。余勢を駆っていえば、中華人民共和国で使われている簡化字も、対応する字体を同時に覚えてしまえば良いと思う。現在通行している表記や書記法は、日本史上に於いてすら普遍的ではなく、極めて政治的に制度化された甚だ脆い国家規範であることは、アジア漢字文化圏(中韓日越南)を知った上で、全体を俯瞰できる相対的視点を獲得する以外に気付くことが出来ないからである。
一方、我々(国文学研究者)も〈書物〉の内容(文学?)に関する深遠な思索を志したり、乃至は文学研究の方法論に関する新たな枠組の模索を志向するのみでなく、素朴に〈書物〉そのものが果たしてきた文化的事象に関する知識の普及を、より意識的に担って行く必要がありはしないかとも愚考するのである。
斯るが故に敢えて今回の発表に際して「書物のリテラシー」と題した所以である。
二 〈書物〉というモノ
差し当たり〈書物〉の属性は二分節化することが可能である。要するに一切の書物は写本か刊本の孰れかなのである。この二分法は発展史観とは無縁である。人手によって書かれた写本は刊本に駆逐されたわけではなく、現在に至るまで継続的に作成され用いられ続けてきたからである。
ただし、写本の場合は(恐らく普遍的に)書かれた目的が明確な場合が多いかも知れない。記録を遺すため、何らかの複製を作成するため、更には行政文書や私信や悪戯書き等々。一方、古典や遺稿などを刊行する場合を除いて、最初から刊本にする為の原稿は、量産が目的であるから不特定多数に向けた如何程かの配慮や覚悟などが備わっているのが普通であろう。
この両者の本質的な相違は質の問題ではなく、量の問題に還元することが可能である。刊本は、より早く精確に大量に、そして安価に複製する技術的な進歩に支えられ、書写本→古活字版→整版→活版→写植→電子版へと進化してきた。念のために申し添えれば、この消費する(させる)ための大量生産も〈書物〉の質とは無縁である。取りも直さず十九世紀(近世末期)以降の刊本の変遷は〈商品としての書物〉の発展として把握可能であろう。
此処で肝要な点は、〈商品としての書物〉が成立するために不可欠であったのは、印刷技術の進化のみならず、寧ろ、流通機構の整備であったという点である。如何に印刷製本技術が進歩しても、〈書物〉を流通し得る社会制度(販路)が整備されていなければ、商品とは成らないからである。勿論、それらを消費する読者たちの存在も必要不可欠ではある。
ところで唐突であるが、果たして〈書物〉とは読む為だけのモノなのであろうか。慥に、嘗て写本は時空を超えて記録(情報)を伝える為には掛け替えのない手段であった。しかし、刊本として大量生産が可能になり商品となって以来、その存在意義は著しく変容したと思われる。さらに、音声や画像などが保存可能になった時代に於いては尚更である。
所詮〈書物〉というモノは、文字列や画像が記された紙束を綴じ合わせただけの物体に過ぎない。原価を考えれば限りなく安価な代物である。商品として流通させる為には、記された内容(情報)に対する共同幻想が産み出す経済的な価値を持たせる必要がある。時によっては、モノ自体に付加価値を付与することもある。限定版や特装本、著者署名本、さらに凝れば自家装訂用未製本などである。しかし、そのような特殊な版でなくとも、書店の店頭に置かれた際に所有欲をそそる美麗な意匠の装訂や、面白可笑しい惹句に拠る広告も肝要である。我々は何時の日にか読む必要があるかも知れないと思われる〈書物〉をも買い、取り敢えず〈所有する〉ことに拠って随時参照可能な状態に置くと安心する。そして、一時の安堵を得ると同時に、多くの場合不要不急の情報が記されていると思しき〈綴合わされた紙束=書物〉の山に埋もれて暮らすことになる。
所有した〈書物〉であるから時には一瞥を加えること位はするかもしれない。この拾い読みとは、此方の問題意識に引っ掛かる情報を検索する為の振る舞いである。その過程で計らずも語り手に耳を傾けさせられることもある。しかし、テキストに真剣に向き合うには持続した集中力と時間が要求されるので、表面的な筋を読む(初読)だけで終わる場合が尠くないだろう。
一方、単に展示するための装飾品として作られた〈書物〉もある。現在は知らず嘗て昭和と呼ばれた時代、市井にあった医院の診察室に並べられた威風堂々たる本革製本が施された『医学大全集』や、中産階級の応接間にこれ見よがしに並べられた『大百科事典』や『世界文学大全集』などは、(多くの場合)決して繙読されることのない、並べて偉容を見せつけるための〈書物〉であった。権威の象徴としての〈書物〉の淵源は、十七世紀に渡来した大型朝鮮本に遡ることが出来る様である。
