「八犬伝」を読む−文学史上の位置づけ
高 木  元 


 みなさん、こんにちは。今日は「八犬伝」、精確には『南総里見八犬伝』と云いますが、このテキストをめぐる問題、とりわけ文学史における問題についてお話しいたしましょう。

 『八犬伝』は、近世文学において最も格調の高かった読本(よみほん)と呼ばれる本格的な小説ジャンルを代表する長編史伝物の最高傑作です。我が国の小説史上の雄編で全九輯九十八巻百六冊にも乃びます。

 作者は一般に「滝沢馬琴」と誤った呼びかたで伝えられていますが、馬琴という人は自らの著作物に署名する時に「滝沢」と云う本姓を使うことは決してありませんでした。ですから、作者としては原本にあるように「曲亭馬琴」という戯号で呼ぶべきです。ちなみに「曲亭」の「曲」は作曲の「曲」、「亭」は亭主の「亭」と書きます。

 たとえば、式亭三馬のことを「菊池三馬」とは呼ばないし、十返舎一九のことを「重田一九」とは呼ばないのと同じことで、本姓プラス戯号である「滝沢馬琴」という呼び方は正しくないのです。おそらく、日記や手紙を膨大に書き残したこともあり、本名「滝沢興邦(おきくに)・解(とく)」という人物に注目が集まって伝記研究が先行したという事情と、明治期の作家達が「夏目漱石」と云うように本姓プラス戯号と云う使い方をした影響だと推測されます。

 それにしても、いまだに教科書や副読本などに「滝沢馬琴」と記す不見識なものが存在しており、はなはだ困ったことだと思います。一見、些細な問題のようですが、特別に人称についてはうるさかった馬琴のことですから、草葉の陰から憤懣やるかたなくしていることと思います。

 さて「八犬伝」は、その曲亭馬琴に拠って、文化十一(一八一四)年正月から天保十二(一八四一)年八月まで、ということは四十八歳から七十五歳に至るまでですが、その二十八年間の長きに渉って断続的に執筆されました。生涯の苦楽を尽くしたライフワークといってもいいでしょう。その道程では、板元が二度変わり、最愛の息子「宗伯」に先立たれ、自らも失明してしまい、妻にも先立たれます。最後は、亡き宗伯の妻である「お路」の口述筆記によって、やっと完結に至ったという逸話は、どこかでお聞きになったことがあるでしょう。

 おそらく、みなさん方の大部分が、この『八犬伝』というタイトルと里見家にゆかりを持つ「犬」を姓に持つ八人の犬士達が大活躍するという概略はご存知だと思われますが、実際に原文で読み通された方は、どれほどいらっしゃるでしょうか。テキストは、岩波文庫に全十冊で収められていますので比較的入手しやすいのですが、実際に手にされた方でも、全十冊を読破するには大変な時間と労力が必要ですので、前半の列伝部までで頓挫されてしまった方が多いのではないでしょうか。

 かつて、馬琴が「読まれざる文豪」と呼ばれたことがあります。近年になって数少ないテキストではありますが『近世説美少年録』が小学館の「新編日本古典全集」三冊に収められ、『開巻驚奇侠客伝』が岩波書店の「新日本古典文学大系」に収められるなど、注釈付きの精確な本文が挿絵付きで出版されました。しかし、現在のところ「八犬伝」には注釈付きの完全なテキストはありません。「馬琴全集」の企画も聞きませんから、馬琴が「読まれていない」と云う状況は何一つ変わっていないのかもしれません。

 その一方で、原本テキスト以外のメディアを通じて、「八犬伝」をご存知の方も多いではないでしょうか。年配の方であれば、犬士の列伝風に語られた講談本や、しばしば上演された歌舞伎、または東映映画『里見八犬伝』第一〜三部(一九五九年)などを通じて、中年の方々の大部分は、石山透脚本一九七三〜一九七五年にNHKで放送された人形劇『新八犬伝』や、鎌田敏夫脚本の角川映画『里見八犬伝』でしょう。お若い方ですと、横内謙介による斬新な台本と市川猿之助演出主演のスーパー歌舞伎『八犬伝』(新橋演舞場、一九九三年初演)や、アニメの原作として出発したコミック版である碧也ぴんく『八犬伝』全十五巻(角川書店、一九八九〜二〇〇二年)などが多いかもしれません。この他にも子ども向きから大人向きまで、実に数多くのダイジェストが出版されていますし、影響作というかアナザーストーリーとしてのテキストも数多く出されています。

