◆1831(天保2年) 〜 1840(天保11年)
高 木  元

【南総里見八犬伝の執筆背景】 江戸読本における不朽の名作『南総里見八犬伝』、既にこの時期には八犬士も出揃って佳境に入り、小文吾の闘牛見物の場面(第八輯)から対管領戦の最終局面(第九輯下帙下編中)の大団円直前に至る後半の大部分が執筆された。しかし、天保四年馬琴六十七歳の初秋には右目の視力が衰退し、同六年五月には最愛の息子宗伯に先立たれた。同十一年には両眼病衰してほとんど視力を失ってしまうが、かろうじて天保十二年正月から嫁である路女の手を借りて口述筆記により執筆を再開する。同年二月には妻お百が歿す。このように馬琴の晩年は凄惨をきわめたのであったが、『八犬伝』の完結に向けた並々ならぬ執着と情熱とが、この大長編国字稗史(よみほん)を国文学史上に残したのである。

【小説の長編化】 『八犬伝』とほぼ同時に執筆された長編読本『開巻驚奇侠客伝(きようきやくでん)』は、第四集が天保六年に出され未完に終わる。また、『近世説(きんせせつ)美少年録』は天保三年に第三輯が出て中断し、天保改革後に『新局玉石童子訓』と改題して続刊されるが、これも弘化五年に第六輯が出たところで未完に終った。このほかにも、最も長い読本として知られる岳亭丘山・知足館松旭『俊傑神稲水滸伝(しゆんけつしんとうすいこでん)』全二十八編(文政十一年〜明治十五年)や、東籬亭『絵本通俗三國誌』全八編(天保七年〜十二年)などの長編物が数多く刊行されている。一方、草双紙の方では、長編合巻流行の契機ともなった馬琴『金毘羅船利生纜(こんぴらぶねりしようのともづな)』全八編(文政七年〜天保二年)や、『傾城(けいせい)水滸伝』全十三編(文政八年〜天保六年)、『新編金瓶梅(きんぺいばい)』全十編(天保二年〜弘化四年)などが出る。これらの読本や草双紙に見られる長編化現象は『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』など中国の章回体小説の翻案という方法によってもたらされたものである。一方、長編合巻の代表作ともなった柳亭種彦『偐(にせ)紫田舎源氏』全三十八編(文政十二年〜天保十三年)や、複数作者の継作により種員(たねかず)・二世種彦・種清『白縫譚(しらぬいものがたり)』全九十編(嘉永二年〜明治十八年)、京山・秀賀『教草(おしえぐさ)女房形気』全二十五編(弘化三年〜明治元年)、笑顔・一筆庵・種員『児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)』全四十三編(天保十年〜慶応四年)などが陸続と出板されることになる。長編でも山東京山『昔模様娘評判記』全六編(天保六年〜十三年)や『大晦日曙艸紙(おおみそかあけぼのそうし)』全二十五編(天保十年〜安政六年)のように、いくつかの説話を描く「読切連載型」とでも呼ぶべきものもある。いずれにしても、安定した売行を求めた板元の営業戦略という側面があったはずである。

【人情本】 人情本とは、遠く洒落本の流れを汲みつつ、主として世話種を扱った中本型の読本を経由し、会話体を交えた文体によって写実的に男女の情愛を描いたジャンルである。早くは文政初頭から見られて、内容的に中本型読本との境界は瞹昧であるが、色摺りの口絵を備えた一編三冊という体裁は人情本の定型となる。主流を形成したのは二代目楚満人(そまひと)こと為永春水で、『春色梅暦』全四編(天保三年〜四年)で大当たりを取り、以下続編として『春色辰巳園(たつみのその)』『春色恵之花(めぐみのはな)』『春色英對暖語(えいたいだんご)』『春色梅美婦禰(うめみぶね)』が出され、この追随作も少なくなかった。このほか春水の人情本は数多いが、実態的には弟子達との合作であったことが知られている。一方、筆耕をしていた筑波仙橘(つくばせんきつ)が曲山人と名のって補綴した『仮名文章娘節用(かなまじりむすめせつよう)』全三編(天保元年〜五年)や、松亭金水『閑情末摘花』全五編(天保十年〜十二年)、鼻山人『心意気』(天保四年〜五年)などは、春水流の人情本とはやや異なった趣きを備えたものであった。大衆小説としての人情本の流行は目覚ましいものがあり、近代文学に与えた直接間接的影響についても指摘が備わっている。