現在でも、研究者が自費出版する(学位)論文集などには、似た様な権威付けの要素が備わっていることは否定出来ないだろう。また、所謂「饅頭本」と呼ばれる社史(創業社長の一代記)などの「配り本」も同様である。つまり、殆ど読まれることのない〈書物〉、或いは出版されたことにのみ意義を有する〈書物〉というモノも存在しているのである。
ところが、一度研究するために対象化した〈書物〉に関しては、当然の如くに一語一語の表現に徹底的に拘って注釈的に穿鑿をしつつ繰り返し精読することになる。その再読や精読する行為自体に、何の疑問を持たない自分に、ふと気が付いてしまう刹那に出会うことがある。つまり、此処で確認しておかなければならないのは、〈書物〉は(何度も真剣に対峙して)読むためのモノであるという先験的な認識に就いて、一度疑ってみる必要がありはしないかということである。
三 〈書物〉としての楽譜
人がその人生を通じて幾度も繙読し続ける愛読書を持っていることは珍しいことではない。しかし、多くの人にとって初読すら覚束ない〈書物〉を研究対象とし、徹底的に分析して普通は気が付かないことを深読みして見せるのは、一種の芸といっても差し支えないかもしれない。
半世紀近く昔になるが、西郷信綱氏が講演で「文学を読むということは、楽譜を解釈して演奏することに似ている」という趣旨のことを述べられたと記憶している。〈書物〉の徹底的な分析解釈を経た結果としての読みを、恰も演奏者が演奏して見せる様に、論文や評論として言語に拠って表現して見せる、ということになろうか……。これを聞いた時、読まれない〈書物〉は演奏されることのない楽譜と同様なのだと思った。つまり、埋もれた〈書物〉を発見し、その魅力を読んで見せるということが研究者の仕事であると。取り分け近世文学の場合、本格的に学術研究の俎上に載ったのは戦後になってからのことでもあり、埋もれた作家やテキストの発見と顕彰とが文学研究者の仕事であった時代が確実に存在したからである。
しかし、演奏されることのない楽譜が無数に残存している中で、魅力ある曲に出合えるのは偶然に過ぎない。多くの場合、誰かが演奏した曲に触れることが契機となったはずである。つまり、いきなり写本や板本の森に分け入っていくことなど不可能であるから、〈書物〉についての魅力を語る論文なり教師なりに出合ったことが切っ掛けとなって〈書物〉に辿り着くわけである。
さて、演奏に用いる楽譜として、現在書店で売られている手近に入手可能な楽譜に安易に依拠して済ますことはできないはずである。作曲者の自筆譜が残存している場合もあるが、多くの場合は活版印刷された諸版を経て現在に至っているわけで、組版印刷工程上の錯誤も尠くないし、編集者等の手による装飾音の改竄なども見られる。当時の音源が残っていないために直接演奏を聴くことが出来ない程度に古い曲に関しては、諸版の楽譜に対する書誌学的吟味をした上で、どの版に基づいて演奏するかを判断しなくてはならない。この作業は作曲者の意図へと収斂して行く場合もあろうが、時には編曲者や演奏者による改変という享受史を明らかにする可能性もある。そして、主な作曲家達の楽曲については楽譜諸版の画像データベースが既にインターネット上に構築されているので、この諸版校訂作業に費やす労力は僅かである。
国文学研究における〈書物〉の扱いも全く同様であるが、諸版研究に関わる研究環境は楽譜ほどには整備されていない。板本などの画像データ公開は早稲田大学図書館や立命館大学アートリサーチセンターが圧倒的に先行している。国立大では財政の問題もあろうが、九州大を除けば著しく遅延している。国会図書館は近代文学から手を付けているが解像度やダウンロードの制限などの点で甚だ時代遅れである。最悪なのは国文学研究資料館で、情報処理部門主導で構築された利用者の便宜など一顧だにされたことが無いシステムは、意味不明の著作権(所有権)保護を口実としており、全く使いものにならない。多額の税金を浪費し館内研究者の便宜を第一にしてきた組織の、単なるアリバイ工作に過ぎないと糾弾されるのも当然である。
しかし、斯る現状もいずれは各機関で公開される原本の画像データが増えていき、諸版研究も負担が減るであろう。ただし、地方の機関で、地元に足を運んで貰いたいという理由から画像データの公開をしていない天理図書館や岩瀬文庫などもあるが、画像公開の効用の一つとして、在外機関における和古書目録の作成に携わっている方々にも多大な便宜を供するという一面が存することも考慮していただきたい。
四 〈書物〉の外部と内部
