出板文化史の中の八犬伝 −「作家」の成立−
高木 元 


【司会】大変長らくお待たせいたしました。それでは、本日の公開講座を始めさせていただきます。今日は、千葉大学文学部教授の高木元先生にお越しいただきました。先週は馬琴を取り巻く作家の家庭の状況について、板坂先生にお話をしていただきましたけれども、それに続きまして、今日は、馬琴を取り巻く出板者関係、当時板元という名称でいわれていますけれども、その板元と作者との力関係、そういう事情について、いろいろお話をしていただきます。
 高木先生のご研究は、テキストだけ読んで研究していくような従来の文学研究とは違いまして、もちろん先生も、そういう伝統的な方法も十分ご存じでなさっているんですけれども、それ以外に、出板文化っていう新しい分野の研究をしていらっしゃるということが、先生の研究の特徴じゃないかと思います。
 先生の略歴をご紹介いたします。三ページをご覧ください。一九九○年に東京都立大学大学院の博士課程を修了されまして、同じ年に愛知県立大学の専任講師、それから同大学の助教授になられまして、二○○○年の四月より、千葉大の教授に就任されました。
 それでは早速ですが、先生にご講演をお願いいたします。

【高木】こんにちは。千葉大学の高木と申します。今日は「出板文化史の中の八犬伝」というテーマを頂きましてお話しすることに成りました。只今、ご紹介頂いた通り、『八犬伝』等の本が、どのように作られ、どのようにして出板され、そして読まれたかという観点からの研究を進めております。今日は、主として書物というメディアに拠って現代まで読み継がれてきた『八犬伝』の様相について、お話ししたいと思っております。実は、私は大変に早口でして、最初はゆっくり話そうと思うのですが、次第に早口になってしまいます。今日は出来るだけ気を付けます。

 さて、お手元に、図版を並べた一○ページばかりのB4判の資料と、小さなB5判のレジュメを用意致しました。ほぼレジュメに沿いながらお話しするつもりですが、おそらく時間内に全部はお話しできないと思いますので、大切な問題を最初にお話ししておきたいと思います。

 まず一点、近世以降、日本の文学は、出板と印刷技術の進歩に拠って広く享受されるようになります。非常に乱暴ないい方ですが、従来の文学研究というのは、作家の意図は何かということを、その作品を読みながら考えるというのが一般的な方法だったと思います。勿論、現在もその方法が有効性を持つ場面はあると思います。しかし、江戸時代に入って出板が商売として成り立って参りますと、売れないものは当然出板できません。つまり、作者といえども、自分が書きたいものを書きたいように出板できたわけでは決してないのです。考えてみればごく当然のことなのですが、作者は、常に売れるということを意識して、板元の提示する企画の中で自分の腕をふるうという、枠組みの中で執筆されたと考えなければいけないのです。

 江戸時代以降の出板という仕組みを調べていくと、ますます商業出板という側面が大きいことが分かってきました。とりもなおさずそのことは、近代文学、たとえば漱石でも同様ですし、それ以降、現代の作家まですべて、自分が書きたいように書ける作家はいなかった。さまざまな規制の中で自分の書きたいものを何とか盛り込んでいって、それが商業ベースとしてうまくいけばベストセラーになるということなのです。

 そこで間違えてはいけないのですが、これは往々にして、商売上成功したものが優れたもので、売れなかったものが評価されなかったと思いがちですが、売れたこととテキストの持っている価値とは関係がありません。とても優れた文学であっても売れなかったテキストは多分沢山あったであろうし、逆に、売れたからといって、それがすべて優れたものだとは、当然いえないのです。

 そこのところを履き違えないで、やはり作者というのは出板というメカニズムの中で、自己主張をしていた一人の職人なのだという視点を持つことが必要なのです。従来の文学研究では、あまりにも作者を偏重し過ぎてきたと思いますので、敢えて周辺から、特に享受の側面からの研究が必要となってきたのです。

 ただ、最近「カルチュラル・スタディーズ」と呼ばれる学問が流行っていますが、あまり行き過ぎますと、今度は非常に素っ気ない文化現象の研究で終わってしまうので、やはり文学というのは読んで楽しい、読んで面白いという原点を忘れないようにしつつ、にもかかわらず、作者に向けた研究ではない角度というものを探っていきたいと考えています。

 私がやってきた、もう一つの研究は、モノとして書物を考えるというものです。後程、プロジェクタで大きく映してご覧に入れますが、ここに持って参りましたのは、江戸時代に出た『八犬伝』を草双紙に焼き直したものです。きれいな錦絵風摺付表紙が付いていまして、本文は平仮名ばかりで、全ページに挿絵が入っているというものです。

 このような本というのは、それ自体がモノとして好ましい存在であるといいますか、ただ本文が読めれば良いというものではなくて、やはり美しい装丁そのものや、あるいはどのような紙質にいかなる字体で刷られていて、どういうデザインの活字〔フォント〕が用いられているか等というように、文字通りモノとしても享受しているのです。ですから、本というモノは、単に文字列だけが読めればそれで良いという実用品ではなくて、やはり装丁等を含めた本というモノそのものが、まさに読むべきテキストとして存在しているのだと考えたいのです。敢えてこのような庇理屈を申し上げなくても、多くの皆さんは、本を読むというのはそういうことだと、経験的にご存知のことと思います。

 さて、多くの方が『八犬伝』を読んできたと思うのですが、多分そのテキストの大半は岩波文庫、もしくはそれ以前の活字本であったと思われます。勿論、岩波文庫は安い、安いといっても最近文庫本の値段も高くなりましたが、まぁ手軽に手に入れられるテキストでして、挿絵もすべて入っていて申し分のない本ではあるのですが、やはり原本ではないのです。つまり、原本の文字列あるいは挿絵を読みやすい形で活字に直し、そして供給しているというメディアです。しかし、原本がどういう形で出板されていたのかを知るということは、鑑賞の上ではとても大事なことではないかと思います。

 例えば、ここに持って参りましたのは複製本ですが、『八犬伝』の原本の様相をうかがい知れるものです。そもそも『八犬伝』は半紙本と呼ばれるB5判ほどの大きさの和装本一○六冊にも及ぶ長編小説です。表紙に犬をデザインした模様が付いております。江戸時代の半ばまでの本というのは、大半が縹色〔はなだいろ〕という地味な色の表紙に標題を書いた題簽〔だいせん〕を貼っただけのものでした。ところが、『八犬伝』が代表する江戸読本〔よみほん〕というジャンル以降から、このような大変華やかな装飾を施した表紙の本が主流になって参ります。

 これは何故かと申しますと、実用的なものや、ただ読むことだけが目的であれば、別に本に装飾を施す必要はないのです。必要な人が手に取って、必要な人が読めば良い。ところが本が綺麗であるということは、本が「読んで」といっている。つまり、本が自己主張をして未知の読者を獲得するということ、すなわち、商品だということです。売り物として、読者の手に渡ることを望んで作られているということが、とりもなおさず書物がきれいな装丁を持つように成った理由なのです。ですからこの『八犬伝』以前のものと、『八犬伝』以後といって良いと思いますが、文化文政時代以降のもの、そして現代に至る本は、綺麗な装丁の本が大半です。ところが一方で、無味乾燥な装丁の本というのは現在でも存在します。それは論文集など不特定の読者に売る必要がない本です。必要な人だけが読んでくれれば良いという本は、多分、美しく装飾する必要はないという判断がなされているのです。

 ですから非常にモノに偏しているかもしれませんが、本というモノそのものをどう扱って、そしてそれをどのように愛でて読んでいたのかという、そういう大きな視野の中で文学というものも鑑賞していくべきだろうと思います。

 少し話が前後しますが、江戸時代になると日本の出板文化は著しく発展します。このことを詳しく展開している時間はありませんが、要するに江戸時代になって、それまで写本、人間が手で写すという形で本が作られ読まれていたものが、印刷されるようになります。印刷されるようになった中で、木活字や古活字など、活字本にも色々ありますが、問題にしたいのは整版本です。大きな桜の木の板に字を書いた板下を裏返しに貼り付けて、それを彫るという。つまり皆さんが年賀状などでなさる版画の作り方で作られる本。それを整版と呼んでいますが、その整版本が一般的になることによって、速く大量に同じものが作れるようになってきたのです。

