曲亭馬琴(きょくていばきん)  明和四(一七六七)〜嘉永元(一八四八)

【概括】

江戸時代後期、孤高の稗史家(げさくしや)

【略歴】

 本名 瀧澤興邦(おきくに)のちに解(とく)と改む。通称 清右衛門、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、戯号 曲亭馬琴(きょくていばきん)、著作堂主人(ちょさどうしゅじん)など。(本姓+戯号である瀧澤馬琴という呼び方は正しくないので須らく排すべきである。式亭三馬のことを「菊池三馬」とは呼ばないし、十返舎一九のことを「重田一九」とは呼ばないのと同じことである。)
 明和四(一七六七)年六月九日、江戸深川海辺橋の東で旗本松平鍋五郎信成(一千石)の用人 瀧澤運兵衛興義(おきよし)(四十三歳)と妻 門(もん)(三十歳)の間に五男として生まれた。幼名 春蔵、後に倉蔵と改める。二男三男は早世し、長男 左馬太郎(羅文(らぶん)・四男 常三郎(鶏忠(けいちゅう)を兄に持ち、やがて二人の妹 蘭(らん)・菊(きく)を持つ。父は武士の道を説く反面、俳諧もたしなみ可蝶と号した。馬琴七歳の春「うぐひすの初音に眠る座頭かな」の吟があることを『罔両談』に記す。安永四(一七七五)年三月に父が五十一歳で死去し生活に窮す。主家の待遇は冷たくなり、十歳にして家督、幼君 八十五郎に仕えた。
 読書好きな馬琴にとり、わがままな幼君への奉公は耐えがたく、安永九(一七八〇)年十月馬琴十四歳の時、障子に「木がらしに思ひたちけり神の旅」と書き付けて出て行ってしまった。後に兄母と共に住み、兄の勧めで戸田家の徒士(かち)になるが、天明四(一七八四)年三月、十八歳の時再び出奔し市中を浮浪する。翌天明五年六月に母を、天明六年八月には仲兄鶏忠を亡くす。この間放蕩三昧を繰り返し瘡毒をこじらせて、それを直すために医者に奉公したこともあった。後年自ら省みて「放逸にして行状を修めず」(『吾仏乃記(あがほとけのき)』)と記している。寛政二(一七九〇)年二十四歳になった馬琴は、深川仲町の裏長屋に独居する。同年秋に当代評判の山東京伝(さんとうきょうでん)を訪ね弟子入りを頼む。六歳年長の京伝は、戯作の道を説き入門は断わったが出入りは許したという。以後しばしば京伝を尋ねた馬琴は処女作の黄表紙『盡用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)(寛政三)を京伝門人大栄山人の名で書き、芝の泉屋市兵衛から出板した。折しも京伝の洒落本三部が寛政の改革により筆禍を被り、手鎖五十日の刑に処せられる。その年秋に洪水で深川の自宅を失った馬琴は京伝の下に厄介になり、京伝の黄表紙を代作する。
 明くる寛政四(一七九二)年には京伝の紹介で書肆蔦屋重三郎の家に寄食することになる。この間に戯作のコツを学ぶ。寛政五(一七九三)年には蔦屋を去り飯田町中坂下の履物商の寡婦お百(ひゃく)に入夫。お百は三歳年上の三十歳であった。商いのかたわら手習い師匠をしていたが、お百の母が死んでからは店を廃業する。読本の初作『高尾船字文(たかおせんじもん)』を出した寛政八(一七九六)年、三十歳になった馬琴はすでに二児の父であった。翌年長男羅文が亡くなり、瀧澤家の家系を継ぐ責任が馬琴の双肩にかかってきた。その年の暮に生まれた、長男興継(おきつぐ)に対する過度の期待も理由があったのである。毎年出す黄表紙には決して満足していなかった。
 そんな馬琴にとって一大転機となるのが、享和二(一八〇二)年五月から八月にかけての上方旅行であった。その様子は『蓑笠雨談(さりつうだん)(『羈旅漫録(きりょまんろく)』)にしるされているが、歴史ある上方の文化に触れた意味は大きかった。文化元(一八〇四)年、旅行中に大坂の書肆文金堂との約束で執筆した半紙本読本の初作『復讐月氷奇縁(げっぴょうきえん)』を刊行する。好評を博して江戸と大坂で千百部売れたという。翌年『復警奇談稚枝鳩(わかえのはと)』『繍像綺譚石言遺響(せきげんいきょう)』などを刊行し、読本作家として、ようやく進むべき道を見いだす。その後、京伝作の読本との競作を板元の鶴屋喜右衛門が仕組み、江戸読本は流行小説として一ジャンルを形成するようになった。
 文化四(一八〇七)年には『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』前編を刊行し、以後四年かかって完結する。全部で五編三十九冊にわたる長編史伝物の先駆となる作品であった。文化十(一八一三)年に京伝が発表した『双蝶記(そうちょうき)』が不評に終り読本の執筆を止めるに及び、馬琴は江戸読本の第一人者となる。そして次年に発表したのが不朽の名作『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』肇(初)輯であった。この時期は朝早く起きて机に向かい、三度の食事も机辺を去らずに食べ、夜は家族を休ませてから読書を始め、暁に達することが多かった。また、毎年数多くの読本や合巻を発表し、遠方の者は馬琴という者が二人も三人も居るのかといったという。
 一方、長男興継に対する期待は大きく、幼少より手習いを教え、漢学・絵画・医儒などを師に付けて習わせた。興継が十七歳になると、医師となるため散髪させ宗伯(そうはく)と名のらせた。文政元(一八一八)年、神田同朋町に住居を求めて母と共に引越しをさせ独立させた。宗伯は文政三(一八二〇)年秋には松前志摩守の出入医者となり、二年後には筆頭として譜代の家臣並近習格となった。文政七(一八二四)年には、長女さきに二度目の婿、義嗣をもらう。名跡を譲り飯田町の家を任せ、神田同朋町の新宅に越し宗伯と同居した。馬琴五十六歳の時のことである。馬琴の厳格な教育は従順な息子を作ったが、生来虚弱であり癇性持ちであった。その宗伯が三十歳の時、医師土岐村元立(ときむらげんりゅう)の娘路(みち)を妻に迎えた。翌文政十一(一八二八)年嫡孫太郎が生まれる。宗伯は先年来の病気が再発し、以来半病人の生活を送る。この間に長女つぎ、次女さちが生まれる。天保三(一八三二)年松前老侯が亡くなってからは、廃人同様の宗伯に対する待遇も冷たくなり、医業も廃して父の著作の手伝いなどをしていた。明くる年の秋、馬琴は右眼の視力の衰えを覚える。次第に左眼もかすむようになる。ライフワークとしての『八犬伝』もまだ半ばである。
 天保六(一八三五)年五月、病が再発した宗伯は三十八歳で先だってしまった。馬琴は失望落胆の淵に立たされた。まだ八歳の太郎を支えてあと何年やっていけるか、前途には暗雲がたれ込めていた。すでに六十九歳、人生も残り少ない。亡き子を想い、孫たちのために『後の為の記』を綴る心中は察して余りある。太郎の将来のために多年集めてきた蔵書を沽却(こきゃく)し、七十の賀を名目とした書画会を開催し、屈辱的な思いで参加者に頭を下げ、鉄砲組の御家人株を買った。一方住み慣れた神田同朋町の住居を売り、四谷信濃坂の古い家を手に入れる。今となっては馬琴の筆一本が一家の生活を支えている以上、著述を止めるわけにはいかない。ところが天保十一(一八四〇)年、ついに失明。途方にくれた馬琴を支えたのは路(みち)であった。生来気丈な路女は根気よく字を習い、口述筆記で著述から書簡・日記まで馬琴の目として手としてよく働いた。老妻お百は路女と馬琴の仲に疑いを抱き、怨言を吐いては馬琴を苦しめた。一方、太郎のために蔵書の沽却も続けた。太郎が元服した翌年、お百が七十八歳で世を去った。路女の代筆で『八犬伝』続稿。この年完結する。この二人の共同作業がなければ『八犬伝』が完結することはなかった。最終巻「回外剰筆」に切々と記された辛苦の情は、読者を感動させずにはおかない。折からの天保の改革で一時著述をあきらめ、以前書きかけた家譜『吾仏乃記』を書き上げた。改革の嵐が静まった弘化二(一八四五)年から未完の読本や長編合巻の続稿を細々と再開し、嘉永元(一八四八)年十一月六日「世の中のやくをのがれてもとのままかへすはあめとつちの人形」を辞世として八十二年の生涯を終えた。天保十四年に将軍日光御参詣の供奉の役にあてられたことを喜び、瀧澤家の将来を託した太郎も、嘉永二年十月祖父の一周忌を待たずに二十二歳で後を追ったのであった。