書誌学の授業では以下の様な〈書物〉の外部に関する概説がなされることが多いと思われる (和本‖洋装本)。
書型(大本/半紙本/中本/小本/横本‖菊判/四六判/新書判)
装訂(巻子本/折本/粘帖/列帖/仮綴/袋綴‖本製本/無線綴)
外題(打付書/題簽〈中央/左肩〉/摺付表紙‖布クロス装/紙装)
巻数(1巻1冊/3巻5冊/5巻5冊‖全1冊/全5冊揃)
板摺(初板初摺/再板後摺/改板/改竄‖初版2刷/3版5刷)
これらの相違点は単なる偶然の所産ではなく、それぞれの〈書物〉の内容を反映した固有の意味を持っていると考えるべきである。いう迄もなく、近代写本や影印本、複製本、活字翻刻本などに就いても、同様な吟味が不可欠である。
一方、内容を読む前に、表記などに就いても注意を払っておく必要がある。大和言葉を表記するための文字(漢字)の獲得以後、実に多様な表記法が試みられたことは、現存する多様な書物から知ることができる。木や陶器や料紙に筆等を用いて墨で記されることが多かったが、其等に記された文字列等を具に観察した結果は、例えば以下の様に整理出来るだろう。
・文字(漢字/(変体)仮名/片仮名) 真名本/仮名本 書記(書体〈明朝体/行書体〉) 漢籍/和書 振仮名〈総ルビ/パラルビ/左ルビ〉) 意訓/訓みかな/語注 表記(異躰・仮名) 涙・泪・なみだ 文体(漢文〈書下し〉体/雅文体/和漢混淆文体/会話体) ジャンル ・絵(表紙/見返/口絵/挿絵) 十九世紀前後 描法(粗画/細密画、淡彩/多色、大和絵/浮世絵) 口絵挿絵 絵入本(少葉/多数/全丁) 挿絵/草双紙/絵本
書誌学が扱うのは謂わば〈書物〉の外部に過ぎず、内部(言葉)に対しては無関心であるといってしまうのは早計である。何故ならば〈書物〉は外部だけでも実に多くの情報を保有しているからである。そもそも、外部を持たない内部など存在し得るのであろうか。もし、無色透明で実態を持たない文字列が存在したとしても、それを読むことは出来ない。つまり、テキストは常に〈書物〉という外部を持つ存在であり、その外部とは読まれるべきテキストの一部なのである。
五 〈書物〉を読む技術
一方、楽譜を奏でるための演奏技術維持には不断のレッスンが要求されるように、書物の読解技術向上のための訓練もまた不可欠である。それこそが国文学研究の普遍的な課題であり、国文学の存在意義であるといっても差し支えないだろう。
此処に仮名垣魯文の『安愚楽鍋』という〈書物〉が在る。日本近代文学史の最初に必ず挙げられるテキストであり、翻刻等も何種か出ているが、一般に余り読まれているとは思われない。板本以降のテキストとしては、
A 木村毅編『明治開化期文學集』(現代日本文學全集1、改造社、1931)
B 興津要編『明治開化期文学集(一)』(明治文学全集1、筑摩書房、1966)
C 小林智賀平校注『安愚楽鍋』(岩波文庫、1967)
D 稲垣達郎他『明治初期文學集』(日本現代文学全集1、講談社、1969)
E 興津要注『明治開化期文學集』(日本近代文学大系1、角川書店、1970)
F『牛店雑談・安愚楽鍋 用語索引』(国立国語研究所資料集9、秀英出版、1974)本文影印附
G『牛店雑談・安愚楽鍋』(秀選名著復刻全集近代文学館、ほるぷ、1985)
H ねじめ正一編『仮名垣魯文』(明治の文学1、筑摩書房、2002)
などがある。これらのうち、表紙から見返、序、口絵、挿絵、奥付まで総ての図版を掲載しているのは、Fの影印とGの複製のみで、他の翻刻は何れかの図版欠いている。
本作は中本サイズの製版本(板本)であり、造本様式が『浮世風呂』等を踏襲したものであることを見れば、近世期の滑稽本を継承した書物であることは直ちに理解出来る。ならば、見返、口絵、挿絵などの画も重要なテキストとして読むべき対象のはずである。にも関わらず、近代の翻刻テキストでは無頓着に挿絵などには感心を示していないのである。
また、『西洋道中膝栗毛』第六編下で、挿話的に『安愚楽鍋』の第一章「書生の酔話」の全編を掲げて予告をしているが、実際に出た『安愚楽鍋』には「書生の酔話」は載っていない。この事象に留意したのは小林智賀平氏の校訂注釈本である岩波文庫版だけである(小林氏は岩波文庫版『西洋道中膝栗毛』も手がけている)。
その冒頭部について、私意に拠り適宜本文を改変して翻刻しつつ、私注を施してみる。
西洋道中膝栗毛 6編下(12ウ〜17ウ)
通√ ヱヽヽうるせへ合羽だ 〔合羽とハ芝居の外にて客を引く者を名付て云〕▼1 合羽と云や河童に附ての妙案ありサ
弥√ 合羽についての妙案なら『水煉独稽古』とでもいふ外題か