 ところが、この現象はとくに近現代に始まったことではありませんでした。既に、江戸時代においても、全ページ絵入りで平仮名ばかりで書かれた『仮名読八犬伝(かなよみはっけんでん)(三十一編、二代為永春水・曲亭琴童〈お路(みち)〉・仮名垣魯文、嘉永元〜明治元)や、『雪梅芳譚犬の草紙(せつばいほうだんいぬのそうし)(六十編、笠亭仙果抄録、嘉永元〜明十五)をはじめとする「草双紙」と呼ばれるメディアや、歌舞伎狂言に脚色された上演や、浄瑠璃本『花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつぶさ)』、常磐津正本『八犬義士誉勇猛(ほまれのいさおし)』や、俳書『狗児草』や狂歌本などがあり、さらに錦絵と呼ばれた浮世絵で、二代目国貞画「大錦絵・八犬伝犬廼草紙」全五十枚シリーズや、芳流閣などの名場面集があり、そのうえ、「八犬伝双六」なども出されていました。他にも、鈍亭魯文による切附本『英名八犬士』八編など数多くのダイジェストや、為永春水に手になる『貞操婦女八賢誌(ていそうおんなはっけんし)』などの作り替えものや、艶本化された『恋のやつふぢ』に至るまで、数多く出板されていました。そして、多くの人々がそれら原本以外のメディアを通じて「八犬伝」を享受してきました。ですから、単に「八犬伝」と云っても実に様々なバリエーションが存在し、それらを通じて現在に到るまで多くの人々に享受され続けてきたわけです。

 文学史を問題にする時には、このような享受の諸相に想いを馳せる必要があると思います。

 なお、八犬伝関連の資料の蒐集で有名なのが千葉県の館山市立博物館です。原本は勿論のこと、様々な関連資料の所蔵量では今のところ日本一ではないでしょうか。多数の資料が定期的に入れ替えられて常設展示されていますので、機会があれば足をお運びになると良いと思います。

 ここで、少し原本に関するお話をしたいと思います。

 江戸時代は出板が盛んになった時代として知られていますが、それは印刷技術の進歩だけではなく、商業の発達に見合った形で流通機構が整備された結果です。江戸時代の最初には、もっぱら寺などが自家用として本を印刷し供給していました。その後、不特定多数に向けて流通させることが可能になっため、書物に商品としての価値が生まれ、出板と云う業体が発展したのです。もちろん、リテラシィの向上に拠る読者層の拡大という要因も無視できないと思います。

 江戸時代も後半になると、江戸の地に於いて「地本」と呼ばれた「草双紙」や「錦絵」など安価な本は地本問屋の管轄となり、大量に出板販売されることになります。一方、以前から上方を中心に流通していた書物問屋の管轄する「物の本」には高価な書物が多く、貸本屋が流通の媒介を担ってきました。このような状況の中で、十九世紀に入ると、江戸の貸本屋が江戸読本という新たなジャンルのプロデュースを始めます。貸本屋は現在のアンテナショップのように、流通の最先端を敏感に知ることが出来る位置にありましたから、新たに流行性の商品としての「江戸読本」を企画プロデュースすることが容易にできたのです。

 例えば、鶴屋喜右衛門という板元が、当時の流行人気作家であった山東京伝と、新進気鋭の作家であった曲亭馬琴との読本を、まるで競わせるように相次いで出板し、江戸読本の流行を演出したことが分かっています。その際、特徴的なことは、従来、縹色(はなだいろ)無地に、題名を記した短冊形の紙を貼っただけの地味な体裁であった本に美しい意匠が凝らされ、色とりどりの装飾が加えられたということです。読者に対する本の「自己主張」と云っても差し支えないでしょう。これは、一人でも多くの人に、手に取って読んで貰いたいと云う、文字通り「商品」としての本ゆえに必要なデコレーションだったのです。「八犬伝」も輯毎に犬をあしらった意匠の美しい表紙が備わっています。

 余談ですが、今回のお話では画像資料が一切使えなかったのが残念です。具体的なモノについての話の場合は、視覚資料が大変な有効性を持つからです。以下、お話しする内容も言葉だけではうまく伝わらないかも知れませんが御容赦下さい。