 整版本が出来たことによって、従来、手で人間が写すものに比べれば、何十倍も何百倍も沢山、速く、多くのものが出来るようになりました。それが明治になりまして、活版印刷が普及してくることによって桁違いに、非常に簡単に速く、沢山、安く出来るようになります。そして今や、インターネットを含めて電子出板、オンデマンド出版などというのが普及し始めています。電子本だと、フロッピーディスク一枚に新書五冊くらい入ってしまいます。そしてそのコピー自体も、本当に一瞬で出来てしまいます。つまり、同じものが速く、沢山、精確に作られるという形でメディアが変遷してきたのです。そういう意味では写本が整版本(板本)になったということがメディア史の上ではかなり大きな変化だったのです。

 ここで注意したいのは、印刷技術の進歩というのは、それはそれで大事なのですが、プリンティング(印刷)というのは、それだけでは出版にならないということです。プリンティングとは、今でいえばコピーです。必要な人たちのグループの中である文献をコピーするのでしたら、プリンティングで済むのです。ところが、今はインターネットがありますから一寸と状況が違いますが、不特定多数の人に何か情報発信をしようと思うと、何らかの流通手段を持つ必要があるのです。

 具体的には、現在我々はワープロやパソコンを使えばきれいな本を簡単に作ることができます。勿論、製本に出せば立派な本に簡単に製本することができます。でも、それでは出版にはならないのです。なぜならば、未知の読者に手渡すためには、それが流通しなければならないからです。欲しい人がその本を手に入れられるようなシステムの中に、自分が作ったものが置かれなければ、出版にはならないのです。

 ということは、本に商品価値を持たせ値段を付けて流通させる必要があるということです。江戸時代も同様でありまして、誰かが本を書いて印刷したとしても、それが流通しなければ未知の読者を獲得することはできません。パブリッシング(出版)が業態として整備されて流通システムが出来たからこそ出版というものが商売になって、出版が商売になることによって初めて、人々は読みたいものを手に入れることができるようになったのです。そのことがうまく合ったのが、まさに日本の江戸時代だったのです。印刷技術が進歩し、資本主義の成熟に伴って商品を流通させるシステムが出来たことに拠って、出板というものが盛んになっていったのです。

 ただ、今と大きく違いますのは、本そのものが大変に高価だったことです。『八犬伝』は第一輯が五冊、大体五冊ずつ毎年出たのですが、非常に乱暴な計算をしますと、この五冊で一○万円程になります。そう誰もがおいそれと、毎年一○万円ずつ買って一○六冊揃えることはできなかったのです。

 では、どうしていたかといいますと、貸本屋という流通のシステムが、全国津々浦々まで出来上がっていたのです。一寸と前の時代のビデオソフトを思い浮かべて頂くと良いかと存じます。今はビデオやDVDソフトが大変安くなりましたから、欲しければ買いますが、かつては三万円以上もしまして、余程でなければ個人がビデオソフトを買うことはありませんでした。そこで、街のビデオレンタルショップへ行ってレンタル料金を支払って借りてきた。これと同じだとお考え頂いて良いと思います。

 あともう一つ、江戸時代の貸本屋というのは、今のレンタルショップと違いまして、店舗を構えていることが少なかったのです。皆さんがお若い頃のことを思い出して頂くと如何でしょう。御用聞きや行商の人がまだ居たと思います。ありとあらゆるものを、売りに来る人達がいた。それと同様に、貸本屋も本を背負ってある地域のお得意さんを回っていたのです。この業態が、江戸時代の普通の貸本業です。勿論、中には、大きな貸本屋でお店を構えているのもありましたが、だいたいの場合はお得意さんを回りました。文化期には、江戸には六五六件の貸本屋があったと記録されています。ですから、一つの町、あるいは二つの町に一軒くらい貸本屋があったと考えて良いと思います。

 貸本屋が持ってくる本というは、当然娯楽的な読み物が主力です。実用書などは借りて読むものではなく、手元に置いて参照するものです。娯楽小説のみならず、名所記なども旅行に行けない人たちは借りて読んだようです。貸本屋が持ってくる本によって人々は知的な欲求を満たし、楽しみを得ていたのです。

 そこで予想されることは、一つの地域に一軒の貸本屋があって、貸本屋の持っている本が一通り回ってしまったら、それで読む本がなくなってしまうということです。すると、その貸本屋が、地方の貸本屋に自分の持っていた本を売って、新たな本を仕入れていくのです。そうしますと、一冊の本が日本中へ行き渡るのに何年も掛かるということになります。本の冒頭部に良く貸本屋の蔵書印が押してあるのですが、特にこの読本と呼ばれるジャンルの本の場合は貸本屋を通じて流通しましたので、あちこちの貸本屋の蔵書印が沢山押してある本が出てきます。見ると、江戸の本屋さんがあって、その次に埼玉があって、そして佐渡へ行くというように、その本がどのように流通してきたかが、貸本屋の蔵書印で辿れることが良くあるのです。つまり、一冊の本について、今は一人か二人の読者かもしれませんが、当時は何十人、下手したら何百人の読者が同じ本で読んでいた。その結果として、大勢がめくった下部の左右部分が黒ずんで手擦れに成ってしまっている本を良く見掛けます。

 というわけで、『八犬伝』でも、本当に保存の良い本というのは、国立国会図書館に残っている馬琴が手元に持っていた初板初摺本の『八犬伝』揃いくらいでしょうか。先回、板坂先生がお話しに出てきたかと思いますが、馬琴には伊勢の殿村篠斎等の批評家グループがいました。馬琴が篠齋に送っていた『八犬伝』が学習院大学に、一寸と欠けていますが大体揃っています。他にも明治大学にある本もそう悪くないのですが、如何せん二十八年間にわたって出板されたものですから、全部が初板で揃っている所というのは滅多にないようです。多分、二輯が出ればその時に一輯をも印刷するでしょうし、九輯が出た時に前に出された本も印刷するということで、全部が最初に摺られた本で揃うということは滅多にないのです。そういう意味では、国会の図書館の本が一番出板当初の形を保っている本だといえると思います。

 学問の世界ですと初板本や初摺本など最初のものが珍重されるのです。勿論、江戸時代の出板物ですから、後で具体的にお話し申し上げますが、後摺本になると手が抜かれて粗悪な造本になってきます。ですからやはり初板初摺本が一番著者の意図が反映された好ましいテキストだと思いますが、考えてみますと、流布している本の状況から考えて、初板初摺本で『八犬伝』を読んだ人というのは非常に少ないということに気が付きます。

 現在の読者でいえば、おそらく岩波文庫の『八犬伝』の読者が一番多いでしょう。明治の最初から、多くの『八犬伝』活字翻刻本が出ましたし、一時代前であれば有朋堂文庫の『八犬伝』等も沢山流布していたようですから、そういう活字本で読んだ人が当然多いと思われます。

 ですから読者論というか、読み手の側の問題で考えていきますと、『八犬伝』というのは初板初摺本だけを追求しても仕方がない。人々が読んだ本というのは、一体どういうものであったのかという変遷の史的展開についての研究が必要に成って参るのです。

 さて前置きが長くなりましたが、資料をご覧下さい。一寸小さく成って申し訳ないのですが、下の方に頁が書いてありまして、タイトルの前に(1)、(2)という番号を打っておきましたので、番号に従ってお話しして参ります。

 (1)は『出像稗史・外題鑑〔えいりよみほん・げだいかがみ〕』と書いてありますが、角書「出像稗史」には「えいりよみほん」と振仮名が振られています。「読本〔よみほん〕」というのは、読む本と書きますが、江戸時代には「稗史」とも書きました。「出像」というのは挿絵が入っているという意味なので、絵入稗史小説を「読本」と呼んでいたのです。

 ここに出しましたのは、だいたい新聞の半分A3判程の大きさの裏表に摺られたものです。小さくて何だか良く分からないかもしれませんが、これは読本のカタログと考えて頂いて差し支えありません。文化初年くらいから出板されて流行していたこの読本が、文化十年頃までに約百タイトル出板されます。そのうちの約半分が『八犬伝』の作者である馬琴と、山東京伝のものです。残りの半分は二流三流のあまり有名でない作者のものです。このカタログ表裏には、タイトルと、作者、画工、そして冊数、そして簡単な内容紹介がずらっと並べられています。貸本屋が、自分の店の品揃えをするために使った、もしくは貸本屋のユーザーが、次に何を借りようかと参考にするような、そういうカタログだと考えて良いと思います。