通√ そんな甘口な外題にあらず福沢氏の『窮理圖解』▼2を飜案して標目がまづ斯ダ
虚誕八百・ 河童平凡胡瓜圖解 一名・絲瓜の皮▼3
北√ ハヽア何だか知らねへが野菜家の店晒しを見るやうな外題だぜ
通}√ ところが大趣向サ 都て造化の工▼4を 見破ッて天地の道理を茶にした▼5戯作サ▼6
北√ 道理で南瓜が唐茄子だらう▼7
通√ コレサ/\愚哢さずにこの草稿を讀ンで見なせへ コリヤア随分穿ち▼8だらう
弥√ ヲヤ亦何か著掛けてあるのか ヱヽト 〔二三枚書きさしの下書を手に取て本文の初を読むと知るべし〕
牛店雜談・安愚樂鍋 一名 奴論建▼9
第一章 書生▼10の醉話
○年齢ハ二十か一二位の書生両個、牛肉店の正面に袴}のまゝ胡座をかき、持参のビイルハ疾に傾け、フラスコの徳利▼11を傍へ転し、地まハりの水ツぽい酒▼12を、差つ押へツして、牛鍋の代りは生▼13の空皿が二枚ばかり出て、火鉢の鍋の中ハ、正肉ハ喰つくし、五分切の葱がたれ味噌と合併して、鼎に沸る眉間尺▼14 の如く、折々藥鑵を取り寄て白湯を差て煮を鎮ることあり。
○〔一人ハ散切頭▼15にて、羽織なし。紛八丈▼16の襟垢の溜た袖時計▼17で計れバ、四字三ミニウト斗り▼18なる小袖に小倉▼19の牛房筋▼20の汚れた袴を付、帯の代りに絹[糸呉]絽▼21の白き二重まハりの扱▼22を、後の方にて猫じやらしに結び下、短か刀の柄糸が解けかゝりたるを、白木綿でぐる/\巻き、鞘の白く剥げたるところを墨にて塗り、側らへ置き、『英語箋』▼23を懐中して折々読みながら、調子外れなる訛声を張り上げ、辺りに遠慮もなく、相撲甚句▼24を歌ひ、手拍子を叩く癖ありと知るべし。
○今一人ハ総髪▼25を油も付ず水髪▼26のまゝにて、縄束子の様に、自身にて結びしと見へ、紫糸の油滲みたるが、髷節▼27の際よりだらりと下り、黒木綿のてんつるてん▼28、お坊さん御せいじん▼29と云ふ様な、短い着物に、ぼた餅程な定紋を五ツ}所、▼30立派に付け、紫呉絽の一重のぶツさき羽織▼31を脱いで、側へ丸めて置き、小倉の袴の膝へ垂れの掛りたるを心付きて、舌にてべろ/\舐まハし、傍らから首を捩り回して、目をねむツて▼32口を開き、連れの散切りに付あツて、角力甚句を連れ節に歌ひ、▼33またどす声▼34にて詩を吟じ、和歌を詠じることあり。一体この書生ハ漢学者流なりしが、近頃西洋学流行故▼35、かの散切と同塾に入りたるものと見へ、未だ翻訳ものも、たんと▼36ハ読ぬ初学び故、連れの散切が、折々英語を使ふのが分らぬ故rt>ゆゑ、迷惑そうな素振なり。尤も両人ながら、余程酒が回りたる様子なり。〕
ざんぎり√ アヽたいさん▼37どりんけん。君マア重杯給へ 僕ハモウいかん/\
そうはつ√ これハ失敬ダ▼38(以下略)
注
▼1. 劇場・見世物の木戸口にいて、往来の人をすすめて引き入れる人。「引込」とも「仕切」ともいった。語源は晴雨にかかわらず半合羽を着ていたから(『演劇大全』)とも、引き入れる、という意味からともいう。『戯場訓蒙図彙』に「合羽に引込れて荷包の底をはたく」、『柳樽』に「長霧雨に河童の乾く芝居町」とある。しかし明治五年、東京守田座の都心進出から廃された。(竹内道敬)【演劇百科大事典】
▼2.『訓蒙窮理図解』 物理学書。3巻3冊。福沢諭吉著。慶応4年刊。英米の書物を参考にして、空気の事、水の事、風の事など一〇章にわたり、自然現象一般を通俗的に解説したもの。小学校の教科書にも使用された。【日国大】
▼3.役に立たない物。
▼4.造物主が天地を創世し、その間に存在する森羅万象を創造することの妙巧。
▼5.真面目にとりあわないで茶化すこと。
▼6.「文を以て友を會すを學者と稱え、愚を賣つて口を糊すを、戲作者と號けたり。」『西洋道中膝栗毛』六編上「自序」。
▼7.「道理で」を強めて言ったことば。江戸時代、宝暦・明和の頃、江戸で流行した。『風来六部集』放屁論後編「銭なき者は意地をはり、渇しても盗泉の水を飲ず。道理で南瓜が唐茄子にて、いらざる工夫に金銀を、費す故に銭内なり」【日国大】。山東京伝『繪兄弟』〔寛政6年〕自序に「形の似たのが、唐茄子、東埔塞」。寛政や明治期まで用例が見られるので、宝暦・明和の頃だけの流行語ではないだろう。
▼8.戯作の発想法の代表的なもの。本来「穴を穿つ」とか「穴をいう」ことの意で、この場合「穴」とは社会生活万般においてみいだされる欠陥をさし、それが個人的に現れる場合はその人の癖や気質をさすことになる。「うがち」はその欠陥を鋭く指摘することで、ややもすれば気づかれずに放置されている穴をいち早く指摘するときに、その「うがち」は賞賛される。「うがち」の姿勢はおおむね無責任であり、あくまで「笑い」のための発想法である以上、「風刺」や「教訓」との間には懸隔がある。[中野三敏] 【日本大百科全書】
