鄭成功の〈物語〉

高 木  元 


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二十一世紀の現在に至るまで、臺灣(中華民國)と中華人民共和国(中国)との双方に於いて、民族的英雄として顕彰され祭祀され続けている鄭成功は、肥前国松浦で日本人の母から誕生したということで、日本に於いても多くの〈物語〉上で民族的英雄として扱われてきた。

北アジア諸国が国民国家としての近代的再編を果たす遙か以前の十七世紀、大陸に於ける王朝の交代劇で敗れた明王朝の復興に尽力して敗れた勇将への同情と、臺灣から和蘭陀を放逐し西欧列強の植民地支配を打破した英雄への喝采とが混淆したものと思しき臺灣と中国と日本の人々の心情は、決して汎亜細亜主義への憧憬や賛美ではなかった筈である。

にも拘わらず三つの国に於いて、それぞれ鄭成功を顕彰し祀り続けているという現象は、第二次世界大戦後のギクシャクした隣国間の相互関係の実情から考えるに、頗る奇妙な現象であるといわざるを得ない。このことは、今回の共同研究「北東アジアにおける「記憶」と歴史認識」という視点から見るに、歴史と文学(物語)とに通底する民族的「記憶の記述」という問題系に在って、日本に於ける鄭成功の〈物語〉について考察することは、甚だ大きな問題提起ができる可能性を孕んでいると思われるのである。

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鄭成功は、清に拠って滅ぼされた明を擁護し、厦門(アモイ)を拠点として抵抗運動(抗清復明)を続けたが清軍に敗れ、折しも臺灣を支配していた和蘭陀軍を撃破して臺灣の鄭氏政権の祖となった人物である。寛永元(一六二四=天啓四)年七月十四日(同月十五日とも、二十三日とも)に日本の平戸で生まれ、幼名福松、中国名森、字は明儼、号は大木、諡は忠節。父は明の亡命遺臣である鄭芝龍、母は田川七左衛門の娘であった。七歳で単身明に渡り安南県学員生となり江蘇の太学に学んだ。明が滅んだ後、隆武帝の知遇を得て皇帝の姓(国姓)である朱を賜り成功と改名。それゆえ国姓爺として有名であるが、自身は朱成功とは称しなかったという。父芝龍が清に降り、母が安平城で自殺した後、抗清復明の決意を固め南京攻略を敢行したが敗退し、和蘭陀(東印度会社)の拠る臺灣を攻略し、永暦十六〈一六六二〉年五月八日に三十九歳で急死した。(『国史大辞典』石原道博執筆〈鄭成功〉の項等に拠る)

さて、わが国において鄭成功の〈物語〉が出されたのは、鵜飼石齋『明清闘記』(寛文年中〈一六六一頃〉刊)などが早く、仮名草紙『国性爺実録』や古浄瑠璃六段本『こくせんやぐんき』も見られるが、その後、錦文流の手によって浄瑠璃『国仙野手柄日記』(元禄十四〈一七〇一〉年)が作られ、さらに、近松門左衛門の浄瑠璃代表作である『国性爺合戦(こくせんやかつせん)(正徳五(一七一五)年十一月に大阪竹本座初演)が著されたが、その際に大喝采を受けて十七ヶ月間にわたる長期興行(ロングラン)を記録し、後代に大きな影響を残した。角書に「父は唐土・母は日本」と見えるように、中国人を父に、日本人を母に持ち、明朝の復興運動を行って清(韃靼)と戦ったとされる鄭成功を題材にして脚色されたスケールの大きな創作であった。結末を含めて歴史上の出来事とは異なる筋の運びとなっている。主人公の「和藤内」という命名は、日本を表わす「和」と中国を表わす「藤」をつけて混血児(ハーフ)であることを表現したもので、「和藤内」を「和」でも「唐」でも「ない」という洒落と解釈する向きもある。

便宜上、梗概を『日本古典文学大辞典』(今尾哲也執筆〈国性爺合戦〉の項)より引用しておく。

初段 大明十七代思宗烈皇帝は、酒色にふけって国政を顧みない。その帝のもとに韃靼国の使者梅勒王がきて、寵姫華清夫人を王の后に申し受けたいと申し出る。実は、懐妊中の后を召し捕って、大明の帝の胤を絶やそうとの魂胆である。佞臣李蹈天は上辺に忠義を装い、自分の左眼をえぐり取って韃靼王に献上、帝の危機を救うが、それこそ、韃靼に内通して国を売り渡す一味の印に他ならなかった。帝には栴檀皇女という妹がいる。帝は皇女を李蹈天にめあわせようとするが、皇女は承知しない。その帝に対して、忠臣呉三桂は、李蹈天と韃靼との陰謀をあばき、諫言する。そこへ、梅勒王に率いられた韃靼軍が攻め寄せる。呉三桂はわずかな手勢とともに戦うが、利なく、帝は李蹈天に首をはねられてしまう。妻柳歌君に皇女をゆだねた呉三桂は、后を助け、即位の印綬を持って立ち退くが、后は敵弾に倒れる。呉三桂は遺骸から胎児を取り出して落ちて行く。柳歌君も深手を追いながら、皇女を舟に乗せて沖へ突き出す。