 この下段の真中より少し右側ですか「里見八犬侍、同二編、五冊」とあるのがお分かりになりますか。下段の右から八つ目くらいですが、何とか「里見八犬伝」とお読みいただけるかと思います。つまり、文化の末年頃、『八犬伝』がまだ二輯までしか出てない段階でのカタログということになります。『八犬伝』はこれから後、大変長い小説になるのですが、このカタログに掲載されている読本は割と短い、五冊で終わるような読切りの短編読本であります。

 従来、このようなカタログは見過ごされていたのですが、私がまだ大学院生の頃、これを見つけて大変胸躍りまして、何をやったかといいますと、ここに出ているタイトルの本をすべて、日本中の図書館や大学図書館を経巡って調べて歩いたのです。先程申しましたように初板初摺本というのは余り残っておりません。しかし、初板初摺本を見ないことには、もともとの板元や刊行年月についての事情が良くわからないもので、時間もお金も掛かって大変だったのですが、ここに出ている百タイトルくらいのものを調査した結果、板元をずらっと並べてみたら、意外なことに出板者のほとんどが貸本屋だったのです。これはどういうことを意味するかと申しますと、読本というのは、この文化年間流行し始めた新しいジャンルなのですが、この流行を仕掛けたのが実は貸本屋だということが証明できたのです。

 しかし、少し考えてみると分かりますよね。レンタルビデオショップでは、今何が人気あってどういうものが一番貸し出されているかという情報が容易に得られるのです。ですから、そういう情報を持っている人が新しいビデオの企画を立て、それを作れば確実に売れるということになります。今ではコンビニなどが当たり前に採っている方法ですが、同様のことが行われたのが、貸本屋の創り出した読本というジャンルで、その結果『八犬伝』が生まれたのです。

 馬琴も、それから京伝も、そのほかの作者たちも、貸本屋のリクエストに従って執筆していたのです。作者に対しては「こういうネタとこういう内容でこのようなものを作ってくれないか」と持ちかけ、挿絵は北斎に描かせようか、いや豊国に描かせようなどと算段していたので、映画を作る時のプロデューサのようなことを、貸本屋である板元がやっていたのです。ただ、出板にはもの凄くお金が掛かるのですが、零細な貸本業者がどのようにして資金を手に入れていたか等ということに関する資料はあまり残っていません。が、おそらくスポンサーが付いたのであろうと思います。

 板本というのは、作るまでにはお金が掛かるのですが、一旦作ってしまえば摺るだけです。要するにお札を刷るのと同じで、後は摺って綴じるだけで、どんどんお金を生む本が出来るのです。今いう出版権のことを当時板株といいましたが、とにかく板木を作って板株を手に入れてしまえば、後は摺れば売れるということになります。

 ただし、先程申しあげましたように、一般の人たちが買える商品ではありませんから、やはり商売相手は大半が貸本屋になります。中には八戸の南部松平家のように読本好きの殿様等がいますと、江戸の下屋敷に命じて出たらすぐに買い集めさせていたようです。それが今は八戸市立図書館に残されています。お金持や殿様など、特別な人たちが自分のコレクションにしていることも勿論あったのでしょうが、やはり大半は貸本屋が相手だということになります。ですから実際に何部売れたかということも、貸本屋の全国分布数等を考えると『八犬伝』あたりでも四五百部、千部に達することは滅多になかったようです。

 ただし、問題は出た年に何部売れたかではなくて、長年に渉って出続けるのですから、次の年に二編が出れば一編もまた摺るというように完結までの二十八年間、のみならず、板本の一番新しいものが明治三十年に摺られていますから、かなり長い期間にわたって摺られ続けて、それでトータル何部売れたかというと、結構な部数になっていた筈です。

 ですから、先行投資として出板する時にはかなりの資本が必要ですが、それが後々次第に利潤を上げていって投資の回収がなされてき、それをまた次の出板に当てていくという具合で、今でもそうなのですが、斯様な出板のメカニズムというのは、もう既にこの化政期には確立していただろうと思われます。

 さて、少し先を急ぎましょう。当時の本というのはどのような様相をしていたかということなのですが、(2)は「してんのうしょうとういろく」と読むのですが、「曲亭子著述、一陽斎豊国画、四天王剿盗異録後編」と書いてあります。これは本の袋です。この袋は帯状に成っていまして、五冊がバラバラに成らないように袋に入れて売られていたのです。図版では平らに見えるので分かりにくいのですが、左の方に白い所があるのでお分かりになると思いますが、包帯のように五冊を束ねてくるむように巻いたもので、これを袋と申します。袋はなかなか残っていないのですが、これは上田市立図書館の花春文庫に蔵されていたものです。本来はこういう袋に入れられて売られていたものと思います。

 それから下の方に行きまして(4)。この「美濃旧衣八丈竒談」は「みののふるぎぬはちじょうきだん」と読みます。これも前回、板坂先生が配ってくださった馬琴の年譜の中に出てくると思いますが、初摺本の表紙であります。比較的珍しいもので、副題箋といって絵を描いた紙が表紙に貼ってあり、なかなか凝ったデザインのものです。

 左上に行きまして、同じ馬琴読本ですが、これは後摺本の表紙です。こちらはもう手数を省くために、辛うじて表紙には模様が付いているのですが、『松浦佐用媛石魂録〔まつらさよひめせっこんろく〕』というタイトルを書いた紙(題簽)が張ってあるだけです。この様に、後から作られるものは安く作るために手を抜くのが常です。

 それから(5)へ行きます。これは「見返」といいまして、今の洋装本にはないのですが、和装本の場合は表紙の裏側に、このようにタイトル等を書いた紙が張られているのが普通です。これも後摺本になると次第に省略されていくことが多いのですが、実は此処には大変に貴重な情報がありまして、実質的な板元が誰であるかということは、この見返にしか出ていないことが多いのです。「刊記」と呼ばれる巻末には本屋の名前がずらっと並ぶことが多いので、そのうちの一体誰が実質的な板元なのかというのは、実はこの見返に拠らないと分からないことが多いのです。そこで、この見返を備えた本を探して歩くことに成るのです。此処には『千代嚢媛七変化物語〔ちよのうひめしちへんげものがたり〕』という読本の「見返」を出しておきました。これも中々凝ったものであります。一番右の方に、「武陽江都橋辺四日市街書房石渡氏桂林堂印行」と書いてあります。桂林堂・石渡利助という板元が中心になって出板した本であると、これに拠って分かるのです。『八犬伝』にも全て、本来の初摺本には見返があったのですが、残念ながら岩波文庫には全部省略されてしまっています。

 二枚目へ参ります。二枚目の右の方に挙げました(6)というのが『千代嚢媛七変化物語』の刊記です。そこに大きく「作者、振鷺亭〔しんろてい〕主人、画工、蹄齋北馬、筆工、[白交]窓武筍」と見えます。「筆工」というのは、本文の板下を清書した人です。因みに「彫工、菊地茂兵衛」とありますが、実は式亭三馬の父親です。「彫工」ですが、板木を彫った職人です。主に頭彫りといいまして、人間の顔を彫る人の名前が此処に書いてあります。字彫りといいまして、本文は丁稚でも小僧でも、ある程度修行すれば彫れるのですが、絵の、それも細かい人間の顔の部分というのは頭領格の人が彫るので、その人の名前が此処に書かれていることが多いのです。刊記ですが、これで文化四年に西宮弥兵衛と石渡利助が刊行したものであるということがわかります。本来の初板初摺本には原刊記が付いています。

 次に左下になりまして、(8)に「『松浦佐用媛石魂録』(口絵二種)」と書いておきましたが、本の表紙、そして見返の次に漢文の序文が付いているのが一般的でありますが、この序文の後に目次(目録)があり、次に口絵と申しますが、小説の中に出てくる主要な人物を此処に描き、その人の運命を暗示するような発句や漢詩などを載せた画賛風の部分があります。これは中国の本の繍像というスタイルを真似したものです。