▼9.阿蘭陀語〈dronken〉泥酔状態。酔っぱらっていること。ドロンコ。ドリンケン。
▼10.書生という語は中国の『後漢書』に今日の学生と同じ意味に使用されており、わが国でも同様だったが、明治時代には働きつつ学ぶ学僕の意味にも使われた。明治時代以後、大学や専門学校の学生が東京に多く集まり、特殊な書生風俗を現出した。それを活字にしたものに坪内逍遙の『当世書生気質』がある。書生羽織・書生節・書生芝居などが流行した。明治も中ごろ以後になると書生という言葉の内容が少し違って、他人の家に寄食して玄関番などの雑務に従事し夕方から夜学に通う者を意味するようになった。[参考文献]石井研堂『明治事物起原』(『明治文化全集』別巻)(大藤時彦)【国史大辞典】
▼11.葡萄牙語〈frasco〉硝子製の首の長い徳利。
▼12.近在で醸造した安酒。
▼13.生の牛肉をいう。
▼14.中国古代の説話。『太平記』巻十三「兵部卿宮薨御の事付り干将莫耶が事」に「客、眉間尺が首を取つて、すなはち楚王に奉る。楚王、大きに喜びて、これを獄門に懸けられたるに、三月までその首爛れず、目を見張りて、歯を喰ひしばり、常に歯噛みをしける間、楚王、これを恐れて、敢へて近付け給はず。これを鼎の中に入れ、七日七夜までぞ煮られける。余りに強く煮られて、この首少し爛れて、目を塞ぎたりけるを、今は子細あらじとて、楚王自ら鼎の蓋を開けさせて、これを見給ひける時、この首、口に含みたる剣の鋒を、楚王にはつと吹き懸け奉る。剣の鋒、誤たず、楚王の首の骨を切りければ、楚王の頭、忽ちに落ちて、鼎の中へ入りにけり。」とある。
▼15.男子の髪形の一つ。月代をそらないでうしろへなでつけ、髪をえり元で切ったもの。明治四年散髪脱刀令が出されてから流行した。さんぱつ。【日国大】
▼16.本物の八丈絹に似せて作った布地。
▼17.袂や懐に入れられる小型の時計。懐中時計。
▼18.4時3分ころ。申の刻に相当。「申の刻ばかり」は、古びたという謂。
▼19.小倉織。豊前小倉の特産物、縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布で、男子用の袴地・角帯に用いられた。
▼20.牛蒡縞。ゴボウの根のような細い縦縞模様。
▼21.きぬごろ (ゴロは「ゴロフクレン」の略)絹糸で外観を舶来織物の一種であるゴロフクレンのように織り上げた織物。絹呉絽。【日国大】
▼22.扱帯の略。並幅のままの布をしごいて締める帯。現代のしごきは紅色、桃色、黄色などの、綸子や縮緬を用い、その両端に同色の飾り房をつける。帯を締めてから、しごきを腰に二巻きし、脇で両わな(花結び)に結んで垂らす。現代では七五三祝いの女児や、花嫁衣装に用いられる。江戸時代の女性は、小袖の身丈が長くなり裾を引くようになってからの外出時に、歩きやすくするために丈を引き上げて腰のところでしごきを締め、前で結んだ。また湯上がりや寝衣などにしごき帯を締めている姿を浮世絵にみることができる。[藤本やす]【日国大】
▼23.万延2年に刊行された石橋政方著『英語箋』(2冊)は、森島中良著『蛮語箋』のオランダ語を英語に直したもの。万延版に増補を加えたものが2種あり、明治5年東京で刊行の島一徳校訂の改正増補版(2冊)と、同6年大阪で刊行の卜部精二訳編の改正増補版(2冊)である。(重久篤太郎)【国史大辞典】
▼24.民謡の一種。相撲取りの世界で次第に確立した歌で、江戸時代末期から明治時代まで全国的に流行したもので、現在も残る。詞型や曲節にはいろいろあるが、代表的なものは、「櫓太鼓にふと目を覚し、明日はどの手で投げてやろ、アリャリャ、アリャリャセ」。越後(新潟県)の盆踊歌から出たとか、名古屋甚句から出たなどの諸説がある。花相撲や巡業などの余興として歌われる。すまいじんく。【日国大】
▼25.額の上の月代を剃らず、全体の髪を伸ばし、頂で束ねて結ったもの。また、後ろへなでつけ垂れ下げただけで、束ねないものもいう。【日国大】
▼26.油をつかわないで水だけで結ったり、撫でつけたりした髪。水が乾くとはけ先が乱れるので粋とする風もあった。みずびん。
▼27.男の髷の元結で束ねたところ。「まげぶし」とも
▼28.着物の丈が短く、脚がむき出しになっているさま。つんつるてん。【日国大】
▼29.未詳。
▼30.「紋は近年に至るまで、多く三ツ紋のみなりしに、近頃男には五所紋大いに行はれ」(平出鏗二郎『東京風俗志』中・七・服装)