二段目 平戸の浜。和藤内・小陸夫婦が貝を拾っている。かつて帝に諫言して追放された明の忠臣鄭芝竜は、日本に渡って老一官と名乗り、浦人と契って一子をもうけた。それが、和藤内である。浜辺に、皇女を乗せた舟が流れ着く。その口から大明の危機を知った和藤内と老一官夫婦は、渡明して韃靼と戦う決意を固め、小陸に皇女を預けて舟出する。三人は明に着く。明には、老一官が残してきた娘、今は獅子が城の主五常軍甘輝の妻錦祥女がいる。それを頼って甘輝を味方に付けるために、老一官は出立、和籐内は母を連れ、千里が竹の虎を威服して、跡を追う。

三段目 錦祥女は形見の姿絵によって老一官を父と確認するが、韃靼王の掟によって三人を城内に入れることができない。母は、自分が虜囚の恥を忍んで城に入り、意志を伝えようと、自ら縛に就く。錦祥女は、願いがかなえば白粉を溶いて黄河に通じる泉水に流し、かなわなければ紅を溶いて流すと合図を決め、母(義母)を中に入れてかしずく。和籐内討伐のために、韃靼王から散騎将軍に任ぜられた甘輝が帰ってくる。明を救うために味方になってくれとの母の頼みを甘輝は快諾。しかし、女房の縁に引かれて味方したといわれては末代までの恥辱と、錦祥女を殺そうとする。母はそれをとどめ、義理の娘を見殺しにしては日本の恥、殺すなら自分を殺して欲しいと哀願、結局、甘輝は和籐内と敵対することとなる。錦祥女は、願いのかなわぬ印に紅を流す。その流れを見た和籐内は城に飛んで帰り、母の縛を解き、味方に付けと甘輝に迫る。争う二人の中に入った錦祥女が、紅の水上はここにと胸を開くと、胸元は血に染まっている。錦祥女は自刃したのであった。甘輝は、その志を汲んで味方になり、延平王国性爺鄭成功の名を和籐内に贈る。母は錦祥女の懐剣を取って自害する。

四段目 小睦は皇女を連れて明に渡る。一方、呉三桂は、山から山に隠れて太子を育て、九仙山に登り、五年の歳月を過ごす。その間、和籐内は連戦連勝。皇女と小睦を伴って、老一官が九仙山にやってくる。そして、皇女を追ってきた梅勒王の軍勢を、呉三桂とともに打ち倒す。

五段目 太子は印綬を受けて即位し、永暦皇帝となる。和籐内たちは韃靼王の最後の拠点である南京城を攻め、韃靼王を捕え、李蹈天を処刑。天下は治まる。

この浄瑠璃が大当たりした要因として、均整のとれた全体構造、用意された多種多様な趣向と見せ場、世話物的要素を取り入れた時代物である点などが挙げられている。スケールの大きな世界に細やかな叙情性を兼ね備えた作品であったことは「古今の人情に通ずる」として『南水漫遊拾遺』(二巻)や『声曲類纂』(巻二の近松門左衛門の条)でも触れられている。『国性爺合戦』の評判は、早くも江戸中期に海外にまでおよび、長崎の通詞である周文二右衛門が「楼門の段」を翻訳して支那へ送ったことが、上記『南水漫遊拾遺』に記されている。

また、本作は直ちに歌舞伎化され、和藤内の〈荒事〉として演出された。その隈取りは「鴫蛤(しぎはまぐり)の場」「千里竹の場」「紅流(べにながし)の場」と三変し、次第に赤色部分が増えて怒りが高まることを表現している。また、二回用いられる「飛び六法」の引込みも象徴的な荒事芸であった。つまり荒事で表現されるのは主人公の英雄性であり、『国性爺合戦』でも「千里竹の場」では〈虎退治〉の場面が用意されている。日本には生息しない虎を退治することに拠って英雄性を表現することは、加藤清正が文禄慶長の役で朝鮮侵略中に虎退治をした逸話が〈武者絵〉の画題にもなっているし、一休禅師の「屏風絵の虎退治」に関する噺(足利義満が一休禅師に屏風絵の虎退治を依頼すると「捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切返し義満を感服させた話)や、『水滸伝』の武松の虎退治、さらには『南総里見八犬伝』の犬江親兵衛に拠る虎退治の挿話など枚挙に遑がない。つまり、明確に『国性爺合戦』の和藤内は〈英雄(ヒーロー)〉として形象化されていたわけである。