 さて、この『松浦佐用媛石魂録』という文化五年に出た馬琴の読本には、二種類の口絵があります。同じ絵なのですが、良くご覧になると右側と左側と何か違います。右の方は右上の人物の周りに鳥が飛んでいる絵が描いてあります。左の方は煙がたなびくような意匠になっております。なぜ斯様なことが行われたのか良く分からないのですが、これは割と初摺に近い時期に二種類の色摺りを施したものが存在している、一寸と珍しい例かと思います。

 今度は左の方(9)を見て下さい。これは『善知鳥安方忠義伝〔うとうやすかたちゅうぎでん〕』という山東京伝の読本の挿絵です。あまりきれいに印刷されていませんが、上の絵と下の絵を比べて頂くと一目瞭然です。これは、右側の泣きながら顔に手を当てている鷺沼太郎が、故郷においてきて長い間会えなかった妻の所へ訪ねてきた場面です。その妻は錦木といいまして、実はもう既に亡くなっている。それが幽霊となって太郎に出会う場面です。これは上田秋成の『雨月物語』の中に出てくる「浅茅ヶ宿」に基づいた趣向です。上の絵では、薄墨と申しまして、灰色の薄い墨で幽霊の部分が描かれています。ところが、下の方にはそれがありません。初板初摺本には薄墨が摺られていますので、その絵の意味が良く分かるのですが、後摺本の薄墨が省略された下の絵では、一体、何が起っているのか全然分かりません。

 こういうことを、江戸時代の板元は平気でやるのです。ですから、どちらをご覧になればより深い鑑賞ができるかなどというのはいうまでもないわけで、初板初摺本を大事にするというのは、このような事情も大変大きな要素としてあるのです。

 実は『八犬伝』にも同様のことが幾つか知られていまして、初板初摺本の挿絵と、後摺の挿絵が大分変えられている箇所が幾つか知られています。この点には、やはり充分に気を付けるべきだろうと思います。何故、気を付けるべきかと申しますと、後程で詳しく申し上げますが、江戸時代の小説は挿絵も作者が指示をしているからです。つまり、近代小説における新聞小説の挿絵の様に、画工が勝手に描くのではなくて、作者がすべて下絵まで描いて、それを浮世絵師に描かせるというシステムを採っているからです。

 特に馬琴の場合は、「画中の文、文中の画」といっています。つまり、絵の中にあるテキスト、テキストの中には書かれてないことが絵には描かれている。そういうところも充分に注意して読むようにと馬琴は指示しているのですが、馬琴の意図が口絵挿絵にも及んでいるということは確実です。ですから、馬琴の意図が及んだ挿絵というのは如何なるものであったかということは、やはり確認しておかなければなりません。

 先へ行きます。三枚目です。馬琴の書いた色々なものを読んでいくと良く分かるのですが、江戸時代には著作権等はございません。著作権が保障されるようになったのは、明治に入ってからです。ですから馬琴は原稿料を貰いましたが、初板初摺の後は板元がやりたい放題に好き勝手にやる。先程申し上げたように、板元は本を出すために多額のお金を投資していますから、場合に拠っては板木を余所の板元に売ってしまうこともあったのです。そうすると、それに対して作者は何も文句がいえない。勿論、買った方はそれをどう使おうと自由ですから、どういうことが起こるかというのが、三枚目に出したものです。

 まず(12)、右上ですが、これは『敵討誰他行燈〔かたきうちたそやあんどう〕』という中本型読本の、馬琴の自筆原稿です。これは今、上下のうちの上だけが残っていて天理図書館で見ることができます。「敵討誰也行燈」と書いてありまして「巻之上、馬琴戯述」等とあり、冒頭は「花は盛りに月は隈なきのみを見るものかは」と書き出されています。何処かで聞いたことありますね、そう『徒然草』の一節の引用です。これが草稿です。

 左側の(14)、これは筆工が清書をして作成された本文の冒頭です。ご覧になるとお分かりになると思いますが、一字一句精確に彫られています。馬琴は結構うるさい人でありまして、いわゆる校正、かつては校合〔きょうごう〕と申しましたが、字の彫り間違いや写し間違いを自分で二度も三度もチェックしていました。ですから馬琴は、かなり本文を大事にしていたということが良く分かります。いずれにせよ、右の方が自筆原稿でありまして、左の方が出板された本であります。

 (15)ですが、よくご覧になると違う所があるのがおわかりでしようか。本文は「花はさかりに月は」と同じです。ところが最初のタイトルが、『敵討誰也行燈』であったはずのが、『再栄花川讃〔かえりざきはなかわものがたり〕』というように変えられています。「かへりざき」の「か」の字の一寸上のところの匡郭が切れているのがご覧いただけるでしょうか。1ミリくらいですが。つまりこれ、板木を削ってそこに木を埋め込んで彫り直してあるのです。こういうのを象嵌、または埋木と呼びます。つまりこの『敵討誰也行燈』は、初板の板元が板木を別な板元に売ってしまったために、別の板元は題名の部分を変えて作り直したのです。

 題名を変えるということは、まぁ良いとしましょう。それだけではないのです。左の方をご覧いただきたいのですが、(18)'、これは下巻のある箇所の見開きなのですが、良く上と下とを比べてみて下さい。本来は見開で繋がっている丁を分けて、本文を途中で切り、さらに下の段で「花川巻之三終」、そして「再栄花川譚巻之四」というように、内題といいますが、タイトルに埋木をして直しています。つまり、本来は上下二巻だったのを無理矢理、四巻に分冊してしまったのです。何故このようなことが行われるかといいますと、貸本屋というのは一冊いくらで貸しているのです。ですから二冊貸すよりは、それを無理やり四冊にしてしまえば、見料、つまりレンタル料金は倍稼げるというので、まことにあざとい所行なのです。

 板元の利害と貸本屋の利害が一致していますから、作者の手の届かないところにいきますと、斯様なことが平気で行われるのです。ですから馬琴はこういうことを知ると怒るのですが、怒っても、当時の作者には何の権利もございませんから、怒るだけであって、仕方がないということになるのです。

 というわけですから、板本として実際彫られて印刷されたものは全て同じではないかとお思いかもしれませんが、摺りによる違い、初板、再板という板による違いや、あるいはこのように一部改竄されてしまった本などが沢山ございます。やはり写本ほど大変ではないにしても、板本というのは決して安定したテキストとして見なすわけにはいかないのです。

 『八犬伝』の場合にはここまでひどい例はありませんが、ただ八輯の巻の編成を途中で変えています。いずれにせよ、板元の都合で後から改変されてしまったという、一つの例であります。

 四ページへ参りましょう。こちらは読本ではなくて、草双紙(合巻)と呼んでいますが、全丁に絵があって、空いたところに平仮名ばかりで本文を埋めていくという、読本よりは少し易しいというか軽い読み物です。これは、個人でも買えるような値段でした。先程ご覧に入れた、中本サイズのものです。これもやはり馬琴は沢山書いています。

 下の段の(18)というのが馬琴の自筆原稿です。何といいましようか、下手上手とでもいいましょうか、味があるといいましょうか、かわいい絵ですよね。それに対して左側(20)が、画工が清書したものです。よく見ると、少し違います。まったく馬琴の書いた指定の通り清書しているのではなく、若干アレンジをしています。でも大体レイアウトは同じです。ですからこの程度の変更は、画工、浮世絵師たちに任されていたものと思われます。ただし、馬琴と北斎との間には色々と逸話がありまして、馬琴が右側に書いた人物を北斎に書かせると必ず左側にもってくるので、馬琴は仕様がないから、最初から右にもっていきたい人物は左に書いておくのだ等ということをいっています。そういう画工との駆け引きもありました。いずれにせよ、絵そのものは作者の支配下にあったということが、これでお分かりいただけると思います。これは草双紙の例でありますが、読本の場合も同様です。