▼31.背裂羽織。背の腰下の部分を縫い合わせないで作った羽織。武士が、主として旅行、乗馬の際に用いた。背割り羽織。ぶっさき羽織。
▼32.目を閉じて。目をつむって。
▼33.他の人とともに節を合わせてうたうこと。
▼34.濁った太い声。低く太くてすごみのある声。
▼35.西洋学とは、江戸末期から明治初頭にかけて、西欧からはいってきた学問の総称。洋学。明治に入って流行する。
テキストが書かれ読まれた時代の記憶などが失われてしまった現在、文脈を汲むためには事物や流行言葉などの注釈は不可欠である。しかし、過去に存在した実態的事物についての説明だけでは足りない。例えば、当時の地名について現在の町名地番を示す注は余り意味を持たない。その土地柄の持つ(伝承的)イメージをも復元出来るだけの情報を提供する必要があろう。右の拙注も同様で、衣服の生地についての知識や施された模様など詳細に調べても、着物に拠って表象されている人物が如何なる階層の如何なる性癖を持つ人物であるかを説明せずに、単に着物について詳しく説明されても、何も分からないに等しいのである。ただし、必ずしも同時代の読者と同じ地平に立たなければ正しい読みが出来ないというつもりはないが、文脈を読み解くために知りたいのは、事物に関する具体的な知識のみではないのである。
昨今、商用オンライン・データベス(ジャパン・ナレッジなど)の普及はめざましく、『日本国語大辞典』や『国史大辞典』、小学館『日本古典全集』や平凡社『東洋文庫』など全文検索が可能になった。結果的に、インターネット上の情報やこれらのデータベースを使いこなして用例を調べてくる学生のゼミ発表のレベルは驚くほど高くなった。つまり、従来より知的情報の蓄積へのアクセスが容易になったわけである。
しかし、考えてみれば、現在オンラインで公開されるようになった此等の参考資料類が、書物として出版された時点ですら、我々は当時の人々よりも格段に多くの情報を持っていたといえるかも知れない。つまり、嘗てテキストが書かれ読まれた時代の人々が知り得なかった数多の情報にも、容易にアクセス出来る環境にいるわけである。にもかかわらず、当時の人々の諸物に対する感性を再現出来るだけの情報が得られる注釈は、どれほど備わっているかと問われると甚だ心許ない。
語句の用例や出典研究には劃期的な便宜をもたらしてくれる情報がふんだんに在るなかで、それらの情報自体の持つ意味と限界とに意識的である注釈が要求されているのである。
六 〈画賛〉を読む技術
滑稽本の流れを汲む『安愚楽鍋』は大量に生産され消費されたので、御多分に漏れず諸版が存する。複製本が備わるためか書誌学的な吟味は等閑に付されてきたが、現時点では谷川惠一氏の調査報告が一番詳しい(「原典資料の調査を基礎とした仮名垣魯文の著述活動に関する総合的研究」平成16〜19年度科研費研究成果報告書」所収)。諸本は、基本的に同一板木を用いた摺りのようであるが、小差のあることや板元に疑問があることなどが報告されている。
滑稽本たる『安愚楽鍋』には見返・扉・序・口絵・挿絵などが備わっている。しかし、これらの画像と其処に添えられている〈賛〉にも、文脈を理解するためには注釈が不可欠である。序題下の印記「大吉利市」なども読み下されているテキストはない。また、未見であるが出された当初は書袋も備わっていたかも知れない。
さて、初編の口絵第1図には「牛肉なべ」の旗、人力車に車夫と牛肉の包みをぶら下げた帯刀の男を描き、「路芝ハまた うら若し ゆきかひの 花見車よ 心してひけ\ゆかり」「故人ぎう齋門人\うし幾戯筆」とある。「ゆかり」は未詳、画工は「曉齋門人芳幾」の捩り。
第2図は見開きに牛店「日の出」の店先を馬車(幌に「IOVIEVV(?)」)と通行人が行き交う様を描き、店の軒下に「牛乳 ミルク\乾酪 チース\乳油 バタ\乳の粉 パヲタル\御蔵前元祖\日の出」と書かれた暖簾が下げられ、「牛の煉藥 氷湖道人……\黒牡……\賣弘……」という看板が掛けられている。賛は「世をうしと たれかいふへき これやこの いい薬ある 時にあひつゝ\有竹諾」と読める。「黒牡丹」は魯文が作っていた売薬。「有竹諾」は未詳。
挿絵第1図には西洋好きの男が懐中時計を手にする図が描かれ、賛に「うしと見し 世もいまさらに ふたつ文字 かの角文字と おもほへるかな\紀をろか」と魯文自詠の狂歌がある。
以下紙幅の関係から挿絵に就いては割愛するが、魁園梅賀・故香以山人・一六齋鈍〓など魯文周辺の人物や、黒牡丹主人・氷狐堂・演戯道人・善悪坊・青陽山人などの戯名で詠んだ自詠狂歌や発句を賛として「日の出」店内で寛ぐ人々の図に添えている。