 さて、本の出板に関する先行投資やプロデュースは、板元である貸本屋側の才覚で進められたのですが、実際の現場で本を作り上げたのは「作者」でした。その作業は、本文の記述だけではなく、挿絵の下絵、見返や目次のデザイン、板元の広告文にいたるまで、本の隅々まで、全て「作者」の指示で作られていったのです。このことは、現存している「稿本」と呼ばれる「自筆原稿」と、実際に出板された「板本」とを比較すれば、一目瞭然です。特に、馬琴の場合は細かくて、口絵の下書きに「老人ひとがらよく」などという画工に対する指示を、こまめに朱筆で加えています。

 ところで、『八犬伝』のように板木によって摺られた本のことを「板本」と呼んでいます。この板本が出板されるまでの手順を簡潔に紹介しておきます。作者の書いた原稿すなわち「稿本」は、仲間行事の検閲を経てから、「筆耕」と呼ばれる職人の手で清書されて板下となります。一方、「画稿」と呼ばれる下絵は浮世絵師が担当する画工に渡され、挿絵の板下が描かれます。この板下を桜の木で作られた「板木」に裏返して貼り付け、彫刻職人である「彫り師」が彫るわけです。できあがった板木は、摺り師の手に渡って摺られます。ここで「校合」いま云うところの校正が何回か行われたようです。作者の訂正が朱筆で入れられた、現存している「校合本」を見る限り、間違えの訂正だけで、所謂「推敲」が行われた形跡はありません。間違えた部分を削り取って入木し、「象眼」を施して訂正をしたのです。これが終わると、正式に摺りの作業に入り、摺られた紙は半分に折られて、表紙を付けて、糸綴じ製本されて、「袋」に入れられて売り出されるわけです。なお、この「袋」とは、毎輯ごとに何冊か(普通は五冊)を帯状に、海苔巻きのように巻いたもので、紙袋のようになっているわけではありません。

 このような按配ですから、出板とは云っても、いわば「家内制手工業」のような仕組みで生産されていたわけです。とりわけ、初摺りと呼ばれる最初のロットは板木も摩耗していなく、ことさら入念にこしらえられるため、手工芸美術品と云っても良い程に、それは美しいものでした。現在、この出板された当時の初摺本を彷彿とさせる程に刷りの状態も保存状態も良い本はめったにお目に掛かれませんが、八犬伝の場合は国立国会図書館に馬琴の手沢本が所蔵されており、この本は比較的ウブな状態を保ったものです。

 以上の説明でお分かり頂けると思いますが、「本」と云うものは単に本文が読めれば良いと云うモノではないのです。とりわけ『八犬伝』は、表紙の意匠から始まって文字も絵も含めて、板木によって摺られた板面の全てが読むべきテキストとして存在しているのです。ですから可能な限り早い刷りの、それも保存の良い原本で読みたいものですが、現実的には大変に難しいことです。岩波文庫本の『八犬伝』は、残念なことに、表紙も見返も刊記や広告も図版が入ってません。最近出版された新潮社版『南総里見八犬伝』は、大きな活字で読みやすく刊記や広告の翻刻も入っているのですが、残念ながら表紙の意匠が分かるカラー写真図版は入れられていません。

 この様に良い本にこだわるのは、単にマニアックな欲望からだけではありません。著作権の無い時代ですから、初板初摺本にしか作者の意図が直接反映しなかったと考えられるからなのです。また、当時の板元の賢しらで、後摺になってから摺り手間を省いて薄墨や艶墨板の使用が止められたり、場合によっては、分冊されたり、改題されたり、挿絵そのものが省かれてしまっている例すら見受けるのです。『八犬伝』の場合も、七輯巻五に折込まれていた「闘牛図」は早い段階で省かれていますし、七輯巻四の挿絵中に薄墨で入れられた浜路の亡霊は後摺本では埋木してつぶされています。したがって、初板初摺の状態の確認は、正しい読解のために是非とも必要な手続きであるといえましょう。

 ただ、その一方で、享受の問題を考えた場合、初板初摺本を手にして読んだ読者は非常に限られていたものと思われます。現在に至るまでで、一番ポピュラーで多くの読者が読んだテキストは、間違いなく新旧の岩波文庫版テキストだといえるからです。さらには先程お話しした通り、原本以外の「読者」は更に多いと予想されます。つまり、テキストの問題としては、最初の板本についてのみならず、後摺本や原本以外にも広い視野が必要であるということになります。