【環境】

 馬琴が父から受けたのは厳しい武士としてのしつけであった。『吾仏乃記』に見られる父運兵衛の記述は、馬琴の心中にある武士としての理想像と見てもよいだろう。瀧澤家の出自を執拗にたどり、武家としての再興に腐心したのもこの父の教育によるものと思われる。後に『朝夷巡島記(あさいなしまめぐりのき)』で武士の魂を失わずに民間で生活する郷士(ごうし)間中隼人守直(まなかはやともりなお)の活躍を描くが、実は祖父の実家である真中(まなか)氏を意識しているのである。『八犬伝』の氷垣残三夏行(ひがきざんぞうなつゆき)、『開巻驚奇侠客伝(かいかんきょうききょうきゃくでん)』の野上史著演(のがみのぶひとあきのぶ)など馬琴の読本中で活躍する郷士が甚だ多いのも、武士としてのアイデンティティーを求めたからにほかならない(内田保廣「馬琴と郷士」『國語と國文學』一九七八・十一)
 十一、二歳頃まで浄瑠璃本を読みあさり、後には草双紙、軍書、実録などを耽読する。時には芝居へ足を運んだようだ。後年になると院本めくことを極度に嫌うようになるが、黄表紙『松株木三階奇談(まつのかぶさんがいきだん)(文化元)や『戯子名所図会(やくしゃめいしょずえ)(寛政十一)などは初期の作品の中でも芝居趣味の強いものである。また中本型読本『曲亭伝奇花釵児(きょくていでんきはなかんざし)(文化元)などは中国の戯曲を真似た正本仕立である。さらに草双紙はもちろん読本でも読者の興味を意識して芝居の趣向を用いたこともあった。いわゆる情話物では、芝居に登場する著名な人物を主人公とし「勧懲を正す」という方法を用いている。後に『富士浅間三国一夜物語(さんごくいちやものがたり)』が大阪で歌舞伎狂言に脚色上演されたことを「江戸の読本を浪花にて歌舞伎狂言にせし事是をはじめとす」(『近世物之本江戸作者部類』)と得意気に記しているのである。これらの芝居との関連も考慮する必要がある(尾崎久弥「馬琴初期の芝居好」『近世庶民文学論考』所収、中央公論社、一九七三)
 一方、父の影響もあって兄羅文とともに法橋吾山(ござん)の下に入門し俳諧の連歌を学ぶ。天明七(一七八七)年には『俳諧古文庫』を編み、羅文の死後には一周忌追善百韻を興行し、享和三(一八〇三)年には「俳諧歳時記」を出している。自詠の発句を自著の口絵の賛に添えたりもした。寛政期になると狂歌にも遊び、真顔や六樹園、太田南畝らとも交遊があった。文政七(一八二四)年には過去四十年間に詠んだ詩歌を書き留めて一冊にまとめ『自選自集雑稿』と名付けている。
 一時医を志し官医山本宗英の塾に入る。前後して亀田鵬斎の講に入ってその説を聞くが、いずれも長続きしなかった。後年製薬に手を染め、息子の宗伯を医者にする。医学や本草学の知識も多少あったものと思われる。
 二十四歳の時、京伝の下へ入門を請うのであるが、京伝は「従来の戯作というものは、師となりて教べきものなければ、弟子となりて学ぶべき道なし」(『蛙鳴秘抄(あめいひしょう)』)といったという。だが処女作では「京伝門人」と明記しており、『竜宮〓鉢木(りゅうぐうなまぐさはちのき)(寛政五)などは「趣向は京伝文は馬琴代作」(『作者部類』)とあるので、実質的には京伝に学んだと見てよい。さらに書肆に寄食しながら出板界の事情にも明るくなったものと思われる。
 滑稽を旨とし、軽妙酒脱に支えられる黄表紙というジャンルにおいて開始された戯墨の業であったが、黄表紙作家として終りたくないことを自ら感じていたに相違ない。この間に噺本、絵本、浄瑠璃などにも手を染めてみる。とりわけ、『水滸伝』を『伽羅先代萩』の世界に付会した中本型読本『高尾船字文』(寛政八)は中断してしまったが、読本というジャンルに活路を見出す契機となった作品である。
 享和二(一八〇二)年の上方旅行は、そんな馬琴にとって重要な意義を持った。上方での取材もさることながら、秋成、西鶴、近松などの噂や事跡に触れ伝統の重みを感じ取った。唐話に通達していた馬田昌調に出会ったことも収穫であった。(水野稔「馬琴の文学と風土」『国文学』一九六三・三)。江戸に戻っては伊東蘭洲らを介して次第に中国俗文学へ目を開かれていったという(徳田武「文化初年の馬琴読本と中国白話小説」『文学』一九七八・六、後に『日本近世小説と中国小説』に収録)。かくして文化初期の江戸読本の全盛期を迎えることになるのである。
 文化の末になると読本作者としての自信もでき、他の作者の読本の評を書く。刊行されたものではないが、『驫弁(へいべん)(式亭三馬『阿古義物語』評、文化七)、『おかめ八目』(京伝『双蝶記』評、文化十)。『をこのすさみ』(柳亭種彦『綟手摺昔人偶(もじてずりむかしにんぎょう)』評、文化十)である。これは読本作法模索という意味で有意義なことであった(浜田啓介「曲亭馬琴の文学評論研究序説」『近世文芸』十三、一九六七・四、後に『近世小説・営為と様式に関する私見』に収録)。さらに中国の稗史小説の評、たとえば『半閑窓談(はんかんそうだん)(『水滸後伝』評、天保二)なども書いている。
 文政期になると自作についての「評答」をする批評家グループが形成される。松坂の商人殿村篠斎(じようさい)・小津桂窓(けいそう)・江戸旗本石川畳翠(じようすい)らで、後に高松藩家老木材黙老(もくろう)も加わる。これらの愛読者たちのやりとりの中から形成されたのが、「稗史七則」と呼ばれる小説理論である。『八犬伝』九輯中帙(天保七)「付言」に発表されたもので、主客・伏線・襯線(しんせん)・照応・反対・省筆・隠微という七法則が稗史小説に適用されているというのである。中国の文学論から学んだこの法則は、馬琴独自の用語として用いられるようになり『八犬伝』にも適用されるに至るのである。
 文政期の後半には「耽奇(たんき)会」「兎園(とえん)会」という諸国の奇談や珍品の披露などをする好事家たちの寄合いにも顔を出している。その内容は後に『耽奇漫録(たんきまんろく)(文政七〜八)、『兎園小説(とえんしょうせつ)(文政八)としてまとめられている。また、越後の鈴木牧之などにも風俗資料の提供をうけ、作品に利用しているのである。

