江戸読本の出板をめぐって−出版文化史への視座−
高 木  元

 はじめに

 現代は〈出版文化の時代〉とでも呼ぶべきであろうか、街の本屋の棚は、人目を惹く意匠で飾られた沢山の本や雑誌で溢れている。毎日百点を越える本や雑誌が次々と刊行されるというから、新刊本が本屋の棚に置かれている時間もそう長くはないのであろう。特に売行きの良くない本は、まず取次ぎに返品されて店先から消え、次に版元へと戻され、最後には裁断処分されてしまうのである。この事態は、出版物が紛れもなく一箇の商品であることを示している。つまり、どんなに優れた書物であっても、売れなければ市場から姿を消して行かざるを得ないのである。だから出版社は売れる企画の準備に腐心し、その結果、雑誌や文庫に力を注ぐことになる。出板が営利事業である以上、至極当然の成行きである。斯様な問題は、実は出版という営みが始まった時点から、既に起きていたのであった。
 近世以前の文学作品は、筆写という手段に拠って一部の読者とだけ関わりを持つ、謂わば閉じた存在であった。しかし近世初頭に於ける印刷技術の伝来に拠って書籍の出板が可能となり、はじめて文学作品が不特定多数の読者に向って、開かれた存在になったのである。これは印刷技術の進歩によりもたらされたというよりも、寧ろ流通過程の整備に関わる問題なのである。商業資本主義が著しい発達を遂げた近世という時代にあって、商品の製造と流通は別個に独立した産業として確立しつつあったからである。
 このように近世の文学作品を印刷出板された商品として見做すことに拠って、作者の位置の相対化という視座が獲得できる。これまでの文学研究が、先験的に作品の向側に作者がいるという幻想に支えられて形成されて来たとするならば、一旦これに実体を対置し、作品と作者の距離を計測し直してみる必要があるのではないか。すなわち文学研究に於ける出版という問題は、実は作品成立の〈場〉の問題なのである。これを無視した作品の恣意的な読みは、もはや研究とは呼べないであろう。つまり出板機構を解明しつつ作品成立の〈場〉を明かにすることを通じて、文学研究はその特殊性に、はじめて文化史的な普遍性を与えられることになるはずなのである。

 江戸読本とは

 近世後期の小説、例えば読本(よみほん)や人情本・滑稽本・洒落本・草双紙などは、作者からの原稿を受け取った板元が製板印刷して出板刊行した〈板本〉として存在している。以下、江戸読本を例にして板本とその製造過程について見て行きたい。
 まず、江戸読本という用語を定義しておく必要があろう。所謂〈後期読本〉と基本的には同義で、化政期(1803-1830)を中心として出板された、近世後期小説の中では一番格調の高い作品群を指す。ただし、作者が江戸在住で、江戸の書肆より発兌された本に限定して用いることにしたい。これは、特に江戸の書肆について検討したいからである(そもそも〈江戸〉という語彙が、時代と地域との両義性を持つことから生ずる混乱なのである)。勿論、文学史上の分類には限界があり、時代地域ともに明確に区別できない作品も存するが、今は触れないことにしておく。
 ここで、この江戸読本に対する当時の認識が示された例として『出像稗史外題鑑』を挙げたい。A3程の大きさの一枚物で、その両面に凡そ百種程の作品が簡単な紹介と共に列挙されたものである。文化末(1817)年頃、貸本屋向けに摺られたものと考えられる。この文化末期は、江戸読本が長編化し始める時期に相当し、不朽の名作『南総里見八犬伝』の刊行が始まった時期である。つまり『出像稗史外題鑑』は、短編読切という形式が主流を占めた文化期の江戸読本リストと見做すことができる。この中には上方の書肆が出した〈後期読本〉は一冊も含まれていないからである。江戸読本の初作は『忠臣水滸伝』であるといわれているが、やはり『出像稗史外題鑑』でも冒頭に挙げられ「かなでほん忠臣蔵をもろこしの小説水滸伝になぞらへて作る」と紹介されている。この山東京伝の作品は、前編五冊が寛政十一年(1799)、後編五冊が享和元年(1801)に鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎の合板で出されたものである。