 この辺で八犬伝の内容に話題を移しましょう。

 八犬士の名前は『合類大節用集』という辞書の「巻十・数量門」に、「里見八犬士」として「犬山道節・犬塚信濃・犬田豊後・犬坂上野・犬飼源八・犬川荘助・犬江親兵衛」の名が挙げられています。しかし、八犬士の行跡にについては伝えるところがなかったので、里見氏の事跡を伝える『房総志料』や『里見軍記』などに拠って時代背景を考証して、その世界に野史として『八犬伝』を虚構したのです。

 物語の発端部は、所謂「伏姫物語」と呼ばれて、肇輯巻一第一回から二輯巻二第十四回まで、独立した物語を形作っています。簡単に要約してみましょう。

安房国の滝田城では、山下定包が主君・神余(じんよ)光弘を奇計をもって討って主家横領を謀り、主君の愛妾玉梓を妻として富貴歓楽をきわめていました。その定包を狙う忠臣金碗八郎は、嘉吉の乱に破れて安房の国に落ち延びた、里見義実に出会い、定包を滅ぼします。義実はひとたびは玉梓を許そうとしたのですが、金碗八郎の諫めで断罪します。しかし、玉梓は深く怨んで、里見と金碗に長く祟ることを口走って死にます。
その後、金碗八郎は故主神余(じんよ)対する義によって切腹しますが、一子金碗大輔を、義実が面倒見ることを約束します。義実はやがて妻を娶って一女伏姫と一男義成をもうけますが、伏姫は三歳になってもものが云えません。ある日、役行者の化身と思しき翁が姫を相し、仁義礼智忠信孝悌の八字を彫った水晶の数珠をお守りとして与えます。そののち、姫は美しく健やかに成長します。
そのころ近村の百姓の子犬が牝狸に育てられるという噂がありました。義実はその犬を召して八房と名付け、伏姫の愛玩犬とします。しばらく後、凶作で疲弊していた滝田城は、隣国の安西景連に攻め込まれ、落城寸前でした。義実は愛犬八房に向かって「敵将景連の首を持ってきたら娘をやる」と戯言(たわむれごと)を云います。ところが、八房は本当に景連の首を銜えて戻ってきてしまいます。動揺した敵陣に逆襲に出た義実は、大勝利をおさめ、結局、安房国四郡を統治下におさめて仁政をひきます。
その日以来、八房は只管伏姫を求めるようになります。怒った義実が八房を殺そうとすると、娘伏姫は「主君たる者は信義を果たさなければならない」と諫め、父の言葉を成就するために、冨山(とやま)へと、八房に伴われて行きます。数珠の文字は、何時しか「如是畜生発菩提心」と変わっていました。山中では、読経三昧の日々を送るのですが、妖犬八房の「物類相感」による気を受け、懐胎してしまいます。偶然訪ねてきた父と金碗大輔の前で、その身の潔白を証すために、自らの腹を裂きます。すると白気が立ちのぼり、「仁義礼智忠信孝悌」という文字に戻った八つの玉が飛散します。大輔はその場で剃髪し「ヽ大」の名乗って、飛び散った玉の行方を尋ねる旅に出るのでした。

 この玉が飛び散るという趣向は、有名な中国白話小説『水滸伝』発端部に拠るものです。しかし、ここで注意したいのは、義実の二度に及ぶ《失言》が『八犬伝』物語の発端部を動かす大きな契機として書かれている点です。一度は「許す」と云ったにも関わらず結局は討つことを命じたという《失言》は、「人の命をもてあそんだ」と玉梓の怨念を発動してしまいます。その結果、八房に伏姫が伴われると云うことになるのです。しかし、そのことが無ければ八犬士が生まれる契機となる八つの玉が飛び出すことにも成らなかったわけで、馬琴は良く「禍福は糾ふ縄の如し」(『史記』南越伝)、「人間万事塞翁が馬」(『淮南子』人間訓)、「福の倚る所、禍の伏する所(倚伏)」(『老子』五十八章)、「盈つれば虧くる」(『史記』蔡沢伝)などという故事を用いて繞り行く因果を言い表しています。