 右上をご覧いただきたいのですが、これは一寸と面白い資料でありまして、文政元年に出た『宝船黄金[木危]〔たからぶねこがねのほぼしら〕』という草双紙の一図であります。お手数ですが、もう一つお配りしたレジュメに翻刻して注を付しておきましたので、一緒にご覧下さい。この絵の真中に火鉢に手を掛けてぬくぬくしているのが板元です。顔が小判になっております。その小判に商標〔トレードマーク〕が付いていまして、この板元が和泉屋市兵衛であることが分かります。その右側で思案ありげに机に肘を突いているのが作者です。それから、左の方で何か一所懸命描いているのが画工であります。右の下にいるのが板下に清書する筆耕で、左の方は板木を彫っている板木師。板木師は目が悪くなるのか眼鏡を掛けていることが多いようです。

 この図から、江戸時代の大衆小説が、決して作者を中心にして作られていないということが一目瞭然になると思います。板元が全体をプロデュースしているのです。本作りをしている中で、ストーリーテラーとしての作者がおり、それは画工、彫師、摺師と同様に、単に一部門に過ぎないということを非常に端的に表現しています。

 絵の説明として「金銀のために使はれて人々身を苦しめる所の画組み」とあります。「画組み」というのはレイアウトです。なお、レジュメの翻刻の右下に番号があるものは、注を付けておきましたのでご覧いただければと存じます。で、板元は「皆が精を出してさっさとやりなせへ。わしが此処に控えて居るから、猿が餅じゃ。遅いと板元も利あいが悪いから、自づから二年後へ廻りますぞ。何でも早いがお徳じゃお徳じゃ」といっていますが、江戸時代の出板というのは大半が正月に出されます。特にこの草双紙は正月の景物という伝統がありますので、正月に出板されないと途端に売れなくなってしまう。ですから、板元は出板を大変に急ぎます。当然仕込みといって、準備は夏頃から始まります。それで正月に間に合うように出板をする。ぐずぐずしていて正月を過ぎてしまって売り出すとさっぱり売れないから、そういう場合にはもう翌年回しにしてしまう。そうすると互いに損だよといっているのです。時代がだんだん下って参りまして天保くらいになりますと、一年の後半は何時でも売り出すようなことがあったみたいですが、少なくとも文化文政時代は原則として正月に向けて出板されていました。『八犬伝』も同様です。遅いと板元も利あいが悪いから自然と二年後に回るというのは、そういうことをいっているのです。

 次に作者が「先画組ハ当たり前の芝居がかかりにして」といっていますが、草双紙は「紙上歌舞伎」ともいわれたくらい演劇との関わりが強く、一般に歌舞伎の舞台を彷彿とさせるようなレイアウトが多かったのです。ですから、レイアウトは歌舞伎の舞台風にするといっているのです。その後、作者がストーリーについての思い付きを述べています。「白氏文に『古塚の狐妖として且老ひたり、化して婦人となる』といふ古事を挙げて、夫木集に『花を見る道の辺の古狐』の歌に合わせると、すっぱり信田妻の趣向が出る。奇妙奇妙」といっています。これは説明しないと何のことかお分かりにならないと思うのですが、「白氏文」というのは『白氏文集〔はくしもんじゅう〕』のことでありまして、この中に有名な「古塚の狐妖として且老ひたり、化して婦人となる」という部分があります。また『夫木集〔ふうぼくしゅう〕』というのは類題和歌集、つまり色々なテーマ別に歌を集めて編集した和歌集なのですが、狐の部分に「花を見る道の辺のふる狐、仮の色にや人迷ふらむ」という藤原為顕の歌が出ています。この二つを合わせて一つの趣向にしてしまうと「信田妻〔しのだづま〕」となるというのです。『信田妻』は、もとは「説教節〔せっきょうぶし〕」にあり、芝居では『蘆屋道満大内鑑〔あしやどうまんおおうちかがみ〕』というタイトルで有名ですが、通称『葛の葉〔くずのは〕』といいまして、信田の森の狐が女に化けて、安倍保名〔あべのやすな〕と結婚して、安倍清明〔あべのせいめい〕が生まれるという話でして、この狐が「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」という歌を残して古巣に帰ったという話なのですが、この話にうまく合うので「よし、これでいこう」というように、作品の構想を練っているところであります。

 これを読んでお分かりになると思うのですが、読本でも同様ですが特に草双紙の場合は、従来の様々な有名な話をどのように組み合わせて奇抜なものを作るかというのが一般的な作り方でした。歌舞伎でいう「世界」と「趣向」と同様で、どのような枠組みの中にどのような趣向を組み込んで作品を書こうかという、いわば順列組み合わせの世界で戯作が成り立っているのです。ただし、それは実はそう単純なことではなくて、結構知的な作業であるということも分かるのですが、ここでは狐という言葉で連想をしていった結果、ある構想が出来たということなのです。

 そうなりますと、草双紙の読者が『白氏文集』や『夫木集』という書名を見て、どの程度分かったのかということも知りたいのですが、まぁ、精確に分からなくても、何かそういう典拠があるのだという程度には分かったのでしょう。ですから、現在の我々は、一々出典を探さなければ分からないような情けない話なのですが、当時の読者たちも全員が全員、すんなり分かったというほど知的レベルは高くなかったと思います。しかし、有名な話でしたから、知っている人も多かったに違いないと思います。

 というわけで、本当はこの資料だけでも詳しく見ていくと結構面白いのですが、今日は飛ばしまして、板木師の方に行きます。板木師は、このようにいっています。「此一丁ハとんだくどひにハおそれる」。「おそれる」というのは「参ったなぁ」ということです。「ヲツトこいつァ濁りの仮名だろう。煩〔うるさ〕くあるやつだ」。つまり彫師にとって、草双紙の平仮名の濁点というのは非常に細かいですから、彫るのが大変なのです。その後はもっと凄いのです。「石坂に雨降り」。石の坂というのは点々で表します。その点々のところに細い雨が降っている場面は彫るのがすごく大変ですよね。それから「引きざやの御簾〔みす〕に罫書〔けがき〕の松」。「御簾」も細い線が横に細かく並んでいますから、彫るのが大変です。それから「罫書の松」は松の葉っぱです。これも彫るのが大変だというので、「板木師殺しだ」といっているのです。結局は「何でも早く上げて又後を受け取らねばならぬ」という次第になるのです。残りは後で読んで頂きたいのですが、画工も板摺も筆工も、それぞれ色々と面白いことをいっています。

 さて、この草双紙の一節は、いわゆる「メイキング・オブ・ザ草双紙」、草双紙を作る過程の楽屋落ちを趣向にしています。今でもテレビドラマなどで、よくNG集や、収録をする場面などの特別番組がありますが、それと同じように、一種の読者向けのサービスでありまして、かなり誇張されているとは思いますが、まぁ大体はこのような分業体制で作られていたということが良く分かる資料です。ただ、これはたった一丁だけの趣向なのですが、実はこの草双紙の出来るまでのすべてを趣向とした黄表紙があります。九枚目を見て下さい。時代的には大分さかのぼりますが、享和二年。享和元年が一八○一年ですから、享和二年は一八○二年、一九世紀の最初ということになります。これは『的中地本間屋〔あたりやしたじほんといや〕』という、十返舎一九の黄表紙でありまして、全編が草双紙の出来るまでを趣向にしたものです。

 これも全部を読んでいる時間がありませんので、ざっと見ていきます。Aの場面が「板木師」であります。板木師が板木を彫っているところです。一番右の手前の人が、向こうから手前に小刀を使っているのがご覧頂けると思います。これは嘗て小学校などでは、彫刻刀を使う時に危ないからやってはいけないという方法だったと思いますが、何故この様なことをしているかというと、あちらこちらの方向から刀を入れると摺る時に紙に引っ掛かって破れてしまうという合理的な理由があるようです。ですから、板木を回して彫り易い方向から彫るというということを、職人はしなかったようです。いずれにせよ、ここでは三人の職人が一所懸命に板木を彫っているところです。外に「朱肉、青肉、色々」と書いた看板が出ていますから、どうも判子も彫っていたらしいということも分かります。板木屋は、判子や本やチラシなどを彫っていた、町の印刷業者だったのです。

 次、Bの方に参ります。今度は「摺師」です。板木が出来るとそれを摺るのですが、これもなかなか興味深い。「ばれん」というもので、板木に墨を塗って、それに紙を載せて擦るのですが、手前が持ち上がった台に乗せて作業をしているのがお分かりになるでしょう。これは、畳の上に座って作業をしていますから、作業がしやすいように工夫をしたのです。摺師というのが、やはり一つの職人として分業されていたことがわかります。