2編上巻は「換序\芬兮成孚題」の後に、「西洋料理通跋[黒牡丹]」が載る(原本に跋はない)。『西洋料理通』は、明治五年壬申新刻、仮名垣魯文編、曉齋画、中本二冊、萬笈閣・碗屋喜兵衛板。同書の早稲田本の巻末「出板目録」の広告に「西洋料理通/仮名垣魯文編輯/全二冊/此書ハ横濱在留の英國コツクの手記にして原本世に稀なり。巻中彼土の食料製方の原因を挙煮汁を三等に區別而て肉類野菜に至るまで塩梅加減を経驗たり。西洋割〓家必讀の珍書なり。」とある。現存する『西洋料理通』は前後二編であるから、文末の「此料理通。三巻の天地人に篭れりとせん歟」が不審である。刊行前の予告広告か。
次の3ウには題詠として五言絶句が載るが、これが崩した漢字で読み難い(同僚の内山直樹氏の御教示を得た)。「陌上半蛮衣 氈車疾似飛 無人哀〓〓 飽食大牢帰\屠牛東海寛[卷懷]」( 陌上 半ば蛮衣 氈車 疾きこと飛ぶが似し 人の〓〓を哀しむ無く 大牢に飽食して帰る)と訓み、「路上の人の半ばは異民族の衣服を身につけ、フェルトの覆いの車は飛ぶように速い。家畜の怯えるさまを哀れむ者とてなく、牛羊豚の御馳走に満腹して家路につく。」という意味だそうだ。魯文に近しく『西洋道中膝栗毛』を嗣作した総生寛(神林尚子氏より寛が東海を名乗る例があると教示を得た)が居留地の様を詠んだ漢詩だと思われる。
口絵第1図は曉齋(芳幾)が「日の出」の店内を描き、衝立に「よきに煮よ あしきに煮なよ なへて世の人の こゝろハ自在鍋なり」とある。これは、松平定信の狂歌「よきに似よ あしきに似なよ なべて世の 人の心は 自在鉤なり」(「鍋尻訓歌」)を擬えたもの。
口絵第2図は見開きで「牛店來客之冩眞」として、貼り交ぜ風に十二人の客を描く。この口絵における「写真」という趣向は、式亭三馬『浮世風呂』二編上口絵「女中湯人物之図」以来、高畠藍泉『怪化百物語』でも利用されている。
口絵第3図には、椅子に座って書きものをしている魯文を描き「魯文 名魯字文造一号\氷狐堂又黒牡丹 淺草假名垣文蔵」「薙髪のをりに\斯なんよめる\渋皮を纏ひなからに毬栗の 笑む日をまつそ楽しかりける」と自詠を載せる。
3編上巻の序(臥牛散人 小野凉亭)の後には「牛痘祖神之像」を描いた御札を擬した趣向で、「本地 祭三月十九日\英國医聖延涅耳\保赤牛痘祖神之像」「普照十方\救濟万兒」「御詠歌 原語和觧\我たのめうき世のわらべ獨りても 痘の悪魔の手引にはせり」「臥牛山人施印」「洗手 惠齋謹写[芳幾]」とある。種痘の発明者である英国ジェンナー(「延涅耳」はオランダ語風に「イェンネル」と読めると同僚の神戸和昭氏より教示を得た)を、疱瘡絵や疱瘡神の施印刷物風にアレンジしたもの。序者の施印という趣向であろう。
この後には、魯文の案文家としての宣伝「和漢西洋奪軆換骨・ 流行情態文作道場」と「告條」とを3丁に渉って載せ、さらに戯文「當世牛馬問答」を掲載する。
この他にも、挿絵からは様々な細かい情報が得られる。3編上巻の挿絵には、店内の柱に「御懐中物御用心」とあり、壁には魯文製の薬である「ねり薬 黒牡丹 一刻 金一朱」という貼り紙が描かれている。3編下巻の挿絵には店内に貼られている値段表が描かれており「ビイル 十八匁\サンパン 二十匁\上酒 二百三十文」とある。
以上、ざっと画と賛とを見てきたが、一貫して「日の出」の店内外が描かれていることから、『安愚楽鍋』の舞台は抽象的な牛店ではなく「日の出」という特定の店だと思しい。ならば、本作の出板とタイアップしているのではなかろうか。
次に掲出したのは「淺草元祖・牛肉賣捌所 壹斤價金二朱ヨリ」という「日の出」売出しの告條である。
賣出御披露
凡牛肉の功能あるや。近来西洋窮理家の。食料經驗のみならず。既に張華が博物誌にも。歴然として其條あり。彼紀元千七百九十六年。英國ヘルケレイの地に。多く野飼して。專ら人身の補藥とせしより。各国の蒼生是を用ひて。壮健なること比するに物なし。目今文明開化進み。我他具に此肉を。嗜ハ御代の徳澤に。潤ふ舗の繁昌から。御謝がてら一斤より。小賣に至る精肉の。價も廉の元直を限り。四辺故障にかけ構はす。お口に餘る安賣ハ。商ひめうり意地と張。先外々と召あがり。競てお試あれかしと。両肌を脱ぐ主人に代り
例の牛食假名垣魯文述[印]牛肉鍋 御壱人前三百五十銅 同すきなべ 同六百銅
肉入玉子焼茶わんむし 是迄より一倍下直奉差上候
牛肉岩石團子 風味至てやはらかにて御老人子供衆にも御口に叶てよろし
うしのねりやく 脾胃をおぎなひ氣力をまし
黒牡丹 たんせきの根をきる事妙なり曲もの入 價金一朱より
閏十月十八日より五日の間賣出し