【文学的活動】

 処女作『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)(寛政八)以後京伝の代作期を経て、文化三(一八〇六)年に至るまでの十五年間に約八十種の黄表紙を書いている。初めて馬琴と署名したのは『御茶漬十二因縁(おんちゃづけじゅうにいんねん)(寛政五)である。以来、演劇の焼き直しのような不本意な作には傀儡子(かいらいし)や玉亭主人などの名を使用している。初期の作は比較的教訓臭が薄く擬人化など趣向を凝らしているが、次第に心学的教訓に基づく寓話的な傾向を帯てくる。『四遍摺(しへんずり)心学草紙』(寛政八)が京伝の『心学早染草』(寛政二)を踏襲しているように、京伝の模倣作も目につく。後期になると衒学的な要素が強くなり『春之駒象棋行路(はめるのこましょうぎのききみち)(享和元)では漢文調の序文で象棋の始源を考証して見せている。そして末期には観念的な言語遊戯性に支えられた地口(駄洒落)を多用する教訓的な見立比喩へと傾いていくのである。しかし一方では後になって読本『石言遺響』(文化二)として発展する『小夜中山宵啼碑(さよのなかやまよなきのいしぶみ)(文化元)のように、読本への準備となった作もある。
 文化期に入ると黄表紙は次第に合巻へと様式をかえるが、これは単に外見だけではなく内容の質的な変化がもたらしたものである。馬琴の場合も次第に長編化し伝奇性を帯びた作が増えてきたのであった。
 合巻の作は全部で七十五種にのぼる。文化の前半は敵討物が一世を風靡し、『敵討岬幽壑(かたきうちみさきのほら)(文化四)『敵討白鳥関(かたきうちしらとりのせき)(文化五)などはこの時流に乗ったものである。また、題名に敵討とうたわない『山中鹿介稚物語(やまなかしかのすけおさなものがたり)(文化六)など、この頃までの作品は何らかの形で敵討が絡んでおり、筋は益々複雑になってくる。文化の後半になると『姥桜女清玄(うばざくらおんなせいげん)(文化七)、『佐野次郎左衛門/傾城邪津橋・鳥篭鸚鵡助剣(とこのやまおうむのすけだち)(文化九)『比翼紋目黒色揚(ひよくもんめぐろのいろあげ)(文化十二)などのように、角書(つのがき)や題名を見てそれと分かる演劇種の翻案ものが多くなる。これらの作品は、さらにお家騒動や陰謀が絡められて、時代物の読本めいた作品『月都大内鏡(つきのみやこおおうちかがみ)(文化十三)などを生み出すことになるのである。
 文政期にはいると、天縁ある男女が最後に結ばれるという『照子池浮名写絵(かがみがいけうきなのうつしえ)(文政五)や、三世の因果宿縁を描く『甲斐背峰/越後国・梅桜対姉妹(うめさくらついのおととい)(文政七)など文化末期の延長上に位置するものが多く見られる。次第に長くなる筋や、役者の似顔で描かれる画組、三十丁という限られた紙幅は、益々文字を小さくすることを要求する。ひどい場合は欄外にはみ出したり、一頁が全て文字などという場合も出てきた。そこで出されたのが『西遊記』の翻案である。『金毘羅船利生纜(こんぴらぶねりしょうのともづな)(全八編、文政七〜天保二)や、『水滸伝』の翻案『傾城水滸伝(けいせいすいこでん)(全十四編未完、文政八〜天保六)などの長編合巻である。この試みは成功し長編合巻のブームを起こし、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)(文政一二〜)などの刊行を促すことになる。天保期に入り失明した後、口述筆記によって続稿し完結した『新編金瓶梅(しんぺんきんぺいばい)(全十集、天保二〜弘化四)は「淫書」の趣向を彩りつつ勧懲を正すという、中国文学翻案の馬琴流の方法を示したものとして注目に値する。
 一方、長編合巻とは別の行き方を試みたものに『殺生石後日恠談(せっしょせきごにちのかいだん)(全五編、文政七〜天保四)がある。これは中本型読本と合巻を折衷した体裁を持つ中途半端な形態ではあったが、合巻の読本化という馬琴の強い希望が反映されていた。しかしこの形式が一般化するには切附本(きりつけぼん)が登場する幕末を待たねばならなかったのである。
 さて、馬琴の主たる著作である読本は全部で四十種に及ぶ。冊数に直すと四百三十余冊、これは三百頁の文庫本五十冊ほどに相当する厖大な量である。馬琴の読本は勧善懲悪の原理により支えられた因果応報観による、整然とした構成美をその第一の特徴とする。また中国俗語を混ぜた和漢混淆文は、音読されることを意識した文体だといえよう。さらに近世という時代様式に制限を受けながらも登場人物の形象に興味深いものがある。これは特に女の側に多く見られるようだ。「人情」と「公道」の葛藤の渦中に苦悩する人物達を「仁義八行の化物」と切り捨ててしまうわけにはいかないのである。