 それから左の方のCに行きます。「丁合〔ちょうあい〕」といいますが、ソーティングです。要するに、摺られたページを折ってページ順に揃える作業であります。左の方で少年が、折床と呼ばれている三角の枕のような所に紙を押し付けて折っています。右の方では、それをページ順に並べて、一枚ずつ取っていく作業をしています。

 その次に、下の方Dですが「化粧裁ち」と書いておきました。つまり、はみ出した天地と背をカットして揃えるのです。その左は今、直接関係ないので飛ばします。一○ページに参りまして、今度は「表紙掛け」。表紙というのが、先ほどご覧頂いたように錦絵風のものですから、本文の紙よりはやや厚い紙に摺ってあります。これをへらで折り目を付けて、内側にたたみ込んで貼り込むのです。ここでは子どもが作業をしています。

 その下Gに参りますと、今度はそれを糸で綴じています。女の人たちが行燈のそばで縫っています。この辺は職人ではなくて、板元の家内での作業といいますか、内職作業であったのだろうと思われます。

 いよいよこれで本が出来ますとHです。「糶売り」といいまして、背中に背負って草双紙屋に卸して歩きつつ行商をするのです。

 一方、草双紙屋の店先はどうなっているかというと、一番下のT、板元の村田屋の店先です。正月になりますと看板といいますが、出た本のタイトルや作者名を書いた紙をぶら下げまして、買いにくる人々に売っています。ここは一寸と面白いので読んでみますと、「沢山に仕込んだる草紙、皆な売り切れてしまい、買い手をも待たしておいて、綴ぢるやら仕立てるやら大騒ぎ。買い手も急き込んできて『さっきから待っているに早く下せへ』『いやまだ綴ぢませぬ』というに『綴ぢるはこっちで綴ぢよふから、そのままで下され』」という具合にお客さんは買っていく。そうするとまた別のお客が「これ、此方へはどふして下さる」というと、店の者が「今摺っております」という、するとお客が「いやいや摺らずとよふござる、そのままで下せへ」というのが落ちです。摺らないで買って行っても読めないわけですからね(笑)。まぁ、このような形で本が出板され、正月に売り出されたということが良く分かる資料だと思います。なお、もしご興味がおありでしたら、この『的中地本間屋』は翻刻されて解説付きで出板されていますので、図書館ででもご覧になれると思います。

 さて、だんだん時間がなくなって参りましたので、少し先へ急ぎたいと思います。いよいよ『八犬伝』の話になるのですが、今までお話し申し上げたような出板システムの中で『八犬伝』は作られ、そして売られていたということがお分かり頂けたかと思うのですが、では、馬琴の場合について見ていきましょう。

 レジュメの三枚目。これは馬琴の『八犬伝』第四輯の口絵の自筆原稿(22)です。それが出来たものが左側の(22)'です。有名な「芳流閣の戦い」という、信乃と現八が滸我の城の上で争う場面であります。この場面、右と左をよくご覧いただき比べていただきたいのですが、馬琴の後方に「カモメ」と書いた鳥を描いてあるのが、きちんと左の方に三羽描かれています。面白いことに現八と信乃の位置が入れ替わっています。それから、左の方に文五兵衛が出ていますが、ちょうど袖のところに、馬琴が「老人ひとがらよく」という指示を書いております。ですから、人柄の良い老人を描いて欲しいというように馬琴が指示をして、それを受けて重信が左のように絵を描いているのです。注意していただきたいのは飾り枠、絵の周りの枠の部分。これも馬琴がデザインして、画工はその通り作っています。ですから、かなり絵そのものについても、作者が注文を付け責任を持っているということが、お分かりになるだろうと思います。

 右(20)の『合類大節用集〔ごうるいだいせつようしゅう〕』は、既にどなたかお話しになったかもしれませんが、里見八犬士というのは、歴史上、名前しか残っていない人たちでした。それが『合類大節用集』という辞書に、丁度真ん中の部分に「犬山道節・犬塚信濃・犬田豊後・犬坂上野・犬飼源八・犬川荘助・犬江新兵衛・犬村大学」とありますが、このように名前だけが記されておりまして、馬琴はこれを見て『八犬伝』の構想、主人公八人の名前を決めたのです。今日は中身についてあまり触れられないので、これ以上は省略します。

 その下に『八犬伝』全一○六冊の写真を出しました。これは明治大学の、まあ良い本です。これは実際積み上げると、八○センチ程の二山ができる量です。この複製本が一○六冊分ですから、かなりの量になります。

 それと左の方は『八犬伝』の九輯巻の四六の自筆稿本です。これは大変有名なものでありますが、右側が目のほとんど見えなくなってしまった馬琴が書いたところで、書くのをあきらめた場所であります。左側はお路が口述筆記を開始した部分です。この件については、もう多分先回お話しいただいたと思いますが、伝説があります。漢字を知らないお路に、馬琴が一字一字の偏旁を教えながら書き綴ったという伝説ですが、それは嘘であることが一目ご覧になればお分かりになるかと思います。馬琴よりしっかりした字をお路は書いています。土岐村元立という医者の娘でありますし、お路という女がいかに有能な、優秀な人であったかということが、一目で分かります。どうも文学史の中で伝説化したことというのは、かなり怪しいことが沢山あります。

 馬琴自身が「回外剰筆」という後書きに、結構オーバーに、お路に字を教えながら執筆した苦労を書いているので、それが一人歩きしたのですが、このように一目ご覧になると、誇張であるということがお分かり頂けるだろうと思います。

 今度は馬琴のことについて一寸だけ触れておきます。七枚目参ります。これは現在残っている肖像の中で有名な二つであります。(26)が『戯作者考補遺』という本に国貞が描いた馬琴の肖像です。左下(29)は、『八犬伝』の最後の「回外剰筆」に出ている絵ですが、同じ国貞が描いたということでイメージは似ていますね。一寸と怖そうなので、会いたくないですね(笑)。(27)は、現在、文京区の深光寺にある馬琴の墓です。左上(28)は天理図書館に収められている文政一○年の馬琴の日記です。その一部分の翻刻を出しておきましたので、これを読んでみたいと思います。馬琴の作家生活というのはどういったものだったかということを垣間見ることができます。ただし、この日記というのは、今われわれがイメージする日記と大分違いまして、個人の想いを記録したものではなくて、滝沢家の出来事の記録、あるいは馬琴の仕事の記録とお考えいただければ良いと思います。

 面白いことに、まず天気が書いてあります。文政一○年の二月二日からですが、「昨夜より暁まで雨、暁方より風、天明より雨止む、五時過ぎより折々小雨、昼後より小雨間断無く、夜中同断」。細かいですね。全部覚えて書いているのです。「今日閑寂。五要奇書の内、郭氏元経披閲、消日し了ぬ。」「宗伯同断、循環暦一・二巻、披閲」、宗伯というのは息子です。この日は暇だったので、本を読んでいたということが書いてあります。

 「三日」、天気は省略します。「一つ、端午のかけ物画稿あやめ兜の図、之を画く。昼時、稿し了ル」。これは配り物か何かでしょうか。絵の原稿を頼まれていたので、端午の節句に掛ける「あやめ兜」の絵を描いたのです。それから「昼時過ぎ、ミのや甚三郎来ル」。これは美濃甚という『八犬伝』の板元です。「八犬伝六編五ノ下の内、十五丁メ・廿丁メ三番直し」、つまり、三校目です。校正の三度目。「四ばん直しすり本」、四校まで取ったのですね。「并びに、看板すり本校合、持参」。看板というのは、本屋の店先に張る垂れ幕のようなものです。これの校正までしているのです。「即刻、雌黄を施し、校合いたし遣ス。但、看板の内、第の字直し之れ有る処見おとし、其の義に及ばず。甚三郎、例の長談、八半時ころ帰去す」。板元が校正を馬琴のところに持ってきて、それを見てやって、世間話をして帰ったということが書いてあります。「夕方より、郭氏元経披閲。夜四時過ぎ、就寝。」「昼後、清右衛門来ル」。これは娘婿です。「一昨日中やにてかひ取り候唐紙持参。借用の合羽等、之を遣わす」。娘婿に紙を買ってきてもらったのです。それを持ってきて、借りた合羽等を返した。その次に、「宗伯、神女湯〔しんにょとう〕製薬少々、今日より之を剤す」。とありますが、この「神女湯」というのは馬琴が売っていた薬です。当時の戯作者は、戯作だけではなくて薬を売ったり、京伝などは煙草屋をやったりしていました。自分の出板する本の中に、自分の家で作っている、三馬ですと化粧品ですが、そういうものの広告を載せて売り上げを延ばしていたのです。この宗伯というのは医者なのですが、彼が「神女湯」を製剤したということが書いてあります。

