書評 播本眞一著『八犬伝・馬琴研究』(完全版)
高 木   元 

本書が世に出てから既に一年半余が経ってしまった。これは書評を引き受けた私の怠慢の結果であり、まずもって播本さんをはじめとする関係各位に心よりお詫び申し上げる。
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さて、播本さんとは同時期に読本研究を志し、この三十年間研究者として伴に歩んできたこともあり、その仕事から多く教示と刺戟を受け続けてきた。改めて学位論文から集成されたこの論文集(以下「本書」)に触れて様々な想いが溢れてきた。それは近年著しく環境が悪化した国文学界と文学研究の方法論的混迷とに起因する。

本書「まえがき」で高校用副読本に見られる『南総里見八犬伝』解説が、如何に誤解や誤記に基づいているかを指摘し、本書の刊行を「『八犬伝』と曲亭馬琴に対する理解を深め誤解を改めるため」と位置付ける。しかし残念ながら専門書に発表された最新の研究成果が、副読本や参考書などに反映されるとは考えにくい。副読本はおろか文学史書や辞典類も半世紀前の不適切な情報に基づくものばかりである。この状況が放置されてきた原因と責任とは一体那辺に在るのか。

無闇矢鱈と大学(院)が増設された一方で、責任の所在も明らかせずに〈ゆとり教育〉が見直されたが、〈読み書き算盤〉より〈独創性〉を伸ばされた(らしい)若い世代の国語力は著しく低下し、キャンパスには満足に日本語の読み書きができない〈大学生〉で溢れかえっている。その上、カリキュラム改悪で古典文学から遠ざけられた中高生や、文学(系学)部生は勿論のこと、古典文学を専攻する院生にとってすら近世文学と接する機会は少なく、当然の帰結として『八犬伝』に関する精確な知識を持っている者は稀である。

斯る状況の下、ある腐女子のBL評では「文学・ドラマ・漫画・アニメなどありとあらゆるジャンルの創作をインスパイアさせた不朽の名作すぎる「南総里見八犬伝」物語は里見家の姫と犬の種を超えた恋から始まるが、その恋は悲劇的な結末を迎える」(http://www.chil-chil.net/topicDetail/topic_id/176/)などとあり、何に拠ったのか『八犬伝』を異類恋愛譚であるとする(尤も、それはそれとして大層興味深い受容史の一側面ではあるのだが、取り敢えず措いておく)

嘗て江戸文学といえば近松西鶴芭蕉であった。その後、秋成の発見と顕彰とがあり、さらに南北や馬琴へと研究対象は広がったが、基本的に文学的〈価値〉の発見と顕彰とが研究の第一目的であった。戦後は注釈研究と文芸評論とが併存してきたが、共通したのは典拠とテキストの差異に作者の意図を読むことであった。しかし双方は分化し止揚されることはなかった。その後、所謂テキスト論の洗礼を受けた世代が台頭し、〈地球に優しい研究〉すなわち追認不能な〈作者の意図論〉は紙資源の無駄であるから止めようという機運も生じた。と同時に書誌学的手法に基づく出板史が流行り、新史料発掘を通して文学史の空白を埋めるという社会史研究へ向かう傾向が強くなった。

斯様な研究史把握は極めて恣意的なものではあるが、その中で播本さんの仕事は一貫して禁欲的な注釈に基づくテキスト解釈に徹していた。本書に通底する立場は「少なくとも読本というジャンルにおいて、馬琴は大真面目に、作品を自己の思想を盛る器とした」という前提から「馬琴著作の基底にどのような思想があったのか」を解明するという保守的ではあるが明解なものである。

第一章『南総里見八犬伝』の構想とテーマ

第一節では『孟子』の原理に従って「過てる」義実や八犬士が君子として描かれていることを「できるだけ多くを『八犬伝』本文によって」指摘し、孔子と『春秋』との関係を馬琴と『八犬伝』との関係に相当するとして「心誅の文法」に及び、〈孝〉と〈忠〉を分析しつつ八犬士たちの〈孝〉は天皇へ向かう「儒教の論理と天皇の論理が統合されている物語」であるとする。

第二節では『八犬伝』を〈伏姫物語〉〈犬士列伝〉〈対管領戦〉の三部構成として再整理し、第三部〈対管領戦〉を第二部〈犬士列伝〉で繰り返されるテーマの変奏と見る。すなわち第二部の〈大角の化猫退治〉や〈ヽ大の鵞〓(ぜん)坊退治〉は神迹や山陵など古代の神々の秩序を回復するエピソード、第三部の〈新兵衛の虎退治〉が語られる時、「みやこ」は「京師」ではなく特に天皇の居場所を意味する「皇都(皇京、皇城)」と表記されていることから、〈虎退治〉は天皇の居場所の秩序を回復するエピソードであり、〈対管領戦〉も同様に皇朝の国賊征伐と見做す。つまり『八犬伝』は日本という「皇国(これも馬琴の頻繁に用いる表記)」の秩序を回復する神話として読めるという。かくして「幕末の時代状況や思想史の大きなうねりが『八犬伝』の中に投影されている」点に八犬伝の面白さを発見する。