 江戸読本の造本様式

 さて、少しばかり趣味的であることを承知の上で、出板物としての本というモノを、一種の総合芸術として見る立場に立ってみたい。本は本文だけ読めれば良いというものではない。冊数や大きさ、表紙の色や意匠などの装丁の具合、挿絵や本文のレイアウトや字体など、鑑賞すべき箇所は殆んど本全体といっても良い程である。最近の洋装仮製本の活字本からは決して味わうことのできない、本の香とも風味ともいうべきものが、和紙に木版で摺られた和本には備わっているのである。全てが手作業でできているせいでもあるが、本を創ることに対する感覚が全く違ったのである。尤も、実用書や宗教書などは縹色表紙に文字題簽を貼付けただけの無味乾燥なものが多く、造本にこれといった特徴もなく面白みは感じられない。やはり、様々な色の表紙に意匠が凝らされた江戸読本は、特別に商品として意識されて造本されたものといえるかもしれない。
 何故、斯様にまで本というモノにこだわるかといえば、板本の書誌学の第一の目的が初板初摺本の捜索と識別にあるからである。恐らく作者の関与は初板初摺本に限られたであろうし、出板書肆を確定するためにも、後摺本では無くなってしまうことの多い刊記や見返しを完備した初板本探求が必須なのである。場合に拠っては、初摺本だけに重ね摺りなどの技法が施さた挿絵が備わっていたり、作者自らが出板に至る経緯を記した〈再識〉などが付けられていたりすることも多いのである。しかし、だからといって後摺本の調査が無駄である訳はなく、寧ろ徹底した後摺本の調査を通じて、一つの板本の改竄や異板などを発見することは非常に有意義なことなのである。つまり、現存本の網羅的な調査を通じて、作品の変遷の諸相を明かにすることが重要なのである。
 そこで、まず本の外観から見て行くことにしたい。近世の出板物は、大雑把に本の大きさがその内容的な格を示唆していることが多い。江戸読本の場合は大きさから二種類に分けられる。〈半紙本〉というA5判程の大きさの本と、〈中本〉というB6判程の大きさのものである。普通は半紙本五巻五冊で一編をなすが、中には三巻三冊とか五巻六冊などというのもある。一方、中本というサイズは草双紙をはじめとする滑稽本や人情本などというジャンルに用いられたもので、半紙本よりは軽い内容の謂わば大衆小説の大きさなのである。〈中本型読本〉は半紙本に比べて出板経費もあまり掛からなかったので、江戸読本の成立期に様々な実験が行われた。そのためか文化六年以降は殆んど見られなくなるのである。尤もこの中本型で出された読本は他のジャンルとの関係が強く、人情本的な雰囲気を持つものや、滑稽本や草双紙紛いの作品もある。更に、幕末に流行した実録のダイジェストである〈切附本〉へと変形され、最後には明治期の草双紙へと解消して行くことになるのである。なお、『出像稗史外題鑑』には中本型読本は登載されていない。
 次に本の顔とも見做すべき〈表紙〉である。一般的には短冊型の文字題簽であるが、絵入の副題簽を用いたものもある。中本型読本の改題後摺本の中には、合巻風の貼付絵題簽を持つものも散見する。売出しの時点では、帯状に本をくるんだ〈袋〉に入れられて売られたものと思われ、中本型読本の方には美麗な多色摺りの袋が残っているものもある。が、半紙本の江戸読本では題名や板元を摺込んだ簡素なものであったと思われる。
 表紙をめくった裏が〈見返し〉。見返しには題名、作者、画工、刊年、蔵板元などが記されるのが普通である。初板初摺本には見返しが付けられていたものと見て、ほぼ間違い無いだろう。時代を下るとともに様々な意匠が凝らされるようになるが、大切なのは刊記からだけでは分からない〈蔵板元〉が記されていることが多い点である。ただし後摺本では板元名の箇所に入木して改竄してある場合もあるので注意を要する。
 口絵や挿絵は板の相違や摺りの前後を判断する上で役に立つ。手数の掛かる技法は後摺本になると省かれてしまうのが普通だから、重ね摺りやボカシなどの技法の有無で判断できる場合が多いのである。なお薄墨は色が薄いものほど早い摺りと見做して良い。摺っている最中に次第に水分が蒸発して色が濃くなってしまうからである。ただ、後摺本になっても口絵にだけは重ね摺りを残したものもある。見栄えを考えた処置であろう。中には色を用いたものもあるが、江戸では上方と違って一貫して多色摺りの読本は出板できなかったので、色といっても比較的地味な色を一色程度用いただけである。