 初期の読本には敵討物と呼ばれる一連のものがある。半紙本読本の初作『復讐月氷奇縁』(文化元)は近松の『津国女夫池(つのくにめおといけ)』を利用し、部分的な趣向を先行の浮世草子や中国俗語小説などから借用した習作である。『復讐奇談稚枝鳩』(文化二)、『繍像奇譚石言遺響』(文化二)、『絵入つね世物語(勧善常世(かんぜんつねよ)物語)(文化三)、『富士浅間三国一夜物語』(文化三)なども敵討物であるが、同時に伝承を世界として取り込んでいる。他にも、信田妻伝承と『敵討裏見葛葉(うらみくずのは)(文化四)、累が淵伝承と『新累解説物語』(文化四)、梅若伝承と『墨田川梅柳新書』(文化四)、鳴神上人と雲妙間姫を扱う『雲妙間雨夜月』(文化五)、佐用媛伝承と『松浦佐用媛石魂録』(文化五、後編は文政十一)などがある。中本型読本では、皿屋敷伝承と『盆石皿山記』(文化三〜四)、苅萓伝承と『苅萱後伝玉櫛笥(かるかやごでんたまくしげ)(文化四)、浅草一ッ家伝承と『敵討枕石夜話(しんせきやわ)(文化五)などがある。これらは流布する伝承を多くの先行作品を介して取り込み、複数の伝承を付会することが多い。源頼光とその四天王の武勇伝『四天王剿盗異録』(文化二〜三)や園部左衛門・薄雲姫伝説を扱う未完の『標柱そのゝゆき』(文化四)、継子話に『怪談老の杖』や『繁野話』を付会した『皿々郷談』(文化十二)などは伝説物とよばれる。敵討物と伝説物の区別は判然としないが、初期のものに強かった怪異性は次第に薄くなり、歴史的背景の設定に史実を重んじるようになっていく。
 文化の後半になると巷談情話物が多くなる。もっとも初期にも中本型読本では、権八・小紫を素材とする『小説比翼文』(文化元)、佐野次郎左衛門・八橋を扱う『敵討誰也行燈(たそやあんどう)(文化三)、粂平内や薄雪を扱う『巷談坡堤庵(こうだんつつみのいお)(文化五)などが見られるが、半紙本では碗久松山を扱う『括頭巾縮緬帋衣(くくりずきんちりめんかみこ)(文化五)、三勝・半七『三七全伝南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)(文化五)、お俊・伝兵衛『旬殿実々記(しゅんでんじつじつき)(文化五〜六)、お染・久松『松染情史秋七草(しょうせんじょうしあきのななくさ)(文化六)、お夏・清十郎『常夏草紙(とこなつぞうし)(文化七)、お花・半七『占夢南柯後記(ゆめあわせなんかこうき)(文化九)、小糸・佐七・お房『糸桜春蝶奇縁(いとざくらしゅんちょうきえん)(文化九)、お駒・才三『美濃旧衣八丈綺談(みののふるぎぬはちじょうきだん)(文化十一)などである。これらは浄瑠璃歌舞伎に取材しているが、換骨奪胎により男女の色恋を道義化して見せている点や、奇抜な人間関係の設定に馬琴らしさがうかがわれる。
 この期には、寓話物の『夢想兵衛胡蝶物語(むそうびょうえこちょうものがたり)(文化七)、『昔語質屋庫(むかしかたりしちやのくら)(文化七)、裁判物とでもいうべき『青砥藤綱模稜案(あおとふじつなもりょうあん)(文化八〜九)などもある。
 読本中、最も馬琴が本領を発揮したのは後期の史伝物である。しかしこれも突然成立したのではなく『椿説弓張月』(全五編、文化四〜八)、や『頼豪阿闍梨怪鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)(文化五)、『俊寛僧都島物語』(文化五)などで見せた歴史上不遇な英雄などを史実を取り込みながら稗史の側から描く、という方法の延長上にあるのである。しかし構想の規模からいえば『南総里見八犬伝』(文化十一〜天保十三)には遠く及ばない。長編史伝物の中で完結したのはこの『八犬伝』だけである。『朝夷巡島記』(文化十一〜文政十一)は六編二十九巻までで中断しており、題名にある島巡りまで至っていない。『近世説美少年録(きんせせつびしょうねんろく)(文政二〜天保三)四輯から改題『新局玉石童子訓(しんきょくぎょくせきどうじくん)(弘化二〜嘉永元)は善悪二少年の成長の過程を描き、ついには厳島合戦で毛利元就と陶晴賢として戦う構成であったが、これも巌島合戦にはまだ遠い途中で中断している。最後の作である『開巻驚奇侠客伝』(天保三〜六)は、南朝の子孫が南朝に忠誠を尽くす物語で、足利氏に筆誅を加えて南朝の忠誠を評価しようとするものである。これも四集二十巻で中絶しているが、史伝物における馬琴の立場を顕著に示している点は注目に値する。