第三節では、『八犬伝』を〈水滸伝もの〉ではなく〈日本神話〉の文脈から、全体の八分の一以上をしめる長大な〈素藤・妙椿譚〉を分析し、伏姫の「天津八尺の勾瓊」と妙椿の「甕襲の玉」、二人が持つ神薬、それぞれが拠点とした「冨山」と「人不入山」などに注目し、伏姫と妙椿が対立しながらも霊玉や神薬など共通の要素を持っていることを確認する。また『故事部類抄』という馬琴の抄録ノートには『日本書紀』の記事が四割見られることから馬琴の日本神話への関心を押さえた上で、『馬琴評答集』などから八百比丘尼(妙椿)に関する言及を抽出し『塩尻』に着目する。馬琴の拠った『塩尻』は複雑な諸本群から静嘉堂二十三冊本系統であることを見出し、馬琴が『塩尻』に拠って八百比丘尼を『古事記』に登場する〈若沙那売神〉と考証し〈邪神〉と断じたことを明らかにした。一方、素藤には特別な典拠は見出せないが、諏訪(神社)を背景とすることから〈建御名方神〉との関係を想起している。そして〈素藤・妙椿〉と〈伏姫・親兵衛〉の対立構造の深層に〈須佐之男命〉と〈天照大御神〉の対立を見出す。

第四節では、談義本風の『夢想兵衛胡蝶物語』『昔語質屋庫』や考証随筆『玄同放言』『兎園小説』などを論って老荘・仏教・徂徠批判を析出し、手沢本『白石叢書』の書き込みを精査して宣長の皇国史観へ傾倒していく姿を描きつつも、白石や宣長とも小異を遺す馬琴の独自の皇国史観を記述する。

以上、第一章では『八犬伝』が第一部〈神々の誕生〉、第二部〈神々の対立と収束〉、第三部〈人皇の時代の対立と収束〉という日本神話を背景化した構成を持つことから、第三部は『水滸伝』ものとして見た時のように単なる付け足しではなく、かつまた唐突に尊皇思想が言表されたのでもないと結論付けている。

第二章『南総里見八犬伝』の典拠

第一節では馬琴の抄録ノート『故事部類抄』が和刻本『事文類聚』に倣ったもので文化五年以前の成稿であることを明らかにし、馬琴の諸作品に使われている多くの考証資料が『故事部類抄』に合致することを具体的かつ詳細に検証する。末尾に細目一覧と出典一覧が附されており、別に『故事部類抄』全本の翻刻も備わる。

第二節では馬琴旧蔵『房総志料』を精査し、書き込みや写本流転の様相を考証した上で、馬琴が利用した『里見記』は『房総志料』の孫引きで『八犬伝』「大団円」「回外剰筆」の記述が『房総志料』著者中村国香による判断に基づいているために混乱していることなどを精緻な本文研究に基づいて明らかにした。

第三節では登場人物名に関する考証を通じて「馬琴の実生活と作品との繋がり」を書翰や考証随筆を駆使して浮かび上がらせている。採り挙げられたのは鈴木牧之と石井夏海で、書翰や考証随筆を駆使していて大層興味深い。また『羇旅漫録』などに拠り、旅で知り得た地名なども転化して合巻で用いられていることを指摘する。

第四節では馬琴合巻を博捜し『八犬伝』との部分的な趣向レベルでの影響関係を掘り起こし、これを演劇的手法とも比較する。

この第二章では、単なる本文や趣向の出拠の発見ではなく、各文献レベルでの情報操作について、馬琴の手捌きを具体的に明らかにしている。と同時に作家としての実生活と作品世界の繋がりを敢えて掘り起こすことに拠り、作家とテキストとの距離の再検討を逼っている。

第三章『南総里見八犬伝』の諸問題

本章は序文(の印記)や口絵挿絵(中の画賛)、表紙見返の意匠等、画像を含めたテキストの精緻な注釈研究である。日記書翰家記類にも充分な目配せが及び、『曲亭蔵書目録』は勿論、馬琴が手にした和漢の典籍を博捜したもので、一つひとつ確認しながら読むには手間暇が掛かるが、間違いなく充実した知的興奮が味わえる。今後『八犬伝』を読み論じて行く上で必読。とりわけ画像の典拠捜しには敬服した。

第四章『曲亭馬琴』研究

馬琴の伝記研究である。特に第二節では、武家の嗜みとしての俳諧で使用し始めた俳号「曲亭」が戯号となったもので、「廓で誠」説は妄説だと断じる。また狂歌号として「山梁貫淵」を用いたことを指摘し、それが「三両取りの身」という卑職を表す号であるために寛政五年以降廃したことを明らかにした。従来あまり触れられることのなかった馬琴の俳歴をまとめた第三節「馬琴俳諧年譜稿」も労作で有用である。

第四節は馬琴旧蔵『鎖国論』の文献学的検証を踏まえて、識語や頭注などから馬琴の対外関心を探り「日本を皇国と捉える世界観」を見出す。第五節は前節を承け「馬琴と異国」と題して、外国を夷敵とみなしていた馬琴の外国観が展開される。興味深いことに、『椿説弓張月』の執筆過程(文化二〜八年刊)で、文化五年以降は馬琴が見ている史料が大幅に広がっていることを具体的に紹介している。