【啓蒙実用書】 天保期は地震や飢饉や政情不安などが人々を不安にしていたが、この時期の出板物として、山東京山の合巻『豊年百姓鏡』(天保六年)と『百姓玉手箱』(天保八年)や、大蔵永常『農家心得草』(天保五年)など一連の農業書、高井蘭山『経済をしへ草』(天保四年)など、啓蒙的な実用書が出されている点は見逃せない。おおっぴらな事件報道が禁じられていた時代に、戯作者達がライターとしての腕を買われたのである。これらの現象は、彼等が以前から往来物の編纂を手掛けていたことを見ても意外な現象ではないが、時流に則した戯作者達と出板界との関係を示唆している。

【歌舞伎十八番】 歌舞伎十八番とは、代々の団十郎によって演じられてきた「荒事」という市川家の芸による一幕物時代狂言のことである。天保三年三月の市村座にて八代目団十郎の襲名披露に際し、七代目改め海老蔵は摺りものを出し「歌舞伎狂言組十八番」を披露し「助六」を上演した。その後、天保十一年三月河原崎座で「勧進帳」が上演された時「歌舞伎十八番之内」と看板を出し、以後定着したという。「不破・鳴神・不動・嫐(うわなり)・象引・景清・暫(しばらく)・勧進帳・助六・外良売(ういろううり)・矢の根・押戻(おしもどし)・関羽・七つ面・毛抜・解脱・蛇柳(じややなぎ)・鎌髭(かまひげ)」の十八種。

【漢詩文】 漢詩文は近世期全般を通じて行われたが、頼山陽『日本外史』(天保七、八年)が出され、摺りを重ね多くの読者を得た。また、寺門静軒『江戸繁昌記』(天保三年〜七年)は、天保改革前夜の太平の世を活写し「繁昌記」ものという漢文戯作の型を作った。これら書画詩文などの諸芸を担った文人達は書画会などを催して交流を深めていた。

〔この期の特記事項〕
* 鼠小僧次郎吉の処刑
* 天保の大飢饉
* 仙石騒動・大塩平八郎の乱
* 歌舞伎十八番の制定
* 曲亭馬琴「書画会」を開く
* 人情本流行する
* 良寛・猿候庵・一九・頼山陽・蘭山歿
* 五代目菊之丞・五代目幸四郎歿


◆1841(天保12年) 〜 1850(嘉永3年)

【内憂外患】 国内では農村と都市との社会構造の転換が引き起こした諸矛盾が、たび重なる大飢饉を引金として噴出し、天保八年の大塩平八郎の乱を頂点とする民衆蜂起が不穏な社会状況を作り出していた。対外的にも、モリソン号事件を発端として異国船打払令の再検討や江戸湾防備策を講じるなど、危機感が深刻化していた。これに加えて財政的にも破綻をきたしており、天保十二年に徳川家斉が没するや、腐敗堕落した社会を改革しようと老中水野忠邦が所謂天保改革を開始した。これは、綱紀粛正・倹約励行・風俗是正をめざしたもので、奢侈の取締は庶民生活の細部にわたるまできわめて綿密に徹底的に行われた。しかし強権的な大名・農民・町人政策に対して各階層の反発抵抗が大きく、結局は矛盾が一層深まっただけで、かえって幕府の弱体化を招き、天保十四年の忠邦の失脚とともに終息へ向かった。