 四日になりますと、「昼前、ミのや甚三郎より、使いヲ以って、八犬伝六編五ノ下の内、十五丁メ・廿丁め再四直しすり本、来ル。即刻校合いたし、并びに、看板校合すり本の内、第の字ほりちがへ直し、之を遣わす。其の後、八半時ころ、右直し出来、甚三郎持参。是にて校合残らず相済み候旨申し聞かす、すり本ハとめおく。例の長談、薄暮帰去す。」「昼前、清右衛門来ル。去ル朔日申付け候きせるらをすげさせ、持参。其の後、早々帰去す。夕方、地主杉浦老母来ル。雑談の後、帰去す。右挨拶の為、夜に入り、宗伯、杉浦方へ罷越し、五時帰宅す。」とあります。その次が面白いのです。「つるや喜右衛門方より」、これは長い間付き合っている板元です。「大坂河内や太介年始状届来ル。上封じ其の外共、元飯田町滝沢清右衛門様と宛名之れ有り。清右衛門方へ年始状受くべきいハれなし。代筆の者の心得違へなるべし。彼方の行届かざる事、万事かくの如し」。上方の古くから付き合っている板元である河内屋太介が、年賀状を書いて鶴屋喜右衛門に言付けたのです。ところが、その宛名書きに「滝沢清右衛門様」と書いてあるというのです。この当時、清右衛門という滝沢家の名跡は娘婿に譲っていまして、馬琴自身は篁民〔こうみん〕と名乗って隠居していました。ですから、このような事情も知らずに、娘婿の方に年賀状を出す理由がない。大坂方の不行き届きというのは何時もこのようだと書いているのです。

 このことも是非とも申し上げたかったことなのですが、「滝沢馬琴」といういい方は間違いです。馬琴自身も、「滝沢馬琴」と名乗ったことはありません。これは明治以降、夏目漱石の如く、姓とペンネームを続けていう習慣に成った中で出来てしまった呼び方でありまして、こういうことにうるさい馬琴が、「滝沢馬琴」などといったら多分気を悪くするに違いないのです。やはり作者名で言うときには「曲亭馬琴」、あるいは「著作堂〔ちょさどう〕馬琴」というべきです。その人本人を指すのであれば、滝沢解〔とく〕か滝沢輿邦〔おきくに〕等と、名前で呼ぶのが良いだろうと思います。これは学校の教科書が間違っていて、それがそのまま通用しているので、我々が抗弁してもなかなか変わらないのですが、是非、お知りおき頂きたいと思います。

 さて、このような具合に日々の生活の中で本を読み、そして校正をし、そして執筆をし、隣の大家との付き合いがあったり、板元との付き合いがあったりというのが、当時の売れっ子であった馬琴の作家としての生活の実態でした。にもかかわらず馬琴は、原稿料として、一遍、原稿を渡した時にお金を貰うと、売れようと売れまいと、一切馬琴のところについては現金の収入はなかったのです。ですから、馬琴は不本意ながらも、お金のために仕方がないと、原稿料が高く執筆が楽な草双紙の方を沢山手掛けています。それも当然のことでして、草双紙はその年に大量に売られてそれでおしまいという性質のものですから、当然薄利多売の方が、何年もかかってやっと元が取れる読本などに比べれば、板元にとっては有難いのです。ですから馬琴は草双紙をあまり書きたくないのですが、飯を喰うためには仕方がないということで、生涯これを書き続けていくのです。馬琴の伝記についてはまた別の機会があるでしょうから、この辺にしておきます。

 その次の八枚目の地図は、かつて学生が作ったもので、なかなか良く出来ているので使わせて貰っているのですが、右の方が発端部の最初の結城から三浦、そして白浜に至る部分。それから左の「其二」は、それから後、冨山の箇所までで、一寸見にくいのですが、一から順番に、発生した事件と場所が書いてある地図でして、実際にお読みになる時にご参考にして頂ければと思います。

 さて、今日のお話はこの辺で終わりにさせて頂きますが、実は『八犬伝』というのは、『八犬伝』そのものではない形で大変沢山流布しています。『八犬伝』の仮名版である草双紙や『八犬伝』の絵本など、オリジナルのテキスト以外で沢山読まれました。そのうちの幾つか持って参りましたので、今、実物投影機でご覧に入れましょう。

 先程は遠くてご覧になれなかった方もいらっしゃると思いますが、これが『八犬伝』の原装丁です。表紙の裏側見返しにある犬のデザインは馬琴が指定をしたものです。次が序文ですが、何故漢文の序が付いているのでしょうか。一寸とお考え頂きたいのですが、現代小説に序文が付いていることは、まずありません。まして漢文で書かれた序文などということは、ありえない。ところが江戸時代の戯作や大衆小説というのは、中国書籍の伝統を頑なに守っているのです。明治初期も同様ですが、序文が付いているのが普通です。それも漢文で書いた序文が付いていることが良くあるのです。おそらく、多くの人は読み飛ばしたものと思われます。

 次に口絵・目録があって本文が始まる。だいたい一冊に付き二図程の挿絵が入っています。挿絵は、このように描き込まれたものでありまして、『八犬伝』を鑑賞する上で、挿絵の位置というのは決して小さくありません。

 これは自筆稿本です。もちろん複製品ですが、先ほどご覧に入れたように見返しの馬琴の原稿であります。同様に、口絵挿絵などにも自分で下絵を描いているのです。

 それからこれが先程ご覧に入れた『八犬伝』の仮名版、草双紙『仮名読八犬伝』の六編表紙です。上下二冊でして、二つ繋げると一つの絵に成るように作られています。なかなかきれいなものです。これは江戸時代に刷られた現物です。

 こちらは、明治に出た『八犬伝』のダイジェスト銅版画絵本です。表紙は合巻風なのですが、中は全部エッチングで描かれています。もちろん、これは名場面集にしか過ぎないのですが、銅版で印刷された『八犬伝』のダイジェスト絵本などが、明治になりますと大量に出されます。一般に板木から活版へといわれていますが、その間に、銅版というのも一時期大変盛んに出されたものの一つです。

 さて、この八犬伝の板本の刊記には「明治三○年七月」、発行所は「博文館」と書いてありますが、実はこれは板木で摺られた『八犬伝』のおそらく一番新しいものです。これが最後だったのです。明治三○年と申しますのは、もう既に活字本の八犬伝がたくさん出た後なのです。豪華版という位置付けだったと考えています。また、板本が摺られたということは、板本を読める人がまだ沢山いたということです。

 一方、ご覧頂いているのは活版で刷られた『八犬伝』です。口絵などは木版です。これは明治一六年の刊行ですが、このような活字版と木板の折衷本も明治一○年代半ばから沢山出ています。

 あと、これもやはり『八犬伝』のダイジェスト版の草双紙の一つです。『国書総目録』にも採られてないようですが、おそらく全部集めきるのが不可能なほど多くの種類の『八犬伝』のダイジェストが出板されていたに違いないのです。従って、斯様な草双紙を通して『八犬伝』を読んでいた人も大勢いたのだろうと思います。

 すみません、あまり時間がなくじっくりとお見せできませんでしたが、このような本が沢山出ていたということをご紹介したかったのです。蛇足ですが、今夜、角川映画の「八犬伝」があるそうなので、だいぶ『八犬伝』とは違いますが、そういう形も一つの流布の仕方かなと思います。
 どうも、ご静聴ありがとうございました。(拍手)