 そういえば、「名詮自性」と云うのも『八犬伝』の構想に深く関わる方法です。例えば「伏姫」の「伏」と云う字は人偏に犬と書きます。したがって、人間でありながら犬に従っていく運命だったと馬琴は説明するのです。同様に、「八房」と云う漢字を解体すると(ちょっと苦しいのですが)「一つの尸八方へ散る」と成るわけです。つまり、名が体を表すと云う単純な「名詮自性」は、『八犬伝』においては、アナグラム(文字の謎)として、緻密に構想化されているということができるでしょう。

 発端部に登場する役行者には、大島から富士山に海上を渡って通って修行したと云う説話が『日本霊異記』などに見られます。となると「富山」は富士山を思い起こさせます。この発端部の典拠として『富士山の本地』を置いて見ようとする信多純一氏の所説があります。其処には獅子に乗る女仙も登場し、八房に騎乗する伏姫のイメージとの類似も指摘されています。さらにこのイメージは、後に女装している犬塚信乃が与四郎犬にまたがって馬術を修行すると云う趣向の挿絵にまで影響を与えているのです。

 伏姫物語では結ばれることのなかった伏姫とヽ大は、「義烈の一婦一夫は八士の父母」と本文にもありますが、孤児達の物語とも云うことの出来る八犬士列伝において、幻影としての父母となっていると見ることも出来るかも知れません。この玉を所有する八人の少年たちは、名字に「犬」の一字がつきます。すなわち犬塚信乃、犬川壮介、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬村大角、犬坂毛野、犬江親兵衛で、いずれも体のどこかに牡丹形のあざを持っています。不思議な因縁を持つ、この犬士たちが邂逅離散を繰り返していく中途、古那屋の段などにおいて、ヽ大は八犬士と里見家との縁を知らせる役目を果たし、伏姫は伏姫神として犬士達を援護し、ついには安房国に集結して里見家に仕え、対管領戦の重鎮となり、完全な勝利をもたらすことになるのです。

 さて、ここで少しだけ本文を声に出して読んでみることにします。富山の段と呼ばれている、八房に伴われた伏姫の冨山での生活の様子を述べた部分です。(【注】音の問題なので敢えて現代仮名遣いの平仮名で表記する。)

ぢょくせぼんなうしきよくかい、たれかこぢんのかたくをのがれん。ぎおんしょうじゃのかねのこえは、しょぎょうむじょうのひゞきあれども、あくまでいろをこのむものは、きぬぎぬのわかれをおしむがゆえに、たゞこれをしもあたとしにくめり。さらそうじゅのはなのいろは、じょうしゃひっすいのことわりをあらわせども、いたずらにかをめずるものは、ふううのすぎなんことをねたむがゆえに、ひとえにえんねんのはるをちぎれり。かんずればゆめのよ、かんぜざるもまたゆめのよに、いずれかまぼろしならざりける。おもいうちにあるものは、りうげのさんえにあうといえども、ぼんぶしゅつりのちょくろをしらず。さめてまたさとるものは、こけつりゅうたんにありといえども、ゆかじょうじゅのけらくおおかり。かくまでによを思ひすてて、とやまのおくにふたとせの、はるとしあきをおくるかな。
さてもさとみぢぶのたいふよしさねのおんむすめふせひめは、おやのため、またくにのために、ことのまことをたみくさに、うしなわせじとみをすてて、やつふさのいぬにともなわれ、やまじをさしていりひなす、かくれしのちはひととわず。きしのはにゅうとやまかはの、さやまのほらにますげしき、ふしどさだめつふゆごもり、はるさりくればあさとりの、ともよぶころはやえかすみ、たかねのはなを見つゝおもう、やよいはさとのひなあそび、うないおとめがみかもなす、ふたりならびいけさぞつむ、なもなつかしきはゝこぐさ。たがうちそめしみかのひの、もちいにあらぬひしかたの、しりかけいしもはだふれて、やゝあたゝかきこけごろも、ぬぎかえねども、なつのよの、たもとすゞしきまつかぜに、くしけずらしてゆうだちの、あめにあらうてほすかみの、おどろがもとになくむしの、あきとしなればいろいろに、たにのもみぢばおりはえし、にしきのとこもかりそめの、やどとしらでやしかぞなく、みさわのしぐれはれまなき、はてはそこともしらゆきに、いわがねまくらかどとれて、まきもまさきもはなぞさく、しじのながめはありながら、わびしくおればししじもの、ひざおりしきてとにたゝず、のちのよのためとばかりに、きょうもんどくじゅしょしゃのこう、ひかずつもればうき事も、うきになれつゝうしとせず、うきよの事はきゝしらぬ、とりのねけもののこえさへに、いちねんけくのともとなる、こゝろばえこそしゅしょうなれ。