麁景差上仕候
淺草御蔵前片町 日の出惣吉 [精調無類]
「閏十月」と見えるので、この引札は明治3年(1870)に出されたものである。 これとは別に「来ル九月五日より三日の間賣出シ\牛の煉薬黒牡丹の製主 假名垣魯文述」と「流行牛肉・吉例賣出し・十月九日より十日\牛屋雜談安愚樂鍋著述のいとま 假名垣魯文記」との2点の引札が管見に入っている。 この時期、魯文は料理屋など夥しい引札を書いているが、「日の出」との関係が、数ある発注者中の1軒でしかないとは考えにくいし、翌4年から『安愚楽鍋』が出されることと併せて考えるとタイアップの可能性は高い。
以上見てきたように、画中に描かれた事物や加られた賛にも注意を払って読む必要がある。江戸戯作は基本的に絵入本である点に大きな特徴がある。この伝統は絵巻などに遡源することができそうであるが、描かれている事物を読むためには、それなりの知識や技術が不可欠である。特に画題事典を除けば辞書類が整備されていないことが、敷居を高くしている。
七 注釈と典拠
注釈の結果として典拠が判明することがある。例えば、『安愚楽鍋』第一章「書生の醉話」(『西洋道中膝栗毛』6編下巻所載)中で書生が吟ずる「雲か山かア 呉か越か 水天髣髴 青一髪萬里 舟を泊す 天草の洋」という詩は、頼山陽『山陽詩抄』4「泊天草洋/雲耶山耶呉耶越/水天髣髴青一髪/万里泊舟天草洋/煙横篷窓日漸没/瞥見大魚波間跳/太白当船明似月」(天草洋に泊る/雲か山か呉か越か/水天髣髴 青一髪/万里舟を泊す 天草の洋/煙は篷窓に横たわって 日漸く没す/瞥見す 大魚の波間に跳るを/太白船に当たって 明るきこと月に似たり)に拠るものである。この下りでは、当時の書生たちが、俗謡である相撲甚句と併行して頼山陽の漢詩を諳んじていたということが分かるのであるが、果たしてこの情報は〈読み〉に如何に関わるのであろうか。
典拠が判明しても必ずしも読めたことにはならないということを高橋明彦氏が論じているが(「都賀庭鐘『莠句冊』の可読性―テクストに対する二つのリテラシー―」、本誌2011年1月号所収)、慧眼であると思う。間テキスト性(テクスト間相互関連性)または引用の織物としての本文を明らかにする注釈から、テキストを紡ぎ出す書斎に於ける作者の手際に差異個別性を見るに過ぎないとするならば、死んだはずの作者をゾンビのように呼び返すだけである。
引用(明示)・剽窃(韜晦)・暗示(示唆)という異なったレベルを持つ引用の織物としての本文について、〈横〉の関係である引用は、単純に文人趣味を醸し出すための衒学趣味であるといえるし、ある種の啓蒙性すら持っている。しかし、相互に依存している〈縱〉の関係である剽窃や暗示は、前提となる知識がなければ理解出来ない。そのために注釈が必要なのであるが、多くの場合は読み飛ばして済ましてしまうだろう。当時も今も、読者が筋を追ってテキストを読むためには、必ずしも典拠に関する知識を持つ必要がないように書かれている。つまり、筋を追うことを主眼として見れば、典拠についての知識は無くても文脈は読めるのである。数多く出ている近世戯作の抄録や現代語訳が可能な所以である。
にもかかわらず、典拠についての知識を獲得することは、本文の読みに深く関わるのである。曲亭馬琴作『新累解脱物語』では、登場人物たちの形象に関する修飾として引かれている中国典拠が、深くその人物像やその将来を暗示している(千葉大院生・丸山怜依氏の修論における指摘)。これは読本という、高度な読者層の知的要求に対応すべく書かれた多層的なテキストだからである。此処に十九世紀戯作小説の特質が存する。つまり、知的な好奇心が強い読者(研究者)ほど、作者の仕掛けた衒学趣味の罠に幻惑され易いのである。
国文学研究にとって、〈書物のリテラシー〉を獲得し、継承していく制度的な保障を構築することは緊要課題である。しかし、その反面として自戒も必要なのではないか。我々は、知らないこと分からないことを調べて明らかに出来た時の快感に、抗うことの出来ないほど強く魅了されてしまう。研究対象として選んだ本文テキストに出てくる事柄は、たとえ本筋とは関わらない末梢的な事柄であっても知りたいし、単なる修辞に用いられている語句の出典なども知らなくて良いはずはない。また、挿絵中に描かれた何だか分からないモノはとても気になる。此等の疑問を解決すべく調べることは必要であるが、これは読むための手段に過ぎない。注釈すること自体が目的化してしまい、語るべきテキストの面白さを語れないのでは本末顛倒であろう。
だが、書物のリテラシー獲得は、実はこの玩物喪志からしか開始不能なのかもしれない。