【司会】ありがとうございました。
 今日、先生のご講演を通じまして、『八犬伝』を巡る当時の江戸時代の出板事情をはじめ、当時の板元と作家との関係もおわかりいただけたと思います。
 私にとっては非常に印象深いのは、流れ作業、出板に関してそれぞれ摺師と作家と、それから絵師が、それぞれ分業でやって、最後に一つの作品が出来上がると。これは、現在のアツセンブリッジっていうか、日本の技術の特徴の一つの中で脈々と伝わって、現在でも生きているという、文化がやはり奥深いなと思っております。
 それでは質疑応答に入りたいんですけれども、皆さんの方から何かご質問、ご感想なり、ございましたら、どうぞ。挙手でお願いします。

【質問者A】当時、文化文政時代っていうのは、いくらくらいでこういう本は売られたんですか。あと、出板規模っていうのは、何千部とか何万部とか、どのくらい出たものなんですか。

【高木】正確なところは良く分からないのですが‥‥。先程、少し申し上げましたが、『八犬伝』は今の値段でいえば五冊で一○万円くらい。個人が気軽に買えるようなものではなかったと思います。
 部数の方は、多分、出板当初に摺った時に数百部、売り切れてからまた何部というような摺られ方をしますから、正確には良く分からないのです。しかし、貸本屋が主たるお得意さんですから、その数から考えて、どんな多くても六○○くらいだと思います。ただ、その後だんだん増摺りされていったとしても、せいぜい一○○○部くらいだったと思います。ただし、二○年、三○年、四○年と、ずっと摺り続けられるのですから、今に至るまでに、板木から何部摺られたかということは、一寸と想像ができません。当時、草双紙の方が売れて一万部、読本の方は、売れても一○○○部程であろうというのが、今のところの専門家の予想です。

【司会】ありがとうございます。また、ほかの方。

【質問者B】大変つまんない質問で、当時の江戸の人たちっていうのは、どうしてこういう本を読む、勉強はどこでしていたのか、どの程度の人が読めたのか、当時の江戸の人口っていうのはどのくらいあったのか、もしおわかりでしたら。

【高木】あまり実態論的なことは良く知らないのですが、まず一つは、我々が予想する以上に字を読めた人は多く、平仮名ならば殆どの人が読めたのであろうと思います。例えば熊さん八さんが字を読めなくて隠居に読んで貰うというような落語がありますが、何故文盲の人がキャラクタとして面白かったのでしょうか。もし、大勢が字を読めなければ、それ程面白い話ではなかった筈です。字が読めないことが一種の笑いの対象と成っていたのですから、そう考えますと、平仮名はほとんどの人が読めたものと想像されます。
 また、寺子屋が普及していましたし、往来物といいまして、自分の商売に必要な種類の文章を練習するための教科書等が沢山流布していましたので、少なくとも平仮名に関しては、予想する以上の人が普通に読めたのだろうと思います。ちなみに、『八犬伝』は総振仮名です。読本は男の読み物だといわれていますが、女の人達も振り仮名があれば十分読めた筈です。
 人口については、江戸は一○○万都市であったといわれていますが、それは時代と共に変わったのだろうと思います。
 結論的にいえば、『八犬伝』というのは、予想以上の人たちが読もうと思えば読めたレベルの本であったのだろうと思います。江戸の人達が、ほかに楽しみがなかったかどうかは分かりませんが、やはりかなりの人たちが、本を読むということを楽しんでいたと思います。

【司会】ありがとうございます。こちらの方、お願いします。

【質問者C】正岡子規っていう人が『八犬伝』大好き人間で、明治の一八年から二一年くらいの間、『八犬伝』のことを詳しく書いておりますけれども、一番好きなところは富山の段、最初の方で、好きだっていうんで私も一寸とそこのページだけ読んでみましたら、非常に七五調で、調子がいいんですよね。
 今、先生のプリントの最後の方を見ましたら、音読を意識した文体であると。確かにあれは声に出すことはできても、私なんか中身まで、あるいは肝心の意味までとても理解できないんですけれども、非常に調子がいいということがわかって、美しい世界にひたれるんだなあということがわかったんですけれども。
 昔の、当時の人たち、音読っていうことが、今そういう本が話題になっておりますけれども、目で追うこともあったと思いますし、音読もするような形で楽しんだということがあるのかなあということが一つと、それからもう一つ、「回外剰筆」の終わりの方に、馬琴の号が蓑笠っていうことが書いてありまして、自分はあまり人と会いたくないようなことが書いてあったんですが、私生活の上であんまり板元以外とは交際がなかったのかなあという、その二つを。

【高木】二つ目の方からですが、馬琴は非常に出無精でありまして、今、日記をご紹介しましたが、馬琴の、世間で起こっていることの情報はほとんどが板元の世間話からだと考えて、多分良いものと思います。ただし、何人かの愛読者グループという熱狂的なファンがいまして、この人たちとは長い手紙をやりとりしていますので、大坂や伊勢などの情報は、彼等からも入っていました。それから、有名なことですが、『北越雪譜』を書いた鈴木牧之という越後の人とも親交がありましたから、そういう地方の人たちとは手紙の遣り取りで、江戸の町中に関しては多分板元等の噂さに拠ってというのが大部分のニュースソースであったと思っています。
 一番目の問題は、前田愛という、亡くなってしまった偉い先生がいらっしゃるのですが、「音読から黙読へ」と、近世の人たちが音読していたものが、近代になって活字文化になると黙読をするように成ったという、とても興味深い論文をお書きになっているのですが、一寸と懐疑的です。
 つまり、今おっしゃったように音読をする場合も勿論あったでしよう。ただ、読む時に必ず声を出したとは限らないと思います。ただ明治生まれの祖母が新聞を一々声を出しながら読んでいたのを見た経験がありますから、特に草双紙の様に平仮名ばかりのものは、我々でも声出して読まないと、何処で切れるか分からなかったりするもので、理解をするために声を出すということはあったであろうと思います。
 ただし『八犬伝』は、原文をお読みになるとお分かりになる通り、漢字の語彙、難しい近世中国語の漢語に日本語の意味を振っていきます。これを音に出すと、振り仮名の方しか伝えられないわけです。つまり意味の世界しかない。ところが『八犬伝』の表現というのは、中国的な漢字熟語の違和感(異国感)に和語が合わさった、いわばパラフレーズといいますか、二重の表現の面白さがあります。場合には拠っては、左側にさらに片仮名で注が付いていたりすることすらあるのです。ですから、本文を目で追って読むという行為は、テキストを複線的に読めるのです。ところが声に出してしまうと、意味だけの部分に成ってしまうのではないかと思います。ですから前田愛さんの説は非常に刺激的ですが、全てがすべて音読していたとはいい切れないのではないかと思っています。

【司会】ありがとうございました。まだまだ質問は多いと思うのですが、交通事情等もございますので、今日はこの辺で終わらせていただきます。
 最後一つ付け加えさせていただきますと、先生の仕事は研究だけではなく、江戸の文献を活字化するっていう仕事もずいぶん手がけていらっしっやって、外でディスプレイされてるものもありまして、これから図書館等を通じて、皆さんにお読みいただけたらと思います。
 あと先生は、放送大学の方でも講演をされてます。七月に放送されると思いますんで、そのときにまたラジオを通じて勉強していただければ幸いです。来週、また同じ時間に第四回をやります。ぜひお越しいただければ幸いに存じます。(拍手)
【三木】一つだけちょっと訂正をさせていただきたいんですけれども、今日、角川映画の「里見八犬伝」があるということを先生がおっしゃったけども、私のお話ししたことの誤解に基づく情報ですので、謹んで訂正させていただきます。今日の三時から五時半まで、一八一チャンネルっていう、いわゆるデジタルテレビ、一般の地上波のテレビではご覧いただけない特殊な番組で、ちょうどこの時間、今ごろやってる、今始まったところかな、ちょうど今日のお話にはり合うような形で。朝、新聞買いましたらそういうことを気が付いたもんですから、お昼にお話ししたら、ちょっと先生取り違えて。皆さんがもし期待されて、今晩テレビをいくらひねっても出てきませんので、どうぞ誤解のないように、よろしくお願いいたします。それだけ訂正させていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)



# 「出板文化史の中の八犬伝 −「作家」の成立−」
# 城西国際大学日本研究センター公開講座 (2004.02.14)
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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