第十二回 冨山の洞に畜生菩提心を發す 流水に泝て神童未来果を説く

前田愛は「近代読者の成立」(『前田愛著作集』二巻所収)において、この場面は「法華経読誦という音読を意識した文体である」と指摘している。しかし今、実際に耳からお聞きになった通りで、音読してしまうと音読する側も『八犬伝』の漢字文脈の本文がまったく分からない。これでは、八犬伝独特の漢語に和語を振仮名として振るという表記の二重性という豊かさが失われてしまいます。つまり、音読を意識した文体ではあるが、だからと云って皆が皆『八犬伝』を音読していたとはとても思えないのです。

 さて、いま読んだ最初の部分に、有名な『平家物語』の冒頭がうまく取り込まれていましたが、何故ここに唐突に『平家物語』の冒頭が出てきたのでしょうか。播本眞一氏は、この冒頭に対応する末尾、此処には引かれていないわけですが、すなわち「灌頂巻」に描かれる「建礼門院が大原に隠棲して一門の後世菩提を弔う」という内容が、伏姫の境遇に引き継がれているのだと読まれています。曰く「『平家物語』が祇園精舎ではじまり女院死去で終わるように、『八犬伝』富山は、平家の冒頭によって語りだされ、伏姫の死で幕を閉じる」(播本眞一「『南総里見八犬伝』第十二回を読む」、『近世文学の新展開』、二〇〇四年、ぺりかん社、所収)と。卓見だと思います。

 ところで、このような所謂「美文調」である七五調の和漢混淆文体が『八犬伝』には時々出てきます。古語や雅語、掛詞や縁語など、修辞的文辞を目一杯駆使した調子の高い、そして無内容な文章でして、現代の小説ではまずお目に掛かることがなくなってしまいました。尤も、『太平記』などの語り物軍記の系譜を継承した文体であると云えるでしょう。『八犬伝』と『朝夷巡島記』との評判記である『犬夷評判記』でも「すべて万葉集の歌の言葉をもて綴りたる文辞のこなし、どうもいへぬ/\」と自評しています。つまり『万葉集』的世界を背景化した記述というわけです。ならば、播本真一氏が云うように「うないおとめ」から、伏姫・金碗大輔・八房の関係に、謡曲『求塚』の素材となった二男一女型の妻争い説話が透けて見えることになります(前出「『南総里見八犬伝』第十二回を読む」)

 このように、『八犬伝』に用いられている言葉は一見単なる修辞に見えても周到に選び取られたものであり、何処に出典があるのかは細かな注釈作業を積み重ねて見付けていく他に方法がありません。一読しただけでも一通りの文脈が取れてしまうために読み流してしまうことが多いのですが、留意すべき点だと思います。その意味では注釈付きのテキストが備えられると一段と面白く読めるようになると思うのですが‥‥。

 考えれば考える程『八犬伝』と云うテキストは実に複線的です。壮大な構想に基づく本筋のみならず、所々に割り込んでくるノイズとしての考証があります。冒頭の三浦岬での義実による「龍の講釈」が象徴的ですが、江戸読本というジャンルが、考証の混入を許すものとして作り上げられてきたと云えるかも知れません。割注や頭注で示される部分もありますが、会話や地の文中を割いて延々と繰り広げられる蘊蓄も、実は『八犬伝』にとって大切な一要素だと思います。

 世の中が忙しく安閑と長編大作を読んでいられない明治時代になり、原文の味わいを損なわずに通読できるという点が新機軸であった『校訂略本八犬傳』(逍遙序、鴎村抄、明治四十四年九月刊、丁未出版社)という原文を生かした縮約本があります。「八犬傳の校畧に就いて」という序文において、不要な形容語や古事の引用を省き、閑話、挿話、講釈を削り主人公のエピソードのうち面白い部分だけを採って、繋ぎの部分にも馬琴の使った本文の語句を用い、本筋を外れた余譚も省いて約六分の一に縮めたが「八犬傳の梗概を略述したる物語の類でも無く、また八犬傳の美文を抄略したるものでも無くて、原著者其人の筆法を以て縮圖せられたる小八犬傳」であると述べています。しかし、序跋もなく、ノイズのない整序された本文を読んでみても、少しも『八犬伝』らしくないのです。