 作品の題名であるが、〈内題〉の中でも〈首題〉と呼ばれている本文冒頭の題名は、習慣的に正式な作品名として採用されることが多い。また〈角書き〉といって、登場人物名などを二行に分けて小さな字で冠することがある。これが曲者で、首題だけにあったり、外題、見返し題にしか見えない場合もある。稀には予告広告にしか見られない場合すらある。一方、柱(袋綴じの折り目の部分)にも題名が示されていることが多く、この〈柱題〉はスペースの関係で大部分が略称である。この柱題が役に立つのは改題本の場合で、たとえ外題や首題を入木して直してあっても全丁の柱題まで直すことは余り無いから、元の題名を知るための手懸かりになるのである。尤も、手抜きの場合は、本文最後の〈尾題〉が訂正されずに残っていることもある。
 〈首題〉は、一つの巻を二分割した場合でも各冊の最初に付いているのが普通であるので、本来の冊数を知る場合の目安になる。逆に、後から巻を割いて二分割する場合に、匡郭の外にはみ出して首題を填込むことがあり、これは甚だ不自然なので一見しただけでそれと知れる。この分冊は、貸本屋が見料を稼ぐために冊数を増したがっていることを見越しての処置であろう。三巻三冊が三巻五冊に化けたり、五巻五冊が五巻八冊に化けたりするのである。逆に所蔵者が合冊してしまうことも多いが、この場合も首題を見れば巻数や冊数は容易に想像できるのである。
 〈丁付〉は柱の下に付けられているものが大部分であるが、中には〈ノド〉の側に小さく書かれている場合もある。この丁付が乱れている場合は、何等かの手が加えられた可能性が高い。特に後摺本で挿絵などを削除してしまった場合、「四ノ五」などの如く直されることがある。
 最後の巻の末丁には〈刊記〉がある。刊年や書肆名以外にも作者や画工の名があり、そのほか筆耕や彫工の名前が記されている場合もある。江戸読本の中には、刊記に複数の書肆名が列挙されているものも少なくない。これは〈合板元〉として共同出資で出板した書肆であるが、三都板といって江戸と京と大坂の板元が一緒に出したものもある。管見の範囲でいえば、並べられた板元名のなかで、最初に位置する本屋が書物問屋として〈出願〉をした書肆で、最後尾に位置する書肆が実質的な蔵板元である場合が多いようだ。
 後摺本の場合は、本来の刊記の一部分を入木して直すことが多いが、全く取り去って別の本の刊記を流用する場合もある。これは、注意深く匡郭を比べてみると分かる。また、書肆の住所が「東京」などとある場合は、明治になってから摺られたもので、これを特に〈近代刷〉と呼んだりする。近代刷の後摺本には、活字で印刷された広告が付されたものすら存在するのである。
 以上述べてきたように、付けられている刊記を全面的に信用することができない場合が多い。本全体の様子や、出板関連の二次資料に当りながらでなければ、決定的に初板本の板元を確定することはできないのである。
 刊記の後に、広告が付いているものもあり、多くの場合は蔵板元の「蔵板目録」や近刊予告である。この予告であるが、たとえ梗概まで書かれていても、実際には刊行されなかったものも含まれているので注意する必要がある。