【代表作解題】

★南総里見八犬伝

 長編史伝物の傑作。我国小説史上の雄編で、九十八巻百六冊にも乃ぶ。肇輯(初輯)が発行された文化十一(一八一四)年以来二十八年間を費やし、天保十三(一八四二)年に至って完結した。
 生涯の苦楽を尽くしたライフワークであり、その道程では息子宗伯を亡くし、自らの目は明りを失い、何度その完成をあきらめかけたかしれない。完結間近の天保十二(一八四一)年に発行された第九輯下帙下編之中下の巻頭に、戯れに書き付けた「知吾者。其唯八犬伝歟。不知吾者。其唯八犬伝歟」という文句に自嘲的ではあるが深い嘆息が込められている。
 一方、出板事業としても多くの困難を伴った。いくら超ベストセラーであっても資金面での負担は相当なものであり、板元も二転三転している。これらの多くの困難が克服できたのは、日本の『水滸伝』、つまり一大長編稗史小説を作り上げたいという執念ともいえる馬琴の情熱があったからにほかならない。
 さて、物語の発端は、里見義実の娘伏姫が妖犬八房の物類相感による気を受け懐胎し、その身の潔白を証すために自らの腹を裂く。すると白気が立ちのぼり仁義礼智忠信孝悌の八つの玉が飛散するという、『水滸伝』の発端部の翻案によっている。この玉を所有する八人の少年たちは名字に「犬」の一字がつく。すなわち犬塚信乃、犬川壮介、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬村大角、犬坂毛野、犬江親兵衛で、いずれも体のどこかに牡丹(ぼたん)形のあざを持っている。不思議な因縁を持つこの犬士たちが邂逅し離散し、ついには安房国に集結して里見家に仕え、対管領戦の重鎮となり完全な勝利をもたらすことになるのである。流麗な文体と相まって複雑で波乱に富む筋は、怪異や奸雄淫婦との葛藤などを織り混ぜながら、勧善懲悪の原理によって整然とした構成が与えられている。従来、八犬士が具足するまでを第一部、親兵衛の上京・対管領戦・大団円を第二部と分けて考えられてきた。第一部すなわち犬士たちの列伝は面白いが、第二部は蛇足であり、およそ面白くないという評が一般的である。
 そもそも執筆の当初はこれほど大部なものになる予定ではなかったが、次第に拡大していき、ついに現在の規模となってしまったのである。これは構想と深くかかわる問題であり速断はできぬが、高田衛が『八犬伝の世界』(中公新書、一九八〇)で実証してみせた「八文字殊曼陀羅」を典拠とするという構想論は、第二部が単に蛇足ではなく、馬琴にとって必要かつ欠くべからざるものであったことを示している。
 『八犬伝』は単にテキストとして流布しただけでなく、何度も歌舞伎に脚色され上演され続けてきたし、錦絵にも画題を提供し、さらにキャラクター商品として、手ぬぐい、張子や双六などあらゆるものに利用されたという。また『仮名読八犬伝(かなよみはっけんでん)(三十一編、二代為永春水・曲亭琴童〈お路(みち)〉・仮名垣魯文、嘉永元〜明治元)や『雪梅芳譚犬の草紙(せつばいほうだんいぬのそうし)(六十編、笠亭仙果抄録、嘉永元〜明十五)などというダイジェスト合巻としても広く流布し、さらには常磐津、狂歌本、講談種、春本にまで扱われたのである。
 近年では、横内謙介による斬新な台本と市川猿之助演出主演のスーパー歌舞伎『八犬伝』(新橋演舞場、一九九三年初演)が上演され、また商業演劇『八人の剣士の物語』(日生劇場、一九九三年)や映画『里見八犬伝』第一〜三部(東映、一九五九年)、同『里見八犬伝』(角川映画、鎌田敏夫脚本)があり、テレビ人形劇『新八犬伝』(NHK、石山透脚本、一九七三〜一九七五年)が人気を博した。また、アニメーション『THE 八犬伝』ともなった。このアニメの原作として出発したコミック版である碧也ぴんく『八犬伝』(角川書店、一九八九〜)もある。
 残念なことに完全なテキストの復刻はまだないが、小学館より古典文学全集シリーズの別巻として若手八人による注釈付きテキストとして『完本・南総里見八犬伝』(全八冊)の刊行が予定されている。また、岩波書店から初摺本を底本にして口絵や挿絵を網羅したテキストが出されており、後に文庫本化された。このほか『八犬伝』に関する出板は多い。現代語訳としては、『南総里見八犬伝』(白井喬二訳、日本古典文庫十九、河出書房新社、一九七六)、安西篤子の『南総里見八犬伝』(集英社文庫、一九九六)、平岩弓枝『南総・里見八犬伝』(中公文庫、一九九五)など数種がある。『グラフィック版南総里見八犬伝』(世界文化社、一九八〇)や、徳田武『八犬伝の世界』(NHK文化セミナー江戸を読む、NHK出版、一九九五)などには親切な解説や豊富な図版などがあり、手軽に『八犬伝』の魅力の一端を知ることができる。また、「『八犬伝』の世界−「夜」のアレゴリー」(『前田愛著作集』第一巻、筑摩書房、一九八九)も鑑賞上示唆に富む。
 なお、インターネットを通じて公開されているホームページにも『八犬伝』関係のものがあり、中でも「白龍亭」は量質ともに出色である。

★椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)

 長編史伝物の先駆をなす作品で、五編二十八巻二十九冊、葛飾北斎(かつしかほくさい)が挿絵を描いている。文化四(一八〇七)年より四年間にわたって刊行され文化八(一八一一)年に完結した。執筆当初はこれ程の長編になるとは意図していなかったが、次第に構想に肉付けされて大部の作となったのである。『八犬伝』には比すべくもないが、初期の作でもあり、やはり傑作といえよう。
 序文に「この書保元の猛将八郎為朝の事蹟を述。その談唐山の演義小説に做ひ多くは憑空結構の筆に成。閲者理外の幻境に遊ぶとして可なり」とあるように、保元の乱後大島へ流された為朝を主人公とし、この不遇の英雄を生き長らえさせて、理想的な英雄像を描いたものである。その際、中国の小説『水滸後伝』や『狄青演義(てきせいえんぎ)』などから趣向を借りている。大島・八丈島・琉球の地誌類を博捜したスケールの大きなものとなっている。
 さて、物語は、為朝が大島へ流された後讃岐へ逃れ、清盛征討の挙兵途上難船し親子主従が離散するまでの日本を舞台とする前半と、琉球国で暗愚な王の下奸臣が悪躍することを知り、その影で糸を操る濛雲(もううん)の勢を破り一子舜天丸(すてまる)が即位することを描く後半とに分けられる。この後半については『八犬伝』の第二部と同様に蛇足の感がするが、構想上は伏線などにより前半と緊密な展開を見せている。
 部分的にではあるが、上田秋成の『雨月物語』の「白峯」に基づく崇徳院の陵に詣でる一条や、『苅萱桑門筑紫〓(かるかやどうしんつくしのいえづと)』などによった再会した親子がそれと名乗れない一条なども馬琴らしい読本の方法により再編されていて興味深い。
 『弓張月』も演劇に脚色され浄瑠璃や歌舞伎になっている。なかでも昭和四十四年の三島由紀夫の脚色による上演は記憶に新しい。これは作品その物に備わる演劇的要素が多かったからではあるが、特に『弓張月』だけの特徴ではない。ダイジェスト合巻として『弓張月春宵栄(ゆみはりづきはるのゆうばえ)(二十五編、西馬・魯文、嘉永四〜慶応三)などがあり、また、錦絵、双六などにも題材を供した。
 テキストは、後藤丹治『椿説弓張月』上・下(日本古典文学大系、岩波書店、一九五八、一九六四)が最もよい。板坂則子編『椿説弓張月 前編』(笠間書院、一九九六)は初摺本を底本とする影印。高藤武馬『椿説弓張月』(古典日本文学全集二七、筑摩書房、一九六五)はほぼ逐語的な現代語訳であり、解説も親切である。一方、平岩弓枝『椿説弓張月』(現代語訳日本の古典二十、学習研究社、一九九〇)は、豊富に図版を用いたダイジェストである。