 もう一つ大切なのは、『八犬伝』のテキストに〈馬琴自身の物語〉を埋め込んでいる点です。執筆上の苦労や問題について、実に饒舌に舞台裏を語っているかに見えます。その最たるものが「回外剰筆」と名付けられた最後の一冊です。そこでは、お路に口述筆記をさせるのが如何に大変であったかを大袈裟に書き記しています。どうもそれが「江戸時代の漢字を知らない女に偏旁を教えながらの続稿は如何に大変だったか」と云う逸話として一人歩きしてしまったようです。岩波文庫本で云えば十冊目の二十二ページ五行目あたりなのですが、九輯巻四十六第百七十七回半ばが、馬琴が筆記を断念したところで、其処からお路が書き継いだわけです。丁度この部分を含む自筆稿本が早稲田大学図書館に所蔵されており、多くの本や図録に図版として紹介されています。右半丁は筆もかすれ罫線からはみ出した目の見えない馬琴のにじり書きで、左の半丁はお路の整然とした文字が確かな筆運びで書かれています。何処から見ても「漢字を知らない女」の書いたものとは見えません。つまり『八犬伝』と云うテキストは、その執筆状況すらも物語化した文脈を孕んだテキストなのです。

 一方、馬琴は本文テキスト以外でも自作の『八犬伝』に言及することが度々ありました。高松藩家老木村黙老、松阪の富商殿村篠齋・小津桂窓、江戸の旗本石川畳翠ら愛読者グループとの文通です。後には『評答集』としてまとめられています。これは、人々の批評に対して馬琴が答えていくという形式で、もっぱら馬琴が主導したものです。とりわけ「稗史七法則」と呼ばれた「主客・伏線・襯染(しんせん)・照応・反対・省筆・隠微」という法則が、中国小説に用いられていると云う主張を、天保六年八月二十二日に記した『南総里見八犬伝』「第九輯中帙附言」で公開し、これに関する応答が主になっていきました。しかし、この批評理論は馬琴にとっては同時に創作原理でもあったわけです。ただ、「隠微」だけは構想や趣向に関するものではなく、基本的には「勧善懲悪」という作者の姿勢を云ったものだと思われます。

 この勧善懲悪ですが、馬琴の思想のように受け取るのは如何でしょうか。「主義」ではなく謂わば「制度(書式)」とでも云ったら良いのでしょうか。基本的に、万民向け普遍的倫理観(因果応報の理)に基づく書きぶりは、江戸読本を書くための前提であって、現代に至るまで、勧懲ではない大衆小説(ドラマ)はないのです。しかし、勧懲は啓蒙的で下等なものなのでしょうか? 例えば〈勧懲が正しくない現実社会〉を相対化する仕掛けという考え方も出来るかも知れません。

 勧善懲悪については、江戸読本に於ける〈世界〉と〈趣向〉を軸に考えてみることが出来ます。この〈世界〉と〈趣向〉という用語は近世演劇で使われる術語なのですが、テキスト全体を覆う具体的な設定が〈世界〉で、例えば「忠臣蔵の世界」と云うように云います。これに対して〈趣向〉は、仕掛けに相当するもので「お家騒動の趣向」と云うように使います。言い換えれば、〈趣向〉とは、場面毎の挿話(エピソード)(俳諧の附合、芝居の場、黄表紙、説話的短編の前期讀本)で、〈世界〉は、構想(プロット)(筋、章回體小説、敵討物合巻、後期讀本)というふうに云えるかもしれません。つまり、「勧善懲悪を正す」と云う枠組みが要求されるのは、ある程度、筋の長さを備えた中長編ものなのです。そこで、江戸読本に要求された「制度」が勧善懲悪であるというふうに云ってみたのですが、いかがでしょうか。

 勧善懲悪というレッテルが『八犬伝』を始めとする馬琴読本に貼られて久しいものになりますが、文学的価値の無さを示すがごとくに認識され続けてきたようです。これは、例の坪内逍遙の『小説神髄』(明治十八年)における「批判」に発端があると云われていますが、本当にそうでしょうか。