 江戸読本の出板

 従来の近世文学史に於ける江戸読本についての記述は、山東京伝と曲亭馬琴との作品を中心に、内容的に分類整理する方向でなされてきた。これによって概括的な流れは押えられたものの、やはり見過ごされて来た問題も少なくない。基礎的な書誌研究に無関心であったからである。板本は写本と違って板木を用いているから、摺ったものには違いがないという先入観が働いたせいであろうか。または現実的にも、大量の作品群が全国に散在しているので、容易に網羅的な書誌調査ができなかったせいかもしれない。
 しかし、作品研究に際しての手続として初板本テクストの捜索が必須であるし、同時に後摺本から得られる情報も決して無駄ではないはずである。以下、具体的に本が出板される過程を追い、また同時にその流通の仕組みを明かにしながら、書誌研究の必要性を確認してみたい。
 まず、作者の意図が最も反映しているのは〈稿本〉と呼ばれる作者の原稿である。現存しているものは稀だが、これを見ると本文は勿論のこと、画工に対しても口絵挿絵の下絵を示して詳しく指定していることが分かる。この〈稿本〉を基に〈筆耕〉が清書して板下を作り、画工が絵を描く。そして、今度は完成した板下を使って〈彫工〉が板木を彫り、〈校合本〉と呼ばれる校正摺(ゲラ)を作者に戻す。訂正箇所は板木を削って〈入木〉をして直すのである。現存する校合本と初摺本とを比較すると、かなり丁寧に直されていることが分かる。つまり、以上の行程から初摺本には作者の意図がかなり反映していると見て良いのである。だが、一旦作者の手を離れた再摺本以降は、板元に拠ってどのような手が加えられたか(または手抜きをしたか)が分からず、現存する諸本を丁寧に見比べて見なければ、その変更点は明かにできない。つまり、後摺本からでは作者の意図を充分にはかり知ることはできないということになるのである。
 次に、基本的な問題として、作者に〈著作権〉が存在しなかったことを確認しておく必要があるだろう。江戸読本の場合は、買取原稿として〈潤筆〉と呼ばれる原稿料が支払われていたに過ぎない。つまり本が出た後のことについては、作者には全く口出しができなかったのである。一大ベストセラーになった『南総里見八犬伝』を書いた馬琴が、生涯に亙って書続けなければ生活できなかったのは、実はこのためだったのである。
 これに対して、板元の板株(出板権)は〈本屋仲間〉を通じて他の板元から保護されており、蔵板しているものは自由に再摺りしたり、改題本に仕立て直したりすることができた。資金繰りに窮すると板株を他の板元に譲渡してしまうのも、ごく普通のことであった。また、これらの本を摺るための板木の量は膨大であり、摺らない時には普通〈質〉に入れていたようである。保管と資金繰りを兼備えていて合理的であったからであろう。ただ、板木さえ持っていれば、需要に応じて自在に本を摺って出すことができた。その際に掛かる経費は摺賃と紙代程度で済んだので、摺れば摺るほど利益があがったのである。だから、一般に摺りが重ねられるほど手数が省かれ、板面も痛んで荒れて来て、初摺りの趣を失ってしまうのである。
 一方、火事で板木が焼失してしまうことも少なくなく、これを再び摺る場合は〈かぶせ彫り〉といって、刊行された本を板下として用いて再刻したのである。再刻される時には、挿絵の色板を減らしたり、口絵や叙跋類を省いたりして、大抵の場合は何等かの手抜きが行われる。同時に彫直した時には作者の校正を受けないから、字の間違い等(彫りこぼし)も発生する。つまり一見しただけでは同じ板の様に見えても、彫直している場合もあるし、時には作者や画工の名前の部分を入木して改竄してしまうことすらあったのである。これらの改変は、全て板元の利潤を目的になされたものであるから、作者の意図から離れて行くのが普通なのである。
 さて、読本の出板に当って、その企画やプロデュースを担ったのは板元の方であったと思われる。作者が企画を板元に持ち込むことも皆無では無かったが、その場合は〈入銀〉本(自費出板)になったはずである。何故なら、出板という事業には多大な仕込み(先行投資)が必要であり、その経済的なリスクを負うのは作者ではなく板元の方であったからである。つまり、板元は仕込みが安くて済み、投下資本の回収率が高い本を出したがったわけである。どの作者に、どんな題材で書いて貰い、画工には誰を配し、どの筆耕、彫工を手配するかなどという出板プロジェクトを組むための計画と資金調達こそが板元の腕の見せ所なのであった。従って、板元にとって便利な作者とは、筆耕や画工を兼ねることができる者やゴーストライター達であった。また、文化後半になると馬琴・北齋のコンビが組めないのも、実は潤筆や筆料が高かったせいだと思われる。
 当時の本の流通についても触れておこう。草双紙は別として、読本は庶民が買える値段では無かった。直接買えるのは、かなり裕福な商家や大名などであって、普通の読者は貸本屋を通じて借りて読むのが一般的であった。だから、板元にとって一番の得意先は貸本屋であった。例えば、名古屋に「大惣」という日本一大きな貸本屋があったのだが、そこの蔵書目録が残っており、これを見ると、その幅広い分野の二万種を越す膨大な蔵書から、地方都市に於ける文化センター(図書館)としての役目を担っていたことが知れるのである。
 一方、江戸には、文化五(1808)年の時点で六百五十六軒程の貸本屋があったが、ここで用済みとなった本は次第に地方の貸本屋へと転売され、最終的には各地の温泉場の貸本屋へ渡ったものと考えられる。この流転の様相は、現存する読本に押印された貸本屋の印章から確認できる。これらの貸本屋本は、たとえ摺りが良くても手擦れなどがひどく、保存状態が悪いのが普通である。つまり、それだけ大勢の人に読まれたということである。これに対して、大名家の奥に入っていた本は、改装合冊してあることが多いが、概して保存状態が良く、且つ摺りの良い本が多い。限られた人が大切に読んだからであろう。
 実は、これらの貸本屋の中の大きな店は、既に新興の板元として活動していた。彼等は〈書物問屋仲間〉の〈株〉を持っていなかったため、上方の書肆と提携したのである。が、既得権を侵害された書物問屋が良い顔をするはずが無く、当局に取締まりを要求する。しかし、前に述べた通り貸本屋は書物問屋にとっては大切な得意先である。そこで、出板の出願には書物問屋を通すという形式で、合板元となることで折合いが付いた様である。此間のいきさつは、江戸読本という新しいジャンルの発生を担ったのが、新興の小規模出板業者である大手貸本屋であったことを物語っている。つまり、貸本屋は、板元にとって一番大切なマーケッティングリサーチをするのに最適なアンテナショップとしての機能を備えていたのである。それ故に、板元として、流行や読者の評判などを逸早く企画に盛込むことが可能だったのである。これが、江戸読本という新しいジャンルを興隆させることができた大きな要因だと考えられるのである。