【参考資料】

 伝記資料としては、洞富雄・暉峻康隆・木村三四吾・柴田光彦『馬琴日記』一〜四(中央公論社、一九八〇)が現存の日記を網羅しており、小林花子「曲亭馬琴書簡特集」(『上野図書館紀要』三、四、一九五七、壱九六〇)、柴田光彦『早稲田大学/図書館所蔵・曲亭馬琴書簡』(『早稲田大学図書館紀要』別冊三、一九六八)、三村清三郎「曲亭書簡集」(『日本芸林叢書』九、鳳出版、一九七二)、木村三四吾『馬琴書翰集』(『天理図書館善本叢書』五三、八木書店、一九八〇)、関口光「曲亭来簡集」(『国立国会図書館所蔵貴重書解題十二 書簡の部第二』、紀伊国屋書店、一九八二)、大澤美夫・柴田光彦・高木元『日本大学総合図書館蔵・馬琴書翰集』(八木書店、一九九二)などに大半の書簡が紹介されていたが、柴田光彦・神田正行『馬琴書翰集成』全七巻(八木書店、二〇〇二〜四)に集大成された。家記として影印版の木村三四吾・浜田啓介『吾仏乃記』(『近世文芸叢刊』九・一〇、般庵野間光辰先生華甲記念会、一九六九)と同書の翻刻である木村三四吾『吾佛乃記−滝沢馬琴家記』(八木書店、一九八七)とがあり、一方、木村三四吾『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八)は自作についての記述も多い。また、木村三四吾『路女日記 嘉永二−五』(私家版、一九九二)、『後の為乃記』(『藝文余韻−江戸の書物』木村三四吾著作集IV資料編、八木書店、二○○○)も参考になる。この他『曲亭遺稿』(国書刊行会、一九一一)に収められた「著作堂雑記抄」なども有用である。
 これらの資料を博捜してまとめられたものが、植谷元・石川真弘・鮫島綾子『馬琴年譜稿』(『ビブリア』三七、三八、一九六七〜六八)である。この成果をふまえた板坂則子「馬琴年表」(図説日本の古典十九『曲亭馬琴』、集英社、一九八〇)は作品年表という点に力点が置かれている。
 坪内逍遥『小説神髄』以来の馬琴評価に対し伝記的側面から光を当てた、真山青果「隨筆瀧澤馬琴」(『真山青果全集』十七、講談社、一九七五、後に岩波文庫『随筆滝沢馬琴』に収録)は、馬琴に深い同情と理解を示した好著である。暉崚康隆「瀧澤馬琴の生涯」(『近代文学の展望』明治書院、一九五三)、麻生磯次『瀧澤馬琴』(『人物叢書』吉川引文館、一九六三)、小池藤五郎「手紙・日記・家記の検討による瀧澤馬琴の周辺」(上)、「作品・筆跡・肖像画などによる瀧澤馬琴の姿」(下)一・二(『立正大学文学部論叢』三六・三八・四〇、一九七〇・七一)などもある。麻生磯次『瀧澤馬琴』(三省堂、一九四三)は総合的な馬琴研究書であるが、その生涯についても詳しい。
 これまでの馬琴研究では作品よりもむしろ人物にその焦点が当てられてきた。これを反映して作品の翻刻・復刻は甚だ少ない。その中で比較的多いのが随筆類である。耽奇会の記録『耽奇漫録』上下(日本随筆大成第一期別巻、吉川弘文館、一九九四)、兎園会の記録『兎園小説』(『日本随筆大成』二−一、吉川弘文館、一九七三)、『兎園小説外集』・『兎園小説別集』・『兎園小説余録』・『兎園小説拾遺』(日本随筆大成』二−三・四・五、『新燕石十種』六・七、中央公論社、一九八一)、上方旅行の見聞録『羈旅漫録』(『日本随筆大成』一−一)、方位を論じた『改過筆記(かいかひつき)(『続燕石十種』三、中央公論社、一九八〇)、京伝の伝『伊波伝毛乃記(いわでものき)(『新燕石十種』六)、只野真葛の『独考(どっこう)』批判『独考論』(『新燕石十種』三)などのほかに『玄同放言(げんどうほうげん)(『日本随筆大成』一−五)、『著作堂(ちょさどう)一夕話』(『日本随筆大成』一−一〇)、『亨雑の記』(『日本随筆大成』一−二一)、『燕石雑志』(『日本随筆大成』二−一九)がある。
 一方、作品のテキストは半世紀以前に翻刻された叢書類に少なからず収められてはいるが、序跋・口絵・挿絵を欠いたものが多い上、校定が杜撰であるから使用には注意を要する。『曲亭馬琴翁叢書』(銀花堂、明二十〜二十五)、『帝國文庫』(博文館、明二十〜三十)、『續帝國文庫』(博文館、明三十〜)、『古今小説名著集』(礫川出版、明二十四)、『国民文庫』(国民文庫刊行会、明四十二〜)、『繪本稗史小説』(博文館、大六〜十一)、『近代日本文学大系』(国民図書、昭二)などである。比較的良心的なものを挙げれば、『有朋堂文庫』(有朋堂書店、明四十四〜昭五)所収『近世少美少年録』など、『絵入文庫』(絵入文庫刊行会、大四〜六)所収『糸桜春蝶奇縁』他、『袖珍絵入文庫』(絵入文庫刊行会、大六〜七)所収『八丈綺談』他、『日本名著全集』(興文社、昭二)所収『南総里見八犬伝』他、『岩波文庫』所収『胡蝶物語』『南総里見八犬伝』などであるが、初摺本を底本としたものはなく決して満足できるものではない。ただし、『南総里見八犬伝』全十巻(岩波書店、後に新版の岩波文庫として刊行。)は初摺本を底本として口絵挿絵もすべて載せた現時点では最良のテキストであるが、それでも表紙・見返し・広告・刊記などを欠き、またパラルビにした本文においても左注や頭注を欠いており、やはり完全なテキストとはいえない。また、濱田啓介編『南総里見八犬伝』全十二巻(新潮日本古典集成別巻、新潮社、二〇〇三〜)の刊行が開始され、10ポイント明朝体でゆったりと組まれた読みやすい本文を提供している。