彼の曲亭(きよくてい)の傑作(けつさく)なりける八犬傳(はつけんでん)(ちう)の八士(はつし)の如(ごと)きは仁義(じんぎ)八行(はつかう)の化物(ばけもの)にて決(けつ)して人間(にんげん)とはいひ難(がた)かり
勧懲(くわんちやう)を主眼(しゆがん)として八犬士傳(はつけんしでん)を評(ひやう)するときには東西(とうざい)古今(こゝん)に其類(そのるい)なき好(かう)稗史(はいし)なりといふべけれど他(た)の人情(にんじやう)を主脳(しゆなう)として此(この)物語(ものがたり)を論(あげつろ)ひなば瑕(きづ)なき玉(たま)とは稱(たゝ)へがたし
八犬傳(はつけんでん)をば小説(せうせつ)ならずといふにはあらねど今(いま)証例(しようれい)に便(べん)ならんが為(ため)にしばらく人口(じんこう)に膾炙(くわいしや)したる彼(かの)傑作(けつさく)を引用(いんよう)せしのみ

これを全面否定の文章とは云えないでしょう。勧懲小説としては評価しているわけで、つまり江戸読本の傑作であることは充分に認知していたわけです。また、ここで用いられている「人情」と云う用語も厳密には難しいのかも知れませんが、キャラクタと考えれば、八人それぞれキャラが立っていると云えなくもありません。

 文学史の評価が、如何に逸話や不正確な理解に拠って形成され、そしてそれが、そのまま継承されて行くと云うことに対して、私たちは充分に警戒する必要があるのです。特に『八犬伝』についての評価は、毀誉褒貶が激しかったため、やはりご自分の目で確かめるのが一番だと思います。

 最後に、『八犬伝』というテキストに、馬琴が仕掛けた「謎解き」の面白さについて触れておきたいと思います。以前、高田衛氏が『八犬伝の世界』(中公文庫)において明らかにした、八字文殊曼荼羅を典拠としたと云う説は、八犬士の二人が何故「女」として登場したかと云う謎についての明確な回答を示したものだと思います。最近、明らかにされたのは、肇輯の口絵「八犬士髻歳白地蔵之圖(はつけんしあげまきのときかくれあそびのづ)」が「唐子遊び」という画題を踏まえていると云う播本眞一氏による指摘で、根拠は、周囲の宝づくし模様の枠とヽ大が布袋として描かれている点でした。『寺子宝鑑字福伝』(享保五年)の見返がその典拠となっているそうです。「宝にかこまれて福神と唐子が遊ぶ図像は邪悪なものの存在しない空想の理想郷を表現しているだろう。‥‥‥「白地蔵之図」は理想の世界をかいま見せて幼い犬士たちの未来を予祝し」たものとされています(播本眞一「『南総里見八犬伝』を読む」、「近世文芸研究と評論」63号、二〇〇二年十一月、所収)

 ここで、みなさんにお考え頂きたいのは、第二輯の二番目の口絵の絵解きです。豪華な籠に乗っている犬塚信乃が柄杓を持ち、上に「一万度太麻」「いせのあまか かつきあけつゝ かたおもひ あはびの玉の輿になのりそ」とありますから、お伊勢参りに関係するのでしょうか。左側に「遠き泉は中途の渇きを救わず、独木は大厦の傾くを指(ささえ)ること難し」とあり、赤子を懐にした額蔵が描かれていますが、この赤子は誰でしょう。二人間に描かれている蝦蟇と亀は蟇六と亀笹を示していると思うのですが、その回りの虫はなんでしょうか。この口絵などは確実に何等かの意味が秘匿されていると思いますので、是非お考え頂きたいと思います。

 今日の話はここまでに致します。やはり、短い時間で『八犬伝』の魅力の全てについてお話しするのはとても困難です。どうか、ご自分で原文をお読み頂き、この血湧き肉躍る冒険小説に中で、豊穣なイメージの世界に足を踏み入れて頂きたいと思います。それでは、これで失礼致します。


# 「八犬伝」を読む−文学史上の位置づけ
# 放送大学(ラジオ)「特別講義 人文科学11」(平成16年度第1学期)草稿
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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