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さて、近松の『国性爺合戦』は後代に大きな影響を及ぼし、浄瑠璃としては紀海音『傾城国性爺』(享保二〈一七一七〉年)や、近松自身にも『国性爺後日合戦』『唐船噺今国性爺』などがある。一方、浮世草子『国姓爺御前軍談』(西沢一風、享保元〈一七一六〉年、菊屋長兵衛刊)、八文字屋本『国姓爺明朝太平記』(其磧)や、所謂〈通俗もの(漢文書下し体の歴史小説)〉『明清軍談通俗国姓爺忠義伝』(作者未詳、十九巻二十巻、享保二〈一七一七〉年、田中庄兵衛板)が出され、後に絵入読本『繍像国姓爺忠義伝』(前編十三冊、石田玉山、文化元〈一八〇四〉年、柏原屋清右衛門板・後編十冊、好華堂野亭、天保五〈一八三四〉年、柏原屋源兵衛板)として挿絵を多く加えて俗化され、さらに鈍亭魯文の袋入本『父漢土・母和朝 国姓爺一代記』全三編(安政二〈一八五五〉〜文久元〈一八六一〉年、山口屋藤兵衛板)として抄録されている。

草双紙にも多くの国姓爺ものがあり、黄表紙『国性爺合戦』(寛政六〈一七九四〉年刊)、合巻『国性爺倭談』(東西庵南北、文化十二〈一八一五〉年刊)、『唐人髷今国姓爺』(柳亭種彦)などが知られており、明治に入っても豆本『絵本国姓爺合戦』(明治十九〈一八八六〉年六月、尾関トヨ刊)などがある。一方、歌舞伎の人気に肖って錦絵も多く摺られており『當世見立三十六花撰』というシリーズの「和藤内」(三代豊国)など多数が残されている。

また『白麓蔵書鄭成功伝』(鄭亦鄒撰 、木村孔恭点 安永三〈一七七四〉年、木村蒹葭堂刊) は、後に河内屋茂兵衛板として再摺されているようであるが、『和刻本明清資料集』第二集(汲古書院、一九七四)に影印が収められている。

その他、謡曲『和藤内』(宝暦六〈一七五六〉年)を生み、歌舞伎では、河竹黙阿弥の『三題咄高座新作』(文久三〈一八六三〉年)や『国性爺姿写真絵』(明治五〈一八七二〉年)、『唐人髷今国性爺』(竹柴金、明治二十二〈一八八九〉年)が作られた。昭和三〈一九二八〉年には、小山内薫改作の『国性爺合戦』が築地小劇場で上演された。

注目すべきは、明治期の日清戦争に関連して出された国姓爺もので、『国姓爺討清記』(依田学海、六合館弦巻書店、明治二十七〈一八九四〉年十月)、『通俗征清戦記』(服部誠一、東京図書出版、明治三十〈一八九七〉年九月) 、『国姓爺後日物語』(鹿島桜巷、愛国婦人会台湾支部、大正三〈一九一四〉年)など、日清戦争に重ねられた国威鼓舞色の濃いものである。

露伴も『鄭成功』(全集十一巻所収)を書いているが、実は現代に於いても、陳舜臣『鄭成功―旋風に告げよ 』(中公文庫、一九九九年)などがあり、国立劇場での『国性爺合戦』の上演も繰り返し行われている。

さらに、長崎平戸には鄭成功の遺跡「鄭成功居宅跡」「鄭成功児誕石」などが多くあり、「鄭成功まつり」が毎年実施され、台南の鄭成功廟から平戸丸山に分祀された「鄭成功廟」には鄭成功が祀られている。また臺灣にも「鄭成功紀念公園」があり、台南市延平郡王祠では「鄭成功文化祭」が毎年実施されているという。さらに、福建省夏門市鼓浪嶼永春路にも「鄭成功記念館」が〈中華民族の英雄鄭成功の台湾奪回三百周年〉を記念して一九六二年に建設され、鄭成功が兵を率いて和蘭陀植民者を追い払い臺灣を奪回した輝かしい業績を詳しく紹介しているそうだ。

二〇〇一年には「日中国交正常化三十周年記念」として、日本中国の合作映画『国姓爺合戦』が作成され公開されている。そのサブタイトルは「明から清へ―アジアを救った日本の英雄がいた。\その男の名は、鄭成功」。きわめて政治色の強い映画で、臺灣が中華人民共和国の領土であるという強烈なメッセージが託されたものであった。

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以上、国姓爺ものの展開を概観してきたが、これらの十七世紀から現代の二十一世紀に至る「鄭成功の〈物語〉」が孕む問題系は究めて興味深いものであり、日本古典文学研究が安閑として日本文化研究に安住していられないという問題提起を我々に突きつけているものと思われる。

具体的に分析検討を続けている段階で、いまだ成果を出せないでいるが、取り敢えずは問題の所在を示しておくことにする。なお、斯様なエッセイとして書いたので、参考文献等の詳細な注は付さなかったが、論文として発表する際には細大漏らさず記す所存であるので諒とされたい。


#「鄭成功の〈物語〉」
# 科研費研究成果報告書「北東アジアにおける「記憶」と歴史認識に関する総合的研究」
#           (研究代表者 三宅明正〈千葉大学大学院人文社会科学研究科教授〉、2010年3月)所収
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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