【人情本の絶板】 風俗矯正の一環として天保十二年十二月末に人情本と春画本との摘発が行われ、板元の持っていた本と板木とが押収された。板元と中心的作者と目された為永春水は翌十三年一月末から北町奉行所にて吟味を受け、六月には作品の焼却と板木の破砕、板元七人と画工である歌川国芳、板木師三人に対して過料五貫文、さらに春水も手鎖五十日に処された。春水はその後の不摂生で天保十四年十二月二十三日に没している。この事件に端を発した規制の嵐は江戸の出板界全体を震撼させ、ほとんどの出板活動が麻痺してしまった。馬琴が殿村篠齋(じようさい)に宛た書翰にも「今後は執筆を断念せざるをえない」と漏らしている。また『小説年表』に一瞥を加えても天保十四年に発行された書物が極端に少ないことが確認できる。弘化一、二年からは少しづつ刊行が再開されるが、草双紙の表紙絵に淡彩を用いたり、ことさらに教訓めいた題名を付したものが多い。嘉永に入るとほぼ改革前の状態に戻るが、馬琴の死をはじめとして多くの戯作者が世を去り、今度は深刻な作者不足に見舞われることになる。

【偐紫田舎源氏の絶板】 馬琴の『著作堂雑記』が記すところによれば、天保十三年六月に板元の鶴屋喜右衛門が町奉行所へ召出されて吟味を受け板木の提出を求められた。ところが、鶴喜は資金繰りのために三十九篇迄の板木を質入れしていたので慌てて金策に走り、なんとか請出して差出したが、結局は絶板処分になった。風説では大奥描写が絶板処分の原因のようにいわれているが、実際には華やかな表紙絵を誇っていた草双紙に対する華美な装幀禁止の見せしめにされたものと考えられる。種彦自身も同年七月十八日に病死しているが死因については自殺説も取り沙汰された(佐藤悟「種彦の死は自殺か」國文學27-8)。しかし本作の評判は衰えず、弘化末からは続編が刊行され始め類作をも産むことになる。

【株仲間の解散】 天保十三年三月二日、株仲間の解散が命じられ、仲間行事を経て名主改めを受けるという出板手続きが取れなくなった。しかも新たな検閲制度が定められなかったので、新規の出板が不可能になった。しかし六月三日に出された町触れにより、新たな出板は名主の下見を受けてから町年寄館市右衛門を経て町奉行所の許可を要することになった。さらに著書には作者の実名を記すことが義務づけられ、錦絵や草双紙については題材や彩色に対する制限が打ち出された。長編物の出板も見合わされることとなり、馬琴の読本『近世説美少年録』なども一時出板が途絶えた。この通達も弘化を過ぎると次第に骨抜きになり、その結果として重板類板をチェックする機能が存在しなくなってしまうという一種の無秩序状態が生じた。この事態は嘉永四年の諸問屋仲間復興許可まで続き、新興の板元が台頭する契機となるのである。

【中村座・市村座の移転】 天保改革が庶民に対する徹底した規制をなした象徴ともいえるのは、華美奢侈の極みと目された歌舞伎に対する弾圧であろう。天保十二年十月六日の出火を機に中村座と市村座の浅草への移転命令が出され、また森田座の控櫓であった河原崎座も天保十四年には浅草へ移転した。悪所といわれた芝居町を江戸市中から離すためである。さらに翌十三年六月二十二日には七世市川団十郎が贅沢三昧の咎にて江戸十里四方追放とされる。江戸の人気役者に対する象徴的処罰という意味合いの濃い措置である。また寺社の祭礼に芝居の上演を禁じ、多くの寄席を取り潰し演目を軍書などに制限し、錦絵や草双紙表紙に役者似顔絵の使用が禁じられた。

【武者絵本の流行】 弘化期以降、中本で全丁絵入りの英雄武勇一代記風のものがたくさん出されるという現象が見られる。これらには場合によって全丁に彩色摺りが施されることもあった。安政期に至って流行する中本型読本と草双紙を折衷した様式の〈切附本〉でも軍談物がシーリーズ化されて出されるが、その前段階とも考えられる。天保改革の余波を被ったという理由だけでなく、作者不足の中で旧作の改刻などが多く出された状況において、軍記物のダイジェストとしての歴史読み物が流行しもてはやされたものと思われる。

〔この期の特記事項〕
* 天保の改革
* 諸外国船日本各地に入港
* 天草などで大規模一揆
* 疱瘡の流行
* 鉛活字印刷機の輸入
* 七代目団十郎江戸追放
* 種彦・篤胤・春水・馬琴歿
* 五代目半四郎・北齋・英泉歿


# 「編年体古典文学1300年史」(「國文學」8月臨時増刊号、學燈社、1997年8月)所収
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#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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