第六節では、馬琴の肖像から承けるイメージから起筆し、風俗の記録の様子を辿りながら、白石を真似て〈関帝籖〉を愛用して宗伯の結婚などを占ったことを挙げ、八犬士八犬女たちの結婚を籤に拠ったのとの相似を指摘する。第七節では、手沢本『顔氏家訓』の書き入れなどから、人生訓処世訓を学んでいたことを復元する。

第八節は、琴童ことお路の抄録と考えられてきた『仮名読八犬伝』第十七編以降が、四谷の御持筒同心である松村偽助の手によるものであることを『御路日記』を解読することによって実証している。

第四章は実に多岐にわたるが、基本的には馬琴の言説に就いて、それらを精読することによって解明される馬琴の実生活に纏わる問題を論じたものである。これも実生活とテキストとの距離を計測し直す必要を問題提起した論考である。

第五章 馬琴初期の読本

扱われたのは『椿説弓張月』『高尾船字文』『昔語質屋庫』と『広益俗説弁』に関するもので、基本的には典拠論として括ることが出来る。

本書に収まる諸論考を紹介してきたが、初出は一九七九年から二〇〇八年に至るもので、一貫した問題意識と方法に支えられている。本書附録の「基本テキスト一覧」を一瞥すれば判る如く、この三十年間に馬琴周辺の諸資料の公刊が進み多くの資料の利用が容易になった。それでも播本さんは、和漢の典拠の博捜、語句の用例の精査、とりわけ膨大な馬琴の著作や馬琴自身の言説を丹念に読み、馬琴が利用した典拠については一つひとつ手沢本に当たり、その識語や書き込みを丁寧に読み解き、転写本の場合はその書写経緯を明らかにするという、実に手間暇掛かる基礎研究を積み重ねてこられた。本書の第一章は、これらの地道な基礎研究の結晶である播本さんの『八犬伝』論である。

「あとがき」で、「筆者の関心は当初、伝記研究に向かっていなかったが、曲亭叢書など一次資料を調査する機会に恵まれ、馬琴著作に対する理解があらたまった」と記すように、他の作者に比べて各段に多くの言説が遺されている馬琴は、それらの一次資料(馬琴の自筆)と真剣に向き合えば向き合うほど、おそらくテキストの出口としての作者=馬琴像が肥大化して化現し読み方も変質するのであろう。

しかしながら、播本さんの研究が容喙の余地のない緻密な実証に基づいた立論であるからと言って、〈馬琴読本は馬琴の思想が盛り込まれたテキストである〉とは素直に納得できないでいる。そもそも虚構と家記私信と謂うレベルの相違するテキストを、同一著者の言説であるからといって等し並みに扱って良いのであろうか……。日頃、何処の馬の骨とも判らない戯作者のテキストを相手にしていると、〈ふと気がつくと作者に向かう読みをしてしまう〉と言う問題から逃避していられるので、本書に向かい合って久々に悶々とした日々を送ってしまった。

余勢を駆って言えば、『八犬伝』に馬琴の皇国史観の反映を読む点も違和感を禁じ得ないのではあるが、もしかしたら播本さんはレベルの異なるテキストを敢えて等し並みに扱って、馬琴の言説として虚心坦懐に読むと〈思想〉が読めること、つまり作家の実生活と虚構世界を敢えて連続させる〈読み〉を、馬琴という特異な作家でやってのけたのではないか。そして、この特殊な方法は馬琴だから可能になったもので、普遍性は持っていないのかも知れないなどとも夢想してみた。それにしても、如何にして殺そうとも〈作者は死なない〉ものなのであろうか。

おそらく文学の愉しみとは〈私の何々(馬琴や八犬伝)〉を語ることに在るに違いない。その意味で本書は〈播本さんの八犬伝〉を雄弁に語っている。実は私も教室では〈私の八犬伝〉を語ることがあるが、どうして研究論文となると萎縮して書けなくなってしまうのか。この文学の愉しみと文学研究の楽しみとの分裂は、如何に止揚され得るのか。方法論的な吟味のない日本文学研究は最早研究にならない地平に立ち尽くす私は、一体何処へ向かって行けば良いのか……。

テキストを読むことが思考に具体的な言葉を与えていく営為だとすれば書評も然り。通常の書評の枠からは外れた読書感想文になってしまったが、本書が研究史に記した確かな刻印の一端に則して私見を述べ来たった。不備失礼の段ご容赦頂ければ幸甚である。

(新典社研究叢書206、二〇一〇年)

蛇足 「書舗(ホンヤ)」など部分的に難読語彙には振仮名が附されているが、意訓を施された本文の引用には振仮名が不可欠だと思う。と同時に漢文も書き下しにして欲しかった。高校の副読本の改訂を逼るには斯様な配慮も必要かと愚考した次第。


# 書評「播本眞一著『八犬伝・馬琴研究』」(完全版)(「日本文学」2011年12月号所収)
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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