 以下初摺本を使用し、校定が確かで信頼できると思われるものを紹介しておく。黄表紙では、林美一「曲亭馬琴好色黄表紙集」(『未刊江戸文学』三、未刊江戸文学刊行会、一九五二)、清田啓子「翻刻曲亭馬琴の黄表紙」一〜十一(『駒沢短期大学研究紀要』三〜二四、一九七五〜一九九六)、板坂則子「翻刻解題曲亭馬琴の黄表紙−享和元年」一〜五(『群馬大学教育学部紀要』人文・社会科学編三一〜三五、一九八一〜一九八五)などがある。合巻では『敵討身代利名号(みがわりみょうごう)(織田一磨『江戸軟派全集』第二期、「草双紙集」第一、江戸軟派全集刊行会、一九二八)があり、さらに板坂則子『曲亭馬琴の短編合巻』一〜六(『群馬大学教育学部紀要』人文・社会科学編三六〜四一、一九八七〜一九九二)、同『曲亭馬琴の短編合巻』七〜十二(『専修国文』五二・五四・五六・五七.五九・六十、一九九三〜)が継続的に紹介している。また『殺生石後日怪談』(水谷不倒、家庭絵本文庫、大6〜7)も挿絵を全図紹介していて参考になる。底本が再板ではあるが『大師河原撫子話(だいしがわらなでしこばなし)(古江亨仁、丸井図書出版、一九七七)は表紙もカラーで紹介している。読本では後藤丹治『椿説弓張月』上・下(日本古典文学大系60・61、岩波書店、一九五八、一九六四)と、横山邦治・大高洋司『開巻驚奇侠客伝』(新日本古典文学大系、岩波書店、一九九八)、徳田武『近世説美少年録』1〜3(新編日本古典文学全集、小学館、一九九九〜二○○一)が校注付きテキストとして備わっている。また、内田保広『近世説美少年録』上下、内田保広・藤沢毅『新局玉石童子訓』上下(叢書江戸文庫、国書刊行会、一九九三〜二○○一)もある。
 中本型読本では『巷談坡堤庵』(林美一、『未刊江戸文学』十四・十七、一九五五)、『高尾船字文』(檜谷昭彦『国文学論叢』六、至文堂、一九六三)、『敵討枕石夜話−解題と翻刻−』『敵討誰也行燈−解題と翻刻−』『曲亭伝奇花釵児−解題と翻刻−』『盆石皿山記−解題と翻刻−』上下(高木元『研究実践紀要』四〜八、明治学院東村山中高、一九八一〜一九八五)、『小説比翼文』(高木元、『中本型読本集』、叢書江戸文庫24、国書刊行会、一九八九)などがあり、高木によって全八作の翻刻が出されている。なお、影印では『刈萱後伝玉櫛笥』(内田保広、三弥井書店、一九八〇)がある。
 短編読本の影印本は、早くに大高洋司『新累解脱物語』(和泉書院、一九八五)があるが、鈴木重三・徳田武『馬琴中編読本集成』(汲古書院、一九九五〜)が出ており『月氷奇縁・石言遺響』『稚枝鳩・三国一夜物語』『四天王剿盗異録』『勧善常世物語・敵討裏見葛葉』『墨田川梅柳新書・標注そののゆき』『旬殿実々記』『雲妙間雨夜月・三七全伝南柯夢』『俊寛僧都嶋物語』『頼豪阿闍梨恠鼠傳』『松浦佐用媛石魂録』『松染情史秋七草・常夏草子』などが、最善本によって容易に机辺で読む事ができるようになった。一方「読本善本叢刊」という企画も始り、服部仁『夢想兵衛胡蝶物語』(和泉書院、一九九七)が出た。また、清田啓子『曲亭馬琴読本漢文体自序集』(江戸期漢文體庶民文学類藪(三)、朋文出版、一九八八)も影印で出されている。
 しかしながら、まだ信頼しうるテキストの出版は決して多くはないので原本に当たる必要もある。もちろん変体仮名を習得する必要があるが、読本はすべてに振り仮名がついているのでさほど困難なことではない。現在、国会図書館をはじめとして、都立中央図書館、早稲田大学、天理図書館、東京大学、京都大学などが比較的まとまった量の資料を所蔵している。これらの機関を訪ねる際に手放せないのが鈴木重三「馬琴読本諸版書誌ノート」(『絵本と浮世絵』美術出版社、一九七九)、月定保子「曲亭馬琴の短編合巻目録」(『国文』三〇、一九六九)、国領不二男「滝沢馬琴の黄表紙目録」(『国語国文学会誌』九、一九六六)などである。
 研究書としては、徳田武『馬琴』(日本文学研究叢書、有精堂、一九七四)や、板坂則子『馬琴』(日本文学研究論文集成22、若草書房、二○○○)に必読論文が集大成されており、解説では研究史が展望されたうえで参考文献一覧も添えられている。後藤丹治『太平記の研究』(河出書房、一九三八)、麻生磯次『江戸文学と支那文学』(三省堂、一九四六、のちに『江戸文学と中国文学』と改題)は主として読本の典拠に関する論考、水野稔『江戸小説論叢』(中央公論社、一九七四)は示唆に富む論考を多数収めるが、「馬琴の長編合巻」「馬琴の短編合巻」は、「黄表紙」(『ビブリア』六二、一九七五)と合わせて、馬琴の草双紙の全貌を解明した労作である。徳田武『日本近世小説と中国小説』(青裳堂書店、一九八七)は主として中国典拠に関する研究、濱田啓介『近世小説・営為と様式に関する私見』(京都大学出版会、一九九三)は馬琴の文学評論に関する論や書肆と関係さらに八犬伝論を載せる。高木元『江戸読本の研究』(ぺりかん社、一九九五)にも馬琴に関係する言及が多い。服部仁『曲亭馬琴の文学域』(若草書房、一九九七)は馬琴の人と文学に関する論稿の集大成、木村三四吾『滝沢馬琴−人と書簡』(木村三四吾著作集II、八木書店、一九九八)は天理図書館西荘文庫所蔵の馬琴書翰をめぐる論文を集める。
 入門書としては、水野稔『馬琴』(日本古典鑑賞講座、角川書店、一九五九)が『八犬伝』『弓張月』の一部分にではあるが評釈を加え、巻末には林美一による「研究史物語」「参考文献」があり便利である。一方、中村幸彦・水野稔『秋成・馬琴』(鑑賞日本古典文学、角川書店、一九七七)は前書の改訂版で、秋成と同居したため『弓張月』は割愛されている。この巻末にも徳田武による「参考文献」がある。水野稔・鈴木重三他『曲亭馬琴』(「図説日本の古典」十九、集英社、一九八〇)には多数の貴重な資料の図版が紹介されていて楽しい。『滝沢馬琴』(新潮古典文学アルバム23、一九九一)も題名には問題があるもの、八犬伝と弓張月に多くの頁を割いている。
 杉本苑子『滝沢馬琴』上・下(文芸春秋、一九七七)、森田誠吾『曲亭馬琴遺稿』(新潮社、一九八一)は作家の手がけた評伝。平岩弓枝『へんこつ』上・下(文春文庫、一九八六)や、朝日新聞に連載された山田風太郎『八犬傳』上下(角川文庫、一九○○)は八犬伝の世界と馬琴の実生活を綯い交ぜにした小説で面白い。
 雑誌論文や論集におさめられたものを挙げる余裕はないが、『国語と国文学』(一九七八・十一)は、「曲亭馬琴特集号」で現在第一線で活躍する研究者の論考十二本を掲載している。また、『讀本研究』第七輯(渓水社、一九九三)は八犬伝の小特集である。ここで触れられなかったものについては前述の参考文献目録や高田衛『秋成集』(尚学図書、一九八一)巻末の稲田篤信による「参考文献解題」、横山邦治『読本研究文献目録』(渓水社、一九九三) などを参照されたい。


# 『研究資料日本古典文学』第四巻「近世小説」、明治書院、1983
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