 まとめ

 近世後期小説とは、板元から見れば一商品に過ぎないのである。従来の近世文学研究では、この点に比較的無頓着で、例えば江戸読本の成立を説く「京伝馬琴の対立競争説」(二人が激しい対抗心を持って読本を出したことに拠り成立したジャンルで最終的には馬琴が勝った‥‥)などという、まことしやかな比喩的言及が、そのまま文学史の定説として罷り通っていたのである。この説の根本的な誤謬は、出板という賭博性の強い商売に於ける先行投資のリスクを負ったのが、決して作者ではなく板元の方だったことを考えれば容易に了解できよう。京伝や馬琴が書きたいように書いた本を自由気侭に出板することなど、いくら化政期とはいえ、およそ不可能だったに違い無い。実は、この二人の〈競作状況〉の演出には仕掛人がいたのである。鶴屋喜右衛門という板元である。江戸読本というジャンルを成立させ流行させるために、中堅作者と新進気鋭を競合わせて売出すという才覚は、プロデューサーとしての板元のものだったのである。
 このような作品を挟んだ作者と板元との問題は、近代的な出板機構の持つ問題と本質的に同一であり、充分に現代人の感覚で捉えることが可能である。つまり、編集者の持込んだ企画に、自己の問題意識や手持ちの資料を活かしながら執筆するという、我々がふだんしていることと何等変わりはなかったのである。これが作品成立の〈場〉に於けるプロデューサーの役目を無視できない所以である。企画取材から校閲、時にはリライトまで、現代の編集者の黒子的な役割は、江戸読本の成立に於ける板元の機能に重なる部分が多いのではないか。つまり近世以降印刷出板された文学作品の本文テクストを、直ちに作者の意図の発露として読んでしまって良いのか、という問題を提起しておきたいのである。
 今ここで充分に展開している余裕はないのだが、上田秋成の『雨月物語』が板本として広く流布したの対して、『春雨物語』が写本として伝わったということの意味の差は、果てしなく大きいと言わざるを得ないのである。作者の書く意識(姿勢)が同じ次元では論じられないはずだし、作品成立の〈場〉が全く別の次元のものであるからである。しかしながら、現在一般に流布している活字本で見る限り、斯様な『雨月』『春雨』の落差は何一つ感じ取ることができないに違い無い。現物を見るということは、文学研究に於て、やはり無視できない大切な第一歩なのである。



#「江戸読本の出板をめぐって−出版文化史への視座−」
# (『刷りものの表現と享受』、北大国文学会、1989/11)
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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